2014年2月28日金曜日

まど・みちおさんが逝く。104歳。

ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
 そうよ
 かあさんも ながいのよ


ぞうさん
ぞうさん
だれが すきなの
 あのね
 かあさんが すきなのよ


 この歌を知らない日本人はまずいないでしょう。だれもが一度は夢中になって歌ったことがあるはずです。この「ぞうさん」を筆頭に数々の名作を残したまど・みちおさんが逝った。104歳と聞けば,大往生。こころからご冥福を祈ります。


 わたしはいつのころからか,まど・みちおさんのファンになっていて,詩集がたまっていくうちに,とうとう『まど・みちお全詩集』(理論社)まで購入していました。そして,その日の気分にまかせて適当なところを開いて,拾い読みを愉しむことを覚えました。とりわけ,面白くないことがあった日の夜は,なによりもわたしのこころの救済の役目をはたしてくれました。


 国際アンデルセン賞を受賞するような詩人の詩を論評する力はわたしにはありません。が,谷川俊太郎さんが書いたつぎの文章は,わたしのこころに深く刻まれるものがありました。紹介しておきましょう。


 まどさんには「中心」がある。まどさんは中心に向かって書く。中心はけしつぶのように小さく,宇宙のように大きい。中心は星のように遠く,一匹の蚊のように近い。まどさんはことばを消費しない。ことばを存在させようとする。まどさんは詩をつくらない,詩はまどさんの一番深いところから生まれてくる。さながら一枚の若葉が芽吹くように。それをまどさんは私たちに残してくれる,「自分のかわりのように」。


 そう,まど・みちおさんの詩は,まるで仏教者のような「山川草木悉皆成仏」を思わせる,根っからのやさしさがある。だから,気づけば,自分の詩になっている。


 たとえば,「おかあさん」という詩があります。


おかあさんは
ぼくを 一ばん すき!


ぼくは
おかあさんを 一ばん すき!


かぜ ふけ びょうびょう
あめ ふれ じゃんじゃか


 ついでにもう一編,わたしの好きな詩を引いておきましょう。


「どこの どなた」
トイレの スイセン
ベランダの ラベンダー
うんそうやの ハコベ
すいげんちの ミズヒキ
だいくさんちの カンナ
そっこうじょの カスミソウ
ていりゅうじょの マツ
しゅうかいじょの シュウカイドウ
しょくぎょうしょうかいじょの クチナシ
ぼうりょくだんのいえの ブッソウゲ
ろうじんホームの ヒマ
しんこんさんの フタリシズカ
いんきょべやの ヒトリシズカ
しあいじょうの ショウブ
じこげんばの ゲンノショウコ
グラウンドの ハシリドコロ
ごみすてばの クサイ
おかしやの アカシヤ
あめやの アヤメ


 思わず,このつづきを書き加えたくなってしまいます。なんでもない身近な情景がそのまま詩になっています。わたしはこんな詩が好きです。


 わたしの好きな詩をいっぱい残してくださったまど・みちおさん,ありがとう。これからも『まど・みちお全詩集』はわたしの座右の書でありつづけることでしょう。
 まど・みちおさんのこころからのご冥福を祈ります。

ダンピング症候群と筋肉痛になやまされ,一晩,悶絶。

 退院するときに,看護師さんから痛み止めの薬を用意しましょうか,と問われました。この数日間はまったく痛みもなく,絶好調でしたので,「要りません」ときっぱり。しかし,とんだ落とし穴が待っているとは思いもしませんでした。




 退院後も調子がよかったので,冷蔵庫にあったそばの茹で麺をだしてきて,キャベツとニンジンを細かく切ってしっかり火をとおして,そこにそばを入れ,煮上がったところに卵を落として,玉子とじそばにして食べました。一人前ですので,どうみても多すぎます。途中で満腹になったら,そこでやめればいい,と思って食べはじめました。気がついたら完食。テレビを見ながら食べていて,気持がそちらに奪われていました。しまった,と思いましたが後の祭り。




 でも,このときはいわゆるダンピング症候群に襲われることはありませんでした。やれやれ,です。部屋のなかをうろうろと歩きまわり,そのあと午睡。目覚めもすっきり。ただ,なんだかからだが冷たいなぁ,とは感じました。が,歩くのに不自由はありませんでしたので,すぐに近くのスーパーに食材を買いにでかけました。歩く調子も悪くはありません。




 大根,ニンジン,牛乳,豆腐,などかなり重いものばかりを購入して,帰宅しました。エレベーターに乗っているときに,持っていた左の肩にピリッと痛みを感じました。が,こんなものは大したことはない,と自己診断。帰宅後,早速に夕食の準備。ニンジンとキャベツをしっかりと煮込み,そこにつみれと豆腐ととりの挽き肉を入れて,味を整えて終わり。その一方で,冷凍庫にあったご飯をとりだしてきて,お粥さんにする。




 これもテレビに気をとられているうちに完食。量は少なめにしておいたので,大丈夫だと思っていましたが,そうはいきませんでした。すぐに震えがきて,手足が冷たくなってきました。あわてて,膝掛けをし,腹にセーターをまき,肩にはバスタオルを何枚も重ねて羽織り,温風暖房機で温めました。ほどなく暖かくなってきたので,ベッドへ。




 ここからが大変でした。まずは,腹筋に痙攣がきて,これが直ってくれません。のみならず,上体の左側半分が筋肉痛。右側にも一部,筋肉痛。術後三日間のあの地獄の苦しみの再現です。それでもだましだまし横になればなんとかなるだろう,と必死で格闘。横になるにはなったものの,左肩と左脇腹に広がる筋肉痛はまったく納まる気配もありません。その上,腹筋の硬直状態もとれません。何回も何回も寝返りを打ちながら夜明けまでまんじりともせず,痛みと格闘。




 夜が明けたころ,ようやく腹筋の硬直がとれ,左脇腹の筋肉痛もいくらか軽減されていました。ただ一点,左肩の痛みだけは消えません。




 9時すぎに起き出してきて,朝食。シーリアルに牛乳をかけて,チンして,とろとろになったものを少々食べました。つぎになにが食べたいか,からだが求めるものを待とうと思います。それまでは食べなくてもいいのでは・・・・と。


※ダンピング症候群について。
 わたしも初めて聞いたことばなので,病院でもらってきたパンフレットによる解説を転載しておきましょう。
 〔ダンピング症候群〕・・・食べ物が腸に急激に落下することによって起こる症状です。食事中や食後に冷や汗,動悸,めまい,熱感,脱力感などの症状が現れます。
 〔早期ダンピング症候群〕・・・食事中や食後すぐに現れるもの。冷や汗,動悸,めまい,熱感などがおもな症状で,甘いものや炭水化物をとりすぎたときに出やすいようです。普段から血圧が低めの人や体内の水分量が少なめ(脱水ぎみ)の人が起こりやすいといわれています。
 〔後期ダンピング症候群〕・・・食後数時間後に現れるもの。全身の脱力感,冷や汗,疲労感が主な症状で,低血糖になったときに体内に貯蔵されている糖を補うことが難しい筋肉の少ないやせた人に起こりやすいようです。
 以上。

2014年2月26日水曜日

「絆」ということばにつきまとう怪しげな影。

 東日本大震災後の復興の合い言葉として誕生した「絆」ということばに,わたしは長い間,ずーっと「どこか違う」という違和感を抱きつづけてきました。ことばそのものにはなんの違和感もないのですが,それが復興の合い言葉として広く行き渡るにしたがって,「どこか違う」「どこか違う」と思うようになってきました。


 たとえば,都市で暮らす人びとの多くが,ひとりひとりに,個人個人に分断され,孤立した生活を強いられている,そういう人びとに向かって「絆」を,と呼びかけ,それなりの行政の取り組みがなされることには,それなりの必然性を感じます。しかし,東日本の被災した人びとの間には,わたしたち都会人がとうにどこかに置き忘れてきてしまったマージナルな,あるいはバナキュラーな,それぞれの土地に根づいた「絆」がしっかりと維持されていました。ですから,被災直後の混乱も整然と協力し合って乗り越えてきました。その姿は世界が称賛するほどの話題になりました。この人たちに向かって,いまさらのように,あるいは,とってつけたように「絆」を,と呼びかけることの,この白々しさがわたしの意識の底に流れていました。


 それだけではありません。ひょっとしたら,「絆」というネットをかぶせることによって,なにか別の企みが隠されているのではないか,という予感のようなものがありました。しかし,それらを自分のことばで言説化することができず,イライラしていました。そこに,偶然ですが,つぎのような文章に出会いました。そして,喉のつかえが一度に瓦解した気分になりました。わたしのなかにモヤモヤしていた気分をもののみごとに代弁してくれていて,「そうだ」「そうなんだ」とこころのなかで快哉を叫んでいました。


 少し長いですが,引用しておきますので,ご覧ください。


 絆というコトバには素朴で優しい「ふるさと」意識や家族回帰の思いがあるのですが,それを超えて,いつの間にか過剰なナショナリズムへ国民を引きずりこんでいく恐ろしい呪術的機能がある。折しも,竹島問題や尖閣列島の領有権をめぐって,はなはだ剣呑な領土問題が,のっぴきならない仕方で浮上し,ナショナリズムの火が燃えかけています。偶然とは,とても思えない。絆が「ふるさと」回帰を超えて,ナショナリズムと手を結ぶとき,そのときになにが起こるか,言うまでもなく戦争です。それが政治の魔術であることを私たちは第二次大戦のナチズムやわが国の全体主義の経験を通して,肝に銘じたはずなのです。その防御としての憲法九条なのです。憲法九条がなかったら,過熱したナショナリズムはたちまち男たちを闘争へ誘発する。それほどに過剰なナショナリズムは,危険をはらんだ暴力的魔性の力学そのものなのです。こうした視点からすると,絆という用語には,人間と社会を暴力に向かって駆り立てる危険な政治的魔術のような機能がある。それが怖い。
 「政治化した宗教」も「宗教化した政治」も,いかに暴力的で魔術的であるか,さかのぼれば,第二次大戦中の国家神道が,まさに政治的魔術として機能したのでした。このような文脈で見ると,<絆>という用語にはきわめて危険な「落とし穴」が隠されている。このことを注意深く見極めていくことが肝要です。とりわけ宗教者は,その危険を見極めることに敏感でなければならない。事実,憲法改正の動きが,にわかに頭をもたげている。その動きも,一部は明らかに旧来の強い日本をとりもどすといった魔術的な「ふるさと」回帰のナショナリズムと結びついている。


 出典は,山形孝夫著『黒い海の記憶』(2013年)を再録した『3・11以後この絶望の国で』(西谷修×山形孝夫著,2014年,ぷねうま舎,P.203~204.)です。

2014年2月25日火曜日

歩いて歩いて,眠って眠って。27日退院。

 医療の現場とは,長い間,まったく無縁でしたので,いろいろ驚くべき経験が今回はありました。なにごとも経験が大事ですが,今回の経験はあまり褒められた経験ではありません。


 まず最初に驚いたのは,手術の翌日には「歩きなさい」とこともなげに厳命されたことです。なにを言ってんだろう,この医者は,と腹のなかでは思いました。が,厳命とあらば歩くしかありません。からだ中,管がいっぱいつながっていて(点滴,尿管,ドレーン,など),それらを引きずりながら病室の中を歩け,というのです。
 最初の難関は,ベッドから起き上がること。こちらは看護師さんが幇助をしてくれますが,それでも激痛が走ります。ベッドに腰掛けた姿勢でひとやすみ。そこから立ち上がるのは自力です。これが容易には立てないのです。手を使うと傷が痛みます。全体重を両足に乗せて,脚力だけで立ちます。すると,意外に痛みが少ないのです。立つには立ったものの,その姿勢は腰抜けのみじめなものです。
 そこからの第一歩。どちらの足から踏み出そうかと考えてしまいます。ようやく決心して最初の一歩を踏み出します。踏み出したかかとが床についた瞬間に腹部全体に激痛が走ります。「ウーッ」と前かがみになったまま呼吸が止まっています。少し落ち着いたところで姿勢をやや正して,つぎの一歩です。またもや「ウーッ」と前かがみと呼吸停止です。こんなことの繰り返しです。
これが終わるとベッドに横たわる地獄の試練が待っています。冷や汗たらたら流しながら,ようやく横たわります。このあとは不思議なくらい,あっという間に眠りに落ちていきます。尿管をつけていますので,トイレに行く必要はありません。その分,ぐっすりと熟睡できます。ちょっと眠ったなという感覚なのに,すでに3時間,4時間と眠っています。
 術後3日目には尿管がはずされてしまいました。こんどは,自力でトイレに行かなくてはなりません。看護師さんは幇助してくれません。まるで鬼軍曹のように,そばにいて「頑張れ,頑張れ」と応援してくれるだけです。ベッドから起き上がるのも,トイレからもどって横たわるのも,全部,自力です。これが,わたしにはこたえました。そのつど地獄の苦しみを味わわなくてはなりません。
 このトイレ行きが夜中はなんと1時間おき。ひっきりなしに点滴をつづけていますので,水分過剰になっているのではないか,と勘繰ったりしていました。そして,毎回,毎回,冷や汗たらたら。全身,汗まみれになって,必死の格闘です。その代わり,ベッドに横たわって呼吸が落ち着いたとたんに,眠りに落ちています。爆睡です。いま,考えてみますと,この夜中の「特訓」が奇跡的な回復にとって,特別の効を奏したのではないか,そんな気がします。
 術後4日目には,病棟の廊下を歩け,という厳命です。前にも書きましたように東西に長い廊下で,全長約100メートル。行ってもどってくると約200メートル。これを一日10往復。計2㎞。これがノルマ。もちろん一歩,一歩ごとに傷に痛みが走ります。でも,こちらは我慢すればできる我慢。冷や汗がでるほどではありません。それでも歩いたあとは疲れ切っていますので,一休み。ごろりと横になったとたんに爆睡です。
 歩いては眠り,歩いては眠り,の繰り返し。よく歩き,よく眠りました。その結果が,27日の退院につながったのかと思うと,あの鬼のような医師のひとことに感謝感激です。それをこともなげに言い放つあたりは,ただのふつうの医師ではないな,と感心してしまいます。優しい,まだ若いジェントルマンですが,その眼光はなかなかのものを感じています。
 ちなみに,術後8日目に当たる今日(25日)は,退院が視野に入ったこともあってか,自主的に距離を延ばしています。いま現在(午後8時20分),14往復。就寝前にもう2往復するつもりですので,今日の合計は約3.2㎞歩いたことになる予定。その分,爆睡もしています。ですから,一日があっという間に過ぎ去っていきます。
 さて,明日は何㎞歩いて,何時間眠るのでしょう。
 では,今夜はこの辺で。お休みなさい。
 
 

2014年2月24日月曜日

『ユダ福音書』の発見によるもう一つのキリスト教(グノーシス派)の起爆力は?

 術後,ようやく気力・体力ともに復活してきたのか,西谷さんにいただいた近著『3・11以後この絶望の国で』(西谷修×山形孝夫著,ぷねうま舎)をぽつりぽつりと読み始めています。が,あまりの迫力にひきづられて深夜まで読みつづけることも少なくありません。


 そのなかの,わたしを震撼させた内容について,ひとつだけご紹介してみたいと思います。
 『ユダ福音書』なるものが,つい最近になって(20世紀の後半から今世紀にかけて)エジプト中部のナグ・ハマディ村で発見され,現在,その文書がさかんに解読されつつある,という話です。この文書は題名どおり,あの裏切り者というレッテルを貼られた「ユダ」を主人公とした福音書です。つまり,異端のキリスト教として徹底的に排除されたグノーシス派の福音書というわけです。


 いわゆる正統派の福音書には,イエス・キリストは人びとの罪を贖うために「犠牲」(サクリファイス)となって十字架に架けられた,と説かれています。そして,そこが正統派キリスト教の中核となる教義になっています。しかし,異端派の,つまりグノーシス派の『ユダ福音書』にはそんなことはひとことも書いてないばかりか,イエス・キリストがみずから「犠牲」(サクリファイス)などとはとんでもないと笑いとばしている,というのです。しかも,ユダは十二使徒のなかではただ一人,イエス・キリストの教えをもっとも精確に継承する弟子として称賛されている,というのです。


 神に「生贄」をささげるのはユダヤ教の古くからの「儀礼」であって,その儀礼はなんの意味もない,ということをイエス・キリストは主張していたために,ユダヤ教徒から排除されることになった,というのです。イエスは,やがては死んで朽ち果てる肉体を脱ぎ捨てて,純粋無垢の魂となり,光の国の霊的存在となること,そのために十字架で処刑されることを潔しとした,というのです。


 つまり,『ユダ福音書』で説かれている,もう一つのキリスト教は,だれのためでもない,ひたすらみずからの生をみつめ,みずからの魂を光の国に送り込むための修行である,というのです。こうなってきますと,お釈迦さまの説いた仏教とほとんど変わらない修行であることがわかってきます。


 では,なぜ,正統派キリスト教はイエス・キリストの教えをねじ曲げて「贖罪」と「犠牲」を前面に押し立てて教義を確立させることになったのか,ここが大問題です。一つには,新生・キリスト教をユダヤ教の流れに位置づけておかないとキリスト教徒たちは,ユダヤ教徒から徹底的に弾圧を受けることになる,その難を避けるためにこのような教義をでっちあげたのだ,と考えられています。二つには,ローマ帝国の皇帝たちが,潔く「犠牲」になるキリスト教徒を求めていたからだ,という解釈です。つまり,帝国のために命を捧げることを潔しとする強い兵士を養成するために。


 つまり,正統派キリスト教の説く「福音書」はいずれも,ユダヤ教とローマ帝国にすり寄るための戦略として書かれたものだ,というのです。そのとき,イエス・キリストのほんとうの教えは,まったく別のロジックにすり替えられてしまった,というのです。


 以後,このすり替えられキリスト教がローマ帝国の国教となり,権威づけられ,全世界を席巻していくことになります。その流れはヨーロッパの中世,近代を駆け抜け,こんにちの世界をも支配しつづけているという次第です。この押しも押されもしない世界宗教となった正統派キリスト教の教義が,いま,根底からゆらぎはじめている,というのです。つい最近になって,正統派キリスト教こそが捏造されたものであって,異端とされたグノーシス派こそがイエス・キリストの真の教えを伝えていることが,さまざまな研究者たちによって明らかにされつつあるといいます。


 こうなってきますと,夜もおちおちと眠るわけにもいきません。
 歴史とは,なんと摩訶不思議な世界なのでしょう。官製の「歴史」がいかに捏造されたものであるかは,もはや,説明する余地もありません。


 詳しくは,以下のテクストを参考にしてください。
 『「ユダ福音書」の謎を解く』(山形孝夫・新免貢訳,河出書房新社,2013年)
 『マグダラのマリアによる福音書』(山形孝夫・新免貢訳,河出書房新社,2006年)

2014年2月23日日曜日

東京五輪組織委員会会長森喜朗どの。すみやかにご辞退を。

2月5日に入院。まもなく20日が経過しようとしています。その間,世の中はソチ五輪でもちきりだった様子。ちょっとだけ親しくなった看護師さんから聞いています。ここにきてから新聞も読まず,テレビをみる気力もなく,ただ日々の医療のノルマを消化することだけで精一杯。


ときおり,たまに体調がいいときにパソコンでソチ五輪のダイジェスト版をちらりと覗き見しながら,なにか遠くの景色をぼんやりみているような気がしていました。そのソチ五輪ももう閉幕です。


言ってみれば,ほとんどなんの感懐もないのですが,それでもいくつかは考えることがありました。
一つは高梨沙羅ちゃんの健闘。もう一つは浅田真央さんの健闘。いずれもみごとなものでした。世の中は「メダル」しか眼中にないのでしょうが,スポーツの楽しみ方はそんな単純なものではありません。


高梨沙羅ちゃんは,自然を相手によくここまで頑張ってきました。そして,こういうこともある,ということを身をもって学びました。賢いあなたのことだから,必ず,このことを教訓として身に刻み,これからもごくごく自然体でジャンパーとしての新境地を開いてください。あなたの才能も未来もまだまだ無限です。そして,ジャンプ競技の極点をきわめてください。期待しています。


浅田真央さん。あなたのあのフリーの演技は神の領域に一歩踏み込んだみごとなものでした。わたしは感動に打ち震えました。まるで女神の降臨をみた思いがしました。自分がめざした最高難度の演技を全部出し切ること,そこに向けて何年もかけて研鑽を積み,その成果がみごとに表出しました。素晴らしいのひとこと。感動をありがとう。人間として立派です。


SPは残念なことに魔がさしました。ああいうこともあるんですよね。まさか,まさかの連続。でもいいんですよ。あなたも人の子であることを証明してくれたんですから。人間に完璧をありえません。いつでも落とし穴が待っています。その落とし穴をいかに上手に回避するか,これは人生も同じです。それでいいんです。


それをこともあろうに,一国の総理大臣までつとめたことのある森喜朗どの,そして,いまは2020年東京五輪組織委員会会長という要職に就いている森喜朗どの,あなたの発言はいったいなんですか。茶の間のひとりごとにしても人間性の品格に欠けるというのに,それを演説会で言い放ったというのですから,もはや開いた口がふさがりません。


以前から噂の高かったとおり,あなたにつける薬はなさそうです。そういう人に東京五輪組織委員会会長という要職をまかせておくわけには参りません。ここはいさぎよく身を引いていただきましょう。そうしないと東京五輪の開催そのものが妙な方向に行ってしまいそうです。それこそ「大事なときには必ず転ぶ」のではないか,と心配です。つまり,舵取り役としては不適格である,ということです。もちろん,つける薬のないあなたには,わたしがなにを言っているかも理解不能でしょう。どこまでも単純に「前へ,前へ」とラガー精神で押し切ることでしょう。にらみと脅しには定評があると聞いていますので。


それにしても森喜朗どのの首に「鈴」をつけることのできる人材もいない,いまの日本のトップ・リーダーたちの資質の低さには嘆かわしいものがあります。メディアも腰抜けですから。


またまた日本国沈没へのシナリオが加速されることになりそうです。困ったものです。
みんなで声を挙げるしかなさそうです。いまは,そういう時期,あるいは転機だとわたしは考えています。が,自発的隷従に飼い馴らされてしまった日本国民には,もはや,その気概も残っていないということなのでしょうか。


ほんとうに困ったものです。

2014年2月22日土曜日

じつは,胃ガンの手術を受けていました。昨日(21日)から重湯と味噌汁を飲んでいます。

ずっと伏せておこうかと思いましたが,こんなことは隠しておいても仕方のないことだ思いなおし,公表することにしました。いまのところきわめて順調に回復してきていますので,ご安心ください。


17日(月)に手術。一晩,ICUで監視。翌18日(火)には一般病棟に移りました。驚いたことに,この日から歩く訓練をしなさい,という。えっ?本気ですか,と思わず聞き糺しました。そうだ,という。からだ中,管がまとわりついています。まずは,点滴,体液を外に出すためのドレーンの管と器,脊髄には痛み止めの薬をいれるための管と薬。鼻には管が差し込まれたまま,尿管と容器もまだ身につけたまま。こんな状態でも「歩け」と仰る。いやはや驚きでした。


それよりももっと大変だったのは,ベッドから起き上がることとベッドに横たわることの二つ。これも自力でやりなさい,と。途中で腹筋が突然収縮を起こし,激痛とともに身動きできなくなってしまいます。この激痛との闘いがはじまりました。なぜなら,尿管をはずされてしまったからです。水分を点滴をとおしてどんどんからだの中に流し込んでいるわけですから,ただでさえ頻尿症のわたしは1時間ごとにトイレに通うはめに陥ってしまいました。一度,トイレに行ってもどってきてベッドに横たわると,冷や汗がどっと吹き出してきます。こんなことの繰り返し。


夜は夜で,同じようにトイレ通い。加えて,傷跡の痛みや胃腸の痛みがでて,痛み止めの薬の助けを借りたりしながら,長い夜を過ごしました。


19日,20日と同じような状態がつづきましたが,昨日の21日には少し安定してきて,からだにまとわりついていた残りの管が一気に抜かれ,残るは点滴のみ。これだけでずいぶん楽になりました。おまけに,21日の昼食から重湯がとれるようになりました。残りの課題は,ガス抜き。手術後,まだ,一回もおならがでません。下腹が張ってきて,いまやパンパンになっています。いつでも出そうなところまできているのですが,出ません。


こちらも,21日の夜,就寝してまもなく,ポコッと卵を生んだときのような感覚のおならがでました。それ以後,でるは,でるは,こんなにガスがたまっていたんだと驚くほどでました。これで,すっかり下腹の張りが消えて楽になりました。夜の点滴もなくなりましたので,ぐっすり熟睡できました。


22日の今日は,朝から爽快。腹筋の攣りもやわらぎ,ほっと一安心。
気分もいいので,ようやくこのブログを書こうという気分になりました。
あまり個人的なことは書かないように努力してきましたが,今回のことは特例ということで(ブログが途絶えているが,どうかしたのか,という心配メールがたくさんとどいていますので,そのいいわけを,と考えました),お許しください。


もう,ここまでくればあとは快方に向かって一直線だと信じています。
このブログも復活させますので,こんごともよろしくお願いいたします。





2014年2月16日日曜日

『3・11以後のこの絶望の国で──死者の語りの地平から』(山形孝夫×西谷修,ぷねうま舎)がとどく。

 今日(16日)の昼過ぎ,ひょっこりと西谷修さんが病室に現れ,昨日,出版社からとどいたばかりという見本の『3・11以後この絶望の国で──死者の語りの地平から』(山形孝夫×西谷修,ぷねうま舎)をとどけてくださいました。いつに変わらぬ優しい気配りに感謝あるのみです。今週末の22,3日ころには書店に並ぶだろうとの話です。


 思い返せば,西谷さんは,昨年(2013年)かなり頻繁に山形孝夫さんを尋ねて,一緒に東日本の被災地めぐりをしているというお話は耳にしていました。が,まさか,こんな企画もあっての話だとは想像もしていませんでした。ですから,西谷さんが「これ・・・・」と言って差し出してくださったときには思わず「あっ」と小さな声をあげてしまいました。やはり,そういうことだったのか,と。


 いずれにしても,いま,西谷さんのなさっていることは,シンポジウムにしろ,ラウンドテーブルにしろ,必ず書籍となってまとめられ,世に問われるものばかりです。それもメジャーな出版社ではなく,地道に一つのコンセプトにこだわりつづけ,明確な主張をもつマイナーな出版社をとおしてです。しかも,その内容も,フランス現代思想はもとより,戦争を語り,テロルを語り,沖縄を語り,経済を<審問>し,キリスト教を語り,という具合に多岐にわたります。そして,これらをくし刺しにする西谷さんのスタンスが「チョー哲学」(西谷さん自身による命名)というわけです。


 いまや近代アカデミズムの設定した専門の学問分野に閉じこもって発言することは,ほとんどなんの意味もない,ということがはっきりしてきました。むしろ,それらの学問領域を軽々と越境して,いま起きている世界の現象の根源にあるものを捉えることこそが喫緊の課題だ,というわけです。そのお手本のようなテクストの一つが『聖なるものの刻印──科学的合理性はなぜ盲目なのか』(ジャン=ピエール・デュピュイ著,西谷修,森元庸介,渡名喜庸哲訳,以文社)です。デュピュイもまた立派な「チョー哲学」者だとわたしは受け止めています。


 いささか脱線してしまいました。いつものように,まずはお二人の対談者の「あとがきに代えて」(山形孝夫)と「対談を終えて」(西谷修)から読み始めました。そこにはお二人のこの本に寄せる深い「思い」が書き込まれていて,期待するに充分なものを感じました。明日は無理ですが,明後日から読もうと楽しみにしています。


 なお,西谷修さんのブログに,簡にして要を得たこの本の解説がアップされていますので,ぜひ,ご覧になってみてください。テクストの写真も載っています。(「西谷修」で検索すればすぐにみられます)。


 最後に,表紙カバーの折り返しに書き込まれたコピーを紹介しておきたいと思います。


「破滅のシナリオ」がリアリティを増すこの時代に,
生き延びるためのヴィジョンを探って。
 
  破局を生きざるをえない被災者に寄り添って,
  私たちに何ができるのだろう。この問いを原点として対話する───
  死とは何か,社会は死とどのように向き合ってきたのか,
  「近代」は何を切り捨てることで
  果てしない進歩と豊かさの幻想を生んできたのか,
  そして宗教はそこでどのような役割を担ってきたのか。
  死者たちの声に重ねて,グローバリゼーションと戦争と貧困の出自を問う。

2014年2月15日土曜日

「歴史がはじまるのは「歴史学」のなかからではない」(多木浩二)。

〇歴史がはじまるのは「歴史学」のなかからではない。
〇本当に主題になるのは「歴史」のなかには登場することのない歴史である。
〇飛躍した連想を可能にするのは「歴史」のなかには登場することのない歴史である。
〇人びとの肌の色つやも息づかいも「歴史」のなかには登場しない歴史である。歴史家は肉体を捉え損なうが,写真家は肉体に視線を注ぐ。
〇写真の視線が達するのは「歴史」のなかには登場することのない歴史である。別に隠れているわけではないが,理性の眼には止まらないのである。
〇「歴史」にも,乱丁,落丁がある。出来損ないの書物のなかの奇妙な迷路。そんな不思議なエアポケットが,写真の場である。歴史学者が見落とした瞬間,瞬間をまた細分した瞬間,空虚をまた空っぽにした空虚。それがほんとうにはまだ見ぬ歴史がはじまる場所である。


 以上は,『映像の歴史哲学』(多木浩二著,今福龍太編,みすず書房,2013年)の冒頭にかかげられた「歴史の天使」と題した6編のエッセイの書き出しの文章です。


 「歴史」のなかに登場することのない歴史──わたしの眼はこのフレーズに釘付けになってしまいました。そして,何回も,「歴史」のなかに登場することのない歴史,「歴史」のなかに登場することのない歴史,と声に出してさまざまな節回しで朗誦してしまいました。


 「歴史」とはなにか。そして,歴史とはなにか。いわゆる大文字の歴史と小文字の歴史,というほどの違いだということはわかります。別の言い方をすれば,歴史学や歴史家がとりくんできた「歴史」と,そこからこぼれ落ちた歴史がある,ということになります。そのこぼれ落ちた歴史の最先端,最末端,あるいは,瞬間・瞬間こそが,詩の生まれる場所であり,歴史がはじまる場所なのだ,と多木浩二さんは主張しているように思います。


 そこで一足飛びに話を飛躍させますが,たとえば,「カッパの相撲好き」ということが言われます。理性的には根も葉もない単なる民間伝承にすぎない,と一刀両断にされておしまい,というのが落ちでしょう。しかし,理性が否定したからといって,情緒はそれで納得するでしょうか。わたしたちのこころのどこかには「カッパの相撲好き」という話に惹かれるものがあります。そして,あれこれ想像をたくましくして,思いをめぐらせ,その空想の世界を楽しんだりもします。


 しかし,歴史学や歴史家はカッパの存在そのものを研究対象には据えません。ましてや,「カッパの相撲」は相撲の歴史からは排除されてしまいます。にもかかわらず,人びとのこころの中から「カッパの相撲好き」ということばは消え去ることはありません。それどころか,カッパと相撲という一種異様なイメージが強烈な印象とともにわたしたちの脳裏に焼きついてしまいます。そして,「カッパの相撲好き」という伝承が,逆に,素朴な詩情をも呼び起こすことさえありえます。それは,いったい,どういうことなのでしょうか。そして,それは,なぜ,でしょうか。


 わたしたちが日常生活を営み,その日常生活を支える素朴な感情は,どこから立ち上がってくるのでしょうか。そこに一つの鍵が隠されているように思います。人間が生きるということの原初の姿に立ち返って考えてみると,そのさきになにかが透けてみえてくるように思います。そこが,たとえば,多木さんが言うところの「それがほんとうにはまだ見ぬ歴史のはじまる場所」ということになるのではないか,とわたしは考えています。


 ですから,「カッパの相撲好き」というテーマを追うことは,多木さんのいう「歴史哲学」の根源的な問い直しをも意味することになる,という次第です。さて,ここからさきは,もう一つ別のテーマを立てて深追いしていくと,とても面白い知の地平が広がってくるように思います。それは,またの課題として残しておくことにして,今日のところはここまで。

奈良・三輪山の等高線がグーグルの地図から消えている。なぜ?「出雲族」との関係か?

 以前から暇があるとグーグルの地図をみて楽しんできました。グーグルの地図がどれほど面白い仕掛けになっているかは,いまさら,ここで説明する必要もないでしょう。そんな遊びをしていたら,おやっ?と思うことに出会いました。








 それは,奈良・三輪山の山頂周辺の等高線がないのです。真っ白です。以前も,ちらっとみて「変だなぁ」とは思っていました。しかし,そのときは三輪山の山頂のあたりだけの,ほんの部分だけでした。ですから,なにかパソコンの方の不具合かなにかではないか,と勝手に思い込んでいました。しかし,今回,あれはなんだったのかなぁ,と思い返してもう一度トライしてみました。








 すると,こんどは,三輪山山頂から巻向山にかけて,かなり広い範囲が真っ白です。いわゆる「ダンノダイラ」(出雲族の拠点だったという伝承がある)のあるあたりです。この等高線の地図を「写真」に変換すると,写真は全部でてきます。ただ,一面の「緑」の鳥瞰図です。しかし,拡大していくと,小さな社が点在しているのがわかります。なぜ,等高線が消えたのか。ひょっとしたら「出雲族」の伝承と関連しているのではないか,とげすの勘繰り。








 ならば,というわけで,こんどは奈良・尼ヶ辻にある「菅原天満宮」を探してみました。このすぐ近くにある「喜光寺」という古寺は拡大する前からはやばやとその名前が地図に記載されています。が,「菅原天満宮」はなかなかでてきません。最後の最後の拡大図でようやくその名前の記載が登場します。こんなに有名な天満宮の名前が,なぜ,ここまで貶められているのか,わたしには不思議です。








 グーグルになにか魂胆でもあるのだろうか,とまたまたげすの勘繰り。






 そこで,こんどは交野市にある磐船神社を探してみました。この磐船神社の記載はリミットまで拡大しても出てきません。これはどうしたことでしょうか。わたしにはまったく理解できません。こうなると,なにか企みがあるのではないか,とどうしても勘繰りたくなってしまいます。




 この磐船神社は,古事記にも登場するニギハヤヒが天の磐船に乗ってこの地に舞い降りたという伝承のあるチョー有名な神社です。もう少し付け加えておけば,このあたりから奈良にかけておおきな勢力を誇っていたトミノナガスネヒコの妹を妻にした天孫族です。トミノナガスネヒコは西から押し寄せてきたカムヤマトイワレヒコ(のちの神武天皇)の軍隊に徹底的に抵抗して,最後までヤマトの地に踏み入れさせませんでした。




 この磐船神社は古くからある磐船街道に沿って流れる天野川をまたぐように鎮座している巨岩がご神体で,この地域では遠足の名所でもありました。磐船街道はそのまま南下していくと,こんどは富雄川に沿ってヤマトに入っていきます。古代の幹線道路であったわけです。この富雄川沿いにトミノナガスネヒコにまつわる神社が転々と存在しています。つまり,出雲族ゆかりの神社(村井康彦説)です。




 もちろん,菅原天満宮もこの地域にあります。


 もう,これ以上の深追いはしないことにしましょう。
 いずれにしても,こうした背景には「なにかある」と勘繰りたくなってしまうのは,「出雲族」ファンのひとりとしては自然の成り行きではないでしょうか。





































2014年2月14日金曜日

ああ,テレマーク!沙羅ちゃん,胸を張って帰っておいで。

 実力半分,神様半分。スキーのジャンプ競技はそういう競技です。だから面白いのです。いまどきのスポーツにこんな不確定要素を残したままの競技は珍しい。それだけにとても価値のある競技種目である,とわたしは高く評価しています。

 かつて,あの原田選手が団体戦で,一回目のジャンプは追い風で失速して距離が伸びず,苦戦を強いられることになりましたが,二回目のジャンプで驚異的な大ジャンプをみせ,大逆転をして多くの人を大感動させたことは,いまも忘れることはできません。当時,絶好調だった原田選手をもってしても,追い風に叩き落とされてしまってはどうにもならないのです。試合後の原田選手の談話がまたみごとでした。「ジャンプという競技はこういうものです。実力半分,神様半分」と。

 わたしは以前から,ジャンプ競技は飛んだ「距離」だけで優劣を判定すればいい,と主張してきました。なぜ,テレマーク姿勢で着地しなくてはならないのか,なぜ,飛型点なるものが必要なのか,そして,なぜ,ウィンドファクターを加味しなくてはならないのか。もちろん,そこには長い歴史過程があることも知っています。しかし,単純に競技を見て楽しむファンとしては分かりやすい方がいい。ルールを複雑化して,点数が発表されるまで,その「できばえ」が分からない,などというのは面倒です。第一,ジャンプ競技が「採点競技」となり,「点数化」されてしまうということ自体が,わたしからすれば茶番です。

 テレマーク姿勢についてもいいたいことは山ほどあります。が,ここでは禁欲的につぎのことだけ書いておきます。テレマークはスキーのジャンプをして子どもたちが遊んでいた地方(ノルウェー)の名前にすぎません。そして,その地方での独特のスキーのターンの仕方がこのテレマーク姿勢だった,というだけの話です。ですから,ジャンプの着地姿勢と「テレマーク」はなんの関係もありません。だれかが単なるメモリアルとしてこの着地姿勢を定めたにすぎません。それも,飛距離が10メートルとか15メートルというレベルで競われていた時代の話です。

 それが,いまや,100メートルを越えるジャンプは当たり前の時代に入りました。優勝するためには,K点を越えなくてはなりません。しかも,そのK点を越えると「平地」になってしまいます。100メートルもの距離を飛んできて「平地」に着地するのに,なぜ,テレマーク姿勢でなくてはならないのか,かえって危険ですらあります。

 それを克服すべく沙羅ちゃんは必死になってトレーニングを積み,ようやく今シーズンは安定してきました。それが今シーズンの連戦連勝の成績です。が,最後の最後で,神様のいたずらに遭遇することになりました。「追い風」という,これは神様の領域の話です。ですから,沙羅ちゃんがテレマーク姿勢に入るタイミングをほんの少しだけ狂わせてしまった,というわけです。これは仕方のないことです。これが,ジャンプという競技の宿命でもあります。つまり,なにが,いつ,起こるかはわからない。神様のみが知っている,という次第です。だからこそ面白いのです。

 沙羅ちゃん。どうぞ,堂々と胸を張って帰っていらっしゃい。メディアも暖かく迎えてやってください。わたしたちみんなも,沙羅ちゃんの健闘をこころから讃えましょう。なんといったって,沙羅ちゃんはいま世界一のジャンパーなのですから。







 

新国立競技場計画についての対談(槙文彦vs平山洋介,『世界』3月号)に注目。

 『世界』3月号がとどきました。特集は「脱成長」への構想,となっていて伊東光晴,西川潤氏など6人の論者が論考を寄せています。この特集と呼応するようなかたちで〔対談〕成熟都市の「骨格」──新国立競技場計画から考える,が掲載されています。なるほど,「脱成長」と「成熟都市」という視点から,新国立競技場計画を考えるとどのようなことがみえてくるのか,と興味をもちました。早速,この対談から読み始めることに。

 新国立競技場計画についてはすでに多くの議論を呼んでいるところですので,この対談では,それを繰り返すような議論はなされてはいません。むしろ,この新国立競技場計画というとてつもない巨大な計画が,これからの東京という都市のめざすべき方向にどのような影響を及ぼすのかという点に比重が置かれています。したがって,対談の後半は,スポーツの問題から離れて,建築が金融化され,商品化され,資本化されていく近年の世界的動向にまで議論が展開していきます。これまたスケールの大きな対談になっています。

 ここでは,スポーツを考えるわたしの観点から興味を引いた内容について,若干のコメントをしてみたいと思います。

 たとえば,建築家の槙文彦さんの発言に次のようなものがあります。
 「明治神宮の外苑および代々木公園一帯は,1926年に日本で最初の風致地区指定を受けており,東京都が長いあいだ神経をつかってきた都市緑地でした。1940年東京五輪の前にも,侃々諤々の議論のすえ,候補地が変更された経緯があります。
 ところが今回,その外苑の聖徳記念絵画館の真横に,規制緩和によって高さ70メートルの施設を建てられるようになった。銀座の中央通りでも,沿道の建築物の高さは56メートルに制限されています。そこから10メートル以上,つまり三階分ぐらい高いものを認めるコンペの募集要項が,有識者会議を経て発表された。会議では,狭い敷地なのだからどのくらいの大きさ,あるいは高さがふさわしいかという議論はまったくなかったようです。」

 この話を聞いてわたしの脳裏をかすめていくものは,やはり,「はじめにオリンピックありき」です。つまり,東京五輪のためにすべてのものごとが推し進められているという東京都の方針です。この高さ制限の緩和も新国立競技場計画のコンペが終わってからなされたといいます。それでは話があべこべです。第一,この有識者会議のメンバーには,建築や都市計画の専門家はほんの少ししか加わってはいなかった,ともいいます。いうなれば,有識者という名の「素人」集団が,東京都の意向を受けてお手打ちをしただけの話です。こんなことがまかり通っているのですから驚きです。つまり,東京オリンピック開催を錦の御旗にかかげて,むりやり,ものごとを強引に推し進めていく,その姿が浮き彫りになってきます。しかも,それが「当たり前」になりつつあります。

 また,この話に応答するかのように都市計画の専門家である平山洋介さんがつぎのように語っています。
 「昨年末には,安倍政権の成長戦略の新たな目玉商品として,国家戦略特区法が成立しました。この特区法では,様ざまな規制緩和に並行して,容積率規制がまたもや緩められます。容積率の引き上げは不動産投資を呼び込むための手っ取り早い手法で,景気悪化のたびに繰り返されてきました。過去30年の都市計画の歴史は,規制緩和の歴史だったといっても過言ではありません。東京五輪も,こうした開発促進の触媒としての役割をもたされています。」

 新国立競技場計画も,開発促進の触媒としての役割を担わされている,しかも,それを国家戦略特区法が支えていく,という図式のなかにみごとに納まっています。もはや,議論の余地なし,というのがわたしの感想です。こうして,東京という都市はますます肥大化していくことになるわけですが,この対談者のお二人の説によれば,東京の人口はこれから徐々に減少していくのだといいます。だからこそ,東京都は「脱成長」への構想を立てて,成熟都市の「骨格」を明確にしていくべきなのだ,というわけです。したがって,新国立競技場計画はそのための試金石でもあるのだ,というのがこのお二人の意見だと読み取りました。

 ここでは対談のほんの一部を覗いてみただけにすぎません。全体はもっともっと迫力のある対談になっていますので,ぜひ,ご一読をお薦めします。オーバーではなく,この対談をとおして「世界」がみえてきます。東京五輪もそのほんのひとつの歯車にすぎない,ということもわかってきます。恐るべきは「経済」の支配力です。もはや,どうにも歯止めがかからない凶器と化しつつあります。この問題はまた,いつか考えてみたいと思っています。

 というところで,今回はここまで。

 

2014年2月13日木曜日

恥ずかしながら,闘病中。なんとか,峠を越えました。

 鬼の霍乱?と友人たちにひやかされています。まったくもって健康には自信があったのですが,なんと生まれて初めて救急車なるものに搬送されました。こんなことは恥ずかしくてあまり言いたくはないですね。でも,事実ですので,とりあえず報告させていただきます。

 ブログが中断したのは,まさに,この理由です。このブログの読者にはわたしの知人も多くいらっしゃるようですので,その人たちに向けてことの顛末をかんたんにご報告したいと思います。

 2月5日の午後,突然の吐血。慌てて古くからの友人たちの力をお借りして病院を手配してもらいました。そして,すぐに搬送。応急手当てと内視鏡による検査。しばらく日にちが経ってからの病院長の話では「古典的な,典型的な胃潰瘍」だと笑われてしまいました。吐血の量がはんぱではなかったので,すぐに輸血を開始。輸血を三日間,もちろん,点滴も。ある程度落ち着いてきたところで,10日に再度,内視鏡による精密な検査。このなかには組織検査も含まれていました。同時につづけてCTによる検査。など,さまざまな検査を済ませました。その結果は13日に判明するとのこと。

 それが今日でした。その結果によると,組織検査はとりあえず「白」でした。ひとまず安心です。が,その他のデータに疑わしき点が多いので,慎重を期して,もう一度,組織検査をしたいということで,今日の午前に内視鏡検査をし,6体のサンプルをとりました。その結果は土曜日(15日)にわかるとのことです。

 いずれにしても,病院長さんの最初の予想以上に胃潰瘍の状態が悪いそうで,これからも慎重に見極めながら治療を進めていくとのことです。どうやら,長期入院になりそうです。

 かなり長期にわたって胃潰瘍があったはずで,よくもまあこんなにひどくなるまで我慢をしたものだ,と病院長さんにはあきれられてしまいました。要するに,早期発見早期治療が肝腎だということです。わたし自身ははっきりとした自覚症状もないまま,どこか変だ,どこか変だ,と思いながら,だましだまし生活をしていました。これがいけなかったようです。

 なにはともあれ,ストレスを受けやすいやわな人間であるということが,これではっきりしました。人はみかけによらないようです。これからはストレスをため込まないようにくれぐれも留意して生活したいと深く反省しています。

 いましばらくは闘病生活がつづきそうです。
 ですから,このブログも病室から発信することになります。
 とびとびになるかもしれませんが,どうぞよろしくお願いいたします。
 取り急ぎ,ことの顛末のご報告まで。

 

2014年2月4日火曜日

ソチ五輪の裏側にもまなざしを。150年前・ロシア軍によるチェルケス人大虐殺という過去が。

 人間とは不思議な生き物だ。目の前に面白いイベントをちらつかせられると,一斉にそこに飛びつき,それ以外のことは忘れてしまうらしい。そして,それが終わると台風一過のごとくにまたそのイベントのことは忘れてしまう。その繰り返し。

 ソチ五輪を目前に控え,世は挙げてソチ五輪一色に染め上げられたかのようである。都知事選の情報も縮んでしまい,臨時国会ではどさくさまぎれに重要な法案を強引に押し通そうとしているというのに・・・・。ましてや,フクシマのことなどどこ吹く風。沖縄の米軍基地移設問題などは眼中にもないかのようだ。東日本の復興に関する情報も風前の灯火。

 ソチでは,いま,ぞくぞくと選手団が到着して,厳戒体制をしいて安全確保に全力を挙げているという。かのスターリンも愛用したという別荘地・保養地。いまも,人気のスポットだという。なのに,なにゆえに,これほどの厳戒体制を敷かねばならないのか。この町に入るには,全員が身分証明書を発行してもらってからでなくては入れない。もちろん,その身分を証明するためにはきびしいチェックがあるという。旅の途中にふらりと立ち寄って冬季五輪でも見物を・・・などというわけにはいかないのである。

 そこには深いわけがある。ソチはカフカス地方の一部をなしている,と言われるとピンとくる人は多いと思う。この地域は東西・南北の交通の要所で,さまざまな少数民族がこのあたり一帯に分住していた。言語も宗教も複雑に錯綜していて,むかしから紛争の絶えないところであった。細かなことははぶくが,近世以降をみるだけでも,オスマン帝国,イラン,ロシア帝国の角遂の場になったが,19世紀中頃にロシア領となった。

 ソチの周辺地域は,カフカス諸語系の諸民族が先住民族。その内,グルジア語を話すグルジア人が古くからのキリスト教徒,それ以外はほとんどがイスラム教徒でスンナ派。このスンナ派の人たちのなかにチェルケス人と呼ばれる人たちがいて,その人たちがいまもこのソチに住んでいる。そして,この人たちの記憶のなかにはロシア軍と戦った「カフカス戦争」の凄惨な記憶が埋め込まれている。

 さきに,19世紀中頃にロシア領となった,と書いた。もう少しだけ詳しく書いておこう。1859年,コーカサスの西部に住む先住民チェルケス人は,ロシア軍の猛攻撃を受け,敗戦。その後も住民の9割が虐殺されたという。その慰霊碑がいまも丘の上に大事に祀られているという。もちろん,チェルケス人は熱心なムスリムである。

 このチェルケス人の主張は,「ここはロシアがオリンピックをやるべき場所ではない」,というものだ。やるのなら,別のところでやってほしい,と。

 もちろん,この人たちのなかにも,「もう時代は変わったのだ。仕方がない」と諦めた人たちもいる。しかし,どうしても許せないという人たちも少なからずいる。この人たちを,遠く離れたところに住むイスラム教スンナ派が,有形無形の支援をしている。その拠点はどこにあるか,影も形もない,お化けのような存在だ。その眼に見えない「敵」にロシア軍は怯えているのだ。そして,一触即発,いつでも戦える臨戦態勢を敷いているのだ。

 これがソチ五輪のもうひとつの顔である。こんなにまでして「五輪」を開催しなくてはならない理由はなにか。もうすでに何回も書いたので,簡単に触れておく。まつろわぬ民に対する権力の徹底的な威嚇,そして,ほんのわずかな口実でもあればすべてを壊滅させるチャンスを待っている,これがプーチンの戦略だ。ソチ五輪はそのための絶好の口実として利用されているにすぎない。

 なんともはや,空恐ろしいことが,ソチ五輪という華々しい表舞台の裏側では展開されているのである。いよいよ,国際平和を標榜するオリンピックの化けの皮が剥がされ,「破局」に向けてまっしぐらの様相を呈してきた。

 いよいよわたしたちの「批評」眼が問われるときがきたというべきか。

※ふと,思い出したことがある。「若きカフカス人」というブロンズ像がある。彫刻家中原悌次郎の傑作である。額に深いしわが刻まれ,苦渋に満ちた顔である。どうみても「若い」とは思えない。が,一度,見たら忘れられない強烈なインパクトをもった作品である。晩年の芥川龍之介がある講演で,「この中原氏のブロンズの『若者』に惚れる者はいないか。この若者はまだ生きているぞ」と言ったという。





 

2014年2月3日月曜日

デュピュイの「聖なるもののかたち」へのアプローチ。その手がかりを求めて。

 ジャン=ピエール・デュピュイの最新作『聖なるものの刻印』──科学的合理性はなぜ盲目なのか(西谷修・森元庸介・渡名喜庸哲訳,以文社,2014)と,一日に一回はにらめっこをすることにした。とても一筋縄では理解できないので,わかるところを探しながら「にらめっこ」をしてみる。すると,なんとなくわかったような気になるときがある。

 そんな「にらめっこ」の一端を紹介しておこうと思う。わたし自身の思考遍歴の記録を残すという意味で。いえいえ,恥じを忍びつつのストリップ・ショウを演ずると言った方が正しい。しかも,自己の思考を丸裸にしてさらしものにすること,このことがどうやらデュピュイのいう「聖なるもののかたち」のどこかにつながっているのではないか,と考えるからだ。つまり,自己を超え出る経験としての「自己超越」もまた立派な「聖なるもののかたち」のひとつの表出ではないか,と考えるからだ。

 このような考えにわたしを導いてくれた部分がある。
 テクストの序章「聖なるもののかたち」の冒頭に以下のようにでてくる(P.7.)。

 ここでわたしが,まだ手さぐり状態とはいえ記述している形象は,わたしの専売特許というわけではない。それは以前から哲学者たちによって描かれてきた。ヘーゲルは「自己外化(Entaeusserung)」と呼び,マルクスは「疎外(Entfremdung)」,オーストリアの経済学者で自由主義のチャンピオンたるフリードリヒ・ハイエクは「自己超越(self-transcendence)」と呼んだ。けれども,その純粋形に最も近づいたのはフランスの人類学者・社会学者ルイ・デュモンである。かれはそれを「ヒエラルキー」と呼んだが,ただしその際,この言葉を語源的意味で,つまり聖なる秩序という意味で使うと断っている。

 このような文章に出会いますと,まっさきにわたしの脳裏に思い浮かぶのはジョルジュ・バタイユの「恍惚(extase)」であり,「非-知(non-savoir)」という概念です。そこにつづくようにして,荒川修作の「天命反転」(あるいは「転ぶ」)の考え方が思い浮かびます。あるいはまた,仏教でいうところの「百尺竿頭出一歩」(ひゃくしゃくかんとういっぽをいずる)ということばが頭をよぎります。

 これらはいずれも,自己の殻のなかに閉じこもっているのではなく,その殻をぶちやぶって,その外に飛び出していく経験のことを説いています。そして,その自己の外には,自己のコントロールを超えた絶対的存在,すなわち「聖なるもの」の領域が広がっている,ということなのでしょう。そして,その「聖なる秩序」という意味で「ヒエラルキー」がここに加わるというルイ・デュモンの思考は魅力的です。

 ここまで書いてくればもう充分かと思いますが,スポーツの源泉もまたここでいう「聖なるもの」にたどり着くことになります。このテーマについては,すでに,このブログで何回も書いてきたことがらですので,ここでは割愛します。

 デュピュイは,「聖なるものの刻印」がこの現代文明社会にあっても,あちこちに埋め込まれており,そこに科学的合理性が盲目に陥る隘路がある,といおうとしているように思われます。この問題については,これから少しずつ読解しながら考えていこうと思います。

 ということで,今日のところはここまで。
 

「マスク」依存症が拡大か。その功罪論。

 インフルエンザのシーズン迎えて,「マスク」をかけている人がひときわ目立つようになってきました。スーパーなどでレジを打っている女性の大半の人が「マスク」をかけています。風邪予防対策のためなのでしょうが,なかには,すでに風邪を引いているので迷惑をかけたくない,という人もいるのでしょう。しかし,生鮮食材を扱っているスーパーなどで風邪を引いているのに働くのもいかがなものかなぁ,と考えてしまいます。

 わたしは三日に一回くらいの割合で,近くのスーパーで食材を買うために立ち寄ります。レジにもっていくと,まずは,両手をみぞおちのあたりに重ねて「いらっしゃいませ」といわれる。これもマニュアルどおりなのでしょう。が,わたしは馴染めません。あまりに「おざなり」だからです。その上「マスク」をした顔は「眼」しかみえません。その眼がじっとこちらを見据えているようにみえるのは,あまり気持のいいものではありません。

 電車の中でも「マスク」をした人と眼が合ったりすると,なぜか,睨まれているように感じます。銀行強盗が「マスク」をしているのも,一つは顔を隠すためなのでしょうが,もう一つは,相手を威嚇するための装置でもある,ということに気づきました。ですから,電車のなかではできるだけ眼が合わないように気をつけるようにしています。しかし,よく考えてみれば,これもどうかなぁ,とこころの奥深くに引っかかるものがあります。

 さて,軽い前置きのつもりが長くなってしまいました。
 本題は,「マスク」依存症とその功罪について。
 ここ数年の間に「マスク」が飛躍的に改善されているのは感じていました。それとともに「マスク」派の人も増えてきたように思います。わたしは可能なかぎり「自然」派ですので,「マスク」をしたことがありません。その意味では「マスク」について語る資格がない,と言えるかもしれません。しかし,「自然」派にはそれなりのコンセプトがあって,「マスク」不要論を唱えていますので,その立場からの見解を述べてみたいと思います。

 「7割の人がマスク使用法誤る」(NEWSポストセブン・2月3日7時0分)という見出しの情報がネット上に流れていて,おやおやと考えてしまいました。それによると,マスクには立体型(顔にフィットするように設計されているもの)とプリーツ型(フィルターが蛇腹になっているもの)があるそうです。問題は,どちらも鼻,頬,顎に隙間をつくらないように装着すべきなのに,それを無視している人が「7割」に達する,というのです。

 まあ,ここまではいいとしましょう。これに続けて「外出時はもちろん,室内にいるときや鼻やのどの乾燥対策に効果的なので着用したい」(全国マスク工業会専務理事・藤田直哉)となると,「自然」派としては黙ってはいられません。しばらく前の新聞には「夜眠っているときも着用しています」という人の記事があって,さらに「マスクなしには眠ることはできません」とまで言い切っていました。そして,そんな人たちが最近増えつづけている,と記事は結んでいました。

 四六時中,食事をするとき以外は,いつもマスクをしている,ことを推奨しているのです。

 わたしのような「自然」派からすれば,もともと備わっている免疫力を低下させるようなことをしてしまうのか,と不可解でなりません。マスク工業会としては「たくさん売る」ことによって利益を得る,ただ,それだけの話。それに乗せられて「健康」を安全に維持できると信じて疑わない「マスク」派の人びと。そして,その増大傾向。

 なんだか,どこかでみかける図式とそっくりです。

 わたしが学生時代に「衛生学」を教えてくれた教授は,つぎのように仰いました。
 マスクはたんなる気休めにすぎません。ガーゼを何枚重ねようとも,バイ菌はいとも簡単に通過して,呼吸とともに体内に入ってしまいます。しかし,風邪を引いた人が電車などに乗る場合にはマスクをしてください。咳き込んだときの対策です。咳は秒速4~5m。それをマスクによって減速させることは可能です。まわりで咳をする人がいたら,一瞬,呼吸を止めることです。数秒のうちに拡散していきます。この拡散した咳を呼吸することによって免疫力を高めることができるのです。無菌状態で管理されたからだは,ほとんど免疫力がありません。適度にバイ菌とつきあい,上手に折り合いをつけることが肝腎です。

 もう50年も前の衛生学がこんにちに通用するとは思いませんが,それでも,基本的な考え方(たとえば,免疫力)はそれほど大きな変化はないでしょう。

 「自然」派の主張は,みずからの思考を停止したまま,ある権威筋のいうなりに「マスク」をしていれば安心という,いわゆる「マスク」依存症が増大していく,この傾向をどこかで「阻止したい,ということです。そうです。目標は「脱マスク」です。マスクがなくても健康は維持できる,そういうライフスタイルをわがものとすることです。

2014年2月1日土曜日

九重親方(元横綱千代の富士)が理事選挙で落選。なにかのはじまり?

 栄枯盛衰は世の常だ。が,それにしても,九重親方の理事選挙落選には驚いた。長い間,理事を勤め,前事業部長の重責を担ってきた角界ナンバー2である。北の湖理事長の後継者として,次期理事長の呼び声も高かった人である。現に,この初場所では北の湖理事長の体調不良にともない,理事長代理として協会挨拶をこなしている。現役時代の実績といい,理事としての活躍といい,なに不足ない人物として誰もが認める存在である。

 なのに,この九重親方が落選した。

 いろいろ揉めに揉めた日本相撲協会の「公益財団法人」化への移行も,なんとか乗り切り,そのための新体制を固める上で重要な理事選挙だったはずだ。ここに思いがけない落とし穴が待っていた。

 ことの発端は貴乃花。
 日本相撲協会の理事は,各一門ごとに候補者を絞り込んで,一門のもっている基礎票(投票権のある親方の数)を配分するのが長年の通例となっていた。だから,一門の推薦がないかぎり理事にはなれない。まだ若かった貴乃花は,このままでは当分の間,理事にはなれないと判断。一門を飛び出して,貴乃花グループを結成して浮動票をかき集める作戦にでた。こんなことをしても当選は不可能という下馬評をくつがえして,みごとに理事に当選した。今回も,一門ではなく,「貴乃花グループ」として9票を確保して当選。

 この9票は,いわゆる浮動票で,親方衆が自分の所属する一門が推薦する理事候補を振り切って,自分の意思で投票行動にでる,その票だ。言ってみれば,貴乃花の協会改革案に賛同する親方衆の票だ。その改革案の一つが,理事選挙の方法。一門で票を配分するのは年功序列に縛られ,民主主義の原則にも反するというわけだ。この考え方に賛同する親方衆が一門を超えて票を投じている。それが9票ある。

 そのために一門は票の確保に必死だ。これまで以上の強い締めつけがなされたと聞く。それでも,その一角は崩れつつある。それが九重親方の所属する高砂一門だった,というわけだ。

 高砂一門の今回の基礎票は14。もともとは一門の親方は12人。そこに別の一門からの協力票などがあり,14票以上あった,という。しかし,その肝心要の協力票は,どこか別のところに流れてしまった。その結果,高砂一門から立候補していた八角親方(元横綱北勝海)が9票,九重親方が5票。計14票。

 九重親方は「不徳の致すところ」とひとこと述べただけだ,という。あの「体力の限界っ!」と全身から絞り出すようなひとことが想起される。この横綱千代の富士を引退に追い込んだ最後の一番の相手は貴乃花だった。奇縁というべきか。

 われわれ外部にいる者には知ることのできない日本相撲協会内部の確執がその背後にあることは間違いない。それにしても九重親方をはずす勢力が,ここまで大きくなってきているとは。つまり,次期理事長ポストをめぐる権力闘争のはじまりだ。

 これ以上の詮索は,いまの段階では差し控えておこう。なにか,わたしたちの眼にみえないところで,大きな地殻変動が日本相撲協会内部にも起きていることは間違いない。

 それでも考えてみたいことは,伝統芸能が近代化するとはどういうことなのか,ということだ。この問題については,また,別件で取り扱ってみたいと思う。今回はここまで。