2010年11月30日火曜日

4泊5日の旅からもどってきました。

 久しぶりに長い旅をし,そこからもどってきました。
 この旅の期間中,初日だけ,夜の部が予想外に延長しましたが,あとの日の夜をきちんと眠りましたので,いまは元気いっぱい。明日からいつもの日常にもどることができそうです。
 そのご報告を兼ねて。その内容の概要は以下のとおりです。

 11月26日(金)・名古屋。椙山女学園大学で特別講義。テーマは「ふたつの身体を生きるわたしたち」──動物性の身体と人間性の身体の間(はざま)で揺れる「生」の表出=「スポーツする身体」。90分。
 昨年,この特別講義で失敗したという反省に立ち,二度と同じ失敗はしない,とみずからに言い聞かせて臨んだ講義です。それでも,最初は,かえって緊張してしまって固い話になってしまい,これではいけない,と途中で何回も気持ちを切り換えたりしながら,必死でした。後半に入って,それも,終わりに近づいてようやくゴールに向けての落しどころがみえてきて,ちょっとばかり安心。最後の5分ほどは,かなり濃縮したいい結論に持ち込めたのでは・・・とほんの少し安堵。
 この結果については,学生さんたちから,どんな感想がでてくることか,心配と期待が半々。
 椙山女学園大学の学生さん以外にも,他大学の学生さんが聴講にきてくれたことが,今回のなんともありがたいことでした。それから,大学の先生方も何人か聴講してくださり,その分,緊張しましたが,わたしの話をしっかりと受け止めてくださったようで(終わった直後にお話をうかがいました),ほっと胸をなでおろしています。

 11月27日(土)・奈良の大和郡山に移動。第24回スポーツ史学会大会。第一日。一般研究発表とシンポジウム。懇親会。
 シンポジウム「社会史以後のスポーツ史研究」──英国スポーツに見る<伝統>と<近代>,を楽しみにして多くの人が集まったようにおもう。久しぶりに見慣れない人の顔が多く,さすがに川島昭夫先生(京都大学教授)の集客力のすごさを感じた。その期待に応えるかのように,「アンティクアリニズムとスポーツ」──ジョゼフ・ストラットJoseph Strutt(1749?──1802年)と『イギリス国民のスポーツと娯楽』,という川島先生のお話は充実したものであった。わたし自身も,これまでに抱いていたStrutt像を一変させられた。わたしなどは,ごく単純に百科事典的な本である,と勝手に解釈して,そこで取り扱われている内容に奇異な興味をいだいていたものである。しかし,それはまったくの間違いで,なによりもまずは,「アンティクァリ」としてストラットを受け止めなくてはならない,ということを教えていただいた。そして,そういうことであれば,わたしの抱いていた奇異な感じもみごとに解消されてしまう。それほどに鮮やかな視点の提示であった。わたしたちスポーツ史研究にたずさわるものの欠落している,イギリス史の専門家の知見は,とてもありがたいことである。川島先生にはこころから感謝したい。
 しかし,問題は,そのあとだ。お二人のパネリストのお話が,それぞれ個別に独立していて,シンポジウムになっていかない。お互いの接点がどこにも見当たらないのである。これは今後の課題として,真剣に考えるべき事態である,とわたしは考えている。この問題はいずれきちんと語ってみたいとおもう。
 懇親会では,久しぶりに川島先生とお話するごとができて,幸せだった。しかし,これから話が佳境に入るというところで,わたしたちの間に割って入ってきた会員がいて,不幸なことに話は中断してしまった。少し掘り下げたお話がしたかっただけに残念の極み。また,いつか,川島先生と,こんごのスポーツ史研究のあり方などもふくめて,お話できる機会をつくりたいものだとしみじみおもった次第。

 11月28日(日)・奈良・大和郡山。第24回スポーツ史学会大会・第二日。一般研究発表と総会。
 今回はわたしとしては珍しくまじめに一般研究発表を聞かせていただいた。だから,個別にきちんとしたコメントをつけたいところではあるが,割愛する。理由は,あまりに膨大なブログになってしまうから。ひとことだけ述べておけば,それぞれの歴史事象を切り取り,それを解釈していく上での「方法論」(とりわけ,思想・哲学的なバックグラウンドに支えられた方法論)に磨きをかけていかないと,単なるお話に終わってしまう,ということだ。

 11月29日(月)・横浜。東京八時会(高校時代の同期会)。第一日。よこはま・みなとみらい周辺を散策。横浜中華街の中華レストランで懇親会。
 こちらは,ごく個人的な会合のお話なので,省略。

 11月30日(火)・東京八時会・第二日。逗子・漆工房見学。昼食・解散。
 同上の理由により,省略。

 さて,明日からははや12月。もう,師走。「困ったことにとちょとなりにけりやがな」というアチャコの名セリフが脳裏をかすめていく。そんなことを言っていてもはじまらない。一つひとつ,目の前の仕事を片づけていくしかない。いよいよ勝負の月となる。その覚悟で臨むのみ。
 と,まずはみずからを叱咤激励して,11月最後の今日のブログはおしまい。

2010年11月25日木曜日

山田詠美の『タイニー・ストーリーズ』を読む。

 わたしの大好きな「エイミー」(Amy)こと山田詠美の短編集『タイニー・ストーリーズ』(文藝春秋)が刊行された。わたしは,ずっと,これまで身体論としてエイミーの小説を読んできた。そして,それはいまも間違ってはいなかったと確信している。
 『ひざまづいて足をお舐め』が最初の出合いだっただけに,その衝撃は大きかった。つづいて,デヴュー作『ベッドタイムアイズ』を読むことになり,その新鮮な感覚に驚いたものだ。それ以後,書く度に話題作を生み出すエイミーちゃんから眼が離せなくなった。いまでも,この作家はどこまで化けていくのだろうか,と意識させられた作品『トラッシュ』(女流文学賞)が鮮明に印象に残っている。何回でも読み返したくなる小説の一つだ。そして,読むたびに新しい発見がある。10年に一度,読め,と言われる漱石の『我輩は猫である』のように,エイミーちゃんの傑作である。また,しばらくしたら読んでみたいとおもう。
 この人はいったいどれだけの賞をもらったのだろうか,とおもうほどたくさんの賞をもらっている。数えてみたら,文藝賞を振り出しに,直木賞,平林たい子文学賞,女流文学賞,泉鏡花賞,読売文学賞,谷崎賞,とつづく。逃がしたのは,芥川賞だけで,その他の賞は総なめするのではないかとおもうほどだ。
 断わっておくが,賞をたくさんもらうから偉い,というつもりは毛頭ない。わたしが注目するのは,山田詠美という作家は,自分の殻を壊しては構築し,また,壊しては構築する,という具合につねに「脱構築」しながら,新しい自分の可能性にチャレンジしていく,その姿勢にある。要するに「差異のある反復」をくり返していく。ご本人はそれが面白くてたまらないから小説を書くのだと嘯いている。だから,賞が向こうから勝手にやってくる,とも。でも,ご本人はそんなことはどうでもよくて,新しい自分の可能性を切り開きながら,絶えず,生まれ変わっていくことが面白くて仕方がないのだろう。いつだったか,「人間であることを捨てて,猫の目で身のまわりを見回してごらん,まったく新しい世界がみえてくるよ」と書いたことがある。「人間の理性なるものが,どれほど人間の目を曇らせてしまっているか,すぐにわかるよ」とも書いた。もちろん,ここでいう「理性」が近代合理主義にもとづくものであることは言うまでもない。だから,わたしの感性ともごく自然に波長が合う。エイミーちゃんが,まだまだ,これから,どんな化け方をするか,楽しみではある。
 ちょうど,三井さんの書評が載った『週刊読書人』(11月19日号)の一面トップの特集が,「山田詠美氏ロングインタビュー」(聞き手=可能涼介氏)であった。「デビュー25周年,『タイニーストーリーズ』(文藝春秋)の刊行を機に」とあり,大見出しには「言葉が世界を変える」という文字が踊っている。一面と二面を全部埋めてしまう,文字どおりの「ロングインタビュー」である。聞き手のつっこみもよく,エイミーちゃんが心地よさそうに応答しているのがつたわってくる。こんな話を読んでいると,どうしてもこの新作を読まなくてはいられなくなってしまう。当然のことながら,エイミーちゃんは,この新作でも新たな短編小説の可能性への挑戦を試みているからだ。
 で,早速,その本を手に入れて読みはじめた。もう,止まらない。すべての仕事をなげうって,夢中になって読んでいる。そこはかとない快感がやってくるからたまらない。至福のひとときである。締め切りのきている原稿があるというのに・・・・。近々,特別講義をやらなくてはならないというのに・・・・。学会も近づいているというのに・・・・。そんな「理性」はいまはいらない。荒川修作ではないが,そんなものにとらわれていたら「死んでしまう」。「死なないために」は「猫の目」になって周囲を見回し,のみならず,持ち合わせている五感のすべての感覚をフル回転させること,そこが「死なない場所」であり,そこに「実在」をみる。それが荒川修作の世界だ。あっ,いけない,いつのまにか,エイミーちゃんと修作ちゃんが合体してしまっている。
 『タイニー・ストーリーズ』を読み進めていくと,「クリトリスにバターを」,というびっくり仰天するようなタイトルの短編が終わりの方にでてくる。エイミーちゃんはなんということを・・・と恐るおそる読みはじめる。なんと,さわやかな短編であることか。こころが洗われるおもいだ。読み終えると,なんという清潔さか,と二度目のびっくり。このタイトルは,村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』の,初案のタイトルだったとか。それを村上龍から譲り受けて,自分の短編に仕立てあげたのだ,とわざわざ注がつけてある。
 「GIと遊んだ話」というタイトルの5部作もまた,不思議な小説世界を展開している。男と女の話であり,どこにでもありそうな話でありながら,じつは,その影に「戦争」の問題が微妙にからみついている。ごく日常レベルの生活感情と「戦争」とが,抜き去りがたく絡み合っていることを,そこはかとなく気づかせてしまう,みごとな仕掛けになっている。それでいて爽快なのである。そこがエイミーちゃんの不思議な技だ。柔道でいえば,一本ほど強烈ではないが,エイミーの技あり,というところ。このほどほどさ加減がいい。
 大上段に振りかぶって「戦争とはなにか」と問うことはやさしい。それに応答することもやさしい。しかし,一見したところ,戦争とはなんの関係もないとおもわれる,ごくごく日常性の中に,こっそりと戦争のロジックがひそんでいる。このことに,わたしたちはあまりにも無自覚ではなかろうか。戦争反対はだれも異存はない。しかし,日常性のなかにひそんでいる戦争支持につながる行為には,ほとんど無自覚になっている。しかし,この無自覚の集合体こそが戦争を合理化する母体になっていることを,エイミーちゃんは,「猫の眼」になって描き出す。明るみだけを追いかける近代的理性だけでは遠くおよばない,夜の暗闇を透視することのできる「猫の眼」を,「猫のまなざし」を取り戻せ,と絶叫しているようにも読み取れる。
 なぜ,こんなことを書くのか。いわずとしれたスポーツのロジックと戦争のロジックとの近親性にもっともっと注意を払うべきではないか,とエイミーちゃんに言われているようにおもうからだ。わたしたちがスポーツ分野の世界を眺める「まなざし」は,「猫の眼」からはほど遠く,近代的理性のロジックの奴隷になりさがってしまっている,このことを強く意識させられるからだ。
 わたしがエイミーちゃんの小説は「身体論」だと主張する根拠の一つがこれだ。
 こんど時間がみつかったら,『快楽の動詞』(文春文庫)を読み返してみよう。「なぜ女は『いく』『死ぬ』なんて口走るのか?」「奔放きわまる文章で綴る深遠にして軽妙なクリティーク小説集」というキャッチ・コピーに素直にしたがって。なんたって,「クリティーク小説」なんだから。エイミーちゃんが骨身を削るようにして,これ以上うしろがないエッジに立って小説と格闘する,その姿にエネルギーをいただくために。
 「クリトリスにバターを」のさわやかさを,もう一度。
 

2010年11月23日火曜日

藤永茂の『トーマス・クーン解体新書』について

 『アメリカ・インディアン悲史』という,おそらく藤永茂さんの最初の著作であろうとおもわれる名著に接して,わたしのアメリカという国家をみる眼が変わったことを,つい昨日のように思い出す。その藤永さんのブログ(「わたしの闇の奥」)は注目に値する,と教えてくれたのは西谷さんであった。以後,折にふれ,藤永さんのブログは覗いてみることにしている。
 そんな中で,つい最近,『トーマス・クーン解体新書』(仮題)という本の構想と,その「まえがき」が掲載された。つまり,本にする予定の原稿をそのままブログの中で公表しているのである。わたしは,二つの点で,驚いた。
 一つは,「トーマス・クーン」批判を真っ正面から展開しようというその志の高さである。
 もう一つは,出版予定の本の原稿を,そのままブログとして公表する,という姿勢の潔さである。
 前者については,2008年に,すでに英文で『Undoing the Structure of Science Revolution 』という草稿を書き上げていて,それをシカゴ大学出版部に送ったが,刊行してくれなかったので,さらに,内容を推敲して日本語で『トーマス・クーン解体新書』(仮題)として刊行しようと考え,その草稿を公表しようというのである。日本では,訳者の中山茂さん(『科学革命の構造』みすず書房)をはじめ,野家啓一さんなども加わって,トーマス・クーン礼賛がなされたことを,わたしのような人間でも記憶している。そして,これだけ話題になり,絶賛され,批判らしい批判を眼にすることもなかったので(ひとえに,わたしの管見にすぎないのかもしれない),まことに都合のいい自己弁護のための隠れ蓑として「トーマス・クーン」という名前を借用してきた。のみならず,「科学革命」ということばと一緒に「パラダイム・シフト」ということばも大いに利用させていただいた。
 しかし,藤永さんは,化学者としての立場に立ち,トーマス・クーンの著作を徹底的に読み込んで,その問題の所在に気づく。そして,学問的な議論を立ち上げて,トーマス・クーンの学説に対して,はっきりと決着をつけるべきだ,と主張される。このまま,なんとなく「トーマス・クーン」現象を見過ごしておくことは,科学的な学問の発展のためにも非生産的である,と。つまり,どこに間違いがあったのかを明確にしておくべきではないか,と。
 第二点は,草稿の公表の問題である。すでに,英文で書き上げてあるので,それを日本語としての精度を高めるだけだと言ってしまえば,それだけのことである。しかし,わたしが注目するのは,ブログという形式で,折角の草稿を惜しげもなく公表するという,その潔さである。もはや,そういう時代になったのか,というのがわたしの偽らざる印象である。つまり,インターネット時代の本の書き方の一つのひな型になるのではないか,と。
 これまで,学術論文や評論・エッセイもふくめ,学術的な新知見に類するものはひたすら秘匿され,きちんとした出版物として初めて公表される,というのが一般的であった。あるいは,ある特定の雑誌などに,少しずつ連載というかたちで公表するのが一般的であった。しかし,藤永さんは,一気に個人的なブログという形式で「トーマス・クーン批判」を,それも刊行を前提にして,公表してしまおうというのである。わたしは眼からうろこの落ちるおもいで,この藤永さんのブログに注目している。こんご,どのような展開になっていくのか,楽しみでもある。
 と同時に,わたしもまた,いま考えているとっておきのアイディアを,書名も決めて(仮題として),刊行する予定の草稿である,と高らかに宣言して書きつなぐ,ということを試みてみようかとおもう。つまり,著作権の問題がちらりと脳裏をかすめるわけだが,しかし,よく考えてみれば,ブログには書かれた日付が歴然として残る。ということは,さきに公表してしまった方が,アイディアの盗作予防には逆に役立つという次第である。と同時に,そのくらいに自分自身を追い込んでいかないと,原稿というものは書けないという裏事情が,これはわたしだけの事情かもしれないが,ある。
 藤永さんの,時代の先取り的なこのスタンスのとり方に,わたしは大いに啓発されるところがあった。さすがは『インディアン悲史』の著者だけのことはある,としみじみおもう。
 アメリカという国家が触れてほしくない最大の恥部を,蜂の一刺しのごとく,ピンポイントで言い当てた名著である。その著者は,いまも健在そのものであることを知って,わがごとのように嬉しい。こんごも藤永さんのブログには注目していきたい。

2010年11月22日月曜日

プリンターのセッティングに大苦戦。

 無線LANでつないでいるパソコンに,新しくプリンターを接続しようと挑戦。マニュアルどおりに,順調に作業は進み,あと一つというところでつまづいてしまった。
 原因は無線LANをつないでいるルーターにあった。もちろん,わたしの知識やテクニックではどうにもならず,NTTの「リモートサポート」のお世話になった。これがまた,わたしには驚くべき発見・経験であった。
 NTTのオペレーターが,わたしのパソコンの中に入ってきて,つぎつぎに,それも猛烈なスピードで,わたしのパソコンの基本設定をチェックしていくのだ。もちろん,プリンターを接続するために必要な部分に限定して・・・というオペレーターからの申し出に応じてのものであるが・・・。
 それにしても,電話一本で,オペレーターの指示にしたがってキーを操作するだけで,「はい,これで稲垣さまのパソコンとNTTのパソコンとが接続されました。いまから,基本設定のチェックをさせていただきます。よろしいでしょうか」「はい」というが早いか,わたしのパソコンの画面が面白いように踊りをはじめた。パソコンの画面がこんなにいろいろの顔をもっていることを初めて知った。わずか,2,3分であったとおもうが,パソコンなるものの,たったこれだけの器でしかないものの中に内蔵されている,わたしにとってはまったくの未知の世界を案内してもらった気分である。でも,どこに連れていかれたのかまったくわからないままに・・・。
 そして,返ってきたことばは「ルーターの設定に問題がみつかりました。なにか特殊な使い方をしていますか」とのこと。「いいえ」「では,ごくふつうの設定にしていいですか」「はい,よろしくお願いします」。この数秒後には「はい,これでこのあとはマニュアルどおりの操作でつながるはずですのでお試しください」とのこと。しかも,「アクセスポイントとネットワークキーはメモにして残してありますので,それをお使いください」と。これで電話は切れるのかとおもったら,「なにか問題があるといけませんので,つながるまで,このままお待ちします」という。おそらく,わたしが頓珍漢なことをしでかしはしないかという老婆心からなのだろう。なんと親切,と感動。
 こうなれば安心して作業にとりかかれる。でも,マニュアルに残された操作は二つだけだった。あっという間に接続完了。「つながりました」と喜び勇んで電話に報告。「おめでとうございます」と,あとは営業上のご挨拶があって,「これからも,なにか問題があるようでしたら,いつでもご連絡ください」と,とても親切。
 パソコンは,ある接続をすると遠隔操作ができる,ということはかなり以前に親しくしている富士通のSEさんが教えてくれたことがある。でも,それは,よほどのことがないかぎりやってはいけないルールになっている,と。ただし,会社や大学などのLANシステムの管理者などは,その内部の管理上の必要に応じてチェックをすることは可能だ,と。そして,大学などの学内LANを通過するメールには気をつけた方がいい,とも教えてくれた。
 もっとも,パソコンに少しでも精通している人にとっては,こんなことは常識なのだろう。でも,わたしのようなパソコンは,インターネットとメールと原稿を書く道具としてしか考えていない人間にとっては,恐るべき経験であった。これから少し勉強しなくてはいけない,と猛烈に反省。
 メカはあまり得意ではない,という理由でパソコンのテクニックについては忌避してきた。しかし,パソコンのさまざまな機能がここまで,つまり,社会生活の内部にまで浸透してくるとなれば,そんなことは言ってはいられない。ただ,生きていく上で不便であるという単純な理由ばかりではなく,これを積極的に活用した方が,これからの老後の生活を充実させる上でどれほど役に立つかわからない,という切実な利便性がわかってきたから,なおさらのことである。
 たとえば,個人で発行するウェブ・マガジンなども,いつか実現させてみたいとおもっている。いまは手も足も出せないので,だれかやってくれないかなぁ,と他人に頼っている。それでは埒があかない。やはり,自分でやるしかない。だから,自分のウェブ・マガジンを,自力で自由自在にレイアウトできるようになったら,さぞかし楽しかろうとおもう。道楽としても,多少,他人さまにご迷惑をおかけすることになるかもしれないが,まあまあ許される範囲ではないか,とおもう。
 いまでさえ,年々,孤独になりつつあるのだから,これからはますます孤独になっていくことは間違いない。もっと大勢の人たちと,できることなら<じか>に交流できる場を,自分で確保しなくてはいけない,と最近とみにおもう。そのための,まずは,前段階の方法の一つとして個人発行の「ウェブ・マガジン」がある,と夢見ている。
 さあ,これからパソコンのテクニックを身につけよう。そうして,これからの時代をよりエンジョイできるようになりたいものだ。
 NTTのリモートサポートをしてくれたオペレーターさんほどのテクニックはともかくとして,自分の道楽を実現できる程度には,なんとしても到達したいとおもう。そんな気持ちにさせてくれた,オペレーターさんにこころから感謝である。

2010年11月20日土曜日

三井悦子さんの書評『レッスンする人』が素晴らしい。

 書評するということは,じつは,とても恐ろしいことなのだ。なぜなら,書評をするこちら側がいやおうなく丸裸にされてしまう営みだから。そこに果敢に挑んだ三井さんに拍手を送りたい。
 毎週金曜日に発行される「週刊読書人」の最新号(11月19日号)に,三井悦子さんの書評『レッスンする人』語り下ろし自伝(竹内敏晴著,藤原書店)が掲載されている。「波乱万丈の前半生」「思想がいかにして形成されてきたか」という小見出しがついている。
 でまあ,内輪の話でもあるので,ざっくばらんに感じたことを書かせてもらおう。
 三井さんが化けた。それも,まことにみごとな大化けである。もうすぐ化けるよ,とわたしは予言者のように三井さんに声をかけてきた。じつは,もう少し早いだろうとおもっていたが,意外に時間がかかった。しかし,早めに器用に小化けして定着してしまうよりは,不器用に「わからへん」「わからへん」といいながらあちこち試行錯誤しながら悩み苦しんだ結果の「大化け」の方がずっといい。今回,この竹内敏晴さんの絶筆ともいうべき本の書評を書く,というどうしても避けてとおることのできない,しかも絶好のチャンスと真っ正面から向き合うことをとおして,三井さんは一気に化けた。
 わたしの勝手な推測では,三井さんの中で,すべての条件が整って,つまり満を持して,もうこれ以上は詰め込めないという飽和状態から,あるいは臨界状態に達したところから,一気にことばがあふれでるようにしてこの書評が書かれた,というようにみえる。しかも,竹内さんに対して一歩も引いてはいない。だから,ことばに無駄もないし,隙もな。しかも躍動している。リズムがいい。三井さんの,こころの奥底に長い時間をかけて醸成し,沈殿してきた,竹内敏晴に寄せる,ある種の錯綜した心情のときめきのようなものが伝わってくる。なにかがふっきれたのだろう,とおもう。
 もう少しだけ,内輪の話を書かせてもらおう。
 じつは,三井さんの今回の書評には前段がある。
 10月23日(土)の午後に開催された第45回「ISC・21」10月名古屋例会の折に,三井さんは下書きとなる書評をすでに書き上げていて,それを提示して参加者に意見を求めた。やや緊張感がただよっていたが,そのうちに,みんなでいろいろ智慧を出し合って,それぞれに意見を述べあうというとてもいい雰囲気になってきたので,わたしもいくつか意見というか,注文をつけた。それは以下のようなことであった,と記憶する。
 「竹内レッスン」を受講し,その内容を熟知している人びとにとっては,この書評(当日,配布された草稿)はとても読みごたえがあっていいかも知れない。しかし,それは,いわゆる<内部>に向けての書評であって,「週刊読書人」を愛読するような一般の読者向きではないようにおもう。できることなら,<内部>を熟知しつつ<外部>に開かれた書評を,わたしとしては期待したい。それは,言い方を変えれば,竹内さんの手の内にあって<内部>で書評をするのではなくて,その<外>にとびだして,ある程度,竹内敏晴という人・実践・思想とを客観視し,対象化することによって,真っ正面から竹内さんと向き合うことを意味する。三井さんには,ぜひとも,これを実践してほしい,と。そして,三井さんでなければ書けない書評をやってほしい,と。
 このとき,初めて「<じか>に触れる」という事態が起こる,とわたしは考える。このとき,初めて月並みな「書評」からとびだして,一対一のがちんこ勝負の「批評」に向うことが可能となる,と。しかも,これこそが竹内さんのいう「レッスン」だったのではないか,と。竹内さんは,どんなときにも高みからものを言うことはしなかった。いつも,水平目線で相手をしっかりと見据え,その相手と自己との間に起こる「<じか>に触れる」という事態を探し求めていたように,わたしは考える,と。しかも,そこに「実在」をみていたのではないか,と。
 だから,『レッスンする人』とは,教え・指導する人という意味ではなく,つねに,自分自身を可能なかぎり剥き出しにしつつ「<じか>に触れる」経験,つまり,「実在」の場を求める人のことを意味しているのではないだろうか,と。
 こんな,きわめて抽象的なことを言ったように記憶する。にもかかわらず,三井さんは,わたしの言説にもみごとに反応してくれ,わたしの予想をはるかに超える「跳躍」をしてくれた。それが,わたしのいう「大化け」である。別の言い方をすれば,三井さんは,竹内敏晴というある種の「呪縛」から解き放たれて,<外>から全体重をかけて,ぎりぎりのエッジに立って「批評」を展開することのできるスタンスを確保した,ということになろうか。
 こうなれば,あとは,いかなる批判も恐れることなく我が道を行くのみである。いよいよこれからの三井さんは楽しみである。水の中に水があるように,あるいは,空気の中に溶け込むように,わが身をあずけて(「無」にして),そこに映し出されてくる世界を楽しめばいい。
 「笑わざれば以て道をなすに足りず」の境地に立って。
 三井さん,おめでとう。
 これから,もっともっと,化けましょう。
 わたしも,三井さんに倣って,もっともっと化けてみたいとおもいます。

2010年11月19日金曜日

比嘉豊光・西谷修編『骨の戦世』(岩波ブックレット)を読む。

 最新刊のフォト・ドキュメント『骨の戦世(イクサユ)』65年目の沖縄戦,比嘉豊光・西谷修編,岩波ブックレットを,西谷さんからいただいた。早速,読んでみた。
 すでに,このブログでも比嘉豊光さんの「骨の戦世」に関する写真展やシンポジウムについてはかなりのことまで書いているので,重複する部分は避けて,岩波ブックレットとして刊行された本についての感想を述べておきたい。
 まずは,本の帯に記されたコピーから。
 「沖縄の地にいまも埋もれているもの,それは戦死者の骨と不発弾」
 「再開発が進む沖縄の激戦地跡から次々と発見される日本兵の遺骨は,何を問いかけるのか。その一体の頭蓋骨から,ミイラ化した脳髄が転がり出た──。65年目の骨の告発。」
 「執筆者:比嘉豊光,西谷修,仲里効,新城和博,宮城晴美,北村毅,小森陽一」
 いまのわたしには,とてつもない強度とともに,これらの文字が飛び込んでくる。この数カ月の間に,比嘉豊光さんの「骨の戦世」の展覧会をめぐる話題が,その強烈な批判もふくめて,繰り返しわたしの身辺に押し寄せていたからだ。わたしも可能なかぎり考え,それらの写真はもとより,関連の論考も読み返したりしてきた。それでも,生来の感度の悪さもあって,いま一つ焦点の定まらないところがあった。しかし,このブックレットを一読して,自分なりの考えがすっきりとしたようにおもう。コンパクトな冊子ながら(あるいは,コンパクトだからこそ,というべきか),そこに籠められたインパクトは相当なものである。これまでバラバラに入ってきた「骨の戦世」に関する情報が,このブックレットで整理されたことによって,より一層インパクトを増したということなのだろう。その意味で,ブックレットとしての役割を十全にはたしているようにおもう。
 31ページにわたる写真には,ひとことも説明はない。それがかえって不気味でもある。すでに,写真展などである程度見慣れているわたしにも(それらの写真には,かんたんなキャプションがついていた),あらためて,これまでの印象とは異なる想像力を煽り立ててくる。それが,また,どうしてなのか,わたし自身にもわからない。深く考えれば考えるほど,これらの写真が「動きはじめる」のだ。見なおすたびに,骨たちの表情が変化する。明らかに,見る者の意識の変化とともに骨たちの発信する情報が,いかようにも変化していく。
 見る者,すなわち,わたしの意識を変化させるもの,それはこの豪華な執筆陣による論考のなかに仕掛けられている。
 まず,巻頭を飾る仲里論文が,衝撃的である。そして,中締め的な展望の広がりを西谷論文が請け負い,最後の落しどころを小森論文がみごとに引き受けている。これらの論考の骨格ががっしりしているために,読む者をして逃れようのない位置に立たしめ,しかも,こころの底からゆさぶりをかけてくる。その証拠に,これらの人々の論考を一つ読むたびに,写真をめくり直してみるとよい。そのたびに写真は,まったくあらたな顔を魅せはじめる。写真の威力というほかはない。
 仲里論文と西谷論文は,すでに,雑誌『世界』に掲載されたものの再録なのだが,こうして一冊の単行本のなかに収められると,また,一段と輝きを増してくるのだから不思議だ。そこに小森論文が加わることによって,相乗作用どころか,オーケストラが奏でるシンフォニーのように,交互に主旋律を奏で,その間に割って入るかのように,新城,宮城,北村論文が旋律の不足を補いつつ響き合い,お互いを補完し合って,みごとな「音」を創り出している。
 岩波ブックレットには,時折,これは・・・というすごいものがあって,いままでにも何回か驚かされたことがある。今回のこの『骨の戦世』もまた,まぎれもなく,名著として多くの人々の記憶に残るだろう。それほどにコンパクトでインパクトが強い。沖縄で展開された「戦争」がどのようなものであったのか,手っとり早く知るには,これほどよくできたテクストはないだろう。
 沖縄の激戦を生き延びた人々の子孫であるウチナンチュが,65年ぶりに日の目をみることになった旧日本兵の遺骨をみる眼は,わたしたちヤマトンチュとはまるで違う。今回の遺骨は,ウチナンチュの先祖の墓のなかから掘り出されたものだ。しかも,立派な石組みのある相当に大きな空間をもつ墓から見つかっている。
 これまでに収録された,あの激戦を生き延びたウチナンチュの証言によれば,戦闘が激しくなってきてお墓の中に逃げ込んだ(沖縄の典型的な墓は亀甲墓といって,大勢の親族の人々が集まって中に入れるほどの空間がある)ウチナンチュの多くは友軍である旧日本兵に追い出され,銃弾や爆撃の中を逃げまどいながら,倒れていったという。そして,ウチナンチュを追い出したあと,その墓の中に立て籠もったのは旧日本兵だ,という。だから,今回,見つかった遺骨も,ひょっとしたらそういう日本兵だったかもしれない。墓の中にいたからこそ,日の目をみることができた。
 しかし,その一方で,戦争の犠牲者となったウチナンチュの遺骨はほとんど見つけることができないままになっている。浜辺を逃げまどって行方不明になってしまったウチナンチュの遺族は,珊瑚のかけらを遺骨代わりにして祀ったという(仲里論文)。あるいは,広大な敷地を占めている米軍基地の土中に埋まったままの人も,相当の数になると言われている。そこは,発掘することすら許されないまま,65年が経過しているのである。
 こういう事例を一つひとつ思い起こしながら考えていくと,この旧日本兵の遺骨は,沖縄戦がなにであったのかを想起させるだけではなく,さらに,この65年の間に沖縄がどのような歴史を刻んできたのか,そして,その背景にはなにがあったのか,といったきわめて複雑な記憶・記録までをも呼び覚ましながら,執拗にわたしたちの眼に食い入ってくる。いや,わたしたちの方が骸骨となった眼窩の奥底から見つめられてしまう(小森論文)。
 沖縄の戦後はいまも終わってはいない。いま,まさに,基地移転をめぐる「日米合意」に対して,沖縄県民が総意を結集して,それに「NO」をつきつけ,独自の道を選択するという重大な局面を迎えようとしている。ヤマトンチュのひとりとして,ウチナンチュの人びとに恥ずかしくない「覚悟」と「行動」が求められている。そのための一助としても,このブックレットのもつ意義は大きいとおもう。久々の画期(活気)である。ぜひ,ご一読をお薦めしたい。

2010年11月17日水曜日

観阿弥・世阿弥は時宗の阿弥衆だった。徳川家康の祖先も阿弥衆だった。その2.

 まず,「阿弥衆」を調べてみた。そこにはつぎのようなことがらが書かれている。少し長いが,精確を期すために全体を引用しておく。
 「中世から近世初頭にかけて,時宗教団に客寮衆(客寮とも)というのが従属していた。僧俗の中間的存在で,剃髪法衣の姿は僧に似て,妻子を養い諸芸に従事するところは俗である。時宗では男性は僧俗ともに<阿弥陀仏>の阿弥陀仏号を称し,省略して<何阿>(阿号)を用いる。これに対して客寮は<何阿弥>(阿弥号)と呼ばれた。僧は決して阿弥号を用いない。客寮は,南北朝時代に敗残者や世間のあぶれ者が教団の保護を求めたのにはじまる。衆僧の給仕や雑用を勤めた。また鉦(かね)を打ち和讃念仏を称(とな)えながら家々をまわり,信施を受けて世を渡った客寮が鉦打ち聖(ひじり)である。妻子を養うために農耕や商い・諸芸に従事するものもあった。彼等は時宗寺院の内あるいはその周辺に住み,藤沢の客寮,七条の客寮などと呼ばれ,身分的には僧尼同様に諸役・諸税が免除されたので,室町時代にはその数はかなり多かったと考えられる。京都の寺院所属の客寮衆の中には,将軍や大名に仕え同朋(どうぼう)衆となり,芸能の達者も現れた。茶の能阿弥,花道の台阿弥,作庭の善阿弥・相阿弥,能の観阿弥など,いわゆる阿弥号を称する人々は,時宗の僧と考えられているが,実は客寮衆もしくはその子や孫とみるべきであろう。」
 以上のように,能の観阿弥・世阿弥親子も,じつは,時宗教団に従属する客寮衆であったことが明らかとなる。つまり,その出自は南北朝時代の戦の敗残者や世間のあぶれ者であったというわけである。
 世阿弥の父親の観阿弥については,山田猿楽美濃大夫の養子の三男で,長兄が宝生大夫であるということまではわかっているが,さて,その「養子」がどういう人であったかは不明である。しかも,その養子の長子が宝生大夫であり,三男が観阿弥として活躍したことを考えれば,その父親の出自がわからないはずはない。しかし,それもわからないとなると,観阿弥の父親という人はどういう人であったのか,ということが大きな疑問となってくる。しかも,観阿弥は山田猿楽美濃大夫の一座からも離れ,大和猿楽結崎座に所属して活動をしている。なにゆえに,このような行動をとり,しかも,観阿弥を名乗ったのか。すなわち,時宗教団に身を寄せなくてはならなかった理由はなにか,ということである。
 いずれにしても,観阿弥を名乗ったということは,僧でもなく俗でもない中間の身分を生きる道を選んだということを意味している。あえて「世間のあぶれ者」の道を選んだ理由があるはずだ。さきに引用した『仏教辞典』の記述から類推できることは,以下のようなことだ。
 簡単に言ってしまえば,猿楽だけでは食っていけなかった。だから,時宗に身を寄せて,諸役や諸税を免除してもらい,その代わりに「衆僧の給仕や雑用を勤め」,必要とあらば「鉦を打ち和讃念仏を称えながら家々をまわり,信施を受けて世を渡」る道を選ぶしかなかったのではないのか。その傍ら,「農耕や商い・諸芸に従事するものもあった」という次第だ。だから,言ってしまえば,猿楽を支えた一座の集団は,僧でもない,俗でもない,いわゆる「世間のあぶれ者」によって構成されていた,という実態が浮上してくる。
 そういう集団の中から,観阿弥のような才能のある人物が現れ,猿楽から能楽への道が開かれていく。そして,さらには,世阿弥のような天才が登場することによって,時の将軍足利義満によって取り立てられ,同朋衆として庇護をうけることになる。
 だいぶ回り道をしてしまったが,これとまったく同じようなことが,徳川家康の家系にも影を落としている,という事実が今回のわたしのびっくり仰天の知見だった。そのことを,宮城谷昌光さんの『古城の風景・Ⅰ』(新潮文庫)が教えてくれたのである。
 そこで,もう一度,この『古城の風景・Ⅰ』の記述に立ち返って考えてみることにしよう。
 徳川家康の出自である松平氏の始祖は親氏(ちかうじ)。かれは徳阿弥と称し,父の有親(長阿弥)と一緒に三河にやってきて称名寺に身を寄せた。この親子,すなわち長阿弥と徳阿弥は連歌の達者で,子の徳阿弥は連歌によって運命を啓(ひら)くことになる。
 「父の没後,徳阿弥は矢作(やはぎ)川をさかのぼるかたちで松平郷にはいり,その村の小豪族というべき松平太郎左衛門尉信重(さえもんのじょうのぶしげ)が催した連歌の会をたまたま見物したところ,歌を書きとめる役になってもらいたいと懇望されてその役をつとめたことが縁となり,女婿(じょせい)となって松平家にはいったのである。」
 こうして徳阿弥は松平親氏として,松平一門の始祖となる。この家系の直系の子孫として徳川家康が誕生する。以後,松平家と連歌は切っても切れない関係がつづく。たとえば,つぎのような話を宮城谷昌光さんは紹介している。
 「称名寺は,連歌師の宗牧を迎えたことからわかるように,連歌興行がしばしばおこなわれた寺のようで,天文(てんぶん)十一年(1542年)に広忠に嫡子(ちゃくし)(注・家康のこと)が生まれたあと,広忠は称名寺の連歌の会に出席して歌を詠(よ)んだ。その歌は,広忠が夢のなかで得たものなので,
 『夢想の連歌』
 と,よばれることになる。その歌の脇句である,
   めくりはひろき園のちよ竹
 から,広忠の嫡子の幼名には,竹千代,がよい,と称名寺の住持である其阿(ごあ)が選定したとつたえられる。」
 家康の幼名である竹千代の名もまた連歌がとりもつ縁によっていることがわかる。宮城谷昌光さんは,さらに,つぎのように書き加えている。
 「重要なことは,親氏は連歌によって開運したということであり,以後,松平家は連歌に招福の力があると信じたにちがいないことである」,と。
 このようにして,徳川家康を輩出した松平氏の始祖親氏は連歌を得意とする阿弥衆であった,というわたしとしては刮目すべき事実を知ることになる。
 阿弥衆は,世間のはずれ者とか流れ者として蔑まれたりしているが,じつは,きわめて重要な芸能の伝播者であり,文化の担い手であったのだ。このことがわたしのいいたいことの第一点。氏素性は,いまの世の中でも,とかく話題となり,それなりの扱い方をされているが,そんなものはほとんどなんの意味もないということ,これが第二点。
 大事なのは,その人の持っている才能(才覚)と努力。その才能(才覚)をいかに見出し,つかまえ,伸ばしていくか,その持続力(努力)が意味をもつ。阿弥衆だから身分が低いとか,家元だから偉いとか,そんなことはどうでもいいことだ。あくまでも,持ち合わせた才能(才覚)をどこまで伸ばすことができるか,これが重要だとおもう。持ち合わせが少なければ少ないなりに伸ばす「努力」が大事だ,とわたしは考える。
 こんなことを,観阿弥・世阿弥(=観世流の始祖),長阿弥・徳阿弥(=徳川家康の始祖)の二組みの親子の存在をとおして,しみじみと考えた次第である。

2010年11月16日火曜日

ざぶとんが飛ばなかった白鵬の連勝ストップ。

 稀勢の里の突き落としにあわてて,あっさり寄り切られてしまった白鵬。白鵬はこころにスキがあった,と語ったがはたしてそうだろうか。もう一点は,白鵬の連勝記録が意外なところでストップしたにもかかわらず,ざぶとんも飛ばなかったという。加えて,双葉山越えの連勝記録のかかった九州場所にもかかわらず,お客さんの数は去年より減っているという。このことの意味はなにか。この3点が気になって,今日は,このことばかり考えていた。
 稀勢の里の「突き落とし」は,白鵬としては十分に予測のできたことであって,そんなに慌てることはなかったはず。たしか,白鵬は稀勢の里に4敗しているはずで,そのうちの3敗は「突き落とし」である。その後,この手を食わぬ工夫をして10連勝(以上?)はしているはず。このところ白鵬は稀勢の里に負け知らずできた。それは,稀勢の里の得意技である「突き落とし」を未然に防いできたからだ。今場所とて同じはず。にもかかわらず,稀勢の里の術中にはまってしまった。白鵬は「こころにスキがあった」と言ったが,わたしはそうはみない。やはり,白鵬のからだがガチガチに固くなっていたために,百も承知していたはずの稀勢の里の突き落としを,柔らかいからだで抜くことができなかったのだ,とみる。
 もう一つ,うがった見方をすれば,以下のとおりである。一昨日のブログで書いたように,白鵬は,やはり,双葉山の連勝と自分の連勝とは意味が違うということを承知していたようだ(年2場所であること,など)。だから,このまま連勝してしまっていいのだろうか,と先輩横綱に相談したという。そのとき,どのようなアドバイスを受けたかはわからないが,中には,その手前で負けておけ,と言った先輩横綱もいたのではないか,とわたしは邪推する。そして,どうせ負けるなら,日本人力士で将来有望な力士がいい,と。だとすれば,その筆頭は稀勢の里である。日本人力士で将来横綱になれるとしたら,いまのところ稀勢の里しかいない。だとしたら,負けるなら稀勢の里,という考えがちらりと白鵬の脳裏をよぎったかもしれない。これが,白鵬の言う「こころのスキ」ではなかったか。双葉山のことをあれだけ勉強している白鵬のことだから,双葉山の連勝にストップをかけた,当時の平幕だった安芸の海が,のちに横綱になったことは間違いなく知っていたはずである。稀勢の里も今場所は平幕力士である。
 勝った稀勢の里も,このことを承知しているのであろう,これをきっかけにして自信につなげたい,と語っている。これが,もし,シナリオどおりだとしたら,これぞまさに大相撲だ,とわたしは嬉しい。そして,白鵬も,本気で日本の大相撲の行く末を考えているんだ,と認めたい。横綱は,力士たちが力を合わせて作り出すものだ。なぜなら,人気のある横綱をつくらないことには,自分たちも,食べてはいけなくなってしまうからだ。この構造は,歌舞伎の人気役者を「つくる」のと同じだ。この役者ならいけそうだとなれば,みんなでそういう雰囲気を作り上げていく。そうして,多くのお客さんを喜ばせるのである。つまり,運命共同体なのだ。その意味では,大相撲と歌舞伎は「芸能」という点でとてもよく似ている。
 白鵬が,このことを理解しているとしたら,それはもう立派に,日本人以上の日本人になった証である。それが,稀勢の里との一番となって表出したとしたら・・・・。わたしは,そうであることを半分以上,信じている。
 第2点目の「ざぶとんが飛ばなかった」ことについて。ざぶとんが投げられないように,いまでは,ざぶとんが2枚ずつ縫い合わせてあるという。だから,飛ばなかったのかもしれない,と新聞は書いている。しかし,もし,ほんとうに興奮したら,引きちぎるなり,2枚重ねのままでも,土俵に向かって投げただろう。だが,それも起きなかったという。なぜか。それは白鵬だからだ。そこには二つの含意がある。一つは,もし,この連勝記録が朝青龍だったとしたら,間違いなくざぶとんが舞ったとわたしはおもう。朝青龍の相撲は,そういう力をもっているからだ。しかし,白鵬の相撲は,みている人を興奮させる材料に乏しい。勝って当たり前のような印象を与えるからだ。つまり,理詰めで,負けない相撲をとる。相撲通にはたまらない味をみせるが,一般の相撲ファンには訴える力が弱い。もっと言ってしまえば,白鵬の相撲の強さはまだまだほんものではない,というどこかに不信感が漂う。わたしは,いまでも,白鵬がそんなに強い横綱だとはおもわない。たとえば,千代の富士が立ち会い一気に左前まわしを引いたときの,あの恐ろしいほどの強さは,白鵬のどの相撲にもみられない。では,なぜ,白鵬は連勝できるのか。他の力士が弱いのだ,とわたしはみている。弱すぎる,と言ってもいい。つまり,白鵬を倒す工夫が足りない,ということ。
 双葉山の連勝がストップしたときは,ざぶとんが乱れ飛んで,大変だったことは,古い記録を読むとよくわかる。すぐに,号外が飛び,町中の人たちが競ってそれを奪い合ったという。そして,しばらくの間は,日本全国で,双葉山の連勝ストップの話題でもちきりになった,という。それに引き換え,昨日は号外がでたという話も聞かない。今朝の新聞も大して大きな報道にはなっていない。しかも,夕刊には,すでに,一行の記事もない(朝日新聞)。こんなに連勝記録を話題にしてきた新聞にしては,あまりにもあっさりしたものだ。この調子では,数日のうちに白鵬の連勝の話は忘れ去られていくのではないか,と心配になるほどである。
 勝った安芸の海もまた大変なことになっていたという。国技館から自分の部屋に帰るまでの間,ファンにもみくちゃにされ,着ていた羽織はびりびりに破れ,履いていた雪駄は脱げてしまって,はだしだった,という。こういう話はつきぬほどあるし,のちのちまで語り継がれてきているのだ。
 はたして,今回の白鵬の連勝ストップには,どれほどの話題が後世に語り継がれることになるのだろうか。心もとないかぎりである。
 第3点は,九州場所のお客さんの入り方が,白鵬の連勝がかかっていたにもかかわらず,昨年よりも減少している,ということだ。このことが,なにを意味しているのか,これはもはやわたしごときがわざわざ言挙げするまでもないことだろう。みなさんのご想像に委ねた方がよさそうだ。そうしろ,という声が耳元で聞こえる。その声に,ここのところはしたがうことにしよう。どうぞ,ご自由にご想像ください。
 くどいようだが,朝青龍を失ったことのツケの大きさを,日本相撲協会は深く反省すべきだ。そして,相撲ファンが期待しているのは,白鵬のような相撲ではなくて,朝青龍のような相撲なのだ。土俵の上での所作一つとっても,それが「絵」になる,そういう力士が必要なのだ。なぜなら、さきほども言ったように,大相撲は歌舞伎と共通する「芸能」の要素が大きいのだから。華のある力士の登場をファンは待ち望んでいるのだから。ハラハラドキドキさせてくれるような力士がでてきたら,わたしも場所に足を運ぼうとおもう。ここ当分は,テレビも見たいとおもわない。わたしの大好きだった大相撲がどこかに行ってしまった・・・・そんな印象である。まことに,残念なことながら。

 

2010年11月15日月曜日

観阿弥・世阿弥は時宗の阿弥衆だった。徳川家康の祖先も阿弥衆だった。その1.

 こんにち能楽師と呼ばれる人たちは,わたしの感覚では,どこか特権階級化していて,特別の身分を保証されているかのようにみえる。しかし,その遠祖をたどると意外なところからでてきた人たちだ,ということを知って驚く。もちろん,これはわたしの不勉強のなせるわざであって,能楽に詳しい人たちにとっては常識であるのだろう。
 2年ほど前に,今福さんから「戸井田道三」という人の存在を教えてもらい(詳しくは,『IPHIGENEIA』<ISC・21>版,創刊号,2009年,鼎談「現代の能面」,P.7~49.を参照のこと),この人の本を買い集めて,かなり熱心に能楽のことについて勉強したつもりでいた。たとえば,『能芸論』などは,眼からうろこということばがぴったりするほど,新しい発見の連続であった。その中にも,能楽師の出自は,きわめて身分の低い人たち,というよりは寄る辺なき身分の流浪の民であった,というような意味のことが記述されていて,それだけはぼんやりと記憶していた。しかし,あまり厳密には,どういう出自の人たちであったのか,ということまでは記憶していなかった。
 それが,ひょんな拍子に,意外なところから「あー,そうだったのか」ということを知り,あわてて関係の辞典類で確認して,なるほど,と得心するにいたる,そんなことが最近あった。
 「48会」という会が年に1回開催され,その会に出席するために,先日(13日)に愛知県の岡崎市に行ってきた。この会は,いまから36年前に,わたしが愛知教育大学に赴任したときの,最初のゼミ生たちの集まりである。わたしも,まだ若く,36歳だった。だから,わたしも含めてゼミ生たちも,海のものとも山のものともわからない,まったくの未知数の世界にさまよっていたころの出会いが,お互いに強烈であったことは事実で,それが懐かしくて集まってくる。いまや,その大半は,小中学校の校長先生になっている。立派なものである。もちろん,管理職を忌避して,平教員の醍醐味を保持している人もいる。これまた,なかなか味があっていい。それぞれがまことに個性的にいまを生きている。こういう人たちに年に1回会うだけで,わたしは一年分の元気をもらうことができる。だから,毎年,楽しみにしている集まりである。
 で,そこに出席するために,新幹線の中で読もうと思って持ち込んだ本が,わたしの大好きな宮城谷昌光の書いたエッセイ集『古城の風景』Ⅰ.菅沼の城,奥平の城,松平の城(新潮文庫)である。三河出身の徳川家康ファンにとっては,この本は必読である。せっかく,岡崎市に行くのだから,もし,なにかの話題になったときに,そのあふれんばかりの教養(虚養?)を披瀝せん,と密かに仕込みを兼ねて,新幹線のなかで読みはじめた。こういうエッセイは,自分の好きなところから拾い読みをはじめるのが,わたしのやり方。そうしたら,P.291に「大給城」(おぎゅうじょう)という大見出しがある。こんな城は知らないなぁ,と思ってまずはそこから読みはじめる。知らなくても不思議ではない。碧南市にある,という。同じ三河地方でも,豊橋市に育ったわたしからすれば碧南市はほとんど盲点のようなところ。まるで馴染みがないのだ。だから,そこに眼が惹きつけられたのだろう。
 これがなんと神さまのお導きだったのだ。その中に「称名寺」というお寺の話がでてくる。
 「当寺の創建は1339年大浜政所を司(つかさど)る声阿(しょうあ)を開基とし,もとあった天台宗の寺を時宗に改めたとする」
 という寺でもらった「称名寺の文化財」というパンフレットの文章を紹介している。それにつづけて宮城谷さんはつぎのように解説をしていく。
 「1339年は南北朝期で,暦応(りゃくおう)2年(延元4年)である。声阿は,境内の案内板には,声阿弥陀仏(しょうあみだぶつ)とある。この寺の本尊は阿弥陀如来である。境内には,由緒(ゆいしょ)が書かれた石碑も建てられていて,そこには,松平氏の始祖である親氏(ちかうじ)(出身地は不明)が徳阿弥と称し,父の有親(ありちか)(長阿弥)とともに放浪して,三河にはいり,この称名寺にきて,有親はここで逝去(せいきょ)した,というように伝説が披展(ひてん)されている。」
 さて,この記述がわたしには大変な発見であった。そして,意外な発見であった。
 なぜなら,松平の始祖である親氏とは,徳川家康の祖先であるからだ。その親氏が,徳阿弥と称する阿弥衆であった,というのだから。
 宮城谷さんも調べたという『仏教辞典』(岩波書店)で,わたしも調べてみた。(つづく)。

2010年11月14日日曜日

白鵬と双葉山の連勝記録を比較してみると・・・・・。

 今日から大相撲がはじまった。世間の話題は,白鵬が双葉山の69連勝を破るかどうか,そして,どこます連勝記録が延びるのか,で盛り上がっている。
 この話題に水をさすつもりは毛頭ないが,単なる数字だけでものごとを比較することの「愚」に陥らないために,ひとことだけ言っておきたいことがある。
 つまり,ものごとを「比較」する場合には,その基準をどこにおくか,ということがとても重要だ。結論から言っておけば,双葉山の69連勝と白鵬の69連勝は,比較の対象にはならない,ということだ。数字だけみれば,同じ69連勝なのだから,まったく同じではないか,という考え方もある。しかし,それは,あまりにうすっぺらい,表面的なものの見方でしかない,とわたしは考える。大相撲の醍醐味を堪能しようとする人なら,そんな単純な比較の仕方はしないだろう,とわたしは確信する。その根拠を以下に提示しておこう。
 その前に,ひとこと。白鵬が69連勝を達成したときに,白鵬がみずから「わたしの69連勝は,双葉山関の69連勝の偉業に比べたら,まだまだ足元にも及びません」と言うのではないか,という期待がわたしのこころのなかにある。もし,これを言ったとしたら,わたしは文句なく白鵬のファンになるだろう。そして,名実ともに大横綱として認めたい。
 このことと,さきほど書いた「根拠」とは深い関係がある。
 さて,その「根拠」とは?
 まずは,双葉山の69連勝がどのようにして達成されたのか,その内実をみてみよう。
 双葉山時代は,年2場所制であること。しかも,1場所11日制であったこと(途中から13日制になった)。だから,足掛け4年かけて69連勝を達成していること。以上。
 もう少しだけ,踏み込んでおこう。
 1937年と1938年の2年間,4場所,全勝して挙げた勝ち星は「50」勝である。その前の年の1936年1月場所の5日目から連勝がスタートする。が,この場所の勝ち星は「7」,5月場所は全勝で「11」,それに1939年1月場所の「3」,これらを全部足して,やっと「69」となる。
 さらに,踏み込んでおくと,1939年の1月場所の双葉山は,前年の満州巡業の折にアメーバ赤痢に罹り,体重が激減し,体調も不十分のため,休場を考えていた。しかし,この場所の直前に,横綱玉錦が盲腸炎をこじらせて急死するというアクシデントがあった。そのため,力士会長を玉錦から双葉山が引き継ぐことになり,その責任上,休場するわけにもいかず,やむなく出場。結局,この場所は,双葉山の成績は9勝4敗に終わっている。そして,つぎの場所には体調をとりもどし,全勝優勝を飾っている。もし,満州巡業によるアメーバ赤痢感染というアクシデントがなかったら,双葉山の連勝記録はどこまで伸びていったか,予測がつかないほどである。
 まあ,こういう記録を比較するときに「もし」という仮説は意味がないとしても,双葉山が69連勝を達成した条件を,そのまま白鵬に当てはめてみると,驚くべき数字が浮かび上がってくる。
 つまり,足掛け4年間にわたって連勝するということを,こんにちの年6場所に当てはめてみると・・・・・。丸2年間全勝しただけで,180連勝となる。連勝のはじまりは1月場所の7日目からなので,この場所だけで9勝,そして残りの5場所の全勝で75勝。4年目の1月場所の3勝。全部足すと,なんと「267連勝」という数字になる。
 足掛け4年にわたって負けない,負けたことがない,ということはこういうことなのだ。これが双葉山の69連勝の内実なのだ。このことを白鵬がもし自覚していたとしたら,わたしの期待する談話が白鵬の口からでてくる・・・・のでは?という次第である。
 年6場所・15日制のこんにちの大相撲でいえば,1年間,絶好調であれば「90連勝」が可能なのである。しかし,年2場所・11日(13日)制の双葉山時代に「90連勝」するには,最短でも,3年半を要する。
 これもまた,単なる数字ころがしの遊びではないか,と言われればそのとおり。しかし,数字の裏側に隠されている事実関係を確認してみると,こんな世界がみえてくる,というもう一つの数字のマジックが存在する。どうせ,数字ころがしで遊ぶとすれば,こういう遊びを楽しみたい。これもまた,わたしのいう,相撲の醍醐味の一つなのだから。
 誤解されるといけないので,最後にひとこと。
 白鵬の連勝記録がどこまで伸びていくか,じつは,わたしとて大いに楽しみにしているのである。しかし,69連勝というのは大きな壁であることに間違いはない。今日もずいぶんと固くなっていたようだが,これから日を追うごとにプレッシャーがかかってくるだろう。ますますからだが固くなってくるようなことがあると,意外なところでコロリということが起こる。激しく動き回るスピードのある力士に要注意だ。
 なんとか69連勝を突破して,そのさきに広がる前人未到の世界を楽しんでほしい。つまり,記録のための「負けない」相撲ではなく,大観客を大喜びさせるような「見せる」「魅せる」相撲をとってほしいものだ。たとえば,「呼び戻し」とか,「仏壇返し」とか・・・・。
 「69連勝」は一つの通過点。そのくらいの気持ちで白鵬は相撲に取り組んでほしい。実力的には,もはや,他の追随を許さない圧倒的な力をつけたのだから。大相撲のほんとうの醍醐味を土俵の上で魅せてほしいものだ。朝青龍のように・・・・・。

2010年11月12日金曜日

中国の嵩山少林寺と日本の嵩山正宗寺との関係について

 わたしの郷里である豊橋市(愛知県)に嵩山(すせ)町という地名があって,少林寺拳法で知られる中国の嵩山(すうざん)少林寺と同じだなぁ,と長い間,漠然とおもっていた。
 嵩山(すせ)町は豊橋市のはずれの山裾にある。「嵩山の蛇穴」と呼ばれる鍾乳洞があって,小学校の遠足(小学校の運動場から蛇穴まで往復,全部,徒歩で歩いたほんとうの遠足)ででかけた記憶がある。蛇穴の中で大冒険をした記憶も甦ってくる。
 この山一つ越えていけば隣の静岡県である。その県境にある峠を「本坂峠」と呼び,むかしは姫街道の抜け道であった。つまり,東海道を通ると,新居の関所があって,役所の発行する関所札をもたない非公式の旅をする人たちは通過できなかった。とりわけ,「入り鉄砲に出女」は徹底的に取り調べが行われたという。そのため,多くの女性たちがこの抜け道をとおったというので,姫街道という名が残っている。
 高校生になると,友だちと連れ立って,正月の早朝に自転車を走らせ本坂峠を登って初日の出を拝みに行った。これは3年間,欠かさずでかけた。その往復のたびに,正宗寺(しょうじゅじ)という立派な構えの寺の山門の前を通過する。この正宗寺の住職が,わたしの通った高校の漢文の教師をしていた。名前は「金仙先生」。すこぶる変わった名前だったので,この先生の祖先は日本人ではないのではないか,という噂が流れていた。そこで,父に尋ねたことがある。父もまた僧職でありながら,同じ高校の教師をしていたから,なにか知っているだろうとおもったからだ。しかし,父は笑いながら「そういう風にいう人もいるが,まさか・・・」と受け付けなかった。
 その後,わたしが愛知教育大学に赴任して,刈谷市に住むようになったころには,両親を誘って花見がてら車でよくこの正宗寺にでかけたものである。桜の名所でもあったから。そのたびに,なんと立派な構えの寺なんだろう,と感心したものである。いまでも,機会があれば行ってみたいとおもう寺である。こんな田舎の辺鄙なところに,どうしてこんなに立派なお寺があるのだろうか,と不思議で仕方がなかった。
 が,その謎が解けたのである。つい最近,文庫化された宮城谷昌光の『古城の風景Ⅰ』─菅沼の城,奥平の城,松平の城─(新潮文庫)の中に,つぎのようなくだりがある。
 「豊橋市の石巻(いしまき)山から東北にむかうと,すせ,とよばれている地区がある。すせ,はふつう州瀬という字をあてるはずでじくが,ここは嵩山と書かれる。
 東に険峻(けんしゅん)な山〇(さんらん)があり,そこを通る本坂(ほんざか)とよばれる山径(いまはトンネルもある)をたどってゆくと,静岡県の三ヶ日(みっかび)町にはいる。私は豊橋市内にある高等学校に通っていたが,市内の名所旧蹟(きゅうせき)に昏(くら)く,三ヶ日町に居を転ずるまで,石巻山も嵩山も,みたことがなかった。」
 宮城谷さんは,わたしの高校の後輩にあたり,当時は,蒲郡市から通学していた人である。そんな縁故もあって,いつしか,わたしは宮城谷さんのファンになった。最初に読んだのが,たしか『太公望』だったと記憶する。中国の歴史小説を得意とされるが,最近になって,郷土の歴史小説に新境地を開かれ,『風は山河より』(全6巻)や『新三河物語』(全4巻)など,徳川家康を中心とした戦国時代のものを書かれるようになり,わたしとしては眼が離せなくなった。
 今回の『古城の風景』も同様である。すべて,三河地方の古城の話である。
 前置きが長くなっているが,ここからが真打ちの登場である。
 「鎌倉時代に南宋の禅僧である日顔(にちがん)が渡来して,なんとこの地にきたのである。足を停めた日顔は,
 ──ここは嵩山の少林寺に似ている。
 と,おもったらしい。
 それゆえ山を嵩山と名づけ,山中に庵室(あんしつ)を結んで三十年もとどまった。その間に正宗(しょうじゅう)寺が建立(こんりゅう)されたのであろう。日顔は嘉暦(かりゃく)二年(一三二七年)に示寂(じじゃく)したといわれる。その嘉暦二年という年は,鎌倉幕府が滅亡する六年前にあたる。室町時代の正宗寺は壮観であったにちがいない。なにしろ塔頭(たっちゅう)が十二坊あり,末寺が六十あるいは百余をかぞえたという。戦国時代には,近くの豪族である西郷(さいごう)氏の篤(あつ)い庇護(ひご)をうけ,以後,何度も火災に遭うも,そのつど再建され,現在の伽藍(がらん)は江戸時代の嘉永(かえい)年間に建てられたものである。」
 これで,わたしの長い間の疑問はすべて瓦解した。納得である。
 宮城谷さんの時代には,「金仙先生」はいらっしゃらなかったのか,あるいは,正宗寺の住職であるということをご存知ないのか,この話はでてこない。ちなみに,熊谷直実の子孫が三河にながれてきて,宇利城の城主となる話のところでは,「思い返してみれば,私が通った豊橋の高校の校長は熊谷先生であった。たぶん豊橋に熊谷さんはすくなくあるまい」とわざわざ述べているほどである。だから,もし,知っていたら書いたはずで,ひょっとしたら「金仙」という名字の由来まで調べてくれたかもしれない。
 というようなわけで,達磨大師の嵩山少林寺と,愛知県豊橋市の嵩山正宗寺とは,深いふかい縁故に結ばれていたのである。ただ,残念なことは,日顔さんが嵩山少林寺で修行した禅僧ではなかったことだ。もし,そうであったら,日本の少林寺拳法の発祥の寺として,その名を残したに違いない。それにしても意外なつながりがあるものだ。
 わたしの抱いた,ほんとうに素朴な疑問が,そのまま正解であったとは・・・・。
 だから,歴史の謎解きはやめられない,という次第。

2010年11月11日木曜日

ラース・フォン・トリアー監督最新作『アンチ・クライスト』の試写会に行ってきました。

 2009年カンヌ映画祭で話題をさらった問題作(あるいは,衝撃作)である。
 原題は『ANTICHRIS♀』。スペリングの最後の「T」に相当するところに「♀」が当ててあるところに,この映画の鍵が隠されている。
 つまり,うつ病と闘うひとりの女性の,剥き出しの「性」が,この映画のメイン・テーマとなっているのだ。もう少し踏み込んでおけば,恐怖とセックスと狂気と母性と激情と暴力と優しさと疑念と苦悩と悲嘆と殺戮,等々のさまざまな感情が,ちょっとした日常の夫婦の会話のなかから,一気に吹き出してくる女性のいかんともしがたい「病い」を描いている。この映画の場合には「うつ病」であるが,しかし,うつ病はすでに現代病の代表でもある。ごくふつうに暮らしている人(勤め人も自営業の人もその他の人も全部ひっくるめて,ありとあらゆる人)の間にも,かなりのパーセンテージでうつ病が浸透していると聞く。わたしの身近にもなんにんもうつ病の治療を受けながら勤務している人を知っている。ということは,この映画の提起している問題は,まさに,現代社会がかかえこんでしまった病根に関する普遍の問題でもあるということだ。だから,この映画の提起しているテーマは,現代社会を生きているわたしたちに対して深く,重くのしかかってくる。
 わたしの第一印象は,前評判に違わぬ衝撃作,そのもの。映画が終わってもしばらくは身動きもできなかった。この試写会にきていた人のほとんどが,わたしと同じように,じっとしていた。参った,というのが正直な感想だろう。なぜなら,映画そのものは,なんの問題解決もしないまま,こんなことになってしまったんだよ・・・・というところで終わる。だから,このあとどうすればいいのかは,この映画をみた人すべての人に対して,まるごと投げ出されたままになっている。だから,映画が終わってもそんなに簡単には立ち上がれないのだ。みんな,それぞれのこころの持ちようや覚悟が決まらないのである。
 ストーリーはきわめて単純。夫婦が夜の悦楽に熱中している間に(この描写がまたなんとも濃密そのもの),幼い息子が眼を覚まし,さまよい歩いているうちに開いていたマンションの窓から転落して,死んでしまう。夫は気丈に踏ん張って立ち直ろうとするが,妻はショックで倒れてしまう。妻はそのまま入院治療を受けるが,セラピストの夫は医師の施薬療法を拒否して,自分の手で治そうと決意し,妻を説得する。そして,その治療(セラピー)がはじまるのだが・・・・。しかし,夫であり妻である者が,セラピストと患者になるには無理がある。つまり,二人の距離が近すぎてしばしば公私混同を起こしてしまう。そして,それが原因で,この夫婦は思いもよらない偶然から悲劇の谷底に向かって転げ落ちていく。
 この夫婦はお互いに愛し合っている(つもり)なのだが,その深い愛(のつもり)ゆえに,ほんのささいなできごとをきっかけにして,妻は夫に捨てられるという恐怖におののき,殺意をいだく。そして,それが実行に移される。一回目は夫は,それは病気のせいだと冷静に判断して克服するが,二回目に妻に襲われた瞬間に,こんどは夫が恐怖におののき,怯えのどん底で妻の首を締めて殺してしまう。
 この映画をみるかぎり,愛し合う夫婦は,どうみても戦場の兵士の関係にみえてくる。ともに自分たちを守るために戦う同志でありながら,その同志の関係がくずれると,こんどは最愛の同志が敵になってしまう。そして,一気に殺戮に向かう。だから,お互いに,いつも,愛を確認し合っていないと不安で仕方がないのだ。この基本形は,とくに,アメリカ映画のホームドラマをみていても,いつも思うことだ。キリスト教文化圏では,それが当たり前のようになっているらしい。朝起きたら,「愛してるよ」と声をかけてキスをする。夜眠るときも「愛してるよ」と挨拶をしてキスをする。これをしないとお互いが不安になるのだ。相手がどう思っているか,いつも,お互いに確認しないと落ち着かない。気の毒な人たちではある。
 「アンチクライスト」という映画の題名から,わたしが最初に想起したことは,ニーチェの『アンチ・キリスト』の考え方である。あの例の有名な「神は死んだ」にはじまるニーチェの論考が,まず,わたしの脳裏に浮かんだ。だから,ある意味ではキリスト教にまつわる定番の映画なのだろうと,いとも簡単に想定していた。しかし,そうではなかった(とわたしは思う)。
 この映画から受けたわたしの印象は,キリスト教的倫理観の呪縛から解き放たれないかぎり,人間に救いはない,その意味での「アンチクライスト」なのだ,と。映画の中では,「自然は悪魔の教会だ」と妻に語らせている。だから,「エデンの森」(夫婦が名づけた自分たちの山小屋のある森)に恐怖を感じ,それに怯えながら,うつ病は進展していく。そして,ついには,夫に対する殺戮の感情が頭をもたげる。それも,うつ病の定番でもある。つまり,一時的に「わたし治ったわ」と妻は喜びの感情につつまれる。そして,森の中を嬉しさのあまりひとりで駆け回る。だが,セラピストの夫は,これがうつ病のきわめて危険な兆候であることを知っている。だから,素直に喜べない。こんなところから,夫婦の絆がにわかにぎくしゃくしはじめる。
 「森=自然=悪魔の教会」というキリスト教的図式が,妻の頭のなかから離れない。おまけに,人間もまた「自然」の存在ではないか,と大問題に突き当たる。もはや,逃れようがなくなってしまう。ここを突き抜けないかぎり,人間は永遠に救われない,その意味で「アンチクライスト」なのだ,と監督は主張したいのではないか,とこれはわたしの類推である。
 この映画がカンヌ映画祭で上映されたときには,感動の拍手と,不満のブーイングとが,同時に起こったという。そして,その後の議論も,賛否両論に真っ二つに割れたまま推移したという。
 同時に,この映画のセックス・シーンもまた大きな話題になったという。おそらく日本では上映は無理だろうとも噂されたという。しかし,大胆といえば大胆そのものではあるが,映像はとても美しい。セックスの途中で夫婦喧嘩になり,裸のまま山小屋の外に飛び出して行って,草むらの上に仰向けからだを投げ出し,ひとりでオナニーを始めるシーンは感動的ですらある。こういうことを堂々と演ずることのできる女優さんは日本にはいないだろうと思う。
 ちなみにこの女優さん,シャルロット・ゲンズブールはカンヌ映画祭の主演女優賞を受賞している。この10月には歌手として来日して,各地で公演しているので,知る人も多いと思う。ただ歌うだけではなく,キーボードを演奏し,ドラムも叩く,という。この女優さんは血統書つきのサラブレッドでもある。詳しくは割愛。
 この映画は,来年2月に新宿武蔵野館,シアターN渋谷,などで上映されるという。そのときが来たら,もう一度,見にいこうと思う。そういう映画である。美しいシーンとそこに籠められた意味の深さを観賞するために。
 ああ,今夜は眠れない。
 女性は恐ろしい。自然をいっぱいもっていて,「悪魔の教会」まで持ち合わせている。その分,悩み苦しむことも多い。同時に,喜びも大きい(はずだ)。
 それに引き換え,男は単純だ。自然が表出するのはほんの一瞬だけだ。だから,喜びも小さい。これは断言できる。みずからの感覚として。
 ・・・・・・・のではないか,とこの映画をみた,いま,思っている。

 

 

2010年11月10日水曜日

柏木さんの能面展(実践女子大学)をみてくる。

 今日の水曜日(午前)は太極拳の稽古の日。いつものように,稽古のあとのハヤシライスを食べて,その足で実践女子大学へ向かう。
 実践女子大学は中央線の立川の隣の日野にある。稽古場のある大岡山(大井町線)から,ほぼ1時間。日野駅からは徒歩で10分ほど。高台の閑静な住宅街にある。女子大らしいとてもきれいな建物で,正門を入ってからの広場も落ち着きのある空間で,とてもいい雰囲気。正門を入ってすぐの建物が香雪記念館。この記念館の入り口手前のところに,この学園の創設者下田歌子さんの歌碑があって,それが校歌の一番になっている。しかも,ご丁寧に,ボタンを押すと校歌が流れてくる設備があったので,まずは,その校歌を聞いてみる。なかなか落ち着いた気持ちのいいメロディーが流れてくる。
 柏木さんの能面展は,この香雪記念館の中の一室で開催されていた。この13日(土)・14日(日)は大学祭でもあり,その企画とも連動してのものと聞いている。予想したよりは広い部屋の三つの壁面に,びっしりと能面が展示してある。すごい迫力で,まずは,圧倒されてしまった。柏木さんは,その部屋の一角に坐って能面の制作をしながら,見学にきた学生さんとお話をしていた。とても楽しそうに,いつもの明るい表情で。
 メインの展示は,大学側の依頼を受けて制作したという,大学の創設者下田歌子さんのお面である。三つの壁面の真ん中の壁面の,その中央に朱塗りの漆の額に収まっている。たくさんの能面の中でも,ひときわ輝いた存在感を示している。どう表現したらいいかわからないが,不思議な美しさと気品が漂う。なかでもわたしのこころを捉えたのは「眼」の力である。右目と左目のつくりが微妙に違っていて,そのほんのわずかな差異が驚くべき力となってわたしに迫ってくる。このお面に籠めた柏木さんの思いが伝わってくる。
 昨日の柏木さんのブログにも書いてあったように,この下田歌子さんのお面を制作するにあたっては,相当のご苦労があったようである。そのブログによれば,以下のとおりである。下田歌子さんといえば,すでに歴史上の人物である。お顔についても,古い写真をとおして知る以外に方法がない。そこで,いろいろの人に下田歌子さんについてのイメージを尋ねてみると,みんな一人ひとり違うイメージをもっていることがわかる。それらを一つにしてまとめることはとても不可能だ,と気づく。では,どうしたらいいか。さんざん考えあぐねた結果,わたしのイメージをそのままお面にするしかない,つまり,わたしの下田歌子さん像をそのまま制作する,その一点に到達したという。あとは一直線だった,と。でも,この作品を制作する過程では,いろいろのアイディアがつぎつぎに浮かんできて,まったく新しい創作面になった,とのことである。どうやら,柏木さんは,この作品との格闘をとおして,また新しい境地に立たれたようだ。
 「創意工夫」ということばが柏木さんの口からよく飛び出す。伝統的な能面の制作にはむかしからの約束事があって,それを忠実に守れば,ある程度の作品はできるとおっしゃる。でも,それでは満足できなくなって,自分の納得のいく作品を制作しようと思ったら,そこに新たな「創意工夫」を加えていくしかない。つまり,職人としての面打師から芸術家としての能面アーティストへの転身である。こうして,柏木さんの世界は一気にはじけた,とわたしはみる。しかし,創作面には,最初からお手本がない。どうするか。「創意工夫」以外にない。この「創意」「工夫」することが楽しい,と柏木さんはおっしゃる。なるほど,なるほど,とわたしはこころの底から納得する。
 なぜなら,伝統面の約束事の世界を突き抜けて,そのさきに広がる無限の世界に飛び出してしまうと,もはや,見習うべきお手本はなにもなくなってしまうからだ。そこは,まことに自由であると同時に孤独でもある。なんの拘束もなければ規範もない。頼るは自己のみである。となると,あとは,自己と自己をとりまくすべての環境世界との「対話」(innewerden )しかなくなる。ゲーテは「自然がわたしの教師である」と言った。まさに,その境地に柏木さんは立つ。
 こうして,柏木さんは創作面の世界に,たったひとりで踏み込んでいく。まさに,孤高の世界だ。その孤独に耐えながら,こころもからだも限りなく解き放ち,かつ,つねに「創意工夫」を楽しむ。そしてとうとう,小面から般若までを100分割してみようと思い立つ。そのためには,無限に広がる女性のこころの機微の表出を,その瞬間,瞬間のうちにとらえ,それを創作面として制作するという,大冒険に挑戦することになる。
 今回の展覧会にもその一部が展示されている。これがまた,とてつもなく面白い。その大胆な発想と,なにものにも拘束されない自由な表現が,みごとにマッチングしていて,みる者のこころにスルリと入り込んでくる。柏木さんの観察眼の鋭さとユーモア精神と表現力の豊さが,一つひとつの作品に結晶している。能面アーティスト柏木裕美の面目躍如である。
 そうした創作面と対面するかのように,反対側の壁面には伝統面がずらりと並んでいて,これまた圧巻である。
 この展覧会は,12日(金)はお休みだが,14日(日)まで開催されている。柏木さんの能面の世界に触れる絶好のチャンス。時間の許す人は必見である。
 いいものを見せていただいた,と大満足して帰路につく。
 こうなってくると,来年の2月に予定されている銀座・文藝春秋画廊での展覧会が楽しみになってくる。いったい,どんな作品が,どんな風に並ぶのだろうか。大いに期待したい。

2010年11月9日火曜日

『<私>の存在の比類なさ』(永井均著,講談社学術文庫)を読む。

 本のタイトルと帯のコピーに惹きつけられて買った本。しかし,半分は満足,半分は失望。なぜなら,徹底した思考実験という名の,かったるい形而上学だったから。
 このところ,荒川修作や竹内敏晴といった実践と思考とを絶えずフィードバックさせながら,独自の思想・哲学を構築してきた人たちのものを読み,考えてきたせいか,永井均の本がかったるいのである。やはり,実践をともなわない純粋な形而上学は,いまのわたしにはかったるいのである。たぶん,そこには生身の身体が思考の対象とされることはないし,ましてや「生命」とか,「魂の躍動」や「情動」などは抜け落ちていってしまうからなのだろう。そこにいくと,荒川修作にはアートにしろ建築にしろ「作品」というごまかしようのない,動かしがたい具象がつねに随伴していたし,竹内敏晴には「レッスン」という生きものとつねに格闘しながら思考実験を重ねるという激しさがあった。しかし,永井均にはそれがない。メタ・フィジックスの世界を遊んでいればいいのである。同じ哲学者でも,西田幾多郎には「坐禅」という実践と哲学とが表裏一体となっていた。
 とはいえ永井均といえば,芥川賞作家の川上未映子が師事している哲学者だ。しかも,独在論の第一人者である。そんな多少の予備知識を前提にして,この本を手にした。冒頭の論文は,とても,わかりやすくて,なるほど,川上未映子がとびつくのも宣なるかな,と思った。しかし,中盤の論文は,途中で投げ出したくなるほど退屈な,こういう絵空事のような思考実験をすることが哲学なのか,と半分はあきれてしまった。そして,最後の論文はまた,とても説得力があって秀逸。
 がしかし,解説の茂木健一郎で,ふたたび失望。いつものワン・パターン解説。「クオリア」はもういい。ご遠慮願いたい。頼む方も頼む方だが,引き受ける方も引き受ける方だ。こういうことが平気でできるところにこの人の,どこか社会性の欠損部分を感じてしまう。なるほど,脱税問題に対するあの開き直りは,この人の地なのだ,ということがよくわかる。
 さて,本題に入ろう。たとえば,永井均のテーゼの一つはこうだ。
 「永井均は今と同じあり方で存在しながら,彼が私でなくなることは想像できる。このとき,彼には何の異変も起きていない。しかしもはや彼は私ではない。この私を<私>と表記しよう。」
 と永井均は書く。なるほど・・・となんとなくわかったような気にさせてくれる。しかし,よくよく考えてみると,この文章は変だ。私が私でなくなった私を<私>と表記するのは,一つの約束として,あるいは哲学上の仮説として理解はできる。その私は「わたし」と表記されても構わないはずだ。そのように概念規定をすればいいだけのこと。だから,永井は<私>という表記を選んだだけのことだ。しかし,なにゆえに<私>という表記を設定しなくてはならなかったのか,なにゆえに,私が<私>になってしまうのか,そこのところがわたしにはわからない。
 そこで,もう一度,さきほどの引用文をじっくりと検討してみよう。そのための仕掛けとして,永井均は・・・ではじまる主語を,いっそのこと,稲垣正浩は・・・の文章に置き換えてみよう。そうすると,もっと問題の所在が明確になってくるように思うから。で,みなさんは,同じようにしてご自分の名前を入れて考えてみてはどうだろう。すると,とたんにリアリティが増してくる。
 「稲垣正浩は今と同じあり方で存在しながら,彼が私でなくなることは想像できる。」
 残念ながら,わたしには「想像できない」のである。いったい,永井はどんな場面を想像しているのだろうか。「今と同じあり方で存在しながら」稲垣正浩が私でなくなる,とはどういうことを言っているのか。それと同時に,突然,「彼」と自分のことを呼ぶとき,そこになにが起きているのか。なにか特別のことが起きたが故に「彼」と呼びかけることができるようになったのではないのか。
 しかし,永井は「このとき,彼には何の異変も起きていない」という。わたし自身であるはずの稲垣正浩が,突然,「彼」になることの意味はなにか。ここでの突然のジャンプの意味がわたしにはわからない。「何の異変も起きていない」にもかかわらず,「もはや彼は私ではない」という。「今と同じあり方」で「何の異変も起きていない」状態で,「彼は私ではない」という。いったい,永井均は,具体的にどのようなイメージを抱いているのだろうか。
 わたしは,かつて,「わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではない」状態のことを問題にして考えたことがある。このことと問題の所在がかなり近接していると思うので,なおさら,永井の言っていることが気がかりとなる。
 永井は,私が私ではなくなる私を<私>と表記し,それを究極の他者と呼んだ。稲垣は,わたしの身体がわたしの身体でありながらもわたしの身体ではなくなっていく,その様態をとらえ,自他の問題を考えようとした。つまり,自己でありながら他者である,その自他の境界領域とはなにか,そして,ここに,じつは,スポーツする身体の究極の謎があるのではないか,と提示したのだ。残念ながら,あまり支持されなかったようだが・・・。
 このような背景があるので,わたしとしては,永井のこのテーゼは黙って見過ごすことはできないのである。そのことを念頭におきながら,もう一度,永井の第一論文を熟読することにしよう。なにか,新しい発見があるかもしれない。いや,必ずあるはずである。わたしが読み取れなかっただけの話に違いない。なんてったって,独在論の第一人者なのだから。永井均は。
 

2010年11月8日月曜日

今日はもう立冬。ことしもあと少し・・・・。

 ついこの間まで,暑い暑いと文句を言っていたのに,もう,いまは寒い寒いと文句をいう。人間なんて勝手なものです。
 毎年,同じように時間は流れているはずなのに,わたしの感ずる主観的な時間はどんどん速くなっていきます。年々,一日の時間が短くなっているのではないか,と本気で考えたりしています。時間の使い方が下手になってしまったのか,などとも考えたりしています。友人に話したら,おれも同じだよ,と。しかも,それが歳をとったということだ,とまでいわれてしまいいささか拍子抜けしてしまいました。自分ではまだまだ若いつもりでいますから,これもまた困ったものなのかもしれません。たぶん,周囲のみなさんには迷惑をかけていることだろう・・・・と。
 新聞で今日は「立冬」と知り,おやおやです。いつも,8月末くらいまではなんとなくゆったりとした時間が流れているような気がするのですが,9月に入るととたんに時間の流れが速くなってくるように思います。まあ,むかしから「釣瓶落とし」というくらですから,あっという間に夕日が沈み,夜の闇がやってきます。昼の時間が短くなっていくことと,時間の流れのスピード感覚とはマッチングしているようです。
 ことしはとくに秋がなかったという悔しさもあって,あっという間に冬がやってきて,それがなんだか損をしたようにも思えて,て,て,て・・・・,で,気がつけば,今日は立冬。川の流れでいえば,急流から激流に入るところ。そして,そのあとの12月は瀧のように流れ落ちるのみ。大晦日まではなすすべもなく流れ落ちていくのみ。ああ,情けなや,なさけなや。
 でも,むかしの人は言いました。忙しいときこそ仕事をしなくては駄目だ,と。忙しいから仕事ができないなんていうのは駄目人間の言う言い逃れにすぎない,と。そういえば,忙しい人ほどよく原稿を書いている。いったい,いつのまに書くのか,と不思議なほどだ。
 たとえば,佐藤優。かれは,睡眠時間3時間半だという。それでいてからだはメタボ。背中にまで肉を背負っている。胴長短足でちょこまかと歩く。かかりつけのお医者さんの言うには,心筋梗塞か脳溢血で死ぬ,と予告されているとか。それでも原稿を書き,講演にでかけ,対談があったり,取材に応じたり,その間隙を縫うようにして学校に通って「ことば」の勉強をしているという。そのことばは,沖縄の方言。これがまたものすごく難しいとのこと。これに比べたら,かれの得意としたロシア語なんかは簡単だった,と。
 わたしの恩師の岸野先生は,3時間も眠ると眼が覚めてしまう,とおっしゃった。食事も昼食はほとんどとらなかった。食べたくないのだ,とおっしゃる。が,じつは違うということを,あとになって知った。なにかの都合で先生と二人きりで箱根の共済の宿舎に一泊したことがある。そのときに,ちらりともらされたことが,食べ過ぎると眠くなるんだよね,と。一緒にお風呂に入って,びっくりした。これほどに痩せていらっしゃるとは知らなかった。ほとんど骨と皮のみ。肋骨がきちんと数えられるほどだ。かつては,体操競技の全日本チャンピオン。その当時の写真をみると,太い首,首の根っこに盛り上がった背中の筋肉,大胸筋はプラトンのように平ら,腹筋はボコボコ。まさに筋骨隆々だった。
 そんな先生が,わたしのはだかを眺めて,君は肉がたくさんついていていいねぇ,とおっしゃる。ところで君は何時間くらい眠るの?と尋ねられ,冷や汗が流れたことを昨日のことのように思い出す。先生の背中を流しながら,手加減がわからなくて,困り果てたことも思い出す。
 そうだ,睡眠時間だ。自分の自由になる時間を確保するには,睡眠時間を削るしかないのだ。老人になったから時間の流れが速くなった,などと嘯いていてはいけないのだ。佐藤優はあんなにメタボでも睡眠時間は3時間半で頑張っているではないか。
 よーし,あすから少しずつ睡眠時間を削っていくことにしよう・・・・とはいうものの,わたしは眠ることが大好きなのである。暇さえあれば横になって眠っていたい方なのだ。とりわけ,昼食後などは知らぬ間に居眠りをしている。これがまたなんともいえない快感なのだから困ったものだ。
 そのむかし,『短時間睡眠法』などという本がベストセラーになったことがあり,そこには,分睡法などという方法が紹介されていた。そうだ,これでいこう。すまじきものは宮仕えというが,その拘束からも解放されたいま,これだ,これだ,分睡法だ。いつでも,眠くなったら眠ればいい。眼が覚めたら好きな仕事をすればいい。これならできそうだ。
 よし,ことしの暮れは師走などとはいわせない。亀さんの走りでいい。ゆっくり,ゆっくり走ろう。しかし,うさぎさんのように長い昼寝をしないように。居眠りしながらでもいい。師走ではなく,亀走でいこう。
 まずは,朝飯前の一仕事から。

2010年11月7日日曜日

荒川修作は「天才」なのか。それとも単なる「キチガイ」なのか。

 昨日は一日,荒川修作の本を積み上げて,その一つひとつとにらめっこしながら過ごした。にらめっこをした,というのは読んで理解することを放棄したということだ。
 もう少し精確にいえば,読んでもほとんど理解不能だ,ということ。つまり,読むという行為は,少なくとも,近代的理性によりかかって,そのネットワークのどこかに絡め捕ろうとすることだ。ところが,荒川修作の著作は,そういう読者をことごとく拒絶する。もっと厳密にいえば,近代的理性の<外>にでて,可能なかぎりニュートラルな思考を要求する。こちらにその備えがないかぎり,荒川のメッセージはとどかない。だから,ひたすら「にらめっこ」をするしかないというわけだ。しかし,にらめっこにも効用はある。ことばを超えた世界に遊ぶことができるたら。まったくの空想の世界に遊ぶことができるから。
 むしろ,荒川はそれを歓迎しているようにもみえる。
 たとえば,『荒川修作 マドリン・ギンズ展 死なないために 養老天命反転地』。ほとんど,説明的な文章はなく,ただ,ひたすら「養老天命反転地」を制作するにいたる思考のプロセスがドローイングや模型や写真(建築現場のプロセス)をとおして明らかにされている。だから,必然的に「にらめっこ」をするだけになる。それでも,ときおり,なにかが「降りてくる」ことがある。これを荒川は「ランディング」(landing)と呼ぶ。そして,その「ランディング・サイト」(「降り立つ場」)を意図的・計画的に設計をし,制作し,「建築する身体」のあるべき姿を模索する。そんなことをぼんやり考えながら「にらめっこ」をする。つまり,近代的理性の枠組みの<外>にみずからの身もこころも放り出すようにして,可能なかぎり「ぼんやり」と。そうすると,意外や意外,つぎつぎに,なにかが「降り立って」くるのである。これはたまらない快感である。
 同じようなカタログ集に『荒川修作の実験展──見る者がつくられる場』がある。ちなみち,この書名の文字は裏返しになっている。すなわち,「リバーシブル・サイト」(「反転地」)というわけだ。こちらも,同じように,ひたすら「にらめっこ」をする。ほとんど,理解不能である。しかし,荒川修作がなにかを制作するときの,そのプロセスのようなものは伝わってくる。しかし,その思考の中身はわからない,理解不能。たぶん,荒川の発想のひらめきだけがドローイングとなってとびだしてくる,のだろう。それらを黙って「にらめっこ」するだけである。
 でも,不思議なことに,こんなことをしていると,あっという間に一日が暮れていく。時間が消えてしまうのである。いま,どこにいるのか,という空間すら消えてしまう。なにか,わけのわからない世界に誘導されながら,夢をみているような錯覚に陥る。ときおり,われに還る。わたしの中の内なる「自然」が,現実の世界に呼び戻してくれる(Nature call me)からだ。でも,また,すぐに荒川ワールドに飛び込んでいってしまう。快感が待っているから。
 この他にも,活字だけでできた本もある。『建築する身体』(荒川修作+マドリン・ギンズ著,河本英夫訳,春秋社)である。こちらも,読もうとはしない。「にらめっこ」することに専念。なぜなら,ほとんどが理解不能の文字が並ぶ。禅問答を読んでいるような感覚になる。たぶん,近代的理性の<外>でのみ通用する「アラカワ」言語を習得したのちにのみ理解可能となるような,一種独特の荒川ワールドが展開する。それはまさに「天才」の世界なので,こちらの「鈍才」君には理解不能である。仕方がないので,ひたすら,「にらめっこ」と相成る次第。でも,「にらめっこ」にもそれなりの効用はある。ある,ワン・センテンスが天啓のように「降り立って」くることが起こる。それは,オーバーに言えば,脳細胞の表皮が一つずつ剥ぎ取られていくような感覚である。あるいは,脳細胞の間を風が吹き抜けていく,そんな感覚。それだけで,もう,大満足なのだ。ときには,わけもなく走り出したくなる衝動にかられることもある。
 そういう衝動を引き起こした「荒川修作語録」とでもいうべきものを,最後に紹介しておこう。
 〇人間は死なない。死ねないって言ってるのだよ。
 〇地球上で初めて,この身体の使用の仕方によって,このオーガニズムの使用の仕方によって,人間が永遠に生きるってことを大発見した。
 〇人間はいつか死んじゃうんだよ,なんて言ってるのは哲学者か教育者だ。
 〇デュシャンはデュアリストだったから,お墓に書いてあるんだ。知ってる? ”いつも死ぬのは他者です”って。
 〇感覚っていうのはそこらじゅうにいっぱいある。そのことを明確に証明したのがヘレン・ケラーだ。
 〇空間とか時間っていうのはものすごいスピードで動いている。その中のホンの小さな物質がこの家って呼ばれているこの部屋だ。
 〇徹底的に間違っているんだよ。人間の生き方は。
 〇いまだに人間が戦争をしたり,人を殺したりするのはどうしてか知ってるか。何の楽しみも何の希望も無いからだ,この地球上に。
 〇大体活字を使ったものは全部省略されている,あらゆるものが。何一つ入ってない。ばい菌も無い,血も無い,何にも無い,何にもないんだ。
 〇僕にそっくりなやつが一人だけいた,歴史に。レオナルド・ダ・ヴィンチってやつだ。行き着いたところは彼も”体”だったんだ。
 〇気配を構成しなおす。これはものすごく不思議なことだろう? 気配を構成しなおすって。何によって変えると思う。雰囲気によって変えるんだ。雰囲気は何によって変わると思う? 環境によって変わるんだ。そのすべては何によって変わると思う? 有機体によってかわるんだ。
 以下,割愛。
 さてはて,荒川修作はほんとうに「天才」なのか。それとも単なる「キチガイ」?
 荒川の生涯の公私ともに伴侶となるマドリン・ギンズのことを,荒川はつぎのように言っている。
 「彼女と初めて出会ったとき,彼女は狂っていた。でも,おれなら直せると思ったんだ。その後,彼女の父親もキチガイで,母親もキチガイだということがわかった。でも,彼女は一番狂っていたんだ。」と。
 そのマドリン・ギンズを直そうと思っていたら,いつのまにか,こんなことになってしまった(生涯の伴侶に,という意味),と。しかし,わたしに言わせれば,もっとも狂っていたのは荒川さん,あなたではなかったのですか? それだから,あなたはほんとうの「天才」なんです,ということになる。
 まともな人間はまともなことしかできない。
 人がまねすることのできないことをやれる人間は,やはり,どこか狂っている。つまり,近代的理性の<外>にでている。問題は,そのことにどこまで自覚的であるかどうか,そこがポイントだ。でも,狂っている人間は自分だけが「まとも」であると確信していることも事実だ。
 荒川修作は「僕が使うボキャブラリーは,何一つ君たちにはわからないだろう」という。荒川修作は,はたして,どこまで狂っていたのだろうか。これが,わたしの,これからのテーマだ。

 

2010年11月5日金曜日

「人間は死なない」と断言した人が死んでしまった。荒川修作のこと。

 生まれて初めて映画の試写会なるものに行ってきた。12月に公開される映画の試写会である。こうして映画の批評ができるとしたら,こんな嬉しいことはない。
 タイトルは「死なない子供,荒川修作」。このタイトルをみただけでピンとくる人も多いと思う。ことしの5月19日に,「死なない」と宣言した人が,残念ながら死んでしまった。もっとも,荒川修作のいう「死なない」という意味と,わたしたちが「死ぬ」と言っていることとは,まるで次元が違うのだが・・・。74歳。まだまだ若い。わたしより2歳年上だが,学年は一つ違い。出身は名古屋市。わたしは豊橋市。同じ愛知県人として,どこか親さを感じていた。戦前・戦中・戦後の動乱の時期を,同じようにして生きてきたから。ただ,それだけのこと。ただし,かれは生まれたときからの天才。こちらは亀さんのような鈍才。
 さて,この映画。どのように紹介しておこうか。
 ごく月並みに始めようか。
 キャッチ・コピーによると,つぎのようである。
 「人間は死なない」と断言した男と,”死なない家”に住んだ人々の希望のドキュメンタリー。
 出演:荒川修作(コーデノロジスト),佐治晴夫(宇宙物理学者),天命反転住宅の住人たち,ナレーターション:浅野忠信,音楽:渋谷慶一郎,監督:山岡信貴。
 天命反転住宅とは,三鷹天命反転住宅のこと。ちなみに,監督もじつは,そこの住人。だから,彼の二人の子どもさんたちも出演する。荒川修作につぐ主演級の貢献をしている。とくに,下の女の子は誕生の瞬間からの出演である。生まれながらにして女優である。へその緒を切るシーンでは,たぶん,監督の声だと思われるが「えーっ,固いものですねぇ,なかなか切れません」「そうなんですよ,命綱ですから,ちょっとやそっとでは切れないように丈夫にできています」とこれは女性の声(女医さんか)。こうして,この子は生まれながらにして三鷹の天命反転住宅で育つ。
 この天命反転住宅は,荒川のいう「死なないために」(このタイトルの詩文がある),かれの思想・哲学を総動員して制作した,世にも珍しい「実験的」な家である。家というよりは集合住宅である。3階建て。外見もでこぼこだらけで,あちこちが外に突き出ていて,しかも原色の赤や緑や青や白が塗られている。タクシーの運転手さんに行き先を告げると「ああ,あの変な建物のところですね」と応答する。なるほど,行ってみると,ちょっと変わった幼稚園かな,と思わせるような楽しげな建物が待っている。
 当然のことながら,部屋の内側は,まともにはできていない。「まとも」ではないとは,近代合理主義的な考え方に慣れきってしまったわたしたちの感覚とはまったくかけ離れた理念が,部屋のすみずみまで徹底してゆきとどいているからだ。この説明はことばでは困難きわまりない。荒川自身も,「ことばで説明したって,おれの言っていることなんか,君たちにわかるわけがない」「だから,こうして作品にしたのだ」「ここに住んで,体験してもらうことでしか,おれの言っていることはわからない」と言っているくらいだ。なるほど,そのとおりだとわたしも思う。千万言を用いたとしても,まるで雲をつかむような話になってしまう。だから,ここでも,部屋の内側のことは省略する。
 ただ,ひとことだけ付け加えておくとすれば,わたし自身は,この部屋の中を徘徊しながらさまざまな身体感覚を覚醒させられる体験をした。このことは,眠っていたわたしのからだの中の感覚が目覚めるような,まったく新しい発見であった。そういう経験は,たとえば,荒川修作の代表作といわれる養老天命反転地でも,奈義現代美術館(荒川作品「太陽」)でも,ひしひしと感じた。この感覚こそが荒川のいう「生命の躍動」であり,「生きる」ということの内実なのだ。そのことを,荒川は集約して「転ぶ」と表現した。
 人間は「転ぶ」瞬間に,わたしの身体はわたしの身体ではなくなってしまう。さて,この瞬間に人間の身体はどうなるのか。この瞬間にこそ,無意識の身体がとびだしてきて,世界を支配する。日常の意識的身体とはまったく次元の違う,新しい身体の発見である。ここを荒川は「生命」のよりどころとしたのである。人間は「死なない」と,声高らかに荒川が宣言したのは,この「生命」を取り戻して,そこに信をおいて生きること,そういう人間は「死なない」と言ったのである。ここでの「生命」を生きることは,わたしたちが日常的に生きている「生命」とはまるで次元が別だ。つまり,近代的理性の呪縛から解き放たれた「生命」をとりもどすこと,言ってしまえば,始原の人間の身体感覚を取り戻すこと,もっと言ってしまえば,限りなく「ヒト」に接近すること,さらに踏み込んでおけば,「内在性」を生きること,そこには,すでに,「生死」の境界は存在しない。そこまでいけば,人間は「死なない」,というわけだ。
 断っておくが,以上の見解は,あくまでもわたしの,きわめて個人的な荒川修作理解にすぎない。おそらく,荒川修作をどのように受け止めるか,というその流儀はいくとおりも存在するだろう。それほどにスケールの大きな問題提起を荒川はしているということだ。だから,荒川は言う。「君たちにおれの言っていることは理解不能だろう」「もし,理解したところで,おれの言っていることのほんの断片にすぎないだろう」と。
 この話は,このあたりで一区切りしておこう。
 この映画のなかでは,わたしには,この出産シーンがとても印象的だった。この「生まれる」があって初めて荒川のいう「死なない」が意味をもつ,と監督は言いたかったのではないか,と。つまり,人間が生まれる前の「生命」のことを考えることと,「死なない」ということとが対になっている,という発想が監督のどこかにあるのではないか,と。もう少し踏み込んでおけば,仏教の禅問答では,「父母が生まれる前のお前の生命はどこにあるか」という問い(禅の公案の一つ)がある。これには,こんにちの科学も哲学も答えることはできない。しかし,禅では答えがある。立派な答えが。同じように,死後の世界も,きちんと存在する。きちんと修行をした人は,たとえば,仏陀や菩薩のような人たちは輪廻転生の呪縛から解き放たれ,死後に浄土の世界に移り住み,遊戯三昧(ゆげざんまい)の永遠の命を生きる,と考えられている。わたしなどは,根が仏教徒なので,ごくごく自然にこのようなところに思考が流れていく。しかし,山岡監督が,どこまで,このことを意識していたかは不明である。が,とても興味を惹かれたところではある。
 少なくとも,荒川修作の「死なない」はこれとはまた別の次元の話である。とはいえ,必ずしも,そんなに遠く離れているとは,わたしには思われない。その謎を解く鍵は,「この地球上では死なないのではなく,死ねないのだ」という荒川のことばにある,とわたしは考えている。つまり,このことをどのように解釈するか,にかかっている。
 ここからさきのことは宿題にしておこう。なぜなら,荒川の言うには,科学者も哲学者も芸術家も,これまで,だれも「生命」ということをまじめには考えてこなかった,そんな科学や哲学や芸術は存在する意味がない,さっさと捨て去るべきだ,と。あるいは,そういう思考のパターンから抜け出すことこそが「死なない」ための第一歩だ,と。という具合で,彼独特の生命観がそのさきに広がっているので,そこを解きほぐすにはいささか字数が必要だ。というわけで,宿題に。
 ひとまず,今日はここまで。
 いずれにしても,この映画は12月に一般公開される。しかも,少し違った形式で。どこで,どのようにしてみることができるか,いまからアンテナを高くしておいてほしい。「身体」に関心をもつ人には「必見」の映画(ドキュメンタリー)である。いささか,難解ではあるが・・・・。

2010年11月4日木曜日

innewerden ということについて。その4.ヴィジョナリー・スポーツの根拠の一つとして。

 innewerden ということについて,3回ほどこのブログで書いた。しかし,その反応が芳しくない。なぜだろうか,とずーっと考えつづけている。が,わからない。
 マルチン・ブーバーは「対話」のもっとも根源的なところで起きている現象として,ことばを発することなくお互いのこころのうちで通い合う「交感」「交信」のことを,innewerden というドイツ語に籠めた。わたしはマルチン・ブーバーのテクスト『我と汝/対話』(植田重雄訳,岩波文庫)を熟読しながら,このinnewerden こそ,わたしが考えている「ヴィジョナリー・スポーツ」の一つの重要な根拠となりうる概念ではないか,と考えはじめている。だから,innewerden というドイツ語は,わたしにとっては「21世紀スポーツ文化」を模索する上でのきわめて重要な概念の一つとして,新たに立ち現れたもので,そんなに簡単に看過するわけにはいかないのである。そんな意味もこめて,このブログを読んでくださっている人たちに向けて,innewerden の重要性を説いてきたつもりなのだ。しかし,その反応がいま一つ。それはどうしたわけなのだろう,と頭を抱え込んでいる。やはり,説明の仕方が稚拙であるとしかいいようがない。
 ということで,4回目の挑戦である。くどいようだが,ご理解ください。
 わたしたちは,意識しているかしていないかはともかくとして,わたしたちを取り囲む環境世界(ユクスキュルのいう Umwelt )と,なんらかのかたちで「対話」(マルチン・ブーバーの意味)を交わしている。別の言い方をすれば,それは環境への適応でもある。それは,同時に,生きるという生命活動の基本でもある。だから,わたしたちが生きるということ,あるいは,生物が生きるということは,すなわち,そこでなんらかの「対話」がなされているということだ。
 しかし,わたしたちは,生物学でいう環境世界のみならず,物理学でいうところのさらに大きな宇宙とも対話の範囲を広げていく。この世界は,こんにちの科学の力によって,わたしたちの想像を絶するほどの気宇壮大なところにまで伸びている。
 そればかりではない。わたしたちは,精神世界や霊的世界とも,ずいぶん古い時代から対話をするようになる。わたしの仮説では,ヒトが人間になる,その瞬間からすでに説明のできない存在不安に襲われたはずであるし,その不安を埋め合わすための数限りない創意工夫がなされたはずである。それらの残像の一部が,供犠であったり,それにともなう祝祭であったり,さらにはマルセル・モースがいうところの「贈与」であろう。ポトラッチという消尽に近い贈与もまた,その一環として考えてよいのだろう。
 しかし,「死」という問題にどのように向き合うのか,そして,どのようなスタンスをとるのか,ということに関してはこんにちもなお決定的な方法を見出すこともできないまま,暗中模索がつづいている。だからこそ,その説明の仕方や説得の仕方をめぐって,諸説乱立がつづく。精神世界や霊的世界の鬱陶しさと同時に無視することのできない闇の世界の存在に,わたしたちは無縁ではいられない。そして,とりあえずは,自分に納得のいく方法で,それなりのやり過ごし方を身につけるしかないのだ。
 その是非は,いまは,問わない。一人ひとりのこころのうちには,説明不能な,もっとさまざまなものとの対話も行われている。つまり,自分が安心立命して生きていく上で必要な了解(あるいは,納得)をえるために。そうしたすべての交信・交感を,マルチン・ブーバーは innewerden ということばで表現したように,わたしには読める。もちろん,その背景には,マルチン・ブーバー固有の宗教体験もふくまれている。そして,そのことについても,マルチン・ブーバーは随所で正直に告白もしている。
 
 ちょっと,一休み。つづく。

異様な雰囲気になってきた「APEC厳戒態勢」

 いつのころからだろうか,かれこれ2週間ほど前からだろうか,わたしの利用する田園都市線の駅に征服の警官が警棒をもって箱の上に立つようになったのは・・・。
 わたしが常時,利用する駅は溝ノ口と鷺沼である。この両駅には,複数の警察官がうろうろしているので,なにかあったのかな,このごろ眼につくなぁ,と思っていた。しかし,隣の宮前平駅には,改札口を入った正面に征服の警察官がひとりで立っている。しかも,小さな箱の上に長い警棒をもって直立不動の姿勢で。最初に気づいたときは驚いた。ちょうど,乗客が降りてきたところで混雑していて,そういう警察官が立っていることに気づかなかった。で,混雑している人をかき分けるようにして,その警察官の立っていることに気づかないままその前をとおり過ぎようとしたその瞬間,なにかが動いた。わたしは,びっくりして飛び退いた。征服の女性の警察官が直立不動の姿勢で立っていたことにわたしは気づかなかったのだ。よくみると,顔の前に虫かなにかが飛んできたらしく,そのあとも振り払っている。その最初の一振りに,わたしは出会ってしまったというわけだ。まだ,うら若き女性警察官である。たぶん,24,5歳というところ。もっと若いかもしれない。可愛い顔をした女性だった。が,わたしが「飛び退いた」のをみて,なにごとか,という顔でじっとこちらをみている。わたしも,じっとみつめてしまった。かなりの至近距離である。仕方がないので,「人形さんかと思った」とひとりごとのようにつぶやいて(もちろん,聞こえるように),階段を昇った。
 以後,その駅で乗り降りをすることにした。いつも,交代で征服警察官が,やはり,直立不動の姿勢で立っている。なにゆえに立っているのかわからないわたしにとっては異様な光景である。こんなことをしなくてはならないほど,最近の駅にはトラブルが多いのだろうか,と考えたりしながら観察している。そういえば,郵便局の前にも警備の人が立っていたり,この間は渋谷駅の近くの銀行の前には警備の人が二人並んで立っていた。やはり,世の中,ぶっそうな時代になったんだなぁ,と自分を納得させるようにしていた。それにしても,過剰警備ではないのか・・・とこころの中ではいぶかっている。
 そうしたら,昨日の新聞に「APEC横浜厳戒」「警備4.3万人,住民に身分証,宿泊制限」という見出しのついた大きな記事が載っている。「APEC会場周辺の交通規制区域」の地図も,その区域全体を写した航空写真も,そして,「初登場の無人警戒艇」の写真も掲載されている。ああ,これだったのか,と一度に納得。APECが今月の7~14日まで横浜の「みなとみらい」地区で開催されるということは知っていた。しかし,考えてみると一カ月も前から警戒態勢に入っている。これはなにごとか,と考える。やはり,変だ。こんなに過剰とも思える警備をしなければ「APEC」を開催することはできないのだ。APECと聞いただけではなんの会議かもよくわからない。しかし,「アジア太平洋経済協力会議」とフルネームで「眼」で確かめてみると,その実態が具体的にリアルにみえてくる。それはそうだろう。この会議を開かれては困る人たちが世界中にたくさん居る。この人たちのなかには相当の過激派も居る。自爆してでも阻止してやろうという人たちも居る。そういう人たちがたくさん居るのに,なぜ,この会議を開催しなくてはならないのか。
 こんなに過剰な警備態勢をとってまでこの会議を開催しなくてはならない理由はなにか。それを新聞はきちんと報道してほしい。わたしたちも,それなりに,その理由を確認する必要がある。いま,なぜ,日本の横浜で開催しなくてはならないのか。
 だれかが得をして,だれかが損をする。
 だから,強行実施派と強行反対派とに分かれる。
 なぜ,そうなってしまうのか,この際,じっくりと考えてみることにしよう。しっかりと考えるか,なにも考えないか,そして,どのような生き方を選択していくのか,そういう人の数のバランスによって「現代史」が形作られていくことになる。昨日の色川大吉さんの「自分史」ではないが,どんな姿勢をとろうとも,その総和が歴史をつくることに変わりはない。

2010年11月3日水曜日

色川大吉さんの考える「自分史」はインスクリプション。

 昨日の朝日の夕刊に,色川大吉さんの「自分史」が取り上げられている。そして,「自分史」とはなにか,ということについて色川さんがみごとな見解を提示している。それは,まさに,インスクリプションそのものだ。
 『昭和へのレクイエム──自分史最終篇』(岩波書店)が完成し,「自分史」を提唱して35年の年月をかけて「昭和自分史」5部作を完結。この機会をとらえて,池田洋一郎記者がインタビューし,色川大吉さん(85歳)が答えている。
 まず,その冒頭で,色川さんはつぎのように語っている。
 「自分史は,一般の歴史書を書くよりはるかに疲れます。単なる回想記でも自分勝手なものでもだめ。自分自身を客体化し,同時代の動きや環境とセットにして書かなきゃいけない。詳細な日記を提示して事実だったと実証せねば。しかも,自分を取り巻いていた状況が,自己の内面に深く食い込んだ部分を核としないと本当の自分史にならない。歴史を自分の外にあるものとせず,心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く。非常に緊張を強いられる。今後はこんな仕事はできません。」
 ここを読んで,ただちに想起したことは,今福さんの提唱される「インスクリプション」である(詳しくは『近代スポーツのミッションは終わったか』平凡社刊,を参照のこと)。つまり,ディスクリプションではなく(「歴史を自分の外にあるものとせず」),インスクリプションでなくてはいけない(「心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く」),ということだ。このことの意味を十分に理解しないまま,今福さんの主張を否定するのみならず,今福さんの主張に与する会員の研究発表を,寄ってたかって批難(批判でも,批評でもなく)するという事態が起きていると聞いている。だから,どうしても,色川さんのこのご意見には敏感に反応してしまう。そして,大きく勇気づけられる。
 しかも,色川さんは,「そもそも『自分史』を提唱した理由は何ですか」という問いに対して,さらに,つぎのように語る。
 「時代の構造や指導者像ばかりを追い,科学的で客観的な歴史学一点張りの硬直した学界に対する反発がありました。歴史をつくったのは少数のエリートではない。無名の多くの民衆の力でつくられてきた。民衆とは,それぞれ自分の人生を担っている人々の集合体。一人ひとりの人間にウエートを置いた歴史を書かねばならない。個性を重視し,歴史を物語る主体はその本人だということを明確にしようと,『自分史』を打ち出した。」
 色川さんのご指摘の「硬直した学界」は,いまも健在で,しかも反動的ですらある。もう,どうしようもない,というのがわたしの感想である。だから,なにがなんでも,その体質の土手っ腹に風穴を開けないことには我慢ならない。そのためには,ひとりでも闘えるだけの確固たる理論武装をしなければならない。そのための仮説として,まずは『スポーツ史研究』(スポーツ史学会機関誌)に総説論文として,わたしの考えを提起した。しかし,残念なことになんの反応もない。学会誌なのだから,もっと自由に議論が起こっていいと思うのだが・・・。
 その意味で,色川さんのお仕事は素晴らしいのひとことである。やはり,理論仮説などという甘いことを言っていてもだめで,その仮説にもとづいた具体的な記述をするしかないのだろう。ディスクリプションではなくてインスクリプションだ,などという空中戦をいくらやっても意味がない。色川さんは「自分史」を提唱してから35年かけて,みずからの「昭和自分史」5部作を完結させた。これしか方法はないのだろう。
 さきの発言につづけて,色川さんは,さらに,つぎのように追い打ちをかける。
 「もともと民衆一人ひとりは何を考えているのかというのが,私が昭和史を考える最大の問題点でした。私の10代は大戦争の真っ最中。私も含め国民の大部分が戦争万歳でした。決して一部の指導者が引きずったんじゃない。民衆が戦争を担い,焦土を招いた。なぜなのか。なぜあなたは,私は,あの無謀な戦争を疑わず支持したのか。一人ひとりの自分がそのとき何を考え,何をしたのかを問う学問が必要だと思いました。そこから歴史に対する反省と個人の責任が出てくる。それが自分史の出発点でもあります。」
 このことばの重さを,わが身をふり返りつつ,しみじみと受け止めざるをえない。ヨーロッパ近代の構築した歴史学というアカデミズムの硬直化した体質を,どこかで突き破り,みずからの主張を展開することは容易ではない。しかし,それをやらないことには,悪しき慣習行動から抜け出すことはできない。そのためには,燃えたぎるようなLeidenschaft(情熱,激情)が不可欠である。85歳になった色川さんが「今後はこんな仕事はできません」というのも宣なるべしというべきか。わたしも残り時間は多くはない。いまこそ・・・・と気持ちばかりが焦る。
 インスクリプション。inscriveする。「からだの中に書く」と今福さんはおっしゃる。「心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く」と色川さんはおっしゃる。言っていることの内実は同じだ。さて,そこまで,みずからを追い込んだ「スポーツ史」なり,「スポーツ文化論」なりを記述することが,わたしには可能なのだろうか,と問い直す。ここから,まずは,はじめるしか方法はない。勇気をもって「第一歩」を踏み出すしかないのだ。
 「百尺竿頭出一歩」。

2010年11月1日月曜日

骨を磨り潰して関係者で食べてしまう「転座供養」について。

 玄侑宗久さんの短編に『宴』という作品があって,死者の骨を身内の者が集まって坊主と一緒に食べてしまう「転座供養」の話が描かれている。
 ストーリーはいたって簡単。52歳になる未亡人が,夫の骨を本家の墓に入れてくれないし,住んでいた家も本家にとられるという話の進みゆきのなかで,それならいっそのこと夫の骨を身内の者で食べてしまおう,という話。未亡人は,桜の花の満開の日を選んで,長男夫婦と次男を呼び集めて,それを実行する。その相談に乗った坊さんも加わって合計5人で,死者の骨を磨り潰してビーフ・シチューにして食べてしまう。長男は学校の先生,次男は東京の大学でウィルスの研究をしている研究者。世間一般からみれば,いわゆるまともな家族である。しかし,どこか変。この相談に乗って,「転座供養」だと宣言する坊主も,一見したところまともにみえるが,やはりちょっと変。でも,このことが粛々と執り行われていく。
 もちろん,もっともっと複雑な背景がそれぞれの登場人物にはある。坊さん個人にしても,父が医者,兄たちもみんな医者,自分も医者になるべく勉強したが,受験に失敗して家出をして出家する。以後,14年間,家族とは会ったことがない。しかも,子供のころから父親と親しげに会話をした記憶がまったくない。小学生のときに,道路で父親に出会って「こんにちは」と挨拶をしたら,家に帰ってからひどく叱られた記憶がある,という。この家族も,医者一家とはいえ,どこか壊れている。
 お互いの血のかよった暖かい人と人との関係がどこにも見当たらない,それでいて,世間体でいえば知的エリートに属する人たちの,凍てつくような冷え冷えとした人間関係が浮かび上がってくる。
 玄侑宗久さんは,なにゆえにこのような短編を書いたのだろうか。ご本人も禅僧としての修行も積み,坊主と作家の二足のわらじを履きながら,活発な活動をつづけていらっしゃる。この人はなにを考えているのだろうなぁ,とある種の親しみの感情とともに,以前から気になっている。だから,ほとんどの作品は読んでしまう。そして,そのつど,なるほどなぁ,と思うことが多い。しかし,この作品は困った。はたと,考えこんでしまった。
 死者の骨を磨り潰して食べてしまう,これを「転座供養」と称して,合理化してしまう沢道和尚。「転座」とは仏教用語かと思って辞書を調べてみたら,そうではなく遺伝子用語。「染色体の一部が,切断・再結合・交換などにより位置を変える現象。染色体内転座と,染色体間転座がある。染色体内転座をとくに転位という」とある。だから,「転座供養」とは,玄侑宗久さんの造語である。骨を磨り潰して食べてしまうことを,あえて「転座」と考え,それを供養と結びつける。そして,沢道和尚はさいごにつぎのように宣言する。
 「来年も満開の桜を見たら,お父さんを憶いだすでしょ」「どこかでビーフ・シチュー食べたときも,きっと憶いだすでしょ」「ですからどこで何をしていても,桜が咲いているのを見たらそれがお墓参り。ビーフ・シチューを食べたらそれがお墓参り」,という具合である。
 なぜ,こんな話を持ち出したのかというと,それには理由がある。
 比嘉豊光さんが「骨の戦世」で展示した骨は,旧日本兵のものである。この骨を写真という作品にして展示することに,どうしても釈然としないものがある,と豊光さんに近い関係者から話を聞いたこと(9月の西谷さんの集中講義のとき)。そして,豊光さんが「この骨はヤマトのものだから,ヤマトンチューが処理しろ」と言い放ったということ(この話はNさんからも聞いているし,最近では,合田正人さんも『読書人』の書評のなかで書いている)。この骨が発掘されて洗骨している途中で,脳髄のミイラ化されたものがでてくる,それを豊光さんはビデオ・カメラで撮影しているのだが,その瞬間から画像が乱れに乱れていく,撮影している豊光さんがこの骨の主と,まるで innewerden しているかのように(この画像を,つい二日前(30日)にみてきたばかり)。このあたりの話も30日のシンポジウムで聞けるかな,という期待があったが,残念(台風のため中止)。
 やはり人骨というものは「ただもの」ではない。わたしのように寺で育って,ふつうの人よりは多少とも人骨に対する免疫があるにもかかわらず,豊光さんの写真展をみて,身動きがとれなくなった作品が何点かあった。これを記録写真としてみたとき,これほどの迫力をもつ写真もまた希少であろう。しかし,これをアートとして作品とすることの是非については,ひとまず措くとして,広く展示されることの意味は大きいと思う。そして,この写真集が岩波ブックレットとして刊行されたという。これから,さまざまな議論が沸き起こることだろうと思う。
 豊光さんは「ヤマトンチューの手で処分しろ」というが,さて,それが是か非か,沖縄の人たちの間でも意見は別れるという。では,ヤマトンチューたるわたしたちとて,どうするのがベターなのか,判断に苦しむところだ。
 こんなことを考えていたので,ふと,玄侑宗久さんの短編『宴』を思い出してしまった,という次第である。死者を弔うこと,これは生き残った者のつとめである。その象徴ともいうべき骨を,どうすべきか,意見の分かれるところだろう。夫であり,父である人の骨を磨り潰してビーフシチューにして食べてしまう「転座供養」という,異様な光景も,そしてまた,それを主宰して共に食べてしまう坊主の立ち位置もまた,そこはかとない「人間性」の深淵を覗き込むような,わたしたちの「存在」の危うさの表出に立ち会う,恐ろしさをおぼえずにはいられない。
 玄侑宗久さんの提起したものは,「人間性」という隠れ蓑に対する徹底した懐疑であったのか。「人間性」とはなにか,バタイユの提起した「動物性」の問題ともからめて,もう一度,原点から考え直すことが,いま,求められているように思う。深く,重い課題である。