2010年8月31日火曜日

『IPHIGENEIA』の原稿の締め切りについて。

 わたしが主宰している「21世紀スポーツ文化研究所」(「ISC・21」)の研究紀要『IPHIGENEIA』(通号第10号)の原稿の投稿締め切り日が,8月31日,つまり,今日でした。
 いろいろの事情で,どうしても原稿が間に合わないという方が複数,いらっしゃいますので,少しだけ締め切り日を延長しようと思います。原稿が途中までになっている方は,わたしのところにメールでご連絡ください。一人でも多くの方の論考を掲載したいと思っていますので,ご相談に応じます。刊行予定日は,10月10日ですので,それまでの間のやりくりの限界ぎりぎりまで,調整したいと思いますので,正直なところをお知らせください。
 現段階で掲載が確定しているのは,2本の合評会報告と研究ノート,エッセイなどが数本です。合評会は,「ISC・21」の月例研究会でとりあげた,今福龍太著『ブラジルのホモ・ルーデンス』(月曜社)と西谷修著『理性の探求』(岩波書店)の2本です。いずれも,著者を囲んでの,熱のこもった議論が展開されていて,原著をより深く理解する上で基調な報告になっています。いずれも3時間に及ぶ長時間でしたので,かなりの長編ですが,内容が濃く,読みごたえ十分です。大いにご期待ください。こんどの研究紀要の「目玉」となること請け合いです。
 ついでに,さきほど電話連絡があったばかりのホットなニュースを一つ。雑誌の名前は差し控えますが,西谷修,今福龍太のお二人にわたしが加わって,「大相撲問題」についての鼎談をやることになりました。11月号の特集だそうです。もちろん,体育・スポーツとは関係のない,とても評価の高い雑誌です。だいぶ前から日程の調整をしていたのですが,お二人とも超多忙ですので,なかなか,日程の折り合いがつかず難航したようです。が,なんとか譲歩していただけたようです。収録は10月11日。もう,雑誌としてはギリギリもいいところです。それでもやろうという雑誌社の心意気を感じます。「大相撲」を「思想」のことばで語る,というのが隠しテーマになっています。どこまで,思想・哲学の問題として切り込むことができるのか,とても楽しみです。もちろん,いつものように,わたしの胸は「ドキドキ」です。さて,わたしとしては,どのような話題をどこまで練り込むか,大きな宿題ができてしまいました。
 さらに,ついでに,もう一つ。すでに,このブログでも書いたように記憶しますが,来年の2月11日には,上記のお二人にわたしが参加して,「柏木裕美さんの新作・創作能面を語る」という鼎談を,銀座・文藝春秋画廊ですることになっています。昨年の2月に,第一回目の鼎談をやっていますので,今回は,第二回目の鼎談ということになります。なお,第一回目の鼎談の内容は,昨年の『IPHIGENEIA』(通号第9号)に掲載されていますので,ご覧ください。来年の柏木さんの能面展はお見逃しなきように。柏木さんのブログを読んでいる方はよくわかっていますように,いま,旬の人です。いわゆる眠っていた才能が「はじける」ようにして,驚くべき創作能面の世界を切り開いていらっしゃいます。日本でただ一人,まったく新しい境地に立ち,自由自在に能面の創作に取り組んでいる,という大変な人になってしまいました。テーマの一つは「小面百変化」。能面の世界では「小面の裏に般若あり」というそうですが,女性の顔の表情を,小面から般若にいたるまで「百変化」させてみようという,とんでもない構想で作品がつぎつぎに誕生しています。詳しいことは,ぜひ,柏木さんのブログで確認してみてください。来年の「新作・創作能面」に対して,今福さん,西谷さんがどのような論評をされるのか,これまたとても楽しみです。
 お断りしておきますが,「能面」もまた身体の一部ですので,能面を語ることは,わたしにとっては立派な「身体論」である,ということになります。「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)としては,大きな研究テーマの一つです。いずれ,柏木さんによるプレゼンテーションの機会をもちたいと考えています。こちらの方も,乞う,ご期待!というところ。
 おまけに,もう一つ。竹谷和之さんが頑張って新しい道を開拓している「日本・バスク国際セミナー」にも「ISC・21」は積極的に支援活動を展開しています。もともとは,神戸市外国語大学とバスク大学間の姉妹大学協定にもとづく「国際セミナー」としてはじまったものです。その第一回目の国際セミナーが2007年にバスク大学(スペイン)で開催され,その報告書が,ようやく単行本となります。題して『<スポーツする身体>とはなにか──バスクへの問いかけ』PART・1。この本は,日本側のセミナー参加者の発表原稿を編集したものです。それに対して,バスク側の発表原稿がまもなく揃うことになっています。そうなれば,『<スポーツする身体>とはなにか──バスクからの応答』PART・2,となる予定。そして,来年(2011年)秋には,第二回目の「日本・バスク国際セミナー」が神戸市外国語大学で開催が予定されています。すでに,発表原稿も揃っていますので,こちらも近日中に編集をして『<スポーツする身体>とはなにか──バスクへの問いかけ』PART・2,として刊行の予定です。
 というようなわけで,「ISC・21」も,ことしで3年目に突入していますが,ますます活動の範囲もひろがり嬉しい悲鳴をあげているところです。この「ISC・21」の研究員には,だれでもなれます。興味のある方は,わたしのところに「意思表示」をしてください。そして,ますます活動が活性化するよう支援していただけると助かります。研究員でない方も,ぜひとも,応援の方,よろしくお願いいたします。

2010年8月30日月曜日

「贈与」は「気前よさ」の表出なのであろうか。

 『贈与論』を読んでいて,いつも気になっていることを,問題提起としてここに提示してみたいとおもう。それは「気前よさ」という表現で「贈与」が説明されることである。
 たとえば,以下のような文章である(P.40)。
 「シベリア北東部のすべての社会,アラスカ西部のエスキモー,ベーリング海峡のアジア沿岸部のエスキモーなどにおいては,ポトラッチは,気前のよさを競う人々,そこに運ばれる物あるいは消費される物,そこに参加,関与して人々に名前を与えている死者の魂に対してだけでなく,自然に対しても,ある種の効果を与えている。精霊と同じ名前を持つ者同士の贈り物の交換は,「同じ名前であるために」死者の霊に加えて神,物,動物および自然の霊を刺激し「人々に対して気前よくなる」ように仕向ける。」
 この文章全体の意味をどのように読み解くかという問題はひとまず措くとして,「気前のよさ」「気前よくなる」という表現に焦点をあててみることにしよう。序論のP.18で確認したように,ポトラッチのもともとの意味は「食物を与える」「消費する」ということにある。このことが,ただちに「気前よさ」とつながるのかどうか,というのがここでのわたしの疑問であり,問題提起である。「食物を与える」ということは「気前よさ」なのか。「消費する」ということがどうして「気前よさ」になるのか。少し考えてみたいのである。そこには,ヨーロッパ近代のものの見方・考え方にもとづく「物差し」が,無意識のうちに紛れ込み,それを優先していないか,という疑問である。
 たとえば,「エスキモー」という表記は,1925年のヨーロッパにあっては,ごく当たり前のことであった。しかし,いまではこの表記はされない。エスキモーということばの代わりに「イヌイット」と表記される。理由は明白である。「エスキモー」というのは「生肉を食べる人」という意味で,それはヨーロッパ文明国の視線から名づけられた呼称である。それに対して,われわれは「イヌイット=人間」であるからして,「イヌイット」と呼んでくれ,という主張がなされた。その結果,こんにちでは,かつて「エスキモー」と呼んでいた人びとのことを「イヌイット」と呼ぶようになった。
 これと同じことが「気前よさ」というまなざしに紛れ込んではいないか,とわたしは危惧する。はたして,「食物を与える」ことや「消費する」ことをイヌイットの人びとが「気前よさ」と考えているかどうか。1925年以前のイヌイットの人びとにとって「食物を与える」ということがどのような意味をもっていたのか,とくと考えてみる必要があるのではないか。これがわたしの懸念である。そのことは同時に,ポトラッチの「始原」に立ち返って考えることを要請する。わたしたちは無意識のうちに自分のなれ親しんだ文化のもつ価値判断に身をゆだね,それが唯一絶対であると勘違いすることが多い。とりわけ,文化人類学的な比較研究においてはもっとも注意を要するところである。
 イヌイットの人びとにとって「食物を与える」とは,その実態は「生肉を与える」ということになろう。では「生肉を与える」とは,どういうことなのか。このことは,アイヌの人びとの食文化に対する考え方と共通すると類推するのであるが,アイヌの人びとは,たとえば,自分たちが生きていく上で必要最小限の魚(鱒)しか捕獲をしない。越冬することのできる必要最小限だけを捕獲し,保存する。余分には捕獲しない。そして,余分には保存しない。その上で「食物を与える」とは,どういうことを意味するのか,と考えてみる。アイヌの人びともまた,食物がなくなって困った人がいると知れば,間違いなく「食物を与える」だろう。これがポトラッチの原型ではないか。アイヌの人びとにとっては,食べ物にかぎらず,人間がわがものとするものは,すべて神々からの恵みもの(神々からの贈与)である。有名な「熊送り」の祭祀は,まさに,神々からの贈与である「熊」の「命」(からだのすべて)をいただいて,その「霊」を神々に送り返す儀礼である。「おみやげ」の語源である「おみあげ」は,こうしたアイヌの文化から生まれたことばである,という。つまり,「おみやげ」は古くは人身供犠にその淵源をもとめることができる,というわけである。
 イヌイットの人びとにとっての「生肉」もまた,神々からの「贈与」と考えられていたのではないか。だから,かれらもまた生活に必要な最小限の「生肉」だけを確保し,それ以上の余分な「生肉」を確保し,保存するということはしなかったはずである。だから,もし,なにかのはずみで必要以上の「生肉」が手に入ったとき(たとえば,「贈与」によって受け取らなくてはならなかったとき),これを自分の手元に置くことを忌避したに違いない。だから,急いで,別のだれかに「贈与」する,ということになる。なぜなら,必要以上のものを確保するということは,神々に対する冒涜であるから。場合によっては,焼き捨ててしまったり,破壊したり,海に投げ捨てたりしてしまう。つまり,「消費する」のである。これがポトラッチという制度をささえる始原の姿だったのではないか。
 バタイユの仮説によれば,もともと,自然存在であったもの(神の所有であったもの)を人間の都合で(有用性に依拠して),人間の所有物にしてしまうという,神に対する罪の意識が,原初の人間にはつねにはたらいていたはずである。たとえば,植物を栽培したり,動物を飼育したりして,もともと神の領域にあったものを人間の領域に持ち込んで,人間が占有する時空間を拡大してきた。その贖罪の一環として,栽培植物の麦を神々に捧げて焼き捨てたり,牛を神々に捧げて殺したりして,それぞれの「霊魂」を神々の世界に送り返すということが行われた,という。これが「供犠」のはじまりだ,と。
 だとすると,「供犠」は,神々から与えられた贈与を,もう一度,神々に送り返すための贈与である,ということになる。つまり,人間から神々への贈与,それが「供犠」である,と。
 この「供犠」が変化・変容していくと,人間から人間への「供犠」がはじまる。そして,その「供犠」がさまざまに変容して,「贈与」という形式が誕生する。それがさらに多様化していって,「ポトラッチ」というシステムが生まれた,と考えることができる。
 そこから「食物を与える」「消費する」というポトラッチの本来の意味が付与されることになる。だから,「消費する」には「供犠」の原イメージが残存している。その延長線上に「食物を与える」という儀礼が成立する,という次第である。
 だいぶ,途中の細かいロジックを飛ばしてしまったが,おおよそのところは理解してもらえようかとおもう。このように考えてくると,「食物を与える」や「消費する」が,たんなる「気前よさ」の表出ではなくて,むしろ,身を切る思いの「供犠」にも等しい行為である,と考えるべきではないか。わたしは,こんなことを,いま,大まじめに考えている。
 もちろん,こんにちの物質文明に浸りきっている現代社会にあっては,人を招待して饗応するということは,別のいろいろの意味もふくめて,ひとことでいえば「気前よさ」と表現することは,十分に可能である。しかし,神々からの贈与を,必要最小限のレベルで「いただく」ことによって,みずからの生命を維持していくと考えていた人びとにとって,ポトラッチはたんなる「気前よさ」の表出ではない,というのがここでのわたしの結論である。
 わたしたちは,いまでも,食事の前には「いただきます」という。この意味は,他者の命を「いただく」ということなのだ。他者の命を「いただく」ことによってわたしたちの命を維持することができる。そのことに対する,ある種の「贖罪」の意識がそこには流れている。
 戦前の教育の話をすると笑われるかもしれないが,わたしが「国民学校」(当時は,小学校のことをこう呼んだ)に入学して,最初におぼえた「唱えことば」は以下のものである。よくもわるくも熟読玩味していただきたい。
 「箸とらば,天地御代(あめつちみよ)の御恵(おんめぐみ),祖先や親の恩を忘れず。兵隊さん,ありがとう。いただきます。」


未完。

2010年8月29日日曜日

「供犠」は死者の霊と神々への「贈与」なのか。

 マルセル・モースの『贈与論』をスポーツ文化論の視座から読み解くという作業をつづけているわけであるが,そろそろ,このあたりで,わたしの立ち位置について,とくに,マルセル・モースとの違いについて触れておく必要があろう。
 テクストの『贈与論』が書かれたのは1925年。そして,このテクストを読むわたしたちは2010年という時代を生きている。そこには85年間の時間差がある。この間,文化人類学や社会人類学も大きな進展をみている。もちろん,社会学も(マルセル・モースが社会学者のデュルケームの甥にあたり,この伯父の学問的影響をつよくうけたことを念頭に)。そして,それよりもなによりも思想・哲学のこの85年間の変貌ぶりは注目すべき重大な問題を含みもっている。『贈与論』が傑作であるという全体的な評価はいまも不動であるとしても,その細部については,多少の問題がないわけではない。
 とりわけ,21世紀を生きる日本人としてのわたしの立場からすれば,当然のことながら,ヨーロッパ文明を中心にしたマルセル・モースのものの見方・考え方が,ときに,気になることがある。それは,時代的制約や地域的制約を考えれば仕方のないことではある。しかし,より真実に接近するためには,それらの制約を超えたところでの,可能なかぎりwertfreiの立場での思考が求められることになろう。細かなことがらについては,授業のなかで説明をすることにして,ここでは,ごく大きな視点での問題提起をしておきたいとおもう。それは,マルセル・モースの用いた資料のほとんどは,初期の文化人類学や社会人類学の成果である,ということ。つまり,できるだけフィールドの論理を精確に写し取るということをめざした論文も,最終的には,ヨーロッパ近代の合理主義のものの見方・考え方と無縁ではなかった,ということである。ときには,ヨーロッパ近代の「物差し」で,異文化を計測してしまうという,無自覚の落とし穴にはまってしまうことも少なしとしない。そのような資料批判もきちんとした上で,マルセル・モースが比較研究をしたことは十分に承知しているつもりである。しかし,そのマルセル・モース自身も,やはり,ヨーロッパ近代の呪縛から完全に自由であったわけではない。そういう限界が,85年間という時間をとおして,わたしたちにも見極めることが可能となる。したがって,ときには,このテクストを批判する立場にも立ち,それなりの議論を展開していくことが不可欠となる。
 このことと同時に,思想・哲学の分野では,ジョルジュ・バタイユによって提起された「供犠」についての理論仮説である。バタイユは「供犠」については,特別の強い関心を寄せていたことが,かれの書き残した著作をとおして窺い知ることができる。なぜなら,あらゆる著作のここかしこに「供犠」の問題が取り上げられ,かれの思想の根源をなしていることかわかるからである。なかでも,『宗教の理論』『呪われた部分/有用性の限界』で詳論されている「供犠」についての論考は見落とすことはできない。このバタイユの立場からみると,モースの「供犠」についての論考は,まだまだヨーロッパ近代の側に立つものである,ということがよくわかる。したがって,わたしも可能なかぎりバタイユの仮説に依拠しながら「供犠」の問題を考えてみたいとおもう。
 こんな視点を加えたところで,これからの読解を進めていくことにしよう。
 テクストのP.40に「4.追記:人に対する贈り物と神に対する贈り物」という見出しの論考がある。今日はここでの問題を考えてみることにしよう。 
 「人々が契約を結ばなければならない存在,また人々と契約を結ぶためにある存在の最初のものは,死者の霊と神々であった。したがって,それらは地上の物や財貨の真の所有者であった。つまり死者の霊や神々と交換することが最も必要であり,交換しないことは極めて危険であった。しかしながら,それらと交換することは最も容易で最も安全であった。」
 このフレーズでの問題は「契約」という用語と考え方である。わたしたち日本人には,この「契約」ということばを理解することは,かなり困難である。少なくともわたしにはいまもきわめて困難である。たとえば,「死者の霊と契約を結ぶ」とはどういうことを意味するのか,わたしにはいまひとつピンとこない。また,「神々と契約を結ぶ」ということもわからない。なぜなら,わたしの頭のなかでは,「契約」というものは商取引のための用語であって,宗教的なコスモロジーのなかに「契約」という概念を持ち込むことは不可能に近い。しかし,ヨーロッパ人にとっては,神との契約は当たり前のことになっている。すべてはここからはじまる。だから,なんの違和感もなく,こうした文化人類学的な比較研究をする場にあっても,契約の概念が登場することになる。マルセル・モースは,もちろん,無意識のうちに用いているはずである。シャーマニズムやアニミズムの世界に「契約と交換」という概念を持ち込むことに,わたしは大いに違和感を感じないわけにはいかない。
 「供犠における破壊の目的はまさしく贈与であり,それには必ずお返しがある。アメリカ北西部やアジア北東部のポトラッチのあらゆる形態は,この破壊の主題を伴っている。人々が奴隷を殺し,大切な脂を燃やし,銅製品を海に投げこんだり,豪華な家に火をつけたりするのは,単に権力,富,無私無欲を誇示するためばかりではない。それはまた,霊や神々に供犠を捧げるためでもある。」
 この引用文に関しては,わたしはまったく逆の論理で読み解いてみたい,という欲求にかられる。なぜなら,贈与があって供犠があるのではなく,供犠があって贈与がある,と考えるからである。つまり,贈与と供犠の先後関係の問題である。わたしは,供犠が先にあって,この供犠の有用性が贈与となった,とするバタイユの仮説に与するものであるから。もう少し踏み込んでおけば,死者の霊や神々に捧げる「供犠」と,ポトラッチとして行われる「供犠」とは本質的に別のものだと,わたしは考えている。さて,みなさんはどうお考えか。
 「・・・・・神々から買わなければならず,また神々は物の価値を決めることが出来ると信じられているのである。この観念がセレベス島のトラジア族におけるほど明確に現れている例は他にない。クロイトは次のように述べている。『そこでは所有者は,実際には精霊のものである〔自分の〕所有物に働きかける権利を精霊から〔購入〕しなければならない』。所有者は〔自分の〕木を切り倒す前に,〔自分の〕土地を耕す前に,さらには〔自分の〕家の柱を立てる前に,神々に対して代価を払わなければならない。このように,購買の観念は,トラジア族の日常的,商業的習慣ではあまり発達しなかったが,精霊や神々に対する購買の観念は極めて強く存続している。」
 ここでいう「購買の観念」というものが,いま一つ不鮮明。「神々に対して代価を払わなければならない」というときの,この「代価」とはどのようなものを意味するのだろうか。この「代価」が「儀礼」や「饗宴」であるとすれば,とてもすんなりと理解することができる。しかし,ここでは「購買の観念」にもとづく「代価」である。日本の諏訪地方につたわる7年に一度の「御柱祭」は,「購買の観念」とは無縁だとおもうが,そのために支払うべき「代価」は大変なものである。7年に一度の祭りのために,氏子たちはみんな貯金をして備え,一気に消尽する。そう,バタイユ的にいえば,「代価」とは「消尽」のことか,とも読み取れる。
 さて,どのように読み解くべきか。宿題にしておこう。

2010年8月28日土曜日

「贈与」された物には霊があるという・・・マオリ族の場合。

 「幽霊」は存在するかしないか,夏になればかならず一度ならず話題にのぼる。そして,最後の落ちは「みえる人にはみえる」「みえない人にはみえない」そういうものだ,となる。
 科学万能の時代にあっても,幽霊の話題はつきない。いな,科学万能の時代だからこそ,幽霊なる不可解なものの存在はますます大きくなってきているのかもしれない。およそ,幽霊なるものの話は世界中のどこにでもある。ただ,地域によって,幽霊の性格もかなり違うようだ。日本の幽霊は,怖い幽霊から可愛い幽霊まで多種多様である。だから,恐ろしくもあるが,なんとなく親しみもあって,比較的近い存在である。
 さて,幽霊は,一般的にはこの世に未練を残したまま死ななければならなかった人が,その未練を果たそうとしてこの世に舞い戻ってくる,というパターンが多い。つまり,人間と人間の間での話である。しかし,「霊」となると,もう少し守備範囲が広くなってくる。アニミズム的に考えれば(タイラー),自然界のあらゆる物にはそれぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的なものがふくまれているということになる。この考え方は原初の宗教の特徴だそうであるが,現代社会を生きるわたしたにも,信ずるか信じないかは別として,やはり,物には霊的なものがふくまれている,という感性のようなものを全否定することはできない。
 自然界の巨岩や奇岩,巨木や古木に出会うと,おもわず足が止まることがある。そして,じっと眺めていると,なにか圧倒されるような霊的なものを感ずる。美しい夕日や抜けるような空の青さや,美しい山並みなどにもどこか霊的なものを感ずることがある。そして,どこかで気脈のようなものでも通いはじめてしまうと,しばらくは身動きもせず,時間を忘れて立ち尽くすことになる。ヴィジョナリーな,なにかを感じながら。
 他方,人間が丹精こめて制作したものなどには,そこはかとなく霊的なものを感ずることがある。たとえば,刀剣。奈良の春日退社の宝物殿には世に知られた名刀が多く展示されている。刀好きにはたまらない空間である。みんな同じような顔をしているのだが,よくよくみると一振りずつ,みんな違う。みるからに「切るぞ」と迫ってくる迫力満点のものから,存在そのものがすでに圧倒的な力をもっているものもあれば,やさしい顔をしながらも鋭さがじわりと感じられるもの,などなど。毎年,開催される「正倉院展」でも,刀剣は必ず展示されるアイテムの一つである。ある年に,国宝となっている「小刀」が展示されたことがある。刃渡り,わずかに10センチ足らずの小刀なのだが,それでいて迫力満点。みんな黙って見とれている。
 こういう名刀に一度でも出会ったことのある人には,刀身には「霊」が宿っている,ということばはそのまま信じられることだろう。刀が,単なる物から独立して,命を帯しているようにみえてくるから不思議である。もし,万が一,こんな「霊」の宿った名刀が「贈与」されたら,さあ,みなさんならどうしますか。
 マルセル・モースは,テクストのP.33で,つぎのような話を紹介している。
 「『タオンガ(taonga)』は,マオリ族の法や宗教の考え方では,人,クラン,土地に強く結びついている。それは,マナ,つまり呪術的,宗教的,霊的な力を媒介するものである。G.グレーとC・O・デイヴィスによって幸いに採集された諺(ことわざ)によると,タオンガは,それを受けた人を殺すように祈られる。したがって,法,とりわけ返礼をする義務が守られない時,タオンガはそのような恐ろしい力を内蔵しているとされる。」
 この話につづけて「物の霊,特に森の霊や森の獲物である『ハウ(hau)』について,つぎのようなインフォマントの話を紹介している。
 「私はハウについてお話しします。ハウは吹いている風ではありません。全くそのようなものではないのです。仮にあなたがある品物(タオンガ)を所有していて,それを私にくれたとしましょう。あなたはそれを代価なしにくれたとします。私たちはそれを売買したのではありません。そこで私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。そしてその人はそのお返し(『ウトゥ(utu)』として,何かの品(タオンガ)を私にくれます。ところで,彼が私にくれたタオンガは,私が始めにあなたから貰い,次いで彼に与えたタオンガの霊(ハウ)なのです。(あなたのところから来た)タオンガによって私が(彼から)受け取ったタオンガを,私はあなたにお返ししなければなりません。私としましては,これらのタオンガが望ましいもの(rawe)であっても,望ましくないもの(kino)であっても,それをしまっておくのは正しい(tika)とは言えません。私はそれをあなたにお返ししなければならないのです。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。この二つ目のタオンガを持ち続けると,私には何か悪い個がおこり,死ぬことになるでしょう。このようなものがハウ,個人の所有物のハウ,タオンガのハウ,森のハウなのです。」
 こうした話の最後に,マルセル・モースは,まとめのようにして,つぎのようなきわめて示唆に富む考察を書き留めている。
 「・・・・ある人から何かを受け取ることは,その人の霊的な本質,魂を受け取ることになるからである。そのような物を保有し続けることは危険であり,死をもたらすかもしれない。というのも,そうすることがただ違法であるかもしれないだけでなく,精神的にも,身体的にもその人に由来するもの,つまり,その人の本質,食物,動産あるいは不動産などの財産,女性,子孫,儀礼,饗宴などは,受け取った者に呪術的,宗教的な力を与えるからである。最後に指摘したいのは,受け取られた物は生命のない物ではないということである。その物はしばしば生命を与えられ,個性を付与され,エルツが『起源の地』と呼んだものに戻る傾向があり,あるいはそれを生んだクランや土地のために,自分の身代わりになる等価物をもたらそうとする。」
 さて,この最後の文章をどのように読み解くか,ここはとても面白いところです。キー・ワード的に,わたしの読解を提示しておきますと,「おみあげ」の語源,アフリカの「霊力」を競うすもう(ゴン),古代ギリシアの祭典競技,流動的身体,原点回帰(あるいは,ニーチェのいう「永遠回帰」),などです。これらについては授業の中で議論をしてみたいとおもいます。受講生のみなさんの読解も,いくつか提示してくれることを楽しみにしています。

未完。いましばらく。 

2010年8月27日金曜日

ポリネシアの「ポトラッチ」──サモアの場合。

 いよいよ,第一章 交換される贈与と返礼の義務(ポリネシア)に入っていくことにしよう。ここでは,サモアの例が取り上げられている。
 サモアでのポトラッチの特徴を,モースはつぎのように整理している。
 「第一に,サモア島における契約的贈与体系は婚姻の時以外にも広がっている。それは,子供の出生,割礼,病気,娘の初潮,葬式,商取引に伴って現れる。
 第二に,いわゆるポトラッチの二つの本質的要素が確認されている。一つは,冨が与える名誉や威信や「マナ」であり,もう一つは,贈与のお返しをすべきであるという要素である。返礼をしないと,このマナ,権威,お守り,そして権威そのものである冨の源泉などを失う恐れがあるのである。」
 ここで述べられている二つの特徴は,ほとんどそのまま,こんにちの日本の社会にも当てはまる。むしろ,不思議なほどによく似ていることに,逆に驚かされてしまう。やはり,「椰子の実」ではないが,ポリネシア系の文化の影響は相当に色濃く日本の社会に定着したと推測してよさそうである。日本の文化は,中国や朝鮮半島を経由して入ってくるいわゆる「大陸」系の文化と,東南アジア(ポリネシア,など)からの海流に乗って入ってくるいわゆる「群島」系の文化と,そして,日本古来の土着系の文化の「混淆」であることがよくわかる。
 ポトラッチなどという,あまり聞き慣れないことばで表現されると,なにか特殊な慣習行動であるかのように受け取られがちであるが,なんということはない,ごく日常的な,わたしたちの間で,ごく当たり前のようにして展開されている行為そのものなのである。
 わたしの考現学的な分析からくる印象によれば,こんにちの若い世代の人たちの方が,戦後民主主義という名のもとで展開した「生活の合理化」運動による「虚礼廃止」の考え方を強制されたわたしたちの世代よりも,ポトラッチを生き生きとしたものして楽しんでいるかのようにみえる。たとえば,どこかに旅行に行ったときの「おみやげ」の交換などは,わたしたちの世代よりもはるかに楽しげに行われている。この点については,だれかが問題を整理して,具体的な事例をあげながらプレゼンテーションをしてくれると,面白い議論ができそうだ。この科学万能の時代に,なにゆえに,古い慣習行動であるポトラッチが復活してくるのか,ここが議論のポイントとなろうか。
 つぎに,モースはターナーの研究の結果を紹介しているので,それを取り上げてみよう。
 「出産の祝いの後,『オロア(oloa)』と『トンガ(tonga)』──つまり父方の財産と母方の財産──を受け取り,返礼した後でも夫婦は以前より裕福にはならなかった。しかし彼らは,その息子の誕生の時に集まった財貨の山──これを大きな名誉とみなしている──を見て満足した」と。
 ここで行われている贈与と返礼は,ほぼ,「とんとん」になっていることがわかる。つまり,たくさんの贈与をもらえば,それに見合うだけの返礼をする,ということ。そして,必要なのは,「集まった財貨の山=大きな名誉」を見て満足する」こと。この「名誉」こそが大きな鍵を握っていることに注目すべきであろう。息子の誕生によってポトラッチが交わされ,自分たち夫婦の「名誉」が視覚化されること,このことによって,ある共同体のなかでの自分たちの位置が周囲に確認されることになる。
 日本では,こんにちでは大きく変化しているかもしれないが,お祝いは「倍返し」,お見舞いは「半返し」ということが,わたしのこどものころには言われていた。おそらく,基本的な考え方としては,いまも生きているのではなかろうか。
 ここでは「オロア」と「トンガ」の問題に絞られているが,モースは「トンガ」の概念について,つぎのような補足説明を行っている。
 「この概念は,マオリ語,タヒチ語,トンガ語,マンガレヴァ語では,冨,権力,影響力を与えるすべての物を指し,さらに,交換できるすべての物,賠償に用いられる物も意味する。それは専ら財宝,護符,紋章,ござ,神聖なる彫像であり,時には伝統,祭祀,呪術的儀礼でもある。」
 ここでようやく,われわれの「スポーツ文化論」的な考察への道が開けてくる。つまり,「トンガ」は「時には,伝統,祭祀,呪術的儀礼」でもある,という指摘である。そして,スポーツ文化の多くが,祭祀や呪術的儀礼として行われていた「芸能」と深く切り結んでいることは,ここで繰り返すまでもないであろう。
 こうして,いよいよ「2 贈られた物の霊(マオリ)」(P.33)へとつながっていく。この問題については,明日のブログで考えてみることとしよう。
 

2010年8月26日木曜日

「贈与」とピンダロスの「オリュンピア第七歌」の関係について。

 一昨日(24日)のブログに書いた引用文のなかに,もう一つ重要な注・10が付されていて,これを取り上げることを忘れていたので,追加しておきたい。
 テクストのP.17のなかほどのところに,つぎのような本文がある。
 「・・・交換し契約を交わす義務を相互に負うのは,個人ではなく集団である(注・9)。契約に立ち会うのは,クラン(氏族),部族,家族といった法的集団である。ある時は集団で同じ場所に向かい合い,ある時は両方の長を仲介に立て,またある時は同時にこれら二つのやり方で互いに衝突し対立する(注・10)。」
 注・9も,じつは重要な注(葬儀・葬送と贈与の関係について述べられている。ここでは「槍」が取り上げられているが,ホメーロスの『英雄叙事詩』のなかには「葬送・葬祭競技」がしばしば取り上げられている)なのであるが,これについては授業のなかで考えることにして,ここでは注・10について,考えてみることにしよう。
 注・10は,P.25にある。それは以下のとおり。「ピンダロスのような後期の詩人も『我が家において年若き娘婿のために乾杯する』と述べている(Pindare, Olympiques, Ⅷ[Ⅶの間違い:訳注])。この詩節全体は,われわれが後に述べようとしている法の状態を示している。贈与,冨,婚姻,名誉,恩恵,縁組,献酬の主題や,婚姻によってもたらされる嫉妬の主題すべてが,表情豊かな,注釈が必要な言葉によって示される。」
 この注の話は,スポーツ史研究の分野でもよく知られた,ピンダロスの『オリュンピア祝勝歌集』のなかにある「オリュンピア第七歌」ロドスのディアゴラスのために──ボクシング優勝,のことである。幸いにも手元に,ピンダロス『祝勝歌集/断片選』(内田次信訳,京都大学学術出版会刊,西洋古典叢書,2001)があるので,その場所を確認してみよう。その冒頭に,以下のようなコメントが付してある。まずは,そこから確認しておこう。
 「前464年の優勝を祝う。ディアゴラスはロドスの名家の人。その一門はかつてはイアリュソス市の王族であった。ディアゴラスとその一族は数々の競技栄光によって全ギリシア的に著名で,ロドスの政治史においても重要な役割を果たした。彼らの像がオリュンピアに立てられ,その基台が近代の発掘で発見された。ディアゴラスの像は,近代,ギリシアの切手の図案にもなった。
 梗概 詩人が優勝者に捧げる歌を,豊かな男が花婿に贈るぶどう酒の金杯に譬える。トレポレモスが故郷ティリュンスを去り,ロドスへやってきた話を叙述。時間を遡り,太陽神の子たちヘリアダイがうっかりして供犠の火を忘れたが,ゼウスとアテナに恩寵を受けた話をし,さらに遡って,太陽神への分け前を神々が失念したが,その後ロドス島が神に与えられた話を語る。ヘリアダイとその子孫のこと。トレポレモスがロドス人から受ける栄誉に触れ,ディアゴラスとその一族の名声を讃える。」
   以上は訳者の前振り。ギリシア神話によほど通暁していないかぎり,この前振りは理解困難。ギリシア神話事典でも引きながら,一人ひとりの登場人物(あるいは,神々)を確認しておいてください。さて,この前振りにつづいて,本文である詩文が登場する。

 〔ストロペ 一〕
 あたかも内側がぶどうの露で泡立つ盃を人が取り上げ,
 裕(ゆた)かな手から若い婿へ,
 一つの家から他の家へと,
 祝杯のために贈ろうとする──それは全て黄金製で,彼の最も貴い財であり,
 賀宴を盛り上げつつ新たな縁故を尊んで彼がそうすると,
 居並ぶ宴客の間で若者は,心を和した臥所(ふしど)のゆえに羨望を受ける,

 〔アンティストロベ 一〕
 そのようにわたしもムーサイの贈り物,流れるネクタルを,
 賞を得た男たちにわが心の甘美な果実として送り届け,
 オリュンピアとピュトの勝者たちに,
 崇敬を表す。名声に恵まれる者は幸せである。
 そして生に花咲かせるカリスは,ある時はある者に,またある時は別の者に,目を掛けつつ,
 しばしば甘い歌声の竪琴と万(よろず)の音色の笛とによって祝福をなす。

 このようにして,勝者を讃える歌が,このあとにつづけて13片ある。長くなるので割愛するが,この「婚姻」によって展開する「贈与」がつぎつぎになされていく様子がつぶさにわかる。いうなれば,祝福の贈与である。この慣習は,いまでも,どの地域でも行われているといってよいだろう。こうした贈与のなかに歌舞音曲はもとより,競技もふくまれていた(に違いない),という事実を確認できれば,大きな問題が一つクリアできたことになる。これは宿題ということにしておこう。受講予定の学生さんたちは,各自でいろいろの方法を用いて調べてみてほしい。
 たとえば,マルセル・モースは,この祝勝歌の冒頭の一節にある「黄金の盃」を贈与として指摘しているのだが,なにゆえに,マルセル・モースはこの「黄金の盃」に注目したのか,ということを分析すること。あるいは,この祝勝歌(第七歌)のここかしこに「贈与」とみられる行為が描写されているので,それらを整理してプレゼンをしてくれるとありがたいのだが・・・・。
 あるいは,この本(ピンダロス著『祝勝歌集/断片選』)全体をとりあげて分析する方法もある。この本には,「オリュンピア祝勝歌集」「ビュティア祝勝歌集」「ネメア祝勝歌集」「イストミア祝勝歌集」といった,いわゆる古代ギリシアの四大祭典競技の「祝勝歌」が収められている。これらを,一つひとつ,精緻に読み解いていくと,そこには「贈与」とおぼしき行為がいたるところに散りばめられていることがわかる。つまり,古代ギリシアの祭典競技の全体像は「贈与」的世界の因習を色濃く残している,と考えることができるからだ。

 未完・・・・あとで補完の予定。とりあえず,ここまで。


 

2010年8月25日水曜日

マルセル・モースのいう「ボトラッチ」について。

 マルセル・モースが『贈与論』の冒頭で,「ポトラッチ」という用語について,かなり厳密に定義をしている。このなかに,スポーツ文化論的読解のてがかりをさぐること,これが今日のブログの目的である。
 テクストの18ページの後半部分から19ページにかけて,「ポトラッチ」について縷々説明があるので,そこをまず紹介しておこう。
 「しかし,アメリカ北西部のこれら二つの部族とこれらの全地域において,全体的給付は典型的な形態であるが,発展し比較的稀な形態をとっている。アメリカの学者達が用いているように,われわれもこれを「ポトラッチ(potlatch)」と呼んだ。このチアヌーク語の名称はヴァンクーヴァーからアラスカにかけての白人やインディアンの日常語の一部になっている。「ポトラッチ」は本来「食物を与える」,「消費する」という意味である。これらの部族は極めて富裕であり,島々,沿岸,沿岸とロッキー山脈との間に居住し,絶え間なく祝祭を行い冬を過ごす。その祝祭の中で,饗宴,定期市,取引が行われる。それらは同時に部族の厳粛な集会の場でもある。そこでは,部族は階層集団や秘密結社──これはしばしば階層集団やクランと混ざっている──によって分けられる。また,クラン,婚姻,入社式(イニシエーション),シャーマニズムの集会,さらには主要な神々,トーテム,クランの集団的あるいは個別的先祖などを祀る集会すべてが,人間社会,部族,部族連合あるいは民族間における儀礼や法的,経済的給付,政治的地位の決定などと混淆し錯綜した網を構成している。しかしこれらの部族において注目すべき点は,これらの全活動を支配している競争と敵対の原理である。一方では,遂に戦闘になり,相手の首長や貴族を死に至らしめるようなこともある。他方では,協力者であると同時に競争相手でもある首長(普通は祖父,義父,婿)を圧倒するために,蓄えた冨を惜しみなく破壊してしまうこともある。クラン全体が首長を媒介として,クラン全員のために,所有するすべてや行う一切のものを含む契約を締結するという意味で,そこには全体的給付が存在する。しかしこの給付は首長にとっては極めて競争的な性格を帯びたものである。それは,本質的に高利を取るもので,浪費を余儀なくさせるものであり,何よりも将来自分たちのクランが利する階層を確保するための貴族同士の戦いなのである。
 われわれは,こういう制度に『ポトラッチ』という名称を与えることを提案したい。危険を少なくし,より正確を期するために,やや長くなるが,それを「闘争型の全体的給付」と呼ぶことも可能であろう。」
 さて,この引用文にたいして,いくつかのコメントをしておこう。
 まず,第一点は,「ポトラッチ」は本来「食物を与える」,「消費する」という意味である,という点である。しかも,北米一帯では日常語の一部になっている,という。「ポトラッチ」などというテクニカル・タームとして考えると,なにか特別の意味があるようにみえてしまうが,なに,もともとの意味は「饗宴」そのものではないか,ということである。つまり,人が寄り集まって,その人たちを「歓待」すること。もっと言ってしまえば,「祝祭」そのもの。貯えられた余剰の冨を,一気に「消費する」。
 第二点は,「食物を与える」が本来の意味であったが,時代や地域によって,この「食物」に加えて,さまざまなものが参入してくる。つまり,「祝祭」を彩るためのさまざまな工夫である。そこには当然のことながら,土着信仰的な,バナキュラーな文化がつぎつぎに参入することになる。その一つが,「競技」であった,というのがわたしの仮説である。
 第三点は,その仮説の根拠となる「競争と敵対の原理」である。モースも指摘しているように,「遂に戦闘になり,相手の首長や貴族を死に至らしめる」こともある,という。『ニーベルンゲンの歌』などにはしばしば登場する「トーナメント」では死者が続出である。そのため,時代が下るにつれ,死者を出さない方法へと変化していく。そうして,やがて,スポーツへと変身していく。この問題については,詳しく事例を挙げながらもっと深く考えてみたいとおもう。
 第四点は,「協力者であると同時に競争相手でもある首長を圧倒するために,蓄えた冨を惜しみなく破壊してしまう」という点についてである。モースは,わざわざ,「首長を圧倒するために」という形容句を付して説明しているが,はたしてそうだろうか,という疑問がわたしにはある。「首長を圧倒するために」というのは,たしかに時代が下れば,ますますその意味が強くなってきたであろうことは,わたしにも推測できる。しかし,ここで問題にしたいのは,「蓄えた冨を惜しみなく破壊」することの本来の意味はどこにあったのか,という点である。この点については,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』に依拠しながら,かなり詳細に検討してみたいとおもう。
 第五点は,「これらの部族は極めて富裕であり,絶え間なく祝祭を行い冬を過ごす」という点についてである。この文章を読んですぐに思い起こすことは,古代ギリシアの「祝祭」である。全盛期(前5世紀ころ)には,三日に一回くらいの割合で,どこかで「祝祭」が展開されていた,という事実である。古代ギリシアの「祝祭」に「競技」はつきものである。ここでは,間違いなく「競技」は「ポトラッチ」の一つの形式であった,とわたしは考えている。ついでに触れておけば,古代オリンピアの祭典競技は,まさに「ポトラッチ」そのものではなかったか,という点である。なぜ,そういう仮説が成立するのかという点については,授業のなかでとことん考えてみたいとおもう。
 第六点は,「競技」や「スポーツ」は,本来,「ポトラッチ」であったのだ,という仮説を持ち込むことによって,現代の競技スポーツのあり方がいかに,本来のあり方から遠いところにきてしまっているか,ということが浮き彫りになってくる。そして,それがまた,いかに文化的に卑小化してしまい,歪曲されたものになってしまっているか,ということも浮き彫りになってくる。この点についても,もっと掘り下げて考えてみたいとおもう。
 という具合で,まだまだ,挙げれば際限がないが,とりあえず,この程度にしておいて,つぎに話しを進めることにしよう。ここまでが,『贈与論』の「序論」に相当する部分である。このあとは「本論」に入るので,こんどは具体的に,一つひとつ検討していくことにしよう。

2010年8月24日火曜日

「贈与」の対象にはどのようなものがあったのか。

 マルセル・モースの『贈与論』のなかで取り扱われている「贈与」の対象にはどのようなものがあったのか。スポーツは「贈与」の対象となりえたのか。
 この問いに,まずは,答えておかなくてはならない。「スポーツ文化論演習」のテクストとして『贈与論』を取り上げる以上は。
 テクストの17ページに,「贈与」の方法と対象となるものの主なものが列挙されているので,そこを引用してみよう。
 「現代に先行する時代の経済や法において,取引による財,富,生産物のいわば単純な交換が,個人相互の間で行われたことは一度もない。第一に,交換し契約を交わす義務を相互に負うのは,個人ではなく集団である。契約に立ち会うのは,クラン(氏族),部族,家族といった法的集団である。ある時は集団で同じ場所に向かい合い,ある時は両方の長が仲介を立て,またある時は同時にこれらの二つのやり方で互いに衝突し対立する。さらに,彼らが交換するものは,専ら財産や富,動産や不動産といった経済的に役に立つ物だけではない。それは何よりもまず礼儀,饗宴,儀礼,軍事的活動,婦人,子供,舞踊,祭礼,市であり,経済的取引は一つの項目に過ぎない。」
 この引用によって,「贈与」というものの方法や対象を,かなり具体的にイメージすることができるだろう。驚くべきことは,「経済的取引は一つの項目に過ぎない」と言い切っていること,そして,それよりもまず「礼儀,饗宴,儀礼,軍事的活動,婦人,子供,舞踊,祭礼,市」である,と言っている点である。そして,「婦人,子供」までが「贈与」の対象になっていた,ということ。なぜ,「婦人,子供」が「贈与」の対象となったのかという問題については,ひとまず措くとして,「贈与」の対象としての「スポーツ」は含まれていないではないか,という指摘も可能であろう。
 しかし,「スポーツ」は含まれているのである。しいていえば「スポーツ的なるもの」が含まれていたのである。わたしたちは,いつのまにやらスポーツといえば,テレビをとおして送り届けられる近代競技スポーツをイメージしてしまう習慣が身についてしまっている。しかし,少し視野を広げて考えてみればすぐに気づくように,前近代的なスポーツ文化は,さまざまな祭祀儀礼のなかに埋め込まれているのである。そして,それらの多くはいまも伝承されている。そして,それらを「スポーツ」と呼ぶかどうかは議論のあるところではある。しかし,そうした前近代的なスポーツ文化が,近代競技スポーツの生みの親であったことは,だれもが認めるところであろう。だとすれば,近代競技スポーツのルーツをたどっていく作業が必要になってくる。その作業をする学問分野が「スポーツ史」であり,「スポーツ人類学」という研究領域である。
 したがって,「スポーツ史」や「スポーツ人類学」の視点からスポーツ文化を眺めてみると,こんにちのスポーツのルーツの多くは「芸能」の世界と深くきり結んでいることがわかってくる。その代表的な例が,わたしたちにもお馴染みの「大相撲」である。「大相撲」を「芸能」とみるか,「スポーツ」とみるかによって,こんにち話題になっている「大相撲問題」の解釈が解決方法も大いに違ってくる。『相撲の歴史』の著者である新田一郎さんは,明らかに「芸能」からでてきたものだ,ということを著書のなかでも,最近の発言でも明言している。しかし,大半の「スポーツ評論家」(この人たちが,じつはとても危ない人たちであるのだが)は大相撲を近代競技スポーツと勘違いして,一方的な「批判」をくり返している。その点は,マス・メディアも同じである。要するに無知。このことは,授業のなかで,もっと詳しく話をすることにしよう。
 さて,スポーツの多くは「芸能」からでてきたものだ,ということを念頭において,テクストの引用文にもう一度,目を向けてみよう。「それは何よりもまず礼儀,饗宴,儀礼,軍事的活動,婦人,子供,舞踊,祭礼,市」である,という内容のうち,「婦人,子供」だけを除外すれば,あとは,すべて広義の「スポーツ文化」とどこかでリンクしている。つまり,スポーツ文化を構成する要素が分散して,さまざまな「贈与」のなかに紛れ込んでいる,ということである。その要素がどのようなものであるのかについては,授業のなかで,みんなで議論してみよう。
 一つだけ,そのサンプルとして,冒頭の「礼儀」と「スポーツ文化」との関係についてここで考えてみよう。すぐにわかるように,スポーツには,いまでも「礼儀・作法」(マナー)は欠かせない。日本の武術では,「礼にはじまり,礼に終わる」ということが,いまでも徹底している。武術は,勝ち負けではない,「礼」だ,というのである。ウィンブルドンのテニスでいえば,選手たちは,まず,お互いに握手し,審判にも握手をする。これが何を意味しているのか,を考えてみれば,スポーツがどういうところから生まれてきたのか,ということがわかってくる。すなわち,「贈与」。このさきのことは,授業で考えることにしよう。
 饗宴,儀礼,軍事的活動,舞踊,祭礼,市,と「スポーツ文化」との関係について,どこまで考えられるか,宿題にしておこう。
 あと一つ,テクストの18ページにはつぎのような文章がでてくる。
 「この制度の最も純粋な型は,オーストラリアの部族あるいは北アメリカ北部の諸部族における二つの胞族の協同関係によって示されているように思われる。そこでは儀礼,婚姻,財の相続,法的および経済的利害の関係,軍事的,祭儀的地位などのすべてを部族内の二つの半族によって取り仕切られている。」
 この本文には注・11がついている。その注には「特にオマハ族のボール遊びの注目に値する規則を参照されたい」として,文献が提示されている。この文献は,授業までにはなんとか手に入れて,だれかに紹介してもらおうと考えている。自分でやってみようという人がいたら,ぜひ,調べてみてほしい。そして,ぜひ,プレゼンテーションをやってください。こういう人がでてくると,演習は間違いなく盛り上がります。
 以上のように,「贈与」の対象として,スポーツ文化はきわめて重要な役割をはたしている,ということのアウトラインはみえてきたのではないかとおもう。
 とりあえず,今日の問題提起はここまで。

 

2010年8月23日月曜日

沖縄・興南高校,甲子園春夏連覇,おめでとう!

 第92回全国高校野球選手権大会で沖縄の興南高校が,決勝で東海大相模を圧勝して,真紅の優勝旗を沖縄に持ち帰った。沖縄の人びとがどれほど喜んだことか,と涙がにじむ。
 思い起こせば,1958年に首里高校が特別枠で初めて甲子園に出場。それから52年にして,ようやく夏の選手権大会で初優勝。しかも,史上6校目の春夏連覇という歴史に名を残す偉業をなしとげた。じつに立派である。主将の我如古(がねこ)君,そして,主戦投手の島袋君のの立派な応答を聞いて,久しぶりに素晴らしい高校生に出会ったと感動した。ついでに,我如古という名字もおぼえた。一歩,沖縄が近くなった。そして,より一層の親しみがわいた。
 昨日の夜7時過ぎの那覇空港には5000人の出迎えがあったという。新聞の写真をみると,みんなが笑顔で拍手をし,熱烈歓迎をしてくれているのに,選手たちの顔はキリリと引き締まっていて,浮ついた感情はみじんもない。勝って兜の緒を締める,の教訓を地でいく古武士の姿をそこにみて,またまた,涙がにじむ。あっぱれである。(「あっぱれ」は「あわれ」と同じ語源でありながら,意味の逆転が生じた,みごとな日本語である,と松岡正剛はいう)。そこには,幾多の苦難を乗り越えて,ようやく到達した若者たちの境涯があったに違いない。
 決勝の試合は,両校ともに激戦を勝ち抜いてきて,いうなれば,体力・気力の限界に達していた。とりわけ,主戦投手である島袋君も一二三君も,あとの頼りは集中力しかない。そのほんのわずかな差が,結果的には,あれだけの大差となってしまう。勝負というものは恐ろしい。もう一度,両校が,ベスト・コンディションで対戦したら,どちらが勝つかはわからないだろう。それほどに,どちらのチームもよく鍛えられた素晴らしいチームだ。
 昨日,久しぶりに,「沖縄」から長電話があり,いろいろの情報を交換した。そのなかに,当然のことながら,興南高校の話があった。その一部を紹介しておこう。
 夏の甲子園を戦うには,まず,なによりも野球場の蒸し暑さと高気温に耐える体力・気力が必要であると判断した監督は,選手たちに,日頃の練習時から,ユニフォームの下にレイン・コート代わりになるジャケットを着ることを示唆し,甲子園での体温の上昇に耐える気力・体力を養ったという。選手たちはそれに耐えたのだ。そういう気持ちの強さが,あの連打となって,チーム全体に連鎖反応を起こしたのだろう。ここでまた,涙がにじむ。
 もう一つの秘話。興南高校が春の選抜で優勝したあと,やはり,いまどきの高校生の気質がでてしまい,周囲がちやほやするために,ついついその気になってしまい,チームの和が乱れ,監督の指示した「約束事」(野球部ルール)を破ってしまう,という「事件」があった。そのルールとは,1年生から3年生まで,野球部の部員は,レギュラーであろうと補欠であろうと,球拾いであろうとマネージャーであろうと,全員,ひとりの部員として対等・平等でなければならない,というもの。つまり,グラウンドの整備からボールやグラブの手入れ,合宿時の掃除・洗濯,食事の準備や後片付けに至るまで,なにからなにまで全員平等である,というルール。このルールをレギュラー選手の一部が破ったというのである。それを見届けた監督は,部員全員を集め,一カ月間,全員の謹慎を命じたという。つまり,練習はもとより試合もしない,と。あとは,各自,学校のグラウンド以外のところで,密かにキャッチボールをする程度だった,と。この一カ月間の野球部員たちの気持ちを考えると,なんだか恐ろしくなってくる。ルールを破った一部のレギュラー選手とそうでないレギュラー選手,そして,その他の部員たちの間に亀裂が生じない,とはだれも保証はできないからだ。しかし,結果的には,この期間をとおして,部員全員が,気持ちを引き締め,以前にもまして「一丸」となる方向に進んだのだそうだ。
 それ以後,部員一人ひとりの自覚がワン・ランク,レベル・アップし,日常の行動となって現れたという。いま,なにをすべきかを部員たちは自分で判断し,行動するようになった,という。こうなれば,もう,監督はなにも言うことはなくなる。必要最小限の指示を出して,あとは,じっと見守っているだけでいい。最高の状態が生まれた,というわけである。
 ついでに,電話の主に,勉強の方はどうなの?と聞いてみた。そうしたら,みんな勉強もよくできるのだそうだ。主戦投手の島袋君は,プロには行かない,医学部をめざす,という。この島袋君,Nさんのブログによると,沖縄国際大学にヘリコプターが墜落した事件のとき,小学生だったという。しかも,大学のすぐ近くに住んでいた。事件のあとの住民抗議集会では,小学生を代表して,抗議声明を読み上げたという。ただ,勉強ができて,野球が上手だ,というだけではない。日常的に,生まれたときから,米軍基地に隣接する土地に育ち,戦争というものを目の当たりにしている。沖縄県民として,そして,ひとりの人間として,いかに生きるべきか,つねに考えなくてはならない環境で育っている。ヤマトンチューの高校生とは,決定的に違う要因がそこにはある。
 真紅の大優勝旗をもって那覇空港に降り立った我如古君の,あの引き締まった顔,そして,そのあとにつづく選手たちの毅然とした表情を,もう一度,しみじみと眺めてしまう。そして,またまた,涙がにじむ。
 Nさんが,つねづね言っていることばがある。沖縄を考えるということは世界を考えるということだ。世界の諸矛盾が集約されて,この沖縄で起きている。その諸矛盾と真っ正面から向き合うこと,これこそが日本人として考えなくてはならない喫緊の課題である,と。
 たぶん,島袋君の視野のなかには,野球と同じように,沖縄という地政学的な,どうにもならない当面の課題,つまり,基地移転の問題もまたしっかりととらえられているに違いない。そういう明確な意識が興南高校野球部員の一人ひとりのなかにしっかりと共有されているに違いない。それが,かれらの顔の表情をとおして透視することができる。きりっとした若者の力強い「目力(めぢから)」に久しぶりに出会うことができ,わたしは嬉しい。
 ゴルフの宮里藍ちゃんが,アメリカ・ツアーで5勝目をあげた,という情報も流れている。日本人女性としては岡本綾子の4勝を抜いて,トップに立った,と。ふたたび,世界ランキング1位に返り咲く日も遠くないだろう。彼女の「目力」もまた抜群である。そこに「沖縄」を感じてしまう。
 沖縄のことについては,わたしたちはあまりに無知である。
 いまからでも遅くはない。少なくとも,基地問題については,しっかりとした発言と行動がとれるよう,日本人のひとりとして覚悟を決めなくてはならない。この「覚悟」が大事だとおもう。
 興南高校野球部のみなさん,おめでとう! そして,沖縄のみなさん,おめでとう!
 そして,ありがとう!

2010年8月22日日曜日

ル・クレジオの『物質的恍惚』を読み終える。

 このブログの記録によると,『物質的恍惚』を読みはじめる,という投稿が7月25日にある。ほぼ,一カ月かかってこの本を読んだことになる。
 なんとまあ,のんびりと読んだことか,と思われるかもしれない。それでは間延びしてしまって,読んだことにはならないのではないか,と思われるかもしれない。そう思われる方は,ぜひ,この本を手にとって読んでみていただきたい。この本を読むということが,そんなにたやすいことではない,ということはすぐにわかるだろう。
 この本は,小説ではもちろんない。詩でももちろんない。エッセイでもない。哲学でもない。思想はやや近いが思想でもない。アフォリズム的な箴言集でもない。しかし,箴言は随所にちりばめられている。宗教書のようでもあるが,そうではない。文学の解体?でもない。むしろ,言語の解体の方が近いがそうではない。そう,記述(エクリチュール)の解体の匂いが強い。が,そうとも言い切れない。では,なにか。これらのすべてを含んだ分類不能の本。これが,読み終えたいまのわたしの感想。しかも,とてつもない仕掛けを含んだ本。こんな本を27歳の若さで刊行したというのであるから,開いた口がふさがらない。
 さて,この不可思議な本をどのように紹介したものか,とはたと考えてしまう。
 目次をみると,大きく三つの章から成り立っていることがわかる。それらは「物質的恍惚」「無限に中ぐらいのもの」「沈黙」という見出しがついていて,それぞれ順番に「誕生以前の世界」「この世の世界」「死後の世界」のル・クレジオのイメージを描いている。この目次のあとに,書名タイトルをしるしたページがあって,その裏扉にはつぎのような引用文が,控えめに掲載されている。
 ≪分かちがたく結ばれた二羽の鳥が,同じ木に住まっている。一羽は甘い木の実を食べ,もう一羽は友を眺めつつ食べようとしない。≫
 (『ムンダカ・ウパニシャッド』,第三ムンダカ,第一カンダ,シュルーティ一。『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』,第四アデャーヤ,シュルーティ六。)
 わたしは,まず,ここで躓いた。謎の問いとなって,わたしに襲いかかってくる。身動きがとれないのである。すっ飛ばして,本文に入っていけばいい,ともおもった。しかし,待てよ,と考える。この引用文は,これからはじまろうとする記述(エルリチュール)にたいして,なにを隠喩しているのだろうか,と。しかし,読み終えたいま,なるほど,とわかる。この「なるほど」は説明不能である。ル・クレジオがこのエッセーに仕掛けた謎が,この一文に凝縮している,とただそれだけ。
 そう,この本は,全編,謎だらけなのである。つまり,近代的理性の力に寄り掛かって,理路整然と理解しようという読者の,その姿勢をはじめから拒否しているのである。それはそうだろう。「ぼく」が生まれる前の話をし,「ぼく」が生きているいまを語り,「ぼく」の死後を語るのだから。しかも,その「ぼく」が,自己でもない,他者でもない。もちろん,「わたし」でもない。では「かれ」かといえば,もちろんそうではない。この「ぼく」は「わたし」でも「かれ」でもない。この「ぼく」こそが「物質的恍惚」の真っ只中に身をゆだね,「物質的恍惚」をそのまま生きている,人称にあらざる人称なのである。この「ぼく」は,現存しつつ不在である,そういう存在なのである。
 このままではなんのことか,さっぱりわからない,とお叱りを受けるだろう。では,どうすればいいのだろう。仕方がないので,わたしなりの「ぼく」の解釈を企てるしかない。あえて,この「ぼく」を説明するとすれば,以下のようになろうか。
 「ぼく」は,いま,「無限に中ぐらいのもの」として,現世を生きている。皮膚につつまれた革袋となって,たまたま,現世に存在しているだけのことであって,それ以上でもそれ以下でもない。では,この革袋となっている,この存在は,厳密にいえば,もろもろの「物質」が寄り集まって構成された,たんなる物質の集積物でしかない。第一に,この世に誕生する前の「ぼく」は,自然界のあらゆる物質のなかに散在する,たんなる分子にすぎない。その分子のほんの一かけらが,生命を得て,この世に生まれ出てきただけのことにすぎない。それが「ぼく」だ。そして,その「ぼく」は次第に自意識に目覚め,さも,世界の中心を占める主体であるかのごとき錯覚を生きることになる。それはあくまでも錯覚であって,生命は,ただひたすら「死」に向かって燃焼するのみである。その間に,眠り,食べ,セックスをし,子孫を残す,ただ,それだけ。つまり,生命というエネルギーをひたすら消尽しつづけ,やがて,死を迎える,それだけの話。それがこの世での「ぼく」。あとは,ふたたび「沈黙」の世界に帰っていくのみ。革袋は,ふたたび分子の世界に分散し,自然界のあらゆる物質のなかに吸収されていく。だから,「ぼく」は世界のあらゆるところに遍在することになる。
 これが,ル・クレジオの「ぼく」なのである。そして,この「ぼく」は,そのまま「物質的恍惚」なのである。あらゆる宗教が前世・現世・来世を語るが,ル・クレジオのこのようなスケールの大きな「世界観」に,わたしははじめて触れた。そして,驚いている。なぜなら,それは,いつのまにかわたしのなかに構築されつつあった『般若心経』的世界観に,あまりにも酷似しているからである。ただ,根源的に違うのは「無」という存在を,ル・クレジオは否定する,その点だけだ。
 禅仏教では,現世にあるうちに,己を空しくしてしまえ,と説く。そして,「只管打坐」,ただひたすら坐禅をせよ,と教える。やがて,あらゆる自然存在と一体化することができる,と教える。つまり,ゴールは生きながらにしての「自然回帰」。その結果,「一即多」「多即一」の境地に達する,と。すなわち,絶対矛盾的自己同一。
 驚くべきことに,ル・クレジオもまた「一即多」「多即一」を説く。このことは,さきに述べたことがらからも容易に理解することはできるだろう。こうして,冒頭に引用した「二羽の鳥」の隠喩の謎が少しずつ溶解していく。この「二羽の鳥」こそ,ル・クレジオのいう「ぼく」そのものなのだ,といまのわたしは解釈する。ここにも,ル・クレジオの大きな主張の一つである「近代的主体」の不在が仕掛けられている。「ぼく」は「ぼく」であって「ぼく」ではない,そういう「ぼく」なのである。
 以上が,ル・クレジオの「ぼく」のわたし流の読解である。もちろん,これ以外にも,いくとおりもの「ぼく」の読解があって不思議ではない。
 最後に,この本の随所に散りばめられた箴言をいくつか紹介しておこう。
 幸福という考えはまさに典型的な誤解である。
 唯一の平和は沈黙と停止のうちに在る。
 歓喜は永続きしない,愛は永続きしない,平和も神への信頼も永続きしない,ただ一つだけ永続きする力,それは不幸と疑いとの力である。
 芸術の力,それは同じ事物を相ともに眺めるべきものとしてわれわれに差しだすことである。
 われわれの生命は,十中九まで,非知的なものだ。
 ぼくは無限への嗜好を持っているゆえに,実証主義,あるいは科学万能主義が持っている滑稽なところがすべて感じられるのだ,事実というものは存在しない,偶然も,また人間が抱懐しうるような形での決定論も存在しないのだ。
 言語は世界から蒸発してしまった。
 幸福は存在しない,これは第一の明証事である。
 競争の精神はおそらく西欧思想の歩みを最も甚だしく阻害してきたものである。
 すべてはリズムである。美を理解すること,それは自分固有のリズムを自然のリズムと一致させるのに成功することである。

  以下,割愛。 

2010年8月21日土曜日

贈り物には毒がある=スポーツには毒がある。

 贈り物(Gift)には毒(Gift)がある。同語反復である。つまり,トートロジー。「贈り物にはお返しをする義務がある」ということには,じつは深い意味がある。『贈与論』はそのことをみごとに明らかにしてくれる。
 『贈与論』の冒頭「序論)は,スカンディナヴィアの古代神話伝説詩『エッダ』の一つ,ハヴァマールの数節をかかげ,「贈与」の問題に分け入っていくための導入として効果を発揮している。少し長いが,これからの議論を展開していく上での共通の土俵を築く上で有効だとおもわれるので引用しておこう。
 あまりにも気前がよく鷹揚なので
 客をもてなす上で「贈り物を受け取らない」
 そんな人をまだ見たことがない。
 自分の財産にあまりにも(形容詞欠如)なので
 返礼を受け取るのを不愉快に感じる
 そんな人をまだ見たことがない。

 友は互いに武器と衣装を贈って
 相手を喜ばせなければならない。
 誰でも自ずから(自分の経験によって)それを知っている。
 互いに贈り物をし合う友同士が
 いちばん長続きをする。
 物事がうまく行くならば。

 友には友らしくしなければならず
 贈り物には贈り物を返さなければならない。
 笑いには笑いで
 嘘には欺きで応じなければならない。

 もしお前が信頼する友を持ち
 何か良いことを期待したいのなら
 その友と心を通わせ
 贈り物をやりとりし
 彼のところを足しげく訪れなければならない。
 お前がよく知っているように。

 (ママ)しかしもしお前が信頼しない友を持ち
 それでも何か良いことを期待したいのなら
 彼に甘言を弄し
 偽りの気持ちで接し
 嘘には欺きで報いなければならない。

 お前が信頼せず,心に疑いを抱く友についても同じだ。
 彼に微笑みかけ
 心にもないことを話さなければならない。
 受け取った贈り物には同じ贈り物を返さなければならない。

 気前がよく,豪胆な人は
 最良の生活を楽しみ
 心配に煩わされない。
 しかし臆病者はなにごとにも怯え
 吝嗇者はいつも贈り物に怯えている。

 多すぎる供犠を行うよりは
 祈らない(頼まない)方がよい。
 贈り物には常にお返しが期待される。
 大金を遣って供え物をするよりは
 供えない方がよい。

 以上である。これらの詩文はこのままの順番で並んでいるわけではない。ところどころの抜粋である。しかし,そこには一貫したなにかを感ずることができる。それはなにか。贈与というものをめぐる古代北欧の考え方や受け止め方,そして,それらをめぐる慣習行動の一部をかいま見ることができる。しかも,これらの慣習行動は,キリスト教が普及する以前の,土着信仰に根ざすものの見方・考え方にその根をもっている。
 にもかかわらず,こんにちのわたしたち日本人が読んでも,ほとんど違和感がない。ということはなにを意味しているのか。それは,「贈与」というもののもつ意味や役割が,きわめて普遍的なものであるということであろう。時代を超えて,社会を超えて,どの時代のどの地域のどの民族の間でも,ほぼ同じような考え方にもとづいて「贈与」なるものが行われていたということであろう。そのことを,まず,この詩文はわたしたちに想起させる力をもっている。
 マルセル・モースもそのことを念頭において,この『エッダ』の詩文を引用したことは間違いないだろう。『エッダ』に関する研究や翻訳は,谷口幸男の多くの労作をとおして,わたしたちは相当に詳しく知ることができる。それに加えて,この『贈与論』の提示している東南アジアのポルネシアや北米インディアンやイヌイットの「贈与」の事例,そして,最古のローマ法や古代ヒンドゥー法などの経済における原則の残存と対比していくと,まったく新たな『エッダ』の世界がみえてくる。さらに,わたしがもっとも注目している「スポーツ文化」の根源にあるものを幻視することができるようになってくる。そして,さらにそのさきに,おぼろげながら「スポーツとはなにか」という根源的な問いへの応答が見え隠れしている。『エッダ』を深く読み込むこともまた,こうした方法をとおして,スポーツ史やスポーツ文化論の宝庫となる。
 少し脱線してしまったが引用文から明らかなように,贈り物にはさまざまなヴァージョンがある,ということである。とてもいい贈り物から,きわめて悪質なものにいたるまで,贈与の意味内容は広く,深い。なかには,毒を含んだものも少なくない。だから「受け取った贈り物には同じ贈り物を返さなければならない」ということになる。
 しかし,引用文の冒頭にあるように,どんなに裕福な人であっても,贈り物をもらって「受け取らない」人を見たことがない・・・・これはいまもむかしも変わらない普遍の問題だなぁ,とおもわずにんまりしてしまう。人間はなぜ,贈り物をもらうと「嬉しいのか」。こんな当たり前のことが,じつは,ほとんどなにもわかってはいないのである。そこには深い深いわけ(理由・根拠・理性=reason)があるのである。そのことを,これから少しずつ考えていってみたい。
 で,まずは,「贈り物」である「贈与」とは,どのようにしてはじまったのか,その方法は? その種類は? その対象は? とうとうを考えてみる必要があろう。そして,そのことと「スポーツ的なるもの」の「根」がどのようにリンクしているのか,わたしの興味・関心はここにある。
 もう一歩,踏み込んで,現段階でのわたしの仮説を提示しておけば,「スポーツとは贈与であった」となる。はたして,このことが,どこまで立証できるのか,あるいは,推論できるのか,可能なところまで触手を伸ばしてみたい。
 神戸市外国語大学の集中講義の目的はここにある。

2010年8月20日金曜日

『贈与論』をスポーツ文化論のテクストとして読む根拠

 『贈与論』をテクストにしてスポーツ文化論を語ろうとするわたしのスタンスはなにか。これをまずは明らかにしておこう。
 わたしたちは物々交換が人類の経済活動のはじまりであった,といつのまにか思い込んでいる。しかし,マルセル・モースに言わせるとそうではない,という。まずは,無償の「贈与」がはじまりだった,という。「贈与」=Gift=ギフトには「贈与」ともう一つの意味「毒」がある。「贈与」を受け取った人間は,この「毒」を畏れて,もらった「贈与」以上のものを,また,別の人に「贈与」として送る。このようにして,つぎつぎに「贈与」がくり返されていくうちに,最初の贈与者のもとに,莫大な財産となってもどってくる。こんどはこの財産を公衆の面前で,叩き壊したり,燃やしてしまったりする。つまり,「気前よさ」を見せつけるのである。こういう観念が,古代,あるいは,それ以前の未開を生きる人びとの間に共有されていた。だから,まだ,貨幣もない,商取引の慣行もない,もちろん,国際法もなにもない時代に,遠隔の物産を「交換・貿易」することが可能であった,というのである。つまり,その土地き物産が欲しかったら,こちらの物産を無償で送りつける。つまり,「贈与」するのである。そうすると,受け取った側は,それ以上の価値のある物産を「贈与」として送り返す。そうして,送られてきた「毒」を消し去るというわけである。これが経済活動のはじまりである,というのである。
 となると,こんにちのわたしたちが眼前にしている一般的な経済活動は,いったい,なにか,という疑問が湧いてくる。とにもかくにも利潤を追究し,資本を増やして,経済力を確保し,さらに,利潤を追究する(市場原理)ことが公然と認められ,法律でも保証されている,この経済活動とはなにか,という疑問である。まるで,経済の「力」をもつ者が大通りを闊歩し,さも「正義」であるかのごとき振る舞いをすることがまかりとおる,ということはいったいどういうことなのか,という疑問である。しかも,いまも「贈与」は行われていて(意味はまったく違うが),ある特定の効果が期待されている慣習行動が存在することもよく知られているとおりである。では,いつから,この「贈与」の意味が変化してしまったのか。こういう疑問が湧いてくる。
 もう一つの重要なポイントは,なぜ,「贈与」というようなことが行われるようになったのか,その始原はなにであったのか,という問いである。この問いに答えるテクストが,後期の集中講義で予定されているジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』であり,『呪われた部分 有用性の限界』である。したがって,この問題については,後期に考えることにしよう。
 ここでは,「贈与」という人類の経済活動の始原の問題が,どのような歴史過程を経て,こんにちのような資本主義・市場原理を中心とした経済活動に推移していくのか,そこをスポーツ文化論的に考えることが一つの大きな鍵となる。すなわち,こんにち,わたしたちが日常的に眼にしているスポーツ文化もまた,この経済活動と同じように大きく変化して,こんにちにいたっている,と考えることができるからである。では,近代スポーツとはことなる前近代のスポーツ文化とはなにか,そして,この『贈与論』で取り上げられている未開を生きる人びとにとってスポーツ文化とはなにであったのか。この問いこそが,これまでのスポーツ文化論やスポーツ史研究に欠落していた視点なのである。つまり,現代社会を生きるわたしたちの「物差し」によって,過去の文化を裁断しても,あるいは,未開の文化を斟酌してもなんの意味もない,ということである。
 しかしながら,こんにち闊歩している「スポーツ文化論」の多くは,ヨーロッパ近代中心主義によって貫かれており,それ以外の価値観を認めようとはしない。その多くは,野蛮であるとか,発展が遅れているとか,低俗であるとか,土着的・土俗的であるとか,原始宗教的であるとか,非科学的であるとか,迷信的であるとか・・・・まあ,一方的な決めつけによって,ものごとを解釈し,押し切っていこうとする。そうして到達したこんにちのスポーツ文化が,どれほど異様な姿を呈することになったかということに気づいていない。すくなくとも,こんにちのスポーツ文化が,ある臨界点に達していて,これから大きく変化・変容しようとしている,その前段階にあるということに気づいていない。
 こうしたスポーツ文化の現状の異常さに気づかせてくれるテクストの一つが,このマルセル・モースの『贈与論』なのである。そして,この中でも論じられている「ポトラッチ」の制度や仕組み,その考え方や方法の中にも,本来のスポーツ文化の原初形態(Urformen)を見届けることができる,とわたしは考える。いな,あえてそこにわたしは挑戦してみたい。
 さて,神戸市外国語大学の受講予定者のみなさん。世界初の,スポーツ文化論の知的遊戯に参加して,大いに楽しみましょう。できるだけ,この『贈与論』がらみのブログを書く予定でいますので,チェックしていてください。このブログに書くということが,集中講義に向けてのわたしの助走のつもりです。十分にアップして,本番に臨みたいとおもいます。楽しみに。

2010年8月19日木曜日

マルセル・モースの『贈与論』と格闘。

 9月13日(月)から三日間,集中講義をすることになっている神戸市外国語大学の学務課の担当者から,連絡・確認のメールがとどいた。
 すっかり頭の中から消えていた集中講義のことが気になってきて,今日は一日,テクストとして用いることになっているマルセル・モースの『贈与論』を読んでいた。そして,いまごろになって大いに後悔している。こんなやっかいな本をテクストにして,「スポーツ文化論演習」をやろうとしたことが間違いだった。大学院生ならともかくも,学部の3,4年生対象の演習である。しまった,と思うがもう遅い。やるしかない。
 なんで,こんな本をテクストに指定したのか。責任転嫁の意味でいささか言いわけをすること,こうだ。これは,こんにちの大学の制度に問題がある。それも,文部科学省による指導(じつは,強力なる圧力)によって,大学側が自発的に隷従している,という実態がある。かんたんに言ってしまえば,シラバスなるものを年度始めに学生に提示することが,教員に対して義務づけられているからである。これもまた,いま流行りの,学生さんへの過剰なサービスのはじまりだった。
 この制度のよさは,学生さんがあらかじめその科目の授業内容を把握できることにある。レベルが高くてまじめな学習意欲満々の学生さんなら,それなりの予習をしたり,参考文献を読んだりして,稔り多い学生生活を送ることができるだろう。しかし,この制度には欠点もある。それは,たとえば,後期の授業内容も,1月・2月の段階でまとめて文章化して提出しなくてはならない。ということは,半年以上も前に,半年後,あるいは10カ月後の授業内容を予告することになる。つまり,10カ月も前に教師が興味・関心をもっていたテーマが,そのまま持続していればいいが,そうはいかない。教師の興味・関心(裏をかえせば,教師の研究活動)は日進月歩である。とくに,文科系の教師にとってはそうだ。
 わたしの場合は,この罠にまんまとはまってしまった。というのは,ちょうど,去年の秋ぐらいから,マルセル・モースの『贈与論』に強く惹かれるものがあって,かなり入れ込んで読み返していた。だから,シラバスを書いて提出するころは,わたしの頭のなかは『贈与論』でいっぱいになっていた。しかも,急いで提出せよ,という(もっとも,わたしが書き忘れていたのだが)。で,急遽,そのとき頭のなかにあったことを,それらしく15回分の授業内容として提示した。
 ところが,それ以後,つぎつぎに新しい難題を与えられ,その原稿を書けといわれ,そのつど関連の文献を集中的に読んで,それなりの原稿を書いて送る,という生活がつづいている。わたしの頭のなかは二転三転どころか四転五転して,いまはもう『贈与論』は記憶の奥底に静かに沈んでいる。これを叩き起こさなくてはならない。この作業が大変なのである。しかも,自分で書いたシラバスのレベルまで頭のはたらきをもどさなくてはならない。
 とまあ,これは愚痴である。
 じつは,結構,楽しんでもいる。『贈与論』をスポーツ文化論の立場から読むと,なにが新たにみえてくるのか。こんなことをやった人はおそらく世界中探してもいないだろう。ひょっとすると,世界でたった一人の楽しみを味わっているのではないか・・・と。こんな贅沢は,そんなにかんたんにできることではない。しかも,強烈に難解な論理をまったく新たに構築しなければならない。そう,だれも考えなかった方法によって。
 たとえば,こうだ。スポーツ文化の起源の一つは「贈与」にあったのではないか。ならば,たとえば,ポトラッチとしてのスポーツ文化とはどのようなものなのか。スポーツ文化はどのように機能したのか。スポーツ文化は「気前のよさ」や「供犠」や「放棄・破壊」などと,どのようにかかわったのか。あるいはまた,「贈与」が行われる祝祭(空間)とスポーツ文化はどのようにクロスするのか。さらには,ポトラッチのような「競争」とスポーツ文化はどのような関係にあったのか,などなど。
 これらの仮説をどこまで立証できるのか。仮説の仮説を構築することの意味はあるのか。などと反論もでてこよう。しかし,この「贈与論」のおもしろいところは,宗教的な儀礼や道徳と,経済的な交換の原理の発生と,さらに,法的な契約・約束(ルール)の成立とが渾然一体となっていることだ。しかも,こんにちの常識とされる経済原則の考え方や宗教や法律の考え方の根源が,もう一度,ゼロから問い直されていくという点だ。そして,そういう混沌のなかに,スポーツ文化のルーツが見え隠れしている,という点だ。
 だから,困難きわまりない作業とはいえ,結構,夢多きおもしろい「遊び」ではある。だが,時間が限られている。集中講義までの残り時間は多くはない。しかも,その前に片づけなくてはならない原稿の仕事も山積している。時間は限りなく少ない。だから,おもしろいのかもしれない。時間がたっぷりあったら,間延びしてしまって,なんもおもろくもないのかも・・・・。
 というところで時間切れ。お休みなさい。

2010年8月17日火曜日

美ら島沖縄総体2010開催(7月28日~8月20日)。

 連日の猛暑のなか,沖縄では高校総体が開催されている。この大会をもって,高校総体は全国都道府県を一巡することになる。つまり,一巡の最後の大会というわけである。
 いま,隔月に連載している「絵画にみるスポーツ施設の原風景」の掲載誌『SF』(旧・月刊体育施設)が,7月号で沖縄の高校総体の特集を組んでいる。立派なスポーツ施設からたんなる原っぱとおもわれるような広場までつかって,まさに,沖縄県は総動員してこの大会の運営に取り組んでいることがよくわかる。それでも,山岳種目だけは,県外の鹿児島県・宮崎県にまたがる環霧島の協力を仰いでいる。沖縄本島だけではなく,宮古島(男子バレーボール),石垣島(レスリング)の離島も頑張っている。
 『SF』という雑誌の記事を丹念に拾い読みしていくと,面白いことに気づく。ホッケー種目は今帰仁(なきじん)村で開催されることになっていて,その会場は,今帰仁総合運動公園ホッケー場,北山高校グラウンド,今帰仁小学校グラウンドの三つが会場となっている。写真も掲載されていて,今帰仁総合運動公園ホッケー場は,その名のとおり芝が全面を覆う広々とした広場が写っている。しかし,その周囲は森があるだけで,建物らしきものはなにもない。つまり,観客は立ってみる,きわめて素朴な,スポーツの原風景をみる思いだ。ここがメイン会場となり,あとは,北山高校グラウンドと今帰仁小学校のグラウンドが用いられる。まさに,使える場所はすべて動員する,そういう舞台裏がみえてくる。ここまでしなければ高校総体を開催することはできないという事情があって,全国一巡のしんがりをつとめることになったのだろう。こういう事情を考えると,まさに,沖縄県が総力をあげて取り組んでいる姿が目に浮かぶ。
 県外から,監督・選手ら総勢約3万6000人が集うという。この大会開催中のホテルはほぼ満杯だという。むかしながらの旅館もあるのだが,どの県の代表もほとんどがホテルを予約しているという。いろいろの安全管理などを考えると,その方が安心(責任者の立場からすれば)ということではなるのだろう。しかし,ホテルは人と人とのじかに触れる機会があまり期待できない。だとすれば,会場の往復,そして,会場での大会役員やボランタリーの人たちと,さらには,沖縄の選手たちと,本土の選手たちが,どのような接触をしているのか,そのことが気がかりだ。
 沖縄の歴史や文化はもとより,とりわけ,第二次世界大戦後の65年間,沖縄の人びとがどれだけの辛酸を舐めながら生きてきたかということの,ほんの一断片でもいい,どこかで触れることができたらなぁ,とおもう。ただ,ホテルに宿泊して,大会会場を往復するだけ,そして,勝った・負けたで一喜一憂して,帰っていくとしたらなんと寂しいことだろう。せめて,地図の上だけでもいい,沖縄本島に占める米軍基地の場所と,移転が検討されている場所と,それをめぐってどのような議論がいま展開されているのか,ということのアウトラインだけでもこの機会に知ってもらいたいとおもう。
 8月15日には,沖縄で,敗戦にちなむどのような行事が行われているのか,ほんのちょっとでも知ってもらいたい。若い感性ゆたかな高校生だからこそ知ってもらいたい。おそらくは,ほとんどの生徒たちは試合の結果ばかりに意識が集中していただろうとおもう。でも,何人かの感度のいい生徒は,沖縄のかもしだす不思議な空気を感じ取り,その背景にあるものに気づいてくれるのではないか,と期待したい。
 スポーツの大きなイベントは,オリンピック・ムーブメントに代表されるように,一般には「平和運動」の一環として開催されると考えられている。しかし,オリンピック・ムーブメントが唱える「平和」とはなにか,一度,よく考えてみる必要があろう。勝利至上主義が圧倒的に支配し,勝者のみがヒーローとして称揚され,敗者は虫けら同様に扱われる(とくに,マスメディアによって)。そして,無意識のうちに優勝劣敗主義が世の中に浸透していく。いつしか「勝ち組」と「負け組」に人間を分類して,平然としている人間が増えていく。「負け組」を,スポーツ同様に,自己責任と断定して。
 ついでに言っておけば,いま,高校総体が沖縄で開催されている,ということを知っている人がどれだけいるのだろうか。関係者を除けば,ほとんどのヤマトンチューは知らないでいる。日々のメディアを賑わす高校生のスポーツ情報は,そのほとんどが甲子園野球に独占されている。その陰になってしまって,ほとんどなんの情報も流れない。ユース・オリンピックですら,いい成績を残した種目や選手だけがクローズアップされるだけで,そんな大会が開催されていることすら知らない人もたくさんいる。
 夏の風物詩としてその地位を確立したとまでいわれる甲子園野球ばかりが,たとえば,新聞の地方版ですら大きく報じられ紙面を独占する。大きな写真と大きな活字が,まるで,スポーツ新聞なみに紙面を独占している。この猛暑のなか,真っ黒に日焼けした顔で,大きなスポーツ・バッグを肩に担いで電車を乗り継いでいる,ふつうの中学生や高校生の集団に出会う。かれらもまた,それぞれの青春をかけて,地方の各種の大会に全力で取り組んでいるのだ。そして,少なくとも10年前の新聞の地方版には,活字を小さくして,さまざまなスポーツ種目の地方大会の成績が掲載されていた。それが,いまでは,完全に姿を消してしまった。
 いまや,高校総体ですら,無視される時代である。
 世の中の,どこか目にみえない根源的なところで,人間は狂いはじめている。そのことに気づいていないことが大問題だ。
 沖縄の基地の問題がこれほど脚光を浴びた時代もかつてなかった。そして,この秋にはその基地移転問題の関が原ともいうべき沖縄県知事選挙がある。にもかかわらず,ふとした瞬間に,沖縄のことは完全に忘却のかなたに消えてしまっている。戦後,65年を経て,なお軍事基地と日々,対面している人びとの苦悩を,分かち合おうとはしない。人間として狂っているとしかいいようがない。にもかかわらず,知らぬ顔。いかにして,自分だけは「勝ち組」のなかに入るか,それだけしか考えようとしない人間のなんと多いことか。
 まずは,みずからの足元から考え直す以外にはなさそうだ。
 その一つは,スポーツとはなにか,という根源的な問い直しだろう。スポーツが,人間の狂気を誘発してはいないか。スポーツに固有の論理とはなにか。スポーツの都合のいい論理だけが,無意識のレベルで利用されているにすぎないのではないのか。近代スポーツとはなにであったのか。どうしても,スポーツの原点に立ち返って考え直すしかなさそうだ。
 今日も自戒で終わり。
 高校総体に参加した高校生の多くが,沖縄の負わされている大問題を,ほんのちょっとでもいい,視野のなかに収めて帰ってきてくれることを祈りながら。

2010年8月16日月曜日

沖縄の「イクサ」はまだ終わってはいない。

 1945年8月15日,第二次世界大戦の敗戦の日,わたしは7歳だった。思い出したくない記憶はどんどん風化していく。それでも消すことのできない記憶は残る。
 昨日は,全国各地で敗戦記念日にまつわるさまざまな行事が行われた。このブログでも書いたように,昨日は沖縄の佐喜真美術館で「骨の戦世」をめぐるシンポジウムが開催され,太極拳の兄弟弟子であるNさんがシンポジストの一人として参加している。月刊雑誌『世界』でも,今月はこの「骨の戦世」を取り上げ,比嘉豊光さんの撮った旧日本兵の遺骨をグラビアに掲載し,仲里,北村,西谷の3氏の論考を掲載している。
 この中で,仲里さんは「イクサを忘れさせない物ふたつ」という小見出しをつけて,沖縄にはいまもイクサは終わっていない,と声を大にしている。一つは,沖縄にいまも大量に埋め込まれたままの「不発弾」,もう一つは,沖縄にいまも大量に埋め込まれたままの「遺骨」。少なくとも,この二つの問題が解決するまでは,沖縄にとっての「イクサ」は終わらない,と仲里さんは熱く語る。そして,いまもつづく「不発弾」と「遺骨」の発見・発掘・処理作業の実際を,一つひとつ具体的な例をあげながら,その問題の所在を仲里さんは浮き彫りにしていく。
 ちょっとだけ引用しておけば,以下のとおりである。
 「・・・沖縄県防災危機管理課の記録によると,昨年度に発見され処理された不発弾は,1万9918発(29.4トン)で,届出件数は実に1124件にのぼり,沖縄にはなお2000トンを越える不発弾が地中深く眠っているという。」
 たった3行の文章にこめられた意味を考えたとき,気の遠くなるような「イクサ」の傷跡の深さに圧倒されてしまう。わたしたちヤマトンチュウは,このような情報からはほとんど遮断されていて,なにも知らないままのほほんと「平和ボケ」に浸りこんでいる。そして,問題の基地移転にしても,ぼんやりと「大変なんだなぁ」くらいの認識しかない。ウチナンチュウは,65年経ったいまもなお米軍基地を抱え込んだまま,日々,猛烈な爆音に悩まされ,いつ墜落してくるかもしれない恐怖にさらされつづけているのである。
 現に,沖縄国際大学には米軍のヘリコプターが墜落している。米軍基地の島,沖縄は,いまもまぎれもなく「イクサ」の最中にある。昨日行われたシンポジウムの会場となった佐喜真美術館は,米軍基地と隣接していて,目の前に鉄条網の囲いがある。ここには丸木夫妻の描いた沖縄戦の凄惨な実態が,当時の人びとの記憶(証言)にもとづいて,生々しく描かれている。見る者をして圧倒させずにはおかないし,一度,見たものは生涯,忘れることはないだろう。そういう絵を集めて常時展示されている。そこが「骨の戦世」のシンポジウムの会場なのである。
 ヤマトンチュウの関心事は,閣僚の靖国参拝。新聞の一面に,新政権の閣僚は一人も参拝しなかったことを報じている。そして,その記事の終わりの方では,「閣僚が参拝しないことに批判の声が」という見出しをつけて,読者に特別の注意を喚起させている。その一方で,自民党幹部が見守る前をとおって,イシハラ君が参拝したことを大きく報じている。にもかかわらず,沖縄のことはほとんど触れていない。靖国に守られた遺族はともかくとして,そこに守られなかった遺族もたくさんいる。そういう事実を忘れてはならない。なにか,紙芝居をみているような錯覚に陥る。つまり,紙芝居の作者にとって都合のいい情報だけを取り上げ,それがさも事実であるかのごとく働きかける。まさに,情報という名の「暴力」である。
 昨日は一日,鷺沼の事務所で,敗戦記念日をひとりで回想していた。とりあえず,手元にある関連の文献をかき集めておいて,あちこち拾い読みしながら,自分の記憶を整理する。そして,最後には,わたしにとって敗戦記念日とはどういう日なのか,と考えてみる。これまで,こんなことをしたことがなかった。以前のブログにも書いたように,小さな禅寺に育ったわたしにとっての8月15日は,あくまでも「お盆」のお中日でしかなかった。その寺を離れて暮らすようになってから,ようやく,少しずつ敗戦記念日が大きく思い浮かぶようになってきた。それでもまだ,時間があれば,お墓参りに行く日,の方が大きかった。最近はとうとうお墓参りにも行かなくなってしまった。それでようやくこの日の,もう一つの意味を考えるようになった。
 遅きに失したかもしれない。しかし,気づいたときが吉日,その日をスタートの日にすればいい,とみずからを慰める。いいも悪いもない。そういう流れだったのだ,と。
 週刊『読書人』の巻頭では,半藤一利さんが,みずからの戦争体験を語っている。敗戦のとき14歳だったという。だから,すさまじい体験をしていらっしゃる。九死に一生をえたほどの体験を,一度だけではない,何回もされている。でも,これまで極力語ることを拒んできたという。なぜなら,少し語りはじめると,どんどん大きな話になってしまって,とんでもないこしらえ話のようになってしまう恐れがあったからだ,という。この気持ちはとてもよくわかる。事実を語っているのだが,自分のことばに自分が興奮してしまって,とどまるところを知らなくなる恐れがある。わたしにも経験がある。やはり,途中で気づいて,話すことをやめにした。
 でも,半藤さんもおっしゃるように,もはや,戦争の語り部は減るばかりである。どんどん記憶のかなたに消え失せていく。細切れでいい。こんなことがあった,あんなことがあった,と事実を断片的に語ることが大事だとおもう,と半藤さん。なにかストーリーを考えようとすると,とたんに奇怪しくなってしまう,と。わたしも同感。14歳だった半藤さんには及びもつかないが,7歳の記憶を素直に,断片的に伝える努力もしていかなくてはならない,とようやくその気になってきた。
 いつも,いつも「遅れてやってきた青年」のままである。

2010年8月15日日曜日

芥川賞の選評を読んでびっくり。

 昨日のブログを書いたあと,すぐに,選考委員一人ひとりの選評を読んでびっくり。わたしのような素人が「オヤッ?」とおもったことが,そのまま大議論になった,とある。
 つまり,アンネ・フランクが悩んだ「ユダヤ人として生きるべきか,それともオランダ人としてか」という問題を,大学キャンパス内の女子学生の「乙女の側に身を寄せるべきか,あるいは,乙女とは決別すべきか」という問題と重ねるには,あまりにも位相が違いすぎる,という見解である。もっと言ってしまえば,この小説のメイン・テーマとなっている「アンネの密告」と「乙女の告げ口」とを同一レベルで扱うことの是非の問題である。
 9人の選考委員が全員,それぞれの選評を寄せているので,だれがどのように考えたかがストレートに伝わってくる。この選評を読むだけでも,じつに面白い。全体の印象でいえば,総じて女性委員の多くが受賞作『乙女の密告』を推し,男性委員の方が批判的であったようだ。小川洋子,黒井千次,池澤夏樹,川上弘美,山田詠美,の5氏が『乙女の密告』を推し,村上龍,石原慎太郎,高樹のぶ子,宮本輝,の4氏が他の作品を支持したようだ。こういう選評を読むと,それぞれの委員の個性というか性格が,それぞれの委員の作品とは別のかたちで読み取ることができて,これはこれでとても面白い。
 小川洋子氏は,とても丁寧に『乙女の密告』が選出された経緯を解説してくれ,なるほど,そういうことだったのかとわたしを納得させてくれた。ご本人自身もこの作品を推しつつも,議論の内容(上記の議論)に翻弄されたことを正直に告白している。小説というものの評価が,作家の立ち位置や考え方によって,かくも異なるものなのか,といささか唖然としないわけではないが・・・・。でも,小川洋子氏が,最終的に『乙女の密告』を推すことにした,その根拠を一つひとつ提示していて,とても良心的で好感がもてた。やはり,『センセイの鞄』を書いた作家だなぁ,と。
 川上弘美,山田詠美といったわたしの好きな作家たちがそろって『乙女の密告』を,「好きです」「嬉しくなった」という,まことに素朴な表現で推薦のことばを書きはじめているのが印象的だった。そうなんだ,好きか嫌いか,それだけでいいんだ,と。そこからすべてがはじまるのだから。小説に限らず,絵にしろ,音楽にしろ,およそ芸術と呼ばれるものは,だれがなんと言おうと作品を受け取る側の独断と偏見にゆだねられているのだから。わたしは,川上弘美の『蛇を踏む』で,そして,山田詠美の『ひざまずいてわたしの足をお舐め』で,この二人の作家のファンになったのだから。それはもう感性の世界のことであって,いちいち説明の余地はない。
 毎年,この選評欄を読んで,呆れ果ててしまうのは石原慎太郎氏である。よくいえば「孤高の人」,悪くいえばたんなる「ボケ老人」。まあ,ひとりくらいはこういうわけのわからない「ピエロ」的存在の人がいた方がいいのかもしれない。おそらく,この人がもっとも強く受賞作に対して酷評を展開したとおもわれるが,そんな声にびくともしない小川,川上,山田の3氏に拍手を送りたい。もはや,完全に生きている次元が違う。ことしの石原氏の毒づき方もひどいものだ。そこには明らかに「悪意」あるいは「敵愾心」が露呈している。ついでだから,そのまま紹介しておこう。
 「当選作となった『乙女の密告』は,アンネ・フランクという世界に膾炙した悲劇の主人公の最後の秘密にオーバラップした,どこかの外語大学の女子学生間のあるいきさつだが,今日の日本においてアンネなる少女の悲しい生涯がどれほどの絶対性を持つのかは知らぬが,所詮ただ技巧的人工的な作品でしかない。こんな作品を読んで一体誰が,己の人生に反映して,いかなる感動を覚えるものだろうか。アクチュアルなものはどこにも無い。
 日本の現代文学の衰弱を表象する作品の一つとしか思えない。」
 この石原氏の文章にコメントをするのはやめにしておこう。ただひとことだけ言っておくとすれば,ここにでている顔は厚顔無恥な政治家としてのイシハラであって,作家としての石原の顔ではない。この文章を読んで,受賞作に票を投じた他の委員たちは「にんまり」と笑っていることだろう。ひょっとしたら詠美ちゃんなどは,お酒でも呑みながら,お抱え編集者を相手に毒づいているのではないか,と想像しながら,わたしも「にんまり」である。
 小川洋子氏の選評を読んだら,もう一度,この受賞作を読んでみたくなってきた。いつか時間をみつけて楽しんでみたいとおもう。こんどは徹底的に熟読玩味しながら。小説の巧妙な仕掛けを読み解きながら。

2010年8月14日土曜日

第143回芥川賞受賞作『乙女の密告』を読む。

 赤染晶子の芥川賞受賞作『乙女の密告』を読む。『アンネの日記』を下敷きに,外国語大学ドイツ語学科の学生さんたちの虚実をテーマにした作品。
 真実と嘘の噂のはざまで揺れ動く「乙女」ごころの,あるいは,「乙女」として生きることの,微妙な世界を分け入っていく不思議な作品という印象が残った。もう少し細部をきっちり描いていけば,立派な長編ともなりうる可能性を秘めている短編。その分,凝縮しているのかといえば,そうではない。むしろ,省略という手法を用いて,曖昧模糊とした部分をあえて残しながら,最小必要限度の痕跡だけを記述し,その間隙は読者の想像力にゆだねる,という戦略をとっている。これはこれで成功しているかにみえる。しかし,どこか物足りない。ないものねだりかもしれないが・・・・。
 たとえば,14歳のアンネがユダヤ人として生きることとオランダ人として生きることの,言ってみれば,人間の尊厳にかかわる大問題に気づいて日記に記述したことを,小説の一つの大きな骨格として提示したことは高く評価したいとおもうのだが,それを,大学キャンパス内の「乙女」論争に重ねてしまっていいのか,しかも,自己と他者のはざまに引き裂かれる,いわゆる「自他論」としての問題提起もいささか軽い,という印象を受けた。アンネがユダヤ人とオランダ人との間で,どちらが自己でどちらが他者かと悩むことと,キャンパス内で,「乙女」であるか,ないか,というこの小説の命綱ともいうべき核心のテーマを,同列に並べて主題化している部分では,いささか違和感を禁じ得ない。それほどまでに,キャンパス生活にとって,そして,女子学生にとって,「乙女」であるか,そうでないかは重大なことなのだろうか。言ってみれば,女子学生としての,存在の根源をゆるがすほどの問題なのか,ということだ。もし,そうだとしたら,わたしにはそのあたりのことを理解するための,なにかが欠落しているということになる。
 作者の赤染晶子は,京都外国語大学ドイツ語学科の卒業である。1974年生まれというから,ちょうど作者が大学に通っていたころとほぼ同じ時代に,わたしもご縁があって,何回かこの大学に足を運んだ経験がある。それだけに,ドイツ語の教授として登場するバッハマン教授(もちろん,仮名)というような名前を聞くと,そこはかとなく懐かしくなってくる。もちろん,キャンパス内の建物も,研究室も,教室も,大講義室も,具体的なイメージとして浮かび上がってくる。小説は作り物だから,現実と混同してはいけないが,どうしてもイメージが現実のキャンパスと重なってしまう。だから,逆に,イメージが混乱を起こす。
 いつもは,「芥川賞選評」をさきに読んでから,受賞作を読むことにしてきたが,今回は,それを避けた。なぜなら,選評が頭に残っていて,作品を楽しむ邪魔になるとおもったから。その意味では,今回は,まことにすっきりと自分のイメージだけを楽しむことができた。これから,「選評」を読んでみようとおもう。だれが,どんな風に,この作品を評論するのか,これはこれで別の楽しみではある。いつも,石原慎太郎氏だけが,酷評をさらけ出して,もう読むに耐えない,とまで受賞作をこけにしたりしているので,今回の作品について,なにを言っているのか楽しみでもある。

2010年8月13日金曜日

比嘉豊光さんの「骨の戦世(いくさゆ)」65年目の沖縄戦,に衝撃が走る。

 『世界』9月号の巻頭を飾るグラビア・ぺージに,比嘉豊光さんの「骨の戦世(いくさゆ)」65年目の沖縄戦,が掲載されている。しかも,招待作品として。
 65年ぶりに元日本兵の遺骨が土の中からでてきた。新都心「おもろまち」の開発の延長線上にあるシュガーローフと呼ばれる,かつての激戦地の一角から,大量の遺骨が65年ぶりに日の目をみたというのである。沖縄の「戦世」を撮りつづける写真家比嘉豊光さんが見逃すわけがない。その驚くべき遺骨の発掘現場からの写真が,『世界』の巻頭グラビア・ページに掲載されている。まずは,黙って,写真と向き合うことをお薦めする。また,実際にも,写真にはひとことの「説明」も付されてはいない。あるのは,巻末の303ページに「グラビアについて」という1ページの比嘉豊光さんの抑制のなかに興奮がつたわる文章のみ。
 この写真に寄せて,仲里効(メディア工作者),北村毅(早稲田大学),西谷修(東京外国語大学)の3氏がそれぞれの立場から,読みごたえのある文章を展開している。いずれも迫力満点で,おもわず立ちすくんでしまう。沖縄についてかくも無知であったことが恥ずかしくて・・・。しばし呆然としてしまって,なにも手につかない。
 さて,グラビアの写真にもどろう。まず,最初に驚いたのは,2枚の写真の骸骨が,大きな口を開けて笑っているようにみえたことだ。笑っている,などと書くと不謹慎のそしりを免れかねないが,じっと,みればみるほどに「笑っている」ようにみえるのだ。まるで,65年間の土中の生活から解放されて,ようやく「この世」に生き返ってきたことを喜んでいるかのように。一体は,背中に鉄兜を背負ったまま,仰向けに倒れたかのように,そのまま大きな口を開いている。さらに,じっと見ていると,ひょっとしたら左胸のあたりに弾があたって(左鎖骨が大きく破損している),絶叫して倒れ,そのまま息絶えたか,ともみえる。と,おもうとこんどはわたしの胸に痛みが走る。銃弾にあたって,その苦しみのまま息絶えたかとおもうと,こんどは凝視することができなくなってしまう。そういう,さまざまな連想が引き出されてしまう,驚くべき写真が8ページにわたって掲載されている。必見の写真である。
 撮影をした比嘉豊光さんの文章によれば,ある一体からは頭蓋骨から「脳髄」がでてきた,という。ボランティアで洗骨をしていた人とともに驚いて(このとき,比嘉さんはビデオをまわしていた),急いでカメラに持ち替えてシャッターを切った。しかし,写真は写っていなかった(みんな,ブレていたり,ピンぼけ写真ばかりだった),という。興奮してしまって,全身が震え,手もまったくコントロールを失っていた,と。だから,気持ちが落ち着くまで待って,冷静さをとりもどしてから撮影をし直したと,告白している。
 なお,比嘉豊光さんのこの「骨の戦世」65年目の沖縄戦の写真展が,秋には明治大学で開催されると聞いている。時間をみつけて,ぜひ,一度は足を運んでみようとおもう。できれば,久しぶりに比嘉豊光さんにお会いしたい。そして,直にお話を聞いてみたい。比嘉さんのことだから,文章には書けない秘話を,こっそりと語ってくれるのではないか・・・と期待して。
 この写真に寄せた3人の論者の論考については,直接,読んでいただきたい。余分なことを書いて,レベルを下げる愚は避けたい。

2010年8月12日木曜日

これからの大きな予定について。

 週に一回,顔を合わせている近しい友人たちが,相次いでこんごの予定をブログで公表している。それをみて,自分自身の予定がどうなっていたのか気になりはじめ,チェックしてみた。
 つられる,ということはあるもので,「つれ〇〇〇」ともいう。子どものころ屋外で遊んでいて,だれかがおしっこをするとそれにつられて,何人かの子どもがならんでおしっこをしたものである。遊びに夢中になっていて,それこそ一心不乱に遊んでいるときに限って,ひょいと虚をつかれるようにして,尿意を呼び覚まされる。あれは,子どものころから不思議であった。いまはもう,まったく反応しない。ひとりわが道をゆく,である。ちょっぴり寂しい。
 さて,8月といえば,むかしは,年の半分が過ぎるという感覚だったのに,最近では,9月に入るとあっという間に年末がやってくる。涼しくなるのはとても嬉しいのだが,あれよあれよという間に年の瀬が押し寄せてくる。こちらは,なんとも寂しいものである。時間の感覚が以前とはまったく違う。とにかく速い。スピードが違う。子どものころは時間は止まっているようにおもっていた。が,年々,時間の流れが速くなり,いまや,一日がなんと短いことか。
 というわけで,そろそろこんごの見通しやら段取りを考えるためにもみずからの予定を確認しておかなくては,とちょっぴり焦ってもいる。こんなことをブログに書くということは,みずからに知らしめることが第一の目的であるが,それとなく周囲の人たちにも知っておいてもらおう,という次第である。いうなれば,説明の手抜き。
  
〇8月末・・・・『IPHIGENEIA』(21世紀スポーツ文化研究所・「ISC・21」研究紀要)の原稿締め切り。第2号(通号第10号)。ここに投稿するための自分の原稿を書き上げること。そして,9月に入ったら,編集業務にとりかかる。一気にやる予定。

〇9月12日(日):「ISC・21」9月神戸例会(第44回)・世話人=竹谷和之さん・・・・こちらはすでにHPの掲示板に「第一報」がでている。徐々に詳しい情報が掲示される予定。発表申し込みをしようかどうか迷っているところ。
 9月13日(月)~15日(水):神戸市外国語大学集中講義。「スポーツ文化論特論」。マルセル・モースの『贈与論』をてがかりに,「スポーツ的なるもの」が立ち現れてくる「原風景」を探ってみようというもの。
 9月17日(金)~21日(火):西谷修さんの沖縄国際大学での集中講義を聴講。錚々たる弁士が自発的に集まってくる・・・という噂もある。なにか,ハプニングが起こりそうな予感もあり。まことに楽しみ。

〇10月23日(土):「ISC・21」10月名古屋例会(第45回)・世話人=三井悦子さん。

〇11月27(土)・28日(日):スポーツ史学会・大和郡山大会・事務局=松井良明さん。

〇12月20日(月)~22日(水):神戸市外国語大学集中講義
 12月23日(木):「ISC・21」12月神戸例会(第46回)・世話人=竹谷和之さん。

〇1月〇〇日(未確認):「ISC・21」1月奈良山焼き例会(第47回)・世話人=竹村匡弥さん。

〇2月11日(金)午後5時30分~午後7時:トークショウ・鼎談「能面アーティスト宣言をした柏木裕美さんの能面について」(西谷修,今福龍太,稲垣正浩)
 2月12日(土):「ISC・21」2月東京例会(第47回)・世話人=未定

〇3月19日(土)または26日(土):「ISC・21」3月大阪例会・世話人=松本芳明さん。

 以上が,いま,わかっている来年3月までの主な予定である。なにやら,楽しいことばかり。しかも,この間に,いまは楽しみになっている原稿を書く仕事がある。でも,気持ちを引き締めて,いい仕事をしたいものである。

2010年8月11日水曜日

大相撲を批評することは世界を批評することである。

 昨夜(8月9日),大相撲のことについて話を聞きたいという人が現れて,ついついふだん考えたこともないようなことまでしゃべる,という事件があった。
 そう,事件である。いつもは,ひとりで大相撲のことを考える。困った問題だなぁ,むつかしい問題だなぁ,でも,こんな風に考えた人はまだだれもいないはずだ,とかあれこれ考える。でも,それらは適当なところで思考は止まる。しかし,いい聞き手を前にすると,わたしの頭が別の回転をはじめる。ついつい引き出されるようにして,思いがけない発想が飛び出してくる。しゃべりながら,自分で驚いたりしている。これはわたしにとっては,まさに,事件である。
 今日(8月10日)は一日中,昨夜のおしゃべりから飛び出したさまざまなアイディアを整理していた。そうしたら,そのメモに触発されるかのように,またまた,つぎつぎに新しいアイディアが生まれてくる。それらを片っ端から書きつらね,メモとして保存することにした。当分の間,このアイディアを手がかりにして,大相撲のことを少しずつ整理しながら,きちんと考えてみようかと思っている。思いがけず「貯金」ができた。
 その中のアイディアの一つが「大相撲を批評することは,世界を批評することである」というもの。これは,いわずとしれた,今福さんの本からの剽窃である。今福さんは『ブラジルのホモ・ルーデンス』の冒頭で「サッカーを批評することは世界を批評することである」と高らかに宣言され,みごとな「サッカー批評原論」を展開された。これをそのままコピーしただけの話ではないか,とおもわれるかもしれないが,じつは,そうではない。いろいろの話をしながら,大相撲の問題の所在をとことん問い詰めていってみると,その一つは,立派に「世界を批評すること」につながっていく,と気づいたのである。今夜はその話をちょっとだけ書き記しておくことにしよう。ブログで書ける範囲なので,きわめておおまかなラフ・スケッチになってしまうが,お許しいただきたい。
 大相撲の問題(これも一つひとつ,問題を整理して考えるべきであるが,それをやりはじめるとエンドレスになるので,とりあえず,一連の不祥事をすべてひっくるめて「問題」としておく)をグローバル・スタンダードで批判することの「是非」について,もっと多くの議論を積み上げるべきであること。多くの評者が,おそらく無意識のうちにであろうが,グローバル・スタンダードの側に立って,大相撲の問題に批判を加えている。このことの「是非」を問い直すことが先決である,とわたしは考える。むしろ,単純なグローバル・スタンダードで大相撲を評論してしまうと,大相撲が大相撲ではなくなってしまう。そのことを視野に入れて,大相撲の大相撲らしさを擁護しながら,批判を展開するのか,ここがポイントになろう。
 ということは,大相撲を,近代競技スポーツと同等のものと考えるか,日本に固有の伝統スポーツと考えるか,それとも,もっと広い視野に立って日本的な「伝統芸能」の一つととらえるか,この議論をもっと徹底して積み上げることが必要不可欠である,というところに到達する。
 さらに,「日本に固有の」とか「日本的」というときの根拠はなにか。なにをもって「日本に固有」であり「日本的」ということが可能なのか。日本文化の特質とはなにか。日本の「本来的」と考えられているものとは,どういうことを言うのか。この日本の「本来」について,きちんとした議論を積み上げること。
 その上で日本の「将来」を考えるべきであること。つまり,大相撲の「本来」をどのように理解するのか,その共通理解の上に立って,大相撲の「将来」のプランを描くべきであること。この日本の「本来」と日本の「将来」とをどのように考えるか,というところから「世界」が視野のうちに入ってくる。世界のなかに日本をどのように位置づけるのか,というところまで大相撲の問題を問い詰めていくと,必然的に到達する。
 これらの問題を,ほとんど未整理なまま,それぞれのレベルでの理解や認識にもとづき,みんな勝手なことを言っているのが現状。だから,なんでもあり,の議論が展開している。不毛である。ここからは,なんの問題解決の糸口もみえてはこないだろう。
 こうして到達したアイディアの一つが「大相撲を批評することは,世界を批評することである」というものである。気がついたら,このキャッチ・コピーは今福さんのものを,丸写しにしただけのものだった,という次第。
 ここに到達するには,じつは,もっともっと多くの問題を論じてからのことであった,ということも付記しておこう。たとえば,一神教の世界の価値観で世界を再編・統合しようとする考え方に,そんなに安易に迎合してしまっていいのか,というとてつもなく大きな問題がある。つまり,アジア的,日本的な多神教の世界の価値観をそんなに簡単に放棄してしまっていいのか,という問題である。少なくとも,大相撲の根底にあるものは「神事儀礼」である。そういうコスモロジーを色濃く残しているということを忘れてはならない。
 大相撲は,能や歌舞伎と同じように,日本の文化を世界に向けて発信する絶好の素材なのである。日本の伝統文化として,日本の伝統芸能として,日本の伝統スポーツとして,どのように大相撲を認識し,理解するかによって,「批評」の姿勢は根底から異なってしまう。このことを,しばらくの間,本気で考えてみたいとおもう。
 昨夜はとてもいい機会を与えられたと感謝あるのみ。

2010年8月8日日曜日

8月15日が近づいてくる。

 田舎の小さな禅寺で育ったわたしにとって8月15日は,盂蘭盆会(うらぼんえ)の最終日である。世間でいうところの「お盆」である。その翌日が精霊会(しょうりょうえ)。いわゆる精霊流し。
 8月15日が敗戦記念日である(この日付については異説がある)とつよく意識するようになるのは,禅寺を離れて東京で生活するようになって,しばらくしてからのことであった。それまでは,毎年,お盆を迎えるために,寺の境内の大掃除に追われる。墓地の草取りから庭の植え込みの剪定,境内のありとあらゆるところの清掃に必死だった。本堂の天井から仏壇の掃除,ときには,本堂の縁の下の掃除までした。最後の仕上げは仏具の磨き上げである。磨き砂をつかって真鍮でできた仏具をピカピカになるまで磨く。これもなかなか根気のいる仕事であった。
 毎年,お盆が近づくと,日差しが強くなる前の午前中に屋外の仕事に取り組み,昼食のあと午睡(本堂は風通しがいいので,このはじっこに,みんな思いおもいの場所に陣取って,ごろんと横になった)。午後3時くらいから,ふたたび屋外の掃除。そして,雨が降ると,本堂や仏壇・仏具の掃除。そして,できるだけ早く終わらせておいて,こんどは母の実家の禅寺(こちらは大きな構えの境内だったので,大掃除は大変)の大掃除の応援にでかける。行くと,伯父・伯母が「よくきてくれた」といって熱烈歓迎をしてくれた。それが嬉しくて,真っ黒に日焼けしながら手伝った。イトコたちと一緒に食べる食事も楽しかった。
 夏休みといえば,なによりも掃除の日々であった。そんな生活が,小学校の高学年から大学を卒業してのちもしばらくはつづいた。だから,新聞やラジオで,ヒロシマやナガサキの慰霊祭が行われていることは知っていたし,8月15日が敗戦記念日であることも知ってはいた。8月15日の盂蘭盆会が終わると,お盆のために組み立てた施餓鬼棚を解体して,片づけるという大仕事が待っていた。とにかく,寺の最大の年中行事が最優先される,そういう生活が高校卒業し,大学を卒業しても,しばらくはつづいた。
 寺のことを忘れて,まったく自由に夏休みを使えるようになって,しばらくしたころから,ヒロシマ・ナガサキということが強く意識にのぼるようになってきた。正直にいえば,戦争にまつわる記憶はできることなら思い出したくなかった。だから,1950年6月に朝鮮半島で戦争がはじまった,というニュースを聞いたときは,ふたたび,5年前の身体にもどったような緊張感がはしった。忘れもしない,中学校(1年生だった)の廊下の掲示板に,戦争の写真入りの新聞が張り出されていたのを,固唾を呑んで見守ったことを。しかも,何回も38度線よりも,はるか南まで攻め込まれて,韓国の領土がどんどん小さくなっていく地図をみるたびに,もうすぐ日本にやってくる,どうしよう,と真剣に考えていたこともある。
 わたしたちの世代はみんなそうだとおもうが,戦争と聞くだけで身体が反応する。理性よりもさきに身体が拒否反応を起こす。だから,意気地なしといわれようが,なんといわれようが,戦争だけは勘弁してほしい。
 朝鮮戦争のあとも,あちこちで,いわゆる代理戦争なるものがつづいた。冷戦構造が崩壊したというのに,こんどはまた,別の理屈をつけて戦争をしかけている国がある。
 「そんな国」が元気であればあるほど,沖縄の軍事基地は,膠着状態のまま放置されつづける。なのに,日本の政府は「そんな国」に迎合して,日本の国民である,沖縄の人びとの生の声に耳を傾けようとはしない。新聞もテレビも雑誌も,沖縄には目をつむってきた。驚くべきことに,沖縄には,NHKも大手新聞社もテレビ局も,支社・支局を置いてないし,もちろん,専従の記者も常駐していない。なにか事件が起きると,こちらからでかける。そして,その場かぎりの取材をし,報道をして終わりである。独自の取材網を構築して,積極的に問題の解明につながるような報道をしようという考えは毛頭ない。
 だからというわけではないが,ヤマトンチュウは,そのほとんどが沖縄音痴である。ほとんどなにも知らない。最近でこそ,普天間移設問題が大きく報道されるようになって,ようやく,多くのヤマトンチュウが関心をもちはじめたが,それまでは,観光のためのリゾート地としての情報の方が圧倒的に多かった。だから,沖縄はよほどいいところだと勘違いして,移住までした不思議な人たちがいる。観光地は住むところではない,ということすら知らないで。
 ことしは,ようやく,ヒロシマ・ナガサキに外国の目が向いた。アメリカ大使が重い腰をあげた。国連事務局長は勇んでやってきた。イギリス,フランスなどの使者もやってきた。こうして,遅きに失してはいるものの,ようやく「核廃絶」に向けた弾み車がまわりはじめたその矢先に,なにをカン違いしたのか「核抑止力は大事である」という能天気な発言をしたどこぞの首相がいて,情けなくなってしまう。「核廃絶という人類の夢の実現に向けて,被災国の立場から鋭意努力したい」という,たったこれだけのことが言えない・・・・ひょっとしたら,「若ボケ」になってしまったのでは・・・・と疑いたくなる。「若ボケ」は本人はもとより,周囲も気づかないそうだ。だから,危なくて,どうしようもない。野党の軍事通の代議士に「むかしの首相は気迫があって好きだった」とまでいわれるようになってはおしまいである。
 こうして,8月15日が間違いなく近づいてくる。にもかかわらず,日本のマスコミは,いまや国民的行事になってしまった甲子園野球に,膨大なエネルギーをそそいで報道に余念がない。そして,日本の敗戦について,ほんのお義理のような,とってつけたような記事を書くだけだ。もっと,戦争とはなにか,という根源的な問いにつながる記事を書いてもらいたいものだ。そして,少なくとも8月の間だけでいい,みんなで戦争のない「世界」の実現に向かって努力すべきことはなにか,ということについて考える記事を書いてほしいものである。しかし,もはや,そんな力はいまの記者にはないらしい。だから,新聞社の代弁者かとおもわれるような学識経験者を登場させて,お茶をにごしている。そうではなくて,賛否両論をありのまま開示して,読者に考えるチャンスをつくるだけでいい。そうすれば,おのずから世論というものが立ち上がってくる。
 8月14日・15日には沖縄で大きな特別の企画があるという。そういう情報が,ヤマトンチュウのところには,ほとんどとどかない。沖縄県民がいま,どれほど情熱をこめて,普天間問題に取り組んでいるか,わたしたちはもっともっとアンテナを高く張る必要があるだろう。とりわけ,この秋に予定されている知事選挙が,県外移設実現の鍵をにぎる,とみんなが固唾を呑んで見守っている。そして,いまから,すでにその熱戦ははじまっている,という。
 こんどばかりは,どこかで「行動できる人」の仲間に入りたいと考えている。すでに,遅きに失していることは百も承知で。でも,なにもしないよりはいいだろう,とみずからを慰めながら。
 8月15日が近づいてくる。
 この8月15日に,なんらかのかたちでリンクするようなスポーツ史研究であり,スポーツ文化論であり,スポーツ批評を展開したい,と切実におもう。

2010年8月7日土曜日

「ウツとウツツ」の理論(松岡正剛)

 毒を食らわば皿まで,という俚諺がある。セイゴオさんの本の『方法日本・Ⅰ』(毒)が終わったら,そのまま『方法日本・Ⅱ』(皿)に突入するしかない。
 皿の方のP.176に,「ウツとウツツ」の理論という見出しの一節がある。もちろん,ここまでくる前にいくつものカウンター・ブローをくらっているのだが,ここにきて完全なストレート・パンチをくらってしまった。で,今日はここまでで,この本を読むことをやめにして,このブログを書くことにした。もう,書かないではいられない。
 ウツには「空」とか「虚」という漢字をあてる。漢字からわかるように,なにもない,という意味。ウツロやウツホということばもウツと同じ仲間のことば。で,ウツは,なにもない,という意味だけかというとそうではない,とセイゴオさん。そこからなにかがでてくる。なにかが育まれている。そういうところがウツロであり,ウツホである,と。
 そのわかりやすい例として『竹取物語』をとりあげる。竹の中はウツロ。そこにかぐや姫が育まれている。桃太郎も同じ。ウツロな桃の中から誕生する。
 このウツから,さらに,ウツシやウツリということばが生まれる。漢字をあてるとよくわかる。「移る」「映る」「写る」。つまり,移動や射影,反映である。ここからウツロヒ(ウツロイ)の意味が忽然と浮かび上がってくる,という次第。ウツはなにかのウツロイをおこす母体だったのだ,と。つまり,ウツはなにもないナッシングではなくて,ウツにひそんでいるなにかが「移り」「写って」「映され」ていく。こういう関係がある,と。
 これだけではない。さらに,「ウツ⇒ウツロイ」はさまざまに変転しながら,ついには「ウツツ」に到達する,というのである。ウツツとは漢字にあてれば「現」。つまり,「現実」そのもの。これはなにを意味しているのかというと,「ウツ⇦⇨ウツツ」は双方向だったということ。
 ウツがウツロイをへてウツツになっていく。「無」がいつのまにか「有」になっている。「ウツツには必ずウツロイが動向していて,その奥にウツがある。そういう相互関係です。そういうデュアルで,ミューチュアルな関係なんです」とセイゴオさんは説く。
 「これは,たいへん驚くべきことです。『何もなさそうなもの』から,ウツロイがおこって『何でもありそうなもの』になっていくんですからね。
 これをたとえば,『空虚から現実が生まれる』というふうに欧米的ロジックで言いあらわすのは,とうてい不可能です。ここにはそういうロジックでは説明できないものがある。しかし,だからといって,これを東洋的抽象性とか日本的抽象性というものではありません。けっこう具体的なんです。見える場合もあるんです。二,三,例を出します。」
 といって,神社には「何もない」,ヒルコとエビスの負と正の関係,流れて現れる神々,余白の美意識,などなどの例をあげ,説得力のある論理で説明をしていく。これらの話はぜひテクストで確認してみてください。
 こういうセイゴオさんの話を聞きながら,わたしは勝手に,『十牛図』の話や西田幾多郎の『善の研究』の話を思い浮かべていた。『十牛図』でいえば,「真の自己」をもとめて「絶対無」に到達し,そこを通過することによって,もう一つ違う次元の「現実」と真正面から向き合うことができるようになる,というあたりの話である。「忘牛存人」から,さらに「忘牛忘人」をへて,ついに「絶対無」に到達する。そこで終わりかというとそうではなくて,この「絶対無」を通過すること(大死を通過すること)によって,はじめて「真の自己」になりきることができる,という禅的世界の話である。
 しかし,セイゴオさんの話を聞いていると,むしろ,日本的な本来のものの見方・考え方,感じ方,日常の行動の仕方として,「ウツ⇦⇨ウツツ」という双方向性があったのだ,という。だとすれば,禅的な「無」や「空」の考え方も,いともすんなりと日本人のこころのなかに落ちていったんだなぁ,ということが理解できる。これが日本人の「本来」の姿であるとするなら,ここをしっかりと確認した上で,日本人の「将来」を考えるべきだ,というのがセイゴオさんの主張である。この日本人の「本来」の姿を探り出すいとなみがセイゴオさんのいう「方法日本」の具体的な内容なのだ。
 来年の「国際セミナー」に向けて,また一つ,論陣を張るための有力な根拠がみえてきた。ありがたいことである。グローバリゼーションの問題を考えるということは,こういう日本の「本来」を考えることでもあるのだから。これは,そのまま「スポーツ文化論」としても展開できる。ただし,「ウツとウツツ」の関係を,ヨーロッパ人に説明するのは至難の技ではあるが・・・・。たとえ,わかってもらえなくとも,わかってもらえるべく努力をすることが重要だ。
 しばらくは,セイゴオさんの「方法日本」を追ってみることにしよう。

2010年8月6日金曜日

正剛さん,参りました。あなたの「劇薬」が効きすぎました。

 本は本屋さんに立ち寄るたびに何冊かは買って帰る。これはもう長年の習性のようなものである。だから,何冊もの未読の本が山となっている。
 締め切りのすぎた原稿が残っている間は,読書をして楽しむ気にはなれない。気が弱いのである。なんとなく申し訳ないという気持ちがどこかで牽制している。その気がかりになっていた原稿がようやく終わってほっとしたので,そのご褒美に・・・・と手を伸ばしたさきに正剛さんの本が待っていた。そう,正剛さんとは,あの松岡正剛さんのことである。これまでにも何冊か楽しませもらっているので,しっかりと味をしめている。目の前にあった本は,連塾・方法日本・Ⅰ『神仏たちの秘密』日本の面影の源流を解く(春秋社,2008年12月)と連塾・方法日本・Ⅱ『侘び・数寄・余白』アートにひそむ負の想像力(春秋社,2009年12月)の2冊。あと1冊,でる予定。全3冊。
 このシリーズは,松岡正剛さんが,何人かの人に頼まれてはじめた「連塾」で行った,全部で8回にわたる講義を3分冊にまとめたものである。その第一冊目の本の帯には「この講義は劇薬です」と大書してある。そして,「つまらないニッポンに喝を入れる一途でパンクなセイゴオ流・高速シリーズ,第一弾」というコピーがついている。「劇薬です」とはっきり書いてあったので,最初からそのつもりで読みはじめる。にもかかわらず,あっという間に「劇薬」が全身にまわって,しびれたまま本のとりこになってしまった。つまり,途中で一休みして,別の仕事にとりかかる,などということを許してくれない困った本なのである。だから,最後まで読み切るしかない。
 冒頭からカウンター・ブローをボディに深く叩き込まれてしまったのは,以下のひとことであった。それは,日本の文化はむかしから「絶対矛盾」の「自己同一」(西田幾多郎)でやってきたのだ,これが「本来」の日本文化の姿であり,そのことをよく承知した上で「将来」のことを考えろ,というセイゴーさんはおっしゃる。そして,その事例をつぎからつぎへと繰り出す。しかも,そのジャンルはとどまるところを知らない。博覧強記どころではない。むしろ,セイゴウさんがみずから位置づけているように,「方法」として「日本」を考えるために必要な情報を洗いざらい提供する,という姿勢がすごい。そして,徹底している。
 たとえば,「日本には和魂(にぎたま)と荒魂(あらたま)というものがあります」というところからはじまって,つぎのように展開していく。
 「和魂は事態や気分を和(なご)ませ,和(やわ)らげる。荒魂はその逆にやや荒っぽく方法を行使することです。いま,和風が見なおされ,『和』がブームになっていますが,私は今日の日本にはむひろ『荒』のほうが大事だと考えています」
 「というのも,『荒』は『荒れる』と綴るけれど,これはスサビとも読みます。スサビというのは,風が吹きすさぶとか,口ずさむとか,屋根や庭が荒れている,というときに使う言葉ですね。スサノオノミコトの『スサ』も同じ語源です。いずれくわしい話をしますが,事態や光景や好みが長じていくことがスサビです。スサノオという名もそこから来ているわけで,荒魂を代表する荒神(こうじん)でした。歌舞伎にも荒事(あらごと)と和事(わごと)がありますね。
 ただし,ただ荒れるだけ荒れればよいというものではない。それは『乱』です。日本の荒魂はつねに毅然としたものがあり,どこかで和魂と結びあっているところがあった。それが すさぶ ということなんです。しかも,この『スサビ』は『荒』であって,かつ『遊』とも綴った。だから,遊びと綴ってスサビと読むのです。そこがたいへんおもしろい。」
 という具合です。「遊び」が「スサビ」と読めるとは,まさに,目からうろこです。ここからはじまって,建築の「てりむくり」,歌合などの「アワセ・ソロイ・キソイ」,和漢折衷,和洋折衷・・・・など,など。これらの具体的な内容については,どうぞ,この本を読んで確認してみてください。もっともっと,いろいろの事例が,これでもかこれでもか,ととびだしてきます。それはそれは驚くべき分野にまで広がっていきます。
 そういう話を展開させながら,日本の文化は「多様さを一途に追い求める」ところに大きな特徴がある,とセイゴオさんは力説します。そして,その「多様さ」と「一途」を矛盾することなく調和させてしまう,と。だから,「絶対矛盾」の「自己同一」である,と。おまけに,西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と一息で読め,と言ったという注釈までつけてくれます。「一にして多」「多にして一」という禅仏教のことばとして知られているこれも「絶対矛盾的自己同一」である,と西田幾多郎が言っていること,鈴木大拙もまた同じように言っていること,しかし,この「一にして多」「多にして一」という考え方のもとをたどっていくと「華厳」にゆきつく,という。しかも,鈴木大拙の晩年は,もっぱら「華厳」の世界に没頭していた,と。日本の禅は「華厳」にもそのルーツをもっている,という具合にもうとどまるところを知らぬ,驚くべき話の展開に唖然としてしまいます。
 こういう話の間には,桑田佳祐の歌からJ-POPの「長2度」の話や,声明との関連,などまでも取り込みながら,「絶対矛盾」の「自己同一」の実態を明らかにしていきます。
 セイゴオさんの本を読んで,大いなる安心もいただきました。わたしも,これまで,かなりいい加減な雑学ばかりをやってきたように思っていますが,最近になって,なんだか,それらの雑学がみんな一点に集まってきて,みんなつながっている知の連鎖であることに気づきはじめていたからです。これでいいんだ,と。いま,わたしの頭のなかを駆けめぐっている諸矛盾もいずれは一点に集まってきて,それとなく「自己同一」するときがくるのだろう,と。つまり,お互いに牽制し合いながらも,それとなく調和するときが。
 さて,こうなったら,連塾・方法日本・Ⅱ『侘び・数寄・余白』アートにひそむ負の想像力,に手を伸ばすしか方法はあるまい。早く読み終えて,頭の整理をしておいた方が,それ以後の仕事にもよい影響を及ぼすことになろう。などといいわけをしつつ,いささか気が引けながら(じつは,まだ一つだけ,締め切りの切れた原稿が残っている),今夜もこの本を楽しむことにしよう。
 セイゴオさんの「劇薬」に感謝。

2010年8月5日木曜日

舟橋聖一の『相撲記』をめくりながらおもうこと。

 このところちょっと追い込まれていた仕事があって,ブログを休んでしまった。が,一区切りついたので,ご褒美に舟橋聖一の『相撲記』を読みはじめている。
 もう,何回も読み返しているわたしの愛読書の一つである。が,何回読んでも,そのたびに新しい発見があって,いつも,不思議な感動をおぼえるのである。読み手の感度に応じて,いくとおりもの顔をみせる。まさに,名著の証。と同時に,読み手のわたしは験されている。舟橋聖一の手のひらの上で,あますところなく験されている。まるで,大三島の「ひとり相撲」のようなものである。神様相手に必死になって相撲をとっても,結局は,ころりところげて終わり。でも,心地いいから止められない。ひとりで,内緒で,秘め事のようにして読書しているからいいものの,この姿は他人にはみられたくない。
 さて,舟橋聖一と言っても,もう,いまの若い人たちにはだれのことかもわからない存在かもしれない。しかし,わたしたちの年代であれば知らない人はいないだろう。それほどの名作を連発し,一世を風靡した作家である。とりわけ,耽美派の小説家として注目を浴びた。この話をしはじめると,これまたエンドレスになってしまうので,ここは相撲に限定する。舟橋聖一は,わたしの記憶に間違いがなければ(調べればすぐにわかることなのに,横着を決め込む),第二代の横綱審議委員会の委員長である。こういう人は滅多に現れないが(相撲との関係の深さという意味で),横綱審議委員会の委員になったり,少なくとも委員長になるような人は,相当に深く相撲の知識(主として歴史)をもち,相撲界に通暁し,かつ,とどまるところを知らぬ相撲への「愛」をもった人でなくてはならない,とわたしは固く信じている。が,まあ,これほどの人はこんごも現れないにしても,この人に準ずる人を選び出してほしいものである。
 『相撲記』(講談社文芸文庫,2007年)は,もともとは同じ書名で1943年6月に創元社から刊行されている。敗戦直前にこのような本を書いていることに,まずは驚きを禁じ得ない。もう,この時代になると,多くの作家は,戦記物を書いたり,戦地で戦う兵隊たちを激励するために動員され,慰問のために忙しく立ち働いていたはずなのである。が,そうした情況をきちんと見極めた上で,超然として相撲の世界を回顧していた舟橋聖一とはどういう人だったのだろうか,といつもおもう。戦争をそれとなく忌避しながら,愛国の精神を相撲をとおして表明しようとしていたのだろうか,と。あるいは,いつ戦災に合って死ぬかもしれないという覚悟の遺書のつもりだったのだろうか,と。と,そんなことも考えながらこの本を読んでいると,いかようにも読めるように書かれている。その懐の深さに,そこはかとなくつたわる孤独感を分けもつこともできる。
 さて,この『相撲記』の冒頭に,つぎのような話が書き込まれている。
 「昔,私の母の家は,両国橋を渡って,すぐ左側の,藤代町というところにあった。母の通った江東小学校が,恰度(ちょうど)今の,国技館の建っている所で,当時は,小屋掛の相撲場がこの江東小学校に隣接していた。相撲場の方で,大喝采が起ると,小学校の授業が妨げられる程であった。先生までが,教壇を下りて,窓から顔を出し,どっちが勝ちました。朝汐ですか,大達(おおだて)ですか,と訊かずにはいられなかった。生徒たちは,休憩時間には,必ず,小屋のまわりに集まって,むしろの隙間から,相撲場を覗き見た。母もその一人であった。裏木戸から,見物の中途で外へ出るときは,手の甲に,判を押して貰うと,又,中へ入れるきめだったので,生徒たちは,裏木戸に頑ばっている年寄と顔馴染になっては,手に判を貰って,木戸をフリーパスした。」
 「明治四十二年に,待望の国技館が建った頃には,母は結婚していた。私が生まれ,既に六歳であった。藤代町からすこし離れた横綱町に,新居を持った。」
 「友綱部屋と私の家とは何しろ,巾二間半程の往来を隔てた向かい合いであったから,取的(とりてき)たちがよく入れ替わりに遊びに来たので,私も相撲取を何とも思わないようになった。中には,私を肩車にのせて,ひょいと浅草あたりへ遊びにつれていってくれるものもいた。大掃除のときなどは,取的が二三人は手つだいに来てくれたから,畳でも箪笥でも,片っぱしから,運び出してくれて,力のある手で,拭いたり掃いたりしてくれた。十五六の,弟子入りしたての,散切り頭の少年力士達の姿もよく見かけた。彼らはいつも,血を出していた。猛稽古のために,生創が絶えないのであった。」
 こんな話を切り出しに,次第に,相撲の世界の機微に分け入っていく舟橋聖一の筆は,ますます冴えていく。しかも,相撲に寄せる愛情でいっぱいである。こよなく相撲を愛した人,子どものころから(いや,母の胎内に宿る前から),相撲を空気のようにからだいっぱいに吸い込みながら誕生し,育った。しかも,小さな子どもだったころから可愛がってくれた関取「寒玉子」(ちょっと珍しい力士名)を贔屓にしていた芸者さんに抱き抱えらて,あわてて逃げ出したことまで記している。つまり,舟橋聖一は生まれながらにして相撲界とともに生きてきた人なのである。言ってしまえば,相撲界の「内部」の人。「内在性」をともに分け合って生きていた人。だから,相撲界の裏も表も知り尽くしている。こういう人が横綱審議委員となり,委員長になることに,相撲界はなんの抵抗もない。少なくとも,近頃,話題になる「外部委員」とは,まるでレベルが違う。
 いま,舟橋聖一にもっとも近い人は,わたしの知るかぎりでは新田一郎さん。子どものころから大鵬に憧れ,将来は大鵬のいる部屋に入門して力士になることが夢だったという。その新田さんは,長じて,東大に入学。迷わず相撲部に入部。学生力士として活躍。そして,いまも,東大相撲部の監督として,まわしを締めて学生と一緒に土俵に立ち,稽古している,という。東大法学部教授。著書に『相撲の歴史』ほか,がある。この本もまた名著で,わたしの愛読書の一つ。やはり,「外部」の人が書く「相撲の歴史」とは,その「愛」という点でまったく次元が違う。
 新田さんは,もともとは日本史を専攻した人で,しかも,中世史(法制史)が専門だという。だから,「相撲の歴史」にとっては,まさに,うってつけの書き手である。最近,『相撲のひみつ』(朝日出版社)という本を書き,話題となっている。いわゆる初心者向けの入門書である。わかりやすいイラスト入りの,なかなか楽しい本である。しかし,相撲に関する基本的な,大事なことはすべてきちんと書き込まれている。ちょっとした相撲の知識を確認するには便利な本。そして,くり返すが,相撲に寄せる「愛」がある。
 この本の「はじめに」の書き出しの文章はこうである。
 「相撲は好きですか?」
 「相撲を取るのは,好きですか?」
 そして,「おわりに」の最後のところには,奥さんを相手に四つの組み方,押しの型,おっつけ,しぼる,はず,などの技の手ほどきまでして,土俵の上で熱戦を繰り広げる力士の気持ちを理解させることに成功した,と書いている。新田さんもまた,相撲は勝ち負けではない,相撲内容をじっくりと鑑賞することだ,と述べている。ここを見届けて,わたしは,素直に新田さんのファンになりました。やはり,一流は違う,と。
 ついでに,便乗してコマーシャルを。いま,書店に並んでいる『嗜み』(文藝春秋社)という季刊雑誌の「書評」のコラムで,短い文章をわたしが書いていますので,ぜひ,ご笑覧のほどを。図に乗って,もうひとこと。この本の編集担当者は,メールで「気持ちの籠もった書評をありがとうございました。著者の新田さんもさぞや喜ばれることとおもいます」と書いてくれた。わたしの背中に羽が生えてきて,空をも舞いたい気分である。
 こういうありがたいおことばも無駄にしてはなるまい。折角のチャンスをいただいたとおもって,しばらくの間,時間をみつけて,相撲のことを考えてみたいとおもう。いま,マスコミを賑わしている話題ではなくて,相撲とはそもそもなにであったのか,そして,それぞれの時代や社会を生きる人間にとって相撲とはなにであったのか,ひいては,こんにちという時代・社会を生きるわたしたちにとって相撲とはなにか。さらには,21世紀を生きていく人間にとって相撲とはなにか。人間の存在の仕方が,ますます「事物」(ショーズ)と化していく時代にあって,生身の肉体をまるまるさらけ出して,気合十分に土俵の上で雌雄を決すること,このことのどこに人びとは感動するのか,その感動の意味内容はなにか,わたしの大好きなテーマである。やはり,「内在性」への回帰願望なのだろうか。ニーチェ流にいえば,「永遠回帰」。そこには,現代社会を生きるわたしたちが,遠いどこかにおき忘れてきてしまった,大事な宝物があるようにおもう。と同時に,それこそが,おそらく人類が抱え込んでしまった最大の難題でもある,とわたしは考えている。さて,この謎解きやいかに。
 

2010年8月2日月曜日

いま,ちひろ美術館です,という暑中見舞いがとどく。

 年々,暑中見舞いなるものが激減している。ことしは,まだ,3通のみ。その3通目にとどいた暑中見舞いが「いま,安曇野のちひろ美術館にきています」というものだった。
 もちろん,ちひろの絵はがきで。「カーテンにかくれる少女」。画面の8割はブルーのカーテン。それも,ただのブルーではない。いかにもちひろらしい工夫の結果のブルー。眼の覚めるようなブルー。これだけで,安曇野の涼しい風と空気を運んでくれる。清涼感でいっぱい。そんなブルーのカーテンにかくれている少女の顔と赤い靴下をはいた足だけが,ちらりとみえている。残りの空白は,淡い,ほんとにあるかないかの,かすかな紫。しかし,この少女,どこか寂しげだ。絵はがきの説明を読んでみると,『あめあがりのおるすばん』という絵本からの抜粋とある。なるほど。おるすばんしている少女なんだ。だから,どことなくつまらない,寂しいまなざしをやや下にむけて,なにかを見つめている。
 早速,東京のちひろ美術館へ行ったときに買ってきた『ちひろBOX』(作品280点余を収録)で調べてみた。あった,あった。送ってくれた絵はがきは,カーテンにかくれている少女だけをズームアップして,編集してあることがわかった。実物は,横長の大きな画面で,絵はがきになっている部分は全体の四分の一に相当する。そして,少女の寂しげなまなざしのさきには,黒い電話(むかし風の)が,どこかから引っ張りだしてきて,長い電話線を伸ばしたまま,部屋の真ん中に無造作においてある。たぶん,この電話に「帰るよ」コールがかかってくる約束なのだろう。まだ,かかってこない。あまりに遅いので,じゃあ,隠れてしまおう,と思いつく。カーテンの陰に隠れてみたものの,電話も鳴らない。寂しくなって,早く電話が鳴らないかなぁ,でも,隠れていよう,という迷いの表情が少女の顔になっている。みごとである。
 画面の右上の隅っこには,白いネコが退屈そうに寝そべっている。絵本では,見開き2ページにわたって一枚の絵が独占している,そうだ。左側のぺージの半分に,この絵はがきの,カーテンにくるまっている少女が位置していることになる。それ以外は,電話と白ネコが小さく描かれているだけ。あとは,全面,余白である。この全体を眺めていると,少女の寂寥感がひしひしとつたわってくる。ちひろの,じつにきめ細かな演出と編集のうまさが,この絵のなかにもみごとに表現されている。やはり,ちひろは天才だ。
 と感心していたら,そういえば,松本猛さんが長野県知事候補に立候補していて,いま,選挙戦の真っ最中であることを思い出した。ちひろさんの一人息子である。ちひろの絵の男の子のモデルとしてもよく知られているとおり。父上は松本善明さん。元衆議院議員。東京から立候補して,早くから当選し,活躍した代議士。共産党のいけめん青年として登場した。そのご子息だから,さてはて,選挙の結果やいかに。新聞などの情報では,元副知事二人が,民主党と自民党の二手に分かれて,全面対決の姿勢だという。どちらの党も,全力を挙げて,選挙戦を繰り広げていて,互角だという。しかし,この元副知事さんは,いずれも東京出身の人。松本猛さんだけが地元長野県の育ちで,いまも,地元のいくつもの美術館の館長さんとして活躍している。安曇野あたりの地元の人たちの声では,やはり,長野県人がいい,と。でも,いわゆる組織票はみんな,民主党か自民党に流れていくそうで,問題は,浮動票のゆくえがどうなるか,だそうだ。意外に三等分されて,僅差で,好運をつかんだ人が当選するのでは・・・とわたしなどは勝手に想像している。こころのどこかに,松本猛さんが知事になったら,ちょっと面白いのではないか,とおもったりしている。いわゆる政党の手垢にまみれていない,アーティスト的な純粋さで,まったく新しい県政をリードしてくれるのではないか・・・と。民主党がなっても,自民党がなっても,長野県の県政は大して変わらない。漁夫の利を,松本猛さんがうまく拾うことができるかどうか。
 などと,こんなことまで考えさせてくれた,今日の絵はがき・暑中見舞いでした。
 わたしのブログも読んでくれていて,わたしのちひろ好きを知っていて,その上で,この絵はがきを選んでくれたのだろう,と想像する。そのこころ配りが嬉しい。
 そうだ,また,いつか,たったひとりで,安曇野のひちろ美術館を尋ねてみたい。そして,まる一日,あの美術館の外にある庭園もふくめて,のんびりと鑑賞してみたい・・・・秋がいいかなぁ,周囲の山々が紅葉するあたりにでも・・・・。あの広々とした美術館のまわりの芝の上にでも寝ころんで,大地に沈み込んでいくか,それとも大空に吸い込まれていくか,大自然のなかにとろけてしまうような,あるいは,そうではない別の内在性の疑似体験のようなものでもしてみたいものだ。
 こんなことを夢見るだけで「幸」せになる。ありがとう。「幸」。

2010年8月1日日曜日

ポストモダンという時代はあったのか,いまなのか,それとも幻想なのか。

 ある必要があって,ポストモダニズムということを考えている。大急ぎで,いろいろの参考文献を読み漁ってみる。諸説あって,さて,困ったというところ。
 その前に,ポストモダニズムということばがあるくらいだから,ポストモダンという時代があるはずである。それは,もうすでに過去のものとなってしまったのか,それとも,いまがそうなのか,あるいはまた,たんなる幻想だったのか,といろいろ考えてしまう。わたし自身は,もうずいぶん前に,この問題を考えたことがある。そして,考えに考えた末に,ポストモダンを「後近代」と呼ぶことにした。それは,スポーツ史の時代区分をどのようにしようか,と考えてのことだった。つまり,スポーツとはなにか,という問いに対して歴史的に応答するとすれば,それなりに時代区分をして,それぞれの時代のスポーツの特質を語ることによって,その違いが明確になるのではないか,と考えたからである。
 その当時は,近代スポーツとはなにか,というわたしの中での大きな問いがあった。近代スポーツの特質とはいったいどういうものなんだろう,とその答えが欲しかった。そこで考えたのが,当時,盛んに議論されていた「ポストモダン」とはどういうことを言うのだろうか,ということだった。で,調べてみると,1950年代にすでに建築の世界で,直線的で,合理的な,無機質な建築から脱皮して,もう少し人間味のある,人間の側に立つ建築をめざそう,という人たちが現れた,という。
 たとえば,ユーゲント・シュティルと呼ばれるような建築様式が登場する。ウィーンにはフンデルトヴァッサー(日本語の「百水」という号をもっていて,それをドイツ語訳して,それをアーティストとしての名前にしていた)が設計し,実際に住んでもいたというアパートがある。いまは,一部,美術館になっているが,いまでも,一般の市民がそこで暮らしている。とてもおしゃれな,曲線を多用した,住み心地のよさそうなアパートである。
 画家でいえば,クリムトやエゴン・シーレなどと同時代の人である。この人たちの絵もまた,それまでのモダニズムの追究した絵とはことなる,明らかにポストモダンを切り開くものであった。いまでも,人気抜群の画家たちなので,日本にもかなりよく紹介されているとおりである。エゴン・シーレの描く人物像などは,ほとんど写実とはほど遠い,壊れたような人物であるにもかかわらず,写実以上につよく訴えてくるものがあるから不思議だ。とくに,エロティシズムに関しては驚くほどの描写力をもっている。これがポストモダンの絵画であるといわれれば,なるほど,とうなづくしかない,それほどの説得力をもっている。
 絵の絡みでいえば,岡本太郎の絵画・彫刻も,ポストモダンを意識した典型的なものだと言っていいだろう。大阪万博の折に制作した「太陽の塔」はいまも会場跡地に健在である。フランスに留学中に,シュール・レアリズムの洗礼も受けたし,ジョルジュ・バタイユの組織する社会学研究会にも参加し,そこで遊びの研究で知られるカイヨワとも接触をもっていたことを考えれば,まさに,ポストモダンを代表するアーティストのひとりであったと言っていいだろう。
 文学でいえば,ジェームス・ジョイスやプルースト,という具合にいくらでも名前を挙げていくことはできる。パタイユの初期のころにペンネームで書いた『眼球譚』や『マダム・エドワルダ』などの小説も,言ってみれば,ポストモダンを先取りする作品だった。
 このようにして,あれこれ考えを巡らせていると,なんとなくポストモダンという時代がイメージ・アップされてくる。しかし,このポストモダンという時代は,モダンという時代を超克して,まったく新しい時代を切り開いたのかと問えば,そうではない。モダンという時代の論理や制度や組織は厳然として支配していて,その間隙を縫うようにして,モダンのはらんでいる諸矛盾を批判し,そのアンチ・テーゼを提示したにすぎないのだ。だから,それをポストモダンと呼んでいいのかどうなのか,そこに大いに疑念をもっていた。
 とりわけ,スポーツ文化にあってはポストモダンは,あったのか,あるのか,たんなる幻想なのか,と考えた。たしかに,近代競技スポーツが過剰な競争原理のもとで奇形化し,競技会そのものがビッグ・イベント化して,ついには経済原則に乗っ取られてしまう,という現象を目の当たりにしたとき,これは異常である,とだれもが考えた。そして,そこから脱出するためのアイディアがいくつも提示された。しかし,いずれも大きな運動にはならなかった。むしろ,体制側のモダニズムの原理・原則がますます肥大化し,スポーツの世界を圧倒している,というのが現状であった。その点は,いまも,ほとんど変わらない。それどころか,ますます,モダニズムの勢いは増すばかりで,優勝劣敗主義が社会の論理にまで,無意識のうちに浸透している,というのが現状だ。新自由主義の恐ろしさにも鈍感になってしまい,勝ち組・負け組などと呑気なことを,平気で鵜呑みにしている。むしろ,近代競技スポーツの論理が,そのまま,人びとの無意識のなかにまで浸透し,社会の仕組みにまで入りこんで,平然と大通りを闊歩しているかのようにみえる。ここには,ポストモダニズムの影も形もみられない。
 では,いったいポストモダンとはなんなのか。スポーツ文化にとってポストモダンとはなにか,と真剣に考えた。そして,スポーツ史という学問の枠組みから考えると,モダンの前にプレ・モダンがあって,モダンの後にポスト・モダンがある,という単純な理論仮説を立てることができる,とひらめいた。しかし,ポストモダンということばをそのまま,スポーツ史研究に持ち込むことには抵抗があった。そこで,プレ・モダンが一般的には「前近代」と訳されているのだから,ポストモダンを「後近代」と訳したっていいではないか,と考えた。しかも,ポストモダンということばは,すでに述べたように,建築やアートの世界では使い古され手垢にまみれていて,それなりの歴史性を帯びているが,スポーツの世界にはポストモダンのかけらもみられない。だとしたら,まったく新しい概念を賦与したことばを作ろうと考えた。その結果,考えついたのが,さきほどの「後近代」という,直訳そのままである。そして,スポーツ史でいうところの「後近代」は,まだ,存在しない。しかし,近代スポーツとはなにか,と問うときのアンチ・テーゼとしての「後近代スポーツ」を理論仮説として想定することはできる。そうして,前近代と後近代にはさまれたところに位置づく近代,および,そこで成立している近代スポーツとはなにか,と問うことができる。つまり,近代,および,近代スポーツを浮き彫りにするための概念装置として「後近代」という,架空の時代を設定することはなかなか有効ではないか,と考えた。
 だから,わたしの言う「後近代」は実際には存在しない,という前提である。世にいわれているポストモダンとは一線を画しているつもりである。しかし,そのことを確認することもしないで,勝手に混同して,稲垣の言っていることは奇怪しいという批判が,裏でなされているとも聞く。わたしにとっては,あるいは,スポーツ史という観点に立てば,ポストモダンは存在しない。たんなる理論仮説としての概念装置にすぎない。
 Nさんにそれとなく聞いてみると,わたしはポストモダンということばはできることなら使いたくないですね。あえて言うとすれば,ウルトラ・モダンかなぁ,とおっしゃる。なるほど,とわたしは納得である。モダンはますます勢いを増して,もはや,手のつけようがない(これはわたしの解釈)。とっくのむかしに古き良き時代のモダンを通り越してしまっているが,それでもなお,その路線は立派なモダンの延長線上にある。だから「ウルトラ・モダン」か,と。
 スポーツ文化の現状をみるかぎり,ウルトラ・モダンのスポーツ文化が花盛りである。しかし,スポーツ史という研究を,もっと際立たせるために,あるいは,エッジに立って考えるためには,まだ来ぬ「後近代」という時代をあえて設定して,近代・近代スポーツの特質を浮き彫りにしたい,といまでもわたしは考えている。
 さて,これからの,21世紀を生きていくわたしたちにとって,スポーツ文化とはなにか,それをささえるスポーツ思想とはどのようなものなのか,そのことと「ポストモダニズム」はどのようにリンクしているのか,考えなければならないことは延々とつづく。でも,こういうことを考えるのはじつに楽しいことではある。