2012年8月21日火曜日

ロンドン・オリンピックを語る意欲が湧かない。なぜか。

 ロンドン・オリンピックについて語る意欲が湧きません。そして,その理由がなにであるのかもよくわかりません。これはいったいどうしたことでしょう。

 ロンドン・オリンピックを客観視し,冷静に振り返るには,いま少し時間が必要なのかもしれません。あるいは,わたしのものの見方・考え方が大きく変化してしまったために(「3・11」以後),これまでのオリンピックのように無邪気に反応することを拒否しているのかもしれません。あるいはまた,あまりにもお粗末なメディアの報道の裏舞台(視聴率主義など)が透けてみえてしまうようになったからかもしれません。日本の選手中心主義の報道も問題です。外国の選手はいったいどこに行ってしまったの,というような報道の仕方にも不満を抱いたのかもしれません。もっと言ってしまえば,「やらせ」ではないかと思われるような報道も少なくありませんでした。とくに,家族愛,絆,元気を与える/もらう,背中を押してもらう,などはくり返し見せられているうちに,徐々にどこか不自然なものを感じ,増幅していきました。

 そんなわたしの個人的な特殊な事情や情況判断の中にあっても,やはり,オリンピックの映し出すシーンの中には「感動」的な場面がたくさんありました。思わず全身に力が入りました。大きな声も発しました。涙もしました。嗚咽もしました。人間に秘められたとどまるところを知らない可能性を,必死の努力で切り開いていくアスリートたちの姿に触れたときの「感動」は,素直にわたしのからだの中に滑り込んできます。なぜなら,そこに剥き出しの「生」の源泉(=「無償」の「消尽」=「贈与」)に触れることができるからです。それは,自己を超えでる経験に立ち合うことの喜びでもあります。もっと言ってしまえば,「供犠」に立ち合うような全身全霊のふるえであり,その「ふるえ」に共振・共鳴する悦び,と言ってもよいでしょう。

 しかし,この「感動」までもが,場合によってはあまりにみごとに演出されたりしていて,興ざめになってしまうことも少なくありませんでした。

 さきにも触れたように,ひとつは家族愛。いまの日本の社会にもっとも欠落しているものがこの「家族愛」。毎日の新聞やテレビのニュースをみていれば明らかなように,家族が崩壊したことによる悲劇や犯罪はあとを絶ちません。それを,なにがなんでも掻き消そうと必死になっているかのように,活躍した選手たちの家族愛を美談に仕立てあげていました。そのために,選手たちの家族がつぎつぎに登場し,場合によってはビデオ作品が用意されていたりしました。そして,いかに家族が一致団結して,ひとりのアスリートを支え,育ててきたか,という物語が泥縄式に作り上げられていました。それが,つぎからつぎへと繰り出されると,「ああ,またか」と食傷ぎみになってしまいます。美味しいご馳走は一品にかぎります。

 「絆」ということばも多用されました。「3・11」を契機にして登場した政府公認の「絆」。これもまた,現代日本の社会ではもっとも欠落してしまったもののひとつではないでしょうか。その「絆」を復活させて,「向こう三軒・両隣」の時代にもどそうとでも思っているのか,とわたしなどは不信感さえいだいてしまいます。「絆」は美しいものであると同時に,とても,やっかいなものでもあります。そのさじ加減がとてもむつかしいものだとわたしは考えています。とくに,体育会系の「絆」は,とんでもない拘束力をともなうことはよく知られているとおりです。

 それから,意識的にか,無意識的にか,選手のことばとして多用されたのが「元気を与える/もらう」でした。なにか,ステレオタイプ化されていて,だれかが教えているのだろうかと思ったほどです。自分が頑張れば,被災地の人たちに「元気を与えられる」と本気で選手たちは考えているのだろうか,とこのあたりのところにきたときに,もはやテレビでオリンピックをみる意欲も失せてしまいました。もちろん,「元気を与えてもらった」と受け止めることのできる人も多くいたでしょう。しかし,「冗談じゃない」と強く拒否した人も少なくないと思います。先祖伝来の土地を追われ,仕事もえられないまま流浪している人びとにとって「ロンドン・オリンピック」とはなにであったのか,とわたしは深く考えてしまいます。そして,テレビをつければ,どこもかしこもまるでお祭り騒ぎのようにオリンピック,オリンピック・・・・。国内政治の重大ニュースを押しつぶしながら・・・。

 こうして書いているうちに,やはり,オリンピックを語る意欲はますます減退していくばかりです。
一番がっかりしたのは,にわかナショナリストの増産でした。テレビに映るオリンピック・シーンは日本人アスリートばかり。外国の選手のことはほとんど知ることはできませんでした。自国の選手にしか眼が向かない日本のメディア。日本人を総白痴化するための文化装置として,これほど大きな役割をはたすものはほかにはないでしょう。

 JUDOの判定のこと,ミサイル付きの平和運動の裏舞台,オリンピックとはなにか,いかにあるべきか,その理想と現実,昨日の銀座パレード,などについてはいつか書く「意欲」が湧いてきたときにゆずりたいと思います。とりあえず,今日のところはここまで。

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