2010年10月30日土曜日

緊急シンポジウム「東アジアの安全保障と普天間基地問題」を聞く。

 台風が接近していて,関東地方に上陸するかも・・・という予報を知りながら,片方では,たぶん,熱帯性低気圧になって,雨が降るだけだろうと言い聞かせながらでかけた。
 緊急シンポジウム「東アジアの安全保障と普天間基地問題」(このあと「普天間」と略記)があることを,友人のNさんが教えてくれた。じつは,同じ日の同じ時間帯に,もう一つのシンポジウムがあった。こちらは,公開シンポジウム「沖縄と『戦世』の記憶」(このあと「戦世」と略記)というもの。「戦世」のシンポジウムは,以前から,情報が入っていて知っていたが,「普天間」は,直近になって知った。場所はいずれも明治大学駿河台キャンパス。
 「戦世」の方は,すでに,このブログでも紹介したことがあるように,比嘉豊光さんが最近,たまたま発掘された旧日本兵の遺骨を撮った写真をめぐるシンポである。明治大学駿河台キャンパスのアカデミーコモンで写真展と同時開催である。が,でかけてみると,なんと,写真展はやっていたが,公開シンポジウムは台風襲来のため中止となった,という。大した風雨ではないのに,なぜ?,と一瞬思ったら,案の定,シンポを楽しみにしてやってきた初老の男性が,写真展の入り口で「なぜ,中止にしたのか」と受け付け係に食いついている。「冗談じゃないぞ!」とえらい剣幕である。そばにいたわたしは驚いて,急いで距離をとった。
 わたしは写真展だけをみて,すぐに,その足で「普天間」の方に移動した。こちらは,同じ駿河台キャンパスのリバティタワー・ホールで開催。参加費1000円。
 こまかいことは省略することにして,こちらのシンポの楽しみは,第一部の佐藤優の講演と,第二部の司会をする小森陽一に会うことにあった。しかし,こちらにも異変があった。第二部の司会は,小森陽一ではなく,別の知らない人に差し替えられていた。こんどは,わたしがカチンときた。これでは詐欺ではないか,と。雨のなかをわざわざ足を運んだのには理由がある。小森陽一にはそれだけの人を惹きつける力をもっている。それを事前に知らせることなく,突然の変更である。事情は知らない。呼び寄せておいて,なし,では許せない。なぜなら,こちらは有料である。金をとる以上はそれだけの責任がある。こういう変更を知っていて受け付けでは,ひとことの断りもなく,規定どおり1000円を徴収した。これは,どう考えてもおかしい。それに引き換え,「戦世」は無料。少なくとも,主催者は,開会に先立ち,ひとことお詫びをするべきであった。が,なにもなし。この無神経さに,ああ,このシンポは駄目だ,と予測した。結果は,そのとおりだった。
 ただし,佐藤優の講演はみごとなものであった。これがあまりによかったので,1000円は安いか,とわたしの判断は逆転。なにがよかったか。わたしはかれの書いたもので,すでに,感動していたが,講演は初めてだった。いつも,本や雑誌に登場する佐藤優のあのギョロリとした大きな眼と,一種異様な風貌からして,怖いという印象があった。しかし,そうではなかった。とても歯切れのいい,テンポのいい,そして,声の強弱も使い分け,まるで声優かと思われるほどに,みごとに情感の籠もった,素晴らしいものであった。しかも,書いた文章よりはやさしい気配りがあちこちに張りめぐらされていて,聞いていて心地よい。声もソフト。ああ,こういう人だったのか,と。この人は信頼できる,と。
 第二部は小森陽一のピンチ・ヒッターが,まるで駄目。どこかの学会のシンポの司会なら,あれでいいのかも知れない。しかし,このシンポは時事ネタだ。いま,まさに,われわれ日本人みんなが直面している喫緊の課題である。問題点をどのように浮き彫りにするかが,司会者の腕のみせどころであり,聴衆はそれを期待している。それを,パネラー一人ひとりに,ひとことずつしゃべらせて,その上で追加発現があれば・・・・,という程度で終わり。とりわけ,パネラーにも参加した佐藤優さんの発現はきわめて刺激的な内容をふくんでいた。これを,たとえば,小森陽一が司会をしていたら,ただちに反応して,佐藤優を挑発し,さらに本音を引き出すことをやっただろうになぁ,と残念でならない。
 まあ,こんな感想を述べていても仕方がない。そこで,一つだけ,このシンポを聞いて,いや,佐藤優の講演を聞いて,そして,佐藤優のシンポでの発言を聞いて,ここにきてよかったと思う話をしておきたい。それは尖閣諸島での事件の処理をめぐる問題である。
 中国漁船の船長を,だ捕して,日本の国内法で粛々として対応する,ということはとんでもないことで,外交ということがどういうことなのかがまったくわかっていない人のやることだ,と佐藤優は言う。しかも,船長を釈放したことを,日本外交の大敗北だと報じた日本のメディアも,なにもわかってはいない,と断言。その理由をこのように説明する。まずは,尖閣諸島をめぐるこれまでの歴史過程を少し調べればすぐにわかることだ,と。尖閣諸島は,そのむかしはどこの領土でもなかった。中国も日本も,それぞれ自分たちのものと思っていた。しかし,日清戦争のときに,日本が領土権を確保した。以後,国際社会も日本の領土として認知してきた。その後,大きなできごととしては,ポツダム宣言のとき,日本の領土は北海道,本州,四国,九州のみが認められた。その他の離島については,占領国の判断にゆだねられることになった。その結果,北方4島はソ連にとられてしまった。沖縄諸島は,アメリカが軍事支配して,米軍基地として用い,ようやく1972年に本土復帰となった。それまでは,沖縄は日本ではなかったのだ。その延長線上に,尖閣諸島がある。このとき,アメリカはこれらの諸島も日本のものとして返還した。その後,中国は,いや,尖閣諸島は中国固有の領土だと主張をはじめた。それに対して,日本政府は,いや,尖閣諸島は日本固有の領土だと主張し,平行線を保った。それでは具合が悪いというので,当時の薗田外相と周恩来首相との会談で,問題解決を先送りにして(つまり,棚上げにして),日中友好条約を締結することになった。その後,この尖閣諸島はいわゆるグレイ・ゾーンとして扱われ,その基本了解にもとづき,日中共同開発・共同管理というところまでこぎつけた。ところが,ブッシュ政権のときに,米政府公認の世界地図を作成したことがあって,そのときの地図には,尖閣諸島は中国領土となっている,というのだ。だから,中国は,尖閣諸島はおれたちの領土だ,と声を大にして主張するようになったのだ。日本政府はこの事実を知ってか知らずか,なんの抗議も意志表明もしていない。だから,中国にとっては,ますます自分たちの主張が正しいという確信を持ちはじめてきている。そこに船長のだ捕と日本の国内法にもとづく処分,という事件が起きた。中国の人びとが,この事件によって,なにを想起したか。日清戦争のはじまりのときと同じことが起きた,ということだ。いよいよ日本は,新政権によってキバを剥きはじめた,と。中国側が態度を硬化させたのは,そういう歴史的背景にもとづくものだ。中国国内のデモはその反映だ。それにしては規模が小さい。中国人が200人のデモを行った,と言って驚いてはいけない。全人口の母数から比べたら,全然,大したことではない。日本人の200人と中国人の200人と一緒にして考えてはならない。
 という次第で,驚くべき事実をつぎつぎに並べていき,問題の本質がどこにあるのかしっかりと見極めなくてはならない,と佐藤優は熱弁をふるう。マス・メディアはもっと勉強をして,しっかりとした報道をすべきである,と。それができていないから,日本人がみんな鵜呑みにしてしまって,とんでもない民意が形成されていく。困ったものだ,と。
 この話だけでも,エンドレスだ。長くなるので,このあたりで終わりにしておく。以上の話は,佐藤優の話を聞いて,大いに啓発され,わたしの知識と混ぜ合わせて再構成したものであることを明記しておく。わたしの記憶違いがあるかも知れないので,その責任はわたしにある。佐藤優の記憶力のすごさはこれまた信じられないほどのもので,彼の話は間違いないだろうと思う。ここに書いたことは,電話ゲームのようなもので,わたしはこんな風に聞いたということをつぎの人に伝えているようなものだ。だから,多少の(いや,大いに),わたしなりの脚色や編集がなされていることもお断りしておく。
 わたしとしては,佐藤優の話を聞いて,もう一度,情報確認をして,問題を整理しておきたいと思う。今日は,台風の中をでかけて行って,やはりよかったなぁと思う。佐藤優の生身をみた。これだけで,1000円は安いかも。

未完。

2010年10月29日金曜日

宇沢弘文著『自動車の社会的費用』(岩波新書)を読む。

 この本の初版がでたのが1974年6月。なんと,いまから,36年前。この本のなかで,宇沢さんは怒っている。本気で怒っている。
 自動車はあまりに優遇されていて,みずから支払うべき「社会的費用」をほんのわずか(重量税,通行税)しか払っていない。足りない分を,全部,一般の税金でまかなっている。こんな馬鹿なことがあるか,と。
 自家用車をもてる人間は金持ちだ(1974年以前は,間違いなく金持ちしか自家用車は持てなかった)。その金持ちが支払うべき金を,自家用車をもてない貧乏人の税金でまかなうとはなんということか。金持ちはますます金持ちになり,貧乏人はますます貧乏になる。これが戦後の日本の政権党がとった経済政策だったのだ,と。儲けたのは自動車メーカーと金持ちだけ。こんなことが野放しで許されていていいのか,と宇沢さんは弾劾する。
 以後,宇沢さんは自動車には乗らないと宣言。移動はすべて公共移動機関に頼り,あとは,ひたすら自分の足で歩く。ことし,たしか82歳。いまも歩く。ごく普通の運動靴を履いて。この間の,東京外大で行われた「宇沢弘文と語る」のときも,最寄りの駅(といってもかなり遠くの駅)から歩いてこられた。スーツにネクタイをして,きちんとした正装。なのに,足元は,たんなる運動靴。それもずいぶん履かれたとみえて,ボロボロ。こういうときくらいは新しい靴でもいいのに・・・と思ったが,歩くにはボロボロの靴がまことにいいのだ。足にしっかりと馴染んでいるから。
 この36年間,タクシーはもとより,知人・友人の車にも乗らない。おれは歩く,と言ってひたすら歩かれるそうだ。その信念たるやすごいものである。
 歩いていらっしゃるから,道路が歩行者のためにつくられていない,とこれまた苦情。自動車優先道路だ,と。もともと道路とは,歩行者のものだった。自動車はあとから割り込んできたのだ。にもかかわらず,歩行者を押し退けて,自動車のものにしてしまった。こんなことを黙って許した行政はいったいなにを考えているのか,とご立腹。歩行者は危なくて仕方がない,と。狭い路地などでは,自動車がやってくると歩行者は端によけて見送るしかない。こんな馬鹿なことがあっていいのか,と。
 自動車所有者が支払うべき金は,重量税や通行税だけではいけない,とも。自動車の排気ガスによって空気を汚染することによる被害も「社会的費用」なのだから,これも負担すべきだ,と。そして,騒音。とりわけ,幹線道路の道路沿いの家などはうるさくて夜も眠れない。うるさいだけではない,大きなトラックなどが走れば家がゆれる。これはわたしにも経験がある。まだ,中学生だったころの話。ということは,60年近く前の話。愛知県豊橋市の旧東海道に面している家に住んでいる友人のところに遊びに行って,一晩,泊めてもらったときのことである。いまの国道1号線がバイパスとしてつくられる前である。トラックがスレ違うときにはお互いに徐行しないとスレ違うことすらできないほどの狭い道路だ。東海道とはいえ,もともとは人間の歩く道だった。たまに馬車・牛車がとおるくらいのものだ。そのためにつくられた道路だ。そこに自動車が割り込んできた。しかも,道路はむかしのままなのに,自動車の台数だけが急激に増えた。荷物の輸送も,鉄道から自動車へと移行しつつあった。だから,東海道は一気に大変な交通量となったのである。一晩中,ひっきりなしに長距離輸送のトラックが走っていた。そのたびに家がゆれるのである。わたしはとうとう一晩,一睡もできなかった。これが初めての経験だった。騒音で眠れないということの。
 こうして,旧東海道沿いに住んでいる人たちの間から,さまざまな病名のつかない不思議な病気がつぎつぎに発症した。このことは当時の新聞をみればすぐにわかる。そこで,大急ぎでとりかかったのが,市街地を遠巻きにして通る国道1号線なるバイパスである。こんどは4車線にして自動車につごうのいい道路をつくった。歩行者はその脇を,車をよけながら歩かなくてはならない。つまり,歩行者の専用道路がないのである。これもまた大問題になって,やがて,細い歩行者専用レーンを設けた。白い線を引いて区分しただけの。だから,相変わらず自動車は歩行者すれすれに突っ走っていく。そのつど,歩行者は恐怖におののく。こうして,歩行者専用のきちんとした「歩道」が設置されるまでには相当の時間を要した。
 それで問題は解決したか。そうではない。新たな問題が生じた。わたしの遠い親戚に,甲州街道に面してそば屋をやっている家があった。ちょうど,わたしが大学生のころ。しかも,京王線の幡ヶ谷駅の近くに。だから,忙しいときには手伝いに行った。そばの配達も自転車でやった。当時,すでに,相当の交通量になっていたが,なんとか間隙を縫って,甲州街道を横切って,向こう側の家にそばを配達することができた。それから,数年後には,もはや,自転車で甲州街道を横断することは不可能になってしまった。そのため,そば屋さんは売り上げが半減したという。これはそば屋さんだけではなく,むかしの甲州街道沿いにはいろいろの店が並んでいて,自由に道路を横断しながら,住民たちはみんな用事を足していた。しかし,それもままならなくなる。
 そこで登場したのが,歩道橋である。当初は,歩道橋といってもその数はしれたものだった。だから,甲州街道をわたるには相当の距離を歩いてからでなければ,道路の向こう側に行くことはできなかった。この歩道橋という発想にも,宇沢さんは怒る。違うだろう,歩行者が水平に渡れる橋をつくって,自動車の道路を低くくすべきだ,と。
 ことほどさように,自動車が登場したことによって,歩く人間がその犠牲にならなくてはならない,そのこと自体が許せない,と。こうした人間が犠牲になっている費用も自動車所有者は支払うべきだ,と。それが「社会的費用」というものだ。そして,ここからが経済学者たる宇沢さんの面目躍如である。こうした費用を,さまざまな基準を設けて試算していく。その額たるや想像を絶するほどのものとなる。もちろん,積算の基礎をどこに置くかということによって,その総額は異なってくる。が,それにしても,大変な額になる。それが放置されたまま,すべて,自動車を持たない人間が(つまり,貧乏人が)犠牲になることによって賄われている,というのである。こんな不合理を放置しておいていいのか,と宇沢さんは本気で怒る。
 宇沢さんが「社会的費用」という考え方を提示してから36年が経つ。そのご,どこが,どのように改善されたというのだろう。みなさんも一度,考えてみてください。
 それから,もう一つ。この本を読んで,こういう「経済学」の考え方があったのか,と日頃から経済に疎いわたしには大きな発見だった。宇沢さんの「経済学」は,その中核に「生きる人間」が据えられていて,そこから発想が組み立てられていく。それなら,わたしのような人間にもわかりやすい。「経済学」とは,本来,そういう学問であったはずである。遅ればせながら,これから少しばかり「宇沢経済学」について勉強してみようか,という気になった。これが最大の収穫というべきか。
 お薦めの本である。

 

2010年10月28日木曜日

innewerden ということについて。その3.サッカーのピッチに神の降臨をみる。

 ちょっとしつこいと言われるかもしれないが,innewerden ということについて,少し違ったアングルからのわたしの考えを述べておきたい。
 これは,わたし自身の反省点でもあるのだが,innewerden について書いたブログに対して,「おもしろい」にクリックしてくれた読者があまりにも少ないので,じつは驚いている。わたしとしては,かなり悦に入って,新たな知の地平がマルチン・ブーバーをとおして開かれてきたと喜び勇んで書いたものである。にもかかわらず,多くの読者に「パス」されてしまった。もともと,わたし自身の研究ノートのようなつもりで書いているブログなので,「おもしろい」の数などは無視してよいのだ,と自分には言い聞かせていた。しかし,あまりの少なさは,やはり,気になって仕方がない。
 そこで,どうして?と考える。
 やはり,書き方が悪い,という結論に達する。ドイツ語がある程度わかる人にしか,この話は通用しない書き方をしている,と。
 そこで,今日はもう少し,具体的な事例に結びつけて考えてみることにする。もちろん,具体的な事例とは,スポーツである。それなら興味を示してもらえるのでは・・・,と。
 innewerden を,スポーツの事例に惹きつけて考えるとすれば,わたしの訳語は「共感する」「共振する」ということになるだろう。では,なぜ,そうなるのか。
 マルチン・ブーバーは,ことばがなくても「対話」は成立する,という事例として「ベンチに坐る二人の男性」の話を書いている。この二人は,なぜか,共に「共感し」「共振し」ている。だから,ことばは不要なのだ。こういうことは,スポーツのトップ・アスリートたちは,しばしば経験しているはずである。
 たとえば,サッカー。MFのA選手がボールをもらった瞬間に,このつぎのプレイをどのように展開しようかとイメージしたことが,他のポジションにいる仲間の選手のだれかに「共感」「共振」されたとしよう。その選手はそのイメージどおりに全力で走りだす。お互いのイメージが完全に共有されているので,ピン・ポイントでボールの受け渡しが可能となる。こういうパスやセンターリングがうまくつながったとき,スーパープレイが生まれる。
 これが,たとえば,一つのinnewerden である。
 この概念の前段として,マルチン・ブーバーが「観察」と「観照」という概念を提示していたことを思い出そう。これもまた,スポーツの具体的な事例に当てはめて考えてみよう。
 たとえば,ひとくちにサッカーファンといっても,いろいろの位相がある。それを,マルチン・ブーバーの概念に当てはめてみると,「観察」のレベルから「観照」のレベルへ,そして,さらには「共感・共振」のレベルへと並べて考えることもできよう。
 「観察」は,選手たちの外見に強い関心をもって,ことこまかに観察することを楽しんでいるレベルとしてみよう。選手たちのからだの特徴(背が高いとか,がっちりした体躯だとか,ハンサムだとか)や,足の速さ,ボールさばき,チーム・プレイへの機能の仕方,とうとうに眼が向っているレベル。ファンの最初の段階は,みんなここから始まるのだろう。
 しかし,「観照」となると,少し違ってくる。たんなる観察をとおしてみえてくるもの以外のもの,つまり,ふつうの人の眼には見えないけれども,サッカーに通暁してくると,まるで見えているかのように見えはじめるもの,マルチン・ブーバーのことばを借りれば「実存」。辞典的に説明すれば,「対象を主観を交えずに冷静に見つめること」となる。あるいは,仏教用語でいえば「智慧をもって事物の実相をとらえること」。芸術分野では「美的対象の受容における直観的認識」。これらを全部ひとまとめにして,サッカーに当てはめてみると,一番近い感覚は,見ていて「美しい」と感動する場面に出会うことだろうか。「潜在的なるものが突如として顕在化する」瞬間に立ち会うこと,とでもいえばいいだろうか。
 そして,innewerden =「共感・共振」である。ファンの立場からみれば,選手とファンが「共感・共振」すること。スタンドから見ているはずのファンが,いつのまにか選手と一体化している。まるで,プレイをしているかのように,ピッチを駆け回っている。そういう瞬間というものがある。こういうことを一度でも体験したことのあるファンは,もう,病みつきになること請け合いである。熱烈なサポーターといわれる人たちには,こういう人が多いはずだ。「オレが応援に行かないと,負けてしまう」という使命感のようなものが漲っている。
 とまあ,こんな具合なのだ。ただし,断っておくが,あくまでもスポーツの場面に,マルチン・ブーバーが提示した「対話」における三つの概念をかなり強引に当てはめてみただけのことである。むしろ,これをヒントにして,さまざまな文化を,ブーバーのいう「対話」の概念を用いて考えてみること,これが大事である。もっと卑近な例を引けば,日常的な人間関係,コミュニケーションの問題からはじまって,動物や植物,あるいは,鉱物といった自然存在との「対話」について考えることが重要なのである。
 つまり,21世紀を生きるわたしたちにとって「対話」(ブーバーの意味で)とはなにか,そして,いかにあるべきか,を問い直すこと。スポーツ文化論の立場から,ブーバーの「対話」の概念を,どのように受け止めていくか。教育の現場ではどうか,などなど。
 こういう意図があって,2回の「innewerdenということについて」というブログで,わたしなりの論考を試みてみたという次第。ご理解いただければ幸いである。

2010年10月27日水曜日

特集・大相撲『現代思想』11月号,今日発売。

 青土社からでている月刊誌『現代思想』11月号が今日,発売となった。その特集が「大相撲」。わたしも少しばかりかかわったので,ご紹介しておく。
 わたしの記憶に間違いがなければ,『現代思想』がいわゆるスポーツ関連で特集を組むということはこれまでなかったはずである。その月刊誌が「大相撲」を特集した。このことはまことに画期的なことだと言っていいだろう。なぜなら,これまでの一般的な考え方からすれば,スポーツと「思想」とは関係がないと考えられてきたからだ。極論すれば,「スポーツに思想はあるのか」と問われれば,大方の人は迷わず「ない」と答えるだろう。かく申すわたしも,真っ正面から「スポーツに思想はあるのか」と問われたら,やや口ごもりがちに「あ,あります」と答えることになるだろう。では,「スポーツ思想について説明してくれ」と言われたら,これまた深呼吸を二つ三つし,相当の覚悟をした上で,おもむろに重い口を開くしかないだろう。(この問題については,いつか,また,取り上げてみたいと考えている)
 というわけなので,『現代思想』が「大相撲」を取り上げてくれたことはまことに画期的なことだった,という次第。しかも,そこにわたくしごときがかかわることができたということもまた,まことに画期的なことだった。とはいえ,今回のこの企画に加わることができたのも,じつは,平凡社から刊行した『近代スポーツのミッションは終わったか』(今福・西谷両氏との共著)のお蔭である。担当編集者がわたしのところに尋ねてきたときに,そのことを教えてくれた。その意味では,まさに,今福・西谷両氏のお蔭なのである。このお二人にはいくら感謝しても感謝したりない,といっても過言ではない。
 そのなによりの証拠は,今回の特集もまた,今福龍太・西谷修の両氏にわたしが加わって「大相撲」問題をテーマに鼎談をしてほしい,という企画にみることができる。つまり,このお二人が加わることによって,「大相撲」が「思想」のことばで語るに値するものになりうる,というのが編集者の判断だった。ということは,体育・スポーツの研究者だけでは,いまもなお「大相撲」を「思想」のことばで語るだけの力はない,という裏の判断があるということを意味する。このことは,わたしにも痛いほどよくわかるので,そのとおりだと思う。
 できあがった雑誌をみると,「鼎談」ではなく,「討論」ということになっていて,おやおやと思いながらも,雑誌というものはこんな風にして「つくられる」ものなのだ,ということを知った。われわれ3人は,『近代スポーツのミッションは終わったか』以来の定番となっているが,なんの事前の打ち合わせもなしに,時間ぎりぎりに集まって,どんな風にしましょうかねぇ,などと雑談しているうちに,いつのまにか本番に入っていた。それでもなんとかかたちになってしまうというところが,このお二人のすごいところ。わたしは,ただ,ひたすら,おろおろしながら話題についていくのが精一杯。なんとか採用してもらえる話をしようと必死・・・・。気がつけば,予定の2時間があっという間にすぎていた,というのが実感。
 そんな風にしてできあがったのが,われわれ3人の「討論」となっている。驚いたのは,われわれの収録が終わって(午後6時),翌日の昼ころには,ゲラとなってメールで送信されてきたことだ。それにわれわれが手を入れて返送し,すぐに,最終ゲラが送られてきて,応答して終わり。この間のスピードの速さ。まさか,あの忙しいお二人がこんなに早く応答されるとは,じつは思ってもみなかった。もっと,ロスタイムがあるものとのんびり構えていた。ところが,一番暇なわたしが遅れをとってしまった。またまた,このお二人のすごさを知ったという次第。遅れるときは遅れるが,やるときはすぐにやる,という臨機応変ぶりに,さすがだなぁ,と感動すらしてしまった。
 内容については,ご覧いただくとして,わたしの勝手な感想としては,2時間はあまりに短すぎた。テーマが「大相撲」である。しかも,いま,最大の話題になっている時事ネタである。しかも,時事ネタとはいえ,大相撲がこんにちのこのような事態にいたるにはそれなりの歴史過程がある。そのためには語らなくてはならないテーマがあまりにも多すぎる。だから,2時間ではとてもとても時間が足りない。本気でやるなら,「徹底討論」という形式にして,とことん語り合うべきであろう。そうしたら,もっともっと面白いものになったのでは・・・・,と想像したりしている。
 いずれ,どこかの月例会で取り上げていただいて,議論ができればと思っている。
 この特集には,われらの期待の星,井上邦子さんも登場する。さらに,われわれにもお馴染みの寒川恒夫,高津勝,リー・トンプソン,という人たちも登場し,それぞれに力作を発表している。ぜひ,ご覧いただきたい。そして,感想などをお聞かせいくだされば幸いである。

2010年10月26日火曜日

innewerden ということについて。その2.「純粋経験」「遊戯三昧」の世界

 マルチン・ブーバーのいう innewerden の概念について,わたしなりの解釈と訳語について考えてみたいと思う。昨日のブログで引いたマルチン・ブーバーのテクストからの長い引用文を手がかりにして。
 まず,最初に結論というべきか,わたしなりの「訳語」を提示しておくことにしよう。
 マルチン・ブーバーのいう「実例」から浮かび上がってくる,わたしなりの訳語は以下のとおりである。「交信する」「交感する」「共振する」「共鳴する」。あるいは,別の視点に立てば,「立ち現れる」「目覚める」「生まれる」「芽生える」。もっと言ってしまえば「萌の襲」(もえのかさね)。
 マルチン・ブーバーが innewerden などという概念を立ち上げて,どうしても言いたかったことはなにか。ここがポイントとなろう。
 昨日のブログにも触れたように,観察も観照も,じつは「自己完結」する近代的自我(あるいは,意識)のもとにある。(わたしの考える「ヴィジョナリー」という概念が,ブーバーのいう「観照」に近いものだとすれば,かならずしも「自己完結」しているとはいえない。なぜなら,わたしの考える「観照」は若干ながら,自己(われ)の<外>に浸透していくことが前提となっているから。)しかし,この両概念につづけてブーバーが提起する innewerden は,明らかに自己(われ)の<外>に自己(われ)を解き放つことによって成立する事態のことだ。つまり,ブーバーのことばに置き換えれば,<われ>と<なんじ>の「間」(あいだ)ということになる。もっと言ってしまえば,<われ>からも一歩,<なんじ>からも一歩,お互いに自己の<外>に一歩ずつ踏み出してできる「共通の場」,すなわち,「間」に身もこころも解き放つことによって,初めて成立する<われ>と<なんじ>の関係性である。そこに生まれるものは,すでに,意識を超越している。
 つまり,それまでの<われ>とは異なる別の<われ>になること。お互いがそうなること。そのときに,お互いの innen (内側に)になにかが werden (成る)する。そこで起こっていることは,これまでの<われ>とはまったく異なる,別次元の<われ>に成り代わっている,ということだ。そして,この「場」こそが「実在」の在り処だというのである。
 この世界は,わたしのイメージでいえば,西田幾多郎のいう「純粋経験」の「場」とほとんど変わらない。だから,innewerden というドイツ語に「悟る」という訳語が充てられてもなんの不思議もないのである。坐禅のさなかにある<われ>は,もはや,日常の<われ>とはまったくの別次元にある。「無」の境地とはそういうことだ。ただ,坐禅の世界はただ一人で「無」の境地をめざす。かぎりなく<われ>を消去することによって,マクロコスモスのとの一体感を深めていく。つまり,ミクロコスモスとマクロコスモスとの一体化である。
 しかし,ブーバーはそうは考えていない。とりあえずは,「二人の男」の「間」で,無言のうちに起こる「対話」についての独自の思考を深めていく。そのときのキーとなる概念が innewerden というわけである。こういうことを勘案して,わたしは,冒頭に列挙したような「訳語」を考えている。
 すなわち,お互いに「交感する」ことによって,まったく新しいなにかが「芽生える」。それがつぎつぎに重なっていく。だから「萌の襲」。
 これまでに経験したことのないなにかが,こころの内に,つぎつぎに「萌えいでてきて」,それはまるでなにものかによって「襲われている」かのようだ。しかし,それは限りなく心地よい。新たな<われ>への止むことのない変身。そこには「自己完結」する余地はまったくない。それどころか,つぎつぎに切り開かれて現前化する新しい「世界」との対応に嬉々として戯れることになるだろう。そこは,禅仏教でいう「遊戯三昧」の世界に近いと言っていいだろう。
 それが,マルチン・ブーバーのいう innewerden という概念ではないか,とわたしは考える。
 ご意見,ご批判をいただければ幸いである。

2010年10月25日月曜日

innewerden ということについて。その1.無言の対話・こころが通い合う。

 マルチン・ブーバーのいう,innewerden ということについて考えてみたい。植田重雄訳の岩波文庫『我と汝・対話』の中では「会得」という訳語が与えられている。
  翻訳の問題はとてもやっかいである。どこまで問い詰めていっても完全に一致する訳語というものはありえないからだ。したがって,もっとも近いことばを探し出し,当てはめていく以外にはない。あるいは,新しい訳語を創作するしかない。
 ドイツ語のinnewerden という単語もとてもやっかいなことばである。ためしに,独和辞典を引いてみる。辞典ごとに訳語が異なる。それほどやっかいなことばであるということだ。たとえば,「気づく」「悟る」「なりきる」「感知する」などの訳語が充てられている。たぶん,訳者の植田重雄さんも相当に考えた末に「会得」という訳語にいたりついたに違いない。つまりは,新訳であり,創作である。このことばは,数日前のブログで書いた「観察」と「観照」につづけて「会得」が並んででてくる。テクストでいえば,P.184~188。
 「観察者」は特徴の総和,「観照者」は実存,とマルチン・ブーバーはみごとに喝破している。そのあとにつづけて,ブーバーはつぎのように記述している。
 「しかしこれによって彼らは行為を要求されたり,運命を背負うこともなく,すべては,切り離された知覚の領域でおこる事柄なのである。」
 つまり,観察者も観照者も,特徴の総和と実存の違いはあれ,いずれも自分の行為や運命とは切り離された「知覚の領域でおこる事柄なのだ」というわけである。言ってしまえば,両者ともに「自己完結」しているということだ。そして,そういう観察者や観照者のレベルをこえた地平,つまり,「知覚の領域」を超越した領野で,人間の「内側」(innen)でなにかが「成る」(werden)という事態がおこる。その事態に対して訳者は「会得」という訳語を与えたのである。どれだけ深く考えた末の「創作」であったかが伝わってくる。
 このことの内実というか,マルチン・ブーバーの具体的なイメージについては,「沈黙が伝えるもの」という見出しの文章のなかに詳細に記述されている(P.174以下)。少し長いが,イメージを明確にする意味でブーバーの記述を引用してみよう。
 「わたしが頭にえがいていることを,実例で明らかにしよう。
 この世界のどこか寂しいところで,お互いに隣り合って腰かけている二人の男を想い浮かべていただきたい。彼らは互いに話しもせず,相手を見もせず,一度もふり向くことすらしない。彼らは親しい間柄でもなく,相手の経歴なども全然知っていない。彼らはこの日の朝早く,旅行の途中で知り合ったにすぎない。今,彼らは相手のことなど考えていない。われわれもまた彼らがどんなことを考えているかを知る必要もない。一方の男も他方の男も同じペンチに腰をおろしているが,一方の男はその持前の気分からして明らかに平静で,何が起ころうとゆったりとすべてを迎え容れる気持が見られる。彼は何かをしようとしている構えはほとんどないが,しかしまさにそこに現実にいなければならぬものとしてそこにいるといった様子である。他方の男は,その様子からでは,どのような人間か分からないが,無口で抑制力のつよい人間である。しかしこの男をよく知っているひとならば,幼児性の閉塞の呪縛が彼にあること,彼の抑制の様子は,彼の態度とはまったく別のものであることが分る。彼のすべての態度の背後には,貫徹できぬ自己伝達不可能というものがある。ところで──われわれの心を締めつけている七つの鉄の輪を破ってしまうような瞬間の一つがあることを思い浮かべてみよう,──突如この男の呪縛がとけてしまう。しかしこの男は一言も話しかけるわけでもなく,指一つ動かすわけでもない。にもかかわらず,彼は何ごとかをなす。彼の行為によらずに,呪縛の解消が起こった。それがどこから生起したかは問わない。とにかく突如として起こった。しかし彼は今や彼自身だけが支配する力をもっている一つの隔意を自ら止めてしまうのである。すると彼から隔意なく伝達が流れ出,沈黙がこの伝播を隣りにいる男にもたらすのである。この伝達はこの男に向けられたのであり,すべて真の運命の出合いにたいしてこの男がいつもするように,この伝達は隔意なく受け取るのである。彼は自分が経験したことをだれにも語ることはできない。いや自分自身にさえできない。このとき相手の男について彼は何を<知る>であろうか。知ることはここでは必要ではない。なぜならば,人間と人間の間で隔意なきものが支配しているところには,たとえ言葉はなくとも,対話的な言葉が秘蹟的に生ずるのである。」
 以上が,マルチン・ブーバーのいう innewerden の具体的なイメージである。この事態をひとまとめにする日本語にはどのようなものが考えられるであろうか。

(つづく)。

2010年10月24日日曜日

大学卒業50周年を記念する同期会に参加。

 大学を卒業してから,早いもので,もう50年が経過している。それを記念して同期会を開催するという案内をもらったときには,なんだか浦島太郎のような気分になった。
 その同期会が今日あった。午後1時から開始。わたしは名古屋から急いで帰って,家で着替えをして,会場に駆けつける。開始直前ぎりぎりに飛び込む。すでに,ほとんどのメンバーが集まっていて,ウェルカムドリンクで顔を染めている人もいる。しまった,出遅れたか,と思いながら空いている椅子を探す。まもなく開会宣言があり,プログラムにしたがって会が進行していく。
 入学したときの定員は,体育学科100名,健康学科50名。今日配布された名簿をみると,体育学科120名,健康学科54名,合計174名。これが実数なのだろう。そのうち,すでに鬼籍に入った人が20名。一割強である。この数字が多いのか少ないのか,わたしには判断できない。しかし,個人的な感情としては,多すぎる。なぜなら,そんなに急いで死んでしまっては困る人がこのなかに多いからだ。猪熊功(柔道・東京オリンピック金メダリスト),竹内善徳(柔道・全日本チャンピオン),安田矩明(陸上・棒高跳び・東京オリンピック出場),などという突出した人たちをはじめ,それぞれの分野で立派な仕事をしていた人たちが多い。残念なことだが,仕方がない。開会の冒頭で,黙祷をささげる。
 幹事の人たちがまとめてくれた「寄せられた仲間達の近況および通信」という冊子を読んでいくと,欠席者の内情がおぼろげながら伝わってくる。本人がからだの調子をくずしていて,闘病中である人,家族に病人がいてその介護のために参加できない人,それから,大きな組織の長をしていて,その公式行事があるために自由に身動きがとれない人,などの三つのグループに分かれる。大活躍のために欠席は仕方ない(予想以上に多いことに驚く。みんな立派な仕事をしているんだなぁ,と)。しかし,病気や介護のために参加できないという人たちは気の毒だ。考えてみれば,みんな錚々たるスポーツマンばかりだ。だから,われわれのからだは満身創痍といっても過言ではない。かならずと言っていいほど,からだのどこかを痛めている。それをだましだましこんにちまで生きてきたのだ。みんな工夫に工夫を重ねて。
 それを考えると,参加できる人たちは幸せなものである。基本的には元気であること,その上で,ある程度の時間的自由を確保できていること,しかも,軍資金も確保できていること,などの最低三つの条件をクリアしている必要がある。出席者の大半は元気印のかたまりみたいな連中である。顔色もいい。声も大きい。動作もきびきびしている。なによりも「眼力」がある。そういう人間に限って,歩んできた人生経験も面白い。だから,自然に会話がはずむ。こういう人間に出会うとこちらまで元気になってくる。
 でも,5年前のこの会で,とても元気だった男が何人も欠席している。聞いてみると,肝臓を悪くして入院しているとか(飲み過ぎ),膝を痛めてひとりでは動けないとか(運動のやり過ぎ),脳溢血で倒れてリハビリ中(これが意外に多い)とか,みんなお馴染みのパターンにはまってしまっている。これらの話を大事な教訓としたい。
 今回は50周年記念ということで,この会をもって収めの会にしたい,という森幹事長の意向もあって,「卒業後の50年をふりかえって」というスピーチを藤井英嘉君が代表して行った。これまたみごとな幹事長のアイディアである。藤井君こそ最高の適格者だから。かれは,みんなが共有していると思われる記録を,精力的にかき集めてきて(インターネットをフルに活用して),それらを上手に編集して,パワーポイントをつかってのみごとな話を展開した。華のある男だ。だから,学長にまで昇りつめることができたのだ。話のツボを心得ている。同期の連中も,話のうまさに引きこまれ,圧倒されながら,聞き入っていた。なんだか自分の手柄のように,嬉しかった。
 二次会の席で,森幹事長から,「まだまだ,この回を継続したいという声が大きいので,お前,幹事長をやってくれないか」と声がかかる。まさか,わたしのような人間のところに,そういう声がかかるとは予想だにしていなかったので,いささか驚く。でも,仕方がないので「いまも,まだ,現役で仕事をしており,これからライフ・ワークの仕上げにとりかかろうとしているので,勘弁してくれ」と断る。「そんなに仕事が面白いのか」というから,「いま,人生でもっとも充実した時間をすごしている」と応答。不思議そうな顔をしている。そして,「そうか,それじゃあ仕方ないか」と話は早い。そのあとも,森幹事長は,これはと思う人に声をかけていたが,結局,だれも引き受けてはくれなかったようだ。もし,だれかが引き受けてくれれば,閉会の挨拶のときに,その紹介があったはずだ。あった話は,「残念ながら,幹事長の引き受けてがいない。だから,この会は今回をもって終了とする。以後は,小さいグループで,個別に開催して楽しんでほしい」のひとこと。それでも,フロアーからは「なんとかしてだれかやってくれ」という声が飛ぶ。森幹事長は「あとは,だれかが自主的に引き受けてくれる人がでてくることを待つのみ」と。
 まあ,そういうことなんだろうなぁ,とわたしは納得。そして,こころの中で,あと5年後といえば(この会は5年に一度開催してきた),77歳から78歳,このとき幹事長ができる人間はまずいないだろうなぁ,と考える。もし,いたとしたら,それはすごい奴だ,ということになる。そこで,またまた,考える。よくよく考えてみれば,この同期会の中ではわたしが一番若い。つまり,3月26日生まれだから,これより遅く生まれた人間は同期の中にはいないはず。だとしたら,これまでお世話になってばかりきたのだから,少しぐらいは恩返しのつもりで,次回の仕掛け人のひとりになってもいいかなぁ,とちらりと脳裏をかすめる。つぎの瞬間,そうだ,次回は,藤井君の幹事長で,それをサポートする役にまわればいい・・・な,などと妄想を膨らませたりしている。
 あとは,そのときのこころとからだの状態に委ねるしかない。
 もし,それができるような状態でいられたとしたら,それこそ最高の幸せなのではないか,と。そうは問屋が卸さないだろうが,でも,楽しい夢はみないよりは,見続けた方がいい。夢と希望は生きる力の源だ。
 まあ,こんなことをチラリとでも感じさせてもらったのが,今回の同期会に参加した,ひょっとしたらかけがえのない「おみやげ」だったのかな,と思ったりしてひとりでにんまりしている。
 
未完。

2010年10月22日金曜日

「観察」と「観照」の違いについて(マルチン・ブーバー)。

 マルチン・ブーバーの『我と汝・対話』のなかに,「観察,観照,会得」という見出しの短文が登場する(P.184)。このなかにはっとさせられる指摘が少なからずある。
 まずは,ブーバーのいうところを引いてみよう。
 「観察者は,観察すべき人間をよく記憶し,記述するために緊張している。彼は相手をしらべ,記述する。彼はできる限り多くの特徴を記述しようと骨折る。彼はその特徴を何一つ見逃すまいと様子をうかがう。対象はさまざまの特徴から成り立ち,諸特徴から対象の背後に存在しているものを知る。人間の表現体系の知識は,たえず新たに現れる個々の変化をたちどころに包括し役立つものとする。顔は表情にほかならず,行動は表現身振りにほかならない。」
 このように「観察者」について,厳密に定義を与えた上で,ブーバーはつぎのように話を展開していく。
 「これに反して,観照者は概してこのような緊張をおこすことはしない。彼は自由に対象を見れる態度をとり,自分に示されるものを,虚心に待ちうける。ただ始めのうちは,彼の思慮がはたらくけれど,その後になるとすべて恣意的なものは消滅する。彼は,記述することはひたすらおこなわず,生起するものをそのまま生起させ,忘れることすらおそれない。(忘れることはよいことである)とすら彼はいう。彼は記憶に課題を与えたりはしない。彼は残るに値いするもののみを残し,記憶の有機的働きに委せきっている。彼は観察者のように草を緑の飼料として運びこむことはしない。彼は干し草を投げて裏返し,太陽の光を当てやる。彼は特徴に注意をはらわない。(特徴は誤りにおちいらせると彼はいう。)重要なことは,対象の<特質>や<表示>ではない。(興味をひくことは重要ではないと彼はいう。)すべてすぐれた芸術家は観照者である。」
 これらの文章を読みながら,わたしはなにを考えているのか。そう,参与観察による記述(ディスクリプション)の問題である。それともう一つは「ヴィジョナリー・スポーツ」の問題である。
 ことばの厳密な意味では,参与観察は,たんなる観察者よりは一歩踏み込んでいることになる。が,このときの「参与」とははたしてどのようなレベルのことを意味しているのか,ある意味で曖昧である。つまり,観察者と参与者は間違いなく別だ。しかし,参与観察者とは,どのようなポジションをとることを意味しているのか。そこから生まれる「記述」(ディスクリプション)とはなにか。やはり,最終的には「外見の記述」に終始することになるのではないか。
 それに引き換え,観照者の立場は,まったく別である。「記憶の有機的働きに委せきっている」とブーバーがいうように,対象の外見的な特徴も特質も不要だという。しかも,すぐれた芸術家たちは,ここの地平から多くのすぐれた作品を生み出し,見る人を感動させる。ヴィジョナリー・スポーツの可能性は,この地平にひろがっているとわたしは考えている。これ以上のことはここでは言わないことにする。
 ブーバーはさらに,つぎのように追い打ちをかける。
 「観察者と観照者は,われわれの眼の前に生きている人間を知覚しようとする意図をもっているという立場から,共通している。この双方にとって当の人間は,観察し観照する彼ら自身からも個人的生活からも,分離した対象であるがゆえにまさに<正しく>知覚されるのである。したがって,彼らが経験するものは,観察者の場合には特徴の総和であり,観照者の場合には,実存である。しかしこれによって彼らは行為を要求されたり,運命を背負うこともなく,すべては,切り離された知覚の領域でおこる事柄なのである。」
 「特徴の総和」と「実存」の違い・・・・。このあまりの違いはなにを意味しているのか。
 「ディスクリプション」と「インスクリプション」の違いについては,『近代スポーツのミッションは終わったか』(今福龍太,西谷修,稲垣正浩著,平凡社)のなかでも,今福さんが持論を展開されている。「<外>に書く」(ディスクリプション」と「<内>に書く」(インスクリプション)との違いは,ブーバーのことばを借りれば,「特徴の総和」と「実存」ということになろうか。そして,ヨーロッパ近代のアカデミズムにもとづく文化人類学は「特徴の総和」に向った。そのために,「実存」の問題はないがしろにされてきたのではなかったか。そのギャップをいかにして埋めていくか,ここに今福さんが主張される立場の一つがある,とわたしは考える。
 そして,話をブーバーにもどせば,「われとなんじ」の<間>の対話(呼びかけ)は,間違いなく「実存」の時空間にしか成立しない。竹内敏晴さんもまた,この観照者の立場に立ち,実存の時空間を目指したのではないか,とわたしは推測する。
 この問題は,ブーバーの思考のなかでさらに深化していって,「会得」という段階に踏み込んでいく。この問題については,長くなってしまうので,残念ながら割愛する。テクストのP.186~188.を参照していただきたい。ただ,つぎの一文だけは紹介しておこう。
 「語りかけられるという働きは,観察や観照の働きとは,全く異なっている。」
 

2010年10月21日木曜日

『環』(藤原書店)・小特集「竹内敏晴さんと私」が刊行される。

 『環』(藤原書店・秋号・第43号)が刊行された(書店配本はこれから)。執筆者のひとりということで,少し早めに送られてきた。今日,落手。
 この号の特集は「沖縄問題とは何か」というもので,29人の執筆者が顔を揃えている。そのつぎの,小特集ということで「竹内敏晴さんと私」が組まれていて,そこでは24人の人がそれぞれの想い出を語っている。わたしも幸いなことにその中のひとりに加えていただいた。たぶん,章子さん(竹内未亡人)のご推薦だったように伝聞している。ありがたいことである。
 当然のことながら,三井悦子さんも執筆者のひとり。さすがに,三井さんでなければ書けない内容になっていて,秀逸。楽しく読ませていただいた。
 その他には,わたしの知っている人だけを挙げておくと,大城立裕,木田元,栗原彬,鴻上尚史,今野哲男,芹沢俊介,三砂ちづる,見田宗介,米沢唯,の9人。錚々たるメンバーである。そんな中に加えていただけたのだから,感謝あるのみである。
 見田宗介氏がどのような文章を書かれたのか注目したが,なんと,昨年の朝日新聞に寄稿した文章がそのまま転載されていた。がっかりである。ご記憶の方も多いと思うが,この文章に対して,わたしは徹底した酷評をこのブログで書いた。やや,いいすぎたかなぁと不安になったが,あとで多くの方がもっと言っていいと背中を押され,だいぶ気が楽になってはいた。で,こんどはどんな文章を見田さんがお書きになられるのかな,とじつは楽しみにしていた。しかし,一年前の転載とは・・・。大いなる失望である。ということは,あれ以上の文章を書く気力もなくなった,ということなのだろうか。それにしても,推敲ぐらいして,もう少しすっきりとした文章に仕立て直すくらいのことはやってもよかったのではないか・・・と勝手な推測。それほどに,見田さんともあろう人の文章としては「荒れ」ているのである。お弟子さんのだれかが直すとか・・・。ご忠告をするとか・・・。そういう人もいなくなったということなのだろうか。寂しいかぎりである。それにしては,どうでもいいところに登場して(朝日新聞),なんの役にも立たない発言をしていらっしゃる。
 それとは別に,わたしの大好きな木田元さんが『待つしか,ないか』を刊行されたときの秘話を書いてくださっていて,ああ,そうだったのか,ととても納得することができた。この本を読んだときにも思っていたことではあるが,竹内さんが,とても熱い想いを籠めて,熱弁をふるっていらっしゃることの理由がわかった。この企画は竹内さんの発案になるもので,対談の木田さんを選ばれたのも竹内さんのご希望だったとか。で,木田さんの言によれば,なんだか,もっともっとお話がしたいようだったのに残念だった,という。そうだとわたしも思う。竹内さんは,もっともっと多く,メルロ・ポンティの「現象学」のお話をしたかったのではないか,とこれはわたしの推測。つまり,「主体としての身体」の発見,という竹内さんにとってはその後の生き方を決定づけるできごとが,メルロ・ポンティの『眼の現象学』を読むことによって起きた,とみずからおっしゃっているからだ。
 わたしたちとの「竹内敏晴さんを囲む会」の折にも,しばしば,メルロ・ポンティを引き合いに出されて,とても刺激的なお話をしてくださった。それにしては,わたしたちのメルロ・ポンティについての勉強不足が災いして,大いに盛り上がるというところまではゆけなかった。大変に失礼なことをしてしまったと反省していて,必ず,大急ぎでメルロ・ポンティを勉強して,つぎの「竹内敏晴さんを囲む会」で償いをしなくては・・・と思っていた次第である。わたしたちのつもりとしては,竹内さんはまだまだ長生きしてご活躍なさるものと,信じて疑わなかったのだが・・・。運命とは過酷なものである。あっという間のお別れとなってしまった。
 やはり,竹内さんが,つねづねおっしゃっていらしたように,人生はいつも「いま」「ここ」に集中して,全力で生きていくしかないんだよねぇ・・・・と。その竹内さんが『レッスンする人』の最後のところで,「はい,それまでよぉ~」と言われているところを読んで,わたしはそのさきが読めなくなってしまった。その少し前のところに,「いい想い出はなんですか」という問いに,「唯を育てたこと」という発言があって,ここでも文字が見えなくなってしまった。
 その「唯」さんが,名文を残していらっしゃる。『レッスンする人』に書かれた文章が,こんどの『環』にも転載されている。素晴らしい名文家でいらっしゃる。わたしは何回も何回も読み返して,この文章は素晴らしいと感動している。とりわけ,最後の文章はたまらない。竹内さんは,あの文章を読んで(あの世から),大満足をされている,とわたしは確信する。「わたしは,これからもステージに立つたびに,一番後ろの席に坐っている人にむかって,こころをこめておじぎをするだろう」(この文章はわたしの記憶による。原文はもっといい)。わたしは,この最後の文章を読むたびに嗚咽している。しかも,こころがほのぼのとしてくるのだから不思議だ。こういう涙を,久しく流したことがなかった。唯さん,ありがとう。
 という次第で,23日は,この『環』が間に合ったことによって,なにかと話題も豊富になるだろう。わたしのプレゼンテーションも,ここに寄せたエッセイからはじめようかと考えている。さて,どんな例会になるか,いまから楽しみ。

2010年10月20日水曜日

竹内敏晴さんとマルチン・ブーバーの『我と汝』について。

 23日(土)の「ISC・21」10月名古屋例会が近づいてきたので,そろそろ準備にとりかからなければと気持ちだけが焦っている。しかし,ほとんどなにも準備ができていない。
 それでも,なんとかマルチン・ブーバーの『我と汝・対話』(岩波文庫)だけは読んでおこうと思い,あちこち拾い読みをはじめた。しかし,どこを拾ってみても難解きわまりない。が,なんとしても,竹内さんがブーバーのどこに興味をもたれたのか,その手がかりくらいはつかみたいものとアンテナを張っていたところ,最後の解説(訳者の植田重雄氏によるもの)に,そのヒントとなりそうな文章(P.270.)が見つかったので,それを,まず紹介してみようと思う。
 「存在は言葉であり,対話の語りかけ,語りかけられることによって,その存在性が明らかになり,啓示への新しい道が開かれるのである。今までは人間の思惟する<われ>が世界や存在や神を理解してきたが,ブーバーはこの対話という存在了解の道をとおって,人間中心の<われ>だけによるのではなく,<われ>と<なんじ>の間に生ずるものが,真の存在であり,出合いとしての啓示の展開であると見る。この<われ>と<なんじ>の「間の領域」こそ,存在が存在となり,一切が成熟してゆく。もはや啓示を遠い彼方のものとして想い浮かべるのではなく,現実に生きる<今><ここ>において,<われ>と<なんじ>の全人格的呼びかけや出合いの現存在の中に生起し,成熟するものなのである。対話的な思惟は,現代の存在の局面を根本的に変容させたのである。」
 竹内さんが「呼びかけのレッスン」や「<じか>に触れるレッスン」を編み出し,それに磨きをかけていくことになる,そのきっかけを与えた一つがマルチン・ブーバーの『我と汝・対話』というテクストにあったとすれば,植田氏のこの解説はきわめて重要な示唆をふくんでいるように,わたしには思われる。
 とりわけ,引用の最後の部分「この<われ>と<なんじ>の『間の領域』こそ,存在が存在となり,一切が成熟してゆく」 は,竹内さんが何回もくり返しおっしゃっていたことばと共振し,共鳴するように思う。竹内さんの「呼びかけのレッスン」も「<じか>に触れるレッスン」も,なにを隠そう「この<われ>と<なんじ>の『間の領域』」で成り立っているレッスンなのだ。だから,「呼びかけ」られることによって,さらに,<じか>に触れることによって,わたしという「存在が存在となる」。しかも,それをくり返していくことによって「一切が成熟してゆく」ということになる。
 だから,これらのレッスンは何回やってみても同じことは一度もない,そのつど毎回,変化する,と竹内さんはおっしゃる。「存在が存在になる」そのなり方も,「成熟してゆく」その仕方も,まいたびごとに変化する,というのである。レッスンはまるで生きものそのものである,と。

(あとで追加記入の予定)

2010年10月19日火曜日

「民俗学とは神と人間と自然の交渉の学である」(谷川健一)

 今日の夕刊に「追憶の風景」というコラムがあって,「神とつながっている世界」という大見出しで,民俗学者谷川健一さんが,写真入りで紹介されている。テーマは「宮古島」。
 このコラムの最後のところに「民俗学とは神と人間と自然の交渉の学である」という谷川さんのことばが書き込まれていて,わたしの眼が釘付けになった。なぜなら,9月の神戸例会の折に,スポーツ人類学の専門分科会でのシンポジウムの報告を聞いて以来,カチンとくるものがあって,このところ「スポーツ人類学」とはいかなる学問なのか,と自問自答していたからである。
 そのときの報告によると,今福龍太さんの文化人類学の考え方(たとえば,ディスクライブではなくインスクライブする立場)に依拠しながら,シンポジウムを展開したら,袋叩きにあった,というのである。しかも,今福さんの考え方は,スポーツ人類学では受け入れられないということですでに議論済みである,というのである。しかし,どのような議論がなされて,どのような理由で「受け入れられない」という結論に達したのか,会員であるわたしは「学会誌」でも「会報」でも読んだ記憶がない。どこで,いつ,そのような重要な議論がなされたのか,不勉強なわたしは知らないでいた。しかし,わたしのような会員も少なからずいて,いまも,今福さんの理論仮説をてがかりにスポーツ人類学の研究に励んでいるのも事実である。そういう研究者・会員を「論外である」として排除する力がはたらいているとしたら,それは「学会」活動としてはまずいのではないか,とわたしは考える。
 そんなわけで,今日の夕刊にあった谷川健一さんのことばは,ことのほか強烈な刺激となってわたしの眼に飛び込んできた。もちろん,厳密にいえば,文化人類学と民俗学は区別されなければならないが,しかし,その大本のところはかなり重複している,近接の学問領域である。スポーツ人類学とて代わらない。たとえば,スポーツ人類学の研究対象となる「綱引き」や「相撲」などは,民俗学の研究対象として取り上げる場合とでは,その方法や目的に間違いなく違いがあるはずであるが,その違いを厳密に説明することはかなり困難であろう。
 ところが,スポーツ人類学の学会誌に掲載された論文には,「神と人間と自然の交渉の学」であるという認識はほとんど読み取れない(わたしだけかも知れないが)。わたしに言わせれば,きわめて形骸化した「参与観察」に終始しているように思われる。この「参与観察」という方法論に根源的な問いを発しつつ,その限界性をいかに突き破っていくか,というのが今福さんの一貫した主張であり,考え方である。その主張は『クレオール主義』『荒野のロマネスク』に始まって,最近では『群島─世界論』という膨大な論考を積み上げている。これらの仕事をどのように議論し,それらを超克されたのか,わたしは知りたい。
(未完)

2010年10月18日月曜日

宇沢弘文さんは竹内敏晴さんの3年後輩(一高時代)

 宇沢さんは1945年4月に一高理科乙類に入学。竹内さんは1942年4月に一高理科甲類に入学。したがって,竹内さんが4年生で宇沢さんは1年生,ということになる。
 しかし,竹内さんの自伝(『レッスンする人』語り下ろし自伝,藤原書店)によれば,弓術に打ち込むあまり「落第につぐ落第」とある。宇沢さんもまた,昨日のブログにも書いたように,ラグビーと芋の買い出しに追われ,大学受験には合格したものの一高の卒業に待ったがかかる。単位不足による落第である。しかし,一高の「Bitte」制度によって救済される。竹内さんもまた,1947年に東大文学部に合格するも,やはり単位不足で待ったがかかっている。竹内さんは,全寮制であった一高の寄宿寮の自治寮委員長としての献身的な功績が認められ,学校当局の特別の計らいにより,一高の「Bitte」制度に救われる。
 宇沢さんも竹内さんも,とてつもないスポーツマンであり,かつ他人のために献身的な努力を惜しまない人,それが原因で落第する,でも大学の入試には合格する,というまことに破天荒な青春時代を送っているという点で共通している。
 そして,お二人とも,第二次世界大戦の「敗戦」を経験し,そこを20歳・16歳という若さで通過していらっしゃる。竹内さんは,敗戦を前夜に知り,それを密かに安倍能成校長に報告し,元自治寮委員長として学生の動揺防止と翌日の行動の組織に当たった,と略年譜にある。つまり,大変な緊張のなかで敗戦の日を迎えていたのである。しかも,翌年には「自死をはかるが発見され果たさず」と略年譜にある。竹内さんにとって「敗戦」がどれほどの意味をもっていたかが忍ばれる。しかし,竹内好の「中国における近代意識の形成」という講演を聞き,魯迅に出会う,とこれも略年譜にある。そして,翌年,東大文学部歴史学科に入学。東洋史を専攻する。理科甲類からの転進である。すなわち,戦前を切り捨てて,「0」(ゼロ)からの出発である。
 他方,16歳で「敗戦」を迎えた宇沢さんは,これでようやく「解放」された,とホッとされたそうである。勝つ見込みがない戦争(日本の知識人の間では常識であった)の重圧のもとで,16歳の少年はラグビーでからだを痛みつけることに昇華の方法を見出していたようである。フォワードなので,脳震盪はつきもの。そのたびにバケツの水を浴びて我をとりもどす,という日常だったと振り返る。あとは,腹が減ってどうにもならないので,芋の買い出しに走った,と。その後,宇沢さんは大学では数学を専攻するも,独学で「経済学」を勉強して,経済学者として身を立てることになる。この数学から経済への転進に,宇沢さんの「敗戦」体験が写し出されているように,わたしにはみえる。そして,「人を幸せにするための嘘」に身を捧げることになったのでは・・・と。
 竹内さんは,学者への道をあきらめて,演劇の世界に身を投じていく。そして,生きる人間そのものと真っ正面から向き合う道を邁進する。このあたりのことは近著の『レッスンする人』のなかに詳細に語られているので,そちらに譲ることにする。竹内敏晴という人のライフ・ヒストリーを知るには必読のテクストである。
 こうして,お二人とも,それぞれの分野で日本の戦後史に大きな足跡を残すことになる。
 こんなことを考えていたら,16日の宇沢さんのシンポのあとの懇親会に参加して,竹内敏晴さんの記憶(あるいは,思い出)についてお聞きすべきであった,といまごろになって後悔している。おそらく,玉音放送の日に,竹内さんがどのように振る舞っていたかは,当時の1年生は鮮明に記憶しているに違いない。だとしたら,返す返すも残念の極み。もう二度とチャンスはあるまい。
 しかし,「双葉より芳し」ということばがあるが,大物の青春時代は,一定の枠組みには収まりきらない「激情」があふれんばかりに満ち満ちていたんだなぁ,と思いを新たにしている。こうしたみずからの信念を貫きとおして生きていく人物が,いまの日本の社会のなかで育っているのだろうかと思うと背筋が寒くなってくる。「敗戦」という大きなハードルを,とにもかくにも通過して,そこをバネにして大きく飛躍していく,そういう迫力のある人間はこんご期待できないのだろうか。
 いやいや,あちこちで,そういう芽が育ちつつある,ということに夢を託したい。また,ぜひ,そうあって欲しい,としみじみ思う。
 宇沢さんの「なま」に接することができて,幸せである。本とはまた別の宇沢さんが,体温とともに伝わってくる。シンポが終わってから,たまたま,廊下でばったり,真っ正面から出会うことがあった。なぜか,不思議そうな眼でわたしを鋭く見つめてくる。しかも,はるか上の方から。わたしは,身を固くして,ただ,仰ぎみるだけでどうしたらいいか困ってしまった。仕方がないので,にっこり笑って会釈を返した。それでも宇沢さんは納得がいかない顔のまま,やや小首をかしげるような挨拶を返してくださった。わたしのからだには何万ボルトもの電流が流れ込んできて,完全に感電してしまった。このからだの感覚は生涯,忘れることはないだろう。
 これとまったく同じような「まなざし」を,竹内さんからもいただいたことがある。あの,終始,にこやかに談笑される竹内さんのまなざしが,時折,ギラリと光ることがある。ほんの一瞬のことなのだが,わたしの全身に電気が走る。感電である。
 ここでいう「感電」とは,「我と汝」の境界がなくなってしまうことだ。
 この話のつづきは,23日の名古屋例会で。

2010年10月17日日曜日

人間・宇沢弘文と「Bitte!」

 「制度は人間のためにあるものであって,人間が制度の犠牲になってはいけない」,と宇沢さんはおっしゃる。そして,「Bitte !」というとてもいい制度が一高にはあった,と目を細めながら楽しそうに回想される。
 宇沢弘文さんは,一高・東大とラグビーの選手として活躍された。しかも,自称「名選手」であった,と。ポジションは「右ロック」。なるほど背の高い大男である。ひたすら相手フォワードとの肉弾線で,前へ,前へと押し込むことだけが仕事だった,と。ところが,あるとき,たまたま眼の前にボールが転がっていたので,あわてて拾って走った。すぐに,チーム・メートが「宇沢,宇沢!」と呼ぶ声が聞こえる。変だな,とはおもったが構わず走った。そうしたら,突然,チーム・メートにタックルされてしまった。気づいたら,「逆走」していたとのこと。だから,「迷選手」だったのだ,と。(会場はみんな爆笑)。
 これですっかり雰囲気が打ち解けたところで,宇沢さんの名言が飛び出す。「経済は人間のためにあるものであって,人間が経済の犠牲になってはいけない」,と。同じように,「制度は人間のためにあるものであって,人間が制度の犠牲になってはいけない」と置き換えをした上で,つぎのような思い出話をされた。
 1945年4月に一高に入学して,それから1948年3月に卒業するまでの3年間,ただ,ひたすらラグビーの練習と芋の買い出しに明け暮れしていた。授業はほとんど出なかったので,勉強らしい勉強はなにもした記憶がない,と。でも,卒業時には,みんなと同じように大学を受験した。しかし,最初から合格するつもりはなかったので,受験だけして,荷物をまとめて田舎に引き上げ,一年浪人をして合格をめざすつもりでいた。だから,合格発表の日も,発表を見にいくこともしないで,荷物をまとめていた。そうしたら,友人が,発表をみてきて「お前,合格しているぞ」と言った。宇沢さんは本気で「冗談を言うんじゃない,ふざけるのもいい加減にしろ!」と言ったものだから,その場で喧嘩になり,ならば,というので二人で発表を見に行った。そうしたら,友人の言うことが正しかったので,びっくり仰天した,と。
 ところが,一高の学務から連絡があって,「君は卒業できない。理由は,出席不足による単位不認定のため」とのこと。ああ,そうか,とこれも十分に納得できることだったので,来年,また,受験すればいい,と腹をくくっていた。そうしたら,件の友人が,「ちょっと待て。学務に掛け合ってくる」と言ってでかけた。そうして,友人は,「宇沢は友人たちの食料確保のために芋の買い出しで頑張ったのだ」と懇願して,ひたすら「Bitte ! 」「Bitte!」をくり返した,という。「Bitte」というのはドイツ語で「お願い」という意味だ。しかも,発音の仕方によっては,懇願のことばとなる。そうして,本人ではくて,友人がやってきて「懇願」したことが認められて,単位は追認され,めでたく卒業ができ,そして,東大の理学部の数学科に進学することができた,とのこと。当時の一高には「Bitte制度」というものがあった。これは「制度を超えて,人間を救済する素晴らしい<制度>である」と。
 この話には,もう一つの後日談がある。宇沢さんがシカゴ大学(だったと記憶する)で経済学の先生として教鞭をとっていたころの話。宇沢さんの信念として,教育は試験によって生徒の成績を点数化してはならない,というものがあったので,学生たちに「単位が欲しい者は言ってきなさい。いつでも単位を認定します」と公言したものだから,学生さんたちの多くは単位だけもらって,授業にはこない,ということが起きた。宇沢さんとしては,勉強したい者だけを相手に授業をやりたいので,この方が好都合であった。しかし,これが学内で問題となり,教授会でも議論となった。そのとき,まだ若いがとても切れる先生として評判だった人が立って,「宇沢先生のやっていることは,職務放棄に値する。したがって,免職に相当する,と考える。しかしながら,宇沢先生のやっていることは,こうした法規を超える,立派な行為でもある」と発言し,宇沢先生の単位認定は認められることになった,という。
 こんな秘話がもう一つあるのだが,あまりに長くなるのでそれは割愛する。
 こういう話をしながら,宇沢さんは,「社会的共通資本」という発想の原点になる,身近な傍証を提示し,この概念の重要性について,あちこち話を脱線させながらも,とつとつと語ってくださった。こうして,人間の生存にかかわる重要な財産,つまり,人類の生命を維持していく上で不可欠の,人類みんなが共有している財産については,「社会的共通資本」として,他の「資本」とは別に管理・運営をしていくことが,これからの人類に共通の課題である,と力説される(ことば足らずは,『社会的共通資本』を読んで補ってください)。
 制度は人間のためにあるものであって,人間が制度の犠牲になってはいけない。資本主義は絶対ではない,ということはこれまでの歴史過程をとおして明らかになっている。だとしたら,この資本主義を止揚できるような,新たな救済「制度」を創案するしかない。そのために,案出された概念が宇沢さんの提唱される「社会的共通資本」という考え方である。
 「嘘をつきなさい」,ただし「人を幸せにする嘘を」。一高の「Bitte」制度。宇沢さんの単位認定の姿勢。その他,もろもろの素地が積もり重なって,「社会的共通資本」という概念に結集していくことになる。
 その学問的な(経済学的な)経緯については,岩波新書の『社会的共通資本』を熟読玩味して,確認してみてください。じつに濃密な文章でつづられていて,考えさせられることが無尽蔵にある,とわたしは感じました。初版は2000年11月。2010年2月には11版を重ねている。この名著の存在すら知らないできた我が身の不勉強を羞じるのみである。
 『始まっている未来』(岩波書店,2010年)についても,いずれ,とりあげてみたいと考えている。未来が見えなくなってしまって,絶望の縁に立たされている,と思っていたが,そうではない曙光がそこに見えてくる,そういう希望と勇気を与えてくれる名著である。内橋克人さんとの対談。
 Lesen Sie, Bitte!

2010年10月16日土曜日

「宇沢弘文と語る」を聴講して

 西谷修さんが仕掛けた「宇沢弘文と語る」経済学から地球環境,日米安保・沖縄まで,というこれは対談なのか,独演会なのか,よくわからない不思議な,でも,じつに刺激的な会を聴講してきた。なぜか,とても満ち足りた時間をすごすことができて,大満足。
 「嘘をつきなさい。人びとを幸せにする嘘を沢山つきなさい」とわたしは教えられました。いきなり,こんなことばが宇沢さんの口から飛び出してきて,度胆を抜かれる。いろいろの事情があって,旧制中学の4年生のころに,新潟の禅寺(曹洞宗)に身を寄せることになったそうである。そして,そこの禅寺の住職が,晩飯になると宇沢さんを呼んで,一緒に食事をしようと誘ったという。しかも,とても立派な食事とお酒も用意されてある。まだ,未成年なのに,ごく当たり前のようにして,一緒にお酒もご馳走になる。そういう禅寺の坊主が,宇沢さんを相手にいろいろの話をしてくれる。そのなかの話の一つが,冒頭に引いた「嘘をつきなさい」というものだったそうである。
 このことばが,いまから考えるとわたしの経済学の考え方の根源になっているような気がする,とおっしゃる。誤解されるといけないので,もう少しきちんとした説明をしておく。ここでの力点は,「嘘をつきなさい」ではなく,「人びとを幸せにする」というところにある。「嘘」と言ったのは,ひとつの方便で,学問もまたひとつの「嘘」の範疇に入るものなのだから,という意味である。学問といい,科学的知見といい,宗教の教義といい,それらはどこまでいってもひとつの「仮説」にすぎない。つまりは,「嘘」の一種なのだから,どうせ「嘘」をつくなら「人びとを幸せにする嘘」をつきなさい,というのである。
 宇沢さんが数学を専攻しながら,独学で経済学に向かうときの引き金になったものが,「人びとを幸せにする嘘」だった,というようにわたしは受け取った。人間はひとしく生きる喜びを味わう権利をもっている。お互いの魂と魂が触れ合うような喜びを分かち合う権利をもっている。その権利を保証するための学問の一つが経済学ではないのか,と。つまり,生身の人間として生きる喜びを保証すること,これが経済学の使命ではないか,と。
 断わっておくが,宇沢さんがこのようにおっしゃったわけではない。あくまでも,宇沢さんのおっしゃった「嘘をつきなさい」という話のコンテクストを受け止めながら考えたたわたしの,かなり牽強付会ともいうべき解釈である。しかし,この「嘘をつきなさい」,ただし「人びとを幸せにする嘘をつきなさい」が,やがて,宇沢さんがのちに声を大にして提唱なさる「社会的共通資本」という概念の基礎になっている,と受け取った。
 
 『社会的共通資本』(宇沢弘文著,岩波新書)という本の存在すら,不勉強なわたしは知らなかった。が,いつものことながら,ありがたいことに西谷さんから,今回のこの企画の話を聞き,その話の流れのなかで『社会的共通資本』という名著があることを初めて知った。そして,この概念がきわめて魅力的なものであることも,西谷さんのお話をとおしておぼろげながら理解できた。ので,早速,本屋さんに走ってこの本を購入してきた。正直に告白しておけば,同じ,岩波新書の棚に,『自動車の社会的費用』『日本の教育を考える』『地球温暖化を考える』などの宇沢さんの本を見つけ,これらも購入した。
(未完)

谷議員,柔道引退へ・・・・だって!?

 今日(15日)の朝日の夕刊トップに「谷議員,引退へ」という大見出しの記事が載っている。こんなことが朝日の夕刊のトップ・ニュースになる日本とは,いったい,どういう国なんだろうか,と頭をかかえこんでしまう。
 そう思いながら,ニュースらしいニュースを探してみたら,ほとんどない。夕刊は,わたしの知らない間に,完全なるタウン情報誌と同じレベルに堕している。それでもと思ってニュースを探してみる。あるある。ギリシアでは,ギリシア文化省の契約職員約200人が,最長22カ月分の賃金未払いと一時解雇を不服として,アクロポリスを占拠して立て籠もり,武装警官らが催涙ガスなどを使って強制排除した,と。そのすぐ下に,小さく「人事が最大焦点,5中全会始まる」という見出しで,中国共産党の第17期党中央委員会第5回全体会議(5中全会)が15日,北京で始まった,と。なぜ,人事が最大焦点になるのかは書いてない。そして,さらに小さく「核廃絶決議案を提出」という一番小さな活字の見出しで,日本政府は14日,核廃絶を訴える決議案を国連総会の第一委員会に提出した,と。同じく,一番小さい活字の見出しで「名護で島サミット」とあり,わずかに25行の説明。これでは日本人がますます国際オンチになっていくのは当然だ。
 メディアが内向きになってしまった,という印象はもうしばらく前から気になっていたことだ。もっとも早かったのは,女子バレーボールの世界選手権大会を放映したテレビ。日本のアイドル的存在の女子選手ばかりをアップにしてカメラが追いかけ,相手チームの選手の顔も,戦術も技術もまったく映像としては流れてこない。もはや,バレーボールの試合展開はどうでもいい,といわぬばかりに。ただ,得点だけは特別扱い。この構図とほとんど変わらない。今日の夕刊記事。
 したがって,あとは,インターネットで国際的なニュースを探してみる。あるある。世界では驚くべきことがあちこちで起きている。こちらは自分で拾い読みすることができるので,とても助かる。どうでもいいニュースは飛ばせばいい。
 さて,谷議員の柔道引退ニュース。これだけ大きな紙面を割きながら,みるべき内容はなにもない。なぜなら,すでに,インターネットでさんざん流れていたものをまとめたものにすぎないからだ。しかも,一夜漬けの整理にすぎない。こんな記事ならだれでも書ける。新聞でなければ書けない情報というものがあるだろう。谷議員の身辺をもう少しまじめに取材して記事を書けば,なるほどと思わせるだけの記事になるはずだ。インーネットで流れる情報とは異なる記事を発掘して書かないと,新聞の意味はない。
 書いてほしい記事とは,たとえば,議員とナショナル・チームの選手強化とを両立するために,谷議員はいかなる努力をしてきたのか,これがまったくない。そして,議員という職業はナショナル・チームの選手としての活動と両立できるものなのか,どうか,という一般国民の疑問がある。それに対する記者としての見解(あるいは,新聞社としての見解)や,識者たちの見解を知りたい。わたしは,個人的には,どちらか一つしかできるわけがない,という立場だ。ナショナル・チームの強化選手として活動するだけでもたいへんなことだ。いってしまえば,命がけだ。国会議員だって,命がけで取り組んでもらいたい。ましてや,一年生議員だ。おまけに,政治家としてはまるまるのド素人だ。勉強しなくてはならないことは山ほどあるはずだ。にもかかわらず,オザワ君は「まことに残念」という談話を発表している。もっともっと柔道で活躍して,オザワ君の宣伝塔になってほしい,ただそれだけ。いざというときの「一票」であれば,それでいい。それだけの話。
 さて,柔道でドラマを生み出さないとなると,もはや,谷議員の価値は半減どころか,なにもない。たんなる「1」という数だけの存在になってしまう。いやはや,こういうたんなるスポーツ・タレントに投票した人たちの顔がみたい。
 そこにいくと,高橋尚子は偉い。出馬を要請されたときに,きっぱりと断わっている。その談話がみごとだった。「わたしは政治の勉強はしたことがありません。そんな人間が立候補することは,政治をまじめに勉強してきた人に対して失礼です。わたしは駆けっこなら,いくらか人の前に立って話をしてもいいかな,と思っていますが・・・」と言っている。マラソン・ランナーとしての誇りと自覚をはっきりともっている。これでなくてはいけない,とわたしは考える。
 かつて,谷議員が大学院に在籍していたころ,わたしの授業に登録していて,ほとんど出席していないのに,単位を認定したことが恥ずかしい。もちろん,単位認定のために「特別課題」を出して,それなりの努力はしてもらいましたが・・・・。
 いやはや,驚くことばかりが多い,今日このごろです。

2010年10月14日木曜日

『レッスンする人』語り下ろし自伝,を読む。

 竹内敏晴さんが逝って,もう,一年余がすぎた。早いものである。まだ,ついこの間,握手したばかりなのに・・・という印象の方がつよい。とてもやわらかな手のひらの感触が忘れられない。
 その竹内さんの「語り下ろし自伝」が藤原書店から刊行された(2010年9月30日)。へぼ用があって,なかなか読むことができなかったが,今日,一気に読んだ。これまで断片的にしか知られていなかった竹内さんの生涯の前半生が,詳細に語られていて,万感,胸に迫るものがあった。やはり,すごい人生を生きてこられた方だなぁ,としみじみ思う。こういう方と親しくお話をさせていただけたことが,なんだか夢のようである。
 わたしとは13歳違いなので,わたしが生まれたとき,竹内さんは13歳だったことになる。そう考えるとなんだかとても近しい人に思えてくるから不思議だ。でも,この13年という年齢差は大きい。だから,同じ時代を生きたにもかかわらず,もちろん,人生の経験知はまるで異なる。とりわけ,第二次世界大戦が終わるまでのことは,わたしにはほとんど記憶がない。それでも,国民学校2年生の夏が玉音放送のあったときなので,戦争前後のことはいくらか記憶がある。しかし,それもほんの断片的なものでしかない。
 竹内さんは,この本のなかで,生い立ちから20歳で敗戦を迎えるまでの歳月のことをじつに詳細に語っていらっしゃる。ほぼ,3分の2は,この部分に充てる熱の入れようである。お蔭で,わたしには,昭和史の最初の20年間がどういう時代であったのかがよくわかってきて,とても助かることが多かった。竹内敏晴という特殊個の生い立ちをとおして,生きた,なまの昭和史を垣間見ることができた。幸いにも,竹内さんは昭和元年(1925年)のお生まれなので,昭和の年号がそのまま実年齢と重なっていて,とてもわかりやすい。
 たとえば,東京オリンピックが開催された1964年は昭和39年,竹内さんは39歳だったということがすぐにわかる。そうか,わたしが26歳で,まだ職がなくてうろうろしていたころ,竹内さんはもう立派な演出家として名をなして,大活躍をされていたんだなぁ,とわが身に引き写しながら竹内さんのことを考えることができる。とりわけ,戦後のことは,わたしも同じ空気を吸いながら,時代と向き合って生きてきたわけなので,他人事とは思えないことも多い。
 しかし,この「語り下ろし自伝」を読んでみて,やはり,この13歳の年齢差の大きさを感じないではいられなかった。それは,やはり,なんといっても20歳で敗戦を経験することの含み持つ意味の重さである。竹内さんご自身もこのことへの強烈なこだわりがあって,このモチーフは何回も繰り返されて回想されている。つまり,一夜にして,皇国臣民として培ってきたものが「無」と化し,まったくあらたな民主主義を標榜する国家の国民となることが義務づけられることになったのだから。もしかりに,それらの大転換を理性の力で乗り越えることができたとしても,「からだ」に刻み込まれた記憶は,そうはかんたんに消し去ることはできない。そういう「からだ」を引きずりながら,その「からだ」の上に新たな約束事を刻み込まなくてはならないのだ。これは容易ではない。
 20歳で敗戦を迎えた青年にとっては,それまでの人生をとおして培ってきた生きる指針が「無」と化してしまったのだ。つまり,理性とは別の「からだ」に刻み込まれた記憶までもが否定されてしまったら,人間はどうやって生きていけばよいのか。これが竹内青年の「敗戦」をとおして向き合った「難題」(エポケー)であった。つまり,すべては「0」となってしまったのだ。その「0」(ゼロ)からの出発ということについて,竹内さんは相当のページ数を割き,熱いことばを吐き出している。同じ「0」からの出直しにもいろいろの位相があるということを具体的な例を挙げて,語っていらっしゃる。しかも,そのいずれの生き方にも与することはできなかった,と。
 そこで,最終的に竹内さんがつかみとった方法が,みずからの「からだ」が納得する道を探求すること,そこに「信」をおくこと,であったとわたしは読み取った。いくつものメッセージ性の強いことばが随所に散りばめられているので,そのどれを取り上げても「正解」なのだろうとおもう。しかし,わたしの読解はここに行き着いた。
 「からだ」は嘘をつかない。「こころ」も「理性」もいざとなれば嘘をつく。しかし,「からだ」だけは嘘がつけない。この真実に,竹内さんは,みずからの耳の病との闘いをとおして気づく。少なくとも30歳代にいたるまで,常時,難聴。その間,まったく聞こえなくなる時期も相当に長い。音が聞こえない,ことばが聞こえない,ということがどういうことを意味していたのか,と後年,考えつづけていらっしゃる。音声が聞こえない不足を,わたしは「眼」で補ってきたのかもしれない,と回顧されている文章がわたしには強烈だった。そして,初心者にもかかわらず,剣道でも,フェンシングでも,相手の「空き」の部分がたまたまみえたので,そこに手を伸ばしただけだ,しかし,手を伸ばしただけのつもりなのに「からだ」全体が動いている,そういう自分の「からだ」はなんなのだろうとみずからに問いかける。「からだ」には,わたしが気づいていない未知なる部分が,あるいは,潜在能力のようなものが,無尽蔵に蓄えられていることに気づく。
 竹内さんは,あるとき,「主体的なからだ」を発見した,とおっしゃる。たしか,「身体」論をとことんつきつめていって,メルロ・ポンティの理論に出会ったころと記憶する。この「主体的なからだ」は,世間一般に言われている「主体的なからだ」とはまったく正反対のものだ。竹内さんがおっしゃる「主体的なからだ」は,いわゆる,理性によってコントロールされた「からだ」ではない。「からだ」そのものが「主体的」に判断し,行動を起こす,という意味だ。だから,そのヴェクトルは正反対。理性のコントロールが排除されればされるほど,「からだ」は主体的に反応をはじめる。ここに竹内さんのおっしゃる「出会い」の場があり,「じか」の場がある,とわたしは受け止める。この点については,23日の名古屋例会で,もう少し踏み込んでお話ができれば・・・と考えている。
 こういう嘘をつかない/つけない「からだ」と向き合うことによって,竹内さんは,だれにも騙されない,だれにも利用されない,自己の「立ち位置」(スタンス)を確立していく。それが,戦前の自己の「身体」との決別でもあったのだろう,とわたしは推測する。竹内敏晴略年譜によれば,戦後間もない21歳のとき「自死をはかるが発見されて果たさず」とある。わたしの全身に鳥肌が立つ。竹内さんにとって,「0」からの出直しは,それほどの困難をともなっていた,ということを知る。ここを通過することによって,竹内さんは「魯迅」との出会い(竹内好の講演をとおして)があり,理科から文科への転身をなしとげる。東大文学部では東洋史を専攻。竹内さんの「第二の人生」がはじまる。まさに,180度の転換を余儀なくされる「0」からの出発であった。
 竹内さんの最後の公演となった三鷹での舞台は,「民主主義」がテーマだった。詳しいことは割愛するが,竹内さんにとっては,「民主主義」とはなにかという問いが最後の最後まで,終わることのない「問い」として残ったのだろう,とわたしは推測する。そして,その苦渋・苦悩が,わたしには痛いほど伝わってきた。インディアンの仮面の話が,この本のなかにも登場するが,わたしは「仮面」とは別の,もう一つのメッセージをあの舞台から受け取っていた。アメリカの民主主義は,先住民であるインディアンの人びとの生活を否定し,しかも,ほぼ全滅させるというとてつもない「犠牲」の上に成り立っている,という事実をわたしに想起させたからだ。
 このさきに触れなくてはいけないことは,竹内さんがおっしゃる「真実」と「事実」の二つが分離していった,という「敗戦」の経験だろう。この問題についても,23日に名古屋で,お話をさせていただこうと思っている。
 竹内敏晴さんから学ぶことは多い。わたしは,まだ,そのほんの入り口に立ったにすぎない。耳の病と折り合いをつけながら(そんな単純な話ではないのだが),浦和中学から一高・東大へと進学。敗戦のときには一高の寮の委員長として「学生の動揺防止と翌日の行動の組織に当たる」,そういう竹内敏晴さんの若き日の情熱が,わたしには痛いほど伝わってくる。そことの「決別」,それが,竹内さんの「0」からの出直しだった。
 「人間!」とひとこと力強い声で発したときの,竹内さんのあの響きわたるパワーはどこからくるのか,これからのわたしの課題である。このことは,まもなく刊行される予定の『環』(藤原書店)にも小文を寄せたので,そちらでも確認してみていただきたい。
 では,23日に名古屋でお会いしましょう。

2010年10月12日火曜日

鼎談の収録が,なんとか無事に終わる。

 昨日の午後4時に,久しぶりに,今福さん,西谷さんとわたしの3人が揃って顔を合わせた。ある雑誌の企画による鼎談を収録するために。
 この3人でお話をするのは,これで何回目だろうか。あまり定かではないが,記憶に残っているものだけでも7回目のはず。来年2月11日には,柏木さんの能面展に合わせて,この3人でのトーク・ショウが予定されている。ということは,それで第8回目になる。
 今福・西谷の両氏はどのようにお考えかはわからないが,わたしにとっては,まことに身に余る光栄である。だから,わたしのこころの中には,いつも,一種独特の緊張感が走る。そして,数日前から,徐々にボルテージが上がりはじめる。ところが,今福さんも西谷さんもとてもやさしいこころの持ち主なので,実際に顔を合わせてみると,けして,わたしにプレッシャーとなるような態度もことばもない。きわめて自然体で,あるがままそこにいらっしゃる。とても温かい空気が流れはじめる。それがまたとても心地よい。
 というわけで,2時間ほどにわたる鼎談の収録はなんとか無事に終わる。11月号として刊行される雑誌なので,このあとの原稿の修正,ゲラ校正などのタイム・テーブルはきわめてタイトである。それを言い渡されて,解散。
 で,なんと,今日の午後には,鼎談の内容が編集された原稿となって,メールで送信されてきた。夕方までには送信の予定,と聞いていたが,どうせ,深夜になるだろう,くらいのつもりで受け止めていた。が,そうではなかった。やはり,プロの編集者の凄腕というべきか。気合からして並みではない。恐るべし。
 で,その内容は,いずれにしても11月号で明らかになるので,そちらでご確認ください。刊行されたら,また,このブログでお知らせします。
 とりあえず,それだけの報告まで。

 以下は付録。
 今福さんから本のプレゼントがあった。ご紹介したい。
 叢書・群島詩人の十字路『マイケル・ハートネット+川満信一詩選』(今福龍太編,サウダージ・ブックス,2010年9月刊)。新書判サイズで106ページという小型ながら,なかなか瀟洒な本に仕上がっている。あちこち拾い読みしながら,今福さんが仕掛けつつある壮大な構想の一部が,ひしひしと伝わってくる。この人はいったいなにを考えているのだろうか,と。
 ご縁というものは不思議なもので,川満信一さんとは,西谷さんの集中講義の追っかけをして沖縄に行ったとき(精確には9月18日の夜),やはり,西谷さんと一緒にお会いしている。それも,写真家の大城弘明さんの出版記念パーティとその二次会で。穏やかな笑みを絶やさない,ほんとうにやさしい温かいハートがそのまま表出している人,というのがわたしの川満さんについての第一印象である。その人の詩集を,今福さんからいただくことになるとは・・・。
 内容については,これからのお楽しみ。川満さんの略歴をみて,それだけで,うーんと唸ってしまった。わたしより6歳先輩だが,その生きざまに圧倒されてしまった。沖縄タイムスの新聞記者をしながら詩作にはげみ,かつ,沖縄という情況を真っ正面に見据えながら,組合活動にも熱心にとりくみ,みごとな実績を残していらっしゃる。
 興味のある方は以下のホームページでご確認ください。
 http://saudadebooks.jimdo.com/
  saudadebooks@gmail.com
 以上。
 

2010年10月9日土曜日

ふたたび「強制起訴」について。

 昨日というか一昨日の深夜に,眠い目をこすりながら書いたブログを読み返して,ことば足らずの説明に冷や汗を流してしまいました。これは「まずい」と反省していたら,今朝の朝日の「耕論」(オピニオン)で「強制起訴」をとりあげ,3人の論者の見解を紹介していました。この人たちの意見を熟読しながら,もう一度,わたしなりの考えを整理しておく必要があると痛感しましたので,しつこくも,もう一度,「強制起訴」について,という次第です。
 3人の論者の主張は,新聞の見出しのまま転載すると,佐藤善博さん(弁護士)の「冤罪防止には問題ある制度」,大出良知さん(東京経済大現代法学部長)の「推定有罪の現状覆す好機」,そして,立花隆さんの「民意は検察権力の上に立つ」というものです。これらを読みますと,それぞれの立場がはっきりしていて,その立場に立つとそのようにみえてくる,ということが理解できて,わたしにはとてもいい勉強になりました。なぜなら,その人の立ち位置によって,この検察審査会に対する見方・評価は異なる,ということがわかったからです。となると,では,わたしはどういう立ち位置にいるのか,つまり,ひとりの人間として,あるいは,ひとりのスポーツ史・スポーツ文化論研究者として,どのようなスタンスをとるのか,ということが問われていると理解できたからです。もっと言ってしまえば,その人の思想・哲学がいかなるものなのか,ということが剥き出しになる(露呈される),と言ってよいでしょう。
 佐藤善博さんは,『痴漢冤罪の弁護』という著書も書いていらっしゃるように,痴漢という冤罪問題を専門に弁護士活動を展開されてきた方です。その立場からは,「冤罪防止」という点では「問題ある制度」だとおっしゃっています。そして,大出良知さんは,裁判員制度もふくめて市民参加の司法制度改革を推進してこられた方ですので,今回の「強制起訴」は,まさに,これまでの司法制度を「覆す好機」というように主張されています。最後の立花隆さんは,ご承知のように『田中角栄研究』という著書もある,いうなれば,政治権力者の裏側の事情に精通された方です。そして,きわめて冷静に今回の「強制起訴」を受け止めつつ,「民意は検察権力の上に立つ」という大原則を提示されています。わたしとしては,立花隆さんのおっしゃる主張にもっとも強くこころが動かされました。前半の原則論は,わたしのような素人にもわかりやすく,しかも深い内容で,これは新聞で確認してみてください。で,その最後のところにズバリと,つぎのようにおっしゃっています。
 「事件のポイントはただ次の一点にかかわる。政治資金収支報告書の不実記載は全部小沢の秘書たちが勝手にやったことで,小沢は何も知らなかったのか否かである。強制起訴の議決がいうように,小沢が何も知らなかったはずがないという証拠と傍証は山のようにある。これは起訴しないほうがおかしい。あとは本気でやる気がある弁護士たちが検察官を代行し,補充捜査をたっぷりしたうえで裁判にのぞむことだ。」
 この立花さんの主張に,わたしも諸手を挙げて賛成です。
 で,このことを明らかにした上で,昨日のブログの補足を少しだけさせていただきます。
 アメリカの制度をそのまま日本に移入することの是非をどのように考えるか,というのが,じつは昨日のブログで言いたかったことの核心部分です。
 拳銃をもつことが州によっては許されているそういう国家,つまり,自分の命は自分で守ることを当然の権利として主張し,しかも,それが許容される国家,もっと言ってしまえば,自己責任という意識がきわめて強い人たちが圧倒的多数を占める国家,それがアメリカという国家です。だから,かの国の人びとは,道路を歩いていて転んで怪我をしたら,すぐに裁判を起こして,道路に穴ができていたのを放置しておいた自治体の責任だと主張して,補償金をゲットするのが,ごく当たり前のこととして行われている,とうわけです。そういう国民意識に支えられた国家の「裁判員制度」や「検察審査会制度」を,そのまま,なにかにつけて自己主張という点ではウブな日本人の社会に導入してしまっていいのか,というのがわたしの言いたかったことの主要な部分です。つまり,このような制度を日本の社会に持ち込むのであれば,それなりの備えが必要ではないか,ということです。もう少し補足しておけば,段階的に導入する,という方法もあったのではないか,と。
 小学校から「英語」を教えるという制度改革も同様です。どこぞの企業のように,株主総会を英語でやる,というような珍現象まで起きています。
 このままいくと,日本は,まず,間違いなくアメリカ国旗である「星条旗」の第51番目の「星」に加えられてしまうのではないか,とわたしは憂えているのです。どうも,星条旗の星の数を増やすということをゴールとする大がかりなアメリカの「戦略」が極秘裏に展開されていて,日本はまんまとそのターゲットにされているのではないか,と危機感すら感じています。中国はやり方が稚拙なので,丸見えになっているため,中国への危機感を抱いている人は多いとおもいます。しかし,それよりも恐ろしいのは,気づかないうちに取り込まれてしまう,という絶妙なテクニックです。
 「検察審査会」そのものの存在や,その機能のさせ方を否定するつもりはまったくありません。ただ,こうした制度導入が,日本の「アメリカ化」につながっていく,亡霊のような意図が感じられる,その点が心配だ,という次第です。
 まあ,この問題をきちんと説明するには,もっともっと多くを語る必要があるとおもいます。が,どうか,わたしのほんうとの意とするところをご賢察くだされば幸いです。

 ※再度のお詫び。「冤罪」の間違いでした。正直に告白しておきます。わたしがこの漢字を間違えたまま覚えてしまった,という恥ずかしい話です。ですから,パソコンでいくらキーボードを叩いてもでてこない。パソコンの方が賢いということ。なんともはや恥ずかしいかぎりです。お詫びして訂正させていただきます。冷や汗,タラタラ。この誤りを内緒で教えてくれた友人に感謝。

2010年10月8日金曜日

「小沢強制起訴」に踏み切った検察審は大丈夫か。

 10月5日の朝刊はどこも1面トップで「小沢強制起訴」をかかげて,検察審査会が起訴に踏み切る審査の流れを詳細に伝えた。そして,朝日は「法廷決着 市民が選択」と小見出しをつけて,編集委員が実名で「解説」をしている。
 現行制度になんの疑問も呈することなく,さも当たり前のごとく検察審査会の結論を受け止め,こんごの展開に議論が滑っていく。わたしは,まったく別の次元で,とても不安で仕方がない。はたして,検察審査会のくだした結論はこれでよかったのが,いったい,どのような基準で委員の人たちは判断をくだしたのか,まことに居心地が悪いのである。なぜなら,もし,わたしがこの委員に任命されていたとしたら,どうしただろうか・・・・と。
 それは裁判員制度についても同じだ。この制度については,恥ずかしながら,ことしの5月に開催された日本記号学会のシンポジウムで,その実際の手順というものをかなり詳細に知ることができた。不勉強を恥じるのみだが・・・。しかし,じつは,この詳細を知る前から,裁判員制度なるものを日本に持ち込んできて,大丈夫なのか,という基本的な疑念があった。いやいや,正直に告白しておこう。裁判員制度は日本には不要である,とわたしは考えていた。
 なぜなら,アメリカで有効だから日本でも有効であるはずだ,というこの断定の仕方がそもそも間違っている,と考えるからだ。アメリカと日本とでは,なによりもその歴史が違う。したがって,その文化も違う。もちろん,宗教も違う。ことばも違う。ということは,人生観も世界観も,アメリカと日本とではまったく違う。なのに,アメリカにとってとてもいい制度だから日本もおやりなさい,と言われて「はい,そうですか」と言って,そのままそれを移入・受容した日本政府(自民党政権時代の政府)は,いったい,なにを考えている/いたのか,とわたしはかねてから疑問に思っていた。そんな制度はいらない,と。
 もう少し踏み込んでおこう。アメリカという国がどういう歴史過程をへてこんにちに至ったかを,ほんの少し考えるだけで答えはでてくる。だれでも知っているとおり,1776年に独立宣言をして,国家として承認されたのは1783年である。以後,短期間のうちに世界のあちこちから「移民」が流れ込み,その人たちが「国民」となった。この人たちが集まって,智慧を出し合い,まったく新しいルールをつくったのである。それには初手から,みんなで相談をし,合議を重ね,ようやくにして合意に達する,という方法しかなかったのだ。たとえば,移民した人たちの子弟のための学校をつくるにしても,みんなでお金を出し合い,土地を購入し,教育の方針や教育内容まで話し合い,それを引き受けてくれる先生を雇い入れる,というところからはじまった国である。だから,争いごとが起きたときも,それをどのようにして裁くかは,互選で選ばれた(あるいは,抽選で選ばれた)住民代表にゆだねることからはじまった。すなわち,裁判員のはじまりである。裁判所の制度が整うのは,そのあとのこと。だから,裁判所ができ,専門家の裁判官が養成されたのちも,住民代表の裁判員という制度は残ったのである。
 このような裁判員制度を,なぜ,日本に導入しなければならなかったのか,その必然性はまったくなかった。にもかかわらず,その制度が「政治」の独走で,あれよあれよと思う間に決まってしまった。それを見過ごしたわれわれの責任でもあるのだが・・・・。
 そして,こんどは検察審査会である。あの「検察」が立件不可能と判断した(それも2回にわたって)小沢問題を,まったくの素人集団(平均年齢30数歳)である審査員により,11人中8人以上の委員の賛成があって強制起訴が議決されたという。
 大阪地検特捜部の大失態は論外だが,こちらの検察審査会の「判定」もまた,まったく逆の「権力」が出現したかのように,わたしの目には映る。これはこれでまた新しい「暴力」装置の誕生ではないか,と。
 この問題については,西谷修さんも即座に反応され,10月5日のブログで書いていらっしゃるので,ぜひ,読んでいただきたい。わたしのような浅知恵と違って,もっと本質的な問題の指摘をなさっている。題して「セーラムの魔女狩り」? 小沢強制起訴について。
 わたしは,小沢一郎という政治家に対してけしていい印象をもっているわけではないが,この決定によってひとりの政治家の命運が決せられることは間違いない。もし,万が一,郵政問題のように,裁判の結果,小沢一郎さんが「無実」となったとしたら,ムラキさんのような復職は不可能だろう。もう,すでに,朝日新聞は社説で「自ら議員辞職の決断を」と書き立てている。まるで犯罪者扱いである。こうして,犯罪者はつくられてしまう時代なのだ。
 検察審査会の判定も,たぶんに,メディアの影響を強く受けた結果ではないかとすら勘繰りたくなってくる。いまや,メディアほど恐ろしい「暴力」装置はない,とわたしは恐れている。
 いやはや,くわばら,くわばら。

2010年10月6日水曜日

金木犀の薫香に酔う。

 数日前から金木犀の薫香があちこちで漂うようになり,いよいよ秋が深まっていくなぁ,と感慨一入。一部で紅葉もはじまった。それにしては,からだはまだ暑い夏のままなのだが・・・。
 このギャップが,体調をくずす原因になっている。電車の中は,マスクをする人が急増している。わたしの身近でも体調をくずしている人が多い。ここは注意して,上手に乗り切るにこしたことはない。なにを注意するのか,とよく聞かれる。簡単。自分のからだの声を聞け,と。からだはいつでもサインを発している。そのサインに気づかないでいると,事態は悪化する。初期のサインに気づけば,あとは簡単。からだが喜びそうなことをすればいい。
 わたしの場合にかぎると,まず最初のサインは「眠気」となってやってくる。ふだんとはまったく違うタイミングで「眠気」が襲ってくる。ふだんであれば,昼食後には,まず,間違いなく「眠気」がやってくる。このときは,素直に,30分ほど仮眠をとる。それで,すっきりする。これを無理して頑張ると,居眠りをしながらの読書となり,ほとんど頭には入らない。しかも,苦痛。それよりは,さっさと仮眠をとって読書にとりかかった方がはるかに気分がいいし,能率的。が,そういうレギュラーではなく,驚くようなタイミングで「眠気」が襲うことがある。これは,わたしの場合には,かなりの要注意。まず,どうしてか?と考える。かならず,なんらかの理由・原因がみつかる。その多くは生活のリズムの狂いにある。それをまずは矯正することにつとめる。つまりは,睡眠時間,食生活,運動量,人間関係・・・・。要するに生活の基本構造に狂いが生じているということ。
 ここをきちんとしておかないと,つぎの段階のサインがきたときには,かなりの手遅れとなる。わたしの場合に多いのは「頭痛」。これがきたら,相当に真剣に考える。ときには,低気圧の接近という場合もある。あるいは,雷雲発生という場合もある。つまり,気圧の変化による。これは,母親ゆずりの遺伝子の問題。母親はもっと敏感で,翌日の天気まで当てた。こどものころにはラジオの天気予報よりもよく当たり,われわれこどもたちから絶大なる信頼をえていた。わたしの頭痛はそこまでの鋭さはない。ただ,いつもとは違う「鈍痛」がやってくると,これはもう全身全霊で,そのサインに向き合うことにしている。すると,長年の勘のようなものがはたらいて,どう対応すればいいか,その方法もみつかる。
 もうひとつの大事なサインとして重視していることは,朝起きて顔を洗うときに,鏡に写る己の顔をしっかりと観察すること。こちらも長年とりくんできた成果か,顔の表情とからだの状態との因果関係は,かなり的確に把握できる。この段階で,きちんと自分の体調を把握できていれば,それに逆らわないように,上手に対応すればいいだけの話。上手に把握できないのは,二日酔いの朝の顔つき。こちらは,いまだに,千差万別。わけがわからない顔になる。ということは,もう,どうしようもない状態だから,水分をたくさんとって,できるだけボンヤリとすごすこと。
 それもこれもリタイヤして,毎日サンデーを確保できるようになったからこそ,いかようにも対応ができるという次第。現役のときには,どんな状態になっていようと,とにかく勤めにはでる。そこでの,からだとの折り合いのつけ方を,ずいぶんと工夫したものだ。この「ノウハウ」は,そんなに簡単ではない。
 ここからさきの話は「有料」です。知りたい方は,どうぞ事務所までお越しください。「有料」で,ご相談に応じます(笑い)。ただし,美女・美人は無料(真剣)。
 事務所の近くの植木屋さんの庭にある泰山木の葉が,いつのまにか上を向いて屹立している。そのために,いつもの光沢のあるつややかな濃い緑色ではなく,葉の裏側の薄茶色の産毛が剥き出しになっている。この木は,こどものころに住んでいた寺の広庭に一本だけあって,とても存在感のある,威厳のある木で,好きだった。だから,泰山木の葉が屹立して,葉裏をみせて薄茶色になると,秋がまたたくまに深まる,という記憶を呼び覚ます。
 もうすぐそこまできている秋の冷え込みに対して,わたしたちのからだは,まだ,夏の暑いからだのままである。ここにスキがある。ことしは,とりわけ,寒暖の格差が大きいし,短期間にやってくる。植物は,だれに教えられることもなく,うまく季節に対応していく。できないのは,大脳の新皮質を過剰に発育させてしまった人類だけである。しかも,文明化社会にどっぷりとなじんでしまった人類ほど,自然との対応がぎこちない。あまりにも,マニュアルに頼りすぎ,頭で考えすぎ,科学文明に身をゆだねてしまって,もともと持ち合わせている「からだの声」に耳を傾けようとはしない。もったいないことをしている,とおもう。
 まあ,お互いに「気」をつけましょう。この「気」の動きこそ大事です。 

2010年10月5日火曜日

『キリストの身体』(岡田温司著,中公新書)を読む。

 「血と肉と愛の傷」というサブタイトルのついた『キリストの身体』を一気に読みました。いや,読まされました。途中でやめられなくなってしまう,そういう強烈なインパクトのある本でした。
 岡田温司さんとは,5月の神戸大学で開催された「日本記号学会」でお会いして,初めてご挨拶をさせていただきました。最初は,どういう人かわからずに,とにかく存在感のある人で,この人はどんな研究をしている人なんだろうなぁ,と気がかりになっていました。が,二日目の第二セッションのシンポジストでした。大阪大学の檜垣立哉さんとのトークが,それもとてつもなくテンポの早い,機関銃のようなことばの連発に,わたしなどはほとんどついていかれないほどのものでした。記号学会の人たちというのは,ああいうやりとりを日常的になさっているのか,といささかあきれてしまうほどのものでした。ですから,岡田さんのおっしゃることは,わたしにはほとんど理解不能でした。京都大学の美術史の先生の世界は,わたしには理解不能である,と。
 ところが,この本,『キリストの身体』は,じつにわかりやすい文章で,しかも,リズムがあって説得力があります。膨大な資料を渉猟した上で,それらをみごとに咀嚼して,まったく新しい視点から論を展開してくれる,それはそれはみごとなものです。しかも,図像がふんだんに散りばめられていますので,理解を大いに助けてくれます。まあ,だまされたと思って読んでみてください。
 まず,「はじめに」の冒頭の書き出しからして,わたしはノック・アウトをくらってしまいました。この鮮明な問題意識と切り口・・・。これは大いに参考にさせていただこうと思うほどのものです。それをまずは,紹介しておきましょう。
 「そもそも,いったいなぜキリストの身体なのだろうか。身体というのは,この宗教にとって,重要でも本質的でもないばかりか,むしろ忌避されるか蔑視されるべきものではなかったのか。大切なのは,身体ではなく精神,肉体ではなく霊魂ではないのか。そういう疑問の声が読者の皆さんからあがってくるのが,いまにもこの耳に届いてきそうである。だが,本当にそうなのだろうか。
 本書でわたしが示そうとしたのは,逆に,(キリストの)身体をめぐるイメージこそが,この宗教──とりわけカトリック──の根幹にあるということである。受難,磔刑,復活という出来事が,キリスト伝のまさにクライマックスをなすというのが,何よりもその雄弁な証拠であろう。ほかでもなくその身体は,西洋の人びとの,宗教観のみならず,アイデンティティの形成,共同体や社会の意識,さらには美意識や愛と性をめぐる考え方すらも根底で規定してきた,もっとも重要な契機だったといっても,けっして過言ではないのである。本書は,この西洋における根本的な問題に,五つの切り口からアプローチしようとするものである。」
 という調子です。この短い文章のなかに,この本の意図するところは言い尽くされています。もう,わたしから付け加えることはなにもありません。岡田さんという人は,こういう芸をもった人なんだ,とこころの底から感動しています。妙なアカデミズムを振りかざして,わけのわからない文章を書く,通称,立派な学者さんが多いなかで,そんなことよりなによりも,自分のなかに沸き起こってくる素直な疑問にそのまま答えを見つけ出していく,そのためにはありとあらゆる方法を用いていく,ある意味では子供のような感性に身をゆだねつつ,ことの本質に迫っていく,そんな岡田さんの姿勢にこころから敬意を表したいと思います。
 美術史の方法論というものについては,わたしはまったくの素人ですが,スポーツ史はもっともっとどん欲に新しい方法論を開拓していかなくてはならない,と岡田さんの本を読みながらしみじみ感じました。わたしも,かなり思い切った仮説を提示しながら,新しいスポーツ史研究の地平を切り開こうと,いまもどん欲に頑張っているつもりですが,まだまだ,とてもではないが足りない,と深く反省するばかりです。
 この本は,岡田さんのキリスト教三部作の「完結編」に相当するそうで,同じ中公新書から『マグダラのマリア』『処女懐胎』がでています。引きつづき,岡田さんの本の虜になりそうです。やらなくてはならないことが山のように待っているというのに,それでも,ほんのわずかなスキをみつけて読む本,この愉悦なしには,いまのわたしは生きてはいけません。また,ひとり,限りない愉悦をわたしに贈与してくださる方の登場というわけです。ありがたいことです。
 「キリスト教と近代競技スポーツ」は長年にわたるわたしの研究テーマのひとつです。岡田さんの著作をとおして,また一歩前進して,さらに踏み込んだ「近代競技スポーツ」批判ができそうです。いまや,キリスト教文化圏が世界を支配しようという勢いです。いや,もはや,完全に支配されつつある,というべきでしょう。そのキリスト教文化に秘められた,恐るべき鍵を,わたしは岡田さんからいただいたように思います。少し,本気で,スポーツ文化に及ぼしたキリスト教の影響について,言及していこうと,勇気づけられました。
 岡田温司さんにこころから感謝です。
 ありがとうございました。と同時に,いつか,もっと踏み込んだお話を聞かせていただきたいと願っています。その節には,よろしくお願いいたします。
 

2010年10月4日月曜日

朝青龍の「断髪式」のポスターから透けてみえてくるもの

 とても迷ったけれども,やはり,これは書いておこうと覚悟しました。それは,昨日の朝青龍の「断髪式」のポスターに書き込まれたコピーについて。
 まずは,ポスターを紹介しておこう。ポスターの上半分は,朝青龍の土俵入をアップにした写真,その下半分に以下のようなコピーが書き込まれている。
 大きく見出しのことば:「自業自得」
 そして,小さな文字でコピーがつづく。
 「俺はあと2年,大好きな相撲を続けたかった。
  10月3日午前11時。
  この日が相撲人生最後の日。運命の日。断髪の日。
  ほんとうは,あと2年。相撲をやりたかった。
  子供の頃からの憧れだった横綱。
  体も大きくないのに,一生懸命やったんだ。
  俺はやってきたんだ。
  でも。
  わがままをやりすぎたかな。
  まだまだやりたい夢があったのに。
  後悔先に立たずって言葉が骨身にしみる。
  日本のみなさん。
  今まで騒がせてばかりでごめんなさい。
  だから,もう,これが最後の日。
  ぜひ,見守ってください。
  ありがとう。
  日本のみなさん。ありがとう。」

 このポスターのコピーを読んで,みなさんはどんな感想をもたれたことでしょうか。わたしの気持ちは複雑です。朝青龍に初めて会ったときのことからはじまって,「You Tube」でみた「断髪式」の様子まで,さまざまな想い出がめまぐるしく渦をまいています。そして,朝青龍とはいったい何者だったのか,と。
 希代の名横綱にして,やんちゃ坊主。あの天真爛漫な笑顔から,仕切り直しの最後にみせるあの鬼の形相にいたるまで,さまざまな顔を,そのときそのときの感情のまま,素直に表出させる,丸裸の人間そのものとしての朝青龍。そんな剥き出しの,そして粗削りの人間・朝青龍が,わたしは好きだった。いまの世の中,あんな風に生きられる人はだれもいない。多くの人のないものねだりを,朝青龍はひとりで背負って立っていた。そんな朝青龍が好きだった。ひとりくらい,こういう生き方をする人間がいたっていいではないか。こういう横綱に対して「厳重注意」くらいのところでとどめて,泰然自若としていられるくらいの成熟した社会が,わたしは好きだ。日本相撲協会もそのくらいの度量が欲しかった。
 本題にもどろう。
 上記のコピー。わたしはしみじみと眺め,何回も読み返してみる。
 このコピーは,じつによく書けている,と思う。その拙さと巧みさが渾然一体となっていて,このコピーの文章そのものが朝青龍の個性とみごとに重なっていく。いかにも朝青龍らしい。その矛盾したところが。
 わたしの勝手な推量によれば,このコピーは最初に朝青龍が自分の思いの丈をありのまま書いて,それをもとにしてプロのコピー・ライターが手を入れたものではないか,とおもう。でないと,これだけ生々しいことばはでてこないし,素晴らしいリズムもでてこない。まことにぎくしゃくしていながら,それでいて,どこか訴える力をもっている。つまり,アマチュアとプロの技が渾然一体となった,不思議な迫力がある。いかにも,朝青龍らしい・・・というべきか。
 さて,このコピーを読んだ第一感は,やはり,朝青龍はモンゴルの人だったんだなぁ,ということ。日本に対しては,最後まで,ある一定の距離を保っていた。高校1年生で日本に留学してきているので,ことばも達者,そして,日本文化も知り尽くしている,日本人の情感もわかっている。優勝インタビューの受け答えのうまさをみれば歴然だ。しかし,それてもなお,日本人になりきることはなかった。そして,最後の一線はモンゴル人としての矜持だった。だから,モンゴルでは当たり前のことが,なぜ,日本では通用しないのか,と意図的に「やんちゃ」を振る舞いつつ挑発していたのではなかったか,とわたしなどは邪推する。でなければ,あんな,みえみえのやりたい放題をするはずがない。なぜなら,朝青龍その人はとても賢い人なのだから。
 「自業自得」というテーマの選択もみごと。これを言われてしまったら,日本人としては非難のしようがなくなる。なんだぁ,わかってんのか,と。そして,「ごめんなさい」と言われてしまったら,「いやいや,どうしまして」と言わざるをえない。この「ごめんなさい」も,性格が素直な,いかにも朝青龍らしい表現。自分が納得すれば,すぐに「ごめんなさい」と,まるで子供のように詫びを入れる。その代わりに納得がいかなければ,これまたやんちゃ坊主のようにゴネる。場合によっては,口だけではなく,手もでる。「わがままやりすぎたかな」などという表現は,いかにも本人のことばのように聞こえてしまう。しかも,「後悔先に立たず」とまで言わせてしまう。このコピーは,まことに稚拙にみえていて,しかも,みごとに完結している。
 朝青龍という人は,ほどほどの手加減ということを好まない人だった,とわたしは思っている。初めて,わたしが彼と出会ったのは,彼が高校一年生の秋。日本にきてまだ半年ほどのころ。なのに,すでに,日本語にはほとんど不自由していなかった。大阪で開催された「民族スポーツ・フェスティバル」で「モンゴル相撲」を紹介することになって,招聘されたのが朝青龍ファミリーだった。もちろん,そのころはまだ朝青龍ではなくて,ひとりの高校生だったわけだが・・・。かれの父親はモンゴル相撲の大関の地位をもち,かれの兄3人もモンゴル相撲の力士として知られている,いわゆるモンゴル相撲一家なのだ。かれはその末っ子(男4人兄弟)。で,本番の前日のリハーサルのときのことである。兄たちが手加減してかれを投げたとき,そんなんでは駄目だ,もっと,思いっきり投げろ,と注文をつけた。兄たちは,でも,ステージは板敷きだから痛いだろう,とかばう。そんなのは構わない,本気で投げないとモンゴル相撲の迫力がでない,とかれ。兄たちは「わかった」と言ってから,よってたかってかれを投げ飛ばした。みごとな受け身をみせて,わたしは感動したし,でも,全身は打ち身で真っ赤になっている。それでも,本人はいたって満足そうな顔をしている。が,さすがに父親が割って入って,なにやら「打ち合わせ」をして,終わりになった。翌日の本番は,まさに,「手加減なし」の素晴らしいステージが誕生し,観客から大きな拍手をもらっていた。その意味では,かれは根っからのアンターテーナーだったんだなぁ,といまはそうおもう。
 この種の朝青龍の思い出を語りはじめたら,これまた,エンドレス。というわけで,この話はここまでで,ひとまず,おしまい。

2010年10月3日日曜日

朝青龍の引退相撲,380人が断髪式に。

 昨日の千代大海につづいて,今日は朝青龍の断髪式が行われました。なんとかやりくりをして,この眼で見届けておきたいと考えていましたが,とうとう,その時間をつくることができませんでした。
 大の朝青龍ファンとしては慙愧に耐えません。いいわるいは別として,この種の力士は二度とお目にかかることはできないでしょう。少なくとも,わたしが生きている間には。それほどのインパクトをもった力士でした。
 あと2~3年は相撲を取ることができる,とわたしは期待していたのですが・・・・。そして,強くなってくる白鵬との千秋楽の一番を楽しみにしていたのですが・・・・。おそらくは,歴史に残る名勝負を何番もみることができただろうに・・・・と残念でなりません。すでに,朝青龍と白鵬との名勝負の何番かがわたしの記憶のなかに鮮明に残っています。いまでは,「You Tube」なるものがますます充実してきていて,これらの名勝負も無料でみることができます。それどころか,双葉山の70連勝に待ったをかけた一番をみることもできます。でも,これらは全部,過去の名勝負です。
 そうではなくて,大相撲の最高の楽しみは,いま,目の前で展開される名勝負を,からだ全体で感じ取ることです。ですから,今場所ですら,もし,朝青龍が現役で相撲を取っていたら,千秋楽はどんなことがあってもでかけて行っただろうとおもいます。それは優勝がかかっているとか,いないとか,そんなこととはまったく別の次元で,朝青龍と白鵬が繰り広げるであろう相撲の醍醐味を味わいたいのです。わたしのからだが真っ二つに割れて,半分は朝青龍になり,残りの半分は白鵬になって,両方に,同時に,身を入れて,目の前の両力士が繰り広げる相撲と一つになり切ってしまうこと,この瞬間,これがわたしのいう相撲の醍醐味です。
 この世界はもう芸能の世界とまったく同じです。そういうものを想起させてくれる相撲の取組というものは,滅多にありません。わたしの記憶に残っている力士でいえば,照国と羽黒山,栃錦と若乃花,柏戸と大鵬,千代の富士と北天佑(これは因縁相撲でしたが,みていて鳥肌が立ちました),といったところでしょうか。その後の横綱は,一人ひとりは,なかなか魅力的な人がいましたが,名勝負を展開してくれるような取組にはなりませんでした。
 ですから,久しぶりに朝青龍という個性派の力士が現れて,そこに,白鵬という本格派の力士の台頭をみたとき,これから面白くなるとわたしは確信していました。わたしが見届けることができたのは,立ち会いの攻防で,どちらが自分の得意の型に持ち込むか,ここまででした。それでも十分にからだが熱くなったものです。でも,これから起こるであろうと期待していたのは,往年の栃錦と若乃花が繰り広げた相撲でした。それはそれはすさまじいばかりの相撲でした。立ち会いの攻防もさることながら,がっぷり四つに組んでからの攻防も,二転三転しながら,どちらが勝っても不思議ではない相撲をみせてくれました。いずれも1分以上の長い相撲でした。この二人の取組が終わると,みているわたしもどっと疲れました。みているだけで疲労困憊してしまうのです。
 そういう相撲を,朝青龍と白鵬の千秋楽でみられる楽しみが,あっけなく切り捨てられてしまったのです。酒に酔って,顔なじみの男をちょっと可愛がっただけの話(本気で殴ったら,ただではすまいよ,と本人が証言している)。もちろん,似たような前科があったには違いないけれども,力士としてのこれほどの才能を,ポイ捨てにしてしまう「良識」に与することは,わたしにはできません。どの世界にも超「個性派」と呼ばれる「天才」はいるものです。いや,天才はみんな個性派です。良識をもった天才なんて聞いたことがありません。
 朝青龍の相撲は,残念ながら,二度とみることはできません。朝青龍がいたら,白鵬はもっと強くなっただろうとおもいます。白鵬にとっても不幸なことでした。

 これまでも何回か断髪式をみる機会はあったのですが,どういうわけか,毎回,なにかの都合でだめになり,とうとう一回も「断髪式」なるものをこの眼でみたことがありません。30歳代半ばで現役を引退し,あとは「年寄」として後進の指導にあたるのが相撲界の,ごく一般的な進む道です。しかも,「年寄」株は2億円相当(裁判所の判断。実際にはもっと高く売買されているらしい)といわれています。それだけの貯金を現役のうちにしておかなくてはならない,というわけです。これは横綱とか,相当に高い地位で頑張った力士でなければ不可能なお金です。そこにも,相撲界の不可解な裏事情が隠されているようにおもいます。この問題はまたいつか取り上げてみたいとおもいます。
 朝青龍は,相撲界から去って,別の世界で生きていくようですので,問題はありません。が,昨日,断髪式を終え,同時に「佐の山」親方襲名披露をした千代大海は,たいへんだったことでしょう。でも,大関として長く勤めた人なので,大丈夫でしょうが・・・。
 なにか,別の話がはじまりそうなので,今夜はここまで。

2010年10月2日土曜日

大相撲って,神事なの?(3)

 昨日のブログでは勢い余ってしまって,相撲神事というジャンルがあることを忘れていました。今日はこのことについて補足しておきたいと思います。
 相撲神事は,いわゆる奉納相撲とは区別されていて,こんにちもなお伝承されているものもそんなに多くはない,とのことです。もっとも有名なのは,瀬戸内海に浮かぶ伊予大三島の大山祇(おおやまづみ)神社で行われている「一人角力」でしょうか。神社の境内で,眼に見えない精霊を相手にとる相撲で,映像でみるかぎりでは,とてもユーモラスな相撲です。厳密に言うと,旧暦の5月5日のお田植祭と9月9日の抜穂祭の折に行われる相撲です。精霊は「田の精霊」です。この田の精霊とがっぷり四つに組んで三番勝負が展開されます。まずは,一勝一敗に持ち込んでおいてから,最後は精霊が勝つことになっています。つまり,精霊に敬意を表して,豊穣を祈願するのがこの神事の中心的なモチーフになっている,という次第です。
 わたしの知っている相撲神事でいえば,奈良県桜井市の「ドロンコ相撲」があります。これは正月の寒いときに(たしか,わたしがみたのは成人の日だったように記憶する)行われています。田んぼを耕して,そこに水を入れ,ドロンコにしたところが土俵。ここで相撲をとります。もちろん,勝敗を競うものではなく,おもしろおかしい(卑猥な)掛け声のなかで展開する相撲です。お互いにドロだらけになればなるほど豊穣に恵まれるという「年占(としうら)」の一つの形態だと考えられています。要するに,予祝の神事というわけです。この祭礼の本体は「お綱祭り」と呼ばれていて,雄綱と雌綱の交合がメインになっています。ですから,「ドロンコ相撲」は,夫婦和合を象徴的に演じていると言っていいでしょう。行司さんの掛け声も,それを取り囲んで見物している氏子さんたちが大声で囃し立てるセリフも,そのものズバリの卑猥をきわめるのはそのためでしょう。つまり,五穀豊穣・子孫繁栄の神事というわけです。
 この他にも相撲神事として行われている相撲はありますが,それらは相撲神事というよりは,どちらかといえば,奉納相撲の性格がつよくなっていきます。たとえば,奈良の春日若宮社の祭礼で行われる「相撲十番」,鎌倉鶴岡八幡宮の相撲奉納,京都周辺では,加茂・松尾・石清水各社の祭礼相撲,摂津住吉社の相撲会,などがあります。これらの奉納相撲については,少し詳しい相撲の歴史書には必ず記述がなされていますので,それらを参考にしてみてください。
 以上のように,相撲神事は,そのほとんどは「年占」という性格をもっていて,「田の精霊」を喜ばせたり,子孫繁栄に力点がおかれたりしています。しかし,「一人角力」をみていても,すぐに連想されるのは猿楽や物まねといった当時の芸能とほとんど区別がつかない,ということです。いまでこそ「一人角力」は地元の高校生たちによって細々と継承されているということですが,おそらくその初期のころには,名人と呼ばれるような「一人角力」の名手が,つぎつぎに現れたに違いないとわたしは想像しています。そして,その名人芸こそが「田の精霊」を喜ばせ,氏子たちの娯楽として楽しまれ,より一層の豊穣の予祝の意味を帯びていたのだとおもいます。物まねが上手だったといわれる世阿弥のような人が,この「一人角力」を演じてみせたら,おそらく,いまでも見物客で満員になるのではないか,とわたしは想像をたくましくしています。
 「神事」としての相撲ということになると,わたしは,こんなことを考えています。ですので,「大相撲が神事だ」と言われると,どうしても違和感を感じないわけにはいきません。このあたりの問題については,もう少し論点を整理し,テーマを絞りこんだ上で,なおかつ深く掘り下げていくというような,つまり,きちんとした論証を展開することが不可欠だとおもっています。そのような作業をできるだけ早い時期にやっておきたいと,わたしはまじめに考えています。
 というあたりで,このテーマはひとまずおしまいにしましょう。

2010年10月1日金曜日

大相撲って,神事なの?(2)

 昨日のつづき。伊藤滋さんが,大相撲は神事だとおもわれるのは自由ですが,そういう人が「特別調査委員会座長」のポストにつくことに,大相撲問題の根源的な問題があるように思います。
 例の雑誌記事のなかに,つぎのような下りがあります。
 「そもそも開催さえ危ぶまれていた六月下旬,私は出羽海親方(元関脇・鷲羽山)がこんなことを言うのを耳にしました。
 『相撲は千三百年の歴史を持つ神事なんだ。年六回ある本場所は神様への興行なんだよ。たとえお客さんが来なくても場所を中止にしてはならない』
 これを人は情緒的に過ぎる判断だ,と笑い飛ばすかもしれません。しかし普段はガラッパチな私でさえも,この話を聞いて思わず『ああ,なんてロマンチックな話なの』とうっとりしてしまった。日本の国技,相撲には神様との切っても切れない関係があるのです。」
 元力士の出羽海親方が「千三百年の歴史を持つ神事なんだ」と信じていることも,「年六回ある本場所は神様への興行なんだ」と信じていることも,わたしには理解不能です。ひょっとすると,力士になる前の新弟子たちがみんな学ぶ「相撲教習所」で,このようなことを教えているのでしょうか。この「相撲教習所」のカリキュラムには「相撲の歴史」という授業があります。それを担当する先生は,これまでは日本史の専門家でした。そういう日本史の専門家が「千三百年の歴史を持つ神事だ」と教えるはずはありません。そんな事実はどこにもないからです。
 よく引き合いに出される「相撲節」(すまいのせち)にしたところで,天皇が宮中で行う年中行事の一つにすぎません。その内実は,全国に割拠している豪族たちに対する服属儀礼(天皇に仕えますという誓いの儀礼)であり,つわもの(強者,兵)を集めて優秀な者を選抜して手元に置くための制度であった,と新田一郎さんの『相撲の歴史』は教えてくれます。これが日本史(あるいは,相撲の歴史)の専門家の認識です。
 もし,相撲が神事となんらかの関係があったとすれば,祭礼相撲と勧進相撲くらいのものでしょう。祭礼相撲というのは,相撲節が廃止され,食えなくなった相撲人(すまいびと)たちが地方の神社の祭礼を巡回しながら相撲をとって「見せた」(ショウ)にすぎません。それは,猿楽や物まねなどを演ずる賤民たちと行動をともにしたものでした。つまり,神社の祭礼で行われる「見せ物」でしかなかったわけです。勧進相撲もまた,江戸の大火などで神社が焼けてしまったようなときに,神社を再建するための資金集めのために行われたのが,ことのはじまりです。やがては,純然たる興行相撲に変化していきます。したがって,神事とはなんの関係もありません。この興行相撲の流れが,こんにちの大相撲の興行につながってきます。
 あえてこじつければ,横綱免許を出していた吉田司家(吉田神道)との接触が考えられますが,この横綱免許という制度も,吉田司家の「創作」であって,なんの根拠もないものでした。ですから,いまでは吉田司家の横綱免許制は廃止となり,横綱審議委員会の推薦を受けて,日本相撲協会の理事会が決定するようになっています。
 これ以外の相撲の来歴をたずねていくと,ますます,神事からは遠ざかっていきます。「相撲は国技だ」という根拠として引き合いに出される野見宿禰と当麻蹴速の相撲は「決闘」であり,相手を蹴り殺しています。これもまた,新田一郎さんの本によりますと,やはり,土着の豪族に対する外来勢力の力による征服,すなわち,土着の豪族の「服属」儀礼であったとするのが,ことの真相であろうということです。これを「国技」の根拠にするのであれば,このときの「国」とはなにを意味しているのか,よく考えてみてほしいものです。あるいは,日本という国はこのようにして成立したのだ,ということを再確認するというのであれば,また,話は別です。それは同時に,「日本」とはなにか,という根源的な問いを引き出すことにもなります。それはそれで,また,とてつもなく面白い話にはなるのですが・・・。
 この相撲の前の話は,タケミカヅチとタケミナカタの相撲になります。これもまた,出雲のオオクニヌシ一族に対する外来勢力による征服の物語が,その背景になっているというわけです(「国譲り」神話)。
 まあ,とにかく,相撲の歴史を繙けばひもとくほどに,相撲は「神事」とはなんの関係もない,ということが明らかになってきます。ましてや,「国技」ということば自体も,明治45年に国技館が建造されてから,人びとの口にのぼるようになっただけの話です。まだ百年にも満たない,ついこの間のことなのです。
 この程度のことは,少なくとも「特別調査委員会座長」を引き受けるのであれば,一夜漬けでもいい,勉強してほしいものです。でなければ,世界に知られる都市計画学者であり,東京大学名誉教授の名が廃ります。しかも,伊藤滋さんは,日本相撲協会のたった二人しかいない「外部理事」をも兼務する人なのです。そういう人が,出羽海親方のことばをそのまま鵜呑みにして,感動までしているのですから・・・。おまけに,「日本の国技,相撲には神事との切っても切れない関係があるのです」とまで書き残すにいたってはなにをかいわんや・・・・というところです。
 こうしてまた,事実無根の神話が拡大再生産されて,人びとを洗脳していくことになるのです。『文藝春秋』という雑誌には「校閲」という部門はないのでしょうか,偉い先生が書いたことは事実関係についてのなんらのチェックもなしにそのまま掲載するのでしょうか。だとしたら,これもまた無責任な話ではあります。少し良心的な雑誌なら,みんな「校閲」を通過させて,少なくとも「事実誤認」を未然に防ぐシステムをもっています。これは新聞も同じです。いまや,新聞も,根拠のない情報の垂れ流しが多くなってきて,困ったものです。
 とまあ,日頃のうっぷんが一気に噴出。あまり書くと「見苦しい」とお叱りを受けそうなので,今日のところはこのあたりで終わりにしておくことにしよう。