2015年1月31日土曜日

国会討論。沖縄県民の「民意」について答えようとしないアベ君。

 昨日(30日)の昼時にそばを茹でて,それを食べながらテレビを点けたら,国会中継をやっていました。衆議院予算委員会の質疑でした。ちょうどタイミングよく,赤嶺政賢(沖縄県選出・共産党)さんの質問の時間でした。どんな議論になるのだろうかとしっかりと耳を傾けてみました。すると,予想をはるかに上回るとんちんかんなアベ君の答弁が繰り広げられ,これまでにみたこともない恐るべき茶番劇が展開し,腰が抜けるほどあきれはててしまいました。

 そのほんの一部ですが,紹介しておきたいとおもいます。

 赤嶺委員が,こんどの選挙で示された沖縄県民の「民意」について総理はどのように受け止めているのか,いま,進行中の一連の辺野古での暴力的な移設推進工事をみるかぎり,まったく「民意」を無視した行為としか考えられない,と厳しく問い詰めていきます。それに対してアベ君は「真摯に受け止めています」とひとこと応じただけで,あとは,自分の言いたいことをダラタラとまくし立てるだけ。つまり,普天間から辺野古へ基地を移設することがいかに重要であり,それがベストの選択であるか,しかも,それらは日米合意と法にもとづいて慎重にことを進めている,と熱弁をふるうだけです。

 赤嶺委員は「わたしの質問に答えていない」と,再度,質問を建て直して,「民意」を真摯に受け止めているのであれば,あんな暴力的な行為はさせないはずだ,だれがいったいあのような暴力的な行為を指示しているのか,と食い下がります。が,それでもアベ君は知らぬ顔で,自分の手元にある答弁書を,ヴァージョンを変えてベラベラとしゃべり続けるだけです。まさに,時間の無駄。というか,まるで茶番劇をみせられているだけです。

 さらに,赤嶺委員は,日本は民主主義の国ではないのか,アメリカは民主主義の国ではないのか,と問い詰めながら「民意」を無視するということは民主主義の否定にほかならない,と迫ります。ここまで問題を焦点化してもなおアベ君は,それとは関係のない答弁を繰り返すだけです。つまり,辺野古への基地移設は東アジアの抑止力としていかに重要であるかという点で,日米は合意しているのだ,と繰り返すのみ。

 これでは話にならないとあきれ果てた赤嶺委員は「では,なぜ,翁長新知事がご挨拶をしたいと言って訪ねてきているのに,会おうともしないのか。これこそが沖縄県民の「民意」を無視した行為の最たるものではないか」と迫っても,我関せず,とばかりにまたまたまったく関係のないことをベラベラとしゃべりまくるだけです。凄い人だなぁ,と聞いていてあきれ果ててしまいました。

 とうとうしびれを切らした赤嶺委員は,わたしの質問にどうしても答えられないということは,わたしの懸念をそのまま認めるということを証明したのだ,と受け止めることにします,とアベ君への質問を断念して,各論の質問として中谷防衛相に矛先を転じていきます。

 まあ,これまでの言動をみていてもアベ君という人間は,ふつうの神経の持ち主ではないということは承知していました。ふつうでは恥ずかしくてとても言えないことを平気で言ってのける,けたはずれのド・シンゾウ(心臓/晋三)の人だとはおもっていましたが,それをもはるかに超えるケタはずれの凄さを,昨日の国会答弁でみせつけられてしまいました。正直にその印象を書いてしまえば,「本質的なバカ」ですね。本質的なバカとは,自分がバカであるということを認識していないという意味です。ですから,いま,自分がしゃべっていることがまるでトンチンカンなことだということすらわかっていない,ということです。こうなると「恥ずかしい」という感情はひとかけらもありません。必要がないのです。官僚が用意してくれた答弁書を,とっかえひっかえしながら読み上げればそれでいい,と信じて疑わない。そういう種類のバカです。

 ああ,一国の総理をバカ呼ばわりしてしまいました。でも,今日の質疑応答を聞いているかぎり,質問者の質問にまったく応答していない,あるいは,一生懸命に別のことを話している,その図式をいやというほど見せつけられました。こんなやりとりをテレビをとおして聞いているかぎり,この人はバカとしかいいようがない,としみじみおもいました。長い間,生きてきていますので,世の中にはいろいろの種類の恐ろしいバカがいくらでもいるのは知っています。が,アベ君のような種類のバカははじめてです。しかも,昨日の国会答弁では,さらに新境地を開いたかとおもわせるほどのバカさ加減でした。ですから,とても新鮮でした。

 おまけに,こんな,とんでもない答弁を繰り返しているのに,野次ひとつ飛びません。これもまた異様な雰囲気にみえました。ひとりくらい「答えになっていない!」くらいのことは言ってもいいではないか,とイライラしながら聞いていました。代わりに,わたしがひとりテレビに向かって「もっとまじめに答えろっ!」と吼えていました。それも何回にもわたって・・・・。そのうち隣近所から苦情がくるのではないか,と自分でも心配になるほど,とびきり大きな声で。

 国会というところは,こんなバカげた議論を繰り返しながら,数の横暴がまかりとおっていく場なのだとおもうと情けなくなってしまいます。その上,とうとうまともな野次も飛ばなくなってしまった国会とはいったいなんなのだろうか,と頭を抱え込んでしまいました。いまだかつてない,少なくとも戦後の日本ではみられなかった最悪の,しかも愚劣きわまりない,きわめて<異常な>国会論戦がいま繰り広げられています。

 この国はいったいどこまで沈没していくのでしょうか。もう,すぐそこに軍靴の足音が響きはじめている・・・・そんな恐怖がますます現実味を帯びてきている・・・・。これは冗談ではありません。あな,おそろしや。あな,おそろしや。

2015年1月30日金曜日

アートを学ぶ人たちの前に立つことになりました。驚きと歓喜。

 ある日,突然,小澤慶介さんという方からメールが入ってきました。原則的に知らない人からのメールは開かないことにしています。ですから,このお名前をじっと眺めて,どうしようかと考えました。しかし,そのときの直観は「開け」でした。そこで恐る恐る開いてみました。そうしたら,とても丁寧な文章で,まずはお詫びからはじまり,ご相談の主旨が的確に書かれていて,ほっとしました。意外に直観というものは当たるものだ,とわれながら驚きでした。

 さて,その小澤さんとお会いしてお話を詳しくお聞きしているうちに,ああ,これは断れない,いや,喜び勇んでお引き受けしなくてはいけない,と途中から立場が逆転していました。そこが,まさに小澤さんの炯眼のなさしめるワザでもありました。

 まずは,わたしのブログを追跡して読みました,と切り出しました。そして,読めば読むほどに,この人に講演をしてもらいたいと強くおもうようになりました,と仰る。もう,ここで勝負ありです。その上で,テーマは「東京オリンピック1964と2020」という二つのオリンピックの間に日本人の身体はどのように変化したのか,というもので,それをスポーツというアングルから話してほしい,と仰る。もう,ここまで聞いた段階で,わたしは嬉しくてたまらず,早速,こんなことが言える・・・・というような話をはじめていました。

 小澤さんは聞き上手で,ひとしきり話が盛り上がったところで,そういうお話をぜひともお願いします,となりました。もう,あとには引けません。前にでるしかありません。面白そうなので,ぜひ,やらせてください,ということになりました。

 そんな話が終わったところで,じつは・・・と言って,西谷修さんのお話がでてきました。学生時代に西谷先生のゼミに入りたかったのですが,どうも敷居が高いと自分で判断して,遠くから羨望のまなざしで眺めていました,とのこと。でも,その思いを忘れることができないまま,その後もずっと西谷先生のお仕事は追っかけています,と。そして,いまもなお多くのことを学ばせていただいています,と。で,勇気を出して西谷先生とコンタクトをとって,西谷先生にも講演をお願いしています,とのこと。

 なるほど,そういうことであったか,と。これですべてが瓦解しました。なーんだ,それならそれと最初から言えばいいのに・・・と。でも,小澤さんの偉いのは,やはり,まずは自分で努力をして自分の眼で確かめた上で,自分の意思でわたしとの接触をはかったことです。ますます,小澤さんという人物が好きになってしまいました。

 話が前後してしまいましたが,小澤さんは,NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ〔AIT/エイト〕のMADプログラム・ディレクターをされている方です。MADとは,現代アートの学校:Making
Art Different (アートを変えよう,違った角度で見てみよう)の略称です。

 
そして,NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ〔AIT/エイト〕とは,現代アートを考えるさまざまな「場」をつくるため,2001年に設立したNPO。アーティストやキュレーター,美術館やギャラリーのほか,企業,財団,行政と連携しながら,現代アートの複雑さや多様さ,驚きや楽しみを伝えています,とこのリーフレットには説明されています。

 現代アートの学校MADは5つの「ジェネラル・スタディーズ」,3つの「アドバンス・スタディーズ」,3つの「ゼミ」およびす「MADフェンバーガー」から構成されています。その詳細は下の写真のとおりです。読んでみますと驚くべき内容が提示されています。思わず,わたしが受講してみたくなるようなプログラムになっています。

 
わたしの出番は「アドバンス・スタディーズ」の中にありました。それによりますと,テーマ①「二つのオリンピックの間で変容するカラダ」(2015年4月~6月)という通しテーマで3人の講師が,それぞれのスタンスから話をすることになっています。わたしに与えられたテーマは「オリンピックの変容からカラダを考える」というものです。こうなってきますと,いまから,もう,どんな話をしようかと胸が高鳴ってきます。このワクワク感がたまりません。

 なぜなら,この「アドバンス・スタディーズ」の中の「アートの存在論へ──3.11以後から考える」のテーマのもとで,西谷修さんも「破局に向き合い,創造を思考する」というお話をされることになっているからです。まことにもって光栄です。ありがたいことです。

 
講師一覧をみますと,それぞれの専門の分野で大活躍されていらっしゃる方たちばかりです。そんな中で,たとえアイウエオ順だとはいえ,わたしの名前がトップにでてきますと,これでいいのかなぁ,といささか腰が引けてしまいます。と同時に,ちゃんと責務を果たすべく頑張らねば,という気持にもなってきます。まあ,いまさらどたばたしても仕方がありませんので,少なくとも自分に納得のいくお話ができるように準備をしたいとおもいます。

 
いずれにしましても,アートはスポーツからも養分やエネルギーを得ようとする,このアイディア/姿勢に接し,こういう時代になってきたんだなぁとおもうと同時に,こういうアイディアを展開させる小澤慶介さんは凄い人だなぁ,と感心してしまいます。その小澤さんの期待に応えるべく,わたしも頑張らねば・・・とますます考えてしまいます。

2015年1月29日木曜日

「2015・手工芸フェア」に行ってきました。能面アーティストの柏木裕美さんも出展。

 「2015・手工芸フェァ」に行ってきました。読売・日本テレビ文化センターが主催している「よみうりカルチャー」で講師をしていらっしゃる先生方の「手工芸展示即売会」です。ここに,わたしたちの太極拳の兄妹弟子である柏木裕美さん(能面アーティスト)も,講師の一員として参加されているからです。

 日程は,1月29日(木)~2月3日(火)。午前10時~午後7時。
 場所は,東急百貨店渋谷本店・3階イベントサロン

 
初日ということもあってか,超満員。柏木さんのお話では,みなさんカルチャーの生徒さんたちではないか,とのこと。それにしても,あまり広くない会場に「アートフラワー」「押し花」「手作り帽子」「伊勢型紙を彫る」「日本刺繍」などといった展示と即売をするテーブルが並び,盛況でした。その中に「能面を打つ」というコーナーで柏木さんがちょこんと座っていらっしゃいました。


周囲の手工芸の展示即売とはひとあじ違った凛とした雰囲気が,柏木さんのコーナーには漂っていました。やはり,能面のもつ迫力がそうさせているのだとおもいました。わけても正面中央に飾られた「鑑真さん」がひときわ威厳を保っていました。そして,その左右に「小面」と「愛ゆえに」が控えているのですから,当然といえば当然でしょう。

 いわゆる手工芸という分類のなかに入ると,能面は異彩を放ちます。と同時に,作品の一つひとつが力をもっていますので,なおさらです。まったく存在感が違うのです。アートの力とでもいえばいいのでしょうか。気魄がつたわってきます。

 テーブルの上には下の写真のような作品が,こんどは下から見上げています。ものすごい迫力です。ある年配のご婦人は正直に「なんか怖い・・・そんな感じ」とおっしゃるので,ここに作品のアルバムがありますのでご覧ください,ここには「小面百変化」というテーマで打った創作作品がありますから,とそのページをめくってみせてあげました。そうしたら,とたんに,「これは面白い・・・」と言って,とても興味を示されていました。ちょうど,柏木さんが席をはずしているときでしたので,留守番をしながらついついでしゃばってしまいました。

 
テーブルの一番手前には,柏木さんの描かれた能面の絵がぞろりと無造作に並んでいます。こちらもちらちら眺める人はいても長居はしません。やはり,手工芸好きの人たちの興味・関心からは少しずれているようです。でも,思わず足を止めて眺めるという人はたくさんいらっしゃいました。やはり,気になる存在ではあったようです。

 
柏木さんはそういう人たちには,せっせと声をかけ,能面の話を熱心にされていました。少しでも能面の世界をわかってもらいたいという情熱のようなものを感じました。ご自分のお仕事が根っからお好きで,能面の話になると別人です。能面アーティストという肩書のもつ可能性に誇りと夢を託していらっしゃることがよく伝わってきます。

 わたしにとっては,すでに馴染みの深い作品ばかりです。しかし,久しぶりに拝見させていただくと,やはり凄いなぁ,と感じ入ってしまいます。どの作品も素晴らしい傑作ばかりです。売らない方がいいとおもわれる作品も並んでいます。ただし,ほんとうに売りたくない作品には高い値段をつけていらっしゃるようです。でも,もし,売れてしまったらどうするんだろう,と他人ごとながらいささか心配になっていまいました。それほどにいい作品ばかりなのです。

 能面に興味をお持ちの方はぜひ出かけてみてください。目の前の,手のとどくところに高価な作品がずらりと並んでいます。それよりなにより能面アーティストの柏木裕美さんというお人柄もまた天下一品ですので,ぜひ,会話も楽しんでみてください。

 柏木さん。あと5日間。長丁場です。頑張ってください。ご盛況を祈ります。

2015年1月28日水曜日

シリーズ日本古代史③『飛鳥の都』(吉川真司著,岩波新書)を読む。いま,古代史が面白い。

 日本の古代史が面白い。ひとつには考古学上の発見が相次いでいて,これまでの文献史学の限界から抜け出し,新しい歴史解釈に確たる根拠を与え,説得力をもつようになったからだ,と思います。もう一点は,日本という一国の枠組みの中に閉じこもらないで,日本をとりまく東アジアの諸国との緊張関係という視点を取り込むことによって,国内の内政問題の背景にある外圧が明らかになってくるからだ,と思います。この二点によって,日本古代史研究は一気に活気づき,いくつもの仮説が提示され,多くの議論を生むことになったからでしょう。とにかく,古代史から眼が離せない,そういう情況がいま生まれているようです。

 ということは,これまでの定説と考えられていたものがつぎつぎに崩壊し,まったく新たな仮説がこれまたつぎからつぎへと誕生し,いま,その議論の真っ只中にわたしたちは立ち会っている,と言っていいでしょう。そんな情況を一手に引き受けて,自説を頼りに「飛鳥時代」を描き直した力作,それがこのテクスト,吉川真司著になる『飛鳥の都』です。

 
これまでの古代史の時代区分にもとらわれることなく,「飛鳥」という地域をキー・ワードにして古代史を読み直すと,そこからどういう世界が広がってくるのか,というかなり思い切った手法を取り入れています。人物で言えば,推古から持統までの約100年,「飛鳥」を舞台にして,なにが起きていたのかと問いかけています。つまり,600年から700年までの,いわゆる「7世紀」を,文献史学と考古学の成果と東アジア情勢の3点をセットにして,再考してみようというわけです。

 お蔭で,これまでずーっと疑問におもっていたことの多くが,みごとに明るみにでてきて,すっきりしました。たとえば,なにゆえに斉明天皇(と息子の中大兄皇子)とが,何回にもわたって百済救済のための軍団を送り込んだのか,その理由がわかりませんでした。しかも,白村江では壊滅的な負け戦までしています。そこまでしなくてはならない理由がわたしにはわかりませんでした。それは,これまでの説明が国内の問題に限定されていたからです。

 がしかし,このテクストによれば,高句麗・百済と倭国の連合軍と,新羅と唐の連合軍とが対立抗争を繰り返していて,もし,負けてしまうと新羅・唐の連合軍に倭国も征服されてしまう,という危機意識があったというのです。ですから,死力をつくして戦わなくてはなりませんでした。しかし,結果的には,新羅・唐の連合軍が勝利し,倭国はピンチに立たされることになります。しかし,偶然にも,その直後に唐は吐蕃の攻撃を受け,苦しい戦いがはじまったために,倭国への進軍が不可能になった,というのです。しかも,新羅も内紛が勃発して,衰退していきます。こうして,飛鳥の都は安堵することになります。

 そこから見えてくることは,推古朝の遣隋使や,斉明朝の遣唐使は,その実態は圧倒的な国力の差をみとめた上での朝貢であった,ということです。つまり,飛鳥時代の倭国は,百済とは同盟を結んでいましたが,それ以外の新羅や隋・唐には,いつ攻められるかわからないという恐怖をつねにいだいていた,ということのようです。

 もう一点は,壬申の乱のときの大海人皇子軍のたどった進攻ルートです。大津宮を攻めるために,なにゆえに吉野から飛鳥を経由して伊賀から尾張・美濃まで足を伸ばし,そこから大津に向かったのか,という疑問です。ここには意外な事実があったことを著者は丁寧に資・史料を提示しながら説明していきます。一つひとつ納得することばかりです。この説明は長くなりますので,残念ながら割愛。

 というような具合に,乙巳の変から大化改新へ,そして,律令体制へ,いわゆる国家としての骨格がはっきりしてくる時代の経過を,飛鳥の都を舞台にして明らかにしていきます。これらの説明は,これまでの古代史の説明の仕方とは異なる,まったく新たな視点がいくつも提示されています。しかしながら,ここで提示された議論がこんごどのような展開をみるのか,いささか不安な点がないわけではありません。

 たとえば,聖徳太子問題(不在説)についてはこれまでどおりの解釈で論を展開していますし,中大兄と大海人の兄弟関係(『日本書紀』の記載では年齢が合わない)の問題についても,なんら触れることなくやりすごしています。

 こうした問題点もさることながら,このテクストの思い切った構想は,それらを補って余りあるものがあります。こうなってきますと,このシリーズ日本古代史全6巻を全部,読んでみたくなってきます。とりわけ,わたしの問題関心からすれば,シリーズ②の『ヤマト王権』(吉村武彦著)は不可欠です。なぜなら,崇神・垂仁をどのように描いているか,野見宿禰との関係で確認しておく必要があるからです。

 いずれにしても,いま,日本の古代史は面白い。見方・考え方がくるりと一回転しそうな勢いです。その意味で,お薦めです。

2015年1月27日火曜日

大相撲の「ビデオ判定」は正しいか。白鵬の「物言い」はさらに論外。

 優勝回数を33回に伸ばす大記録を達成した横綱白鵬が,13日目に対戦した稀勢の里との「取り直し」となった相撲の判定について,クレームをつけたとインターネット上で話題になっています。それによりますと,「子どもでもわかる」「審判団はもっと緊張感をもって臨んでほしい」というような内容の発言だったといいます。つまり,寄り倒しで自分の勝ちだ,と主張しているのです。それを「取り直し」にするとはなにごとぞ,と。

 はたして,そうだったでしょうか。わたしは,まったく逆で,稀勢の里の小手投げからのうっちゃりの勝ち,と判定していました。

 そうしたら「物言い」がついて協議となりました。その間に,ビデオのスローが何回も流されました。これを見るかぎりでは,白鵬の体が腹から落ちるのと稀勢の里の体が背面から横向きになって落ちていくのが,ほとんど同時でした。これをみて,同体とみて「取り直し」になるのだろうなぁ,と予想しました。そして,そのとおりになりました。それでもなお,わたしの判定は,あくまでも稀勢の里の「うっちゃり」による勝ち,これは変わりませんでした。

 なぜか?

 ついでに触れておけば,白鵬には,同体「取り直し」と判定されてもよかった(わたしの判定は白鵬の負け)相撲が二つありました。が,これらの取り組みは「物言い」もつかず,行司の判定どおり白鵬の勝ちとなりました。いずれも,ビデオのスローが流れ,相手力士の踵が俵の上を越えて蛇の目につく瞬間と白鵬の腹・手が土俵に落ちる瞬間は,どちらとも言えないものでした。いずれも,相手力士は俵の上に立っていて,白鵬は腹から落ちています。行司の軍配がどちらに上がっても不思議ではない相撲でした。が,白鵬は運良く「勝ち」を拾いました。

 その結果の「全勝優勝」です。わたしの判定では「12勝3敗」。運も実力のうち,といいますからこういうこともあって不思議ではありません。

 しかし,ここにはもっと大きな問題がひそんでいるように思います。

 「ビデオ判定」は正しいのか。「ビデオ判定」は絶対なのか。わたしはここに大いなる疑問をいだいています。

 なぜなら,まだ,ビデオ判定がなかった時代の判定は「人間の眼」が行っていました。そこでは,相撲の流れが重視されていました。そのポイントは「生き体」と「死に体」の判定でした。同時・同体で土俵の外に倒れこんで行ったとしても,どちらの体がさきに「死に体」になったかどうかが見極められました。つまり,倒れ込みながらも,どちらの体が「生き体」で技を仕掛けていたか,が判定されました。

 初代若乃花は,土俵際で押し倒されながらも上手投げを打ち,体を入れ換えるようにして「うっちゃり」で勝つ,これを得意としていました。この相撲はいまでもYouTube で見ることができますので,確認してみてください。こんにちの相撲判定の見方に慣れてしまった眼でみると,全部,若乃花の負けです。しかし,当時は相撲の技を仕掛けた「効果性」が重視されましたので,最後に倒れ込みながら,どちらの技が優勢であったか,が勝負の分かれ目となりました。

 つまりは,技をかけて足が土俵に残っている方の体は「生き体」であり,宙に浮いてしまった体はもはや落ちるだけなので「死に体」,というわけです。この状態で,同時に土俵下に落ちて行ったとしても,「生き体」の勝ちです。

 しかし,こんにちでは「生き体」「死に体」ということばも聞かれなくなってしまいました。そして,ただ,ひたすら,ビデオのスローをみて,どちらのからだがさきに土俵に触れたか(落ちたか)の,その一瞬の差で判定をくだしています。つまり,人間の眼にみえない時間差を「ビデオ」に判定してもらっているわけです。こうなりますと,もはや,相撲の本来の技の効果性はどこかにとんでしまって,どちらがさきにからだの一部が土俵に触れたか(落ちたか)だけが勝負判定の対象となってしまいます。

 すなわち,力士のからだは技を繰り出す人間のそれではなく,たんなる物体(あるいはロボット)が倒れていく「モノ」そのものと変わりはありません。ですから,一瞬でも早く土俵に落ちた方が負けです。それが,たとえば1000分の1秒の差であっても,それが「正しい」ことになってしまいます。最先端科学の力を借りれば,それも可能です。現に他のスポーツ競技ではそのような方法が採用されています。

 つまり,人間のからだの「事物化」へと,すでに一歩を踏み出している,それがこんにちの大相撲の判定の世界だ,というわけです。

 これはどうみても本末転倒です。

 このことに日本相撲協会は気づいているのでしょうか。
 横綱審議委員のメンバーたちはわかっているのでしょうか。
 大相撲ジャーナリストたちは,なにも疑問におもっていないのでしょうか。
 そして,白鵬はなにを考えているのでしょうか。

 大横綱白鵬に贈ることばをひとつ。「みのるほどこうべをたれるいなほかな」。折角の大横綱の名誉を汚すような発言には,くれぐれもご注意を。土俵上での所作も同じです。これからは,なお一層,相撲道をきわめてください。審判委員の判定にクレームをつけるなど,もってのほかです。この人たちは日本相撲協会を支えている親方衆です。その親方衆にクレームをつけるなど,よほどの根拠がないかぎり許されません。もっとも,いま,白鵬が所属している部屋の親方とも口を聞かないとか・・・・。まずは,こんな風評が立つことそのことが問題です。

 白鵬は,勉強熱心で,相撲の歴史についてもよく本を読んでいるとか。ぜひ,YouTube で,初代若乃花,栃錦時代の相撲の取り組みも研究してみてください。

 以上,ひとこと,ふたこと。

2015年1月26日月曜日

国会囲む「青の鎖」。辺野古移設ノーに7000人。

 1月25日(日)午後2時~3時30分,「青の鎖」で国会を囲もう,という情報はかなり前から知っていましたので,なんとしても参加したいと考えていました。が,わたしの凡ミスでとうとう参加できませんでした。ネットでの主催者発表によれば,7000人の人たちが集まった,といいます。この「鎖」のひとつになれなかったことを悔やんでいます。

 個人的な話になりますが,23日(神戸)は「東京五輪2020を考える」,24日(奈良)は「野見宿禰」論,というテーマでお話をする約束があってでかけていました。ですので,25日の朝早く奈良を出発すれば午後2時の国会議事堂前に行くことはできる,と考えていました。

 が,ここで凡ミスをしてしまいました。宿泊したホテルがJR奈良駅のすぐ近くでしたので,奈良から京都まではJRで行こうと決めました(いつもは,近鉄利用)。幸いなことにタイミングよく京都行きの「みやこじ快速」がくることがわかりました。そして,プラットフォームにでると,まもなく列車が入ってきました。これだと思い込み,そのまま乗車。しばらくぼんやりと窓外の景色をながめていました。だいぶ時間が経過したところで,ふとわれに返りました。というのは,眺めていた景色がいつもと違うことに気づいたからです。木津川沿いに広々とした平野を走るはずなのに,列車の両サイドともに山が迫っているではありませんか。「エッ?こんな山の中に入ってきてしまっているぞ」「どうして?」。一瞬,なにが起きたのかわからず焦っていました。すると,まもなく車内放送が入り「大和路快速にご乗車くださりありがとうございました。まもなく終点,加茂に到着します」と言っています。そこで初めて「みやこじ快速」と「大和路快速」を間違えて,そのまま飛び乗ってしまったんだと気づきました。時,すでに遅し,と悔やみました。

 沖縄・辺野古がいま大変なことになっています。インターネット情報をチェックすると,機動隊や海上保安庁などが連日,恐ろしいほどの暴力をふるっていることがわかってきます(『沖縄タイムス』や『琉球新報』などがFBで写真つきの情報を流しています)。本土の新聞・テレビではほとんど報道されていませんので,多くの人たちがなにも気づかないままでいるようです。それもこれもアベ政権が徹底して本土の報道機関にプレッシャーをかけ,ほぼ完璧に近いほどの言論統制をしいているからです。その代表がNHKです。沖縄切り捨ての筆頭と言っていいでしょう。もはや許しがたい偏向報道(「暴力」)がつづいています。

 辺野古をめぐる情況がどうなっているのかについては,わたしもFBをとおして,毎日,信頼できる情報をリンクして,アップしています。場合によっては,午前,午後,夜の3回も,刻々とFBに流れてくる情報をチェックしています。そして,どうしてもこれだけはもっと多くの人びとに知ってもらいたいという情報をセレクトして,流すようにしています。

 沖縄県民の民意無視,民主主義の否定,恐るべき暴力の日常化(機動隊などによる殴る・蹴る),本土住民の無関心,政府のあくどい沖縄いじめ,と挙げていけば際限がありません。その一方では,アメリカ政府は,逆に沖縄県民の民意の強さに反応し,移転撤回も視野に入れて,新しい段階への対応を検討している,という情報も流れています(『沖縄タイムス』,ほか)。この情報もまた,本土のメディアは無視です。

 ですから「茹でカエル」のままでいる本土の住民の多くはなにも知ることもなく,無関心です。遠くの方でなにか起きているらしい,くらいの認識でしかありません。その点は,原発再稼働の問題とよく似ています。多くの人が「自分の問題」とは受け止めていない,ということです。困った情況が,いまの日本を支配しています。

 そんななかで,「青の鎖」で国会議事堂を取り囲もうという運動が立ち上がりました。しかも,7000人もの人びとが集まり,意思表明をしました。ここにきて,ようやく本土の人びとも目覚めてきたということでしょうか。午後15分と30分の2回にわたって「鎖」ができあがり,つなぎ合った手を挙げて喜びを分かち合ったとネットでは告げています。もちろん,写真つき。(『東京新聞』は大きく取り上げています)

 辺野古の動向はこれからの日本の行方を占うための重要な鍵を握っています。いま,辺野古は日本がかかえている最先端の問題と真っ正面から向き合っています。ここをどのように通過するかが,わたしたちの両肩にかかっています。しかも,いまが正念場です。「イスラム国」の人質問題で人びとの眼がそちらに奪われている間に,一気に工事を推し進めてしまおう,というのがアベ政権の企みです。しかし,そうはさせじと「7000人」の人が集まりました。しかし,報道はほとんどされません。ここが大問題です。

 それでもなお,その最大の「壁」を乗り越えていくしかありません。そのためにこそ「インターネット」という武器を手に入れ,これを大いに活用する以外にありません。このブログもその手段の一つです。この話題を拡散させて,大いに議論していただけると幸いです。

 というところで,今日のところはおしまい。

ダブル・ダッチ。競技化の壁=人間の<事物化>,とどのように折り合いをつけるか。

 1月24日(土)に開催されたISC21・1月奈良例会で,思いがけない収穫がありました。若い院生さんが,ダブル・ダッチの競技化をめぐる問題について,研究発表をしてくれたお蔭です。

 その要旨は,以下のとおりです。ダブル・ダッチはもともと遊びでした。それがいつしか競い合うようになりました。そして,ついには競技化することになって,近代スポーツ競技の仲間入りをはたそうとしています。しかし,そのためには,だれもが納得するきちんとしたルールが必要になります。そこで問題になるのが,ダブル・ダッチのパフォーマンスの優劣を決める基準づくりと,その採点方法です。

 現段階では,二つの競技の方法が模索されています。一つは「技の得点を競う大会」,もう一つは「パフォーマンスを競う大会です。前者は「規定演技+スピード+フリースタイル」の合計点,後者は「技術力・構成力・表現力・完成度・オリジナリティー」の5項目を採点した合計点,という違いがあります。

 共通する問題点は,演技を採点する,つまり,点数化することによって,ダブル・ダッチがもともと持っていた「遊び」の楽しさがそぎ落とされてしまい,形骸化していく傾向があること,採点基準の根拠があいまいなこと,観客の印象(できばえ,採点)と審査員の点数との間にギャップがあること,などです。

 この発表を聞いていて,わたしもまたいろいろと考えることがありました。とてもいい勉強をさせてもらったとおもっています。その要点を記しておきますと,以下のとおりです。

 この問題は,体操競技やフィギュア・スケート,新体操や太極拳などと同じで,いわゆる採点競技に共通する問題です。そして,その問題の中核をなしているのは,「人間の<事物化>」という「思想・哲学」上の問題だ,ということです。その概要は以下のとおりです。

 遊びを点数化することはできるのか。あるいは,遊びのパフォーマンスを点数化することはできるのか。あるいはまた,技術や表現を点数化することはできるのか。結論をさきに言っておけば,それは不可能です。しかし,遊びであったダブル・ダッチを競技化し,その優劣を決するということになれば,それを無理矢理「できる」ことにしなければなりません。ここに大きな「飛躍」があります。では,その「飛躍」とはなにか。

 採点競技の最大の難点は,採点の基準を「ことば」で表現しなければならない,ということにあります。つまり,だれもが納得できる「ルール」は,まずは,「ことば」で表記しなければなりません。「ことば」で表記するということは,だれの眼にもみえていることだけに限定されてしまいます。つまり,言語化し,それを点数化する,という篩にかけることによって,ダブル・ダッチのもつ魅力の多くの要素が抜け落ちてしまいます。そこに立ち現れるものは,ダブル・ダッチの形骸化したものだけ,ということになります。

 つまり,客観化できる要素だけが残って,客観化できない要素は点数化の対象にはならない,ということです。すなわち,楽しさや心地よさといった主観的な要素は,すべて点数化の対象からは外れてしまう,ということです。

 このことはなにを意味しているのでしょうか。結論から言っておきますと,それは「人間の<事物化>」です。生身の人間を<事物>としてとらえることになる,ということです。すなわち<モノ化>です。

 もう一歩踏み込んでおきましょう。それは「人間の生の否定」です。「生きもの」としての人間の存在を否定するということです。

 「人間が生きる」ということを擁護する,これが<善>だとすれば(西田幾多郎),競技の点数化は<善>に反する行為だということになります。

 しかし,ダブル・ダッチの競技化には点数化は不可欠です。このとき,数量的合理主義の考え方は採点基準を定めたり,点数化する上でとても役に立ちます。多くの人びとを説得し,認識を共有する上では,大いに威力を発揮します。つまり,「有用性」が高いということです。しかし,この「有用性」には<限界>がある(バタイユ),ということを忘れてはなりません。つまり,一定の歯止めが必要だということです。

 ということは,数量的合理主義の考え方をどこまで取り入れて,客観的に数量化(点数化)できない主観的な要素をどの程度まで残すか,この両者のバランスをとること,つまり<折り合い>をつけることが大事な課題である,ということになるでしょう。

 ダブル・ダッチの競技化の壁=人間の<事物化>。この壁とどのように折り合いをつけるか,すなわち<絶対矛盾的自己同一>をはたすか。いま,ダブル・ダッチが問われている問題の核心はここにある,と言っていいでしょう。

2015年1月25日日曜日

奈良・若草山の山焼き。おだやかな日和に恵まれる。

 神戸,奈良,二泊三日の旅からもどってきました。体調もよく,とても充実した時間を過ごすことができました。これはひとえに,よき仲間たちのお蔭です。ありがたいことです。

 そのうちの一つを紹介してみましょう。昨日(24日)の夕刻は,恒例(毎年1月の第4土曜日)の奈良・若草山の山焼きを堪能することができました。それも,わたしの定位置の,奈良中探してもこれ以上のところはないという最高の眺めを確保できる場所からです。そこは,かつてわたしが勤務していた大学の,しかも,わたしが仕事場にしていた研究室の庭に等しいような,ベランダに相当する屋上です。

 山焼きの開始を告げる打ち上げ花火の音に急かされるようにして,くだんの屋上へ。もう,すでに何人かが屋上を賑わせていました。まずは,毎年,変化する打ち上げ花火の演出を存分に楽しみました。フィナーレを告げる最後の派手な演出の花火が終わると,一瞬,シーンとした静寂が訪れます。この静寂が,わたしはとても好きです。これから点火するぞ,という現場の関係者たちの緊張した雰囲気がそこはかとなく伝わってくるからです。

 それから間もなく,若草山に点火する各ポジションから懐中電灯の点滅するサインが発せられます。このサインを合図に,まずは,正面の草原の一番手前の下のライン横一線から点火がはじまります。はじめチョロチョロ,中パッパ,しだいに火勢がでてきて,最後は一気に炎が斜面を駆け上っていきます。毎年,同じことの繰り返しです。が,毎年,その燃え方は違います。その年ごとの芝の情況や気候条件によって変化するからです。

 ことしは,とてもいい具合に炎が立ち上がりました。それも,ほとんど演出したとおりにことが運んだようです。はじめはおだやかに燃えはじめ,あちこちで炎が広がりはじめます。しかし,とても安定した,静かで落ち着いた燃え方をしています。そして,徐々に火勢がでてきて,時間差のようにして,あちこちから炎が一気に斜面を駆け上っていきます。

 あちこちから歓声があがります。そうした周囲の喧騒をよそに,わたしはひとり意識を集中させて見入っています。すると,なにかに山全体の炎に吸いよせられるような錯覚を覚えます。そして,いつしか常世の国にでも誘われるような気分になってきます。そのうちに,そこはかとなく神々しさを感じはじめ,いい気分です。しばらくは無意識の世界を,まるで夢のように遊んでいます。まさに快感。至福のとき。

 祈るともなく祈っています。

 こんな経験は初めてでした。というのも,ひとつには,寒さをまったく感じない,春先の温かさすら感じられる気温のせいによるのだろうと思います。いつもですと,屋上に立ったときから寒さとの闘いです。ぶるぶる震えながら,じっと山焼きに眼を向けています。がしかし,ことしはとてもおだやかな日和に恵まれました。風もなし。寒さなし。ですから,とても落ち着いて,こころ静かに山焼きを鑑賞することができました。

 長年,山焼きを楽しんできましたが,こんな経験は初めてです。変わったことといえば,去年,一年,身もこころもこれまでにない大きな衝撃を受ける経験をしました。そのせいでしょうか。山焼きを鑑賞しているわたしがまるで別人のようです。単に天候の条件がよかっただけではなさそうです。なにか別の世界を眺めているような不思議な気分でした。しかも,とても心地よいのです。なにかいいことがありそうな,そんな予感。

 ことしはよい年になりますように・・・と,もう一度,祈りたい気分です。
 サクセスフル・エイジング・・・そんなことを考えながら・・・・。

2015年1月23日金曜日

「野見宿禰」論──瓦礫の山からの幻視考・「歴史の女神」(W.ベンヤミン)に寄り添って。研究報告・覚え書き。

 1月24日(土)は奈良・若草山の山焼きの日。この日は,わたしの第二の故郷・奈良へのお里帰りの日。奈良教育大学を退職して上京依頼,毎年,欠かしたことはありません。奈良教育大学の教え子たちとの約束です。この日には帰ってきて,なにかお話をする,というのが恒例となっています。数えてみれば,ことしで27回目。途中,雪のために新幹線が止まってしまった年が一回だけありました。その年以外は,毎年,山焼きをじっくりと鑑賞してきました。奈良に住んでいた19年を加えると,計46年も山焼きを眺めてきたことになります。いまや,山焼き評論家を自認しています。

 さて,山焼きが終われば,楽しい懇親会。一年の空白を埋めるために,それぞれにこの一年のできごとについての報告があります。それがなによりの楽しみの一つでもあります。教え子たちが年々,立派な人間に成長していくさまを,この眼で確認できることの喜びは,また,格別です。教師冥利につきるというところ。

 それはともかくとして,その前に,集まってきた教え子たちに向かって,わたしからの報告をしなければなりません。その要旨を少しだけまとめておきたいと思います。

 ことしのテーマは,「野見宿禰」論──瓦礫の山からの幻視考・「歴史の女神」(W.ベンヤミン)に寄り添って,です。

 野見宿禰については,もうすでに長い間,考えつづけてきました。お蔭で,かなりのことがわかってきました。しかし,それでもなお,核心部分については,杳として不明です。ひたすら想像力をふくらませて,あれやこれやと幻視を楽しむ程度でしかありません。まあ,古代史の世界はどうしても不明なことが多く,仕方のないことではあります。しかし,それでもなお,真相(深層)に迫りたいという欲望は絶ちがたくこころの奥底に蠢いています。

 この欲望がつづくかぎりは野見宿禰の実像を追ってみたいとおもっています。それを支えてくれる理論がW.ベンヤミンの「歴史の女神」という考え方です。ベンヤミンもまた,近代歴史学が主張した資料実証主義の可能性と限界を見届けた上で,その限界のさきに存在するはずの歴史の真実に迫ろうと考えていました。資料実証という嵐が吹きまくり,これはと思われる資料はすべて渉猟されてしまい,残るは瓦礫の山でしかありません。それでもなお,資料実証という「風」に吹き飛ばされそうになりつつも,その「風」に必死で耐えて立ちすくんでいる「歴史の女神」を見出したい,この女神に接近したい,とつねづね考えてきました。

 その世界は,確たる証拠はなにもありません。そこは虚実が入り交じった,混沌の世界でもあります。しかし,その虚実の皮膜の間(あわい)にこそ,歴史の女神が微笑んでいるに違いない,とW.ベンヤミンは考えました。わたしもまたこの謂いにならって,野見宿禰の真実という「歴史の女神」に接近してみたいと密かに企んでいる次第です。

 その企みのいくつかは断片的にこのブログにも書いてきました(検索してみてください)。それらの点と点をつないでいきますと,これまたまったく新しい野見宿禰像が立ち現れてきます。これがまたたまらない魅力です。その要点を整理してみますと,以下とおりです。

 崇神と神武は同一人物であるという説に立てば,崇神のつぎの垂仁は,ヤマトの大王(天皇の諡号が用いられるのは推古説と天武説の二つがありますが,それまでは天皇を名乗る人はいなかったわけですので,「大王」と呼ぶのがふさわしいと考えています)の二代目ということになります。つまり,出雲から譲り受けたばかりのヤマトをいかに平定し,新たな秩序を構築していくか,という神武・ヤマトの草創期ということになります。つまり,まだまだ混沌とした,素朴な権力しか存在しなかったはずです。その草創期に「出雲の人」野見宿禰を召し抱えた垂仁はいったいなにを考えていたのでしょうか。まつろわぬ豪族・当麻蹴速と相撲(決闘)をとらせた話は有名です。それだけではなく,野見宿禰は埴輪を提案して,古墳時代に新しい息吹を吹き込みます。つまり,大王の死にともなう人身供犠を廃止します。これは,言ってみれば,大改革です。

 のみならず,埴輪を焼く技術をもっていたので,その特技を活かして「土師」氏を名乗ることを垂仁から許されます。以後,土師氏はその勢力を全国に向けて拡大していくことになります。そして,埴輪を焼くだけではなく,古墳の造営や葬送儀礼にも深くかかわっていくことになります。そうした特殊な職能集団として,その勢力は全国の津々浦々にまで及んでいきます。その証拠は,スサノオやオオクニヌシやノミノスクネを筆頭とする,いわゆる「出雲」族の神様を祀る神社が,他の神社を圧倒するほどの数で存在しています。しかも,これらの神社は,こんにちもなお存続しているということが,なによりの根拠です。なかでも,オオクニヌシは全国にひろがる「一の宮」ネットワークの中心をなしています。

 しかし,それにしては,日本の歴史の表の世界に出雲族はほとんど登場してきません。もっぱら,日本史の裏の世界で隠然たる力を発揮しながら,天皇家と一定の距離を置きつつ,あるバランスを保っていたようです。唯一の例外は,菅原道真だけです。かれは桓武天皇との縁故(桓武は幼少のころから道真の塾で教えを受けていた)もあって,重用され,大きな権力をわがものとします。しかし,その一方では,葬式屋の末裔ではないかと蔑まれ,藤原一族からは蔑視されています。そのねじれた関係の結果が,冤罪による太宰府への島流しです。でも,その後の「大騒ぎ」(藤原一族の相次ぐ死,天皇家の災害,など)があって,北野天満宮に祀られ,祇園祭も生まれ・・・とつながっていきます。しかし,菅原道真の子孫は代々,立派な学者が誕生したことはわかっていますが,その後の消息はみえていません。

 もう一点は,神武に抵抗し,最後まで戦い抜いた出雲の最後の大王・トミノナガスネヒコの存在です。滅ぼされたとはいえ,ヤマトを支配していた大王です。その残党はあちこちに生き延びていたはずです。どのような「手打ち」がなされたにしろ,まだまだ燻りつづける火の粉は残っていたはずです。そういう情況のなかでの,「出雲の人」野見宿禰の登場です。このように考えると,垂仁がなにを野見宿禰に期待したかは明らかです。

 ついでに記しておけば,ヤマトに野見宿禰を祀った神社はそれほど多くはない,という事実です。むしろ,地方の方が多いというのは,いったい,なにを意味しているのでしょうか。たとえば,最近,フィールドワークをしてびっくりしてしまった龍野市とその周辺地域です。地図を開いて,あちこち眺めれば眺めるほどに,この地域からは一種異様な雰囲気が感じられます。それも微妙にねじれた関係性があちこちに見出されます。その中心に存在するのが,野見宿禰の墳墓といわれる野見宿禰神社です。にもかかわらず,野見宿禰神社は龍野神社に合祀されている神社という位置づけです。しかも,龍野神社の祭神は関が原の戦いで武勲を挙げた武将です。なにゆえに,野見宿禰がこのような祀られ方をしなければならないのか,そこにはなにか確たる根拠がありそうです。わたしの幻視によれば,なにやら空恐ろしい仕掛けが隠されているように思います。場合によっては,アンタッチャブルな世界につながっているやも知れません。どうやら,「歴史の女神」はそのさきで微笑んでいるようです。

 そのあたりのことは,当日,口頭で述べてみたいと思います。文章にして残すには,いまの段階では,どことなく憚られますので。

 長くなってしまいましたので,このブログはこの辺で終わりにしたいと思います。当日,時間があれば,そして,場の力をもらえたら,もっともっと面白い話をさせてもらおうと楽しみにしています。とりあえず,今夜はここまで。

2015年1月22日木曜日

「東京五輪2020」を考える。神戸市外大講義用メモ。

 0.はじめに
 神戸市外国語大学の竹谷和之さんから,急遽,特別枠での講義(1コマ分)の依頼が飛び込んできました。スポーツ文化論という授業の最後の1コマで,「東京五輪2020」を考える,というテーマで,とのこと。もちろん,喜んで引き受けることにしました。時間は明日(23日)の午前12時45分から。そこで,大急ぎで講義用メモを作成してみました。講義内容の要点だけですが,以下のとおりです。

 1.国民不在の東京五輪2020・・・民主主義の否定。
 2020年はまださきのことという認識が一般的なようですが,その準備は着々と進んでいます。しかも,国民の眼のとどかない密室・闇のなかで。だれが,どのような議論をして,どのように決定しているのか,まったく不明です。議事録の情報公開を求めても,応答があるのは3カ月,4カ月後のこと。しかも,議事録の8割は真っ黒に塗りつぶされていて,内容は「〇〇〇案が賛成多数で決定した」くらいのことしか知ることができません。なぜ,このようなことが,平然と行われているのでしょうか。しかも,いまも,たのスタンスで粛々と進められています。東京五輪2020はいったいだれのためのものなのでしょうか。この問題をメインにして考えてみたいと思います。

 2.国立競技場解体とザハ案による新国立競技場建造
 東京五輪2020の五輪招致が決定される前から,この案が浮上し,わたしたちが与り知らぬ間にことは運ばれていました。気づいたのは,新国立競技場建造のためのデザイン・コンペで,ザハ案が第一位に選定され,そのデザインが公表されてからでした。しかも,想像をはるかに超えるとてつもなく巨大な建造物だ,ということが明らかになってからのことでした。これに,まっさきに異議を申し立てたのは槇文彦さんを筆頭とする建築の専門家たちでした。つづいて多くの市民団体も声を挙げ,なにが問題なのかを,公開でシンポジウムを,何回もにわたって開催しました。そこに,事業主体であるJSC(日本スポーツ振興センター)の関係者を招聘しましたが,一度も,だれも,参加しませんでした。いまも,口をつぐんだままです。その代表者は安藤忠雄さんです。なぜ,そういうことになってしまうのか。闇から闇へとバトン・タッチして,この大事業が推し進められています。国民不在というよりも,はじめから意図的・計画的に国民を排除してきた,と言った方が正しいでしょう。ここに,日本という国家の危機が隠蔽されている,とわたしは考えています。

 3.異議申し立てをしている諸団体とその活動について
 3-1.日本建築家協会
 3-2.神宮外苑と国立競技場を未来に手渡す会
 3-3.新建築家技術者集団・東京支部
 3-4.2020東京オリンピック・パラリンピックを考える都民の会
 3-5.日本野鳥の会
 3-6.日本美学会
 3-7.その他

 〔参考資料〕
 <新国立競技場をめぐる動き>
 2011年12月22日 「2020年の東京」計画策定。「四大スポーツクラスターの整備」を発表。
 2012年3月6日 「国立競技場将来構想有識者会議」発足。日本スポーツ振興センターが設
          置。委員長には元文部事務次官佐藤禎一氏,石原慎太郎前都知事,建築家は
          安藤忠雄氏のみ。
 2012年7月20日 新国立競技場基本構想国際デザイン競技募集要項交付
 2012年11月16日 最優秀賞案の発表と講評
 2013年4月 基本設計開始
 2013年5月7日 第201回東京都都市計画審議会(神宮外苑地区,地区計画決定)
 2013年8月15日 『JIA MAGAZINE』に槇文彦エッセイ発表。のちに,シンポジウムのテーマと
           なる。
 2013年9月7日 東京にオリンピック招致決定
 2013年10月11日 シンポジウム「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」
          開催
 

 
 4.「8㎞圏内」での東京五輪開催案。と「五輪2020アジェンダ」
 東京五輪2020は「8㎞圏内」で開催するコンパクトな大会,これが招致運動の目玉のひとつでした。IOC総会ではこの案が多くの支持をえました。しかし,この「8㎞圏内」という発想には恐るべき陰謀が隠されていました。東京都の保有する東京湾埋め立て地(買い手がつかず空き地になっていた)を活用した東京副都心再開発案です。それを東京五輪を契機にして一気に解消しようと時の知事石原慎太郎は考えていました。それが「8㎞圏内」五輪開催の主たる狙いでした。ですから,東京五輪1964で大活躍した駒沢運動公園にあるスポーツ施設は使えないとして,それらに代わるスポーツ施設を埋め立て地に建造しようと計画しました。ここにはとんでもない利権問題が隠されていました。詳しくは当日。

 5.「五輪2020アジェンダ」の発表とその余波

 6.フクシマによる放射能汚染問題

 7.2050年には粗大ゴミに?

 8.おわりに──「東京五輪2020」はだれのためのものなのか。

「人を殺す」ということについて。「イスラム国」邦人殺害警告をめぐって。

 「イスラム国」邦人殺害警告をめぐって大騒ぎです。NHKは,昨日(20日)の夕刻,わたしの大好きな大相撲の中継放送を中止して,同じ映像を垂れ流し。しかも,同じ内容を繰り返すのみ。そのうち大相撲の中継に切り替わるだろうと待ち続けましたが,とうとう根負けして諦めました。

 イスラム国側は,無差別攻撃により多くの女性や子どもたちが犠牲になり,住む家も破壊されたから1億ドル,イスラム国の拡大を防ぐ勢力に加担したから1億ドル,計2億ドルを二人の身代金として要求。それに対して,アベ君は,非軍事分野への人道支援として2億ドルを拠出するのであって,イスラム国の主張は的外れである,と主張。そして,人質を楯にとって脅迫することは許し難いテロ行為であって,憤りを覚える,と訴えています。

 これの繰り返しの映像が,延々と流されました。途中からうんざりしてしまって,もういい加減にしてほしい,と腹が立ってきました。なぜなら,NHKは,ただひたすらテロ行為は卑劣で卑怯だ,ということを日本国民に刷り込むために全力を挙げているだけで,それ以上に踏み込んで問題の所在がどこにあるのかを考える材料を提供しようとはしなかったからです。つまり,一方的にテロ行為は許せない,という単純な理屈を押しつけているだけです。もっと言ってしまえば,国民に余分なことを考えさせない,いわゆる「思考停止」を押しつけることに終始したからです。

 大事なことは,どうしてイスラム国が出現することになったのか,だれがイスラム国を生みだしてしまったのか,ということをきちんと考えることです。そして,日本の国際社会への貢献(2億ドルの醵金)もまたイスラム国を生みだす誘因・遠因になっている,という自覚をもつことです。さらには,テロ行為とはどういうことなのか,を考えることです。圧倒的武力をもつ側はテロ行為をする必要はありません。なぜなら,武力の遠隔操作でイスラム国をいくらでも攻撃することができるからです。しかも,無差別攻撃です。そこには大量の死者が出現します。イスラム国側としては耐えられない屈辱でしょう。その仕返しの一つが「テロ行為」です。でも,これはイスラム国からすれば,立派な戦闘行為です。つまり,これは戦争です。ただ,戦う国家の実態が存在しないだけです。

 戦争であれば,「人を殺す」ことは正当化されます。イスラム国からすれば戦争なのですから,相手側の無差別攻撃と人質殺害の違いはなにもありません。捕虜を金と交換しようと言っているだけです。考えようによっては,無差別攻撃よりは良心的だとすら言えます。

 もともと「人を殺す」権利はだれにもありません。ですから,いかなる裁判手続を経ようとも「死刑」という処罰はあってはならないものです。でも,この処罰を正当化している国はいくらでもあります。日本もそのうちの一つです。死刑を廃止している国からすれば,なんと残酷なことをやっている国なのだ,ということになります。日本は野蛮な国なのです。ついこの間まで,ハラキリをやっていた国ですし,人間魚雷や特攻隊をくりだしていた国です。

 また,宗教的な儀礼として人身供犠が行われていたことがあります。いまも,その慣習が残っている地域もあるといいます。この場合も,その地域の人びとにとっては「人を殺す」ということが正当化されています。これは特殊な例ですが,そのむかしは,かなり広い範囲で行われていました。埴輪は人身供犠の代わりに編み出された産物ですし,橋をつくるときには人柱として生きた人間を犠牲にすることもありました。

 とまあ,こんなことを考えてみますと,「人を殺す」ということが正当化(あるいは,合理化)される/されたのは,戦争,死刑,供犠,くらいなものでしょうか。だとしたら,戦争という概念のなかにテロ行為が含まれるか否か,が問われることになります。国家間の戦争であれば,ゲリラ戦法は正当化されます。ゲリラ戦法を拡大解釈していけば,そこにテロ行為を含むことも可能ではないかと思います。

 それよりも,テロ行為とはなにか,ということの方が問われなくてはなりません。しかし,テロ行為の概念を規定することはほとんど不可能です。ですから,アメリカが「テロとの戦い」と宣言し,テロリスト集団を名指しで特定し,そのテロリスト集団が繰り出す戦法が「テロ行為」だ,としかいいようがありません。だとすれば,これは,国家間戦争とは異なる新たな戦争形態である,と言っていいでしょう。となれば,テロ行為は正当化されることになります。

 そんなグレイ・ゾーンともいうべき新たな戦争が,いま,イスラム教スンニ派・過激派組織「イスラム国」との間で,粛々と展開している・・・・。日本もまた,「非軍事分野」への人道支援という名のもとで,「参戦」している,というのがわたしの認識です。

 ということで,とりあえず,ここまで。

2015年1月20日火曜日

いま話題の『相撲ファン』(創刊号,大空社)を購入。センスが光る。新しい時代への挑戦。

 昨日(19日)のブログで,抗ガン剤治療を放棄して気分が軽くなったことを書きました。そして,その勢いで書店に立ち寄り,本の衝動買いをした,とも書きました。そのうちの一部は,大相撲専門雑誌でした。いつもなら,書店で立ち読み(拾い読み)をして,それでおしまい。ですが,昨日は買ってしまいました。

 第一の目的は,創刊されたばかりの『相撲ファン』(大空社,2015年1月15日発行)を探して,購入することでした。なぜなら,書店にならんだらすぐに売り切れになってしまい,増刷に入った,となにかで読んだからです。それで慌てて,近くの比較的大きな書店に走ったのですが,やはり,すでに売り切れでした。

 ならば,二子玉川まできたついでに・・・と高島屋のなかにある紀伊国屋書店に立ち寄ったという次第です。ここにはかろうじて初版の最後の一冊が残っていました。すぐに手にとってみて,アッと驚きました。編集のセンスがいい。これなら,いまの若者も買うだろうし,女性の相撲好き(「スージョ」と呼ぶらしい)はもっと喜ぶことだろう,と直観しました。なにを隠そうこのわたしも,こういう相撲雑誌を待ち望んでいた,とひとまず言っておきましょう。

 
大相撲に関する雑誌は,これまでにもいろいろと紆余曲折がありました。が,最近は,『がっつり!大相撲』(日本文芸社)と『大相撲ジャーナル』(NHK G-Media )の2誌に落ち着いています。しかも,この2誌のつくり方は対称的で,読者も二分されているようです。前者は,徹底した週刊誌なみの本のつくり方をしています。表紙も中の紙質も,週刊誌さながらの体裁です。見るからに安っぽい。その代わり値段は440円と格安。いわゆる読み捨て雑誌。

 
それに引き換え,後者は,むかしながらの大相撲雑誌の伝統を引き継ぎつつ,新しいアイディアを盛り込み,誌面も明るくなるように編集の工夫がこらされています。上質紙をつかったカラー・ページが多いのも,なんとなく落ち着き,楽しめます。その代わり値段も980円と,前者の倍以上する。ただし,前者は広告ページがかなりあるのに対して,後者はほとんど広告をとっていません。これも,意外にすっきりしていていいものです。

 
さて,この2誌を視野に入れての第三の相撲雑誌の参入です。それが『相撲ファン』の創刊号というわけです。本のサイズも,前の2誌がB4サイズなのに対して,こちらはA4の変形版。横幅はA4と同じですが,縦がやや短い。ですから,どこかどっしりとした安定感があり,誌面も大きく,ゆったりしているように見えます。つまり,どのページをめくってみてもゴージャスな雰囲気が漂います。ここが,まずは,編集のセールス・ポイントなのでしょう。それでいて値段は1000円。NHKの『大相撲ジャーナル』を意識してか,ページ数もまったく同じ(128ページ)。この両者をならべて比較したら,やはり文句なく『相撲ファン』を選ぶことになるでしょう。

 内容も新鮮。とりわけ,女性のまなざしが随所に見られます。相撲といえば,どこか女人禁制の雰囲気が漂ってきましたが(たとえば,土俵の上には女性は立たせない,など),その壁を打ち破って,新しい相撲文化の可能性を探ろうとしているようです。奥付をみますと,Senior Editor に女性編集者の名前が載っています。

 そのせいか,女性のライターも多く登用されていて,その繊細なまなざしが光ります。男性であるわたしが読んでみても,新たに教えられることがたくさんありました。なるほど,女性は相撲をこんな風にして楽しんでいるんだ,と。たとえば,「国技を彩る『和』の情緒」という特集ページが6ページにわたって組まれています。中味は,化粧回しの生地や刺繍の仕方,それに博多帯,足袋,相撲浴衣,行司装束,などをきれいなカラー写真を使って見せた上で,これらを支える職人さんたちの巧みな技を紹介しています。

 これはほんの一例にすぎません。相撲がはねたあとの食の楽しみ方,それも女性目線でのもの,スージョの相撲談義,など男のわたしが読んでも楽しめます。要するに,相撲を文化としてトータルに捉えなおそうという編集者たちの意欲が伝わってきます。これは明らかに新聞,テレビの堕落した報道姿勢に対するカウンターをねらったものだと言っていいでしょう。すなわち,相撲は「勝ち負け」だけではないのだ,という高い志をもった新たな挑戦です。

 時代は,もはや近代主義の権化ともいうべき優勝劣敗主義にある意味での限界を見届け,「見切り」をつけて,つぎなる時代への幕開けがはじまっている,と編集者たちは感じ取っているように思います。もっと言ってしまえば,近代の男性中心主義の時代はもはや終焉を迎えつつあるのだ,と。それを男ばかりの偏見に満ちた大相撲の世界に「女性のまなざし」を取り込むことによって,突破口を見出そうというわけです。この勇気ある試みに,わたしは大いなるエールを送りたいと思います。

 というようなわけで,しばらく禁欲していた大相撲の鑑賞を解禁して,これからは思う存分楽しもうと思っています。わたしにとっては,もっとも体重をかけて堪能できる大相撲鑑賞こそが,抗ガン剤に代わる妙薬になるに違いない,と信じて・・・・。

2015年1月19日月曜日

抗ガン剤治療を断念。自然のなりゆきに身をまかせることにしました。

 今日(19日)は月1回の抗ガン剤治療のための定期診断の日。
 ぐっと冷え込んで寒い朝。でも,空は真っ青。快晴無風の絶好の天気。こんな日は日本海側はおおむね雪。ことしはとくに雪が多いと聞く。雪かきがたんへんだろうなぁ,と思いやる。

 朝9時に受け付けを済ませて,呼び出しを待つ。いつもだと採血と検査を待って,診察。だから,診察までには早くても2時間ほどかかる。今日はそれがないので,30分待ちで呼び出しがかかる。ありがたい。

 入っていくと,主治医のN先生,パソコンとにらめっこしてきびしい顔をしていらっしゃる。なにごとかと思ったが,まずは,新年のご挨拶をする。すると,パッと振り返って,「いやーっ,電子カルテに切り替わったので,その操作に振り回されています」とニヤリ。「この方が効率的なのでしょうが,いやはや慣れるまではたいへん」とN先生。しばらく,パソコンの功罪について雑談。

ようやく,「どうでしたか。暮れ・正月は?」とわたしのからだの状態について聞いてくれる。できるだけ正直に,この間のからだの状態について報告。ついでに,暮れに歯が奥歯と前歯がつぎつぎに折れてしまったので歯科医に通院していることも報告。で,どうもからだ全体の調子がいまひとつスッキリしません,と。ここで,しばらくN先生とのやりとりがあって,流れがいい具合になってきたので,ずーっと考えてきたことを正直に話すことに。

 「抗ガン剤が思ったよりも効きすぎて(?),からだのダメージが大きすぎるように思います。6カ月つづけた抗ガン剤を止めて3カ月経ったいまも,その副作用から抜けだすことができません。このあとのことを考えると,苦しさに耐えて抗ガン剤をつづける方がいいのか,このまま止めにして少しでも気分よく暮らす方がいいのか,大いに迷います。が,これまでのわたしの生き方と,いま依頼を受けている仕事の中味を考えると,抗ガン剤は止めにして,少しでも多くいい仕事に専念できる時間がほしい。癌転移のリスクを背負ってでも,いまは,仕事に専念したい。もし,転移があったら,それはそれで仲良く付き合うことにしたいと思います。そのころには,老化現象による惚けも相当に進んでいるはずですので・・・」と一気に話す。

 じっと耳を傾けて聞いていたN先生,いきなりのけぞって高笑い。「ああ,そういう覚悟を決めましたか。そういう生き方もありますよね。それならそれで,抗ガン剤は止めにしましょうか。そうして,定期的に追跡検査をしていくということで・・・」と仰ってくださった。話が早い。そこで,即座に「よろしくお願いします」と声を少しだけ張ってお願いをする。「じゃあ,そういうことにしましょう」と相談事が無事に成立。

 それでも最後にひとこと。「ほんとうは抗ガン剤治療を3年くらいつづけて,転移がないことを確認できたところで打ち切りにする,これがセオリーなんですよ」と。「ああ,そうなんですか。3年はとてもではないですが,わたしには辛抱できません」とわたし。「まあ,そうですね。でも,見切りをつけるにはちょっと早い気もしますが・・・」とN先生。「それも承知しています」ときっぱり。以上で,医師と患者との会話は終了。

 かくして,N先生は電子カルテの作成にとりかかる。操作がわからなくなると,若手の優秀な看護師さんを呼んでいろいろ聞いている。そのたびに,わたしの方を振り向いて「たいへんなことです」とニンマリ。ここで「つっこみ」を入れたくなったが,ぐっとこらえる。「院長で法人の理事長でもある貴方の発案で決めたことでしょ?」と。

 これからも毎月1回は診察してもらわなくてはいけない大事な先生。気分を害さないことが最優先。抗ガン剤を止めることについても,ずいぶん長い時間をかけて,慎重にことを運び,ようやく無事に落着したばかり。こんごのことも考えると,ここはどこまでもいい関係を維持したい。今日はいつものジョークも控えめにして退出。

 それよりもなによりも,抗ガン剤の呪縛から解放され,ほっと一息。これでもううしろを振り向くことなく,ひたすら前をみつめて進めばいい。今日の青空のようにスッキリ。あとは運を天にまかせて,仕事に専念すればいい。それも楽しい仕事なのだから。それが一番,と自分自身に言い聞かせる。

 帰路,大型書店に立ち寄って,本の衝動買い。これも病気代・薬代と思えば安いもの。こころが浮き立つような「わくわく感」こそが妙薬。そう信じてこれからの人生を送ることにしよう。いよいよ人生最後の賭けにでる第一歩。こうなると,あとは祈るのみ。わたしの祈りは『般若心経』を唱えること。いつも,不思議に気持が落ち着く。

 書店で衝動買いした本のなかの一冊は『心訳 般若心経』(枡野俊明著,サンマーク出版,2014年)。50冊は超える『般若心経』解説本をすでに読んできたが,それでも手が伸びた。理由は,著者が曹洞宗徳雄山建功寺住職という坊さんだったから。しかも,庭園デザイナーで,多摩美術大学教授。こういう経歴のひとが「心訳」すると『般若心経』からどんな世界が開けてくるのか,と強く惹かれる。たぶん,間違いなくおもしろいはず。

 さあ,これからの残りの人生,飄々と楽しんでやろう,と希望にもえる。
 楽しきかな,人生。わが生涯。

横綱との差が詰まってきたか,大相撲初場所。ひと波瀾ありそう・・・。

 横綱と対戦する三役,平幕力士が力をつけてきた。その差がぐっと詰まってきたか。きわどい勝負が多くなっている。磐石の強さを誇った白鵬も紙一重の薄氷を踏むような勝ちを拾う相撲が多くなってきた。これまでには見られなかった白鵬の新しい側面であることは間違いない。これを,白鵬の衰えととるか,こころの乱れととるか,その受け止め方はさまざまだろう。

 漏れ伝わってくる白鵬情報によれば,最近は稽古量も極端に少なくなったとか,稽古場での発言が過激になってきたとか,相撲が荒っぽくなってきたとか・・・,よくない情報が多い。これらが事実だとすれば,白鵬になにか大きな心境の変化があったのでは?と勘繰ってしまう。体力的な面で,これまでとは違う,なにかを感じ取っているのではないか。それが気持のもち方にも大きな影響をおよぼしているのではないか,とこれはわたしの推測。

 しかし,それ以上に,今場所の相撲全体をみていて,いつもと違うなにかが感じられる。それは幕内力士のからだの張り具合,顔つき(表情),所作にいたるまで,どこか違う。みんな自信をもっていて,やる気満々なのである。その結果なのだろう,相撲内容もいつもよりいい。

 実力伯仲時代のはじまり,か? つまり,各力士がそれぞれに力をつけてきたということ。言ってみれば,底上げ。力量の差があまりなくなってきたということ。だから,平幕力士が三役力士に対して物怖じすることなく向かっていく。そして,意外に「ころり」とやられてしまう。三役力士が勝つにしても苦戦している。勝負も紙一重。

 なかでも顕著にでてきたのが白鵬。いまのところ全勝を守ってはいるものの相撲内容が悪い。なかでも,三つは紙一重で勝ち星をあげたもの。負けていてもなんの不思議もない,そんな勝負がこのところつづいている。しかも,立ち合いのあと,押し込まれてうしろに下がる場面が多い。それでも,これまでの貯金があるので,なんとか裁いてはいるもののきわどい。こういう相撲をとると,相手力士は自信になる。自信をもたれると,様子は一変する。

 これまで白鵬ただひとりの一強時代がつづいた。そして,解説者は「まったくつけいるスキがない」「力の差が歴然としている」と言ってはばからなかった。しかし,わたしは,ずーっと疑問に思ってきた。白鵬だけがひとり飛び抜けて強いのではない,と。そうではなくて,ほかの力士が弱すぎるのだ,と。いいからだをしている力士でも,稽古不足(あるいは,稽古の内容が悪い)のため,からだが締まっていない,立ち合いの攻撃が甘い,攻められると抵抗する力もない,といった塩梅である。つまり,勝ちにいく気魄が感じられない。だから,白鵬の思いのままに料理されて終わり。しかし,こういうからだのある力士が少しまじめに稽古をしたら,そうはかんたんには負けないはずだ。そう,長い間,わたしは考えてきた。それが今場所になってはっきりしてきた。

 つまり,横綱との差が詰まってきたのだ。

 そのことに白鵬はいちはやく気づいているに違いない。そんな「焦り」にも似た取り口が,今場所は目立つ。この点,先場所までとはまるで違う。だから,遠藤戦のときのように荒っぽい,乱暴な相撲がでてきてしまう。遠藤は場所ごとに力をつけてきた。とくに,立ち合いがよくなってきた。だから,白鵬はいきなり強烈な張手をかまして出た。遠藤が大きくバランスを崩すほどの張手だった。白鵬が勝ちにこだわるときによくやる張手だ。わたしは横綱のこの張手を好まない。横綱の美学に反するからだ。遠藤はそれでも踏ん張って,攻撃にでる。一瞬,遠藤の右が入り,あわやと思われた瞬間に,白鵬はうしろに下がりながらからだをふりほどく。それからの矢継ぎ早の攻防も面白かった。が,思ったよりも長い相撲になり,遠藤ファンを喜ばせた。遠藤も自信をもったに違いない。こうなると,つぎの対戦ではどうなるかわからない,という期待が生まれる。

 今日(18日),中日の安美錦戦もきわどかった。立ち合いになにをしてくるかわからないという不安もあってか,白鵬は慎重に受けて立つ。安美錦はまっすぐに押して出る。白鵬はずるずると後退。左に回りながらこの押しに対応。そして,最後は,からだの離れた安美錦がさらに押して出ようとするところを,左に大きく動いて引き落とし。思わず,安美錦は土俵の外へ。つまり,最初から最後まで防戦一方。そんな中からでも勝機を見出すことができるのは,これまでの貯金。

 そんな白鵬に引き換え,今場所の日馬富士は久々の絶好調とみた。ひとつ,取りこぼしたが,相撲内容は悪くない。今日の魁聖との一戦。右喉輪一本であの大きな魁聖を押しつぶしている。恐るべき破壊力。この調子で白鵬との対戦に臨みたい。絶好調のときの日馬富士は白鵬に負けたことがない。はたして,今場所はどうか。

 鶴竜が気の抜けたような相撲をとって取りこぼしているが,強いときはめっぽう強い相撲をとる。今場所あたりは,真っ向勝負で白鵬に勝っておきたいところ。そうして来場所につなげたい。悲願の横綱初優勝はそのさきに待っている。優勝の味をしめると,鶴竜は強くなる,とわたしは信じている。眠れる獅子が目覚めるのはいつか。今場所,白鵬をしりぞけたときが大きな転機になりそうだ。また,そうあってほしい。

 今場所は稀勢の里が安定していてとてもいい状態だ。この調子を維持していったときの白鵬戦はおもしろそうだ。稀勢の里が自信をもって向かっていったときの強さは証明済みだ。久しぶりにそんな場面が見られそうだ。

 加えて,琴奨菊の立ち合いがよくなり,波に乗ってきた。かれ本来の相撲がようやく復活してきたか。こうなると自信にあふれた相撲をとる。そうなると,白鵬もうっかりはできない。相当に気合を入れてとりかからねばならなくなる。

 もう一人の大関,豪栄道も崖っぷちに立つと力を発揮する。今場所は勝ち越すことができるかどうか。そんなときの白鵬戦はおもしろくなる。これまでにも勝ち越しがかかった場所では何回か白鵬に勝っている。居直ったときの豪栄道の相撲はみどころがある。

 というようなわけで,これから後半戦に入る大相撲がおもしろくなりそうだ。とりわけ,終盤の5日間。白鵬が,3大関,2横綱とどのような相撲をとるか,みものだ。差が詰まってきているだけに,どんな展開になるのか,期待できる。

 これはどう考えてみても,ひと波瀾ありそう・・・・。
 場合によっては,白鵬の引退も・・・・。

2015年1月18日日曜日

解体がはじまった国立競技場に,最後の抗議行動「キラキラ外苑ウォーク」。参加してきました。

 すでにご承知のように,ゴタゴタ続きだった国立競技場の解体工事が,とうとう昨年末(12月24日)からはじまりました。それもあらゆる民意を無視して,JSC(日本スポーツ振興センター)の独断専行のまま,見切り発車してしまいました。いまの安倍内閣の政治手法が,ここでもそのまま取り入れられた,と言っていいでしょう。民主主義の否定。政治の否定。独裁国家の出現。

 オリンピックは錦の御旗なのでしょうか。オリンピックのためならなにをやってもいい,と当事者たちは勘違いしているのではないでしょうか。オリンピックはだれのためのものなのか。これでは国民不在のまま,政権の都合のいい隠れ蓑に利用されていくばかりです。つまり,国家の荒廃を招くばかりです。歴史の逆行です。またまたファシズム国家への退行です。

すなわち,歴史的な「暴挙」そのものです。

 オリンピックを契機にして,国家と国民とが一致協力して「合意」を形成する方法を学ぶこと,民主主義の一歩前進,その絶好のチャンスをみすみす潰してしまっている・・・・。もったいない。なにが「絆」であり,「おもてなし」なのか,なにもわかってはいない。たんなる空念仏。アベ君の演説と同じ。美辞麗句を並べて,眼くらましをかませておけばいい,という国民蔑視の姿勢。

 JSCのホームページには,いまでも,「懇切丁寧な説明をして,十分な理解を得られるよう努力する」と書いてあります。これは単なるみせかけの看板。あらゆる異議申し立てに対してとった姿勢はどうだったか。無視,あるいは,単なる茶番劇による演出。そして,ついにJSCのやっていることは「闇のまた闇」のまま。

 国立競技場も「時間がない」という理由で,見切り発車です。自分たちの計画を強引に推し進めるためには「時間切れ」。しかし,代案(改築案,それも素晴らしい案がたくさんありました)を視野に入れれば,時間はまだたっぷりとあったはず。

 こんな不満を溜め込んだまま,わたしたちは,いまを迎えています。

 そんな「虚しさ」を胸にいだいたまま,「キラキラ外苑ウォーク」に参加してきました。

 主催:神宮外苑と国立競技場を未来に手渡す会(森まゆみ共同代表)
 日時:2015年1月17日(土)午後5時~6時30分(絵画館前広場集合)
 テーマ:「キラキラ外苑ウォーク~JSCの闇の深さを嘆くより,みんなの小さな光で国立競技場を照らそう」

 冷たい風が吹くなか,みんなそれぞれにペンライトを持って,暮れなずむ国立競技場を一周。寒さに震えながらの行進でした。途中でこころ優しい人からホカロンの差し入れ。ありがたき差し入れ。こうして,ささやかな,ほんとうにささやかな,国立競技場への惜別の行進に気持を籠めました。こんな風にして「歴史的暴挙」を見届けることしかできないのか,と臍を噛みつつ・・・。それでも,ひとかけらの,小さな市民団体の良心は生き長らえている・・・,その一端にわたしも加わっている,とみずからに言い聞かせつつ・・・。

 以下には,ウォークの途中で撮影した写真を挙げておきます。一枚,一枚に詳細な解説をしたいところですが,割愛。これらの写真にわたしがどんな思いを籠めたかは,見る人の感性に委ねたいと思います。写真だけを列挙しておきます。

 なお,この日の「行進」は以下のサイトでご覧になれるそうです。ご参考までに。
 IWJサイトの5チャンネル。
 http://iwj.co.jp/chnnels/main/channel.php?CN=5



 
 
 
 
 
 

「スポーツ学」とはなにか。その9.スポーツとはなにか。Ⅰ.スポーツの始原について。

 このブログでは,「スポーツ学」とはなにか,と問いかけながら,最初に「学」としての可能性を考えました。つづいて,その「学」は「人間」とはいかなる存在なのか,そして,その「人間」をどのように理解しようとしているのかを考えました。さらに,具体的に,では「スポーツする人間」とはどういう存在なのか,そして,「スポーツする人間」とはなにを目指しているのかを考えてきました。

 その結論は,抽象的な言い方になりますが,「絶対矛盾的自己同一」の実現にある,というところに到達しました。となりますと,では,この「絶対矛盾的自己同一」を実現させるための「スポーツとはなにか」が,わたしたちが考えなくてはならないつぎなるテーマとして登場します。

 「スポーツとはなにか」。このテーマはある意味では無限です。ですから,この永遠のテーマを総合的に追求する「学」こそが「スポーツ学」なのだ,と言っていいでしょう。「スポーツ学」とは「スポーツの学」です。したがって,「スポーツ学」が研究対象とする「スポーツ」とはなにか,それがこれから考えていこうとする課題です。

 しかし,この課題にたいして真っ正面から応答しようとしますと,何冊もの本が書けるほどの分量になってしまいます。そこで,このブログでは,これまであまり光が当てられてこなかったテーマに絞って考えてみたいと思います。それも詳細にではなく,ごく重要だと思われる中核部分に光を当ててみたいと思います。ですから,これから書かれることは,多くの人びとにとっては意外なこと,想定外のこと,と思われるかもしれません。が,しばらくお付き合いください。

 最初のテーマは「スポーツの始原について」です。別の言い方をすれば,スポーツ,あるいは,スポーツ的なるもの,がどのような情況のなかから出現してきたのか,すなわち,スポーツの起源はなにか,を考えてみようということです。

 この問題は,このブログでいえば,「人間とはいかなる存在なのか」という問い(その6.)と連動することになります。それは,ヒトが動物の世界から離脱し,人間の世界へと移動したとき,なにが起きたのかという問題です。すなわち,ヒトから人間になるとき,なにが起きたのかという問いとリンクする,ということです。

 ここでは,繰り返しの議論はできるだけ回避して,その骨子だけを以下に述べておきたいと思います。

 ヒトが動物の世界から<横滑り>(バタイユ)して離脱したとき,ヒトははじめて「理性」(思考,記憶)を獲得し「人間」となります。つまり,「なぜ?」という理由・根拠(reason )を問うようになります。そのときの最大の難関は「他者」の存在に気づいたということです。それと同時に「自己」が意識されるようになります。こうして,「わたし」とその周囲に存在する「他者」との関係を考えるようになります。

 こうして,「わたし」の意のままになる「他者」(自然)をわがものとし,生活の基盤を確保していきます。しかし,どうしても意のままにならない「他者」(自然)が存在することに気づきます。なかでもわけのわからない「雷」のような自然現象の前では,原初の人間は,ただ,ただ,怯え,震えるだけです。そして,人間の意のままにはならない,とてつもなく大きな「力」が存在する,と考えるようになります。つまり,畏怖の念の誕生です。

 そのうちに「雷」が鳴りはじめたら怯えながらからだを丸めて「祈る」という所作をする人間が登場します。「雷」は一定の時間が経過すると納まります。こうして「祈り」と「雷」との関係が意味をもちはじめます。つまり,祈るとそれに応答する存在(=神)を意識するようになります。こうして「雷」は「神が鳴る」(=かみなり)のだから祈ればいい,という因果関係が定着してきます。

 つまり,人間にはどうしようもない,人間を超える「力」をもった存在を意識するようになり,これらを「超越神」としてひとくくりに考えるようになります(合理化)。そうして,これらの「超越神」には「祈り」を捧げればいい,と考えるようになります(儀礼の誕生)。こうして,祈りの儀礼が定着するようになります。と同時に,祈りの儀礼がさまざまに進化していきます。さまざまな礼拝の仕方,舞い踊り,即興詩の吟唱,楽器の演奏,歌唱,相撲(素舞い,力くらべ),祈祷,呪術,祝詞,など。

 こうした「祈りの儀礼」のひとつが,古代オリンピアの祭典競技です。古代のギリシア人は,神々の頂点に立つゼウス神を喜ばせる「祈りの儀礼」のひとつとして「スポーツ競技」を取り上げました。これが古代オリンピック競技のはじまりです。

 ついでに補足しておきますと,古代ギリシアの四大祭典競技のうち,ピュティアでは即興詩の朗詠(音楽)の競技が,ネメアでは即興舞踊の競技が行われていました。これらは,いずれも「祈りの儀礼」として進化をとげたものばかりです。こうした歌舞音曲(芸能)の起源はすべて「祈りの儀礼」が進化したものです。その中に,人並みはずれた身体能力を発揮する「スポーツ」(古代ギリシアでは「競技」)も加えられていたということです。

 つまり,歌も舞踊もスポーツも,古代にあっては芸能であり,いずれも「祈りの儀礼」から進化したものだ,ということです。そして,忘れてはならないことは,これらの芸能のめざすところは「自己を超え出る」こと,つまり「トランス状態」(エクスターズ/憑依状態)に入ることによって,「神」と共振・共鳴することにあった,ということです。こんにちもなお,時折,現出する「スポーツによる熱狂」の源泉はここにあるというわけです。

 サッカーのピッチに「神が降臨した」・・・・このスーパー・プレイが出現したときの決まり文句も,じつはこうした背景と通底している,現代の神話です。

 スポーツの始原をこのように考えてみますと,こんにち,わたしたちが享受しているスポーツがいかに特殊な文化として変化・変容してきたものであるか,ということが歴然としてきます。となりますと,「スポーツとはなにか」という問いの意味がますます重くなってきます。

 というわけで,これからしばらくは「スポーツとはなにか」について,さまざまな断章を切り取ってきて思考を深めていく努力をしてみたいと思います。

2015年1月17日土曜日

「スポーツ学」とはなにか・その8.スポーツする人間とはなにか・Ⅱ。

 その7.「スポーツする人間とはなにか」(Ⅰ)のつづきです。すなわち,(Ⅱ)。

 前回の結論は,「スポーツする人間」は,西田幾多郎がめざした「絶対矛盾的自己同一」のひとつの実現形態である,ということでした。この結論は大急ぎでくだしたものですので,大いに飛躍がありました。そこで,今回は,その飛躍の部分をもう少しだけ立ち入って考えてみたいと思います。

 西田幾多郎は『善の研究』という本のなかで,「純粋経験」という概念を提示しています。わたしたちは,生まれてから死ぬまでの間にいろいろの経験をします。それらの経験の多くは,ある事象の進展と思考とがフィードバックしながら脳やからだに刻まれていきます。そして,それらが経験知となって蓄積されていきます。

 しかし,西田幾多郎が提示した「純粋経験」はそういう経験のなかでもきわめて特殊なものを意味しています。それは,わたしたちの意識が立ち現れる前の「経験」を意味しています。たとえば,気がついたらからだが動いていた,というような経験です。無意識のレベルでからだが反応する,といえばいいでしょうか。こういう経験を西田幾多郎は「純粋経験」と名づけました。

 もう少し具体的に考えてみましょう。たとえば,「転ぶ」という経験。これはだれもがしたことのある日常的な経験です。しかし,この「転ぶ」という経験は,よく考えてみますと不思議な構造になっていることがわかってきます。

 なにかに躓いて,からだが投げ出され,重心を失って倒れ,勢いあまって転がる,という場面を想定してみましょう。なにかに躓いた瞬間は,なにが起きたのかわかりません。「ハッ」とするだけです。しかし,からだは無意識のうちにすでに身構えています。この身構えるからだが「純粋経験」です。意識が立ち現れる以前に起こる行為(=経験)というわけです。そして,からだが投げ出されて宙に浮いたころになって,なにが起きたのか朧げながらわかってきます。ここからさきは徐々に意識の世界に入っていきます。最後に転がるときには,きちんと意識がもどってきて,とっさに受け身をとったりします。

 つまり,「転ぶ」という経験は,ほんの一瞬のできごとですが,最初の瞬間には自己を見失います。見失いつつもからだは勝手に反応します。そのあとに,自己が立ち現れ,意識的に対応をしようとします。この自己が自己ではなくなる経験,これが「転ぶ」という経験のポイントとなります(荒川修作・「養老天命反転地」)。別の言い方をすれば,「自己を超え出る経験」です。これが純粋経験の核心です。

 ここまで考えてくれば,この「純粋経験」がスポーツの場面ではいくらでも表出する,わたしたちには馴染みのある経験だということがわかってきます。お相撲さんがよく口にする「からだが動く」も純粋経験です。調子がいいときには,頭で考え,命令をする前に,からだが勝手に動く,ということです。しかも,この「からだが勝手に動く」ことの背景には十分な「稽古」があることは当然です。稽古を積み重ねた結果として,お相撲を取るからだができあがってきます。そして,絶好調のときには「からだが勝手に動く」という状態になる,というわけです。

 こんな経験はどのスポーツにもあります。むしろ,スポーツはこの「純粋経験」の冴え方を競い合っていると言っても過言ではないでしょう。西田幾多郎は,この「純粋経験」をさらに追求していって,そのさきに現れるからだの反応を「行為的直観」と表現しました。つまり,からだの動き(行為)となって表出する直観,ということです。ふつうに直観と言った場合には,からだの動きは伴わない「静的」なものを意味します。しかし,それとは異なる,からだの動きを伴う「動的」な直観が存在すると西田は考えました。それが「行為的直観」です。

 たとえば,剣道の試合を考えてみましょう。相手の竹刀が打ち込みにかかった瞬間に受け手は無意識のうちにその打ち込みにもっともふさわしい構えをとります(稽古の賜物ですが)。そして,つぎにどのように裁いて,どのように打ち返すかも瞬時にからだが反応していきます。この反応は意識とは無関係です。そして,お互いが打ち合ってすり抜けたあとになって意識が蘇ってきます。ですから,打ち合った瞬間のことはほとんど記憶に残っていないということがよく起きます。このとき働いているのは「行為的直観」だ,と西田は考えました。

 気と気が触れ合って共振し,からだとからだが反応し合って共鳴し,瞬時にして打ち合いすり抜ける・・・この一連の動作が無意識のうちに繰り広げられる。こういうことが,時として起こる場合があります。これが「行為的直観」の出現の「場」です。言ってしまえば,からだのひらめきの「場」,ということになります。

 しかし,からだがひらめく,という事態を詳細に,あるいは,論理的に説明することは不可能です。なぜなら,「行為」と「直観」とは相容れないものであるからです。つまり,ふつうに考えれば,あるひらめき(直観)があって,その上でからだが動く(行為)という順序を踏みます。しかし,「行為的直観」は,からだがさきに反応することによって成立する「直観」,あるいは,両者が同時に反応することによって立ち現れる「直観」です。つまり,矛盾したことが,瞬時にして同時に起きる(起きている)と西田は考えました。

 人間の行為,日常の所作というものも,よくよく考えてみると,そのほとんどが無意識のもとで行われています。考えるともなく動いたり,動いてしまってから考えたり,というようなことはいくらでも起きています。このとき,わたしたちは「行為」も「直観」も意識してはいません。むしろ,無意識のうちにこの矛盾する両者を連動させています。そして,みごとに調和させています。わたしたちの生活(生きる営み)はこの矛盾する両者のみごとなバランスの上に成り立っているということがわかってきます。こうした調和状態のことを西田幾多郎は,ひとくちで,「絶対矛盾的自己同一」と表現しました。

 もちろん,厳密にいいますと,西田幾多郎のこの「絶対矛盾的自己同一」という概念はもっともっと深い意味と広がりをもっています。たとえば,わたしたちは「動物」であると同時に「人間」でもあります。この両者も「絶対矛盾」です。しかし,この両者を「自己同一」させないことには,現実の生活は成り立ちません。この問題をもっと解いていきますと,本能と理性,情動と知性,感情と思考,こころとからだ,という具合に,「絶対矛盾」を抱え込みながら「自己同一」することによって,わたしたちの「生」が成立していることがわかってきます。

 このように考えてきますと,「スポーツする人間」というものは,こうした「絶対矛盾的自己同一」を,一定の条件(ルール,場所,観衆,用具,施設,など)のもとで,いかにしてより高いレベルで実現させるか,ということを日夜,考え,努力している「生きもの」だ,ということがわかってきます。すなわち,スポーツは人間を,その内なる動物性をも含めて,トータルに鍛え,発現させる文化である,と言っていいでしょう。

 以上から明らかなように,「スポーツ学」は,「人間」や「スポーツする人間」について,さまざまな角度から理解を深めていき,最終的には,「スポーツとはなにか」を探求していく新しい「学」の成立をめざします。

 その9.では「スポーツとはなにか」について考えてみたいと思います。

2015年1月16日金曜日

イスラム社会の人びとの生活の組み立てを考えなければならない(西谷修)。

 昨日(1月14日)の東京新聞の「こちら特報部」の記事の内容がとてもよかったので,紹介しておきたいと思います。テーマはいま話題のフランス風刺週刊紙「シャルリエブド」襲撃事件をどのように考えるか。これを多面的にとらえ,分析してみせてくれています。鈴木伸幸,篠ケ瀬祐司の両記者による実名記事。やはり,記者の名前がみえている方が,読む方も楽しみがひとつ増えるというものです。

 見出しもとてもわかりやすい。

 「論議呼ぶ仏紙風刺画」
 「表現の自由か 宗教冒とくか」
 「欧州連帯 米は冷静」

 
「やゆ・・・ヘイトと同根」
 「タブー切り込む仏の風刺文化」
 「日本も在日排斥」
 「自由に伴う責任自覚を」


 記事のこまかな点については,多少,わたしなりの異論がないわけではありませんが,ここでは省略しておきます。そして,この記事のなかで,やはり,わたしの眼に止まり,「これだ」と我が意を得られたのは西谷修さんのコメントでした。

 詳しくは,新聞記事のなかの西谷さんの発言で確認してみてください。

 西谷さんは,まず,フランスの風刺文化がはたしてきた歴史的な経緯をわかりやすく説き,フランスの近代化を推し進めた結果として獲得した「表現の自由」を絶対的な「正義」と考え,その物差しをそのまま当てはめて「(イスラムの)神の絶対化や殉教などはおかしい,野蛮な信仰だ」と決めつけているようだが,それでいいのか,と疑問を投げかけています。

 そして,圧巻は「表現の自由は民主主義制度の根幹に関わるが,何でもいいわけではない」とバッサリ。それに追い打ちをかけるようにして,「イスラム社会の人々がどういう原則で生活を組み立てているかを考えなければいけない。テロリストと普通のイスラム教徒を地続きでバカにしてはいないか」と警告を発しています。

 わけても,「イスラム社会の人々がどういう原則で生活を組み立てているか」,この点をしっかりと考えなくてはいけない,という西谷さんの指摘がわたしにはずっしりと重くのしかかってきました。といいますのも,民主主義にしろ,表現の自由にしろ,これらはヨーロッパ近代が到達した一つの価値観であって,一定の役割をはたしたのちには,また,違った価値観が導き出され,変化していく可能性が十分に考えられるからです。つまり,唯一,絶対的な価値観ではない,ということです。ですから,その一時的な自分たちの価値観を違う世界観のもとで生きている人々に押しつけることはできません。その逆を考えてみれば明らかなことです。

 では,なにがお互いを理解する前提として価値をもつことになるのか。それが「生活の組み立て方」だというわけです。つまり,実際に,いま,どのような「原則」(教義=ドグマ)にもとづいて,自分たちの「生活を組み立て」ているか,これが最優先されなくてはならない,と西谷さんは仰るのだと思います。言ってみれば,ここだけはお互いに踏み込んではいけない「アンタッチャブル」な領域だ,というわけです。ここだけは,お互いに譲り合い,認め合うことが肝腎だ,と。

 ここに「表現の自由」を持ち込むことは,あってはならないことだ,ということです。

 なのに,「共和主義者」たちは,そこのところがわかっていないのだろう,と西谷さんはやんわりと批判しているようです。

 まあ,新聞でのコメントは,西谷さんが実際に話をされたことのほんの一部分しか取り上げられてはいないだろうことは,わたしも経験的に知っています。じつは,西谷さんがこのようなコメントをされる背景にはもっともっと膨大な情報と思考の深さがある,ということを忘れてはなりません。それは,これまで書かれてきた著作からも明らかです。そして,今回の事件に関する最新情報にしても,友人のフェティ・ベンスラマからも直接手に入れています(西谷さんのFBからも明らかです)。また,もっともっと深い洞察は,この数日間の西谷さんのブログ「言論工房」で確認することができます。

 それらを熟読してみますと,フランスという国家そのものが,いま現在,抱え込んでいる「難題」がいくつもあって,それらと連動するかたちで,フランス国民が一致団結しなければならない特殊な事情があることがわかってきます。つまり,「表現の自由」をどこまでも固持しなくてはならない,フランスの事情がある,ということです。詳しくは西谷さんのブログでご確認ください。

 きわめて重厚な論考になっています。ですから,相当に気合を入れて読まないと,跳ね返されてしまいます。

 というところで,このブログを閉じたいと思います。

2015年1月15日木曜日

「表現の自由」はオールマイティか。フランス風刺画問題を考える。

 さまざまな前提条件はひとまず置くとして,「表現の自由」は守られなくてはならない,と言われたらこれを否定することはできません。つまり,一般論として,あるいは一般原則として,「表現の自由」を擁護することは正しい,ということです。しかし,だからといって「表現の自由」はいかなる情況においても守られなくてはならない絶対的な正義か,と問われたらそれは「否」だ,とわたしは考えています。すなわち,「表現の自由」(「言論の自由」)にはおのずからなる限界がある,ということです。

 別の言い方をすれば,「表現の自由」はオールマイティではない,ということです。

 フランスの風刺週刊紙シャルリエブドが襲撃され,編集長ほか12名が殺害されたほかにも,スーパーでも警察官1名,ユダヤ系の4人が殺害され,計17名が命を落としました。そして,あらゆるメディアがいっせいにイスラム原理主義系のテロリストのなせる所業だとして,連日,テロリストを弾劾する報道を展開しています。

 わたしは「17名」か,と腕組みしながら考えました。たった「17名」で,この騒ぎはなんだろう,と。フランス各地では全部で370万人もの人たちが「反テロリズム」「表現の自由」を掲げてデモの大行進を繰り広げた,という。しかも,戦後,最大のデモ行進だった,という。なにが,フランスの人びとをここまで駆り立てるのか,わたしには理解できません。

 大行進はそれだけではありませんでした。その先頭に立ったのは,オランド仏大統領を筆頭に,英国,ドイツ,スペインなどの首脳40名が顔をそろえた,というのです。この写真もテレビ,新聞,FBをとおして,大きく報じられました。この写真を眺めながら,その異様な光景に,これはいったいなんだろう,なにを意味しているのだろうか,と考え込んでしまいました。

 なにかに怯えている・・・そうに違いない・・・そうでなければここまで大きな騒ぎにはならない・・・これがわたしの直観でした。「表現の自由」はたんなる隠れ蓑にすぎないのではないのか。これを「正義」の御旗としてかかげ,テロリスト(勝手に名づけただけのこと)を徹底的に排除・弾圧する,その圧倒的な「暴力」にすがるしか手立てが見当たらない,安心立命できない・・・・そんな図柄がわたしの脳裏に浮かんでは消えを繰り返していました。

 そして,その反対側には,アメリカを筆頭とする欧米諸国が一致団結して,テロリスト撲滅運動を展開してきたこれまでの経緯が,わたしの脳裏に浮かんでは消えを繰り返しています。つまり,テロリストと名づけてしまえば,いかなる手段を用いてでも「殺害」が正当化されてしまう,その「暴力」です。しかも,その「暴力」はたんなる戦闘集団だけではなく,一般市民をも巻き込む「爆撃」です。この「爆撃」によってどれだけ多くの一般市民が命を落とすことになったことか,と。

 その数は「17名」とは比べものになりません。その何十倍,何百倍と推定されています。つまり,無差別殺戮が繰り返されてきました。この無差別殺戮は,いまも,「正義」の名のもとで繰り広げられてけいます。イスラム過激派集団からすれば,欧米の連合軍による無差別殺戮こそが,史上最大の「テロリズム」にほかなりません。

 この視点がひた隠しにされています。

 もう一点,ついでに述べておけば,イスラム過激派戦闘集団を最初に組織したのはアメリカのCIAだった,ということを忘れてはなりません。みずから播いた種がみごとに育ち,大いに働きもしました。が,その使命をはたしたところで見捨ててしまいました。見捨てられた戦闘集団は,こんどはアメリカに刃を向けることになりました。これが「テロリスト」のはじまりです。そして,テロリスト狩りという名の無差別殺戮という暴力がいまもつづいています。

 裏切ったのはだれだ,という問いを忘れてはなりません。

 今回のフランス風刺週刊紙襲撃事件は,こうした長年にわたる弾圧・排除・隠蔽に対する怨み,つらみの表出にすぎません。デリダ流にいえば,抑圧・排除・隠蔽された側の怨念は,あるとき,突如として「亡霊」となって表出する,というわけです。

 この怨念という名の「亡霊」に怯えている・・・のでは・・・。これがわたしの直観の根拠の一部です(じつは,まだまだ,たくさんあります。たとえば,イスラエル・パレスチナ問題。この話は長くなりますので,また,別の機会に)。それでなければ,たった「17名」の犠牲者に,これほどの病的とも思われる反応を示すことはありえない,と思うからです。

 ですから,わたしの眼からすれば,これはどうみても「集団ヒステリー」症候群としかいいようがありません。「正義」の集団がいつのまにか病気に侵されていた,それもおのれの所業に怯えながら,しかも,そのこと自体にもまだ気づいてはいないようです。

 その証拠に,風刺週刊紙『シャルリエブド』の14日発売号(特別号)では,再度,預言者ムハンマドを描いた風刺画を表紙にする,とのことです。それが,この下の絵です。

 
とうとう,アンタッチャブルの領域にあえて踏み込もうというのです。これはもはや「風刺」ではありません。あきらかに「挑発」です。挑発しながら,おのれの顔は引きつっていることでしょう。なぜなら,こんどは,世界中のイスラム教信者を敵にまわす「暴挙」にでたのですから。

 ちなみに,世界でもっとも信者の多い宗教はイスラム教なのですから,これは「暴挙」としかいいようがありません。

 なにか,とてつもない新時代の幕が,突然,切って落とされた,そんな印象をわたしはつよくもっています。予想もつかない,まったく新しい展開が,これから世界を席巻するのではないか,と。これがわたしの杞憂に終わることを祈るのみです。

2015年1月14日水曜日

『<出雲>という思想』(原武史著,講談社学術文庫,2010年)を読む。

 不勉強をさらけ出すようでいささか恥ずかしいかぎりですが,いまのいままでこの本の存在を知りませんでした。正月の七草がゆも終わったころ,ぶらりと散歩にでたついでに,なんのあてもなく近くの書店に立ち寄りました。よくあるいつもの慣習です。場所もきまっていて,文庫本のコーナー。岩波文庫をながめているうちに,そういえば買っておかなくてはいけない本があったはず・・・・。でも,書名が思い出せない。仕方がないので,その隣にある講談社学術文庫の棚をぼんやりとながめてみる。すると,突然,『<出雲>という思想』──近代日本の抹殺された神々,という書名が眼に飛び込んできました。えっ? 思想だって? しかも,<出雲>の?

 
面白い本との出会いは,いつもこんな具合にはじまります。ある日,突然,向こうからやってくるのです。すぐに手にとってみる。まっさきに,表紙カバーのキャッチ・コピーが眼に飛び込んできました。そこには,以下のようにありました。

 明治国家における「国体」「近代天皇制」の確立は,<伊勢>=国家神道の勝利であった。
 その陰で闇に葬られたもう一つの神道・<出雲>。
 スサノヲやオホクニヌシを主宰神とするこの神学は,復古神道の流れに属しながら,なぜ抹殺されたのか。
 気鋭の学者が<出雲>という場所(トポス)をとおし,
 近代日本のもう一つの思想史を大胆に描く意欲作。

 これは面白そうだ,と直観。おもむろに目次を確認し,気になる見出しの章,節を拾い読み。それから,「まえがき」を読み,ぐいと惹きつけられ,「はじめに──<伊勢>と<出雲>」を一気に読んで,これは間違いなくいまのわたしの関心事にみごとに応えてくれる本だと確信。買いと決定。大急ぎで家にもどって,すぐに読み始めました。面白くて止められません。

 目次をあげておきますと,以下のとおりです。
 第一部 復古神道における<出雲>
 一 「顕」と「幽」
 二 本居宣長と<出雲>
 三 平田篤胤と<出雲>
 四 篤胤神学の分裂と「幽冥」の継承
 五 明治初期の神学論争
 おわりに──<出雲>を継ぐもの
 という具合です。

 これまで,本居宣長にはじまる「国学」なるものに,どことなくうさん臭さを感じていましたので,それとなく敬して避けるという姿勢を貫いてきました。それでも,本居宣長がどうして『日本書紀』よりも『古事記』を重視したのか,その理由は確認しておかなくてはなぁ,くらいの意識はありました。それに対して平田篤胤は,なぜ,『日本書紀』を重視したのか,という疑問はもっていました。

 しかし,今回,このテクストを読んで,その疑問はみごとに氷解しました。しかも,両者ともに<伊勢>よりも<出雲>を重視していることに,ある種の驚きを覚えました。つまり,アマテラスよりはオホクニヌシの存在を重視している,ということです。それも,『古事記』や『日本書紀』を読めば読むほど,オホクニヌシの存在が古代史にあっては中心であったことがはっきりしてくる,と両者ともにいうのです。それにくらべるとアマテラスの存在は希薄である,と。

 ここからはじまって,国学論争,あるいは神学論争は,さまざまな説が飛び交うようになります。ひとくちに言ってしまえば,その論争は<伊勢>派と<出雲>派との対立抗争でした。それでも,論理としては<出雲>派が圧倒していた,といいます。

 この論争に決着がつくのが明治初期です。しかも,政治の力で決着がつきます。明治20年代に,大日本帝国憲法と教育勅語が発布され,これが決め手となります。よく知られていますように,大日本帝国憲法の第一条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之レヲ統治ス」と書かれています。むしろ,驚いたのは「万世一系ノ天皇」という考え方は,この憲法によって定着したものだ,ということです。わたしは,ずっとむかしから「万世一系」ということが言われてきたのだ,と思っていましたが,そうではありませんでした。

 かくして,<伊勢>=国家神道がその根拠をもつことになり,もう一つの神道=<出雲>は闇に葬られることになる,というわけです。

 このプロセスが<思想史>というスタイルをとりながら,詳細に語られています。もっと早く,このような思考の洗礼を受けておくべきだった,といまごろになって臍を噛んでいます。ぼんやりと霞がかかっていた世界がすっきりしてきましたので,これから<出雲>を考える上でとても助かるテクストでした。

 と同時に,これまで考えつづけてきた出雲族の存在こそが,日本史を理解する上では不可欠であるとするわたしの仮説が,間違ってはいなかったとわかり,安心しました。これからも,ますます出雲族の実態を追ってみたいと思うようになりました。

2015年1月13日火曜日

辺野古の違法アセスが泣いている・・・・。日本に未来はない。講演傍聴記。

 沖縄のかかえる問題を考えることは日本国という国の成り立ちの諸矛盾を考えることだ・・・・としみじみ思いました。そして,こんなことをやっていては,ほんとうに日本の未来はない・・・と。政府とはだれのためのものなのか。民主主義とはどういうことなのか,環境アセスとはだれのために行うものなのか,等々,これが,今日(1月12日)の桜井国俊さんの講演傍聴から受けた強烈なメッセージでした。

 連続講演「沖縄の”地鳴り”を聞く」の第3回講演の実施要項は以下のとおりです。
 日時:2015年1月12日(月)午後2時~午後5時。
 場所:法政大学(市ヶ谷キャンパス)ボアソナード・タワー26階
 演目:「日本の未来を奪う辺野古違法アセス」
 演者:桜井国俊(沖縄大学名誉教授/沖縄環境ネットワーク世話人)
 主催:普天間・辺野古問題を考える会(代表・宮本憲一)
 共催:法政大学沖縄文化研究所

 桜井国俊さんの張りのある若々しい声,情熱のこもった,しかも歯切れのいい話の展開が,いまも耳に残って離れません。講演にはいろいろのスタイルがあると思いますが,桜井さんは,これ以上一歩も引けない危機的な情況にある辺野古の違法アセスの問題について,なにがなんでもわかってほしいと切実に訴えかけるスタイルをとり,迫力満点でした。いかに酷い違法アセスが,いま,辺野古の海で展開されているか,その実態を知ってほしい・・・と。

 ここに書いておきたいことは山ほどありますが,とても書き切れませんので,残念ですが,とくにわたしの印象に残ったトピックスだけに限定させていただきます。

 環境アセスメントは,いつから「環境アワスメント」(東京では「環境アワセメント」というそうです)になってしまったのか。日本政府は最初から環境アセスメントには消極的だった。なぜなら,企業利益を守る側に立っていて,国民を守る側には立たなかったからだ。だから,環境アセスメントに関する法の整備もほとんど手つかずのままに放置されている。そのため,裁判闘争に持ち込んでも,事業者有利の現行法に阻止されてしまう。つまり,ことばの正しい意味での司法が機能していない。司法が政治の支配下に置かれているのが現状だ。その結果,環境アセスメントは,単なる「環境アワスメント」に成り下がってしまっている,と桜井さんは主張されます。

 たとえば,こうです。アセス法というものがあって,それによれば,まずは環境アセスメントに関する「方法書」が事業者である沖縄防衛局から提出されます。住民はそれを閲覧して意見を言うことができます。しかし,この「方法書」なるものが4500ページもある膨大なもので,とても,一般市民の手に負えるものではないそうです。しかも,その中に書かれていることはほとんどがどうでもいいことばかりであって,肝心要のポイントはたった一行しか書いてない,と。つまり,飛行場の用途としては「ヘリコプターの離着陸」としか書いてない。そういう,まことに不備な内容になっている。したがって,沖縄環境ネットワークのメンバーが手分けして,この「方法書」を読み,「意見書」を提出します。すると,こんどは「改訂方法書」がでてきます。これには意見を言うことができないルールになっている。つまり,後出しで,さらに新しい条件を追加して,自分たちの都合のいいように「方法書」を改ざんしてしまうというわけです。こうして「法」の網の目をすり抜けていく。これが辺野古での環境アセスメントの常套手段だ,というわけです。

 たとえば,ジュゴンの棲息調査。「方法書」を提出する前に,事前調査と称して,つまり「海底に関する事前調査」という名のもとに海底を引っかき回して珊瑚礁を破壊するようなことを平気でやっている。珊瑚礁を破壊すること自体が違法行為だ。これは,どうやら,ジュゴンを追い出すための作戦でもあったらしい。なぜなら,ジュゴンの遊泳も,藻を食べた痕跡も認められない,したがってこの海域にはジュゴンは棲息していない,と判断できる,と「方法書」に記述されているからだ。ジュゴンはおそらく,海底調査の破壊的な騒音を聞いて,より環境のいい,つまりもっと快適な環境のところに一時的に移動していたにすぎない。なぜなら,その後,何回でもジュゴンの姿は確認されているからです。

 短期間の調査結果にもとづいてジュゴンはいないと断定し,それを既成事実として,つぎの段階の「準備書」を作成し,提出されます。この「準備書」についても公示・縦覧,説明会を経て,意見書の提出という段取りですすめられます。この場合も,「方法書」のときとまったく同じ手法で,するりとかわされてしまいます。それどころか,もっと困る条件が新たに追加されていたりします。つまり,最初から「意見書」に対してまともに応答しようという姿勢はまったく認められない,と桜井さんは主張されます。

 そして,もっと問題を複雑にしているのは,辺野古の基地をつくるのは日本,そして,それを使うのはアメリカ,というこの二重構造です。たとえば,意見書で,どのような使用の仕方をするのか明らかにせよ,と要求した場合に,都合の悪い内容については「アメリカから聞いていない」と誤魔化してかわす。これも常套手段。こうして,まともな応答も得られないまま,もちろん,合意も得られないまま(むしろ,無視されたまま),事態だけが進展していく。この繰り返しだ,というのです。

 こうして,アセス制度の二本柱といわれている「科学性」も「民主性」も,まったく無視されたまま,形式的な手続だけが粛々と進められていく,これが辺野古のアセスの実態である。これは,どう考えてみても「違法」としかいいようがない。でも,裁判をやると勝てない。そこには法の不備が待っているだけだ。

 最後に残された方法は,翁長知事が進めようとしている,仲井真前知事の「承認」手続に重大な瑕疵がなかったかどうかを検証・確認し,それにもとづいて「承認取り消し」の判断をくだすこと。もし,そうなると,こんどは政府が訴訟の手続をすることになる。そうなったときに,はじめて,環境アセスの手続ではなくて,内容(科学性と民主性)が問われることになる。しかも,その二項目について,政府が立証しなくてはならない,という立場になる。ここが勝負どころではないか,と考えている,と桜井さん。

 まだまだ,いろいろありますが,この辺りで終わりにしたいと思います。
 が,最後に,桜井さんが仰ったことのなかで,これだけははずせないとわたしが受け止めたことを書いておきたいと思います。それは,どういう流れの中で語られたのか,はっきりとした記憶はないのですが,桜井さんたちが取り組んでいる「沖縄環境ネットワーク」の3条件,とたしか言われたと思いますが,それを列挙しておきます。

 1.戦争をしない。
 2.子孫に誇れる環境を残す。
 3.自己決定権を確立する。

 以上です。

普天間・辺野古問題を考える会・代表宮本憲一さんのご挨拶。
左に座っているのが桜井国俊さん。

ボアソナード・タワー26階からの夕景。
丹沢山と富士山。

2015年1月12日月曜日

友あり,イタリア・モデナより来れり。ミケーラ・ファミリー。

 ご縁というものは不思議なものです。ほんのちょっとしたことがきっかけで,友情が生まれ,細々ながらいつまでもつづくことがあります。そんなひとりが,イタリア・モデナに住むミケーラとそのファミリー。

 もともとは,わたしの娘がミケーラさんと友だちになったことがはじまりでした。もう,20年も前のことになるでしょうか。娘が鹿児島から沖縄に渡るフェリーの上でミケーラさんと出会い,長い時間をともにおしゃべりしながら過ごし,意気投合したたことがきっかけでした。もちろん,ミケーラさんが沖縄滞在中も交友を深めたようです。その当時は,ミケーラさんはヴェネチア大学の日本語・日本文化を専攻する学生さんでした。ですから,すでに日本語は不自由なく話すことができました。

 彼女の卒論のテーマが「日本文学と戦争」。そのためのフィールド・ワークを兼ねて,その後もたびたび日本にやってきました。そのたびにお会いして,彼女のためにできることは喜んで引き受けました。そのせいか,とてもいい卒論が書けたと喜んでくれました。卒業後は,日本語を活かすことのできる会社に勤務(翻訳?)。

 というような調子で,この20年間のことを書き出すと,際限がなくなってしまいますので,割愛。

 そんなミケーラから,突然のメール。いま,日本に到着。両親と一緒。これから箱根,京都,広島をまわって1月10日に東京にもどってくるので,午後3時に新宿で会いたい。東京都庁の展望室からの眺望を両親に見せたいので,と。

 ということで,都庁で待ち合わせ。わたしたちがミケーラの住むイタリアのモデナを訪ねたのは,もう12年も前のこと。ご両親とはそれ以来の再会。お父さんの年齢はわたしと同じ。元警察官。眼光鋭い,一見したところ強面。でも,笑うと可愛い。その落差が魅力。ただし,彼はイタリア語しかしゃべらない。ですから,ほんど会話らしい会話は成立しません。

 今回も同じ。イタリア式挨拶(ほっぺを右,左と合わせる)をしたら,すぐに,わたしのほっぺを軽くつねってくる。これがかれの親愛の情の表現法。わたしも返礼に,両手でほっぺを挟んでスリスリ。それだけで,爆笑。しかも,その間,かれはなにかしきりにしゃべっています(イタリア語で)。わたしも負けずにしゃべる(日本語で)。それでなんとなく意思疎通ができたような気分。ミケーラに聞いてみたら,二人とも同じことを言い合っていた,と。そこで,また,大爆笑。

 展望室に上がってからも,かれはイタリア語,わたしは日本語で。「こちらの方向が成田空港」と指さすと「オー,ナリータ」とかれ。ちゃんとわかっている。こんどはかれが指さして「フジサン」と大喜び。そして,なにやら言っている。「シンカンセン」ということばが聞き取れたので,たぶん「新幹線からも見えたよ。大きくて綺麗だったよ。空(ここは身振りで判断)も晴れ渡っていて素晴らしかったよ」というようなことを言っていたのだと思います。こんな珍問答をしながら展望室からの眺望を楽しみました。

 ミケーラがその様子をみていて,「マサヒロはイタリア語がわかっている」「パパも日本語がわかっている」と冷やかされてしまいました。すると,元警察官は太い腕を差し出してきて握手。これがまたけたたましいほどの握力。そして,「俺たちは語学の天才だっ」と言って(そう聞こえた),大きな声で高笑い。不思議なもので,こんなやりとりで,なんとなく会話が成立してしまうのです。伝わってくるのは,かれの気持。思いやり。やさしさ。かえって,ことばだけで理解するよりも,伝わってくる情報量はこの方が多いかもしれません。

久しぶりにわけのわからない異次元の会話を楽しむことができました。
こんどは,お前たちがイタリアに来い,待ってるよ。とこれがお別れのときの最後のことば。さて,いつイタリアに行くことができるだろうか,と心細いかぎり。でも,負けずに「必ず行くから・・・」と約束。たぶん,かれと会うのはこれが最後。

 ミケーラは,この夏に,ボーイフレンドとやってくるという。こんどは北海道に行くとのこと。沖縄にも行ったら,とわたし。そうすれば,われわれも沖縄に行くから,と。ちょっと考えるそぶりをして,「かれと相談してみる」との返事。かれの名はマルコ。音楽家。なかなかいい男。こんどは夏が楽しみ。

2015年1月10日土曜日

『鬼の研究』(馬場あき子,ちくま文庫)を再読。

 歌人として知られる馬場あき子の名著といわれている『鬼の研究』を久しぶりで読み返してみました。読み手の問題意識によって,名著というものはいろいろの顔をみせます。わたしが初めてこの本に出会ったのは,もう,25年も前のことです。この当時は,「そうか,鬼という視点があったか」という啓蒙的な受け止め方でしかありませんでした。が,今回は,はっきりと<出雲>を意識して読み始めましたので,見えてくるものがまるで違いました。

 その結果の一つが,昨日のブログで書きましたように,菅原道真が「天神さま」に祀られるようになった経緯でした。これまでも朧げな知識としてはもっていましたが,これほど詳しく知ったのは初めてでした。しかも,出典まで明らかにされていましたので,これから,さらに触手をのばしていこうかと考えています。

 この『鬼の研究』はもうずいぶん前に刊行された古いものですが,にもかかわらずその鮮度は落ちていません。もちろん,時代的な制約があったことは仕方がありません。たとえば,このテクストの初版がでたのは,1971年6月30日,三一書房からでした。この時代に古代史の「闇」に触れることはタブーでした。とりわけ,天皇制の問題に触れることは,古代史研究者の間では憚られていました。「鬼」の研究とは,権力によって排除され,しいたげられた階層の人びとの実態を明らかにすることにあるわけですので,ある意味でアンタッチャブルな領域に踏み込む作業でした。しかし,馬場あき子は,歌人という立場をうまく活かし,古代史研究者が忌避したがる領域にするりと入り込み,歌人ならではの文献渉猟のはてに,その間隙を縫うようにしてテーマの「鬼」に迫っていきます。しかも,迫力満点です。

 
まず,真っ先に印象に残ったのは,各章の扉に配した古い能面でした。第一章 鬼の誕生,の扉には「般若」の面が,1ページ全面を使って大きく紹介されています。かなり古い面だと思われますが,なかなかいい面ではないか,と素人ながらも感じます。この面の解説がないのが残念。ふと気がつけば,この本の表紙カバーも能舞台で舞う鬼の写真です。この写真だけはクレジットが書いてありました。吉越立雄「石橋」。

 馬場あき子によれば,「鬼」的なるもののすべての要素は「般若」の面に凝縮している,ということになります。つまり,美しい女性の面として知られる「小面」は「般若」と表裏一体のもので,小面の裏にはひそかに般若が棲んでいる,というわけです。「小面から般若まで」ということばがありますように,ひとりの女性の内面は,折に触れ,さまざまな顔となって表出してきます。

 とりわけ,能楽が盛んになった中世にあっては,女性の立ち位置や生きざまは,こんにちとはまるで違います。幾多の艱難辛苦に耐えながらも,これ以上は我慢できないという限界に達し,堪忍袋の緒が切れるということも,しばしばあったようです。そういう怨念がいっぱい詰まった極限が「般若」ではないか,と馬場あき子は推理していきます。その説き方がまた素晴らしい。

 
わたしが注目したのは,第三章 王朝の暗黒部に生きた鬼。1.鬼として生きた盗賊の理由。この中に,「童子を名のる大江山の鬼」「二つの大江山と酒呑童子」「山拠の生活をもった人びと」「王朝暗黒社会の不可解性」とつづく一連の考察が収められています。そして,3.雷電と鬼,のところに「菅公の御霊としての雷電」という小見出しがあり,ここに昨日書いたブログのネタがふんだんに盛り込まれています。

 第五章 極限を生きた中世の鬼。これが最終章になるわけですが,ここでは徹底して能面の世界を論じています。そして,圧巻です。目次だけ紹介しておきますと,以下のとおりです。
 1.中世破滅型の典型としての般若,
 2.空無の凄絶をもった美──「黒塚」考
 3.白練(しろねり)般若
 4.一言主の愁訴と棄民山姥

 巻末には,谷川健一の解説がついています。

 とりあえず,名著のご紹介まで。

2015年1月9日金曜日

「天神さま」(菅原道真)はいかにしてつくられたか。90年にわたる怨念(不祥事)が意味するもの。

 菅原道真が野見宿禰の末裔であるという蔑視を背景にしたあらぬ冤罪によって右大臣の職を解かれ,太宰府に左遷となった話はよく知られているとおりです。と同時に,その2年後には,やり場のない憤怒のはてに病死した,という話も人びとに強烈な印象を与えることになりました。当時,朝廷のあった京都にあっては人びとの間でその話題がもちきりになったといいます。そして,菅原道真の怨霊が京の都を跋扈しているという噂が飛び交った・・・とも。

 そして,それを裏付けるような「できごと」(不祥事)がつぎからつぎへと起きたといいます。人びとは,すわ,菅原道真の怨霊の仕業だ,と騒ぎ立てることになり,ますます人びとを恐れさせることになったといいます。そうした「騒ぎ」が「90年」もつづいたというのです。そして,その威力のあまりの強烈さの前に人びとは膝を屈して「天神さま」と崇め奉ることになった,といいます。その証拠が,全国津々浦々にいたるまで広がる「天神さま」信仰です。天神社,天満宮,天満神社,菅原道真神社,菅原神社,八幡社,牛頭天王社,など枚挙にいとまがないほどです。

 その経過(90年間の不祥事)を,馬場あき子の『鬼の研究』(ちくま文庫)が詳細に記しています。ちなみに,90年間もつづいたという不祥事とはどのようなものだったのでしょうか。その具体的な例を『鬼の研究』から引いてみたいと思います。より簡潔に年表風にまとめてみました。

901年 菅原道真,太宰府左遷。
903年2月 病死。
903年夏 雷電となって京の都を襲う。7日間連続の雷雨。清涼殿に落雷がつづく。
909年 左大臣時平(道真左遷の首謀者),急逝。時平の耳から小蛇(道真の変化)。
913年 源光(道真のあとの右大臣),急逝。悩乱状態になり死す。
※この二人の急逝の前後には,京都は豪雨洪水に見舞われ,疫病・凶作に悩まされる。
923年 右大弁公忠,病気でもないのに急死。
923年 時平の娘婿にして皇太子の保明親王,早世。
925年 保明親王のあと立太子した3歳の皇子慶頼王,夭折。
930年 清涼殿に落雷。大納言清貫,焼死。右大臣希世,右近衛の舎人忠包,紀蔭連,も落雷により死す。
936年 時平二男,八条大将保忠,急死。
943年 時平三男,敦忠,早世。
955年 北野に「天満大自在天」を祀る。
※以後も,しばしば内裏で火災が発生。
993年 一条天皇が太政大臣正一位を贈る。

 以上です。実際の記述はもっともっと精妙になっています。歌人でもある馬場あき子の文章は,まことに美しく,説得力をもっていますので,興味のある方は,ぜひ,確認してみてください。その一部を引いておきますと,以下のとおりです。

 思えば気の遠くなるようなながいながい怨みであった。しかしながら,いささか日本人ばなれのしたような,九十年という何代にもわたる長大,かつ,強烈な憤怒と怨みは,この時すでに道真個人をはなれたものとなっていたといえる。それは,自然の破壊的な力と,生死の偶然との重なりに乗じた,見えざる民衆の憤りであり,道真は雷電に仮託された人格をもって,世の不正義を糾弾する声となりきったのである。道真没後の九十年間において,このような弾劾の神としての雷電への崇拝と信仰は定着していった。そしてこの時期は,同時に鈴鹿山系を中心に盗賊が跳梁し,鬼の足跡が不吉なおびえを施政者に与えた時代であったことも併せて考えねばならないであろう。政治の暴力によって破滅した老右大臣,誠実な儒学者への同情が,氏の長者藤原氏の富裕の専制への憤りに転化するには,さして時間のかからぬほどに,民衆は貧しく苦しんでいたし,そのできる抵抗といったら,不幸な暗い風説に托して,強大なものへの呪詛と憤懣をささやきあうことぐらいであったのだから。

 以上です。「天神さま」誕生の背景が手にとるように理解できます。馬場あき子の歌人としての鋭い感性と分析に脱帽です。みごととしかいいようがありません。

 このことが確認できたことによって,「天神さま」信仰の経緯がすっきりしました。藤原一族は,その後も権力の座にいつき,その末裔はいまも政財界に君臨しているとも言われています。他方,「天神さま」は,出雲大社と一宮の系譜とはことなる,もうひとつの出雲族の系譜としていまも健在です。いまはともかくとして,古代・中世にあっては,朝廷を支える表の藤原一族と,政治権力とは距離を置いたところで隠然たる勢力を誇る出雲族の,微妙な力関係が存在していたことに,いましばらく注目してみたいと思います。

 そのための手がかりが,わたしの場合には「野見宿禰」というわけです。「野見宿禰」遍歴は,これからもっともっと面白くなりそうです。

2015年1月8日木曜日

「オキナワとフクシマは同じ構造だ,などと言ってくれては困る」(島袋純)。

 忘れないうちに書いて置かなければ・・・・と思いつつ後回しになっていました。それは表題にも書きましたように「オキナワとフクシマは同じ構造だ,などと言ってくれては困る」という島袋純さんの主張です。この話は,じつは,12月21日(土)に法政大学で開催された連続講座・「沖縄の地鳴りを聞く」の第2回「”アイデンティティ”をめぐる戦い──沖縄知事選とその後の展望」(島袋純)を聴講したときに聞いたものです。

 それもご本人の口からではなく,この日の司会・進行を務められた遠藤誠治さんからでした。といいますのは,島袋さんが搭乗予定だった沖縄からのフライトが大幅に遅れていて,空白の時間ができてしまったため,その穴埋めとして遠藤さんが島袋さんについて語るなかで紹介された話だったからです。

 そのときの話によりますと,遠藤さんが島袋さんに,「基地も原発も,いわゆる弱者にしわ寄せさせているという点で同じ構造ですよね」と言ったところ,島袋さんに厳しく叱られてしまったというのです。その根拠は以下のようでした。

 オキナワとフクシマは同じ構造だ,という論説がまかりとおっているが,これはとんでもない間違いだ。一見したところ,そっくりに見えるし,表面だけをみればそのとおりだ。しかし,根本的なところに大きな違いがある。その違いは,フクシマは政府と地元との正式な交渉があって,一定の合意を得た上での原発設置だったが,オキナワの基地はそうではない,ということだ。つまり,オキナワは無条件降伏後のアメリカの統治下にあって,民意はいっさい無視,アメリカの思いのままに基地を設置した,ということだ。それを,そのまま日本政府が引き継いだ(1972年)だけだ。一度も,沖縄県民の民意を問われたことはない。

 それどころか,基地を移転する運動を長い間,必死になって展開してきたにもかかわらず,アメリカも日本政府も一切,無視して放置されたままだ。それは,いまもつづいており,沖縄県民の我慢も,もはや臨界点に達しつつある。そのことが,こんどの知事選で明白に示されたのだ。この長い年月を闘いつづけてきた基地反対闘争およびその到達点と,2・11以後の困難な情況に直面してからの問題とそれに対応する福島県民の姿勢とは,まったく異質なものなのだ。その点だけはしっかり認識しておいてほしい。

 このことを指摘されて,わたしは返すことばを失った,と遠藤さんは正直に告白されました。それを聞いていたわたしもまったく同じで,そこまでは思考がとどいていなかったことを恥じるしかありませんでした。

 と同時に,本土の識者やジャーナリストは甘い,と感じました。やはり,オキナワのことは遠いできごとにすぎないのです。ですから,どうしてもわたしたちの日常からは縁遠いものになってしまっています。そこから想像力を駆使して,いろいろオキナワ問題を考えたとしても,やはり観念論的な議論に終わってしまいます。しかし,沖縄で日々,空気を吸い,騒音を耳にし,さまざまな事件に直面しながら生きている人びとにとっては,それこそがまさに「日常」なのであって,すべての思考はそこから立ち上がり,深められていくわけです。

 仲里効さんのことばを借りれば,「エッジ」に立つ,ことしか選択肢はないわけです。それにくらべたら,本土のわたしたちは「茹でカエル」以外のなにものでもありません。ですから,本土で生きるわたしたちとしては,やはり,足しげく沖縄に通い,その場に立って,空気を吸うことから思考を立ち上げるしか方法はないのでしょう。

 遠藤さんが紹介してくださった島袋純さんの主張を聞いて,素直にそう思いました。そして,これまでのみずからの生き方を,深く反省した次第です。

『日本の中の朝鮮をゆく』(岩波書店)。いささか気がかりな本。

 雑誌『世界』の2月号がとどきました。いつもの習いで目次に眼をとおしてから,面白そうな論考から拾い読み。まずは,じっくり読むべき内容のものかどうかの当りをつけながら,ざっと最後までページをめくります。そして,楽しみなのは,一番最後のページにある清宮美稚子編集長の「編集後記」です。毎回,いろいろの工夫がしてあって,しっかりと読ませてくれます。今回も案に相違することなく,しっかりと「笑わせて」くれました。

 そのあとのページは,「岩波書店の新刊」紹介の広告です。これからどんな本が出るのか,ワクワクしながら,楽しめるページがつづきます。今月もまた,「エッ?」と思わず声を発してしまう本の広告がありました。

 最初の一冊は,『れるられる』,最相葉月。◎あなた。わたし。する。される。する。

 この本は,シリーズ・ここで生きる,全10冊の第8回。「立ち止まる。考える。生きること。私たちのこと。」とあって,さらに「生きるとはどういうことなのか? 多様な『そこで/ここで生きる』いのちを提示する。人生と社会の転換のための10冊」とあります。

 そして,この本のキャッチ・コピーはつぎのようになっています。
 「人生の受動と能動が転換する,その境目をめぐって六つの動詞で綴る,連作短篇集的エッセイ。どうやって生まれるのか。誰に支えられるのか。いつ狂うのか。なぜ絶つのか。本当に聞いているのか。そして,あなたは誰かを愛していますか?」

 ここまで読んで,なるほど,と納得。書名の『れるられる』の謎が解けました。生ま「れる」,支え「られる」をつないだものだ,と。しかし,それにしても,その書名のあとにつづく「◎」のコピーは強烈です。とはいえ,シリーズ「ここで生きる」の核心に触れる,もっとも重要なポイントをみごとに表現していることに,ふたたび,びっくり。この本は読まなくてはならない・・・・と強く惹きつけられてしまいます。

 二冊目は,いまのわたしにとっては,もっと強烈でした。

 『日本の中の朝鮮をゆく』九州篇──光は朝鮮半島から,ゆほんじゅん/橋本繁訳。◎吉野ヶ里から美山まで。斬新な歴史紀行。

 この本のキャッチ・コピーは以下のようです。
 「古代日本の歴史は朝鮮半島からの渡来人が作ったという見方ではなく,双方向の視角からの歴史紀行。吉野ヶ里,有田,太宰府,南郷村,美山など朝鮮ゆかりの地10か所を訪ね歩き,朝鮮半島と日本の関係を考える。」

 いよいよこういう本がでるようになったか,というのが第一印象。これまでにも『日本の中の朝鮮文化』(金達寿)という大部の本がでてはいましたが,これは在日の人が日本の各地を訪ね歩いた記録でした。が,今回は,朝鮮半島で生まれ育った研究者の眼をとおして,現地を歩くとなにが見えてくるのか,という点でとてもユニークだと思います。

 その意味で,ぜひ,この本は読まなくてはと思っていたら,もっと驚くことがありました。それは,〔2月刊行予定の本〕の一覧の中に,つぎの本を見つけたからです。

 『日本の中の朝鮮をゆく』飛鳥・奈良篇──飛鳥の原に百済の花が咲きました! ゆほんじゅん/橋本繁訳,(26日刊)。

 この広告を見つけたときには飛び上がってしまいました。とりわけ,サブタイトルの「飛鳥の原に百済の花が咲きました!」などという言い方は,やはり,朝鮮半島で生まれ育った研究者でなければ言えません。じつに,単純明快に,そして,みごとに正鵠を射抜いています。

 この本はいますぐにでも読みたい,そんな衝動に駆られます。6世紀の半ば,百済から仏教がもたらされたころ,つまり,聖徳太子の時代から斉明天皇の時代にかけて,まさに「飛鳥の原に百済の花が咲きました!」と言っていいでしょう。しかし,この「百済の花」が,乙巳の乱の引き金にもなり,中大兄(のちの天智天皇)の大化の改新へと連なっていくことになります。

 言ってみれば,古代史のもっとも重要な大転換期の,しかも,謎だらけの時代です。その謎に,朝鮮半島からのまなざしは,どのように反応するのか,そこが知りたいわたしのポイントです。日本の古代史の専門家が,どうしても腰が引けてしまう,微妙な問題がここには秘められている,と思われるからです。

 第三冊目は・・・・。際限がなくなってしまいますので,今回はここまでとします。あとは,直接,『世界』2月号をめくって,確かめてみてください。うまい具合に,2月号には「2014年1月~12月 刊行書一覧」もついています。ですから,存分に楽しめます。乞う,ご期待!

2015年1月7日水曜日

野見宿禰の怨霊が塚に封じこめられている・・・?出雲国造家の千家によって。

 1月3日のブログ「野見宿禰とは何者か。塚が発信しているもの」を読まれた,『穂国幻史考』の著者で古代史研究者の柴田晴廣さんから,とても重要なコメントをいただきました(のちほど紹介)。その真意は,どうやら,わたしに「なぜ,気づかないのか」と婉曲にヒントを与えてくれることにあったようです。感度の鈍いわたしは,なぜ,このようなコメントを書いてくださったのか,しばらく考えてしまいました。が,突然,「ハッ」と気づきました。その気づきが正しいかどうかはわかりません。が,わたしとしては「なるほど」「そうだったのか」と納得のいくものでしたので,ここに書き記してみたいと思います。

 
もしかして,野見宿禰はこの塚の中に「封印」されていのでは? これがわたしの気づいた核心です。まずは,写真をご覧ください。この石でできた門扉をじっと眼を凝らして眺めてみてください。なんとも不思議な形態であることがわかります。

 一見したところ,鳥居に似ていますが,つくりはまるで違います。鳥居のようであってそうではない。しかも,門扉のようであって単なる門扉ではない。なぜなら,この門扉は開け閉めができません。二本の石柱に組み込まれている門扉の外見からして,かなり厚い石の門扉であることがわかります。つまり,がっちりと固定されていて不動の構えをした門扉です。にもかかわらず,その「開かず」の門扉に向かって石段が組まれています。登りつめてみますと,石段と門扉の間にスペースはありません。つまり,拝所も存在しないということです。では,いったい,この石段はなんのために作られているのでしょう。世を憚る偽装・・・?

 
このように考えてきますと,なんとも奇妙な建造物であることがわかってきます。この門扉をデザインした人はなにを考え,なにを表現しようとしていたのでしょう。あるいは,依頼人の出雲大社千家氏は,なにを考え,どのような注文を出したのでしょう。そんなことを考えながら,じっと眺めているうちに,いくつもの不思議がみえてきました。

 そういえば,野見宿禰神社と称しながら,この神社には鳥居がありません。ここにあって当然と思われる場所にも鳥居はありません。ただ,だらだらとした長い参道が山の中にあるだけです。しかも,最後の詰めの登りのところは長くつづく立派な石段があって,一直線に塚に向かっています。ここの入口にも鳥居はありません。

 
ですから,どこからどこまでが野見宿禰神社の境内になるのか,つかみどころがありません。せめて,鳥居でもあれば,ここが神社の入口だということがはっきりします。なんともはやつかみ所のない神社という印象は否めません。

 というように考えてきますと,やはり,千家氏の家紋の彫り込んである「開かず」の門扉が,大きな鍵を握っているように思います。まるで,野見宿禰を塚の中に封じこめるための装置,それが「開かず」の門扉の意味するところ,であるかのように。しかも,そこには千家氏の家紋まで彫り込んである・・・・。千家氏の相当に強い意思のようなものが透けて見えてきます。

 さて,そこで,冒頭に書きましたように,柴田晴廣さんからのコメントが大きな意味をもってきます。そのコメントの要点を以下に紹介しておきましょう。

 柴田さんの説によれば,出雲国造家である千家氏は出雲族を裏切った「裏切り者」の家系だ,というのです。その根拠は『日本書紀』巻5崇神60年条の記載にある,と。もう一つは『古事記』垂仁条の記載を挙げています。その核心部分は「出雲神宝献上」事件である,と。その経緯は以下のとおりです。当時の出雲のリーダーであった出雲振根に対してヤマト朝廷は出雲の神宝を献上するようにと要請します。しかし,振根はそれを拒否します。すると,振根は誅殺されてしまいます。その後,振根の弟の子が出雲の神宝をヤマト朝廷に献上してしまいます。そして,この振根に反旗を翻した弟の子孫が,出雲国造家となった,と考えられる,というのが柴田さんのお考えです。そして,野見宿禰は振根の系譜に連なる人物だったのではないか,と柴田さんは推理されています。

 じつは,ほんとうの柴田さんのコメントはもっと精緻なものですが,わたしが簡略化して,わかりやすく書き直しています。お許しのほどを。

 もしも,柴田さんのお考えのように,千家氏が出雲の「裏切り者」であったとしたら,千家氏が野見宿禰の怨霊に怯えるのは当然です。そのように考えれば,野見宿禰の塚に,千家氏が奇妙な「門扉」を建てて野見宿禰の怨霊を封印してしまおう,という発想がでてきてもなんの不思議もありません。こういう経緯があるからこそ,野見宿禰は出雲大社にも合祀されているのだ,と柴田さんは指摘されています。

 こうなってきますと,かつて,梅原猛さんが書いて話題となった『隠された十字架』の謎解きを彷彿とさせます。それによりますと,法隆寺の山門は5本の柱で作られているが,これは聖徳太子一族の怨霊を封じこめるための仕掛けである,と言うわけです。

 かくして,野見宿禰のイメージが少し豊かになってきました。やはり,古代史の謎解きは面白くて,止められません。困ったものですが・・・・。

2015年1月6日火曜日

「スポーツ学」とはなにか。その7.スポーツする人間とはなにか・Ⅰ。

 人間とはいかなる存在なのか。これが前回(その6.)のテーマでした。そして,その結論は,人間とは,生身のからだを生きる「生きもの」であり,しかも本能と理性に引き裂かれた宙づり状態で存在する「生きもの」である,というものでした。

 では,この本能と理性に引き裂かれた宙づり状態で存在する「生きもの」としての人間であるわたしたちは,どのようにして本能と理性を統合し,ひとりの人間としての全体の調和をとればいいのでしょうか。このテーマは古今東西,宗教家や哲学者,そして文学者をはじめ,あらゆるジャンルの専門家が向き合い,格闘してきました。ピカソが好んで描いた「ケンタウロス」(半人半獣)の絵はその典型的なものの一つです。しかし,このテーマはいまもって確たる結論にはいたっていません。なぜなら,時代も社会も人びとの感性もどんどん変化していくからです。

 ですから,わたしたちは,いま,ここ,を生きるひとりの人間として,それぞれの必要や制約に応じて,個別にその調和をめざすしかありません。そのため,わたしたちは「わたし」とはいったい何者なのか,という問いをつねに内に抱え込むことになります。これはごく当たり前のことなのです。こうした問いを繰り返しながら,みずからの生き方を模索し,徐々に成長し,人生を構築していくことになります。それが「生きる」ということです。

 そんな人生の探求者のひとりに,西田幾多郎という哲学者がいます。生涯にわたって人間が生きるとはどういうことなのか,人間が存在するとはどういうことなのか,を考えつづけた人です。その西田幾多郎のたどりついた結論が「絶対矛盾的自己同一」です。かんたんに説明しておきますと,以下のようになります。

 本能と理性とは相容れないもの同士であって,けして「自己同一」することはありえません。そのありえないことを,西田幾多郎は「絶対矛盾」と表現しました。しかし,この「絶対矛盾」を自己の内で「同一」化しないことには,平穏に日常を生きていくことはできません。そこで,この「絶対矛盾」の壁を超越するにはどうしたらいいのか,とみずからに問いかけ,その答えを見出そうと考えつづけました。したがって,「絶対矛盾的自己同一」とは,人間が存在することのひとつの理想像として西田幾多郎がゆきついた結論だったというわけです。言ってみれば,人間が生きるということを肯定する(=「善」)ための,最後の砦がこれであった,と言ってもいいでしょう。

 この西田幾多郎の考え方が,じつは,「スポーツする人間」を考える上でとても役に立つのです。そこで,この西田幾多郎の哲学をささえる重要な概念である「純粋経験」「行為的直観」「絶対矛盾的自己同一」をてがかりにしながら,「スポーツする人間とはなにか」というテーマに迫ってみたいと思います。

 いささか前置きが長くなってしまいましたが,この前置きはきわめて重要です。といいますのは,「スポーツする人間」とは,まさに本能と理性の「自己同一」なしには成立しないからです。わたしたちがスポーツに熱中しているとき,本能的に動くとか,理性的に考えるとか,はすっかり忘れています。しかし,結果的には,間違いなく,本能的な衝動的な動きも表出しますし,瞬間的に的確な判断をくだしたりしています。つまり,無意識のうちにそれらがみごとに調和して,瞬時にスーパー・プレイが表出する,というわけです。このとき,わたしたちは考える余裕などありません。厳しい練習をとおして脳やからだに刻まれた記憶が無意識のレベルでふかく蓄えられ,潜在している,これが鍛え上げられたスポーツ・ヒューマンの理想の姿です。この「潜在的なるものが,突如として表出する瞬間」(蓮実重彦)こそがなにものにも代えがたいスポーツの醍醐味です。わたしたちは,この「瞬間」に邂逅したくて,スポーツに熱中するといっても過言ではありません。

 では,いったい「潜在的なるものが表出する瞬間」とはどういうことなのか,もう少し詳しく立ち入って考えてみることにしましょう。

※かなり長くなりそうので,ここでいったん切って,このつづきを「Ⅱ」として,「その8.」で展開してみたいと思います。

「スポーツ学」とはなにか。その6.人間とはいかなる存在なのか。

 「人間とはなにか」。この問いは永遠のテーマです。「わたし」という存在ですら謎だらけです。人間が存在するということは,いったいどういうことなのか。たんにモノ(物質)が存在するのとは意味が違います。もちろん,動物の存在とも違います。わたしたち人間には,ことばがあり,そのことばをとおしてものごとを考える力とそれらを記憶する力があります。にもかかわらず,動物と同じ本能的な衝動を一番深いところに宿しています。言ってしまえば,理性(人間性)と本能(動物性)の両方を持ち合わせた二重構造の存在,それが人間です。

 そして,ここが,わたしたちが「人間とはなにか」を考える上で,もっとも重要なポイントとなります。

 もともと人間は動物一般と同じ動物性の世界に生きていました。つまり,たんなる動物として生きていました。そこでは,自分と他者の区別がありません。動物性の世界とは「水のなかに水が溶け込む」ように,自他の区別のない世界のことです。ですから,他者が存在することも,自分が存在していることも意識していません。あるのは,動物としての生存競争だけです。それはひたすら生き延びるための本能といっていいでしょう。

 このような動物性の世界から,人類は,あるとき<横滑り>(バタイユ)を起こし,他者を意識すると同時に自己を意識するようになります。つまり,突然変異が起きました。しかし,このときなぜ人類に突然変異が起きたのかはわかっていません。しかし,そのとき以来,人類は自他の識別をすることができるようになり,自己が生き延びていくために役立つもの(有用性)はなにか,と考えるようになります。こうして,人類は動物性の世界から離れ,人間性への扉を開きます。

 ここからさきは一直線です。まずは,ことばをわがものとし,死者を悼み,道具を考え出したりします。そして,より精確に他者(対象)を識別するために名前をつけることをはじめます。こうして原初の人間はいろいろのことを考えながら行動するようになります。つまり,本能的な行動から,次第に理性的な行動へと軸足を移していきます。

 しかし,このとき大きな問題が新たに発生します。一つは,本能と理性の折り合いのつけ方です。もう一つは,理性では捉えきれない自然の「力」の存在です。前者の本能と理性との折り合いのつけ方については,こんにちもなお大きな問題として存続し,わたしたちを悩ませつづけているとおりです。もう一つは,原初の人間には想像もつかない自然の驚異ともいうべき不思議な「力」と向き合うことになります。つまり,自己を超越する大自然の「力」の存在とつねに向き合うことになります。それは,やがて,「存在不安」となって自己に跳ねかえってくることになります。

 こうして,原初の人間は,自己をはるかに超える絶対的な他者として「神」を見出します。これが「超越神」です。やがて,原初の人間は,この「超越神」に救いを求め,祈るようになります。ここが「宗教」的なるものの起源です。こうして人間は困難に出会ったり,幸運に恵まれたりすると,この「超越神」に祈るということをはじめます。こうして「祈り」の儀礼(身体技法)が徐々に高度化し,複雑化していきます。やがては呪術的な儀礼もここから派生してきます。

 それらの儀礼を支える身体技法の根幹をなすものが,歌と舞い踊り(歌舞音曲)です。歌と舞い踊りは神との交信のためのもっとも重要な手段となります。ときを経て,神への祈りを捧げるための祝祭空間や場が確保されるようになります。最初は歌と舞い踊りが主役です。そこに,たとえば,狩猟や戦闘などで磨き上げられた驚異的な身体的パフォーマンスが加わります。さらには,さまざまな生業形態を背景にした驚異的な身体技法が参入します。この点については,「その7.スポーツする人間とはなにか」で,もう少し詳しくふれることにしましょう。

 ここでは,原初の人間とは「超越神」に祈りを捧げることによって「存在不安」の解消をはかろうとし,安心立命する存在であった,ということを銘記しておきましょう。

 さらにもう一点だけ重要なポイントを加えておけば以下のようになります。
 人間とは「有用性」を追求する存在である,という視点です。「有用性」とは文字どおり「役に立つ」ということです。その技法の中心になるのは「火」の制御であり,狩猟・採集であり,動物の飼育であり,植物の栽培であり,道具の創意工夫です。つまり,自然の領域への人間による積極的な介入です。人間が自然の土を耕すことに起源をもつ「文化」のはじまりです。

 こうして,原初の人間は大自然と闘い,その多くを思いのままに支配することに成功していきます。そのプロセスについては,ここでは割愛させていただきます(ずいぶん前のブログで詳細に論じていますので,そちらを参照してみてください)。この間,人間はこの「有用性」という考え方を前面に押し立てて,自然を制服していきます。そして,次第に大自然への畏敬の念が希薄化し,自然のあらゆるものを人間にとって役立つものとして利用しようという野望をいだくようになります。そうして登場するのが近代科学です。

 この近代科学は飛躍的な発展を遂げ,さまざまな利便性を人間にもたらしました。その結果,わたしたちの生活は一変してしまいました。そして,近年の最先端の科学・技術は,自然界に存在しないモノまで開発し,とどまるところを知りません。たとえば,核エネルギーであり,iPS細胞です。これらの開発がもたらす功罪は評価が分かれるところです。しかし,わたしたちはもはやこうした科学の力と無縁では生活ができないところにきています。しかも,科学者たちの興味・関心は未知なる世界の開発に向かってまっしぐらです。

 いまでは,最先端の科学・技術は新しい時代を生きる人間にとって,かつての「宗教」にとって代わる,まったく新たな「宗教」と化している,と言っても過言ではありません。すなわち,「科学・技術」に無条件に依存する生き方のはじまりであり,それは新たな信仰とでも呼ぶしかありません。ということは,わたしたちは,ふたたび,自己を見失い,新たな「存在不安」に脅かされている,そういう時代を生きているということでもあります。

 同時に,気づいてみれば,自然環境が恐ろしいほどに破壊され,もはや,人間の棲息をも脅かす時代にも突入しています。いま,わたしたちは,この最先端の科学・技術と環境との折り合いをどのようにつけていくべきか,という大きな壁にぶち当たっています。ここを,どのように通過していくべきかが,いまを生きるわたしたちの喫緊の課題となっています。

 そして,いま,もっとも求められている考え方は,人間は,血の通った「生身のからだ」をもった存在であるという認識です。これからさき,どこまで進化して行ったとしても,「生きもの」であることからは逃れられない,ということです。しかも,この「生きもの」は,本能と理性に引き裂かれた存在であるということです。人間とは,このような存在である,ということをしっかりと認識することが肝要です。

2015年1月5日月曜日

「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」(『修証義』より)。

 生(しょう)を明(あき)らめ死(し)を明(あき)らむるは仏家(ぶっけ)一大事(いちだいじ)の因縁(いんねん)なり,生死(しょうじ)の中(なか)に仏(ほとけ)あれば生死(しょうじ)なし,但(ただし)生死(しょうじ)即(すなわ)ち涅槃(ねはん)と心得(こころえ)て,生死(しょうじ)として厭(いと)うべきもなく,涅槃(ねはん)として欣(ねが)うべきもなし,是時(このとき)初(はじ)めて生死(しょうじ)を離(はな)るる分(ぶん)あり,唯(ただ)一大事(いちだいじ)因縁(いんねん)と究尽(ぐうじん)すべし。

 『修証義』の冒頭の部分です。つまり,第一章総序の第一節に相当します。

 2014年は想定外のできごとがあり,一年間,人生についていろいろと考えることが多くありました。からだの大きな変化は,当然のことながら,心にも大きな変化が生じました。その所為でしょうか,『般若心経』の読解・私家版を書いてみたいという思いが強くなってきました。いつかは書いてみたいとは,以前から思っていたことではあります。しかし,これほど強い願望となってきたのは,やはり,昨年の思いがけない体験があったからでしょう。

 そんなことを年初から考えているうちに,ふと,『修証義』のことが脳裏に浮かび,こちらの方が気がかりになってきました。そして,久しぶりに経本を取り出して読んでみました。その冒頭(第一節)を読んだだけで,ガツンと頭をハンマーで叩かれたような衝撃を受けました。こちらの感度の研ぎすまされ方によって,響き方がまったく違ってしまいます。驚きました。若いころから馴染んできた章句なのに・・・・。まったく違う世界が目の前に開けたからです。

 ちなみに,『修証義』は,「しゅしょうぎ」と読みます。意味は,修=修行とはなにか,証=悟りとはなにか,ということを説いた経本,ということです。禅仏教の曹洞宗がとても大事にしているお経です。もともとは,道元さんが書いた『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)があまりに難解なので,その中で説かれている教えの要点を抜粋し,だれが読んでもわかるように書き改めたもの,それが『修証義』だと言われています。このお経は,全部で5章31節から成っています。

 道元さんは『正法眼蔵』の中で「修証一等」(しゅしょういっとう)ということを説いています。このことばの意味は「修行することと悟ることとは一つのことであって,そこに区別はなく,まったく同じことなのだ」ということです。別の言い方をすれば,修行がそのまま悟りであり,悟りがすなわち修行なのだ,ということになります。つまり,修と証は表裏一体だということです。言ってしまえば,無理をしてむつかしい修行をしてもなんの意味もないですよ,修行は悟りのレベルに合わせて行えばいいのですよ,ということです。ああ,こんな世界がみえてきたなぁ,と思うことがそのまま修行なのだ,と。それを裏返せば,修行に入ると,たとえば,坐禅をするとふっと浮かび上がってくる世界が現れる,それがそのまま悟りなのだ,とも。「修証」とはそういうものなのでしょう。ですから,道元は「只管打坐」(しかんたざ)と説きました。「ただ,ひたすら坐禅をしなさい」,と。それが,そのまま修行であり,悟りなのだ,と。

 ですから,『修証義』の冒頭の経文(第一章・第一節)は,「修証一等」にならって,「生死一等」と説いていると解釈していいのではないか,と思います。あとは,この章句を読み取るレシーバーの感度の問題です。このポイントだけはずさなければ,いかように受け止めようと読む人の自由だと思います。それが,すなわち,読む人の「修証」のレベルでもある,ということなのでしょう。

ことしは,折にふれ,『修証義』の世界に遊んでみようと思っています。

「東京五輪2020 これだけの不安」(『ひろばユニオン』2015年1月号)。

 東京五輪2020の実施計画を2月にはIOCに提出しなければならないところにきています。これからわずか1カ月でのドタバタ劇がはじまります。いまごろになって,野球,ソフト,空手などを新たに競技種目として加えようという動きが水面下で活発になってきているからです。そんなことも含めて,『ひろばユニオン』(労働者学習センター発行,2015年1月刊)の連載「撃・スポーツ批評」に一考を投じました。ご笑覧くだされば幸いです。

 
昨年末には,森喜朗組織委員会委員長が,五輪会場の候補地として名古屋や仙台も視野に入れている,という談話を発表しています。これを聞いたら,ほかの都市も黙ってはいないでしょう。IOC委員のひとりは,大阪でも開催したら,と提案しています。さて,主催都市である東京都はどういう判断をすることになるのでしょうか。これまでの新しい施設建設計画もふくめて大問題になってきています。

 
つい最近,明らかになった重大ニュースは,東京五輪2020招致のための計画書には,「原発再稼働はしない」と安倍首相のことばとして盛り込んであった,という事実です。しかも,そこにはフクシマは「完全に制御できている」とも書き込まれていた,といいます。これらの計画書にもとづいて,最後のIOC総会でも安倍首相は「under control 」という名言(虚言)を吐いているわけです。

 
つまり,安倍首相は二度も「嘘をついた」ことになるわけです。一度目は,上に書いたように計画書とIOC総会のプレゼンテーションにおいて。二度目は,原発再稼働へと舵を切ったことです。いくら虚言癖がある人だとはいえ,一国の総理大臣です。こんなに短期間のうちに,これほどの「嘘」を平気で言える人は稀有としかいいようがありません。

 加えて,フクシマによる放射能汚染はとどまるどころか,ますます拡散しつづけています。昨年11月のデータでは,三重県の汚染度が全国第三位だったといいます。東京はもとより,埼玉,千葉,神奈川も上位にランキングされています。このままの進み行きをみていますと,2020年までには日本列島の半分はフクシマと同じ状態になってしまうのではないか,と懸念されています。

 それでもなお,アベ君は「原発再稼働」に向けてまっしぐら。しかも,原発輸出にも,異常なほどの熱意を示しています。

 おまけに,武器輸出にも熱心で,輸入国には補助金も出す,とまで言っています。

 他方では,憲法9条をなきものにして,戦争のできる国に舵を切ろうとしています。

 日本で五輪を開催する資格の唯一の理論的根拠は,国際平和に貢献することを高らかに謳い上げている「憲法9条」です。しかも,「戦争放棄」を憲法で宣言している国は,世界でただ一国だけだからです。この憲法を否定するような国を目指すということは,国際平和運動を標榜するオリンピック・ムーブメントに反することになってしまいます。

 なのに,アベ君はこの矛盾をも無視しようとしています。いったい,どういう神経の持ち主なのでしょう。

 どこまでもアベ政権の願望を貫くというのであれば,東京五輪2020開催は,早々に辞退すべきでしょう。それすらもしないで,矛盾だらけのことを平気で国際社会にまで押しつけようとしています。だとすれば,このさきに「なにが待っているか」はだれの眼にも明らかでしょう。

 これから一カ月ほどの間に,組織委員会,JOC,東京都,文部科学省(JSCも),そして,IOCがどのような動き方をするか注目です。しっかりとアンテナを張っていくことにしましょう。