2011年10月31日月曜日

「全中国武術大会の優勝者たち・2011年」という動画をみる。

一昨日,「北京で太極拳」というペン・ネームの方から,わたしのブログにコメントが入りました。わたしのブログのタイトルは「北京体育大学で太極拳の授業を見学」です。コメントの内容は「Sakanaka選手はまもなく(11月20日前後),北京を離れてロンドンに留学されるそうです」というもの。

今日(31日)になって,なんとなく気になったので,「北京で太極拳」というペン・ネームの方がどういう方なのかコメントを手がかりに探ってみました。すると,なんと「北京で太極拳」というのは「ブログ」のタイトルで,クリックしたらいきなりブログのトップ・ページに入っていました。そこには,「takeichi3.exblog.jp」とありました。

あちこち手当たり次第にブログの内容を拾い読みしてみましたところ,北京体育大学にも長年,留学されていらっしゃる方だ,ということがわかりました。そして,いまは,太極拳の表演服やシューズ,器具,などの取次ぎ販売をしていらっしゃる方のようです。ですから,いまも北京体育大学と深い関係があって,その情報も詳しいのだ,ということがわかりました。たぶん,もう少し調べれば「takeichi3」がどういう方であるかも,すぐにその詳細がわかるだろうと思います。

そんなことはともかくとして,この方のブログを開いてみてビックリ仰天。中国の映画の話から易筋経の解説から中国料理の話まで,さまざまな内容があるのですが,その中に「全中国武術大会の優勝者たち・2011年」というブログがあったからです。しかも,それがたんなるブログの枠組みをはるかにオーバーする手の込んだもので,内容がいっぱいの動画で構成されていたからです。ちょっと覗いてみようと思って開いてみたら,つぎからつぎへと尽きるところを知らないほどの分量の動画がでてくるのです。とうとう途中で放棄して,このブログを書こうと思い立った次第です。

「全中国武術大会の優勝者たち・2011年」というタイトルのもとに,「男子棍術一位」「男子南棍一位」「男子剣術一位」「男子対練(二人組)一位」「男子対練(三人組)一位」という見出しがあって,そこから動画に入っていく,という仕組みになっています。わたしは,「ああ,一位の人の映像がみられるのだ」と思い込んで,そこを開いてみたら,なんと,つぎからつぎへと演技者が登場してくるではありませんか。たぶん,上位の相当数の人の映像がそこに取り込まれているのでしょう。太極拳の好きな人にとってはたまらない映像です。

しかし,残念なことに,わたしがやっているような「24式」のような,ゆっくりした太極拳の映像はひとつもありません。なぜだろう,とあちこち探してみましたが,見つかりません。そこで,はたと気づいたことは「競技武術」の種目のなかには,もはや「24式」のような種目はなくなってしまったのではないか,ということでした。このことは李老師から,もうずいぶん前に聞いていたように記憶しているのですが,たしかではありません。こんどお会いした折に確認してみようと思います。

でも,映像は,さすがに「全中国武術大会」だけあって,すばらしい選手がつぎつぎに登場してきて,迫力満点です。とりわけ「男子対練(二人組)」の,素手対槍の表演は,小さなディスプレイを覗き見しているだけなのに,呼吸が止まってしまいそうです。ひとつ手順が狂ってしまえば,大怪我は間違いないだろうという,目まぐるしいほどのスピードで「突く」「かわす」が矢継ぎ早に繰り広げられます。どれほど稽古を積んできたのだろうか,と呆然としてしまいます。

まあ,こんなことがわかりましたので,ひとまず,ご紹介という次第です。
この他にも,少林寺の映像もでてきたりして,中国武術の映像を楽しむにはこと欠きません。たぶん,わたしは途中で放棄してしまいましたが,古いブログをたどっていけば,もっともっと面白い映像がでてくるのではないか,と想像しています。

また,時間のあるときに「北京で太極拳」さんのブログを探索してみようと思っています。
取り急ぎ,太極拳好きの方のために,ご紹介です。いやいや,知らなかったのはわたしだけで,もう,とっくのむかしにみなさんはご存じだったかもしれませんね。だとしたら,笑って読みとばしてやってください。


2011年10月30日日曜日

「死」と相撲の関係について。

昨日(29日)の「ISC・21」10月東京例会で久しぶりに気持が入り,思考がフル回転し,記憶に残る例会になった(わたしひとりだけだったかもしれないが)。現段階での思考のとどくかぎりの,ぎりぎりの議論ができた,と思うからだ。それを挑発してくれたのは,井上邦子さんのプレゼンテーション。テーマは「死を賭すモンゴル相撲を考える」。

このところ井上さんの研究は,はじけたように新たな展望をみせてくれる。その視点がフレッシュで魅力的だ。だから,わたしなどは妙に興奮してしまう。ふつうなら見過ごしてしまうところに焦点をあて,これはなぜか,と問う。まことに鋭い指摘にであう。

今回は,モンゴル相撲に関する記述を,三大古典文学にさぐり,ひとつの重要な疑問点を提起してくれた。モンゴルの三大古典文学とは,『ゲセル・ハーン物語』『ジャンガル』『元朝秘史』。これらの古典文学のなかに記述されている相撲には,あるひとつの共通点がある,という。それは,決闘ではないのに,相手を殺し,しかもその亡骸を引きちぎって捨ててしまう,という描写だ,という。

決闘は相撲とはまったく別個に扱われていて,決闘そのものの描写として登場し,完結している。しかし,相撲は宴の余興のようにして「取り組まれる」にもかかわらず,最終的には「殺して」しまい,亡骸を「引きちぎって」ばらばらにし,「捨てて」しまう,というのである。

相撲は決闘とはことなる(力を競い合う)「取組み」であるにもかかわらず,最後は,無残にも相手を殺してしまい,その亡骸をばらばらにして,捨ててしまうのは,なぜか?と井上さんは問題提起をする。そして,そこから井上さん独自のアナロジーが展開する。

このプレゼンテーションを聴きながら,わたしは「死」と相撲の関係に思いを巡らせていた。日本の相撲もノミノスクネはタイマノケハヤを「蹴り殺して」いる。これも天皇が「相撲を取らせた」という記述のなかでのことである。もうひとつの「国譲り」神話のなかでも,タケミカズチがタケミナカタと相撲を取ったが,タケミナカタが途中で逃げだしてしまい,諏訪でまで逃げたがつかまってしまい,「命だけは助けてくれ」と頼み,国を譲ったという話になっている。だから,わたしは日本の古代の相撲は「決闘」である,と単純に考えてきた。

さらには,ギリシア神話のなかにも,ある男が旅人をつかまえて「レスリングをしよう」と声をかけ,それに応じた旅人を「殺して」しまっている。ペロップス神話も同じだ。娘の婿取りのために大王が戦車競走を仕掛ける。それに応募した婿候補はつぎつぎに負けて大王に「殺されて」しまう。最後に勝ったぺロップスは大王を殺し,婿となり,その土地を領有する。それがギリシアのペロポンネソス半島の名前の由来だ。

ドイツ中世の英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』のなかにも,女王の婿選びのための競技会が描かれている。ここでも女王と競技をして負けた相手はみんな「殺されて」いる。

こういう例をあげていくとまだまだいくつもある。ギリシア神話のなかには,女王と駆けっこをして勝てば婿,負ければ殺される,という話もある。つまり,相撲や競技による「力比べ」はみんな,最後には「殺されて」いる。もっと言ってしまえば,「死を賭した力くらべ」なのだ。だから,わたしはこれらすべてが「決闘」だと考えてきた。

しかし,井上さんは,そうは考えない。モンゴル相撲の記述を三大古典文学にさぐり,明らかな「決闘」と「相撲をとる」とは分けて考えるべきだ,と提起する。つまり,最初から武器をもって闘う「決闘」と,武器をもたないで「力くらべ」をする「相撲」とは,分けて考えるべきだ,と。そして,そうすることによって「相撲」(力くらべ)のなんたるか,すなわち,相撲の本質により深く迫ることができるのではないか,と。

この井上仮説の感性の鋭さに,わたしは痛く感動し,同時に,わたしの思考にスイッチが入り,一気にフル回転しはじめた。ここからさきの話は,記述するとしたら大論文になってしまうので,ブログにはふさわしくない。また,いつか機会をあらためて,小さなテーマに分けて考え,書いてみたいと思う。

研究会というのは,こういうことが起きるから面白い。これは一種の「場」の力でもある。まさに至福の時である。残念だったのは,井上さんが懇親会に参加することなく,急いで帰途につかれてしまったことだ。あの思考の余韻を,懇親会で,さらに追い込んでみたかった。その時の到来をいまから楽しみにしているところ。


2011年10月28日金曜日

「エイト・ワン・ボイント・スリー,Jウェーブ」に耳を傾ける。

鷺沼の事務所で,毎日,昼食をつくって楽しんでいる。ほとんど休むことなく事務所に通っているので,だいぶ上達した。大学の仕事をリタイアしてからだから,4年目に入る。だいぶ手際もよくなってきた。子どものころから台所仕事は嫌いではなく,むしろ喜んで母親の手伝いをしていたので,だいたいのことはわかっている。しかし,結婚してからは手を出さないことにした(手を出すなと忠告してくれた友人がいた)。だから,長いブランクがあった。でも,なんとかなるもので,いろいろ工夫をしながら,わけのわからないものをつくって食べている。

この昼食の準備中と食事中に,ラジオを聞いている。それが「エイト・ワン・ポイント・スリー,ジェイ・ウェーブ」である。「81.3」。「Jウェーブ」という名の局の放送だ。聞いたことのある人はすぐにわかると思うが,「エイト・ワン・ポイント・スリー,ジェイ・ウェーブ」というセリフには音楽の曲がついていて,ちょっとした区切りのときに何回もくり返し流れてくる。しかも,いくつものヴァージョンがあり,つぎつぎに新しいヴァージョンが登場する。すっかり耳になじんだな,と思っているとまた新しいヴァージョンの曲が流れてくる。最近では,本格的なクラシック調のものまで登場してきて,なかなか楽しい。

まず最初は,この音楽の部分が気に入って,この局の放送を聴くようになった。しかし,よく聴いていると,とても語りのソフトな,それでいて情感豊かな,しかも,とても賢い(頭の回転のいい)お姉さんが何人か交代で担当していることがわかり,注目して耳を傾けるようになった。さらに,驚いたことに,この頭の回転のいいお姉さんたちのほとんどがパイリンがルであることがわかった。

最初のうちは,日本語をしゃべるお姉さんと,英語をしゃべるお姉さんの二人が担当していると勝手に思っていた。しかし,同一人物が日本語も英語もしゃべっていることがわかり(つまり,ほとんどまじめに聞いてはいなかったということ),それからにわかに興味をもちはじめた。でも,このお姉さんたちのしゃべる英語はほとんど聞き取れない。どうやら完璧なネイティーブらしい。それにしては,日本語がうますぎる。こちらも,まさに,ネイティーブだ。が,しばらくこのお姉さんたちの英語を聞いているうちに,少しずつ聞き取れるようになってくる。となると,もう,嬉しくてうれしくて,まじめに耳を傾けるようになる。

そして,さらに驚いたことには,「脱原発」のスタンスをきちんともっていて,語りの軸を構築している。しかも,ほとんどがアドリブで語っている。聴きはじめのころは,近く来日することが決まったアメリカの歌手に電話をつなげて,直接,インタヴューをしているのを聴いて,まずは,驚いた。芸能関係に詳しいお姉さんたちだ,と自分で納得していた。しかし,である。「3・11」以後には,フクシマの原発の設計に従事したことのあるエンジニアというアメリカ人と,やはり,電話で直にやりとりをしているのを聴いて,これまたかなり踏み込んだインタヴューをしているのにびっくり。

セリフの決まっているニュース,道路情報,天気予報,などは,別のお姉さんが登場して,そのつど,読み上げている。このときが,短い休憩時間らしい。ひといき入れてくると,コーヒーを飲んできたとか,タバコを吸ってきたとか,と雑談を挟む。しかも,コーヒーやタバコの効能まで述べる。そのスタンスから,「経済と命と,どちらが大切か」と語りかけてくる。この自由闊達さがなんともいい。

この間,ちらりと聴こえてきた話によれば,ひとりのお姉さんは,そのむかし,某テレビ局のアナウンサーをしていたが,あまりの「ことば(用語)」と「語りの内容」の締めつけが強くて,こんな仕事は人間のやることではないと見切りをつけて,こちらのラジオに移ってきた,とのこと。テレビではロボットだったが,いまは,人間になれた,と吐露。

つまり,この人たちはアナウンサーではないのだ。いわゆるフリーランスであり,パーソナリティなのだ。自分の立場(人生観,思想)をはっきりと打ち出し,語りのうまさとバイリンガルと人間性を売りに,独立独歩の道を歩いている。つまり,逃げも隠れもしない,ひとりの人間としてつねに勝負にでている。だから,じつによく勉強していることが伝わってくる。まず驚くのはその情報ネットワークの広さと密度の濃さである。しかも,本をたくさん読んでいる。しかも,哲学書まで。「わたしの理解では,ニーチェは・・・・」という調子で語りはじめることもある。

ラジオのパーソナリティに注目すべし。
これが,今日のブログの結論。

2011年10月27日木曜日

サクセスフル・エイジングということばが,すでに認知されているとか。

木直木寸十具也さんからのコメントで,サクセスフル・エンジングということばが,すでに,介護福祉の資格をとるための授業のなかでとりあげられていて,しかも立派な概念規定までされていて,かなり詳しく説明されているということを知りました。わたしの不勉強が露呈した一幕でした。

しかし,そのコメントに書いてあることを一見した瞬間から,わたしはフリーズしてしまいました。エーッ,こんな意味内容で,このことばが世間に認知されているとは・・・? おまけに,専門家といわれる人たちがもっともらしくこのことばの解説をし,それをそのまま学んでいる人たちがいるという事実にまたまたびっくり仰天です。そして,このようにして,このことばが社会のなかに浸透していくのだ・・・と考えたときから,わたしは絶望のどん底に落ち込んでいます。

そのコメントによれば(ぜひともご参照のこと),サクセスフル・エイジングとアンチ・エイジングが対比されていて,さらに,プロダクティーブ・エイジングということばまで説明されているとのこと。またまた,「エーッ?!」と声をあげてしまったほどです。(いつもだと,ここは「ビックリ仰天」と書くところ。今回は自重しました。すでに,一度,使っていますし・・・。)

プロダクティーブ・エイジング。じっと,このことばをみつめてしまいました。エイジングとは「加齢」。だとすれば,直訳して「生産的な加齢」とはどういうことを意味するのだろうか,と。これは英語圏で用いられている生きた英語なのだろうか。それとも日本人が得意とする和製英語なのだろうか。とまあ,いつものように考えてしました。この点について,木直木寸さん,わかっていることがありましたら,ぜひとも教えてください。

プロダクティーブ・エイジング。「生産的に加齢すること」。他人よりも早くどんどん歳とっていくってこと?生産性・効率性を高めて加齢するって,どういうことなの?やはり,早く死ね,ということ?という具合にひねくれ者の(いやいや,まことに素直にものごとを考える)わたしは「ことばが意味しているとおり」の解釈をあれこれ思い巡らせてしまいます。

ですから,これは,ひょっとしたらお釈迦さんの説いた初期の仏教思想を反映しているのではないか,というところまで到達してしまいます。なぜなら,お釈迦さんが説いた仏教の根本にある思想は「死の奨め」です。つまり,潔く,綺麗に死になさい,ということ。人生のなかにうしろめたさを残すことのない,清浄そのものの,ごくごく自然体の生をまっとうしなさい,という教え。そうすれば,あなたは「浄土」にいくことができますよ,とお釈迦さんは説いています。あまり出すぎた余分なことをすると,もう一度,やり直しなさい,というわけで輪廻転生の循環から抜け出せなくなってしまい,永遠に「浄土」に到達することはできなくなってしまいますよ,とお釈迦さんは言います。

これともちょっと違うなぁ,プロダクティーブ・エイジング・・・・。あっ,そうか。日本にもむかしはあったと聞いている「飛び級」のことかな?外国にはいまもこの制度がかなり残っていて,天才的な知能をもったこどもたちは「飛び級」をして,上の学年に入れてもらえるという。でも,これは制度上の物理的な時間を飛び越えるだけであって,生物学的な意味での「加齢」ではないですよね。これも違うとすれば,いったい,どういう意味なんだろう。

コメントを入れてくれた木直木寸さんの説明によれば「高齢になってからも生産的かつ創造的な生き方を目指す」のが,プロダクティーブ・エイジングだということだそうです。しかし,これではプロダクティーブ・エイジングの説明にはなっていませんよね。加齢ではなく「生き方」のことを言っているだけです。ですから,もし,この意味のことをカタカナ語で表記するとすれば,それは「プロダクティーブ・ライフ」かな。

ことほど左様に,コメントしてくれた「サクセスフル・エイジング」の意味も,わたしにはよくわかりません。すなわち,「長寿で,生活の質が高く,社会貢献をしていることを構成要素とする」のがサクセスフル・エイジングだというのですから。これも,カタカナ語を当てるとすれば「サクセスフル・ライフ」でしょう。ただ,それだけの意味だとしたら,「サクセスフル・エイジング」とはなんの関係もない無縁のことのはずです。

このように考えてきますと,「アンチ・エイジング」ということばだけが,すんなり理解できます。「老化に抵抗して健康長寿を目指す」はそのとおりだと思います。しかし,このことばも,よくよく考えていきますと,いかに矛盾に満ちた意味内容のまま,世間に認知されつつあるか,ということがわかってきます。つまり,「加齢」することは「悪」である,だから,これには「アンチ」(抵抗)しなければならない,でないと早く死んでしまいますよ,すなわち,死ぬことは「悪」である・・・と。これはとても恐ろしい考え方ではないでしょうか。いったい,いつ,だれが「加齢」を「悪」と断定したのでしょうか。

この答えはかんたんです。あらゆることがらが「右肩あがり」に,進歩発展していくことが「善」であって,下降線をたどることは「悪」である,と断定したのはヨーロッパ近代の合理主義の考え方です。この考え方が,明治になって日本にも移入され,あっという間に広まってしまいました。ですから,現代を生きているわたしたちは,無意識のうちに「加齢」,すなわち「右肩さがり」は「悪」であると思うようになってしまったというわけです。

「加齢」が「悪」であるとすれば,長生きをすること,すなわち「健康長寿」も「悪」だということになってしまいます。そうなりますと,木直木寸さんが学んだという「エイジング」の三つの考え方そのものが,根底から崩れ落ちていくことになります。

長くなってしまいましたので,このあたりでひとつのまとめをしておきたいと思います。
「エイジング」とは,生まれたときからじっくり時間をかけて発育・発達し,やがて成長曲線のピークに達し,そのピークを経過すると,こんどは老化しながら,徐々に「死」に向かって進んでいくこと,ただ,それだけのことです。ですから,サクセスフルのもつ一番大事な意味は,「死を恐れなくなる」エイジングにあります。エイジングを上手に重ねていきますと,やがて,「死」を恐れることなく,心安らかに「死」を受け入れることができるようになります。このようなエイジングが「サクセスフル」なのです。

というように,わたしは考えています。
サクセスフル・エイジング講座のすすめ,の具体的な内容については,これから折にふれて少しずつ書いてみたいと思います。

ということで,今日のところはここまで。

2011年10月26日水曜日

『東京新聞』を読みながらブツブツと「つぶやく」。

このところ気がつけば,『東京新聞』を隅から隅まで読んでいる。どの記事も読んで面白いのである。ただし,断わっておくが,全部の記事に賛同して,面白いと思っているわけではない。なかには,「とんでもない!」「冗談じゃないよ!」と大きな声で吼えたり,「これだよ,これっ!」と気分よくしているものもある。当たり前といえば当たり前。でも,気がつくと,ほとんど全部の記事を読んでいる。以前は,見出しだけみて飛ばし読みをしていたものが多かった。しかし,このところ,なんだか,全部,読んでしまっている。よくも悪くも,面白いのである。

昨日(25日)の夕刊もそれ。
まずは,見出しとその記事を読みながらの「つぶやき」から。

「発電コスト最大1,2円増」。国の原子力委員会の「原発・核燃料リサイクル技術等検討小委員会」の出した結論。「バカなことを言ってんじゃないよ」「小学生以下の知能しかないのか」「自発的隷従の輩よ」「東電のロボット」「亡国奴」。

「文化勲章 丸谷氏ら5人」。5人の写真入りの記事。「ああ,なんという人相になってしまったんだ,丸谷君」「人の顔は嘘をつかない」

「熊手作り急ピッチ」(写真入りの記事)。「ああ,もう『酉の市』かぁ」「ことしも暮れていくなぁ」「でも,買う人はいるのだろうか」「いやいや,こういう時だからこそ売れるのでは・・・」

「気功治療」(「この道」橋幸夫のコラム)。「書くな,気功で眼底出血が治ったなどということを」「こんな記事を載せるな」「デスクはなにをしてるんだ」

「水田大規模化など柱」「農業再生基本方針を決定」(政府)。「あ~あ,農業のなんたるかを全然わかっていない政府」「農業は工業生産ではないのだ」「大規模化したら農民は半減してしまう」「農村共同体が消えていく」「伝統芸能も祭りも消えていく」「日本の魂が抜け殻になる」「ああ,情けない政府」「どじょう君,田んぼの匂いを忘れたのか」

以上が一面。
二面はとばして,三面へ。

「レンジャーズ王手」「Wシリーズ第5戦」。「こんな記事,要らない」「もっと大事なスポーツ記事があるだろうに」「スポーツ紙ではあるまいに」

「新勢力・角界狙う平成生まれ」「憧れを胸に猛稽古」「千代の国」。新聞社をふくめメディアが総掛かりで大相撲を叩いているこの時期に,未来を見据えて頑張っている力士を取り上げるのは立派。「偉いぞ」「大相撲を愛するということはこういうことだ」「覚えておこう,千代の国の名前を」「稽古ひとすじに頑張れ」「強くなれよ」

「風で球動いても罰打なしに変更」「ゴルフ,来年から新規則」。「またぞろ甘えの構造」「スキーのジャンプの選手たちは,どんな風が吹いてきても,飛べという指示があれば,黙って飛んでいる」「公平とはどういうことなのか,しっかり考えろ」「そのうち風速〇メートルのため試合中止,なんてことに・・・」「笑ってしまうよ」「ゴルフはどんな条件下でも行うからジェントルマンスポーツと呼ばれていることを忘れたな」「過保護,過保護」「選手はますますアマチャンになる,ぞん」「ほいで,いいだかのん」「どうでもいいずら」

4面は今月の故人を「偲ぶ」ページ。
「戦後日本 問い続け」(辺見じゅんさん)。「立派」「弟(角川春樹)はもっとしっかりせんかい」「この人の書いたものは読まなくては・・・」
「黄金時代のスター」(バドミントン世界女王4度 新沼博江さん=旧姓・湯木)。「あの強烈なバックハンドは覚えているよ」「早すぎたなぁ,62歳かぁ」「謙治君,寂しいだろうなぁ」

6面。「論壇時評」(金子勝)。「ジョブズの死」「いでよ 革新的経営者」。「金子さん,いいねぇ」「もっともっと書いてください」「これ,切り抜こうっと」「涙がでるねぇ」。なにゆえに涙がでたか,理由はいくつもある。その最後のひとつを引用しておこう。
「気づいてみれば,『失われた二十年』の間,バブル崩壊後の不良債権問題でも,小泉『構造改革』の結果についても,福島第一原発事故でも,誰一人として責任を問われていない。異質な意見が排除され真摯な総括もなく,無責任体制のうえに,リーダーたちは大きな組織を順送りで昇進してくる。これで厳しい危機管理ができるはずがない。この国の病根は深い。」
わたしが言いたくて言いたくて仕方のなかったことを,金子さんはみごとに代弁してくださった。しかも,新聞というメディアをとおして。この記事を掲載した『東京新聞』に万歳。悔しかったら,朝日新聞さん,真似してみなさい。そして,書き手の幅を拡げなさい。ならば,歓迎します。

ここまでで,ちょうど半分。あとは残念ながら割愛。

でも,あとひとつだけ。9面に米映画『ウィンターズ・ボーン』が評論されている。書き手は「小田克也」。「決意と努力で人生前進」「ミズーリ州舞台の自主作品」「デブラ・グラニック監督」。この記事には失望した。わたしも試写会に行って,『嗜み』という雑誌に短い評論を書いた。それだけでは,とても我慢ならず,このブログでもかなり詳しく書いた(参照のこと)。かなり厳しい評論をしたので,読者の反応はきわめて少なかった。これから封切りになるので,場合によっては,ふたたび読まれるようになるかも。その意味では期待している。ここからひとりごと。「なに言ってんだっ。お前は映画をきちんと見たのか」「アメリカの頽廃ぶりはこんなものではない」「監督も甘い」「同じ題材でも,もっと鋭く斬り込むことができるだろうに」「アメリカの病根の深さはこんな程度のことではない」「16歳の少女の決断には感動するが,そんなことで『人生前進』するとはとても考えられない」「言ってしまえば,マイホーム・ドラマ」。

こんな調子で,12面まで,びっしり読ませる記事が満載。大竹しのぶ,大城立裕,出久根達郎,といった人たちの記事がつづく。が,このブログはここまで。

『東京新聞』は面白い。書き手が素晴らしい。金子勝さんや山口二郎さんや・・・・。大手の新聞社がみんな忌避している書き手だ。しかし,この人たちは「嘘をつかない」。ほんとうのことを,ありのまま書く。そう,ベラ・チャスラフスカのように。


2011年10月25日火曜日

「このブログを検索する」の機能が面白い。

このブログの右側枠外の配置を少し変えてみました,ということはすでに書いたとおりです。その配置のうち,「読者」の下にある「このブログを検索する」という窓が,恐るべき機能をもっていることを知り,わたし自身がびっくり仰天しています。

たとえば,「竹内敏晴」という名前を書き込んで検索してみます。すると,竹内敏晴さんに関してわたしが書いてきたブログが全部,呼び出されているのです。それも,四つずつ画面にでてきます。まずは,タイトルに「竹内敏晴」の名前が入っているものがさきにでてきます。つぎに,文章のなかに「竹内敏晴」の名前がでてくるブログが並んでいます。ですから,ほんのちょっとだけ竹内さんのことに触れて書いたブログも全部でてくるという次第です。

なにを,いまさら,と笑われてしまいそうですが,わたしにとっては大発見。
いわゆる「検索」機能については承知していました。これまでにも,なにか調べ物や,ニュースの確認,などにはとても重宝していました。しかし,それは,いわゆる外部に開かれた情報の検索です。ですが,「このブログを検索する」は内部に閉じられた情報の検索です。しかも,自分の書いてきたブログ専用の検索です。それが「瞬時」にして,キーワードに関係するブログが全部,立ち現れるのですから,いささか不思議な驚きでした。

冷静に考えれば,なんでもないことなのですが,わたしにとっては不思議な,初めての,どこか新鮮な経験でした。それもそのはずで,これは,ごくふつうの一般の「検索」とはわけが違います。本来なら,自分で書いたブログですので,かなりの記憶が残っていて当然です。しかし,サクセスフル・エイジングのせいか,自分の書いたブログはほとんど忘れてしまっています。いや,もののみごとに全部,忘れてしまっています。その忘却のかなたに消えてしまったブログが「瞬時」にして,眼の前に立ち現れるのです。パソコンなるものの威力を,そして,わが記憶力の頼りなさを,こんなにリアルに見せつけられることは,これまでなかった「初体験」というわけです。この歳になって,まだ,初体験できることがある,そのことが嬉しい。とにかく,わたしはびっくり仰天した,という次第です。

というわけで,みなさんにも,ぜひ,「このブログを検索」という窓口を活用していただいて,面白そうなブログを探していただければ・・・と思って,このブログを書いています。

検索するキー・ワードはなんでもいいのですが,もっともわかりやすいのは「人名」をそのまま書き込んで検索する方法でしょう。わたしは,ちょっと確認しておきたいことがあって「ジョルジュ・バタイユ」
と入れて検索してみました。ここで,いきなり,驚いてしまったのです。なぜなら,わずか1年半ほどの間に,こんなにたくさんのことを「ジョルジュ・バタイユ」に関して書いていた,ということを知ったからです。いつのまにやら,夢中になって・・・・,こんなにたくさん書いていたとは・・・・。

さらに,ありがたい,と思ったことは,検索したブログが,タイトルだけではなくて書き出しの冒頭部分がでてくることです。タイトルだけですと,内容を思い出すこともほとんどできないことが多いのですが,頭の部分の書き出しをみると,そのあとにつづく内容もぼんやりと思い出すことができるのです。なるほど,なるほど,と思いながら,つぎつぎにブログの検索を楽しむことができるのです。これは,とても,嬉しい発見でした。

もうひとつ,嬉しかったことは,これまでは「ラベル」で検索をしていましたので,自分で分類した範囲内でのブログしか検索できませんでしたが,こんどの「このブログを検索する」ではラベルの分類の枠組みを超えて,自分の知りたいキー・ワードで,思いのままに検索ができるという点です。

たとえば,「びっくり仰天」ということばが好きですね,と親しい知人から言われていましたので,これで検索してみました。いやはや,それこそ,びっくり仰天です。まあ,あるは,あるは・・・・。こんなに多用していたとは・・・・。自分のクセというものは自分では気づいていませんので・・・・。

まあ,そういう次第で,自分で自分を解剖するという,妙な楽しみをみつけて悦に入っている自分がまた面白い,というわけです。

それだけではありません。自分の書いたものに教えられることも多々あるということも,今回の「初体験」のひとつでした。さきほど書いた「ジョルジュ・バタイユ」がその一例です。文章を書くときには相当に集中もし,テンションも上がっていますので,日常の思考とはレベルが違います。ですから,いまになって,ぼんやりした頭で読み直すと,これまた驚くべき発見があるものです。やはり,頭が熱くなっているうちに思考の到達点は書いておくものだ,と思いました。

場合によっては,面白そうな見出しをつけて,自分で編集をし,プリントアウトすれば「私家版」をつくることも可能です。こんな楽しい世界があるとは夢にも思っていませんでした。これから,まだまだ,遊べることはたくさんあるなぁ,と愉しくなってきました。

ということで,みなさんも,ぜひ,お試しあれ。
そして,面白い発見がありましたら,教えてください。

2011年10月24日月曜日

意志の人ベラ・チャスラフスカさんに深甚なる敬意を表します。

ベラ・チャスラフスカという名前を覚えている人は,いまの日本にどのくらいいるのだろうか,とじっと考えてしまいます。だから,どこから,このブログを書きはじめればいいのか,とどまどっています。でも,そんなことを言っていてもはじまらないので,とにかく,わたしの中の「ベラ・チャスラフスカ」を語ることにしましょう。それも,正直に。

『東京新聞』には,10月21日の夕刊で「あの人に迫る」という大きなコラムでとりあげられ,大きな写真入りの素晴らしい記事になっていました。他社の新聞社では,どのような取り扱いがされたのだろうか,といささか気がかりです。(たぶん,こんなに大きくは取り上げなかったのではないか,と想像していますが。できれば,内緒で教えてくださるとありがたいのですが・・・・。ひょっとしたら,どこの新聞社も無視したのではないか,と危惧しています。なぜなら,チェコの反体制運動家として,その名を轟かせた人ですから,都合が悪いメディアが多いはずです。とくに,「3・11」以後は。なぜなら,ペラ・チャスラフスカなら間違いなく「脱原発」というに決まっていますから。)

ペラ・チャスラフスカ。1964年の東京オリンピックと1968年のメキシコオリンピックの女子体操競技の個人総合で2連覇した名選手。もちろん,その他の種目別でもたくさんのメダルを獲得しました。。当時の新聞はこぞって「体操の名花」と讃えました。まず,なによりも「美人」だった。世の中にこんな美しい女性(ひと)がいるのか,とわが眼を疑ったほどです。もう,顔をみるだけで惹きつけられる,そういう魅力にあふれていました。

ですから,当時,ようやく普及しはじめていたテレビの前で多くの日本人の眼は,このベラ・チャスラフスカという選手に釘付けだったのではないでしょうか。ですから,東京オリンピックの記憶のある人なら,ペラ・チャスラフスカといえばだれでも知っている名前です。もちろん,顔も思い出せるはずです。その美しいプロポーションも一緒に。あるいは,あの美しい金髪のヘヤー・スタイルも。その超美人が優雅に平均台で舞い,跳馬で当時の新技「山下跳び」をみせてくれました。しかも,完璧な演技として。女子ではまだ跳べる人は少なかった時代です。

とにかく,東京体育館のすべての観客はこぞってベラ・チャスラフスカの姿を追っていました。なぜなら,ベラ・チャスラフスカが演技をはじめると,みんな口を閉じ,「シーン」と静まり返ってしまったほどです。その静けさのなかで,観客全員の視線を全身に浴びながら,ペラ・チャスラフスカは演技をしていました。

このとき,わたしは体操競技部門の平均台の器具係のひとりとして,お手伝いをしていました。ですから,直近で,ベラ・チャスラフスカの平均台の演技をみていました。それは驚くべき光景でした。ほかの選手たちとはまったく違うオーラが溢れ出ていて,他者を寄せつけない迫力のようなものが漲っていました。もう,存在そのものが尋常ではありませんでした。集中度の高い,理性的で,意志のしっかりした表情が演技を支配し,終わって,着地をしたとたんにこぼれるような「笑顔」になります。そして,大きな,大きな観客からの拍手。なんという選手なんだろう,としみじみ思いました。世界にはすごい選手がいるものだ,と。

女子も男子もふくめて,体操競技という競技種目が,みていて分かりやすく,楽しく,美しいものであった時代の,この時代が最後でした。その後,体操競技は「サーカス化」への道を歩むことになります。と同時に,わたしの体操競技への興味も関心も薄らいでいきました。

それはともかくとして,ここからが今日のブログの山場です。
ペラ・チャスラフスカの祖国チェコスロバキアは,メキシコオリンピックの直前に,ソ連などワルシャワ条約機構軍によって侵攻されます。いわゆる「プラハの春」とうたわれたチェコの民主化を推進する「二千語宣言」の署名運動が展開されました。しかし,それをこころよしとしないワルシャワ条約機構軍の侵攻による弾圧です。しかし,ペラ・チャスラフスカは迷わずこの宣言に署名しています。ですから,あわてて,ベラ・チャスラフスカは山奥に隠れて,地面に線を引いて,メキシコ・オリンピックのための練習をつづけます。その上での,個人総合優勝です。

それからが大変でした。オリンピックから帰国してすぐに,ソ連の意を受けた政府から激しい弾圧を受けます。「二千語宣言」への署名を撤回せよ,と。ザトペック選手(「人間機関車」と異名をとった長距離ランナー。一万メートルとマラソンで金メダリスト)をはじめ,名だたる選手たちがつぎつぎに署名撤回を宣言します。しかし,ペラ・チャスラフスカだけは,断固として,それに応じません。そのため,警察からはしつこく脅され,家族のみならず,友人まで圧力がかけられたといいます。そして,職業はおろか,なにもかも奪われて幽閉状態に追い込まれます。でも,彼女は,みずからの節度を変えようとはしませんでした。

この弾圧がどれほど過酷なものであったかは,詳細はわかりません。しかし,ベラ・チャスラフスカはどこまでもみずからの信念を押し通しました。そして,21年後の1989年,とうとうチェコの民主化が実現して,ハベル大統領の顧問としてカムバックします。そして,全力をあげて国家のために尽くします。しかし,あまりの激務にとうとう身もこころもボロボロになってしまいます。そこに,家族の悲劇的なことが起きて,体調をくずし(こころの病を得た,とわたしは別ルートから聞いていました),15年間もの間,家に籠もってしまいます。

2009年11月17日に,守護天使の声を聞きます。「ペラ,行きなさい」と。その日は,1989年の自由化のきっかけとなった若者たちの集会が開かれた日から,ちょうど20周年。学生たちと警察が衝突した場所に行って,ろうそくに火をつけて供えたら,自分がもどってきました,と彼女は言っています(『東京新聞』の記事による)。

こうして,彼女はみずからの人生を取り戻します。

「真っすぐに人の目を見ることができる。これは何事にも替えられない気持ちでした」と,彼女は述懐します。

今月,世界体操選手権が東京で開催されたのを機に来日。
じつは,わたしも「ベラ・チャスラフスカを囲む会」から招待状をもらっていました。残念ながら,別件の先約があり,どうしてもやりくりがつかず,欠席しました。なんとしても出かけて行って,たったひとことでもいい,声をかけてみたかった,と残念でなりません。

新聞に掲載されている写真をみるかぎり,小じわは増えていますが,はやり,美人。素晴らしい笑顔の魅力はいまも衰えてはいません。元気になったということであれば,一度,チェコまででかけて行って,直接会って,いろいろのお話を伺ってみたいと思っています。たぶん,ドイツ語で話ができるはずですから。

信念の人ベラ・チャスラフスカさん。貴女の生き方にこころからの敬意を表したいと思います。

わたしたちは,いま,「3・11」を通過して,これからの生き方について,ある重要な決断をしなければいけないと覚悟をしています。そんな折の,貴女の来日に,こころから感謝します。なにものにも替えがたい勇気をいただきました。わが信ずるところを進め!と。

2011年10月23日日曜日

宮本亜門さんも排除されているとか。いまこそ芸能界が立ち上がるときなのに。

「脱原発」宣言をし,デモの先頭に立って活動をはじめた山本太郎がテレビ・舞台から排除されているという話は,すでにネット上の常識である。その山本太郎を,あの田原総一郎が頭ごなしに「叱責」したという話は昨日のブログで書いたとおりである。

「叱責」した理由が,またまたふるっている。田原総一郎が「自民党が悪い。民主党の足を引っ張って,民主党をつぶしにかかっている」という趣旨の発言に対し,山本太郎は「自民党も民主党も元は同じじゃないですか」と応じた。そのタイミングで田原は「ダメだ!」「もっと勉強しろ!」と吼えた,というのだ。

わたしも原則的には山本太郎と同じ意見だ。民主党が政権交代をしたことの意味を忘れてしまって,迷走をはじめてからの民主党は,かつての自民党となんら変わらない。だから,選挙をやることもなく首相を取り替えて,なんとか苦境を脱出しようとする手法まで,そっくり同じだ。しかも,原発推進に舵を切った自民党の元首相中曽根康弘とそれを支えた与謝野馨の民主党でのその後のポジションを考えてみれば,「自民党も民主党も元は同じ」という山本太郎の主張の根拠も明白である。田原総一郎はそんなことは百も承知で「嘯いて」いる。だから,許せない。

しかし,ネットを流れている情報の取り扱いは,どれをみても田原総一郎のいうことが正しくて,山本太郎は「勉強不足」ゆえに「叱責」された,という姿勢で一貫している。なにも知らない読者は,なるほど,政治評論家である専門家から,俳優である山本太郎が素人の「無知」ゆえに「叱られた」,と鵜呑みにするだろう。こうして,テレビもネットも週刊誌も新聞も情報を操作して,世論を形成しているのが実情だ。

その山本太郎を宮本亜門が引き立てて公演を打った(横浜)というので,こんどは宮本亜門の発言に要注意,という情報がネット上に流れている。いつも,まっとうなことを発言する宮本亜門を,ここにきてそれとなく排除しようとしている。まるで,芸能界にいる人間は脱原発に触れると,干されてしまうぞ,という脅しのようなものである。だから,芸能人は原発に関してはみんな口をつむっている。下手に発言すれば,ろくなことはない,ということを熟知しているからだろう。

それもそのはずだ。「原発安全神話」の構築に大きく貢献した高橋英樹のような大御所が鎮座ましましている芸能界にあっては,若手の芸能人は,ただただ「平伏する」のみだろう。原発の「ゲ」の字も禁句になっていることだろう。だから,みんな「だんまり」を決め込んでいる。なんということだろう。恐るべき「言論統制」ではないか。あるいは,「自発的隷従」(西谷修)という「慣習行動」(ブルデュー)に身をゆだねている,というべきか。

そんななかでの山本太郎の「脱原発」宣言は立派だ。そして,その信念のもとに俳優業を廃業してもいいと覚悟を決めている。そういう覚悟を決めた俳優の,一皮剥けた俳優の,新しい演技の魅力を引き出そうとした宮本亜門さんまでもが,どうやら排除の対象とされつつある,という。なんということか。ほんとうに困ったものだ。芸能界ファシズムの現前である。

こんな構造までもが「3・11」以後,露呈しはじめている。まさに,重大な事態の出現である。言ってしまえば,マス・メディアによる意図的・計画的な,それでいて「自発」的な「言論統制」である。別の言い方をすれば,脱原発を主張する人間は,マス・メディアから「徹底」して排除されている,ということだ。つまり,まっとうな,ほんとうのことを言う人間は,いまの大手新聞やテレビ界から,抹殺されている。だから,「わたしは脱原発でも原発推進でもない」と「禊ぎ」までしてマス・メディアに居残るための戦術をとる,みせかけの知識人・評論家があとを絶たない。

わたしたちは,いまこそ,眼を皿のようにして,だれがどのような発言をし,どのような行動をとるのか,しっかりと見きわめなくてはならない。そして,みずからの信念にもとづく主張と行動を展開すべきときだ。そこを忌避してはならない。おおげさな物言いに聞こえるかもしれないが,日本という国家の存亡にかかわる一大事(わたしは「非常事態」だと思っている)に,いま,わたしたちは直面しているのだから。

宮本亜門さんが,そして,山本太郎さんが,こんご,どのような扱いをされていくのか,わたしたちはしっかりと見きわめなくてはならない。

2011年10月22日土曜日

田原総一郎に山本太郎を「叱責」する資格があるのか。とんでもない。

田原総一郎が山本太郎を,テレビのトーク番組で「叱責」した,という。山本太郎の主張に対して,「ダメだ」「もっと勉強しろ」とダメだしまでしたという(@nifty.ニュース)。

このことは,なにを意味しているのか。わかりやすくいえば,脱原発を言っている連中は「勉強不足で,なっとらん」と全否定している,ということだ。

わたしの記憶に誤りがなければ,田原総一郎は「3・11」以後,意外に早い時点で「脱原発」を主張した人だ。しかし,これまた意外に早い時点で,「脱原発」と言わなくなってしまった。そして,しばらくしてなんと言ったか。「わたしは脱原発でも原発推進でもない」と書いた。これは『週刊読書人』のかれのコラムで書いたことだ。わたしはこのことをはっきりと記憶している。アレレッ,と思ったからである。みごとな「変節」である。いや,寝返りである。いやいや,思想の「転向」である。

この瞬間,わたしはどう受け止めたか。「ああ,田原総一郎も,とうとう<お薬>を一服盛られてしまったか」と。ちょうど,同じころ,東浩紀君が『朝日新聞』で「わたしは脱原発でも原発推進でもない」と書いて,わたしを唖然とさせた。このことは,このブログにも書いた(検索してもらえば,すぐにわかる)。あまりの「無責任さ」に腹を立てて。

以後,わたしの知っている限りでは『朝日新聞』に評論を書いているかなり多くの評論家諸氏が,みんな「脱原発でもない,原発推進でもない」,いわゆる玉虫色の主張をしていることがわかった。もちろん,論説主幹もまた同じような調子であった。だから,わたしは『朝日新聞』の半世紀にわたる読者であったが,縁を切った。そのときに書いたブログが,毎週,「よく読まれるブログ」の上位にランクされている(このブログの右側枠外にあるので,ご確認を)。が,その後,『朝日』は世論に押されてか,編集方針を変えた,という話を聞いている。しかし,わたしは信じてはいない。

いったい,田原総一郎はそもそも何様のつもりでいるのだろう。長い間,テレビ界で君臨しているうちに,頭が狂ってしまったに違いない。自分のいうことはすべて正しくて,自分の意見に反対する人間はすべて間違いだ,と言いはじめている。これではブッシュ君(日本名は「藪君」)と同じではないか。自分だけが「正義」で,それに反抗する者はすべて「テロリスト」だ。だから,殺していい,と。

「3・11」以前までは,まあ,過激な発言がテレビ受けして,言論の自由だからいいか,と余裕で受け止めることもできた。しかし,「3・11」以後は,そうはいかない。ましてや,「脱原発」を主張するために,俳優業を干されてもいいと覚悟の上で,からだを張っている山本太郎君に対して,「上から」見下ろすようにして「叱責」した,という。当然のことながら,山本太郎は,臆することなく自説を展開したという。それでいいのだ。立派だ。信念の人だ。

田原君は,頭が狂ってしまったのではない。<お薬>が効いてきた,ということだ。なにもかも承知の上で,脱原発をつぶしにかかっている。その方が自分の身の保全のためにいい,と計算しての上で。と,わたしは類推する。だから,なおのこと質が悪い。こんな輩がまたぞろ増えはじめている。これまで鳴りをひそめていた連中までもが,あちこちのメディアをとおして発言をはじめている。

いよいよ正念場にさしかかってきた。政府民主党も少しずつ本音をだし始めた。国民の意思を無視して。政治はだれのためのものなのか。わたしたちは,ここで,もう一度,ふんどしを締め直さなくてはならない。

「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の俚諺のとおり。あるいは「長いものには巻かれろ」ともいう。天下の田原総一郎君よ。そんないい加減な人間だったのか。君は。一服の<お薬>くらいで,そんなに簡単に思想の軸をずらしてしまっていいのか。しかも,正反対に。まさに「転向」以外のなにものでもない。大いなる「犯罪」だ。なぜなら,「確信犯」だから。いずれ,歴史が裁いてくれることだ。

かつての体操の名花,ベラ・チャスラフスカを見習うべし。
この人のことは,いま,話題になっているのでご存知の人も多いと思う。が,わたしも,ひとこと書いておきたいことがある。明日にでも書こうと思っている。予告まで。



2011年10月21日金曜日

幼き日のこと。もっとも古い「からだ」の記憶。

「21世紀スポーツ文化研究所」(「ISC・21」)なるものを70歳にして立ち上げ,早いもので,もう4年目に入っている。その事務所の窓に一番近いところに銀杏の木がある。手を伸ばせばとどきそうな距離である。毎日,この銀杏の木を眺めながら,机に向っている。

秋の深まりとともに,銀杏の葉が萎れていく。いまは,緑色が脱色してしまったのか,銀色にみえる。やがて,もっと色が抜けて白っぽくなり,そこから黄色へと変化していく。毎年,眺めてきたのですっかり記憶している。そこに青空がひろがると「ああ,秋だなぁ」と見上げる。

そんな気候がなせるわざなのか,それとも,エイジングのせいなのか,なんだかむかしむかしの子どものころのことを突然に思い出したりしている。ひょっとしたら,惚けないうちに「わが半生の記」のようなものを記録しておけ,という啓示なのかと思ったりする。

しばらく前までは,過去を振り返るのは嫌いだった。つねに,前だけをみつめて生きてきた。いまも,基本的にはそうだ。しかし,最近では,過去を,それも幼少のころを思い出すことに抵抗を感じなくなった。これこそエイジングのせいなのかもしれない。しかし,これに抵抗(アンチ)してはいけないと思う。これはわたしの信念となりつつある。年齢だけは自然のなりゆきにまかせよう,とちかごろは素直になってきた。これこそがサクセスフル・エイジングの基本ではないか,と。

さて,それならばと考え直し,わたしのからだに刻まれたもっとも古い記憶はなんだろうか,と考えてみる。できることなら,母親のおっぱいを飲んでいたころの記憶を思い出せないかと必死で思いを馳せてみる。しかし,残念ながら,なにも覚えてはいない。はいはいしていたころの記憶もない。初めて立ち上がったときの記憶もない。歩きはじめた記憶もない。ほとんどなにも記憶がないのである。

人によっては,この世に生まれ出てきたときの産道の記憶がある,という。羨ましくて仕方がない。くやしいので,真っ暗闇だったよなぁ,結構,大変だったよなぁ,と自分の記憶に誘いをかけてみる。しかし,さっぱりなんの反応もない。

そんな記憶遊びをしているうちに,ようやく,自分のからだに刻まれたもっとも古い記憶だろうと思われることが浮かび上がってきた。それは縁側の下にうさぎ小屋があって,その金網越しに指を入れて,遊んでいたときの記憶である。それだけだったら記憶に残るはずもないのだが,あるとき,そのうさぎに指をかじられてしまった。痛さは覚えていない。しかし,なにかあらぬことが起きたという驚きと恐怖で大声をあげて泣いたことを思い出した。

のちに,父がいまのわたしくらいの年齢だったころに,この話をしたことがある。すると,父はたしかにそういうことがあった,という。しかし,母は記憶がない,という。わたしは大阪の富田林市で生まれたのだが,父の話では,そのころ住んでいた借家には縁側があって,その下でうさぎを飼っていたそうだ。わたしたち家族はその後まもなく秋田県の本荘市に父の仕事の関係で引っ越しをしている。そのときのお別れ会のときの集合写真が残っていて,それをみると,わたしはようやく正座して正面を向いているのがやっとという年齢である。もちろん,このときに写真を撮ったことも覚えてはいない。

これらから推測すると,うさぎに指を噛まれたのは2~3歳。記憶としては「ハッ」としたこと。突然の思いがけないできごととしての記憶。しかも,からだの「負」の記憶。広い意味での他者との「接触」。触れる,という皮膚の感覚。うさぎの歯の感覚はないが,こちらの指先に残った「ザラリ」とした感覚はいまも鮮明だ。「接触」による「分割/分有」(パルタージュ)。うさきはこのときなにを記憶として分けもったのだろう,などとあれこれ考えてみる。

どうやら,記憶は,なにかを見たという記憶よりは,なにかに触れたという記憶の方が深く,いつまでも残るようだ。見るという視覚の記憶が残るようになるのは,もう少しあとになってかららしい。やはり,触覚が赤ん坊時代からの主役であって,少しずつ視覚がそれにとって代わるようになるのだろう。最近では,見るだけで満足してしまい,触るということには消極的になってきている。好奇心の減退か?

経験とは,からだの記憶だ。からだの記憶は接触をとおして生まれる。好奇心旺盛な時代には,なんても手にとって触ってみる。そうして,さまざまな情報をかき集めながら,からだに記憶を貯め込んでいく。それが成長ということなのだろう。いまは,その好奇心がかなり少なくなってしまったようだ。これもまたエイジングに「成功」している証拠なのかもしれない。

2011年10月20日木曜日

「サクセスフル・エイジング」講座のすすめ。

サクセスフル・エイジングということばが気に入っている。以前にも書いたことがあるが,これは資生堂が生み出したキャッチ・コピーだ。まことにさわやかで,老いさらばえてゆくだけのわが身のことを忘れさせてくれる。さすがに資生堂会長の福原義春さんのセンスの良さだなぁ,と感心する。

これに対して,アンチ・エイジングということばがある。健康体操や中高年者向けのスポーツを推進する人たちがよく用いることばだ。エイジングは生物学的法則によるものであって,「アンチ」で対抗できる代物ではない。だから,エイジングに抵抗しようという発想は,まさに「自然」に逆らおうという発想と同じで,嫌いだ。つまり,スポーツをすれば健康になるとか,いつまでも若々しくいられる,という「健康神話」そのものがいただけない。第一,「健康」という概念そのものがきわめて曖昧なのだ(『健康という幻想』参照のこと)。にもかかわらず,「健康ブーム」はいまもつづいている。つまり,「健康神話」が立派に一人歩きをしているのだ。よくよく考えてみると,いま寄り掛かっている「健康」という概念もまた,ひたすら「科学的根拠」(あるいは,「医学的根拠」)にもとづいて「創作された」(「捏造された」)ものなのだ。だから,いつもどこか胡散臭くて,怪しい。これは,原発の「安全神話」ととてもよく似ている。

と思っていたら,「加齢制御医学講座教授」という肩書の某医大の先生が「アンチ・エイジング研究のエキスパート」として登場した。この「加齢制御医学」ということばを聞いて,びっくり仰天してしまった。そして,文字どおり「天を仰いで」しまった。「ほう,加齢を制御する・・・か」と。繰り返すが「加齢」は自然の大法則だ。この「加齢」を「制御する」ことなどできるはずがない。そんなことははだれの眼にも明らかだ。それを,現代の医学(「科学」)をもってすれば可能だと思わせるトリックは,まさに,原発の「安全神話」のでっちあげと同じだ。

ある健康系雑誌の新聞広告の中で,「加齢制御」ということばをみつけたので,早速,書店に走って立ち読みをした。
「某先生の免疫力アップ健康習慣」という大見出しのもとに,以下の三カ条が書いてある。
〇日光を浴びて運動する。
〇ビタミンDが豊富な食事をとる。
〇時間を有効に使い,気持ちに張りを持つ。
この一つひとつにもっともらしい解説がされている。が,やはり,読んでいて笑ってしまった。

日光を浴びると皮膚ガンになるからといって,日除け傘をさし,真夏のくそ暑いときでも黒い「アーム」(正しい名称を知らない)をつけて歩く女性が増えているご時世ではないか。これもまた,別の医大の某先生がご提唱の「健康法」として広まったことだ。このときも,わたしは笑ってしまった。わたしの子どものころのお百姓さんは,みんな真っ黒になって働いていた。わたしたち子どもも一夏に二度も三度も顔やからだの皮が日焼けして剥けた。それが原因でガンになったという話を聞いたことがない。その復活なのか,と。医学の学説はころころ変わる。

ビタミンDの豊富な食事を摂れという。偏った食事はよくないから一日「30品目」を目指せ,という説がついこの間まで声高に叫ばれていた。これもいつのまにか立ち消えとなって,こんどは「ビタミンD」ときた。かつて,「わらびを食べるとガンになる」という説がでまわり,わたしは「ガンになるほど食べてみたい」と笑ったことがある。一事が万事,健康法に関する医学は,こんな調子である。ピン・ポイントで結論を出す。そうではなくて,トータルで健康は考えるべきではないか,というのがわたしの経験知だ。

三つ目は「時間を有効に使い,気持ちに張りを持つ」だ。そして,いろいろの方法を提案していらっしゃる。これも笑ってしまった。時間の「有効」も,気持ちの「張り」も,個人差がある。普遍的な方法などあるわけがない。それをよく考えろ,とおっしゃる。それが「考えられる」人は,こんな記事は読まない。不要だから。考えられない人がこういう記事を読む。結局,なにをしたらいいかわからないのが落ちだ。

こんなことが「加齢制御医学」の成果だとしたら,かえって危ない,とわたしは思う。やはり,「加齢制御」という発想そのものが,どこか狂っているとしか思えない(狂気と化す「理性」の一例)。だから,わたしには根っから信じられない。しかも,こういう講座の新設を認定したのは文部科学省のはずだ。そうか,原発安全神話をテキストまで作成して,学校教育をとおして広めた張本人が文部科学省だったのだから,なんの不思議もないか,と納得。

結論。思考の根幹が狂いはじめている。それを「制御」するテクニックを開発せよ。

サクセスフル・エイジング。なんと響きのいいことばなのだろう。そう,上手に加齢しよう。年齢相応に,そして,個人差に応じて,楽しいと思うことに夢中になれればいい。

リタイアした人間に余暇はない。全部,自分の時間なのだから。だから,余暇活動はない。全部,本暇活動だ。これぞ至福のときぞ。この至福のときを「わがもの」とすること,これぞ「サクセスフル・エイジング」の憲法第一条。

どこかの大学で新しい講座を新設しませんか。「サクセスフル・エイジング講座」を。そして,その講座の一部をわたしに担当させてもらえないだろうか,と密かに夢見ている。


2011年10月19日水曜日

中日ドラゴンズ,優勝おめでとう。それにしてもオーナーはなにを考えているのか。

中日ドラゴンズ,優勝おめでとう! 

わたしは中日ドラゴンズのファンではないが,この優勝はただごとではない,と注目していた。なぜなら,いっとき,首位との差が10ゲームまで開いたのに,じわじわと追い上げての大逆転優勝である。しかも,中日の打線は,打撃10傑のなかにひとりもいない,いわゆる貧打線だ。しかし,この大したことのない打線がチャンスにはきちんと仕事をした。そして,あとはピッチャーがひたすら頑張った。この投手力の後半の頑張りは素晴らしい。選手起用の方法とか,投手起用の仕方に関する監督の手腕もみごとだった。

マスコミではいろいろととりざたされたが,落合監督というのはなかなかの勝負師だ。なにを言われようと「オレ流」を貫いた。「勝つことがファンへのサービス」と高らかに宣言して,記者の取材を適当にあしらった。なぜなら,記者に話をしても,監督の真意などはなにも伝わらず,記事にして面白そうなところだけを誇張して書かれることの屈辱に,落合君は我慢ならなかったのだろう,と思う。(わたしの経験からも,そのことはよくわかる)。

それにしても,球団史上初の「2連覇」を達成した,歴史に残る名監督をクビにするオーナーをはじめとする球団首脳部はいったいなにを考えているのだろうか。まったく信じられない。中日ファンが激怒している(インターネット情報),という。わたしですら「許せない」と思っている。なにはともあれ,ファンがあってのチームではないのか。それを平気で無視する球団首脳部。この体質,なにかとそっくり。そう,国民の圧倒的多数の意志である「脱原発」を無視する政・財界のドンたちそのままではないか。

わたしの愛読している『東京新聞』では,中日ドラゴンズの優勝を大々的にとりあげた。2連覇を高く評価してのことかな?と思ったが,そうではなかった。たんに『東京新聞』が『中日新聞』と同系の新聞社だ,というにすぎなかった。おそらく,中日優勝の記事を,そっくりそのまま地元『中日新聞』から転載したものだろうと思う(比較していないので,不確かではあるが,これまでの経験ではよくあることだということを確認している)。

しかし,よくよく読んでみたら,球団首脳部に対する批判の記事はひとつもないし,落合監督を絶賛する記事もない。なんとも中途半端な記事であることがわかった。当たり前といえばあまりに当たり前の話ではある。しかし,自己批判のできない新聞社に未来はない。自浄能力を欠く組織は自滅するのみだ。そんなことは百も承知しているはずなのに。これでは『読売新聞』と変わらないではないか。せめて『東京新聞』は,たとえ小さくてもいい,こういう声があるという批判の記事を載せるべきではなかったか。

オーナー(あるいは,球団首脳部)という人種は,チーム運営を個人の道楽のひとつ,あるいは,私物化してなんら恥じることのない,厚顔無恥の種族であるらしい。だか,「3・11」を通過したいま,わたしたちはこの処遇にべつに驚くこともない。政府も,東電も,省庁も,官僚も,学者先生も,そして,メディアもみんな同じような人種ばかりだということが,百日のもとに曝け出されてしまっているからだ。そして,驚き,あきれて,ものも言えない状態にある。その結果,「驚く」ということを忘れてしまった。しかし,この「驚かなく」なってしまうことへの,なんともいいようのない「後味の悪さ」を,わたしたちは忘れてはならない。それが,当たり前になってしまったら,もう,世も末だ。しかし,いま,確実にそちらに向って,日本全体が進みつつあるようで怖い。

中日ファンの心境は察して余りあるものがある。
怒れ,中日ファンよ。そして,はっきりと行動で示せ。
そうしないと「懲りない輩」がのさばるばかりだ。
そうしないと,選手たちが浮かばれない。
監督・コーチとこころをひとつにして闘ってきたというのに。
懲りない輩に向けて,最後の餞(はなむけ)のひとことを!
「クソダワケ!」

ブログの掲載画面を変えてみました。

ブログの掲載画面の表示方法を少しだけ工夫して変えてみました。

最大のポイントは,トップ・ページの画面右側欄外の中ほどに 「人気の投稿」という見出しを設けたことです。ここには,よく読まれているブログのタイトルと文章の書き出し部分がでています。これは,この1週間によく読まれたブログのトップから10位までのランキングになっています。このランキングが日替わりのように変化するのがとても面白く,毎日,「ヘェーッ?」と思いながら眺めています。みなさんも,ぜひ,チェックを入れてみてください。

第二のポイントは,やはり右側欄外の上の方に「このブログを検索」という窓口を開いたことです。これを設定したせいか,かなり以前に書いた古いブログが今週の「10傑」の下位の方に登場します。これをみますと,ブログは書きっぱなしではなくて,面白そうなブログや内容のあるブログは,いつまでもくり返し読まれるものだということがわかります。とくに,上位の5位くらいまでのブログは常時,そこに収まっています。そして,下位の方はかなり頻繁に入れ替わります。こういうのを眺めていますと,ブログは,書くときの勢いだけではなくて,内容が大事だ,ということがわたしへのプレッシャーとして重くのしかかってきます。要心しなくてはなりません。

第三のポイントは,「登録」という窓を設定したことです。そこには,「投稿」と「すべてのコメント」という窓もくっついています。しかし,情けないことに,ここでなにができるのかが,わたしにわかっていないということです。どなたか,わかる方がいらっしゃいましたら教えてください。また,適当に操作をしてみてください。なにか,面白い仕掛けになっているはずです。

それから,もう一点もお願いです。冒頭にある「読者」と「メンバー(30)」は,このところ増えもせず,減りもせず,というところで固定してしまっています。ここでも,なにかができるはずなのですが,わたしの不勉強のため,手も出せないままでいます。折角,読者として登録していただいたのですから,なにかわたしの方から一括した「サービス」ができるのではないかと思うのですが・・・・。また,読者に登録された方からもなにか操作ができるのではないか・・・などと推測しています。こちらも,どうか,活性化の方法など,おわかりでしたら教えてください。

それから「広告」をちょっと載せてみましたが,評判が悪いので,取りやめにしました。ブロバイダーの方から,盛んに「広告を載せませんか」という誘いがあり,つい,その甘い誘いに乗ってしまいましたが,どなたもクリックする人もいませんし,邪魔なだけだということもわかりましたので,消しました。この方が,はるかにすっきりしていていいなぁ,ということもよくわかりました。

最後に,もうひとつのお願いです。
このところ「コメント」がまったく入らなくなりました。なにが原因か考えています。わかっていることは,内容が面白くない,のひとこと。あとは,長すぎる,という苦情が以前,あったように記憶します。もともと,文章を書く瞬発力を鍛えたい,というのがこのブログを書きはじめた動機ですので,かなり読者のことは無視しているところがあります。ですから,コメントが入らなくなっても当然だ,というある程度の覚悟はしています。でも,いくらか入っていたコメントがまったく入らなくなると,気の弱いわたしは,「あれっ?」「なにか,具合の悪いことでも書いているのだろうか」と落ちこんでしまいます。これはわたしの「甘え」ですが,どうか,忌憚のないコメントを入れてくださいますよう,よろしくお願いいたします。

以上,ご報告とお願いまで。

2011年10月18日火曜日

西谷修さんのブログで「第5回世界のウチナンチュ大会」を知りました。

西谷修さんのブログはお薦めです,と以前,書いたことがあります。超多忙の日々を送っている人ですので,ブログを書くのはとびとびです。しかし,西谷さんのブログは,まことに時宜をえた鋭いまなざしから問題の本質をみごとに描き出してくれますので,わたしにとっては必見のブログです。そんなブログの最新のものが,「第5回世界のウチナンチュ大会」の話でした。

ウチナンチュとは「沖縄の人」のこと。ウチナンは「沖縄の」,チュは「人」。わたしのような本土にいる人間のことは「ヤマトンチュ」。ヤマトンは「大和の」,チュは「人」。ひところ「海人」と書かれたTシャツが流行しましたが,これはウミンチュと読みます。ウミンは「海の」,チュは「人」。つまり,むかしから海を生業の場として生きてきた人。すなわち,沖縄の男性のこと。

このウチナンチュの第5回目の世界大会が開催された,というお話が西谷さんのブログに,かなりの思い入れをこめて書かれていました。詳しいことは西谷さんのブログで確認してみてください。要点だけ書いておきますと,かつて,沖縄から世界に移民して行った人がたくさんいて,その人たちの二世,三世,四世の人たちが「お里帰り」をするイベントです。5年に一回くらいの間隔で開催されています。それはそれは大きなお祭りです。

たまたま,偶然にも第4回大会のときに沖縄に居合わせて,最後の二日間ほど本部会場に通いました。が,ちょっと筆舌につくしがたい一種独特の熱気のようなものが漲っていて,その熱気に圧倒されてしまいました。沖縄の人たちの,あの情熱というか,熱いハートはどこからくるのだろうか,としばし茫然としてしまったことを記憶しています。やはり,長い苦難の歴史をかいくぐって生き延びてきた人たちだからこそ持ち合わせることのできる「ハート」なのだろうなぁ,と憶測する以外にありませんでした。

このときのことを,西谷さんのブログが,生々しく思い起こさせてくれたという次第です。いろいろの記憶が甦ってきましたが,なかでも,エイサーのもつ懐の深さのようなものが,わたしには強烈でした。その様子は,西谷さんのブログにリンクされている「You Tube」をとおして確認することができます。わたしは昨日も一昨日も,時間の許すかぎり,You Tube の伝える「第5回世界ウチナンチュー大会」の映像を食い入るように眺めていました。そして,ウチナンチュの人たちのこころの奥底に宿っている先祖伝来の,もはや遺伝子としかいいようのない,全身の細胞の一つひとつから表出してくるような,エイサーに寄せる「思い」に圧倒されていました。

なぜか,涙が流れてきて仕方がないのです。その理由も説明のしようがありません。気づけば涙が流れているのです。そして,何回も声を出して慟哭しているのです。こんな「わたし」がわたしの中にいたことも驚きでした。

エイサーは,もうよくご存知のように,団扇のような小さな太鼓と,肩からぶら下げる大太鼓を打ち鳴らしながら,舞い踊る(躍る),とても勇壮なパフォーマンスです。しかし,よくみていると,とても不思議な所作に満ち満ちているのです。勇壮でいて,どこかもの悲しい。そのもの悲しさを吹き飛ばさんとばかりに,躍動しながら舞い,かつ躍ります。

しかも,このエイサーの主役は若い人たちです。しかも,男も女も区別はありません。男女混合の集団を形成して,太鼓を打ち鳴らします。そこに,もちろん沖縄民謡が,伴奏音楽として後押しをします。沖縄民謡の歌詞は,わたしたちヤマトンチュには理解不能です。英語の歌詞よりもむつかしい。ときおり,テロップが流れて,歌詞の一部を理解することができます。しかし,このテロップをみて,わたしなどは,またまた「ドキリ」とし,涙腺がゆるんでしまいます。こんな「意味深」な歌が,いまも歌われているのだ・・・・と。その歌詞は人生の喜怒哀楽をそのまま写し取ったものばかりです。こうしてウチナンチュのハートの温かさは伝承されてきたのだ,と納得です。

歌と踊り,これが人類に共通の「こころの故郷」であり,「ことば」であり,共同体を形成する根源にあるものだ,としみじみ思いました。

そういう映像がつぎからつぎへと連なっています。ぜひ,お試しください。
ただし,時間は限りなく奪われることを覚悟で。
いやいや,そんな時間から解き放たれるためにこそ。
そこに,わたしたちが遠い忘却のかなたに置き忘れてきた,人生にとってもっとも大事な時空間が無限に広がっています。
わたしの涙腺がゆるむ reason (原因,理由,根拠,理性,道理,理屈)も・・・・。



2011年10月17日月曜日

『週刊読書人』の三井悦子の書評が素晴らしい。

『週刊読書人』の最新号に三井悦子の書評が掲載されている。そして,ひときわ異彩を放っている。わたしには書けないレベルの書評である。取り上げた本は,笠井叡著『カラダという書物』(りぶるどるしおる,2011年6月刊)。わたしも,刊行直後に送られてきて読み(短い書評を頼まれていたので),このブログの8月29日にも,その感想を記した。だから,三井悦子の,この本を読解するまなざしの鋭さを,かなり深いところで受け止めることができた,と思っている。だから,できることなら,笠井叡(あきら)の本の読解をめぐって,とことん議論をしてみたいという衝動に駆られる。

三井悦子は,わたしの記憶では,藤原書店の『環』が企画した「竹内敏晴特集」(2010年秋号)に寄せた論考が,おそらく一般誌へのデビューだった。この論考がとても気配りのきいた読みごたえのある内容だったので,かなり多くの人びとの注目を集めたと思う。それもそのはずで,三井は竹内敏晴の世界に長い間,寄り添うようにして分け入り,その思考を深めていた。いわゆる「竹内レッスン」の本質はなにかを追求。そして,「じかに触れる」というレッスンの「じか」とはなにかにしつこくこだわった。そのエキスが,この特集号で披瀝された。

たぶん,この論考がきっかけとなり,その後,まもなく『週刊読書人』から竹内敏晴の『レッスンする人』(〇〇社,2010年)の書評を依頼された。これが『週刊読書人』への三井悦子のデビューである。竹内敏晴論は三井悦子にとっては自家薬籠中のテーマである。このときも,わたしは感動した。やはり,長い年月をかけて「竹内レッスン」を受け,しかも,ドイツ・レッスンにまで付き添い,熟成してきた思考は,みごとな味と香りを運んでくるものだ,と。

このときの『週刊読書人』でのみごとな書評の評価はかならずつぎに繋がる,とわたしは考えていた。それが,こんどの笠井叡の本の書評である。竹内敏晴の「身体論」がしっかりと咀嚼され,血となり,肉となっているので,笠井の本に挑んでもその軸はぶれない。しかも,緻密に,そして,繊細に笠井の意図するところを読みとり,みごとな「批評」を展開している。あの,わずかしかないスペースの中で。

一般に,ダンサーの書く文章には一種独特の境涯が盛り込まれている。大野一雄にしても,土方巽にしても,みずからのからだとこころで感じ取ったもの以外は信じようとはしない。そして,とことん,自分の世界に分け入っていく。その点でも,笠井叡はまったく同じである。それもそのはずで,笠井がまだ若い学生時代に,大野一雄に師事し,土方巽にも師事し,かれの生き方の基本が決まったとみずから語っているほどだから。この二人の師匠との出会いが「舞踏」ということばの誕生となった。

笠井はそれだけではない。二人の師匠の薫陶を受け,ダンサーとしても一人立ちして,一定の評価を受けてから,さらに,ドイツに留学し,ルドルフ・シュタイナーの「オイリュトミー」を学ぶ。この建築家にして神秘的な哲学をわがものとし,さらにその哲学を教育に応用したシュタイナーの思想のどこに感応したのか,笠井のアンテナは鋭く反応したのだ。しかし,笠井の本のなかに,意外にも「オイリュトミー」の話は多くない。なぜか,不思議ではある。しかし,それが姿・形を変えて,笠井独自の身体論を形成していることは間違いない。それが,個人身体,民族身体,地球身体,といった笠井独自の身体概念となって表出している。

こうした一種独特の世界を切り拓いた笠井の身体論を,三井はみごとに受け止め,その核心部分を劈開し,鋭く論評し,読者に向けて投げ返してきた。これは,もはや,三井の世界であり,独壇場だ。その感性の鋭さと思考の深さは他の追随を許さない。わたしは思わず唸ってしまった。

『週刊読書人』は,もう,ずいぶん昔から読みつづけているわたしの愛読紙の一つである。長い年月の間に,この『週刊読書人』も大きく様変わりをした。とくに,最近の変化は驚くべきものがある。それは,ある意味では仕方のないことでもある。メディアの情況がこれほどの激変をしているのだから。それに対応することは容易ではなかろう。しかし,その激変のなかにはよくない傾向も認められる。それも,最近,とみに多くなってきている。

それは「書評」の質の低下である。一番,読んでいて不快なのは,著者と評者が仲良しで,単なる「ベタ褒め」に終始しているものだ。とくに,若い人同士の間で多い。こんなものは書評でもなんでもない。そこには評論も,ましてや,批評も存在しない。単なる「よいしょごっこ」に過ぎない。しかも,本の内容は思想・哲学の新しい知の地平を探索しているような,重い内容のものでそれをやる評者がでてきた。困ったものである。

それでもまあ,こんなのはいい方かも知れない。なぜなら,評者が著者の意図を熟知していて,その上で「ベタ褒め」をしているのだから。最悪なのは,ほとんど読んでいない,と思われる書評だ。タイトルと帯のコピーに言及したあとは,本の内容とはまったく無縁の,個人的な思い出話に終始するタイプ。この無責任さ。それを承知で掲載する編集者の無責任さ。しかも,そういう書評をやる人には「著名人」が多い。名を挙げ,磐石の基盤を築き上げた人だ。明らかに手抜きであり,「堕落」である。読んでいて恥ずかしくなる。ああ,この人も「終った人」か,と。

一番多いのは,当たり障りのない「評論」(コメント)。いいところを持ち上げておいて,あとは,あまり感心しない部分とを取り上げ,簡単な注文をつけて終わり,というタイプ。まさに,高見の見物。上から目線で,ちょっとひとこと。つまり,まだまだだよ,と言っている。どこの,どなたさまですか,と問いたくなる。

今福さんが言うような「批評」精神のかけらもみられない評者が激増している。そして,それを野放しにしている編集者。質はどんどん低下していく。

そんな中での,今回の三井悦子の書評である。異彩を放っている,というのはこういう意味である。みずからの立ち位置を崖っぷちの「エッジ」におき,一つ間違えば,谷底に転落していくことも覚悟の上で,全体重をかけて「批評」を展開する。これは勇気の要ることだ。覚悟といえばいいか。しかし,そこにはほのかな愉悦がある。恩寵といえばいいか。追い込んだ者にのみ与えられる特権だ。これをやらない限り,読者に訴えるものはほとんどない。しかも,評者も成長しない。「終った人」に成り下がるのみ。

とまあ,いささか褒め上げすぎたかも知れないが,わたしたちの仲間うちから,こういう評者が誕生したことの嬉しさに免じて,お許しいただきたい。いまごろになって名古屋で開催した「竹内敏晴さんを囲む会」(三井悦子主宰)が生きてきた,と実感する。わたし自身も含めて。

こういう強烈なライバルが誕生し,わたしもうかうかしていられない。強烈な刺激である。これからは,わたしも負けずにますます切磋琢磨して,お互いの力量を高め合っていきたいものだ。じつはこういう日を待ち望んでいた。そして,若い研究者にも,何人か素晴らしい才能を開花しつつある人がでてきた。愉しみである。

その先陣を切ってくれた三井悦子に幸いあれ!





2011年10月16日日曜日

「余暇」という不思議なことばについて考える。その5.余暇と時間性について。

余暇とはいったいどういう時間のことをいうのだろうか。ヨーロッパ近代の主体性の議論(あるいは,近代合理主義の考え方)にもとづけば,労働から解き放たれた,労働以外の時間ということになるのだろう。この労働以外の時間をさらに細分化して,生活時間(睡眠,食事,掃除,洗濯,入浴,など)を差し引いた残りの時間,まさに,余った暇な時間が余暇ということになるのだろう。少なくとも,近代社会における「余暇」はそのように考えられてきたと思う。そして,その考え方にもとづいて社会の制度や法律や組織が構築されてきた。

この近代社会が構築してきたさまざまな制度や法律や組織に大きな歪みや矛盾が生じていることは,今回の「3・11」をとおして,わたしたちにも手にとるように理解できるようになった。このような事態が進行していることをいちはやく察知し,さまざまな問題提起をした思想・哲学者は少なくない。たとえば,ミシェル・フーコーもジャック・デリダも,そして,ベンヤミンやマルクーゼもそうだし,ジョルジュ・バタイユやレヴィナスやブランショ,この人たちに連なるフランス現代思想家たち,などなど枚挙にいとまがないほどだ。ジャック・デリダなどは「脱構築」という概念を提示して,諸矛盾の集合体としての近代を解体し,再出発することを繰り返し提示してきた。

しかし,これらの思想・哲学者たちの提言が現実の政治や経済に反映されることは,ほとんどなかったと言ってよいだろう。なぜなら,近代社会の制度や法律や組織を保持していこうとする守旧派の力の方が圧倒的な強さをもっていたからだ。かれらはどこまでも近代合理主義の考え方に立ち,現体制維持に力を注いできたからである。それが,たとえば,アメリカの「正義」を支える根拠ともなっている。しかし,この「正義」がいかに帝国主義的でご都合主義的な押しつけであるかは,すでに,周知のとおりであろう。この世界秩序がいつまでも存続するとは考えられない。なぜなら,多くの人びとがその矛盾に気づいているからである。

「3・11」を通過したわたしたちは,いま,時代の大きな転換期に立ち会っている。わたしの考えてきた時代区分でいえば,近代から後近代への分岐点に,いま,わたしたちは立たされている。つまり,近代の論理ではもはや立ち行かなくなってしまった日本という国(もちろん,世界も同じ)にとって必要なものは「後近代」の論理だ。近代の論理の抱え込んでしまった諸矛盾を超克することのできる新しい論理が,いま,求められている。そして,そのヒントは,さきに挙げた思想・哲学者の思考のなかにふんだんに盛り込まれている。

「余暇」の問題も,近代という枠組みから抜け出して,後近代という視座に立つことがいま求められている,とわたしは考える。もっと言ってしまえば,「余暇」という考え方そのものがもはや臨界点に達している,と考えるからだ。だからこそ,そこをいかにして突破していくか,それが「3・11」以後を見据えるための基本的な視座である,とわたしは考えている。

このように考えてくると,冒頭にかかげたテーゼ「余暇とはいったいどういう時間のことをいうのだろうか」が,わたしには,まずは踏み越えていかなければならない最初のハードルとなる。デリダ風にいえば,「余暇の脱構築」だ。

以上が,わたしの思考のさしあたっての前提である。
さて,その前提の説明が長くなってしまったので,いきなり問題の核心に踏み込んでいくことにしよう。

いまさらハイデガーを引き合いに出すまでもなく,わたしたちの存在は時間性のなかに雲散霧消してしまい,その確たる根拠を確認することはできない。つまり,自己の拡散,主体の不在。「いま,ここ」という現在は,あるとすれば,瞬間,瞬間のなかにしかありえない。その瞬間とはあってなきがごときものでしかない。つまり,「いま」と言った瞬間に,その「いま」はすでに過去であり,二度とその「いま」を取り戻すことはできないからだ。そして,過去は人間個々人の記憶のなかにしか存在しない。そして,未来もまた人間個々人の想像のなかにしか存在しない。ある程度の共有は可能であったとしても,厳密には個々人のものでしかない。つまり,わたしという存在そのものが時間性のなかに拡散してしまい,主体の不在という事態に立ち至ることになる。それが,わたしたちのありのままの存在様態なのだ。このことをまずは確認しておこう。

このように考えると,わたしたちの「身体」もまた同様であることがわかってくる。「わたしの身体はわたしの身体であってわたしの身体ではない」というテーゼを,かなり以前にわたしは提起し,いまもその思考を深めつつある。なんだかややこしい言いまわしになっているが,内実は簡単なことだ。つまり,こういうことだ。

わたしの身体は,快適に暮らしているときには,その存在を意識することはない。意識するのは,他者からの働きかけがあったときのみで,そのとき初めてわたしの身体が立ち現れる。つまり,わたしの身体は,快感,苦痛,不快,寒い,暑い,などの他者性のなかに埋没している。だから,よほどのことがないかぎり,わたしという自己は,自己の身体の存在すら忘れている。そして,忘れていられる身体こそが健康・健全(このことばも,じつは近代的な概念であまり用いたくはない)であり,できることなら常時,そのような身体でありたい。しかし,病気は忘れていた身体をにわかに現前させることになる。

スポーツの経験からも「わたしの身体はわたしの身体であってわたしの身体ではない」というテーゼは理解できるだろう。たとえば,運動に習熟する過程は,まさに,わたしの意のままになる身体と意のままにならない身体との格闘そのものである。そこを通過するために練習(稽古)がくり返される。そして,意のままに動けるようになると,もはや,わたしの身体のことを考えることもなくなってくる。さらに,トップ・アスリートになってくると,自分でも予期せざる動きをからだがするようになる。つまり,自分の意志を越えてからだが動きはじめるのである。スーパー・プレイなどはこういう状態のときに起こる(こういうときには,多くの経験者が語っているように,周囲の動きがスローモーションでみえるようになる)。すでに,わたしの身体が「わたしの身体ではない」状態に入っている。また,逆に,スランプに陥ると,これまで動けたからだが動かなくなってしまう。この身体もまた,「わたしの身体ではない」ところに逃げてしまう。

こんな風にして,スポーツする身体もまた時間性のなかに埋没していく。その世界は,もはや,物理的な時間も,精神的な時間も超越した,もうひとつの次元の違う世界なのだ。だから,そこに流れている「時間」は日常性のなかのそれとは異なる。

これは労働していても,同じように起こりうる,とわたしは考えている。つまり,労働に集中して,なにもかも忘れてしまう状態。まるで,時間が止まってしまったかのように感ずる状態。忘我没入の状態。この世界は,ある意味では,時間から解き放たれた,まったくの自由の世界。わたしの存在すら消えてしまう状態。

この状態は,マルクーゼのいう「瞑想」とも,バタイユのいう「エクスターズ」(恍惚)とも,はたまて西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」とも,それぞれプロセスも到達点も微妙な違いはあるものの,きわめて近接した「場所」であることは間違いない,とわたしは考えている。ここは,いわゆる近代的自我のように自己完結した「閉じた状態」とは間逆の,心身ともに「開かれた状態」が待ち受けている。バタイユに言わせれば,ヘーゲルのいう「絶対知」に対する「非-知」。すなわち「閉じざる思考」ということになる。

ここが,人間の「生」(エロス)の源泉であるとすれば,近代的思考に慣らされてきたわたしたちの思考を180度,逆転させることが不可欠となってくる。だからといって,一度に,そのようなことをすれば,わたしたちの社会生活は崩壊してしまう。そうではなくて,近代社会をとおして抑圧・排除・隠蔽されてきた「エロス」の時空間を,どのようにして回復させるか,ということが当面の課題なのだろうと考えている。言ってしまえば,「理性」と「エロス」の調和。あるいは,動物性への回帰。

そこは,「余暇」などという概念も存在しない,心身ともに解き放たれた時空間。竹内敏晴が求めつづけた「じかに触れる」世界。自己と他者の境界が消滅する世界。そういう世界の確保に向けて舵を切るとき,それが「いま」ではないか,とわたしは真剣に考えている。あらゆる営為が時間性のなかに溶融していくような「場所」を求めて。

ということで,今日のところは,ここまで。





2011年10月15日土曜日

「余暇」という不思議なことばについて考える。その4.「自己」と「共同体」との関係。

「余暇」ということばを考えていて,どうしてもひっかかることの一つが「私」と「公」の関係です。これまで,このようなことは考えたこともなかったものですから,基調講演として与えられた題目「『3・11』以後の日本人のライフ・スタイルとスポーツの行方」のサブタイトルに付された「『私』と『公』の交わる場所で」というところで,はっとさせられた次第です。

さて,「私」と「公」の交わる場所で,とはどういうことなのでしょうか。一見したところわかりやすいようですが,考えれば考えるほどむつかしい問題だ,ということに気づきました。そこで,わたしなりに行きついた結論が,これは「共同体」の問題だ,と。そして,共同体に絡め捕られることのない「私」(つまり,「自己」)をどのように考えるか,というところに行きついたという次第です。

そこで,書棚から,まずは『明かしえぬ共同体』(M.ブランショ著,西谷修訳,1984年)をとりだし,ついで『無為の共同体──哲学を問い直す「分有」の思考』(ジャン=リュック・ナンシー著,西谷修・安原伸一郎訳,2001年)をとりだして,あちこち拾い読みをはじめました。これはとても難儀な仕事で,どこまでも際限がありません。最後は時間切れというところであきらめて,とりあえず,この二人の考える「共同体」論に,これまで多少の蓄積のあるジョルジュ・バタイユの考え方を援用しながら,わたしなりに「共同体」についての考えを確認するにとどめて,講演に臨みました。

が,残念ながら,こちらも話があちこち脱線しすぎて,この話に至る前に時間切れ。ですから,その補填といいますか,いい訳を少しだけ,ここで述べておきたいと思います。

まずは,基本的なことがらの確認です。
「私」と「公」という設問の立て方そのものが,二項対立的な近代の思考の枠組みの中にある,ということを確認しておく必要があろうと思います。とりわけ,「3・11」以後の・・・と言っている以上,ここのところが重要です。なぜなら,すでに何回も書いていますように,「3・11」を通過することによって,近代が積み上げてきた諸矛盾が一気に露呈してしまい,近代論理がほぼ崩壊してしまった,とわたしは考えているからです。そして,「3・11」以後,わたしたちが考えなくてはならないことは,近代の論理をいかに超克して,「後近代」の論理を構築していくか,ということだとわたしは考えています。

ですから,「3・11」以後の日本人のライフ・スタイルとスポーツの行方,というタイトルが求めている最大のポイントは,後近代の「ライフ・スタイル」を考えることであり,後近代の「スポーツ」を考えることにある,とわたしなりに位置づけました。その上で,「私」と「公」の交わる場所で,というサブタイトルを考えてみますと,これはもはや「私」も「公」も消えてなくなってしまう「場所」というように読み取ることが可能となります。

M.ブランショのいう「明かしえぬ共同体」とは,まさに,そういうレベルの議論です。もっと言ってしまえば,「私」が引き裂かれた存在として解体されてしまえば(つまり,主体の不在),「共同体」そのものもまた解体されてしまい,実態をもたない「共同体」が浮かび上がる,というレベルでの議論だとわたしは理解しています。だからこそ「明かしえぬ共同体」なのだ,と。

ジャン=リュック・ナンシーの「無為の共同体」もまた,同じような議論が展開されます。ここでいう「無為」をどのように理解するかは大いに議論があるところだと,わたしは考えています。つまり,文字どおり「なにもしない」とするか,あるいは,「なすことがない」(つまり,完璧な)とするか,ということです。『老子道徳経』のなかには「無為自然」という有名なことばがでてきます。この「無為」は,「なすことがない=完璧な」という意味で解釈されています。ジャン=リュック・ナンシーのいう「無為」もまた,その地平にとても近い,とわたしは解釈しています。

もう一点,考えておきたいことは,ジャン=リュック・ナンシーの共同体論のキー概念となっている「パルタージュ」(partage)です。一般的には「分割/分有」と訳されています。縮めて「分有」とする場合もあります。その意味は,「接触」によって起こる「分割/分有」という考え方です。もう少し踏み込んでおきますと,人と人とが「接触」する,このことによって「共同体」というものがはじめて成立する,という考え方です。しかし,この「接触」,たとえば,握手したとします。その握手という皮膚の「接触」をとおして,自己と他者はお互いにあるなにか(情報)を「分割」し,「分有」することになります。しかも,その「分割」し,「分有」するなにか(情報)は,けして同じではありません。ここからして,自己と他者が「同じなにか(情報)を共有する」ということはありえない,ということが明確になってきます。そういう人と人の集団が形成する「共同体」とはなにか,とジャン=リュック・ナンシーは問題を投げかけてきます。

このような議論は,わたしには,ジョルジュ・バタイユが『宗教の理論』(湯浅博雄訳,2002年)の中で提示した「動物性の世界」に通底している,と理解されてしまいます。そして,さらに言っておくとすれば,バタイユのいう「非-知」(Le non savior )の世界であり,「エクスターズ」( extase )の世界でもあります。つまり,ヘーゲルの提示した「絶対知」(Das absolute Wissen )の対極に位置づく概念として,バタイユは「非-知」を提示し,「エクスターズ」(恍惚)を提示します。

バタイユがこのような概念を提示し,論陣を張った背景の一つには,人類が動物性の世界から離脱し,新たに人間性の世界に移動し,「理性」に依存する生き方を選んだときにいったいなにが起きたのか,という根源的な問いが隠されている,とわたしは受け止めています。そして,そこにこそ,大いに共鳴・共感するものです。

なぜなら,スポーツ史やスポーツ文化論を考える上で,避けて通ることのできない視点であり,論点であるからです。そのことは,同時に,わたしがレジャーやレクリェーションを考える上でも同様です。ということは,「余暇」の問題を考える上でも同じです。

つまり,「3・11」以後の問題を考えるということは,近代の論理の枠組みから抜け出すことが不可欠です。そのためには,わたしにとってはフランス現代思想の根幹にかかわる議論がとても大きなヒントになっている,という次第です。

この短いブログで意をつくすことはできませんが,また,別のテーマをとおして,この問題は考えてみたいと思います。ということで,今日のところはここまで。

「余暇」という不思議なことばについて考える。その3.余暇と近代スポーツの関係。

こんにちのわたしたちが過ごしている時間にくらべれば,前近代までは,おおむね,ゆるやかな時間が流れていたようです。すくなくとも前近代までは,労働と余暇という二項対立的な考え方は存在しませんでした。天気がいいなぁ,じゃあ,ちょっと畑に行ってくるよ。今日は朝から雨か,じゃあ,家でできることでもしようか(こんにちなら本でも読んでいるか)。いわゆる「晴耕雨読」のライフ・スタイルです。しかし,近代に入ると徐々にそうはいかなくなってきます。

近代スポーツの誕生に大きな役割をはたしたといわれるイギリス近代とはどういう時代だったのでしょうか。ひとくちに言ってしまえば,産業革命以後,都市に労働者が集まりはじめ,都市の様相が一変していきます。とくに,工場労働者は,まことにみじめな労働条件を強いられ,朝から夜遅くまで働かなくてはなりませんでした。その過酷な労働者の状況はエンゲルスの主著『イギリス労働者階級の状態』(1845)に詳しく述べられてるとおりです。

この労働者たちが,あまりの長時間労働と住環境の悪さのために,多くの人びとが病気にかかり,死者もあとを絶ちませんでした。ですから,少しずつ労働時間を短くし,住環境を整える,ということが行われるようになりました。この労働時間の短縮によって生まれた時間が,いわゆる「余暇」。しかし,この余暇を労働から解き放たれた人びとの「レジャー」として,ふたたび回収しようとする力が働くようになります。つまり,産業社会は,どこまでも労働者を食いものにしていきます。こうして,余暇ということばが労働以外の時間として受け止められる概念が成立してきます。

それに引き換え,大地主のジェントリーと呼ばれる人びとは,労働を小作人に任せ,日がな一日,自分の好きなように時間を消費することができました。つまり,毎日が余暇そのものです。ですから,その暇つぶしのためになにをするのか,ということがジェントリー階級の重大な関心事になります。その中心にあったものが,狩猟です。それも単なる狩猟ではありません。たとえば,キツネ狩り。馬に乗って走りながら,たくさんの猟犬に指図しながら獲物のキツネを追い込んでいきます。そして,追い込んだキツネに最後のトドメをさす。しかも,ひとりではなくて,友人たち数名が集まり,競争でキツネを追い込みます。

この様子は,フィールディングの傑作『トム・ジョーンズ』(1749年)という小説に詳しく描写されています。この小説にはじめて「スポーツマンシップ」(sportsmanship)ということばが使われ(『OED』による),その意味は「狩猟家」という意味でした。つまり,最初の「スポーツマン」は狩猟家だったということがわかります。そして,この狩猟家こそ,労働をする必要のない身分の人たちでした。つまり,全生活時間が自分の思うようになる階級の人たちです。言ってしまえば,「余暇」そのものが人生だった人たちです。

イギリス近代になって用いられるようになった「スポーツ」ということばも,じつは「暇つぶし」に狩猟をやっていた人びとから生まれてきます。そして,徐々に,自由時間を確保できる階級の間に「スポーツ」が溶け込んでいきます。そして,労働者の労働時間がどんどん減少されるにしたがって,労働者の「余暇」活動としてのスポーツが盛んになってきます。ですから,近代スポーツは,この「余暇」なしには誕生しなかった,というわけです。

もう一つ,加えておけば,ラグビー・スクールではじまったフットボール(のちのラグビー)も同じです。ラグビー・スクールは有名なパブリック・スクールですが,この学校のなかでフットボールのルールが整備され,技術や戦術が進化し,近代スポーツの礎を築いていくことになります。はじめは,学校の余暇時間に少年たちの自主的な活動として行われていましたが,校長のアーノルドはこれを積極的に「授業」として取り入れました。以後,この傾向は,多くのパブリック・スクールにも影響を与え,またたく間に普及していきます。

やがて,このフットボールが,「ラグビー」と「サッカー」の二つのボール・ゲームとして世界に広まっていきます。こうして,少なくとも「アマチュア・スポーツ」としての近代スポーツ競技は,「余暇」活動の一環として行われていたと言っていいでしょう。しかし,やがて「プロ・スポーツ」が誕生しますと,こちらは「経済原則」に絡め捕られた「近代スポーツ競技」として,別の顔をもつようになります。以後,こんにちまでのいきさつは,すでに,よく知られているとおりです。

このイギリスで誕生した近代スポーツ競技を日本に持ち込んだのも,じつは,日本の貴族たちでした。とりわけ,天皇家はスポーツ好きで知られています。いまの新宿御苑は,かつては高遠藩の江戸屋敷でしたが,明治以後は天皇家のための乗馬やテニスやクリケットなどの娯楽施設でした。あるいは,天皇家と貴族たちとの社交の場として,当時の最先端のスポーツが繰り広げられたところです。ですから,日本のスポーツもまた,たっぷりと「余暇」時間を確保できる人たちから,徐々に,下層階級へと広まっていきます。

面白いことに,スポーツが学校に最初に取り入れられたのは「大学」です。それから,徐々に,高等学校(旧制),中等学校,小学校へと広まっていきました。

このように,近代スポーツの普及という側面から眺めてみましても,余暇が大前提になっていると同時に,「学校」が大きな役割をはたしている,という点は注目しておいていいのではないでしょうか。このように考えてきますと,「余暇」ではなくて「本暇」ではないか,といいたくなってきます。が,それもちょっと変なことばですので,もっといい訳語をみつけることが必要ではないか,とわたしは考えています。

とりわけ,「3・11」を通過して,わたしの考える「後近代」に突入した,このタイミングを逃してはならないと思います。それは,同時に,近代が生み出した「用語」を,もう一度,根源から問い直すことの必要性をも意味しています。

かつて,「スポーツ史学会」を立ち上げるとき,「スポーツ」ということばそのものがきわめて「犯罪的」なことばであるから,学会の名前として用いるべきではない,と主張した人がいらっしゃいました。しかし,その議論はともかくとして,「スポーツとはなにか」という根源的な問い直しをする必要はあろうと思っています。しかも,喫緊の課題として。

その意味で,「余暇」ということばも,日本余暇学会としては,改めて俎上に乗せ,みんなで議論を積み重ねていくことが急務ではないか,と思います。また,そのことによって,さらに深い学問的な議論の地平が開かれてくるのではないか,と考えています。

長くなってしまいました。というところで,今日はここまで。

2011年10月14日金曜日

「余暇」という不思議なことばについて考える。その2.古代ギリシアの「スコーレー」について。

余暇ということばのルーツをたどっていきますと,よく知られていますように,古代ギリシア時代の「スコーレー」ということばに行きつきます。一般的には「暇」な時間と理解されています。しかし,このときの「時間」は時計で計った機械的な時間ではありません。昼の間の,とくにやらなくてはならない用事があるわけでもない,自由になるぼんやりした時間のことです。

なにものにも拘束されることのない,自分の意のままになる,だれのものでもない「ぼんやりした時間」が,古代ギリシア時代の「スコーレー」(暇)ということばです。このスコーレーが,やがて,英語の school になり,ドイツ語の Schule になります。つまり,「学校」ということです。ということは,学校とは余暇活動の一環として展開された「学びの場」であったということです。

ですから,わたしの頭のなかには,余暇とは学校のことだ,ということがしっかりとこびりついています。学校というところは,もともとは「遊びの場」であり,その「遊びの場」をとおしてさまざまなことを「学ぶ場」でもあったということです。しばらく前に『人生にとって大事なことはみんな砂場で学んだ』(著者・出版社,忘れました)という本がベストセラーになったことがあります。わたしはこの本を読んだとき,ああ,これは古代ギリシア時代の Gymnasion と同じだと思いました。

その理由は以下のとおりです。
古代ギリシアの自由市民は,午後になると Gymnasion という砂場でできた運動施設に集まってきます。そして,みんな素っ裸になって,レスリングをしたり,ボクシングをしたりしてからだを鍛練し,筋肉質のバランスのとれた肉体を確保することに専念しました。そのレスリングを裸でやるために,オリーブ・オイルを全身に塗り,さらに固い地面ではなくて砂場が必要だったというわけです。そして,休憩している時間は,政治について議論をしたり,詩や音楽やダンスについて語り,哲学を考えたりしていました。こうして,古代ギリシア時代の自由市民は,Gymnasion でスコーレーの時間を過ごしていた,という次第です。この Gymnasion がのちのドイツの中学校・高等学校を意味するGymnsium となります。いわゆる学校の起源はみんな「砂場」にもどっていきます。

つまり,砂場でレスリングをしながら,政治や文学や音楽やダンスを学び,哲学を語り合っていたその時間が「スコーレー」であり,その場所が「Gymnasion」であった,というわけです。こんな風に考えてきますと,わたしの人生は,そのほとんど全部が「スコーレー」であり,余暇活動そのものだった,ということになります。

こんにちのドイツ人が,時間は基本的に全部自分のものであって,その一部を労働に当て,それ以外のすべての時間を自分の楽しみのために使う,という考え方の根源にはこんな「スコーレー」の精神が立派に生き延びているのではないでしょうか。わたしたち日本人も,江戸時代までは,よほど特殊な職業の人でないかぎり,みんなのびのびと自分の時間を楽しんでいたようです。つまり,労働と遊びの区別があいまいなままの状態が,大昔から江戸時代まではつづいていたのではないか,とわたしは考えています。そして,明治に入って,ヨーロッパ的な考え方による「近代化」が進むにつれて,日本人は大きな変化を経験することになります。その一つが,時計による「時間」の管理です。すなわち,労働と遊びの,厳然たる区別です。その延長線上に,こんにちのわたしたちが立っているという次第です。

もう一点だけ,古代ギリシア時代のスコーレーを考える上で忘れてはならないことがあります。それは,スコーレーを堪能できたのは自由市民といわれる貴族だけだった,ということです。貴族といえは格好よく聴こえるかもしれませんが,いわゆる戦闘する人たちです。つまり,自分たちの財産は自分たちで守る,そのことのために戦闘の最前線に立つ人びとです。

もう一歩踏み込んでおけば,この自由市民と呼ばれる人びとは,いわゆる奴隷制社会の上に立つ人びとでもあります。具体的には,ひとりの自由市民が30人も50人もの奴隷を抱え込んでいて,労働は,みんなその奴隷の仕事であり,自由市民はその監視役でしかありませんでした。つまり,労働には従事しない人たちが,自由市民であり,貴族であり,戦闘集団を形成しています。

古代ギリシア時代の直接民主制は,こうした奴隷社会を基盤にして成立していたということを忘れてはなりません。自由市民は外部からの侵入者に対する自衛集団であると同時に,内部の奴隷制を維持していくための自衛集団でもあったわけです。ですから,圧倒的な肉体の強さと,大声で相手を説得する弁論術が,そして,その論理を構築することのできる頭脳が,古代ギリシア時代の自由市民には求められたというわけです。そのための「学びの場」が Gymnasion であり,そこでの時間は「スコーレー」,すなわち「余暇」であったという次第です。

労働する必要のない自由市民の「学びの場」が Gymnasion ,「学びの時間」がスコーレー。この問題を問い詰めていきますと,近代スポーツの成立過程の議論になりますし,あるいは,「共同体」の議論に到達することになります。これらの問題については,また,場を改めて論じてみたいと思います。今日のところはここまで。

2011年10月12日水曜日

「余暇」という不思議なことばについて考える。その1.Freizeit と leisure の間。

日本余暇学会から基調講演を依頼されたときに,はたと考え込んでしまったのは「余暇」ということばの不思議さでした。これまで,ほとんどなにも考えることなく当たり前のように「余暇」ということばをわたし自身も用いてきました。しかし,いざ「余暇」の公共性などという表現に接したとき,あれれ,と考えてしまいました。そして,日本余暇学会としては「余暇」ということばについて,どんな議論を積み上げてこられたのだろうか,などとあれこれ思いを巡らせていました。

「余暇」。この文字面が気に入らない。「余った暇」。暇は暇であって,余るもへちまもないはずではないか,と。ドイツ語では Freizeit(フライツァイト) 。つまり,「自由時間」。英語では leisure 。これは「レジャー」という片仮名表記で立派な日本語になっています。なのに,なぜ,leisure という英語に「余暇」という訳語を当てたのでしょうか。なぜ,英語では free time と leisure が使い分けられているのでしょうか。どうやら,ドイツ語圏と英語圏では余暇についての考え方が基本的に違うようです。

わたしの接したドイツ人のライフスタイルからみた印象では,まずは,Freizeit があって,そのつぎに労働( Arbeit )がくる。つまり,生活の中心に Freizeit が,でーんと鎮座ましましているわけです。そして,労働時間を可能なかぎり短くすることにかれらは全知全能をしぼっているように見受けます。冬が終って春の太陽が輝きはじめると,もう,このときから夏のパカンスの計画に夢中になっています。明けても暮れても,こんな話題ばかりです。そして,原則的に一カ月間,きちんと休みをとり,地中海方面へとでかけていきます。

これには深いわけがあります。ドイツの冬はほとんど太陽が顔をみせません。毎日,くる日もくる日も雲が低く垂れ込めて,暗い毎日です。その間,じっと耐えて暮らすことになります。その結果,佝僂病と皮膚病に罹る率が高くなります。その予防をかねて夏は太陽の燦々と照る地中海に向かうというわけです。地中海まで行かれない人は,自分の家の庭で,ほとんど全裸で日光浴をしています。公園でもよくみかけます。老いも若きもみんな,人目を憚ることなく,かまわず全裸の日光浴に専念しています。慣れない日本人であるわたしが,眼のやり場がなくて困るほどです。

それはともかくとして,ドイツ人は,徹底してFreizeit を手放そうとはしなかった歴史過程があったようです。それに引き換え,英語圏の方が,産業社会の締めつけが強く,労働を中心のライフスタイルを余儀なくされてきた節があります。単純化して述べておけば,だれでも知っている産業革命によって,工場労働者が激増します。しかも,過酷な長時間労働が強いられました(エンゲルスが詳細に記述しているとおり)。そのために多くの問題が発生しました。その補填として,資本家が編み出したのがleisure ,すなわち「余暇」を下賜するという発想でした。つまり,労働に対して「余った暇」というわけです。その意味では,「余暇」とは名訳といわざるを得ません。

ドイツは,その点,後進国でしたから,先進国の教訓を見習って深刻な労働問題になる前に,しかるべく手を打ったということです。ですから,労働者はしっかりと Freizeit を確保したまま,資本家と向き合うことができたという次第です。このプロセスには,じつは,とても面白いエピソードがいくつもありますが,ここでは割愛します。

ところが,同じ後進国であったはずの日本は,資本家の力が強く,英語圏なみの締めつけを経験しました。あるいは,それ以上というべきかもしれません。しかも,儒教的影響もあって,勤勉のエートスが支配的で,それに逆らうこともできませんでした。ヨーロッパ的な「個」(自我)の意識も低く,ただひたすら受け身のまま,忍従するばかりでした。

しかし,これらのことがらは,みんな近代に入ってからの話です。近代国民国家の誕生とともに,国民の身体は,国家を支える労働と軍隊のために,もののみごとに絡め捕られていきました。このように考えますと,「余暇」ということばが,じつにうまく嵌まり込むことに気づきます。お上からいただくありがたい「余った暇」というわけです。それが,こんにちもなお用いられている,ということがわたしには気に入らない理由です。

ましてや,「3・11」を通過したいまということを考えますと,大急ぎで「余暇」ということばの批判的な検証が必要なのではないか,と思います。できることなら,「余暇」ということばに代わる名訳を提示していただきたいものです。

そのためには,たぶん,余暇の語源といわれるギリシア語のスコーレーが,そもそも,どのような歴史背景から立ち現れてくるのか,ということを確認しておくことが必要だと思います。このことについては,つぎのブログで考えてみたいと思います。今日のところはここまで。



2011年10月11日火曜日

「ボタンのかけ違い」論(松田道雄)・再考。「3・11」を考えるために。

もう,ずいぶん昔の話になるが,松田道雄の「ボタンのかけ違い」論がひとしきり話題になったことがある。「ボタンのかけ違い」論とは,かんたんに言ってしまえば「近代化」論批判である。つまり,「近代化」礼賛論が圧倒的多数の意見だった1960年代(と記憶する・要確認)に,松田道雄は一矢を報いたのだった。

松田道雄は,小児科のお医者さん(名医といわれた)として名をなしていた人だが,その一方で「批評家」としても確たる地位をきずいていた。当時のペストセラーにもなった『スポック博士の育児百科』を翻訳・紹介した人といえば,ああ,あの人かと思い出してくれる人も少なくないだろう。その松田道雄さんが,じつに鋭い視点から,当時の思想・哲学に痛烈な批評を展開していて,わたしはこの人から大いなる啓発を受けた。

その松田道雄が投じた一石である「ボタンのかけ違い」論が,「3・11」を契機にして,ふたたびわたしの脳裏に浮かび上がってきた。いわゆる「近代化」には,大きな落とし穴がある,と松田道雄は主張した。たとえば,学生服(当時の大学生の大半は,まだ,学生服を着て,角帽をかぶっていた。それが大学生としての証であり,誇りでもあった)のボタンとボタン穴は,その一つひとつはきちんと整合性があって,なんの矛盾も抵抗もなく「ボタンをかける」ことができる。だから,ボタンを上着の下から順番にかけていけば,自然に,上までいって,きちんと上着を着ることができる。しかし,このとき,なにかのはずみで,最初のボタンを一つズレたままかけたとする。それでも,ボタンとボタン穴はなんの矛盾もなくかけることができる。きちんと整合しているからだ。ところが,一番上までいったとき,ボタンが一つ余ってしまう,という事態が生ずる。このときになって,初めて,最初のボタンの「かけ違い」に気づく。「近代化」には,ときおり,こういうとんでもない「落とし穴」がある,ということに注意する必要がある,と松田道雄は指摘したのである。

「3・11」は,わたしの理解では,まさに,この「ボタンのかけ違い」の典型的な事例に相当するのではないか,と。原発の事故は「想定外」である,と公式発表された。しかし,その「想定」がきわめて甘いものであったことも,いまでは,歴然としている。つまり,「核」を完全にコントロール(制御)できる技術は「数年」後には確立するはずであった。原発推進を「国策」として決定した当時は「技術革新」につぐ「技術革新」が相次いでいた。科学に不可能はない,という神話さえ生まれていて,そこに多くの人たちは「信」を置いていた。しかし,高木仁三郎さんのような専門家は,「核」をコントロールする技術を開発することはそんなにたやすいことではない,どちらかといえば「不可能」に近い,だから,その技術を確立するまでは原発は差し止めるべきだ,と主張した(いま,この人の本は復刻されて,ベストセラーになっているので,ぜひ,確認してみてほしい)。

つまり,原発は見切り発車をしてしまったのだ。当時の中曽根総理,その腹心であった与謝野馨の,とんでもない「ボタンのかけ違い」だったのだ。最初のボタンを「なんとかなる」と,一つずらしたまま,そこからボタンをかけていった。そのあとのボタンとボタン穴は,なんの矛盾もなく,みごとにかけることができた。その間に,最初のボタンの問題はなんとか解決する「はず」であった。しかし,いまだに「核」の最終処理技術は,まったく展望がないままなのだ(だから,10万年とも,それ以上ともいわれる年数をかけて,だましだまし鎮めるしかない,それが現実なのだ)。

10万年もの「ツケ」を子孫に残しても,なおまだ,原発推進を唱える人びとの「理性」とはいったいどうなっているのか。もはや「狂気」としかいいようがない。

一度,かけ違えてしまった最初のボタンは,もう一度,全部ボタンをはずして,初手からかけ直すしか方法はないのである。それには,もちろん,勇気が必要だ。しかし,それをしないことには,余ったボタンは半永久的に余ったままなのだ。その学生服が廃棄処分になるまでは・・・・。つまり,終末局面を迎えるまでは・・・・。

「3・11」は,松田道雄が指摘した「近代化」の落とし穴の,残念ながら,みごとな事例となってしまった。だから,もう一度,近代(もちろん「ヨーロッパ近代」ということだ)とはなにであったのか,その論理戸はなにであったのか,を出発点に立ち返って再検討しなければならないところに,いま,わたしたちは立たされている。「3・11」にふくまれている教訓の一つはこれだ。

わたしの専門である「スポーツ史」や「スポーツ文化論」についても,この「ボタンのかけ違い」という松田道雄の視点から,再検討し直すことが,もはや,避けてとおれないところにきている。

電力を使い捨てのようにして消費して平気でいられた「3・11」以前の生活意識(たとえば,テレビのつけっぱなし)が,どこから生まれてきたのか,わたしたちは本気で考えなくてはならないところにきている。最低限,生きていく上で必要なものを必要なだけ消費する,これは人間が地球という大自然に向き合い,他の生物と共存して生きていくための大原則だ。そんなことを無視して,ただ,ただ,人間の欲望を充足することを最優先させた「経済原則」なるものの「ボタンのかけ違い」を,わたしたちはこれから厳しく検証していかなくてはならない。

「3・11」は,そういう「近代」がはまり込んだ「隘路」からの脱出の必要性を,これ以上にはない方法で,これからを生きるわたしたちに迫っている。

わたしが主張してきた「後近代」は,まさに「3・11」からはじまった,と考えている。だから,「近代」に代わる「後近代」の新しい論理(思想・哲学)を明示していくことが喫緊の課題となっている。

いま,わたしたちは「世界史」の大転換期に立ち会っているのだ。そういう自覚をもつこと。そして,そのための「生き方」を模索していくこと。まさに,試練の時なのだ。わたし自身の自省も兼ねて,このことを強調しておきたい。

2011年10月10日月曜日

「ゆで蛙」考。思考停止した日本人の姿。

昨日(9日)の講演で取り上げたキー・ワードのひとつに「ゆで蛙」がある。これが,じつは「3・11」以前までの日本人の姿だったのではないか,と。つまり,あまりの居心地のよさに思考停止したまま,なにも考えようとはしない人間の姿,というわけだ。

そして,その「ゆで蛙」が「3・11」を通過することによって,ようやく目が覚めた。あわてていろいろ考えたあげくに,さて,動きはじめようとしたら,からだはメタボでぶよぶよに太り,おまけに筋肉がなまってしまっていて,身動きひとつできないでいる。あわれな「ゆで蛙」,それがいまのわたしたちの姿だ,と。

そのむかし,大自然の田んぼの中にいたころには,身の安全を守るためにつねに注意を怠ることはなかった。注意深くあちこちよく観察しながら,自分の居場所を選んで移動していた。そのころは,メタボでもなかったし,思考力もしっかりしていた。動きも俊敏だった。跳躍力だって抜群だった。

ところが,あるとき,ふとしたはずみに妙などぶ川にはまってしまった。ここは外敵が襲ってくることもなく,食べ物も豊富だった。だから,自然にこのどぶ川に居ついてしまうことになった。ところが,ある日,少しだけ温かい水が流れてきた。あれっ?と思ったが,気持がいいのでじっとしていた。そして,いつのまにかこれを快感と思うようになった。やがては,それが当たり前になった。それからしばらくすると,また,ほんの少しだけ温かい水が流れはじめた。新たな快感の到来である。もう,病みつきになってしまった。

食料は豊富にある。外敵は襲ってこない。いわゆる安全地帯。しかも,快感つきの居場所。蛙君はもうそのテリトリーを手離そうとはしない。むしろ,死んでも離さないと覚悟を固めた。

自分ではなにも考える必要もない。すべて,欲しいなぁと思うものは,いつもどこかからやってきて自分にかしづいてくれる。そして,みんな意のままになる。こんないいことはない。

豊富な食料はいつでも食べられる。満腹になれば,日がな一日,ぬるま湯に身をゆだねてポカンと浮かび,居眠りながら過ごす。それでも,まだまだいいことがあるのではないか,とその到来を待っていた。

ちょうど,そんなある日,大きな地震が起きて,大きな津波が押し寄せ,原発とやらが爆発した,という。蛙君は,運良く震災の起きた場所から遠く離れたところにいたので,なんとか難を逃れたものの,あの快適な「ぬるま湯」と「食料」はもはやない。おまけに空には放射能汚染物質とやらが舞い上がって,風の吹くままに流されているらしい。はじめて身の危険を感じたものの,どうしていいかわからない。

あわててなんとかしようとするが,まずはメタボのからだが重くて身動きがとれない。しかも,思考能力はきわめて低下してしまったために,なにもいいアイディアは浮かばない。毎日,おろおろしながらもぼんやりと過ごすしかなかった。そして,ひたすら,あの大地震の前の「快感」ばかりを夢見ている。もう一度,早く,あの快適な居場所がもどってこないかと待ちつづける。しかし,自分ではなにもしようとはしない。だれかがやってくれるだろう,と他人任せ。

そこに巡回医がやってきて,この蛙君を診断した。ついた病名は「思考停止」病。

このつづきの物語は,これからはじまる。わたしたち全員の宿題だ。どんな物語になるかは,わたしたち自身の問題だ。さて,わたしたちはどんな物語を紡ぐことになるのだろうか。


講演が終わってほっと一息。秋の空。

昨日(10月9日),第15回日本余暇学会研究大会にお招きいただき,基調講演をさせていただきました。会場は実践女子大学(日野市)。テーマは「『3・11』以後の日本人のライフスタイルとスポーツ文化の行方──「公」と「私」の交わる場所で」。時間は90分。

余暇学会会長の薗田碩哉さんとは旧知の仲なので,はいはいと気軽にお引き受けしたはいいものの,いただいたテーマをみて考えてしまいました。メイン・テーマの「『3・11』以後の日本人のライフスタイルとスポーツ文化の行方」も考えれば考えるほどむつかしいテーマであるということがわかってきました。加えて,サブ・タイトルの「『公』と『私』の交わる場所で」となると,ますますわたしの頭は混乱を起こしてしまいました。

このテーマはゆうに一冊の単行本に匹敵するひろがりがあるということもわかってきました。そうなると,では,どこをどのように切り取ってきて,ストーリーを展開させるか,ということになります。ここでまた熟考。

最終的には,話題の柱を四つにしぼって展開しようと覚悟を決めました。ひとつは,「3・11」とどのように向き合うのか,ということ。二つめは「日本人のライフスタイルの行方」,三つめは「スポーツ文化の行方」,そして,さいごの四つめは「『公』と『私』の交わる場所で」。こうと決まれば,あとは内容の整理です。それぞれの見出し項目ごとに,箇条書きのメモを作成。まるで,ツイッターのようなひとりごとを書きつらねたメモになってしまいました。が,それでもないよりはましだろうと考え,これをコピーしてみなさんに配布することにしました。

「3・11」以後を語るということは,これは文字どおり「踏み絵」を踏む覚悟が必要でした。つまり,自分の思考のスタンスを明確にすること。すなわち,「脱原発」の側に立つ,ということ宣言しなくては,話ははじまりません。もちろん,いろいろの考え方の人が余暇学会の会員のなかにはいらっしゃる,ということも視野のうちに入れておかなければなりません。そこでの一方的な宣言ですから,相当の覚悟が必要でした。

予想どおり,明らかに「不快」の感情を顔に出された方も何人かいらっしゃいました。でも,大方の方々がうなづいてくださいましたので,それを追い風にして,あとは必死でしゃべりました。しかし,毎日のように講義をしていたころとは勝手が違いました。しばしば論旨が頓挫してしまうのです。こんなはずではなかった・・・と焦りながら,必死でした。ときには,思いがけない話にのめりこんでしまって,なにゆえにこんな話をしているのだろうか,という場面にも遭遇しました。いわゆる,脱線です。そこでみずからを救ってくれたのが,箇条書きメモでした。困れば,そこにもどればいいのですから。

大半の方々がとても熱心に耳を傾けてくださいましたので,あちこち「想定外」の脱線をしながらの話になってしまいました。そのため,結果的には「時間切れ」という不始末。配布したメモの半分ほどのところで終わってしまいました。あとは,メモを読んで補足しておいてください,とお願いするしかありませんでした。

こんな不始末をしたにもかかわらず,みなさん,とても好意的で,何人かの人から名刺をいただきました。この講演のあと,「ワールド・カフェ」方式で全体討論会があるということでしたので,こちらにも参加させていただきました。まずは,その「ワールド・カフェ方式」というものがどういうものなのか知りたかったことが一つと,うまくいけば講演の補足ができるかも,と考えたからです。テーマは「新しい公共にむけて余暇はなにができるのか」。

これはなかなか面白い形式でした。いくつものテーブルを用意して,一つのテーブルに一人ずつ座長さんがいて,会員はそれぞれのテーブルに5,6人ずつ分散して座ります。そこで,15分ほど議論をすると,座長さんひとりが残って,あとの会員はまた別のテーブルに移動して,そこで議論を継続する,ということをくり返していきます。そして,最後に,全員を集めて,各テーブルでどのように議論が展開したかを座長さんが整理して報告します。

なにより素晴らしいと思ったことは,この「ワールド・カフェ方式」ではワインも焼酎も用意されていて,おつまみもある,ということでした。ほどほどにお酒がまわってくると,口もなめらかになり,議論も活発になっていきました。これは,まさにプラトンが『饗宴』(シュンポシオーン)で描いた世界の再現ではないか,と思いました。わたしが長年,思い描いてきたことが,ここ余暇学会では立派に行われているではないですか。いいなぁ,としみじみ思いました。

この「ワールド・カフェ方式」ですっかり気分がよくなってしまったわたしは,そのあとの「打ち上げ」にも参加させていただきました。ここがまたとても楽しくて,さらに深い会話ができました。そして,多くの友人ができました。これからが楽しみです。

というわけで,講演が終わってほっと一息,というところ。見上げれば,秋の青空。わたしのこころも青空。

でも,たったひとつ心残りは,講演が途中で終わってしまったこと。そのお詫びと言ってはなんですが,この講演で話したかったことのポイントとなる部分をいくつか抜き出して,このブログで補足させていただこうと思っています。乞う,ご期待!

2011年10月7日金曜日

『東京新聞』は面白い。記事が生き生きとしている。

50年間,愛読してきた「朝日新聞」にどうにも我慢ができなくなって,ついに絶縁状を叩きつけて,「東京新聞」に乗り換えた。やがて3カ月が経つ。だいぶ馴染んできたところ。そろそろ「東京新聞」について論評してもいいかな,と思いはじめている。

その最初の感想は,乗り換えてよかった,のひとこと。
なにがよかったのか。
脱原発をいちはやく宣言し,その方針で報道が展開されていること。つまり,報道の軸がぶれないこと。したがって,読んでいて心地よい。つまり,わたしの主張と共鳴・共振するところが多い。だから,朝からストレスをため込まずに済む。「朝日」のときは,朝から新聞の記事に向かって吼えまくっていた。「それは違うだろう!」「お前の眼の玉はどこについているんだ!」「命よりもお金の方が大事か!」「お前は東電からいくらもらっているんだ!」(わたしの嫌いな玉木正之氏ですら,東電擁護のエッセイを1本書けば500万円くれると言われたが,それでも断わったという。この点では「偉い」。花まるを献上。)「自分もすでに放射能に汚染されているということに気づいていないのか」という調子で,紙面に向って吼えていた。

この不快感から解放された。それどころか,朝から「なるほど」「そういうことであれば,もっと鋭く斬り込め」「えっ,そんなことがあるの?」「その調子,その調子」(ある評論家の言説に対して)「君は素晴らしい記者だ」とひとりごとを言いながら,朝刊と夕刊を楽しんでいる。切り抜きをはじめると,あとに残る部分の方が少なくなることもしばしばである。夕刊などはまるごと保存しておくということも稀ではない。

「東京新聞」を読んでいて,意外に思ったことが一つある。それは,記者によって,脱原発を取り扱うときの記事に「温度差」(いい意味でも,悪い意味でも)がある,ということだ。これは,ひょっとしたら,記者の書いた記事がほとんどそのまま掲載されているのではないか,と想像している。「朝日」のときの印象では,デスクのトップが,つねに記事の一つひとつをチェックしている,という印象があった。それは新聞社としての編集の方針との整合性の問題でもあり,それなりに納得のできることではある。「日本経済新聞」は,全体の紙面を最終的にチェックする専門家(最終責任者)がいる,と聞いている(じつは,かつてのわたの知人でもある)。それらに引き換え,「東京新聞」は,ほとんどチェックをしていないのではないか,と思われる節がある。

悪く言えば記事の論調がバラバラ。逆に言えば,記者の取り組む姿勢や能力がまるみえ。だから,読み手としては面白い。精粗相まみえながら,新聞紙面が構成されている。だから,記者同士にもまるみえになっているので,必死ではないか,と思ったりしている。つまり,デスクによる締めつけがほとんどないということのようだ。だとしたら,記者は毎回,真剣勝負を迫られていることになる。紙面の活性化にはとてもいい効果をもたらしている,という感想をもつ。

まあ,そんなこともあってか,「東京新聞」は隅から隅まで面白い。
そのうちの最たるものは「こちら特報部」。これも当たりはずれがあるが,総じて,「なかなかやるじゃないか」という印象。だから,この見開き2ページの記事は,毎回,楽しみにしている。いま,話題の最先端に立つ情報を徹底取材して,しっかりと分析してみせてくれる。ジャンルも限らないで,重要なトピックスを,しっかりと取り上げてくれる。お蔭で,ずいぶんと賢くなったような気がする。ありがたいことだ。

スポーツ面はあまり冴えない。なぜなら,プロ野球でいえば,中日中心で阪神は軽く扱われるのがくやしい。それはまあ,ある程度までは仕方がないとして,スポーツ記事が「勝ち負け」(勝利至上主義)一辺倒に終始していることが残念。これでは,いわゆる「スポーツ紙」と変わらない。もちろん,時折,アスリートたちの裏舞台での努力や苦労話や,人間としていかに鍛えられてきたか,というような話題もある。しかし,スポーツのもつ文化性に触れることは少ない。そこまで踏み込める記者が少ないということだ。

これは,われわれがもっと頑張ってスポーツ記者の眼を開かせることが先決。スポーツ史やスポーツ文化論的な論考をもっともっと公にしていくことが不可欠。この点はわれわれの方の反省点。でも,「朝日」などと違って,なかなか頑張っているところもある。たとえば,「みんなのスポーツ」という紙面も用意されていて,定期的に特集記事が掲載される。この点は大いに褒められてしかるべきであろう。たとえば,第20回全国移植者スポーツ大会,などが一面全紙を使って報道されたりする。わたしは,この記事をとおして「移植者スポーツ大会」があることを,恥ずかしながら,初めて知った。この他にも,地方の小さなスポーツイベントを取り上げたりして,メジャーなスポーツとは違う,マイナーなスポーツにも光を当てようとする視野の広さがあることを高く評価したい。

こうして書いていくと,際限がないので,この辺りで一区切り入れておくことにしよう。
百聞は一見にしかず。嘘だと思ったら,駅の売店で「東京新聞」を買って,読んでみてほしい。いわゆる「3大紙」とは,ずいぶんと趣が異なるということは一目瞭然である。しかも,結構,楽しめることを請け合います。

2011年10月6日木曜日

秋の青空と金木犀の香り,でも,こころは晴れません。

二日つづきの雨が上がった今朝は,真っ青な空がひろがり,ああ,秋がきたなぁ,としみじみと思う。そして,もう,かなり前から金木犀の香りがあちこちから漂ってきて,鷺沼の事務所に通うのが楽しい。鷺沼は植木の里と呼ばれ,住宅地の植栽もじつにみごとだ。四季折々に花を鑑賞させてもらっている。

つい,この間まで暑いと言っていたのに,ここしばらくは寒いと言い,今日はまた晴れ上がって気温はぐんぐんあがっている。秋の空のはじまりである。暑かったり,寒かったり,毎年くり返しているのに,いつも新鮮に感じるのが不思議。だから,毎年,秋はいいなぁ,とつぶやきながら金木犀の香りがすると立ち止まる。

いつもの,毎年やってくる秋の到来である。なのに,ことしはこころが晴れません。ずっしりと重い。この透き通った青空もまた,微量とはいえ放射能に汚染されているのか,と思うと。

新聞などの世論調査では,80%以上の国民が脱原発を望み,代替エネルギーの確保に舵を切るべきだと言っているのに,どの政党もこの民意を受けた具体的な政治的展望を描こうとはしない。政治家はいったいなにを考えているのか。みんな「ゆでカエル」になってしまって,身動きできなくなってしまっているらしい。こんど選挙があれば,間違いなく「踏み絵」を踏まされることは明らかなのに・・・・。それでも,なんとかなる,と国民を甘くみている。

とうとう先取りの名手・中沢新一が「緑の党」の構想をぶち上げた。まさに絶妙なタイミングである。ほんとうなら諸手をあげて後押しをしたいところだが,なんとなく二の足を踏んでしまう。なぜなら,過去のかれの足跡をたどればわかること。わたしは,いっとき,中沢新一の追っかけと言われるほどに入れ込んで,かれの本を読み込んでいた時代がある。しかし,ある事件をきっかけに,そして,その後の言動などをとおして少しずつこころが離れてしまった。

もう少し,この人なら,という人が立ち上がってくれないものか,と最近になって思いめぐらせている。たとえば,宇沢弘文さん,とか。いささかご高齢なので無理にとはいえないが,このレベルの人が立ち上がってくれないものか,と。そして,そういう人を支える優秀なブレーンが結集できないものか,と。

あるいは乱立してもいい。山本太郎君のような人も,もっともっと声を大にして活動してほしいと願う。若手は若手でのろしを挙げてほしい。小さな,ささやかな草の根の活動でもいい。もっともっと,いろいろのネットワークができてくることを願う。

じつは,すでに,相当の活動が展開しているやに聞く。それをメディアが見て見ぬふりをしているだけだ,とも。それほどに原子ムラの圧政が浸透しているのだ,とも。

だとしたら,いつか,かならずこの鬱屈したエネルギーは姿・形を変えて立ち現れることになろう。デリダのいう「亡霊」はかならず,ひょっこりと顔を出す。

リビアを筆頭にエジプトその他に飛び火した民衆革命のように,鬱屈したエネルギーはいつか必ず噴火する。アメリカが,「想定外」なところから自己崩壊のきざしをみせはじめている。ウォール街という,まさに,こんにちの世界の狂気を導いている中心に,民衆の矛先は向けられている。そして,全米の地方都市にまで飛び火している。

ようやく人びとは問題の根源に気づき,行動に移しはじめた,ということなのだろう。
その根源の問題とは,「金儲けと人の命」とどちらが大事なのか,というきわめて単純なことだ。日本の国民もようやく「経済」よりも「人の命」の方が大事だ,と気づきはじめた。

言ってしまえば,こんなことはだれだってわかっている。にもかかわらず,それを無視しようとする。評論家と称する人びとの多くもまた,そういう類の人種だ。それに学者先生まで便乗して,自分の懐を温めることに走る。情けないかぎりでだ。それにまた,多くの国民が騙されていく。この悪循環の真っ只中にいまわたしたちは置かれている。

この悪循環からの「離脱と移動」が,いま,わたしたち一人ひとりに求められている。しかし,この課題を達成するのは容易なことではない。

秋の青空に浮かぶ雲を眺めながら,そして,金木犀の香りを嗅ぎながら,いっときの心地よさを感じながらも,わたしのこころは晴れません。

さて,なにから始めるとしようか。
「21世紀スポーツ文化研究所」(「ISC・21」)の活動の柱の一つとして。

2011年10月5日水曜日

新しい感性のロック・バンドAin Figremin のCD,全国リリース。おめでとう!

どこから書きはじめようか,ととまどってしまうほどに,いま,わたしのこころは浮き立っています。
が,なによりも,まずは,Guitar & Vocal のMii君にこころからの「おめでとう」のことばを贈りたい,と思います。ほんとうは花束も一緒に。

もっと言ってしまえば,Mii君などという白々しい呼び方ではなくて,まだ幼い子どものころから呼びなれてきた「You〇〇」と声をかけたいところです。しかし,いまは,ひとりのロック歌手としてMiiを名乗っているのですから,ここで本名を書くことは控えておくのがマナーというものだ,と自分に言い聞かせています。

それにしても,CDの全国リリース,おめでとう!
これで,また,一つ階段を上がったね。

去年暮れの幕張メッセのステージには行かれなかったけれども,ことしの5月7日の渋谷のライブで,初めて君のステージに立ち合うことができて,とても感動しました。そして,そのあとの短い時間だったけれども,母上と一緒に歓談できたことが,さらに強い印象となって残っています。あのときも思ったことですが,君のバンドはこれからもっともっとうまくなる,と確信していました。

あれからちょうど5カ月。今日,君のCDを聴いて(じつは,2回,くり返して聴きました),びっくり仰天しました。5カ月前のあのステージとは比べものにならないほどのレベル・アップに。もちろん,ステージのライブとCDに録音されたものとを直に比較することはナンセンスかもしれません。ステージにはステージの迫力が視覚も音量もふくめて満点だし,CDには余分なノイズを除去した透明感が拡がっていて,ひとりこころ静かに聴くには適しています。

それにしても,歌唱力が抜群によくなった,とまあ偉そうに言わせてもらいます。この調子でいくと,どこまでうまくなるのだろうか,とこれまた欲張りな期待感を抱いてしまいます。そして,CDだからこそよく聞き取れたのでしょうが,歌詞(Lyrics)がとてもいい。なによりも,うそがない。素直な気持がそのまま歌詞のことばとなって表出している,と思いました。たとえば,Othelloの冒頭にでてくる「剃刀」などということばを聞き取ったときの瞬間には鳥肌が立ちました。「アッ」と息を飲みながらそのあとの歌詞に耳を傾けました。二度目を聴きたくなったのは,歌詞を読みながらバンド全体の音を感じたいと思ったからです。

すると,面白い発見もありました。「You (and Me)」,というタイトル。このタイトルは,ひょっとしたら「You〇〇 Mii」と言っているのかな,と。もし,そうだとしたら,なんと洒脱なユーモアなんだろう,と。そして,この曲の歌詞もなかなか意味深長なところがあって,想像力を掻き立ててくれます。しかも,ほのかな未来への曙光をみるようで,わたしはとても気に入りました。

それから,演奏もふくめて曲全体が,5月のときの印象とはかなり違ったものに聴こえました。かなり,手を加えて曲そのものをブラッシュ・アップしたのかな,それとも演奏のテクニックが上がったということでしょうか。聴き手のこころを開かせる,そして,素直に耳を傾けさせる,そんな「力」がバンド全体に生まれてきたように感じました。

「シュプレヒコール」の最後の歌唱(せり上がり方),「羊水」のほんのわずかに聴こえてくるバック・コーラス,「ライ麦畑で撃ち抜いて」(これはたぶん初耳)の「当事者は誰だ」という呼びかけ,などなど,いいなぁ,と思いながら聴かせてもらいました。

ついでに,もう一つ。
君は絵も描けるとは知りませんでした。なかなかの腕前ではないですか。これからのCDには,大いにこの絵の力量も発揮してください。絵の描ける人はみんな写真もうまい。鬼に金棒です。歌詞,曲,絵,写真,あらゆる方法を用いて「Miiワールド」を広げていってください。これからの無限の可能性をこころから楽しみにしています。

そのキー・ワードが「Ain Figremin 」と言ったらいいのでしょうか。
この,一見したところドイツ語にみえるバンド名。「アイン・フィグレミン」と発音してみると,いかにもドイツ語風。しかし,ドイツ語とはなんの関係もない,しかも,何語でもない,このバンド名。ここに君の思いのすべてが籠められているように,わたしは受け止めました。

なぜなら,いかなる既成の言語にもからめ捕られることのない自由な時空間に遊ぶこと,これが君の根本にあるコンセプト,と感じたからです。既成の言語とは,別の言い方をすれば,ドイツ語なり,英語なり,日本語なり,といった言語のことで,それらによって構築される「権力」から自由でありたい,ということ。もっと言いかえれば,既成の制度や組織や法律はもとより,既成の倫理や風俗習慣や宗教からも自由でありたい,ということ。すなわち,Ain Figremin とは,この世に存在しない架空の時空間,あるいは概念を追究するバンドではないか,と。ありそうでない,なさそうである,その境界領域に新しいなにかを見出そうとしているのではないか,と。ちょうど,それはひところ流行した「わたくし探し」にも似ています。結局,「わたし」などというものは,あるようでいてない,ないようでいてある,そういうところに還元されていく存在でしかない,というわけです。

こんなことを書きながら,わたはいま,ハイデガーを思い描き,ニーチェのことばを思い浮かべ,そして,バタイユの世界に思いを馳せています。それは,同時に,道元や西田幾多郎の世界にも通底する世界でもあります。最後には,わたしは『般若心経』の説く「無」や「空」の世界に行きついてしまいます。「Ain Figremin」というバンド名を眺めながら,これはわたしの勝手な想像の域をでませんが・・・・。

まあ,こんなことを,渋谷のライブのあとで約束したように,一献傾けながら,ゆっくりと話をしましょう。もはや,立派な大人として成長した君と,1対1の「差し」で,とことん語り合いたいと思います。その日が,いっときも早く訪れますように,いまから祈っています。

それにても,まずは,「おめでとう!」
そして,「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」ということばも贈ります。「稲」には,じつは,もっともっと多くの含意が籠められています。

今日(5日)が,このCDの発売日,と聞いています。
わたしは,これから3回目,4回目の再生を聴きながら,ひとりで鷺沼の事務所で祝杯を挙げることにします。その前に,わたしの大好きな料理をこしらえて・・・。
「乾杯!」「〇〇すけ!」

2011年10月3日月曜日

運動シューズの話,二題。ほんとうに大丈夫かなぁ。

9月30日の『東京新聞』夕刊に,「歩くだけで美脚」根拠なし,リーボック製靴に米取引委指摘,という見出しの記事がシューズの写真入りで掲載された。しかも,2500万ドル(約19億円)の罰金つきの制裁である。

記事の要点だけ転載しておこう。
「米連邦取引委員会(ETC)は28日,スポーツ用品大手のリーボック・インターナショナルが,同社製の運動靴を「履いて歩くだけで通常以上の運動効果がある」などと宣伝していることが不当表示に当たると指摘し,リーボックが2500万ドル(約19億円)を支払うことで合意したと発表した。」

日本でも人気の高い商品で,よく売れているという。少なくとも,わたしの周辺ではリーボックのシューズについての苦情は聴いたことがない。むしろ,評判がいい。しかし,アメリカでは消費者から苦情がでていたという。

「ETCによると,リーボックは『通常の運動靴に比べ,ふくらはぎの筋肉に11%多く負荷がかかる」などと数値を掲げてテレビや雑誌などで宣伝。こうした宣伝内容が『科学的根拠の裏付けがないまま,健康や筋肉引き締めの効果を訴えている』とし,検査や研究の結果を誤って伝えていることも問題だとしている。」

その靴を履いて「歩くだけで美脚」になるとしたら,それは相当に無理な仕掛けがしてあるということ以外のなにものでもない,とわたしなどはすぐに考える。しかし,「11%多く負荷がかかる」などと数値を示されると一般の人は弱い。科学信仰がそこまで浸透している証拠だ。その数値を疑うということを,最初から放棄している。わたしは職業柄,そういうスポーツ科学の実験結果の数値がかなり恣意的であるという現場をたくさんみてきている。だから,まずは「疑う」ことからはじめる。

第一に「美脚」とはどういう脚のことを言うのか,その概念を聞きたい。健康という概念と同じで,美脚という概念もまた,きわめて恣意的なものでしかない,とわたしは考えている。ついでに言っておけば,「健康神話」もまた,原発の「安全神話」と同じでほとんど信用ならない。

こんな記事がでた翌日(10月1日)の夕刊に,「これ売れてます」というコーナーで,「蹴る力高めた子ども用の靴」という記事が載っている。思わず首をひねってしまった。この記事を書いた記者は,前日のリーボック製靴の制裁記事を読んでいなかったのだろうか,と。また,デスクはこのことを承知してこの記事を掲載したのだろうか,と。

記事は短いので転載しておく。

「運動会,徒競走の”勝負靴”になるか。子ども用運動靴「スーパースター J231」(4095円)が好評。ムーンスターが,全力疾走時の子どもの走り方を研究。多くの子どもは,かかとから着地して蹴り出す際に親指側に力が集中していたことに着目。靴底のかかとからつま先までの圧力がかかる部分に,独自開発した特殊なゴムとスパイクを搭載。ゴムが前に推し進める力を高め,スパイクで力強く蹴り出すことができる。歩幅を伸ばし,速い走りの手助けをする。男女兼用。」(シューズを履いた子どもの写真と,終わりに,サイズ,色,電話番号まで書いてある)

わたしはこの記事を読んで唖然としてしまった。こんなものがほとんどなんの効果もないことは,この記事と写真をみただけで,すぐにわかる。どのメーカーのシューズも同じような工夫がしてある。ただ,宣伝文句と運動会シーズンに合わせたキャッチ・コピーが,我が子が一番になればいいとしか考えない愚かな母親のこころをつかんだだけの話。もし,こんな程度の工夫で「速い走りの手助け」ができるとしたら,とっくのむかしにトップ・アスリート用につくられているはず。しかし,トップ・アスリート用の靴に,そんな仕掛けはしてない。ひたすら,裸足に近い,軽くて,しっかりした構造の靴が追求されている。

もし,この靴を履いて運動会で勝てなかったら,アメリカなら裁判沙汰になるだろう。そして,さきほどのリーボックのように米連邦取引委員会が乗り出してきて,調査をし,「科学的根拠なし」として,制裁金を支払うことになるだろう。

それより,なにより,同じクラスメイトを出し抜いて勝とうとする根性が見苦しい。そして,もし,その靴を履いて走って勝ったとしたら,そのあと多くの友だちを失うことになるだろう。そんなことは眼にみえている。そんなこともわからない自己中心主義の母親や子どもが増えていることの方が,はるかに重大な病理現象ではないか。

こういうものの見方・考え方(つまり,数量的効率主義最優先の考え方)が,原発を「合理化」し,それを容認する背景になっていたことをこそ,反省すべきではないのか。折角,「脱原発」をかかげた『東京新聞』としては,脇が甘い,としかいいようがない。とりわけ,スポーツ関連の記事の書き方は,基本的に「スポーツ専門紙」とほとんど変わらない。ここにも大きな問題があることを,気づいていないようだ。(ただし,「みんなのスポーツ」というコーナーがあることは高く評価したい。が,ここでも,その記事の書き方は勝ち負けに比重がかかっている点は残念の極み)

この最後のテーマについては,いずれ,詳しく論じてみたいと思っている。
結論だけ提示しておけば,スポーツ競技の「勝利至上主義」「競争原理」は,原発推進の論理とまったく同じだ,ということだけ指摘しておきたい。


今福龍太の新著『薄墨色の文法』(岩波書店)を読みはじめる。

今福龍太は「耳」の人に違いない,だとしたら,わたしは「眼」に頼っている,とこの本を読みはじめての第一感。これまで「透視する」ということばを多用する今福さんのイメージが強かったので,見えないものまでも「みる」眼の人だと思い込んでいた。しかし,「目は聴き,耳は見る」(トリン・T・ミンハ)という表紙の帯のコピーをみて,なるほど,今福さんは「耳で見る」人だったのだ,と納得。目で風の音を聴き,耳で不可視の獣の駆け抜けていくのを見る。

それにしても,書店に並ぶ前に新著を読みはじめることの愉悦,最高の至福,ましてや好きな著者の本なれば。

冒頭の論考「元素的な沈黙」の書き出しを読みはじめて,いきなり衝撃を受けた。この論考の発想の原点はこういうことだったのか,と。つまり,今福さんがこのテーマ(薄墨色の文法)で書くことの,きわめてプリミティーブな発想(あるいは契機)を,わかりやすく書いてくれているからだ。

『図書』に連載されていることを途中で知り,そこから読みはじめてはいた。しかし,この導入部分の「発想」の原点を知らなかった。だから,今福さんはまたまた不思議な世界に分け入り,マニアックな文章を書きはじめたなぁ,という程度の印象だった。が,それはわたしの怠慢による認識不足だった。やはり,「連載」にとりかかる以上は,それ相応の,新たな発想の根拠があるはずで,そこを確認しないまま読んでいた自分を恥じるしかない。

その冒頭には,つぎのようにある。

「メキシコの平原を乾いた風が渡っている。あたりの斜面一帯を覆う茅(かや)に似た植物の穂先を荒々しく揺り動かしながら,不可視の獣が躍るように通りすぎてゆく。火山性の砂礫の上に腰をかけた私は,風の存在を草原のうねりとしてだけ感じながら,大気に描かれた透明で無定形な運動の絵柄を想像してみる。耳には吹きすぎる風の甲高い叫びのような音が響いている。土か,茅野原か,それとも風自身の声なのか? どこにも言葉はない。人間の言葉が消失し,魔術的な呪文がとりはらわれた明朗な世界。おおらかでありながら,自然物のみによって堅固に構築された,曖昧さのない世界。見えない風の踊り場・・・・。音によって充満する沈黙を聴くために私はいつもここにやってくる。」

このわずかな冒頭の行数のなかに,この本のモチーフが凝縮されている。これですべてだといってもいいほどの奥行きのある文章。読めば読むほどにその背後にあるものが,つまり,このあとに展開する数々の物語がわたしの脳裏を駆けめぐる。

メキシコのインディオとの接触によって「沈黙」の世界が開かれ,そこに無限の可能性を感じ取り,その可能性を開く主役が人間のことばではなく自然の「風」。この風をインディオはエカトル ecatl と呼ぶ。精確には,エ・エカトルと発音し,「・」のところで「喉を閉じて一瞬のちにふたたび開く無音にちかい破裂音のなかに,風のすべての形態が隠されている」という。そして,その「・」の声門のふるわせ方によって,微風も,大風も,竜巻のような突風も,みごとに区別し,表現することができるのだという。「彼らの言葉は,いわば反言語によって裏打ちされている」と。

風の音とそれを表す言葉とがそのまま重なり合っているような,ことばの「始原」に立ち会いながら,若き今福龍太は,ヨーロッパ近代の合理主義的思考から離脱し,ことばよりも「沈黙」を大事にするインディオの世界に深く入りこんでいく。そこで出会ったのがル・クレジオ。かれもまた,インディオの「沈黙」の世界にどっぷりとひたり込んで,ひっそりと「生活」していた。

それから23年後に再会した二人は,「奄美群島の聖なる樹々と珊瑚洞窟の世界」へと向う。そこで交わされる会話は,そのままインディオの「沈黙」の世界のそれとなっていく。そして,息詰まるような沈黙を破るようにして発せられる,ごくごく短い会話。単語の提示。それでいて肝胆相照らしあう,深いふかいこころの「触れ合い」。

もう,うっとりするしかない,それでいてドキドキしつづける,今福さんとル・クレジオとの「奄美群島」でのこころの交流。なるほど,「奄美自由大学」を主宰することの根拠がここにあったか,とわたしなりの納得。

たとえば,ル・クレジオのような,今福龍太にとって忘れがたい,しかも,生き方も文体までも変えたというほどの影響を与えた人物を取り上げながら,沈黙と言葉の境界領域の世界,あるいは,始原の言葉の立ち現れる世界へと読者を誘っていく。

巻末には,<薄墨色の文法>探究の先駆者たち,という見出しでわたしたちにも何人かは馴染みのある人名とかんたんな解説がなされている。名前だけ挙げておくと以下のとおり。
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー,ゲイリー・スナイダー,J.M.G.ル・クレジオ,ファン・ルルフォ,ネサワルコヨトル,アルフレッド・アルテアーガ,クロード・レヴィ=ストロース,ミゲル・リオ・ブランコ,トリン・T・ミンハ,宮澤賢治,ゲーテ,エドゥアール・グリッサン,オクタビオ・パス,ジョン・ケージ,フェデリコ・ガルシア=ロルカ,ジルベルト・フレイレ,ヴィニシウス・ジ・モライス,パブロ・ネルーダ,ヴィレム・フルッサーの以上19名。

一章ずつ,丁寧に読んでいきたい,と思う。
一気に読める本ではないのだから。


2011年10月2日日曜日

今福龍太さんの「群島─世界論」音響篇の第3回目のイベントに参加しました。

「眠れる薔薇を揺り起こす」──ヴィニシウス・ジ・モライスの世界,と題して「群島─世界論」音響篇の第3回目のイベントが開催され,そこに参加させてもらいました。

日時:10月1日(土)午後4時~
場所:sound cafe dzumi(吉祥寺)
主宰:今福龍太

早朝の読経を音楽代わりに禅寺で育ったわたしは,いわゆる音楽はまるで素人。大学を卒業したころに,どこかで聴いたナルシーソ・イエペスのギターの音にびっくりした程度。あとは,まるで音楽には無縁のままこんにちを迎えてしまった。だから,どんなイベントになるのかは,わたしにはまったく予想もできなかった。

会場のsound cafe dzumiは,以前に一度,編集者の佐藤真さんに誘われて(というか,荒川修作の三鷹天命反転住宅でのトークのあとの打ち上げで)行ったことがあったので,場の雰囲気は想像できた。あの素晴らしい音響と窓外の風景(8階から眼下に井の頭公園が広がっている)が強く印象に残っている。マスターの泉さんとも面識があるので,楽しみにでかけた。

この日のメイン・テーマは「ヴィニシウス・ジ・モライスの世界」。どこかでみた名前だな,くらいの知識しかなくて,いささか恥ずかしい。よくよく考えてみたら,今福さんが岩波の『図書』で連載していた「薄墨色の文法」のどこかの回に書かれていた名前だと思い出す。ちょうど,この日は,その『薄墨色の文法』──物質言語の修辞学(岩波書店)が刊行されたばかりで,受け付けで購入することができた。しかも,まだ,書店に並ぶ前で(奥付をみると10月4日第一刷発行とある),特別価格。これを購入して席を探す。

途中で道に迷ってうろうろしていたら,中山さんとばったり。一緒に探してやっとたどりついたときには,すでに遅刻。だから,満席。困ったなと思ったら,今福さんと林みどりさん(今日の対談者)が坐っていらっしゃる真ん前の席が空いているという。とても恥ずかしいが,遅れたのだから仕方がない。今福さんと林さんが,手を伸ばせばとどくような直近の場所。しかし,考えてみれば,特等席。

大音響の響くステレオのすぐ前だし,今福さん,林さんの表情はもとより,息づかいまで聞こえてくる,まさにライブの醍醐味満点。

さて,内容。最初に,今福さんから「ヴィニシウス」という人物について,かなり念入りな解説があって,なるほど,そういう人物だったのかとわたし一人が納得。おそらく,ここに参加された人のほとんどは常識だったのでは。

わたしの記憶に残っている話としては,以下のとおり。
ヴィニシウスは究極の「愛」をテーマに詩作に専念した詩人であること。職業は外交官。いわゆる堅気の仕事と詩人(アーティスト)の二足のわらじを履いて生きた人。詩の世界はもとより,実生活においても徹底して「愛」を追求。9回の結婚暦をもつ。バタイユといえども,ちょっと,太刀打ちできない。ここまで徹して「愛」を追求できる人は羨ましいかぎり。

そうして,ヴィニシウスの詩「MODINHA 」(モジーニャ)が紹介される。当日配布されたレジュメに,,原文と訳がある。ほかにも詩が何編か紹介されているが,すべて,今福さんの訳。美しいことばが並ぶ名訳である。「モジーニャ」の詩(断片)は以下のとおり。

否!
もう無理だ 愛する人よ
これほどに引き裂かれた心のまま
幻滅でしかないまぼろしの
奴隷となって生きることなど

おお 人生とはこんなものなのか
絶望を照らす月明かりのように
わたしに憂鬱を投げかけ
わたしのなかに詩をあふれさせる

響け 悲しい歌よ
わたしの胸から去るんだ
心のなかで泣いている思いの種を
あたりにまき散らせ

この詩に〇〇〇が曲をつけて〇〇〇が歌っています。この歌をまず聴いてみましょう。というところで,泉さんの自慢の音響装置が活躍。ブラジルの音楽とはこういうものなのか,と少しだけ目が開かれる思い。

こうしてボサノバという音楽について語られ,ナベサダの炯眼が語られ,ブラジル音楽の本質のような話に展開していく。これまでのわたしの経験にもなかった,遠いとおい,そして,深いふかい話へと進展していく。

うっとりしながら耳を傾ける。ヴィニシウスの詩も,ブラジルの音楽も,ボサノバも,ヨーロッパ近代が求めた音階どおりの機械的,あるいは,表層的なものにアゲインストするかのようにして,もっともっと深いところのヴェールにつつまれた「本質」に接近するところに,わたしたちのこころを打つものがある,と今福さんのお話がわたしには聞こえてくる。この視覚ではなく,聴覚にこそ,生きる人間の究極の存在理由があるのでは・・・・,と聞こえてくる。

これから通読してみようと思っている『薄墨色の文法』もまた,その聴覚がとどくかどうかわからない,曖昧模糊とした「場」に降りていって,ことばが生まれる直前の原風景に「触れて」みようとする今福さんのライフ・ヒストリーでもあるらしい。この日の「群島─世界論」音響篇もまた,そういう世界とリンクする企画だったのだろう,と考える。

だとすれば,かつて『近代スポーツのミッションは終ったか』(平凡社,西谷修,今福龍太の両氏との共著)で追求したテーマとも通底したものをそこにみとどけることができる。そして,今福さんがブラジルのサッカーについて熱をこめて語るときと同じものを,ブラジルの音楽について語るときにも聞きとることができる。だから,わたしにとっては至福のひととき。

こうして,わたしでは説明のできないブラジルの音楽の桃源郷へと誘ってくれる。そこに,林さんの詩の朗読が入り,泉さんの音響とつっこみが入り,フロアーからも自在につっこみが入り,和気あいあいのうちにこのイベントが進展していく。

あっという間に,第一部のイベントが終わり,第二部へと雪崩込んでいく。ここからの話はまた機会を改めて・・・・。ここでも,思いがけない「出会い」がいくつもあった。やはり,フットワークは軽く,そして,いろいろの人と「触れる」ことが,まずは大事だとしみじみ。

ここは「奄美自由大学」の番外篇でもあった。

こういう番外篇が,10月8日(土)にも予定されている。
第190回新宿セミナー@Kinokuniya
今福龍太著『薄墨色の文法』発刊記念対談
今福龍太×藤枝守
<瓦礫と書物>の風景を超えて──薄墨色の音を聴く
会場:新宿・紀伊国屋ホール(紀伊国屋書店新宿本店4階)
日時:10月8日(土)19時開演
料金:1000円(全席指定・税込)

江東区に避難している原発被災者の人たちの間で分断が起きているというお話。

9月30日のムスタファ・サイッドさんのコンサートと西谷修さんとの対談のあと,旧知のNさんと一献傾けた。Nさんは学生時代に,西谷修さんと県人寮で一緒に生活した同級生。いまは,某高校(有名私学)の名物教師として名声を馳せている。大学では東洋史を専攻した人。そのNさんが,奥さんを呼び出して(江東区の区議会議員さんでもある),一緒に歓談した。とてもチャーミングな人で,社会的弱者の救済に力を入れて,議員活動に勤しんでいらっしゃる。

その議員さんから,江東区に避難した原発被災者の生活実態について教えてもらい,いささかショックを受けている。恥ずかしながら,わたしはその実態についてなにも知らなかったからだ。その話を紹介しておく。

江東区では,新しくできた大きな公団住宅を福島の原発被災者のために開放して,相当数の人びとを受け入れている。その原発被災者の間で,いま,新たな「分断」が起きている,というのである。その理由は,福島で住んでいた家と原発との距離によって,処遇の仕方が区分されているからだ,と。いわゆる,「警戒区域」「避難準備区域」「計画的避難区域」「緊急時避難準備区域」といったような,線引きによる処遇の区分である。これらの区分によって処遇の金額に相当の開きがあるために,こんどは被災者間で新たな軋轢が生まれている,というのだ。原発の事故によって住む家を追われたという点ではなんの違いもないはずなのに,それを距離によって区分することの意味がわからない。それはそのとおりで,だれもが納得のいくところ。その怒りが当初は政府に向かっていたのだが,いつしか,目の前にいる同じ被災者同士に向かうようになり,その両者の間で「分断」が起きている,というのである。

これは一種の二次災害ではないか。しかも,人災だ。

こうした実態を,なぜか,メディアは知っていても報道しない。西谷さんのいうところの,メディアによる「自発的隷従」というわけだ。そのために,わたしたちが知らないでいる,いわゆる「影」の部分のお話である。わたしたちはマス・メディアの思うままに操られている。しかも,そういうメディアの操作による虚構に騙された状態が日常化している。しかも,その上で,選挙行動での意思決定を強いられている。つまり,メディアの意のままになっている,という実態が一方にある。その結果が,こんにちの政治の腐敗を招いていることは明らかだ。

自民党から民主党に政権移動が行われたにもかかわらず,本質的には,日本の政治はなにも変わってはいない。こんなバカなことがあってはならないはずなのに・・・・。そして,駄目だ,駄目だといわれている民主党政権がいまもつづいている。しかも,その政権を国民の多数は容認したままでいる。口では「駄目」といいつつ,行動では優柔不断,これが多数の実態。こういうわたしたちの体質が,こんにちの日本の危機を招いている。このことを百も承知で,そこにメスを入れようとはしない。むしろ,擁護しようとする「力」が強く働いていることは,すでに,明るみにでているとおりである。政府もなにもしようとはしない。困ったものである。

「3・11」はそうした日本の社会がはらんできた諸矛盾をもののみごとに露呈することになった。冗談じゃない,と多くの人びとが憤っているのはまぎれもない事実だ。こういう状況からいかにして脱出するか。まさに,西谷さんがいうところの「離脱と移動」が,いまこそ必要なときだ。いま,という時期を逃したらもう二度とその機会はこないだろう。

Nさんの奥さんである議員さんからは,江東区に住む人びとの弱者の実態の,それもほんの一部にすぎないのだろうが,わたしにとっては衝撃的な話をいくつか聞くことができた。そのうちの一つを,とりあえず,ご紹介したにすぎない。話はまだまだある。いずれ機会をみて,また,書いてみたいと思う。

社会的弱者はいつの世でも「切り捨てられ」てきた。そこにメスを入れようというのが,Nさんの奥さんの議員としての矜持である。

このような議員さんが一人でも多くなることを願ってやまない。そうしないことには,日本の社会はいつまでたってもよくならない。かりに少数派であれ,間違っていることは間違っている,とはっきりものが言え,行動のできる議員さんを選出するのは,わたしたちの責任である。

こんなことを強く感じた夜でした。
また,「延命庵」にお招きして,お話を伺いたいと思っている。
いまからとても楽しみ。

〔追記〕
夜のお酒を飲みながらの話なので,ディテールについては,わたしが記憶違いをしている部分があるかも知れない。たぶん,話の大筋においては大丈夫だと思いますが,もし,誤りがありましたらわたしの責任です。どうぞ,ご寛容のほどを。



2011年10月1日土曜日

ムスタファ・サイッドさんのコンサートと西谷修さんとの対談を聞きに行く。

昨夜(30日),「フクシマ原発災害とエジプト革命をつなぐ」と題するコンサートと対談があった。こころ洗われるひとときであった。そして,つねにその「場所」に立つ,つまり,「触れる」(パルタージュ)ということがすべてのはじまりである,ということをいまさらのように感じた。とても重いテーマの籠もったコンサートであり,対談だったが,そのあとにはなんとも心地よい爽やかな風が吹いていた。いい時間を過ごすことができたと感謝。

場所は,江東区門前中町の「門仲天井ホール」。18時30分会場,19時開演。司会:山本薫(アラブ文学)。一部:Mustafa Said コンサート。二部:対談・西谷修。

少し早めに会場に到着。エレベーターを降りたところの受け付けの前で,西谷さんにバッタリ。元気そうな顔はしているものの,蓄積疲労のあとはありあり。「大丈夫?」と声をかけたら,「うん,なんとか」と口をにごす。そして,すぐに,近くにいた渡辺公三さんや仲野麻紀さん(サックス奏者)を紹介してくれる。ちょっとだけ雑談をして,すぐに座席へ。

のっぽビルの最上階(8階)にある,文字通りの「天井ホール」。小じんまりとした落ち着けるホール。三々五々,人が集まりはじめ,開始前に座席はおろか,床に座布団を敷いてもまだ足りず,最後は立ち見まで。たいへんな盛況。

さて,主人公のムスタファ・サイッドさん。
当日,いただいたパンフレットから抜粋してご紹介。

福島──ムスタファ・サイッド氏を迎えて──エジプト
      いま,ここで起こっていること

昨秋,International Oud Trio のメンバーとして来日したエジプトのウード奏者Mustafa Said氏が,今回の日本の災禍に心を傷め,連帯の意を表すべく自費来日します。彼はこの1月,現在住むレバノンからひとり,故国エジプトへ出向き,民衆の中で革命歌となる曲を演奏,BBCアラビア語放送を通じて世界へ放映されました。騒擾のさなか,銃弾を浴びて左手を負傷しました。目で見るのではなく,世界におこる出来事にその耳を澄まし,みずからの意思で距離を越えて,人びとの心の共鳴を奏でる彼のウードの音に,耳を傾けてみたいと思います。

Mustafa Said    ウード奏者,作曲家,アラブ音楽研究者
1983年エジプト・カイロ生まれ。両親がシナイ半島に滞在した際,劣化ウラン弾による爆撃に遭遇し,被曝。そのため,ムスタファは兄と同様,生まれながらにして盲目になる。2004年アラブウード学院終了。カイロ・オペラハウス,アゼルバイジャンでのスーフィーフェスティバル,中近東諸国,スイス,フランス,イギリスへ招聘される。11,12世紀の学者Omar Khayyam(ウマル・ハイヤム)の詩を歌った「roubaiyat el khayam」を発表するが,詩の内容がエジプトの政治体制への過激な批判とみなされ,政府から監視を受け,現在レバノン・アントニン大学にて教鞭をとる。2010年,International Oud Trio として来日公演。ヨーロッパ,インドネシア,日本の大学機関にてアラブ音楽の伝統的技法の講義を持つ。

ムスタファ・サイッドさんは,9月25日に来日。
9月28日(水)東聖山医王寺・五大院(福島市飯野町字町73),11時/13時。
9月29日(木)銘醸館(南相馬市原町区本町2-52),18時。
の二カ所で,「福島で奏でる──ムスタファ・サイッド氏による連帯ボランティアコンサート」を開催。そして,9月30日(昨夜)の東京公演とつづく。

西谷さんは,この間も,ムスタファさんと行動をともにし,レンタカーで被災地をまわっている。じつは,わたしも誘われていて,同行する約束をしていたのだが,へぼ用ができて断念。ほんとうに惜しいことをした。

ムスタファさんの演奏は,とても繊細で,遠いとおい世界に連れていってくれるような,心暖かいものだった。演奏しながらの歌は,まるで,コーランを聞いているような錯覚を起こす。けして声を張り上げることはなく,ちょっと抑え気味の,しかし,よくとどく声で,しんみりと歌う。まさに「祈り」の歌に聞こえた。こうした演奏をとおして,かれがなにゆえに日本にまでやってきたのかという意思は,わたしには十分につたわってきた。そうなのだ。かれは「祈る」ためにやってきたのだ。それも,宗教もイデオロギーも時間も超えて。わたしも,いつしか,祈っていた。

そのあとの対談が,またまた,みごとなものだった。西谷さんをして「わたしの役割だと思っていた世界のこと,グローバル経済のこと,戦争,革命,地震・津波・原発のことまで,全部,ムスタファさんが話してくれました」と言わせるものだった。ムスタファさんが「いても立ってもいられなくて」来日を,しかも,自費でくることを決意した,その気持ちも存分につたわってきた。それを,うまく引き出した西谷さんのトークもみごと。

帰り際に,CDを買おうと思ったら,わたしの前の人で「売り切れ」。その前にいた人は,名古屋からかけつけたMさん。にっこり笑って帰っていった。あとで聞かせてください。