2015年10月14日水曜日

「仏道をならうというは自己をならうなり」。「平常心是道」の道元的解釈。

 禅仏教では,「平常心是道」の「道」は「仏道」のことを意味する。そして,「平常心」とは「仏道」のことだ,と解釈する。では,その仏道とはなにか。それがわかれば,平常心のなんたるかはおのずからわかってくることになる。

 たとえば,日本に曹洞禅をもたらした道元さんは「仏道」をどのようにとらえていたのか。まずは,道元さんのいう「仏道」についての有名な一文を引いてみよう。

 「仏道をならうというは,自己をならうなり。自己をならうというは,自己を忘るるなり。自己を忘るるというは,万法(まんぽう)に証せらるるなり。万法に証せらるるというは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(『正法眼蔵』「現成公按」の冒頭にある文章)。

 道元さんの文章にしては,珍しく,とてもわかりやすいところなので,とりたてて解説をする必要はないだろう。ここでのポイントは「自己を忘るる」ことにある。自己を忘れることができれば,あとは,仏の教え(万法)に身もこころも委ねることができる。そうなれば,自己も他己もなくなる,「物我一如」の境地に達するというわけだ。

 しかし,その前に「自己をならう」がある。「ならう」(=習う)の「習」の字のもともとの字は,「羽」の下に「白」ではなく「自」と書いた。つまり,中国語では,雛鳥が親の羽ばたくのをみて,自分の羽をばたばたさせて習うことを意味した,というのである。つまり,「まねぶ」(まねる),「まなぶ」こと。このことを中国語では「習」という。

 道元さんのいう「自己をならう」は,先覚を手本にして自己を「習う」ということを意味する。そうやって,まずは自己を否定して「無我」にすること,すなわち,自己を「空」にすること,これが道元さんのいう「自己を忘れる」ということの意味だ。こうして,自己を「無」にして「空」になると,自己をとりまくすべての他己との境がなくなってしまう。このことを「脱落」と道元さんはいう。つまり,身もこころも,すべて仏陀の教え(万法)にゆだねてしまうことだ。

 こうして,まずは自己否定を通過して,その暁に真の自己肯定が実現する,というわけだ。仏道を習うということは,こういうことなのだ。そして,これが「平常心」ということの内実であり,実態なのである。言ってしまえば,「平常心」とは「自己の身心も他己の身心も脱落」した状態(=ある時のある位)のことを意味する。もはや,そこには自然と融合した,あるがままの「物我一如」の境地があるのみである。是れ,すなわち「平常心」=「仏道」。

 ことここにいたって,ふたたび,わたしの脳裏に鮮明に浮かび上がってくるのは大伯父の最晩年のことばである。すなわち,「まんだぁ,お迎えが来んでなぁ,生きとるだぁやれ」。

 これこそが「身心脱落」のお手本そのものではないか。そして,「物我一如」の境地を悠然と生きている姿そのものではないか。だから,わたしと話をしているときの,にっこりと笑った笑顔が,わたしのこころを強く打った。めくるめくような,不思議な感覚だった。まるで「脱落」せんばかりに・・・。「おしも,いつかは,こんな風になるだぁやれ」という声が,いまごろになって聞こえてくる。なにか,これから歩むべき道筋を指し示してくれているような気がする。

 最近,道元さんの本を読みたがるわたしのこころはなにかに突き動かされている気がしてならなかった。ひょっとしたら・・・・・。そんな予感のようなものもふくめて,そろそろ大伯父という先覚をお手本にして「自己をならう」ことからはじめようか,とさえ思いはじめている。でも,この俗物には無理だなぁ,ともおもう。まあ,いいではないか。慌てることはない。ひとつの流れがいまつくられつつある,とありのまま受け止めておけば・・・。そして,その流れに身をゆだねていけば・・・・。

 今回もきりのいいところで,ここまでとする。また,いずれつづきを。

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