2012年3月31日土曜日

「尾てい骨を巻き込むようにして脚を送り出しなさい」(李自力老師語録・その10.)

「尾てい骨を巻き込むようにして脚を送り出しなさい」と初めて言われたとき,なんのことだろう?と考えてしまった。第一,尾てい骨を巻き込む,などということをやったことがない。それどころか,尾てい骨を動かすなどということは考えたこともなかった。それよりなにより,尾てい骨を動かすことなど可能なのか,と必死で考える。そして,意識して動かしてみようとする。尾てい骨は微動だにしない。ああ,困ったと頭をかかえこむ。

納得がいかないので,例によって,李老師に必死に食い下がる。やさしい李老師は,そのつど,丁寧に教えてくださる。手指の動きで説明してくださったり,じっさいにやって見せてくださったり,とさまざまである。あとは,そこに意識を集中させて,繰り返し稽古をするだけです,と仰る。

不肖の弟子は,なかなか自分ひとりで稽古するということができない。だから,遅々として上達しない。みんなと一緒の稽古のときに,いつも同じ注意を受ける。恥ずかしい,が自分が悪いのだから仕方ない。何回も何回も同じ注意を受けつづけていると,そのうちに「あれっ,このことかな?」という感覚が尾てい骨の周辺に現れる。ようやく意識とからだとがつながりはじめる。なんとなく,こういうことなのかな,という「イメージ」が湧いてくる。

若いころに熱中した体操競技では,新しいワザを習得するときに,まず最初に「イメージ」をつくることからはじめる。ワザのイメージがはっきり脳裏に描けるようになると,こんどはからだが少しずつ反応するようになる。こうなったらしめたものだ。あとは繰り返し練習するのみ。

そのつもりで,まずは「イメージ」を固める。そして,こんどはからだの感覚に置き換える。そして,からだが反応しはじめたら,あとは面白くなるので,おのずからひとり稽古がはじまる。そして,ひたすら「尾てい骨を巻き込むようにして脚を送り出す」を繰り返す。

でも,それが自然に,無意識のうちにできるようになるには時間がかかるようだ。わたしのからだは「太極拳する身体」には,まだ,ほど遠い。だから,いまは意識的に試みている。だから,たまにしかうまくはいかない。でも,この「うまくいったな」の回数を増やせばいいのだ,とみずからを励ます。これが,いまのわたしの課題だ。

上達するということは,どこまでその運動を分節化できるか,ということと表裏の関係にある。そして,分節化した運動をなぞりながら,納得のいくまで稽古をすること。やがては,考えなくてもできるようになる。あとは,仕上げるだけ。ゆっくりと,静かに,滑らかに,しかも力強く,流れるように。

尾てい骨とは解剖学では仙骨という。この仙骨は,そのむかし,わたしたちの祖先が尻尾をもっていた名残りの骨。つまり,尻尾が退化して残った遺物。ふつうは,3~5個の骨がくっついている。が,時折,もっとたくさんの骨をもっている人がいる。つまり,小さな尻尾をいまも保持しているという次第。

尻尾だったのであれば,動かすことができるはず。でも,仙骨になってしまったいまは,ふつうの人にはほとんど困難。しかし,李老師の「尾てい骨」は,幼少のころからの長年の稽古の結果,どうやら動いているらしい。みずから示範してくれるときなどは,「はい,ここで尾てい骨を巻き込んで,その力で脚を前に送り出す・・・」というような説明をされる。じっさいに,どのようになっているのかは想像の域をでない。しかし,李老師の大臀筋が不思議な動き方をしているのは,稽古着の上からもみてとることができる。ああ,大臀筋のつき方からして違う,ということがわかる。

太極拳は奥が深い。しみじみとそう思う。だから,愉しい。
いつの日か,李老師の仰る「からだの快感」が感じられるように,それを夢見ながら・・・・。

〔追記〕
「尾てい骨を巻き込む」とは「仙骨を動かす」と同義。「仙骨を動かす」は「尻尾を振る」と同義。だとすれば,先祖返りをするということ。すなわち,人間性を生きているわたしたちのからだに,もう一度,動物性を生きていた時代のからだを取り戻すこと。もっと言ってしまえば,内なる他者と自己同一すること。なるほど,李老師のからだに「快感」が駆け巡るとはこういうことだったのだ,と納得。太極拳する身体と,坐禅する身体とは,そのゴールでは同じ。すなわち,「恍惚する身体」=エクスターズ。ああ,バタイユのいう「非-知」。禅仏教でいえば,「禅定」。
こういう身体の行き着くところは,なぜか,みんな同じようなところに集まってくる。この話は,また,いつか,詳しく書いてみたい。宿題としておく。
李老師もまた,最近は時間をみつけて,太極拳に関する古い文献を渉猟している,と聞いている。そして,やはり,みんな同じような世界に到達している,という。この話も,また,いずれ。

「上体ではなく,腰を回転させなさい」(李自力老師語録・その9.)

片足立ちの姿勢からもう一方の足を斜め前に送り出し,ゴンブ(弓歩)の姿勢に入っていくときは(イエマフントゥン,ロウシアウフ,など),上体を回転させるのではなくて,腰を回転させなさい,と李自力老師は仰る。これが,じつは,意外にむつかしい。手足の動きに合わせて上体を動かすことは,日常的な動作にも多くあることなので,比較的やりやすい。だから,ついつい,手足の動きと一緒に上体を回転させてしまい,最後に腰を回転させる,という順序になってしまう。しかし,太極拳の場合には逆で,腰を回転させれば,その上に乗っている上体は自然に回転する。これが武術としてはもっとも合理的な動作なのだ,と仰る。

ことばで説明すれば,たったこれだけのこと。だが,この動作を言われたとおりにできるようになるには,相当の稽古を積まなくてはならない。じつは,単純な動作ほどむつかしい。しかも,ゆっくりと,滑らかに,流れるように表演するのは,もっともむつかしい。これができるようになるには,まず第一に,脚に充分なエネルギーを溜め込むことのできる筋力が必要だ。しかも,その筋力を全開で使うのではなくて,必要最小限の筋肉だけを働かせて,必要のない筋肉は弛緩させておくことが肝腎だ。つまり,緊張させつつ弛緩させる,そういう脚筋力をわがものとすることが先決だ。

このことは最近になって,ようやく,わたしなりに理解できるようになってきたことだ。しかし,最初のころは,なにが,どのようになって,李老師のような「ゆったりと」,そして「滑らかに」,しかもたえず止まることなく「流れるように」足を運び,手足が動くのかわからなかった。それを知りたかったので,わたしはしつこく何回も食い下がる。そのつど,李老師はにこやかに応答してくださる。たとえば,以下のように。

片足に加重するときは,加重とともに大地から足裏をとおして気エネルギーを吸い上げなさい。吸い上げた気エネルギーは股関節・骨盤をとおしてもう一方の足に送りなさい。そして,その足に加重しながら気エネルギーを大地に送り返しなさい(ゴンブ)。そして,つぎの動作に移って体重を移動させ,片方の足に全体重をかける動作に入るときには,大地から気エネルギーを吸い上げ,股関節・骨盤をとおして斜め前に送り出す足に気エネルギーを送りなさい。これを,こまかな動作のときにも,交互に行えばいいのです。

まるで禅問答みたいなものである。じっさいに動いてみると,このときはこう,そして,こんどはこう,と理屈ではわかるようになる。しかし,大地から上がってくる気エネルギーとはどういうものなのか,まったくチンプンカンプンでわからない。しかし,李老師のからだをつぶさに観察していると,手の指先が微妙に震えている。気エネルギーがからだを流れるようになると,自然に指先から流れ出るようになる,と李老師は仰る。しかも,快感だ,とも。

さあ,困った。ますますなんのことかわからなくなる。で,どうすればいいのですか,と李老師に尋ねる。できるだけなにも考えないで,無心になり,集中力を高めながら稽古を積んでいけば,いつか,そういう状態がやってくる,とのこと。そして,からだ全身に快感が広がるようになります,と。またまた,困ってしまう。

しかし,最近になって,わたしの頭の中で理解できるようになってきたことは,以下のとおり。
まずは,股関節を緩めることができるようになること,そして,腰の回転で上体を動かすことができるようになること,そのための脚筋力をしっかりつけること,そうすれば上半身の力を抜くことができるようになり,肩や手の力も抜けるようになること,そうなったときには大地から吸い上げた気エネルギーがからだ全身に広がるようになり,やがて,その一部は手の平にも達し,さらに指先から抜けていくようになる(のだろう)ということ。

そうなるためには,無心になり,集中力を高めながら黙々と稽古を積み,太極拳する身体をわがものとすることが肝腎だ,と李老師は仰る。ごもっとも,と理解する。しかし,それを実行できるかどうかが最大の問題だ。つまり,日々の積み重ねができるかどうか,その一点にかかっている。稽古に取り組む意識のレベルの問題だ。これは坐禅と同じだ,とわたしは考える。

2012年3月29日木曜日

大関鶴竜の口上に拍手。この男,ただものではない。大いに期待したい。

「これからも稽古に精進し,お客さまに喜んでもらえるような相撲を取れるよう努力します。」

大関昇進を伝える使者のことばを受けて,新大関鶴竜が述べた口上である。わたしが記憶しているかぎりでは,このような口上を述べた新大関を知らない。大関も横綱も,みんな四文字熟語を軸にして,口上を述べるのがある種の慣例になっていた。その慣例を賢い鶴竜が知らないはずはない。ましてや,親方もその周囲の後援会の人びとも,これまでどのように口上が述べられてきたかは熟知しているはず。にもかかわらず,それを度外視して,このような口上を述べるに至ったほんとうの経緯が知りたい。わたしのアンテナでは,まったく知るよしもない。しかし,わたしの観測では,鶴竜の強い意思だったのではないか,と思う。

バスケットボールが大好きだったモンゴルの少年が,日本の大相撲に「ビビッ」と感ずるところがあって,みずから手紙を書いて,大相撲の門を叩いた。そのとき,少年は16歳。名前はマンガラジャラブ・アナンダ。父親はモンゴルの大学教授。専門は再生エネルギー(これもなんだか奇縁というべきか)。

その手紙を受け取った井筒親方(元関脇逆鉾)はとりあえず面接してみる。細くて小さくて,これは無理かなぁ,と思ったという。しかし,じっとこちらを見つめてくるまなざしが16歳の少年とは思えなかったという。それをみて意思の強そうな子だから,ひょっとして・・・と考えたという。それから10年。臥薪嘗胆。ほんとうによく耐えたと井筒親方はいう。ずいぶん厳しいことを言ったが,かれはすべて真っ正面から受け止め,それを稽古する姿勢で示してきたという。その芯の強さに驚き,これは?と考えるようになった,とか。

同世代で大活躍しているモンゴル出身の力士たち(白鵬,日馬富士,など)を横目でみながら,いつかは自分も・・・とじっとこらえたという。そして,とうとう,大関の地位を獲得した。しかも,文句なしの成績で。横綱白鵬とは本割で勝ち,優勝決定戦では対等の勝負をし,もはや実力は五分。いまや,一番,白鵬を脅かす存在は鶴竜だ(とわたしは確信している)。

28日の夕刊(『東京新聞』)には,大関昇進伝達式のときの写真が大きく載っている。みると使者は元関脇寺尾。鶴竜の親方は元関脇の逆鉾。なんと兄弟ではないか。しかも,寺尾は鶴竜の兄弟子でもある。新弟子のころ,稽古をつけてもらった人だ。粋なはからいというか,たまたまの偶然というか,縁とは不思議なものだ。実弟の述べる口上を,じっと頭を下げて聞いている実兄の兄逆鉾。そして,その兄弟子である寺尾に,冒頭の口上を述べる鶴竜。相撲好きの人間にとっては,たまらない場面。そのまま映画にもなりそうな・・・・。

大関昇進のお祝いには,ご両親もかけつけ,テレビにもさまざまな映像が流れた。なかでも,新聞に載っていた写真をみて,わたしは涙した。鶴竜を真ん中にしてお父さんが右側,お母さんが左側に立っている。そのお母さんが,右手で鶴竜の頬に触れている。鶴竜は嬉しそうに正面を向いて笑っている。その会見が終って,歩きはじめたら,お母さんの左手がすっとのびて行って鶴竜の右手をつかんだ,と書いてある。またまた,わたしは涙した。いいなぁ,いいなぁ,とむせび泣きながら。これを書きながら,わたしはふたたび涙している。共感の涙,そして,幸せの涙。こういう場面に涙することができる自分自身を幸せだと思う。

鶴竜は強くなる。そして,必ずや横綱になる。そういう意思の強さが顔にでている。いや,それをわたしは感じる。感じ取れる。立派な,味のある横綱になるだろう。白鵬とはまったく違った横綱に。気の早い話ではあるが,わたしはその日を心待ちにしている。そして,そのときもまた,ちょっと恥じらいながら,哀愁を帯びた笑顔をみせてくれるだろう。

そして,横綱昇進の口上も,まったく同じことを述べるのではないか。
「これからも稽古に精進し,お客さまに喜んでもらえるような相撲を取れるように努力します」と。
なぜなら,この口上は完璧だから。すなわち,大相撲が興業であることを熟知していて,お客さまあっての稼業であることをしっかりと自覚している。そして,そのために「稽古に精進する」と高らかに宣言しているのだ。そのことを,ごくふつうの日常語で語ったところが偉い。

マンガラジャラブ・アナンダさん。そして,鶴竜さん。
井筒一門に伝わる双差しの名人ワザ。それは,親方の逆鉾から学び,突き押し,離れてとる相撲のワザは兄弟子の寺尾から学び,あなたにはいかなる相撲にも対応できる素地がある。しかも,それらをきちんと身につけている。これらのすべてが調和して,あるひとつの型ができあがったとき,それがあなたが横綱になるとき。

ああ,これは釈迦に説法でした。あなたは,こうしたことはすでに熟知している。あとは,それを実行に移し,それらを身に叩き込む稽古あるのみ。あなたならできる。あなたの顔をみていてそう思う。たぶん,親方の逆鉾さんも,そう確信しているに違いない。あなたの,16歳のときの真剣なまなざしをまともに受け止めてくれた親方は,すべてをお見通しだったのだ。

新大関鶴竜,おめでとう。
こころからお慶びを申しあげます。
あなたの相撲をそのまま積み上げていってください。横綱はその結果です。
迷わず,地道に。こつこつと。
理想的な横綱の姿が眼に浮かぶ。あくまでも自分であること。そして,その自分を超えでること。しかも,その連続であること。そここそユートピア。

『スポートロジイ』(21世紀スポーツ文化研究所紀要)創刊号発行の目処がつく。

「3・11」を通過して,「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)の研究活動も大きな影響を受けざるを得なかった。それにつけても,「原発安全神話」を見破ることもできないで,のうのうと生きてきたわが身が恥ずかしい。しかし,起きてしまったものは仕方がない。問題は,二度と同じ失敗をくり返さない,という覚悟を決めて,つぎなる道を模索することだ。そんなことをこの一年間,考えつづけてきた。そして,スポーツ史・スポーツ文化論を研究テーマに掲げる「ISC・21」としては,いかなる対処の仕方をすればいいのか,考えつづけた。

その結論のひとつが,「3・11」を後近代のはじまりと定置し,「3・11」以前までの近代論理に対して敢然と決別することだった。そこまでは,それほど思い悩むことはなかった。なぜなら,以前から近代論理とどこかで決別して,あらたに後近代の論理を立ち上げるべし,というのはわたしの大きな研究仮説として温めつづけてきたテーマでもあったからだ。が,いよいよ「3・11」がその世界史的なできごととしてその全貌が明らかになるにつれ,このタイミングを逃してほかにはない,と自覚されるようになったとき,では,いかにして,なにを,どのようにして後近代の論理を立ち上げればいいのか,具体的な方法となるとハタと困った。

しかし,これは偶然だったというべきか,あるいは,これこそが必然だったというべきか,そのいずれでもあるとも思われるのだが,ここ数年間,ますます深くジョルジュ・バタイユの世界にはまり込んでいた。そして,最近では,バタイユの『宗教の理論』こそ,スポーツ史・スポーツ文化論を考える上で,近代論理を超克し,後近代の論理の土台を構築するために不可欠の文献である,と確信するにいたっていた。だから,これをテクストにして神戸市外国語大学での集中講義(授業科目は「スポーツ文化論」)を展開するという,ある意味では無謀とも思われる授業に取り組んできた。

これが幸いした,といまでは信じている。
なぜなら,この授業内容を「研究ノート」として,「ISC・21」の紀要に掲載すべく原稿の整理をしていて,今日,ようやくそのおおよそのところの作業を終えることができたからだ。その研究ノートのタイトルは「『スポーツ学』(Sportology)事始め──ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』読解・私論」というものだ。その内容は,神戸市外国語大学の集中講義が近づくとそのつど,このブログで『宗教の理論』読解として連載してきたものである。もちろん,初出のものに必要なかぎり修正・加筆をして,最低限,活字にして保存するに値するよう努力をした。この作業が,じつは思いのほか手間取り,長いながいトンネルの中を走りつづけていた。

それが,昨日(28日),ようやくトンネルの出口の明かりがみえてきて,よし,これで行けるというところまできていたのだ。あとは,紀要としての体裁を整えるためのこまかな作業が残るのみとなった。だから,朝から気分爽快。おまけに,快晴。日差しは暖かいし,真っ青な空がいつもよりももっともっと美しくみえる。鷺沼駅に到着したら,もっと空気が澄んでいて,なんともすがすがしい気分。そこに出くわしたのが,植木屋さんの花々たち。

すべての条件が整ったところでの,花々たちとの出会い。まだ,仕事の目処が立っていなかったら,たぶん,「見れども見えず」の沈んだ気持ちのまま通りすぎたことだろう。

というわけで,いよいよ『スポートロジイ』創刊号の刊行が視野のうちに入ってきました,というご報告まで。いずれ,コマーシャルを兼ねて,このブログにも内容について書く予定。

「春は名のみの,風の寒さよ」などという歌が口をついてでてくる。
長いトンネルを抜けると,そこは「春の国」だった・・・・。

春爛漫の到来。暖かい日差しと冷たい風(太陽と北風)のせめぎ合い。

今日(29日)は,朝から快晴。暖かい日差しがなんとも心地よい。日当りのいい歩道を歩いていると,太陽の暖かみが衣服の上からも感じられ,もうすでに,春の真っ盛りではないかと錯覚を起こす。反対に,日陰の歩道に入ると,吹く風の冷たさに驚く。ああ,まだまだ冬だなぁ,と思う。なんだか,嬉しくなってしまって,日当りのいい歩道と日陰の歩道とを交互に歩いて,春と冬のせめぎ合いを楽しむ。そういえば,そのむかし(中学1年生),『北風と太陽』という英語劇をやったことがあって,どういうわけかわたしに「北風」の役が当たったことを思い出す。

鷺沼の,いつもの通りを歩いて植木屋さんの屋敷にさしかかると,桜の花が一気に開いているではないか。2~3日前(このところ天気が悪かった)までは,いまにも開きそうではあったが,まだ,つぼみだった。なのに,暖かい日差しを受けたからなのか,一気に開花している。この桜は,たしか「河津ざくら」という名札が,数年前まではぶら下がっていたはず・・・。でも,記憶に自信はない。もう1本の開花寸前の緋寒桜も,すでに準備万端とどこおりなしの態勢。明日か,明後日か。

そのすぐ傍に,白のモクレンが,これまたいまにも開花しようとしている。不思議なことに,みんな足並みを揃えるかのように,同じ大きさのつぼみになっている。ひとりくらいフライイングして,早めに咲き始めても可笑しくないのに・・・・。律儀な花だ。さくらの方が,なんとなく乱れ咲くような印象がある。幹に近い方のつぼみから咲きはじめるのが普通だが,ときおり,その法則に反する場所で開花することがある。だから,面白い。

さらに,少し離れたところでは馬酔木(あせび)の白い花が咲いている。こちらは,もう,しばらく前から咲いていて,順番に咲いては散っているようだ。日陰でも可憐な花を咲かせる辛抱強さが感じられる。ここの馬酔木はとても日当りのいいところにあるので,なんとなくおっとりと咲いているようにみえる。わたしの目の錯覚だろう。

今日は,事務所に到達するまでに,ふだんとはまったく異なる身体を味わいながら歩き,写真を撮った。それには理由がある。その理由は,つぎのブログでどうぞ。

下に今日,撮影した花の写真をならべておきます。
じっくりとご鑑賞ください。




2012年3月28日水曜日

原発事故の真相はすべて「藪の中」。責任逃れの構造と時間稼ぎ。一寸先は闇。

一寸先は闇。なんとも恐ろしい世の中になってきたものだ。それでいてテレビはなにごともなかったかのように,「3・11」以前よりももっとバカバカしい番組がゴールデン・タイムを埋めている。主要メディアは総力を挙げて原発の事故隠しに必死だ。国民もいつしか「マヒ」してしまって,原発事故のその後のことなどすっかり忘れてしまったかのように,「3・11」以前の日常生活に舞い戻ることに熱心だ。それが,まるで「復興」であるかのように。

原発?もう収まったんでしょ。政府がそういったんだから,そう信ずるしかないよ,とは東電に大口融資をしている銀行の役員さんの発言。わたしの古くからの友人。これを直接聞いて,わたしはあんぐりと口を開けたままだった。お前はバカか,と。秀才の誉れ高い,誇り高き友人だったはずなのに。東大を卒業したエリートである。ふたたび,一寸さきは闇だ,と思った。野田総理をはじめ,あなた方の「理性」はどうなってしまったのか,と問いたい。なんのための「理性」なのか,と。生身の人間が平和に生き延びるための「理性」ではないのか,と。

原発の事故の真相は,いまも,すべて「藪の中」。因果関係が明らかにならないかぎり,だれも責任をとろうとはしない。司法もまた,手も足も出せないでいる。国民の多くは,ほとんど事実関係はわかっているのに。でも,それを法廷で立証することができないために,みんな手をこまねいたままだ。それをいいことにして,東電も政府も,その他の原子力ムラの住民も,みんな「想定外」の上にあくらをかいて,のうのうと,なにごともなかったかのように平気で暮らしている。厚顔無恥。みんな,カエルの顔にみえてくる。

福島2号機の水位,わずか60センチ,といまごろになって東電が発表した。毎日9トン近い水を注入してきたのに。格納容器損傷か,という。いい加減にしてくれ,といいたい。毎日9トンもの水を注入しても,水が溢れ出てこない理由などは小学生でもわかる。みんな漏れ出していることぐらい,東電の関係者を筆頭に,だれもがわかっていたことのはずだ。それを,いまごろになって公表する。このことの方が恐ろしい。

じつは,もっと恐ろしいことが起こっていることをすでに察知していて,このままでは近いうちに制御不能の事態にいたりそうだという予測があって,それを前提にした予告ではないか,とわたしなどは真剣に考えてしまう。これまでの,細切れ的にほんとうの情報を,後追い的に少しずつ少しずつ公表してきた東電・政府の姿勢から,そう思わざるをえない。だから,むしろ,怖い。近い将来,もっと恐ろしいなにかが起きるな,と。

パスカルは『パンセ』のなかで書いている。有名な「賭け」の話のなかで。「神はいるか,いないか」と問われたら,文句なく「いる」という方に賭ける,と。なぜなら,「いない」という方に賭けてしまったら,その時点で生きる望みを失ってしまうから。「いる」という方に賭けておけば,さらに,確率二分の一の希望が残されるからだ,と熱っぽく書いている。

わたしたちは,いま,ちょうど,これと同じ状態に置かれている。原発は大丈夫か,と問われれば「大丈夫だ」という方に賭けるしかない。そうして,なんとか平穏無事のうちに収束することを願うしかないのだから。もし,「大丈夫ではない」という方に賭けたら,もはや,わたしたちの未来はなくなってしまう。だから,みんな息をひそめて,なんとか無事に「収束」して欲しいと,祈っるだけなのだ。それ以上の方法を持ち合わせてはいないのだから。

もはや,「祈る」しか方法がない,そういう現実を,わたしたちは生きているのだ。この科学万能と言われる時代に。なんとも矛盾した話ではないか。

にもかかわらず,利権にしか「理性」が働かないエリートたちは,「祈る」ことすら忘れて,既得権益にしがみつこうとしている。人間失格。

こんな人たちが,いまの日本を動かしている。
一寸さきは闇だ。情けないが,それが現実。

甲子園野球の開会式で,主催者や来賓の挨拶の,なんと白々しかったことか。それに引き換え,石巻工業高校のキャプテンが,とつとつと,しかし,無駄なことばを一切はぶいた,選び抜かれた思いの籠もったことばの,なんと重かったことか。「理性」とは,かくあるべし,とわたしは感動とともに涙した。そこには「祈り」のことばがあった。

わたし自身も大いに反省させられた。大勢の人の前に立ち,話をすることを生業としてきた人間のはしくれとして,あのキャプテンほどの力のあることばを,もう一度,取り返さなくてはならない,と。

国会答弁はもとより,記者会見などで語られる「偉い人」たちの,あのいい加減な物言いが,ごく当たり前のように許されている社会そのものが,こんにちの日本の社会の象徴として浮かび上がってくる。東電も政府も,どこもかしこも,みんな「無責任」体制の維持のためにしか「理性」を働かせていない,この体質こそが「3・11」を引き起こしたことを忘れてはなるまい。

わたしたちは,いま,ほんとうの「理性」とは,いかにあるべきか,ただ,この一点のみが問われているのだ。そのことを,いまこそ,肝に銘ずるべし,としみじみ思う。


2012年3月26日月曜日

74回目の誕生日。えっ,だれのこと?大きなシンビジウムがとどきました。

今朝の午前9時すぎに「ピンポーン」とインターフォンが鳴る。朝早くからだれだろうと思って,スイッチを入れる。「宅急便です」と元気のいい声。しばらくして玄関に現れた荷物は,わたしの背丈ほどもある細長いボックス。

「?ッ」と思いつつ,受け取る。ご依頼主の名前をみて,ああ,と納得。毎年,わたしの誕生日に鉢植えの花を送ってくれる人。かれがフランスの研究所の共同研究員として渡ってから,毎年,誕生日には花がとどく。そのかれも,いまは,日本に帰ってさる大学に勤務している。もう,ずいぶん長い間,直接,顔を合わせることはないが,誕生日には花がとどく。

わたしは,そのたびに,「ああ,今日は誕生日なのだ」と教えてもらう。花がとどくまで,自分の誕生日などすっかり忘れて生きている。この歳になって,こんなに忙しい毎日を送るとは夢にも思っていなかった。が,その忙しさがまことに楽しいのだから仕方がない。当分,この忙しさのなかに身を委ねておきたいと願う。

大きな梱包を開いて,中からでてきた「カード」をみて,もう一度,びっくり。「74歳の誕生日,おめでとうございます」とある。えっ,だれのこと?と考えてしまう。「そうか,おれもとうとう74歳になってしまったか」と無理やり納得させる。それほどに自分の年齢のことは忘れて日々を送っている。毎週水曜日に顔を合わせる太極拳の兄妹弟子のNさんもKさんも二人とも「寅年」。わたしも「寅年」。でも一回り違う。からだはまぎれもなくこのお二人よりは衰えているものの,気持(気分)の上では対等だと思い込んでいる。だから,74歳,と知って,「まさか?」と思ってしまう。

人間のからだは間違いなく加齢とともに衰えていく。しかし,気持はまったく関係がない。いつもお付き合いしていただいているひとまわり下の寅年さんと,気持は同じだと思い込んでいる。もし,あったとしても,少なくとも,2~3歳の違いくらいにしか思ってはいない。ましてや,太極拳の稽古に熱中しているときは,まったく年齢差なんて考えてもいない。

しかし,この花を送り届けてくれるY君には感謝。
人間はいつでも逆境に立たされることはある。その逆境に立たされたときに,どんなことばを掛けられるかは,その本人にとっては命綱のようにも感じられる。わたしも,若いころに,就職ができなくて,ずいぶん長い間,苦しんだ経験がある。生まれて初めて定職に就いたのは36歳のとき。3回目の寅年のとき。48歳の寅年のときウィーン大学に在外研究員。60歳で大学院教授。72歳で神戸市外国語大学客員教授。つぎの寅年の84歳のときには・・・・,などと夢見ている。

しかし,こうしてブログを書きながら,北海道にいるY君に思いを馳せる。もう,いいおやじになっているのだろうなぁ,と。最後に逢ったときは,かれがフランスに旅立つ壮行会のとき。わたしが声をかけて,わずかに4人だけの壮行会だった。小さな居酒屋で。でも,人のこころの絆は,それで充分。瞬間につながるものはつながる。長い時間があっても,つながらないものはつながらない。それは,啓示のようなものだ。その瞬間がくるか,こないか,ただ,それだけ。人生なんて,そんなもの。

でも,この歳になって誕生日に花がとどく,このわたしはなんと幸せな男であることか。これから,大きなシンビジウムの鉢植えの花を眺めるたびにY君のことを思い出すことだろう。ありがとう,Y君。君の人生はこれからだ。じっと耐えること,その間に,だれもやらないことをやって力を蓄積すること。それに耐えられるかどうか,それが人生を大きく分けていくことになる。いまは,自信をもってそう言える。Y君,いまが,勝負のときなのだ。じっと耐えて力を蓄積すること。

いまもわたしは,研究所の紀要をリニューアルして,新しい紀要『スポートロジー』を創刊するための最終的な編集作業に終れている。それに熱中していて,自分の誕生日を忘れていた。だから,シンビジウムがとどいたこと以外には,なんの変化もない日常そのものだ。でも,Y君のお蔭で,ひとりこころの中で誕生日を祝っている。ありがとう,Y君。

つぎの寅年,84歳までは現役でいたい,とこころに誓っている。
そのときには,現役引退の,精一杯のパーティを持ちたいと思っている。そして,そのとき残っている持ち金を全部はたいて,すべてのお客さんをご招待したい,と夢見ている。みんな仲良しで生きていかれるように。そんなことができたらいいなぁ,としみじみ思う。そのためには,まずは元気でいること。好きなことをやって,嫌なことはしない。これからは思いっきりわがままを押し通して。からだの声にだけは素直に耳を傾けて。

74歳の誕生日もあと数時間。ひとり静かに『般若心経』でも唱えながら,過ぎこし方をふり返り,行く末を思い浮かべつつ,ぼんやりと過ごすことにしよう。こんな時間もときにはあってもいいのではないか,と自分に言い聞かせつつ。

でも,じつは,いま,わたしの頭の中はバタイユのことでいっぱい。しかも,これまでに感じたことのない愉悦に浸っている。バタイユの深い思考の,ある部分に,ほんのちょっとだけ触れたように思うから。74歳にしてバタイユと向き合って,生きている。また,愉しからずや。

鶴竜,文句なしの大関昇進確実,おめでとう。

勝っても負けても,どこか哀愁をにじませる鶴竜の風貌に,なぜか,わたしは惹きつけられてしまう。テレビをとおしてみているだけだが,地味で,生真面目そうな,それでいて我慢強そうな,強い意思の持ち主という印象が,わたしは気に入っている。幕内に上がってきたころから,なぜか,その存在が気になっていた。そんな鶴竜が徐々に,徐々に力をつけて上位で相撲がとれるようになってきた。それでも,わたしは,まだまだ大関になるには時間がかかるだろうと思っていた。しかし,今場所でみごとに化けた。上半身がたくましくなり,小兵とはいえ,どっしりとした相撲がとれるようになった。白鵬を寄り切った相撲などはみごとなものだ。

そして,念願の13勝を挙げた。文句なしの大関昇進の条件をクリアした。あわよくば「優勝」の二文字も頭に浮かんだことだろう。それが千秋楽の相撲となって現れた。本割の豪栄道の相撲は,明らかに立ち遅れだ。豪栄道は,立ち合いで先手をとって一気に押してでる,そのための最高の間合いで立つことができた。その一瞬の立ち遅れが,明暗を分けた。

それと同じことが,優勝決定戦でも起きてしまった。本割で負けている白鵬は,なにがなんでも勝たなくてはならない。その気迫がありありと顔に表れていた。鶴竜はいつもと同じポーカー・フェース。そして,どこか哀愁を感じさせるところがいい。白鵬の立ち合いは,いつもは,相手力士に手をつかせておいてから,自分の呼吸で立つ。しかし,今日の優勝決定戦は違った。自分から,さっさと手をおろして,そのままの間合いで立った。鶴竜は驚いたに違いない。立ったときにはすでに白鵬充分の左四つに組み止めていた。それを嫌った鶴竜は巻き変えて双差しになった。そこを白鵬はすかさず寄ってでる。俵に両足がかかった鶴竜は棒立ちになって必死でこらえる。白鵬はここで勝負あったと思ったに違いない。しかし,足腰のいい鶴竜はその寄りを残した。白鵬のからだを持ち上げるようにして,土俵中央にもどした。その瞬間,鶴竜はこれでよし,と頭で考えたらしい。一呼吸後には,白鵬の右内掛けが空振りになって,右足が大きく右に開いたその流れのまま左上手投げを打たれ,あっけなく鶴竜は土俵に転がった。一瞬の虚を突かれた相撲だった。土俵経験の差が,こんな形ででてくるとは,いささか予想外だった。負けて覚える相撲かな,という。頭のよさそうな鶴竜のことだ。この一番をしっかりとからだに叩き込んでおくことだろう。そして,二度と同じ轍は踏まないことだ。それが強くなる秘訣だ。

それにしても,来場所からの白鵬と鶴竜の一番は楽しみだ。すでに,地力からすれば互角だ。やってみないことにはわからない,そういうカードとなった。日馬富士が大関に上がってきたときも同じことを感じた。白鵬と互角に相撲がとれる力士が現れた,とわたしは確信した。日馬富士の運動神経のよさとスピードがわずかに白鵬を上回り,一瞬で優劣が逆転する相撲がみられるようになり,とても楽しみにしていた。しかし,日馬富士のその後の怪我が尾を引いていて,まだ本調子ではない。しかし,今場所をみているかぎりでは8割かたもどってきたように思う。これからの優勝の行方は,このモンゴル出身の3力士が鍵を握ることになりそうだ。

千秋楽での鶴竜の反省点は「立ち合い」。どんなことがあっても立ち遅れないように,先制攻撃ができる立ち合いを身につけること。白鵬のように立ち合いの間合いを変えてくることも計算に入れて,相手をきちんと組みとめる立ち合いを磨くこと。そうなれば,栃東が絶好調だったころのような相撲がとれるようになるだろう。

先輩大関たちとは一味違う,いぶし銀のような,理詰めの相撲がとれるところが鶴竜の魅力だ。自分有利の体勢をつくるまで,とにかく我慢して,少しずつ相手の体勢を崩しながら,自分の得意の型に持ち込む。玄人好みの相撲を磨き上げていってほしい。大いに期待している。ひとりのファンとして。

まずは,おめでとう!大関鶴竜の誕生。
優勝を逃がしたのは,ほんとうに残念。しかし,この悔しさをバネにして,稽古に励んでほしい。そして,もっともっと強い大関になってほしい。その素質は充分にある。白鵬を引退に追い込むのは俺だ,くらいの気迫で。

来場所が楽しみだ。

2012年3月23日金曜日

『ボクシングの文化史』(東洋書林)の書評紙がとどく。

久しぶりに東洋書林の編集長加藤修さんにお会いしたら,『ボクシングの文化史』(カシア・ボディ著,松浪・月嶋訳,監訳稲垣)の書評が掲載された新聞がありますが,ご覧になりますか,と仰る。もちろん,喜んで,とわたし。でも,ちょっと変だなと思ったので,なぜ,そんなことを聞くのですか,と問う。いや,ある特定宗教法人に直属する新聞なので,どうかなと躊躇しました,と加藤さん。いやいや,わたしは禅寺の息子として育ったので,「来る者は拒まず,去る者は追わず」と教えられていますし,その姿勢はいまも変わりません,と。

ならば,ということで加藤さんが送ってくださったのは『世界日報』の3月11日版。16ページもある立派な新聞。その中ほどに,見開き2ページにわたって「読書」のコーナーが設けられている。ちょうど日曜日なので,どの新聞社もやっている「読書」欄と同じ企画。その右側ページのトップに『ボクシングの文化史』の書評が載っている。書評をしてくださったのは評論家の阿久根利具さん。見出しには「文学,映画やTVなど周辺を描く」とある。そして,丁寧な書評がなされている。こうして多くの人の眼に入ることがなにより嬉しい。

隣のページをみると川成洋さんが『ラルース地図で見る国際関係』(イヴ・ラコスト著,大塚宏子訳,原書房)を書評していらっしゃる。ああ,この新聞は内部に閉じこもることなく,外部にも開かれた編集方針をとっているんだ,ということがわかる。そんな眼であちこち眺めていたら,取り上げられている書評も,きわめて多岐にわたっていることがわかり,本気で読みはじめていました。

たとえば,『イエスの言葉 ケセン語訳』(山浦玄嗣著,文春新書),『唄は世につれ,たばこは唄につれ』(長田暁二著,山愛書院),『摂関政治』(古瀬奈津子著,岩波新書),『仏教,本当の教え』(植木雅俊著,中公新書),・・・・という具合です。この話はエンドレスになりそうですので,詳しくは新聞でご確認ください。

それはともかくとして,社説の載っているページには玄ゆう宗久さんの寄稿がご本人の顔写真入りで掲載されているのを見つけて,すっかり嬉しくなってしまいました。宗久さんは臨済宗のお寺の住職さんで芥川賞作家。題して「小祥忌」。見出しは「わざわい」から踏み出す一歩。このコラムのタイトルは「大震災1年」。わたしは宗久さんのファンなので,いささか驚きながらも,嬉しくなって読みました。いつもながらの気配りの効いた名文でした。しかも,静かな,落ち着いた「脱原発依存」を展開しています。

ここで初めて気づいたのが「3月11日」の新聞であるということ。うかつでした。ちょうど「3・11」から丸一年の記念すべき日の新聞。こんどは本気になって,あちこち,しっかりと読みました。この一年のまとめも,わかりやすく読みやすい。横着者のわたしなどにはとても役に立ちました。

ほかの新聞とは違う特色はといえば,中国,韓国,北朝鮮に関する情報が比較的多いということ,さらに,「沖縄のページ」が最後の外側のページを飾っていること,でしょうか。あとのところはいわゆる一般紙と変わりません。韓国と北朝鮮に関する情報が多いのは『世界日報』ということを考えれば納得です。そして,中国批判の記事が多いのも納得です。しかし,「沖縄のページ」と銘打ったページが裏表紙に相当するところに設けられているのは,なぜだろうか,と考えてしまいました。なぜなら,大手新聞社のほとんどは,沖縄を無視している(とわたしは受け止めています)のですから・・・・。まあ,この問題は宿題としておきましょう。

本題は『ボクシングの文化史』。こういう本を書評してくれること自体,わたしは注目したいと思っています。評論家の阿久根さんは,スペースの関係から,あまり踏み込んではいませんが,やはり,その根底にあるメッセージ性は受け止めた上で,この書評を書いていらっしゃるということが伝わってくるからです。つまり,ボクシングは,言ってしまえば,単なる「殴り合い」です。その「殴り合い」が18世紀のイギリスで,ある種の「合理化」(ルールによる合法化)がほどこされ,しかも人びとの間に抑圧されていた「熱狂」の情動を呼び覚まします。

この「熱狂」の情動が,アメリカ大陸に飛び火します。こんどは,黒人の間に長い間,抑圧されていた「熱狂」の情動に火がつきます。一旦,火がつくと,もはや,とどめようもなく燃え広がっていきます。そして,数々の黒人の名ボクサーが誕生します。この現象に「メディア」が眼をつけます。そして,ボクシング・イベントが金儲けの対象となり,金融化への道が開かれていきます。

著者のカシア・ボディはイギリスの比較文学やメディア論を専門とする女性研究者です。ですから,これまでのような,近代スポーツ競技の歴史の側からみるボクシングの歴史とはまったく趣を異にしています。このことに『世界日報』のデスクが気づいていて,この本を取り上げ書評しようとしたとしたら,その着眼の意図はどこにあるのか,と考えてしまいます。たぶん,どこかに優れたブレーンがいて,きちんとこのテクストの本質を見抜いているのではないか,と思えて仕方ありません。となると,ますます気がかりになってきます。

そんなことを思わせるほど,この『世界日報』という新聞の紙面づくりに余裕のようなものを感じてしまうからです。あるいは,懐の深さといいましょうか。それは,いったい,どこからくるものなのだろうか,と。いま,気が狂ったかのように吼えまくっている,どこぞの大手新聞社主の狭量さにあきれ返りながら,こんなことを考えてしまいました。

この『ボクシングの文化史』については,いずれ,わたしたちの研究会でも合評会をやって,とことん議論をしてみたいと思っています。それだけの素材がふんだんに盛り込まれている,と監訳者としては自信満々です。

というわけで,書評をしてくれるということは,てとも嬉しいことです。
その意味では,もっともっと,あちこちで取り上げてくれるといいなぁ,と祈っているところです。
みなさんも,ぜひ,『ボクシングの文化史』を手にとって,めくってみてください。意外な発見をあちこちですることを請け合います。
お願いです。よろしく。
ではまた。

2012年3月22日木曜日

ウォーキング・シューズは軽い方がいいのか?わたしは重いチロリアン・シューズ愛好者。

新聞などの広告をみていて気になることがいくつかあります。そのうちのひとつは,ウォーキング・シューズの軽さを強調する広告が多いことです。いつから,シューズは軽い方がいいということになったのでしょうか。しかも,ウォーキングという一種のトレーニングのために履くシューズが軽さを競っているという現状が,いまひとつ納得がいきません。

トップ・アスリートたちが,たとえば,短距離の100mランナーの履くシューズをどれだけ軽くすることができるか,とシューズ・メーカーたちはその技術の粋を結集している,という話はかなり前から聞いてはいました。その当時は,まあ,そんなものなのかなぁ,くらいの意識でしかありませんでした。

しかし,よくよく考えてみると,短距離ランナーたちは間違いなく筋肉もりもりの選手ばかりです。あの筋肉の固まりのような肉体の保持者たちが,シューズの重さがわずかに100グラム軽くなったからといって,スピード・アップにつながるものなのでしょうか。わたしにはちょっと信じられません。でも,選手たちがそれを望んでいるとしたら,経験的にそういうことがわかっているか,あるいは,それを証明するようなデータがでているのでしょう。

だからといって,ウォーキング・シューズを軽くするのはいかがなものでしょうか。発想としては,長距離ランナーと同じで,下からの衝撃を吸収するための靴底の柔らかさ・厚さと軽さとのバランスが求められるのは,よくわかります。しかし,ウォーキングは競走ではありません。むしろ,健康の保持増進のなめのトレーニングの一種です。だとしたら,からだに一定の負荷をかけることの方が重要なのではないでしょうか。

もちろん,年齢や性差,脚力や体力に応じて,シューズの重さを調整することは必要でしょう。そのときの基準は「軽さ」ではなく「重さ」ではないでしょうか。

日本の伝統的な武術家のなかには,鉄の下駄を履いて,日常的に脚力を鍛えている人が少なからずいます。わたしも若いころに憧れて,鉄ではなく,ホウバの下駄を履いていたことがあります。要するに厚い板でつくられた高下駄のことです。わたしの地方では「サッチョロ」と呼び習わしていました。この高下駄を履いて,カランコロンと音を響かせながら歩くことが,高校生の間では流行していました。もちろん,校則では禁止されていました。いま考えてみますと,脚筋力のトレーニングというよりは,むしろ,バランス感覚のトレーニングには役立ったように思います。姿勢や歩行もきちんとしていないと,この下駄を履きこなすことは難しかったと思います。がに股矯正には大いに役立ったと思います。

いま,流行りのウォーキングはトレーニングの一種ですので,本格的に取り組んでいる人たちは,両手にダンベルを持って,腕を振りながら歩いている姿をみかけます。たぶん,ダンベルの重さは個人差に合わせているはずです。なのに,シューズを軽くする,というメーカーの発想がいまひとつ合点がいかない,という次第です。

わたしは,学生時代に山登りを覚え,そのころから,日常的にはチロリアン・シューズを履くようになりました。イタリア製の,しっかりした牛皮に登山靴と同じビブラム製のゴム底を張った,ずっしりと重いシューズです。ですから,ショックを吸収するどころか,着地のときの衝撃がそのまま伝わってくる,かなり乱暴な靴です。その靴をいまも愛用していて,いま履いている靴で4足目です。一足の値段は,いまでも3万円ほどします。わたしにとっては高価な靴です。しかし,その靴を履きつぶすには最低でも10年はかかります。長いと15年くらいかかります。雨の日も雪の日も,もちろん,晴れの日も,夏冬変わりなく,毎日,履いています。ここまで徹底して履くと,割安になります。

このきわめて重いチロリアン・シューズを履いているのは,じつは,わたしの脚力のトレーニングのためです。アスファルトの道路などは,下からの衝撃がストレートに伝わってきます。足首,膝,股関節には,常時,相当の衝撃が伝わっているはずです。それよりも,最近になって気づいたことは,大腿筋(太ももの筋肉)に相当の負荷を与えているということです。結果的には,太極拳をするからだを維持するには,とても役立っているということです。しかも,大腿筋を鍛えるということは,膝と股関節に負荷を与えるということでもあります。ですから,一挙両得というわけです。

ですから,ウォーキングをしてからだを鍛えたいという人には,わたしはできるだけ重いシューズを選びなさい,と薦めています。それは,筋肉系のトレーニングになるだけではなく,心肺・循環器系のトレーニングにもなって,いいことだらけ,ではないかとわたしは考えています。

なのに,なにゆえに,シューズ・メーカーはまるで競うようにして「軽い」ウォーキング・シューズを「売り」にしようとしているのか,わたしには理解不能です。

だからといって,いきなりチロリアン・シューズに履き替えるというようなことはしないでください。いろいろの理由で,脚筋や関節を痛めること必定です。靴の重さは徐々に増やしていくように,くれぐれもご注意ください。

2012年3月21日水曜日

『Q&A スポーツの法律問題』第3版がとどく。なんと,この本はじつに面白い。

スポーツの法律問題と言われるとわたしもちょっと腰が引けてしまう。法律というものにほとんど馴染みがないからだ。しかし,この本は面白い。あちこち拾い読みしてみて,そう思った。

「Q&A」という方式が成功しているのだろうと思う。具体的な「質問」があって,それに対する法律上の「応答」がわかりやすく具体的に書かれている。だから,どのページを開いても,ぐいぐいと引き込まれていく。

たとえば,こうだ。
目次の「Q1」には「21世紀とスポーツ」とある。「21世紀スポーツ文化研究所」を立ち上げて活動している人間としては,聞き捨てならない「Q」である。そこで,早速,そこを開いてみる。その「Q」には「21世紀はスポーツの世紀であると語られていますが,どのようにすればスポーツ文化が花咲く世紀となるのでしょうか」とある。

そして,それに対する応答が3ページにわたって書かれている。
よく読んでみると,とてもためになる。わたしはスポーツ史家としてのスタンスに立ち,「21世紀とスポーツ」を長い歴史的スパンから眺め返し,なにゆえに,いま,わたしたちはこのようなスポーツ情況に直面することになったのか,そして,それを超克していくためには,どうすべきかと考えている。しかし,この本は法律問題として「21世紀とスポーツ」を考えると,このようにみえてくる,という具体的な応答をしています。

その意味では,わたしの盲点をついている,と言って差し支えない。だから,この「Q」に対する応答を読んでみると,なるほどなぁ,と感心してしまう。つまり,ものごとを捉える立場が違うと,これほどまでに到達する結論が違うものなのか,と驚いてしまう。もっと言ってしまえば,法律の専門家からみると,「21世紀とスポーツ」はそんな風にみえてくるのか,と。

この「Q1」に対する「A」の小見出しは以下のとおり。
〇私たちを取り巻く状況
〇トップアスリートはがんばっているのにスポーツ組織は?
〇スポーツ省・スポーツ基本法そして国家戦略

これらの内容の是非論については,ここではひとまず措くとして,その結論部分だけは紹介しておこう。スポーツ基本法ができたのだから,それを強力に実施していくための政府機関として「スポーツ省」を設置すべきだ,と。そして,早急に,21世紀スポーツの国家戦略を展開すべきだ,と。なるほど,法律家の眼からみるとスポーツ基本法は,現実に,もはや動かしがたい事実として存在しているのだから,それを実行に移すべき政府機関としての「スポーツ省」を設置して,国家戦略を打ち出していくべきだ,というわけです。なるほどなぁ,と納得。

しかし,スポーツ基本法そのものが,いかなる根拠に基づいて作成されたものであるのか,という根拠については問おうとはしていません。ただ,アスリートや一般のスポーツ愛好者の位置づけが,これまで曖昧にされてきたけれども,その法的根拠を明確にしてくれたという意味で,大いなる前進であるとし,そこを法的根拠として21世紀のスポーツを推進すべきだ,と論じている。

とても面白いことに,大相撲問題も,もっと合理化して「旧態依然とした封建的な体質」から抜け出さないかぎり「大相撲の未来」はない,と断じている。この点は,わたしの見解とは大いに異なるところだ。いかにも法律家らしい断定の仕方をしていて,大相撲をいともかんたんに「近代スポーツ競技」と同じ文化と捉えていることが浮き彫りになっている。まあ,この議論は,いずれどこかでやるとして,なるほどなぁ,と考えさせられることが多い。

このほかのところも,拾い読みしていくと,わたしのこれまでの不勉強がそのまま露呈するばかりで,恥ずかしいかぎりだ。これは少し本気になって,立場の違いとはいえ,なにゆえにそのような見解にいたるのかは大いに勉強しておく必要がある,としみじみ思う。そして,最終的には,どうやら,「スポーツ」というものをどのように考えるか,という概念の問題にゆきつくように思う。そうしたことを確認した上で,一度,この本を書かれた「スポーツ問題研究会」の人びとと意見を交わしてみたい,と思う。

この本を届けてくださった辻口信良さん(スポーツ問題研究会代表)にこころから感謝。
なお,わたしも1ページほどの「コラム」を書かせていただいた。そんなチャンスを与えてくださったのも辻口さんだ。その意味でもお礼を申し上げたい。ありがとうございました。

甲子園野球,あの行進のぶざまさと選手宣誓のすばらしさ。この落差はなにか。人形と人間の違い。

今朝(21日),たまたまテレビをみていたら,甲子園の開会式が中継されていた。そして,何気なくぼんやり眺めていたら,選手たちの入場行進がはじまった。みていてすぐにわたしのからだは前のめりになった。なぜなら,いま,行進しているこの高校生たちは生身のからだを生きている人間なのだろうか,とテレビ画面に顔を近づけて確認しようと思ったからだ。

いや,これは生身の高校生とは違う,人形だ。どうみても人形でしかない。まるで,ピノキオが人間になろうとして懸命になって動こうとしているときのからだの動きがこれだった。そう,ピノキオのような動きで,高校生が,それも全国から選ばれた野球選手たちが,行進しているのた。なんということか,とわたしは画面を食い入るように見入ってしまった。

まず,第一に姿勢が悪い。みんな前のめりになっている。硬直したままの上半身が前傾していて,じつに不自然だ。緊張のあまり,かちかちに固まった上半身そのものだ。その上半身に引っ張られるようにして下半身がギクシャクと動く。つまり,脚の運び方もひきつったような,緊張感が漲っている。これは,どうみても人間のからだには見えない。つぎに,そのギクシャクとした上半身と下半身の動きに加えて,これまたそれ以上に輪をかけて不自然な腕の振り方をしている。まるで,水中歩行をしているかのように,振り上げた手で水を掻いて前に進もうとしているようにみえる。

つまり,行進運動というものをこれまでにあまりしたことのない初心者の動きが,そのままテレビ画面にアップで写し出されている。たぶん,甲子園にきてから,初めて,きちんと行進運動をするようにという指導を受けたに違いない。だから,かれらは教えられたとおりに必死になって腕を振り,脚を高く上げて歩こうとしている。しかし,こんな歩き方をこれまでしたことがない。しかも,あとで叱られないように一生懸命にそれをやろうとしている。だから,上半身までもが前のめりになってしまって,人間にあらざるピノキオが歩いているように見えてしまう。

ああ,可哀相に。みんな初めてだから必死の形相だ。よくよくみているとチームのだれかが(たぶん,キャプテンだろうと思しき生徒が)号令をかけている。それによって,かろうじて,足並みは揃っているかのようにみえる。が,よくよくみると微妙にズレている。多少のリハーサルはやったであろうが,うまくいかない。歩行運動というものこそ,個性があって,全員が同じような歩行運動になるには,相当の訓練をしないと揃わないのである。しかし,高野連の指導者たちはわかっていない。歩行運動くらい,ちょっと説明しておけばだれでもできる,と思っているに違いない。

そのぶざまな姿がテレビ画面にありありと写し出されている。
なんとも恥ずかしい。

しかし,それにつけても,このご時世になにゆえに,あの戦時中の軍隊調の,あの行進運動を甲子園野球の開会式でしなければならないのか。社会主義の国家でもあるまいに・・・。

それに引き換え,あの選手宣誓は立派だった。わたしは思わず涙した。簡潔で,無駄なことばがひとつもなく,まるでプロのコピー・ライターが書いたかと思われ名文が,石巻工業高校のキャプテンの口から,よどみなく,力強く,よく通る声で,情感に満ちあふれた宣誓となって,飛び出してきた。わたしは感動した。これはすごいことだ,と。なにが,かれをして,この晴れの大舞台で,これだけの選手宣誓を可能ならしめたのか,と。被災したひとりの高校生を,ここまで成長させた原動力はなにであったのか,と。

それに引き換え,主催者の挨拶,それに連なる人びとの挨拶が,なんと空々しく響いたことか。しかも,選手宣誓の何倍も,ながながと話したにもかかわらず,ほとんどなんの記憶も残らない,そういう挨拶だった。まことに無駄な挨拶。それに引き換え,選手宣誓の,練り上げられた,簡潔にして要を得た,人のこころをとらえて離さない,情感の籠もった高校生の声はみごとであった。日本全国の人びとが感涙にむせんだことと思う。なにを申そう,このわたしそのものが,溢れ出てくる涙を抑えることができず,ただ流れるままにまかせて,呆然とテレビ画面に見入っていたのだ。

夕刻のニュース番組で,石巻工業高校のキャプテンのインタビューが流れた。それを聞いて,ふたたび感動してしまった。かれの言うには,部員みんなの意見を一人ひとり聞いて,それを盛り込みながら,あの宣誓文を書き上げた,と言うのだ。立派。おそらく,歴史に残る名選手宣誓となるだろう。

人は困難を通過すると生まれ変わるという。あの,未曽有の災害という,歴史に残る困難を乗り越え,なにはともあれ通過して,甲子園の地に立つことのできた高校生の,しかも,キャプテンとしての立ち位置が,それも晴れの選手宣誓というこの上もない最高の選ばれた立ち位置が,かれをして大きな飛躍をなさしめたのだろう,とわたしは考える。

「場」が人間を育てる,という。そのあとには引けない,切羽詰まった「場」をどれだけ経験するかが,その人の財産になるという。甲子園に出場するだけで,すでに,大きな「場」を与えられ,かれらは一人ひとり,勝っても負けても大きな飛躍を遂げていくことだろう。それに加えて,石巻工業高校のあのキャプテンは,その何倍もの飛躍の「場」を与えられ,その重責に応えて,みごとに変身を遂げた。そして,これからもますます大きく成長していくことになるだろう。

あの選手宣誓を聞いて,グラウンドに整列していた他の高校球児たちも感動したに違いない。そして,よし,全力を傾けて野球に集中しよう,そして,いいプレイをしよう,最後まで諦めない野球をしよう,と誓ったに違いない。まさに,高校球児のみならず,それを聞いた全国民が納得の選手宣誓。

それにつけても,あのぶざまな行進運動と,このあまりにみごとな,すばらしい選手宣誓のギャップを見せつけられ,考えることの多い開会式だった。片や,お仕着せの受け身そのものの行進運動,すなわち,人形そのもの,そして片や,自分たちの経験を頭で精一杯考えて,インパクトのあるメッセージを発信した主体的な人間そのもの。この二つが,同じ高校生のからだをとおして表出された,今日の甲子園開会式。

今日も,すでに熱戦が繰り広げられている。明日は,その石巻工業高校が出場する。思い切ったプレイを展開して,全国の人びとの印象に強く残る試合をして,東北の気概,ここにあり,という試合をしてほしい,とこころから祈りたい。

『ショック・ドクトリン』読解,西谷修さんを囲む会,充実の時間。

3月19日(月)に青山学院大学(河本洋子さんのお世話により)をお借りして開催された第58回「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)3月東京例会が,久しぶりに密度の濃い時間に満たされて,無事に終了しました。その主役はもちろん西谷修さんです。すでに,このブログでも予告してきましたように,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』読解をテーマに「西谷修さんを囲む会」を企画しましたところ,大勢の方が参集してくださり,大いに盛り上がりました。

ご多忙の西谷さんですので,いつものように「準備は不要です」「フリーハンドでお出でください」「その場の雰囲気でアドリブで」「その方が面白くなると思います」「コメンテーターを用意しますので,それに応答してくだされば」というような,ゆるいお願いをしました。ところが,今回は,西谷さんがなにか「ただならぬもの」を感じ取られたのかレジュメを用意して,お出でくださいました。

たしかに,わたしたちのこの研究会では,すでに2回にわたって『ショック・ドクトリン』読解の予習を積み上げてきました。なにせ大部の著作ですので,その内容をひととおり頭に叩き込むのは,そんなにたやすいことではありません。少しばかり時間をかけて,じっくりとナオミ・クラインの思考に接近することがが必要だと考えたからです。その上で,西谷さんをお迎えしよう,そうしないと,折角の西谷さんのお話を適格に受け止めることは困難だと判断したからです。

コメンテーターとしての最初の話の切り出しを三井悦子さんにお願いしました。三井さんは,西谷さんが『世界』(2011年10月号)に投じられた論考,「自由」の劇薬がもたらす破壊と荒廃──ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』に寄せて,を手がかりにして何点かの問題提起をしてくださいました。それを受けて西谷さんのお話がはじまりました。

午後3時から6時まで,3時間に及ぶ長丁場を,じつに魅力的なお話をしてくださいました。話の立ち上がりは,三井さんのコメントを受けて,とてもわかりやすくナオミ・クラインの仕事とはどういうものであったのかというお話から入りました。こうして,ひととおり『ショック・ドクトリン』読解のためのウォーミング・アップを済ませた上で,西谷さんはさらに一歩踏み込んだお話をされました。

それは,『ショック・ドクトリン』読解のためのキーとなる概念を取り上げ,それらがどのようにして構築されてきたのかをじっくりと解き明かす気合の入ったものでした。そのキー概念とは以下のとおりです。
1.行動主義心理学(ショック療法)
2.経済的自由主義
3.キリスト教的世界観
4.経済的自由主義(2)
5.”自由”の創出と”解放・開放”の暴力
6.3・11後の日本

※つづく。時間切れのため,とりあえず,ここまで。

※4月2日の西谷さんのブログで,このときのことを以下のように書かれていますので,紹介しておきます。みごとな要約になっていて,大いに参考になると思います。

「ISC・21の研究会では,まず,アメリカの行動主義心理学と新自由主義的経済体制の適用にみられる人間観・社会観の共通性を説明し,ついで,市場の自己調整機能に信を置く自由主義経済の考え方と,西洋近代の「自由」の観念を準備したキリスト教的世界観(アウグスティヌスの「悪の弁神論」からカルヴァンの「救霊予定説」,アダム・スミスの「見えざる手」まで)との関係の概略を示し,さらに現在の新自由主義経済のグローバル化と,3・11以降の日本の復興についてのコメントをした。」

なお,この日のブログはいつもにも増して迫力満点の内容になっていますので,ぜひ,全体を通読されるようお薦めします。

以上,補足まで。4月3日追記。





2012年3月17日土曜日

赤ん坊を背負って演壇に立ち,演説をぶった吉本隆明さん,ご冥福を祈ります。

吉本隆明さんが逝った。順番だから仕方ないとはいえ,やはり寂しい。まだまだ元気で生きていて欲しかった。そして,「3・11」後のこれからの人間の生き方について,もっともっと語って欲しかった。しかし,もう吉本さんの声は聞かれない。寂しいかぎりだ。

学生時代,ノンポリだったわたしですら,吉本隆明の名前は知っていた。そして,『言語にとって美とはなにか』という本を書店で手にとって,不思議な本を書く人だなぁ,と思った。その当時,体操競技で,下手くそながらも将来はオリンピック出場を夢見ていた人間にも,「言語にとって美とはなにか」という文言がこころの奥底に響くものがあった。それは,体操競技にとって美とはなにか,をストレートに考えさせる文言でもあったからだ。同じ「倒立」をしても,美しいか,美しくないか,がそのまま採点される体操競技にあっては他人ごとではなかった。

でも,当時のわたしには『言語にとって美とはなにか』はほとんど理解できない本であった。それから時間が経過して,ふたたび,吉本隆明という人の存在が大きくわたしの前に立ちはだかってくることになる。それは,まったくの偶然なのだが,当時の東京教育大学のキャンパスのなかで外山滋比古先生とばったり出会ったこと,これがすべてのはじまりだったように思う。

わたしは,学生時代に三河郷友会という愛知県の三河地方出身者が身を寄せる学生寮のお世話になった。その当時に,寮の先輩であり理事である外山滋比古先生と面識があった。わたしは,不本意にも,寮の自治会委員長をやらされていて,いわゆる理事会交渉の矢面に立たされていた。だから,外山先生とも,何回も丁々発止の議論をしなければならないことがあった。

そんなご縁があったものだから,大学のキャンパスのなかで外山先生から,寮の寮監がいなくて困っている,君,なんとか助けてくれないか,という話があった。そのとき,わたしは大学院の博士課程の学生だった。それでもいいから,と外山先生に説得されて,とうとう若い寮監に就任することになった。ここでの経験が,こんにちのわたしの重要な土台になっていることは,まぎれもない事実である。

じつは,いまだから白状するが,わたしにも,ある種の計算・打算があった。それは,70年安保反対を叫ぶ学生運動が激しくなっていて,これからますます激しくなると予想されていたからだ。大学院の院生として,このまま黙って傍観すべきか,それなりの行動をとおして態度を表明すべきか,と迷いに迷っていたときだ。寮監不在の原因は,寮生が激しく寮監に,あなたは70年安保をどのように考えるかと迫ったからだ,と聞いていた。そうか,ならば,その真っ只中に身を投じて,学生たちと真っ正面から向き合って,本気で考えてみよう,と考えた。

ここから先のことは,また,いつか機会をみつけて,しっかりと書いてみたいと思う。
ちょうど,わたしが寮監として着任して間もなくのころ,池袋の公民館(だったと記憶する)で吉本隆明の講演会があると知り,寮生たちには内緒でそれを聞きに行った。もちろん,寮生の何人かはそこにきていて,ばればれだった。が,そのお蔭で,寮生との信頼関係はとてもうまく進むようになり,かられもまた,なにかと相談にくるようになった。そんなきっかけをつくってくれたのも,じつは,吉本隆明さんだったのだ。

そのときの吉本さんは,少し遅刻して,しかも,背中に赤ん坊を背負って登壇した。例によってボサボサ頭に,スーツにネクタイ,そして,背中に赤ん坊。会場は騒然となった。しかし,吉本さんの一声で,会場は水を打ったように静まり返った。
「遅刻してごめん。女房が病気で寝ている。赤ん坊を置いてくるわけにはいかなかったので,背負ってきた。この約束を破るわけにはいかなかった。」
一瞬の静寂のあと,こんどは一斉に拍手喝采が起こった。

しばらく,その拍手喝采を受け止めながら,じっと下を向いたままの姿勢を保っていた吉本さんは,やおら顔を上げ,背中の赤ん坊を忘れたかのように,熱情の籠もった演説をはじめた。そのときの話の内容はなにも覚えてはいないが,吉本さんの生きる姿勢だけが強烈なインパクトとして残った。いまも,ありありとそのときの情景を思い浮かべることができる。

あのときの赤ん坊が,はたして,いまの「吉本ばなな」さんだっだのか,その上の長女の方だったのか,わたしには確認の方法がない。そんなことはどうでもいい。とにかく,赤ん坊を背負って壇上に立ち,安保闘争に全身全霊を傾けている学生さんたちを前に,みずからの思想に全体重をかけて,自説を展開する若き吉本隆明さんの姿が,わたしには忘れられない。

ちょうど,そのころに,寮生としての西谷修さんと出会った。西谷さんも同じ愛知県の三河の出身で,わたしとは高校の同窓でもあり,当時は,東大法学部の学生さんだった。この西谷さんとの出会いもまた運命的なものを感じないではいられないが,この話もまたいつかすることに。

そんなご縁で,わたしは吉本隆明さんの『共同幻想論』を真剣に読むようになり,そして,『心的現象論』も読むことになった。なぜなら,吉本隆明を読んでおかなかったら,当時の学生運動の先端に立っている学生さんたちとは話もできなかったからである。その意味では,当時の寮生さんたちは,わたしの師匠でもあった。必死で勉強しては議論に参加した。が,いつも,やり込められて恥ずかしい思いをしていた。そんなことの繰り返しだった。このあたりから,わたしの思考回路が,いわゆる体育会系から,社会科学系の急進的な考え方へと急転回していくことになる。

こんにちの,わたしのあり方の,最初のとっかかりをつくってくれたのは,やはり吉本隆明さんだったのだなぁ,といまごろになって気づく。その吉本さんが逝った。なんとも寂しいものである。吉本隆明さんのこころからのご冥福を祈りたい。

〔追記〕
西谷修さんのブログに,吉本隆明さんへのお別れのことばが書かれています。ぜひとも,検索してみてください。わたしには,とても,重いことばとして伝わってきました。人はそれぞれに,さまざまな出会いを繰り返し,それぞれの「かたち」を作り上げていくものなのだ,としみじみ思いました。いまや,押しも押されもしない日本を代表する知性の人となった西谷さん。そんな西谷さんと,毎週一回,太極拳の稽古をし,食事をすることのできる幸せを噛みしめています。この場をお借りしてこころからお礼を申し上げます。そして,これからも,どうぞよろしくお願いいたします,と。

保安院長が安全委に「寝た子を起こすな」・・・・腹も立たなくなってしまった自分が怖い。

同じようなことが繰り返されると人間は「マヒする」(「麻痺する」)という。かなり過酷なことであっても,それが日常化すると「マヒする」という。この国の中枢部にいる「偉い人」だと思っていた人たちの多くが,もう,どうしようもなく堕落していることが,連日のよにう新聞紙上を賑わしている。もっとも,このような報道をしているのは『東京新聞』だけかもしれないが・・・。

そんな報道を読みつづけているうちに,読者であるわたしはとうとう「驚かなくなって」しまった。ああ,またか・・・・。最初のうちは,「お前らは人間じゃないっ!」とか言って吼えていたが,いまや,ニヒルににやりと笑ってやり過ごそうとしている。そんな自分になりはてていることが恐ろしい。

今日(17日)の『東京新聞』一面トップの見出しは,つぎのようである。
保安院長 自ら圧力
安全委に「寝た子を起こすな」
原発防災強化断念

とあり,冒頭の書き割りは以下のようである。

経済産業省原子力安全・保安院が2006年,原発事故に備えた防災重点区域の拡大を検討していた原子力安全委員会に反対意見を送り,断念に追い込んだ問題で,当時の広瀬研吉院長が同年5月,安全委員との昼食会で「なぜ寝た子を起こすのか」と,安全委側に検討を中止するよう直接圧力をかけていたことが16日,分った。

関連記事は2面,31面でも取り上げ,詳細にことの次第を報じている。
もはや,開いた口がふさがらない,とはこのことだ。もはや,なにをかいわんや,である。

原発の安全な管理・運営を任されたトップがこの体たらくである。
こんなことが,いまにはじまったことではない,という事実がつぎつぎに明るみにでているのに(東電も含めて),誰一人として「責任」をとろうとはしない。まるで,国の方針だったのだから・・・と言わぬばかりに。恐ろしいことが,もう,ずっと前から行われてきたのだ。それに慣れきってしまっているだけの話なのだ。「ゆでガエル」の典型。困ったものだ。

原発事故に関連する省庁の改編や,各種の審議会や諮問委員会の看板のかけ替えがつぎつぎになされていくのも,過去の悪事を封じ込めるための作戦ではないか,と勘繰りたくもなる。こんど立ち上がる復興庁も,なんだか怪しくなってくる。

それよりなにより,徐々に驚かなくなってきたわたしの「感性」の「マヒ」の方が恐ろしい。「生きる」「生き延びる」ためには,この「マヒ」という感覚の安全装置も必要なのかもしれない。しかし,この場合には困る。やはり,これまでどおり「吼えつづける」ことが大事だ,とみずからを励ますしかない。そして,これまで以上に,もっと積極的に,行動で示していくしかない。

「3・11」後の二年目の試練。しかし,これからの試練の方がたちが悪い。なにしろ,この眼で確認することすら困難なことばかりだから・・・・。でも,監視の眼を緩めてはならない。そして,ことあるごとに意思表示をしていくこと・・・・。

かつて,わたしの高校時代に尊敬していた校長が卒業アルバムにつぎのように書き残している。
「道は遠く,険しい。だが,歩まねばならない。」
いったい,どこまでつづく「泥濘(ぬかるみ)」ぞ,と天を仰いでしまう。

今日は朝から雨。籠城。

2012年3月16日金曜日

「日本版ショック・ドクトリンの構図」を明らかにした平野論文(『現代思想』3月号)を読む。

 『世界』4月号の岡田知弘論文「どんな復興であってはいけないか─惨事便乗型の復興から『人間の復興』へ,の注に紹介されていた平野健論文「CSISと震災復興構想─日本版ショック・ドクトリンの構図」(『現代思想』3月号)を読んでみました。全部で12ページにわたる『現代思想』としてはかなり気合の入った論文扱いになっています。実際にも,迫力満点の論文です。

 わたしは不勉強で,まずは,「CSIS」なるものがいかなるものかすら充分に理解していませんでした。しかし,この論文を読んで,かくも恐るべき組織がアメリカには存在していて,日本の首根っこを押さえこむようにして,強烈な影響力を保持しているのだ,ということを痛いほど知りました。むしろ,逆に,日本という国家はなんなのか,と考え込んでしまいました。沖縄の米軍基地問題が,アメリカの思うままに振り回されている日本政府のふがいなさも,こうした厳然たる日米関係があってのことだ,と理解せざるをえません。

 CSISとはそもそもいかなる組織なのか。

 ここでもわたしの下手な解説を加えるよりも,平野論文の書き出しをそっくり引用した方が,はるかにわかりやすいので,そうしたいと思います。論文の「はじめに」のところで,平野論文は以下のように問題提起をしています。

 本稿では,2011年3月11日に発生した東日本大震災からの復興構想に対するアメリカの関 与・介入について見ていく。
 日本の政府・財界が復興構想を議論し策定していくのは同年4~7月の間である。震災が発生 した翌週(3月15日,3月16日)にはさっそく経済同友会と日本経団連が「緊急アピール」を発表 しているが,ここではまだ人命救助,ライフラインの復旧,義援金,支援活動,節電などがふれら れているにすぎない。3月31日の日本経団連「震災復興に向けた緊急提言」においてはじめてこ うした「復旧」と区別される「復興」についての提言を出しており,復興構想の議論はここから始ま る。その後,表1にあるような推移をたどって,最終的には7月29日(8月11日改訂)の東日本大震災復興対策本部「東日本大震災からの復興の基本方針」で基本骨格が固まった。
 このような日本の政財界による復興構想策定の裏には,アメリカの保守系シンクタンクCSIS  (戦略国際問題研究所,Center for Strategic and International Studies)の関与がある。CSISと はマイケル・グリーン,リチャード・アーミテージ,ジョセフ・ナイなど著名なジャパン・ハンドラーたちを抱えている大型シンクタンクで,「アメリカは日本の震災復興に多大な利害を保持している」との認識から,日本経団連との相談の上で,日本の復興構想に関するタクスフォース(特別検討チーム)を設置した。CSISの作業は,表2のような日程で,日本の財界が先行的に作成した復興構想を学びつつ意見を出すという形で進められているが,そもそも日本とアメリカの財界・専門家たちが頻繁に政策協議や共同研究を行っていることを考えれば,財界が発案している復興構想自体がすでにアメリカの意向を踏まえたものである。その上でさらにCSISが改めて日本の財界・政治家・官僚・専門家・地方自治体などと協議し,後に見るように復興計画に意向を反映させている。このような意味で7月29日の復興対策本部「基本方針」に日米共同で作り上げられたものである。
 CSISは11月2日にレポート”Partnership for Recovery and a Stronger Future”を発表し,11月8日には日本経済新聞社との共催でシンポジウム「東日本大震災,トモダチ作戦と日米同盟の未来」を開催している。また東京財団とSNASの共同研究「『従来の約束』の刷新と『新しいフロンティア』の開拓」(2010.10.27)も大いに参考になる。本稿では,それらをCSISレポート,シンポジウム,共同研究と略記し,この3点をもとに東日本大震災の復興構想に込められているアメリカの要求と狙いを探ることにしたい。

 以上が平野論文の「はじめに」の全文です。もう,これを読めば,日本政府が発表する「震災復興構想」は,CSISの意向を直に受けたものであることが明らかになります。そして,それが,副題となっている「日本版ショック・ドクトリンの構図」そのものであることも残念ながら納得させられてしまいます。新聞やテレビはこのような裏工作が行われているという話は一切しませんので,なにも知らないままに,「日本政府はなにをもたもたしているのか」とその一点にのみ意識が集中していきます。が,どっこい,アメリカのご意向を伺うことなしには,日本政府は身動きひとつとれないのだ,ということをこの平野論文は明らかにしてくれます。

 表1と表2をここに転載することができるといいのですが,残念ながら,割愛させていただきます。書店で立ち読みでも結構ですので,確認してみてください。時系列にそって,どのようにしてことが運ばれたのかということが一目瞭然です。

 以下に,この論文の小見出しを掲げておきます。
 Ⅰ.新自由主義改革の再起動=日本版ショック・ドクトリン
 Ⅱ.復興ビジネスにおける協調と対抗
 Ⅲ.原発政策
 Ⅳ.日米同盟の深化=市民社会レベルでの日本統合
 おわりに

 こういう論文を読みますと,情けないことに,日本はいつからアメリカ合衆国の属州になってしまったのだろうか,思わずにはいられません。星条旗に,新しい星がひとつ加わるのも時間の問題ではないか,と絶望的な気分に陥っていきます。

 そこから脱出するためにも,今回の大震災からの「復興」は自前で進めていかなくてはなりません。そして,『世界』(4月号)の岡田論文が主張するように「人間の復興」をめざさなくてはなりません。宮城県知事は,このCSISの路線を先取りするような型での「復興」をめざしていることも,この論文を読むとよくわかります。その意味では,岩手県知事の主張する「地元の住民」優先の復興計画に,わたしたちは大いなる支援をしていかなくてはなりません。そして,その輪を広げて,宮城県知事の考え方に改善を求めていくことが重要になってきます。そういうところから,はじめるしか方法はないのでは・・・・と思います。

 なお,この『現代思想』3月号には,岡田知弘さんの論文「創造的復興」論の批判的検討,も掲載されています。『世界』の論文の前段をなすものですので,こちらも必読です。

 さらに,「生の<復興>のために」という注目すべき対談が,『現代思想』3月号には掲載されています。対談者は山形孝夫さんと西谷修さんです。この対談のなかでも,西谷さんはナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』について触れています。

19日の研究会はすぐそこにきています。それまでに予習しておかなくてはならないことが山ほどあります。実り多い研究会にするために,可能なかぎりの準備をしておきたいと思います。その意味で,この平野論文と山形・西谷対談ははずせません。

2012年3月15日木曜日

東電を支援する銀行の「貸し手」責任も問うべきでは・・・と『東京新聞』「こちら特報部」。

冒頭から引用で恐縮だが,問題の所在をわかりやすくするために。今日(14日)の『東京新聞』「こちら特報部」がつぎのように報じている。

東京電力の総合特別事業計画が今月末までにまとまる。これに先立ち,同社の主な取引金融機関は総額約1兆円の追加支援方針を,原発の再稼働や電気料金値上げを条件に固めた。だが,待ってほしい。東電は実質的に破綻しており,本来,銀行は債権放棄に応じるのが筋のはず。なぜ,国民に不安と値上げが押し付けられねばならないのか。「貸し手責任」の追及は本当にできないのか。(出田阿生,上田千秋)

いつものことながら,「こちら特報部」は記者名を公表しての気合の入った記事を構成している。この冒頭の書き出しをみれば,そのことは如実に伝わってくる。

東電はすでに実質的には破綻しているのだから,金融機関はまずは債権放棄に応ずるべきなのに,なにゆえに約1兆円もの追加支援を東電に対して行わなければならないのか,とこの二人の記者は畳み込んでいる。しかも,東電がこんご賄わなければならない費用(被災者に対する賠償や原発の維持・管理,あるいは廃炉に要する費用など)は未知数(わたしに言わせれば「無限大」)なのに。このような無謀としかいいようのない「金」の貸し方をしていいのか,その場合の金融機関側(大手の銀行など)の「貸し手責任」は問われなくてもいいのか,と。それだけではない。貸し手である金融機関は,その担保として,原発の再稼働と電気料金の値上げを条件にしている,というのだ。なにからなにまで,その負担をわれわれ国民に押しつけて,素知らぬ顔をしている。(この前の金融危機のときも同じだ。いつから,日本は社会主義の国になったのか,と考えさせられたものだ。銀行だけが特別扱いだ。こんどは,東電がその対象となっている。)

そうか,大手の金融機関はそろって「原発再稼働」を前提にして東電に金を融資する「原発推進」派なのだ,ということがようやくわたしのような経済音痴にもわかってきた。いやいや,それどころか,国を挙げて「原発推進」に向かってまっしぐらではないか,と。ということは,待てよ,わたしもいつのまにか「原発推進」派に加勢してしまっている,ということではないか。なぜなら,わたしのわずかばかりの銀行預金のほとんどすべてが「三井住友銀行」に預けてあるのだ。あわてて,この記事を追ってみる。その中ほどには,以下のような一覧表がかかげてある。

東電の主な借入先と借入金残高(2011年3月末)
借入先                金額(億円)
三井住友銀行            9,590 
みずほコーポレート銀行      6,880
三菱東京UFJ銀行         4,540
日本政策投資銀行         3,722
三菱UFJ信託銀行         2,378
中央三井信託銀行         1,033

この一覧表をみて,わたしの眼は点になってしまった。原発再稼働や電気料金値上げを前提にして東電を支援する銀行の筆頭が「三井住友銀行」ではないか。わたしは一貫して「脱原発」を主張してきたし,そのように行動してきたつもりだった。なのに,わたしは預金のほとんどすべてを(その額はともかくとして),東電を支援する銀行に預けて安心立命しようとしているではないか。そのことに,これまでまったく無自覚でいたことが恥ずかしい。なにも気づかなかったとはいえ,その信頼すべき三井住友銀行が率先して東電を支援している,というのだ。

しかも,その東電は原発事故の責任はおろか,むしろ被害者であるとばかりに,その窮状を国に訴え,特別の支援を仰ぎつつ(これはすべてわたしたちの税金だ),のうのうとして生き長らえようとしている。そんな東電を断じて許すことはできない,というのがわたしの立場であった。しかし,そのとんでもない東電を支援して生き長らえさせるために,このわたしもまた貢献しているということになるではないか。

昨年の5月には,城南信用金庫の理事長さんが「脱原発」を宣言し,太陽光発電をはじめとする再生エネルギー推進のための事業主や個人に率先して融資をすると発表し,大いに感動した。だから,早速,口座を開設した。そして,すでに年金生活者であるにもかかわらず,その他のわずかばかりの雑収入を,すべてそこに入るように手続きをした。これでもう,すっかり「脱原発」派になったつもりでいた。

ところが,定年退職するまでの給与をはじめ,現在の年金や,光熱水費などの金銭管理はすべて「三井住友銀行」で行ってきているので,その残金のすべてはそこにある。そして,その金が(微々たるものとはいえ),流れ流れて「東電」の支援のために使われているというわけだ。なんということか。情けない。

わたしもまた,この記事を書いている両記者と同じく,銀行の「貸し手」責任を問うべきだという立場に立つ。にもかかわらず,その責任を問うべき銀行にわたしの預金のほとんどを預けっぱなしにしている。なんという論理矛盾というべきか。

単なる預金者にすぎないとはいえ,まことに妙な気分だ。預金者は株主ではないので,銀行の経営・管理に関する責任・義務はないはずだが,その経営・管理を信頼しているという点で,「道義」的責任は感じてしまう。そんな銀行と知ったら,預金などしたくない。

困ったことになった。これから急いで,三井住友銀行から城南信用金庫に預金を移さなくてはならない。ことはそれだけでは済まない。すでに所有しているカード(V`ISAやJCB,など)の書き換えもしなくてはならない。あちこちの決済(電話や電気・水道・ガス,など)や振り込み指定先にも変更手続きをしなくてはならない・・・。

でも,こんな単純なことにも気づかないまま,能天気なことに「脱原発」なんて偉そうなことを言ってきた自分が恥ずかしい。これでは,「原発安全神話」に乗せられてきた,これまでの自分とまったく同じではないか。偉いこっちゃ・・・・。

だが,ちょっと待てよ,と考える。その前に,やはり,東電を潰すべきではないか,つまり,会社更生法の適用を考えるべきではないか,と。そして,銀行を東電の呪縛から解き放つことが先決ではないか,と。

ありがたいことに,「こちら特報部」の左側のページにその答えが書いてあった。
このブログは,ひとまずここで切って,改めてこのつづきを書くことにしよう。

2012年3月13日火曜日

惨事便乗型の復興から「人間の復興」へ,岡田論文(『世界』4月号)を読む。

今月の19日(月)には『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン著,岩波書店)をテクストにした研究会があるので(すでに,このブログでも案内済み),そろそろ頭をそちらにシフトしなければ,と思っていたところでしたので,『世界』(4月号)を開いて,まっさきにわたしの眼に飛び込んできたのは岡田知弘さんのこの論文でした(このことも昨日のブログで少し触れました)。

ある程度の予想はしていましたが,ほんとうにこの大惨事をとらえた「惨事便乗型」の復興が,具体的に,たとえば,宮城県などを中心にして着々と進行していることを知り,大きな衝撃を受けています。もちろん,仕掛けているのは「経済同友会」や「日本経団連」であり,そこに外資系企業(たとえば,GE)などが参入。村井宮城県知事は,こういうところとしっかり協力関係を築きながら「復興」を目指そうとしています。そうした実態の一部が,明らかにされています。

この論文を書いた人は,岡田知弘さん。京都大学大学院経済学研究科教授。地域経済学,農業経済学。日本地域経済学会理事長,自治体問題研究所理事長。『地域づくりの経済学入門』ほか,著書多数。要するに,この道の専門家。ですから,すべて確たる事実関係を証明する資料を提示した上で,岡田さんの説得力のある持論が展開されています。

少し長いですが,直接,引用しておきましょう。

・・・・20数兆円に達すると予想される復旧・復興市場に内外の復興ビジネスが参入し,それらの支店が集中する仙台市の繁華街は復興景気に沸いている。さらに今回の震災においては,財界が要求した「開かれた復興」論に沿って「復興特区」方式によって農業・漁業分野,医療分野での「規制緩和」がなされ,そこに外資系企業も含む多国籍企業やアグリビジネス,環境・医療関連ビジネス資本が進出しつつある。これは,菅直人内閣時代に方向づけがなされた「創造的復興」政策の一環であり,村井嘉浩宮城県知事が強く求めた政策方向であった。7月29日に定められた「東日本大震災からの復興の基本方針」では,「創造的復興」を基本理念として,東日本大震災を「日本経済」のさらなる「経済成長」や「構造改革」の好機とみなす考え方を強く押し出していた。昨年9月に発足した野田佳彦内閣は,菅内閣の方針を踏襲しながよ,大衆課税をベースにした復興増税の導入やTPP(環太平洋経済連携協定)参加協議の開始,消費税増税を宣言するに至る。震災前からの懸案を東日本大震災という大惨事に便乗して一気に遂行しようという姿勢である。
 このような事態は,「ショック・ドクトリン」(惨事便乗型資本主義)という言葉によって表現されている。だが,これでは,非被災地の復興ビジネスや規制緩和ビジネスの利益や為政者が考える「国益」につながったとしても,災害の最大の犠牲者である被災者の生活再建や被災地域社会の復旧・復興にはつながらないであろう。
 自然災害は避けがたいものであるが,その後の被災者の生活難や困窮,そして復興格差は,明らかにこの一年間の復興政策とそのあり方が生み出した人為的な問題である。政策的要因であるならば,これから政策を見直すことにより改善,解決できる問題も多いといえよう。小論では,過去の災害復旧・復興の歴史的経験も振り返りながら,東日本大震災の復興のあり方を,その政策構想の内実と具体的な施策の実施過程の検証を通して,問い直してみたい。それによって政府や財界が主導する惨事便乗型の「創造的復興」ではなく,被災者の生存権を最優先する「人間の復興」の道こそ求められていることを論じたい。

この部分を読めば,岡田さんの論考の核心を理解することはできると思います。驚くべきことに,日本は国を挙げて,「惨事便乗型」の復興に取り組んでいる,と岡田さんは指摘しています。しかも,それでは「被災者の生存権を最優先する『人間の復興』」は不可能だ,だから,なんとしても「政府や財界が主導する惨事便乗型の『創造的復興』」に歯止めをかけ,『人間の復興』に向けて舵を切る必要がある,と力説しています。

惨事便乗型資本主義というのは,ナオミ・クラインが何回も繰り返し強調していますように,大惨事が起きたら,だれよりも早く「復興」のための具体的な夢多きプランを描いてみせること,そして,政府・官僚を説得し,その路線を敷き,それを実行に移すためのネットを張りめぐらすことだ,といいます。そうしてしまえば,あとは,途中で多少の修正をするだけで,基本方針は変わらない,という次第です。そして,最終的には,被災者の利益ではなく,資本家の利益にすべて還元されていくシステムなのだ,と。

このネオ・リベラリズム(新自由主義)の路線は,すでに,小泉内閣時代から着々とその路線が敷かれ(郵政自由化はその典型例),いまや,急速に加速されているというわけです。

岡田さんの論文によれば,2011年4月6日には,経済同友会が『東日本大震災からの復興に向けて(第二次緊急アピール)』を発表しています。3月11日からまだ一カ月足らずのことです。これに追い打ちをかけるようにして5月27日には日本経団連が『復興・創生マスタープラン』を発表しています。同じ5月には,野村ホールディングスの子会社である野村アグリプランニング&アドバイザリーが農業復興の提言を発表し,実際に動きはじめた,といいます。そして,そこにカゴメやIBMなども加わった「仙台東部地域六次化産業研究会」を組織し,さらには事故を起こした福島第一原発の製造元であるゼネラル・エレクトリック(GE)の日本法人,日本GEも宮城県内に植物工場の設置を計画している,といいます。

ここに書いたことは,その,ほんの一部にすぎません。もう,すでに,東北各地にはありとあらゆる企業が参入を開始しているという,この事実についてわたしたちはほとんどなにも知らないままでいます。気がついたときには,すでに,遅し・・・・というのでは原発推進と同じ過誤を犯すことになってしまいます。

というような具合で,この岡田論文は,惨事便乗型資本主義がもののみごとに,この日本でも適用されている,それも国を挙げて・・・・という実態を浮き彫りにしてくれます。これ以上の詳しいことは,どうぞ,『思想』4月号の岡田論文に譲りたいと思います。

なお,岡田論文の注7.につぎのようにありますので,紹介しておきます。
詳しくは,平野健「CSISと震災復興構想─日本型ショック・ドクトリンの構図」『現代思想』2012年3月号を参照。

こちらも,これから当たってみようと考えています。
今日のところはここまで。

2012年3月12日月曜日

『世界』4月号,充実の「東日本大震災・原発災害 1年」特集号。魅力的な内容がいっぱい。

「3月11日」,去年も同じだったが,ことしもまた締め切りのきている原稿とにらめっこしながら過ごすことになってしまった。東京都内の各地で開催されたデモにもでかけられない,この体たらくに腹を立てながら・・・・。このところずっと部屋に閉じこもったままだ。天気も悪かったし・・・。

でも,今朝,西谷修さんのブログを開いたら「紹介したい本3冊」とあり,それを読んですぐに近くの本屋に走った。その冒頭に,『世界』4月号が紹介されていたからだ。あとの2冊,ジャン=ピエール・デュピュイの『チェルノブイリ,ある科学哲学者の怒り』(明石書房)とピエール・ルジャンドルの『西洋をエンジン・テストする,キリスト教的制度空間とその分裂』(以文社,森元庸介訳)は,いまの原稿が終わってからにしよう。

西谷さんのブログに「少なくとも,編集長岡本厚の編集後記だけでもいいから読め」というお薦めのことばにしたがって,まずは,本屋で購入する前にそこを開いた。涙がこぼれてきた。こんな経験は珍しい。たった1ページという短いスペースに,きわめて簡潔に,しかも「ツボ」をはずすことなく,「3・11」一年後のわたしたちが立たされている現状を書き切っている。さすがに『世界』の編集長だ,と脱帽。一度しか面識はないが,穏やかな,温厚そのものという印象だった。その印象どおりの,抑制の効いた,バランス感覚のよさが,わたしの涙を誘った。

西谷さんの受け売りで恐縮だが,ぜひ,書店で「編集後記」だけでもいいから読んでみてほしい。つづいて「目次」を眺めてほしい。ひととおり眺めてみれば,この4月号は購入しなければ・・・ということになること必定だ。わたしが言うのも気が引けるが,それほどに,できがいい。『世界』にあまり馴染みのない人にも,ぜひとも,4月号だけはお薦めである。

その理由も書いておこう。この時期,どの出版社の雑誌もみんな「震災」関連の特集を組んでいる。ついでに,他社の雑誌も片っ端からめくって値踏みをしてみた。それぞれに工夫をこらした特集になっている。どれも,面白そうだ。しかし,そんな中にあって『世界』だけが異色を放っている。しかも,どの論考も,いま知りたい,いま読んでおきたい,あるいは,わたしと同じ主張?と共振するようなタイトルが並ぶ。

まず,特集のタイトルに圧倒されてしまう。
「特集 悲しもう・・・・・東日本大震災・原発災害1年」とある。「悲しもう」という特集タイトルそのものが,すでにして他社の雑誌の特集タイトルとはまったく異質である。この「悲しもう」とい文字が眼に飛び込んだときから,すでに,わたしの涙腺は緩みはじめていたのだ。この一年,憂鬱で憂鬱で仕方なかった。日常的には,毎日の新聞を読みながら,日本国政府はいったいなにを考えているのかと吼えまくり,同じようにテレビをみながら怒鳴り散らし・・・・そのうちに疲れ果ててしまって憂鬱になってしまう。

そう,あまりのだらしなさ(日本国政府もメディアも)に怒りを通り越して「悲しく」なっていたのだ。しかし,「悲しい」などと言ってはならない,とみずからを叱咤していた。そして,気をとりなおして,いま,自分にできることはなにか,と必死に考えた。それらを,ほんの小さなことでしかないけれども,積み重ねていくしかない・・・と。そして,最近では「情けなく」なっていた。そこにもってきて「悲しもう」と『世界』4月号は呼び掛けてきたではないか。

そうか,悲しいときには悲しむしかないのだから,だれ憚ることなく「悲しもう」,悲しめばいいのだ,と。よし,こうなったら「3・11」後の二年目は「悲しむ」ことからはじめよう,と。

こんなわたしの個人的な感傷はともかくとして,目次を拾い読みするだけでも,ぐいぐいとわたしの気持ちは惹きつけられていく。
たとえば,つぎのようだ。

どんな復興であってはいけないか─惨事便乗型の復興から「人間の復興」へ(岡田知弘・京都大学)という論考がある。来週の月曜日(19日)には,「西谷修さんを囲む会」という研究会を開催することになっていて,そこでのテクストは『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン著,岩波書店)だ。じつは,この研究会でも,当然のことながら,「惨事便乗型の復興」というテーマをひとつ立てておこうとわたしは考えていた。もちろん,岡田さんの仰るように「人間の復興」を念頭におきつつ。わたしも考えてきたことがらだが,岡田さんはどんな論を展開されているのだろうか,ともう目次をみた瞬間からドキドキする。

〔未完〕


2012年3月11日日曜日

「3・11」以後をどう生きるか・山口二郎「本音のコラム」(『東京新聞』)を紹介します。

今日(11日)の『東京新聞』の「本音のコラム」に山口二郎さんが書いた,「3・11」以後をどう生きるか,を紹介します。コンパクトに,問題の本質を指摘していて,とても参考になります。

その前に,余談ですが,どこぞのレストランの〇〇〇は「不味い」とブログに書いた人が,裁判で訴えられ,有罪判決がでた,といいます。そうか,悪口を言うときは相当の覚悟をしておかなくてはいけない,と反省。すでに,わたしなどは実名を挙げて,このブログで批判を展開しています。ただ,相手があまりに大物なので,わたしなどのブログを相手にしないだけの話なのだろう,とたかをくくっていますが・・・・。でも,内心,ヒヤヒヤ。

でも,褒めるのは大丈夫,と安心して山口二郎さんのブログを紹介します。

大震災から一年の日にコラムを書くめぐり合わせとなった。あの受難をわれわれは正面から受け止め,生き方を変える転機にできているのか。
福島第一原発の事故は,日本の権力における無責任の体系を改めてわれわれに見せつけた。この言葉は政治学者丸山真男が満州事変から8・15にいたる日本政府の政策決定過程を分析する中で考え付いたものである。
国を動かすエリートが保身に走り,国民全体の生命や安全に対する責任感を失い,希望的観測と現実をあえて混同し,その場の空気に付和雷同することで,国全体を破滅に追い込んだものが,無責任の体系であった。この構図は,破局に至った原子力政策にもそのままあてはまる。
敗戦後,国民は悔悟に基づき,民主主義をつくったはずである。だが,民主主義を徹底できないまま数十年を過ごし,再び破局を迎えた。
震災後という意味で,災後の日本という言葉を使うメディアもある。しかし,私はこの安易な言葉遣いに反対である。震災は自動的に日本の仕組みを更新したわけではない。無責任の体系は戦前,戦中,戦後を貫き,これに対する政治家の戦いは中途半端である。
われわれは己が非力を自覚し,本当の民主主義を確立するという課題を再認識しなければならない。今日はその決意を新たにする日である。

こんな短い文章のなかに,これだけの内容を,簡潔に盛り込むことのできる力量は,さすがに山口二郎さんだと感服です。時折,不調のときもあり,ああ,山口二郎さんも人間だなぁ,と安心することもあります。が,大半のブログはまことにみごと。いつも,楽しみにしているブログでもあります。山口さんの健筆を,こんごも期待したいと思います。

今回のブログはわが襟を糺して,読ませていただきました。

「東日本大震災」後のこの一年。情報化社会なのに必要な情報が流れない。なぜだ。

あれから,もう,一年が経過した。
なんとも複雑な心境である。早いといえば早い,遅いといえば遅い,そんな時間の経過である。いったい,この一年とは,わたしにとってなにであったのか,頭を抱え込んでしまう。そんな状態のなかにあっても,どこかに希望の光を見出すことはできないものか,といまも考える。

ひとくちに「東日本大震災」と言っても,その規模があまりにも大きすぎて,どこで,なにが起きているのか,かなり努力したけれども確信のもてる情報はほんのわずかでしかなかった。その分,不安ばかりがこころの奥底に鬱積した。

インターネットの普及もあり,まさに未曽有の「情報化社会」が到来しているにもかかわらず,肝心要の,信頼できる必要な情報はほとんど流れることはなかった。ほんのわずかな信頼できる情報を手がかりに,あとは,自分の頭でいろいろと想像し,推測することしかできなかった。なんとも歯痒い思いの一年であった。

なかでも,福島原発事故に関する信頼できる情報は,ついに見定めることはできなかった。言ってしまえば,数字の羅列ばかりがあって(マイクロシーベルト),それがなにを意味しているのか,どのように対応すべきか,いま,なにをすべきか,という点についてはほとんど「風評」の域をでなかった。しかも,その「風評」(政府発表も含めて)も,めまぐるしく変化した。それでもみんな耐えた。ひたすら,じっと,耐えた。そんな一年だった。

2月の終わりになって「福島原発事故独立検証委員会」(民間事故調)が「政府や国会の事故調査とは別に,民間の立場から福島第一原発事故と政府の事故対応を調査・分析した」(『東京新聞』)『調査・検証報告書』を発表した。これによって,福島原発の事故当初の混乱ぶりの,驚くべき実態のかなりの部分は明らかになった。「約30人のワーキンググループが昨夏以降,政治家,官僚ら約300人を対象に聴取,報告書にまとめた」(同上)という。

しかし,しかし,しかしながら,「東京電力は聴取に応じなかった」というのだ。この事実を,わたしは,この『報告書』が出されたときから知っていた。しかし,しかし,しかしながら,NHKも,ほかの民放も,大手の新聞も,あるいは,その他のメディアも「東京電力は聴取に応じなかった」という<事実>を重視しようとはしなかった。知っていて知らぬふりをしたのだ。知らぬ勘兵衛である。これぞ「思考停止」の最たるものだ。

そして,いまや,『読売新聞』を筆頭に「原発再稼働」のオンパレードだ。東電の責任など,だれも問おうともしない。もう,すでに原発事故の記憶が「風化」した,という判断なのだろう。

ここ数日前から少しずつ「東日本大震災」の特別番組が,テレビ各社で取り上げられている。今日は,どこのテレビ局も,足並みを揃えたかのように特番を組んでいる。しかし,その番組紹介をみるかぎりでは,地震・大津波による被災地・被災者に焦点を当てた番組に比較して,福島原発事故関連の番組は目立たない。どこか陰が薄い。そこに,なにか,大きな力に対する「自発的隷従」という「他意」を,わたしは感じてしまう。

おそらくは,一週間も経たないうちに,午後8時前後のテレビのゴールデンタイムは,いつもの「おちゃらけ番組」(わたしはなんの稔りもないバカ番組と呼んでいる)一色に塗りつぶされてしまうのだろう。それもまた福島原発事故の記憶を「風化」させる上で大きな役割を演じている,ということを計算しつくした上での番組編成ではないか。と,ここにもまぎれもない大きな「他意」が働いていると,わたしは強く感じてしまう。

この一年に関するかぎり,わたしたちにとって「必要な情報」は権力者によって意のままにコントロールされてきた,とわたしは考えている。しかも,その実態はあまりにも酷すぎる,と。この現状をどのように超克していくのか,情報化社会のひとつの「壁」が露わになった年でもあった,と考えている。

こんなことをいつまでも繰り返していていいはずはない。この一年で,わたしは自分自身の生き方そのものを変えなくてはならないと考えつづけ,その方途を模索しつづけてきたつもりである。その経緯は,このブログのなかでもしばしば取り上げてきたつもりである。それでもなお,もっときびしく自分自身の生き方を問い直さなくてはならない,と考えている。ひとりひとりの生き方が変わらないかぎり,日本の社会は変わらない,と考えるからだ。

今日は,そのための「第二の出発」の日と定めたい。
無為の一年を過ごさないために。

2012年3月10日土曜日

「もっと高いところへ」南三陸町の高台移転が進まない・NHKスペシャル。

南三陸町の高台移転が,早い時期に住民の合意が得られたにもかかわらず,なかなか進まないのはなぜか,と問うNHKスペシャルの番組を,たったいま,見終わったところです。腹が立って,腹が立って,テレビに向かって吼えつづけていた1時間15分でした。

結論的な感想をさきに言っておきましょう。ひとことで言ってしまえば,政府・官庁が南三陸町の高台移転をまったくの他人事としてしか受け止めていないのではないか,ということです。もうちょっとだけ言っておけば,南三陸町の当面している危機意識がまったく欠落している,と。わたしは,このブログに以前にも書きましたように,「3・11」後は,ただちに「非常事態宣言」を出して,国を挙げて,全国民を挙げて,被災地・被災者の「復興」に全力で取り組むべきだ,と認識しています。そのための「特例」を認めるべきだ,と。

しかし,明日で丸一年が経過しようというのに,「3・11」以前の法律のまま,「みせかけの平和」を維持しつつ,思考停止したままの政府および中央省庁の姿勢が,被災者救済を無為のまま一日延ばしにしている,というのが今夜のNHKスペシャルを視聴したわたしの第一印象でした。

なぜ,もっと,町の実情に見合った形での復興に国は手をさしのべることができないのか,そのことだけがわたしを苛立たせました。高台に移転することに関しては,もっとも早く町民の合意をとりつけ,移転先の土地も確保して,いちはやく国に補助金の申請を出しているにもかかわらず,いまもなお,その展望は開けてはいない・・・・・その「壁」のあまりに非人間的な制度・組織・・・・ただ,ただ,唖然とするばかりです。

まずは,高台移転の補助金を申請するために,国の省庁に提出しなければならない書類が膨大な量になること(東電への被害届けも同じ)。町役場の職員もまた多くの犠牲者を出していて,いまは,たった39人しかいない。そこに,応援部隊がやってきて助けてくれてはいるものの,一定期間がすぎるとみんな帰っていく。それでも必死になって生き残った職員が命懸けで町民の合意形成・経過説明から書類作成,陳情にいたるまで不眠・不休で取り組んでいます。それでも,犠牲になった職員(しかも,いまも多くの職員の遺体がみつかっていない)の気持を考えると,生き残ったわれわれが町の復興を頑張らなくては許してもらえない,と涙ながらに胸中を訴えています。

そんな努力の中で,昨年11月には国庫補助による全額負担が決まり,大喜びをしたのもつかのま,こんどは,高台移転先に遺跡があるというので新たな調査が必要だという。その調査には3年かかるという。なにを馬鹿なことを言っているのか,と腹が立つ。どこかの企業が金儲けのために宅地造成をやって売り出そうというのではない。一刻を争う緊急事態のなかで,いかにして町を復興させるかという生きた人間の努力を,平和時につくられた既成の法律が立ちはだかっているのです。それこそ,町の住民の合意のもとで「特例法」を適用することだって,やろうと思えばできるはずです。それを「3・11」以前の「文化財保護法」が邪魔をしている,というわけです。

生きた人間を無視した「法律」の壁が,南三陸町の復興の前に大きく立ちふさがっているという次第です。それこそ,その遺跡に住んでいた人びとの子孫(だと思いたい)かもしれない人びとの生き方を,祖先ははたして望むだろうか。平和な,のどかな時代ならいざ知らず,こんな緊急事態にもかかわらず,「文化財保護法」に遮られてしまって,それでよしとする中央官庁の対応が,わたしには信じられません。

これを絵に描いたような場面がありました。復興庁の役人が南三陸町に聞き取り調査にやってきて,ひととおりの説明を聞いたあと,「みなさんの取り組みはじつに立派だと思います。しかし,われわれも,まだ,できたばかりの復興庁ですので,なにを,どのように進めたらいいのかよくわからないことがたくさんあります。これから戻ってよく検討した上で,返事をします」と言って立ち去るシーンがありました。これでは,なんのための復興庁なのか,わけがわかりません。もっと,迅速に現実に対応するための復興庁の設置ではなかったのか,と。

こうして,なにも現状が改善されないまま時間が経過するにしたがい,南三陸町に住みつづけたいと考えていた住民も,ほかの町への移住を考える人が増えてきている,といいます。最近の町の世論調査によれば,2割弱の人が移住を考えている,と。こういう人が増えてくれば,もはや,町の存続そのものが危ぶまれてきます。

具体的な展望がなにも得られないまま,いたずらに時間ばかりが過ぎていくと,移住する人が増えるばかりです。しかも,若い働き盛りの世代の移住希望者が増えている,というのです。

繰り返しになりますが,昨年11月に,高台移転のための費用を国庫補助金が全額負担するということを決定していながら,なにも前にすすまない「壁」の大きさに唖然とするばかりです。

もっと地域の実情に見合った補助金の使い方を認めるべきだ,そうしないと,折角の補助金が無駄になってしまう,とそんな印象を強くもった番組でした。

ほんとうはもっと書きたいことがあるのですが,とりあえずの感想まで。

〔追記〕
南三陸町へは,昨年の6月29日に,宮城県在住の友人につれて行ってもらった。そして,あの鉄骨だけが残った町役場の建物の前にも立ちました。そのときは,あの建物の屋上で町役場の人たちが必死になって津波に流されないように協力し合ったけれども,ほとんどの人は流されてしまったまま,行方不明になっているとは知りませんでした。その行方不明者のなかには,大津波が押し寄せてきているので早く避難してください,と津波が到着する寸前まで町内放送をつづけていた女性も含まれている,ということもこんどのテレビで知りました。
3階建ての鉄骨を眺めながら,これが4階建てであったら・・・・・屋上に避難した町の職員の人たちの命は助かっただろうに・・・・と恨めしくもなりました。
いまも必死になってつづけられている佐藤町長さんを筆頭とする町の復興に,こころから声援を送りたいと思います。これを書いている今日は3月11日。

2012年3月8日木曜日

マラソンの川内選手は「給水」をさせてもらえなかったとか? まさか?

マラソンの川内選手が「給水」がうまくできなくて「動揺した」という談話が流れ,そうか,可哀相に,と思っていた。給水に失敗したくらいで,そんなに動揺するものなのか,といささか不思議に思っていたら,あまりよくない噂がいまネット上をまことしやかに流れている。

いろいろの憶測やら,ほんとうらしき証言まで含めて,さまざまあるが,どれも「ありうる」と思えるだけに「いやな」感じがしている。火のないところに煙は立たない,という。なにがしかの「火」がどこかに隠し置かれていたようだ。でも,そんなのは信じたくない。信じたくないけれども,そんなこともあるかも,と思えてしまうところが怖い。

ひとつは,単純に選手たちがわれさきにと急ぐあまりに,川内選手は自分の「スペシャル・ドリンク」を取り損なった,というもの。これは大いにありうる。これまでにも,有名選手が取り損なっている映像をみたことがある。手に引っかけたのに,取り落としてしまって,そのまま走りつづけた,という映像を。もし,そうだとしたら,それはある意味では仕方がないなぁ,とも思う。運が悪かった,と。

でも,一度だけなら,あきらめもつく。しかし,二度も給水に失敗した,と報道されている。しかし,これはほんとうに「失敗」だったのか,という憶測がそこから生まれてくる。そして,「動揺した」ということばの真意につながっていく。

そのうちのひとつ。この川内選手を,他の実業団選手たちが取り囲んで,妨害したらしい,という噂になるととたんに気持が一変してしまう。そんなことって「ありっ?」と。同じ選手同士は,場合によっては,給水に失敗した選手に自分のドリンクを渡したりする光景も,テレビをとおしてお馴染みになっている。なのに,なぜ,そんなことが・・・?と。

たしかに,川内選手は給水に失敗したのに,近くのどの選手からもドリンクをゆずってもらってはいない。このあたりはとても微妙だ。一匹狼的存在の川内選手には,親しいマラソン仲間も,そんなに多くはないだろう。だから,レースもまた孤立してしまう,と言われている。

おまけに,実業団の名だたる選手たちが不振で,オリンピック代表候補になれないまま,川内選手がその筆頭に名前が挙がっていた。そして,東京マラソンで,そこそこの成績を残せば,そのまま代表決定にもっとも近い存在となる。それを快く思わない実業団選手・コーチ・監督がいた,としたら・・・・。新聞記者の情報通の人が,それに近い発言を陸連幹部から直接聞いている,ともいう。となると,ことは単純ではなくなる。でも,ことの真相は「藪の中」。

さらに,偶然を装った「やらせ」(間違い)では・・・,というのがもうひとつの説。つまり,予定された場所に置いてなかった,というのだ。全然,別のところに置いてあった,と。選手たちは,あらかじめ,自分の「スペシャル・ドリンク」がどの場所に置かれているかは知らされている。しかし,その所定の場所に置いてなかったとしたら・・・・・。しかも,それがまことしやかに流れている。ひょっとしたら・・・と思わせられてしまうところが怖い。

もっと恐ろしいのは,川内選手の「スペシャル・ドリンク」はどこにも置いてなかったらしい,という話である。「スペシャル・ドリンク」の管理はすべて陸連に任されているという。だから,「うっかりミス」を仕掛けたら,だれにもわからない,という。川内選手が「動揺した」と発言したことの真意は,必死に探したけれども「どこにも見当たらなかった」というところにあったらしい,というのである。もし,そうだとしたら・・・,川内選手ならずとも「動揺した」だろう。まことに恐ろしいことではないか。でも,そんなことはありえない,と信じたい。オリンピック代表候補選手を狙い撃ちするような,そんなことはありえない,と。

でも,近頃の原発事故関連情報の隠蔽工作が,徐々に明るみにでてくるにつれ,わたしたちの多くが,みんな不信感に襲われている。世の中,なにが行われているのかさっぱり信用できない,と。だから,ひょっとしたら・・・・と思いたくなる。思いたくないけれども,そちらに引っ張られて行ってしまう。

最後にある噂は,川内選手は真相を知っている,しかし,かれはほんとうのことは口が裂けても言わないだろう,と。だから,最小限の「動揺した」とだけ発言したのだ,と。

大会翌日の丸坊主頭の記者会見をみると,これまた「ありうる」に傾いてしまう。こうなったら,もう,川内選手を代表に選出する以外には,これらの「噂」を打ち消す方法はないかも・・・・。

こんなことも含めて,さて,最終発表やいかに。

※ここで終わりにしておこうと思ったけれども,最後にひとこと。
近代スポーツ競技は,こんなことまでまことしやかに噂されるほどに「堕落」してしまった,ということだ。それほどまでに「手垢」によごれた人びとによって大きな大会が管理・運営されている,ということだ。つまり,利害の得失によって,いかようにも振り回される実態の一部がついに露呈しはじめた,ということだ。競技団体の裏側の真相は,部外者には話せないことでいっぱいらしい。こちらは,わたしが,直接,その当事者から聞いている。どの競技団体も叩けば埃がでる,という。その氷山の一角のような話はすでにいくつも露呈して,そのつど,大きな話題を呼んできた。ご記憶の人も多いと思う。近代スポーツ競技は,こんご,どのようにあるべきか,とことん議論をつくす必要があろう。わたし自身は「近代スポーツのミッションは,とうのむかしに終った」と考えているのだが・・・・。

2012年3月7日水曜日

「稽古場は広いほどよい」(李自力老師語録)その8。

ことしの1月から稽古場を大岡山から溝の口に移しました。その理由は,広い稽古場を確保できるというメリットがあったからです。

稽古場が狭いと,それに見合うこじんまりした太極拳になってしまいます,と李老師。だから,できるだけ広い稽古場がいい,と。おおらかなのびのびとした太極拳が身につきます,と。

一つひとつの動作をきちんと覚えれば,稽古場の広さなどはたいして影響はないはず・・・と素人のわたしは甘く考えていました。ですから,鷺沼の事務所の6畳一間のテーブルを端っこに寄せて,空いたスペースでも稽古は十分できる,と考えていました。そして,自分としてはかなり上達したつもりでいました。が,それは大いなる間違いである,ということが今日の稽古ではっきりしました。

溝の口の稽古場は,大岡山のそれと比べると,3倍ほどの広さになります。ですから,稽古の最初に行う基本の動作も,単純に計算すると3倍ほど多くなります。

たとえば,こういうことです。
腰のうしろに両腕まわして,前進しながら足の運び方,腰の回転のさせ方,股関節の緩め方,ゴンブの仕方,などの一連の稽古があります。そして,こんどは腹の前に両手を置いて,後退しながら足の蹴り方,運び方,腰の回転のさせ方,などを身に染み込ませる稽古があります。

このとき,大岡山では,左右2歩ずつ,計4歩前進・後退すれば,それで終わりでした。が,こんどの溝の口では,その3倍の運動量が可能になります。しかし,李老師は,一度に3倍に増やすことはしませんでした。これまでの運動量よりもやや多めにして,慣れてきたら,少しずつ増やせばいい,と教えてくださいました。

しかし,今日の稽古は,李老師不在の,わたしたちだけの自主稽古でしたので,試しにスペースをいっぱいに使って,つまり,これまでの3倍の運動量で稽古をしてみました。ところがどうでしょう。最初のうちはなんとか頑張ることができたのですが,後半に入ると,もう,軸足が耐えられなくなって,ふらふらの稽古になってしまいました。

もう少し詳しく述べておきましょう。
たとえば,足の運びだけの稽古から,腕の動作をつけて前進するロウシーアオブーの距離が3倍,後退するときのダオジュエンゴンも3倍,つづけて,イエマーフェンゾンで3倍前進し,そして,再度,ダオジュエンゴンでもどってきます。

途中で「これはまずい」と気づきましたが,試しにやってみようと思い立ち,最後まで押し通してみました。その結果,どういうことが起きたのかといいますと,仕上げの24式の稽古が「ガタガタ」になってしまったのです。つまり,軸足にねばりがなくなり,重心をうまく保つことができなくなり,ふらふら揺れてしまうのです。李老師がいつもくり返し仰る「安定」がまったく保てません。

そういうことであったのか,とこころの底から得心。この話は李老師にはできません。しばらくは内緒にしておくつもり。もし,お話すれば,「やりすぎ」という答えが返ってくることは間違いありません。つまり,身のほどを知れ,ということです。

もっと言ってしまえば,わたしたちはまだまだ「小さな」太極拳しかできない,ということでしょう。太極拳をするからだが,まだ,その程度のものでしかない,ということでしょう。

そうか,のびのびとしたおおらかな太極拳ができるようになるには,そのようなからだを作り上げることが先決なのだ,と納得。そのためには,少しずつからだを慣らしながら,運動量を増やしていくことが肝腎,と。ああ,この考え方は禅道場でいうところの「修証一等」(しゅしょういっとう)と同じなのだ,と気づきました。

いつの日にか,この3倍の基本の動作の稽古が,余裕でできるようなからだにできあがったとき,初めて24式が,微動だにせぬ,磐石の,悠揚として迫らざるものに近づいていくことになるのでしょう。李自力老師の表演のように,行雲流水そのものの太極拳に近づくことが・・・・。

今日はとても大きな収穫のある稽古ができた,と大満足。


2012年3月6日火曜日

春うらら。フクシマに春はくるか。言論界にも春はくるのか。

氷雨を降らせた低気圧が通過したら,うららかな春風が吹きはじめました。これで桜のつぼみも一気にふくらむことと思います。

鷺沼の高台から東京方面を見渡すと,もう立派な春霞につつまれていました。寒い冬空にはくっきりと見えていたスカイツリーは見えません。その手前の新宿・渋谷の高層ビルや六本木ヒルズがぼんやり確認できる程度です。そうか,昨日までの低気圧は,中国から「おみやげ」の黄砂まで運んでくれたのか,と納得。

うららかな春風につられて,いつもとは違う道をたどって事務所に向かいました。初めてとおる道の角を曲がったとき,目の前に紅梅と白梅が並んで咲いているのが眼に飛び込んできました。思わず立ち止まって眺めていたら,家のなかからおばあちゃんが出てきて「きれいでしょう」と声をかけてくれました。とても品のある物腰の方で,おもわず嬉しくなって,ひとことふたことお話をしてお別れしました。たった,それだけのことでしたが,スキップしたくなるような気分になりました。世の中,まだまだ,捨てたものではない・・・・としみじみ思いました。

困ってしまうのは国の中枢にいる人びと。つまり,日常の庶民の生活感情から遠いところで生きている人たち。もう,ずいぶんむかしに,「高級官僚は国民を人間とは思っていませんよ」と信頼できる筋の人から聞いて,まさか,と思っていました。が,その実情はもっともっと酷いものであるということが,「3・11」後に,無残にも露呈してしまいました。そして,その無残さはいまもつづいています。政治家も同じでした。財界の人も同じでした。もっとも驚いたのは学界の偉い先生方でした。その最たる人のひとりが「デタラメ」委員長でした。しかも,その委員長さんはいまも健在なのですから。おやおやと思っていたら,それにメディアまで便乗しているのですから。もう,眼もあてられません。毎日,毎日,憂鬱で仕方ありません。

去年の4月だったと記憶していますが,わたしの好きな作家の玄侑宗久さんは,みずからのブログのなかで「春風よ,吹いてくれるな」と書きました。その理由は,玄侑さんの住む三春町の春風は東から吹いてくる,ことしばかりは東から風が吹いてきてほしくない,なぜなら,放射性物質を運んでくるから,という次第です。福島県の三春町は,フクシマ原発のちょうど西側に位置します。まだ,原発事故のゆくえがまったく見えて来ない,その最中のブログでした。ことしもまた同じ心境なのだろうか,と玄侑宗久さんのことを思い浮かべています。

3月に入って,テレビも「3・11」関連の番組を組むようになりました。しかし,なかには他意があるのではないか,と勘繰られても仕方のない番組も混在しています。要注意です。その他意とは,ひたすら「津波」に視点が向けられていて,「原発」から眼を逸らそうとしているかのように見受けられる番組が多い,ということです。

そういえば,孫正義さんはどうしてしまったのでしょうか。あれほど,復興のために具体的な提案をし,それを実行に移そうと力を注ぎ,メディアも大きく取り上げ,多くの人びとの注目を浴びていた人の存在が,いまは陰も形もありません。いいとか,悪いとかは別問題として,この人の存在がメディアから消えてしまったのばどうしてなのでしょう。ここにも,恐るべき「他意」を感じないではいられません。いささか考えすぎでしょうか。

なぜ,このようなことを書くかといえば,「3・11」以後,まともな言説を吐いていた人びとも,つぎつぎに姿を消されてしまっている,と痛感しているからです。「3・11」以前までは,まだまだ言論統制もゆるく,総合雑誌などでも,深い思想に支えられたまともな発言をする人の言説が掲載されていました。が,この一年の間に,じつに多くの,まともな言説を吐く人が消されてしまったように思います。まるで「踏み絵」でも踏まされたかのように。

言論界で,いま,生き生きとしている人たちの顔ぶれをとくとご覧あれ。そして,その文章をとくとご吟味のほどを。ひところ流行った表現に「原発推進でもない,脱原発でもない」があります。つまり,玉虫色の立場をとった人たちです。つねに,風向きを見ながら,みずからの言説をコントロールしている人たちのことです。強い風が吹くとそちらになびき,また,別の方から強い風が吹いてくるとそれにもなびき・・・・という具合です。そしていまもなお「いろいろ熟慮を重ねる必要がある」「ものごとはそんなに単純ではない」と主張してやまない人たち。

その人たちにひとこと言いたい。住み慣れた家・土地を追われて流浪を余儀なくされている人たちのことを,ほんの一瞬でも,あなたがたは考えたことがあるのか,と。わが身の保身しか考えないで言論界を生きのびようとする人びと。そして,その人たちを利用するメディア。もちつもたれつのつるみあい。みんなで「仲良しクラブ」を結成して,みんなで保身。そんな姿がますます露骨になってきて不快です。

せめて,言論界くらいは「まとも」であって欲しい。いま,「まとも」に仕事をしている雑誌は管見ながら数えるほどしかありません。困ったものです。いや,情けない。

言論界にこそ「春風よ,吹け」と声を大にして言いたい。なにゆえに「原発推進」なのか,そして,なにゆえに「脱原発」なのか,もっともっと議論を尽くすべきではないのか。そして,国民的合意をえるところに向けて努力するのが言論界ではないのか。

ああ,いけません。いつのまにか絶叫調になってしまいました。
少し頭を冷やすべく,春風に吹かれながら散策にでかけてきます。

2012年3月4日日曜日

テレビ番組「明日をあきらめないがれきの中の新聞社・河北新報」(テレビ東京)に感動。

最近のテレビには失望ばかりしていましたが,今夜は「泣きました」「嗚咽しました」。これほど涙を流したことは記憶にないほどです。いい番組でした。こういう番組をつくろうと思えばつくれるではないか,と思いつつ。

たったいま,見終わったところです。そして,しばらく呆然としながら,あれこれ記憶をたどっています。夜の7時54分から9時48分までの,かなり長い番組でしたが,あっという間のことでした。それほどに濃密な内容だったということです。

精確に番組の名前を書いておきましょう。
東日本大震災から1年,ドラマ特別企画”明日をあきらめないがれきの中の新聞社”「原作・河北新報のいちばん長い日~被災地に届けた命の新聞・販売店家族の感動実話」。

ちょうど夕食時間だったので,なにか面白い番組はないかと探していたら,この番組が眼に飛び込んできました。躊躇なく「7」にスイッチ・オン。場合によってはメモも必要と考え,そばに置く。最初の入りがよかった。

「白河以北 一山百文」から,河北新報という社名の「河北」をとったという。白河の関を越えたさきの土地は,瓦礫の山ばかりで,一山の値段は百文程度のものだ,と考えられていた時代があり,長くそう思われていたというのです。東京中心主義はいまも歴然として生きており,東北地方は少なからず「上から目線」で眺められることは,いまでも少なくありません。そんな「河北新報」が,みごとに東京中心の大手新聞社には真似のできない大仕事をやってのけた,いや,新聞社本来の役割を果たしてみせた,そういう実話にもとづくテレビ番組でした。

「われわれも被災者なのだ。だから,被災者の視線で,いま起きている現実と向き合おう。そして,一刻も早くいま起きている真実を伝えよう。それが明日への生きる力につながるはずだ。これこそが新聞の使命ではないか。」
と新聞社全体が一致団結して,大震災の翌日の3月12日の朝には,いつもどおり新聞を配達し,以後も,欠かさず新聞をつくりつづけた,その現場の一断面をテレビドラマに仕立てあげた作品です。

『河北新報のいちばん長い日』は,いま話題の本ですので,すでに多くの人が読んでいることと思います。わたしは残念ながらまだ読んではいません。が,昨年の6月に現地を3日間にわたって尋ね歩いたときに,地元の新聞を読んで驚きました。記事に籠められた記者たちの思い入れの強さ,その情熱が直に伝わってきたからです。それに引き換え,東京に本社をおく大手の新聞社の記事の,なんと白々しいことか。まるで他人事としか思えない,薄情な記事ばかりが眼につきました。

帰りに仙台の大きな書店に入って,震災以後の河北新報の「縮刷版」を買いました。こちらに戻ってきてからも,そして,いまも,ときおりめくっては涙しています。こういう新聞がありうるのだ,これまでわたしが読んできた新聞はいったいなんだったのだろうか,とわが眼を疑いました。十分な取材もしないで,ぶら下がり記者会見をそのまま垂れ流すようなジャーナリズムの頽廃ぶりに慣らされてしまって,それが当たり前だと思い込まされてきたのですから。その状態はいまもつづいています。残念ながら。

この経験が引き金となって,50年間,愛読してきた朝日新聞に別れを告げ,東京新聞に乗り換えました。これも比較級の問題にすぎませんが,少なくとも「脱原発」を宣言して紙面づくりに励んでいるという点で,他紙にはない新鮮さが伝わってきます。しかし,東京新聞にも限界があって,やはり,河北新報のような地元の生え抜きの記者たちが,みずからの問題として大震災を取材し,書き上げる記事には,とても叶いません。

それと同じことが琉球新報や沖縄タイムスという新聞にみることができます。沖縄に関する情報は,東京の大手新聞社の記事を読んでいると,まるで他人事でしかありません。しかし,琉球新報や沖縄タイムスを読むと,河北新報を読むときと同じような,わがこととしての「熱」が伝わってきます。つまり,現地で起きていることがらを,現地に生きている人びとと同じ目線で取材をし,記事を書いている,そのハートが伝わってくるのです。

取材して記事を書く人,それを印刷する人,できあがった新聞を配達する人,この三位一体となったチーム・ワークなしには大震災直後の新聞は不可能でした。実際にも,3月12日の朝刊は,河北新報の印刷機が壊れていて印刷できなかったために,新潟の新聞社に協力してもらって刷り上げたという秘話までありました。この新聞のお蔭で,電気も止まってしまってテレビもラジオも聞けない,電話も通じない,世の中,どうなっているのかわけがわからなくなっているときに届けられた新聞が,どれほど大きな意味をもっていたかは,わたしたちの推測をはるかに越えるものだったに違いありません。

まだまだ,こういう新聞社が健在であるということを知り,わたしは勇気を与えられました。その意味では,わたしたちはあまり知らないでいますが,琉球新報や沖縄タイムスは,もう,長い間,からだを張った記事を書きつづけてきています。その紙面の発する迫力に,東京の大手新聞に慣れきってしまっているわたしたちは圧倒されてしまうほどです。わたしたちは「ゆでカエル」に成りきってしまっている,と。ちなみに,インターネットでいいですから,沖縄の両紙の記事を拾い読みしてみてください。基地問題への取り組みの姿勢が,ヤマトンチューの書く記事とは雲泥の差があるほど,違います。

わたしたちは,できるだけ多くの新聞を,とりわけ地方紙の名だたる新聞を手にして,読み比べる必要があると思います。読売新聞のように社説で,堂々と「原発稼働」を主張する新聞もあれば,真っ向からそれを否定する東京新聞のような新聞もあります。そのはざまで揺れ動きながら「玉虫色」の記事を書いている,まことにもって無責任な新聞もあります。それらを読み比べて,どの新聞に「信」を置くかは,読者であるわたしたちが決めることです。

長くなってきましたので,このあたりでこのブログは終わりにします。
それにしても,河北新報に拍手。そして,これをドラマ化した東京テレビに拍手(普段の番組は低俗なれど)。こんごも,このような番組づくりに情熱をそそいでほしいものです。いい番組をつくれば,視聴者はかならず増えます。テレビの果たすべき使命を肝に銘じて,こんごの番組づくりに励んでもらいたいと思います。

今夜のこのドラマは素晴らしかった。
そして,涙が,これほどまでも流れ出てくるものか,と驚きました。
とても,清々しい気持でいます。感謝。

愛知県・牛久保の奇祭「うなごうじ祭」のHPに注目を。

わたしの故郷の隣町の牛久保町にむかしから伝わる奇祭「うなごうじ祭」のHPを紹介します。
この祭りは,道路の上をどろんこになって,ころがって,練り歩く(練り転がる?),というので有名です。わたしの子どものころにも,しばしば話題になっていましたが,とうとうそれを見る機会を逸したまま,東京にでてきてしまいました。残念の極み。父は酔うと,よく,このときに囃し立てる歌を歌っていましたが,こどものわたしには理解不能でした。かなり卑猥な歌だったように記憶します。母が子どもの前で歌うな,と言っていましたから。

「うなごうじ祭」,正式には「若葉祭」といいますが,地元の人たちはみんな「うなごうじ」と呼び習わしていました。その祭りを紹介するHPができあがりました,と柴田晴廣さんからメールがありました。ちょうど,そのとき,浜松の「冨さん」というニックネームの人から,わたしのブログ「『穂国幻史考』なる奇書がとどく」にコメントが入っていました。この『穂国幻史考』の著者が柴田晴廣さんですので,早速,お礼とともに,このことをお知らせしました。

柴田さんは,伯父さん(母上のお兄さん)が浜松に住んでいるので,ひょっとしたら・・・と思ったけれども,違う人でした,と折り返しメールをくれました。柴田さんの母上とわたしとは小学校の同級生。ですから,そのお兄さんもおぼろげながら記憶があります。こどもながら,どこか古武士の風格を備えた,なんとなく「怖い」という雰囲気が漂っていた人だ,と記憶しています。その妹である母上もまた,しっかり者で,存在感のある人でした(小学校のころの記憶です)。いまは,とてもチャーミングな女性になっています。

で,浜松の「冨さん」は,わたしのブログを読んで,とても興味をもち,早速,この『穂国幻史考』を購入したそうです。そして,その記述のなかに,「冨永の冨の字の頭に点がないのは,そのむかし祖先が不本意ながら首を刎ねられるという事件があり,その記憶を子々孫々にまで伝えるためだった」という文面があります。ほんとうは,もっと長くて「えっ,そうなの」というびっくり仰天の話なのですが,ここでは割愛。これと同じ話を「冨さん」は,祖母と父から聞いている,というのです。ですから,もっと詳しい情報があったら教えてほしい,というのがコメントでした。

そこで,わたしは,なによりも『穂国幻史考』の著者柴田さんこそ,その冨永の直系の末裔であることを知らせ,同時に,柴田さんにも連絡しました。「冨さん」は,わたしの祖先は静岡県の佐久間町に住んでいた,と聞いていますという。佐久間といえば,穂国の豊川を遡っていけは必然的にそこにたどりつきます。いまは,佐久間ダムのあるところとして知られていますが・・・。わたしの予感としては,間違いなく,同じ「冨永」の一族だと思います。あちこちに逃げて,散らばって生き延びてきたその子孫だと思います。

といささか脱線してしまいましたが,その柴田さんは,この「うなごうじ祭」にも深くかかわってきた人で,いまもその世話人を務めていらっしゃる,と聞いています。ですので,こんどできたHPにも,早速,一文を頼まれ,面白い話を書いていらっしゃいます。いわゆる「うなごうじ」の語源について,公文書などに記載されている説は誤りだ,と鋭い指摘をしていらっしゃいます。郷土史家としての,長年の調査や文献研究の結果にもとづく結論ですので,説得力があります。

これからも,このHPをとおして,柴田さんはもっともっと詳細な情報を提供してくれるのではないか,とわたしは楽しみにしています。ちなみに,このHPのアドレスは以下のとおりです。
http://unagoji.dosugoi.net/

ぜひ,追跡してみてください。このHPに登録しておくと,随時,こちらに送信してくれるそうです。わたしは,すぐに,登録手続きを済ませました。こういう故郷の古い祭りが,また,元気を取り戻しつつあることを知るのは,とても嬉しいことです。それぞれの土地に根をもつ祭祀が,近代に入って,とかくないがしろにされてきた,とりわけ敗戦後の農村の民主化(生活合理化)運動のなかで,抑圧され,排除されてきました。その経緯の真っ只中で育ってきたわたしとしては,感無量,なんとも嬉しいかぎりです。

そんな思いもあって,これからも「うなごうじ祭」がどのような推移をたどるか注目していきたいと思います。柴田さん,頑張れ,と応援しながら・・・・。

「スポートロジー」(Sportology)=「スポーツ学」事始め・その1。

わたしが主宰している「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)の研究紀要が,いろいろの事情で,一年,間が空いてしまいました。二年つづけて休刊にしてしまうと,もう駄目だと考え,なんとか刊行しようと,いま,必死に最後の詰めをしているところです。

このブログでも書いてきましたように,「3・11」を通過したわたしたちは,もう,あとには戻れない,戻ってはならない,むしろ,新たな時代の可能性を探求することこそが喫緊の課題である,と考えてきました。そこで,「ISC・21」でも,これまで『IPHIGENEIA』という名前の研究紀要を刊行してきましたが,これを終巻にして,ひとつのけじめをつけ,新たに『スポートロジー』(Sportology)(=スポーツ学)という造語をかかげ,「3・11」後のスポーツ文化の新たな可能性にむけてスタートを切ろう,と決意しました。

『IPHIGENEIA』は,2000年を契機にして,20世紀的なスポーツ文化のあり方に決別して,21世紀を生きるわたしたちにとって必要とされる,あらたな「スポーツ文化」の考え方を探求しようという強い意思のもとでスタートを切りました。そのときの思想的なきっかけを与えてくれたのはジャック・デリダでした。キー・ワード的にいえば「脱構築」でした。つまり,近代という時代が徹底して抑圧・排除・隠蔽してきた「非合理」の問題系の力によって,最終的に近代論理が破綻をきたすことになった,という認識に立つことでした。そして,その近代論理を「「脱構築」することによって,新たに開かれる「スポーツ文化」の知の地平をさぐっていこう,ということが大きなテーマとなりました。

換言すれば,近代スポーツ競技という近代の文化統合がもたらした抑圧・排除・隠蔽の構造を解きあかすことにありました。前近代まで温存されてきた豊穣な「スポーツ文化」が,近代スポーツ競技の登場によって,わたしたちは「スポーツ文化」のうちの,なにを新たに獲得し,なにを失うことになったのか,を明らかにすることでした。これが,わたしたちの目指した「脱構築」の中味でした。そして,それは一定の成果を挙げえたと考えています。

しかし,「3・11」は,それをも凌駕する,とてつもなく大きな時代の変化を余儀なくされることになりました。もはや,「3・11」以前の論理に縛られているかぎり,未来に希望を見出すことはできません。簡単に言ってしまえば,ヨーロッパ産の近代合理主義的な考え方の枠組みの<外>にでること,そこから再出発することでしか,21世紀の未来は開かれてこない,と考えるに至りました。スポーツ文化の領域でも同じです。繰り返しておけば,近代スポーツ競技の考え方の枠組みの<外>にでること,このことこそが喫緊の課題である,という次第です。

そうして,到達した結論のひとつが「スポートロジー」の提唱です。この概念については,じつは,もうずいぶん前からわたしの思考のなかで構想されてきたものです。そして,その一部は,活字にもなっています(この点については,いつか詳しく書くことにします)。「3・11」後のスポーツ文化を考えるための無垢の,手垢にまみれていない,新たな「学」の可能性を,新鮮な響きをもつこの新しい造語「スポートロジー」に賭けてみようと決心しました。

そんな思いを籠めて「ISC・21」の研究紀要の書名を『スポートロジー』とすることにしました。そして,その創刊号の特集テーマは「スポートロジー」(Sportology)=「スポーツ学」事始め,ということにしようと,現段階では考えています。そして,その手始めに,「スポーツ学」構築のための思想・哲学的根拠のひとつとして,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)の読解を試みようという次第です。

ごく簡単に触れておけば,人間が動物性の世界から「離脱」し,人間性の世界に「移行」し,人間として生きる道を歩みはじめたとき(理性的人間の誕生),そのとき,いったい,なにが起きたのか,を考えることです。なぜなら,このことと広義の「スポーツ文化」の誕生とは表裏一体のものであった,とわたしは考えているからです。つまり,スポーツの始原の問題をさぐること,です。

「スポートロジー」は,まずは,ここから始めてみよう,という次第です。
題して「スポートロジー」事始め。

2012年3月3日土曜日

3月3日,雛祭り。風ぬるむ。気持ちもゆるむ。黄色の花をつけた柊。

積雪も消え,昨夜の氷雨も嘘のように今日は朝から快晴。午後になって少し雲がでてきましたが,まずは穏やかな一日になりそう。こころなしか風もぬるんできたように感じます。いくつになっても春は嬉しいものです。あと一カ月もしないで桜の花がみられるかと思うと,こころが浮き立ってきます。毎年のことながら,この時期はさまざまな思いにこころが動かされてきました。一つには,卒業・入学・入社という人生にとって大きな転換を,わが身に引き写して,振り返るからでしょうか。

リタイア後のわたしの生活のリズムは,水曜日を日曜日と決め,あとの日はいつもと同じ勤務日と考えていますので,今日も鷺沼の事務所に「出勤」しています。出勤簿も作成して,ハンコも押しています。自主管理です。朝から風雨の強い日はお休みです。雨が嫌いですので,これだけはわがままを許しています。ですから,出勤簿にはハンコの代わりに「雨」と書き込むことにしています。あとは,出張(名古屋,大阪,神戸方面へ,月に1回は出張しています)でもないかぎりは,まじめに出勤しています(このときは,「出張」というハンコを押しています。ので,「雨」というハンコをいま探しています。ついでに「サボり」というハンコも)。出勤簿をみるかぎり,とても,まじめに働いて(?)いることがわかり,われながら感心しています。

この話を友人たちにしますと,よほど仕事が好きなんだ,と言われます。そう言われるとちょっと困ってしまいます。なぜなら,鷺沼の事務所は大好きなんですが,仕事が好きだとは思っていないからです。わたしの場合には,いまや「仕事」の概念が大きく変化してしまっていて,世間でいう仕事はしていません。ありとあらゆることを自分で決めているわけですので,これはもはや,仕事(労働)ではなくて,娯楽・遊びの類だと思っています。しかも,鷺沼の事務所にきてしまえば,もう,完全に自分の思いのままに好き勝手なことをしていても,だれにも気兼ねは無用です。居眠りをしようが,風呂に入ろうが,お汁粉をつくって食べようが,やりたい放題。というわけですので,仕事などはしていない,と言った方が正しいようです。

勤務時間についても規定がありませんので,真の意味でのフレキシブル・タイムです。一応,午後7時までは事務所にいます。それから片づけをして帰路につきます。ですから,夕食はいつも午後8時前後になります。夕食後は,あまり意味もないことをごそごそとやりながら時間を過ごし,少しでも眠気がきたら,さっさと眠るようにしています。朝は眼が覚めたときが起床時間。それでも眠たければ,また,眠る。怠惰のかぎりをつくしています。

これから気温が上がってきましたら,鷺沼の事務所周辺の散策を楽しんでみようと思っています。ときおり書いてきましたように,鷺沼は植木屋さんが多く,その回遊コースが駅で紹介されているほどです。それをまだ実行していないというのは,これもまた怠惰のかぎりをつくしているからでしょう。でも,植木は嫌いではありませんので,ことしの春こそ見てまわろうと思っています。

今日は,いつも通る植木屋さんの屋敷に,黄色の柊の花が咲いていました。わたしが子ども時代を過ごした寺の境内にあった柊は白い花をつけていました。ことし,初めて「黄色の柊の花」の存在が,わたしのオブジェとして意識されることになりました。これまでは「見れども見えず」という存在でしかなかったという次第です。

写真を載せておきましょう。





2012年3月2日金曜日

気がつけば,もう3月。「3・11」を目前にしてますます滅入ってしまう毎日。突破口はないか。

久しぶりの銀世界もあっという間に雪が溶けてしまった。この前の雪のときは,冷え込みが厳しく昼に溶けた雪が夜には氷となって,日陰には相当長く残っていた。そして,寒かった。しかし,今回の雪はあっという間に姿を消してしまった。暖かくなったのだ。

そう,気がつけば,もう3月に入っている。もう,春はすぐそこにきている。しかし,北国の春は近づいているのだろうか。仮に,桜が咲き始め,その桜前線が北上しても,北国の春はまだまだ遠いに違いない。そんなことを,昨日は一日中,考えていた。

何回もブログを書こうと思ってパソコンを立ち上げるのだが,一行も書けないまま,じっと考え込んでしまう。昨年の6月に訪れた福島,宮城,岩手の3県の被災地の記憶が,つぎからつぎへと甦ってくる。片時も消えない記憶は,南相馬市からさらに南にくだって,行けるところまで行こうと頑張ったが,「20キロ検問所」の前で車を止められてしまった。仕方がないので,そこから引き返す。だから,そこからさきの世界は,わたしにはたんなる「空白」でしかない。「空白」なるがゆえにこそ,なんとも落ち着かない。

その「空白」を埋めるための情報はすべてメディアをとおしてのものである。その情報もまことにいい加減なものばかりで,どれひとつ信用できない。そして,あらぬ噂が,いわゆる「風評」となって世に広がっていく。この風評を一刀両断のもとに断ち切って,しっかりした根拠にもどづく情報を提供すべきメディアがほとんど機能しない。それもそのはずで,政府ですら精確な情報をどれだけ把握しているのか,それすらおぼつかない。当事者である東電ですら,現場指揮に立つ所長と本社の間の意思疎通がうまく機能していない。結局,だれもほんとうのところはわかっていない。

いったい,「3・11」以後,この日本の社会の中ではなにが起きたのか。重要なポストにいる人たちが,だれひとりとして「責任」をとろうとはしない「責任回避体質」=「無責任体質」と,わが身の保全のための「思考停止体質」だけが,もののみごとに浮かび上がってきた。都合の悪い情報はひたすら秘匿する(あるいは,隠蔽・排除する)(なんと「秘匿」することを正当化する法律までつくろうとしている)。そして,あとは知らぬ勘兵衛さん。ひたすらダンマリ戦術。死んだふり。そして,都合のいい風が吹いてくると,にわかに元気を出して,あちこちに圧力をかけて,情報コントロールをはじめる。

政・官・財・学・報の五位一体となって,国民の「命」などはそっちのけだ。そして,利権がらみの魑魅魍魎ばかりが跋扈する。そういう情けない実態がもののみごとに露呈してしまった。

いまだに信用できる情報はほとんどなにもないに等しい,とわたしは深刻に受け止めている。それらをはるかに凌駕する「風評」という名の怪情報が乱れ飛んでいる。わたしたちは,それらの情報に振り回され,昨日の友を今日の敵にしてしまわなければならない,まことにみじめな情況に追い込まれてしまっている。「絆」どころか「分断」が大手を振って歩いている。下手に口をきくことすら憚られるほどだ。

とりわけ,放射性物質による汚染の問題。危険線量の規定すら,確たる根拠はないという(これすらも,たんなる風評かもしれない)。しかも,もし,身体に異常が発生したとしても,そのことと放射性物質との因果関係を証明することはきわめてむつかしい,ともいう。だから,だれも責任を問われることはない,とも。その結果なのだろうか,いつも,「場当たり的」な対応でなんとか切り抜けようと政府は必死だ。

そうして,フクシマの放射性物質の問題だけが,いつのまにか注目されることになってしまった。ついには,フクシマばかりが国際的に有名になってしまったが,なんのことはない,トウキョウも同じなのだ。トウキョウもフクシマもたいして変わりはないのだ,ということを認識していないのは日本人だけかもしれない。だから,フクシマの温泉に行くことをトウキョウの人間が忌避するという。可笑しくて笑ってしまう。同じ穴の狢(むじな)だというのに。東北も関東も,みんな危ないといえば危ない。トウキョウが安全だというなら,東北も関東一円もみんな安全だ。

そのことを,しっかり認識しているのは欧米人たちだ。「3・11」以後,ヨーロッパ系の旅行客が激減したことを考えれば歴然としている。いまや,銀座は東洋系の観光客で占拠されている。顔かたちが同じなので目立たないだけだ。スレ違いざまに聴こえてくることばの違いで,はじめて気づく。黙っていれば,だれも気づかない。それにしても,東洋系の人たちはおおらかだ。

眼に見えない放射性物質による汚染は,たしかに怖い。しかし,原発の事故処理にあたっている原発労働者のことを考えれば,怖いなどと言ってはいられない。かれらは,まさに,命懸けで仕事をしているのだ。線量計とにらめっこしながら。こういう人たちがいてくれるお蔭で,かろうじて,現状が維持されていることをよもや忘れてはなるまい。

そのことを考えれば,フクシマとトウキョウの違いなどは微々たるものでしかない。いまや,どこに住んでいようと同じだ,とわたしは自分自身に言い聞かせることにしている。そうとでも思わないことには,もはや,日本では生きてはいけない。美味しい会津のお酒は呑まずにはいられない。フクシマは温泉の宝庫だ。これまでどおりに,自由に行き来したい,と考えている。

「3・11」を目前にして,恒常的な支援の方法を考えていかなくては・・・と老骨に鞭打ちながら考えている。

三春町で頑張っている玄侑宗久さんの生きる姿勢をお手本にして。