2013年6月29日土曜日

「原発再稼働ありき」で動きはじめた既得権益集団。「脱原発」を参院選の最大の争点のひとつにして対抗しよう。

 既得権益集団(原子力ムラの住民たち)が露骨に動きはじめた。もう,なにも怖いものはないとでもいうように。完全に国民は舐められている。ひとかたまりの,圧倒的少数の特権階級が,自分たちの権益をどこまでも死守するために,圧倒的多数の国民の「命」を犠牲にしてでも,原発を再稼働させようとしている。

 6月19日(水)には「6原発再稼働申請へ」「新規制基準来月8日施行」「免震拠点未完成のまま」という大見出しが『東京新聞』の夕刊トップの紙面に躍っている。翌6月20日(木)の『東京新聞』朝刊一面には,「規制委 大飯運転継続容認へ」「9月まで,新基準,一部満たさず」と報ぜられ,6月27日(木)の『東京新聞』朝刊には「『再稼働ありき』総会」「電力9社,株主の『脱原発』すべて否決」と報じられている。

 もはやとどまるところを知らぬ暴走列車はますます加速されていく。国民であるわれわれは,黙って傍観しているときではない。きっちりとタッグを組んで,なにがなんでも「原発再稼働」を阻止しなくてはならない。われわれ一人ひとりの「命」を守るために。

 7月21日には,いよいよ参院選の投票が行われる。主権者であるわれわれ国民の意思を,直接,表明することのできるチャンスはこのときしかないのだ。ここではっきりと決着をつけないことには,なにもはじまらない。これから各党がかかげる「選挙公約」を徹底的にチェックして,「原発再稼働」を高らかに宣言する政党はどこなのか,そして,表現を和らげつつもそれを匂わせる政党がどこなのか,しっかりと見極める必要がある。

 参院選は都議選とはまったく別物である,とわたしは考えている。都議選は,ほとんどの都民は候補者の人柄も政策も思想もなにも精確には知らない。だから,なんとなくこの人,なんとなくこの政党,くらいのところで投票する人が多い。わたしが,かつて都民だったときがそうだった。恥ずかしながら・・・。だから,あとは組織票。今回は,その浮動票が棄権してしまった。浮動票の受け皿となる政党がなかったからである。争点もはっきりしなかった。

 しかし,参院選は違う。地方には,それぞれ長年の政治活動をとおしてしっかりとその土地に根をおろした立派な候補者がいる。住民もみんなよく知っている。その人たちの中から,今回はどの政党,どの人に投票するかを決める。だから,たとえ弱体化してしまった政党であろうとも,人間としての信頼関係がしっかり保たれているかぎり,その候補者は票を獲得することがある。政党よりも人物という人が,地方の選挙にはしばしばみられる現象である。

 その点では,「原発再稼働」派か,それとも「脱原発」派か,という争点はとてもわかりやすくていい。ここを見分けるだけで,あとの問題もみごとに仕分けていくことができる。だから,あまりたくさんのことを考える必要はない。まずは,「原発」をどうするのか,そこだけを見極めていけばいい。そうしないと,あれもこれもと考えると目先をごまかされてしまう。

 「原発」を廃止しても「経済」はやっていける。その実験国家がドイツだ。いちはやく,国を挙げて「脱原発」宣言をし,着々と代替エネルギーの確保に全力を上げ,すでに大きな成果を挙げている。このことを日本のメディアはほとんど報道しない(あるいは,ごく少ない)だけのことだ。ドイツに較べたら,日本の代替エネルギー資源ははるかに恵まれている。にもかかわらず,既得権益集団は「原発」にしがみつき(この方がはるかに「おいしい汁」を吸うことができるからだ),代替エネルギーの開発政策に圧力をかけてくる。

 なにゆえに,ひとかたまりの特権階級の人びとの利益のために,われわれ圧倒的多数の国民の「命」が犠牲にされなければならないのか。

 もう,これ以上は言うまい。あとは,われわれ一人ひとりの投票によって,われわれの「命」を守るべく,その意思をしっかりと表明することだけだ。

 ここで選択を間違えたら,既得権益集団にわれわれの「命」を預けるしかないのだ。そうならないように,これから気持ちを引き締めてかからねばならない。時間はもうない。待ったなしだ。

 いまこそ,嘘と詭弁に騙されない,確かな眼力で武装しよう。

2013年6月28日金曜日

柴田晴廣さんからのコメント,とても魅力的。夢が広がります。

 今日(28日),柴田晴廣さんからたて続けに2本のコメントが入りました。いずれも,とても魅力的で,夢が広がっていきます。こういうコメントは大歓迎です。わたしのちょっとした思い出や感想をもとに,史実にもとづく新しい知見を提示してくださり,ありがたいかぎりです。

 こういうコメントには,きちんとわたしからの応答をすべきところですが,いま,ちょっとタイミング的に時間がありませんので,いずれ,チャンスをみつけて応答してみたいとおもっています。今回は,とりあえず,ご紹介だけにとどめたいと思います。みなさんにも読んでいただいて,感想なり,ご意見なりを寄せていただければと思い,このブログを書くことにしました。

 ひとつは,6月26日のブログ:「サツマイモ畑に花が咲く,という話」。このブログに対して柴田さんは,東三河に甘藷をひろめたのは「牛窪村の喜八」(河合喜八)だと菅江真澄が書き残している,と指摘してくれました。菅江真澄が東三河の人であることはわかっているのですが,じつは,その出身地を特定することはできないままになっています。柴田さんも必死で追求していらっしゃるようですが,どうも牛窪(現・牛久保)のあたりだったのではないか,と推定。わたしは,牛久保の近くの大村町の「白井家」のどこかではないか,と推定。問題は,菅江真澄が最後までみずからの出自を明らかにしなかったという事実にあります。なぜか,隠す必要があったようです。

 そこからはじまって,芋切干の起源は御前崎という説を紹介してくれています。さらに,御前崎がらみの話を展開させて,「かんかんのう」や「かんかん踊」のもうひとつのルーツも御前崎だったという話を三田村鳶魚の記述から引いて紹介してくださっています。この博識ぶりに感服です。じつは,「かんかんのう」や「かんかん踊」にもいささかわたしは興味をもっていましたので,ありがたい情報提供をいただきました。詳しくは,柴田さんのコメントで確認してみてください。いやはや,その博識ぶりは驚くべきです。

 もうひとつのコメントは,同じく6月26日のブログ:「日本は尖閣諸島を国有化したときから戦時体制に入ったのか?河野洋平親子,鳩山由紀夫,野中広務は国賊?恐るべき言論統制」。できるだけ中味がわかる方がいいと考え,長ったらしいタイトルになってしまいました。が,このブログに対して柴田さんは,「支那」という呼称について取り上げ,つぎのように論じています。昭和21年6月21日に外務省が「『支那』は中国の蔑称なので,使用は極力避けるように」という通達を出しているにもかかわらず,どこぞの御仁はこの「禁句」を好んで用い,あまつさえ,寝た子であった「尖閣諸島」をわざわざ過激に挑発して,とうとう大変な事態を引き起こしているにもかかわらず,維新の会の共同代表をつとめて平然としている,と。しかも,「維新」の語源まで引いて,その精神に反する,というなかなかサビの効いた論を展開してくれています。

 どちらも長いコメントになっていますが,なかなか味のある論考を展開されていますので,ぜひ,柴田さんの原文にあたって,存分に堪能してみてください。

 というわけで,とりあえず,柴田晴廣さんのコメントのご紹介まで。
 できれば,柴田さんのコメントに,さらに応答するようなコメントを寄せていただけるとありがたいのですが・・・・。これは,読者のみなさんへのわたしからのお願いです。よろしくお願いいたします。

『「対米従属」という宿痾』鳩山由紀夫×孫崎亨×植草一秀対談(飛鳥新社,2013年6月27日,第一刷)を読む。

 6月27日(木),いつものように鷺沼の事務所に向う。駅を降りたところで,なんとなく本屋さんに寄りたくなる。そこで,いきなりわたしの眼に飛び込んできた本がこれ。なんというタイミング。孫崎亨氏が鳩山由紀夫氏と接近していることは知っていたが,そこに植草一秀氏が加わっていたとは知らなかった。これは面白い,タイミングも絶妙。即買。

 鳩山由紀夫氏の,一見したところ突飛もなくみえる言動をメディアは「宇宙人」的言動として囲い込み,奇人変人扱いすることで事なきを得る戦略にでて,それが成功しているようにみえる。そして,鳩山由紀夫氏の思い描く理想(祖父・鳩山一郎の描いた「友愛」社会の実現,など)を,さも夢物語であるかのごとく握り潰し,経済(それも「新自由主義」経済一辺倒)を支える既得権益集団(すなわち,原子力ムラを筆頭に,さまざまな分野に深く根を張っている既得権益をなにがなんでも守りとおそうという集団)の思うままに政治を動かそうという露骨な姿が,ここにきてますます強くなってきている。このことは,最近,とみに冴えてきた『東京新聞』の報道をみているとよくわかる。鳩山由紀夫の理想や言動は,そういう既得権益集団の圧力のもとで,「尾ひれ」までつけられて罵倒され,抹消されているのが現実の姿である。

 はたして,鳩山由紀夫とはいかなる人物なのか。そして,その実像はどうなのか。なにを考え,なにを根拠に,なにを主張しようとしているのか,このあたりで一度,しっかりと自分の眼で検証しておく必要があるだろう。この本は,そのための一助になるだろう。もっと知りたい人は,2011年12月,『NATURE』(科学誌)に掲載された論文(鳩山由紀夫・平智之共著)を読むといい。国賊どころか,きわめて高い理想をかかげ,日本という国家の行く末をみすえた立派な国家戦略を明らかにしている。なのに,既得権益集団は一致団結して鳩山由紀夫の主張を徹底的に排除・隠蔽することに全力を挙げている。

 その結果,鳩山由紀夫という人物は,まことに奇怪しな人だと,多くの人たちは信じて疑おうとはしない。つまり,既得権益集団の流す粉飾情報によって,わたしたちは,ほぼ間違いなく騙されてしまっているのだ。嘘と詭弁で塗り固められた大手メディアによる「情報」を一度,ひっぱがして,その裏にうごめいている恐るべき「力学」を,自分の眼で見届けることが不可欠だ,とわたしは考えている。その手始めにこの本をお薦めしたい。

 孫崎亨氏は『戦後史の正体』で電撃的デビューをはたし,いっとき,メディアも注目していろいろと話題になったとおりである。その後も立て続けに本を出版して,わたしたちが「目隠し」にされていた,まったく新しい「戦後史」を剥き出しにしてくれた。そのために,鳩山由紀夫氏と同じように,またまた既得権益集団から睨まれることになった。が,この人もまた,みずからの信念にもとづき,糺すべきことは糺す,という姿勢を貫いている。

 植草一秀氏についても,しばらく前に,いささか信じがたいような醜聞が流れ,だから,人格失格であるかのようにして既得権益集団から「制裁」を受けることになってしまった。しかし,この人の書くものは秀逸で,わたしなどはどれほど啓蒙されたかわからない。最近は,エコノミストとして金融市場の動向や政治の動向に鋭い分析を繰り広げている。そして,いまも時代の最先端に立つ言説を提示する論客として多くの読者をもっている。

 この三者による対談は,まことに刺激的である。ここでも「棚上げ」以外に日中友好の回復はありえない,という点でこの三者は一致している。しかも,その根拠までしっかりと提示されている。ここにはいろいろの論点がふくまれているが,少なくとも,日本はポツダム宣言により,無条件降伏をした「敗戦国」であるという認識に立ち返って,尖閣諸島の問題を捉え直さないといけない,という主張にわたしは賛成である。

 最後に,三者の言い分をコピーから引いておこう。
 鳩山由紀夫:既得権益の外にいる多くの国民には事実が隠蔽されている。
 孫崎亨:ほとんどすべての問題で問題を正視することなく,嘘と詭弁で事態が進行している。
 植草一秀:主権者のための政治がいま,既得権益の政治に完全に引き戻されつつある。そして,米国が支配する日本,米国に支配される日本の様相がより鮮明になりつつある。

 ぜひ,ご一読をお薦めします。

2013年6月27日木曜日

「身体──ある乱丁の歴史」(今福龍太講演録)に圧倒される。

 今日(26日),『スポートロジイ』第2号の再校ゲラがとどきました。これの編集をお願いしているみやび出版の伊藤さんから,まずは今福さんの講演録から読んでみてください,とコメントがありました。初校のときには,わたしは時間がなくて,別の人の原稿を一生懸命に読んでいました。今福さんのものは伊藤さんがしっかりみてくださるものと信じていましたので,あとまわしにしていました。ただ,今福さんからは,直接お会いしたときに,しっかり手を入れたいと思っている,とお聞きしていましたので,どんな風になったかなという密かな期待はありました。

 が,今日,真っ先に読ませていただいて,ビックリ仰天でした。これは書き下ろしではないか,と。しかも,その密度の濃さに圧倒されてしまいました。最初の第一行からわたしのこころを鷲掴みにしてしまい,夢中になって読んでいるうちに,なんどもなんども無呼吸状態になって苦しくなり,びっくりして深呼吸をする,ということの繰り返しでした。最後まで一気に読まされてしまう,恐るべき内容になっています。

 さて,この今福さんの講演録のすごさをどのように表現したらいいものか,これまた大変なことです。まあ,思いきって,わたしの受け止めたままを,ひとことで言ってしまえば,これは現代という時代・社会を生きる人間としての,こころの底からの「スポーツ批評」そのものではないか,ということです。つまり,いま,わたしたちの目の前で起きている「近代競技スポーツ」(今福さんの独特の用語)の諸矛盾について考えていくと,そのさきには身体に埋め込まれた始原の記憶が待ち受けている,だから,その身体の始原の記憶や身体の生成の記憶をいま一度探り出すことによって,これまで潜在化していた「スポーツの本質」を浮き彫りにすることができるのではないか,とわたしは受け止めました。

 「スポーツ批評」といえば,この講演録のなかで今福さんも触れているのですが,ご自身の書かれた『ブラジルのホモ・ルーデンス』が想起されます。なぜなら,この本のサブタイトルは「サッカー批評原論」となっているように,徹底した「サッカー批評」を展開されています。それを,こんどは「スポーツ批評」全体に拡大し,具体的な例を挙げて,説得力のある,明晰な分析の妙味を堪能させてくれます。そのあまりの迫力に圧倒されてしまい,ついには,なんども無呼吸に陥る,という次第です。でも,それがまた快感であり,快楽でもありました。

 とまあ,どんな風に表現してみても,表現不足。自分でまどろっこしくなるばかりですので,その触りの部分を引いておきたいとおもいます。たとえば,以下のようです。

 「・・・・いずれにしても,我々の身体と歴史の間の呼応関係,相互の干渉,紛争,そういう問題がここに出てきます。我々の身体に刻み込まれている歴史とは何か。それは,近代のスポーツを取り上げてみれば明らかになるわけですけども,そごで明らかになるのは支配的な歴史,制度的な歴史,権力によって構築されてきた歴史です。それは,われわれの近代の歴史そのものが戦争という,ひとつの強力な社会の変革力,それを軸にして語られてきたということを示しています。歴史は常に戦争という変動力をひとつの軸にして語られてきたわけですね。それとちょうど並行するように,戦争を擬似的な対抗原理として受け止めた時に「競争」という原理が出てきます。この戦争や競争あるいは勝敗原理といったものによって貫かれている歴史が,まさに近代スポーツという身体の中に深く刻み込まれている。この戦争,競争,勝敗原理という連続体が歴史として,われわれのスポーツする身体の中に深く刻み込まれているのです。」

 と述べた上で,多木浩二の「写真論」を援用して,歴史というものにも乱丁や落丁がある,写真とはその歴史の乱丁や落丁の証しであり,表現である,と述べた上でつぎのように今福さんは持論を展開されています。

 「この示唆を受けて,ここで私は身体というものも一つの歴史の乱丁の証と考えることができないであろうか,という問いかけをしたいと思うのです。これは,先ほど言ったような戦争,競争,勝敗原理といった連続体によって刻み込まれた歴史ではなくて,むしろそういう歴史の中で忘れ去られているある乱丁や落丁の痕跡です。それが身体の奥深いところに刻み込まれているのではないかということです。そこには,歴史の亀裂が封じ込まれているのではないか。支配的な歴史によっては捉えることができないような断片的な歴史が,乱丁のように,迷路のようにして身体の中に沈んでいるのではないか。正当な歴史的視点によっては見いだされないある種のリアリティが身体の中に眠っているのではないか,そういう問いかけです。」

 こうした伏線を布いた上で,さまざまな具体的な事例を引き合いに出して,詳細な考察を加えていきます。たとえば,ロンドン・オリンピックでの柔道の「ポイント制」「ジャッジ」「指導」「審判」「これは柔道ではない」「ビデオ判定」などについて。そして,最後につぎのように述べています。

 「写真が歴史の乱丁であり落丁であると多木さんは言われたわけですが,写真はその成立の初期から人間の身体を最も大きな対象としてずっと撮り続けてきたことも事実です。ですから,写真と身体は非常に深く関わっている。その写真映像が逆にデジタルな事実をつくり出してスポーツを搾取しようとしているのは,身体と写真映像の深い関係の反作用として生まれた問題かもしれない。ともかく,スポーツの探求は,歴史哲学的な探求としての歴史の乱丁や落丁を探り出すという作業につながってくるだろうと思います。身体という亀裂,空白,揺らぎ,その中に競争原理から離れた固有の美しさや快楽を探すことは,そうした思想的な探求につながっていくに違いないと私は確信しています。」

 ここで述べられている「スポーツの探求は,歴史哲学的な探求としての歴史の乱丁や落丁を探り出すという作業」という言説が,わたしには強烈な印象となって残りました。

 この今福さんの講演録が掲載される『スポートロジイ』第2号は,いまのところ7月15日発行の予定で進行しています。明日には,再校ゲラをもどすことになっています。今夜は眠れそうにありません。

2013年6月26日水曜日

日本は尖閣諸島を国有化したときから戦時体制に入ったのか。河野洋平親子,鳩山由紀夫,野中広務は国賊?恐るべき言論統制。

  日本はとうとう戦時体制に入ってしまったかのようにみえる。それもひとり芝居の結果として。つまり,尖閣諸島は日本国の固有の領土であると一方的に「国有化」宣言をしたことによって。当然のことながら,中国は黙ってはいない。毎日のように,「領海侵犯」(これもまた日本国の一方的な言い分)をくり返すことによって,中国はわれわれにも領有権を主張する根拠があるとして,みずからの意思を表明する。こうした一触即発の緊張状態を招来したのは,ほかならぬ日本国だ。

 1972年の「日中友好平和条約」締結時のいきさつを想起すべし。ここに書き記すまでもなく,田中角栄とトショウヘイの間で話し合った結果,尖閣諸島の領有権については「棚上げ」,ただし,日本による「実行支配」は認める,というところで妥結した。そして,領有権については,いつか平和的に話し合い,解決できるときがくるだろう。それまで「棚上げ」にしておこう,と。中国側のこの「おとな的」態度表明によって,念願の「日中友好平和条約」を締結するところまでこぎつけることができたのである。

 しかも,40年もの長きにわたって,両国はこの了解事項(「棚上げ論」)のもとで「友好親善」を保ってきた。そして,日中両国による「40周年記念式典」まで準備されていた。その矢先に,突如として豹変したのは日本国である。しかも,なんの「予告」も「話し合い」もなしに,突然だしぬけに,「棚上げ論」を破棄して,一方的に「固有の領土」宣言をしたのだ。これでは中国は黙って見過ごすわけにはいかないだろう。

 このことを鳩山由紀夫は「だまし取ったも同然」と発言したまでのことだ。すると,政府はもとより,メディアもこぞって,もちろんネトウヨも,声を揃えて鳩山由紀夫を「国賊」扱いにする。鳩山由紀夫はまことに素直に,みずから信ずる考えを述べたにすぎない。しかも,この発言は正鵠を射ている。あまりにもほんとうのことを正直に言ってしまうと,とたんに「国賊」扱いにされてしまう。鳩山由紀夫が「国賊」なら,このわたしも「国賊」だ,というブログを以前にも書いている。

 「国賊」扱いには参る。このことに怯えている人はたくさん居るはず。まずは,政治家たちだ。河野洋平・太郎,野中広務のような勇気ある立派な政治家を除けば,あとは,みんな「だんまり」を決め込み,野田,安倍の主張する超党派の「固有の領土」論に追随するのみだ。

 しかし,長老と呼ばれる政治家たちは1972年の条約締結当時のいきさつを,よもや忘れてはいまい。そして,いま,現役の政治家の多くは,その当時,だれかの秘書として政治家を目指していたはずだ。だから,その当時のいきさつを知らないはずはない。なのに,みんな「だんまり」を決め込んでいる。無責任。良心のかけらもない。長いものには巻かれろ族。「国賊」とはこういう人たちのことを指すことばのはず。

 なのに,財界・官僚はいうまでもない。メディアも同じ。頼みの学界もトーン・ダウンして,みんな「右へならえ」だ。こうなると,すべての情報は,政府見解の思いのままとなる。その結果,圧倒的多数の国民は,尖閣諸島は日本固有の領土だと信じて疑わなくなる。ここから大きな悲劇がはじまる。

 「物言えば唇寒し,秋の風」。これでは,まさに,言論統制そのものではないか。

 実行支配を維持していれば,いずれは固有の領土となる。これは国際法のルールでもある。なのに,わざわざ,「日中友好平和条約40周年」(昨年)のこの時期に,「棚上げ論」などはなかった嘯き,固有の領土論をぶち上げなくてはならなかったのか。そのために,どれほどの「国益」を失ったことか。そして,これからも「棚上げ論」に戻らないかぎり,半永久的に尖閣諸島をめぐって日中は「戦時体制」を維持しなければならない。こんな無駄な,国益に反することを,なぜ,いま,しなければならなかったのか,わかりやすく説明してほしい。

 できることなら,『世界』のような雑誌に実名で投稿してほしい。そして,そこを舞台にして,お互いに実名で,みずからの信ずるところを開陳し,大論争を繰り広げてほしい。そういうこともしないで,ただ,メディアを使って「国賊」呼ばわりして,切って捨てるようなやり方は,じつにアンフェアだ。正々堂々と,公明正大に,議論しようではないか。

 少なくとも河野洋平は,いちはやく,『世界』にみずからの信ずるところを,すなわち「棚上げ論」があったことを述べ,ここに立ち戻るべきだ,と主張している。が,これに対して,異を唱える論考を『世界』に投じた政治家は,わたしの知るかぎりひとりもいない。こちらもまた「無視」である。これがアベノミクスのやり口だ。自分の都合の悪いところは高圧的に蓋をして,都合のいいことだけを言挙げする。そして,世論を動かそうと企んでいる。

 しかし,そうは問屋は卸さない,とわたしは信じている。アベノミクスが破綻するのは,もう目の前にきている・・・・これはわたしの直観である。そのあとにくるのは,ふたたびの「腹痛」。政権「投げ出し」。それが非現実的な話ではないところが怖い。自民党のなかでは,すでに,次期首相候補がとりざたされている,という。

 このブログのまとめ。戦時体制からの脱却=言論統制の撤廃,すなわち,「棚上げ論」に立ち返ること。これあるのみ。これなしに日中に友好・平和は訪れない。間違っても,河野洋平・太郎,野中広務,鳩山由紀夫を「国賊」呼ばわりをしてはいけない。「国賊」呼ばわりする人間こそが「国賊」だ,と知るべし。

サツマイモ畑に花が咲く,というお話。

 子どものころ,つまり,敗戦後のまもないころ,食料確保のために,わずかばかりの畑にいろいろの作物を植えて,母親が必死になっていた。父親もまた,昼の勤務を終えてから,腰に懐中電灯をつけて畑にでかけていた。当然のことながら,子どもたちもみんなで畑を手伝っていた。生き延びるために家族が一致団結していた。兄弟喧嘩も絶えなかったが,それでも協力すべきときは仲良く力を合わせていた。その意味では深い情愛に結ばれていたように思う。

 そんな敗戦直後の食料難の時代の主食はサツマイモであった。くる日もくる日もサツマイモで飢えをしのいだ。しかし,この時代のサツマイモは当たりはずれが多く,うまいイモもあれば,まずくて食べられないイモもあった。その当時のもっとも新しくて美味しサツマイモと農林一号と呼ばれた新しく品種改良されたイモだった。その農林一号の苗(つる)を近所の農家から分けてもらって,わが家でも植えることになった。すでに,前の年に「農林一号」という名のサツマイモを一二度食べたことがあって,その味のよさは知っていた。ので,みんな必死で植えた。

 ことしの夏にはおいしいさつまいもが食べられる,と楽しみにしていた。ところがである。奇怪しなことが起きた。つるが伸びてきて,そろそろ地下には芋ができるころだ,イモ堀りも近いぞ,と思っていたら,畑のところどころに花が咲きはじめたではないか。サツマイモに花が咲くとは知らなかった。だから,なにごとか,と初めてみてびっくりした。それも,朝顔に似た清楚な花である。わたしたち家族はだれもこの異変がなにを意味しているのかを知らなかったので,ただ,ただ,傍観するのみだった。

 ところが,ある日,苗を分けてくれた農家の人がやってきて,「いもに花を咲かせちゃあダメだぞん。いもがつかんぞん。」という。なんのことかわからない母親が「どういうこと?」と聞いている。農家の人は「いもはのん,根元の方を活けて,芽の方は土の上に出して植えんと,みんな花が咲いてしまう。そうなると,いもがつかんくなるだぞん」という。そばで聞いていたわたしは「ヘェーッ」とびっくり仰天。

 そういえば,ほとんどの苗は根元と芽がはっきり確認できるものだったので,植え方を間違えることはなかった。が,ときおり,芽の方も切ってあって,どちらが根元なのか芽なのか判断できない苗があったことを思い出す。どちらが芽の方かわからないので,適当に判断して,こっちが根と考えて植えた。それが間違いのもとだったのだ。どうやら母親も知らなかったようで,だから,見分けがつかないまま植えた苗が,あちこちで花を咲かせることになったらしい。でも,それを知ってからは恥ずかしいので,家族交代で朝早く畑に行っては,花を摘むことにした。が,やはり,いもはつかなかった。

 あの花さえ咲かさなかったら,秋の収穫はもっともっと多かっただろうに,とみんなで悔しがった。が,後の祭り。それでも,みんなで苦労して世話をした農林一号の味は格別だった。収穫した当座は,蒸かし芋にして食べた。腹一杯になるほど食べた。米が配給でしか買えない時代なので,圧倒的に少なかった。だから,米のごはんにもサツマイモを角切りにして混ぜて増量した。このご飯も美味しかった。

 秋も深まり冷たい風が吹きはじめると,蒸かしたイモを薄く切って,ゴザの上に並べて干した。うっすらと白い粉が吹き出てくると完成である。これは保存食として大事に保管された。冬の間のおやつはこのイモ切り干しだった。わたしの育った地方ではイモ切り干しと呼んだが,東京にでてきたら「干しイモ」と呼ばれていて驚いた。

 いまごろになって,突然,こんな話を思い出したのは,ある人から「ジャガイモの苗木にトマトを接ぎ木すると,ジャガイモとトマトの両方ともとれる」という,とんでもない話を聞いたからだ。この話はまたいつか書くことにしよう。

 今日は,サツマイモ畑に花が咲く,という子ども時代(小学校3年生)の,なんとも笑えない懐かしい思い出話まで。 

2013年6月25日火曜日

全柔連上村会長のけじめのつけ方にひとこと。

 昨日(24日)に開催された全柔連理事会のあとの上村会長の記者会見で,つぎの理事会(10月予定)の結果をみとどけて辞任したいと発表。自分の手で「改革」をなしとげることが使命,それがうまくいけば辞める,という。ということは,うまくいかなければ「辞めない」ということだ。

 なんともはや,心根が腐っている。いま,現在の,全柔連会長としての「けじめ」のつけ方がまったくわかっていない。そのことをきちんと教えてくれる人もいない。はだかの王様と同じだ。こうなるとみじめとしか言いようがない。全柔連のほかの理事の人たちはなにを考えているのだろうか。こちらの方も硬直化してしまった組織のなかで,沈黙を守るしかないようだ。こんな組織体に「改革」ができるはずもない。自明のことではないか。

 新しく女性理事4名を加えることが「改革」だと思っているとしたら大間違いだ。これは世を憚るための単なるめくらまし(猫騙し)にすぎない。4名の女性理事を加えたからといって,先輩・後輩のしがらみで硬直化してしまった組織体にはなんの関係もない。世間がうるさいから,添え物として入れておこう,くらいの感覚ではないのか。

 もし,この4名の女性理事のなかで,比較的自由に発言できるとしたら橋本聖子外部理事だけだろう。それでも,橋本聖子氏のこれまでの言動の印象では,こころもとない。自分の役割をきちんとこなすだけの度量があるとは考えにくい。彼女はどこまでも自民党参議院議員としての立場にこだわり,その上での計算・打算で動く人でしかない。全柔連のあり方そのものを大所高所から「批判」するだけの見識も度量もあるとは思えない。それ以前に多勢に無勢だ。

 ましてや,他の3名の元柔道選手の抜擢も,現体制維持に都合のいい人材を選んだことは目に見えている。おそらく,この3名の指名された理事は,なんの疑問をいだくこともなく,すんなりと引き受けるだろう。その程度の認識しかないのだから。だが,そここそが大問題なのだ。

 もし,今回の不祥事の本質がわかっているとしたら,執行部が現体制のままでは引き受けられない,と拒否すべきだろう。それが「15名」の勇気ある女子選手たちの「直訴」への,良識ある応答の仕方というものだ。その点,山口香さんの眼力は鋭い。今日(25日)の『東京新聞』には,このことを力説する山口香さんの発言がきちんと報道されていた。この人はものごとの本質をきちんと理解している。みごとだ。

 一度,腐らせてしまった組織は,もう元には戻れない。ましてや,みずからの手で元に戻すことなどは,余程の奇跡でもないかぎり,不可能だ。新しいワインは新しい革袋に入れろ,という(『新約聖書』マタイ伝第9章)。もともとの意味は,新しいワインを古い革袋に入れると,新しいワインが発酵して(当時のワイン)古い革袋を破ってしまい,こぼれてしまうからだ,という。このことを援用して,イエス・キリストが「ユダヤ教のなかにキリスト教を入れることはできない」という比喩として「新しいワインは新しい革袋に入れろ」と言った,と辞典には書いてある。

 せっかくの4名の新しい女性理事を受け入れるのであれは,その組織体は執行部総入れ換えをしたあとの,まったく新しい全柔連でなくてはならない。そうしないと,いまの全柔連という古い組織体は恐ろしいほどに硬直化しているので,そっくりそのまま飲み込まれてしまう。つまり,朱に交われば赤くなる,を地でいくようなものだ。しかし,ことばの正しい意味で「新しいワインを古い革袋に入れる」と,この4名の女性理事が,本来の理事としての役割をはたせば果たすほどに,古い全柔連という組織体が壊れてしまう,ということになる。そんなことはこれまでの全柔連理事会をみているかぎりでは,まったく期待すべくもない。

 結論は,全柔連は一度,組織解体をして,基礎から立ち上げるしかない,ということだ。そのための蛮勇を奮うことこそ,いまの上村会長のとるべき「けじめ」ではないか。

 それを「10月を目処に辞任」だって? そうではないでしょう。「今でしょ!」

百獣の王ライオンのつもりが,ふと気づいたら山羊になっていたロック歌手の話。

  40半ばのロック歌手の知人と,久し振りに会って話をする機会があった。そのときに,そのロック歌手がとても面白い経験を話してくれた。かれの言うには,自分でもよくわからないが,どことなく快感で,どことなく空恐ろしい,そんな感覚がミックスしているようなところに,いま,おれは飛び出してきて,毎晩,ワクワクしながら真暗な森の闇のなかで練習している,という。

 中学生のときに衝撃的なロックとの出会いがあって,高校生でロックで生きていくことを決意。以後,勉強もそっちのけでロックに全身全霊で没入。それまでは優等生で両親の期待を裏切ることになった,という(この話はご両親からも伺っている)。デビューしてまもなくはそれなりに人気もあって,よし,東京で勝負と決意して上京。必死で頑張ったが,夢敗れて帰郷。その後も,郷里でアルバイトをしながら地味にロックのライブをつづけてきた。

 売れても売れなくてもいい。おれは一匹狼でかまわない。みじから信ずるロックを追求し,それを人に聞いてもらう,それだけでもいい。おれは百獣の王ライオンだ。この高みから吼えるロックはなかなか理解してもらえなくても仕方がないだろう。それでもなお,汚れきった世の中に向かって,あるいは,だらけきった人間に向かって,「それは違うだろうっ!」と鬱積する自分のこころを聴衆にぶっつけることに集中する。そういう自己と真剣に向き合うことをみずからに課してきた。それこそが理想のロッカーの生き方だと信じた。このコンセプトが自分のロックを支えてきた。それだけで,大満足だった。日々のつらいことも乗り越えることができた。

 その練習場として借りていた山羊小屋が解体されることになり,突然,その小屋から追い出されることになった。仕方がないので,近くに墓場のある森のなかの闇夜で練習をしているという。それもたった一人で。山羊小屋の解体とともに,バンド仲間もいつしか解体していた。長年の同志だったが,やはり,家庭の事情や考え方にも少しずつ差異が生まれていた。それも仕方のないことだ,と自分でも納得できた。しかし,おれは百獣の王ライオンだ。どんなことがあってもくじけはしない。最後まで自分の意思を貫くつもりだ。それで野垂れ死にしても構わない。自分の生をまっとうしたい。それが「生きる」ということだ。最後まで一本の道を貫いて生きとおしたい。

 だから,いまは,たった一人で,毎晩,その森のなかに分け入っていって練習をしている,という。そうしたある夜,闇のなかに光る眼が近くでじっと動かないでいることに気づく。どうやら猫らしい。こちらは無視して練習に集中している。猫はじっと聞いているのか,と気づく。えっ,どうして?と変な気持ちになる。この猫が現れる夜も現れない夜もある。が,現れたときにはじっと聞いているとしか思えない,そういう気配が伝わってくる,という。それが最初のきざしだった。

 そのうちに,夜の闇全体が,おれの音楽に耳を傾けているのではないか,ということに気づく。近くの木も遠くの木も,そして,その枝や葉っぱも,みんな聞いている。足元の草むらも,石ころも,みんな一体になっているような気がする。こちらが音を出すと,それにみんなが耳を傾けてくれる。その雰囲気がおれに跳ね返ってくる。それに刺激されて,いつのまにかおれも夢中になって音を出している。森全体と,闇全体と,おれとが一体化していると感ずる。

 そんな夜がつづいたある夜、突然,気づく。おれは百獣の王ライオンではなくなっている,と。これまでのように,こちらから一方的に吼えているだけではない,と。得体のしれない存在全体からの応答に自分が反応し,そこからおれの音楽がはじまっている,と。おれは,おれが音を出して,おれを取り囲む森の闇夜に音楽を聞かせてやっていると思っていたが,気づいたら,音を出せと促され,音楽をやらされている,と気づく。おれはロックをやっていると思ってきたが,そうではない,いつのまにかロックをやらされている。この感覚はなんだ?と気づいたときから,おれの音楽が変わりはじめた。いまは,どんな音が飛び出してくるか,そのときになってみないと自分でもわからない。それが,たまらなく快感であり,同時に,空恐ろしくもある。でも,明らかにこれまでとはまったく違う次元に突入したと思っている。もう,前に進むしかない,と覚悟している。

 さらに,極めつけのことばを吐いた。

 山羊小屋で練習しているときはなにも思っていなかったが,どうやら,その山羊小屋で飼育され,人間に食べられていった山羊たちの霊魂がおれに乗り移ってきたのではないか,と思う。山羊は食べられる時を知っているという。明日はいよいよ食べられてしまうという日は,一日中,「めえー,めえー,めえっ,めえー,めえっ,めえっ」と鳴きつづけると聞いている。そうして「食べられて」しまった山羊たちの霊魂があの小屋にはいっぱい宿っていたのではないのか,そして,おれたちの練習を聞いていたのではないか,と思う。

 その霊魂たちも小屋の解体とともに居場所を失った。どこに行けばいい,と路頭に迷ったはずだ。そうしたら,そんなに遠くない森のなかから,どこかで聞いたような音が聞こえるではないか。よし,あそこだ,というわけで押し寄せてきて,そこにたったひとりで音を出しているおれのからだに乗り移ったのではないか。そう思ったときには鳥肌が立った。どうしようかと思った。でも,ロックは止められない。おれひとりでもやっていく。だったら,この山羊たちの霊魂と運命共同体となればいい,と覚悟する。

 それと同時に,ある強烈なメッセージが山羊たちの霊魂から届いた。「明日は食べられてしまうと思って音を出せ」と。もう,今夜限りだと覚悟を決めて音を出せ,と。そうか,おれは甘かった,と気づく。これまでは,おれが作詩・作曲して,おれが演奏し,おれが歌うことによって百獣の王ライオンであると信じてきた。しかし,それは違うのではないか,と。明日なき「生」を生きる,ぎりぎりのエッジに立って,いま,この瞬間,瞬間に飛び出してくる音だけがすべてだ,と。このことを山羊の霊魂たちに教えられた。

 おれは百獣の王ライオンだと信じてこれまでロックをやってきたが,気づいてみたら,いまや立派な山羊になっていた。明日は食べられてしまう山羊のこころになってロックをやる。このことがなにを意味しているのか,おれにはよくはわからない。でも,この方がはるかに自然な気がする。そして,この方がワクワク・ドキドキ感があって,どこか空恐ろしいが同時に楽しい。

 最後には,もっと踏み込んだ話をしてくれた。おれはどうも自分がなくなっていくような気もする。まるで「無」の境地に近づいていくような気がする。これってなんだろうと思いながら,しばらくは仲良く付き合おうと思っている,とも。わたしは,ただ,ひたすら,感心しながら聞き入っていた。この男,いいところにやってきたなぁ,と。これからが,いよいよかれの持ち味全開のロックの表出となることだろう,と思いながら。そうして,最後は,自分の吐いたことばに,じっと耳を澄ますようにして黙り込んでしまった。これ以上はことばにすることはできない,というサインだとわたしは受け止めた。

 とてもいい話をしてくれてありがとう,とこころからお礼を述べてこの場を終わりにした。
 ほんとうは,かれの話を,わたしのことばで解説したいという欲望が強烈に湧いてきたが,ここは禁欲することにした。黙っていても,かれはかれのやり方で,もっともっといい地平に躍りだすことは間違いないのだから。

 どの世界にあっても,しっかりと対象をみつめ,地道に血のにじむような努力を積み重ねると,人間はみんな同じ「場所」に到達するんだなぁ,としみじみ思う。このロック歌手にこころからのエールを送りたい。

田中英光の短編小説『桜』を読む。

 今週末に予定されている『スポーツする文学 1920-30年代の文化詩学』(疋田雅昭/日高佳紀/日比嘉高編著,青弓社,2009年)をテクストにした研究会(「ISC・21」6月奈良例会)が近づいてきて,なんとなくわくわくしはじめています。なぜなら,このテクストの編著者たちのお話が伺えるということなので,こんなありがたい話はないと思うからです。

 以前から,この本の存在は気がかりになってはいましたが,なかなか踏み込んで読む,というところまではいかないままでじた。が,今回の奈良例会では,世話人の井上邦子さんが,このテクストの編著者のひとり日高佳紀さんと連絡をとってくださり,うまくことが運びました。ほかの編著者の方たちも2名ほど参加してくださるとのことですので,われわれとしても失礼のないように・・・・と考えている次第です。

 詳しい情報は,「21世紀スポーツ文化研究所」(ISC・21)のホーム・ページの「掲示板」にアップされていますので,そちらをご覧ください。

 で,わたしに与えられた役割は,このテクストの最後の章「スポーツしない文学者──祭典の熱狂から抜け落ちる『オリンポスの果実』」(疋田雅昭)のコメンテーター。とはいっても内輪の小さな研究会ですので,学会やシンポジウムなどとは違って,ごくアットホームな雰囲気のなかでの話題の提供。でも,一応は他流試合のような「場」になることは間違いないので,それなりのマナーは必要かと考え,できるだけの準備はしていこうと考えているわけです。

 といいますのは,このテクストの著者のみなさんは日本文学の専門家ばかり。それに引き換え,わたしたちはスポーツ史・スポーツ人類学・スポーツ文化論をフィールドにして研究をしてきたグループです。ですから,言ってしまえば,視点が間逆になっている,と言ってもいいかもしれません。たとえば,わたしたちは「スポーツ」という窓口から「文学」に踏み込んでいくのに対して,このテクストの著者の方たちは「文学」を拠点にしながら「スポーツ」を読み解く,というように。

 ですから,わたしたちに不足するものは「文学」についての基礎的な教養です。そのギャップを埋める努力はしておかなくては・・・とわたしなりに考えているところです。そんなわけで,まずは,書店で手に入った『桜・愛と青春と生活』(田中英光著,講談社学芸文庫,1992年)を読みはじめました。その冒頭に「桜」が載っています。田中英光という作家の出自を知る上では,なかなかいいテクストではないかと思いました。その冒頭の書き出しは以下のようです。

 「ぼくの家の祖先は伊予の国の住人,河野通有だということである。もちろん,系図などある家柄ではないから,確な保証はできないけれども,幼年時に,父からなんども直接聞いた話だから,間違いないことだと自分では信じている。歴史家であった父は,ぼくの十二のとしに,悲しくも,この世を去り,母は頭が古すぎ,兄はまた新しすぎて,それぞれ家系などに興味はないようであるから,いま,東京に手紙を出しても,簡単に確める方法はない。けれども,ぼくの記憶に残る父の話をいくらか思い出してみると,とあれ,伊予の国から土佐の国に移り,岩川氏を名乗ったのは,そう古いことではないようだ。
 むろん新しいと言っても戦国時代以後のことではあるまい。長曽我部氏が覇(は)を称(とな)える以前に,土佐に移り,長曽我部氏に亡ぼされた,確か豪族の遺臣であったように思う。だから,長曽我部浪人には関係なく,まして,関ヶ原以後移住してきた山内家の上士にもなれなければ,下士でもなかった訳げある。」

 少し長くなってしまいましたが,こういう家柄の出身であるということを,田中英光ははっきりと意識していたということは注目していいのではないか,とおもいます。かれの父親は長男であるにもかかわらず,家出をして上京し,苦労の末に,高級官僚としての出世街道を走ります。もう少しだけ,さきの引用のあとを書いておきたいとおもいます。

 「高知から四里ばかり離れた,土佐山村という,まったくの山の中に引っ込んで,近世は代々農(のう)をももって生活を営(いと)なんでいたらしい。しかし,まったくの農夫になり切らなかったということは,ぼくの曾祖父さんが村の神主をしていたという事実だけでもわかる気がする。曾祖父の岩川秀彬は関山と号する漢詩人で,村の寺子屋の先生もしていて,儒書(じゅしょ)をもっぱら講じていたらしいが,それより,亡父がいつも自慢にしていたのは,熱心な国学者で,したがって,その時代としては立派な尊王家であったということだ。」

 こんなことを知ると,やはり田中英光という作家も,相当の家柄の出身であることがわかってきます。土佐の山奥の出でありながらも,そのむかしは相当の名のある豪族であったこと,だからこそ,こんな山奥まで逃げのびる必要があったこと,もみえてきます。むかしから,山奥から偉大な人物が輩出することはよく知られているとおりです。

 この短編小説は,このあと,作家の記憶を頼りに「岩川家」にかかわる人脈や出来事が,かなり露骨に描かれていきます。そして,最後には,父が出奔した土佐山村の実家まで,尋ねていきます。そして,そこでの感慨がみごとな描写になっていて,読む者のこころを打ちます。

 その一端を引いて,このブログを閉じたいとおもいます。

 「山高く水清いこの土地で,父が燃やした世俗的な野心は,かえってお初さんの忍従さに負けた気さえした。いや,父ばかりではなく,当時の地方の新青年たちは,なにを追って東京市に出ていき,東京であくせく闘ってきたのであろう。政治,学問,芸術,それら純粋なるべきものの,かえって不純な姿を,お初さんの無言実践十年の婦道(ふどう)に較べてみた。ぼくは,お初さんの行き方ほど,清潔で緩みのないものをぼくは知らなかった。金のためでも名のためでも欲情のためでもなく,お初さんは日本の血と土地,そのままに生きてきた。」

 ※お初さんとは,田中英光のいとこの嫁。つまり,父が出奔してしまったために,父の弟が跡を継ぎ,その息子が跡を継いでいる。が,ここには大きな悲劇があった。父の弟が病に倒れ,その跡取り息子が発狂してしまう,という事件が起きる。田中英光の父親は驚いて駆けつけ,その場で,なにをやっていたのだと弟を叱責します。そのために弟は首をつってしまいます。病に倒れた父もまもなく死んでしまいます。残されたのは,発狂したままのいとことその嫁のお初さんと息子(12歳)だけ。お初さんは発狂したままの夫の世話をしながら,農業に勤しみ,息子と二人でこの家を守っています。このお初さんの「自然そのままに生きて」いる姿に,田中英光は感動してしまいます。その描写が,最後のクライマックスとなります。

 ※わたしにはとてもいい小説だと思いましたが,解説を書いた川村湊は,なぜか上から目線で田中英光を見下ろすような論評をしています。なにかないものねだりをしているように見受けられたのですが,これは,わたしとは立場が違うから,という単純な問題ではないと考えています。シモーヌ・ヴェイユが『根をもつこと』のなかで主張していることと,どこかで響き合うものが,わたしには感じられ,川村湊の論評には賛同しかねます。もちろん,素晴らしい指摘がたくさんあって,とても勉強になることは間違いありませんが・・・・。それでも,最終的に田中英光という作家をどう評価するのか,という点ではまったく違う結果になってしまいます。

 ※こういうところまで降りていって,『オリンポスの果実』をどう読むかという議論ができると面白いと考えています。

2013年6月24日月曜日

都議選は参院選の前哨戦,と言いくるめるメディアはいったいなにを考えているのか。

 都議選で自民党が圧勝,全立候補者が当選した,という。この勢いで参院選も自民党が圧勝するだろう,とメディアは口をそろえる。その根拠に小泉内閣のときの「連勝」神話を,もっともらしくメディアはもちだしてきて,その裏付けにしようとしている。これをくり返されると,テレビの報道に信をおいている視聴者の多くは「ああ,そうなんだ」と無意識のうちに刷り込まれてしまう。もう,すでに,メディアは選挙運動を展開しているようなものだ。

 NHKもふくめて,テレビ・新聞などのメディアのほとんどは原子力ムラの一員だといわれているので,足並みを揃えるかのようにして「都議選は参院選の前哨戦」「連勝」と言い募るのもよくわかる。そして,このままの勢いで参院選も自民党の圧勝へとつなぎたい,その気持ちもよくわかる。

 しかし,そうは問屋が卸さない。

 第一に,都議選と参院選では選挙の論争点がまったく違う。参院選では憲法改定が大論争となるはず。しかも,憲法改定に関しては,無党派層からの鋭い批判がある。とりわけ,子どもをもつ母親は再軍備などはさせない,わたしの子どもを戦争に行かせるわけにはいかない,と強く思っている。都議選には憲法改定の議論はほとんど無視された。もっと言ってしまえば,都議選で政党間の論点になったのはなにか,これにきちんと答えられる人はどのくらいいるだろうか。メディアもほとんど取り上げなかった。だから,なんとなく元気が良さ実にみえる自民党・公明党に票が流れただけの話ではないか。というか,民主党を筆頭にほかの党が自滅してしまっただけの話。その間隙を縫うようにして,漁夫の利をえたのは共産党だ。

 こうした憲法改定を筆頭に,参院選では論争となる点が目白押しである。東日本大震災後の復興に向けて法律はつくったものの,この一年間,なにも手をつけないまま無策であった,という衝撃的なニュースが流れている。被災地の人びとの参院選に向けての選挙行動はそんなに甘くはない。同じように,原発再稼働に向けて自民党が動きはじめていること,のみならず世界に向けて原発を売りに歩く「死の商人」を首相みずからが演じ,世界を飛び回っていること,などにも鋭い批判があること。これらも都議選と参院選とを同列には考えられない大きな理由である。

 TPPが日本の農業を破壊することを危惧する農協の存在もまた,参院選では大きな影響を及ぼすだろう。しかし,都議選では,農協の組織票はほとんど影響はなかったはずだ。同じように,中小企業の関係者も,都議選にはあまり大きな影響力はなかったようだ。しかし,参院選では無視できない存在となるはず。

 沖縄自民党は政府自民党と真っ向から対立している,この矛盾。

 などなど,都議選と参院選では,選挙の「土俵」が違う。なのに,都議選を参院選の前哨戦と公言してはばからない。いったい,メディアはなにを考えているのか,といいたくなる。そして,とどのつまりは,ああ,あの原子力ムラの代弁者なのか,というところに落ち着いてしまう。

 もう少し視点を変えてみると,都議選では投票率(43・5%)が史上第二位の低さだったこと,がある。その理由について考えられることは,多くの都民が自分の一票を投じたくなるような候補者がいなかったということ。その結果として,政党支持基盤の強い自民党,公明党,共産党の3党が躍進し,あとは沈没してしまった。自民党候補が全員当選したというが,その総得票数はそんなには伸びていないはず。その代わりにほかの政党の得票数が伸び悩んだだけのこと。

 参院選では,以上のようにどうしても避けては通ることのできない論点が目白押しである。したがって,その論点をめぐって激しい選挙戦が展開するはずであるし,国民の関心も高くなるはず。だとすれば,投票率は都議選よりはかなり高くなると考えられる。つまり,政党支持基盤のはっきりした組織票とは別に,無党派層の票が伸びてくるということだ。となると,都議選とはまったく違った展開が参院選ではみられることになるだろう。

 このほかにも,都議選と参院選とは決定的に違うという根拠はいろいろある。が,これだけ挙げておけばもう充分だろう。あとは,みなさんで数え上げてみてください。

 このブログでいいたいことは,以下のとおりです。
 メディアというものは,幸か不幸か,意識的にか無意識的にか,結果的には明らかに「世論を操作する」力を持ち合わせている。つまり,わたしたちは知らぬ間にメディアの情報に左右されている,ということだ。だから,都議選は参院選の前哨戦だ,などと繰り返して言ってくれては困る。そして,「連勝」は確実,などとも言ってほしくはない。視聴者の無意識を操作してしまうからだ。

 だから,わたしたちは,このことを前提にしてメディアとの対応の仕方を,戦略的に考えておかなくてはならない。これはとてもむつかしいことではあるが,選挙をするのはわたし自身なのだから。

4日間,部屋の片づけと格闘していました。久し振りの体力勝負。疲労困憊。全身,筋肉痛。でも,いたって元気。

 今週の木曜日(20日)から4日間,ぶっ通しで部屋の片づけをしていました。片づけといっても,ただの片づけではありません。築30年を経過した古いマンションですので部屋の下をとおっている給排水管を全部,新しいものと取り替える工事が7月中旬に予定されていて,その工事のためのスペースをつくらなくてはなりません。

 簡単に言ってしまえば,四つある部屋のうち二つの部屋を空っぽにしなくてはなりません。ですから,四つの部屋にびっしり詰まっていた荷物(そのほとんどは書籍と古くなった書類,雑誌類,など)を二つの部屋に移動させなくてはりません。が,そのスペースはまったくありません。では,どうするか。すべての部屋に分散しているすべての荷物を総点検して,必要最小限のものを残し,あとはすべて廃棄処分にする,そうして,絶対量を半分に減らす,というところからとりかからなくてはなりません。そこで,まずは,そのための区分けがたいへんだ,というわけです。

 しかも,この区分けは他人さまにお願いできる仕事ではありません。ただ,ひたすら,わたしの決断ひとつで「えいやっ!」と決めるしか方法はありません。この決断がたいへんでした。残すか残さないかの判断の基準などというものは,そんなにかんたんには決まりません。少しずつ作業をしながら,このあたりが選別のラインかな,というところが少しずつみえてきます。それでもなお,その日の気分によって,午前と午後では変わってきてしまいます。まあまあ,そんな具合でもっぱら自分自身と葛藤していました。「捨てる」ということはとてつもなく勇気の要る仕事だ,とあらためて知らしめられることになりました。

 その上で,区分けして残すものを段ボール箱に詰めて,ビニール袋をかぶせて,ベランダに積み上げる仕事と,廃棄処分にする書類や書籍・雑誌などを縛ってリサイクル資源にまわすものと,一般のゴミ処分にするものとを区分けしなくてはなりません。

 ですので,後者の仕事は,沖縄から二人の助っ人を依頼して,強引に呼び寄せ,手伝ってもらうことにしました。が,終ってみれば,この二人の助っ人が大活躍。一人はわたしの区分けしたもののうち,廃棄処分にしたものを再チェックしながらロープで縛る仕事をしてくれ,もう一人は保存する書籍を段ボールに詰めて,ヴェランダに積み上げる仕事(その前に,すでにヴェランダに出してあった大量のゴミを処理して,大掃除をする仕事がありました)に取り組んでくれました。この二人がみごとに獅子奮迅の大活躍をしてくれ,大助かりでした。

 沖縄からやってきた助っ人は身内の若い二人で,気力も体力も集中力もすっかり衰えてしまったわたしなどとは比べ物にならないほど,長時間にわたり,じつに内容のある仕事をしてくれました。若さはすごいなぁ,とあらためて感心してしまいました。

 それでも,最終ゴールまでは到達できませんでした。が,全体計画のほぼ7割は終わりましたので,あとの3割の仕事はわたしがひとりでこつこつとやることになります。でも,あと少しと,そのゴールはみえていますので,なんとかやり切れるのではないか,とほっと一息です。

 今日(23日)の午後5時で仕事を打ち切り,助っ人は羽田に向かいました。最寄りの駅まで見送って,戻ってきたら,どっと疲れがでてきたので,とりあえず,シャワーを浴びて,ひと眠りしました。それから夕食の支度をして,泡盛を少々。またまた,眠くなり,またひと眠り。ふたたび起きてきたら,こんどは早くも全身筋肉痛。おやおや,ず。久し振りの体力勝負で精根つきはて,筋肉まで音をあげているようです。

 少しからだを休ませて,また,残りの作業に取り組みたいとおもいます。
 病気をしていたわけではありませんので,どうぞ,ご安心ください。
 取り急ぎ,ブログを休んでしまったいいわけまで。

2013年6月20日木曜日

脱原発の報道が激減し,原子力ムラが復活する,この不気味さ。

 原発再稼働の申請が出されたとか・・・・・。原子力規制委員会が大飯原発再稼働を容認する方向だとか・・・・。死んだふりをしていた原子力ムラがふたたび機能しはじめたとか・・・・。安倍首相は「死の商人」と化して原発のセールス・ゲームに夢中だとか・・・・。

 その一方で,脱原発の声はかき消されてしまっている(『東京新聞』「社会時評」吉見俊哉・「かき消される脱原発の声」「事故の教訓手放さない」18日夕刊)。

 喉元すぎれば熱さ忘れる,という。だから人間は大きな悲劇をやり過ごして,生きていくことができる,ともいう。しかし,忘れてはいけない記憶・教訓まで忘れてはいけない。自分の首を締めたり,子どもたちの命を縮めてしまうようなカタストローフは,どんなことがあっても回避しなければいけないし,忘れてはいけない。なのに,いまの政府自民党は,すでに綻びをみせはじめた「アベノミクス」を旗印にして,そのカタストローフに向かって一直線。脇目もふらず猛進(盲進?)している,かにみえる。

 その頃合いやよしと判断したのか,しばらく死んだふりをしていた原子力ムラがふたたび息を吹き返し,表立って動きはじめている・・・・という。その顕著な例が原発再稼働への一連の流れだ。これから夏場に向かって,まざに出番だとばかりに・・・。

 そういえば,最近のデパートは以前にも増して「明るい」。どうみても過剰照明だ。その上,エアコンが過剰に効いている。老人は5分いるとからだが冷えてしまって,どうにもならない。スーパー・マーケットも同じだ。汗ばんだからだは一気に冷えてしまって,寒い。寒いから外に飛び出す。ほっとする。電車も同じ。駅舎もぐんと明るくなった。エアコンもがんがん効かせていて寒い。だから,常時,上着をもっていないと,都心にでることもできない。

 なんという矛盾。電気をもっと使え,とどこかから指令がでているのではないか。そして,電力不足を「記事」にして,やはり,原発再稼働は必要なのだ,と。みえみえの仕掛け。

 折も折,官房機密費が年間約12億円が支出されているという報道。どこに,どう使おうと一切公表する必要のないカネだという。闇から闇へ。一部の報道では選挙資金にも流れている,とか。一ヶ月約1億円。メディア対策に用いられてもなんの不思議もない。いまや政治はメディア頼みの時代だ。わざわざメディアの眼を引くような「事件」まででっち上げる時代だ。

 選挙運動で候補者に限りインターネットを利用することができる,とわざわざ法律までつくった。ついに「メディア・政治共同体」を構築し,政治が世論を積極的に操作する時代に突入してしまった。それでいて,監視の眼を張りめぐらせる,という。このときの「監視の眼」とは,だれにとっての「監視」なのか。こちらも原子力規制委員会と似たようなものになりかねない。ならば,いっそのこと選挙民にもインターネットを解放して,選挙運動を展開できるようにすればいいのに。そして,とことん「メディア合戦」をやればいい。選挙が面白くなる。若者も参入(乱入)すること間違いなし。

 それにしても,脱原発運動の報道がほとんど眼につかなくなってしまった。吉見俊哉氏が憂えるのもうなづける。わたしは吉見氏とは違ってもっと下品な「勘繰り屋」だから,原子力ムラと官房機密費が手を組んで「脱原発運動」つぶしにかかってきたか,とまことに「素直に」そう思う。こうして,いつのまにやら脱原発運動も終ったらしい,と世間に思わせれば,すべて「めでたし,めでたし」,ということらしい。

 しかし,そうは問屋が卸さない。毎週金曜日には首相官邸前での集会は絶えることなくつづいている。そして,それ以外の場所でも脱原発運動は,さまざまなやり方で展開している。ただ,メディアが無視するだけである。なぜ,メディアは無視するのか。メディアも立派な原子力ムラの一員であるからだ。

 これまでも何回も書いてきたが,原子力ムラとは,政界・財界・学界・報道界・官界の「五位一体」となった運命共同体なのだ。言ってしまえば,わたしたち「世俗界」は八方塞がりになっているということだ。つまり,完全に包囲されてしまっているのだ。それでも,原発は危ない装置なのだということが眼の前で証明されてしまうと,さすがの原子力ムラの「住民」も,一時的に「避難」して,死んだフリをしていた。ところが,頃合いやよし,ということになるとまたぞろ動きはじめる。

 これから一ヶ月。フクシマ,東北復興,沖縄基地,尖閣,TPP,ロシア,憲法,選挙の格差,原発,医療,介護,貧富の格差,正社員とそれ以外,学校教育,体罰,不祥事の連鎖,等々の多岐にわたる政治課題に,とりあえずの結論を出さなくてはならない。幸いなるかな,このところの地方選挙では自民党が大敗している。

 メディアが無視しているだけで,意外に「民意」はしっかりしているのかもしれない。

 わたしの選択の基準は簡単明瞭。いのちとカネとどちらを大事と考えるか。ドイツは「いのち」を選んだ。アメリカは「カネ」に執着している。アベノミクスは「カネ」のみ。「いのち」はいらないらしい。原子力ムラは自分の「ふところ」が温まればそれでいい,お互いの傷を舐め会う「仲良しクラブ」,人非人の集団。

 生きていてこそ「なんぼのもの」。カネが浴びるほどあっても放射能で汚染されたら「おしまい」。生身の人間として「生きる」こと,そこに「根」をはり,互助精神と情愛を軸に社会を再構築する,そのことを最優先する政治家がでてこないか。首を長くして待っているのに・・・・。新人よ,いでよ。インターネットだけで選挙運動もできる。若者の出番だ。ネットの威力を見せつける絶好のチャンスだ。

 それにしても,不気味な雰囲気が,いま,日本の社会を覆っている。この不気味さを取っ払うこと,その第一歩は「脱原発」。すべては,そこから,とわたしは考えている。断じて原子力ムラを復活させてはならない。

何回も言っておこう。「脱原発」からの世直し。出直し。原子力ムラという「妖怪」をつぶすこと。


2013年6月19日水曜日

スポーツのグローバル化とドーピング問題にどう向き合うか。

 「スポートロジイ」(Sportology=スポーツ学)と銘打つ新たな「学」を立ち上げ,その実績を世に問うために,われわれはどこから手をつければいいのか,と考えつづけてきた。当然のことながら,しかるべき手順を踏んで,一歩一歩前に進むべきではないか,と悩み考えた。しかし,そういう近代的なアカデミックな方法論の呪縛にとらわれているかぎり,モダニティに取り囲まれたフィールドの内側でのリング・ワンデルングから抜け出すことはできない,と気づく。ならば,モダニティの呪縛の外に飛び出し,まずは,隗より始めよ,である。

 われわれ「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)の研究員が,ここ数年にわたって取り組んできた研究テーマのひとつは「グローバリゼーションと伝統スポーツ」であり,もうひとつは「ドーピング問題」であった。前者のテーマについては,2012年8月に開催された第二回日本・バスク国際セミナー(神戸市外国語大学主催)で議論され,一応の成果をあげえたと考えている。そして,後者のテーマは「ISC・21」が主催する月例研究会でたびたび議論を積み重ねてきたものである。そこで,この二つのテーマを第二号の特集テーマとして設定することにした。

 第一特集・グローバリゼーションと伝統スポーツには,国際セミナー開催時に特別ゲストとして参加していただいた今福龍太,西谷修の両氏による基調講演が収められている。お二人とも,「ISC・21」の月例研究会にも何回も足を運んでくださり,わたしたちの意とするところを充分にくみ取ってくださった上での基調講演である。「スポートロジイ」の新たなる可能性に道を切り開く貴重な示唆に富んでいて,わたしたちを大いに勇気づけてくれる内容になっている。また,それに呼応するようにして若手研究者による原著論文三本がつづく。これまでの閉塞的な研究方法論の枠組みを悠々と乗り越え,伸びやかな感性のもとで魅力的な論考を展開している。


 第二特集・ドーピング問題を考える,の二本の論考もまた鮮烈をきわめる。一本は,これまで門外不出とされてきたドーピング・チェックの世界にメスを入れた元ドーピング・ドクター伊藤偵之さんによる研究報告である。眼からウロコが落ちる,そういう情報に圧倒されること間違いなし,の論考である。もう一本は,フランスの哲学者パスカル・ヌーヴェルによるドーピング問題の核心に触れる論考である。アンチ・ドーピング運動の正当性が根底から揺さぶられる問題提起になっている。橋本一径さんの手になる気合の入った翻訳紹介。いずれも本邦初公開であり,ドーピング問題に関心をもつ人にとっては必見・必読の論考である。

 これらの特集に加えて,もう一本の貴重な論考を上梓した。わたしたちの月例研究会では,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン──惨事便乗型資本主義の正体を暴く』上・下(幾島幸子・村上由見子訳,岩波書店,2011年)の読書会を積み上げ,議論を重ねてきた。そして,最後にその仕上げの意味で西谷修さんを囲む「合評会」を開催した。そのときのメモリアルとして西谷修さんが書き下ろしの論考を寄せてくださった。わたしたちの熱意に応答する西谷さんの渾身の力作といっていい。グローバリゼーションとはどういうことなのか,を考えるための重要な礎を得た思いである。いまも加速しながら進展をつづけるスポーツのグローバリゼーションの問題系を考える上で,これからますます重要視される論考になることは間違いないだろう。

 最後に,「スポーツとはなにか」という根源的な問いをつねに内に秘めつつ,その問いに応答しうる思想・哲学的な根拠を求める「研究ノート」(スポーツの<始原>をさぐる──ジョルジュ・バタイユの思想を手がかりにして)を掲載した。なぜ,ジョルジュ・バタイユの思想に注目するのか,なぜ,「スポートロジイ」の根拠をそこに求めようとするのか,を明らかにしようという意欲作である。

 以上が第2号の概要である。

 21世紀のスポーツ文化を模索する「ISC・21」の研究紀要『スポートロジイ』の第2号が,西谷修,今福龍太,橋本一径,伊藤偵之の四氏の力強い後押しによって,無事に世に送り出されることをこころから感謝したい。そして,これを励みに,毎月開催している月例研究会により一層の情熱をそそぎたいと思う。さらには,今日から,第3号の発行に向けて準備に取りかかりたい。

 併せて,読者のみなさんの忌憚のないご批判をいただければ幸いである。

 2013年6月15日 ようやく梅雨らしくなってきた空を見上げながら
             21世紀スポーツ文化研究所(「ISC・21」)主幹研究員 稲垣正浩

 これは『スポートロジイ』第2号の「巻頭のことば」の全文です。今日(19日),初校ゲラがでてきて,再度,読み直してみたら,第2号の概要を簡潔に紹介していることがわかり,これは早速に,このブログでも紹介しておこうと考えた次第です。編集を担当してくださっているみやび出版の伊藤雅昭さんも「とてもいい内容になりましたね」と応援してくれました。わたしも,そう思っています。ちょっとした話題になるのではないか・・・と楽しみです。

 ということで,『スポートロジイ』第2号の前宣伝まで。
 

2013年6月18日火曜日

『スポートロジイ』第2号,いよいよ刊行へ。巻頭言,編集後記を送信。書店に並ぶのが楽しみ。

 今日の午後から頭痛が激しくなってきて,母親を思い出していました。わたしの母親は天気予報ができる「頭痛」をもっていました。明日の天気を聞くと,しばらく頭の様子を伺ってから,いまの頭痛の具合からすると・・・・と前置きをしてから,たぶん,雨が降るとか,午前中は雨かもしれないが午後には晴れてくる,という予報をしてくれました。これが,また,不思議によく当たるので,わたしは頼りにしていました。

 その体質を遺伝的に受け継いだのか,加齢とともに母親の「頭痛」がわたしのものとなりつつあり,いつしか天気予報ができるようになってきました。しかし,残念なことに,母親の当たる確率の足元にも及びません。が,このところよく当たるようになり,傘をどうするかの判断のひとつにはなってきました。他人さまに迷惑をかけない範囲で,今日は晴れるとか,明日は雨だとか,自分で占って楽しんでいます。

 今日の午後は,突然の頭痛でしたので,前線が動いたな,そして,まもなく頭上を通過するな,ということは場合によっては,この蒸し暑さからすれば雷をともなうにわか雨がくるな,と判断しました。それで,あわてて事務所を引き揚げ,帰宅しまた。溝の口の駅を降りたら,パラパラと雨が落ちてきました。あわてて丸井に飛び込んで,少しだけ雨宿り。一雨きて,小降りになったところで,自宅に駆け込みました。自分の部屋に入り,真っ黒になっている東の空を眺めながら,さあ,来い,と雷雨を待っていましたが,それは来ませんでした。ですから,今日のところは半分当って,半分はずれ,というところ。気がついたら,頭痛もすっかり消えていました。

 昨日のうちに『スポートロジイ』第2号(「ISC・21」研究紀要)の編集業務を完了しようと必死に取り組み,予定していた「巻頭言」と「編集後記」を書き終え,みやび出版の伊藤さんのところに送信。これで,ひとまず,書くべき原稿はすべて完了。あとは,わたしの「研究ノート」のゲラ校正を終えれば,すべて完了です。そう思って,昨夜からゲラの校正にとりかかっていました。

 しかし,もともとの原稿が,このブログで書いたものですので,精粗にばらつきがあり,それを調整しようととりかかりました。が,それをやりはじめたらエンドレスだ,ということに途中で気づき,そのための時間がないので,しばし腕組みをして熟考。この「研究ノート」(スポーツの<始原>について考える──ジョルジュ・バタイユの思想を手がかりにして),よくよく読み返してみると,いいところは抜群にいい,われながら感心してしまうほどいい,しかし,駄目なところはまことにお粗末,いっそのこと全部カットしてしまおうか,と考えたり・・・・。こころが大きく右へ左へと揺れ動きます。でも,最後は,せっかくゲラにまでなったのだから,全部,掲載することにしよう,と決意。そして,時間の許す範囲で,精一杯,直しのできるところは直して,間に合わないところは眼を瞑ってそのままとすることにしました。

 これで明日,みやび出版の伊藤さんにゲラ校正を渡せば,とりあえず,わたしの仕事は完了。ほっと一息,というところで,いま,このブログを書いています。いつも思うことですが,最初の構想の段階と,最後の校正ゲラを読むときとでは,まったく違う世界がそこには広がっているということです。たとえば,最初に,どの原稿を第2号に掲載するかの目星をつけます。その段階で,ほぼ,すべては決まりなのですが,なんとなく全体がよく見えないまま,まあ,こんなものかという程度のところで見切り発車をしていきます。そうして,巻頭言を書く前に,他の人たちのゲラにひととおり眼をとおします。すると,そこには驚くべき光景が待ち受けています。ゲラになったとたんにワン・ランク,いや,それ以上にレベルアップしているのです。

 このゲラに,人によっては,さらに徹底的に推敲を重ね,見違えるような読物に仕立て直すことになります。このゲラの校正の段階で,素人の書き手とプロの書き手の,圧倒的な「差」を見せつけられることになります。これは,毎回,痛感するところです。やはり,活字になるということはたいへんなことですので,それなりにきちんとしておかなくてはなりません。話し言葉は,そんな記憶はありません,で逃げ切ることはできますが,文字は一度刻印されたら消えません。不動の証拠となります。ですから,ほんとうはしっかり校正しなくてはいけません。が,だいたいは,時間を切られていますので,充分なことはできません。その時間を無視してでも校正にエネルギーをそそぎこめるようになれば,一流というところでしょうか。なかなか,その境地に達するには,相当の修行が必要なようです。

 しかし,みやび出版の伊藤さんからの連絡では,みなさん,約束の時間内に,しっかりとゲラに朱を加えて,素晴らしい読物に変身しているとのこと。そして,どの論考も素晴らしい,とのほめ言葉。この厳しい眼力のも持ち主の伊藤さんが褒めることは滅多にありません。それを知っているだけに,えっ,ほんまですかっ?と思わずツッコミを入れてしまいました。

 ゲラを通読しただけでも,今回の『スポートロジイ』第2号は素晴らしい,とわたしは受け止めていました。それが,もっと推敲されてよくなっているとしたら・・・・,わたしは,いまから刊行が待ち遠しくて仕方がありません。

 いま,パリに滞在中の西谷さんも,超多忙の今福さんも,真っ赤になるほどの朱を入れてくださったとのこと,その気合の入れ方になみなみならぬ気魄を感じます。それに比べたら,わたしなどはまだまだ駆け出しだなぁ,と反省することしきりです。

 それでも,わたしなりの「思い入れ」は巻頭言に書いておきました。書店で,ぜひ,手にとって確認してみてください。7月20日刊行を目標に,いま,仕事をすすめています。刊行されましたら,入手の仕方など詳しい情報をこのブログでもお知らせしたいとおもいます。

 グローバリゼーションと伝統スポーツ,ドーピング問題を考える,が特集の二つの柱です。ちょっと類書をみない内容になっています。その意味では自信作です。乞う,ご期待!

「96条の会」発足記念シンポジウムを取り上げたNHKのテレビ・ニュースに,わたしが映っていたとパリから情報が入る。

 世の中は不思議なことがありすぎて,わたしなどは,もはやついてはいけないことが日々,多くなってきて困っています。たとえば,こんなことがありました。

 今日(17日),フランスのパリに滞在しているNさんからメールが入り,NHKのテレビ・ニュース(6月15日朝放映)に「ばっちり映っていましたよ」と教えてくれました。まさか,あのNHKが「96条の会」のシンポジウムを取り上げるなどとは夢にもおもっていませんでしたので,びっくり仰天です。それにしても,なぜ,パリから?

 こういう時代なのでしょうか。国内にいようが,いまいが,情報の流れはどこにいようとほとんど変わらない,ということ。つまり,こちらのレシーパーの感度の問題だ,ということ。レシーバーの感度が鈍ってしまったら,どこにいようが同じこと。情報を選びとる時代を生きるということは,こういうことなのだ,とまずは覚悟する必要がありそうです。

 ちなみに,Nさんは「96条の会」の発起人のひとり。ですから,いま,パリに滞在していても6月14日に行われた上智大学での「96条の会」発足記念シンポジウムが,どのようななりゆきであったのか,ずっと気になっていたのだとおもいます。ですから,そこにアンテナを張っていたら,必要な情報が飛び込んできた,ということのようです。いまや,世界のどこにいようとも,必要な情報を得ようと思えば,いかようにもなる,そういう時代なのだ,ということをいまさらのように知らしめられたできごとでした。いまや,情報は「受け身」ではなく,積極的に自分の意思で「探索する」時代に入ったということの典型的な事例に出くわしたという次第です。

 ちなみに,ニュースの映像を確認したい方は以下のアドレスでどうぞ。
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/2013615/k10015318441000..html

 ほんの一瞬ですが,なるほど,わたしが映っています。それを目敏く見つけたNさんの眼力に敬服です。たぶん,わたしが家のテレビでみていたとしても,気づかなかったのではないかとおもいます。なにせ,わたしの親しくしている友人たちからも,なんの連絡も入りませんでした。だれも気がつかなかった,ということなのでしょう。

 わたし自身は,最近は,NHKのニュースをほとんど見なくなってしまいました。なぜなら,腹が立って腹が立って仕方がないからです。いま,なぜ,このニュースなのか,と。もっと重要なニュースがあるだろうに。ディレクターはなにを考えているんだ,とまたまた吼えてしまうからです。ならば,見ない方が精神衛生上いい,と判断しました。その代わりに,インターネットで,こちらの知りたい情報だけを,選んで読むことの方が健全ですし,ネット検索をとおして,みずからの思考を練り上げることも可能だからです。この方法の方がはるかに世界の動向を見極めるには有効だということもわかってきました。

 こんな個人的なことを書いたのはほかでもありません。わたしたちが日常的に受け止めている情報には限りがあるということを再確認しておきたかったからです。つまり,その限られ情報にもとづいて自分の見解を構築し,行動しているという事実を,そして,それ以外には方法はないという事実を,あえて再確認しておきたかったからです。すなわち,人間が生きるということは,どこまでいっても「ドグマ的」である,ということです。

 いま,パリにいるNさんが,早くから,ピエール・ルジャンドルの「ドグマ人類学」に注目し,多くの翻訳本を世に送り出していることもよく知られているとおりです。しかも,あえて,みずから「日本ドグマ人類学会事務局」を任じていることも,こういうことをとおして納得させられてしまいます。もっとも,Nさんは,ルジャンドルのいう「ドグマ」ということばの正しい意味での解釈をした上での,独特の運動を展開なさっていることを断っておきたいとおもいます。

 ルジャンドルで検索すれば,ここで言う「Nさん」がだれであるかも自明のことです。ついでに,るじりんどるの本もぜひお薦めですので,読んでみてください。たくさんの翻訳本が,いま,書店に並んでいます。

 Nさん,いまごろは,ひょっとしたらルジャンドルとワインでも傾けながら楽しい会話がはずんでいるかもしれません。ワインもほんのちょっぴり舐める程度にしか飲めないNさんではありますが・・・。でも,一献傾けながらの雰囲気を存分に満喫する「わざ」も心得ていらっしゃるNさんです。短期の外国出張ですが,どうぞ,お元気で,パリの生活をエンジョイしてきてください。

 また,7月からの名講義をお待ちしています。

 なにか,気がつけば,Nさんへのメールの応答をしているようなブログになってしまいました。お許しのほどを。

2013年6月17日月曜日

パワー・ポイントによるプレゼンテーションについて,ひとこと。

 まだ,大学に勤務していたときから,折にふれ異議申し立てをしていたのですが,一向に相手にもされず一笑に付されたまま,納得できないでいたことのひとつにパワー・ポイントによるプレゼンテーションがありました。たとえば,大学院の修士論文や博士論文の審査会などでパワー・ポイントによる発表がなされることが多くありました。これはこれでいいとおもっていました。この方がわかりやすいという点では文句はありません。しかし,発表が終って,質疑に入ったときに手元になにも資料がありません。すると,どういうことが起きるか。ちょっと記憶を確認しようとおもってもどうしようもありません。あとは,あいまいな記憶を頼りに質問をするしかありません。これではしっかりとした「審査」はできません。ですから,このパワー・ポイントによる発表形式は嫌いでした。終ったあとには,ほとんどなんの痕跡も残らないのです。すべてが忘却のかなたに消え去るのみです。せめて,審査会なのだから,ハードのペーパーを提出すべきではないか,と提案したことがあります。が,そのときの指導教員の応答を聞いて呆気にとられてしまいました。ペーパーを残すと盗用される恐れがあるので,あとに痕跡を残さないパワー・ポイントで発表させているのです,と。国際的な権威のある学会ならともかくも,大学院の修士論文レベルの研究発表です。しかも,その場の多数の意見だったことに,またまた驚きでした。

 同じようなことが,その後,たとえば,わたしの所属しているスポーツ史学会大会でも多くなってきました。パワー・ポイントで発表しつつ,ペーパーも配布する発表者がほとんどですが,時折,パワー・ポイントで発表するだけで,なんの痕跡も残さない発表者がいます。しかも,その傾向が徐々に増えつつあります。これは困った問題だとおもっています。やはり,学会からもどって,あの発表が面白かったなぁと振り返り,そのときの資料を頼りにもう一度,記憶をたどり直すことが,わたしの場合にはよくあります。そのときに資料がなにもないのは困ってしまいます。

 企業などでなされる極秘の戦略会議などでパワー・ポイントを用いて,出席者の合意をえるためだけの目的ならば,それでいいでしょう。間違ってもペーパーの資料は残さない方がいい,という特別の場合もあります。それはそれでいいとおもいます。しかし,極秘にする必要もない,むしろ,みんなに広く周知させたい情報をパワー・ポイントで説明して,あとに手元になにも残らないやり方というのはいかがなものか,と考えてしまいす。しかも,そこでの決定に責任をもたされるということになると,話は別です。

 そういうことが,今日,起こりました。わたしの住んでいるマンションの管理組合のある部会の引き継ぎ会議でのことでした。以前にもこのブログで書きましたように,ことし抽選でみごとに理事に当選してしまいました。75歳以上は辞退することができるという規定がありますが,これまで,なにもしないでお世話になるだけでしたので,お邪魔にならない程度にできることをやってこれまでの恩義を果たすべきだとおもって引き受けました。その結果,管理組合理事会のある部会にわたしも所属して,それなりの役割を分担することになり,その引き継ぎのための会議が今日ありました。そのときの会議が,なんとわたしの嫌いなパワー・ポイントによる説明でした。手元にはなんの資料もありません。それはそれは立派な,要領を得た,とてもわかりやすい手慣れたプレゼンテーションが展開されました。

 途中で,あれっ?と思うことも何回もありました。が,そのすべてをメモすることもできないまま,終って「なにか質問はありませんか」と仰る。なんとなくわかったような気にはなるのですが,もう一度,確認しようと思ったときには手元になにもありません。ですから,及び腰のまま,どうしても気がかりだったふたつの点について,教えてください,とお願いをしました。ほんとうは,もっともっと細部にわたって教えてほしいことがたくさんありました。だって,これからたった4人のまったく経験のない新しい理事で,この部会を支えていかなくてはなりません。その上で,リーダーと書記を決めなさい,ときた。初めて顔合わせをしたばかりのどこのどなたかもよくはわからない人同士で,リーダーと書記を決めることのあまりの不自然さに愕然としてしまいました。そうか,管理組合というのはこんな風にして維持されてきたのか,と。

 で,引き継ぎ事項については,あとでメールで送信します,ということで会議を解散。しかし,いまだにそのメールは届いていません。

 で,どうやら理事会の全体会議のことを合同会議と呼び,そこが理事会の最高の意思決定機関となっているのですが,そこでの会議も,今日,確認したかぎりでは,パワー・ポイントを使って説明をし,採決をするという手続を踏むとのこと。だとしたら,リーダーはパワー・ポイントを駆使してプレゼンテーションができる人しか不適切だ,ということになってしまいます。いろいろ聞いてみますと,必ずしもその必要はないとの説明もありました。

 しかし,主流はすでにパワー・ポイントを用いてすべて処理をし,ペーパー資料のような痕跡を残さない方向に向かっているようです。でも,それは違うのではないか。パワー・ポイントを用いて説明してもいい,同時に,手元に残るペーパーの資料(パワー・ポイントの画面をプリント・アウトしたもの)も配布すべきではないか。そうしないと,あとで,確認する方法がなくなってしまう。情報が上滑りをしていく可能性が大である。

 とまあ,管理組合の理事初体験の,引き継ぎ会議で出会ったパワー・ポイントだけによる説明に,以前から感じていた不安,それも,もっともっと進化したかたちでの,そこはかとない不安を感じた次第です。まあ,どうでもいいや,と思えばこれでいいのです。しかし,いま,すでに,あの話はどうだったのかなぁ,とおもっても確認する方法がありません。この疑問をいだいたときに,すぐに確認できることが重要なのだとわたしは考えています。それがなくなってしまうと,「考える」ということができなくなってしまう,のみならず,考えるということをしなくなってしまいます。そここそが大問題だとわたしは考えています。要するに「思考停止」の始原。

 さあ,これから管理組合にどのようにコミットしていくのか,考えなくてはならない正念場に立たされることになりました。まともなことを言えば言うほど嫌われるだろうし,かといっていい加減にしておくわけにもいかないし・・・・,さて,久し振りの思案のしどころ。

 パワー・ポイント使い方の功罪については,これからも慎重に考えていく必要があることは間違いありません。わたしはそう固く信じています。まずは,隗より始めよ。そのことわざどおりに,これからも慎重に対処していくことにしたいとおもっています。

 パワー・ポイント,とんだ騒動のお粗末。今日はここまで。

2013年6月15日土曜日

日本野球機構(NPB)よ,これでは全日本柔道連盟と同じではないか。

 またまた開いた口が塞がらない話。もう,すでに大きな話題になっているので,詳しいことは省略するが,統一球変更隠蔽疑惑の取り扱いについて,日本野球機構(NPB)の代表者会議で「コミッショナーの責任を不問」に付した,というのだ。

 これでは全日本柔道連盟と同じで,「自浄能力なし」とみずから認めたようなものだ。ということはNPBも全柔連も一つの組織体として「自律/自立」していない,ということだ。人間でいえば「未成年者」。

 だから,第三者委員会に丸投げするという。一見したところ「公明正大」であるかのような錯覚を起こすが,そうではない。自分たちの犯した不祥事を自分たちの手で決着をつける自浄能力を欠いている,ということだ。だとしたら,そういう組織・団体の幹部・執行部はすでに存在する意味を失っている。自力で管理・運営する能力がない,と認めたのだから。となれば,さっさとみずから身を引く以外にないではないか。

 それも許されないなにかが,その背景にはありそうだ。とてつもない「巨悪」が。だから,第三者委員会を立ち上げて,最終的には「とかげの尻尾切り」の落としどころを探そうとする。だって,第三者委員会もまた同じ穴の狢なのだから。

 加藤良三コミッショナーは「知らなかった」と嘯いたが,それはないだろう。統一球の検査結果は,検査のつど「すぐにコミッショナーに報告する」ことになっている,のだから。こんな簡単な検査結果の「報告」義務をサボタージュするとは,とても考えられない。にもかかわらず検査結果も統一球の変更も「公表」されなかったということは,どこかに「密約」がありそうだ。

 その手がかりとなりそうな記事が,今日の『東京新聞』に,ほんの少しだけ,ちらり,と載っていたので引用しておく。

 2011年に導入した統一球は,製造したミズノ社との二年契約が終わった昨年末に契約を延長した。12球団は昨年11月の実行委員会で,延長するかどうかの判断をNPBの下田邦夫事務局長に一任していた。この日の会議では,各球団にも責任があることを確認。日本ハムの島田利正球団代表は「(下田事務局長に)一任したところで,すでに12球団にも責任が生じていると思う」と話した。

 統一球をミズノが契約を延長できるかどうか,あるいは,他のメーカーに変えられてしまうのか,という問題はミズノにとっては死活問題にもつながる大問題だ。だから,あの手この手で「契約延長」のために最大限の「努力」をしたことは,ほぼ,間違いないだろう。このときに,公にはできない,なにか特別の密約があったのではないか,とこれはわたしの推測。この問題はそのうち,優秀な新聞記者がいれば,いずれ明らかになることだろう。それを楽しみにしたい。

 さきの新聞記事で気になることは,事務局長に一任した段階で,各球団にも責任がある,という認識をみんなが共有していることだ。だとしたら,みんなで,どこが間違っていたのかを検証すべきなのに,それはやってはいない。しかし,これは契約延長手続きの一任であって,このこと自体は今回の「統一球変更隠蔽」とはなんの関係もない。にもかかわらず,「責任が生じている」と問題をすり替えているところが,納得できない。

 もう一点は,記事のほかのところで「コミッショナーはオーナー会議で任命されるため,各球団は自らの任命責任を問われることを恐れているようにも見える」という点である。これは逆ではないか。任命責任があるからこそ,コミッショナーの今回の対応についてきびしく糾弾すべきではないのか。なにかに「怯えて」腰が引けているようにみえて仕方がない。

 加藤良三といえば,外務官僚としてエリート・コースを歩み,とんとん拍子で出世し,若くしてアメリカ大使をつとめ(最長の6年間),アメリカのシンクタンクからなにやらの「賞」を受けた人と記憶している。東大法学部出身の俊才である。その実績からして,統一球変更隠蔽疑惑を起こすような人物にはみえない。しかし,それとこれとはまったく関係がない。今回は,ひとりの人間としての判断能力が問われているにすぎないのだ。

 もっと厳密に言ってしまえば,コミッショナーの「知らなかった」という第一発言が大問題なのだ。組織のトップが組織内の,それも統一球を変更するかしないかという大問題について「知らなかった」では済まされまい。もし,ほんとうに「知らなかった」としたら,そのことの方がもっと問題だ(賢明なダルビッシュ投手はみごとに問題のツボを指摘している)。

 ことの真相はいつも「薮の中」。これから,どこまで事実関係が明らかにされるのか,そこが最大の課題。たぶん,大相撲のときと同じように,なんだかわかったようなわからない,つまらない「尻尾切り」で終わりとなりそうだ。いつも責任はうやむや。

 検察がにせ調書を裁判所に提出しても,責任は問われない,そういう国にいったいいつからなってしまったのか,そのことの方がもっともっと大きな問題だ。

 でも,こういうNPBの対応の仕方のなかに,いまの,日本社会が抱え込んでしまった抜きがたい病根の典型的な例をみる思いがする。なさけないことではあるが・・・・。

「96条の会」発足記念シンポジウムに1200人余が集まる。第一会場から第九会場までびっしり。

 「熟議なき憲法改定に抗して」と題する「96条の会」発足記念シンポジウムが,今日(6月14日・金),上智大学を会場にして開催されました。5月23日の発足と同時に賛同者名簿に登録をして,微力ながら支援していこうと考えていましたので,行って参りました。

 わたしは少し早めに行って席を確保しておきましたが,これは賢明でした。申込み不要,参加自由,とありましたのでこれは相当の人数が集まるのではと予想していました。行ってみたら会場があまりに小さいので「おやっ?」とおもいました。大学の教室としてはやや大きめの,ざっと数えてみて250人が坐れるかどうかという広さでした。今日のシンポジストの顔ぶれからして,これでは無理だろう,とわたしは直観しました。案の定,あれよあれよという間に人でいっぱい。

 主催者はあわてて,教室をもう一つ確保して「第二会場」を設定し,ビデオで撮影した映像をとどける,という応急の手当てをすることになりました。が,どうやらつぎつぎに人が集まってきて,主催者はその対応に追われているらしく,開始時間がきてもなかなかはじまる様子はありません。主催者側のお手伝いには岩波書店のNさんも駆り出されていて,おおわらわ。尋ねてみると,いま,第三会場がいっぱいになってしまったので,第四会場の設定に入っている,とのこと。

 わたしがいる第一会場は立ち席までいっぱいで,人が通り抜けることもできないほどの盛況で,立錐の余地もありませんでした。会の終わりのアナウンスでは第九会場まで設定して,推定で1,200人以上の人が集まったようです,とのこと。会場からいっせいに拍手がわき起こりました。

 主催者は250席で間に合うと踏んだのでしょうが,その5倍以上もの人が集まり,嬉しい誤算だったようです。それだけ「96条」改定についての関心が高いということなのでしょう。大手のメディアは「96条」の会ができたことも,ほとんど無視。しかし,発起人の人たちが頑張って,それこそ「草の根」運動的にそのネットワークを広げ,それに呼応してこれだけの人が集まったのですから,これはもう立派な「事件」だ,とおもいました。

 それでも,マスメディアのテレビ・クルーは一社もきてはいません。腕章をつけた新聞社もひとつも見かけませんでした。おそらく,どこのメディアも無視でしょう。となれば,一般市民の人びとはほとんどだれも知ることはありません。しかし,1200人を超える人が集まったという話が,あちこちにじわじわと伝わっていけば,政府自民党も心おだやかではなくなるでしょう。すでに,安倍首相の憲法改定の主張も,ここにきて急にトーンダウンしているように見受けます。

 これから東京都議会議員の選挙がはじまりますし(今日,告示),7月には参議院議員選挙が待っています。「96条」,そして「9条」の改定を阻止しなくてはならないと考えるわたしたちにとっては命懸けの選挙となります。どうあっても,改定阻止をはかるためには,トータルで三分の一以上の議席を確保する必要があります。

 今日のシンポジストのひとり,小森陽一さんは,「メディアが無視するかぎり,われわれは草の根運動を展開する以外に方法はありません。ですから,わたしは毎週末,どこかにでかけて行っては「9条」を語り,「96条」を語っています。「9条」の会も,いつのまにやら6000以上もの各地方の市民団体が組織して,活発な活動をつづけています。こんな小さな運動でも,じわじわと政府自民党のボティーブローとなって,いつかは大きなダメージを与えることになる,と信じて今日もここにきました。そうしたらこんなに大勢の人が集まってくださり,大いに勇気づけられました」と結んで大きな拍手をもらっていました。

 山口二郎さんも,短い時間のなかで,とても興味深い話をしてくださいました。首相は民意を問うというが,いま,民意を問わなくてはいけない問題は「原発」問題だ。こちらは民意を無視しておいて,憲法改定にだけに民意を問おうとしている。まことに自分勝手なご都合主義の理屈だ,とバッサリ。さらに,二分の一と三分の二の議決の意味がわかっていない,とも。二分の一は日常的な政治課題を解決するための法律をつくるときのような,短期の意思決定の方法だ。三分の二は,憲法のような子どもや孫の世代までも視野に入れた長期にわたる国民の安寧を視野に入れた意思決定の方法だ。こんなことも政治家たちはわかっていない,と。

「96条の会」について詳しく知りたい方は,以下のHPでご確認ください。
http://www.96jo.com/
「呼びかけ文・2013年5月23日」
「96条の会がめざすこと」
「2013年5月23日『96条の会』発起人」一覧
「賛同者一覧」
などをみることができます。
なお,カンパも行っていますので,ぜひ,ご協力のほどを。

2013年6月14日金曜日

近藤誠著『がん放置療法のすすめ──患者150人の証言』(文春新書,2012年刊)を読む。「本物がん」と「がんもどき」を見分けよ,とのこと。

 がんは「早期発見,早期治療」が大原則だ,とわたしは固く信じて疑うことはありませんでした。しかし,この本を読んで,この信念がぐらつきはじめました。なんということか。この著者の近藤誠医師は「がんは放置しておけ」というのです。もちろん,すべてのがんがそうだということではなくて,早期に治療が必要ながんもある,と近藤医師はいいます。しかし,がんの大半は,放置しておくのが一番だ,という結論を導きだしています。

 これには驚きました。がんの大半は「がんもどき」。つまり,がんのようであってじつはがんではない,だから「がんもどき」だ,と。こちらのがんは放置せよ,と。近藤医師の言うには,がんには「本物がん」と「がんもどき」の2種類がある,と。「本物がん」は見つかったときにはすでにがんの転移がはっきりしているものであって,しかも,その転移は本物がんが発症するとほとんど同時に起きているので,間違いなく何年も前に転移しているのだ,といいます。しかし,「がんもどき」は転移していません。ある局部ががんのような症状を呈したとしても,そのほとんどは「がんもどき」である,と近藤医師は断言します。その場合には,まずは,しばらく観察して様子をみることを薦めています。つまり,時間稼ぎをせよ,と。そして,その間にがんと向き合う心構えを整えよ,と。

 治療法には,摘出手術,放射線療法,ホルモン療法,抗ガン剤療法,などがあるので,そのうちのどれを選ぶかは患者が決めることが大事だ,とも言います。そのための心構えのための時間稼ぎが重要なのだ,というわけです。つまり,がんの治療法についてひととおり学習をして,その上で,自分で決めなさい,と。あとは,担当医と相談の上で,お互いが納得のいく治療法を選べばいい,と。つまり,近藤医師のスタンスは,医師のいいなりになるのではなくて,患者が自分なりに納得のいく治療を受けるべきだ,というのです。

 近藤医師は,すでに多くの著書を書いていて,そのつど書店には平積みにされ注目されていました。たとえば,文春新書だけでも『抗ガン剤は効かない』『がん治療総決算』『成人病の真実』『患者よ,がんと闘うな』などがあります。わたしも気になっていましたので,ときおり手にとって拾い読みはしていました。しかし,「ほんまかいな」という疑念の方が大きかったので,購入して熟読するということまではしませんでした。しかし,今回は『がん放置療法のすすめ』とあり,これまでの著作の集大成のように感じられましたので,じっくり読んでみることにしました。

 その結果は,大いに納得,というものでした。わたしの読後の結論は,がんとわかったらおとなしくお付き合いをすること,ああ,そうですか,では,仲良くしましょうね,くらいの気構えでいるのが得策だということです。「本物がん」であれば,すでに転移しているわけですので,その進行に素直にお付き合いすること,そして,生活に支障をきたさないかぎり,無駄な抵抗はしないこと,もし,苦痛などの症状がひどくなってきたらそのための対象療法にとどめること,あとはがんにお任せ,というくらいの覚悟を決めておこう,といまはおもっています。そして,近藤医師のいう転移のない「がんもどき」であれば,あわてることなく悠然と,これまでどおりの生活をつづけること,と考えることにしたいとおもいます。でも,そのときになったらどうなるかはわかりませんが・・・。でも,とりあえずは,こんなことを考えています。

 わたしの身内にも,友人にも,いま,まさにがんの治療を受けている人もあって,どのように対応したらいいか困っていたのは事実です。顔を合わせたときに,どのようなことばをかけるのがいいのか,ほんとうに困ってしまいます。ですから,あまり踏み込んだ話にはならないところで切り上げるのが本音でもあります。とても神経を使うことは間違いありません。かといって,では,どうすればいいのか,と困っていました。が,この本をよくよく読んでみますと,あまり深刻に考えない方がいいということもわかってきました。

 といいますのは,がんだけが特別の病気ではなくて,風邪や結核などのような呼吸をとおして起こる感染症や,赤痢やコレラのような特定の病原菌によって感染する病気と同じだ,と考えればずいぶん気持ちも楽になるというわけです。実際にも,がんが直接の死因になることはごくまれであって,その他の臓器の機能低下によるものがほとんどだということです。ですから,ゆったりと構えることが一番,といまは思えるようになってきました。

 わたしの若いころには「がんノイローゼ」という病気が大きな話題になったことがあります。いわゆる「がんノロ」です。それほどに,がんにかかったら治らない,あとは黙って死を待つだけだ,というあきらめの気持ちが強くはたらいた時代がありました。その影響から,おそらく「早期発見 早期治療」というキャッチ・フレーズがまたたくまに浸透したのだとおもいます。そして,それだけが強烈にインプットされてしまったというわけでしょう。

 しかし,よくよく観察してみますと,がんから生還した人もわたしのまわりにも少なくありません。そのなかには,どうせ死ぬのであれば治療はいらない,と言って自分から治療を放棄した人もいます。これなどは,この本の著者・近藤医師によれば「がんもどき」であった可能性がきわめて高いと思われます。

 まあ,自分のことは書くまいとおもっていましたが,白状しておきましょう。じつは,50歳のとき,確率二分の一でがんだと診断されたことがあります。膵臓がんの疑いです。その後,いろいろの経緯がありましたが,結果的にはなんとか生還できた,という次第です。いま考えてみると「がんもどき」であったようです。なぜなら,わたしの信頼しているお医者さんに相談したところ(遠距離だったので電話で相談),わたしの性格などもよくわかっている人でしたので,そのことばを信じることにしました。その結論は「忘れなさい」。そして,「自分の好きなことに熱中しなさい」,というものでした。そのお蔭でこんにちがあるというわけです。この人は「名医」です。

 その後も定期健康診断で,がんを疑われたことが二度ほどあります。そして,精密検査を受けるよう指示されました。しかし,結核のような感染症ではありませんので,他人に迷惑をかけることもあるまいと判断し,無視して,忘れることにしました。さきの名医のことばを信じて。それは結果的には正解だったようです。

 この本を読んでいますと,著者は「がんを宣告して,積極的に治療をすすめる医者のなかには,金儲けを念頭におく人が少なくない」とかなりはっきりと,しかも,繰り返し書いていることに気づきます。どうやら医療従事者の金儲けのために「医療」の本質がゆがめられている背景も,現実にはあるのだということが透けてみえてきます。がんは,その意味では,医療の目玉商品のひとつとして利用されているようにもみえてきます。

 放置療法は儲かりません,と近藤医師は断言しています。ですから,医者の方にも相当の決意が必要だとも述べています。こんなことばを医師から聞かされますと,医療にも「経済原則」が立派に侵入しているんだなぁ,ということを垣間見る思いがしました。「医は仁なり」ということばが,はるか遠くにかすんでしまう時代になってしまったんだ,という思いも新たにした次第です。

以上,読後の感想まで。

2013年6月13日木曜日

全柔連上村会長続投表明と聞いて,開いた口が塞がらない。柔道,破局への道。

 嘉納治五郎が体系化した柔道が,国際化とともにJUDOとなり,ついには「これは柔道ではない」とまで言わなければならないみじめな情況がすでに世界を支配してしまっている。もう,いまから世界のJUDOを日本の柔道にもどすことは不可能だろう。日本の柔道は間違いなく破局への道をまっしぐら,と言わざるを得ない。まずは,このことについて全柔連はどのように認識しているのか,わたしはそこを知りたい。

 なぜなら,柔道発祥の国・日本から世界柔道連盟に理事一人を送り出す力さえ,いまは持ち合わせてはいないからだ。このあまりにみじめな現実をどのように考えているのか。この点についての認識も,あまりにもお粗末なのではないか,と大いなる疑念をいだいている。世界柔道連盟に日本の理事不在のまま,柔道のルール改正がひっきりなしに行われている。その実態は,嘉納治五郎の描いた理想の柔道からはどんどん隔たっていくばかりだ。その動向に歯止めをかける理事がひとりもいないのだから。

 JUDOの試合の不思議な競技の光景はこうして生まれたものだ。その光景はオリンピックや世界選手権での柔道の試合をみれば一目瞭然である。判定のレベルもきわめて低い。というより,なにをJUDOの技と考えればいいのか,その基準すらも明らかではないからだ。みているわたしにも,なにを技と考えているのか,なにが優勢なのか,なにがなんだかわからない。

 こういう世界的な趨勢に対して,全柔連は,すでに長い間,なんの対応もできないまま放置してきたのだ。そして,本来の柔道の息の根を止められてしまい,いまや,JUDOを後追いしながら,それを選手たちがマスターするために汲々としている。全柔連の執行部をあげて,国際試合に勝つために全力投球である。いいではないか。負けたって。堂々と,これが柔道だという試合を展開して負けるのであれば。いな,勝負を度外視して,柔道のなんたるものかを世界中の人が見守るなかで,堂々と試合でみせつけるくらいの矜恃をもちたい。それだけが,いま,日本の柔道を,世界に向けて理解してもらうための唯一の方法ではないか。

 それをただメダル欲しさに勝ちにいく。そのために,選手たちだけが犠牲になっている。いじめやしごきを受けたり,不要な暴力まで受けたり,挙げ句の果てにはセクハラまで受けなくてはならない,まことにみじめな醜態をさらけだしている。いったい全柔連はなにをやっているのか,と全国民の失笑をかっている。のみならず,世界中のJUDO愛好家から顰蹙をかっている。これでは文部科学省が柔道の必須化を導入しても,逆効果を招きかねない。

 のみならず,助成金不正受給まで発覚し,その組織が腐り切っていることまで明るみになったいま,それに的確に対応する能力すら持ち合わせてはいない。内閣府の公益認定委員会から報告書の提出を求められた際にも,執行部の一部の人間が作成した報告書は,A4用紙2枚に箇条書きされていた,という。もはや,開いた口が塞がらないどころの話ではない。

 しかも,その報告書に盛り込まれた内容たるや,もっとお粗末だったという。助成金問題を調べる第三者委員会の中間報告に対して「内容に違和感がある」と主張したり,実際に暴力を受けた選手は「告発した15人のうち0~2人」としていた,という。これをみた第三者委員会は「組織としてのガバナンスのあり方に疑念を抱く」と痛烈に批判したことも,わたしたちの知るところだ。こんごの対応の仕方によっては「公益認定の取り消しもあり得る」とまで警告されている。

 この警告を受けた直後は,さすがの上村会長も「近く進退を明らかにする」と述べ,辞任を示唆していたことも,わたしたちの記憶に新しい。にもかかわらず,ここにきて一転して「きちんと改革することが私に課せられた使命」などと述べたという。まさか,マリアス・ビゼール国際柔道連盟会長の「上村会長の続投を100%支持する」という社交辞令を真に受けたわけでもあるまいに・・・・。世界中の笑い物になっていることを百も承知でビゼール会長は,こんなジョークとも受け取れる談話を残して日本を去っていった。これで当分の間は,全柔連を無視しておいてもいい,とビゼール会長は臍を噛んでいることだろう。

 今日の『東京新聞』はこのことを大きく取り上げ,みごとな紙面を構成している。とりわけ,井上仁記者による記名記事が秀逸。見出しタイトルは「理解に苦しむ続投」。それと,「理事会解散一日も早く」という見出しの了徳寺学園理事長(全柔連評議員・了徳寺健二氏)の談話もみごと。たとえば,上村会長の続投表明に対して「それでは済まされないことを分かっていない悲しさ。国民,真の柔道家は決して同調することはありません」と,わたしの涙を誘う。25日に予定されている評議員会ではみずからの考えを述べるという。ようやくひと波瀾起きそうな雰囲気が漂いはじめた。

 いまこそ,全柔連の憲法ともいうべき「寄付行為」に謳われている「評議員会」が機能すべきときだ。ここが決起すれば,理事会は身動きできないように規定されている。さて,どこまで一致団結ができるか。「真の柔道家」の立ち上がるべきときだ。評議員の多くは各都道府県連盟の会長が兼務している。いまこそ,柔道家の良識が問われるときだ。

 柔道が,破局への道をまっしぐら・・・・ということにならないためにも。

2013年6月12日水曜日

『東京新聞』掲載の三浦雄一郎さんの「手記」を読む。死と向き合う体験に注目。

 昨日のブログで書いたように,三浦雄一郎さんの「手記」が,さっそくに今日(6月11日)の『東京新聞』に掲載されました。テレビというメディアの報道内容のいい加減さにくらべたら,本人直筆の「手記」はそれなりに内容があって,伝わってくるものが重い。

 三浦さんの「手記」は,そんなに長いものではないので,情報を共有する意味でここに転記しておきたいとおもいます。

 史上最高齢でエベレスト登頂に成功した冒険家三浦雄一郎さん(80)が今回の挑戦を振り返った手記が届いた。という枕があって,「80歳エベレスト登頂」「三浦さん挑戦振り返り手記」「生還 新たな夢の始まり」という見出しが付いています。手記の本文は以下のとおり。

 2013年5月23日午前9時(ネパール現地時間),私は80歳にして三度目の世界最高峰エベレストの山頂へ立つことができた。5月16日に標高5,300メートルのベースキャンプを出発。若手あったら4~5日で到達する山頂へキャンプ数を二つ分増やして8日目の頂だった。
 5年前,75歳での登頂後,常に見据えてきた夢の頂。この5年間というのはどのような肉体的な意味を持つのであろうか。
 日本人男性平均寿命を超え,不整脈や76歳での骨盤骨折,特に心臓はヒマラヤ出発の直前に手術をしたばかりだった。加齢による衰えをさまざまな工夫や意志の力によってどれぐらい乗り越えることができたのか。
 今までの経験を踏まえた新たな発想や装備,斬新なトレーニング方法を活用した。
 高みに上がるにつれて身体の調子は良くなり,標高約8,000メートルのサウスコル(通常アタック前にテントを張る場所)のキャンプ4(C4)に到達したときは,37歳で初めてそこまで登った時より体調は良い。70代も体調は良かったが,あのエベレスト大滑降を行った時よりも良かった。
 無駄に体力を使わず,補助酸素を使って体力の温存と高所への順化がバランス良くできていた。ここからは死の世界「デスゾーン」と呼ばれる8,000メートル以上での登山。山頂までの標高差はまだ千メートル近くもある。
 最終キャンプのC5への登攀(とうはん)は猛吹雪に見舞われた。積もった雪がまるであり地獄ように足元で崩れ,30センチ登ると20センチずり落ちる。苦しいなんてものじゃない。娘からの電話「無理しないで」。しかし無理をしなければ世界最高峰の山頂へは登れない。
 数時間の休憩後,午前2時に出発。風はなく絶好のコンディション。薄い大気にあえぎ,急な勾配や研ぎ澄まされた稜線(りょうせん)を登る。
 頑張って,頑張って,頑張って・・・そして登頂。眼下に広がる美しい地球を眺め,はるかなる宇宙を見上げた時にこれ以上なく幸せでうれしく,これ以上なく疲れていた。
 下山は死闘となった。C5直前で身体が全く動かなくなった。長時間にわたる超高所での行動と充分な栄養補給ができなかったことによる極度の疲労と脱水症状。C5で休息と食糧と水分をとることができた。
 「生きて還(かえ)りたい」という唯一の強い思いで再び立ち上がり,C4へたどり着く。翌日,長い時間をかけて慎重に標高6,500メートルのC2へと下った。デスゾーンでの滞在は足かけ4日,登攀行動は計36時間以上となった。
 山頂へ向かう一歩ずつが「希望の軌跡」となった。しかし希望への足跡を刻むこと以上に素晴らしいことは生きて還ってくること,それが新たな夢の始まりへと続くということを感じた80歳のエベレストだった。
 素晴らしい仲間に恵まれ,素晴らしい天気を授かり,そして多くの方々に応援していただいた。この場をお借りして心から感謝申し上げます。(三浦雄一郎)

 抑制のきいた,簡潔にして要をえた,いかにも三浦さんらしい文章だとおもいます。冒険家には,こうした字数制限のあるなかで,説得力のある文章を書く能力もまた求められています。こういう能力が,綿密な登山計画を組み立て,チーム三浦を支えるサポーターたちを組織し,全員に計画を周知徹底させていく上で不可欠なのです。当然のことながら,チーム三浦のなかには現地のシェルパたちもふくまれます。細部にわたって一分の隙もない,正確な情報を発信し,徹底させていくことが命綱となります。その歯車がひとつ狂っただけで,大きな遭難事故につながっていきます。ですから,ただ,若々しい体力や情熱だけでエベレストに登れる,と思わせるような昨日のNHKクローズアップ現代の報道姿勢に,わたしは我慢がならないのです。

 わけても,足首に重い錘をつけて足首を曲げないで歩くトレーニングを日常的に行い,大腿四頭筋を鍛えていた,などというナレーションつきの映像を見せつけられると,なにを言ってるんだ,とテレビに向かって怒鳴ってしまいます。三浦さんの足首は立派に曲がっているではないか,と。つまり,この番組制作にかかわった人のなかに,ひとりとして,登山がいかなるものかということがわかる人がいなかった,ということがここにみごとに露呈してしまっています。足首の固い人は基本的に登山に向いていません。足首が固かったら急坂を登ることはできません。もう,その時点で,初心者としても失格です。そのむかし山を歩いていた人間として,みずからの足首の固さにどれほど悩まされたことか。もともとスキーの選手として活躍していたことのある三浦さんの足首はふつうの人よりはるかに柔らかいことは間違いありません。

 昨日の話はやめにしましょう。はじめるときりがありません。この手記にもどりたいとおもいます。

 この手記で,わたしの眼が釘付けになったのは,「下山は死闘となった」からはじまる文章です。「デスゾーンでの滞在は足かけ4日,登攀行動は計36時間」にいたってクライマックスに達します。そして,「身体が全く動かなくなった」時点で,三浦雄一郎さんはいったいなにを考え,なにを思ったか。その答えが「生きて還りたい」の一念でした。このあたりに三浦さんの本音を聞き取ることができます。「死と向き合う体験」が,登山では,ある意味でつきものです。そこをいかにクリアするか,それが登山家としての資産となっていきます。

 もう,これ以上,繰り返しませんが,メディアの人びとにお願いしたいのは,登山というものがどういうものであるのか,そのことをしっかりと踏まえた上で,三浦雄一郎さんの「偉業」を分析して報道してほしいということです。登山のなんたるかということを抜きにして,脳のCTスキャンの写真や「握力40kg」などという数字をあげつらうのはまったくナンセンスです。

 もはや,「スポーツ・メディア共同体」を抜きにしてこれからのスポーツを語ることはできません。それだけに,メディアの人たちには「スポーツとはなにか」ということをつねに問い直しながら報道にたずさわってほしい,ということです。と同時に,メディアが流すスポーツ情報を,わたしたちは厳しい「批評」の眼で見届けていくことが不可欠だ,ということでもあります。

 双方がしっかりしていないと,スポーツに未来はありません。もう,すでに「破局」を迎えてしまっている,という見方もありますが・・・・。

 今日のところは,ここまで。

2013年6月11日火曜日

NHKクローズアップ現代・三浦雄一郎さん「快挙」報道に大いなる疑問。

 三浦雄一郎さんの「快挙」が,さまざまなメディアをとおして氾濫しています。しかも,一貫しているのは「80歳にして・・・」という世界的な英雄扱いです。たしかに,これまでだれも達成できなかっか記録をつくったというその一点だけに焦点を当てれば,そのとおりでしょう。プロの冒険家としての三浦雄一郎さんからすれば,我が意を得たりというところでしょう。が,それを繰り返しテレビなどをとおして見せつけられると,いささか食傷ぎみになってきます。もう,いい加減にしていただきたい,というのが正直なところです。

 せっかくの「快挙」にクレームをつける気はありませんが,メディアのこのワン・パターン化した報道の仕方には,もうこれ以上は我慢がなりません。あまりに子ども染みた,しかも偏った「科学」神話に依拠した,無責任な報道の仕方はもう止めていただきたいとおもいます。とりわけ,NHKさんに関しては。

 わたしの夕食時とNHKのクローズアップ現代の時間がちょうど重なりますので,この番組はほとんどみています。「3・11」以前までは,なんの疑問もいだくことなく,なるほど,そんなものですか,という感覚で無批判に受け止めていました。しかし,「3・11」以後,メディアの報道の仕方の異常さに気づき,複眼的に情報を受け止める努力をしているうちに,いつしかとてつもなく批判的に受け止め,考えるようになりました。その結果,たとえば,テレビ・メディアの報道の仕方があまりに無責任であるということに,どんどん気づくようになりました。いまでは,テレビのニュース番組もふくめて,画面に向かって「それは違うだろうッ!」と吼えつづけています。

 今夜(6月10日)の午後7時30分からのNHKクローズアップ現代,驚異の80歳三浦雄一郎初公開若さの秘密,をみていてとうとう我慢の限界に達してしまいました。今日のこの番組をみていて,NHKの番組制作者たちは,いったい,なにを考えているのだろう,とあきれ返ってしまいました。そこに現れた三浦雄一郎さんは,単なるデブの老人でしかありませんでした。しかも,その映像はすべて「快挙」の前に撮影された事前の映像でした。あんなからだでは,まともな方法ではエベレスト登山は不可能です。それは,少しでも登山ということに真剣に取り組んだことのある人ならすぐにわかることです。しかも,直前には持病の不整脈で入院までしています。いかに不自然なエベレスト登山がなされたかは,今日の映像をみて,わたしは直観しました。

 それを,わざわざCTスキャンで撮影した三浦雄一郎さんの脳の映像をみせて,若い人の脳よりも若若しいと説明を加え,しかも,ある目的をもって日々精進して励んでいる老人の脳は若々しく衰えない,とどこかの偉い先生のコメントまで付しています。こうやって「科学」神話を,またまた再生産しているわけです。

 大きな目標を立てて一生懸命努力している人は,元気で,若々しいのは,むかしからよく知られている事実です。そんなことは当たり前の話です。ですから,こんな脳だからエベレスト登山をなし遂げたのだ,と言わなければならなかったことの裏側に隠された事実が,わたしには気がかりになりました。なぜなら,鹿屋体育大学の先生まで動員して,あれこれ体力がチェックされたにもかかわらず,示されたのは握力40kgだけでした。この数字はそれほど褒められたものではありません。ですから,そのほかの筋力測定の結果は,公にできないほどの数値でしかなかった,ということが逆に浮き彫りになってしまっています。

 80歳にしてエベレスト登山を可能にしたのは,なにも,三浦雄一郎さんの若々しい「脳」や「握力」ではありません。この程度の老人はどこにでもいます。しかし,それ以上のものがしっかりと確保されていたからこそエベレスト登頂が可能だった,とわたしは考えています。

 三浦雄一郎さんの偉大さは,巨額のカネを集める能力にある,と。そして,チーム三浦雄一郎を組織する能力にある,と。しかも,そのチームを一つに束ねて力を発揮させる能力にある,と。そうした総合力が,今回の「80歳エベレスト登頂」を成功させたのだ,とわたしは考えています。これは,たしかに三浦雄一郎さんにしかできない「芸」です。その点では偉大なる人だ,とこころから敬意を表します。しかし,こころの底から喜べるか,と問われると口ごもってしまいます。

 三浦雄一郎さんの培ってきた政界・財界のネットワークをフルに活用して集金し,メディアには「映像」や「手記」を条件に前倒しして出資してもらい,ありとあらゆる手段を用いて,わたしたちでは想像もつかない巨額のカネを集めたはずです。それは,過去の2回のエベレスト登頂成功の折の記録からも推定できます。

 恐るべき数のシェルパを雇い,テレビ・クルーの荷物から,チーム三浦雄一郎の総勢の荷物を運び上げなければなりません。それも並の距離,高さではありません。しかも,医療サポートも確保し,いざとなればヘリコプターも動員できる体制を整えています。そうした総合力の結集が,今回の偉業を可能にしたのです。

 そのことにはフタをして,若々しい「脳」,「握力」,「家族愛」,などにだけ焦点を当てて,それもとってつけたような映像しか提示していません。この番組にはほとほとあきれはててしまいました。わたしが知りたかったのは,最低でも三浦雄一郎さんの「心肺機能」のレベルです。不整脈という持病をかかえた状態での「心肺機能」がどの程度のものであったのか,それが超人的であったというのなら,まだいくらかは納得できます。が,その種のデータはなにも示されないまま番組は終ってしまいました。

 わたしの懸念は,登頂成功後の下山に要した驚くほどの時間の長さとわずかしか移動できていないという事実,その後,クレバスの状態がよくないという理由でヘリコプターを動員したこと,このときなにか不測の事態が起きていたのではないか,という点です。いずれ,三浦雄一郎さんが手記を書かれるでしょうから,このあたりのことをどのように記述されるのか,楽しみにしたいとおもいます。

 「メディア・スポーツ共同体」(今福龍太)ということばがあります。今回の三浦雄一郎さんの「偉業」を支えたのは,ひとことで言ってしまえば,この「メディア・スポーツ共同体」のなさる技だった,と言っても過言ではありません。この問題については,また,いつか,このブログでも触れてみたいとおもっています。

 取り急ぎ,今日のところはここまで。

2013年6月10日月曜日

山口昌男追悼シンポジウム「人類学的思考の沃野」傍聴記・その2.真島一郎さんのプレゼンに感動。

 主催者のご挨拶,後援団体である日本文化人類学会会長のご挨拶があって,青木保先生の基調講演,そしてシンポジストの発言とつづき,プログラムの前半の最後に真島一郎さんが登壇。たぶん,今日,予定されている6名のシンポジストのなかではもっとも若い研究者(アフリカニスト)のはず。わたしはきわめて個人的な関心から,真島さんがどのようなお話をなさるのか,じつはこころから楽しみにしていました。

 真島さんが登壇され,お話をはじめると,それまでどことなくざわついていた会場が静まり返りました。そして,ピーンと張りつめた空気が流れはじめました。それほどに気持ちの籠もった,まさに「追悼」の名に値するプレゼンテーションが展開しました。わたしは感動しながら耳を傾けていました。わずか15分という短い時間でしたが(プログラム上,仕方がない),じつによく練り上げられ,整理され,凝縮したきわめて濃密な内容のお話をされました。途中からノートをとるのも忘れて,聞きほれていました。それほどの完成度の高いプレゼンでした。

 まじめな性格の真島さんらしく,きちんとレジュメを用意・配布された上で,お話がはじまりました。この日のシンポジストのなかでは,お二人の方がレジュメを用意されました。そのお一人というわけです。ですが,レジュメは会場ではほとんど眼をとおすこともできないまま,ただ聞き入るばかりでした。でも,帰宅してから,そして,いまも,そのレジュメを開いてあちこち熟読玩味させてもらいながら,このブログに挑戦しています。

 そのなかから,ひとつふたつ話題をご紹介させていただきます。とはいっても,わたしの独断と偏見にもとづく自己流解釈になることを,あらかじめお断りしておきます。

 真島さんのレジュメに書かれている大きな見出しは全部で7本です。順番に,説話,伝統王権,史資料,天皇制/フィールドの外延,近代に対峙するメタヒストリー:発生≠生成,起源≠始原,社会の/「フィールド」の夜へ,読む/生きる,と並んでいます。そして,それらの見出しに対応する山口昌男さんの文章が引用されていて,しかも,それらの典拠文献が25本,きちんと提示されています。これはとても助かります。これらを手がかりにして,さらに山口昌男さんの原著に入っていくことができるからです。

 さて,ここでは,わたしの専門分野であるスポーツ史研究との関連が深いと思われるトピックスをとりあげてみたいとおもいます。まず最初は,「近代に対峙するメタヒストリー:発生≠生成,起源≠始原」です。真島さんは,山口昌男が早くからモダニティ批判を展開した事跡に注目し,これを高く評価しています。それは単なるとおりいっぺんのモダニティ批判ではなく,ポスト・コロニアルな視点からのモダニティ批判であった点が当時にあっては際立っていた,といいます。つまり,アカデミックな近代史学が取り上げるような「ヒストリー」としての問題提起ではなくて,文化記号論や「メタヒストリー」の視座からの問題提起だというわけです。そのもっとも際立つ差異は,「発生≠生成,起源≠始原」に集約されている,といいます。ヒストリーとしてはものごとの「発生」が関心事になるけれども,人類学では「生成」が重要であり,同じように「起源」ではなく「始原」が重要だ,と山口昌男は強調している,といいます。

 たとえば,「神話」研究にとって重要なことは,その「発生」や「起源」をつきとめることではなくて,神話が「生成」され,新たな生を導き出したり,神話が発する力がどのようなものなのか,そして,それが人びとの暮しにどのような影響を及ぼしているのかが重要なのである,というわけです。神話の「始原」についても同様です。

 このことに関して,山口昌男の言説として,つぎのようなフレーズを切り取ってきてレジュメのなかに取り上げていますので,それらを紹介しておきましょう。

 「発生」という歴史主義的次元での問いに私は昔から馴染むことが出来ず,それがもとで,私は初めに学んだ古代史学から民族学へ逃げだしてしまった後ろめたい過去をもつ〔・・・・〕私はむしろ,「発生」とか「起源」といった言葉は「物事の起こり」よりも,常に回帰的に,何事かの存立を可能にする基本条件として捉えたいという潜かな願望を持っている。(1969年,「幻想・構造・始原──吉本隆明『共同幻想論』をめぐって」,『人類学的思考』せりか書房)。

 これがあの有名な吉本・山口論争の核心部分に相当するというわけです。この問題は追い込んでいくと,スポーツ史的にもとても面白い知の地平が広がっているのですが,ここでは禁欲しておくことにしましょう。

 もうひとつ,引用文を紹介しておきましょう。

 始原的なものが自然的時間を遡った果てにあるものでなく,内的時間の存在様式を「垂直に」たどることによって,開示される,すなわち各々の瞬間のなかに生成として姿を現すものであるということ〔・・・〕。(1969年,「失われた世界の復権」,山口昌男編『現代人の思想15 未開と文明』平凡社所収。)

 どこかジョルジュ・バタイユを想起させるような文章です。となると,この「失われた世界の復権」をしっかり読んでみようということになります。こうして,わたしの問題意識もつぎからつぎへと拡大していきます。山口昌男という人は,まさに,好奇心の赴くままに,貪欲にそのテーマを追い込んで行った人のようです。そして,一見したところ破天荒な研究者にみえるけれども,じつは,綿密な事前調査と文献研究を経たのちに,自由奔放に思考の限界まで飛翔させる,そういう人だったと真島さんは受け止めているとのことでした。

 最後に,「読む/生きる」の見出しのもとに引用された文章を引いてこのブログを閉じたいとおもいます。これぞ山口昌男のモダニティ批判の真骨頂ともいうべき,毒の入った,核心に触れる文章だといっていいでしょう。

 精神が平俗な日常生活を相対化するために踏みだす第一歩は<旅>に出かけることである〔・・・〕旅,何処へ? 自分が属する日常生活的現実のルールが通用しない世界へ,自ら一つ一つ道標を打ち樹たて地図を作成しつつ進まなければ迷いのうちに果ててしまう知の未踏の地へ,書の世界へ,自らを隠すことに知の技術の大半を投じている秘境の世界へ,己れが継承した知的技術を破産させるような知識で満ちているような知の領域へである。(1971年,『本の神話学』,中央公論社)。


2013年6月9日日曜日

玄侑宗求著『光の山』(新潮社,2013年4月刊)を読む。「3・11」を風化させないために。

 玄侑宗求さんが「3・11」以後を生きる福島(と思われる)の人びとの苦悩を描いた短編小説集。これまでにいろいろな雑誌に発表してきた6本の短編を一冊の本にまとめたもの。わたしにとってはいささか衝撃的な作品ばかりでした。

 気がつけば,「3・11」という記号(文字)がいつのまにかすっかり後退してしまっています。つまり,別の新しい話題の陰に隠れてしまい,あまり見かけなくなっています。ということは,当然のことながら,わたしたちの意識のなかからも,いつのまにか風化しはじめています。そして,遠い過去のことのような錯覚に陥りつつあります。

 なにを隠そう,このわたし自身がそうなってしまっている,ということにこの短編小説を読んで気づいた次第です。人間はいやなことを忘れたがる,そういう性質をもっています。そして,上手に忘れることができるからこそ生きていかれる,ともいいます。しかし,さっさと忘れてしまった方がいい記憶と,それとは逆に忘れてはならない記憶とは,当然ながら区別しなくてはなりません。「3・11」の記憶は,貴重な教訓としていつまでも忘れてはならない記憶だとわたしは考えています。ですから,その記憶の風化防止のためにも,この玄侑さんの書かれた短編小説集は,とても重要だとおもいます。

 わたしは,この小説集を読み終えてすぐに,「3・11」以後の被災者たちが,いま,どんな情況のもとで,どんな気持ちで生きているのか,その現実をどの程度まで理解しているのか,とみずからに問うてみました。情けないことに,新聞やテレビでちらりと見かける程度のことしか知りません。そして,あとは想像力をはたらかせて,たぶん,こんな情況で,こんな気持ちで生きているんだろうなぁ,とほんの少しだけ思い描く程度で済ませてきました。ですから,被災者の人たちの「痛み」を感じ取り,分かち合うという,経験を情動レベルの感覚で共有するということもほとんどしないまま,日々の雑用に明け暮れている,というのが情けないことにありのままの姿です。

 いわずとしれた玄侑宗求さんは,福島県三春町の福聚寺(臨済宗妙心寺派)の住職として,町の人びととともに「3・11」以後を生きる苦悩と向き合い,ともに考え,ともに試行錯誤しながら助け合って生きているお坊さんです。僧侶として,また,作家として,いま,なにをすべきかを厳しくみずからに問いかけながら,必死で生きている人です。つまり,土地に根をおろして,そこからすべての思考も行動も立ち上げるのだ,と覚悟して。当然のことながら,セシュウムに汚染されることも覚悟の上で。

 そんな中で,刻々と情況が変化しつづける人びとの暮らしぶりを,玄侑さんは私情を極力抑え,短編小説という形式に託してわたしたちにある重要なメッセージを送りつづけています。しかし,所詮は小説ではないかという人がいます。それは違うとおもいます。小説だからこそ伝わるものがあります。あるいは,小説でなければ伝えられないものもあります。とりわけ,一人ひとりが内面に抱え込んでいる苦悩を,マス・メディアのジャーナリスティックな文章でとらえるには限界があります。つまり,作家とはそこを超えていく才能をもった人びとなのだ,とわたしは考えています。わけても玄侑さんの描く被災者の人たちの苦悩は,同時に,玄侑さんみずからの苦悩でもあります。ですから,つねに体験を共有し,分かち合う人としての心情がつたわってきます。

 たとえば,「アメンボ」という短編があります。その作品のなかでは,セシュウムに対する認識の仕方や感性,そしてそれにともなう対応の仕方の違いが夫婦の間に亀裂を生み,やがて別居し,離婚していくという,そのプロセスを丹念に追っています。夫はインターネットを使って丹念にセシュウムの量とその影響についての情報を収集し,分析しながら,現状と真っ正面から向き合いながら,ぎりぎりまで汚染地域で生きる道を選択しています。しかし,妻は頭からセシュウムを有害と決めつけ,拒絶反応を示します。とりわけ,小さな子どものためによくないと考え,子どもをつれて北海道に移住します。時折,帰ってくるけれども長居はしない。そうして,何回もの話し合いが積み上げられていきますが,どうしても共有できるものが見つけられないまま,つまり,折り合いがつかないまま,最後には離婚という選択肢に追い込まれていきます。そんな夫婦を,もう一組の夫婦が見守ります。妻同士が子どものときから仲良しなので,この二組の夫婦も最初から親しいお付き合いをしてきました。が,そのお付き合いも「3・11」以後,ぎくしゃくしはじめます。もう一方の夫婦は,夫ががんこで無神経で,一見したところ独断的でいい加減なようにみえるけれども,それが逆に救いとなっていて,セシュウムに対しても楽観的に向き合っていきます。妻もまた,夫のいうとおりに,ほどほどに距離を保ちながらも,上手に妥協しながら波長を合わせていく。それだけの許容量の広さに助けられて,こちらの夫婦は安泰。

 二年目の夏のある日に北海道から一時帰宅(といっても仮説住宅)したときに,この二組の夫婦は家が無事だった夫婦の家で夕食を囲んだり,子どもたちを連れて水遊びに連れていったりする。表向きはどこもぶつかる問題はなく,さも楽しそうな会話がはずむ。なのに,つねにどこかでお互いに話を踏み込まないように配慮したり,そのために話にスレ違いが起きたり,淀んだ空気が流れ,いつしか重くなる。たまたま,話題が水たまりに棲むアメンボのことばの由来の話になります。いろいろの説が飛び交いますが,舐めると甘いからだ,というところに落ち着きます。それを聞いたセシュウムに対しておおらかな夫婦の方の子どもが,翌日,手水鉢のなかを泳いでいるアメンボをつかまえて口にふくみます。それをみていた北海道に移住している妻の友人が,飛び掛かるようにしてその子どもを押さえ込み,口に指をつっこんでアメンボを吐き出させようとします。それをみた夫が妻をうしろからはがい締めにして,その家の子どもを解放します。この場面が,この短編小説のひとつのクライマックスになっています。つまり,友人の子どもであっても/友人の子どもだからこそ,セシュウムに汚染されたアメンボを口にふくむ行為は許せない,そういう濃密な人間関係の背後にある,ぬきさしならない価値観の違いが引き起こす衝突/葛藤が日常化していることを,玄侑さんはわたしたちに問題提起します。その背景には,「絆」などという甘っちょろいキー・ワードなどでは,なんの問題解決にもならないという,ふつふつとわき上がる,こころの奥深くに潜む憤りのようなものさえ,わたしには伝わってきました。

 その事件の起きた翌日,離婚届に夫はしぶしぶ印鑑を押します。そのまま,妻は友人との別れの挨拶もせず,黙って北海道に帰っていきます。なんともやりきれない気分だけが,わたしのこころに残りました。

 こうした,セシュウムをめぐる,ほんのちょっとした感性の違いが,人と人との関係に亀裂を生じさせ,分断させることが日常的に展開している,という事実の前でわたしは無力のまま呆然としてしまいます。事態はそれだけではありません。こうした亀裂や分断は,さらに日常的に細分化され,分節化され,その密度がますます高まっていく社会を生きなければならない,この現実をどう考えればいいのか,と玄侑さんは問題をわたしたちに投げ返してきます。そこは答えのない長いトンネルのなかのようなものです。好むと好まざるとに関係なく,じわじわとそういう情況のなかにみんな飲み込まれていく,そんな重い空気が淀んでいることを,玄侑さんは淡々と,小説という形式を借りてわたしたちの前に提示してきます。

 人が生きるとはどういうことなのか,というもっとも根源的な問いを玄侑さんはわたしたちに突きつけてきます。そんな風に,わたしはこの短編小説集を読みました。

 短編集のタイトルともなっている最後の作品「光の山」は,汚染された土や瓦礫を掻き集めてできあがった山が,40年後に,忽然と光り輝きはじめる,というSFもどきの物語になっています。なんだか空恐ろしくなる,みごとな短編です。

 わたしたちは「3・11」の記憶を風化させないためにも,こうした玄侑さんのような作家が描く作品と,たえず接点をもち,考えつづけることが重要なのだ,といまさらながら考えさせられました。短編集なので,どこから読んでもいいし,いつでも,思い出したら,その日の気分でそのうちのひとつを選んで読むこともできます。ぜひ,座右の書のひとつに加えておきたい,とわたしは思いました。

2013年6月8日土曜日

山口昌男追悼シンポジウム「人類学的思考の沃野」・傍聴記・その1.1990年の記憶。

日時:2013年6月7日(金)午後3時~6時。
場所:東京外国語大学 アゴラ・グローバル
基調講演:青木保
発言者:渡辺公三/真島一郎/落合一泰/栗本英世/船曳建夫/今福龍太
主催:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
後援:日本文化人類学会

正式なテーマは以下のとおり。
〔山口昌男追悼AA研シンポジウム〕人類学的思考の沃野

シンポジウムの趣旨は以下のとおり。

山口昌男という巨大な知の運動にとり
原点にあたる空間としての「フィールド」。
野生の思考と詩学を生涯にわたり
旺盛に探究しつづけたフィールドワーカー
山口昌男の足跡をたどりなおし
のこされた私たちが新たな「人類学的思考の沃野」へと
今また踏みだすために。

 ことしの3月10日(奇しくも「3・11」の前日),81歳の生涯を閉じた山口昌男さん。略年譜をみると,40歳になる前から膨大な著作を世に問いはじめていて,その影響力があまりに大きかったせいか,若くして大家をなしていた。53歳にして日本民族学会会長に就任。だから,81歳で亡くなられたと聞き,思ったよりも若い,と感じた。なぜなら,わたしよりもずっとずっと大先輩だと,無意識のうちにそう思い込んでいたからだ。

 それにはいささかわけがある。じつは,わたしは1990年4月から94年3月までの4年間,東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究員として,山口昌男さんの組織していた科学研究費による共同研究「象徴と世界観の比較研究」に参加していた。年に2~3回開催された全体会議(毎回,二泊三日が原則だった)に招集され,研究発表をするよう促されていた。しかし,その会には青木保,中沢新一,などという名だたる文化人類学者たちが集まっていたし,メンバーの総数も相当な人数だったので,ついにわたしの出番はなかった。というより,会のもつ気魄のようなものに圧倒されてしまって,ただただ,ご意見を拝聴するだけで精一杯だった,というのが正直なところ。その会の中心に山口昌男さんがいて,常時,ことばを発しつづけておられた。このときに,わたしは勝手に山口昌男さんはわたしよりずっと年齢が上の人だ,と思い込んでいた。ところが,1990年の山口さんは59歳,わたしは53歳。たった6歳しか違わない。山口さんは,わたしの長兄と同じ年齢だったとは,大きな驚きであった。

 そんな年齢を度外視させるほど,山口昌男さんの存在は大きかった。いろいろのジャンルにまたがる共同研究員の研究発表のいかなるテーマにも,躊躇することなく議論に分け入り,じつに細部にいたるまで熱心にコメントを繰り広げるのが常だった。研究会が終ると,恒例の懇親会が持たれたが,そこでも話題の中心は山口さんだった。というより,ここでは,もはや独壇場だった。その話題の豊さに,ただただ呆れるばかりだった。博覧強記とはこういう人のことをいうのだ,とこのときはじめて知った。頭のなかに詰め込まれた知の集積から臨機応変に,つぎつぎに話題が飛び出してくる。まるで,こういうジャンルの話芸があるのではないか,とおもったほどだ。『本の神話学』などという著作をものするのも納得である。

 このとき以来,本気で山口昌男さんの著作を読むようになった。それまでは,いつも話題になるので,一応は眼をとおしておくという程度の読み方だった。しかし,山口さんの生の声を聞き,その説得力の磁場に触れるにつけ,本の読み方も大きく変化した。最初に読んだ『文化の両義性』(岩波書店,1975年,山口さん44歳。この年齢にも驚く)を,もう一度,読みなおしてみたら,まったく違った印象をもったことをいまも鮮明に思い出す。以後,このテクストはわたしの座右の書となり,その理論を借用して,「スポーツ文化の両義性」について考え,そこを軸にした論考を少しずつ発表するようになる。なにか視界が一気に開かれ,まるで新しい別世界に飛び出してきたような印象をもったものだ。いわゆる「モダニティ批判」の手始めである。

 そして,いまも,その延長線上を,さらにいろいろの人の思想・哲学を援用しながら,わたしの「フィールド」を探索している。そのフィールド・ワークは楽しくて仕方がない。常住坐臥,あくことなきフィールド・ワーカーだった山口さんの心境が,最近になってほんの少しだけわかるようになった。ありがたいことである。

 以後,山口昌男さんの著作は,わたしの研究の道標のひとつとして不可欠のものとなった。そのご縁で,中沢新一さんのものもかなりまじめに読んだ。が,あるときから,わたしの関心事から離れてしまった。その代わりに,もっと強烈にわたしを叱咤してくれる著者が現れた。今福龍太,その人である。そして,つい最近になって,真島一郎さんと出会えた。このお二人については,これから何回もこのブログに登場していただくことになるので,今回は深入りしないことにする。

 が,ほんの少しだけ。このお二人が今回の追悼シンポジウムの発言者として登壇された。やはり期待に違わず,会場の空気を一変させてしまうほどの,気持ちの入った,しかも山口昌男の本質をつく素晴らしいお話をされた。正直に言って,わたしは感動した。プレゼンテーションというのはこうなくてはならない,と反省もさせられた。その内容については,また,稿をあらためてご紹介を兼ねて,考えてみたい。

 今回は,山口昌男さんの追悼シンポジウムを傍聴させていただきながら,わたし自身もまた1990年のころの山口さんを思い浮かべていた。そして,こんにちまでの,山口さんとの接点を断片的に思い浮かべながら。

 なお、会場の入り口では,6月10日に配本されるという,できたてのほやほやの『山口昌男コレクション』(今福龍太編,ちくま学芸文庫)が特別価格で販売されていた。今福さんが,どんな視点からこのコレクションを編んだのか,これからじっくりと拝見してみたい。また,その感想も書いてみたいとおもう。いまから,楽しみ。

2013年6月6日木曜日

富士弾丸登山「危ない」から自粛せよ,だと?やはり「世界文化遺産登録」は辞退しよう。

 いまさら富士山を世界文化遺産に登録しなくても,すでに世界中に知れ渡った立派な人類遺産だとわたしは信じている。だから,富士山の世界文化遺産への登録には反対である。登録してもしなくても,富士山は富士山であり,世界に誇る名山であり,その実態はなにも変わらない。

 富士山は,海に近い独立峰なので,どこから眺めても際立った美しさを見せている。駿河湾や伊豆半島からの眺めもとびきり美しいし,山側にまわれば「富士にはススキがよく似合う」(御坂・三ツ峠・太宰治)といわれる絶景があり,八ヶ岳,南アルプス,などのどの山頂からも天気さえよければ,その雄姿を眺めることができる。そして,なにより富士山を眺めていると世俗の汚れたこころが洗い清められる思いがする。むかしからの信仰の山としての威力はいまも少しも衰えてはいない。だから,富士山は日本人のこころの奥深くに根づいた山なのだ。

 だから山開きを待ちわびるようにして一般の登山客も押し寄せてくる。シーズンたけなわともなれば,登山客で長蛇の列ができる。こうなると,健脚者にはまどろっかしくなって,敬遠の対象となる。なかでも健脚を誇る登山者は,昼のピーク時を避けて深夜に登り,ご来光を仰いで下山する,いわゆる「お月見登山」「日の出登山」に向かう。これはいまに始まったことではない。

 志賀直哉の名作『暗夜行路』には,鳥取県の大山(だいせん・またの名は伯耆富士)登山の様子が描かれている。主人公の時任謙作が「六根清浄 お山は青天」と唱えながら,夜を徹して登っていく。そして,頂上でご来光を仰ぐ,感動的なシーンは映画にもなって,強烈な印象となってわたしの脳裏に焼きついている。夜を徹して登山に挑む,体力の限界に接近することによって「六根清浄」が達成され,清いこころで大自然の太陽と真っ正面から向き合う,そのとき人は生まれ変わる,ここに「日の出登山」の大きな意味がある。これは日本人の信仰登山の原点の一つにもなっている。そして,その伝統はいまも引き継がれている。

 いまも,むかしも,体力に自信のある人は,一度は富士登山に挑戦し,しかも,できることなら「日の出登山」を目指す。そのことの,どこがいけないのか。

 今日(6月6日)の「東京新聞」に,びっくりするような囲み記事が掲載されている。
 短いので,全文引用しておこう。

 見出しは,富士弾丸登山「危ない」。山小屋泊まらず,夜通し歩く。山梨,静岡両県,自粛を要望。本文は以下のとおり。

 静岡県の大須賀淑郎副知事と山梨県の横内正明知事は5日,観光庁を訪れ,山小屋に宿泊せずに夜通しで富士山を登る「弾丸登山」の自粛を求める要望書を井出憲文長官に提出した。
 富士山の世界文化遺産登録が確実となり,登山者の増加が見込まれるため,両県が要請した。要望書は「弾丸登山の自粛を呼び掛けてきたが,登山者の30%以上に上るとの推計もあり,放置できない」と指摘。弾丸登山は体調を崩しやすく,事故が起きる危険が高いとして,自粛を関係団体に周知徹底させることを求めた。

 以上である。これについて,ひとことのコメントも付されてはいない。ただ,垂れ流し。ジャーナリストの矜持もなにも感じられない。たんなる情報の提供。この要望書に対して観光庁長官はどのようなコメントをしたのか,なにもない。たぶん,長官はこのまま関係団体に「周知徹底」させる手続をとるのだろうと思われる。これまた,なんの見識もなしに。

 富士山の登山は,いろいろのコースがあるが,一般的には初心者は「五合目」駐車場から入る。ここからの登山は,健脚者にとってはいとも簡単。神奈川県の丹沢山地の南端に大山(おおやま・1252m)というむかしからの信仰の山がある。落語の「大山詣で」で知られるように,江戸庶民にとってもおなじみの,もっともポビュラーな山である。つまり,信仰という名のもとでの物見遊山(筆降ろしというおまけ付き)にでかける山である。五合目からの富士登山はこれよりもはるかに簡単である。健脚者であれば,五合目から頂上まで2時間もあれば充分だろう。

 これを,こともあろうに「弾丸登山」と名づけ,危険だ,と断ずる。ならば,登山はすべからくすべて「危険」である。だから,すべての登山を自粛せよ,と通達をだすべし。

 わたしは,そのむかし縦走登山に没頭したことがあるので知っているが,「弾丸登山」ということばのはじまりは,五万分の一の地図(国土地理院発行)を,東西,あるいは南北に,一日で一枚分を歩き抜けることからきている。そんなことは,加藤文太郎(単独行の名人,というより,あまりのスピードにだれも一緒には歩けなかったというエピソードがある)のような超人にしかできない芸当だ。そんなことばを無批判に富士登山に持ち込んできて,「警告」を発する。この悪意に満ちた権力構造剥き出しの「脅し」はいったいなんのためか。その背後には,あまりあからさまにはしたくない利害関係がうごめいていることも,わたしには透けてみえてくる。

 しかし,そんなことは「棚上げ」にして,ここで企まれていることは,大義名分ともいうべき「世界文化遺産登録」を前面に押し立てての,悪しきポピュリズムの煽動でしかない。弾丸登山「危ない」と書かれれば,登山の知識のない人は「ああ,そうか」となる。「山小屋泊まらず,夜通し歩く」などは非常識きわまりない,と映るだろう。しかし,五合目から「夜通し歩く」となれば,頂上はあっという間に通過し,明け方には御殿場を通過して,もっとさきまで歩いていってしまうだろう。この記事を書いた記者も,それをパスさせたデスクも,そして,最終チェックをした検閲も,富士登山のなんたるかをなにも知らない人ばかりだった,ということのようだ。

 こんな情報が垂れ流されている。新聞というメディアのもつ暴力性に,当事者たちはもっとこまかな注意を払ってほしい。こんな暴力を放置したまま,いまごろになって(いの一番に富士山ならまだわかる)富士山を世界文化遺産にしようという意図はどこからくるのか。

 しかも,すでに情報が流れているように,富士山への「入山料」をとるという話もちらほら。しかも,「5,000円」前後,という。こんなことがまことしやかに囁かれている。そして,ネット上を流れている。狂気の沙汰としかいいようがない。しかも,「5,000円」くらいは相場ではないか,という意図的・計画的な「援軍」まで動員して。

 こうしてメディアは民意を操作していく。その操作性が,このところ露骨になってきている。とりわけ,原発,経済,TPP,憲法,沖縄,体罰,スポーツ,・・・・もろもろ。世も末という体たらく。国民総背番号制のゆくすえは,みるも無惨としかいいようがない。ジョージ・オウエルの描いた『1984年』という小説世界が,いよいよ,この日本で現実となりつつある。

 となれば,朝の起床の様子から,テレビに合わせての体操,食事,トイレ,・・・・すべて当局によって管理されることになる。そういう時代の到来をオウエルは「1984年」と設定していた。

 いささか脱線してしまった。富士山に登るかどうか,どのように登るか,すべからく登山というものは基本的に「自己責任」の上に成り立つ文化だ。そこに,いちいち余分な口出しを,それも「無知」のまま,権力が干渉しようとしている。すでに,改憲議論をさきどりするかたちで,地方自治体が動きはじめている,とわたしにはみえる。

 同じ『東京新聞』の一面に,検証・自民党改憲草案──その先に見えるもの・2,の特集記事が読ませる。大きく「個人の権利より国家」,という見出しが躍ってぽる。内容をみれば,そちらに向かって大きく舵を切ろうとしている意図が丸見えになってくる。護憲派弁護士の伊藤真氏の懸念「脱原発デモつぶし」も可能になってくる「恐れ」がある,が説得力をもつ。

 富士弾丸登山「危ない」から自粛せよ,なとという記事は大したことではない,と人は言うかもしれない。しかし,真実は細部に宿る。蟻の一穴が防波堤を突き崩す。歯止めがきくうちに対策を練るべし。それが国民の使命でもある,とわたしは考える。

2013年6月5日水曜日

戦争とはなにか。人間の全存在を賭けた<全体的体験>である。聴講生レポート・その8.

 5月21日(火)もダブル・ヘッダーの授業が行われました。N教授の日常的な多忙さの一端は,わたしにもわかるほどなので,相当に睡眠時間をけずっての日々のはずです。にもかかわらず,元気に,この日もみごとな授業を展開されました。ありがたいことです。

 さて,この日の前半の授業のテーマは「戦争とはなにか」でした。すでに授業を聞いてから,相当に長い空白の時間が流れていましたので,ノートを見ながら,もう一度,ボイスレコーダーで講義を聞き直しました。聞きながらノートに「朱」を入れていきましたら,できあがったノートが真っ赤になっていました。ノートは二度とらなくては,まともなものにはならない,ということがよくわかりました。それほどに,N教授の講義内容の密度が濃いということです。

 このレポートも,ですから,講義の全体を要約するなどということはとても不可能なことを承知で書こうとしています。そこで困りはてていましたら,いいアイディアが生まれました。それはもう思い切ってN教授の講義内容を換骨奪胎して,わたしの考えたことにすり替えてしまう,という方法です。ここだけを聞くと,なんという身勝手な奴だ,とお叱りをうけるかもしれません。しかし,そうではありません。N教授の教えをそのまま実行すると,こういうレポートをこそ期待されているのではないか,とこれまたわたしの勝手な解釈です。

 この授業の冒頭で,N教授は,つぎのように切り出されました。
 社会のあらゆることがコンビニ化していて,いま,まさに,How to reduce the head (the brain).という時代に入ってしまっている。つまり,思考を放棄させる方向に,世の中全体が動いている。しかし,大学というところは,コンビニ化する社会に抗するために存在するのだ。だから,学生さんたちは講義ノートをとりなさい。そうして,考えるきっかけをつくりなさい。そこから自分なりの思考を練り上げていきなさい。わたしはそのための「肥やし」を提供する。そのつもりで,この授業に取り組んでいます。どんな話の断片からでもいい。そこを契機にして,自分の思考を鍛えることが大事です,と。

 ※(このことが,「思考停止」から脱出し,「自発的隷従」の姿勢を超克するための,つまりは,「自立」/「自律」するための唯一の方法です・・・これは,わたしの補注です。授業ではこのようなことばはありませんでしたが,これまでのN教授の著作やブログを読んできたわたしには,このような声も聞こえてきた,という次第です。)

 というわけですので,「戦争とはなにか」というこの日の,いつもにも増して熱の入ったN教授の講義を聞いて,わたしがもっとも深く思考したことの一部をここに書き記しておくことは,これこそがN教授のお考えに応答することだ,と考える次第です。

 それを,ひとことで言ってしまいますと「戦争とは,人間の全存在を懸けた<全体的体験>である」ということになります。この理解も,じつは,N教授がまだ若かりしころに,わたしに語ってくれたことの記憶にもとづく,わたしなりのまとめです。

 なにかの研究会(たぶん,わたしが主宰した研究会)の折に,N教授が,戦争の話をしてくださいました。それをひとことでいえば,戦争とは人間の<全体的体験>である,という結論を導き出されたように記憶しています。その結論に応答するようにして,わたしは,スポーツもまた人間の<全体的体験>だと考えていますが,その認識でいいでしょうか,と問いかけました。そのときのN教授の答えは,それはよく似ている部分がたくさんあるでしょうが,原理的に,そして,本質的に,戦争のもたらす<全体的体験>とはまったく別のものです,というものでした。わたしは納得ができなくて,さらに食い下がって,スポーツの場面で起こる<全体的体験>の事例をいくつも列挙して,とりわけ,人間が人間ではなくなる「エクスタシス」の話をもちだしました。それでも,N教授はにっこり笑って「とても近い,あるいは,疑似体験はいくつもあるでしょうが,そういうものを<全体的体験>とはいいません」というお話でした。

 それでもわたしは納得できなくて,その後もずっと考えつづけていました。N教授のいう<全体的体験>とはどういうことなのか,と。そして,戦争とはなにか,と。そうして,N教授の書かれた『夜の鼓動に触れる──戦争論』(東大出版会)や『戦争論』(岩波書店)や『<テロル>との戦争』(以文社)などの著作を読み漁りました。そうして,かなりのところまでは理解できるようになっていましたが,いまひとつ,もやっとしたものが残っていました。が,この日の講義を聞いて,それらがすべて木っ端みじんにすっ飛んでいき,こころの底から納得しました。まるで,青天の霹靂のような経験でした。そうか,戦争が導き出す,そして,有無を言わせず,否が応でも,人間が向き合わざるを得なくなる<全体的体験>の内実とは,こういうものだったのか,と。しかも,この日の講義の最後には,もっと驚くべき指摘がありました。もはや,その<全体的体験>すら意味をなさない,まったく異質の,あるいは次元の異なる≪戦争≫がすでにはじまっている,とN教授は指摘されたのです。その瞬間に,『<テロル>との戦争』のことが脳裏をよぎりました。

 これでわたしとしては,このレポートは終わりです。

 しかし,ここまで書いた以上,わたしが納得したことがらの,ほんのさわりの部分だけでも,講義内容の断片を列挙しておくべきかとおもいます。ことば足らずになることを覚悟の上で,ごく簡潔に書いておきますと以下のとおりです。

 如是我聞。

 〇戦争は定義できない。この講義の前提としては,近代の国家間の争いごと,と設定して論を立てている。もう少し大きくとらえるとすれば,人間の集団(政治的共同体)間の組織的な武力衝突,ということになる。
 〇戦争は,異常な状態,つまり,非常時であり,敵のモノを破壊し,ヒトを殺すことが最優先される。つまり,平常の「社会」や「文化」のあらゆる規範がすべて反故にされ,敵を殲滅するためのあらゆる手段が最優先される。
 〇戦争は万物の生みの親である(ギリシア)。人類の歴史は戦いの歴史であった。その結果がこんにちの文明社会を築いた(ヘーゲル)。
 〇戦争は,個に対する集団の圧倒的優位,そして圧倒的勝利をもたらす。これが戦争の特徴である。
 〇戦争は,集団を分断し,敵味方に分ける。そして,あらゆる個人は犠牲になる。つまり,敵を殺すことが最大の目的となる。そうして,個人の存在を無化する。
 〇戦争は,人間であることを排除しなくてはならない。すなわち,「人でなし」になることが必然化される。そこを通過することによって,人間は魔物にもなり,神にもなり,英雄にもなる。
 〇こうして神や英雄となった英霊は,あらたなる共同体の栄養剤となり,共同体を活性化させ,補強する役割をになうことになる。
 〇近代戦争は,20世紀で終わりを告げ,この20年ほどは戦争の名に値しないことが起きている。その内実は,単なる害虫駆除にも等しい。圧倒的な格差のもとでの,一方的殺戮が展開されている。
 〇戦争は,人間の力ではコントロールできない。しかも,その戦争は,ほんのちょっとしたきっかけ(事故のようなできごと,など)によってはじまる。はじまったらだれも止められない,それが戦争というものである。
 〇戦争は「起こるもの」であって,気づいたときにはみんな巻き込まれている。

 以上が,わたしのこころを大きく揺さぶり,戦争が人間の全存在を賭けた<全体的体験>である,ということを納得させた,おおよその概要です。実際には,N教授のこころの籠もった語り部のような,わかりやすい事例が,つぎからつぎへと展開し,上に書いたことがらに「肉付け」がされていきます。ですから,だれのこころにも深くN教授の思い入れが伝わってきます。

 ですから,この他にも,ここに書き記しておきたいことが山ほどありますが,とりあえずはこの程度にして,あとは禁欲しておくことにします。あとは,これからも書きつづけることになるであろうこのブログのための「肥やし」として,楽しみに残しておきたいとおもいます。

 取り急ぎ,今日のところは,ここまで。

2013年6月4日火曜日

小説『菅原道真』(三田誠広著,河出書房新社,2013年2月刊)を読む。(出雲幻視考・その4.)

 ひょいと立ち寄った書店でこの本と出会いました。衝動買い。ずっと菅原道真のイメージがつかめないまま,野見宿禰の末裔という位置づけだけで考えていましたので,とびつきました。菅原道真といえば,せいぜい天神様,学問の神様,儒学者,秀才,藤原一族による冤罪で太宰府へ,憤死,太宰府天満宮,熱病,雷,祟り,北野天満宮,上宮天満宮,そして河童伝承,などが頭に浮ぶ程度でした。知りたかったのは,藤原一族との確執がどのようなものだったのか,その具体的なストーリーでした。その意味ではこの本は助かりました。

 この本を読んでの最初の驚きは,皇族と藤原氏(北家)との複雑魁偉ともいうべき婚姻関係です。この時代はすでに藤原北家だけが繁栄していて,他の藤原三家(南家,式家,京家)は没落していました。この藤原北家が全国に荘園を独占的に拡張させ,その財力と兵力で他の貴族を圧倒するばかりか,経済的基盤が破綻していた皇族をも支配するという勢いでした。その上,一族の女性をつぎつぎに天皇のもとに入内させて,あるいは,天皇家の女皇子と結婚し,どこもかしこも親戚だらけの関係を意図的・計画的に構築していきます。それはもう狂気の世界にも等しいのではないか,とわたしは読みながら考えていました。

 極論を言ってしまえば,帝が幼い場合には,外戚となる藤原北家の祖父が摂政・関白をつとめ,自分たちの思うままの政治を展開していきます。こんなことが少なくとも藤原不比等以後,営々と継続して行われてきたのか,と考えると空恐ろしくなってきます。まさに藤原にあらざれば貴族にあらず,という栄耀栄華をほしいままにします。その仕上げをしたのが藤原道長というわけです。そうして武家にとって代わられる時代が到来します。

 こんな藤原北家の一族で固められた世界に,忽然として菅原道真が登場するというわけです。菅原家(菅家・かんけ)は道真で三代にわたる儒家の名門の家柄ですが,貴族でもなんでもありません。ただ,儒家としての最高の職務である文章(もんじょう)博士として,帝や台閣の諮問にたいして意見を述べることができるにすぎません。道真の父も祖父も,この文章博士として名をなした人でした。道真もその後継者となるべく,必死で勉強し,難関と言われる試験にもつぎつぎに合格し,秀才の誉れも高く,若くして文章博士となります。

 ここまでは,道真の人生は設計どおりで,理想的な進みゆきでしたが,意外なところから予想外の人生がはじまります。最大のきっかけとなったのは,宇多天皇の誕生といっていいでしょう。宇多天皇は光孝天皇の皇子として生まれますが,母親の身分が低いという理由で,早くから臣籍降下し,幼少時代から皇族の外に置かれていました。ですが,頭脳明晰を見込まれ,菅家廊下(菅原家が主宰する儒学の私塾)に弟子入りします。そのときの塾頭が菅原道真でした。道真はこの皇子の賢さに惚れ込み,熱心に儒学の指導に打ち込みます。こうして,この皇子は道真と深い学恩で結ばれることになります。この皇子が,のちに,ひょんなきっかけから宇多天皇となります。

 藤原北家の主流からすれば,亜流の天皇の誕生です。ですから,宇多天皇は孤独でしたので,最初から道真を頼りにします。道真も熱心にサポートします。そうして,文章博士の職務を維持したまま参議として台閣(天皇の諮問機関)入りをはたします。そうして,ついには右大臣となり,さらには内覧(天皇のところに提出される文書のすべてをチェックし,天皇に意見を提示する役職)という仕事まで兼務することになります。こうなりますと,藤原北家一族の絶大な権力をも抑え込んで,天皇の名のもとに,自分の思うままに政治を動かすことができるようになります。ここまで権力をほしいままにすると人間は変わります。いかに生真面目な儒学者とはいえ,やはり人の子であることに変わりはありません。

 作家の三田誠広は,道真を擁護する立場を貫いて,道真にはいっさい責任のない藤原一族による身勝手な冤罪として,道真の太宰府への追い落としを描いています。なるほど,そんなものかなぁ,と思いながらこの小説を読みましたが,少し距離をおいて思いかえしてみますと,道真にも,最後の段階では相当の野心が新たに湧いてきていたのではないか,とわたしは推測しています。

 なぜなら,宇多天皇が譲位して上皇となってからも,上皇は道真の進言どおりに政務を裁いていたからです。しかも,宇多天皇のもう一人の皇子(醍醐天皇の腹違いの弟),すなわち斉世親王のところに道真の娘・寧子が嫁いでいるという事実を,見逃してはならないとおもいます。ということは,醍醐天皇に万一のことがあれば,斉世親王が天皇になる可能性があります。そうなると,道真は天皇の義父ということになります。

 この状態を藤原北家の一族が黙視するわけがありません。が,宇多上皇が生きている間は手も足も出せません。道真に絶対的な信をおいている宇多天皇に横やりを入れることはできません。こうして藤原北家一族の間に相当の不満・鬱憤がたまっていったのも当然のことだったでしょう。そんな不満のエネルギーが頂点に達した,ちょうどそのとき,宇多上皇が薨去します。道真の運命はここまででした。

 あとは丸見えの冤罪をかぶせて,太宰府に・・・というよく知られた話につながっていきます。それから起きたさまざまな天変地異のことも,よく知られているとおりです。

 この小説は,わたしとしては,菅原道真という人がどんな人脈のなかでもまれながら人生を切り開き,政治の実権を握ることになったのかを知ることができたという点で大満足でした。が,ここからはないものねだりの話になりますが,その点についても少しだけ述べておきたいとおもいます。

 この小説のなかには,菅原道真の出自については,ただ三代にわたる儒家の名門である,身分は高くない,とあるだけでそれ以上のことは書いてありません。しかし,この時代の藤原北家の一族が,菅原道真の出自が土師氏であり,もとは埴輪を焼き,古墳を築造し,葬祭儀礼を司っていた身分の出であるということを知らなかったとは考えられません。そして,その祖は野見宿禰であることも,十分,承知していたとおもいます。

 しかし,作者の三田誠広は,このことについてはひとことも触れてはいません。ましてや,菅原道真の祖・野見宿禰が出雲族である,という小説の題材としてはまことに魅力的なテーマが流れているにもかかわらず,作家はなにも語ろうとはしません。つまり,藤原一族と出雲族との秘められた確執のようなものが,どこかにあったのではないか,とこれはわたしの勝手な「幻視」にすぎません。もっと言わせてもらえば,菅原道真の怨霊を恐れて,あわてて北野天満宮を建造した話も,どこかオオクニヌシの怨霊を恐れて出雲大社を建てて封じ込めた(これもわたしの想像)という話と二重写しになってわたしには透けて見えてくるという次第です。

 ついでですので,もうひとこと言わせてもらえば,菅原道真には出雲族の復活という野望もどこかにあったのではないか,とりわけ晩年には・・・・,ということです。それを藤原一族が感じとっていたとしたら,相当に怯えていたのではないか,とおもいます。ですから,宇多上皇の薨去が,その野望を断ち切る絶好のチャンスだった・・・・。

 とまあ,こんなことを幻視したり,透視したりしながら小説を読むのも一興かとおもいます。歴史小説にロマンを求めるとしたら,こんな読み方もあってもいいのでは・・・・などと自己弁護しておきましょう。これでまたひとつ,出雲幻視の夢が広がりました。楽しきかな,人生は。

2013年6月3日月曜日

反原発デモに6万人(東京)。「痛みへの想像力を」(落合恵子)。

 昨日(6月2日)の日曜日,どうしてもはずせない用事があって,昼中の芝公園にも,夕刻の国会前にも行くことができませんでした。どんな風だったのかなぁ,と気がかりになっていましたが,わたしが確認できた範囲のテレビはなにも伝えてはくれませんでした。ああ,無視される程度の人しか集まらなかったのか・・・・といささか失望していました。もう,このまま原発事故は過去のものにされてしまい,人びとの記憶からも遠ざかってしまうのだろうか,とそのことだけが気がかりでした。なぜなら,最近のテレビのニュースをみているかぎりでは,反原発運動などは眼中になく,どうでもいいスキャンダラスな情報ばかりが垂れ流されているからです。

 が,今朝の『東京新聞』をみて安心しました。一面の中程にかなり大きく写真入りの囲み記事になっていました。
 迫る参院選 「痛みへの想像力を」
 原発反対6万人 国会を囲む
 という見出しの文字が大きく躍っていました。

 毎週金曜日の夕刻,首相官邸前で抗議集会をつづけている首都圏反原発連合が主催した「反原発国会大包囲」という抗議デモです。それにしても全国から6万人(主催者発表)の市民が集まってきたというのですから,これは久しぶりの快挙です。これを弾みにして,夏の参院選に向け,もっともっと大きな輪になっていけば・・・・,そして,首都圏だけではなく,全国の主要都市はもとより,地方の市町村単位でも,「反原発」の意思表示をする集会がひろがっていけば・・・といまは祈るような気持ちです。

 その記事のなかには,日中に,芝公園と明治公園の二カ所で抗議集会が開かれ,こちらにも合わせて2万5千人超が集まった,とありました。芝公園では,大江健三郎さんや落合恵子さんらが演壇に立ち,反原発を訴えたとありました。

 こういう抗議集会はこれまでにも何回も開かれています。が,わたしが不思議におもうのは,テレビなどで「哲学者」や「社会学者」を名乗り,さもものわかりのよさそうな話をしている若手の研究者・評論家たちの姿を,こういう抗議集会でみたことがない,ということです。もちろん,わたしがでかける抗議集会やデモはごくかぎられたものでしかありませんが,それでも,一度もみかけない,演壇に登壇しない,というのはわたしにしてみれば不思議です。

 あれだけ立派なことをおっしゃるのであれば,自分たちで運動を組織して,自分たちの主張を世に訴えてしかるべきではないか,とわたしなどは単純に考えます。が,その裏はわかっています。そういう街頭に立って演説の一回でもぶてば,もう,二度とテレビには出演できないということを十分すぎるほど承知しているはずだからです。ということは,テレビに出演する哲学者・評論家の多くは,単なる売名行為であって,確たる思想・信条の吐露をしているわけではない,ということになります。もっと言ってしまえば,基本的には原発推進派だ,ということです。それをさも中立主義者のような玉虫色にみせかけて,「推進派でも,反対派でもない」と平然と言ってのける,まことに破廉恥きわまりない連中です。反対派ではない,ということは結果論としては推進派以外のなにものでもありません。

 しかし,そういう若手がもてはやされるのはほんの一瞬でしかありません。すぐに馬脚を露にしてしまうために,マス・メディアは使い捨てにしてしまいます。突然,テレビに現れたかとおもうとあっという間に消えていった,あの人たちはなんだったのか,そして,そういう人たちを使い回すテレビというメディアはいったいなんなのか,と考えてしまいます。

 そこにいくと大江健三郎さんは偉い。若いときから終始一貫して,みずからの思想・信条を訴えつづけています。ノーベル賞作家というおまけまで付いてしまいましたが・・・・。でも,この大江さんですら,最近は,ときおり妙なことをおっしゃいます。それほどに,いま,日本の社会で起きていること,そして,世界で起きていることの見極めをつけることは困難なのだ,ということなのでしょう。しかし,落合恵子さんが訴えるような「痛みへの想像力」を軸にしてものごとを考えていけば,おのずから道は開かれてくるのではないかとおもいます。いま,求められているのは,こうした女性の眼,女性の感性,感受性なのでしょう。その意味では,いまは,男がダメになってしまった最悪の時代といってよいでしょう。

 ここにも「近代」(男)の終焉,「前近代」(女)の蘇生が見え隠れしています。「後近代」(両義性,両性具有)を切り開くための論理がそこから透けてみえてくるようにおもいます。これからは文化人類学者たちが持ち合わせている「複眼的」な思考回路が,ますます重要な意味をもつようになってくるのでは・・・とわたしは考えています。

 反原発は,経済や政治の駆け引きのレベルで考えるのではなく,生身の生きる人間としての「痛み」の次元から,その思想を立ち上げていくべきでしょう。

 そんなことを,昨日の抗議集会にも,国会大包囲デモにも参加できなかった懺悔の気持ちを籠めて,いま,このブログを書いています。他者の「痛み」に鈍感になってしまった男たちのひとりとして,深く反省しつつ・・・・・。

2013年6月1日土曜日

『スポートロジイ』第2号の初校ゲラが上がってきました。7月15日発行予定。

 気がつけばもう6月1日。そして,土曜日。このところ1週間が矢のように飛び去っていく。どうして1週間がこんなに速く過ぎていくのだろうかと呆れてしまう。忙しいわけでもなんでもないのに・・・・。ただ,ぼうっとしているだけなのに・・・・。

 学生時代のように,朝から「黒板に向かって坐し」(西田),その間ずっと「昼飯はなにを食べようかと妄想し」(わたし),午後の授業では「どの映画を見にいこうか」と苦慮を重ねた時代が懐かしい。あの時代は時間がゆったりと流れていたように思う。いまは,「黒板を背にして立つ」(西田)ことからも解放され,時間はまったくわたしの自由になるというのに・・・・。

 やはり人間はなんらかの拘束があるとそこから自由になろうと努力するが,なんの拘束もなくなってしまうと自由のありがたさも理解できなくなってしまうようだ。もう一度,青春(老春か?)をとりもどすには,毎日の時間割を組んで,みずからを拘束し,そこから逃れるための算段に苦慮する時間を設けるべきなのかもしれない・・・などと真剣に考えている。サクセスフル・エイジングは,なかなかことばどおりには進まない。

 閑話休題。

 遅れていた『スポートロジイ』第2号の初校ゲラが上がってきたという連絡がみやび出版の伊藤さんからあった。21世紀スポーツ文化研究所(「ISC・21」)の研究紀要として発行してきた『IPHIGENEIA』を改題し,装いも新たに『スポートロジイ』として昨年創刊号を発行。つづけて第2号は,3月末,遅くも4月末には刊行したいと考えていたのだが,わたしの手順が悪く,とうとうこんな時期になってしまった。しかし,公費による紀要発行とは違って,自分のポケット・マネーで発行するものなので,時期に縛られるよりは内容にこだわることにした。

 編集業務を担当してくださっているみやび出版の伊藤さんのメールによれば,創刊号よりも内容が充実していて面白い,とのこと。第2号の構成は,大きくは四つの柱になる予定。ひとつは,ドーピング問題,ふたつには,グローバル化と伝統スポーツ(第2回日本・バスク国際セミナーからの抜粋,ここには今福龍太,西谷修の両氏による特別記念講演も収載されている),みっつには,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』をどう読み取るかという合評会をやったときの西谷修さんのお話を載録したもの。というか,西谷さんはきちんとした内容にしておきたかったということで,わざわざ想を練り直し,まったくの書き下ろし原稿を寄せてくださった。よっつには,わたしの研究ノート。題して「スポーツの始原について考える──ジョルジュ・バタイユの思想をてがかりにして」。創刊号のときに,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』のスポーツ史的読解をこってりとやったので,第2号では,それと連動するかたちで,それ以前に書き散らしていた原稿を掻き集めてきて,「スポーツの始原について考える──ジョルジュ・バタイユの思想をてがかりにして」というタイトルのもとに整理してみた。

 こんなところが概要である。

 あとは,「第2号のことば」と「編集後記」を書き加えれば,わたしの手から離れることになる。これらは初校ゲラに眼をとおしてから,と考えている。あと一息である。

 かたちの見えなかったものが徐々にその姿を見せはじめ,やがてかたちとなり,校正・検閲をすませて一冊の本となり,世に送り出せることの喜びは一入である。こんなことをわたしの道楽でやろうというのだから,贅沢の極みである。しかも,わたしなりの「野望」もある。「スポーツ学」という新しい学問を構想し,初めて提唱したのはわたしだが,その後の使われ方はみごとなまでにお粗末そのもの。「スポーツ学」のなんたるかも考えないで,浅はかなアイディアだけでことを処理して平気である。「スポーツ学」はそんな甘いものではないし,そんなに安易に用いてほしくない,という一種の憤りのようなものがわたしのなかに燃えたぎっている。かといって喧嘩を売ってもはじまらない。ならば,みずから,「スポーツ学」とはなにかという根源的な問いを発し,その答えをみずから模索し,提示していくことが先決ではないかと考える。その手始めが,この『スポートロジイ』の創刊であり,いま,その第2号が世にでようとしている。

 この研究紀要が,どういう人に,どのように読まれているのか,いまのところまったく不明である。が,せめて第5号くらいまでは発行をつづけながら様子をみたいとおもっている。いずれにしても,内容がかなり先鋭的(前衛的,哲学的,思想的・・・)なので,いますぐに理解が得られるとはおもっていない。おそらく10年,20年の時間を経たころに,この『スポートロジイ』の評価が定まるのだろうと想像している。わたし自身でそれを見届けることがてきるかどうかも定かではない。が,それでも,まことにスリリングで,道楽としては最高のものだと自負している。

 というようなことで,『スポートロジイ』第2号の現状報告としたい。
 内容は熟読玩味に値する,きわめて先鋭的なものである,と予告しておきたい。
 乞う,ご期待!