2015年8月31日月曜日

12万人が国会議事堂を包囲。「8・30」抗議行動,参加してきました。

 これまでのデモですら,国会周辺の地下鉄の駅はピーク時には大混乱になるということを知っていましたので,今回はちょっと時間をずらして参加してきました。これが大正解でした。帰宅してからネットでデモ関連の情報をチェックしていたら,地下鉄・永田町駅は大混乱に陥った,と報じています。

 わたしは神保町でひとつ用事をすませて,午後3時に霞が関駅に到着。それでも,駅構内は人でごった返していました。これから抗議行動に向かう人と,すでに引き上げてきて帰路につく人とで,相半ば。駅から外にでた交差点の向こう側の角でどこかの団体がリレー・スピーチをやっていました。当然のことながら,その一帯は人でいっぱい。その脇をなんとか通過して,国会議事堂をめざしました。

 この国会議事堂をめざす歩道も,帰路につく人とこれから向かう人とがすれ違うのが精一杯。なんども立ち止まっては,また,歩きだすの繰り返しです。その間,あちこちから「安倍はやめろ」「戦争法案絶対反対」「集団的自衛権はいらない」「民主主義とはなんが・これだ」といったシュプレヒ・コールが聞こえてきます。あるいは,リレー・スピーチもいろいろのところから聞こえてきます。そんな声に耳を傾けながら,牛歩がつづきます。

 1時間ほど,のろのろと歩いていましたが,このさきは帰る人の分だけ前に進むの繰り返しだと判断して,一旦,引き上げることにしました。午後5時に仕事が終わるので,そのあと国会に行きたいという友人と待ち合わせることになっていましたので,その待ち合わせ場所の近くで一休み。紅茶を飲みながらからだを休めることにしました。

 約束どおりに友人が現れましたので,再度,霞が関へ。さすがに,こんどはそんなに混雑することなく,国会議事堂前の交差点に到達することができました。それでも,かなりの人が抗議行動の余韻に浸りながら,警察官の規制行動を見守っていました。それでも時折,偶発的に「アベはやめろ」のシュプレヒ・コールがはじまります。みんなこれに声を合わせています。

 
すると,ご丁寧にも,「本日の集会は終わりました。お帰りください」と指令車の上に立つ警察官が繰り返し呼びかけています。しかも,「帰る人のために歩道を空けてください。立ち止まらないでください。歩行者の邪魔になります」と繰り返しています。わたしは思わず叫んでしまいました。「めん玉どこについてんだッ!歩くスペースは十分にあるッ!立ち止まっても邪魔にはなっていないッ!なんのためにそこに立ってんだッ!」と。近くにいた人たちの笑いをかってしまいました。


帰り際に面白いものを見つけましたので,写真に撮ってみました。この看板を掲げていたのは,創価学会の会員有志の人たちです。しかも,公明党につきつけるための署名活動もやっていました。こんなまっとうな会員がいるというのに,政治惚けしてしまった公明党は戦争法案に一直線です。こんなかんたんなロジックすらわからなくなってしまっているのか,それとも,いろいろの裏取引があって身動きできなくなってしまっているのか。いずれにしても,情けない話です。

 
いまこそ,公明党は自民党に三行半を突きつければ,歴史に残る快挙となるのに・・・。そして,つぎの選挙で大勝ちすることができるというのに・・・。そんな判断すらできないほどの「思考停止」,そして,「自発的隷従」。なにやってんだか・・・・。

 どこもかしこも,総狂い。みんな狂ってしまうと,それが正義になってしまいます。いまの自民党がその典型。こんなにボス(アベ)が狂ってしまっているのに,だれも文句も言わずに(言わせずに)黙って追従していく党員。ここにも「思考停止」と「自発的隷従」が立派に機能しています。だから,バカのいいなり。やりたい放題。

 それもそのはず。ボス(アベ)そのものが,アメリカのいいなり。「思考停止」「自発的隷従」を率先垂範しているのですから,党員も「右へならえ」をするしかありません。

 そして,とうとう「報道」までが,「犬HK」を筆頭に,そのほとんどが政府のいいなり,「思考停止」「自発的隷従」に甘んずるという体たらく。これでは民主主義は機能しません。若者たちが「民主主義ってなんだ」「これだ」と叫ぶ気持ちがよくわかります。

 最後に,これまた面白い看板を二つ,写真に撮ってみました。
 ご笑覧ください。

 

2015年8月29日土曜日

「8・30」100万人集会を成功させよう!全国各地ですごい盛り上がり。

 明日の「8・30」100万人集会に向けて,全国各地ですごい盛り上がりをみせています。それとなくインターネット情報をサーフしているだけで,その熱気が伝わってきます。これは尋常ではないぞ,とそんな予感がしてきました。

 国会周辺もたいへんなことになりそうで,ついに集結場所を各団体ごとに割り振っています。議事堂前の大通りは遠隔地から駆けつけた人たちと,一般参加の人たちに譲ってくれているようです。その他の団体は,それぞれの拠点を決めて,そこで集会をもち,デモを行うようです。国会周辺を多極的に固めようということなのでしょう。

 わたしの故郷である愛知県豊橋市でも,駅前広場で集会をもち(11時30分集合),そのあとデモを行う予定とか。もともと保守色の強いところで,しかもおとなしい性格の人が多い土地柄もあって,このような政治集会が立ち上がりにくいところです。なのに,ついに立ち上がる人たちがでてきた,ということを知り,感動しました。

 インターネットをみていると,地名をみただけではどこだかわからないような地方の都市や町でも,集会を呼びかけ,デモを予定しています。

 これほど政権が必死になって報道規制をして,国民に真相を教えないでフタをしてきたのに,国民はちゃんとその本質を見破っています。

 その最たるものは,国会討論です。一度でも,国会討論の,じつに馬鹿げたやりとりをみた人は,もう黙ってはいないでしょう。NHKが唯一,国民のために貢献しているのが「国会討論」のテレビ中継です。固定したカメラで,ありのままの,ぶっつけ本番の討論を流してくれています。いいも悪いも,もう,全部,まるみえです。大まじめな野党側の質問に対して,まともな答えをしないで,はぐらかしてばかりの政府側答弁。「イエス」か「ノー」が,短く答えてくれという質問者に対して,まったく答えにならない話をながながとする政府側。そのたびに,「書記を止めてください」という委員長発言とともに,中断。こんなことの繰り返し・・・・。

 共産党の志位委員長の話では,もう「77回」も質疑が中断しているといいます。それほどまでに,戦争法案を正当化するロジックがないために,でたらめの,はぐらかしの答弁をするしかないことが明らかになったのだから,もう「廃案」しかありえない,と志位委員長。

 こういう無意味な国会討論を,たった30分でも聞いてしまった国民は,もはや行動を起こす以外にはありえない,と覚悟を決めているのだとおもいます。

 いま,話題の山本太郎議員の質問が,あまりに核心に触れたために,NHKは中継を打ち切るという「暴挙」まで演じています。もう,でたらめです。こんなことがまかりとおるのですから。

 こんな「暴挙」も全国津々浦々にまで,リアル・タイムで伝わっていきます。むしろ,地方に住んでいる人たちの方が危機意識が高いのではないか,とわたしはおもいます。なんだか,わけのわからないことを,平気で,勝手に進めているアベ政権に,もはや,これ以上まかせておくわけにはいかない・・・と。

 そういう「怒り」の渦が,明日の「8・30」では,一気に噴出することになるでしょう。

 国会周辺10万人,全国100万人,こういう抗議行動が成功すれば,いかに破廉恥なアベ政権とはいえ,相当のダメージを受けることになるでしょう。かつて,岸政権が退陣したときのように,国民の「怒り」の渦を巻き起こして,その孫の政権も同じように退陣させなくてはなりません。

 みんな声を掛け合って,近くの集会に馳せ参じましょう。

 わたしも,明日は,100万分の1になるつもり。国会議事堂前に向かいます。

ああ,ウサイン・ボルト。200m決勝レースでも後半は流している。

 ウサイン・ボルト。200m決勝レースでも,コーナーを廻って直線コースにでてきて,自分が一番だと確認したとたんに,もう流している。ゆったりと楽に流している。にもかかわらず,追ってくる選手たちはその差を詰めることはできなかった。そして,悠々とゴール。いったい,なんという男か。こと200mに関しては敵なしだ。しかも,こんなにも力の差があるとは・・・・。 

 このところ,世界陸上にくびったけ。毎夕食のたびにテレビ観戦。そのまま午後10時までやめられない。困ったものだ。陸上競技がこんなに面白いものだとは知らなかった。たぶん,これはテレビ観戦の効果なのだろう。実際に競技場で観戦するのとはまるで違う世界。これこそ「みるスポーツ」の権化。いったい,テレビの画像をとおして,わたしたちはなにを「みて」いるのだろうか。

 じっさいに,スタジアムに行って,自分の眼で「みる」のと,テレビをとおして「みる」のとの違いはなにか。同じ「みる」行為なのに,どこが,どう違うのか。これは,じつは,とてつもなく重要なテーマなのだ。が,これまであまり踏み込んだ議論をだれもやっていない,と記憶する。今回はその入口の議論だけでも,ちょっとだけ試みてみたい。

 その違いの第一は,「みる」行為の主体がまったく異なるという点にある。テレビ観戦がはじまる前までは(それは,1964年オリンピック東京大会が大きな節目の年だった),スポーツを「みる」ためにはみずからスタジアムや野球場に足を運んで,自分の眼でみた。そして,そこでなにを「みる」かも自分で決めた。自分の興味・関心に合わせて見たいものを「みる」。つまり,すべてその主体は自分自身にある。しかし,テレビ観戦となると,送られてくる映像はすべてテレビ局によって編集されたものである。どの映像を切り取るかはすべてディレクターの主観に委ねられている。わたしたちは,それをただ享受するだけ。没主体。受け身。

 こんなことを繰り返しているから,やがては「思考停止」,ついには「自発的隷従」が透けてみえてくる。テレビとはそういう装置だということがみえてくる。このプロセスについては,しっかりと分析しておくことが肝要だ。なぜなら,いま,問題になっている「だれも責任をとらない社会」の淵源をたどっていくと,その一因に,このからくりが浮かびあがってくるからだ。

 第二のポイントは,映像がアップにされ,リピートされるということ。感動的なシーンは何回でも繰り返し映し出されるということ。これは,テレビならではのメリット。だからテレビ観戦はやめられない。スタジアムではみることのできない決定的なシーンを,テレビは「映像」化して提供してくれる。もっと言ってしまえば,人間の眼にはみえないものまでも映像を解析して,しかも,スローモーションにして,じっくりと「みせて」くれる。肉眼ではみることもできない1000分の1秒の世界を可視化してくれる。しかし,このことの功罪については慎重を要するところだ。

 というような具合に,重要な問題が,随所に隠されている。

 こうした問題とは別に,わたし自身は,決勝レースの直前にアップで映し出される選手たちの顔を楽しんでいる。みんないい顔をしている。いざ,勝負という直前にしか表出しない,えもいわれぬいい顔ばかりだ。緊張の極にいながら,それをなんとか解きほぐそうとしてカメラに向かって満面の笑顔を向けた直後に,ちらりとみせる寂しそうな表情。役者の演技とはまるで次元の違う世界での,人間の真実の顔。

 スーパープレイもさることながら,わたしは選手たちの表情を存分に楽しんでみようとおもう。こんな顔は,こんなときしか拝むことはできないビッグ・チャンスだ。これもまた,「みるスポーツ」の醍醐味のひとつだ。

 ウサイン・ボルトの顔はその意味でも天下一品である。千変万化する素晴らしい顔だ。よくよく観察してみると,やはり,天才の顔だ。どこか根本が違うようにおもう。これからリレーに登場してくるボルトの顔を追ってみよう。また,新しい発見がある,そんな予感がする。

2015年8月28日金曜日

デモに行こう。戦争法案を廃案にするために。8月30日。天王山。

 8月23日に行われたSEALDsのデモが,翌日の東京新聞の朝刊一面トップ記事でとりあげられていました。デモ参加者6500人(主催者発表)。その6500分の1に,ようやくこのわたしも加わることができ,ほっとしています。この日のために体調を整え,準備をした甲斐があったというものです。

 
その日のブログにも書きましたが,SEALDsのデモはまったく新しいスタイルのものでした。以前のような,頭でっかちの,イデオロギーでがちがちのデモとは違って,人間の素直な感情をそのまま表明する,とてもアットホームなものでした。いやなものはいやという。怖いものは怖いという。恐ろしくてふるえるものはふるえるという。なんとなくいやーなものを感じたら「いやーな感じ」という。とにかく感じたことをそのまま表現する。知性よりももっと深いところの深層意識を大事にする。あるいは,無意識を大事にする。

 たぶん,こういうソフトな雰囲気が,SEALDsが支援される原動力になっているのだろう,とデモ行進をしながら,しみじみおもいました。一緒に歩いてくださったNさんは,多くの人のこころをとらえる「力」,行動にまでかりたてる「力」の在り処を,これからはもっともっと大事にしなくてはならない,というような趣旨のことを話してくださいました。それを,知性ではなく,ものごとの「理」(ことわり)ということばで表現し,この「理」こそがこれからの時代にあっては重要なのではないか,と語ってくださいました。

 要するに,ヨーロッパ近代がめざした知性や理性中心主義の限界を打破して,さらに,もう一歩前に踏み出すための思考をそこにみるおもいがしました。そのゆきついたキー・ワードの一つがものごとの「理」ではないか,と。

 いま,国会で議論されている戦争法案は,知性もなければ,ものごとの「理」をも無視して,強引に戦争のできる国家をめざしています。そのためには憲法をも無視し,立憲デモクラシーをも否定して省みないアベ政権の「暴走」です。これは,もはや「暴走」どころの話ではなく「クーデター」です。この無謀な,憲法を大きく逸脱する,根拠なき「クーデター」は,なにがなんでも「ストップ」させなくてはなりません。

 そのための天王山の闘いが,こんどの8月30日(日)の国会包囲10万人デモであり,全国100万人デモだ,とわたしは位置づけています。このデモにも老体に笞打って,でかけてみようとおもっています。そのためには,今週も,いまからしっかりと歩行運動をして,体調を整えておこうとおもっています。

 全国の各地で,いろいろの団体がデモを組んでいます。調べればすぐにわかります。どうか,自分の参加しやすいデモに参加して,みずからの意思を表明しましょう。そして,とにもかくにも「戦争」だけは回避しなくてはなりません。そのためにあらゆる智恵をひねりましょう。そして,「戦争 NO」の行動をとりましょう。

 SEALDsの若者たちは真剣です。「本気で止める」とその気になっています。遅ればせながら,わたしもその一助になれば・・・と願っています。

2015年8月27日木曜日

出雲大社の存在は明治以後,にびっくり!NHK・ぶらタモリの「出雲」で知る。恥ずかしい。

 8月24日(月)の夜に放映されたNHKテレビの「ぶらタモリ」という番組を,遅い夕食をとりながら,ぼんやりと眺めていた。一瞬,チャンネルを変えようかとおもったが,旅先が「出雲大社」だということがわかったので,ちょっとだけ覗いてみて,面白くなかったら変えればいいとおもいながら眺めていた。そうしたら,驚くべき「事実」を知り,びっくり仰天してしまった。

 出雲大社は,明治以前は存在しなかった,というのである。そして,明治以前まで存在したのは杵築大社だ,と。この杵築大社が明治になって出雲大社と改称したのだ,という。おやおや,である。わたしの頭のなかでは,出雲大社は古代からずっとあって,それがこんにちまで継承されてきたのだ,ということになっていた。しかし,そうではない,というのだ。

 そこで慌てて,出雲大社について調べてみた。すると,つぎのようなことがわかった。

 1871(明治4)年,杵築大社を出雲大社と改称。官幣大社に列格。大正時代に勅祭社となる。現在は神社本庁包括に属する別表神社。宗教法人出雲大社教の宗祠。出雲国一の宮。

 これをみるかぎり,わたしがむかしから出雲大社が存在したと信じてきたのは,それは杵築大社のことだった。なぜ,こんなことが起きたのか。その責任は,古代史を語る研究者や作家たちにある。なぜなら,古代出雲を語る記述の最初のところで杵築大社(のちの出雲大社)と断り書きをしていても,あとは,全部,出雲大社で押し通してしまっているからだ。そそっかしい読者のわたしは,杵築大社と呼ばれた時代は創建当時のわずかな期間のことであって,そのあとすぐに出雲大社になったものと勘違いしてしまったのだ。

 たとえば,こうだ。国譲り神話のなかで,オオクニヌシを祀るための大きな社殿を建造した,という話がでてくる。その名前は杵築大社,のちの出雲大社のことである。そして,この出雲大社を守る国造には・・・,という調子で,このあとの説明では,すべて出雲大社という名称を用いている。だから,杵築大社という名称は記憶のなかのかなた遠くに消えてしまう。そして,出雲大社という名称だけが鮮明に残ってしまう。

 こんなことも知らないまま,こんにちまで生きてきたことが恥ずかしい。

 テレビをみていてびっくり仰天したことが,もう一つある。それは「縁結びの神様」として全国に知られるようになったのも,これまた明治以後のことだ,というのである。杵築大社を出雲大社と改称したのをきっかけにして,この出雲大社の存在を全国に知ってもらうために,出雲大社に所属する御師(おし)たちが暦やお札を全国に配ってあるいた。そのときの宣伝文句に八百万の神様が集まる大社にことよせて,「縁結び」の神様である,と言いふらしたのが大当たりして,一気に知られるようになった,という。折しも,鉄道時代がやってきて,出雲大社の近くまで鉄道を引いたので,全国から鉄道を使って参拝客が押し寄せるようになった,と。それはそれはたいへんな賑わいで,町も大いに栄えた,という。

 こうして出雲大社は全国にその名が知られるようになった,というのである。いやはや,伝統はいともかんたんに「創造」されてしまうものなのだ,という典型的な例。わたしたちの多くは,この「創造」された伝統を丸飲みして信じてしまっていた,という次第。

 思い込みというものは恐ろしい。これから気をつけなくては・・・・。くわばら,くわばら。

2015年8月26日水曜日

興林山宗隆寺。陶芸家濱田庄司の菩提寺。溝口神社の隣に。

 たしか以前,この寺にきた記憶がある。しかし,記憶にある寺とはまるで違う門構え,本堂の立派さ,雰囲気の重々しさにしばしとまどう。左手の丘陵に沿った墓地をみると,間違いなく以前,ここにきて,墓地も歩き回った記憶がある。なぜなら,濱田庄司のお墓があるという小さな看板があり,それにつられて,いきなり墓地に入っていった記憶が鮮明に残っているからだ。

 そんなことを思い浮かべながら,じっと山門を仰ぎ見る。「興林山」という山号の扁額が掲げられている。以前はこんな山門はなかったはず・・・。そして,その周囲を囲む土塀もなかったはず・・・。正面の本堂も,もっともっと奥まったところにひっそりと佇んでいたようにおもう。つまり,なんにもないだだぴろい境内と,左側の墓地を区切る金網の柵があっただけのはず・・・。

この山門の周囲でうろうろしていたら,右脇の道路に面して「陶工 濱田庄司の墓」という表示板をみつける。これをみて,ああ,間違いない,と確信。以前(といっても,すでに17年も前の話)は,もっと小さな板ッぴれに「濱田庄司の墓がある」寺,と書いてあっただけだった。でも,それをみて,すぐに墓地の中に入り,濱田庄司の墓をさがした記憶がある。左側の墓地のいちばん奥まったところにその墓はあった。

 
この掲示板のすぐ左脇に,濱田庄司の筆跡を残す碑まで立っている。そうか,こういう文字を書く人だったのだ,としみじみ眺め入る。大きな皿絵や,ときおり,その中に書き込まれている文字はお目にかかったことはあるが,碑文としてみるのは初めて。「昨日在庵 今日不在 明日他行」とみごとに,昨日・今日・明日の時間認識を四文字で言い表している。そういえば,濱田庄司は仏教にも造詣の深い人だったことを思い出す。

 
そうか,以前,ここを尋ねたときからすでに17年もの歳月が流れているのだから,寺のたたずまいも変化して当たり前だ。しかも,こんなに立派になっている。おそらく当代の住職は相当の力量の持ち主に違いない。山門から本堂までの石畳の道もつけて,しかも,以前の本堂とは比べ物にならないほどの立派な本堂を,ずっと手前に引き寄せて,山門からの距離もちょうどいい。

 
本堂に向かって歩いていくと,左側には立派な石段を登っていった先に大きな「祖師廟」が建っている。これも,以前はなかったものだ。本堂の右側には,「善日麿」の像が立っている。善日麿とは日蓮の幼名だと書いてある。そうか,ここは日蓮宗の寺だ,と知る。そして,本堂の正面に立ってみると「宗隆寺」という扁額がかかっている。この寺は日蓮宗の興林山宗隆寺だったのだ。

 
わたしの育った寺は道元さんの曹洞宗だったが,中学時代に日蓮さんに興味をもち,何冊か伝記本を熱中して読んだ記憶がある。しかし,幼名が善日麿だったことはすっかり忘れていた。まずは,お顔をしっかりと拝ませてもらう。童顔とはいえ,しっかりした顔だちである。成人してからの日蓮さんの肖像は,あちこちで拝ませてもらっている。とくに印象に残っているのは,洗足池のほとりに立つ日蓮像だ。見る者を圧倒する迫力満点の大きな顔と鋭い眼力,一度,見たら忘れない,その意味では傑作の像が立っている。だから,この善日麿のお顔に,わたしの眼は吸い込まれていく。まだ,幼児とはいえ,いいお顔である。

 そんな感慨にふけっていたら,若い僧が現れ,5時で山門を閉めるからお帰りください,という。そうか,ちかごろは不用心なので,午後5時には閉め切ってしまうのだ,と納得。しかし,これでは寺本来の姿(機能)からは遠ざかっていくことになる,このことをどうお考えなのか,とつい尋ねてみたくなった。が,ぐっと我慢することに。

 と同時に,17年前は,門構えも囲い(土塀)もなにもなく,だれでも,いつでも,出入り自由,そういう昔からの寺の役割をはたしていた。だから,迷わず濱田庄司の墓を探しに,こころの赴くままに入っていった。しかし,今回は,墓地に入っていくこと,そのことにいたく抵抗を覚える,そういう寺の構え,墓地への入口の重苦しい雰囲気にしり込みをしてまった。不用心という世の中の変化が,寺をも閉鎖的にしてしまうのだ,と山門の外に立ってしみじみと考えてしまう。

 こんな世の中にだれがしたんだ,と自問自答を繰り返す。政治の貧困をこころからおもう。

〔追記〕
この興林山宗隆寺と溝口神社はすぐ隣合わせのところにある。いまは,この寺と神社の間に民家が建っているが,江戸時代の大山街道がにぎわっていたころには,この寺と神社は大きな境内をもち,お互いに接していたのではないか,とわたしは想像する。そして,「赤城大明神」として賑わっていたのではないか・・・とも。

2015年8月25日火曜日

『わたしたちは難破者である』(今福龍太著,河出書房新社,2015年8月刊)がとどく。

 神戸からもどってしばらくは,毎食後,横になって休むことが多くなっていた。やはり,いささか疲れたらしい。だから,鷺沼の事務所に,パソコンを背負ってでかけるだけの気力も体力もなかった。その代わりに,溝の口の周辺を散歩することをこころがけた。それで,いくぶん調子がよくなってきたので,久しぶりに鷺沼の事務所に,パソコンを背負ってでかけてみた。

 すると思いがけない「贈与」が待っていた。今福龍太さんからの新著『わたしたちは難破者である』(河出書房新社,2015年8月刊)がとどいていた。いつもの癖で,すぐにペラペラめくりながら拾い読みをし,最後に「後記」を読む。この「後記」の書かれた日付をみてびっくり。「2015年7月7日」とある。わたしの癌の肝臓への転移がみつかり,切除手術を受けた,まさにその日である。偶然とはいえ,縁は奇なり,である。

 
拾い読みした程度で,今福さんの著作を紹介するのはまことに失礼なのだが,お許しねがいたい。全部を読み切るには,いまの体調だと,まだ,相当の時間が必要だとおもわれるので・・・。

 この著作のなかに収められた一つひとつの論考のいくつかは,わたしの眼にも止まり,どこかで読んだことのあるものだったので,より一層,親しみが湧いた。しかも,それらが,こうして「編集」の手が加えられ,並べ替えられると,また,新しい生命を吹き込まれ,大きな構想の,見違えるような次元の「知」の地平が切り拓かれていくことを知り,感動することしきりである。

 そして,いつもながらの今福さんの美しい文章がわたしのこころを魅了してやまない。しかも,いま,まさに進行中の政治や経済や金融の「妄想」と「暴走」を婉曲に「批評」する,深い「根」をもった思想とことばが,とめどなく流れてわたしに迫ってくる。

 たとえば,プロローグの「あらたなる創世へ」の最後の文章を挙げておこう。

 世よ直れ。ユーヤナウレ。かつての合理世界に復旧しなければ,という強迫観念によって身動きできなくなっている政治や経済世界を後目(しりめ)に,南の島々から,〇(あおぐろ)い森の闇の奥から,こんな声が聞こえてくる。世よ直れ。ユンノーレ。そう,瓦礫のなかから新たな文化のよみがえりを想像することは,生きるなかで人間が経験してきた継続的な「世直し」の第一歩にほかならないのだ。瓦礫からたえず文化を再生させてきた人間にとって,創世は神話における一度きりのものではなかった。

 この短い文章のなかに凝縮された今福さんの「思い」がみごとに映し出されていて,しかも,わかりやすい。これまでの大きな構想で描かれてきた「世界-群島論」をベースに,ベンヤミンの「瓦礫」論という補助線を引いて,わかりやすい「解」を提示してくれている。ここのところをしっかりと念頭におくだけで,この本のいわんとするところは,ほぼ予測できるのではないか,とすらおもうほどだ。あとは,今福さんの「芸」に酔い痴れるだけだ。

 その「解」は本文の冒頭で,たちまち,明らかにされる。題して,「群島響和社会<平行>憲法」。第一縞(こう) 意志 inner will からはじまって,第一二縞 航海 voyages まで,これ以上には凝縮できないとおもわれるほど濃密な縞文がつづく。今福さんの文章に慣れない人にはかなり難解だが,熟読玩味すれば,その意味の伸びていくさきの奥の深さはおのずからみえてくる。

 これを読みながら,わたしの脳裏をかけめぐっていたことは,ヨーロッパ近代の合理主義が「非合理」「不合理」の名のもとに切り捨て,排除・抑圧・隠蔽してきた,遠い原初の人間の時代から引き継いできた「智恵」(=遺産)を,どうやって蘇生させるか,そこに賭ける今福さんの決然たる強い「意志=inner will」だった。それが,同時に,わたしのやってきたスポーツ史・スポーツ文化論に,じかに跳ねかえってきて,さて,わたしならどうする,という自省への道程だった。

 これもまた,わたしのいつもの癖だが,表紙の帯に書き込まれた「コピー」の発するメッセージとも共鳴・共振する,その強度に打たれた。

 背のところには「深いオプティミズム」とあり,表には「座礁し,還るべき故郷も失った現代人よ,難破者であることを引受よ──支配の歴史から自由になった海=群島から発せられた創世への宣言」とあり,さらに,裏には「本書は,現代人という難破者にとっての新しい憲法,新しい倫理,そして新しい音楽や踊りがどのようなものでありうるか,その淡い風景を描きだて初めてのデッサンである」とある。

 わたしは,このテクストの冒頭の論考「群島響和社会<平行>憲法」と,この帯のコピーを読んだだけで,もう,すっかり今福ワールドに惹きつけられてしまった。冒頭の論考には,<序>として,宮澤賢治の「サガレンと八月」からの引用をかかげ,中間のところに<跋>として,ヘンリー・デイヴィッド・ソローの「マサチューセッツ州における奴隷制」からの引用(これは,わたしには仏教の世界観をつよく連想させるものだった)を置き,最後に「断片的コンメンタール」が付されている。そして,この「断片的コンメンタール」が,第一縞から第一二縞までの「縞文」をより深く,より幅広く理解するための,みごとなまでのLeitfaden(導きの糸)となっている。

 しかも,ご丁寧にも,注が付されている。その書き出しは,
 「※本テクストは,川満信一による『琉球共和社会憲法C案(私案)』(1981)の真摯を受けとめ,またその機知の精神にうながされ,2014年5月15日という特別の日付において擱筆された。」とあり,さらに今福さんの所感が述べられている。

 とりあえず,ちょい読みの段階での,わたしの印象をもとに,今福さんのご新著を紹介させていただいた。いずれ,研究会でもテクストとして取り上げて,みんなで議論をしてみたいとおもっている。できることなら,今福さんにもお出でいただいて,合評会のようなことができればいいなぁ,と夢見ている。

2015年8月24日月曜日

社会復帰,第一歩。SEALDs のデモに参加してきました。

 8月23日(日)のSEALDsのデモには,なんとしても参加する,と早くから決めていました。そして,これを「社会復帰の第一歩」とすることも決めていました。そのために,散歩の距離を伸ばしたり,鷺沼の事務所にパソコンを背負って通ったり,とそれなりの準備をしてきました。お蔭で,からだの方もしっかりしてきました。

 言ってみれば,こころとからだの準備をしての,満を持してのデモ参加でした。だれか誘ってともおもいましたが,途中でリタイアすることも想定していましたので,ひとりででかけました。まあ,そういうデモ参加もあってもいいか,と考えて・・・・。集合場所の青山公園に到着し,デモ行進のための隊列を組んでみますと,結構,わたしと同じように,ひとりで参加という人も少なくないことがわかり,少しばかり安心。

隊列を組んで出発の準備
 
集合場所では,簡単なシュプレヒ・コールの練習があっただけで,とりたてて著名人のスピーチも,学生さんたちのスピーチもありませんでした。こんなのもあっていいなぁ,と思いながら出発を待っていました。そうして,いよいよ行進開始。テンポのいいシュプレヒ・コールの声を張り上げながらのデモ行進です。久しぶりのデモで,ああ,ようやく社会に復帰できたなぁ,元気を取り戻すことができてよかったなぁ,と感慨に浸っていました。

デモ行進のはじまり
 
そんないい気分で歩いていたら,突然,歩道からNさんが現れ「病み上がりのおじさんがひとりで歩いているのをみて,これは捨ておけない,介護しなくてはとおもって・・・・」と笑いながら隊列に飛び入りです。わたしとしては,期せずして,もっとも頼りになる僚友が現れたのですから,嬉しくて天にも昇る気持ちでした。何千人という大集団のなかだというのに,こんな出会いが起きるのですから,これはもう偶然をとおりこしているとしかいいようがありません。

ファシスト・アベ・ヒトラー
 
これですっかり安心して,二人でおしゃべりをしながら行進です。昨夜は宮城谷昌光の小説『太公望』を読み始めて,途中でやめるわけにはいかなくなり,とうとう最後まで読んでしまい,寝不足です,とNさん。わたしも,そのむかし,まったく同じ経験をしましたので,『太公望』の話題でひとしきり盛り上がってしまいました。権力を独占している大勢力を少数派が切り崩していき,世の中をひっくり返す,そのプロセスを知りたかった,とNさん。なるほど,単なる娯楽のための読書ではなかったのだ,とわたし。えらく余裕があるんだなぁ,こんな本まで読むのか,と訝っていたわたしが恥ずかしくなってしまいました。

高校生の集団?
 
さて,このデモ,隊列の中に組み込まれて歩いていると,全体でどのくらいの人数になっているのかさっぱりわかりません。ただ,道がカーブしているところで,前後を確認してみますと,どちらも,はるかかなたまでデモの隊列がつづいています。青山公園に集まっていた人数からは想像もつかないほどの隊列の長さです。ひょっとしたら,コースの道路で待ち構えていて,途中から飛び入りした人も相当いるのではないか,とおもいます。いま,確認してみましたら,主催者発表で6500人,とのこと。やはり,途中で待ち伏せして飛び入り,という人が多かったようです。

表参道の交差点でデモを見つめる通行人
 
久しぶりのデモだったからというべきか,いやいやSEALDsのデモだったからというべきか,よくわかりませんが,デモの様子もすっかり様変わりをしているなぁ,とおもいました。それは,かつての労働組合が組織して行うデモとはまるで違いますし,そのむかしの安保闘争時代の学生さんたちが組織したデモとも,もう別次元のはなしです。今日のデモを見るかぎりでも,子どもづれの若い夫婦がいたり,家族全員でやってきたなとおもわれる中年のファミリーがいたり,老人仲間のお友だち風の集団もいたり,とさまざまです。なかには,ベビーカーを押して参加している若いママさんもいます。考えてみれば明るくて,長閑なものです。

 ひところの,暗いイメージのデモとはまったく様変わりをしています。そういう新しい,やんわりとしたデモを立ち上げたのは,やはり,SEALDsの若者たちの大いなる功績というべきでしょう。以前のような,理屈やイデオロギーが先行・支配する思想運動とは違い,もっと情緒レベルの,人としての素直な感情から立ち上がってくる「不安」や「気持ち悪い」や「怖くてふるえる」を原点にした意志表明です。その結果として,このようなまったく新しいデモの形態を生みだしたのだろう,とおもいます。これでいいのだ,いや,これがいいのだ,としみじみおもいました。

 以上,社会復帰の第一歩としてのデモ参加の報告です。

 つぎなる目標は,8月30日(日)です。こちらは天下分け目の決戦になります。国会前10万人,全国100万人を想定しています。もし,これが実現したら,アベ政権は崩壊していくでしょう。その意味で,わたしは,いまから体調管理に専念して,30日のデモに備えようとおもっています。みなさんも,ぜひ,地元のデモに参加して,意思表明をしましょう。日本の将来のために。  

2015年8月23日日曜日

天保14(1843)年の相撲の稽古場風景。

 狭い空間のなかに所狭しとばかりに大勢の力士たちが描かれています。もともと浮世絵ですので,あらゆる情報を一枚の絵のなかにすべて書き込もうと欲張っています。ですから,実際の相撲部屋の稽古場はもう少し広かったと考えていいでしょう。が,それにしても,そんなには広くはなかったことは確かです。なぜなら,当時の木造家屋のなかに確保できる空間には限りがあったからです。

 
かなり大きな寺の庫裡でも,柱のない空間を確保することは容易ではありません。厨房の三和土などは,かなりゆったりとした空間になっていますが,それでも,柱と柱の間はそんなには広くありません。江戸時代に,木造家屋のなかに相撲の稽古用の土俵を設けるとなると,それはそれはたいへんなことだったとおもいます。

 ですから,逆に言えば,この絵は実態にかなり近かったのかもしれません。なぜなら,鉄筋コンクリートのビルのなかに設けられているこんにちの相撲部屋の土俵も,そんなに広いスペースではありません。やはり鉄筋・鉄骨の間隔をそんなに広くとることは建築上,無理があるということではないかとおもいます。ですから,体育館のような特殊な建築でないかぎり,広いスペースを確保することはできない,ということです。したがって,相撲部屋の稽古場は,いまも基本的にはほとんど変わらない,ということです。

 相撲部屋の稽古を見たことのある人ならすぐにわかりますが,こんなに狭いところに大きな力士がよくもまあ大勢集まって稽古をしているなぁ,と驚きます。ですから,交替制で,稽古をすることになります。入門したばかりの新弟子たちは,兄弟子たちが起きてくる前に土俵にでて,自分たちの稽古をします。そして,先輩力士たちが稽古するときには,その世話係となってなにかと面倒をみることになたます。それが,いわゆる「付き人」の役割です。

 その意味で大きな部屋の稽古場はいつも力士たちでいっぱいです。土俵の中は,いつだって二人上がれば,それで独占されることになります。ですから,それ以外の力士たちは土俵の周囲で,鉄砲やら四股やら股割などの稽古を黙々とやることになります。

 巡業などに出ますと,本格的な土俵を確保することはきわめて困難になりますので,いわゆる「山稽古」をすることになります。屋外の平らな場所に土俵の円を描き,そこで稽古をします。これなら,広い空き地があれば,土俵をいくつも描いて,一度に大勢の力士が稽古をすることができます。巡業のときの面白さの一つは,その「山稽古」をみて回ることができることにあります。それこそ,あちこちで稽古をしているのですから,稽古見物のはしごができるわけです。

 敗戦直後の,わたしがまだ小学校の4年生くらいだったときに,相撲の巡業がやってきて,友だちと見物に行ったことを思い出します。わたしは,当時の横綱・照国のファンでしたので,照国の追っかけをして一日をすごしたことを,いまも鮮明に記憶しています。

 照国などといっても,もはやわかる人は少ないこととおもいます。秋田県出身のあんこ型の力士で,色が白くて,イケメンでした。稽古をはじめると,白いからだがピンク色に染まって,それだけでもうっとりさせられました。

 いまの照の富士の「照」は,たぶん,この照国の縁起をかついでのものだとおもいます。「富士」は,東富士,北の富士,千代の富士,などのように,この名のつく横綱はいくらでもいますので,みんな憧れて,この名をもらい受けています。わたしの子どものころは,照国と東富士の両横綱の取組がもっとも人気がありました。これを,わたしはラジオの実況放送で必死になって聞いてしました。実況放送ですから,アナウンサーの語ることばをもとにして,取組の進み具合を自分の頭の中で再構成しながら,必死で聞くしかありません。いま考えてみれば,テレビで見るよりも印象が強烈だったようにおもいます。これはこれでとても味のあるものでした。

 おやおや,いつのまにか,稽古場風景とは関係のない話に脱線してしまいましたので,この稿はこの辺でおしまい。

〔追記〕写真は,雑誌『SF』月刊体育施設,August 2015,からの転載。連載・絵画にみるスポーツ施設の原風景,Vol.39.

2015年8月22日土曜日

ことしのサルスベリの花はことのほかみごと。猛暑が幸いか。その生命力に感動。

 ことしの猛暑が,サルスベリの木には朗報だったのだろうか,例年にない多くの花をつけている。
むかしから,夏の暑い盛りに花をつけるので,夾竹桃とともに人びとの尊崇の的だ。また,精力絶倫の木としても知られている。

 この木は,わたしの住んでいるマンションの管理組合が管理しているもので,いっときは花もつけないから切ってしまえ,という話もあったとか。しかし,いまから3年ほど前,わたしが管理組合の植栽部会に属しているとき,植木屋さんに相談してみると,まわりの木が大きくなりすぎていて,そちらに圧倒されてしまっているからだ,とのこと。まわりの雑木の枝を払ってやって,日当たりをよくしてやれば立派な花をつけますよ,とのこと。

そこで,早速,管理組合の理事会に諮って,周囲の雑木の枝を払ってもらうことにした。どういうわけか,雑木を伸び放題にすることを主張する人たちもいて,すったもんだの末に,ようやくわたしたちの提案がとおった。その3年後の姿がこれである。いまにも枯れそうだったサルスベリが,いまでは存分に枝を伸ばして生き生きとしている。そして,ことしのこのみごとな花である。

 
サルスベリという名を知った子どものころから,この木が好きだった。サルも滑るというその名のとおり,サルスベリの木に子どもたちが登るのは至難の技だった。年に一度,木の皮がはがれてツルツルの幹が剥き出しになる。だから,手がかりがないのだ。となればなおのこと,この木を制してみたくて,何回もチャレンジしたものだ。

親戚の寺の境内に一本だけサルスベリの木があって,泊まり掛けで遊びに行ったときなどに,この木に挑戦したことを思い出す。しかし,なぜか,この木に登ろうとすると祖母が「登ってはいけない」という。理由を聞いても「この木は登ってはいけない木なのだ」としか答えてはくれなかった。なにか,口にしてはいけない理由があるようなそぶりだった。が,最後まで教えてはくれなかった。いまもわからないままだ。

この木の手前には,大きなスーパー・マーケットがあって,毎日,多くの人がここを通りすぎていく。ほとんどの人はあまり関心がないようだが,中には感じ入ったようにじっと眺めている人もいる。そういう人に出会うとなんとなく嬉しくなる。

 
やはり,真夏の盛りに満開の花を咲かす,その生命力はすごいものだとおもう。ほとんどの木が夏には暑さにやられて,勢いが衰えるなかで,花を咲かすのだから・・・。

わたしの住んでいるマンションのすぐ下にあるスーパー・マーケットには毎日のように食材を買いにでかけるので,このサルスベリとも顔を合わすことになる。最近では,「今日も元気か」とこころの中で声をかけながら,逆に,この木から元気をもらっている。もちろん,立ち止まって,しばらく眺めているのだが・・・・。

カメラを持ち出していって写真を撮っていたら,初めて気づいたかのようにサルスベリを振り返り,「ああ,きれい」と言う人もあれば,このおじいさんはなにをやっているのだろう?と訝る人もいる。世の中,いろいろの人がいて面白い。総じて小さな子どもは素直でいい。わたしがカメラを構えている方向をみて,「お母さん,きれいだね」という女の子がいる。それだけで嬉しい。ことばを交わさなくても,この子とは気持が通じている。

ここまでサルスベリが元気になったら,来年もまた立派な花を咲かせてくれることだろう。花の少ない夏にあっては,希少な価値をもつサルスベリの木である。しかも,開花期間が長いのも魅力的だ。幹に近い方から開花していき,次第に先端が開花する。早く咲いた花芽は受粉して青い実となっている。

そばに近寄って,花房を観察してみると,青い実と花とが半々くらい。ちょうど,いまが開花の中頃というべきか。いつごろまで花が咲き続けるのか,これもまた,これからの楽しみ。

溝口神社。伊勢神宮の分霊社。しかも,安産祈願の神社。おやっ?なにかあるな?

 溝の口に引っ越してきて間もないころ,そう17年ほど前のこと,近所を散歩していて「溝口神社」に出会い,へえーっ「溝の口」を守る神社があるんだ,という程度の認識ですっかり忘れていた。しかし,沖縄に嫁いだ娘から「溝口神社」は安産祈願の神社で有名なんだと聞かされ,びっくり。あわてて再度,確認のためにでかけてみた。

 もう少し樹木に囲まれた瀟洒な神社だとおもっていたら,どっこい丸裸の小さな社殿がぽつんと建っていた。もっとも裏道から突然,この社殿の前に立ったので,なおさら驚いた。左側に,社殿に似合わないほど立派な社務所があって,ご祈祷の案内やお札などがずらりと並んでいる。しばらく境内でたたずんでいたら,結構,入れ代わり立ち代わりしてお参りにくる人がいる。しかも,そのうちの半数ほどは社務所に向かい,なにやらお話をしている。なるほど,かなり有名な神社なのだと納得。

ふとみると,小さな提灯がぶら下がっていて,よくみると側面に「伊勢神宮の分霊社」と書いてある。えっ?まさか?とびっくり。

どうして?といぶかりながら参道を歩いていたら,溝口神社の案内板があった。そこには「川崎の祈願所」とあり,御祭神は「天照皇大神」と「日本武尊」とある。そして,「神社のいわれ」が縷々詳しく述べられている。それによれば,もともとは「赤城大明神」(「赤城社」)として建てられた神仏混淆の古社であり(1709年),明治になって神仏分離の令によりこの地域の総鎮守として祀るために,新たに伊勢神宮から分霊を迎え,祭神を天照皇大神と日本武尊とし,社名も溝口神社と改めた,とある。

 
明治維新による神仏分離令なるものの実態のひとつの例がここにある,と初めて知り感動。そうか,天皇制の基盤をさらに確固たるものにするための神仏分離令だったのだ,と。そして,伊勢神宮の分霊社は,そんなに多くどこにでもつくれるものではなかったはずなので,この地域では珍重され,大事にされて,多くの信者をもつことになったのだろう,とこれはわたしの想像。
 
その隣には「ご祈祷」の案内板がある。それによれば筆頭が「安産祈願」,つづいて「お宮参り」,「七五三詣」とある。いずれも「子ども」関連である。これが明治以後のことだとすれば,やはり,ここにも富国強兵を支える人材確保,いわゆる「生めよ殖やせよ」政策の反映をみる思いがする。看板を付け替えた神社にはこんな背景も読み取ることができる。いやはや驚くべき発見。

 
そんなことを思いながら参道を歩いていると,狛犬さんに出会う。こちらもよくみると「子持ち」の狛犬さんだ。なるほど,これで,この神社のなりたちがみえてきた。子孫繁栄と国家安泰がセットとなって,伊勢神宮の分霊社を全国にばらまいていった,その一つがこの「溝口神社」だったのだ。つまりは,明治政府の国策の一環として,この神社は機能した,というわけだ。いまは寂れてしまっているが,いっときは相当に繁盛した神社だったに違いない。

 
神社の参道の入口には,「例大祭」のポスターが掲示してあった。9月12,13日とある。どんなお祭りをするのか,ことしは顔を出してみようかとおもう。とりわけ,神社の中での祈願がどのように執り行われるのか,知りたいところだ。できれば,聞き取りもしてみよう。

 
この神社は,旧大山街道に面している。落語の「大山詣」でも知られるように,江戸時代には,江戸の庶民が精進落としも兼ねて,多くの人が大山神社(神奈川県厚木市?)をめざした。その大山街道からこの神社の参道がついていて,その奥まったところに社殿(当時は,「赤城社」)があったことになる。たぶん,大山詣での旅人も,この赤城社に立ち寄り,一休みしながら,旅の無事を祈願したことだろう。


〔追記〕
安産祈願の神社としては,水天宮と溝口神社とが並び称せられているとも聞き,いささか驚いてもいます。それほどの神社であるとしたら,これまでの経緯を調べてみる必要がある,と考えています。なにゆえに「赤城社」を「溝口神社」に社名を変えたのか,もっと深い理由がありそうだからです。なにかが隠されている・・・・そんな予感がいっぱい・・・・。
 

2015年8月21日金曜日

わかりました。沖縄県知事応接室の「びょうぶ」のこと・第二報。

 早速,複数の方から情報が寄せられました。ありがたいことです。自分で調べればいいのに,手抜きをしてしまいました。

 まずは,もっともオーソドックスな情報。
 それは,沖縄県庁のHPに掲載されているとのことです。すぐに開いて覗いてみますと,なるほどという情報が載っていました。それによりますと,つぎのようです。

 まず最初に目に飛び込んできたのは,一番知りたかった「びょうぶ」の詩文の全文です。わたしが感動した「びょうぶ」の全体が一目瞭然です。なるほど,これが全体像か,とまたまた感動してしまいました。部分だけであれだけの雰囲気を醸しだすだけの力のある書の,これが全体像か,と。やはり,全体を眺めてみると,ますますその迫力が伝わってきます。そして,気がつくといつのまにか一字,一字,じっと見入ってしまっていました。ところどころ意味不明なところもありますが,それでも,なんとなく言っていることの意味は伝わってくるから不思議です。

 
「琉球国は南海の勝地にして・・・・」という冒頭の文言をみるだけで,これは琉球国時代の理想を掲げた一種の決意表明に違いない,と。そして,四行目には,「舟揖をもって万国の津梁となす」という有名なフレーズもはっきりと読み取ることができます。なるほど,翁長知事がしばしば引用する「津梁の精神」はここからきているのだ,ということも納得。

 この「びょうぶ」につづいて,ご丁寧にも,ごく簡単な読みくだし文も掲載されています。これを追っていけば,さらに,その内容のイメージが湧いてきます。

 
 
そして,そのあとには,つぎのような説明がなされています。

 この詩文は,「万国津梁の鐘」に刻まれているもので,それを書家が「びょうぶ」にして寄贈したものだ,とあります。この鐘は,1458年,琉球王国の尚泰久(しょうたいきゅう)王が鋳造させて,首里城正殿に掲げてあったものだ,といいます。そして,「万国津梁」とは,世界を結ぶ架け橋の意味である,と。

 さらに,中日新聞には以下のような解説が掲載されている,という情報もいただきました。

 「びょうぶ」は第一応接室と第二応接室の両方にあるそうで,違う書家のものが飾ってあるとのことです。第一応接室(翁長知事と中谷防衛相が対談した部屋)には,2012年に沖縄の書家の茅原南龍(ちはらなんりゅう)氏が寄贈したものが飾られていて,その大きさは,高さ216㎝,幅344㎝だそうです。わたしが感動したのは,こちらの「びょうぶ」の書でした。

 第二応接室には,1995年にやはり沖縄の書家・豊平峰雲(とよひらほううん)氏によって寄贈されたものが飾ってあるとのことです。こちらの「びょうぶ」も沖縄県のHPにはアップされていますので,自分の目で確認することができます。こちらも立派なものです。が,やや,書体が違っていて,微妙に雰囲気が異なります。

 わたしの好みとしては,第一応接室にある茅原南龍氏の書体の方が好きです。たぶん,翁長知事もそうであるらしく,茅原氏の「びょうぶ」を第一応接室に飾っているのでしょう。政府要人を迎えての対談をするには,この「びょうぶ」の威力をも借りたい,そういう思い入れもあるようにおもいます。それほどに重要な役割を,この「びょうぶ」ははたしている,とわたしは受け止めています。

 なお,この詩文は,相国寺の渓隠安潜(15世紀の仏僧)の手になるものであることが,「びょうぶ」の最後のところに書かれています。

 中日新聞はさらに,つぎのように報じています。

 「万国津梁の鐘」は1978年に国の重要文化財に指定され,沖縄県立博物館・美術館(那覇市)に展示されている。
 沖縄県庁秘書課は「びょうぶの文章は十五世紀中葉の琉球の海外貿易と県民の気慨を表現している。世界と交流し,ともに支え合う平和で豊かな「美(ちゅら)島」を実現しようとの県の目標にも沿っている」と説明する。

 この説明は,わたしの胸にぐさっと刺さるものがありました。なぜなら,わたしが沖縄を理解する上で,あまりに無知で,上っ面しかわかっていない,と忸怩たる思いをいだいていましが,こういう気慨を沖縄県民が共有しているというところから,ものごとを考える必要がある,と気づいたからです。沖縄県民の「根」のひとつが,こういうところにも伸びている,と。

 いい勉強になりました。情報を提供してくださったみなさん,ありがとうございました。これからも,よろしくお願いいたします。

 〔追記〕書家の茅原南龍氏と豊平峰雲氏については,ネットに詳しい情報が流れています。いずれも,沖縄書道界の重鎮です。書体の違いも,ほかの作品を見比べてみますと,よりはっきりしてきます。ちなみに,茅原南龍氏は76歳,豊平峰雲氏は73歳で,いずれもご健在です。こんど沖縄に行ったら,茅原南龍氏の作品を存分に堪能してみたいとおもっています。

2015年8月20日木曜日

李自力老師の「膝」は円運動をしている? その微妙な動きに注目。

 李老師が久しぶりにわたしたちの稽古に顔を出してくださいました。大勢の選手たちを引率して中国遠征を終えて帰国したばかりとか。からだも,いつもよりは絞られていて,やや細くみえました。聞いてみると,とても疲れて少し痩せたとのこと。気配りの人ですので,さぞや想像以上の心労がたまっているのでしょう。

 にもかかわらず,わたしたちの稽古をしっかりと見守り,指導してくださいました。いつものように率先垂範です。久しぶりに拝見する李老師の動きは,やはり,悠然としていて,ためがあり,美しい。

 珍しく(おそらく,初めて),ショート・パンツ姿で来られましたので,膝の動きがはっきりとこの目で確認でき,とても勉強になりました。

 わたしの目に写った第一印象は,膝が円運動をしている,というものでした。これまでは,いつも,ロング・パンツですので,膝の動きを生でみることはできませんでした。しかし,今回は剥き出しの膝を直にみることができました。

 そうか,膝はあんなふうに動いているのだ,とびっくりしてしまいました。

 それは最初の基本の運動のときに気づきました。

 両手を腰のうしろに組んで,脚を前に運ぶ,いわゆる「運歩」の動作のときでした。左脚加重から右脚に体重を移すとき,右脚の膝はやや外側に出ていきます。いわゆる「がに股」の姿勢です。そして,体重が完全に右脚に移ったときも,まだ「がに股」の姿勢です。そこから左脚を斜め前に送り出すときにやや腰を左に回転させます。そのとき,外に出ていた膝もほんのわずかに回転運動をしながら正面に向かい,つづけてゴンブ(功夫)の姿勢に移りながら膝は内側に入っていきます。つまり,右脚一本で立っている姿勢から,左脚を斜め前に送り出してゴンブの姿勢になるとき,膝はほんのわずかに円運動をしている,とわたしの目には写りました。

 早速,真似をしてみますと,動作がとてもスムーズに流れていくことがわかりました。そのあとの動作も同じです。

 左脚前のゴンブの姿勢から,一度,体重を右脚にもどします。このときは,さきほどのま逆の動作になっています。左脚加重から右脚加重にもどすとき,右脚の膝はまっすぐうしろに引くのではなくて,やや右外側に出るようにほんのわずかに円運動をしています。右脚に加重が終わるとすぐに股関節をゆるめて腰を左側にまわします。このときも右脚の膝はわずかに円運動をして左側に向きを変えています。そして,左脚に加重しながらゴンブの姿勢に入ります。このときも右脚の膝はゆっくりと円運動をしながら,内側に入ってきて,前から押されても,しっかりと踏ん張ることのできる脚の構えになっています。

 以上は,前進するときの「運歩」で起こる膝の円運動です。
 これと同じことが,後進するときの「運歩」にも起こります。こちらの方は前進するときとは裏返しの関係になります。ですので,頭のなかで想像していただければわかるとおもいます。

 こんな大事なことに気づいていなかった我が身を恥じるばかりですが,やはり,ロング・パンツの上からはなかなか見破ることのできない「膝」の円運動だとおもいます。たまたま,李老師がショート・パンツで一緒に稽古をしてくださったお蔭です。

 これまでは「股関節」を緩めなさいという指摘ばかりが念頭にありましたが,膝もまた微妙な運動をしていることがわかりました。こんなことは,とりたてて言われなくても,自然にできるようになってくるものだ,と言われてしまえばそれまでです。それもそのはずで,もっとも自然で合理的な動作はそのように行われているのですから・・・。しかし,ほんの少しだけ意識をそこに向けるだけで,たぶん,容易にその動作を身につけることができるのではないか,とわたしは考えました。

 粗形成から精形成へと,いよいよつぎのステップへの第一歩というところでしょうか。太極拳は奥が深い,としみじみおもいます。これからも精進あるのみ,です。

2015年8月19日水曜日

沖縄の翁長知事が重要会談を行う部屋の壁面を飾っている「書」が素晴らしい。

 このところずーっと気になっていたことがある。それは,久しぶりにみる「書」の素晴らしさ,である。それも新聞の写真をとおしてのものであって,実物はお目にかかってはいない。たぶん,実物をみることはよほどのことでもないかぎり,不可能に近い。

 それでもなんとかして,一度でいいから,実物を拝ませて欲しいとおもっている。同時に,そこに書かれている詩がどのような内容のもので,だれの作なのか,そして,なによりもこれを書いた人はだれなのか,を知りたい。もっとも,手をつくして調べれば,あるいは,どなたかに尋ねれば,わかることだろう。しかし,実物の「書」は,直接,見ないことにははじまらない。

 「書」に関心をもつ人であれば,みなさん同じ感想をお持ちではないかとおもう。しかも,このところ頻繁にお目にかかるから,なおのことだ。

 前置きが長くなってしまったが,その「書」とは,沖縄の翁長知事が重要会談を行う部屋の壁面を飾っている「書」のことである。もちろん,県知事の特別室に飾られている書なのだから,そんじょそこいらの書家の作品ではないことは百も承知だ。そんなことより,なにより,書そのものが素晴らしいのだ。

 
第一に,気品がある。それも別格だ。みる者のこころをくいと惹きつけて離さない,そういう力がある。一字,一字が生き生きしている。立派な楷書なのに,こちこちに固まってはいない。楷書にしては珍しいほど伸びやかで,随所に個性が表出している。

 この文字は,このように書こうとおもって書かれたものではない。書家の気持があるところで定まったとき,そのときの気持のままに筆が走った,そういう書だ。だから,じつに自由で伸びやかなのだ。そこには計算も打算もない。言ってみれば,そこにあるのは「無心」。その無心から紡ぎだされる書だ。だから,書家のもつありとあらゆる個性がそのまま表出している。つまり,書家の到達している「境地」がそのまま文字となって表出している,ということだ。

 しかも,もう一点,わたしのこころを捉えて離さないのは,最初から最後まで書体が変わらない,書家の精神性の高さと安定感だ。だから,どうしてもこの書の全体を視野に入れて,真っ正面から向き合ってみたいのだ。その場に立ちたいのだ。おそらくは,新聞の写真とはまったく違った迫力で,みる者のこころに迫ってくるものがあるに違いない。新聞に写る部分写真ですら,これだけの迫力があるのだから,実物のもつ力は計り知れないものがあるに違いない。

 アベ君も,スガ君も,ナカタニ君も,まずは,無言で迫ってくるこの書の迫力に圧倒されてしまったのではないか,とわたしは想像する。それに引き換え,翁長知事はこの書のもつ磐石の支えをバックにして,政府要人と対面したに違いない。この詩文の全体がわからないが,新聞に写っている部分を拾い読みするだけでも,この詩文は琉球国がいかに素晴らしい国であるかを謳った,沖縄県民であればだれでも知っている著名なものなのであろう。そして,翁長知事もそのことをよく承知した上で,また,自分自身もこころから気に入っていて,この重要な部屋に飾っているに違いない。

 書に反応する人間なら,そして,詩文に反応する人間なら,この部屋に一歩踏み入れた瞬間に,その足が止まってしまうだろう。そして,じっと向き合わずにはおかないだろう。そのくらいのことをした上で,翁長知事との対面をはたすべきだろう。それが,マナーというものだろう。そのあたりのことを新聞はなにも語ってはくれない。

 たぶん,現政権の要人たちは,この書にちらりと目をやるだけで,それ以上のことはしないだろう。そんな感性は持ち合わせてはいない,ということだ。もし,そのような感性を持ち合わせていたら,沖縄に基地を押しつけて平然とはしていられないはずだ。そういう「写し鏡」的な役割も,この書ははたしているに違いない。

 琉球王国のふところの深さが,この書にも表出しているように,わたしはおもう。だから,なおのこと,この書の前に立ってみたいのだ。そのとき,わたしはなにをおもうのだろうか。想像するだけで,胸がときめいてくる。

 良寛さんの書のなかに,般若心経の写経がある。この写経に初めて接したとき,わたしのからだは凍りついてしまった。もちろん,本物ではない。印刷された著書のなかでのものだ。にもかかわらず,わたしは固まってしまった。ことばも出ないまま,ただ,ただ,ひたすら一字,一字を目で追うのが精一杯だった。

 良寛さんは,一枚の紙の上に,般若心経を二回,繰り返して写経している。こちらも楷書である。しかも,力みのない,じつに伸びやかに書かれている。一字,一字が踊っているようにすらみえる。自由闊達な楷書なのである。いかにも良寛さんの「無心」の境地が表出している,心地よい文字が並んでいるのだ。しかし,よくみると,一回目の写経の文字と,二回目のそれが,まるでコピーしたかのように,ピタリと同じなのだ。文字の傾き具合も,踊り具合も,まったく同じなのだ。

 わたしはハンマーで頭を打ちのめされたかのように,なにも考えられなくなってしまった。それでいて,一字,一字が,まるで笑いながら語りかけてくるような,そんな誘惑の世界に浸っていた。それが,また,格別に心地よいのだ。

 それと同じようなものを,沖縄県知事室の書から感じてしまうのだ。しかし,そこに表出している世界はまるで違うものなのだが・・・・。

 それこそが書芸なるものの,恐るべき力ではないか,とわたしはぼんやりと考えてみる。

〔追記〕もう一つ,有名な空海さんの書にまつわる話があるが,長くなるので割愛する。いつか,機会をみつけて書いてみることにしよう。

2015年8月18日火曜日

お盆・雑感。65年前の記憶。

 ことしもお盆が過ぎ去って行った。最近では,お盆だからといって特別のことがあるわけではない。むしろ,なにごともなく平凡な日常のなかに埋没してしまっている。

 本来ならば,両親のお墓参りに行かなくては・・・とおもう。しかし,気がついてみたら,もう,すでに自分のからだを移動させることすらままならない年齢になっている。おまけに,去年,ことしと二度にわたって大きな手術を受けてもいて,ますます,からだがままならなくなってきている。だから,お盆どころの話ではない,というのが正直なところ。

 それでも,やはり,お盆となると,気持は落ち着かない。何回も,お墓参りを考えた。しかし,ことしの猛暑に圧倒されて二の足を踏むことになった。そして,とうとうなにもしないままお盆が過ぎて行った。その間,さまざまなことを思い浮かべていた。

 とりわけ,遠い子どものころの記憶をたどりながら・・・。

 わたしは田舎の小さな禅寺で育った。いわゆる寺の小僧だった。村の人たちからもそのように扱われたし,子どもたちの間でも「寺の子」として特別な目でみられていた。いいことをすれば寺の子だから当たり前。悪いことをすれば寺の子なのに,と非難された。いずれにしても割に合わないとおもいながら子ども時代をすごした。

 それだけではない。寺の小僧にとってお盆は特別な行事だった。夏休みに入るとすぐに寺の境内の掃除にとりかかる。父も僧侶専業ではなく教員をしていたので,夏休みを待って,お盆の準備にとりかかる。

 なにをするのか。
 
 お墓の掃除・・・雑草を抜いて,落ち葉を拾う。
 広庭の掃除・・・こちらの掃き掃除は日常的に行っているが,雑草を抜き,花畑などの柵の取り替え,など。
 寺の境内を囲んでいる細葉垣根の刈り込み・・・たこ糸を張って,綺麗に仕上げるには相当の熟練を要する。
 本堂の縁の下の掃除・・・こちらは,もっぱら小さい子ども,すなわち,三男のわたしの仕事。
 仏具磨き・・・真鍮製の仏具を磨き砂でていねいに擦って磨きあげる。時間をかけて,綺麗に仕上げるには相当の根気が必要。
 本堂の蜘蛛の巣払い,仏壇の掃除・・・ふだんはやらないので,ことのほか丁寧にやる。
 法事用に備えてある食器類洗い・・・こちらも年に一回の仕事。
 台所の竈まわりの掃除・・・三つの釜を同時に炊きあげることのできる大きなものが広い台所の三和土にでんと鎮座している。道元さんの『赴粥飯法』(ふしゅくはんぽう)にもあるように,食事の支度は禅寺では重要な修行のひとつ。これを担当する僧の地位も高い。燃料はもっぱら枯れ枝を掻き集めてきて,山のように積んである。ときには,薪割りした立派なものも置かれる。つまり,寺の心臓部に相当するところ。だから,ことのほか綺麗にすることが求められる。
 便所の掃除・・・お客さん用と自分たち用の二カ所。外にも一カ所。これをだれが担当するかで,毎年,揉めた。最後はジャンケン。
 坪庭の掃除・・・ここは寺の美学が集約された場なので,何回もチェックを受けて,ようやくOKがもらえるやっかいな場。
 施餓鬼台の設置・・・本堂の正面入口の階段のところに施餓鬼台を設置して,檀家から届けられるお供えを飾る。
 その他・・・鶏小屋,うさぎ箱,台所の流し場の排水溝,などなど。

 いま,すんなりと思い出せるものだけでこれだけある。もっと,丁寧に拾っていけば,まだまだ仕事はでてくる。が,まずはこれだけのことは,毎年,繰り返し行われてきたことだ。

 これらの仕事を,夏休みに入ってから8月12日までにやり終えなくてはならない。13日には「迎え火」をするために檀家の人たちがお墓にやってくる。それまでに,すべての準備が完了していなくてはならない。期限が切られているので,最後は必死の追い込みとなる。

 8月15日の法会を終えて,16日の精霊流しをして,お盆の行事は終わる。

 暑い盛りの,藪蚊に刺されながらの仕事だった。主として,午前中に外の仕事を終え,昼寝をして,夕刻からは,建物の中での仕事になることが多かった。この昼寝の間に,親の目を盗んで,友だちと川に泳ぎに行くのが唯一の楽しみだった。ほとんどバレていたが,でも,時間までに帰っていれば,とりたててとがめられることもなかった。友だちたちは川で遊んでいるのに,ひとりだけ早めに引き上げるには決断力が必要だった。時計もなにもない。経過した時間を勘で推定する以外には方法はない。ときおり,時間を忘れて遊んでしまったときには,雷が落ちた。このときは,覚悟して,いつもより多くの仕事をするよう努力したものだ。

 いまから65年前の話である。ちょうど,小学校6年生。

 お盆が終わってから,ほんとうの「夏休み」がやってきた。残りは10日余り。それまでに,宿題を片づけなくてはならない。とりわけ,工作と図画には時間がかかった。どちらも嫌いではなかったので,楽しいのだが,その間に友だちとも遊ばなくてはならない。こちらもまた大事な付き合いだった。しかも,その遊びの中心は「野球」だった。だから,自分のポジション(キャッチャー)を守るためにも,休むわけにはいかない。

 時間がいくらあっても足りないほどだったのに,いま,思い返すと「時間」は止まっていた,そんな印象が強い。たくさんのことをこなす充実した時間をすごしていた,とおもう。

 そんなことを思い浮かべながら,ことしもお盆をやりすごしてしまった。

 さて,来年こそはお墓参りに行こう。いまから決めておかないと動けない,と自分に言い聞かせながら・・・・。

2015年8月17日月曜日

新国立競技場問題は難問山積。これからが正念場。空中分解の可能性も。

 8月14日に政府は,新国立競技場整備計画の見直しのための関係閣僚会議を開催し,基本方針を決め,発表した。添付の写真のように,東京新聞も大きな記事として報道した。その骨子を知って,これまた驚くことばかり。現段階での感想を以下に記しておきたい。

 
またもや「見切り発車」で逃げ切ろうという姿勢を臆面もなくさらけ出して平然としているアベ政権。まったく「反省」のかけらもない。新国立競技場整備計画が,どうして,このようなことになってしまったのか,という第三者の検証委員会が8月7日にスタートを切ったばかりなのに。

 理由はかんたん。「大会に間に合うが最優先」。ということは,どんな競技場になろうが,五輪に間に合えば,それでよしとする,結論ありきの発想がまかりとおっているということだ。つまり,競技場をつくるコンセプトもなにもなしに,期日に間に合わせる,だけが独り歩きしている。

 しかし,純粋な陸上競技場専用のスタジアムを建造するのであれば,2年あればできる,という建築の専門家は少なくない。にもかかわらず,関係閣僚会議は,2016年1月に工事を発注し,2020年春の完成を目指す,という。単純に計算しても丸4年がかかると踏んでいる。その根拠もなにもないまま。それこそ「白紙」のままで。

 「白紙」のままで,とは言い過ぎだという向きには,以下の「新国立競技場整備方針の要旨」をとくとご覧いただきたい。これを何回,読んでみても,具体的な競技場のイメージは湧いてはこない。つまり,これからさき,なにを,どのように展開していくのかはまったくの未知数だ,ということだ。要するに,いかにも手際よく「見切り発車」をして,政府が挙げて真剣に取り組んでいるかのように見せかけているだけの話。中味はなにもない。空洞だけだ。だから,どうにでもなる,ということ。


じつは,新国立競技場整備計画がすんなりとは決められないということには理由がいくつもある。つまり,簡単には解消できない難題がいくつも待ち構えているという特殊な事情が,その背景にはあるということだ。それが当初の計画が迷走した最大の理由だ。たとえば,有識者会議が提起した条件をすべて受け入れようとしたのも大きな理由の一つだ。しかし,もともと,この場所(神宮外苑)に立派な競技場を建造するには,あまりに土地のスペースが足りない,という根本的な問題がある。

 こんどの政府案では,「競技場専用」にする,とだけ表記された。これとて,じつにあいまいな表現でしかない。たとえば,「陸上競技場専用」にするにも,サブ・トラックを常設するだけの場所がない。だから,五輪では,臨時のサブ・トラックを設置して(野球場を一時転用),切り抜けようということだ。ということは,五輪後には,「公認」の陸上競技会は開催できない,ということだ。だとしたら,この競技場を維持・管理していく目的はなにか。

 のみならず,サッカー,ラグビーなどの球技場としても「専用」には役に立たない。なぜなら,陸上競技場としての「8レーン」が不可欠だとすれば,この分だけ観客席はピッチから遠くなる。ならば,移動式観客席を,ということになる。となると,コストが桁違いに高くなってしまう。だから,固定席になるだろう。とすれば,球技場としても中途半端な競技場になる,ということだ。

 要するに,東京五輪以後,なんのために,だれのために,この競技場が存続することになるのか,という見通しがなにもないのである。それでいて,整備方針の要旨の(1)には,「アスリート第一」の考え方の下,世界の人々に感動を与える場とする,と威勢よくうたっている。この文字面をみるかぎり立派なものである。だれも文句のいいようがない。しかし,中味は「空洞」。

 言ってみれば,たった一回だけの五輪開催のための競技場でしかない,あとのことはなにも考えてはいない。その証拠に,五輪開催後の維持・管理は民間に委託する,という。となれば,独立採算性の「経済原則」が最優先されることになる。国立の公共施設が,民間に委託されて,経済原則で管理されるようになったら,もはや,新国立競技場としての「機能」は果たせなくなってしまうことは,火をみるより明らかだ。おそらくは,競技場に加えて,大きなイベント会場としての転用が,その先には待っているのだろう。となると,いったい,なんのための競技場か,という根源的な問いが新たに生まれてくることになる。

 今回はこの程度にとどめておくが,新国立競技場には難問が山積している。第一に,責任問題に蓋をしたまま,「時間」を理由に,強引に押し切ろうとすればするほど,「亡霊」があちこちから顔を出すことになるだろう。場合によっては,空中分解するほどのエネルギーがそこには充満している。すでに,きな臭い匂いが漂いはじめているのだから。とてつもない「泥試合」が,このさきには待ち構えている。大揺れに揺れるだろう。

 これで,またまた,アベ政権の支持率は低下の一途をたどることになるだろう。
 ただし,メディアの対応次第だが・・・・。
 やることなすこと「でたらめ」。「場当たり主義」。「壁紙の張り替え」。
 要するに,民意を聞き入れる姿勢がまったく欠如しているかぎり,同じことの繰り返し。

 早々に,お引き取りを。

2015年8月16日日曜日

アベ政権,天皇からも三行半。国民の声に寄り添え,と。

 天皇制を擁護するつもりはさらさらないが,このところの天皇の言動は,アベ政権の動向を明らかに意識したもので,この限りにおいて立派なものである,とエールを送りたい。

 とりわけ,昨日(15日)の「終戦70年式典」(政府主催・全国戦没者追悼式)での天皇の「お言葉」(新聞がこう書くのでこれに倣う)は,前例をみない「踏み込んだ」ものだ,と今日の東京新聞一面トップで絶賛している。わたし自身は,これまで天皇の「お言葉」にとくべつの注意を払ってきたことはなかったので,いつもの「定型」版を繰り返しているものとおもっていた。

 
しかし,昨夜のネット上を流れた情報でも,戦後70年の節目の年の「安倍談話」の不評と,それにつづく「全国戦没者追悼式」の式辞のお粗末さが糾弾されているのが,目についた。いずれも「八方美人」的な,借りものの美辞麗句を羅列しただけのものであって,支離滅裂,アベ・シンゾウの本音の心情がつたわってこない,といった類の批判が多かったようにおもう。

 「安倍談話」については,わたしなりに感じとったことをそのまま,直ちに,このブログで書いておいた。結論は,「安倍談話」と「安保法案」とのギャップをどう埋め合わせるのか。その根源的な矛盾をどう説明するのか。「安倍談話」が本気なら,ただちに「安保法案」を取り下げよ,と書いた。

 それにつづいての昨日の「式辞」である。これまた味も素っ気もない,国会答弁を彷彿とさせる,防戦一方の,揚げ足をとられないように,とことん配慮された式辞に終始している。だから,字面だけを追っていくと,なんとなく立派な式辞にみえてくる。しかし,少し踏み込んで読んでみると,これまたボロだらけ。またまた批判の嵐にさらされている。

 しかも,天皇の「お言葉」とアベの「式辞」とを,とくと読み比べてみると,もっと面白いことがわかってくる。これは,どうみても,アベ政権にたいする天皇からの「三行半」ではないか,とわたしの脳は反応する。やんわりと,さりげなく,されど熟慮の末の不動の決意にもとづく「三行半」だ,と。東京新聞も指摘しているように,「国民の声に寄り添え」と,アベ・シンゾウに向かって言外に含ませている。それが,つたわってくる。短い「お言葉」に籠められた天皇の思いは深く,重い。

 
これこそが,「70年」という節目での,もっとも重要な「ことば」なのだ。国民の圧倒的多数は「二度と戦争はしない」という「非戦」の意思を共有している。この声に耳を傾けよ,と天皇は言っている。アベ・シンゾウからは,その姿勢が感じられない。式辞と現実の政治行動との乖離がはなはだしい。根をもたない美辞麗句はいくら唱えても意味はない。

 とうとう天皇からも見放されてしまったか,というのがわたしの印象である。

 当分の間,この議論は尾を引くことになるだろう。そして,ますます支持率は低下の一途をたどっていくだろう。どう考えてみても,上昇気流にはなりえないからだ。

 アベ政権としては,ポイントを一気に取り返す絶好のチャンスがつづいたはずだ。にもかかわらずそのチャンスをものにすることはできなかった。いずれも,マイナス・ポイントに貢献するだけだった。なぜか。政権維持のための首尾一貫性に欠けているからだ。もっと言ってしまえば,本音の政治姿勢を前面に押し立てることができなくなっている,ということだ。

 なぜか。SEALDsによる国会前のデモを筆頭に,全国に拡散した「安保法案,NO」の抗議行動が,官邸に少なからぬダメージを与えている,とわたしはみる。だから,一方では「不戦」を唱えつつも,他方では「加害と反省」には言及しない。支離滅裂。当然の帰結。カウンター・ブローが効いてきた,とみる。

 いよいよ断末魔の悪あがきが,この際,一気に噴出してきた,というのがわたしの見立て。

 総裁選も一枚岩ではいかなくなってきたようだ。今回の,「安倍談話」と「式辞」をとおして,いよいよ自民党内の反アベ勢力も黙ってはいないようだ。なにかと騒がしくなっている,という情報が飛び交っている。

 それほどに,今回の天皇の「一撃」は大きいとみる。

 さて,公明党君はどうする? いまが,縁切りの最後のチャンスなのだが・・・・。

 お盆休み明けの攻防が楽しみだ。アベ君は20日まで夏休みだそうだが・・・・。さて,別荘で,つぎの一手をどのようにひねり出すか? ゴルフなどやっている場合ではなかろうに・・・。

2015年8月15日土曜日

「安倍談話」,聞いてあきれる。本気なら,安保法案を直ちに撤回せよ。

 よくもまあ,しゃあしゃあと,恥ずかしげもなく,こんな「談話」を閣議決定して公表したものだ,とあきれかえってしまった。借りもののことばを多用し,さも,自分のことばであるかのごとく振る舞い,当面の批判をうまくかわすことに専念していて,アベ・シンゾウの生のことばがどこにも見当たらない。だから,言っていることが矛盾だらけで,どこか白々しい。力のない,ふわふわの,いかにもこの人らしい表現がつづく。かとおもうと,あっと驚くような名文のフレーズがとってつけたように突然,現れる。つまり,その場をしのげばそれでいい,という本音が丸見えなのだ。

 したがって,訴えるものがなにもない。またまた,嘘つきシンちゃんの面目躍如というところ。

 もし,この「談話」がアベ・シンゾウの本気の表明であるのなら,直ちに「安保法案」を撤回せよ。それがスジというものだ。この「談話」はそういう趣旨のものだ。

 もう一度,繰り返すが,熟慮の末の「安倍談話」であるのなら,「安保法案」が間違っていた,とまずは謝罪し,しかるのちにこの法案を撤回すべきだ。それなら,この「談話」を信じよう。そして,アベ・シンゾウを支持してやろうではないか。

 でないならば,嘘の上塗りを,また,やらかした,ただ,それだけのもの。単なる猿芝居。その場しのぎのためなら,どんな嘘でも平気でつく。この人の特技である。いや,持病である。正常な神経の持ち主にはできない芸当だから。

 さて,この「安倍談話」を国際社会はどう受け止めるだろうか。英語,中国語,朝鮮語,などにも翻訳して公表すると聞いている。これまでの歴代の「談話」に比べると,かなり饒舌になっている。その分,これまでのアベ政治との矛盾も多く露呈することになった。したがって,当然のことながら,その「矛盾」をつく論評が噴出することになろう。それに対して官邸はどのように対応していくことになるのか。その応答の仕方いかんによっては,もはや,どうにもならない「信頼」の失墜を招きかねない。もはや,失うべき「信頼」などないに等しいのだが・・・。そういう批判の糸口が満載の「談話」になっている,というのがわたしの読解だ。

 その意味では,まことに稚拙な作文だ。あれもこれも,とりあえず役に立ちそうなフレーズはすべて放り込んで,なんとか批判をかわそうとするあまりに,結果的には「自爆」してしまっている。そのことを,官邸の知恵者は気づいていないのか。もっとも,その知恵者たちが狂ってしまっているのだから,もはや,手の打ちようがない,というのが実情なのだろうが・・・。あの「首相補佐官」をみれば,そのことは歴然としている。

 無難にまとめたつもりの「安倍談話」が,またまた,大きな「火種」をかかえこむこととなった。これから,国の内外を問わず,ますます大きな議論となっていくことだろう。アベ政権にとっては致命的な大問題を,みずから提起することになってしまったからだ。

 すなわち,この「安倍談話」と「安保法制」との間に横たわる根源的な矛盾を,どうやって超克していこうというのか。難問中の難問だ。

 まずは,官邸のお手並み拝見といこうか。

 わたしは「空中分解」する・・・と予見している。これで「幕引き」になる・・・・と。

 もちろん,そうあって欲しいという願望も籠めて。

2015年8月14日金曜日

東京五輪エンブレムに赤信号。どうみても「パクリ」。他にも余罪?

 東京五輪2020にかかわる疑惑があちこちから噴出しはじめている。

 もっとも公明正大に行われているものと信じて疑わなかったいわゆる「コンペ」なるものも,なんだか怪しい雲行きになってきた。

 その発端となったのは,いうまでもなく新国立競技場のための「デザイン・コンペ」だ。このコンペの応募要領には,コンセプトも高さ制限も環境条件も,なにも明示されてはいない。だから,応募者は思いの丈を最大に拡大して夢を描いた。そして,ザハ・ハディド案の奇想天外な発想を安藤忠雄委員長が後押しをして,最優秀賞とした。ここが,新国立競技場問題の最大のつまづきの始まりであった。

 明治神宮外苑は特別風致地区に指定されていて,建物の高さ制限が,長年にわたって守られてきたところである。そのことを承知している日本人建築家は,みんな,そのことを念頭に置いてデザイン・コンペに応募している。しかし,ザハ・ハディドはそんなことは知らないまま,応募要領をみて,そのアイディアを思いっきり大きくふくらませてデザインをした。これに安藤忠雄委員長が飛びついてしまった(この人のいい加減さも,その後の言動をとおして明らかになっている)。すべては,ここからはじまった。

 問題が大きくなってきて,みるに見かねてアベ君が「白紙撤回」して「仕切り直し」に入ったかにみえるが,そうは問屋が卸さない。これから,ますます泥沼化し,やがて暗礁に乗り上げるのは必定だ,とわたしは類推している。この点については,いずれ,詳しく論じてみたいとおもっている。

 今回の主眼は,東京五輪2020のエンブレム。とてもシンプルで美しいデザイン・・・・と感動した。しかし,ベルギーのデザイナーから「盗作」ではないかとクレームがついた。詳細ははぶくが,これをうけて,デザイナーの佐野研二郎氏が緊急の記者会見を開いた。

 約1時間余にわたる記者会見に,じっと耳を傾けてみた。さすがに世界的に知られたデザイナーだけあって,理路整然とした説明に,なるほどと納得できるものが多かった。しかし,佐野氏が最大のオリジナリティとして主張した「コンセプト」の違いと,そこから展開されるデザインのヴァリエーションの多様性のところで,わたしは「おやっ?」と疑問をいだいた。

 なぜなら,デザインが似ていても,「コンセプト」が違えば,オリジナリティを主張することができるのかという点と,さらに,このデザインを基にして,さまざまな映像としてヴァリエーションを展開できるところまで考えれば,そのデザインは佐野氏のオリジナリティによるものだ,と主張することができるのか,という2点に疑問を感じたからである。

 この点については,当日の記者たちからも,何回も繰り返し質問がなされたが,佐野氏の応答は,同じことばの繰り返しでしかなかった。つまり,オリジナリティとはなにか,という問いに対して一般論としての応答はしたものの,今回のデザインのオリジナリティはなにか,という問いに対する佐野氏の応答はいちじるしく説得力を欠くものであった。

 つまり,「コンセプト」が違えば,似たようなデザインになにがしかのアイディアを追加すれば,それでその作品のオリジナリティは成立するのか,という問いに対して佐野氏は用意してきた同じ応答を繰り返すことに終始したのだ。自信満々だった表情にも,ぐらりと揺れるこころの動揺が,わたしの目にも見て取ることができた。その瞬間である。わたしが「おやっ?」とおもったのは・・・。

 この会見があったのち,ネットでは,「コピペ」の常習犯だ,という批判が相次いでいる。しかも,その実例を画像で提示しながらの批判である。単なる誹謗中傷ではない。それらを一つひとつチェックしていくと,ああ,これはもう駄目だ,とわたしのような素人でも納得せざるをえない。

 大手メディアは,箝口令を敷かれているのか,まだ,表沙汰にはしていないが,やがて,この問題は取り上げざるをえなくなることは必定だ。

 森喜朗組織委員会会長は,自信をもってこのエンブレムを使っていく,と宣言したが,はたしてどうか。やがては,このエンブレム選出の舞台裏も明らかになってくるだろう。そこには,どうやら,新国立競技場のデザイン・コンペと同じような実態が隠されているようにおもえてならないのだが・・・・。それは単なる杞憂にすぎないのだろうか。

 日本という国家の箍がはずれてしまって,なにもかもがガタガタになってしまった,その一端がここに表出しているにすぎないのでは・・・・とわたしは悲観的になる。戦争法案,辺野古新基地,フクシマの放置,原発難民の放置,加えて川内原発再稼働と,国際社会の笑い物になる話題ばかりが日本から発信されている。そこに,東京五輪2020にかかわる醜聞の露呈である。こちらは,まだまだ,これから際限なくでてくる。

 それに呼応するかのように,火山,地震,集中豪雨,雷雨,竜巻,と自然界までもが加担してくる。こちらも,どう考えても偶然の一致ではなさそうだ。そのうち,お化けや亡霊があちこちで出現することになるのではないか,とわたしは大まじめに考えている。

 国家の基ともいうべき「立憲デモクラシー」をときの政権が無視して平気でいられる,というこの異常さこそが,すべての根源だ。ここから「建て直す」こと,これがいま国民に課せられた喫緊の課題だ。ふんどしを締め直して,本気でとりかからねばならない。

 今夕には「70年談話」が閣議決定を経て,公開されるという。
 はたして,その内容やいかに。世界中が注目している。

遠い日の思い出。8月15日の玉音放送とその前後の記憶。

 1945年8月15日。わたしは国民学校2年生。夏休みで,毎日のように,疎開先の寺の広庭にむしろを敷いて,従姉妹たちとままごと遊びのようなことをして過ごしていた。時折,艦載機が低空飛行をして,バリバリバリと銃を乱射して通過していく。そのたびに,震え上がって庫裡のなかに逃げ込む。それさえなければ,なんとものどかな渥美半島(愛知県)の田舎の寺での,こころの温かい人たちに囲まれた楽しい生活だった。

 疎開するまでは,豊橋市の郊外に住み,東田国民学校に通っていた。1年生の夏には,干し草をつくって学校に提出する宿題に追われていた。毎日のように,午前中は近くの朝倉川の土手にでかけ,草を刈り,大きな束にして担いで帰るのが日課だった。そして,家の猫の額ほどの庭に草を干して,夕方になるとそれを束ねて,翌日,また干すを繰り返す。その草の量は,毎日,少しずつ増えていく。しかし,完全に乾いた干し草になると,ほんのわずかなものになってしまう。日々の労働の割には成果があがっていないような,むなしさも伴っていた。

 夏休み中の登校日ごとに,これを学校に提出。これらは,軍馬のえさになる,と教えられた。軍国少年は,ただひたすらお国のためにと祈りながら,必死で頑張った。しかし,戦況は日に日に悪化していたようで(子どもにはなにもわからなかった),1943年の秋口からは,戦勝祈願と称して,近くの神社に早朝の参拝が日課に加わった。寒い冬の朝などは,霜焼けで赤く腫れ上がった手が痛かったことを記憶している。

 1944年の6月には,豊橋市は空襲があって,火の海のなかを逃げまどいながら,いつも参拝している神社までたどりついた。そして,その脇を流れる小川の中に身を沈め,一夜を明かした。そのまわりには大勢の人たちが,同じようにして一夜を明かしていたことを朝になって知る。みんな,声も出さずに押し黙っていたのだ。

 夜が明けて,みんなが歩きはじめたので,それにつられるようにして家路についた。市街に入ると,すぐに目にしたのが,辺り一面の焼け野原。当時としては珍しい鉄筋コンクリートの細長い建物(ヌカビルと呼んでいた)が立っているだけで,あとは,全部,焼け野原。しばらく,呆然として眺めていたようにおもう。そして,歩きはじめると,あちこちに逃げおくれた人の死体が転がっている。なかには,焼夷弾の直撃に会ったのか,後頭部が半分なくなっている女の人の死体も目に飛び込んでくる。思わず足がすくんでしまって動けなくなる。

 これ以上のことは,ここに書くに忍びない。思い出したくない,とからだが拒否する。必死になって記憶から消去しようとするが,逆に消えるものでもない。より,鮮明な印象となって蘇ってくる。場合によっては,現実以上に印象だけが増幅して,妄想となって肥大していくようだ。しかし,それがわたしにとっての「真実」となる。記憶とは恐ろしいものだ。

 こんな経験のあと,母の実家である渥美半島の寺に疎開する。祖父はすでに隠居していたので,大伯父・大伯母の心温まる好意に支えられて,わたしたちは束の間の安寧を得る。空襲警報と艦砲射撃と艦載機の襲撃さえなければ,まことにのどかな田舎の暮らしが日常を支配していた。

 そうして迎えたのが,1945年8月15日の玉音放送だ。いまでいえばお盆のお中日だが,当時は,旧暦でお盆が行われていたので,なにごともない平日だった。突然,広庭のむしろの上で遊んでいた子どもたちに,庫裡から声がかかって呼び集められた。これから大事な放送があるので,しっかり聞きなさいと言われ,小さなラジオの前に正座させられた。

 それが玉音放送だった。国民学校2年生の子どもにはなんのことか,さっぱりわからなかった。それでも,「耐えがたきを耐え,忍びがたきを忍び・・・」というフレーズだけは記憶に残っている。いや,これも,あとで記憶したことを,このときに記憶した,と勘違いしているのかもしれない。なにか,重大な放送であったらしい,ということだけはわかったような気がする。

 放送のあと,「戦争が終わった」と教えられ,なんとなくホッとしたことを覚えている。もっとも恐ろしくて怯えていた,空襲警報と艦砲射撃と艦載機の乱射から解放される,という安堵からくるものだったのだろう。

 こころの平安はかろうじて取り戻したものの,予期せぬ敗戦後の苦難が待ち構えていた。この記憶もまた,あまりたどりたくはない,わたしの記憶の中に封印されていることばかりだ。しかし,いつかは語っておかなくてはいけないことなのだろう,とこころのどこかでは考えている。そのときを待つことにしよう。

 ことしもまた,8月15日はやってくる。しかも,「70年目」の節目の年として。

2015年8月13日木曜日

元関脇・旭天鵬,引退。23年半の土俵生活に別れ。モンゴル人力士の草分けの人。

 インタヴューなどで話をするときの笑顔が,なんとも味があって,好きだった。個人的な詳しい情報はほとんどなにも知らないが,ニコニコ笑いながら応答する笑顔に,どこか人間的な優しさを感じたものだ。その旭天鵬(元関脇・40歳)が,23年半の土俵生活に別れを告げた。まわし姿での,あの笑顔がもうみられないかとおもうと,ちょっぴり寂しい。

 モンゴル人力士としては草分けの人。92年春場所,史上最多となる160人の新弟子検査を受けたなかに,この人がいた。将来を嘱望されたが,なかなか出世できず,一度はあきらめてモンゴルに逃げ帰ったこともある。親方がモンゴルまで出向いて,「才能がある,必ず一人前の力士になれる」と説得して連れ戻した,という逸話がある。

 大器晩成型だったのだろう。出世はかならずしも順調とはいえなかったが,着実に力をつけた。本人もそのことに気づいてからは,じっくりと稽古に励んだ。大負けもしなければ,大勝ちもしない,どちらかといえば地味な,安定した力を徐々に伸ばしていった。そして,遅咲きではあったが,平幕優勝まで経験した。

 このとき,横綱・白鵬が優勝パレードの旗手として祝福をした。しかし,日本相撲協会は,部屋も違うのに,なぜ,横綱が旗手をつとめるのか,と不快感を示した。白鵬としては,入門後のなにもわからない相撲界のことを,この先輩力士になにかと教えてもらった。懐が深く,思いやりのある旭天鵬をこころの師と仰いで,稽古に励んだ。その恩返しのつもりだった。

 このあたりから,白鵬と部屋の親方や協会との,ちょっとしたすれ違いが目立つようになっていた。しかし,旭天鵬は,意に介することもなく,温かく白鵬を見守った。

 こんなことの蓄積があってか,旭天鵬はモンゴル出身の力士たちに,頼りになる先輩として慕われた。たぶん,なにがあっても,あのニコニコした笑顔で,後輩たちを励ましつづけたのだろう。モンゴル出身力士のなかで,旭天鵬のことを悪く言う力士はひとりもいないという。

 そういう人柄が,テレビをとおしてみているわたしにも,それとなく伝わってきた。人柄のよさが全身にあふれていた,といっていいだろう。

 手足の長い大きなからだを武器に,がっぷり四つに組むと力を発揮した。ここでも,ふところの深さが生きていた。怪我をしない力士としても印象に残る。それは土俵にも現れていた。危ない,土俵際の攻防はほとんど見られなかった。勝つときは,綺麗に寄り切るか,投げを打って,すんなりと勝負をつけた。負けるときも,土俵際で無理をして抵抗するということはほとんどしなかった。どちらかといえば,あっさりと土俵を割った。

 もの足りないといえばもの足りない相撲だった。しかし,これが旭天鵬の相撲だった。こんなところに旭天鵬の性格がでていたのだろう。わたしは,みていて,もう一踏ん張りしろよ,と何度もおもったが,でも,これがかれの相撲なのだ,と自分に言い聞かせた。たぶん,稽古場でも,闘志を剥き出しにした荒っぽい相撲はとらなかったのだろうとおもう。闘志は胸の奥深くにしまいこんで,きちっと勝負をつける相撲を心がけたのではないかとおもう。

 星勘定のきびしい相撲界にあって,どこか勝敗を達観したような相撲を淡々ととり続ける力士は,そんなに多くはない。そういう希少価値をもった,ゆったりとした力士だった。だから,ここ数年は,あまり無理をするな,ゆったりとしたマイペースでとれ,と応援をしていた。その姿勢は,最後まで貫いたとおもう。負けが込んできて,いよいよ幕内陥落というところに追い込まれても,いつもどおりの旭天鵬の相撲をとりきった。

 これでいいのだ,とわたしは自分に言い聞かせた。

 現役の引き際はむつかしいものだ。しかし,最後まで,自分の姿勢を貫いて,静かに土俵を去っていく,これもまた立派な美学ではないか。

 これからは親方として後輩の指導にあたるという。おそらく,あのこころのふところの深さを生かし,愛情をこめて,若い優秀な力士を育てるに違いない。

 旭天鵬の,第二の相撲人生に期待したい。

 23年半にわたる土俵生活,ご苦労さんでした。こころからエールを送りたい。

2015年8月12日水曜日

とうとう見切り発車。川内原発再稼働。危険がいっぱい。いったいだれのために。

 フクシマの大惨事はいまもつづいている。しかも,情況は悪化の一途をたどっているという。というか,手も足も出せないまま,じっと見つめているだけだ。メルト・ダウンした核燃料の行方は杳としてわからないままだ。一説によれば,すでに,臨界点に達していて,数回にわたって水蒸気爆発が起きている,ともいう。その証拠写真もネット上で流れている。が,いずれにしても,いつ,なにが起きても不思議ではない状態がいまもつづいている。そのエネルギーは,広島原爆の500個分に相当するという。巨大な地震に揺さぶられれば,それらが一気に爆発する可能性はきわめて高いとも。

 そうなったら,すべてはおしまいである。

 こんな危機的な状態にあることには蓋をしたまま,川内原発再稼働に踏み切ったアベ政権。いったい,だれのための再稼働なのか。なにを考えているのか。

 これほどまでに再稼働にこだわるには,それなりの理由があるはずだ。しかし,それは口が裂けても言えない理由だ。つまり,まったく不純な動機にその端を発した理由だ。時代劇でよくあるシーンと同じ理由だ。「越後屋,お主も悪よのう」のあれだ。こんなことをアベ政権は,ひた隠しにしながら,やろうとしているのだ。

 アベ政権は,やはり,退陣願う以外にはない。

 原発再稼働も,安保法案同様,それを「正当化」する論理的根拠はどこにも見当たらない。もし,あるのなら,アベ政権は責任をもって,文書にして提示し,国民的議論を経たのちに,再稼働に踏み切ればいい。当然のことながら,再稼働にともなう利害得失を一覧にして,その収支決算を明確にした上で,再稼働というのが筋である。

 しかし,それはできないのだ。それをやればやるほど,根拠のなさが露呈してしまうからだ。だから,原子力規制委員会に丸投げにして,アベ政権は責任逃れをはかる。それでいて,「世界でもっとも厳しい規制基準」で審査された結果であるから,それを信じて再稼働に踏み切る,と大見得を切る。しかし,その規制基準とて,IAEA(国際原子力機関)の基準に達しているかとうかは疑わしい,という。にもかかわらず,「世界一,厳しい規制基準」だとアベ・ソーリーは嘯く。こういう根拠のない嘘をつくのは,すでに,常習化している。

 これほど,みえみえの嘘が平気でつけるソーリーも珍しい。

 今回もまた,嘘で塗り固められた「原発再稼働」に踏み切った。こんな無茶苦茶な,民意を無視した強引なやり方をすれば,アベ政権支持率はまたまた激減するだろう。なぜなら,国民の「命」がかかっているのだから。この国民の「命」を軽視する発想の杜撰さは安保法案と同じである。けしからん。国民の「命」を,まるで将棋の駒とでも考えているらしい。

 原発再稼働は,なにがなんでも許されない。最低でも,国民的合意がえられるまでは「棚上げ」にしておくべきだ。使用済み核燃料の処分方法もみつからないままの見切り発車は,断じて許されるべきではない。

 こうなったら,安保法案を廃案に追い込み,アベ・ソーリー退陣のための「花道」を用意する以外にはない。そのためには,全国ネットでひろがりつつある抗議行動で,みずからの意思を表明することに全力を傾ける以外にない。そういう,強い決意を,いまこそ。

2015年8月10日月曜日

ヒロシマ,ナガサキの原爆慰霊祭を終えて。アベ・ソーリー,ご退陣を。

 戦後「70年」という節目の年,ことしも例年どおりヒロシマ(8月6日),ナガサキ(8月9日)では厳かにしめやかに原爆慰霊祭が開催されました。にもかかわらず,このニュースを取りあつかう方法は,メディアによってさまざまでした。きわめておざなりなものから,きめ細かに「原爆」を軸に戦争と平和を考えさせる素晴らしい報道まで,ピンキリでした。

 つい,数年まえまでは,こんな扱いではなかったと記憶します。どのメディアも,真っ正面から向き合い,真剣に報道がなされていたようにおもいます。なのに,この数年の間の,この様変わりはどうしたことなのでしょう。

 三重県では,原爆の写真展が「政治的すぎる」という横やりが入って,主催者である地方自治体は中止する,というとんでもないことが起きています。最近では,「政治的」であることがまるで「悪」であるかのごとき勘違いの風潮がひろまっています。とりわけ,秘密保護法が制定されたあとから,この傾向がつよくなっているようにおもわれます。

 「政治的」とはどういうことか。人間は社会の一員として存在するだけで,立派に「政治的」です。政治にかかわることを語り,行動するだけが「政治的」ではありません。「政治的」なことを無視して,だんまりを決め込むのも立派な「政治的」行為です。

 「政治的」な言動は政治家だけに許された特権ではありません。一人の生きる人間に付与された基本的人権です。だからこそ,だれもが「政治的」な発言や行動をする権利をもっています。そうして,お互いに意見交換をしながら,ときには激しい議論や抗議行動までも伴いながら,民意のありどころを探っていくのが民主主義の基本です。

 立憲デモクラシーを否定し,憲法違反の法案を議会に提出し,なんの根拠もないことを「想定」し,ありもしない国民の不安を募り,数の横暴で押し切ろうとする,アベ・ソーリーが登場してから,ますます,国民の「政治的」言動がやり玉に挙げられるようになってきました。強権をもつものが,一方的に弱者に圧力をかけ,自分たちの利権だけを守ろうとする,そういう社会の支配階級と手を結び,ますます強権政治をまっとうしようとしているアベ・ソーリーの手法が,一般の市民社会にも浸透しつつあり,いまや目を覆うばかりです。

 ヒロシマ,ナガサキの各市長のスピーチに対しても,圧力をかけ,あからさまにイチャモンをつけるアベ・ソーリー。その品格のなさ・・・。まるで,ヤクザの親分と同じです。気に入らない奴は消してしまえ,とばかりにありとあらゆる手段を用いて圧力をかけてきます。もはや,独裁政治そのものとなりはててしまっています。

 それを,また,黙って見過ごす多くの大手メディア。このジャーナリズムの「死」ともいうべき「黙認」こそ,「いまやまさに」「政治的」であり,「犯罪的」でもあります。つまり,独裁政治に与する,最悪の「政治的」行為そのものです。

 その反面,インターネットでは,アベ・ソーリーの,とってつけたような虚ろなスピーチをまるごと映像としてみることができます。その一方で,ヒロシマ,ナガサキの各市長の,思いのこもった素晴らしい「平和宣言」をこれまた映像ごとすべてを見聞することができます。被爆者代表による,身を切るような,からだ全体から絞り出されるような「反戦」「平和」への希求のことばも,映像ごと,何回も繰り返し耳を傾けることができます。この被爆者代表のスピーチに対しても,アベ・ソーリーはいちゃもんをつける始末です。

 もはや,人間とはおもえません。血(知)も涙(情緒)もない冷徹な独裁者の顔にしかみえてきません。それでも,どこかに,かすかに良心のかけらは残存しているようです。被爆者や市長のスピーチのクライマックスに達したときの「ことば」,たとえば,「非戦」こそが「平和」実現への道である,と訴え,参列者から大きな拍手が湧いたときには,さすがの冷徹・独裁者の「目が泳いでいる」姿も映像のなかにしっかりと捉えられています。

 民意を把握できなくなった政治のリーダーは,いさぎよくその場から撤退すべきです。民意を無視した政治は,もはや,国のためになりません。国を滅ぼしてしまいます。不特定少数のための利害・打算の政治は不要です。

 この二つの重要な慰霊祭をとおして,アベ・ソーリーの退陣の道筋もまた一段と明確になってきたようにおもいます。最後にだれが,アベ・ソーリーに引導をわたすのか。それは,わたしたち自身です。圧倒的多数の民意を構築して,それを目にみえる形で提示することです。

 いま,SEALDsを名乗る若者たちを中心にした抗議行動が,燎原の火のごとく全国津々浦々にまで広まっています。8月23日(日)には,全国を舞台にして,大々的な抗議行動を展開することが予告されています。わたしも,この日に向けてリハビリにつとめ,なんとしても末端のひとりになりたいと,こころに決めています。

 「本気で倒す」。ただ,その一念で立ち上がること。

 お盆休み明けの,「夏の陣」です。歴史の1ページを飾ることになる大事な正念場です。一人がもう一人の友人を誘えば,デモは倍に膨れ上がります。いまは,行動あるのみです。

 アベ・ソーリー退陣に向けて,最後の一撃をふるうときです。

 ヒロシマ・ナガサキの原爆慰霊祭の映像をみて,その思いがますます募ってきました。

 もはや,これ以上,アベ・ソーリーにこの国の舵取りを任せておくわけにはいきません。いまこそ,声をひとつにして立ち上がろうではありませんか。

2015年8月9日日曜日

雑誌『世界』9月号,特集・安保法案──深まる欺瞞と矛盾,必読。

 月刊雑誌で,定期購読するだけの価値のある雑誌は「いわばまさに」『世界』しかないと思い定めて,もう久しい。「いわばまさに」毎月の楽しみとなっている。

 雑誌がとどくと,真っ先に読み始めるのは「編集後記」。清宮美稚子編集長が,どんな話題をとりあげているか,わたしの羅針盤のような役割をはたしてくれている。今回は,この一カ月の国内で展開された安保法案をめぐる抗議運動をはじめとするさまざまな問題の局面が取り上げられている。国会答弁で繰り返し聞かされる「いわばまさに」という,ほとんど意味をなさないことばを逆用して,清宮編集長は効果的に活用している。

 その調子のよさに,ついつい,わたしまで濫用してしまう。困った宰相の意味不明言語の多用が,「丁寧な説明」だとしたら,「いわばまさに」おしまいである。国会討論のあの,情けないほどの時間の無駄遣い。なにひとつとして議論にはならない。それもそうだろう。憲法違反の法案を正当化する理論的根拠はどこにもないのだから,ありもしない想定をあえてでっちあげ,危機感をあおり,それらしくみせかけて,だから「戦争法案」は必要なのだ,と繰り返す。その虚ろなことばの繰り返しに,中学生ですら「馬鹿みたい」と笑う。

 これが国会の実態である。国会中継は,その意味で,きわめて重要だ。それでいて,80時間も議論をした,あるいは,90時間も議論したのだから,という理由だけで強行採決に持ち込もうとするアベ政権のでたらめさが,さらに剥き出しとなる。この事実を多くの国民が見定めている。

 だからこそ,「ア・ベ・ハ・ヤ・メ・ロ」コールが日ごとに広がっていく。当然のことだ。ついには,高校生までが立ち上がり「T-ns Sowl」を組織し,声を挙げている。選挙権を付与されるのだから,当然の意思表明だ。体調がもどってきたら,まっさきに応援に馳せ参じたい。

 「ほんとうに止める」という連帯の意思は「いわばまさに」燎原の火のごとく拡がっている。

 『世界』9月号の特集は「安保法案──深まる欺瞞と矛盾」と,もう一本「戦後70年──「戦」の「後」でありつづけるために」の2本。いずれを拾い読みしてみても,すぐにその論調のなかに吸い込まれていく。魅力的な内容が軒を並べている。特集の一本目は,「いわばまさに」アベ君の答弁がいかに「欺瞞と矛盾」に満ちているかを浮き彫りにするもの。こちらの論考はいずれもみごとにその根拠を明らかにし,説得力十分。

 特集の2本目の冒頭には,対談・いま「非戦」を掲げる──戦後70年 反転された「平和と安全」,と題した田中優子(法政大学総長)×西谷修(立教大学)が掲載されている。一見したところ,異色の対談のはずが,なんともののみごとに「噛み合って」いて,面白い。「平和」などという実態のないことばではなく,いまこそ「非戦」ということばを掲げるべきだ,と両者の主張はみごとに一致している。

 この他にも,「慰安婦」問題を取りあつかった永井和(京都大学)の,破綻した「日本軍無実論」が読ませる。また,柄谷行人の「反復強迫としての平和」が力作。そして,親しくさせていただいている今福龍太さんの大地の平和,映像の平和──サルガド,ヴェンダース,自然契約,がわたしのような者では思いもよらない,意表をつく視線からの論考が新鮮だ。

 こうして挙げていくと際限がなくなり,全部,とりあげなくてはならないほどの内容の充実ぶりだ。いやはや,雑誌『世界』は安い。おつりがくる。

 最後にひとつ。新連載「刻銘なき犠牲──沖縄にみる軍隊と性暴力・第一回──鳥になって故郷へ帰りなさい,川田文子(ノンフィクション作家)が,わたしにはとても印象に残った。沖縄のことは,ほとんどなにも知らないに等しい情けない本土の人間として,気持を引き締めて,これからの連載も期待したい。

 取り急ぎ,9月号の感想まで。

2015年8月8日土曜日

書物の記憶。『夜の鼓動に触れる』(西谷修著,ちくま学芸文庫,2015年)をいただく。

 20年前の西谷修さんの名著『夜の鼓動に触れる』の復刻版が,ちくま学芸文庫から出版されました。西谷さんから直接,手わたされ感動。奥付をみますと「8月10日発行」となっていますので,書店に並ぶのはまだこれからでしょう。

 『夜の鼓動に触れる』は東京大学出版会から1995年に刊行されました。このときも西谷さんはわたしのような門外漢にも,本をプレゼントしてくださいました。20年前ですから,わたしがちょうど57歳のときです。ということは,西谷さんは45歳。この本には「戦争論講義」というサブタイトルがついていますように,西谷さんが東大教養部で講義をされたときの講義録がもとになっています。

 もう少しだけ付け加えておきますと,東大教養部でカリキュラムのなかに新しく「現代思想」という講義科目が追加されることになり,その講義内容として「戦争論」を語って欲しいとの依頼があって,それを受けての西谷さんのお仕事だった,ということです。詳しくは,本書の「はじめに」のところに述べられていますので,そちらを参照してみてください。

 わたしは西谷さんのジョルジュ・バタイユ研究に早くから惹かれるものがあって,ぼちぼちと「現代思想」への挑戦をしていました。ですから,このテクストがでたときには,ある程度のレディネスができていました。そのせいでしょう。わたしは,このテクストを一気に読むことになりました。そして,とても大きな衝撃を受けることになりました。

 それは,ヘーゲル哲学からハイデガー哲学への転換,そして,そのハイデガー哲学を批判的に継承しつつ超克していこうとしたバタイユ哲学,そのバタイユ哲学にはたしたニーチェの役割など,そういう骨格がこのテクストによって,わたしなりに腑に落ちたからです。言ってみれば,ヘーゲルの形而上学(認識論)からハイデガーの存在論への転換,そして,ヘーゲルとハイデガーの哲学を両睨みしながらニーチェの「生の哲学」を引き受けつつ,さらに「存在論」の奥深くにまで分け入っていったバタイユの思想・哲学的位置づけが,ようやくわたしの視野のなかに入ってきたからです。

 遅れてやってきた青年(大江健三郎)ではありませんが,わたしは57歳にしてようやく思想・哲学の入口に立つことができました。以後,こんにちまでの道は迷いのない一直線でした。そして,バタイユを読めば読むほど,わたしの遺伝子のなかに組み込まれているらしい禅仏教の世界,とりわけ道元の『正法眼蔵』やその解説本でもある『修証義』,そして『般若心経』の世界にものめり込むことになりました。

 そして,その上に立って,長年取り組んできたスポーツ史研究の根源的な見直しやスポーツ文化論の脱構築を試みる,といういまのわたしの思考のスタンスができあがってきました。その大きなターニング・ポイントとなったテクストが,この西谷さんの『夜の鼓動に触れる』でした。

 そして,何度も何度も,「夜の鼓動に触れる」とつぶやきながら,なんと恐るべき深さをもった書名であることか,と感嘆したものでした。つまり,「昼」の近代が否定してきた「夜」を,いま一度,思考の真っ正面にすえて,人間が「存在」することの意味を根底から問い直そうという恐るべき思考実験をそこにみたからです。しかも,そのためのもっとも重要な思考の窓口として「戦争」を設定し,戦争をする人間とはいったいなにか,と問いかけていきます。

 この手法は,これまでの思想や哲学とは次元のことなる,まったく新しいものでした。それを,西谷さんは「現代思想」という講義科目のなかで展開しようと試みたわけです。いま,現在の西谷さんの頭のなかでは,おそらく,これぞ「チョー哲学」のひとつのサンプルなのだ,とにんまりされているのではないかとおもいます。

 思い返せば,このテクストは,『読書人』が毎年暮れに行っている「ことしの3冊」という各界の名士たちを対象にしたアンケートで,多くの人に取り上げられた話題の書物でした。そういう名著が,20年の時を経て,こんどは「ちくま学芸文庫」から復刻されました。

 神戸からの帰りの新幹線のなかで,あちこち拾い読みをしてみました。いつものことですが,西谷さんの本は,何年経っても「古くならない」,素晴らしい鮮度をいまも保っているということにいまさらながら驚かされました。そして,巻末には,「20年目の補講──テロとの戦争について」が書き下ろしで追加されています。そこに書かれていることは,こんどの集中講義でもこってりと語ってくださっていましたので,これまた強烈な印象を残すことになりました。

 やはり,こんどの神戸行きは大正解だった,と家にたどりついてしみじみおもいました。西谷さんの集中講義の醍醐味をたっぷりと味わうことができたことがなによりの滋養となったことはもちろんですが,加えて,心配してくれていた親しい友人たちとも術後,初めてお会いすることができたからです。

 これを糧にして,これからの体調管理に取り組みたいとおもいます。そして,このテクストも,じっくりと味わい直してみたいとおもっています。たぶん,以前とはまた違った強烈な知の地平を切り拓いてくれるに違いありません。それを楽しみに。

 みなさんも,是非,手にとって熟読玩味してみてください。まぎれもない名著です。

2015年8月7日金曜日

術後,初の遠出。神戸市外大で西谷修さんの集中講義を聴講。すっかり元気を取り戻す。

 8月5日の夕刻,エアコンの取り替え工事が終わるまで,猛暑日と熱帯夜に苦しめられ,心身ともに弱り切っていました。しかし,エアコンの力,恐るべし。たった一晩で,水分補給意欲も食欲もすっかり取り戻し,よし,これなら行けると判断し,神戸市外大に向かいました。

 いつものように新横浜駅で,権兵衛のおむすび2個とちらん茶を買って新幹線へ。久しぶりに朝からおいしくいただく。まもなく爆睡。眼が醒めたら名古屋を通りすぎていました。これですっかりからだに力がもどり,むつかしい本を取り出して読む元気もでてきました。

 新神戸駅では,わたしのことを気遣ってくれた竹谷さんが迎えにきてくれていました。想定外でしたので,ちょっとびっくり。あわてて,「どうしてここにいるの?」と尋ねてしまいました。すぐに,わたしの背負っているパソコン入りのザックを取り上げ,「こんな重いものを背負っていてはいけません」とお叱りを受けてしまいました。

 学園都市駅に着いたらちょうど12時。もう,腹が減っていて,すぐにそば屋さんへ。いつも注文する「鴨なんそば」を注文。おいしくペロリと食べて,その足で宿泊施設の支払いと鍵をもらって部屋へ。不要な荷物を置いて,すぐに大学へ。

 西谷さんは,わたしの顔をみるなり,「大丈夫ですか」と気遣ってくださる。今日になって,すっかり元気をとりもどしたことを短く報告。

 午後の3コマ。西谷さんの名講義を聞かせていただいて,さらに奮い立つようにしてこころというか,精神の元気がもどってきました。やはり,思い切ってでかけてきてよかった,とこころの底からおもいました。この授業を聞かせていただいただけで,もう,帰ってもいい,とおもうほどの充実した内容でした。

 話題は別に目新しいものではなく,西谷さん得意の「戦争論」の一端。それも,「テロとの戦争」の意味するところを,深く深く掘り下げて,そこに浮かびあがってくる思想・哲学的な新しい知の地平を,じつにわかりやすく説いてくださいました。西谷さんには『テロとの戦争』という著作もあり,改訂版も出たりして,すでに,何回も読んですっかり承知しているつもりでいました。

 しかし,昨日(6日)の講義はそうではありませんでした。疲労の極に達しているとおもわれるからだに鞭打つようにして,しだいにスイッチが入り,ボルテージも上がって,しかし,静かな小さな声を絞り出すようにして語りかけてくださいます。完全な西谷ワールドの出現です。つぎからつぎへと話の組み立てがおのずから立ち上がってくるような話術にささえられながら,その思想・哲学的な深みへと,耳を傾ける者の思考を誘ってくださいます。

 後半の話は,とくに,陶酔しながら聞かせていただきました。「ああ,やはり神戸まででかけてきてよかった」としみじみおもいました。こういう冴え渡った知の地平に触れることが,いかに,いまのわたしには良薬であることか,としみじみおもいました。内容については,また,機会を改めて紹介させていただくことにして,とりあえず,すっかり元気を取り戻した,というご報告まで。

 〔追記〕この集中講義のあとの,夕食には,「竹谷庵」なるスペシャル・カフェで「ローフード」のフルコースをご馳走になり,この食事もまた,わたしのからだには最高のプレゼントになったことも,今朝の目覚めのよさによって証明されています。これで,今日(7日)も一日,なんとか元気に過ごせそうです。ありがたいことばかりです。神戸はいいところ。

2015年8月6日木曜日

ようやくエアコンが入りました。これでようやくこの猛暑を無事にやりすごすことができそう・・・・。

 昨日(8月4日)で,猛暑日が観測史上最長の5日連続を記録しました。熱帯夜も同じ。なにせ頼みのエアコンが壊れてしまったので,取り替え工事にきてくれるまでの一週間をどうやりすごすか,ありとあらゆる智恵を駆使して,今日(8月5日)を迎えました。

 昨夜は12時すぎたころから,西風が吹くようになり,部屋のなかを涼しい風が通り抜け,久しぶりに熟睡することができました。その西風が今日の午前中も吹いてくれましたので,まずは快適。午後から,この頼みの西風が南に偏るようになり,部屋のなかは無風状態。仕方がないので,とりあえず,安物の扇風機をまわすことにしました。

 猛暑日の5日間の,昨日の夕刻までは,南風が吹いていて,部屋のなかは扇風機をまわしても,ほとんどサウナ状態。熱風がかき回されるだけの話。必死になって水分を補給し,暇さえあれば横になる,という対策をとりました。とうとう,水分補給も胃腸が拒否しはじめ,困ったことになりました。もういらん,というのです。しかし,背中は汗が運動会をやっています。汗がでなくなったらたいへんです。ですから,なんとかして水分を補給しようとするのですが,水もポカリスエットもコーラもサイダーもジュースもいらないとからだが拒否します。困った,と頭をかかえてしまいました。

 しばらくぼんやりと考えていたら,スイカが食べたい,モモがたべたい,ブドウが食べたいと胃腸が言いはじめました。あっ,そうか,果物で水分を補給しようと気づき,すぐに近くのスーパーに走りました。いずれの果物もシーズンを迎えていますので,比較的安く買えることがわかりました。とりあえず,ひととおり購入してきて,冷蔵庫の野菜室に保管。さあ,大丈夫だ,と一安心。

 この作戦は功を奏し,からだが喜んで受け付けてくれました。ありがたい。でも,一度に食べすぎると,弱っている胃腸が騒ぎだします。だから,その直前でやめなくてはなりません。つまり,ちょびちょびと,少しずつ回数を分けて食べることに。これでなんとか生き継ぐことができそうだ,と目処が立ちました。

 昨夜の電話での約束どおり,午後4時に,エアコンの取り替え工事の業者がやってきました。西日の当たる猛暑の真っ盛りでの工事です。業者は汗だくになって一生懸命,やってくれました。なかなかいい人で,気持よく作業が進みました。たった一人でとりかかって約2時間。休む間もなく働いて,ようやく完了。早速,試運転。いろいろなところをチェックしながら,順調に動くことを確認して,業者は帰りました。

 それからずーっとエアコンをつけていますが,汗もかかない快適温度にセットしてありますので,なによりからだが楽をしています。これで夏バテから脱出できそうです。胃腸のはたらきも回復してくることでしょう。

 ということを見届けた上で,明日(6日)から神戸市外大の西谷修さんの集中講義(途中からですが)を聴講しに行ってきます。退院後,初の遠出です。新幹線のなかはゆっくり休むことができますので,大丈夫だろう,とタカをくくっています。

 取り急ぎ,わたくしごとながら,ご報告まで。

2015年8月5日水曜日

辺野古,一カ月の休戦。政府と沖縄県とが話し合い。いったい,なにが起きたのか。

 突然の政府自民党の方針変更である。あれほど,辺野古の工事は日米合意にもとづき粛々と進める,裁判闘争も辞さない,という強行姿勢を貫いていた政府自民党の,突然の妥協策の提案である。いったいその背景にはなにがあったのだろうか。

 翁長沖縄県知事の方は,辺野古工事認可の取り下げ(第三者委員会の結論)をちらつかせ,かつ,8月下旬には国連人権委員会での演説を控えている。辺野古に関しては,「県外移設」をかかげ,一歩も引かない姿勢を貫いている。アメリカにもでかけロビー活動も展開してきた。日本のメディアはほとんど相手にされなかったと報じたが,じつは,アメリカ議会の要人たちのこころを動かした,という報道がアメリカではなされていたという。

 日本政府が日米合意を楯にして,強引に辺野古新基地建設をすすめていけば,日本政府のみならず,アメリカ政府もまた沖縄県民の民意を無視する人権問題に加担することになり,国際的な批判を受けることになりかねない。それほどに,沖縄県が張りめぐらせてきた外交戦略は,ここにきて徐々に功を奏しているようだ。

 しかも,アメリカにとって沖縄の米軍基地はもはやそれほど重要ではなくなってきている,という観測も聞かれるようになってきた。しかも,沖縄に米軍基地を置くことによって,不必要な緊張を生みだすのはアメリカにとっても百害あって益少なし,とも言われている。ましてや,抑止力としての機能はまったくはたしていない,というのがアメリカの軍事専門家たちの意見である。

 これまでにも,米軍基地を沖縄から引き払うという提案はアメリカ側から複数回にわたって提案されてきた経緯もある。しかし,そのつど,日本政府は沖縄に米軍基地を置くことを「懇願」し,こんにちにいたっている。いまでも,海兵隊はグアムに引き上げたい,というのがアメリカの本音だという。それを「阻止」しているのは「アベ政権」だ。

 いまも,「戦争法案」の審議中に,しばしば,南シナ海や尖閣諸島を引き合いに出して,危機意識を煽り,ここに睨みを効かせているのは米軍基地であり,米軍による抑止力なのだ,と繰り返し答弁している。これもまたアベのでっちあげたご都合主義の演出にすぎない。しかし,野党議員たちのシンク・タンクがお粗末なために,このまやかしを論破することができないでいる。情けないかぎりである。

 なにがなんでも「戦争法案」を押し通そうという折も折,突然,辺野古の工事を一カ月中止して,政府と沖縄県との話し合いをしようという。いったい,なにごとがあったというのか。

尋常一様ではない,なにかが起きている,とみるのが自然だろう。アベ政権がもっとも素直に行動を起こすのは,アメリカ政府の意向だ。これまでのアベ政権の実績がそれを証明している。もうすでに一カ月も前から水面下の交渉はつづいていたという。

 もっとも,アベ政権支持率の低下の歯止めがなかなかうまくいかない。新国立競技場の「白紙撤回」も,「当たり前だ」と受け止められ,さして効果はでていない。そこに,辺野古の1カ月休戦だ。もっとも素直に考えてみれば,政府与党の苦肉の策で,やはり支持率回復が念頭にあるのでは・・・・というのが大方の推測だ。しかし,こんな後手,後手の,とってつけたような対策で支持率が回復できるとおもっているとしたら,なんと甘いことか。

 ここはやはり,アメリカからなんらかの指示があって,それを受けてのアベ政権の方針転換(それが一時的なものであれ)ではないか,というのがわたしの見立てである。

 この一カ月,どのような推移をたどるのか,みものではある。そして,メディアがどのように報道するのかも,みものである。とくとお手並み拝見というところ。

 沖縄県民の期待は否が応でも高まること間違いなしなので,アベ政権が打つ手を間違えると,命取りになりかねない。その他にも,ヒロシマ,ナガサキ,敗戦記念日,という重要なイベントがつづき,政局も重大な局面を迎えている。目覚めた国民の意思表明も次第に熱くなってきている。この夏は,日本国の命運をかけた「関が原」の戦いになるだろう。その意味でも,あだやおろそかに無為の日々を送ってはならない,と気が引き締まる。

2015年8月4日火曜日

猛暑日,熱帯夜のつづくこの時期が東京五輪2020の会期。マラソンは大丈夫か。

 わたしが入院した7月4日は,すでに猛暑がはじまっていたと記憶する。そして,入院中も,連日,猛暑が伝えられていた。退院後(7月18日)は,文字どおりの猛暑日と熱帯夜の連続である。まだまだ,当分の間,この猛暑日と熱帯夜はつづくという。かりに,ことしが特例であったとしても,この縮小版は毎年,繰り返されている。そして,7月末から8月上旬にかけては,間違いなく猛暑日と熱帯夜が襲ってくる。

 こんな,日本の気候のなかでももっとも苛酷な猛暑日と熱帯夜がつづく確率の高いこの時期に,東京五輪2020の会期がぴったり重なっている。だれが,どのような理由でこの時期を会期としたのかは知るよしもないが,あまりに思慮のない選択であったことは間違いない。選手にとっても,応援に駆けつける観衆にとっても,苛酷この上ない。おそらくは,外国からの観光客を集めようという,まさに経済原則が優先されたらしい,というのがもっぱらな噂だ。主客転倒である。

 東京五輪1964のときには,日本の気候のなかでもっともいい時期を,意図的・計画的に選んでいる。開会式は晴れの特異日:10月10日にセットした。スポーツの秋の絶好のシーズンを会期に当てはめているのだ。そして,開会式はもののみごとに晴れ渡り,真っ青な空が広がった。あの,ブルー・インパルスが青空に描いた「五輪」のマークが目にも鮮やかに焼きついている。

 さて,東京五輪2020の開会式は7月26日。ここから2週間。猛暑日と熱帯夜はセットでやってくるだろう。しかも,集中豪雨,雷,突風が襲う,天気が安定しない時期。加えて,台風のシーズンでもある。これらが全部一緒にやってこないとはだれも断言できない。言ってみれば,スポーツの祭典を開催するには「最悪」の時期なのだ。こんなことはだれでもわかることなのに,金の亡者になってしまった組織委員会には常識は通用しない。異次元の世界だから。その結果,外国からの観光客を最優先に考えたらしい。

 一事が万事,この調子である。

 主役がだれであるかを忘れている。

 いったい,この猛暑日の最中に,どうやってマラソン競技を行うのだろうか。そして,この猛暑のなか参加する選手はいるのだろうか。少し良識のある選手なら,出場を辞退するだろう。観客も沿道に並んで応援するだろうか。おそらくは,エアコンの効いた室内でテレビ観戦に走るだろう。わたしならそうする。

 他の競技にしたってたいへんである。いちいち例を挙げるまでもないだろう。なにからなにまで,やることなすこと出鱈目である。その一端が,新国立競技場建設問題となって噴出した。まだまだ,これから難題がつぎつぎに明らかになってくるだろう。はたして,東京五輪を開催することは可能なのだろうか,とわたしは真剣に考えている。

 その理由も山ほどあるが,いつか,そのこともこのブログで書いてみたいとおもう。そして,結論をさきに述べておけば,「東京五輪を返上しよう」だ。そのための条件が整っているとはとても考えられないからだ。その最大の難題は,フクシマだ。アベ君は”under controll”と,世界に向けて嘯いたが,事態はますます悪化の一途をたどっている。あと5年後には,もっとひどい現実を目の当たりにすることは間違いないだろう。

 いまもなお,無責任体制のまま,5年後を迎えようとしている。まずは,ここからしてトンチンカンだ。責任をとる現場の最先端に立つリーダーがいない。

 東京五輪2020の会期を決定したときから,すでに,「トチクルッテイル」としかいいようがない。そして,その延長線上にいまもいる。これが,日本の政治情況もふくめて,ありのままの姿なのだ。絶望するしかない。この隘路から脱出するための「未来志向」型の発想は,国民の側から提示する以外にはなさそうである。SEALDsのように。

2015年8月3日月曜日

SEALDsにつづいて若い母親の会やOLDsが,そしてついに「ティーンズ」(高校生)が立ち上がる。この猛暑のなかを。

 連日のようにわたしのFBには,眼からうろこが落ちるような,新しいスタイルのアベ政権に対する抗議行動の情報が流れてくる。わたしも馳せ参じて,その隊列の末端にでも並びたい。あるいは,なにか手伝いたい。

 そんな気持だけはあるのだが,術後のこの猛暑にはいささか参っている。壊れたエアコンの取り替え工事がくる5日まで,なんとか扇風機で耐えようとしているのだが,おのずからなる限界がある。水分と睡眠だけは十分にとるよう心がけているのだが,体重はどんどん落ちていく。脚筋力も衰えていく。

 これではいけない,とあせりつつ鷺沼の事務所往復をノルマと課しているのだが,こちらも途切れがち。どうやら気持の上で負けているようだ。かといって無理をしてもいけないし・・・とこころは揺れ動く。

 それはともかくとして,いま,連日のように行われている抗議行動に参加できない,いまのわたしのからだが気にくわない。病気というものとはまったく無縁のまま,75歳をすぎ,このままずーっと元気でいられるものと信じていた。しかし,神様はそうはさせてはくれなかった。天誅というやつだ。いい加減にせい,とお叱りをうけてしまった。

 でも,幸いなことになんとか一命をとりとめ,徐々に社会復帰に向かって体調もよくなってきている。が,そこにこの猛暑と熱帯夜だ。明らかに夏バテの兆候がでている。だから,いやでも慎重にならざるをえない。少なくとも,この猛暑が納まり,熱帯夜から解放されるころには,デモに向かう気力も体力ももどってくるものと,その日のくることを楽しみにしている。

 そんな忸怩たる気持をかかえながら,FBから流れてくる「アベ政権 NO!」の抗議行動の輪が,日ごとに勢いをましていることを知り,地団駄を踏んでいる。早く,デモに身をおきたい・・・と。

 山口二郎氏は,かれらのスピーチを聞いていると涙が流れて止まらない,という。わたしはFBに流れてくる情報を読むだけで涙があふれ出てしまう。これまでわたしが承知していたデモとはいささか次元が異なるのだ。かれらのスピーチは,ひととおりの理屈は整然と述べたのちに,最後に,わたしたちの胸にぐさっとくる情緒的な,無垢な心情の表明がある。「嫌なものは嫌なのです!」というような・・・・。ここで喉がぐっとつまり,涙がとめどなく流れはじめる。

 つまり,理性の枠組みをもうひとつ超えた,人間の魂に訴えかける力を,この若者たちは身につけている。理屈など多少どうでもいいのだ。それよりなにより,「アベ政権の暴走は許せない」「我慢できない」「絶対に止めなくては」という覚悟が,わたしたちの胸を打つ。そうだ,止めなくてはいけない,とだれもがそうおもう。この次元をしっかりと把握している若者たちのハートに,わたしたちは完膚無きまでに打ちのめされてしまう。

 これぞほんものの抗議行動だとおもう。だからこそ,一刻も早く,デモの現場に馳せ参じたい。そして,なんでもいい,できることを手伝いたい。とは言っても,最後尾に並んで声をあげるのが精一杯だと承知してはいるのだが・・・・。それでもいい。でかけたい。

 早く収まってほしい,猛暑と熱帯夜。

2015年8月2日日曜日

とうとう民間による武器製造を認め,海外軍事企業買収を認める,というアベ政権。正気の沙汰か。

 とんでもない男を国のリーダーにしてしまったものだ。こんなはずではなかった。税率を延期することを争点にして選挙したはずの男が,すっかりそんなことは忘れてしまって,戦争法案をとおすための選挙であったかのごとき発言をしている。しかも,閣議決定による憲法解釈を変更し,憲法違反の法案を国会に提出し,むりやり議論させ,数の横暴で押し切ろうとしている。

 野党に力がないので,国会での答弁もでたらめであるにもかかわらず,政権の思いのままに牛耳られてしまっている。しかし,「最後の武器は世論」(山口二郎)である。この世論が黙ってはいない。いまや燎原の火のごとく燃え広がった「アベは辞めろ」の抗議行動はとどまるところをしらない。政権支持率も,ついに,不支持率が支持率を凌駕した。アベ政権としては相当にあせっているはずである。そのあせりの表出とおもわれる「暴言」が多くなってきている。

 そんな折も折,こんどは「民間による武器製造を認め,海外軍事企業の買収を認める」という。これまでの自民党政権は,口を揃えて「厳に抑制」してきた「武器輸出三原則」を「解釈変更」で押し切ろうというのだ。しかも,法律の改正もせず,ただ,解釈を変えるだけだ。これは,憲法の解釈を変えるだけで戦争ができる国家に踏み切っていこうという姿勢とまったく同じだ。

 もはや,正気の沙汰ともおもえない。まぎれもない「狂気の沙汰」そのものだ。

 東京新聞が今日(8月2日)の一面トップで大きく報じている。そのつかみの文章だけでも引いておこう。じつにわかりやすいので・・・・。

 政府は,日本企業に課している海外の武器製造企業の買収規制を見直す方針を決めた。関連法の運用指針を現在の「厳に抑制」から「状況に応じ適切に判断」などと変更。法律改正はせず,解釈を変えることで,現在の原則禁止規制を改める。武器輸出を原則認める防衛装備移転三原則を決定したことに伴うもので,見直しにより日本の防衛関連企業の海外進出が可能となる。

 憲法9条もなんのその,民主主義もなんのその,ときの政権の思惑ひとつで「解釈」を変更し,なんでもできる「独裁体制」を着々と固めつつある。

 しかし,こうした政権の独断専行が,国民の大きな不審を呼び,もはや我慢ならないところまで達していることはだれの目にも明らかだ。にもかかわらず,盲目となってしまった独裁党は,脇目もふらず「わが道」を「暴走」する。そして,いずれ国民は「忘れてしまう」とタカをくくっている。

 冗談もいい加減にせよ。圧倒的多数の国民が腹に据えかねている。

 全国各地で抗議活動を展開しているSEALDsの若者たちは「本気」だ。こんなことが許されてたまるか,とこころの声を挙げている。この「本気」度に触発されるようにして,その輪は一気にひろまっている。党派を超越して,「戦争は嫌だ,自由と民主主義を守る」,このことに賛同する人は参加を,と呼びかける。

 これから,ヒロシマ,ナガサキ,敗戦記念日,といった戦争がらみの大きな行事が目白押しである。すでに,アベ政権退陣への「潮目」は変わった。あとは,実力でその力をみせつけるだけだ。「最後の武器は世論だ」(山口二郎)の短いエッセイも,今日の東京新聞に掲載されている。SEALDsの若者たちのスピーチを聞きながら「涙する」山口さんのハートこそが,多くの人たちと若者たちとが連帯していく源泉なのだろうとおもう。

 変な理屈はいらない。立憲デモクラシーをきちんと守って政治をやってほしい,それだけでいい。どうしてもアベ君がやりたいのなら,「憲法改正」を争点にして選挙をやり,堂々と正面突破していけばいい。その自信がないから,姑息な手を用いる。その姑息さが,もはや鼻について我慢ならない。

 その姑息さの最終仕上げが,こんどの「民間による武器製造」であり,「海外軍事企業買収」を認めるという解釈変更だ。もはや,国民の怒りも臨界点に達している。これがアベ政権の命取りとなり,幕引きに向けて国民の意気はますます軒昂となる。

 公明党はいつまで,戦後最悪の自民党政権と手を結んでいるのか。いまからでも遅くはない。一念発起して,自民党と袂を分かち,党是である「戦争反対」を前面に打ち出して,いまこそ「闘う」ときではないのか。