2014年3月31日月曜日

「自己を超え出た」浅田真央選手。こんごの進退は五分五分だという。その真意は?

 浅田真央選手が変わった。ソチのときの浅田真央選手とも違う,まったく新しい姿の浅田真央選手が誕生した,というようにわたしの眼には写る。なにかもやもやしていたものが吹っ切れた,そんな感じである。わたしの好きなことばで言えば「自己を超え出た」のだろうと思う。厚く,重い壁を突き抜けて,まったく新しい地平に飛び出した,そんな印象である。だから,いまは,あらゆる呪縛から解き放たれて,スカッとした爽快な気分ではないかと思う。


 今回のワールドカップ埼玉大会は浅田真央選手が,まったく新しい境地に到達した,そんな大躍進の場であった,と思う。


 第一に滑りが変わった。緩急のめりはりのある,伸びやかで柔らかく,それでいて力強い滑り,ときには観客をぐいっと惹きつける所作もみせる。その瞬間,思わず息を飲む。こころの余裕といえばいいだろうか。なによりも浅田真央選手自身がこころの底から愉しくて仕方がないと思っているに違いない。そんなものが伝わってくる。そう,オーラが出始めたのだ。


 第二に,インタヴューに対する応答の仕方が変わった。これまでは,自分が超えなくてはならない課題の話が多かった。そして,その課題を克服すべく頑張る,と。これはこれで誠実な応対で,好感がもてた。彼女の一貫した誠実さ,素直さ,そして賢い応答の仕方は,これまでもみんなに親しまれてきたとおりである。しかし,ワールドカップで変わった。自己のなかに,「自己を超え出た」自己を見出したのだろうと思う。だから,自己を対象化して,あるいは,突き放して,第三者的に語ることができるようになってきた。それはまるで哲学者の語りである。


 彼女は,これまでどおりさりげなく語っているので,気づかない人も多い。しかし,気づく人は気づいている。昨日の研究会のあとの二次会で,今福さんとこの話になった。今福さんは「これまでと違う浅田真央選手の語りがでてきた」と仰る。そして「自分をじつに冷静に分析して語る」,このことに気づいて驚いている,と。わたしも「まったく同感です」と意気投合。こんごどうするんだろう,と今福さんは彼女の引退を気にしていた。わたしは「さあ」と言ってお茶をにごす。


 しかし,わたしの回答は決まっている。彼女が「ハーフ&ハーフだ」と言ったときから,あっ,これは「引退」だな,と直感した。なぜなら,現役の意欲に燃えているアスリートが五分五分ですなどというはずがない。こう言った時点で,浅田真央選手のこころは決まっている,とわたしは受け止めた。しかし同時に,「引退」の二文字を公言できないなんらかの事情がある,とも感じた。これも直感でしかない。が,わたしの中では確信に近い。


 それは,その後のインタヴューでも,次第に明らかになってきた。
 たとえば,「世界でわたししかできないトリプルアクセルを成功させることができました。これが,長い間の夢であり,目標でした。ですから,いまはその達成感でいっぱいです」と。だから,「いまは,つぎの目標がありません」ともいう。そして,「また新しい意欲が湧いてくるかどうか,そこが分かれ目になるでしょう」とも。


 こういう応答の仕方を聞いていて,わたしは「ああ,やはり,突き抜けてしまったなぁ」と思う。じつに冷静で,少しの曇りもない,透明な視線で自己をみつめ,分析してみせる。しかも,自己をみつめる「まなざし」は相当に深いところに達している,とわたしは直感する。そして,彼女には自己がどのような状態にあるかは,すっかりお見通しだと思う。しかし,そこのところの本音はぐっと禁欲的に抑えている。みごととしか言いようがない。


 わたし自身は浅田真央選手の「引退」に異存はない。これまですでに数々の感動の場面に立ち会わせてもらってきた。そのつど,彼女は精一杯ぎりぎりの努力を積み上げ,新しい自己を見出し,磨きをかけてきたのだ。そして,そのフィナーレとも言うべき,今シーズンのソチ五輪からワールドカップにかけての,フィギュアスケート選手としてのクライマックスを迎えた。その晴れの舞台でなし遂げた浅田真央選手の「集大成」とも言うべきスケーティングに立ち会うことができた。それだけで大満足である。


 しかし,どこかに「引退」してはならないというようなプレッシャーをかけている人びとがいるらしい。これは単なるわたしの憶測であり,同時に確信である。簡単に言っておこう。浅田真央選手で「一儲け」しようと企んでいる連中がいるということである。大きな大会が終わったので,これから露骨な駆け引きが水面下で展開されることになるだろう。そことの闘いが浅田真央選手を待ち受けている。あとは,浅田真央選手をとりまく「大人たち」がどう判断するかだ。その「大人たち」のひとりは橋本聖子会長である。連盟にとっては最大の金づる。そんなにかんたんに「引退」してもらっては困るのである。


 まあ,あまり根拠のない憶測を書いても仕方がないのでやめておこう。でも,「五分五分です」と浅田真央選手が苦衷を吐露する背景には,もっとドロドロしたものがありそうだ。それらはそのうち週刊誌あたりが取り上げて騒いでくれるだろう。


 でも,浅田真央選手には自己の信ずる「わが道」をまっすぐ進んで欲しい,とわたしは念じている。そして,それが実現することを。いまは猶予の時間。熟慮を重ねているふりをするためにも時間をかせぐことは必要である。でも,結論に妥協は不要である。



2014年3月30日日曜日

「今福龍太氏を囲む会」(第81回「ISC・21」3月東京例会),盛況。濃密な時間。みなさん大満足。

 長い準備を経て,満を持して「今福龍太氏を囲む会」(第81回「ISC・21」3月東京例会)を開催しましたところ,いつもにも増して多くの方々が参加してくださり,とてもいい会となりました。会場をお借りした青山学院大学のキャンパスの桜もすでに八分咲き。「春宵一刻値千金」ということばが口をついてでてくるような,とてもいい雰囲気が漂い,密度の濃い時間を過ごすことができました。これも,ひとえに今福さんのお蔭です。今福さんの「多木浩二」さんに寄せる熱い思いが,わたしたちにもおのずから伝わり,それが隅々まで浸透した結果です。ウィーンでは「gemuetlich」(居心地がいい)ということばが最高の賛辞としてよく用いられます。そんな居心地のよさをみんなが共有しながら,今福さんの熱のこもったお話に集中して耳を傾けることができました。そういう場を醸しだしてくださった今福さんに感謝しつつ,参加されたみなさん全員にもお礼をいいたいと思います。上質の時間を共有することができ,ほんとうに,ありがとうございました。


 「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)の月例会では,1月に大阪で,2月に奈良で,それぞれ今回の「今福龍太氏を囲む会」のための事前のディスカッションを重ねてきました。それを前提にした今回の研究会でした。ですから,今回とりあげられたテクストについての予習は十分だったと思います。それだけに,今回の今福さんのお話は,なお一層,こころに沁みたことと思います。なぜなら,わたしたちの知らない「多木浩二」さんの秘話まで,今福さんは惜しげもなく披露されました。しかも,それらがすべて多木さんの思想・哲学の深いところまで触手が伸びていくような,今福さんでなくてはできないお話ばかりでした。


 この研究会に臨む今福さんの姿勢は,いつもにもまして迫力を感じました。それは,自作の映像をはじめ,A4に5枚ものレジュメを準備され(全部,ご自分でパソコンに入力),それらを満遍なく,丁寧にお話くださったからです。終了予定時間を予告しておきましたが,そんな時間などどこ吹く風とばかりに,多木浩二さんに寄せる思いのたけをわたしたちに投げかけてくださいました。お二人の関係がどれほど濃密なものであったのか,ということが皮膚をとおしてつたわってきました。ちょっとふつうではありえないような,奇跡的,あるいは特例としかいいようのない,天啓にも似た出会いと対話がお二人の間には存在していた,ということです。しかも,長い期間にわたって。それは単に住まいが近かったというだけの話ではありません。


 かつて,山口昌男さんの追悼集会のシンポジウムの折に,「わたしには学恩を受けた師と呼べる人が3人います。そのお一人が山口昌男さんでした」と今福さんが述べられたことがあります。そのとき,他のお二人の名前は仰られませんでした。あとお二人はどなたなのだろう,とそのとき考えました。そのときに,まっさきにわたしの脳裏に浮かんできた人の名は多木浩二さんでした。それが間違いではない,ということは今回のお話ではっきりしました。


 そういう思いで今回のテクストとなった『映像の歴史哲学』(多木浩二著,今福龍太編,みすず書房)を,もう一度読み返してみました。すると,このテクストは,今福さんがかなり入念に構想を練り,満を持して世に送り出した「多木浩二追悼本」である,ということがわかってきました。ですから,このテクストの細部にいたるまで,隅から隅まで,多木浩二理解のための仕掛けがほどこされています。それが,たとえば,エピグラフの「歴史の天使」(この詩文の美しさ,深さ,簡潔さ/完結さ,は驚嘆に値します)であり,脚注のつけ方(これもふつうの脚注ではありません。すべて,多木さんの著作からの引用で構成されています。それはベンヤミンの『パサージュ論』の発想を持ち込んだものと受け止めることも可能です),本文の間に挿入された「コメント」(これが多木浩二理解にどれほど役立っていることか),そして「後記」の最後に盛り込まれた逸話(わたしはこの部分を読んで涙しました),などがあります。


 今回の今福さんのお話は,いずれテープ起こしをして,編集の手を加え,『スポートロジイ』第4号(来年春刊行予定)に掲載する予定です。ご期待ください。


 それでは,今回はここまで。

2014年3月29日土曜日

アメリカの大学運動選手は「従業員」?労組結成を認める決定。

 今日(3月29日)の「東京新聞」にびっくりする記事が載っていました。
 アメリカの大学運動選手は「従業員」であり,「労働組合結成を認める」という決定を出した,というのです。詳しく書くと以下のようです。まずは,記事をそのまま転記しておきましょう。


 〔ワシントン=斉藤保伸〕米政府の独立行政機関である全米労働関係委員会は二十六日,イリノイ州の名門ノースウエスタン大学アメリカンフットボールチームの選手らに対し「従業員であり,労働組合結成を認める」との決定を出した。複数のメディアが伝えた。学生スポーツの選手を「従業員」として位置付ける判断として注目を集めている。
 選手らは一週間に五十時間アメリカンフットボールに「従事」した事例などを掲げ,組合を結成することでより手厚い健康保険や脳震とうの検査,奨学金の充実を求め,大学側と交渉ができるよう訴えていた。
 これを受けた委員会は選手らが試合に出場することなどで数百万ドル(数億円)を稼ぎ出し,大学から奨学金を受けていたことから,「従業員」である十分な証拠があると認定したという。ウォールストリート・ジャーナル紙によると,大学側は反発し,不服を申し立てる方針という。


 以上です。
 この記事をみなさんはどのように読まれるのでしょうか。
 わたしの感想は以下のとおりです。


 とうとうここまできたか,というのが結論です。
 つまり,大学スポーツは「労働」なのだ,と。もっとも,プロ・スポーツが「労働」であることはつとに承知しています。が,大学という教育機関で行われているスポーツもまた「労働」であるという判断を下さなくてはならないところにアメリカの現状はきている,というのです。これがアメリカの大学スポーツの現実である,というわけです。


 しかし,よくよく考えてみれば,日本の大学スポーツもまた大同小異にすぎません。そのうち,日本の大学スポーツの選手たちも「従業員」と判定され,「労働組合」の結成が認められるようになるのも,そんなに長い時間を必要とはしないでしょう。


 こういう情報に接しますと,いよいよ「スポーツとはなにか」という根源的な問いを発しなくてはならない,と痛切に感じます。ついこの間までは,大学以下の教育機関で行われるスポーツは「教育」の一環として認知され,それなりの節度が守られてきました。もっとも,スポーツを教育の一環として位置づける考え方そのものも,すでに,いろいろの矛盾が露呈してきていて,ほとんど意味をなさなくなってきているのも事実です。


 その根底にあるものは,スポーツの商品化であり,人間の「モノ化」である,とわたしは考えています。つまり,人が「生きる」ということの意味を,多くの人が忘れてしまって,目先の欲望を満たすことに戦々恐々としている,この現実をどう考えるか,という問題です。市場経済が浸透し,いろいろのものを「商品」として取り扱い,人間はその恩恵に与ってきたつもりが,いつのまにか人間そのものが「商品」と化してしまっていることに気づいていない,ここに大きな問題がある,という次第です。


 カネさえもらえれば,命を犠牲にすることもいとわない,と平然と言ってのけるトップ・アスリートは少なくありません。ドーピング問題の根底には,人間であるはずのトップ・アスリートたちの,わたしたちの常識では考えられないような「意識の変化」が横たわっています。金メダルをとるためのドーピングはいとわない,と。


 この意識の変化は,「経済発展のためには原発再稼働もやむをえない」とする人びとの「命軽視」の考え方に通呈するものがあります。このことは,だれが考えても「本末転倒」であるのに,そのことに思いをいたそうとはしません。


 すべては「カネ」の世の中。こんな時代がいつまでつづくというのでしょう。
 オリンピックもまた「マネー・ゲーム」の最先端を走っています。もう,破綻(カタストーフ)まで秒読みに入っているというのに・・・・。


 とまあ,とんでもないところまで脱線してしまいましたが,でも,これらはすべてひとつの糸でつながっています。人間の盲目的欲望のなせる業です。いつになったら懲りるのでしょうか。茹でカエルは気づいたときには,もう,からだが動かないといいます。はたして,現代の人間やいかに。



2014年3月27日木曜日

「横綱の名を汚さぬよう,一生懸命努力します」(横綱鶴竜口上)。いいですねぇ。完璧。

 Simple is the best.




 さすが鶴竜ですねぇ。どんな口上になるのだろうかと楽しみにしていましたが,ここでも「平常心」を貫きました。それでいてどこにもスキがありません。完璧です。余分なことは一切言わず,さりとて言うべきことはきちんと言って,みごとな決意表明になっています。この口上に,鶴竜のすべてが凝縮している,とわたしは受け止めました。そして,感動しました。


 大関になったときの口上は以下のとおりです。
 「これからも稽古に精進し,お客さまに喜んでもらえるような相撲を取れるよう努力します」でした。じつに素直に自分の気持を表出させたみごとなものでした。このときの感動はいまも忘れることができません。そのことについては,このブログにも書いたとおりです。


 そして,横綱になったときの口上は以下のとおりです。
 「これからより一層稽古に精進し,横綱の名を汚さぬよう一生懸命努力します」でした。鶴竜の選んだ四文字熟語は「一生懸命」でした。このことばを知らない日本人はいません。そのもっとも分かりやすい,しかも鶴竜自身にとってもっとも大事な「座右の銘」を口上に盛り込みました。16歳で日本にやってきて,このことばの意味を覚えたときから,つねにこのことばを支えにして,入門からこんにちまで厳しい稽古に耐えてきました。つまり,鶴竜にとっての横綱口上は,これまでの生き方をそのまま延長させていく,その決意表明をしようという気持の籠もったものになった,ということなのでしょう。そして,それしかないという究極の選択でもあったというわけです。


 ここにも,鶴竜がつねづねことばにするもうひとつの座右の銘「平常心」がそのまま表出しています。火のように燃える情熱をこころの奥深くに秘め,ふだんの顔は童顔のままニコニコと笑い,土俵の上では明鏡止水を思わせるような静かな表情をみせ,そして,ときには込み上げる感情を押し殺した哀しげな表情もちらりとのぞかせる(千秋楽で琴奨菊を寄り切ったときの顔,北の湖理事長から優勝賜杯を受けとったときの顔,優勝インタヴューの途中でちらりとみせた感極まったときの顔,など)。さらに極めつけは,鶴竜の細い眼。これは,かれの内面をいっさい押し隠したまま,なにを考えているかも相手には察知させない,まさに勝負師のまなざし。それだけにニコッと笑ったときの童顔が印象的。これもまた「あるがまま」。


 多くの先輩力士たち(寺尾,旭天鵬,など)が証言するように,「あいつは最初に会ったときからいままで少しも変わってはいない。むかしからもの静かで,邪魔にならない。それでいてとても気配りのできる優しいこころの持ち主。しかも,稽古はだれにも負けないほど気持をこめて熱心に取り組む。いい奴ですよ」,と。言ってみればだれからも愛される人格者。


 爪先立ったところがどこにもありません。つねに,あるがまま。それでいて,いま,なにをしなくてはならないのか,をじっくりと考え,それをコツコツと実行していく。そして,自分の納得できる方法で「自己を超え出ていく」ための努力を惜しまない。それが鶴竜のいう「一生懸命」なのでしょう。まことに地味な存在ですが,そこにはだれも真似のできない,自律/自立した力士の立派な姿が浮かび上がってきます。


 「理想とする横綱像は?」と聞かれ,鶴竜はそっけなく「自分は自分ですから」と肩すかしをくわせた上で,「ほかの力士から尊敬される存在になりたい」とことば少なに応答しています。すでにして,鶴竜は世俗の関心事には眼もくれず,みずから求める力士の理想像を思い描き,そこに向かってまっしぐら,という印象を受けます。そこにみえてくるのは,まさに「求道者」の姿です。


 その意味で,これまでの横綱とは一味違う,まったく新たな横綱の誕生をわたしは予感しています。もちろん,まだ,多少の浮き沈みはあるでしょうが,やがては,もう一回りも二回りも大きなからだと,もう一つ次元の異なる「平常心」をわがものとした暁には,もはや,だれにも負けない「大横綱」となることでしょう。いままでみたことのない立派な横綱の誕生をわたしは心待ちにし,いまから楽しみにしています。そして,鶴竜ならできる,と。


 来場所からの鶴竜の相撲に注目です。そして,その取り口が他の力士たちに与える影響を,じっくりと楽しみたいと思っています。たとえば,白鵬の相撲が・・・・・。そして,大相撲の世代交代が・・・・。こうした予言はいつかまた書いてみたいと思っています。


 とりあえず,今回は,横綱・鶴竜力三郎(本名・マンガラジャラブ・アナンダ)の誕生をこころから言祝ぎたいと思います。おめでとう!アナンダ!


 ※アナンダは,お釈迦様の10大弟子のひとりで,もっとも賢くてお釈迦様がもっとも頼りにしていた人の名前と同じです。

2014年3月25日火曜日

history はhis storyと読める。では、her story は?(今福龍太)

 29日(土)の研究会(「今福龍太氏を囲む会」)が近づいてきましたので,そろそろ研究会に向けて準備に入っています。今回のメイン・テーマは『映像の歴史哲学』(多木浩二著,今福龍太編,みすず書房,2013年)をどう読むか,にありますので,まずはこのテクストを徹底的に読み込むことからはじめています。

 しかし,このテクストを読めば読むほどに,たとえば,ヴァルター・ベンヤミンの思想・哲学をどう受け止めるか,そして,多木浩二さんがベンヤミンの思想・哲学のどこに,どのように共振・共鳴しているのか,というところに入っていかざるをえません。しかも,この二人の共振・共鳴関係の間に今福さんが割って入り,いろいろとコメントを差し挟みつつ,多木さんを挑発しつつさらなる思考の深みへと入り込もうとしています。この童心にかえったかのような「知」の戯れにも似た「からみ」のなかで,今福さんはつぎのようなコメントを付しています。

 英語で歴史を表す「ヒストリー」historyという言葉には,あたかも歴史学者による実証主義歴史学の原理を裏打ちするかのような,出来過ぎた地口を含んでもいる。すなわち「history」とは「his story」と読めるからである。たしかに公式の歴史とは男がつくってきた物語であるともいえる。統治や戦争,経済や法律も含め,歴史を構成するあらゆる権力的な要件は,たしかに男性的なロジックによって支えられてきた。男が歴史 history という公的な概念をつくりあげたのであれば,それはまさに「彼の」his「物語」storyにほかならないともいえるのである。だからこそ,フェミニズム思想はそれを転倒させて「her story」(=彼女の物語)を立ち上げようとした。このように語ることはむろん言葉の彩にすぎないが,「歴史」なる概念を批判的に読み替えるときの,それは機知ある跳躍台になりうる。(P.91~92.)

 このコメントは,多木さんが「タイタニック号」のできごとを事例に歴史を語る,その語りの巧みさに触発されて今福さんが反応したものです。多木さんは,タイタニック号のできごとは,「沈没」という「事件」として歴史にその名が残されることになったが,そのとき「溺死」した人びとの歴史は掻き消されてしまっている,と語ります。こうして,歴史はつねに「強者」の語りに終始し,「弱者」の歴史は抹消されてきた,と。そして,ほんとうの「歴史」は「溺死」した死者たちの「物語」の方にあるのではないのか,と問いかけます。そこに今福さんは「歴史」と「溺死」という「音」の近似が,ほんとうの「歴史」が「溺死」してしまうという強烈なイメージを引き寄せ,真実への覚醒をもたらす力があることに注目します。そして,つぎのように語ります。

 言葉による比喩の力には,現実というものの足かせを振り切ってイメージの真実へとたどりつく飛躍の力が秘められていることを,彼は静かに教えようとしたのであろう。(P.93.)

 さて,ひるがえってスポーツの「歴史」はどのように語られてきたのだろうか。問題意識をここに引きつけたときに,スポーツ史研究の分野ではほとんど「歴史哲学」についての議論がなされてこなかった事実に直面し,青ざめてしまいます。そこで語られてきたスポーツの歴史とはいったいなんなのか。なんのために,だれのために,なにを語ろうとしてきたのか。それはもっぱら実証主義歴史学を隠れ蓑にして,いかにもアカデミックな研究をしている「ふり」をしてきただけの話ではないのか。そして,学会もまたそれを「是」としてきました。その近代アカデミズムの虚構,つまり,実証主義歴史学が,いま,音をたててくずれ落ちようとしています。にもかかわらず,そのことに気づくどころか,ますます保身に走る研究者が圧倒的多数を占めています。まことに残念な話ではありますが・・・・。これが現実です。

 しかしながら,少なくとも,わたしたちの研究会に参加してくる研究者仲間は,そこからの「離脱」と,新たなる「知」の地平への「移動」を,はっきりと自覚して研究会を重ねています。その一環として今回は「今福龍太氏を囲む会」を企画し,さらなる飛躍の糸口を見出そうという次第です。しかも,1936年のベルリン・オリンピックを撮影したレニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』を題材にして,多木さんがベンヤミンの「歴史哲学」と共振・共鳴しながら,「映像」に秘められた「力」を読み解こうとされた『映像の歴史哲学』がテクストです。

 さて,わたしたちのささやかな,でも大まじめな「挑発」を受けて,今福さんがどのような「レクチュア」を展開してくださるのか,いまから楽しみです。そのために,残る三日間,真剣に準備をしたいと思っています。

2014年3月24日月曜日

鶴竜開眼。初優勝,おめでとう!さあ,大横綱への第一歩。

 鶴竜が開眼した。終盤の4日間の相撲は,それまでの鶴竜とはまるで別人だった。眠れる獅子が眼を覚ましたかのような,見違えるような相撲をみせた。日に日に高まる重圧をバネにして,まるでそこから解き放たれたように自在にからだが動いた。しかも力強く,理詰めに。それは鶴竜にとっても「自己を超え出る」ような体験ではなかっただろうか。


 わけても14日目,白鵬との一番。鋭い踏み込みから両手で相手の体を突き起こし,間髪を入れずに顔を突きたて,白鵬はいやがって顔をそむけてしまった。あとは両まわしを引きつけて寄ってでた。足腰のいい白鵬も残し切れずに土俵を割った。まさか,こんな相撲を鶴竜がとるとは白鵬も予測だにしなかったに違いない。これで本割で二場所つづけて白鵬を退けた。この大一番を制した鶴竜は,間違いなく相撲道のもうひとつ上のステージに飛び出した。大横綱となるための,大きな開眼である。


 12日目の日馬富士との一戦も内容的にはじつにみごたえがあった。あの鋭い日馬富士の立ち合いを封じ込めるほどの力強い踏み込みをみせた。だから,一歩も下がることなく五分の立ち合いとなった。そして,間髪を入れず右からの強烈ないなしを繰り出す。日馬富士はたまらず一回転して向き直ったときには鶴竜の充分な体勢で組み止められ,なんなく寄り切られてしまった。この鋭い踏み込みと右からのいなしは,これからの恐るべき武器の一つになりそうだ。この一番が,鶴竜開眼の第一歩だったかもしれない。


 考えてみれば,鶴竜は二場所つづけて上位陣には負けなしの全勝なのだ。一つも星を落としてはいない。この実績は素晴らしいものだ。ということは,鶴竜開眼の第一歩は先場所からはじまっていたことになる。そして,その延長線上に今場所があり,さらに磨きがかかったかのような今場所の終盤の力強い相撲の展開となった。


 この相撲にさらなる磨きがかかると,間違いなく鶴竜はこれまでにないまったく新しいタイプの大横綱になるだろう。このことを断言しておこう。


 その最大の根拠は鶴竜がモットーとして心がけている「平常心」。
 「平常心是道」。これは禅僧の心構えである。中国では老子のタオイズムのスローガンの一つとして知られる。人間の能力が最大限に発揮される状態は「平常心」だ,というのである。なにものにもとらわれない,あるがままの状態。このとき全方位的に人間の感覚が研ぎすまされるという。鶴竜はこのことを熟知しているようだ。


 ふつうにとって勝つ人が横綱なのだ。無理しなければ勝てない人は横綱ではない。と,鶴竜は語っている。「平常心」で相撲をとること。そして勝つこと。それが横綱だ,と鶴竜は考えている。そのためにこつこつと努力して稽古し,一つひとつ階段を上がるようにして,いろいろのことを身につけること,それがおのずから土俵に顕れる,相撲とはそれ以上でもそれ以下でもない,という。そして,それを実行してきた。少し時間がかかったが,そういう相撲がみごとに身についた,その証がこの二場所の鶴竜の相撲となって顕現した。


 鶴竜のいう「平常心」。それは土俵上の鶴竜の顔に表れている。あの童顔がいい。まるでちびっ子相撲の力士のようだ。勝っても負けても同じ顔をしている。ほとんど感情を顔に出さない。それでいて内には気力を秘め,自分の相撲をとりきることに全力をあげる。ある意味では勝ち負けを超越しているかのようだ。いまある力を出し切ること,そこに集中している。


 白鵬のように相手を睨み付けたりしない。日馬富士のように闘志を全面に表したりもしない。いつも,あの童顔のまま。そして,平常心を心がける。いつもあるがまま。こんな手ごわい相手はいない。まったくつかみ所がないのだから。


 まったく新しいタイプの大横綱の誕生をこころから期待したい。
 そして,来場所から鶴竜がみせてくれる相撲を大いに楽しみにしている。
 まだまだ,これから二度も三度も「化ける」可能性を秘めている力士,それが鶴竜だ。どこまで強くなるのか,期待に胸が膨らむ。


 まずは,おめでとう`! 鶴竜開眼。

2014年3月21日金曜日

『本能寺の変 431年目の真実』(明智憲三郎著,文芸社文庫)を読む。歴史は創られる,の見本。

 でっちあげられた情報であれ,単なる根も葉もない噂であれ,ある情報が流されつづけると,それはいつのまにか真実となって大通りを歩きはじめます。このことはむかしもいまも変わりがないようです。


 たとえば,NHKのニュースが安倍首相の答弁ばかりを流しつづける(質問者の顔も質問内容も伏せたまま)のも,そこにははっきりとした意図・戦略があることがわかります。一般国民は,繰り返し,くりかえし安倍首相の答弁を見聞きしているうちに(一日に何回も同じ映像が流される),その上っ面を糊塗するだけの美辞麗句にだまされ,それを信じ,それがいつしか真実となって一人歩きをはじめてしまいます。


 フクシマは「under control 」だと大見得を切った大嘘も,ものごとを深く考えようとはしない日本国民の多くはそれを信じています。「世界一厳しい安全基準」をクリアした原発は再稼働させる,そのことのどこが悪いのか,と言わぬばかりの安倍首相の記者会見も同じです。思考停止してしまった多くの国民はそれを鵜呑みにしてしまいます。そして,それが高い「支持率」となって反映されています。


 歴史はこうして「創られて」いきます。


 日本人であればだれでも知っている「本能寺の変」も,じつは秀吉が自分の都合のいいように演出をし,原作を書かせた物語がひとり歩きをして,いつしかそれが歴史的事実として定着してしまった,というのがほんとうの話のようです。時の権力者の創作に異議をとなえる人は,その当時もだれもいませんでした。本能寺の変の「真実」を知っていたはずの朝廷ですら,口を閉ざしてなにも言わなかったといいます。ですから,「本能寺の変」の「真実」を知っていて,しかもその「謀叛」に加わった当事者でもあった人が書き残した「日記」なども,秀吉の威光の前にひれ伏すようにして,のちに改竄され,差し替えられたといいます。


 専門の歴史研究者ですら,秀吉の戦略を見破ることができず(一部の記述は批判の対称になってはいても,全体としては肯定されている),それが歴史的事実としてアカデミズムをも支配している,とこのテクストの著者は力説しています。しかも,そうした歴史研究の誤り(無根拠性)を,関連するあらゆる資料を駆使して,著者は丹念に一つひとつ解きほぐしていきます。その手法を著者は「歴史捜査」と名づけ,裁判所の審議にも耐えうるだけの「証拠」を導き出し,「さあ,どうだ」と問題の所在を読者に投げかけています。


 著者の名前は「明智憲三郎」。この名前をみればだれもがお分かりのように,明智光秀の末裔。祖先の名誉をかけて,全力で,「本能寺の変」の「真実」解明に取り組んだ力作です。その結果,みえてくるのは,戦国動乱の時代を生き抜く武将たちの,底無しの「苦悩」です。お互いに同盟を結びつつ,お互いにつねに疑念をいだき,要心に要心を重ねながらの「綱渡り」的な生き方です。


 信長,秀吉,家康といった,こんにちのわたしたちからみれば歴史の中核を生きた人たちですら,つねに怯えていたのは「謀叛」でした。ですから,つねに先手,先手で手を打って,「謀叛」の目をつぶしていかないかぎり,自分の生命すら危うい状態でした。そんな最中に「本能寺の変」は起きた,ごく自然な成り行き(あるいは,偶然起きた「隙間」に吸いよせられるようにして起きた「変」)であった,と著者は結論づけます。つまり,光秀ひとりを悪者に仕立て上げた秀吉こそ,天下人になるために先手を打った,とんでもない悪者である,ということになります。しかし,だれよりも早く,わが身の保全のために「光秀悪者」説をでっちあげ,それを正当化するための「創作」を演出したところに,当時の戦国武将にはなかった異色の才覚を認めざるをえません。


 かくして,秀吉が,一旦,権力の頂点に立ってしまうと,もはや,だれも秀吉の「創作」に異を唱える人間はでてきません。それはそれはみごとなまでの力を発揮しました。他の戦国武将たちはみごとなまでの「自発的隷従」を発揮して,秀吉の傘下に組み込まれるべく全力を挙げて「奉仕」します。それが,この時代の戦国武将たちの生き延びる術(すべ)であった,という次第です。さもなければ,反旗を翻して起こす「謀叛」(クーデター)だけです。それはまさに命懸けの決起です。ですから,余程のことがないかぎり,「謀叛」は起きません。


 かくして,歴史は「創られる」という次第です。


 しかも,こうした流れはいまも少しも変わってはいない,という「事実」です。「自由」や「民主主義」が理想的な理念としてはかかげられても,現実はまことに「みじめ」な情況にあることは,日々の国際情勢や国内政治を直視すれば,だれの目にも明らかなとおりです。


 この本は「歴史捜査」という手法に名を借りた,「歴史とはなにか」という根源的な問い直しにチャレンジした力作であり,名著だと思います。


 ぜひ,ご一読を。

2014年3月20日木曜日

術後1カ月経過。血液検査の結果についての診断を受ける。

 昨日(19日),退院後2回目の検診で病院へ行ってきました。午前中は太極拳の稽古をし,昼食を済ませてから病院へ行きました。暖かかったので助かりました。まだ,寒さには弱く,あっという間に体温を奪われてしまいます。ですから,昨日も重ね着をしてコートを羽織り,万全の体勢で臨みました。それでも熱くはなかったのですから,まだ,本調子とはいえそうにありません。


 予約は午後2時。定時少し前に,窓口に診断カードを提出。すぐに,採血室に行って採血。その結果がでるのを待って,主治医の診断がありました。「検査結果一覧表」というA4サイズの用紙にびっしりと検査項目と検査結果が書き込まれています。それをみながら主治医の先生のお話がありました。


 検査項目は全部で40項目。そのうち7項目は空白になっていましたので,最終的には33項目の検査結果が記入されていました。まず最初に指摘されたのは,「ALB」。これは栄養状態を示す指数だそうで,その値が「3.7」。正常値は「3.8~5.3」。まだ,「0.1」不足ですが,退院時の値からくらべると飛躍的に回復しているとのこと。退院後の食生活がうまくいっている証拠です,とお褒めのことば。この調子で食生活に励んでください,そうすれば次回には確実に正常値の真ん中あたりに改善されるはずです,とのこと。


 その他の項目では5項目ほどが,正常値よりもやや低い値でした。それも,ほんの少しだけ正常値に足りないだけなので,心配なし,との診断でした。その他の28項目はすべてクリア。総合的にみて,とてもいい数値ですので,この調子で養生をしてください,とのお言葉。


 このあとは,抗ガン剤治療をどうしますか,という話に終始。わたしとしては体調がようやく上向いてきた段階なので,もう少し様子をみて,「これならいける」という気持になったところで判断したい,と応答。主治医さんも「そうですね。まだ,時間的な余裕はありますので,あわてることはありません」。そして,「抗ガン剤治療は個人差が大きいので,慎重に進めることにしましょう」とのお話。これで,少し気が楽になりました。やはり,できることなら受けたくはない,というのが正直なわたしの気持。それをあまり剥き出しにするよりは,時間を稼ぎながら・・・少しずつ相談しようというのが本音です。


 最後に,申し訳なさそうに,「わたしはこの3月一杯で退職し,大学にもどることになっています」と仰るので,「ああ,そのお話は入院しているときに院長先生からお聞きしています」と話したら,「そうですか」と少し安心したご様子。すかさず,「先生のお蔭でここまで元気になれました。ありがとうございました。大学にもどられたら,ますますいいお仕事をなさって,ご活躍されることを期待しています」とわたし。「ありがとうございます」と嬉しそうな顔の主治医さん。


 で,「わたしのあとを院長先生が引き継いでもいいですよ,と言ってくれていますが,どうされますか」と仰る。わたしとしては願ったり叶ったりですので,「ぜひ,院長先生でお願いいたします」と懇願。「わかりました。では,そうしましょう」で一件落着。


 といいますのは,いろいろの経緯がありますが,院長先生とは波長が合うというか,お話がしやすいのです。ですから,こんごの抗ガン剤治療についても,いろいろ質問をさせてもらったりしながら,落とし所を見つけやすいし,なんとなく安心感があります。また,入院中に話がはずんだ現代医療の問題点についてもお話が聞けるかもしれません。最先端の科学技術が医療の現場にも,猛烈なスピードで入り込み,そちらが先行していくばかり・・・,これはもう制御不能で,医者はストレスを抱えています,などという貴重なお話のつづきをお聞きしてみたい・・・・,そんな楽しみもあります。


 次回は,4月14日(月)の午前9時の予約です。
 院長先生が開口一番,なんと仰るか,ひょっとしたらジョークが飛び出すのではないか,と不謹慎な想像をしたりしています。でも,気持的にはとてもラッキーなことですので,ありがたいことだと思っています。これも今回の一つの大きな流れで,わたしの意思を超えたところでの,不思議な現象です。いずれにしても,つぎつぎにいい方向に向かっていくので,嬉しいかぎりです。


 以上,昨日の検診のご報告まで。

2014年3月18日火曜日

バレエダンサーの米沢唯さん,中川鋭之助賞を受賞。おめでとう!

 新進気鋭のダンサーに贈られる中川鋭之助賞を米沢唯さんが受賞した,という囲み記事(「この人」・東京新聞)が今日(18日)の朝刊に掲載されていました。早速,切り抜いて保存しました。笑顔で座っている米沢唯さんの写真もあって,しばらくじっと眺めてしまいました。やはり,どこか似ているなぁ,と思いながら。


 米沢唯さんは,いまは新国立劇場に所属するプリマドンナ。「白鳥の湖」「くるみ割り人形」「ジゼル」などの主役を務めています。押しも押されもしない堂々たるプロのダンサーです。その活躍ぶりは,それとなく情報が入ってはいました。が,中川鋭之助賞を受賞するほどに注目される存在になっていらっしゃるとは,考えていませんでした。ですから,この記事を読んでわがことのように嬉しくて仕方がありません。


 米沢唯さんは,わたしにとっては竹内敏晴さんのお嬢さん。まだ,面識はありません。しかし,わたしのなかには米沢唯さんのイメージがしっかりと出来上がっています。なぜなら,折に触れ,竹内敏晴さんからお嬢さんの唯さんの話をお聞きしていたからです。


 「人間には天性というものがあるようです。うちの娘はダンスが好きで好きでたまらないようです。家に帰ってからも,暇さえあればストレッチをしたり,柔軟運動をしたりしてからだと向き合っています。よほど好きでなければあそこまではできません」とニコニコ顔でお話をしてくださった竹内さんの顔はいまでも鮮明に記憶に残っています。


 またある時には,唯さんの活躍の新聞の切り抜きをもってきてみせてくださいました。「なんだかよくはわかりませんが,どうやらダンサーの道に進んでいくようです。本人が好きで進む道ですから,親は静かに見守るだけです」と,これまた嬉しそうに話されました。それが,高校一年生でローザンヌ国際バレエコンクールの最終審査に残ったときの新聞の切り抜きでした。


 そしてまたある時には,「とうとうアメリカに行ってしまいました。いまごろは苦労していると思います。が,そこをクリアしないことには道は開かれてはきませんから・・・」と。さすがに,この時は,いささか寂しそうに,しかし,こころの奥底には期するものがある,と感じさせる雰囲気がありました。この時が,19歳でアメリカ・サンノゼ・バレエ団に入団したときのことでした。


 新聞にある唯さんの談話では「英語もままならない。一人暮らしも初めて。4年間苦しみ抜きました」ということです。新聞によれば「バレエに集中するあまり電気,ガス料金の振り込みが滞り止まったことも。適正な食事の量や睡眠時間まで分からなくなった。」「バレエと生活を両立しないとプロではない。心身ともにアンバランスだった」と。この4年間,いかに徹底してバレエに集中した生活であったかが,伝わってきます。


 そして,2010年に失意の帰国。そうです。父・竹内敏晴さんが亡くなられた年です。わたしたちもショックでしたが,唯さんにとっては想像だにしなかった衝撃だったことでしょう。ご高齢ではありましたが,すこぶるお元気で,休む暇もないほどスケジュールを埋め,全国を飛び回るようにして「竹内レッスン」をつづけておられたからです。唯さんはとうとう父・竹内敏晴さんの死に立ち会うことはできませんでした。


 帰国後,一度はプロのダンサーであることを諦めかけていましたが,新国立劇場のオーディションを受けてみることにします。不合格ならバレエは趣味に,と腹をくくっての受験でした。が,みごとにソリストとして採用され,こんにちに至るというわけです。


 唯さんは,文章の達人でもあります。帰国後に書かれた父・竹内敏晴さんへの追悼の文章を読んだとき,わたしは凍りつきました。文章の力が素人ではありません。まるで,竹内敏晴さんが乗り移ったかのような,説得力のある文章でした。その中の一節に,「わたしがステージに立つときには,父はかならず客席の一番後ろに立って,じっとこちらを見てくれているはずです。わたしはそのつもりで踊ります」とありました。この一節を読んだ瞬間にわたしの涙腺は一気に緩んでしまいました。そして,嗚咽してしまいました。


 新聞の記事の最後の唯さんのことばがまた素晴らしいので,そのまま引いておきます。
 「満席の観客が,すっと舞台に集中する瞬間をつくるのがダンサーの力。そういう空間で踊っていたい」。まるで竹内敏晴さんのことばではないか,と目を疑いたくなってしまいます。やはり,血筋というものは争いようがないようです。


 この受賞を機に,また一皮剥けたダンサーの力を発揮して,多くの人を魅了する舞台をつくってくださることを祈ります。いよいよ,わたしも舞台を拝見したいものと思っています。できるだけ早い時期に実現したいと思っています。


 米沢唯さんのますますのご活躍を祈っています。そして,応援していきたいと思っています。

もうすぐ春だというのに,気分は晴れません。足が地につかない不安。

 渥美半島の「おたがさま」も終わり,奈良の「お水取り」も終わり,日ごとに春の足音が大きくなってきます。昨日,今日と,ここ溝の口も春の陽気が漂いました。


 寒い間は,マンションのすぐ下にあるスーパーに食材を買いにいく程度で,それ以外はずっと部屋に閉じこもっていました。が,ようやく昨日,今日と暖かくなってきましたので,目と鼻のさきにある丸井まで「遠出」をしました。ちょっとした買い物もあったのですが,主たる目的は「歩行訓練」でした。ですから,各フロアーの隅から隅まで,くまなく見物しながら歩くことが課題でした。


 その結果は,軽いめまいのような不思議なショックを受けました。気晴らしに最適なところと思ってでかけたのに,気分は晴れるどころか逆に落ち込んでしまいました。そして,からだが浮き上がってしまっているようで,うまく足が地につきません。まるで幽体離脱のような,いやそうではないような,なんとも中途半端な「不安」だけがつきまとってきて離れません。


 2月の5日に入院してから,昨日の3月16日まで,約一カ月半ほど丸井から遠ざかっていました。この間に,冬物から春物へと商品がすっかり入れ代わっていました。が,これはいつものことで,季節ごとにデパートの商品は大きく入れ代わることは百も承知の上です。でも,その商品をくまなくみて歩いているうちに,どこか違う,どこか変だ,とからだが騒ぎ立てます。


 どうしたのだろうか,と考えてみました。一つは,丸井のなかの照明が明るくて,いや,異様に明るすぎて,店内全体が白っぽくみえる,ということに気がつきました。省エネ用の照明器具に変えたからなのか,と考えあちこち眺めてみたところ,それ以前に照明器具が圧倒的に多くなっていることがわかりました。その結果,あらゆる角度から店内をくまなく照らしだしていて,影がひとつもありません。つまり,影がどこにもないのっぺらぼうの,奥行きもなにも感じられない,ただひたすら明るいだけの空間が広がっているだけです。影がどこにもない景色,これは異様なものです。どうにも落ち着きません。苛立つというか,どこか現実離れをしているようで,足が地につかない不安に駆られました。


 どうしてこんなにも明るく照明を当てなくてはならないのか,だれがそれを望んでいるのか,だれがそうさせているのか,不思議です。これではまるで電気はいくらでもあるから使い放題でいいのだ,と言っているようなものです。一方で電気は足りない,足りないから原発を再稼働させるのだ,というとんでもない「神話」がまかりとおっています。


 これはひょっとすると,電気をじゃんじゃん使わせて,電気が足りない情況を意図的・計画的につくりだそうとしているのではないか,と思ったりしてしまいます。だとしたら,これは原子力ムラの戦略ではないのか,と勘繰りたくなってしまいます。こうなったら,電車に乗って渋谷まででかけて,あちこち観察してくる必要がありそうです。地下駅の照明がどうなっているか,地下街の照明がどんな具合になっているのか,デパートの照明はどうか,そして,夜の照明はどうか,などなど。


 精確な数字は忘れてしまいましたが,しばらく前の新聞に,節電に関する国民の意識調査の結果が報じられていました。それによりますと,3・11の大震災が起きた2011年はかなり多くの国民が節電に努力したけれども,その翌年から徐々に節電を意識している国民は減りつづけている,ということでした。そして,最近では節電しなくても電気は足りている,と思うようになった国民が圧倒的多数を占めている,と。この人たちは節電などは考えないで,必要なだけじゃんじゃん電気を使っているというわけです。


 あの大震災がわたしたちにつきつけた最大の問題は,3・11以前までのライフ・スタイルは間違っていた,ということだとわたしは考えています。だから,復興とは,3・11以前のライフ・スタイルに戻すことではなくて,それを否定し,超克していくこと,つまり,まったく新たなライフ・スタイルを模索していくことだ,というように考えています。


 ですから,昨日・今日と丸井でみた光景は,3・11以前よりももっともっと電力をつかって,明るさのリミットに挑戦しているかのような,とんでもないものだったのです。これではまったく逆行ではないか,と。これでは未来に希望のひとかけらも見出せない,と。それどころかカタストローフに向かってまっしぐらではないか,と。


 そんなわけで,もうすぐ春だというのに,気分は晴れません。そして,ますます足が地につかない不安ばかりが募ります。困ったものです。

2014年3月16日日曜日

ドキュメンタリー「フクシマの嘘・第2弾」(ZDF制作)をみて驚愕に震える。必見。

 いま,フランスにいるはずのNさんから「フクシマの嘘・第2弾」(ZDF制作)のリンクを転送します,というメールがとどきました。よくみると,Nさんもどこかから転送されてきたものをわたしのところにとどけてくださったようです。そこにはつぎのような文章が付せられていました。


 ZDFのハーノ記者が,フクシマの原発事故から3周年を記念して,「事態はコントロールされていない」ことを明らかにするドキュメンタリー(45分)を放映しました。どうか,お知り合いの人たちにリンクを回してください。


http://youtu.be/m2u-9eR-hC8


 いったい,なにごとだろうと不審に思いながら早速開いて内容をみてみました。すると,国内のメディアではまず間違いなく流すことのできない「フクシマの嘘」を赤裸々に暴きだす,迫力満点のドキュメンタリーでした。わたしたちはいかに目をふさがれ,耳をふさがれ,フクシマの現実について無知のままであるかを思い知らされました。これまでも少なからず努力してフクシマの現実に関する情報は集め,ある程度まではその実態を知っているつもりでした。しかし,そんな情報はまるで子供騙しのレベルにすぎないということを,このドイツの放送局ZDFのハーノ記者が制作したドキュメンタリーは,いやというほど見せつけてくれます。恐るべきドキュメンタリーです。


 正直に告白しておけば,いっそのこと知らない方がよかった,と思うほどです。しかし同時に,事実をできるだけ多くの人が共有しないことには,問題の本質的な解決の道は開かれない,と強く思いました。みなさんも,ぜひ,ご覧になってください。そうして,フクシマの事態はますます悪化の一途をたどっているという事実にもっともっと注意を向ける努力をしましょう。わたしは自省をこめて,強くそう思いました。


 結論からいえば,安倍首相がIOC総会で,フクシマの問題に触れ「事態は完全にコントロールされている」と宣言したことを受けて,ドイツの放送局ZDFのクルーが,徹底的に検証し,その発言のすべてが「嘘」であることを突き止めた,衝撃的なドキュメンタリーです。


 ちなみに,ZDFというドイツの放送局がどういうものなのか,ちょっとだけ調べてみました。それによりますと,以下のとおりです。


 ZDFは,Zweites Deutsches Fernsehen の略称で,通称「ツェット・デー・エフ」と呼ばれています。翻訳すると「第二ドイツテレビ」となります。本部は,ドイツ・ラインラント=プファルツ州の州都マインツにある公共放送局です。ドイツには公共放送局は複数存在するそうですが,全国放送を行っているのはARD(ドイツ公共放送連盟)とこのZDFの二つだけです。つまり,日本でいえばNHKのような存在です。


 そのZDFが日本に特別のクルーを送り込み,安倍首相のいう「under control 」が事実かどうかを,徹底的に検証したドキュメンタリーが「フクシマの嘘・第2弾」というわけです。そして,このドキュメンタリーはドイツでは全国放送として流れているわけです。ということは,ドイツ人は日本人以上に「フクシマの現実」の危機的情況をかなり詳細に承知している,ということになります。だからこそ,国を挙げての「脱原発」宣言が可能であったし,還元可能エネルギーへといちはやく舵を切ることができたのだということがよくわかります。


 本家本元のわれわれ日本人が,原発の危機的情況については世界でもっとも鈍感で,無知のままであるようです。それは,原発についての真実をなにも知らされていないからです。だから平気でいられます。そして,いまでも原発がなければ日本の経済は成り立たない,という神話(これこそ「嘘」のかたまり)がまかり通っています。しかも,多くの日本人がだまされたまま,この神話を信じています。それが,安倍内閣の支持率となって顕れています。


 まずは,このドキュメンタリーをご覧になってみてください。そして,わたしたちがいかに恐るべき「嘘」の情報で丸め込まれているかを知って,愕然とすることでしょう。少なくとも,わたしは驚愕して全身が打ち震えました。国際社会は,このレベルで「フクシマ」を認識していること,そして,安倍首相の「嘘」もすべてお見通しであること,さらには日本という国家の威信など頭から信じてはいないこと,・・・等々,数え上げていくと際限がないほどです。


 最後に,みなさんにもこのドキュメンタリーのリンクを拡散してくださるようお願いをして,今回のブログを終わりにしたいと思います。
 必見です。人生観が変わります。

2014年3月15日土曜日

「制御不能なもので成り立つ日常」。鷲田清一さんのエッセイに感動。

 東京新聞の夕刊に定期的に掲載される鷲田清一さんのエッセイ。毎回,わたしが楽しみにしている文化欄のエッセイです。最近は大半の人の書くエッセイに違和感を覚えるようになり,楽しみが減ってきて寂しいかぎりです。しかし,鷲田清一さんのエッセイは毎回,新鮮で,うーんと唸らされる,奥の深さを感じます。


 そのエッセイが,3月14日の東京新聞・夕刊に掲載されました。新聞に付された見出しは,「制御不能なもので成り立つ日常」「迫られる社会の再設計」です。これだけで勘のいい人ならすぐにピンとくることと思いますが,その書き出しは以下のとおりです。


 「東日本大震災から三年。すでにその記憶の風化を憂う声が聞こえる。が,それは何の風化を憂う声なのか。」と問いかけ,さらに問題の核心に迫っていきます。


 「震災後の三年,それもすでに一つの歴史として刻まれてきた。”復興の遅れ”に生活再建の途(みち)も見通せず,かつて描きかけたさまざまの可能性ももはや不可能と思い定めるほかないといった事態がいよいよあらわになり,だから人口流出も止めようがなく,それが復興事業に深い影を落とす・・・。これは風化どころか逆につのりつつある困難であり,その意味で震災はいまも続いている。」


 <震災の記憶を風化させてはならない>は,メディアが口を揃えるようにして投げかけている錦の御旗のようなキャンペーンです。そういうメディアの認識の甘さに対する強烈な一撃。「風化どころか逆につのりつつある困難であり,その意味で震災はいまも続いている」と主張する鷲田さんの歯切れのよさ。<風化>させているのはメディアの方ではないか,と言っているようにわたしには読めます。


 そして,「つのりつつある困難」は震災だけではない,福島第一原発を筆頭に,核廃棄物の処理,放射線被曝への不安,人口減少と「超」高齢化社会への突入・・・とつづき「わたしたちは未来をいくつかの<限界>のほうから考えるしかなくなった」と鷲田さんは書いています。


 そして「わたしたちの日々の暮らしが,『原発』という制御不能なものの上に成り立ってきたということ,このことをわたしたちは今回の震災で思い知った。そしてそれへの対応のなかでもう一つ,制御不能なものとして浮上しているのが,グローバル資本主義である」と鷲田さんはきびしく指摘しています。


 そして,このグローバル資本主義もまた「経済」という枠組みから大きく逸脱している,と鷲田さんは指摘します。「わたしがここで『経済』というのは,いうまでもなく『経世済民』(世を治め民を救う)という事業のことである。限られた資源と富の,適切な配分と運用を意味する『経済』は,いまや世界市場での熾烈なマネー・ゲームに,それを制御するすべもなく深く組み込まれている」と説いています。


 「こういう制御不能なものの上に,わたしたちの日常生活がある。物価や株価の変動も,もろもろの格差や過疎化の進行も,就労環境も,これに煽られ,左右される」と述べた上で,最後に,つぎのように結論づけています。


 「ここ数年で海面下から一気に顔を出したこれらの制御不能なものを前にして,わたしたちは,自然や人的資源とも折り合いながら,制御可能な,ということはみずからの判断で修正や停止が可能な,そういうスケールの『経世済民』の事業を軸に,社会を再設計してゆかねばならない」と。


 「そこでは当然,中央/地方という枠組みさえも問い返される。それにどのようなかたちで一歩踏みだすか。これこそ東北の震災復興のなかで問われていることだとおもう」と結んでいます。


 わたしは数日前(3月11日)のブログで,反省すべきは人間の「驕り」である,という抽象的な言い方で震災復興の問題を結論づけました。しかし,鷲田さんは,きわめて平易な文章で,しかも,具体的にわかりやすく,制御可能な「経世済民」を取り戻すべく「社会を再設計」することこそが,「東北の震災復興のなかで問われていることだ」と言い切っています。この明快さに,わたしは感動を禁じ得ません。


 こんな透明感のある,そして説得力のある文章をわたしも書いてみたいとしみじみ思います。もうすでに遅きに失しているとはいえ・・・・。

2014年3月14日金曜日

「今福龍太氏を囲む会」を企画。3月29日(土)に開催予定。

 ようやく気持が前向きになってきました。もっと早くに企画を立ち上げなくては,と思いつつもなかなか気持が動きませんでした。しかし,食事の量が増えるにしたがって,気持もしっかりしてきたように思います。やはり,太極拳の稽古をはじめたのがいいきっかけになったように思います。


 じつは,もう去年のうちに「今福龍太氏を囲む会」の構想はできあがっていました。その直接的なきっかけは,今福龍太編『多木浩二 映像の歴史哲学』(みすず書房,2013年)を今福さんから送っていただいたことでした。一読してすぐに,この本はわたしたちが長年つづけている研究会(「ISC・21」月例研究会)で取り上げ,みんなで議論しなくてはいけない本だとわかりました。今福さんもそんなことを想定してわたしに本を送ってくださったのだと思います。


 なぜなら,『映像の歴史哲学』の内容は,最初から最後まで,レニ・リーフェンシュタールが監督したベルリン・オリンピックの記録映画「オリンピア」をとりあげ,これを題材にしてその歴史哲学を多木浩二さんが熱っぽく語っているからです。そして,それをよくよく読むと,これまでに無意識のうちに作り上げられていたベルリン・オリンピックのイメージが,音を立ててくずれ落ちていく,そんな経験を余儀なくさせられます。


 多木さんは,この映画を構成している個々の映像がどのようにして撮影されたのか,そのバックグラウンドを詳細に分析しながら,映像のもつもうひとつの意味を見出していきます。そして,オリンピックとはなにか,さらに,スポーツとはなにか,と問いかけていきます。


 多木さんには,『スポーツを考える』──身体・資本・ナショナリズム(ちくま新書)という著作もあって,スポーツについても造詣の深い人であったことはよく知られているとおりです。その多木さんが,生まれて初めてみた映画が,この1936年のベルリン・オリンピックの記録映画だった,しかも,きわめて衝撃的だった,その一つは裸体が惜しげもなく映し出されたからだ,とも語っています(『映像の歴史哲学』)。それが多木さんが小学生のときの記憶だ,というのです。


 このときから,多木さんの頭のなかでは映像とスポーツはセットになっていて,のちのちの映像文化論を構築する上で大きな影響を及ぼしたようです。この本の帯には「本当に主題になるのは「歴史」のなかには登場することのない歴史である」と大きな文字が躍っています。わたしのことばに置き換えれば,大文字で語られる「歴史」ははたしてほんとうの意味での歴史といえるのか,そうではなくて,小文字で語られる歴史こそが,つまり,日常生活のはしばしで出会う歴史こそが,生身のからだを生きる人間の歴史ではないのか,と問いかけているように思います。


 本書を編集した今福さんの「後記」にはつぎのような文章が埋め込まれています。
歴史を問い,歴史を批判し,出来事の歴史を乗り越えたところにある深層の「歴史」の断面を,ほとんど神話化された歴史の形象を,その日常への不意の顕れを,ひたすら凝視すること。表象やイメージとてし出現する「歴史」の揺らぐ実相を相手にした多木浩二の思想的実践は,その意味で,日々を生きる人間の個人的感情や記憶と,それらが実を結ぶためにはたらいている歴史的過程への深い考察とともに一つの帆にはらんで進む,世界という荒れ狂う海への冒険航海の試みだったといえるだろう。


 わたしたちは,いまや映像としてスポーツを丸飲みしています。その映像には,かならずだれかの意思がはたらいています。つまり,映像を切り取り,それをテレビや映画をとおして公開するということは,そこにはかならずなんらかの意図がはたらいています。その意図された映像を,わたしたちはほとんど無意識のうちに丸飲みして,スポーツに感動し,スポーツとはこういうものなのだと理解したつもりになっています。それが,こんにちのスポーツについての大方のイメージを形成していると言っていいでしょう。


 しかし,スポーツとは,そんな表層的な,薄っぺらなものなのでしょうか。そうではないはずです。
スポーツの現場で日々,悪戦苦闘しているアスリートやコーチ,監督などが全身全霊をとおして理解しているスポーツと,わたしたちが映像をとおして理解したつもりになっているスポーツとの間には,大きな大きな溝が横たわっています。このとてつもなく大きなギャップはいったいなにを意味しているのでしょうか。


 たとえば,こんなこともみんなで考えてみようと思い立ち,今福龍太編『多木浩二 映像の歴史哲学』をテクストにして,「今福龍太氏を囲む会」を企画してみました。そして,その場の力を受けて,今福さんがどのような即興レクチュアをしてくださるか,これがまた格別の楽しみでもあります。


 幸いなことに,あの多忙な今福さんがわたしたちのために時間を割いてくださるというので,みんな大喜びです。今福龍太氏が多木浩二の思考をとおしてスポーツ文化を語る,とても魅力的な研究会です。興味のある方はどうぞ傍聴にきてください。


 研究会の開催要領の詳細は,「21世紀スポーツ文化研究所」のホーム・ページ(掲示板)に公開しますので,そちらをご覧になってみてください。



2014年3月13日木曜日

価値ある遠藤の一勝。立ち合いの鋭さに磨きを。

 今日(13日)の大関稀勢の里との一戦。相撲開眼の一番。二人の横綱,二人の大関に跳ね返されたその悔しさをバネにして,しかも四つの負け相撲を教訓にして,今日は見違えるような相撲を展開した。おみごと。


 なにがよかったのか。
 立ち合いである。


 相手の胸めがけて鋭く当たっていくその角度が素晴らしかった。この立ち合いで先手をとることができた。これで稀勢の里の上体が起きたので,その胸を両手で突いて押し込むことができた。なすすべもなくずるずると後退する稀勢の里。が,さすがは大関。ぐっと踏ん張って反撃にでる。こんどは稀勢の里が押し返す。あっという間に遠藤を土俵際まで押し込み,これで勝負あったと稀勢の里は確信したに違いない。しかし,ここからが遠藤の本領発揮である。俵に足がかかった瞬間に,遠藤は左に移動しながら体を右に開き,稀勢の里を送り出す。稀勢の里はがぶり寄りの勢いのまま土俵の外へ。おそらく稀勢の里にしてみれば,真っ正面にとらえて押し込んだはずの遠藤が,一瞬にして姿を消してしまった,まるで忍者のように。稀勢の里にしてみれば,一瞬,なにが起きたのかわからなかったのではないか,と思う。


 俵に足がかかった瞬間にすばやく土俵をつたって横に移動するのは,遠藤の得意技の一つである。稀勢の里がそれを知らないはずはない。それほどまでに,稀勢の里は完璧に近い形で遠藤を真っ正面にとらえ,得意のがぶり寄りをみせる。すると遠藤がかんたんに後退したので,そのまま押し出せると確信したために,この遠藤の横への変化に備える間もなかったのだろう。


 この土俵際の変化は遠藤が以前から身につけている得意技だ。それが勝因であったかのごとく解説者は説明をしていたが,そうではない。今日の勝因は立ち合いの鋭さ。


 低い姿勢から相手の胸元めがけて頭から当たり,両手で相手の胸を突いて押し込み,相手の上体を起こす,この立ち合いである。ちょうど,今場所の日馬富士が連日,みせているあの鋭い立ち合いである。そう,日馬富士戦で遠藤がいっぺんに土俵際まで押し込まれたあの立ち合いである。その立ち合いを自分でもやってみようと反省したのだろうか。もし,そうだとしても,思いついてすぐにできる立ち合いではない。おそらく,何回も何回も繰り返しビデオをみて研究し,稽古場でも試していたに違いない。


 そして,それが今日の稀勢の里戦でみごとに成功した。そして,連続5人の横綱・大関戦から一勝をもぎとった。しかも,秘策の立ち合いで。この一勝は大きい。遠藤にとっては相当の自信となったに違いない。立ち合いで先手がとれるようになると,遠藤の相撲が生きてくる。相手の上体を起こしておいてから右で前まわしをつかんで相手の胸に頭をつける体勢をつくれれば,遠藤の相撲となる。


 これまでの遠藤は立ち合いが甘かった。それでも相撲がとれていた。ところが横綱・大関はそんなに甘くはない。みんなそれぞれに立ち合いの型をもっている。そこから相手を撃破していく。それが横綱・大関の相撲である,ということを肌をとおして遠藤は学んだことだろう。これまでの4日間はなすすべもなく圧倒されてしまった。そして,それを反省し,研究し,すぐに実行に移すことができる能力がある。そこが遠藤の素晴らしさだ。


 明日からは関脇戦だ。今日と同じような立ち合いができれば,勝機は充分にある。今場所は星勘定は度外視して,ひたすら,今日の立ち合いに磨きをかけることだ。そうすれば結果はあとからついてくる。


 遠藤が,ほんとうに立ち合いに開眼したのか,それとも,今日はまぐれだったのか,明日からの取り組みが楽しみになってきた。負けが込んでもいい。連日の上位戦をとおして,遠藤の相撲が進化すること。そのすべては立ち合いにかかっている。そして,この立ち合いができるようになれば,そのあとの相撲の取り口にも余裕ができてくる。そうなれば,相撲の幅も広くなってこよう。


 久々に賢い力士の登場である。創意工夫を重ねて,やがて遠藤の相撲の型もできあがったこよう。その魁となるのが,今日の立ち合いである。このことを肝に銘じて,精進これあるのみ。


 頑張れ,遠藤。これから中盤,そして終盤にむけてどのように進化するのか,日々,楽しみにしている。

2014年3月12日水曜日

安定が第一。高い姿勢でゆったりと,意識だけを集中させて動くこと。李自力老師語録・その42。

 今日(12日)から太極拳の稽古に復帰しました。軽くからだを慣らすつもりで稽古をはじめましたが,いつのまにか大まじめに真剣にやっていました。そこに李老師が現れ,一喝されてしまいました。退院後,まだ間がないのだから腹筋に負担をかけるような稽古をしてはいけません,と。無理をするとかえって回復が遅くなってしまいます,と。


 そこで,教えてくださったのは,「高い姿勢のままゆったりと,意識だけを集中させて動くこと」,そして,「安定第一」をめざすこと,でした。そして,示範をしてくださいました。


 以下は,李老師がわたしに語ってくださったことのうち,わたしの記憶に鮮明に残った部分です。つまり,これがすべてというわけではありません。いつも書きますように,「如是我聞」です。そのことをお断りしておきます。


 太極拳で一番大事なことは「安定」です。無理して重心を下げて,ふらふらしたり,上半身に力が入ってしまったりする稽古は,ほとんど意味がありません。それよりも,重心を高くして,ふらふらしないポジションをとることが大事です。そうすれば,余裕ができてきますので,上半身の力みもなくなります。その上でゆったりとした動作で表演することです。ただし,意識はわざの一つひとつに集中させつつ,理想的なフォームをイメージしながら行うことです。すると,からだの奥の方から不思議な快感が伝わってきます。この心地よさを存分に味わうことです。これが体験できれば,あとのことはどうでもいいのです。そのときには,なにも考えなくても,ゆったりと流れるような美しい動作が生まれています。これが太極拳の稽古ということです。この心地よさは,それぞれの力量のレベルで現れます。そのステージがつぎつぎに上がっていくところを堪能すればいいのです。無理は絶対にしてはいけません。それぞれのレベルに応じた稽古しかできないのですから。気がついたらレベルが上がっていた,というのが自然です。無理をしてもレベルは上がりません。しかも,それは無駄なことです。ですから,無理はしない。そして,安定第一に稽古に励みなさい。おのずから道が開けてきます。


 このお話を伺いながら,わたしは道元禅師が言った「修証一等」(しゅしょういっとう)ということばを思い浮かべていました。道元禅師は,若い修行僧に向かって,修行(修)と悟り(証)は表裏一体のものです,つまり,同じ意味です,と説きました。つまり,悟りが深まれば,それに応じて修行のレベルも高まっていく,というわけです。それを悟りも浅いのに,高望みをして苦行に挑んでもなんの意味もありません,と。そのとき,そのときの悟りに応じた修行をするしかないのです,と。そうして少しずつ,少しずつ,そのレベルが上がっていくのを待つしかないのです,と。


 考えてみれば,太極拳の思想的なバックグラウンドの一つは道教にあります。中国で生まれた仏教の禅宗はインドから伝来した仏教と道教との出会いによって創意工夫されたものです。ですから,太極拳の稽古の考え方と,禅宗の修行の考え方が,とてもよく似ているのはなんの不思議もありません。


 ですから,李自力老師のことばは,わたしには「修証一等」と同じ意味でつたわってきました。なるほど,これならわたしには分かりやすい,と。ならば,これからは禅の修行(たとえば,坐禅)と同じように考え,そのとき,そのときのからだやこころの有り様に寄り添うようにして,太極拳の稽古をすればいい,とこころの底から納得しました。


 今日の稽古のお蔭で,これからの稽古の仕方も変わってくるように思います。
 今日の李老師のことばは,わたしの骨身にしみました。
 ありがたいことでした。

2014年3月11日火曜日

3・11を忘れるな,だけでいいのか。反省すべきは人間の「驕り」ではないのか。

 3年目の3・11。新聞もテレビもみんな3・11。被災地の惨状や被災者の苦労を,これでもか,これでもか,というほど流しつづける。そして,「3・11を忘れてはならない」「3・11を風化させるな」の繰り返し。ただ,それだけ。どこか絵空事にみえてくる。3・11を忘れないで,しっかりと記憶にとどめておく,とはどういうことなのか。なにを,どうすればいいのか。日本人のひとりとして,取り組むべき課題はなにか。その具体的な提言も思想も哲学もない。単なる情報の垂れ流し。そして,「忘れるな」の繰り返し。


 そこには,メディア・サイドの深慮遠謀,つまり,ある意味で,意図的・計画的な「責任逃れ」が企まれているのではないか,と思われて仕方がない。もっとはっきり言っておこう。政府自民党の,そして,原子力ムラの,あるいは東京電力の,「深慮遠謀」がメディアに反映されているのではないか,と。


 つまり,東日本大震災の結果のすべてを自然災害のなかに封じ込め,だれも責任をとらなくてもいい,という免罪符を大量に発行しているだけではないのか。そこには,人災というきわめて重大な視点は最初から忌避され,無視する力学がはたらいているように思われる。だから,復興とは,すべて被災地・被災者の問題に還元されてしまう。そこには,われわれ日本人としての「復興」という視点が完全に欠落している。それでいて「忘れるな」と声高に叫ぶ。


 3・11がわれわれ日本人につきつけた問題は,たんなる自然災害への対応の仕方だけではない。それは,3・11以前まで,日本人の多くがなんの疑問も抱くことなく,ひたすら追い求めてきた経済的繁栄という虚像の上に構築されたライフ・スタイルに対する,根源的な問いではなかったか。それは,ひとことで言ってしまえば,生き物としての人間の「驕り」に対する根源的な問いではないのか。


 三陸地方の小さな漁港のほとんどは,高台に居を構え,漁のたびに海まで降りていって仕事をし,ふたたび高台にもどる。それが基本になっている。しかし,大きな都市になると,大津波の記憶から遠ざかるにつれ,高台から平地に降りて,そこに居宅を構え,漁にかかわる処理工場を設置し,海岸沿いに大きな商店街が誕生する。その方が経済的に効率がいいからである。つまり,儲かるからだ。そこに大きな落とし穴が待ち受けていた。そのとき,イノチとカネの交換が行われたことに気づかなかったのだ。これこそが生き物としての人間の「驕り」のなせる業だ。目先の欲望に目がくらみ,もっとも大事なイノチのことを忘れてしまった,ということ。


 災害は忘れたころにやってくる。


 その極めつけが原発だ。単位時間の発電効率の良さと安定供給を理由に,電気代の安さと安全という「神話」をでっちあげ(どちらもウソだったことを露呈させたのも3・11),全国各地に原発を大量に設置した。そのうちのフクイチが破綻をきたした。廃炉まで40年かかるという(政府発表)。とてもそんな時間で片づくとは思えないが・・・。加えて,使用済み核燃料の処分の方法はまったく未知の世界だという。最悪,40万年かかるという。これまた,生き物としての人間の「驕り」のなせる業である。利便性という甘い汁に誘われて・・・・。しかし,利便性には「限界」がある(ジョルジュ・バタイユは「有用性の限界」と言った),ということに気づく人は少なかった。その結果はもっとも大事な「イノチ」を代償として支払わなくてはならなくなった。


 復興とは,日本人のすべてが,生き物としての人間の「驕り」から目覚め,3・11以前のライフ・スタイル(経済的効率主義)に決別し,まったく新たなライフ・スタイルを構築することにある,とわたしは考える。わたしたち一人ひとりのからだとこころに「痛み」を伴うほどの,大転換が求められているのだ。そして,必要なことは,そのための思想であり,哲学である。


 3・11を通過したのちの社会を構築するための思想/哲学とはいかなるものか,この議論を立ち上げることこそが喫緊の課題だ,と言っておきたい。そして,そのための議論はすでに始まっている。たとえば,ジャン=ピエール・デュピュイの『経済の未来──世界をその幻惑から解くために』(森元庸介訳,以文社)や『聖なるものの刻印──科学的合理性はなぜ盲目なのか』(西谷修・森元庸介・渡名喜庸哲訳,以文社)をはじめ,『3・11以後この絶望の国で──死者の語りの地平から』(山形孝夫・西谷修著,ぷねうま舎)などがある。


 少しオーバーに聞こえるかもしれないが,思い切って言っておこう。3・11がさらけ出した問題は,世界史的な大転換を余儀なくする,それほどの根源的な問いである,と。3・11以後の世界は,いかなるまやかしも「驕り」も許されない,真に平等で公平,かつ自由を保障するものでなくてはならない,と。


 3・11を忘れるな,ということの内実は以上のようなことを意味している,とわたしは考える。死者たちの声に耳を傾けるということの内実は,以上のような新たな知の地平を切り拓くものでなくてはならない,と。少なくともわたしは,そのような努力をこれからも積み上げていきたいと念じている。それこそが,わたしにとっての復興の内実なのだから。

2014年3月10日月曜日

脱原発デモに3万2000人。国会周辺に集結(3月9日)。

 毎週金曜日に首相官邸前で脱原発を訴えつづけている三つの団体が,3月9日(日)に国会周辺でデモを行うという呼掛けは,ネットをとおして流れていました。わたしも出かけようかとこころが動きましたが,この寒さにまだ適応できないからだのことを考え,自宅に篭もっていました。ただ,気持だけは日比谷野外音楽堂にとどけ,と念じていました。


 今日の新聞によれば,国会周辺デモに3万2000人が集まった(主催者発表),ということです。この数をみて驚きました。というのも,この間の都知事選挙で,脱原発派の候補者が二つに割れたとはいえ,総得票数はわたしが期待していたほどには伸びなかったからです。もっとも,対立候補と目されていた舛添候補をして「わたしも脱原発派です」と言わしめたことによって,脱原発が都知事選の「争点」にはならなかったことも大きかったと思います。


 しかし,よく考えてみますと,舛添氏まで「脱原発です」と言わなければ選挙は戦えない,という情況をつくったことは,こんどの都知事選のひとつの大きな収穫であった,ともいえます。主要候補のうち,原発推進を声高に主張したのは田母神候補だけでした。ということは,安倍首相の代弁者以外の候補は,左も右もみんな「脱原発」だ,という現実を導き出したことになります。この事実は重いと思います。


 つまり,自民党の中にも,民主党の中にも「脱原発」派の議員はかなりの数を占めていること,ただ,声高に主張できないまま,どこかでチャンスを狙っていること,言うなれば「もの言わぬ脱原発議員」が存在するという事実が明らかになったということです。そして,この議員さんたちが,どのタイミングで本音を主張するようになるのか,そこに,わたしは少なからぬ期待をもっています。


 そん風な期待をいだいた人はわたしだけではないと思います。つまり,都知事選の結果は,新たな脱原発運動の出発点になる,と。市民運動を展開してきた人たちも,おそらく,そのような期待をいだいたことと思います。そして,その輪が,これから少しずつ一般市民の間にも広がっていくものと,期待した人も少なくないと思います。


 その一つの答えが,3月9日(日)の国会周辺に集結した脱原発デモ,3万2000人という数となって現れたのだ,とわたしは感動すら覚えました。体調さえよかったら,わたしもこの中の一人になれたのに・・・・といささか忸怩たるものがあります。早く体調をもどして,金曜日には首相官邸前に出かけられるようにしよう,といまから楽しみにしているところです。


 これからは日に日に暖かくなってきますので,国会周辺に集まってくる人も増えていくのではないか,とこちらも期待したいところです。


 いまや,脱原発運動は世界的な展開をみせています。逆に,本家本元の日本の脱原発運動があまりに停滞しているのではないか,と諸外国から批判されるほどです。もはや,脱原発運動は,一国の問題ではありません。国際社会を巻き込んだ,人類全体のテーマでもあります。端的に言ってしまえば,「金」と「命」を天秤にかけて,さあ,どちらを選ぶのかという大きな岐路に,いま,全人類が立たされています。「経済発展」という呪いのかかった呪縛をいかにして打破し,「人命尊重」という思想をわがものとするか,ただ,これだけのことです。


 どこまでも既得権益を守ろうとする権力(世界の原子力ムラ)と,その権力に「自発的に隷従」して,そのおこぼれを頂戴しようという歪んだ構造が,もはや臨界点に達しつつあります。もう,すでに,その一角が音を立てて崩れ落ちつつあります。そのことに気づいた人は,間違いなく脱原発に舵を切って,行動に移しつつある,とわたしは受け止めています。


 3万2000人という数が,3・11を直前にした一時的現象ではなく,これが出発点となって,これからますます大きな輪になって全国展開することをこころから期待したいと思います。わたしも微力ながら,そのひとりになりたいと念じています。

三河に春を呼ぶ「おたがさま」の祭り。

 「今日(9日)は,三河に春を呼ぶおたがさまの日で,お参りに行ってきました」というメールを渥美半島に住むいとこからもらった。思わず「おたがさま」と口に出してつぶやいてしまいました。わたしにとってはそれほどに懐かしい呼称で,一気に子ども時代にタイムスリップです。かすかに思い出すのは,三河名物の冷たい空っ風が吹く,まだまだ寒いころのことだったなぁ,という程度のこと。    なのに,無性に懐かしい。敗戦直後の,日本中が貧乏暮らしをしていたころの記憶です。


 成人して阪大に勤務するようになったころ,名神高速道路を父親を乗せて車で走っていたとき,ちょうど滋賀県の多賀大社の横を通りがかりました。すると,父親が「あー,ここがおたがさまの在所だなぁ」と言うではありませんか。「えーっ?」とわたし。このとき初めておたがさまとは多賀大社に連なる信仰なのだ,ということを知りました。それまでは,おたがさまとは渥美半島一帯の,きわめて地域的な,土着の信仰なのだと思っていました。


 それ以後,なぜ,三河に春を呼ぶおたがさまとして,渥美半島一帯では親しみをこめて呼ばれているのか,ということがこころの隅っこに引っかかっていました。しかし,別に調べるというほどの関心もないまま,こんにちに至っていました。そこに,いとこからのメールです。にわかに興味が湧いて,調べてみました。


 「お伊勢参らばお多賀に参れ お伊勢お多賀の子でござる」
 「お伊勢七度 熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」
 という俗謡がある,と書いてあります。


 「お伊勢お多賀の子でござる」ということは,伊勢神宮のご祭神は天照大神だから,その親といえば,イザナギ・イザナミ。読んでいくと,多賀大社のご祭神はこの2柱である,と書いてあります。そうか,「おたがさま」は「おいせさん」より格が上なんだ,と納得。だから「さん」ではなく一つ上の「さま」がつく。


 おたがさまの信仰は,中世から近世にかけて隆盛をきわめ,多くの信者が多賀大社に押し寄せたといいます。しかも,伊勢は七度,熊野は三度,お参りすればいいが,おたがさまは「月参り」が必要だ,という俗謡が残っているといいます。となると,滋賀県の多賀大社まで「月参り」をすることは不可能です。が,それを可能にするのが多賀大社から勧請して分社を設けることです。渥美半島にあるおたがさま信仰は,そうして出来上がった信仰であることがわかります。


 そうか,むかしの人は「月参り」をしていたのだ,と納得。
 では,なぜ,渥美半島におたがさま信仰が根づいたのでしょうか。ここからさきは単なるアナロジーにすぎませんが,どうやら,おたがさまとおいせさんの関係は,出雲大社と伊勢神宮との関係に酷似している,ということです。そして,三河地方には出雲系の神社が意外に多い,ということとも関係しているのではないか,とわたしは考えています。たとえば,三河一宮である砥鹿神社のご祭神は大国主命です。スサノウを祀った神社は無数にあります。


 ここからさきの,わたしの好きな「幻視」は,また,機会を改めて書いてみたいと思います。
 今日のところは,三河に春を呼ぶ「おたがさま」というメールに触発されて,ちょっと調べてみたら,こんなに面白い話になってしまった,というご報告まで。

2014年3月9日日曜日

「復興はなされたのか──3年目の問い」(『世界』4月号特集)。「復興」のいまを抉る。

 ことしも,早くも3・11を迎えようとしています。あれからすでに丸3年が経過しようとしています。なのに「復興」の掛け声だけが連呼されるなか,現実の「復興」は遅々として進んではいないようです。この時期になると,メディアはかならず3・11特集を組み,通り一遍の報道をし,それなりの問題提起をします。しかし,それらのほとんどはとってつけたような,絵空事としか思えないような,薄っぺらい報道でしかありません。


 そんな中にあって,『世界』4月号の特集・復興はなされたのか──3年目の問い,はひときわ気合が入っていて,読む者を圧倒してきます。山形孝夫,外岡秀俊,小熊英二,臼澤良一,大森直樹,白石章,ほかの執筆陣が,それぞれの立場から目の覚めるような論考を展開しています。とりわけ,この特集の冒頭を飾る山形孝夫さんの凝縮した文章が印象的です。題して「記憶の森の未来のために──終わらない喪」。


 ちなみに,山形さんの文章の最後の段落を引いてみましょう。
 大震災から四度目の春がくる。被災地ではようやく瓦礫の山が視界から消えつつある。それとともに,自分以外の誰にも属さない個別の記憶も,いま抵抗できない仕方で,忘却の過去へ遠のき,深い喪失の運命をたどりつつある。あらためて思えば,大震災によって消滅した現実は,ほんとうは,こうした小さな記憶の共同体──記憶の森であったのだ。東日本の海岸線の小さな集落が,小さな家族が,小さな学校が,小さな野の道がどのように消え,壊れていったか。現に,どのように消えつつあるのか。それを,どのように記憶するか。そのことがいま問われている。それができなければ,わたしたちの大きな物語も,死者たちの声のように,やがて忘却の彼方に消えてゆくだろう。


 一人ひとりの「個別の記憶」,こうした「小さな記憶の共同体──記憶の森」が消えていく,と山形さんは嘆きます。いま,問われているのは,これらの記憶がどのように「消えつつあるのか」,それをどのように「記憶するか」ということだ,と。それができなければ,「死者たちの声」のように,「忘却の彼方に消えて」ゆくしかないのだ,と。しかし,そんなことがあってはならない,という強い決意が山形さんの文章から伝わってきます。この「記憶」を起点にして,つぎの第一歩を踏み出さないことには「喪」は終わらない,と。


 ここまで深く「死者たちの声」に耳を傾け,みずからの問題として引き受ける山形さんの姿勢に,強く打たれるものがあります。こういう文章に接しますと,わたしもまた,単なる傍観者にすぎないではないか,とこころが痛みます。遅ればせながら,いまからでもいい,もっと気持をこめて「死者たちの声」に身を寄せていく努力をすべきだと深く反省させられます。


 もっとも,この文章を読みながら,わたしの脳裏に浮かんでいるのは,山形孝夫さんと西谷修さんとの対談になる『3・11以後この絶望の国で──死者の語りの地平から』(ぷねうま舎,2014年2月刊)に籠められたお二人の濃密な議論です。つまり,「死者たちの声」をしっかりと「記憶」にとどめ,そこを起点にしてみずからの生きるスタンスや行動の規範を導きだそうとする,お二人の熱の籠もった議論です。その議論は,3・11から始まって,宗教の問題から,政治・経済の問題はもとより,ナショナリズムやパトリオティズムを論じ,やがてはヨーロッパ近代の果たした役割はなにであったのかと問い,世界や世界史へと展開していきます。なかでも,キリスト教の正統派とグノーシス派の葛藤に隠された謎が,近年になって解明されつつあり,グノーシス派の教義こそイエス・キリストの教えに忠実であって,正統派はローマ帝国の権力にすり寄るために改竄されたものらしい,という議論は鮮烈でした。なぜなら,世界を制覇しつつあるキリスト教文化圏の論理が根底からくつがえされる可能性がでてきたからです。山形さんのいう「死者たちの声」の射程距離はそこまで伸びているということです。


 このことは同時に,わたしのようなスポーツ史・スポーツ文化論の領域にも根源的な問いを突きつけていることを意味します。たとえば,オリンピック・ムーブメントとは,いったい,だれのためのものであったのか,それはまことにむなしい虚構にすぎなかったのではないか,と。


 「復興」を考えるということは,個々の生きられた「記憶」から「記憶の共同体──記憶の森」を引き受けた上で,さらなる「記憶の定着」を確保することだ,とまずは指摘しておきたいと思います。そして,そのためのさまざまなヴァリエーションが,この『世界』4月号には満載されています。そういう問題意識を共有しながら,みずからの思考を深めるには絶好のテクストである,とわたしは考えています。


 ぜひ,みなさんにもご一読をお薦めしたいと思います。
 長くなりましたので,今日のところはここまで。







2014年3月8日土曜日

『弱くても勝てます』──開成高校野球部のセオリー(高橋秀実著,新潮文庫,平成26年3月刊)を読む。

 ヒデミネさん(高橋秀実さんの愛称)の書かれる本はどれも,そよそよと心地よい風が吹いています。少なくとも,わたしにはそう感じられます。ヒデミネさんは,どの本もそうですが,いつも素朴な疑問からはじまり,その謎解きのために全身全霊をこめて取材に当たり,それを小学生のような純な感性で表現します。ですから,ヒデミネさんの文章はすんなりとからだにしみ込んできます。読み始めたらもう止まりません。最後まで一直線です。


 ヒデミネさんとの最初の出会いは,『素晴らしきラジオ体操』でした。以後,『はい,泳げません』,『おすもうさん』とつづきます。この二冊の面白いところは,ヒデミネさんがみずから「水泳教室」に通って直接指導を受けながら,日々,変化する自分と向き合い,そこで感じたこと,発見したことをそのままリアルタイムで書き記すこと,あるいは,直接,相撲部屋に入門して,新弟子さんたちと一緒に稽古に励み,寝食をともにして,その実体験を,同時進行で文章にしていることです。


 ですから,そこには「ウソ」がありません。したがって,読後感がとても爽やかです。ヒデミネさんのお人柄が作品の全編ににじみ出ていて,それらが「心地よい風」となってわたしに伝わってくるのだろうと思います。


 さて,つい最近(3月1日刊)出たばかりのこの本は,退屈まぎれに散策にでたとき立ち寄った書店で,いきなりわたしの目に飛び込んできたものです。もちろん,即刻,購入して家路を急ぎ,すぐに読み始めました。いつも思うことですが,ヒデミネさんの本はタイトルがとても魅力的です。『弱くても勝てます』──開成高校野球部のセオリー。


 高校野球のチームに限らず,スポーツは,弱かったら勝てるわけがありません。にもかかわらず,ヒデミネさんはそれを逆手にとって「弱くても勝てます」と断言し,それが開成高校野球部のセオリーだ,とサブタイトルを付しています。この書名をみただけで,もうこの本の中味の8割は理解というか,想像ができてしまいます。しかし,そうは問屋が卸しません。読み始めてみますと,意外や意外,奇想天外な野球の秘策(セオリー)が,惜しげもなく展開されていきます。
 まずは,こんな野球のセオリーを考えついた人は,長い野球の歴史のなかで,まだひとりもいないのではないか思います。それほどに奇想天外なのです。
 たとえば,こうです。ピッチャーはストライクを投げなさい。フォアボールは相手に対して失礼です。打たれてもいい,ストライクを投げなさい。野手はエラーをしても構いません。ただし,飛んできたボールに真っ正面から向かっていきなさい。受け身になってはいけません。バッターはバットを思いっきり振り抜きなさい。三振しても構いません。強くボールを叩くことを心がけなさい。サインは一切ありません。すべて,自分で判断しなさい。といった調子です。これらはいずれも監督さんが考えに考えた末に到達した結論だといいます。もちろん,開成高校の野球部にだけ通用するセオリーだといいます。
 それには理由があります。開成高校の野球部員は,そのほとんどがそれまで野球を経験していません。いわゆる素人集団です。ですから,キャッチボールもまともにはできません。投げそこなったり,受けそこなったり,は当たり前。しかも,グラウンドを全面使って練習できるのは週に一日だけ。となると,基本から練習して・・・などと言っている時間はありません。そこで,練習はもっぱら「打撃」に集中します。つまり,点をとる野球です。しかし,それも週に一日だけ。あとは,「素振り」の練習。こちらは,グラウンドの片隅でもできますし,家でもできます。毎日,毎日,「素振り」だけは欠かさないで,黙々と練習をすることができます。
 しかも,部員たちのほとんどが東大進学をめざしています。自分で目標を立てて,それを実行する,つまり,みずからを律することに関しては,他の追随を許さないほどの高い能力をもっています。部員によっては,バッティング・センターに通って,自分なりのメニューをこなしている,ともいいます。つまり,野球部としての全体練習は週に一日だけ。あとは,土日をつかっての練習試合。この練習試合をとおして,かれらは「実験と検証」を重ね,みずからの力量を高めていく,というのです。
 この練習試合でも,最初のシートノックをみて,相手チームの失笑をかうほどの下手さを,惜しげもなく見せつけるのだ,と監督さんはいいます。なぜなら,相手チームを油断させ,その油断をついて集中打を浴びせ,コールドゲームで勝つ,これが開成高校野球部の唯一の「勝ちパターン」だというわけです。
 実際にも,東東京大会予選で,ベスト16に入ったときのチームはこのパターンで勝ち進んだ,といいます。そして,ひょっとしたら甲子園も夢ではない,と確信しているともいいます。ヒデミネさんも,この本を書き終えたいま,こんなチームが甲子園にでてくると面白いし,大いに期待している,とも書いています。
 野球の原点は「打つ」こと。打ち合って,その得点を競うゲーム,それが野球の原点です。詳しいことは省略しますが,その野球の原点回帰を目指すのが開成高校野球部のセオリーだ,というわけです。
 ここには書き切れなかった面白い「秘策」が満載です。野球とはいったいなんなのか,わたしたちが馴染んでいる野球の常識をくつがえす,不思議な世界がそこには広がっています。つまり,勝敗を度外視した野球の醍醐味を開成高校野球部の部員たちは,こころの底から満喫しているように,わたしは受け止めました。
 まずは「目からうろこ」の連続です。ぜひ,ご一読をお薦めします。

2014年3月7日金曜日

小津安二郎監督作品にながれるゆったりとした「時間」。1955年前後の日本。

 退院後,焦らずに「ゆるゆる」過ごすように,と多くの友人たちから忠告を受けました。しかし,この「ゆるゆる」がむつかしいのです。約1カ月の不在は,なにかと片づけなくてはならない雑用を山のように溜めこんでしまっています。ですから,気持ばかりが焦ります。その他にも裁かなくてはならない仕事の山が待っています。


 しかし,幸か不幸か,こころもからだもついてはきません。まだ,それだけのレディネスができていないということです。所詮,病人は病人なのですから。退院したとはいえ,完璧な状態にはほど遠い,そういう自分がはっきりとみえています。なので,無理は危険である,と自分でもよくわかっているつもり。


 そこで,映画でも鑑賞しながら愉しい時間を過ごそうということになり,小津安二郎監督作品ばかりを集中的にみています。なぜなら,小津作品の時代がわたしの青春時代と重なるからです。時代は1955年前後。わたしが高校生から大学生になって,上京したころ。このころの日本の風景やファッション,会話のテンポ,人のこころの温かさ,世代間の微妙なズレと葛藤,親子の情愛,そして,なによりも映画全体をながれるゆったりとした「時間」,などなど懐かしい映像が盛りだくさん。どっぷりと,わが「青春時代」に浸ることができ,大満足です。
 まず,衝撃的だったのは『東京物語』。昭和28年(1953年)の小津作品。わたしが高校1年生のときの作品。当時も大きな話題になりましたが,田舎育ちのわたしには映画は無縁の存在でした。それでも,原節子という女優が素晴らしい,というので街中の映画館に飾ってあるスチール写真に見入ったものです。のちに,この作品は小津安二郎の撮った映画のなかでも傑作とされ,今日もなお高く評価されています。
 尾道で暮らしている老夫婦が,東京で暮らしている息子(町医者),娘(パーマ屋),死んだ息子の嫁(会社員)を尋ねるも,みんな忙しくて応対に苦慮しているさまを察して,早めに尾道に引き上げます。が,老夫婦の妻が汽車のなかで異変を起こし,大阪で途中下車して息子(末っ子)のところで休息。翌日,尾道に帰るもそのまま妻は寝込み危篤状態に。「ハハキトク」の電報を受けとった東京の息子・娘・嫁が馳せ参じます。全員揃ったその日の深夜,息を引き取り,通夜・葬儀を済ませて,早々にみんな東京に帰っていく。そのなかで死んだ息子の嫁(原節子)だけがひとり残り,老父としばしの会話をとおして実の親子以上の情愛に結ばれる,という話。
 たったこれだけの話です。が,全体をつつむ「時間」のながれはじつにゆったりとしていて,いまとは隔世の感があります。なにがあってもあわてず,騒がず,淡々と時間のながれに身をゆだねている老夫婦の姿が印象的です。そういう中にあって,息子(町医者)と娘(パーマ屋)と末っ子の息子(鉄道員)だけは,自分たちの生活を守るために「自己中心」的な行動をとります。ここに現代の世相への移り変わりの端緒をみる思いがしました。
 1953年といえば,敗戦からたった8年後。まだ,物質的にはまことに貧しい時代です。主食の米も配給の時代です。夕刻になって味噌が足りないと隣の家に「おばちゃん,味噌,貸して」と駆け込んだものです。隣の家からも「おばちゃん,たまり,貸して」とこどもが駆け込んできます。みんな助け合いながら日々の生活を乗り切っていくのに精一杯でした。着るものもありません。靴もありません。みんながみんな貧乏で,不自由していましたので,それが当たり前でした。
 そういう時代背景を肌をとおして知っていますので,この映画『東京物語』から伝わってくる情報量もはんぱではありません。それぞれのカットやシーンをとおして,いままで忘れていた記憶が一気に頭を持ち上げてきます。それらはひとことでいえば,ただただ「懐かしい」,それだけです。と同時に,人間が生きる原風景を再認識させられる機会でもありました。
 1953年。もちろん,家には電話もラジオもありません。緊急連絡は電報のみ。冷蔵庫もテレビもありません。自転車もありません。みんな歩いていました。いまでは考えられないような遠距離を,ごく当たり前のようにして歩いていました。娯楽もほとんどなにもありません。年に一回の村祭りのときに,神社の境内で芝居がかかり,それをみるのが唯一の娯楽でした。
 そんな時代に,尾道から東京まで,老夫婦は息子・娘たちに会いたい一心で,過剰な期待をもって尋ねていくわけです。しかし,その期待はことごとく裏切られ,傷心のまま尾道に引き上げます。帰りの東京駅で「午後9時発の列車だから,明日の午後1時には尾道につく」という会話をしていましたから,なんと16時間もの長旅です。が,これが「当たり前」の時代でした。
 それに比べたら,いまは便利な時代になりました。が,その利便性優先の社会が,わたしたちのこころをどれほど貧しくしてしまったか,考えると空恐ろしくなります。そして,昨今の,信じられないような「事件」の連鎖です。この「利便性優先の社会」がもろくも音を立てて崩壊していく,その現場にいまわたしたちは立ち会わされている,そんな気がしてなりません。
 小津安二郎監督作品には,そんな新しい時代への警鐘も,ちゃっかり埋め込まれています。
 ゆったりとした時間を「ゆるゆる」生きるのは至難の業・・・でも,これを取り戻すことが現代社会の喫緊の課題でもある,とも小津作品は教えてくれました。

2014年3月4日火曜日

臨戦体制に入ったロシアにパラリンピックを開催する資格はあるのか。

 いま,ざっとインターネット情報をおさらいしてみたところ,すでにクリミア半島を実効支配し,ウクライナに対する軍事行動について議会の承認をとりつけたプーチン大統領は,完全なる臨戦体制に入っているようにみえる。そして,いま,水面下の攻防が激しく展開している様子も浮かび上がってくる。事態はまったく予断を許さない危機的な情況にあることは間違いないようだ。


 だとしたら,これから始まろうとしているパラリンピック冬季大会(2月7日開会式)をロシアが開催する資格が問われることになる。曲がりなりにもオリンピックは国際平和運動の一環として開催されてきた。たとえば,1940年に予定されていたオリンピック東京大会は,日本の開戦を理由に返上したという経緯もある。


 いつ戦争が始まるかもわからない,そんな不安定な状態のなかで,すでにソチに集結している選手団はいまどんな思いで過ごしているのだろうか。地理的にみても,同じ黒海に面しているクリミア半島とソチとは,まさに目と鼻のさきの距離だ。試合に臨むコンディションづくりどころではないだろう。不安の日々にさいなまれているに違いない。


 こんな情況のなかでも,IOCに特別な動きは報じられていない。精確にはオリンピック憲章を確認してみる必要があるが,少なくとも,IOCは開催国であるロシアに対して,いかなる理由があろうとも,オリンピック開催中は戦争をしない,という確約はとりつけるべきではないのか。


 すでに現地入りしている日本選手団に対して,JOCも日本政府もなにか特別の対応をしようとしているようには見受けられない。このまま静観して,そのままパラリンピックに突入していくことを願っているかのようだ。


 それどころか,日本政府は,アメリカの対応を無視するかのように,ロシアにすり寄り,これまでの外交路線を維持し,北方領土問題などの難題解決に向けて努力するという。となると,いよいよ日米同盟に亀裂が入ることになり,一部の報道によれば,ケネディ日本大使を一時召還するという話も,にわかに現実味を帯びてくることになる。となると,安倍政権の根幹をゆるがす大問題に進展していく可能性がある。いよいよアベノミクスも断末魔か。


 事態は風雲急を告げつつある。アメリカもEUも,ウクライナを守るために重大な決意をしている,という情報も流れている。つまり,単なる経済制裁くらいでは納まらない,という話だ。


 気の毒なのは,すでに現地入りしている選手団だ。身動きがとれないまま右往左往するだけだ。ある意味では人質でもある。いけにえ,見殺し,・・・・ことばがない。それでもなお,ソチのパラリンピックの応援に行くという人たちもいる,という。これまた不思議な現象というしか,ことばがない。


 いずれにしても,パラリンピック・ソチ大会開催に対するロシアの責任は重大である。願うべきは,いかなる理由があろうとも,ドンパチだけは回避する,ただ,それだけだ。そこに向けて世界の叡知を傾けるときだ。わたしはそこに期待したい。


 はたして,この行方やいかに。

2014年3月3日月曜日

東京五輪はますます「復興」を風化させていく・・・・?!

 今日(3月3日)の東京新聞によると,被災42市町村長へのアンケート調査の結果,「復興に遅れ」が過半数を占めているという。しかも,9割以上の市町村長が「風化を感じている」という。そして,これからさきの見通しも暗い,と。


 同記事の書き出しを引いてみよう。
 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故で大きな被害を受けた岩手,宮城,福島三県の四十二市町村長のうち過半数の二十四人は,復旧,復興が遅れているか進んでいないと受け止めていることが二日,共同通信のアンケートで分かった。震災や原発事故の風化を感じると回答したのは九割超の四十人に上った。


 以上が記事の一部である。そして,「風化を感じる」(九割超)と答えた人の多くが,「東京五輪の話題が被災地への関心離れを助長する」という懸念を示しているという。


 いまも記憶に残るあのIOC総会での東京五輪招致のためのプレゼンテーションでは,入れ代わり立ち代わり「東京五輪は復興に役立つのだ」と口を揃えて訴えていた。そして,このことが最終的に東京五輪に票が流れた大きな要因だった,とも言われた。その「復興」が風化しつつあるという。しかも,その理由が東京五輪の話題ばかりが脚光を浴びて,「復興」はその影に隠され,意識から薄れつつあるというのだ。


 それだけではない。実際にも,東京五輪にともなう巨大事業の展開が待ち受けていて,「復興」に従事していた大手ゼネコンが被災地から引き上げはじめ,その拠点を東京に移しつつある,というのだ。のみならず,東京五輪がらみの事業規模があまりに巨大なので,人材も資材も不足していて,経費も雪だるま式に膨れ上がっている,という。となると,「復興」はますます後回しにされ,風化の一途をたどるしかない,とも言われている。


 そこにきて,新しく選出された都知事は,東京を世界一の都市にする,東京五輪を歴史に残る立派な大会にする,と誇らしげに宣言している。もうすでに,この都知事の頭のなかには「復興」の二文字はほとんど意識されていないに違いない。この点は,「転ぶ」で名をなした組織委員会会長も同じだろう。もちろん,時代錯誤もはなはだしい「強い日本」をとりもどそうなどという頓珍漢なことを言っている首相をはじめ,政府自民党も大同小異だ。もはや,かれらにとって「復興」は,笛吹童子を演じていればいい,という程度のものでしかないのだろう。


 と思っていたら,成田─東京─羽田を結ぶ新線建造案に調査費がついたという情報が流れた。総工費6000億円という。これでまたゼネコンがここに集中してくることは間違いない。となれば,人も資材も足りないという情況が,ますます深刻化してくることになる。しかも,この新線建造は東京五輪には間に合わないのだそうだ。


 かててくわえて,原発の再稼働だという。いったい,この国はどこに向かって活路を見出そうとしているのだろうか。やっていることがはちゃめちゃである。


 入院中に熟読させていただいた『3・11以後この絶望の国で──死者の語りの地平から』(西谷修×山形孝夫著,ぷねうま舎,2014年2月刊)が,いま,わたしの頭のなかで渦を巻いている。やはり,もう一度,読み直そう。わけのわからない濁流に流されないように。そして,自分自身の立ち位置を確保するためにも。

からだの声に耳を傾ける。からだをゼロからリセットするということの経験。

 3週間余の入院生活はわたしのからだを一変させてしまったようです。そのことに退院4日目にしてようやく気づきました。そこであわてて,いま発しているわたしのからだの声に耳を傾けてみました。これまでに聞いたことのない声がつぎつぎに聞こえるようになり,いささかあわてているところです。そして,少しずつわかってきたことは,わたしのからだは一度,ゼロにもどってしまって,そこからリセットをしているのだ,ということでした。


 一度,ゼロにもどってしまったというのはどういうことかといいますと,つぎのようなことを意味します。全身麻酔をかけられたとき,わたしのからだの筋肉は全身弛緩してしまい,まったく意のままにならない,完全なる他者性にゆだねられることになります。それが,自己呼吸の停止であり,人工(マシーン)の手を借りて呼吸をさせられている状態です。もちろん,術中の4時間は,随意筋もすべて弛緩したままです。ということは,すべての筋肉細胞の活動が一時停止していたということを意味します。これが,わたしのいうゼロの意味です。


 手術後も,意識はもどりましたが,わたしのからだは他者のままです。ですから,手術台からベッドに移され,そのままICU(集中治療室)に移動です。そして,午後から翌日の朝まで,完全監視体制のもとに管理されています。心電図は常時グラフを描きつづけ,15分おきに血圧と体温が測定され,その他のわたしの与り知らぬ医療機器がぐるりとわたしを取り囲み,なんらかのデータをはじきだしているのです。排尿ですら,尿管をつけられ自動的に済まされるようになっています。まさに,わたしの身体はわたしの身体であって,わたしの身体ではない,そういう状態に24時間体制で管理されていたわけです。このこともまた,わたしのいうゼロの意味です。


 すなわち,二重三重にわたしは「身体の零度」を経験したことになります。


 そこから自力で自分のからだを動かすことをはじめるわけです。
 最初の課題は,ベッドから起き上がって,両足で床の上に立つ,というものでした。からだをちょっと動かすだけで全身に激痛が走ります。両腕をふとんから出して上に挙げただけで,肩から背中の筋肉に至るまで,激痛です。最初は,これは手術の傷の痛みが全身を駆けめぐっているのだ,と思っていました。だから,寝返りも打てません。さすがに最初のときは看護師さんが幇助してくださり,なんとか立つところまではできました。しかし,顔は激痛にゆがんでいます。そして,この激痛はすべて手術の傷のせいだと判断していました。しかし,いま,冷静に考えるとそれだけではなく,24時間近く弛緩状態にあった筋肉が動き始めるときの激痛でもあった,ということが素直にわかります。


 それはすでにこのブログでも書きましたように,退院した日の夕刻,スーパーに食材の買い出しにでかけ,重い荷物をもって帰ってきた直後におきた全身の激痛がそれです。病院では歩行運動は熱心にやってきましたが,上半身の力を使う運動はなにもやっていませんでした。ですから,脳の記憶では大した重量ではない,と思っていてもからだの記憶としてはゼロからのスタートです。たいへんな重労働であったわけです。腹筋をはじめ,背筋,脇腹の筋肉,大胸筋,上腕二頭筋,ありとあらゆる筋肉がずーっと休眠状態だったところに,いきなりの負荷がかかったのですからたいへんです。


 それと同じようなことが今日も起きました。ニンジンを輪切りにしてから皮を剥く,というごくなんでもない作業です。ところが・・・です。なんと,三つ目の輪切りの皮を剥きはじめたところで,左右の手の指が一気に痙攣しはじめたのです。最初はなんのことかわけがわからず,じっと眺めていました。次第に痛みが増してきましたので,あわてて湯冷まし状態になっていたやや暖かいやかんに手をあてがい暖をとることにしました。数分後に指の硬直がとれて自由になりました。


 なるほど,リハビリテーションということの意味が身にしみて理解できました。親しい友人たちから「ゆるゆる」回復をめざしてください,というメッセージが送られてきたことの意味も,はじめて納得。
恥ずかしいことこの上もありません。


 これまで長い間,からだについての自信過剰,健康過信に大あぐらをかいて生きてきたわたしに天誅がくだったのだ,と大いに反省しています。これからは,もう少し丁寧にからだの声に耳を傾ける努力をしたいと思います。それにしても「わたしのからだ」とはまことに不可思議なものであることは間違いありません。そして,まだまだ知る由もない「不思議な世界」が広がっていることも間違いありません。


 と考えると人生はまだまだ楽しみがいっぱいです。捨てたものではありません。これからはじっくりとみずからのからだと向き合い,上手に折り合いをつけながら生きていこうと思います。こころもからだもリセットして,ゼロからのやり直しです。そして,「ゆるゆる」と。

2014年3月2日日曜日

高梨沙羅ちゃん,おめでとう!約束どおりのジャンプ,あなたの意思の強さに感服。

 「とりに行ってきます」と高らかに宣言したときのきりっとした表情に,この子の意思の強さを感じました。なんの迷いもない,意識を一点に集中させた,みごとな応答ぶりにはいつも感心させられてきました。今回もそうでした。


 高梨沙羅ちゃん。あなたは,名実ともに世界一のジャンパーです。それはワールドカップ2連覇という偉業をなしとげたからではありません。そこに到達するための一回,一回のジャンプに籠めたあなたの「理想のジャンプ」へのあくなき探究心にあります。その集積が結果をもたらしたにすぎません。その長い道のりを淡々と,しかし,気力のかぎりの情熱をぶっつけながら,一回,一回のジャンプにもてる力のすべてを傾ける,その精神力と持続力こそが,世界に比類なきジャンパーとしてのあなたを育てたのだ,とわたしは受け止めています。


 もちろん,いろいろの人びとに支えられてあなたの才能が開花したことは間違いありません。が,その周囲の期待に応えようと創意工夫をつづけたあなたの生き方そのものが,あなたを大きく飛躍させる原動力になったことは間違いないでしょう。これもまたご両親からいただいた立派な才能というべきかもしれません。


 ソチ・オリンピックのときのジャンプもまた,まぎれもないあなたのジャンプそのものでした。ジャンプ競技とはそういう不確定要素があちこちに潜んでいます。だからこそ面白いのだし,むつかしいのだし,創意工夫を駆り立てる原動力にもなっているのだと思います。あくなき研究心,とどまることなき探究心,一つひとつ目標を定めてそれを克服していく強い意思と実行力,そうした努力の蓄積がこんにちのあなたを作り上げたのでしょう。そこのところに,わたしはこころからの敬意を表したいと思います。


 ワールドカップ2連覇など,たんなる通過点にすぎません。まだまだ若いあなたの未来に無限に広がっている可能性に向かって,あらたなる夢を追ってみてください。それはあなたが「理想とするジャンプ」の実現です。前人未踏の新境地がつぎつぎに開かれてくることでしょう。スポーツの究極の面白さはそこにある,とわたしは考えています。金メダルや2連覇などは,そこにいたりつくためのおまけのようなもの。それはそれで存分に楽しみつつ,めざすはあなたの最終ゴール,すなわち「理想のジャンプ」の達成です。


 ワールドカップの残り5戦をどのようにするかは,あなたの自由です。しかし,わたしは切望します。残り5戦は,勝敗を度外視した「理想のジャンプ」への第一歩と位置づけ,新境地へのチャレンジの「場」として活用されんことを。すなわち,あらゆるプレッシャーから解き放たれた,自由でのびのびとした,アーティスティックな「ジャンプ」をめざしてほしいのです。飛距離とか,勝敗の結果とか,そんなものとはまったく無縁の世界,見る者をして「感動の渦」に巻き込むような,あるいは,生涯の記憶に残るような「美しい」ジャンプをめざしてほしいのです。


 来年からの3連覇なんて考える必要はありません。世界中の人びとの目を釘付けにするような,「天人飛翔」とでもいうべき新境地をめざしてください。あなたならできる,そうわたしは確信しています。


 高梨沙羅という類稀なる才能に出会えた僥倖にこころから感謝したいと思います。
 わたしのこころの底からのエールは以上で終わりです。


 高梨沙羅ちゃん,おめでとう! そして,ありがとう!

死の疑似体験3回。貧血2回,全身麻酔1回。

 人は自分の死を確認することはできない,といいます。それはそうでしょう。かりに「あっ,死ぬのかな」という予感があったとしても,死線を超えた瞬間にもはや自分は存在しないのですから。その死は他者によって確認されるしかありません。


 その死線を超える疑似体験を2月に3回も経験することになりました。
 まずは,2月4日に貧血で2回,倒れました。まさか,このわたしが貧血で倒れるなどということはまったく予期せざることでした。しかし,現実には倒れたのですから,世の中,いつ,なにが起きるかは予想だにつきません。


 2月4日の夕刻,睡眠不足もあって,午睡をとっていました。そこに親しい友人から電話が入りました。ベッドに横になったまま電話の子機で話をしていました。あまり長話をしていたために子機の電池が切れてしまいました。仕方がないので親機のところまで行こうとベッドから起き上がり,4,5歩進んだ瞬間でした。一瞬にして意識がなくなり,そのまま前のめりに倒れてしまいました。すぐに意識はもどったのですが,全身に痙攣がきていて,からだの自由がききません。それでもスローモーションのように,ゆっくりと体勢をととのえ,ベッドまで這ってもどりました。そのまま安静にしていたら,すぐに眠りに落ちました。


 つぎは,尿意をもよおして目が覚め,恐るおそるベッドの上に起き上がり,しばらくベッドに腰かけたまま様子をみました。意識はしっかりしています。そこでゆっくりと立ち上がってみました。別にふらつくこともなく立っていました。これなら歩いて行けると判断。そして,1,2歩足を運んだかと思った瞬間,倒れていました。この前と同じ。意識がもどったところで必死になってトイレまで這っていき,便座に腰を下ろして排尿。そして,ベッドまで這って戻りました。


 以後の排尿はトイレでは無理だと判断し,ビニール袋を用意して,それで済ませることにしました。そして,翌5日の午後,気分もよくなったので,もうそろそろ立って行けるのではないかとベッドに腰かけたまま様子をうかがってみました。が,なんと急に吐き気がして,あっという間に昼に食べたお粥を吐いていました。これで終わりだと思ったら,つづけて2回目の吐き気。こんどは真っ赤な血を吐いています。吐血です。直感したのは「胃潰瘍」。


 これは尋常ではないと判断し,緊急入院しました。病院ではすぐに内視鏡による胃の検査が行われ「胃潰瘍」と診断。すぐに,輸血がはしまりました。血液の数値がふつうの人の三分の一しかなかったといいます。問題は,この胃潰瘍という診断が二転三転して,最終的には「胃ガン」と診断されてしまったことです。これはいささかショックでした。


 そして,2月17日の手術です。全身麻酔です。事前に麻酔医からくわしくその段取りを聞いていましたので,その指示どおりに応答していきました。そして,最後に「大きく息を吸って」という声を聞いて,そのとおりに大きく息を吸いました。その瞬間,意識がなくなっていました。その一呼吸の間に,自己呼吸は停止し,人工呼吸に切り換えられます。ですから,自己呼吸をしていないという点では明らかに臨死体験にも等しいに違いない,とこれは自分の解釈。それから4時間後,肩をポンポンと叩かれ,名前を呼ばれました。「ハイ」と返事をすると「手術は無事に終わりましたよ」という声。そこですぐに「ああ,そうだった」ともとの意識にもどっていました。


 そして,結論。意識がなくなる瞬間は自分ではまったく関知しないできごとなのだ,ということ。つまり,死の瞬間もこんな風にして突然,やってくるに違いない,と。死ぬという意識もなにもないまま,あっという間に死線を超えていくのだろう,と。だとしたら,死ぬこと自体はなにも恐れるに足りないということ。つまり,死を意識する前に死線は超えてしまっているということ。


 これが本当であるかどうかはわかりません。が,少なくとも,いまのわたしは確信しています。死ぬというできごとはこんなものなのだ,と。だから,いまさら死ぬことを恐れる必要はまったくない,と。死ぬときは死ぬ,死なないときは死なない,ただ,それだけのことだ,と。


 わたしの尊敬していた大伯父が,「まんだぁ,お迎えが来んでなぁ,生きとるだぁやれ」と会うたびに言っていたことの意味が,ようやく少しだけ理解できたように思います。その意味では貴重な体験をさせてもらった,となんとなく感謝したい気持です。あまり自慢できるような体験ではありませんが,これからの人生を考える上では,なにものにも勝る宝物を「贈与」されたような気分です。


 今夜のお恥ずかし話はここまで。