26日(月)の午後,CT検査の結果がわかりました。専門医のコンファランスの結果,転移の疑いがあるとのこと。場所は,肝臓の末端の表側に「一つ」。胆管には遠いところなので,外科医としては切除手術を薦めるとのこと。なお,慎重を期して,MRIでの検査をして,その他への転移がないかどうかを確認した上で,善後策を講じたいとのこと。
その他の血液検査の結果は,総合的にはかなり回復してきており,順調な経過をたどっているとのこと。癌マーカーも反応なし。
さてはて,参りました。限りなく黒に近い灰色だというのです。おろおろしていても仕方ありませんので,とりあえず,MRIの検査を受けることにして,つぎなる対策を考えることにしました。このままの流れですと,年内に切除手術ということになりそうです。もう一つの選択肢は,もう十分に生きたので,このまま放置して,元気なうちは好きなことをやり,あとはホスピスで,というものがあります。これも悪くはないなぁ,と視野のうちに入れています。
そろそろ天命をまっとうしたと言ってもいい年齢にきていることも間違いありません。そのこころの準備もある程度はできています。
しかし,残念なのは,この年齢になって,これまでむつかしくて歯が立たなかった哲学・思想の本が,ようやく読めるようになってきたということです。そして,ものごとを考える上での見晴らしがとてもよくなってきたばかりなので,もう少しだけ深淵を覗き見してみたい,という欲がでてきています。これさえなければ,もう少しかんたんに対応できるところなのですが・・・・。
もっとも,こういう見晴らしのいいところにでてくることができたのも,癌と向き合い,二度の手術を経験したからかも知れません。なぜなら,それ以前とは,人生観が一変してしまい,まったく新たな地平に立ってものごとを考えることができるようになってきたからです。言ってしまえば,わたしの「生」の破局が,突然,目の前に立ち現れ,この破局との折り合いのつけ方そのものが忌避できない情況に追い込まれてしまったからです。
こうなると,人間とは不思議なもので,みずからの「死」を視野に入れてものごとを考えることが当たり前になってきます。いままでは,遠いさきのことだとばかりおもってきた「死」が,もうすぐ目の前にきているのですから。もはや,くよくよしても仕方がありません。真っ正面から向き合い,目の前の「死」を少しでもさきおくりすることを考えるしかありません。こうなりますと,意外に,わたしの腹は決まってしまい,すっきりとしてきました。つまり,みずからの「死」を対象化し,一定の距離をもって対処することができるようになってくる,ということです。
こういう経験は,当然のことながら,初めてのことですので,意外な発見の連続です。心境も驚くほど変化していきます。最終段階でこんな人生が待っていようとは夢にもおもいませんでした。これもまた面白い人生ではないか,とすらおもうほどです。
つまり,「死」が視野に入ったとたんに,「生」がリアリティをもち始めたというわけです。すなわち,人間が「生きる」とはどういうことなのか,と本気で考えることができるようになった,というわけです。これもまた人生冥利につきると考えますと,人生観も世界観も一変してしまいます。こうして,広い意味での「宗教」が,自然に視野のなかに入ってきます。そして,じつに身近な,切実なテーマとなってきます。すると,道元さんの『正法眼蔵』が,もっと深いところで共振・共鳴できるようになってきます。
こんな経験をしますと,やはり,もう少しだけ「生きてみたい」という未練が残ります。もう少し生きていたら,もっとよい見晴らしに到達することができるのではないか,と。でも,それは間違いのようです。道元さんに言わせれば,悟りは一瞬のできごとだといいます。しかも,その一瞬が連続していくというのです。死にいたるまで「只管打坐」だというのです。ということは,仏道もまた終わりがないということです。ましてや,人生に満足のいく終わりのあるはずがありません。
どこかの時点で,「ここまで」と腹をくくる覚悟が必要なのでしょう。
このあとに残されたわたしの人生は,その覚悟のタイミングをどこでとらえるか,にかかっているようです。それを楽しみにして,いまの一瞬,一瞬を生きていこうとおもいます。
取り急ぎ,今日の検査結果を踏まえての心境を整理してみました。言ってみれば,自分自身への引導渡しのようなものですが・・・・。
その他の血液検査の結果は,総合的にはかなり回復してきており,順調な経過をたどっているとのこと。癌マーカーも反応なし。
さてはて,参りました。限りなく黒に近い灰色だというのです。おろおろしていても仕方ありませんので,とりあえず,MRIの検査を受けることにして,つぎなる対策を考えることにしました。このままの流れですと,年内に切除手術ということになりそうです。もう一つの選択肢は,もう十分に生きたので,このまま放置して,元気なうちは好きなことをやり,あとはホスピスで,というものがあります。これも悪くはないなぁ,と視野のうちに入れています。
そろそろ天命をまっとうしたと言ってもいい年齢にきていることも間違いありません。そのこころの準備もある程度はできています。
しかし,残念なのは,この年齢になって,これまでむつかしくて歯が立たなかった哲学・思想の本が,ようやく読めるようになってきたということです。そして,ものごとを考える上での見晴らしがとてもよくなってきたばかりなので,もう少しだけ深淵を覗き見してみたい,という欲がでてきています。これさえなければ,もう少しかんたんに対応できるところなのですが・・・・。
もっとも,こういう見晴らしのいいところにでてくることができたのも,癌と向き合い,二度の手術を経験したからかも知れません。なぜなら,それ以前とは,人生観が一変してしまい,まったく新たな地平に立ってものごとを考えることができるようになってきたからです。言ってしまえば,わたしの「生」の破局が,突然,目の前に立ち現れ,この破局との折り合いのつけ方そのものが忌避できない情況に追い込まれてしまったからです。
こうなると,人間とは不思議なもので,みずからの「死」を視野に入れてものごとを考えることが当たり前になってきます。いままでは,遠いさきのことだとばかりおもってきた「死」が,もうすぐ目の前にきているのですから。もはや,くよくよしても仕方がありません。真っ正面から向き合い,目の前の「死」を少しでもさきおくりすることを考えるしかありません。こうなりますと,意外に,わたしの腹は決まってしまい,すっきりとしてきました。つまり,みずからの「死」を対象化し,一定の距離をもって対処することができるようになってくる,ということです。
こういう経験は,当然のことながら,初めてのことですので,意外な発見の連続です。心境も驚くほど変化していきます。最終段階でこんな人生が待っていようとは夢にもおもいませんでした。これもまた面白い人生ではないか,とすらおもうほどです。
つまり,「死」が視野に入ったとたんに,「生」がリアリティをもち始めたというわけです。すなわち,人間が「生きる」とはどういうことなのか,と本気で考えることができるようになった,というわけです。これもまた人生冥利につきると考えますと,人生観も世界観も一変してしまいます。こうして,広い意味での「宗教」が,自然に視野のなかに入ってきます。そして,じつに身近な,切実なテーマとなってきます。すると,道元さんの『正法眼蔵』が,もっと深いところで共振・共鳴できるようになってきます。
こんな経験をしますと,やはり,もう少しだけ「生きてみたい」という未練が残ります。もう少し生きていたら,もっとよい見晴らしに到達することができるのではないか,と。でも,それは間違いのようです。道元さんに言わせれば,悟りは一瞬のできごとだといいます。しかも,その一瞬が連続していくというのです。死にいたるまで「只管打坐」だというのです。ということは,仏道もまた終わりがないということです。ましてや,人生に満足のいく終わりのあるはずがありません。
どこかの時点で,「ここまで」と腹をくくる覚悟が必要なのでしょう。
このあとに残されたわたしの人生は,その覚悟のタイミングをどこでとらえるか,にかかっているようです。それを楽しみにして,いまの一瞬,一瞬を生きていこうとおもいます。
取り急ぎ,今日の検査結果を踏まえての心境を整理してみました。言ってみれば,自分自身への引導渡しのようなものですが・・・・。
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