2015年10月17日土曜日

「踊る人間」とはなにか。P.ルジャンドルはなにを語ったのか。

 ドグマ人類学者=J.P.ルジャンドル。と,まずは位置付けておこう。わたしの畏敬する西谷修さんもまた,時折,みずからをドグマ人類学者と名乗ることがある。しかしながら,「ドグマ人類学」という学問はまだ承認されてはいない。なぜか?西洋近代由来のアカデミズムの限界,とだけひとまず応答しておこう。

 では,いったいドグマ人類学でいう「ドグマ」とはなにか。ルジャンドルによれば,人間は「ことばを話す生きもの」だ,という。この人間の話す「ことば」そのものが「ドグマ」なのだ,という。わかりやすくしておこう。たとえば,日本語では「木」と名づけたオブジェが,英語では「tree」,ドイツ語では「Baum」という具合に,用いられる言語によってことなる。どれが「正しい」のか,その根拠はなにもない。それぞれの言語が勝手にそう呼び習わしてきただけのことだ。すなわち,「ドグマ」。もともとは,宗教の「教義」のことを意味する。いま,わたしがチャレンジしている道元の『正法眼蔵』もまた立派な「ドグマ」ということである。たとえば,道元の思想の中核をなす概念のひとつ,「修証一等」。すなわち,道元の「思い込み」。

 これ以上の議論は,ルジャンドルのテクストに委ねよう。あるいは,今日(10月17日)の午後に展開される研究会での議論を待つことにしよう。

 そう,今日,10月17日(土)13:00より,青山学院大学で,「ISC・21」10月東京例会が開催される。そのテーマがJ.P.ルジャンドルの舞踊論。ルジャンドル読みの第一人者と言われる森元庸介さんにお願いをして,ルジャンドルの舞踊論を紹介していただくことになっている。題して「演出,あるいは人間的な生存の基底。ピエール・ルジャンドルのダンス論を中心に」(仮)。

 この演題をいただいたときギクリとした。そうか。「演出」なんだ,と。そこに「人間的な生存の基底」がある,と。ルジャンドルは「ダンス論」を語りながら,「人間的な生存の基底」を解き明かそうとしていたのだ,と。それを,ひとことで言ってしまえば,「演出」,なのか,とわたしはある種の衝撃を受けた。そうか,人間が「存在」するとはどういうことなのか,を語っているんだ,と。

 なぜ,この演題に衝撃を受けたのか。

 わたしは長い間,「スポーツする人間」とはなにか,という大きなテーマを追ってきた。人間は,なぜ,スポーツをするのか。生身を生きる人間にとってスポーツとはなにか。言ってしまえば,哲学的なテーマを追ってきた。

 そこから派生して,では,「武術する人間」とはなにか,を考えるようになり,やがては「舞踊する人間」とはなにか,と考えてきた。当然のことながら,そのさきに現れてくる風景は「人間が生きる」とはどういうことなのか,という問いであった。生命が躍動するということはどういうことなのか。それを支える衝動の「根」はなにか。

 そうして,いつしか,「芸能」とはなにか,と考えるようになる。そこにみえてくるのは,「歌い,踊る」生身の人間の姿である。アメノウズメの世界である。

 ルジャンドルのダンス論を読み込んでいって,森元さんが到達したひとつの結論が「演出」だったのか,とこれはわたしの受け止め方である。しかも,そこに「人間的な生存の基底」を見届けようとしたのが,ルジャンドルの「ダンス論」なのか,と。そして,これもまた立派な「ドグマ」。

 今日の森元さんのプレゼンテーションに向けての,わたしのレディネスは以上のとおり。厳密には,もっともっと付け加えたいところであるが,この程度にとどめておこう。その方が単純明快でわかりやすい。

 コメンテーターを,新進気鋭のイスラム研究者・小野純一さんにお願いがしてある。もちろん,西谷修さんも参加してくださるので,ルジャンドルの「ダンス論」を議論する上で不足はない。そこに,全国からわたしの研究者仲間が集ってくる。お膳立ては整っている。あとは,本番を待つのみ。珍しく鼓動が高鳴ってくる。

 いい研究会になる,そんな予感に満ち満ちている。嬉しい。

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