観音導利興聖宝林寺。通称・興聖寺(こうしょうじ)。道元が建てた日本初の中国式禅道場。寺を名乗っているが,道元が建てたのはすべて禅道場。のちの永平寺も,道元が生きている間は禅の修行道場であった。すなわち,雲水たちのみならず,道元自身の修行道場でもあったのだ。なぜなら,禅僧は生涯にわたって修行をつづけるものであって,悟ったからそれでもういいということはありえない,と道元は考えていたからである。つまり,ひとくちに悟りといっても「その時その位」というものがあって,悟りそのものはどこまでも際限がないものだ,というのが道元の基本的な考え方であった。したがって,寺の住職として安穏な生活を送り,修行を怠るのは,禅僧としては堕落である,と考えていた。
その終わりのない修行のために建てた日本初の中国式禅道場,それが観音導利興聖宝林寺。この長い寺の名前が,ふつうなら,通称は宝林寺であるはずなのに,そうではなく興聖寺。なぜ,そのように呼ばれるようになったのか,わたしは長い間,疑問をもっていた。が,その解答はなかなか見つからなかった。が,ようやくそのヒントを見つけることができた。そして,それはたぶん,正解だろうとおもうにいたった。
その前に,なぜ,宝林寺という呼称にこれほどまでにこだわるのか。その理由を明らかにしておく必要があろう。じつは,わたしが敬愛してやまない大伯父が住職をつとめていた寺の名前が宝林寺。その宝林寺に,わたしたち家族は空襲で焼け出され路頭に迷ったときの,戦中・戦後のしばらくの間,疎開してお世話になった。その間,従姉妹たちと生活をともにした。一緒に食事をし,遊び,学校に通った。だから,宝林寺は,わたしたち家族にとっては,最大のピンチを救ってくれた,大事な大事な「とまり木」でもあった。その上,大伯父と大伯母が,気持ちを籠めてわたしたち家族を擁護してくださった。その記憶は,小学校2年生とはいえ(であったからか),深く鮮明に印象に残るものであった。だから,わたしたち家族にとっては生涯にわたって忘れることのできない,宝物のような思い出となった。
だから,道元の建てた寺の通称も,興聖寺ではなくて宝林寺であってほしいという願望がこころの奥深くにある。これが本音である。実際にも,道元の建てたこの寺の影響は大きく,全国に「宝林寺」を名乗る寺はたくさんある。興聖寺とは比較にならないほど多い。大伯父が住職をつとめた宝林寺もまた,その流れを汲む禅寺のひとつなのだ。
さて,話を本題にもどそう。
観音導利興聖宝林寺。この寺の名称からは,観音さまがご利益を導き,「聖」(正法)を興して,栄える寺,というような含意をくみ取ることができる。しかし,ここにいう「宝林」とはなにか。たんに「宝が林のようにたくさんある」というだけの意味ではなかろう,というのがわたしの疑問であった。つまり,「宝」とはなにか。もっと具体的な含意があるはずだ,と。
この謎解きのためのヒントに,ようやくにして出会うことができた。ちょうど,いま,読み込みをはじめている秋月龍みんの「道元禅師の『典座教訓』を読む」(ちくま学芸文庫)のなかに,つぎのような文章がある。
「清規」とは,”清衆の守るべき叢林の生活規則”の意である。「叢林」とは,文字どおり”クサムラやハヤシのように,多くの雲水(修行僧のこと)が集って修行する道場”の意である。その叢林で修行する僧を尊んで「清衆・せいしゅ」といい,その”清衆の守るべき道場の規則”という意味で「清規」と書いて「シンギ」と発音した」(P.38.)。
ここにでてくる「叢林」を,道元はもう一つ格上げして,「宝林」と読み替えたのではないか,これがわたしの仮説である。その根拠はなにか。道元が最初に建てたこの禅道場では,在家・出家を問わず,しかも男女も問わず,修行することを奨励した,という。そして,ここに集ってくる衆(清衆)は,単なる「クサムラやハヤシ」(=叢林)ではなく,「タカラの集まり」(=宝林)だ,と道元は考え,そのように接したのではないか。その願望も籠めて,「叢林寺」ではなく「宝林寺」としたに違いない,とこれはわたしの解釈であり,仮説である。
実際にも,大伯父が住職をつとめた宝林寺には,本堂の西側に「衆寮」(しゅりょう)があり,東側には立派な庫裡があった。衆寮とは,文字どおり,衆(清衆)が寝泊まりするところ。本堂とは切り離された独立した建物になっていた。いっぽう,庫裡の出入り口には広い三和土の土間があり,その右側にはこれまた広い台所があった。ここが典座の活躍する場である。庫裡はさらに奥に伸びていて,大きな客室が並んでいて,さらにその奥には方丈さんが執務する部屋が並ぶ。この他にも搗き屋や蔵が独立して建っていた。これ以外の細かなことは省略するが,この寺の境内の構えからして,往時には,かなりの雲水を擁した禅道場であったことがうかがわれる。
そこは,まさに,近隣から清衆が集いきて坐禅・修行に励んだところであっただろう。
この,わたしの推理は,たぶん間違ってはいないだろう,とおもう。全国に散在する宝林寺と名のつく寺を尋ね歩いてみたいものである。また,新たな発見があるかもしれない。見果てぬ夢ではあるが,楽しみではある。
その終わりのない修行のために建てた日本初の中国式禅道場,それが観音導利興聖宝林寺。この長い寺の名前が,ふつうなら,通称は宝林寺であるはずなのに,そうではなく興聖寺。なぜ,そのように呼ばれるようになったのか,わたしは長い間,疑問をもっていた。が,その解答はなかなか見つからなかった。が,ようやくそのヒントを見つけることができた。そして,それはたぶん,正解だろうとおもうにいたった。
その前に,なぜ,宝林寺という呼称にこれほどまでにこだわるのか。その理由を明らかにしておく必要があろう。じつは,わたしが敬愛してやまない大伯父が住職をつとめていた寺の名前が宝林寺。その宝林寺に,わたしたち家族は空襲で焼け出され路頭に迷ったときの,戦中・戦後のしばらくの間,疎開してお世話になった。その間,従姉妹たちと生活をともにした。一緒に食事をし,遊び,学校に通った。だから,宝林寺は,わたしたち家族にとっては,最大のピンチを救ってくれた,大事な大事な「とまり木」でもあった。その上,大伯父と大伯母が,気持ちを籠めてわたしたち家族を擁護してくださった。その記憶は,小学校2年生とはいえ(であったからか),深く鮮明に印象に残るものであった。だから,わたしたち家族にとっては生涯にわたって忘れることのできない,宝物のような思い出となった。
だから,道元の建てた寺の通称も,興聖寺ではなくて宝林寺であってほしいという願望がこころの奥深くにある。これが本音である。実際にも,道元の建てたこの寺の影響は大きく,全国に「宝林寺」を名乗る寺はたくさんある。興聖寺とは比較にならないほど多い。大伯父が住職をつとめた宝林寺もまた,その流れを汲む禅寺のひとつなのだ。
さて,話を本題にもどそう。
観音導利興聖宝林寺。この寺の名称からは,観音さまがご利益を導き,「聖」(正法)を興して,栄える寺,というような含意をくみ取ることができる。しかし,ここにいう「宝林」とはなにか。たんに「宝が林のようにたくさんある」というだけの意味ではなかろう,というのがわたしの疑問であった。つまり,「宝」とはなにか。もっと具体的な含意があるはずだ,と。
この謎解きのためのヒントに,ようやくにして出会うことができた。ちょうど,いま,読み込みをはじめている秋月龍みんの「道元禅師の『典座教訓』を読む」(ちくま学芸文庫)のなかに,つぎのような文章がある。
「清規」とは,”清衆の守るべき叢林の生活規則”の意である。「叢林」とは,文字どおり”クサムラやハヤシのように,多くの雲水(修行僧のこと)が集って修行する道場”の意である。その叢林で修行する僧を尊んで「清衆・せいしゅ」といい,その”清衆の守るべき道場の規則”という意味で「清規」と書いて「シンギ」と発音した」(P.38.)。
ここにでてくる「叢林」を,道元はもう一つ格上げして,「宝林」と読み替えたのではないか,これがわたしの仮説である。その根拠はなにか。道元が最初に建てたこの禅道場では,在家・出家を問わず,しかも男女も問わず,修行することを奨励した,という。そして,ここに集ってくる衆(清衆)は,単なる「クサムラやハヤシ」(=叢林)ではなく,「タカラの集まり」(=宝林)だ,と道元は考え,そのように接したのではないか。その願望も籠めて,「叢林寺」ではなく「宝林寺」としたに違いない,とこれはわたしの解釈であり,仮説である。
実際にも,大伯父が住職をつとめた宝林寺には,本堂の西側に「衆寮」(しゅりょう)があり,東側には立派な庫裡があった。衆寮とは,文字どおり,衆(清衆)が寝泊まりするところ。本堂とは切り離された独立した建物になっていた。いっぽう,庫裡の出入り口には広い三和土の土間があり,その右側にはこれまた広い台所があった。ここが典座の活躍する場である。庫裡はさらに奥に伸びていて,大きな客室が並んでいて,さらにその奥には方丈さんが執務する部屋が並ぶ。この他にも搗き屋や蔵が独立して建っていた。これ以外の細かなことは省略するが,この寺の境内の構えからして,往時には,かなりの雲水を擁した禅道場であったことがうかがわれる。
そこは,まさに,近隣から清衆が集いきて坐禅・修行に励んだところであっただろう。
この,わたしの推理は,たぶん間違ってはいないだろう,とおもう。全国に散在する宝林寺と名のつく寺を尋ね歩いてみたいものである。また,新たな発見があるかもしれない。見果てぬ夢ではあるが,楽しみではある。
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