2015年5月31日日曜日

京都から奈良へのJR「みやこ路」号は外国人観光客でいっぱい。びっくり。

 今月の月例研究会は奈良で開催されました。30日(土)早朝に家をでて,奈良に向かいました。いつもですと,京都から奈良へは近鉄で移動するのですが,ふと,JRの「みやこ路」快速に乗りたくなり,こちらを選択しました。11:04京都発⇨11:48奈良着。

 新幹線からの乗り継ぎ時間はたっぷりありましたので,余裕をもって真っ先に乗車。ところが,驚くことに,「みやこ路」快速に乗車してくる人の半分以上が欧米系の観光客でした。さらに驚いたことに,はじめはきづかなかったのですが,日本人だとばかりおもっていた人たちの大半が,韓国,中国の観光客だったことです。肝心要の日本人はほんのわずか・・・。どうでしょう,全体の2割くらいだったでしょうか。そして,日本人のほとんどの人は途中で下車したり,乗車してきたりでしたが,観光客は京都から奈良までだれも降りません。

 東京でも,最近,外国人観光客が増えているとは聞いていました。時折,神田方面に用事があってでかけたりすると,こんなところにまで?とおもうようなところで観光客に出会うことがあります。とおりいっぺんの観光客ではなくて,かなり詳細に調べてきており,自分たちの関心のあるところまでしっかりと触手をのばしているようです。そこにいくと,アジア系の観光客の方は,表通りを群れをなして歩いていることが多いようにおもいます。

 今日(31日)は,近鉄奈良駅からJR奈良駅まで,むかしのメイン・ストリートであるJR奈良駅から春日大社にいたるまっすぐな商店街の通りを歩いてみました。このあたりはすっかり様変わりをしていて,これまた驚きました。狭かった道が拡幅されていて,じつにゆったりとした歩道が両サイドに確保されています。そして,建物もみんな新しくなっていて,以前とはまるで別世界でした。こんなところをみると,奈良は元気がいいんだなぁ,と思わずにはいられませんでした。

 ちょうど,午前10時ころでしたので,JR奈良駅から,来るはくるは,観光客の波です。ここで出会ったのもほとんどが西洋系の観光客。こちらはいずれも2人づれ,もしくは3,4人の集団。そんななかに,ときおり韓国,中国の人たち。こちらは,多くはひとかたまりの団体さん。そして,ごくわずかに家族づれの日本人観光客。以前,わたしが住んでいた20年前とはまったく様変わりをしていました。もっとも,考えてみれば,20年前といえば大昔も同然。ひとむかし,いや,ふたむかしも前の話ですから・・・。

 JR奈良駅に向かって歩いていると,突然,開化天皇陵が右手にみえてきました。以前は,間口がとても狭かったので,あまり目立たなかったのですが,こんどはどーんと間口を広げて,これみよがしに構えています。大通りからは,さらに100mほど北側に入ったところに陵墓のこんもりした森がみえています。いままで,一度も近づいたことがなかったのですが,今回は,なんの抵抗もなく,いや,誘われるかのように中に踏み込んでいくことになりました。

 
開化天皇といえば,神武から数えて第9代目の天皇。そのあとに,崇神,垂仁,とつづきます。わたしにとっては,野見宿禰を考える上で,同時に,穂の国(愛知県の東三河地方・わたしの出身地)を考える上で,不可欠の天皇というわけです。この話はいずれまた詳しくやることにして,今日(31日)になって,はじめて開化天皇の陵墓を拝ませていただきました,というお話で終わりにしておきたいとおもいます。

2015年5月30日土曜日

「道」の道元的解釈について。道転法輪,仏道,得道,道元,一道。

 『老子道徳経』の冒頭には「道可道,非常道。名可名,非常名」(道の道とすべきは,常の道に非ず。名の名とすべきは,常の名に非ず)というよく知られたことば掲げられています。そして,「道」とはなにか,すなわち「タオ」(道)とはなにかを問い続けます。つまり,この世界の始源としての「道」を探求していきます。ここには,一般的に「道教」(タオイズム)と呼ばれる教えで説くところの「道」の世界が繰り広げられています。

 それに対して,仏教では,「道」は,一般的には「真理」「さとり」を意味します。しかし,禅宗では中国の漢の時代の口語的用法に則って「言う」の意味でも用いられています。道元の『正法眼蔵』のなかでは,「言う」とともにそれを名詞化して「言葉」としても用いられています。さらに,道元は,ふつうには「転法輪」といわれることばに,わざわざ「道」を加えて「道転法輪」ということばを用いています。一般の注釈書では,「道」に特別の意味をもたせずに,転法輪と道転法輪とは同じ意味だと解釈して済ませています。

 しかし,それは違うのではないか,と頼住光子さんは注目します(『正法眼蔵入門』,角川文庫,平成26年12月刊,P.161~167.)。なぜなら,道元は,ことばで表現することが不可能だとされる「さとり」の真相を,なんとか言語で伝えられないものかと創意工夫を加えながら,言説化に挑戦したのが『正法眼蔵』であることを踏まえると,一般に「転法輪」で済ませられているものを,わざわざ「道転法輪」ということばを編み出し,それを自著のなかに埋め込んだのには意味があるはずだ,と頼住光子さんは考えるからです。

 「転法輪」とは,一般には,釈迦の説法のことを意味します。つまり,釈迦の教えである「法」を車輪にたとえ,これを転がしていくことによって釈迦の教えをひろめる,というほどの意味です。このことばは釈迦の弟子のだれかが創案したもので,それが広く認知され用いられるようになったのだと考えられます。しかし,道元はそれでは不十分だと考えたのでしょう。そこで,道元がみずからの「さとり」の経験を踏まえて,より精確に表現するとしたら「道転法輪」というべきだ,と考えたに違いないと頼住光子さんは洞察しています。

 そして,つぎのように考察を展開しています。とても重要なところですので,そのまま引用しておきたいとおもいます。

 そこで,「道」に関して『正法眼蔵』の用例を調べてみると,多数の用例の中で特に注目されるのが,「菩提薩〇四摂法(ぼだいさったししょうほう)」巻の「道を道にまかするとき,得道す。得道のときは,道かならず道にまかせられゆくなり」(全上・764)である。ここで言っている「道」とは「仏道」であり,「仏のさとり」である。「道」を「道」に任せる時に,「得道」(「さとり」を得る)が可能になると言われている。この文章は,「道」を修行するのは個々の修行者ではあるものの,その修行は,他と二元対立的に切り離された個別的存在としての修行者が主体となって行う行為ではなくて,あらゆるものが結びつき合いはたらき合う「道」全体,真理の全体が主語となり,今,ここにおける修行というかたちで自らを顕現しているということを意味している。ここでは,真理としての「道」そのものが主体となっているのである。「道」を単なる「言う」と考えるならばその主体は誰か人間となるであろうが,ここでは真理としての「道」そのものが主体なのである。

 このように述べた上で,さらに,つぎのようにつづけています。

 この用例を踏まえて考えてみれば,「道転法輪」とは,「道」を「道」にまかせたものとしての,つまり,真理としての「道」が主語となった「道転法輪」であると理解することも可能となる。「道転法輪」とは,──中略── つまり,真理がたしかに顕現するということを真理自らが語っているということになる。「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉は,仏性の有無を説明する言葉などではなくて,真理それ自身が,真理の現成する構造を言葉として語っているものとして理解すべきなのだと道元は言うのである。(だからこそ,「悉(ことごと)く仏性あり」ではなくて,悉有(しつう)は仏性なりと読み下される必要があるのである)。

 このように述べた上で,この「道転法輪」の考え方が『正法眼蔵』全体の基底をなすのだ,と頼住光子さんは述べ,道元の主張する「修証一等」という考え方もここにつながるのだ,と結論づけています。こんなにみごとにわたしを納得させてくれた類書は他にはありません。みごとなまでの道元解釈の頼住ワールドを切り拓いているようにおもいます。

 ことここに至って,「道元」という命名そのものにも深い意味があること,そして,この名の人こそ『正法眼蔵』の著者に値するということ,仏道とはたんに「ほとけの道」ではないこと,得道とは「道転法輪」をわがものとすることを意味すること,道元とは,まさに,その「道」の「元」を極めた人の号であること,ということなどがわたしのこころの奥深くで一気に得心されることになります。

 そして,最後に,にっこり笑顔でわたしの脳裏に登場するのが,わたしの尊敬する大伯父である一道和尚のことです。そして,「一道」と命名したわたしの祖父・仙鳳和尚の顔がつづきます。お二人とも,宝林寺の住職。道元が最初に建てた寺の名が「宝林禅寺」(通称,聖興寺)。おそらくは,生涯にわたって道元禅師を意識しながら,その生をまっとうされたに違いない,とこれはわたしの推測。

 いま,生きていてくれたら『正法眼蔵』読解の手ほどきを願い出たことだろうに・・・とかなわぬ夢を思い描いています。至福のとき。

2015年5月29日金曜日

まだまだあるある「ご当地ラジオ体操」。津軽三味線ヴァージョンも。

 いわゆる「ラジオ体操」がらみの情報について,こんなのもある,あんなのもある,という具合にSさんから五月雨式にご指摘がつづくものですから,ならば,わたしも少し調べてみようとおもいたちました。で,初心者らしく,まずは,Wikipedia で「ラジオ体操」を当たってみました。そうしたら,あるわ,あるわ,こんなにもあるのか,とびっくりするほど情報満載でした。

 逆にいえば,よくぞ,こんなにたくさんの情報を調べ上げたものだと感心してしまいました。驚くべき情報量です。興味のある方はどうぞ調べてみてください。それはそれはたいへんなものです。一度にラジオ体操博士になれます。

 ここでは,前回,前々回からのつづきで,いわゆる「ご当地ラジオ体操第一」に限定して,Wikipediaから引いてみました。題して,まだまだあるある「ご当地ラジオ体操」。北は青森から南は奄美,沖縄本島,宮古島にいたるまで,じつに多くの「ご当地ラジオ体操」が存在することがわかりました。以下はその抜粋です。

 Wikipedia(2015年4月7日11:30更新)
 「各地の方言や言語によるラジオ体操」
 2010年前後から,各地の日本語の方言や言語による掛け声や,和楽器・琉球楽器を用いたローカル版が盛んに制作されるようになった。これらは掛け声や伴奏が異なるだけで,曲や体操はNHKが放送しているラジオ体操と同じである。CD制作又は商業配信されているものを以下に挙げる。
 ※以下,末尾の〇印は『ラジオ体操第一お国言葉編』(2013年6月19日にテイチクエンタテイメントが発売したアルバム)に収録されているもの。▽印は『ラジオ体操第一ご当地版』(2013年7月17日に日本コロムビアが発売したアルバム)に収録されているもの(稲垣・注)。

 ラジオ体操第一津軽弁(テイチク版)〇,(日本コロムビア版)▽
 ラジオ体操岩手弁▽
 ラジオ体操〔遠野弁〕版~今日もがんばっぺな~(CD発売)
 おらほのラジオ体操(石巻市)(CD)
 ラジオ体操第一山形弁〇
 鶴岡版おらほのラジオ体操(CD)
 ラジオ体操第一茨城弁▽
 ラジオ体操第一名古屋弁〇
 ラジオ体操第一関西弁〇
 ラジオ体操第一京都弁▽
 ラジオ体操第一大阪弁▽
 ラジオ体操第一広島弁▽
 ラジオ体操第一土佐弁▽
 ラジオ体操第一博多弁(テイチク版)〇,(日本コロムビア版)▽
 ラジオ体操第一熊本弁▽
 ラジオ体操第一鹿児島弁(テイチク版)〇,(日本コロムビア版)▽
 奄美島口ラジオ体操(CD)
 ラジオ体操第一(うちなぁぐち)(CD)
 ラジオ体操第一ウチナーグチ▽
 ラジオ体操~宮古島バージョン(CD,DVD)
 新川スマムニラジオ体操(CD)〇
 ラジオ体操第一英語編〇
 ラジオ体操第一イタリア編〇
 ラジオ体操第一ギニア編(オスマン・サンコンによるスス語の掛け声)〇

 とりあえず,以上です。
 なお,Wikipedia には,それぞれのご当地ラジオ体操についてかんたんな解説がついています。たとえば,掛け声をかけている人,演奏している人,などの名前や,制作年,などです。

 こうして眺めてみますと,2010年前後から,この種の「ラジオ体操版」が全国各地で盛んに制作されるようになったようです。その因果関係は定かではありませんが,どうやら,2011年3月11日の東日本大震災が大きなきっかけになっているようにおもわれてなりません。近代合理主義,あるいは,近代科学主義のシンボルともいうべき「原発安全神話」がもろくも崩れ去ったことの反動ではないか,というのがわたしの見立てです。この点については,もう少し慎重に,詳しく分析していく必要がありますが・・・。

 少なくとも,東日本大震災を契機にして,日本人のこころになにか大きな変化が生まれたことは間違いないとおもいます。とりわけ,ふるさと納税といった,税制改革によって「ふるさと」というものの概念が,それ以前とは少しばかり変化してきたこともたしかでしょう。たとえば,このふるさと納税の制度をつかって,本土に生まれ育った人の中から,そして,本土で仕事をしている人の中から,沖縄県にふるさと納税をするという人が,最近になって激増しているという現象があります。ここでいう「ふるさと」は,明らかに国語辞典的な意味からははずれています。

 こうした動向とはま逆な現象が「ご当地ラジオ体操」なのかなぁ,とぼんやりと考えています。つまり,もっと郷土愛を培っていこう・・・というような・・・・。このあたりのことは,もう少し,具体的な事例を詰めていってから結論を出したいとおもいます。が,なにやら,近代的な意味での「ふるさと」とは違った,新たな「ふるさと」感覚が生まれつつあるようにおもわれてなりません。なにか,こころがほのぼのとするようなことばのイントネーションだとか(つまりは,お国訛り,方言),山や川や森などの景色だとか,朝夕の空の色模様の変化だとか,小鳥の鳴き声だとか,そんな自然との対話に似たような感覚が,わたしの中にはあるようです。

 ふるさとを喪失してしまって(つまり,三河弁がしゃべれなくなってしまって)根なし草になってしまったわたしのような人間は少なくないのではないかとおもいます。地方を転々としたり,故郷を離れて都会に長く暮らしている人の中には,わたしのような人間がかなりいるのではないか,とおもいます。とってつけたような「絆」などということばが,宙に浮いたまま多用される社会は,その裏返しではないかともおもったりしています。

 こんなことがらと,「ご当地ラジオ体操」の流行とはどこかで連動しているのではないか,とあてもなく考えています。

 というようなことで,今回はどどめておきたいとおもいます。

2015年5月28日木曜日

「背伸びの運動やるまいかん」。「方言ラジオ体操」だって? そんなのもあるんだ!とびっくり。

 老人になると世の中に疎くなる,とむかしから言われています。わたしも,とうのむかしに老人の仲間入りをしています。ですから,世の中の常識からは遠のくばかり。もっと,若い人たちとの交流を大事にし,確保しておかないといけない,と反省。

 昨日のブログに,ラジオ体操のことを書きましたら,早速に,わたしの数少ない若い友人のSさんから「方言ラジオ体操」というのがあるのを知ってますか,というメールが入りました。親切に,方言ラジオ体操に関するURLをいくつも書き添えてくださったので,それを端から開いて,一生懸命に勉強しました。

 いやはや,ラジオ体操も,いまや,そこまできたかと正直,驚いています。
 Sさんから教えてもらった情報によりますと,以下のとおりです。

 わたしの出身地である愛知県豊橋市が「豊橋弁ラジオ体操」のスタジオ録音を5月21日に終えて,6月1日から市役所本庁舎内で放送する予定。さらに,これをCDにして市内の学校や福祉施設などに送る,という。

 このCDをなんとか手に入れて,内容をチェックしてみたいとおもっています。その上で,論評を加えてみたい・・・と。でも,このニュース・ソースであるYOMIURI ONLINE(5月22日)によれば以下のようなアレンジがされたということです。
 腕をまわします⇨腕をまわすまい
 ねじる運動⇨ねじりんよー
 といった具合です。その他にも,「調子いいじゃん」「目がまわりそうだら」「背伸びの運動やるまいかん」,など。

 なんともはや,くすぐったくて,想像するだけで笑ってしまいます。これを聞きながらラジオ体操をする豊橋市の市役所の職員や学校の子どもたちはどんな気分でやるんだろうか,とわたしには想像できません。ぜひ,現場で拝見したいものです。

 このご当地「ラジオ体操」なるものは,すでに,あちこちで行われているという情報もSさんから教えてもらいました。たとえば,震災を機に,宮城県石巻市で始められ,つづいて宮崎県都城市でもやっているとのことです。石巻市は「おらほのラジオ体操」,都城市は「みやこんじょ弁ラジオ体操第一」。いずれも,YouTubeでみることができます。

 また,毎日新聞・5月13日配信のネット情報によれば,「秋田弁ラジオ体操」なるものを大館市のまちおこし団体「大館市まるごと体験推進協議会」が作成。5月30日に,札幌市の中学生に披露する,とのこと。こちらは観光資源のひとつとして開発したものであることがわかります。

 Sさん情報によれば,沖縄バージョンもあるとのこと。「うちなーぐち朝のラジオ体操」(2012年3月7日配信,YouTube・Camploo Okinawaさんのチャンネル)がそれ。早速,動画をみてみましたら,びっくり仰天でした。なぜなら,「うちなーぐち」はともかくとして,ラジオ体操そのものが本土のそれとは違うのです。全部ではないですが,かなりの部分が,本土のわたしたちが馴染んでいるラジオ体操とは違います。わたしの目からは,沖縄風に「進化」しているようにみえます。手足の所作が体操であると同時に舞踊的なのです。

 これは意図的にアレンジした結果なのか,それとも自然にそのように変化してしまったのか,わたしの感触としては後者のような気がします。いかにも沖縄的なのです。言ってしまえば,空手の要素と舞踊の要素がミックスされているようにみえるのです。それらの要素がおのずからラジオ体操のなかにしみこんでしまった,というようにみえるのです。そして,この方がやりやすいのではないか,とおもいます。からだに合っているというか,沖縄のリズムに合っているというか,ともかくも沖縄の雰囲気がつたわってくるのです。

このように考えてきますと,こちらは,文化複合の典型的なサンプルになりそうですので,ちょっと真剣に考えてみたいとおもいます。とりあえずは,実際に,現場に立って,この目で確かめてみたいとおもいます。ラジオ体操という味もそっけもない体操が,島から島へと渡っていくうちに文化変容を起こすのはなぜか,文化の伝承とはどういうことなのか,を考える上での貴重なサンプルになることは間違いありません。

 この問題についての思考の結果については,また,いつか,このブログで書いてみたいとおもいます。とりあえずは,Sさんから教えてもらった「方言ラジオ体操」なるものの紹介まで。

2015年5月27日水曜日

ラジオ体操ってなんだ? 号令ひとつで日本人がみんな同じ動きをはじめる,世にも恐ろしい文化装置?

 締め切りのきてしまっている原稿をいくつも抱え込みながら,悶々としながら無為の日々を送っています。そんなときは,街中を歩きながらも原稿のことが頭から離れません。

 そんな原稿のひとつに,「ポスト・グローバル化社会におけるスポーツ文化を考える」というのがあります。仮のタイトルは「スポーツ文化の脱構築」となっていますが,同じ趣旨であればタイトルの変更は可能です。大きなタイトルが与えられていますので,その中でなにを主題にするかが迷いのもとになっています。

 抽象論をもっともらしく論じたところで,そんなものはほとんどなんの意味もない,といまは考えるようになっていますので,新たな手法をみずから見出さなくてはなりません。なぜなら,ポスト・クローバル化社会の問題を考える上では,近代のアカデミズムの手法はもはやなんの役にも立たない,いな,むしろ,その呪縛から脱却しなければならない,と考えるようになったからです。つまり,グローバル化という現象そのものが,まさに,ヨーロッパ近代の論理の諸矛盾の帰結にすぎないということがはっきりしてきたからです。ですから,それに代わるべき新たな論理が必要になってくるというわけです。

 ついでですので,もう少しだけ踏み込んでおきましょう。ヨーロッパ近代の論理とは,別の言い方をすれば,理性中心主義であり,近代合理主義ということです。もっと違う言い方をすれば,科学的合理性を最優先させる考え方です。その結果,人間の「命」の問題がどこかに棚上げにされたまま,科学技術と経済的合理性(とくに,フリードマンの新自由主義)が,社会を国家を,そして世界を支配することになってしまいました。そして,とうとう「命」よりもお金が大事という支配階層が圧倒的な力をもつことになってしまいました。

 この結果が,まあ,言ってしまえば,グローバル化社会というわけです。そのグローバル化社会を超克するポスト・グローバル化社会を想定するには,グローバル化社会をもたらした論理を,一度,御破算にして,初手から論理を組み立て直す必要があります。その論理はどのようなものなのか,そして,それをスポーツ文化論という土俵で語るとしたら,どうなるのか,ここが大問題となります。これをことばで言うとしたら,金よりも「命」を大事にする考え方,ということになるでしょう。

 この視点から,近代スポーツ競技というものをもう一度,初手から見つめなおしてみますと,とても面白い世界が浮かび上がってきます。それらを一つひとつ,具体的な例を挙げて語っていけば,近代合理主義という考え方が含みもつ諸矛盾についてとてもわかりやすく,説得力のある文章が書けるはずです。では,なにを,その具体例として取り上げればいいのか,ここがポイントとなります。

 こんなことをぼんやりと考えながら街中を歩いていましたら,ひょいと,いいアイディアが浮かんできました。それがラジオ体操でした。

 ここでは詳しいことは省きますが,ラジオ体操は,号令をかければ,あるいは,伴奏音楽を鳴らせば,日本人であれば,みんななんの矛盾を感ずることもなく一斉に同じ運動をはじめます。このラジオ体操という文化こそ,近代合理主義が生みだした典型的な産物のひとつです。しかも,日本人であれば,小学校に入学と同時に教えられ,体育の授業の準備運動として,全国津々浦々にいたるまで浸透しています。ですから,大人になってからも,伴奏音楽がなり始めれば,もう自動人形のように体操をはじめます。

 ラジオ体操の歌にもありますように,朝早く起きて,新鮮な空気を胸いっぱいに吸って体操すれば,みんな笑顔になって元気がよみがえる,と信じて疑いません。子どものときから長年にわたってそのように「刷り込まれて」いますから,なにも考えることなく(思考停止のまま),無批判に,そのすべてを容認しています。そして,ラジオ体操のすべてが「善」なるものだと信じて疑いません。つまり,上意下達のための,みごとなまでの優れた文化装置になっています。

 そして,すぐにわたしの頭に浮かんだことは,権威ある人の発言にはきわめて従順に従う国民性の根幹を構築しているのは,ひょっとしたら,ラジオ体操ではないか?ということでした。少なくとも,日本近代の時代精神を構築し,それを支える上で大きな貢献をしてきたことは間違いない,と言っていいでしょう。

 このことにはたと気づいたとたんに,わたしの頭はフル回転をはじめました。そうだ,ポスト・グローバル化社会におけるスポーツ文化を考えるとは,ラジオ体操を批判的に超克し,それに代わるべきまったく新たな体操文化を構築することに他ならない,と。それは,純粋に近代の合理性,すなわち,科学的合理主義や数量的効率主義に支えられたラジオ体操ではなく,そこに「命」を吹き込むための「非合理」性をどのようにして復権させるか,それが問われることになる,と。

 もっと,わかりやすく言ってしまえば,ピノキオのような「関節人形体操」(Gliederpuppenturnen )に,「命」を吹き込み,生きた人間のための運動(Bewegung )を復権させること。

 このさきは,依頼されている原稿の方で展開してみたいとおもいます。今日のところは,そのアイディアの一端のご披露まで。

2015年5月26日火曜日

チャップリンの『独裁者』(1940年)をみる。ラストの名演説が聞きたくて・・・。

 アベがいよいよ独裁者としての姿を剥き出しにしはじめています。もはや,恥も外聞もなく,でたらめのロジックを振り回して,なんの矛盾すら感じていないようです。自信満々の狂気ほど恐ろしいものはありません。まさに「アドルフ・ヒトラー」の再来です。

 「わたしの提出する法案は間違ってはいませんよ。なぜなら,わたしは総理大臣だから・・・」などというセリフを党首討論で平然と言ってのけるほどの狂いようです。これは「朕は国家なり」と言っているのと同義です。もはや,つける薬もありません。こんな馬鹿げた議論が,国会という最高決議機関で,白昼,堂々と繰り広げられているのに,ジャーナリズムも沈黙を保ったままです。完全なる独裁体制が完成した,なによりの証です。

 新聞にアベの顔写真が載っていると,すぐに黒のサインペンをとりだして,鼻の下(解剖学用語では「口上長」という)にチョビひげを描いてウサを晴らしています。そして,「アベラー」とか,「シントラー」,「アベルフ・シットラー」というようなキャプションまで書き添えています。それが,日々描いているうちに,ますますほんものの「アドルフ・ヒトラー」の顔そっくりになってくるのですから,不思議です。

 近頃は,かなりの暴言を吐いてもジャーナリズムが問題にはしないところまでアベ・ギフト(毒)が効いてきたせいか,妙に自信をもってフリー・ハンドでペラペラとよくしゃべるようになりました。しかし,言っていることはいつも同じことの繰り返し。バカの一つ覚えのように,「国民の命と安全な暮らしを守るために」を多用し,そのために戦争ができる強い国家にすることを「積極的平和主義」という欺瞞語を用いて国民に眼くらましをかませ,なにかといえば「日米同盟」を振りかざしてみずからの正当性を主張し,沖縄の人びとの命と人権を無視し,民意という民主主義を踏みにじってまでもして,みずからの主張をゴリ押ししようとしています。

 困ったことには,日本国憲法もまともには読んでいないようですし,ポツダム宣言もよくは知らない,と平気で言える総理大臣です。こんな総理大臣はかつてひとりもいなかったとおもいます。なぜなら,それなりの「知性」をもっていたからです。しかし,アベには「知性」のひとかけらも感じられません。ときには,アドリブで聴衆をあっと言わせるほどの「知性」の片鱗をみせてほしいものです。現状では,たんなる「戦争おたく」にしかみえません。

 そんな不満や鬱積がたまってきて,どこかてエア抜きをしなければやってられない,と思い詰めていました。そこで,ずいぶん前にリバイバル映画のひとつとしてみた記憶のある,チャップリンの『独裁者』という映画をみることにしました。

 理由は,この映画のラスト・シーンが秀逸だからです。独裁者と瓜二つの床屋が,独裁者に成り代わって「名演説」をぶち上げます。この「名演説」を,いつか,書き写して,このブログで紹介してみたいとおもうほどです。

 が,今日のところはここまでとしておきます。それより,いまでは,どんな方法にしろ映画『独裁者』をみることはできますので,ぜひとも,ご覧になってみてください。いま,日本国が陥っている「独裁」という病がどのようなものであるかが,ストレートに伝わってきます。天才・チャップリンの面目躍如というところです。じつに明快そのものです。

 いまこそ,みておくべき,お薦めの名画です。

2015年5月25日月曜日

ジャン・ユンカーマン監督『映画 うりずんの雨』(6月20日岩波ホール封切り)の予告編について。

 大きな話題になりつつあるジャン・ユンカーマン監督作品『映画 うりずんの雨』の予告編がネットでみられます。とても素晴らしい内容になっていますので,紹介したいとおもいます。
http://okinawa-urizun.com/

 この予告編は映画の映像と,ジャン・ユンカーマン監督へのインタヴューの2本立ての構成になっています。映像もさることながら,監督の語ることばがとても重く,説得力があって,わたしは感動しました。

 ことしは,日本がポツダム宣言を受諾してから「70年」,ペリーが浦賀に現れてから「150年」という節目の年になります。この話がジャン・ユンカーマンの口から飛び出したときに,わたしは思わず「アッ」と声をあげてしまいました。というのは,ペリー来航から「150年」は江戸末期から明治・大正・昭和をへて平成へと考えると,ずいぶん長い年月が経っているということが素直に納得できます。この「150年」という年月を知った上で,ポツダム宣言受諾から「70年」と聞いたとき,「ウーン,もうすでに,そんなに長い年月を経ているのだ」といまさらながらびっくりすると同時に,感動もしてしまいました。なぜなら,この「70年」はまさにわたしの人生そのものでもあったからです。もう少し精確にいえば,1945年の敗戦の年に,わたしは満7歳でした。以後,ものごころがつき,いろいろと敗戦後の日本か舐めた辛酸とともに成長しました。ですから,この「70年」はわたしにとっては,まさに,わたしのライフ・ヒストリーそのものでもあるからです。その「70年」からわずかに「80年」前がペリー来航の年だった,というのですから,これは驚かずにはいられません。つまり,わたし自身が歴史そのものになってしまっている,ということです。

 そして,ジャン・ユンカーマン監督はつぎのように語ります。日本が,戦争を放棄してから「70年」。この年月は,日本にとっては「宝」のような時間です。なぜなら,日本が「70年」もの長きにわたって戦争をしないでここまでやってきた実績は,国際社会も非常に高く評価せざるをえないからです。世界のどの国もこの真似はできませんでした。日本は,いかなることがあろうとも,「憲法9条」を旗印にして,あらゆる戦争に直接,手を染めることなく,じっと「平和」を見据えてきました。この姿勢は,まことに立派なものです。わたしは「憲法9条」をもつ日本国にずっと尊敬の念と強い憧れをいだいてきました・・・・,と。

こう言われてみてはじめて気づく自分のノー天気さにも驚いています。まるで空気のように「憲法9条」を呼吸してきましたので,そのありがたさに気づかないできてしまった,という次第です。しかし,いまや,この「憲法9条」を棚上げにして「戦争法案」を押し通そうとしている政府自民党と向き合うことになり,いまさらながら危機感に襲われています。ここはなんとしても踏ん張らなくては・・・・と。

 さて,映画「うりずんの雨」。英語名では「The Afterburn 」。
 うりずんとは,3月から5月にかけての沖縄の「春」の季節のこと。この大地がめざめ雨が降って大地がうるおいはじめ,植物が一斉に芽吹く,沖縄にとってもっとも大事なシーズンです。この「うりずん」のシーズンに,米軍による沖縄上陸戦が始まりました。3月26日,渡嘉敷島が米国艦隊によって包囲されました。この日はわたしの誕生日ですので,忘れもしません。沖縄の人びとにとっては,この「うりずんの雨」とともに,悲惨な沖縄戦の記憶がよみがえってくる,とそんな思いをこめてこのタイトルをつけたとジャン・ユンカーマン監督は語ります。また,英語名の「The Afterburn 」も,ふつうの英語ではなく,監督の造語。すべてのものが焼き尽くされたあと,という意味と同時に,そのことによって負った「やけど」の傷跡は,時とともに深いトラウマとなって,さらに沖縄の人びとのこころに食い込んでくるという心理学上の症例とを重ね合わせてイメージしている,と監督。こういう話を聞きますと,なるほど,監督のいろいろの思いが籠められたみごとな題名となっているということがよくわかります。

 1995年,12歳の少女を3人の米兵が連れ去りレイプした事件をきっかけに,沖縄の人びとの我慢が限界を越えました。その「怒り」の感情が一気に噴出することになります。そして,このときの抗議行動がアメリカを動かし,基地返還の動きが具体化します。しかし,このときのアメリカの基地返還の提案をうやむやにしてしまったのが日本政府だった,という事実も描き出されています。

 ユンカーマン監督は,このときの3人の米兵に取材を申し入れます。この3人は,いずれも7年の刑を受けてのち帰国。ひとりは取材を拒否,もうひとりは帰国後もレイプ事件を起こして自殺,さいごのひとりが取材に応じてくれ,その映像がこの映画のなかに収められています。その本人の語るには,あんなことをする必要性はなにもなかった,まるで血迷ったかのように,なにもわからないままにあんなことをしてしまった,と。アメリカ兵にとっては沖縄の基地は,そういう心理状態にさせられてしまう構造的な問題をはらんでいるのだ,とユンカーマン監督は述べています。それが「基地」というもののもつ根源的な矛盾なのだ,と。

 つまり,レイプを犯すような人間はモンスターのようなものなのだ。モンスターがレイプを犯すのであれば,それなりの対応の仕方がある。しかし,米軍基地に勤務するアメリカ兵は,ごくふつうの人間です。そのごくふつうの人間がレイプを犯してしまう,「血迷ってしまう」「わけがわからなくなってしまう」,そういう装置が「基地」というものなのだ,と。だから,「基地」は恐ろしいのだ,と。

 この映画は以下のように4部作で構成されています。
 1.沖縄戦
 2.占領
 3.凌辱
 4.明日へ

 沖縄の米軍基地問題を考える上で,つぎの2点を重視している,とユンカーマン監督は語ります。
ひとつは,日本政府がアメリカ政府に対して,基地返還を要求していないこと,もうひとつは,アメリカ政府は沖縄を戦利品だとおもっていること。その証拠に,キャンプ名である「ハンセン」も「シュワブ」も沖縄戦での英雄の名前を当てていることに明らかだ,と。だから,沖縄をどのように使おうと自分たちの勝手だ,と。

 しかし,日米地位協定には「不要になった土地は返還する」と書いてあるけれども,日本政府が返還を要求しないので,アメリカは「戦利品」だとおもってそのままほったらかしにしてある,と。つまり,実際に基地として使っていない不要な土地がたくさんある,という。

 そして,なにより大事なことは,沖縄の人びとの「命」を大事にすること,沖縄の人びとを「人間」として正当に認めること,つまりは「人権」と「民主主義」が沖縄では機能していないことが,最大の問題だ,とジャン・ユンカーマン監督は熱く語ります。

 6月20日(土)の封切り初日の第一回目の上映を見にいこうとおもっています。

2015年5月24日日曜日

おめでとう!照ノ富士。猛稽古で勝ち取った優勝。おみごと!

 やわらかなからだに筋金が一本通りました。肩・首回りの筋肉のつき方は尋常ではありません。上半身の力がついたことによって,相撲がひとまわり大きくなりました。天性の足腰のバネのよさを生かした大きな相撲があなたの魅力です。これを機に,相手力士をぶんまわし,ぶんなげるような大きな相撲を目指してください。そして,堂々たる横綱をめざしてください。

 千秋楽の解説をつとめていた北の富士と舞の海は,ともに,とりこぼしのない,すきのない相撲がとれる力士を目指せば横綱は近い,と述べていました。が,わたしはそんなちょろい解説をせせら笑いながら聞いていました。この人たちは名力士ではありましたが,相撲ファンがなにを期待しているのか,どういう相撲を喜ぶのか,という点での思慮に欠けています。

 大相撲の魅力は,なんといっても猛々しい闘魂が全身からあふれでる,力強い取り口にあります。勝ち負けの星勘定にとらわれた,勝つための小細工に走る相撲などは二の次の話です。勝ち負けは結果論であって,勝ち星をもぎとるプロセスや,そこにいたる荒魂を感じさせる相撲を,もっともっと擁護したいとわたしは考えています。

 いまも思い出すだけで胸が熱くなる,あの朝青龍の相撲が忘れられない人は少なくないとおもいます。あの朝青龍の相撲をひとまわりもふたまわりも大きくした相撲を,照ノ富士はめざすべきでしょう。その点では勝ち負けを度外視してもいい。とてつもない,みたこともない,大きな相撲をとってほしい,と切に望みます。

 右でも左でも上手まわしを引けば,もう怖いものはありません。そのための立ち合いは研究しなければならないでしょう。ひとつ,先制攻撃を加えておいて自分充分の組み手になること。これをめざしてください。ちゃちな「張手」はやめましょう。あんなものは,ほんとうに強い力士のやる手ではありません。「張手」が大好きな横綱が大記録をつくっていますが,わたしはどうしてもかれの相撲は好きにはなれません。

 千秋楽の功労者は,右手,右足首がほとんど使えない状態で苦しんでいた日馬富士です。弟弟子の優勝のためになんとかここ一番,と奮起してくれました。立ち合い,珍しく左前まわしをとりにでました。左しか使えないのですから当然です。それを切られてしまうと,あとは防戦一方でした。俵に足がかかり,かんたんに突き出されてしまうとおもわれたその瞬間に,いかにも日馬富士らしい反射神経が反応しました。まるでカエルのようにからだをまるめて腰を落とし,下から飛びつくようにして白鵬の腰にくらいつきました。

 一瞬,朝青龍の相撲を思い出しました。ここまでで,勝負あった,とわたしは安堵しました。一日も早く,日馬富士が無傷のからだで土俵に上がる日がくることを待っています。そうなれば,白鵬は,もはや二人の大敵をもつことになります。そこに逸ノ城が参入する日も遠くはないでしょう。

 今場所は,その意味では大きな転換期であったようにおもいます。終盤に混戦状態になったことが,そのなによりの証拠です。つまり,みんな,それぞれに力をつけてきた結果です。そういう混戦状態が生まれたからには,そこから抜け出す必要があります。

 その答えはかんたんです。勝っても,負けても,面白い相撲をとること。朝青龍のように。闘志を剥き出しにして,荒魂が弾けるような相撲を。そして,相撲ファンの胸を熱く焦がし,眼を釘付けにするような相撲を,勝負を度外視してとりつづけること。そうなれば,本場所に通うファンも増えることは間違いなしです。

 照ノ富士は,あらゆる点で,そういう条件を満たしています。とにかく相撲は荒くても結構。最後にはがっぷりに組み付けて,ぶんまわす,寄り切る,なんでも結構。これまでにない予想不能の相撲を展開してほしい。

 思い出すのは初代の若乃花。異能力士と異名をとり,細身で小さなからだに似合わない,とんでもない力まかせの相撲を展開しました。ですから,絶大なる人気がありました。現役中に,映画にもなったほどの人気でした。その映画のタイトルは『土俵の鬼』でした。その初代若乃花もまた,猛稽古で強くなった横綱です。

 その点,いまの照ノ富士は恵まれています。横綱日馬富士を筆頭に,宝富士,安美錦,といったタイプのまったく異なる力士が顔を揃えています。稽古が自分を強くしてくれたということをだれよりもよく知っている照ノ富士ならできます。

 こじんまりとした負けない相撲ではなく,負けてもいい,勝負を度外視した大きな相撲をめざしてください。その暁には,これまでに例をみない超大型の大横綱の誕生です。そうなれば,歴史に残る名勝負をいくつも残すことができます。優勝回数や連勝記録などは,紙の上での計算にすぎません。人間の眼に焼きつくような,そして,生涯忘れることのない強烈な印象を残すような相撲を,照ノ富士には期待したいとおもいます。

 さて,いよいよ新大関の誕生です。これまでの歴代大関がみんな,最初の場所には勝ち越せるかどうかに苦しみました。勝とうとする気持があまりに前に出すぎるからです。そんなことはどこ吹く風とばかりに無視して,面白い相撲をとることに邁進してください。のびのびと自分の相撲をとりきることです。そうすれば,文句なく結果はついてきます。あのふてぶてしい土俵上での表情と,勝って花道を引き上げるときの童顔剥き出しの笑顔が,なによりの魅力のひとつです。照ノ富士ならできる。そう確信しています。

茨城県の水戸と大洗海岸を巡る旅。年に一回の旅行会。

 親同士が仲良しだったO家とI家との年に一回の合同旅行会があり,茨城県・大洗海岸に集結,再会を存分に楽しんできました。平成元年にはじまったということですので,すでに27年目。途中,2011年の大震災のあった年はお休みにしましたので,今回で第26回目の旅行会。いやはや,息の長いこと。みんな童心にかえってのはしゃぎぶりがなによりのご馳走。後期高齢者ばかりのじじ・ばばが無邪気に「ちゃん」づけで呼び合って,冗談ばかり言っては笑い転げてきました。

 ひょっとしたら,最高の健康法。いやいや,不健康極まりないかも。なぜなら,連日のはしゃぎすぎと過食と飲み過ぎ。帰宅して計量してみたら,なんと2㎏も体重増。これはあまりに増えすぎ。そのせいか,少しばかり胃が痛い。消化器官をはじめ,全身を休養させてやる必要がある。そんなことを考えなくてはならないのですから・・・・。帰宅後は断食に近い食生活。でも,夕食だけはしっかり食べる。反動で食べ過ぎで眠くなる。すぐに,ごろり。やはり,不健康な生活そのものです。来年からは気をつけなくては・・・・。

 総勢12名。80歳を超えた人が5名。ここではわたしは若造扱い。でも,幹事はわたしより10歳若い弟がやってくれますので,その点は楽隠居をさせてもらっています。助かります。移動はマイクロバス。2泊3日。

 中日はまる一日,水戸にでて遊んできました。まずは,緑岡の徳川ミュージアム,そして,偕楽園,弘道館と3か所を巡りました。偕楽園と弘道館はガイドさんが案内してくれましたので,とてもよい勉強になりました。

偕楽園からの眺望
 
今回の発見は,水戸は文字どおり「水の戸口」であった,ということを知ったことです。いつも,高台の偕楽園から遠望を楽しんでいましたので,水戸というところは高台にある都市だとばかりおもっていました。が,そうではなく旧城下町は高台にあるものの,その周囲は那珂川が流れ,偕楽園の下も千波湖があり,その周囲は湿地帯。ガイドさんの話では,この偕楽園の下まで太平洋から那珂川を遡り,支流に入って船が上ってきた,といいます。ですから,旧市街はともかくとして,新市街はむかしは湿地帯や田んぼだったそうです。いまでは,立派なビルが立ち並んでいますが・・・。これは驚きでした。

弘道館
 
最終日の午前には,大洗磯前神社に立ち寄ってきました。初日にバスでこの境内の下を通過したときに,なにか異様な雰囲気を感じたものですから,いったい,どういう神社なのだろうかと確かめたくなりました。行ってみたら,予想どおりの,一種異様な雰囲気をもった立派な神社でした。おそるおそる鳥居をくぐって社殿に向かうと,左側にこの神社の来歴を記した大きな案内板が立っていました。これを読んで,なるほど,と納得。

屋根に特徴がある
 
オオクニヌシを主神とする出雲系の神社でした。大洗の海岸から一気に小高い山となっていて,その頂上にこの神社があります。境内の周囲はキャンプ場となっていて,うっそうと生い茂った松林に囲まれています。社殿を後ろにして,正面の鳥居から外を眺めれば,太平洋が一望のもとに広がっています。ロケーション的にも,那珂川の河口に近く,水戸への海運の要所であったことは容易に想像がつきます。往時は相当の勢力をほこる豪族がここを拠点に活躍していたのだろう,とすぐにひらめきました。

正面の鳥居からの眺望
 
ここから海岸線に沿って南にくだっていけば,鹿島神宮があり,そのすぐ西には香取神宮があります。このふたつの神社がヤマト朝廷の北への備えの役割をはたしていたと考えると,この大洗磯前神社がどのようなものであったのか,はますます興味が湧いてきます。

 ついでに書いておけば,この鹿島神宮のすぐ近くには「鎌足神社」があり,地元には鎌足の出身地であり,多くの伝承がいまも語り継がれていると聞いています。鎌足一族の墓もある・・・と。

 となりますと,いよいよもって天智・天武のあの古代史の謎解きの鍵をにぎるひとつが,ここにもあるのでは・・・と夢はふくらんでいきます。こんどは,きちんと準備をしてフィールド・ワークにきてみたいと,もう,つぎの夢をみています。

2015年5月23日土曜日

『野上豊一郎の文学』(稲垣信子著,明治書院)がとどく。

 定期購読をしている『週間読書人』の5月15日号(第3089号)に,稲垣信子著『野上豊一郎の文学』漱石の一番弟子として(A5版・340頁・3800円,明治書院,平成27年3月21日,初版)が取り上げられていたので,まっさきに読んだ。知っている人の作品が書評されていると嬉しいものである。著者の稲垣信子さんは,じつは,わたしの従兄弟の詩人で作家の故・稲垣瑞雄さんの奥さんである。お二人で同人誌『双鷲』をすでに長い間,上梓されていて,わたしはこの同人誌の読者のひとりでもある。まあ,言ってみれば,わたしはお二人の長年のファンのひとりだ。

 
お二人の作品は,まずは,この同人誌『双鷲』に掲載(長編小説などは長期連載)された上で,のちに単行本として上梓されるのが通常の流儀になっている。だから,今回の『野上豊一郎の文学』も,『双鷲』連載中にとびとびながら読んでいたので,大筋のところは記憶に残っていた。それが書評されたのである。期待をして読んだ。

 
見出しも「問題視されてこなかった豊一郎の初期に光を当てる」渡邉澄子とあり,なるほどと納得。ところが読んでみてびっくり仰天してしまった。

 書評というものは評者の裁量に委ねられたものなので,どのように書かれようとも文句のいいようがないのは承知しているが,それにしても驚いた。わたしは,それを読む読者の立場から,そこになにを感じとったか,そして,そこからなにが透けて見えてきたか,厳しく批評をするしかない,と考えた。評者もまた,著者と同じように,書いた文章がそのまま批評の対象となるということを銘記しておくべきだろう。

 結論から入ろう。読後の第一感は「不快感」だった。なんとも後味の悪い舌触りがいつまでも残った。なぜだろうかと思い,もう一度,さらってみた。文体には書き手の品格がおのずから表出するという。そう,文体が下品なのだ。渡邉澄子ほどの書き手にしては,あまりに下品なのだ。なにか怨みでもあるのかとおもわれるほど毒が盛られている。それも剥き出しの毒が。そのせいか,なぜか,文章が乱れている。論旨がとおらないのだ。妬みの感情からなのか。まるで捨てぜりふともおもわれるような文章も随所に散見される。いったい全体,どうしたというのだろうか。

 こういう書評は読者迷惑だ。これとま逆な書評もときにはある。つまり,著者とお友だち関係であることを丸出しにした「べた褒め」書評である。こちらもまた,読んでいて辟易としてくる。ここにも評者の品格が丸見えになっていて,不快そのものだ。それはたんなる身内同士の「よいしょ」であって,評論でもなんでもない。そういう人の名前は忘れないで覚えておくことにしている。

 『野上豊一郎の文学』を丹念に読んでみればすぐにわかることだが,著者の稲垣信子さんは,じつに丹念に資料を読み込み,関連の文献を渉猟し,現地・関係者を尋ね歩きながら,きめ細かにみずからの思考を積み上げ,その上で丁寧に文章を織りなしていく作家だ,とわたしは受け止めている。たとえば,『「野上弥生子日記」を読む』(上・中・下巻,明治書院刊)を読めば明らかなように,じつに精緻に分析をし,批評を加えている。そのスタイルを「引用が多すぎる」と評者は切って棄てる。わたしには,その引用こそが,読者の理解を深め,著者の思いを伝える上でじつに効果的に生きている,とおもわれるのだが・・・。

 まあ,こういう不毛な議論はこのくらいにとめおくことにしよう。
 ただ一点だけ。著者と評者とは,ほとんど同年代で,しかも,書いてきたものも被っている。だから,どうしても辛口の書評になってしまうのもやむを得ないところもあろう。しかし,書評を読む読者は,そんなこととはなんの関係もない,いわゆる一般の読者だ。どこが優れていて,どこが問題なのか,を単純明快に論じてくれればそれで充分だ。以上で終わりにしておこう。

 この『野上豊一郎の文学』が,今日,著者から送られてきた。
 もう一度,じっくり通読しながら,存分に楽しむことにしよう。

 別件をひとつ。これは偶然ではなかろうとおもうのだが,書評掲載号と同じ号の一面下の広告欄に,著者の亡夫・稲垣瑞雄の著作が載っている。新刊『泰山木』,既刊『鮎のいる川』『朱光院』。いずれも愛知県豊橋市の豊川堂(ほうせんどう)刊。このうち『泰山木』だけはまだ手元にないので,近日中に購入しようとおもっている。

2015年5月22日金曜日

次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし。『修証義』・第11節。

 世の中がうさん臭くなってきて,困り果てています。戦後最悪の首相・アベが,憲法を無視し,民主主義を踏みにじり,無節操にアメリカに媚びへつらい,暴走につぐ暴走がつづいています。その暴走に歯止めがかけられない日本国はもはや民主主義国家としての体をなしていません。この暴走に,ようやく国民の多くが気づきはじめ,政治の潮目が変わろうとしています。が,まだ,アベはそのことに気づいていません。いな,気づいていながら無視しています。

 こんなときですので,こころを平静に保ち,人間としての生きざまの原点に立ち返って,思惟を深めることが,ことさらに重要であるようにおもいます。

 そこで,久しぶりに『修証義』の世界に浸ってみたいとおもいます。

 前回の第10節までで第2章(懺悔滅罪)が終わり,この第11節から第3章(受戒入位)に入ります。受戒入位とは,文字どおり戒を受けて仏の位に入る,というほどの意味です。第2章では,懺悔をすれば罪を滅し去ることができますよ,と説かれていて,第3章では,そのつぎのステップを提示し,戒を受ければ仏の位に入ることができますよ,と道元は説いています。

 では,第11節の経文を引いてみることにしましょう。

 次(つぎ)には深(ふか)く仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)を敬(うやま)い奉(たてまつ)るべし,生(しょう)を易(か)え身(み)を易(か)えても三宝(さんぼう)を供養(くよう)し敬(うやま)い奉(たてまつ)らんことを願(ねご)うべし,西天(さいてん)東土(とうど)仏祖(ぶっそ)正伝(しょうでん)する所(ところ)は恭敬(くぎょう)仏法僧(ぶっぽうそう)なり。

 
冒頭の「次には」とでてくるのは,第2章の懺悔滅罪を経たあとという意味での「次」です。つまり,懺悔滅罪を済ませ,次なる受戒入位をめざすには「仏法僧」の三宝を敬い奉ることが肝要である,と道元は説いています。仏とはほとけさま,法とはほとけさまの教え,僧とは僧侶のことです。仏教ではこの三つを「宝」と考えています。ですから,この「三宝」に対して畏敬の念をもつこと,これが仏門の入り口でしっかりと確認されます。

 ここでは「三宝」は自明のこととして軽く流されていますが,『修証義』の専門の解説本によれば,「三宝」にはさらに三つの観点から考えられているといいます。すなわち,「住持三宝」「現前三宝」「一体三宝」の三つです。

 住持三宝とは,仏壇や須弥壇に祀られている仏像,経典,雲水・修行僧のことを意味します。
 現前三宝とは,正覚(正しいさとり)を成就した釈尊を仏宝,その正覚の教えを法宝,その教えを人に説き伝える僧侶たちを僧宝と呼び,この三つの宝を意味します。
 一体三宝とは,仏法僧という三つの宝は,じつは一体不二のものであるということを意味します。すなわち,同一の法性真如(不変の本性・本質)を三つの側面から光を当ててみたにすぎない,というわけです。

 このように考えてきますと,ひとくちに「三宝」と呼んでいても,その奥はきわめて深いことがわかってきます。ですから,仏門に入る者は,まずもって仏法僧の,この「三宝」に畏敬の念をいだかなくてはいけない,というわけです。

 では,わたしの読解を提示しておきましょう。

 懺悔滅罪ののちは,仏法僧の三宝をこころから崇敬することが大事です。たとえ,生まれ変わったり,死に変わったりしても三宝を忘れることなく供養し,敬いつづけることが肝腎です。西天のインドでも東土の中国でもほとけさまの教えが正しく伝承されているところでは,みんな仏法僧をこころの底から大事にしているのです。

 最後に蛇足ながら,わたしの父の名前は「戒心」といいます。幼名は「唯雄」。わけあって生まれた寺とは別の寺に預けられ,そこの養父が名づけたと聞いています。国語辞典には「用心すること。油断しないこと。警戒。」とあります。しかし,わたしの記憶では「こころを戒めよ」という意味だと聞いています。名づけ親(わたの祖父でもある)の仙鳳和尚は,なかなか学識のあった人だと聞いています。だとすると,道元が『正法眼蔵』の中で説いた「受戒入位」のことが念頭にあって,「戒を受け入れるこころ」(すなわち,仏門に入るこころ,覚悟),あるいは「戒を授けるこころ」を大事にせよ,という思いを籠めたのではないか,とこれはわたしの推測です。というより,『修証義』読解を試みる,いまの,わたしのこころにはそんな風に響いてきます。ちなみに,父はこの名前をとても大事にしていました。

 わたしの崇敬する大伯父・一道和尚(わたしの父とは兄弟のようにして育てられた人で,一道の名も仙鳳和尚による)が,ときに「戒心やい」(三河弁の親しい呼びかけのことば),とじつに親愛の情のこもった声で語りかけていた姿がいまも彷彿とします。この二人の関係は生涯にわたってゆるぎないものでした。そして,これまたわたしの大好きな大伯母でさえ羨むほどの仲のよさだったそうです。この話を思い出すたびにわたしの胸は熱くなってきます。二人とも受戒入位の人だったんだ,としみじみおもいます。ですから,ほとんど会話らしい会話をしなくてもお互いに相通じ合っていたようです。ありがたい(有り難い)ことです。合掌。

2015年5月20日水曜日

『スポートロジイ』第3号が書店に並びました。リーフレットもできました。

 待望の『スポートロジイ』第3号が書店に並びました。感無量。

 そして,宣伝用のちらしもできあがってきました。
 ご覧いただければわかりますように,発行はみやび出版,販売は星雲社です。書店でみつからない場合には,星雲社にFAXして注文してみてください。あるいは,わたしに直接ご連絡ください。著者割引をさせていただきます。

 
このちらしをみれば内容もわかるようになっています。ぜひ,チェックを入れてみてください。特集が2本と研究ノート,それに西谷修さんの講演録:「破局」に向き合う思想──ジャン・ピエール・デュピュイ『聖なるものの刻印』を読む,という構成です。とてもいいバランスで全体が連動し,共鳴・共振し合っています。ぜひ,手にとってご覧いただけると幸いでず。


第3号が出ましたので,これから何回にも分けて合評会を開催することになっています。その第一回目は5月30日(土)午後1時から,奈良教育大学で行います。詳しくは,「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)のHPの「掲示板」をご覧ください。どなたでも参加できますので,お近くの方はどうぞ遊びにいらしてください。終了後は懇親会もあります。とてもいい雰囲気で会話を楽しむことができます。初めての方でもすぐに溶け込めるアットホームな雰囲気です。

 ようやくにして第3号を刊行したとおもったら,もうすぐに第4号の構想にとりかかっています。いまのところ,第4号の特集は一本は「東京五輪2020を考える」,もう一本は「舞踊論」を考えています。「東京五輪2020を考える」は,すでに,4月の東京例会で,西谷修さんとわたしとの「対談」という形式で口火を切りました。これにつづけて,各地の例会で小刻みに議論を積み重ねていきたいと考えています。また,「舞踊論」の方のターゲットは,ジャン・ピエール・ルジャンドルの「舞踊論」を日本に紹介することです。ルジャンドル読みの名手に登場していただこうと考えています。これから交渉です。こちらも,各例会で前哨戦となる議論を積み上げていきたいと考えています。

 なお,研究ノートや原著論文は随時,受け付けていますので,どしどし投稿してみてください。採否は,できあがりの善し悪しではなく,キラリと光る魅力的な内容であるかどうか,を重視しています。さらに,スペースが空いていればできるかぎり,全部掲載するというのが基本的な考え方です。投稿資格は問いません。いつでも,どなたでも,どうぞ。

 最後に,『スポートロジイ』第3号についてのご感想などお聞かせいただけると幸いです。厳しい忌憚のない批判も歓迎です。みなさんに揉んでもらって,少しでもよいものになれば・・・と祈っています。お力添えのほどを。

2015年5月19日火曜日

新国立競技場計画変更。ついに縮小へ。疑惑だらけの舞台回し。税金の無駄遣い。

 昨日(18日)の文部科学大臣と都知事との対談によって,すでに,噂の流れていた「新国立競技場縮小案」で工事がなされることが明らかにされた。理由はかんたん。経費が足りないこと。期日までに間に合わないこと,この二つ。おまけに文部科学大臣は,経費の一部負担を都知事に求めた。が,都知事は回答を留保した。

 この経緯,どう考えてみても奇怪しいことだらけ。もう,コンペの結果発表当初から「無理だ」と建築の専門家集団(槇文彦氏を筆頭)に言われていたことが,いまごろになってようやく現実となった。しかも,国立競技場を解体し終えた直後に,この発表である。どうも,最初から仕組まれた八百長ではないか,とわたしの嗅覚は騒ぐ。

 新国立競技場は文字どおり「国立」なので,全額,税金で賄われる。その責任は文部科学大臣にある。当初,準備されていた経費ではとても足りないことが明らかになり(そんなことは,もう,すでに,かなり前からわかっていたことだ),慌てて,その対応策を打ち出した,というのがことの真相のようだ。それにしても遅すぎる。もう一年以上も前から経費が足りないことはわかっていた。だから,その時点で,縮小案に踏み切れば,税金の無駄遣いをしなくて済んだ。なぜなら,国立競技場を補修するだけで充分対応できたはずだから。経費節減するための具体的な提案が一流の建築家たちからあって,図面まで提出されていた。にもかかわらず,担当部局であるJSC(日本スポーツ振興センター)は無視しつづけた。

 一年前に,文部科学大臣が決断していれば,じつに安い経費で補修が可能だった。レジェンドとしての国立競技場も保存され,税金の節約もできた。が,いまとなってはすべて水の泡,手遅れである。

 かりに,いまとなって,縮小案に変更するにしても,なお,経費は足りない。だから,国は都に経費の一部負担を依頼した。しかし,都知事は回答を留保した。議会で検討してから回答する,と。当然の話だ。その一方で,文部科学大臣は「野球くじ」による資金集めを検討している,という情報も流れている。「サッカーくじ」の上がりだけでは足りないから,というのが理由らしい。国家がらみの,それも文部科学省がもう一つの新設の「国営賭博」を運営する,というのだ。なんともはや,無節操きわまりない話である。背と腹は代えられぬとばかりの醜態ぶりだ。

 もう一つの理由は,期限までに間に合わない,というこれも奇怪しい。コンペの結果発表直後から,この巨大な施設に開閉式の天井をつけることは技術的に不可能だ,と専門家からクレームがついていた。もし,技術的に可能だとしても,工期と経費が計り知れないほどにかかる,と言われていた。しかも,大手ゼネコンはみんな腰が引けてしまって,非協力的な態度をとった。いくら予算をつけてくれたとしても「無理難題」だと判断していたからだ。こんなことも早くからわかっていたことだ。それでも,新国立競技場には屋根天井をつけなければならないのだ,という無理を押し通した。

 なぜなら,新国立競技場を,音楽イベントも開催できる施設にして,維持管理費をはじき出そうとたくらんでいたからだ。スポーツ施設と音楽施設とを合体させるというのだ。これもまた「無理難題」である。なぜなら,音楽イベントをやれば,競技用の「芝」が相当に痛んでしまい,ほとんど使い物にならなくなる,とこちらはスポーツの専門家たちから意見がでていた。年6回の音楽イベントが計画されているのだ。「芝」のことがなにもわかっていない素人の机上の空論であり,手もつけられないほどの無茶苦茶な話である。そんなことがまかりとおっている。

 この案はまだ生きていて,工期が間に合わないので,五輪は屋根なしで開催し,終わってから屋根をつける工事にとりかかる,というのだ。しかし,年に6回も新国立競技場を満席にできる音楽イベントは不可能だ,というのが音楽関係者の話である。音楽のビッグ・イベントは武道館で充分だというのである。だとすれば,どう考えてみても維持管理費で大幅な赤字が予想されているのである。そして,なによりも,人口が激減していき,そんなビッグ・イベントはますます不可能になっていく,というのが建築の専門家たちの意見でもある。

 他方では,8万人収容の観客席も,そのうちの3万人分は仮設とし,五輪が終わったら取り壊し,最終的には5万人収容の競技場にするという。こんな案にするのであれば,それこそ,解体してしまった国立競技場に「3万人」分の仮設スタンドを増築して,終わったら取り壊す,という当初からでていた提案で充分対応できたではないか。

 なぜ,いまになっての決断なのか。解体工事が完了してしまった,この「いま」になって。あまりにタイミングのいい,そして,じつに馬鹿げた話に開いた口がふさがらない。

 この裏にはだれか「得をする」人間がいるに違いない。もっとも見え透いているのは,つい,最近になって大手建築会社から,新国立競技場縮小案が提案された,という情報が流れたばかりだ。それが数日後には,文部科学大臣の決定事項となっている。こんなに早い決断は前例をみないほどの不自然さだ。これまでは「慎重審議」をモットーに,唯々諾々と無駄な時間を使ってきたにしては,あまりの「拙速」である。しかも,闇の中での決定である。どこで,どのような「審議」が行われたのか「議事録」を明らかにしてもらいたいものだ。しかし,この公開を求めると,たぶん,半年くらいかかる(これまでの前例にしたがえば)だろう。しかも,墨で塗りつぶした,ほとんど「真っ黒」なコピーの議事録が送られてくるのが関の山だ。

 こうして,すべては「藪の中」に封じ籠められてしまう。

 東京都の五輪施設計画も改変につぐ改変がなされていて,いくつかの会場も地方分散が検討されているという。「半径5㎞圏内」のコンパクトな五輪という五輪招致運動を展開したときのモットーはどこかにすっとんでしまっている。そして,いまだに落としどころが決まらないで暗中模索である。こちらも資金難と工期が大きなネックになっている。そして,その困難は年々大きくなってきていて,小さくなることはない。なんともはや頼りないかぎりである。

 いまごろになって,文部科学大臣と都知事とが,こんな対談を行っているようではこの先が思いやられる。「東京五輪2020が東京五輪1940の二の舞になるのではないか」(西谷修)という危惧が,どことなく真実味を帯び始めている。これはわたしの杞憂にすぎないのだろうか。

2015年5月18日月曜日

「大阪都」構想が敗退。維新の会もこれまで。政治の潮目は変わった。アベに打撃。

 ネット上のニュース速報が,「大阪都」構想の否決が確定,と流している。これを聞いて安堵の胸をなで下ろしている。これで「よしっ!」。

 そして,今日(5月17日)の午後には,インターネットの動画サイトをとおして,「沖縄県民集会」の様子をリアル・タイムでみていた。涙が流れた。最後の翁長県知事のスピーチを聞いて,いよいよ「本気」がでてきた,と。野球場を満席にした「3万5000人」の県民の姿にも感動。

 今日は,二つもいいことがあった。記念すべき日となった。
 大阪府民の良識ある選択に拍手。
 そして,沖縄県民の熱きこころに拍手。

 いよいよ「政治の潮目」が変わったと実感した。

 「5・17」記念日。

 大阪天王山の闘いの本質は,大阪都構想のことのよしあしよりは,大阪維新の会の「信」を問うことにあった。そして,その大阪維新の会が否決された。これで維新の会の拠点が壊滅的な打撃を受けた。当然,中央の政界にも大きな打撃を与えることになる。

 なによりも,まずは,アベ・ショック。完璧なカウンター・ブローだ。これで,「戦争法案」反対の議論も勢いづくことだろう。アベが目論んだ維新の会を巻き込んでの「戦争法案」の議会工作にかげりがでてくる。それでも国会での論議は押し切られてしまうだろう。だから,そこに世論の圧力が割って入る必要がある。ここは一つ,なんとしても世論の反対論議を盛り上げて,廃案に追い込まなくてはならない。そうして,本丸である改憲論議に,とどめの一太刀を・・・・。

 その意味では,闘いははじまったばかりだ。そして,大阪府民がひとつの結論を出してくれた。この勢いに乗って,一気に政府自民党の「暴走」に歯止めをかけなくてはならない。なにしろ,アベのやることはすべて憲法違反のことばかりだ。なのに,それを止められない司法が情けない。民主主義の根幹であるはずの「三権分立」が機能していない。ということは,国家そのものが「破綻」をきたしているということだ。なのに,そのことに気づいている人が少なすぎる。

 こうなったら,最後の砦は「主権在民」を振りかざして闘う以外にはない。

 その模範を示してくれているのが,沖縄県民だ。本土の国民よりも数段,さきを進んでいる。いまや,沖縄県民は日本国の救世主の役割をになっている。この沖縄県民の「海鳴り」のような声が,本土の国民にも,ようやく聞こえるようになってきた。そして,それに応答する本土の声も大きくなってきた。辺野古基金も,わずかな期間に「2億円」を越えたという。そのうちの「7割」が本土からの寄付だという。ふるさと納税も激増しているという。

 まったく新たな局面がいま,つぎつぎに生まれつつある。

 今日の沖縄県民集会に集まった「3万5000人」という数も,わたしの意表を突いた。せめて,1万人は超えてほしいものだと祈っていた。ところが,野球場を満席にする「3万5000人」が朝から集まった。しかも,その集会の最後の進行役をつとめたのは普天間高校1年生の女の子だ。集まった県民の多くも親子連れだ。ここが本土とは大いに違うところだ。

 考えてもみるがいい。たとえば,後楽園球場を,親子連れの市民でいっぱいにして,「改憲反対」集会をやる力がわたしたちにあるか。そして,その集会の進行役を高校一年生の女の子がつとめる姿を想像することができるか。おそらく,だれも想像できないだろう。それほどに,本土の意識は低く,遅れているのだ。

 いまや,本土のわたしたちが学ぶべきは沖縄県民の,この姿だ。

 いずれ,今日の県民集会はインターネットの動画サイトで流れるはずなので,ぜひともチェックしていただきたい。沖縄県民の「海鳴り」の声に耳を傾けてほしい。そして,気づいてほしい。なにが大事なのか,を。

 本土でも,大阪府民がその先鞭をつけてくれた。大阪府民の「のり・つっこみ」の好きな軽い気質はよく知られているが,その一方で「見切り」をつけるのも早いことを知るべし。その「見切り」の早さを,いちばん大事なところで発揮してくれた。あとは,この「見切る」力を全国に広げていくことだ。

 さあ,いよいよ天下分け目の決戦にむけて力を発揮するときがきた。まさに,これからだ。そして,大きな運動を展開して,最後は「選挙」でとどめを刺すことだ。

 いまこそ,声を大にして立ち上がろう。幼き子どもたちの命を守るために。

2015年5月17日日曜日

「戦争法案は間違い」(アベ)。これこそが間違い。本音隠しがまるまる露呈。

 とうとう「安保法案」が閣議決定され(5月14日),それがそのまま衆議院に提出され(5月15日),ついに,アベ政権はこの夏に成立させる構えをみせた。その記者会見の席で,アベは「この安保法案を戦争法案と呼ぶのは間違いだ」と声を荒らげた。よほど腹が立っているのだろう。どこまでも隠しとおしたかった本音をみごとに言い当てられてしまったからだ。

 しかし,「戦争法案」という言い方は正しい。

 アベが「安全保障関連法案」と呼ぶ法案の内容を熟読玩味してみれば,それはまぎれもない「戦争法案」そのものだということは明々白々である。福島瑞穂議員が名付け親。国会の質疑の中で発言し,取り消しを求められたが断固として拒否。とうとう政権側が折れた。「戦争法案」という呼称の是非についてそれ以上,問題にするのは得策ではないとアベ・サイドが判断したからだ。にもかかわらず,閣議決定後の記者会見で,アベはこだわった。こうして,アベはわざわざ墓穴を掘ってしまった。

 やっぱり,「安保法案」は「戦争法案」である,という印象をアベみずからが与えてくれた。隠したいものほど露呈するものだ。

 「積極的平和主義」も「積極的戦争主義」の騙りだ。

 アベは記者会見で,みずから断言している。「切れ目のない法整備である」と。つまり,日本周辺の有事から海外での他国軍支援,他国を武力で守る集団的自衛権の行使まで「切れ目のない」法整備である,と繰り返し強調した。

 アベは自分の発することばに酔ってしまうクセ(病い)がある。一つひとつのフレーズは,みごとに計算され,磨き上げられている。だから,聞いている方も,一瞬,騙されることがある。しかし,全体の発言を俯瞰してみると,ハチャメチャな発言の累積であることがわかる。病名をつけるとしたら,精神分裂症。そうでなければ,あんな発言を,なんの疑問もなく,しかも,よどみなく言い続けることはできない。

 セリフを与えられた俳優でも,ああは演じきることはできない。自己矛盾に気づいてしまうから。そのことに気づかない病人にしかできない演技なのだ。この病人に同調した公明党もまた,同じ病いに犯されている。自民党も公明党も「同病相憐れむ」仲であることが,これではっきりした。つぎの選挙では,この2党だけは外して,考えることにしよう。

 それにしても,大変なことになってしまった。その要点を東京新聞(5月15日の朝刊)から引いておこう。

 政府は十四日午後,臨時閣議を開き,他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案を決定した。歴代政権が憲法で禁じられていると解釈してきた集団的自衛権の行使を可能にする法案の閣議決定により,「専守防衛」の安保政策は戦後七十年で転換点を迎えた。政府は十五日に安保法案を衆院に提出する。安倍晋三首相は閣議決定後に記者会見し,今夏までの成立を目指す考えを重ねて表明した。

 以上。

 いよいよ正念場である。憲法に違反する法案が国会で議論されるという珍事を,国際社会も注目している。日本国そのものの存在が問われているのだ。「戦争放棄」を謳った第9条を棚上げにして,「戦える国」をめざす法案を審議するというとんでもないことが国会で行われようとしている。本末転倒国家の誕生である。つまり,なんでもあり,の国家であることを世界に向けて発信しているのだ。このことの自覚が政府には欠落している。わたしたちは,この事実をしっかりと肝に銘じておこう。

 
 
 

2015年5月15日金曜日

子どもたちのからだに異変?筆圧の低下,しゃがめない,立ち上がれない・・・。退化現象か。

 NHKの「所さん!大変ですよ」(5月14日22時55分より23時20分)という番組で,「HB鉛筆を使わない!?小学生に何が起きた?薄すぎる字・・・10B登場」というタイトルの放映があった。ちょっと気になったのでみてみた。そこには驚くべき実態が描き出されていた。これが事実なのかとわが眼を疑った。ほんとうなのだろうか,と。

 かいつまんで要点をまとめてみると以下のようだ。
 1.こどもたちの筆圧が弱くなっていて,HBの鉛筆で書いた文字が読めないので,入学時にB,2Bの鉛筆を用いるように学校では指導している,という。
 2.この現象は,1990年代の後半から現れ,鉛筆はB,2B,4Bを用いるよう指導をはじめた,という。
 3.6年生になっても,2Bを用いている児童が34人中25人もいる,という。残りの9人がHBを使っている,と。

 この現象について宮崎大学医学部の某教授はつぎのようにコメントしている。
 1.筆圧が弱くなっているのは日頃から手を使っていないことが原因である。とくに,指の力を用いる経験が少ないために指に力がない。ゲーム機やスマホに慣れているので,触れるスピードは早くなるけれども,指に力を入れる経験が圧倒的に少ない。
 2.手の指の力と脳の前頭葉の発達とは深い相関性をもっているので,ものごとを総合的に判断する能力の発達が遅れていると考えられる。

 さらに,某教授は,小学校の児童を対象にいろいろの実験をとおして調査した結果について,映像とともにつぎのように指摘している。
 1.瓶の蓋をひねって開ける力がいちじるしく衰えていること。
 2.体育座りの姿勢から手を使わずに立ち上がることができない(6年生で8割)。
 3.しゃがむ姿勢が保てない(うしろに転んでしまう)。足首が固くなってしまっているのが原因。
 4.足腰の力が弱いので,長い時間,歩くことができない。ロコモティブ・シンドロームが急速に増えている。大人にもみられる。

 某教授によれば,小学校の低学年の方が1.2.3.4.のすべての項目において優れているのに,高学年になるにしたがってできなくなる率が高くなる,という。これは,どう考えてみても,「老化」現象としかいいようがない,と。この状態がつづくとすれば,下半身の運動器が発達しないまま大人になるので,ほとんどまともには歩けない大人が激増する,という。

 所さんならずとも,「これは大変だ」とおもわずにはいられない。

 某教授の考えでは,生活が便利になりすぎて,からだを使わなくて済むようになってしまった結果だという。つまり,からだ全体をバランスよく発達させることができなくなってしまった結果である,と。低学年でできていた運動が高学年になるとできなくなるという不思議な現象だが,これは「老化現象」だ,と。

 この映像をみながら,わたしが感じたことは,老化現象というよりは,退化現象ではないか,ということだ。つまり,生物としての退化現象ではないか,と。老化現象というのは,厳密にいえば,幼児から児童・生徒となり,青年期を経て成人するまで,ひととおり発育・発達をとげた上で,徐々に「老化」ということがはじまる。しかし,下半身の運動器が発育・発達をとげないままで成長してしまうとなれば,それは「退化」現象ではないか,とわたしは考える。

 となると,ことは重大だ。生活環境があまりに「便利」になりすぎて,からだを使う必要がなくなり,ついには「退化」現象を引き起こしている,としたら・・・・。これから大人になる人たちがどんな状態になってしまうのか・・・・予測もつかない。たとえば,男性が「草食化」しているというのも,このあたりに遠因があるのでは・・・と考えてしまう。

 少なくとも,このような現象が1990年代の後半から起きているとしたら,もう20年が経過している。とすれば,20代の大半の大人が,鉛筆は「2B」経験者だ。パソコンの普及ということもあって,ほとんどの若い人は,手で文字を書くという経験が圧倒的に少なくなってしまっている。だから,まともに「文字」が書けない人が多い。圧倒的に「稚拙」だ。文字をみて驚くことが多い。

 文字を書く「力」を軽視してはならない。そこには深い意味がある。このことについては,いずれ詳しく私見を述べてみたいとおもう。結論は,書道の薦め,である。

2015年5月14日木曜日

沖縄独立論・私論。日本国憲法を守るために日本国から分離・独立し,尖閣を棚上げに。

 日本国憲法を無視し,明らかに憲法違反とおもわれる閣議決定をし,その法整備を機関銃のように繰り出すアベ政権にほとほと嫌気がさしてきているのはわたしだけなのでしょうか。憤懣やるかたなく,怒り心頭に発しています。まるで憲法など存在しないかのような振る舞いです。その暴挙としかいいようのない振る舞いは,まるで,立憲デモクラシーをどこかに置き忘れてきてしまったかのようです。ここまでくると,もはや,国家としての体をなしていません。つまり,日本国憲法を無視する国家は,もはや,日本国ではないということです。

 わたしは「第9条」をもつ日本国憲法を,世界に向かって誇りにしたいと考えてきました。ですから,この日本国憲法を無視する国家は,もはや,なんの魅力も感じません。ならば,立憲デモクラシーの精神を護持し,この日本国憲法をそのまま継承する国家を打ち立てることができないものか,と最近になってあれこれ想像力をふくらませていました。

 そうしたら,ありました。沖縄独立論です。いま,沖縄では「沖縄独立学会」なるものが数年前に設立され,熱心に議論がなされていると聞いています。その内容については,あまり詳しくは知りませんが,かなり具体的な研究が進んでいるように聞いています。

 もともと沖縄は独立国家であったわけですし,その実績ももっています。そして,国際社会もそれを認めていた時代があります。近いところでは,明治時代に入る直前の江戸時代末期には,アメリカをはじめヨーロッパの各国が,沖縄との特別の通商条約を締結しています。そのときの条約書が,いま,沖縄の美術館で展示されており,大きな話題になっています。「東京新聞」でも大きなニュースとして流していましたので,ご存じの方も多いとおもいます。

 第二次大戦後にはアメリカの統治下にありながらも,沖縄政府が存在しました。そして,本土とはなんの関係もなく,別個に,直接,アメリカとの折衝をしていました。1972年の本土復帰までは,この沖縄政府が厳然として存在していました。そして,本土復帰運動が盛り上がったときには,川満信一さんなどが個人で創案した憲法草案を公表し,大いに議論となりました。

 ですから,沖縄独立論はけして夢物語ではありません。むしろ,きわめてリアリティをもった議論だと言っていいでしょう。知らない,あるいは,考えられないのは本土の人間の方です。なぜなら,つねに「上から目線」で沖縄を見下してきたからです。それは,いまの政権も同じです。

 沖縄県民の民意を無視して,権力を嵩にかけ,強引に辺野古に米軍の新基地を建造している事実をみれば明らかです。「他の都道府県が引き受けてくれないのだから,沖縄が引き受けろ」と政府高官が公言しているニュースを聞いて,わたしはびっくり仰天してしまいました。これが,アベ政権の本音であり,基本姿勢です。その実態は,翁長県知事と菅官房長官,安倍首相,中谷防衛大臣がつぎつぎに対談をしたときの「全発言」からも明らかです。

 業を煮やした翁長知事は,とうとうアメリカに渡り,アメリカ政府高官との直接交渉に踏み切りました。今月下旬(23日?)には出発するようです。その結果がどのような展開になるのか,わたしは強い関心を寄せています。

 しかし,それでも埒が明かない場合には,おそらく「沖縄独立論」に火がつくのではないか,とわたしは予想しています。

 ここからは私論です。沖縄独立を正当化するための最大の根拠は,沖縄(琉球国)は,日本国憲法を守るために日本国から分離・独立する,というものです。日本国憲法を放棄したかにみえる日本国はもはや日本国ではありません。ですから,その日本国から拘束を受ける必然性もありません。あくまでも日本国憲法「第9条」を死守するために,日本国ではなくなってしまう日本国から分離・独立するのは,きわめて正当な根拠をもつことになります。そして,あくまでも「立憲デモクラシー」を死守する,と宣言すればいいのです。たとえ,アメリカといえども,これを否定することはできません。

 そして,つぎなる手段は,尖閣諸島を「棚上げ」にもどします。そうすれば,中国からの脅威は一挙に解消し,むしろ,友好国として歓迎されるでしょう。そして,最初の「独立国家」承認国となってくれるでしょう。こうして,「第9条」を全面に押し立て,立憲デモクラシーを標榜する国家をめざせば,多くの国が「独立」を承認してくれるでしょう。そして,世界にただ一つの「軍隊をもたない」,「戦争をしない」国家を,世界に向けて発信しつづければいいのです。

 こうなると,平和憲法をかなぐり捨てて「戦争も辞さない」とする日本国から脱出し,沖縄(琉球国)に移住をする人も少なくないでしょう。加えて,沖縄には「原発」はひとつもありません。理想的な国家をめざすには絶好の歴史と文化と立地条件を備えています。

 とまあ,こんなことを考えてみました。そのきっかけを与えてくれたのは,ある日の昼食をとりながらの,いつものNさんを中心にした友人たちとの会話でした。そこでは,もっともっと多くのことが語られました。が,とりあえず,わたしが聞き取り,納得のできた範囲での話題をわたしなりに味付けをして整理してみました。久しぶりに興奮した昼食会となりました。もつべきものはこころから信頼できる「友」です。ありがたいかぎりです。

2015年5月13日水曜日

オスプレイがいよいよ首都圏を飛ぶ。低空飛行も夜間飛行も。

 どうも最近,空の騒音が次第に激しくなってきているのでは?・・・と友人たちとの会話のなかで話題になったのが,昨年の秋口だったように記憶する。鷺沼の事務所は厚木基地に近いこともあってか,ものすごい轟音を響かせて,しかも低空を猛スピードで飛び去っていくことがしばしばだ。そのつど,不気味な気持に襲われる。この空の騒音がことしに入って,住いのある溝の口でもよく聞かれるようになってきた。都心に住んでいる友人に聞いてみると,こっちも同じだ,という。

 どうやら,空の騒音に慣れさせるためのデモンストレーションではないか,と友人と意見が一致していた。いずれにしても,沖縄の空と同じ情況を意図的・計画的に演出して,首都圏の住民にもそれを日常化させることが狙いなのだろう,と。だが,なんのために?ひょっとしたら,厚木基地にオスプレイでも配備するのではないか,という話題もでた。しかし,その予想はみごとにはずれた。が,横田基地に配備,と今日(5月12日),日米両政府が正式に発表した。当たらずといえども遠からず,といったところ。恐れていたことが早くも現実となった。

 これも考えてみれば,アベ訪米の「おみやげ」だ。平身低頭して「朝貢」し,そのおみやげがオスプレイの「高値購入」だとおもっていたら,横田基地に配備まで「おまけ」つきだった。アベ(君をつけるのも馬鹿馬鹿しいので呼び捨てにする)はアメリカでは「イエスマン」で押し通したはずなので,公にはされていない(公にすることが憚られる)「密約」がいっぱいあるに違いない。こんどのオスプレイ配備はその一端にすぎない。

 
横田基地に配備が予定されているオスプレイは,「CV22」というもので,沖縄に配備されている「MV22」よりも事故率が高い。約3倍も高い,という。しかも,「CV22」は米空軍が特殊作戦に使うものだという。つまり,完全なる「戦闘用」なのだ。それに対して沖縄に配備されている「MV22」は海兵隊仕様で「輸送用」だという。

 「戦闘用」だから,夜間飛行も低空飛行の訓練もやるという。しかも,低空といっても,超低空の「150メートル」を想定している,という。

 ナカタニは,「首都圏にオスプレイが存在することは,わが国全体の安全保障に資すると同時に,首都圏直下型地震や南海トラフ地震などの大規模災害にも対応できる」と語り(騙り),キシダは「日米同盟の抑止力向上につながり,アジア太平洋地域の平和に資する」と強調したという。なんともはや,ノーテンキなことを考えているのかとあきれ果ててしまう。

 オスプレイが大災害にはなんの役にも立たないことはすでに証明済みだ。しかも,ミサイル戦争時代にオスプレイが「抑止力」向上につながる,などという子ども染みたことを大まじめに考えているらしいキシダ。もう,世も末だ。みんな,アベと同じように狂ってしまっている。

 こうして,日本列島は人災によって雪崩のように沈没に向かってまっしぐら。だれも歯止めをかけられないという不思議な情況がつづく。国民の多くが変だ,と気づいているのにその声はとどかない。聞く耳をもたない政府自民党。そして,公明党さん,ちょっと奇怪しいんじゃないの。あんたまで狂ってしまったら駄目でしょう。

2015年5月12日火曜日

『正法眼蔵入門』(頼住光子著,角川文庫)を読む。よくこなれていてすとんと腑に落ちる。みごと。

 道元の名著『正法眼蔵』を理解したい,と長年にわたって夢見てきた。だから,そのための入門書や解説本も何冊も手に入れて,自分なりに読解ができないものか,と挑戦をしてきた。しかし,必死の努力にもかかわらず,ことごとく跳ね返され,挫折を繰り返してきた。その結果は,生半可な理解しかえられず,忸怩たるものがあった。

 が,ようやくその壁を打ち破るチャンスが到来した。まさに「ご縁」を覚えるようなテクストに出会ったからだ。それが,表題にかかげた頼住光子著『正法眼蔵入門』(角川文庫,2014年12月25日,初版)である。わたしにとっては運命の出会いともいうべきテクストとなった。なぜなら,じつによくこなれた頼住光子の文章が,ことごとくすとんとわたしの腑に落ちていくのである。一種の快感である。だから,読まずにはいられない,そういう衝動にかられるテクストなのである。これまでのような苦渋にみちた努力など必要ないのである。暇があれば,何回でも読みたくなる,そういうテクストなのだ。まことにありがたいことだ。

 じつは,しばらく前の東京新聞に3回にわたって,かなり大きなコラムで「道元」を連載したことがあって,それで頼住光子という人の存在を知った。しかも,じつにわかりやすい文章なのが印象的だった。そのときは,新聞だから,読者のことを考えてわかりやすい平易な文章で語ってくれたのだろう,とおもっていた。しかし,そうではなかった。平易な文章で書けるほどに「道元」のことも「正法眼蔵」のことも自家薬籠中のものとしていたのだ。そのことを,このテクストをとおして知った。じつに難解な道元の文章を,じつにわかりやすくときほぐしてくれるのである。

 その最初の手がかりとなったのは,道元の文体には二種類あって,道元はそれを使い分けて書いている,という頼住光子の指摘である。一つは,だれもが理解できる,いわゆる世俗の人びとが用いる説明調の文体である。つまり,わたしたちが用い,慣れ親しんだ,みんなが共有する言説である。この文体で書かれた部分はだれにもよくわかる,という。なるほど。以前から,こんなにわかりやすい文章を書く人が,肝心要のところにくると,なにを言っているのか杳としてその真意がつかめない,そういう文体が登場する。これが,道元の二つめの文体だ,という。

 それは,仏教の世界で起きていることがらを説明するときの文体である。それは世俗の世界でみえている事態とはまるで異なる次元のことを語るときの文体なのだ。そこでは世俗の二項対立的な分節はなんの役にも立たず,むしろ,邪魔ですらある,という。もっと言ってしまえば,仏教世界のことがらは,ふつうの言語で説明できることがらではない,と道元は考えていた。これを禅の世界では「不立文字」という。しかし,周囲の弟子たちから請われるままに,言説化が不可能な世界を言説化するには,世俗とは異なる言語体系を構築し,そこに委ねるしかないと道元は考えたのだ,という。

 たとえば,「迷悟一如」。迷いと悟りはひとつのことだ,という。そして,迷うのも悟りの一つであり,悟るのもまた迷いの一つなのだ,と道元はいう。だから,迷いと悟りはまったく同じものなのた,というのである。しかし,こういう論法は,世俗に生きるわたしたちには理解不能だ。そこに,頼住光子は割って入って,つぎのように読み解いてくれる。

 人は迷いがあるから仏門を叩くことになる。仏門を叩くときすでにその段階での悟りをえている。そして,その悟り=迷いのレベルに応じて修行が開始される。すると,どことなく当初の迷いが消え,ある種の悟りをわがものとする。しかし,そのうちにまた新たな迷いが現れる。これは新しい悟りの境地なのだ。もうひとつレベルの高い悟りに達したから,それに対応する迷いが生ずるのだ,と。このようにして,迷いがなければ悟りには至らないし,悟りをえるとまた新しい迷いが生まれてくる,この繰り返しが仏(さとり)の道なのだ,と。これが,道元の説く「迷悟一如」なのだ,というわけである。

 これとまったく同じ論法が「修証一等」ということばだ。修行することと悟る(証)ことは一つのことであって,まったく同じものなのだ,という。修行をしようと発心するとき,すでに,人はある悟りをえている。だから,修行をしようと思い立つ。なにもなかったら修行などを思い立つこともない。こうして,修行と悟りは一つの鎖のように連鎖していく。だから,修行(=悟り)には終わりがない。無限につづく。しかも,行住坐臥,すべて修行だ,という。つまり,生きていることそのことが修行であり,悟りなのだ,と。

 あるいは,「青山常運歩」という。つまり,「山は動く」と。人間が「動く」(運歩=歩く)のと同じように「青山」(=山)もまた「運歩」(=歩く)するのだ,と説く。こんなことは,世俗の世界ではありえない。しかし,仏(=さとり)の世界では,人と山とが一体化し,一つになってしまう。つまり,自己と他己(仏教用語で,他者のこと)との境がなくなってしまう。そこが「空」の世界であり,その境地に立てば,人と山は一つになっているので,人が動くのと同じように山も動く,そこになんの違和感もなくなる,それが「さとり」の世界なのだ,という。

 いわゆる禅問答が展開していく。もちろん,道元が『正法眼蔵』で説いている仏教世界は,それまで先人たちによって蓄積されてきた遺産を引き継いだものだ。そこに,さらに道元固有の工夫や思考の深みを加えたものが『正法眼蔵』なのである。

 ここに挙げた例はほんの一例にすぎない。が,しかし,このようにして道元の説く仏教世界の入り口が鮮明にみえてくると,もっと読もうという意欲が湧いてくる。いや,それどころか抑えようがなくなってくる。それほどのインパクトをこの頼住光子の入門書は持ち合わせている。

 もっとも,この現象は,頼住光子の入門書を真っ正面から受け止められるレディネスを,たまたま,わたしが持ち合わせていたからこそ起きたことにすぎないかもしれない。それにしても,久しぶりに読書による愉悦に浸ることができた。そして,これからはいつでもその愉悦に入ることができる。幸せである。おまけに,ここをうまくクリアすれば,おそらく本丸である道元の『正法眼蔵』の解説本に踏み込んでいくことも可能だろう,と夢見ている。

 そして,いつの日にか,念願の『正法眼蔵』読解・私家版を書いてみたい・・・・と。

2015年5月11日月曜日

白鵬×逸ノ城の取組を透視してみると・・・・。その虚実皮膜の間(あわい)に見えてくるものは?

 大相撲夏場所初日の打ち止めの相撲で,白鵬が逸ノ城の「突き落とし」に破れ,黒星スタートとなった。あっという間の短い勝負だったが,なかなか含蓄のある相撲内容であった。テレビ観戦していたわたしは思わず「ウーン」と唸ってしまった。これはたいへんなことになるぞ,というのが第一感。

 なぜ,そう思ったか。いくつものパターンが頭に浮かんだ。そのいずれが真実なのか,虚実こもごもというところ。それを堪能するのも相撲の醍醐味。以下に,その虚実ないまぜになった,わたしの透視の結果を述べておこう。

 まずは,スタンダード・ナンバー。白鵬は,まず,逸ノ城の右差し・左上手を封じる作戦で立つ。立ち合いは,左足から一歩踏み込み,逸ノ城の右差しを左腕で絞り上げ,逸ノ城に左上手を引かれないように右足を後ろにのこし右腰を引いたまま右差しをねらう。逸ノ城は立ち合いすぐに左手を伸ばすも上手を引くことはできない。得意の右差しも絞られて苦しくなり,差し手を抜く。その瞬間,白鵬は双差しの理想の体勢になり,しめた,と思ったに違いない。そこに落とし穴が待っていた。苦し紛れに右の差し手を抜いた逸ノ城は,とっさにからだを左に開きながら右腕で白鵬の左腕を小手に巻こうとしたようだ。ところが,白鵬の左脇がしっかり締まっていたので,腕が入らず「突き落とし」のようなかたちになった。これがみごとに決まって,白鵬はたまらず右手を土俵についてしまった。タイミングのいい,みごとなからだの開きと突き落としだった。「相撲の流れでああなったが,自分の相撲ではない」と逸ノ城はヒーロー・インタヴューで答えている。

 さて,この相撲をどのように分析するか。立ち合いも前裁きも白鵬のものだった。万全だった。にもかかわらず負けた。なぜか。逸ノ城の左上手をあまりに警戒しすぎたことだ。そのため,右足,右腰を後ろに引いたまま,左足・左手の攻防だけに頼りすぎた。しかも,それが成功した。苦し紛れに抜いた逸ノ城の「右手」は,完全に自由となった。この「右手」はこれまでも,得意の「はたき」で大活躍してきた,いわくつきのものだ。言ってみれば,なにをしでかすかわからない「右手」だ。今回は,偶然にも「突き落とし」の役割を果たすことになった。白鵬の完敗である。

 その裏には,右四で左上手を引いて,がっぷり組み合ったら白鵬は勝てない,という頭があったはずである。この力の差が,今日の相撲の結果となって表出してしまった,とわたしはみる。だから,考えに考えて,逸ノ城の右差し・左上手を封じる立ち合いにでた。しかも,それは成功した。そこに一瞬のスキができた。逸ノ城が右差し手を抜いた瞬間に,白鵬はすかさず前に出て圧力をかけ,つぎなる攻撃を仕掛けるべきだった。しかし,逆に安心して,一呼吸入れてしまった。

 逸ノ城は「自分の相撲ではない」と謙遜したが,今日の相撲で学んだものは大きい。たぶん,無意識のレベルでからだが覚えたものは計り知れないものがあるだろう。それが「本番」の力というものだ。百番の稽古よりも本場所の一番,ともいう。これで自信をつけると,逸ノ城は白鵬には負けなくなるのではないか。これまでの4連敗が嘘のように力が逆転し,逸ノ城が勝ちはじめるのではないか,と来場所以後が楽しみだ。

 もうひとことだけ付け加えておけば,白鵬の引退の日も,そう遠くはない,と直観したことだ。白鵬のからだが「守勢」に入っていたことが気がかりだ。立ち合い一気の攻撃がみられなかった。それと流れるような汗も,一瞬の相撲にしては異様にみえた。力士としての力のピークはあっという間に通過する。そんな場所にならなければいいが・・・。

2015年5月10日日曜日

国の借金:1053兆3572億円。国民一人:830万円。毎日新聞,報道。

 数日前の毎日新聞にこんな記事がでていて,いまさらながら驚いた。国の借金が年々増えつづけているという話は聞いていた。が,国民一人につき830万円もの借金になっているとは知らなかった。大人も子どもも老人も全部ひっくるめた国民総数で単純に割った数字だというから,これはえらいこっちゃ,だ。この借金を返済する能力をもつ労働人口に換算したら,どれだけの金額になることやら・・・。空恐ろしいことだ。

 この事態は笑いごとでは済まされない。

 こんな巨額な借金を背負っているにもかかわらず,海外に外遊するたびに気前よく巨額の金をばらまいて歩く,のーてんきな坊ちゃん宰相だけが健在だ。おまけに,ほとんど役に立たないオスプレイ(ネパールで実証済み)を定価の倍以上もの値段で購入するという,大国アメリカへのとんでもないサービスぶり。自発的隷従の実証試験。

 もはや,やることなすこと,はちゃめちゃだ。

 毎日新聞の記事をもう少し詳しく読んでみよう。

 この借金が増えつづける主因は,高齢化に伴い膨らんでいる社会保障費の財源不足を借金で賄いつづけていることにある,という。この傾向はこんごもとどまるところを知らない。それどころか,労働人口は減少し,高齢者は増えるばかり。この悪循環は歯止めがかからない。にもかかわらず,そのための抜本的な対策はなにも提示されてもいない。

 国民一人:830万円の積算の根拠は,国の借金:1053兆3572億円を,総務省推計の4月1日時点の総人口1億2691万人で割ったものだ,という。

 借金の内訳は,国債が881兆4847億円。13年度よりも27兆7211億円増加。こうして雪だるま式に借金は増え続けていく。借金だから,当然のことながら利息も支払わなくてはならない。利息だけでもたいへんなことだ。こうして,国債を購入することのできる富裕者層は,借金まみれの国からも利潤を吸い上げて,のうのうと暮らしている。その反面では,働らけど働らけど使い棄て同然の扱いを受ける(時間外手当てもなしに働かされる)貧困者層は増え続けている。

 これが,いま,わたしたちが直面している現実だ。

 まことに唐突だが,こんな借金王国(借金依存体質)にもかかわらず,オリンピックを開催するという。しかも,こちらの財源も不足していて,とうとう,「サッカーくじ」に加えて「野球くじ」で穴埋めをしようという案が検討されているという。しかも,その主体は文部科学省だ。国営賭博を率先垂範しようというのだ。もはや,狂気の沙汰だ。

 いったいぜんたい,なにを考えているのだろう。ぼっちゃん宰相が狂ってしまったので,みんな右へならえ。みんなが狂ってしまうと,それが当たり前となってしまう。となると,まともな人間が,まっとうな発言をすると「きちがい」扱いされてしまう。

 空恐ろしい時代になってしまったものだ。少なくとも,そういう「自覚」だけは失わないように,こころして生きていくようにしたいものだ。たとえ,奇人・変人と言われようとも。

2015年5月9日土曜日

尖閣諸島の領有権を「棚上げ」にもどそう。嘘をついてまでして燐国・中国と対立することはない。

 ほんとうにこの国はいったいどうなってしまったというのでしょうか。とても大事な「事実」確認をしないまま,「拡大解釈」なる魔法の手をつかって,つぎからつぎへと事実を歪曲して,それを既成事実であるかのように見せかけて,暴走をつづける政府自民党。それに歯止めをかけるべきジャーナリズムの「死」。そして,騙されつづける国民。

 尖閣諸島の領有権は「棚上げ」というのが国際社会の共通認識である,という「事実」をわたしたちはもっと直視しなければなりません。アメリカ政府だって,尖閣諸島が日本の固有の領土であるとは「ひとこと」も言ってはいません。尖閣諸島が他国から攻撃された場合には,それは日米安保条約によって守るべき対象になる,と言っているだけです。

 このブログでも書いてきましたが,わたしの記憶によれば,間違いなく尖閣諸島は「棚上げ」で日中は合意していました。そして,ひところは,尖閣諸島の周辺海域の埋蔵資源を,日中で共同開発することまで合意し,話が進んでいました。この話が,突如,宙に浮いたまま,わが国固有の領土問題が持ち上がってしまいました。そして,いつのまにか政府自民党は一方的に「わが国固有の領土」宣言をして,日本のものにしてしまいました。

 ここから話はややこしくなるわけです。中国が黙っているわけがありません。「棚上げ」の話はどこにいったのか,と。それなら,国際法廷で決着をつけよう,と中国は主張。日本政府はそれを拒否。自分たちの主張が正しいなら,堂々と国際法廷で争えばいいのに,それはしない。できないのだ。中国は「歴史に学べ」と主張。この意味は深い。日本国は「ポツダム宣言」を受諾したことを忘れてしまったのか,と言外に含んでいる。これを持ち出されたら,手も足も出ません。「無条件降伏」をしたのですから。そのときの,中国は「戦勝国」です。

 尖閣諸島の後始末をしなかったのは,アメリカの責任です。なんとなくうやむやのうちに実効支配だけを日本政府に委ねてしまったからです。そして,その苦肉の策が領有権については「棚上げ」というところに落ち着いていたのです。いずれ,領有権については冷静に話し合いができる時代がくるだろうから,それまでは「棚上げ」にしておこう,ということで日中ともに合意をしていたはずです。少なくとも,中国はそう信じていた。裏切ったのは日本です。なんの断わりもなく,突然,領有権を言い出したのですから。話し合いもなにもないままに・・・。

 そこから,日本政府の「嘘」がはじまります。あの手この手で「嘘」の上塗りを開始し,まるで既成事実であるかのような振る舞いをしてきました。そして,いまでは,メディアも「領海侵犯」ということばを当たり前のように用いています。だから,国民もみんなそう信じてしまいます。

 しかし,「事実」はいつか必ず「顔」をみせるものです。わたしもうっかりしていましたが,いまごろになって,YAHOO!ブログ(2015/4/13(月)午後10.13)をFBで知り,その内容を読んでびっくり仰天でした。それは「五代目豆助ファンのブログ」からの転載でした。そこには,つぎのように書いてありました。要約しておきます。

 昨年の大晦日(2014年12月31日)のロンドン発共同通信のスクープ記事として,つぎのように伝えています。英国が公開した機密外交文書によれば,サッチャー英国首相が1982年に訪日した際,当時の鈴木善幸首相が尖閣問題は棚上げする事で中国と合意していることをサッチャー首相に伝えていた,と。

 このスクープ記事が,大晦日から正月を通過していく中で,どこかに埋もれてしまったようです。そして,以後,どのメディアもこのスクープ記事を取り上げて論評したり,批評したりした痕跡はありません。少なくとも,わたしは知らないでこんにちまできてしまっています。が,YAHOO!ブログがこの記事を復活させたことにより,わたしはびっくり仰天でした。

 これが「事実」だとしたら(少なくとも,この「事実」はわたしの記憶と同じです),日本の政府・外務省は,中国との棚上げ合意していたのに国民にそれを隠し,棚上げ合意をした覚えはない,そういう証拠もない,尖閣は日本のものだ,領土問題は存在しない,と嘘をついていたことになります。わたしは,以前から,このことの「誤り」を主張してきました。

 中国も,尖閣諸島を以前の「棚上げ」にもどしてくれれば,日中間の大きな障壁がひとつ解消する,とその意思を明らかにしています。日本のメディアが怠慢で,そのことを報道していないだけです。ですから,多くの国民はみんな誤解して,中国が悪い,領海侵犯を繰り返す,と信じて疑いません。

 しかし,これがアベ君の望むところで,国民に危機意識を煽り,日本の領土をいかにして守るか,そのためには沖縄の米軍基地は不可欠なのだと説き,辺野古に本格的な軍事基地を建造しようとしています。そして,ここを手がかりにして,憲法9条を「廃棄」して戦争のできる国家の建設に向けてまっしぐらです。この問題はこれ以上ここでは触れません。

 問題は,尖閣諸島を,以前の約束どおりに「棚上げ」にもどせば,日中間の危機意識は一挙に解消してしまいます。このことの方がどれだけ「国益」に貢献することか,だれの眼にも明らかです。こんな単純な,判断ミスが,「国益」を大きく損ない,はては戦争まで視野に入れた軍備までしなくてはならないという「愚」に向かっていってしまうのです。

 戦争というものは,ほんとうに馬鹿げたきっかけで始まり,はじまってしまったら,もう,だれも歯止めをかけることはできません。それこそ国民の「主体」はどこかに「棚上げ」にされ,国家の命ずるままに,あたら「いのち」を無駄にするだけの話です。

 もう一度,繰り返しておきます。尖閣諸島の領有権を「棚上げ」にもどそう。嘘をついてまでして燐国・中国と対立することはありません。領有権で争っても,得になることなどひとつもありません。もし,どこまでも領有権を主張するのであれば,中国の提案するとおり,国際法廷で争えばいいのです。これが,話し合いによる「問題解決」であり,「外交」というものです。武力を用いる「愚」だけは,どんなことがあっても忌避すべきです。

2015年5月8日金曜日

宮崎駿監督が「辺野古基金」の共同代表に。「命」と「平和」のための「風穴」を。

 あの宮崎駿監督が「辺野古基金」の共同代表になったと知って,感無量である。ようやく映画界(動画もふくめて)の大物のひとりが「手」を挙げてくれたか,と。この人につづいて,大物俳優や芸能界の人びとも手を挙げてほしいものだ。その突破口となってくれんことを・・・。

 文学の世界ではノーベル文学賞を受賞した大江健三郎さんが,オキナワ問題には若いころからかかわり,発言をつづけてきたことが広く知られており,こんにちもなお辺野古基地建造反対運動の先頭に立っている。心強いかぎりだ。しかし,文学の世界でも,大江さんにつづく作家がもっともっと現れていいはずなのに,意外にその足どりは重い。

 いま,ブームを呼んでいるお笑い芸人も,反原発,反基地の意思表明をする人が現れてもいいのにと思うが,ここでも足どりは重い。おそらく,個人的な考えや気持としては反原発,反基地に与している人はかなり多いのだろうと思う。しかし,芸能界を生き延びていくためには「だんまり」を決め込んでいる必要があるのだろう。それでも,ひとりくらいは,反原発,反基地を宣言し,それをネタにして笑いをとる芸人が登場してもいいのに・・・。と思うのだが・・・・。

 もっとも,学者の世界ですら,正論を吐くとメディアから干されてしまう現状を考えると,無理からぬ話ではある。もっと踏み込んでおけば,学者・研究者の間では,昇任人事や研究費の配分などで,無言の圧力がかかっているとも聞く。小出裕章さんが,定年まで「助教」という身分にとどまったのも,わたしには納得がいかない。京都大学をしても,やはり,そうだったのか,と。

 アカデミズムの世界ですらそうなのだから,他の世界ではもっともっときびしい「締めつけ」が有形・無形にのうちに加えられているに違いない。そのもっとも顕著な例は,よほど気心の知れた間柄でないかぎり,反原発,反基地の話題をもちだされると困ったような顔をする人が多いことだ。もっとふつうの話題として,もっと大事な話題として,みんなで意見交換をすべきなのに,どこか「禁」に触れるかのような態度をとり,しらけてしまうことが多い。

 みんなこころのうちに秘めたることのように「だんまり」を決め込む。ましてや,政権が権力を剥き出しにして情報コントロールをはじめている,いまとなっては,ますます「だんまり」を決め込むしか身を守る方法はない。だから,なおのこと反原発,反基地に関してはまるで箝口令を敷かれたように無口になってしまう。

 そんな中にあって,宮崎駿監督が勇気ある行動にでた。とてもありがたいことだ。もっとも,考えてみれば,宮崎駿監督のこれまでの仕事は,いずれも人の「いのち」の大切さや,「平和」を訴える作品で貫かれている。だから,今回の決断は,言ってみれば,「言行一致」を貫くものだ。したがって,当然といえばあまりに当然。しかし,その当然のことが「ゆるされがたい」世の中なのだ。世の多くの人が葛藤するのはこの点だ。「言うはやすし,行うはかたし」とも言われてきた所以である。

 しかし,ここは「命」と「平和」をキー・ワードにして,みずからの生き方,行動の仕方を再点検すべきときだろう。そして,場合によっては,勇気ある行動を起こすべきときだろう。みんな,それとなく感じていながら身動きができないでいた。しかし,そんなムードの漂うなか,宮崎駿監督が「風穴」を開けてくれた。それだけで,とても勇気づけられた人は多いだろう。かく申すわたしも「よし,いよいよこれからだ」という勇気をもらった。

 そして,どのように行動を起こすかはそのときどきの情況に応じて考えるとして,まずは,「辺野古基金」に寄付をしていきたいとおもう。まず,最初の寄付はすでに済ませたが,これからは持続的に寄付をつづけることで「支援」の意思表明をしていこうと考えている。毎月,1000円でもいい。つづけることに意味があると考えて。

 そして,8月には沖縄にでかけ,辺野古基地建造反対運動にも参加してこようと考えている。沖縄に観光ででかける人は多いが,辺野古基地建造反対運動に加わる人は多くはないようだ。ここは,あまりむつかしく考えるよりは,まずは,辺野古の地に立って,いろいろ思いを馳せることだけでいい。つまり,そこで,なにが,どのように行われているのか,自分の眼で確かめ,その「場」の空気を吸うだけでいい。これも立派な観光の目的になりうるのだから。

 いずれにしても,まずは,宮崎駿監督が「辺野古基金」の共同代表になってくれたことを感謝し,喜びとしたい。ありがたいことだ。そして,これからも「支援」をつづけていこう,と。「貧者の一灯」となろうとも。できる範囲のところで,できるだけのことを・・・・。

2015年5月7日木曜日

Tokyo Contact Impro Festival 2015 のPERFORMANCE を見学してきました。

 高橋弘子さんからお知らせをいただき,昨日(5月6日)の夜(午後7時~9時),Tokyo Contct Impro Festival 2015 の PERFORMANCE を見学してきました。場所は,代々木のオリンピック記念青少年総合センターのカルチャー棟・4F。

 まずは,昨日行われたプログラムを紹介しておきましょう。

 1.コンタクト・インプロヴィゼーション/パフォーマンス
  出演:サシャ・ベズロドゥノワ,デヴィッド・フランス,アンドリュー・ワス,池田理枝,池田仁徳,国枝昌人,高橋弘子,永井美里,長嶋務,野村絵里,福本まあや(50音順)
 サウンド:栗林いずみ,Manhan マニャン
 (休憩・10分)
 2.フェスティバル報告会
  招聘講師と受講生による各クラスのデモンストレーション
   ボディ・マインド・センタリング/デヴィッド・フランス
   コンタクト・インプロヴィゼーション/アンドリュー・ワス
   コンタクト・インプロヴィゼーション/サシャ・ベズロドゥノワ
 3.ジャムセッション

 主催:CIIN.
 Special Thanks :カタヨセヒロシ,成瀬知詠子,上本竜平,日本体育大学ダンス部

 以上で大枠は理解できたこととおもいます。じつは,高橋弘子さんの活動を拝見させてもらうのが,今回が初めてでした。ですから,内容については,その場に立って,見せていただいて,はじめてなるほどこういうものであったか,と納得しました。とはいえ,たった一回,見せていただいただけのことですので,とやかく論評できる立場にはありません。

 第一,ダンスに関しては門外漢です。ただ,人が舞い踊るということに関しては学生時代から興味をもっていましたので,以来,長い人生を生きている間に,いろいろ雑多ではありますが,かなり多くの舞踊(ダンス)をみてきました。とりわけ,人生の後半では身体論に強い興味・関心をいだきましたので,その観点から舞踊(ダンス)を,しっかりとみるようになりました。

 なかでも,竹内敏晴さんとの出会いは,いまも強烈な印象となって残っています。とくに,竹内敏晴さんを囲む会を結成して,何回にもわたって,しかも長時間にわたる座談(竹内さんの強い要望による)をさせていただきました(その内容は近日中に本になる予定)。そこでのメインのテーマは「じか」でした。つまり,「じか」に触れる,とはどういうことなのか。ことわるまでもなく,竹内さんは演劇の人ですが,野口体操を取り入れ,それに竹内流の創意工夫を加えた独特の,からだに関する理論とシステムを構築し,いわゆる「竹内レッスン」として全国各地で実践されました。

 こんな話をはじめますと,エンドレスになってしまいますので,本題に入ります。

 ごくかんたんに,わたしの受けた印象について述べておきたいとおもいます。これは,ある意味では,高橋弘子さんへのレポートでもあります。

 今回,見学させていただいて,わたしの頭のなかですっきりしたことの第一は以下のとおりです。
 コンタクト・インプロは,要するに,近代的理性による呪縛からの解放なのだ,ということでした。つまり,頭でっかちになってしまった近代人は,なにごとによらず理性に頼りきり,すべてのことがらを二項対立的に分類し,そのいずれかに身も心も委ねていくことが慣習化してしまいました。ですから,自分自身の身体についても,まずは,頭で考えられるものだけを信じ,理論的に説明のできないものは排除してきました。それが近代的理性に目覚めた近代人の理想であるかのように。しかし,近代的理性の諸矛盾がしだいに明らかになるにつれ,わたしたちの身体もまた,そんなに単純なものではない,という主張がでてくるようになりました。

 とりわけ,ポスト・モダンの運動が盛り上がってきたころの,最大の原動力はここにあった,とわたしは考えています。そして,近代的理性の呪縛を解き放ち,その外に眼を向けること,そこにはもっとのびやかな自由な時空間が広がっている,と主張する人たちが現れました。とくに,建築関係の人たちが早かったとおもいます。それと同時に,アートにかかわる人たちがつづき,やがて,アカデミズムの世界でも大きな議論となりました。コンタクト・インプロもこんな流れのなかで誕生してきた,というように記憶しています。

 ところが,当初,コンタクト・インプロをみた人は,なにが,どうなっているのか,なかなか理解に苦しみました。しかし,この面白さに気づき,のめり込んだパフォーマーにとっては,瞬間,瞬間に広がる無限の可能性がたまらない魅力となっていきました。とくに,合気道との出会い,そして,コラボレーションが大きな話題にもなりました。このあたりから,コンタクト・インプロの存在が,べつの意味で注目されるようになったとおもいます。そして,さまざまなアイディアが持ち込まれ,じつに多様な展開をはじめました。

 またまた,脱線しはじめていますので,もとにもどします。

 今回,見学させていただいて,第二に印象に残ったことは,パフォーマーの個性というものでした。自己と他者との関係性のなかで,どこまで自己が「開かれている」かどうか,その「開かれた」自己にからだがどのように反応するのか(こころとからだは表裏一体であることを承知した上で,なおかつ,このような説明の仕方をさせてもらいます),ここが最大のポイントになるのだろうとおもいます。つまり,自己からのはたらきかけに対する他者の反応,そして,他者からのはたらきかけに対して自己の応答,です。しかも,この応答が,意識が立ち現れる以前の「純粋経験」(西田幾多郎)として表出したときの自己の驚き,その驚きがまた他者にも伝わっていき,その他者もまた意識が立ち現れる以前の「純粋経験」として応答する,その連鎖反応が起きたとき,もはや,自己も他者もなくなってしまいます。

 このあたりのことは,たとえば,ジャン=リュック・ナンシーが「パルタージュ(partage)」という概念を提示して,さまざまな問題提起をしていることがらと,深いところで通底しているうよにおもいます。つまり,「接触」によって生まれる「分割/分有」という考え方です。しかも,こここそが人間の存在を確認する原点ではないか,とする「存在論」の議論につながっていくようにおもいます。

  こんなことをきっかけにして,昨夜のわたしの頭のなかは,ジョルジュ・バタイユの「非-知(non savoir)におよび,バタイユの説く動物性と人間性を分かつ「理性」の問題にとび,さらには,いま読み続けている道元の「無我」の世界とか,あるいは,「修証一等」とか「証上の修」といった考え方が駆けめぐっていました。これらの点については,いつか,チャンスがあれば,直接,お会いしてお話させていただきます。そう,福本まあやさんもご一緒だと,もっと面白いかも。

 で,そんなことを思い巡らせながらパフォーマンスを眺めていましたら,一人ひとりのパフォーマーの個性が剥き出しに表出していることに気づき,その迫力に圧倒されてしまいました。つまり,個性を善悪の二項対立で考えることの無意味さが,そこにはもののみごとに現れていたということです。こんな言い方をするとたいへん失礼かもしれませんが,それをみているわたしの方もまた,理性の呪縛から解き放たれ,ただ,みているだけなのに,わたしのこころもからだも,いつのまにかジャムセッションのなかに溶け込んでいました。

 ですから,わたしの腕が引っぱられたり,頭を押されたりしているわけです。そのうちに,みているだけなのにその人の腕を引っぱりたくなったり,いま,この瞬間にこの角度から,相手に向かってこんな風に腕を伸ばしたい・・・・と勝手に感じとりながら,すっかりジャムセッションに参加し,一体化していました。

 それにしても,たった一人として,同じ個性の人はいない,もののみごとにみんな「違う」,と感じ入っていました。しかも,これまで経験したこともない鮮明さでみえてきたことには,驚くほかありませんでした。もっと言ってしまえば,その人の内面までもが「丸見え」になっていて,こんなにも「見える」ものなのか,と驚きました。そこは,もはや日常の時空間を超越した,異次元の世界を垣間見るようなおもいがしました。

 恐るべし,コンタクト・インプロ!の初体験でした。

 その結論は,わたしが考えつづけている「動物性への回帰願望」の表出が,ここにこそ存在している,というものでした。

 以上,取り急ぎ,レポートまで。詳しくは,お会いした上で。あっ,そうだ,そのときは「カトノリ」さんも一緒だと,もっと弾けそうですね。

2015年5月6日水曜日

青空に「9条守れ」と3万人(『東京新聞』5月4日・朝刊・一面より)。

 5月3日の夜には,インターネット上を,この情報が流れてきた。横浜の臨海パークに3万人が集まった,と。写真も同時に流れてきた。

 3万人集会の写真をじっと眺めていたら,胸にこみあげてくるものがあった。ようやく動きはじめたか,と。山は動いた。間違いなく動いた。いよいよこれからだ。あとは大きなうねりとなって,国民世論を形成していくことだ,と。

 ここに掲載した写真は,『東京新聞』(5月4日・朝刊一面)からの転写である。
 冒頭のつかみの文章がなかなかいいので,転記しておく。

 
日本国憲法の施行から六十八年を迎えた憲法記念日の三日,「平和といのちと人権を! 戦争・原発・貧困・差別を許さない」をテーマにした集会が,横浜市西区の臨海パークで開かれた。安倍政権が解釈改憲で集団的自衛権行使を可能にし,改憲を進めようとする中,主催者発表で約三万人が参加。その数がアナウンスされると,会場は拍手でわいた。危機感を募らせ集まった市民らは,戦争放棄をうたう九条を引き継ぐ思いを新たにした。

 とにもかくにも「3万人」が集まった。これがなによりの収穫だった。この場に立ち合った人たちはもとより,この情報を聞いた人も,「3万人」という数にどれほどの勇気をもらったことだろう。わたしも,前日まで,でかける予定にしていたが,急用がとびこんできて反故になってしまった。残念の極み。だから,なおさらのこと,夜になってインターネットで「3万人」が集まったという情報を知って,胸が熱くなった。

 わたしの期待は,せめて「5千人」は集まってくれよなぁ,できれば「1万人」を超えてほしい,というものだった。だから,「3万人」という数字をみて,わが眼を疑った。なにかの間違いではないか,と。急いで,別の情報源からの数字を確認した。やはり,同じだった。そうか,「3万人」が集まったのだ,とようやく実感となった。何度も,なんども,胸が熱くなった。

 これまでも,折をみては国会議事堂前や官邸前や日比谷公園などでの集会には足を運ぶようにしてきた。参加者の多い日もあったが,なんとなくジリ貧の印象は否めなかった。こんなにたいへんな状態になっているにもかかわらず,出足がにぶい,と不満だった。平均的日本人の意識や行動はこんなものなのか,と。ひとり落ち込んでいた。どうしようもない逼塞感のなかで。

 しかし,どこかで潮目が変わった。その引き金となってのは,翁長県知事と菅長官,安倍首相の2回の対談だったようだ。この報道をとおしてオキナワの実情が広く知られることとなった。おそらくは政権の誤算だった。そこに加えて,安倍首相の訪米があった。そこでまた,安倍首相は勇み足をした。国民無視,国会無視。どう考えてみても「暴走」以外のなにものでもない。

 ようやく,かなりの国民が「変だ」と気づいたに違いない。このままではとんでもないことになってしまう,と。かくなる上は,どこかで意思表明をするしかない,と。

 潮目の変化が現実になってきた。これからは,この集会に参加できなかった人も,チャンスをとらえて行動を起こすに違いない。もう,そうするしか方法がないからだ。そして,つぎの選挙までに体勢が決する世論形成に努めることだ。

 わたしも勇気をえたので,これからはもっと積極的に行動を起こすことにしよう。できるところから。

 上の写真の左すみに「平和の俳句」が掲載されている。引いておこう。
 平和とは声出すことぞ揚雲雀(あげひばり)
 柴田隆一(たかいち)(89)愛知県豊田市

 まさに同感。
 最後に,この日の集会のテーマをもう一度引いておこう。
 「平和といのちと人権を! 戦争・原発・貧困・差別を許さない」。

2015年5月5日火曜日

FBをフクシマ,オキナワ情報に特化。いい情報が手に入るようになりました。

 国家権力による情報操作が露骨に行われるようになりました。もはや,日本のジャーナリズムはほとんど機能していないと言っていいでしょう。これまで国民に信頼され,メインの役割をはたしてきた新聞・テレビも,もはや,権力の番犬と化してしまったか,とおもわれるほど無惨です。いまでは,むしろ,ラジオのパーソナリティが語る情報の方がまともなことが多いと感じられるようになりました。いま,ラジオ・ファンが密かに増大しつつあるとも聞きます。

 他方で,インターネット情報が,予想をはるかに超える広がりをみせています。これからさきもどのような展開をするのか,予測がつかないほどです。パソコン操作のテクニックも必要とあって,中高齢者はそれほどでもないようですが,若者たちの関心は,新聞・テレビはスルーして,こちらに移動しているようです。

 かく申すわたしも,大いに出遅れてしまいましたが,いまごろになってようやくインターネット情報を操作し,必要とされる情報を手に入れる方法が少しだけわかってきました。膨大なネット・ワークが,ほとんど無制限に,放り出されているような状態ですので,まずは,信頼できる情報源を手に入れることが不可欠です。つまり,情報リテラシー。

 そこで,まずは,FBなるものに挑戦。いろいろ試行錯誤した結果,いまはフクシマとオキナワ情報に特化して,様子をうかがっています。すると,類は友を呼ぶではありませんが,いつしか信頼できるたしかな情報源にたどりつくことができるようになりました。これは,とてもありがたいことで,ことの真相を幅広く,しかも深く受け止め,考えることができるようになってきました。ただし,難点は情報量があまりに多すぎることで,時間ばかりが奪われてしまい,身動きがとれなくなってしまう,というところにあります。そこで,こんどは,情報源を必要最小限に剪定することが大きな課題となってきました。ある種の決断です。いまもまだ試行錯誤の段階ですが,かなり整理がついてきました。

 わたしの FB は,一応,フクシマとオキナワに特化して,可能なかぎり極上の情報を入手し,それらを拡散するということをめざしています。が,それだけではつまらないので,知人・友人とも手を結んで,いわゆる個人情報も手に入るようにしています。こちらも,とても便利なツールとして活用させてもらっています。ふだん,まったく音信のない古い友人ともつながり,とくにことばを交わすわけではありませんが,なんとなく楽しいものです。

 わたしの個人的な興味・関心に関する情報は,もっぱら,このブログをとおして発信することにしています。こちらは,長い間の読者の方ならおわかりのように,その日,そのときの気分で,面白いとおもわれるテーマを拾い上げて書いてみたりしていますので,かなり広範囲の雑多な情報提供のようになっています。が,時折,研究ノートのようなかたちで,ある特定のテーマを連続して追っていくという試みもしています。こちらもあの手この手で楽しむことをモットーにしています。

 このブログを書くことの目的はほかにもあります。それは,文章を書く力が落ちないようにすること,できることなら,もっと上手に書けるようにすること,です。ほぼ,毎日,トレーニングのつもりで書いています。もうひとつは惚け防止です。とにかく脳を活性化させるには文章を書くことがなによりの方法であることは,このブログを書くようになってはっきりしてきました。というか,実感しています。とりわけ,熟知していた固有名詞(著名な歴史上の人物名)がどんどん消えていきます。それはそれは恐ろしいほどです。ですから,文章を書きながら,思い出せない固有名詞を,なんとしても思い出させる努力をすることになります。これが,消えゆく記憶を,もう一度,取り返す絶好のチャンスとなります。

 もう一つは,G+1 をやっています。それは,このブログをもう一つのネットワークで公開するためです。こちらは無制限のままほったらかしにしてありますので,ありとあらゆる情報が寄せられてきます。しかも,全世界から,わけのわからない不思議な情報が集まってきます。しかも,そのほとんどは匿名ですので,無責任きわまりない情報がほとんどです。もちろん,エロ・グロ・ナンセンスな画像から,パソコン・テクニックの粋をつくした画像にいたるまで,種々雑多です。これはこれで,人間のむきだしの欲望がさらけ出されているようで,広い意味での人間理解のためのとてもいい勉強にはなります。

 なかには,きちんと実名で,身元もはっきり公表している人からも情報が寄せられてきます。こちらは,かなり趣味的な分野の人が多いですが,わたしの知らない分野の,きわめて特殊な世界を知らせてくれるという点では,大いに楽しむことができます。

 いまのところは,この三つの方法で,ネット情報と接しているという次第です。それでも,すでに手にあまる状態ですので,そろそろ手綱を締めなおして,もっと効率よく楽しめるネット環境を整えたいと考えています。

 やはり,情報化社会を生きていくには,かなりの努力をして,自分なりの流儀を探り当てることが肝要だとおもいます。まあ,焦らず,慌てず,楽しめる範囲で付き合っていこうとおもっています。

 なにか,いいアイディアや工夫や方法がありましたらご教授ください。

2015年5月4日月曜日

『映画日本国憲法』(ジャン・ユンカーマン監督)をみる。秀逸。必見。

 なぜ,日本国憲法を守らなくてはならないのか,そのポイントは「第9条」にある,ということをじつにわかりやすく説いています。1時間20分42秒。

 ほんとうは,5月3日の憲法記念日にみるつもりでしたが,一日遅れの今日になってしまいました。が,それでも「みて,よかった」としみじみおもっています。

 5月3日から7日まで,ジブロがYOUTUBE上に「無料」公開しています。この期間に,ぜひ,お見逃しなく。わたしは,友人からのFBでこの情報を知りました。このところ,重要な情報はすべてFBから入手しています。政府のメディア・コントロールも,インターネット情報までは困難なようで,こういう情報が流れてきます。でも,最近は,あっという間に「削除」されてしまうことも多くなってきました。が,この情報はすでに多くの人の手によって「拡散」されていましたので,もはや,手遅れのようです。ありがたいことです。

 この映画をみますと,アベ政権が,いま展開している憲法改正論議がいかに愚かで,暴挙そのものでしかないか,ということがじつに鮮明になってきます。積極的平和主義などという,人を小馬鹿にした欺瞞語を編み出し,それを連呼して,国民をとんでもない方向に誘導しようとしていることの,むしろ悪意に満ちた「幼稚性」も浮き彫りになってきます。アベ政権のいう積極的平和主義とは,明白なる「騙り」でしかありません。すなわち,積極的平和主義とは,積極的に「平和」を否定して,戦争のできる国にしよう,と言っているにすぎません。ほんとうの意味での「積極的平和主義」は,憲法第9条を「死守」すること以外にはありえません。

 憲法第9条を,60年以上にもわたって,曲がりなりにも守り通してきたという「事実」を,もっとも高く評価してきたのは近隣諸国です。日本が二度と戦争をしないと「約束」したことを,いつ,破るのかと戦々恐々としてきたにもかかわらず,なにはともあれ,60年以上にわたって守ってきたからです。それが,アベ政権によって,いよいよ,その「約束」が反故にされようとしているのです。ですから,近隣諸国は,これまで以上にナーバスにならざるをえません。「とうとう化けの皮がはがれ,尻尾がみえてきたではないか」と。

 わたしたちは,いまこそ,ほんとうの意味での積極的平和主義を貫くときです。つまり,過去の歴史の教訓を真摯に受け止め,憲法第9条を死守し,二度と戦争はしません,と。そして,過去の戦争で大きな禍根を残すことになったすべてのことがらに対して,こころからの謝罪をすべきです。そのお詫びのしるしに憲法第9条を担保として差し出します,と。そう言って,積極的に謝罪をしてまわること。そう,ドイツのように。

 そして,その上で,国家としての主権を,もっと明確に主張すること。まず,まっさきにやらなくてはならないことは,アメリカの国連を無視した戦闘行為にたいして,積極的平和主義の立場から,つまり,憲法第9条の精神に則り,正々堂々と,不法な戦闘は中止すべし,と批判することです。イスラエルに対しても同じです。こういう絶対的な平和主義を主張できるのは,世界中で日本しかないのですから。なぜなら,戦争を放棄することを声高らかに謳った憲法をもつ国は日本以外にはないのですから。永世中立国を宣言したスイスですら,立派な軍隊をもっています。

 世界中でたった一つしかない国家として,日本は,いまこそ「積極的平和主義」を貫くべきときです。アベ政権は,そのま逆に突き進もうとしています。だからこそ,近隣諸国との緊張が高まり,危機が迫ってきているのです。それらは,すべて,自分で播いた種であり,その芽を「武力」で摘み取ろうとしているだけのことにすぎません。

 ことばの正しい意味での積極的平和主義を前面に押し立てて,つまり,絶対に戦争はしませんという錦の御旗を押し立てて,近隣諸国との外交を展開していけば,おのずから道は拓かれてきます。そして,国際社会がそれを高く評価すること間違いなし,です。

 そして,なによりも「命」を大事にする国・日本を,世界に向けて発信しつづけることです。

 ここから,日本は,やり直すくらいの覚悟が,いま,求められています。

 そんなことを,このドキュメンタリー「映画日本国憲法」をみて,考えました。他にもいろいろと学ぶべきものがたくさんありましたが,それらについては,また,いずれ書いてみたいとおもいます。

 秀逸な映画です。必見です。しかも,短期決戦です。
 もっとも,DVDでみることはできますが・・・。

『聖地巡礼』─熊野紀行(内田樹×釈徹宗著,東京書籍,2015年3月刊)を読む。「聖なるもの」の力を語り合う。

 フランス現代思想・レヴィナスの研究者でエッセイスト・評論家でもある内田樹と宗教者の釈徹宗という,いささか異色の組み合わせがおもしろい。これまでのわたしのイメージからは,内田樹が「聖地巡礼」に興味をもち,みずから出向くなどとは考えにくかった。しかし,かれが武術家としても活動し,いまでは道場を建てて弟子を育てているという経緯を考えてみれば,なるほど,と納得である。レヴィナス研究者としても,そして武術の求道者としても,突き詰めていくと「聖なるもの」の領域にますます接近することになるのだし,ついには自己を超え出る「世界」,あるいは「聖なるもの」との接点が不可欠となるからである。

 
本書の企画は,どうやら,出版社の東京書籍がそそのかして,この二人が乗ったことにより成立したようだ。しかも,冒頭にわたしは異色の組み合わせと書いたが,そういえば,このお二人は『日本霊性論』(NHK出版新書)という本も共著で出しているので,もう,とっくに旧知の仲なのだ。言ってみればウマが合う間柄なのだ。

 そのことは,本書を読み始めればすぐにわかる。最初から,じつにくつろいだ会話がはじまるからだ。ということは,霊性とか,聖地に向き合う姿勢が,基本的なところで一致しているからに違いない。しかも,お互いにそれぞれのスタンスをスペクトしている。だから,読んでいてこころが安らぐし,心地よい。しかも,どちらかといえば内田樹が,童心に返ったかのように純粋にはしゃいでいる。というか,聖地のあちこちで「トランス」状態,あるいは,それに近い状態になり,その場ならではの極め付きのセリフを吐く。それを,釈徹宗が冷静に受け止め,その意味を深めていく。その点,このお二人はとてもいいコンビだというべきだろう。

 じつは,わたしも,もうずいぶん前から熊野詣でをしてみたいと思い描いていながら,いまだに実現できないでいる。やはり,きっかけは南方熊楠のことを知ったことがはじまりで,つづいて中上健次の小説世界にはまり,いよいよ熊野に行かねば・・・とこころに決めていた。その後,古代史や神社の系譜や仏教世界や,あるいはまた,神仏混淆の信仰形態や修験道の世界に引きずり込まれるにいたり,はやり「熊野だ」という思いはますます強くなっている。

 とりわけ,日本の古代史を考える上でも,熊野は特異な存在である。いわゆる日本史の本流からは距離を置いているものの,なにか大きなできごとが起きるときには,かならず熊野の存在が大きくクローズアップされることになる。しかし,それでいて主流には成りきれないままだ。つまり,ヤマト朝廷にとっては,むしろ,無視したいのだが,そうもいかない,というきわめてやっかいな場所なのだ。その傾向はいまも変わらない。いまだに謎だらけの地域であり,風土であり,どくとくの信仰形態を維持しつづけている。

 しかし,このお二人にとっては,そんなことはどうでもよくて,むしろ,その「場」のもつ「霊性」をいかに感じとるかが重要なのだ。内田樹は,もっぱら,みずからの感性をそこに向けていく。そして,その「場」の霊性との会話を楽しもうとする。そして,つい勢いあまって,童心の無邪気さをさらけ出す。そして,そのこころの赴くままに身をゆだねていく。そこで生まれるドラマが,この本のひとつの見せ場でもある。

 たとえば,第一日めは,滝尻王子⇨発心門王子⇨船玉神社⇨熊野古道⇨熊野本宮大社⇨大斎原を,そして,第二日めは,神倉神社⇨花の窟神社⇨産田神社⇨那智の滝(那智大社・青岸渡寺)⇨補陀落山寺,を順に尋ね歩いているのだが,それぞれの場所で,このお二人が意外な体験をしながら,そこから思いがけないことばが飛び出してくる。

 その内容については本書にゆずることにしよう。

 わたしは,このお二人とはまた違った興味・関心を「熊野」に寄せている。大雑把に言ってしまえば,ヤマト朝廷がなんとしても蓋をし,隠蔽しなくてはならなかった,大きな「謎」がこの地には隠されているに違いない・・・・,その「謎解き」をしてみたい・・・・。

 熊野に興味をもつ人にとってはたまらない一冊。なにより,その「場」の力に身をゆだねて,思いのままを語り合う,こんな本も珍しい。お薦めである。

2015年5月3日日曜日

戦争の記憶・その3.国民学校1年生。最初に学んだことは,整列,隊列行進,伏せ,匍匐前進。

 昭和19年(1944年),わたしは国民学校に入学した。いまでいうところの小学校だ。意味するところは,立派な「国民」を育成するための学校。つまり,小学校1年生から「国民」のはしくれに加えられ,そのための教育がなされた。もちろん,軍事訓練もあった。小さな子どもとはいえ,鬼畜米英が本土に上陸してきたら,兵隊の一員として戦うための技術を学んだのである。

 こんなこと,信じてもらえるだろうか。

 しかし,いまでも,戦乱がつづく弱小国の子どもたちは立派な兵士の一員として訓練を受け,前線に駆り出されている写真が報道されることがあり,びっくりする人が多い。なにを隠そう,いまから70年前のわが日本帝国が断末魔を迎えたときも,まったく同じことをやっていたのである。帝国婦人にいたっては,竹槍訓練をして,敵の戦車に竹槍で突っ込むのだ,と息巻いていたのである。しかも,みんな大まじめだった。

 国民学校1年生になった帝国少年ならぬ帝国児童が最初に学んだことは,隊列行進だった。すでに風雲急を告げており,空にはB29が隊列をなして飛来し,わたしたちが住んでいた町にも爆弾を落とした。いわゆる空襲警報がひっきりなしに発令され,そのたびに,防空壕に飛び込んで,息をひそめて身を固くして祈っていた。どうか,無事でありますように,と。死ぬことが怖かった。ほんとうに怖かった。

 「空襲警報発令!」が日常だった。だから,国民学校に登校するのも,町内ごとに集合して,6年生が隊長となって,隊列を組み,隊長の号令にしたがって学校まで行進して行った。隊列が乱れるとビンタがとんだ。1年生でも容赦はなかった。6年生にビンタをくらうと小さな1年生は2~3mはぶっとんだ。6年生が恐ろしく大きくみえたし,立派な大人にみえた。だから,絶対命令・絶対服従は理屈以前の問題だった。

 気をつけーッ! 前にならえーッ! 直れーッ! 右向けッ 右ーッ! 廻れ右ーッ! 前へ進めーッ! 全体ーッ 止まれーッ!

 これらはみんな6年生に教えてもらった。

 まだある。伏せーッ!というのがある。
 この号令がかかったら,ただちに地面に伏せる。ただ,地面に伏せるだけではなく,両手の親指で両耳を塞ぎ,人指し指・中指・薬指で両目を抑え,小指で鼻梁を押し込んで,じっと動かないでいなければならない。たとえ道路であろうと,水たまりがあろうと,構わず,直ちに「伏せ」の姿勢をとらなくてはならない。絶対命令だから。もたもたしていると,ビンタが飛んでくる。だから,だれよりも早く「伏せ」の姿勢をとらなくてはならない。

 「伏せーッ」が解除されると,つぎは「匍匐前進」である。夏の半袖シャツに半ズボンのときは,痛くて,辛かった。しかし,「痛い」などと言ってはならない。言えば,何回もやらされる。そして,「非国民!」と言って罵られる。これが一番恐ろしかった。「非国民!」と怒鳴られることは,「死ねッ!」というのと同義だった。

 下校時も同じだった。町内ごとに全員集合し,隊列を組んで行進である。町内の集合場所に到着すると,そこで解散である。しかし,その途中で,必ず1回は「伏せーッ!」の号令が掛かり,そのあとは「匍匐前進」の練習をした。だから,町内にたどりつき,「解散ッ!」の号令を聞くと同時に,みんな駆けだした。家に向かって一目散だ。

 家に到着すると,カバンと防空頭巾を投げ出して,仰向けに大の字になって横たわり,深呼吸をしたものである。やっと生きた心地がしたのは,このときだった。学校にいる間も緊張の連続だった。このことは,また,あらためて書くことにしよう。防空頭巾のことも。

 以上が,国民学校1年生になって,最初に学んだことだ。いま,思い出すだけで鳥肌が立つ。それほどに強烈な印象となって,いまも鮮明に残っている。だから,われわれの世代はビンタは日常茶飯のことで,別に驚くほどのことではなかった。敗戦後,小学校となり,中学校,高等学校,大学と進んで行っても,ビンタはあった。それは,ごく当たり前のこととしてあった。

 あまり,思い出したくはないが・・・・。

2015年5月2日土曜日

明らかに潮目は変わった。沖縄県民の意思に全国民が反応。辺野古基金(1億1900万円)の7割が本土から。

 今日(5月1日)の『沖縄タイムス』は一面トップの記事で,つぎのように報じています。この記事を読みながら,わたしの胸は高鳴りました。久しぶりのことです。

 まずは,大見出しを拾ってみましょう。
 「辺野古基金1億1900万円に」
 「7割が県外から」
 「辺野古評価せず 全国45%」
 「政府を評価 40%」
 「否定的世論が上回る」
 「全国4紙も同様」

 これらは共同通信がおこなった電話による調査結果であるとした上で,さらに詳しく分析・評論を加えています。これらの大見出しをみた瞬間に,「明らかに潮目は変わった」とわたしは直観しました。これは驚くべき結果以外のなにものでもありません。わたしの想定をはるかに超えるものだったからです。つまり,沖縄県民の意識は,はるか先にまで進んでいるにもかかわらず,本土の茹でガエルは漠然と政府の方針に従うに違いない,とわたしは踏んでいたからです。

 しかし,そうではありませんでした。辺野古基金1億1900万円という額にも驚きましたが,それ以上に「7割が県外から」という見出しにびっくりしました。じつは,わたしも「貧者の一灯」の精神のもとに,わずかばかりですが寄付をしました。しかし,この総額と県外から「7割」ということを知り,ならば毎月,少しずつでもいいから寄付をしていこう,と考えました。一時に大金を寄付することはできませんが,分割して,少しずつ支援の気持を持続させながら寄付することならできる,と。そして,継続的な支援こそ大事ではないか,と。わたしは,この記事を読んで勇気百倍。よし,これでいける,と元気がでてきました。

 いまこそ沖縄支援をするときがきた,と感慨無量です。昨年の夏に辺野古に二度ほど足を運び,その場に立ち,わたしなりの意思表明をして以来,なんとかできないものか,とずーっとアンテナを張りつづけていました。が,遅々として盛り上がらない本土の意識にいらいらしていました。そして,安倍政権支持率は高いまま。いったい,どうなっているんだ,この国は・・・,と苛立っていました。

 が,翁長知事と菅官房長官との対談が大きな転機となりました。これによって,翁長知事がじつに明瞭に民主主義の重要さと人権の否定を,全国民に提示することができたからです。メディアもこの問題を取り上げざるをえませんでした。そして,具合のいいことに,つづいて安倍首相も翁長知事との対談を行いました。そして,まったく稚拙で強引な論法しか政府にはない,ということも明るみにでました。この二つの対談を見届けたところで,多くの本土の国民も,ようやく「奇怪しい」と気づくことになりました。

 その結果が,この基金の総額となり,本土から「7割」という支持になった,とわたしは受け止めています。かくなる上は,持続的な寄付をとおして沖縄県民支持を表明していくことだ,これが本土の人間の良識ある行為だ,とわたしは信じています。そして,それこそが安倍政権退陣への道を切り拓くきっかけになる,とも信じています。

 天下分け目の「関が原」の戦いの幕が切って落とされました。いよいよこれからです。いまこそ,茹でガエルが眼を覚まし,人間として,生身の生きる人間として,「生」を肯定するための行動に立ち上がるときが到来しました。

 この記事の末尾には,もう一点,興味深い情報が提示されていました。

 日米両政府が合意した新たな防衛協力指針(ガイドライン)について,反対が47.9%,賛成が35.5%,という調査結果がでた,というものです。そうか,ようやく安倍政権の「暴走」に危機感をいだく国民が「47.9%」に達したか,と我が意をえた気分です。そして,政府支持よりも反対が上回った,と。これこそ良識というものです。

 まだまだ予断は許されませんが,それにしても,潮目は明らかに変わった,とわたしは感じ取っています。山が動いた,と。あとは「情報操作」に騙されないリテラシーをわがものとすること。これからは,ネット情報で頑張るしかないのかな,と分析しています。そこは若者たちの得意な分野ですので,その点も期待したいとおもいます。すでに,若者たちは全国平均よりもはるかに高いパーセンテージで「反対」の意思表明をしているとも,同紙は報じています。

 明らかに潮目は変わった。いざ,出陣!

茹でガエル亡国論・その2.文明化の産物。東京五輪1964が大きな転機。

 茹でガエルとは,ひとくちで言ってしまえば,文明化の産物です。それも,つい最近の,日本での現象です。もっと象徴的にわかりやすくするとすれば,東京五輪1964以後の現象である,と断言しておきましょう。しかも,それは「生きもの」としては明らかに退化現象である,ということです。このことについて,今回は少し考えてみたいとおもいます。

 東京五輪1964は,単純に計算して51年前のイベントでした。いまや,日本人の圧倒的多数は,東京五輪1964以後に生まれた人たちです。ですから,生まれながらにして東京五輪1964以後の日本の文明化社会を空気のようにして成長しています。つまり,それが当たり前。

 しかし,このとき,日本は大きく様変わりをしました。まずは,なによりも東京五輪を茶の間で観戦したいという期待に応えて,テレビが全国的に普及していきました。それまでのラジオ,新聞といったマス・メディアにとって代わったのがテレビでした。リアル・タイムで東京五輪の映像を茶の間でみることができるようになりました。ということは同時に世界中のニュースもリアル・タイムでヴィジュアル化されることになりました。これは画期的なできごとでした。わたしが26歳のときでしたので,この当時のことはいまも鮮明に記憶しています。

 わたしは残念ながら,まだ定職につくこともなく,大学院に籍をおき,アルバイトをしながらほそぼそと自炊生活をしていました。ですから,テレビにはとても手がとどきませんでした。つまり,極貧の生活に甘んじていました。ナショナルに勤務した友人のひとりがみるにみかねて電気炊飯器をプレゼントしてくれました。が,この電気炊飯器も,ほかの友人のひとりが泊まり込みで遊びにきた日の朝に,その友人とともに消えてなくなっていました。つまり,家電製品がまだとても物珍しい時代だったわけです。

 文明の利器が日本の家庭のなかに浸透しはじめた時代でした。このあと,いわゆる家電革命が起きて,日本の家庭生活はつぎつぎに変革を強いられていくことになります。テレビを筆頭に,電気炊飯器,冷蔵庫,洗濯機,掃除機,電気毛布,電気カーペット,そして,エアコンへといった具合に,日本の家庭のなかにあっという間に家電製品が侵入してくることになりました。わたしは結婚後も貧乏生活をしていましたので,それらの家電製品を羨望のまなざしで眺めていました。ですから,なおさら強烈な印象となっていまもそれらの家電製品のことを記憶しています。

 こうした家電製品が,じつは,わたしたちの「からだ」にも大きな影響を及ぼすことになりました。言ってしまえば,「からだ革命」のはじまりでした。つまり,それまでの「からだ」は,少なくとも「自立/自律」していました。つまり,なにをするにしても自分の「からだ」を使うのが当たり前でした。しかし,家電製品の浸透は,それまで「からだ」が受け持っていた多くの「はたらき」を奪い去っていくことになりました。要するに,「からだ」を働かせる場面がどんどん減少していった,ということです。「からだ」はなにもしなくても,家電製品がすべて代行してくれる,そういう時代に突入していくことになりました。

 20代から30代にかけてのわたしにとっては,その一つひとつが,まさに「革命」でした。そのすべてが便利で,ありがたいものばかりでした。助かりました。が,その代わりに「からだ」は横着になり,本来持っていたはずの機能を失っていくことになりました。そのことには早くから気づいていたわたしは,エアコンだけは最後まで抵抗しました。取り付けたのは60代に入ってからでした。それでも,できるだけ使わない,できるだけエアコンに頼らない生活を心がけてきました。完全にエアコンを解禁にしたのは,昨年の大病後のことでした。76歳。もう,からだに頑張らせる必要はないだろう,と。いや,頑張るだけの力を失ってしまっただろう,と。むしろ,擁護してやる必要がある,と考えるようになりました。

 こうして,わたしも,いよいよ茹でガエルの仲間入りという次第です。

 それよりも,なによりも,問題なのは,東京五輪1964以後に生まれ,育った人たちの大半は,生まれながらにして茹でガエルとなるべく運命付けられていた,という事実です。ものごころがついたころには,もう,すでに立派な茹でガエルになりはてていたのですから。このことを非難したり,批判したりする資格はわたしにはありません。ただ,こういう情況に無意識のうちに置かれてしまっているということに警鐘を鳴らし,茹でガエルに成りきってしまわないよう,なんらかの対策を講ずる必要がありますよ,と提言したいだけです。

 なぜなら,茹でガエルは,「生きもの」としては明らかに退化現象であるからです。その最たるものは免疫力の低下です。病気になりやすい体質の人が年々増大しているために,病人もまた,年々増加しているというのが現状です。このままでは病院がいくつあっても足りません。ですから,免疫力の低下を,いかにして防ぐか,その対策を講じないことには,これからの時代を生きていく人たちは救われません。それどころか,国家としての存続すら危ぶまれることになります。

 ここが,「茹でガエル亡国論」の出発点です。

 今回は家電製品に話題を絞り込みましたが,じつは,東京五輪1964はもっともっと多くの点で大きな変革をもたらしました。たとえば,新幹線の開通,高速道路の開通,自家用車の普及,など交通手段にも大きな変化が起きました。その結果,なにが起きたのかは,みなさんもよくおわかりのとおりです。

 このように,茹でガエルは一朝一夕にして誕生したわけではありません。わたしの認識では,東京五輪1964をひとつの大きな転機として,一気に,一億総茹でガエル化への道を歩みはじめた,と考えています。

 その3.以後は,さらに細部にわたる各論を展開してみたいとおもいます。

2015年5月1日金曜日

今日(5月1日)はたくさんの妊産婦に出会う特異日でした!?

 今日(5月1日)は朝から全国的に快晴,とテレビの天気予報。その予報どおりの青空が広がりました。ここ鷺沼の事務所の空は,いまも(午後4時30分),雲一つないみごとなブルーです。朝,家をでるときから気分も軽く,あちこち寄り道をしながら(いろいろなお屋敷の植え込みや花を眺めながら),事務所にくることができました。

 そんな中にあって,どういうわけか,今日はじつに多くの妊産婦さんに出会いました。最近,それとなく,ことしは子どもがたくさん産まれるに違いない,とはおもっていました。なぜなら,近年,まれにみる妊産婦の多さです。それが,今日はことのほか多く,思わず足を止めて見入ってしまいました。ここでも,あっ,あそこにも,という具合に出会いました。

 自宅から事務所までは,ドア・ツー・ドアで30分。徒歩10分+電車10分+徒歩10分。で,今日は寄り道をしてきましたので,最後の徒歩10分は20分くらいになったかとおもいます。この20分の間にも,つまり,住宅地の裏通りでも,なぜか,ゆったりと散策をしている妊婦さんに出会いました。それも複数です。溝の口の家をでて駅まで,そして,駅の構内,電車の中,それぞれにみごとなほどに多くの妊婦さんに出会いました。

 久しぶりに晴れ渡った上天気につられて妊婦さんも外に出てきたということなのでしょうか。それとも,遠距離の旅行は避けて,家の近くで楽しみましょう,という妊婦さんが多かったということなのでしょうか。あるいはまた,夫が休日で子どもたちと付き合ってくれている間にひとりで用足しに出たということなのでしょうか。意外なことに,今日,出会った妊婦さんはみんなひとり歩きでした。しかも,その平均年齢は比較的若い人が多かったのも印象的でした。

 少子化が叫ばれている割には,ことしの出生率は高くなるのでは・・・などとおもわず期待してしまいました。今日の印象だけですが,比較的若い世代の人たちが子どもを産んでくれるということであれば,これは期待できるのではないか・・・・と。

 あるいは,もうひとつ穿った見方をすれば,「貧乏人の子だくさん」とむかしからいいます。数字の上では景気がいいらしいですが,実感としては少しもいいとはおもえない,というアンケート結果もでています。ということは,高給取りや上流階層は,さっさと海外旅行にでかけるにしても,圧倒的多数の中・下層の庶民はそれも我慢して,身近な娯楽で済ませよう,というのが実態かもしれません。

 金持ちは子どもを産むよりも,贅沢な遊びにうつつを抜かしていることができるにしても,庶民は子どもに期待を寄せることくらいしか夢も希望もないのかもしれません。まあ,その内実はよくわかりませんが,今日はたくさんの妊産婦さんに出会いました。偶然にしては多すぎます。でも,わたしの主観的な見方では,とてもいいことだとおもいます。

 経済成長の数字だけがよくなったとしても,子どもの数がどんどん減少していくのだったら,その結果はみるも無惨な社会の到来しか考えられません。第一,社会としての機能を果たしません。なにもかもが崩壊していくしかありません。人が生きる基本要件は,やはり,親と子どもの数のバランスでしょう。そのバランスが崩れてしまったら,それはもはや人が生きる社会ではなくなってしまうでしょう。

 わたしは「貧乏人の子だくさん」の支持者です。みんな貧乏であれば,なんの不満もありません。わたしたちの世代が育ったときの,すなわち,敗戦後の,なにもかも不足だらけの時代は,みんな明るい未来を夢見て必死になって働き,子どもたちも親の仕事を手伝っていました。しかも,みんな貧乏でしたから,みんな仲良しで,仲違いなどしている暇もありませんでした。大流行した野球をやるにしても,みんなで力を合わせなくてはできませんでした。

 その逆に,みんな豊かになって子どもの数が減少していく傾向の方が恐ろしい。その結果,出現した殺伐とした,砂漠化した人間関係のお粗末さ。毎日のように,「だれでもよかった。人を殺したかった」などという,わけのわからない無差別殺人が報道されています。これは,どうみても格差社会が生みだす悲劇です。

 一握りの金持ちのための政治を,まるでアメリカを見習うかのようにして,日本でも繰り広げる現政権の「愚」を,どこかで断ち切らなくてはなりません。

 そんなことは百も承知だが,まずは子どもを産もうという女性が増えているとしたら,わたしはこちらの方に期待を寄せたい。そして,「人が生きる」ということがどういうことかを,地に足がついた視点からわかっている女性の感性こそが,いまの政治に対するもっとも重要なパワーになりうる,と考えるからです。

 ああ,こんなことを書くつもりではなかったのに,意外な展開となってしまいました。でも,やはり,書くということはいいことだ,いままで貘としていた思考がするりとその姿を現すから,とまずは自画自賛。

 妊産婦さん! バンザイ! 救世主! バンザイ!

又吉直樹著『火花』(文藝春秋,2015年2月刊)を読む。驚きの連続。お薦め。

 『文学界』に掲載されたときに,爆発的にヒットし,話題となり,とうとう何回にもわたって雑誌が増刷されたという話題作が単行本になりました。それも,もう,しばらく前のことで,そのころとても忙しくしていたために,とりあえず本だけ買っておきました。ようやく,一区切りついたので,つぎの仕事までの間を縫うようにして,大急ぎで読みました。

 
又吉直樹。お笑い芸人。この名前は知りませんでしたが,テレビで確認してみましたら,あの顔は覚えていました。あっ,そうか,あの男だったのか,と。一度,みたら忘れない個性的な顔であり,立ち居振る舞いです。長髪を真ん中で分けて両側に垂らし,ギャグを連発するだけの瞬発力もなく,どこか寂しげにお笑い芸人の中に溶け込んでいる男。わたしは,まだ,かれの漫才を聞いたことがありません。いったい,どんな漫才をやるのだろうか,とこの小説を読んで興味をもつようになりました。そうすれば,この小説のなかに隠された秘密のようなものが,もう少し,わかるのではないか,とおもいます。

 といいますのは,この小説の主人公は明らかに著者自身を想定していると考えられるからです。じつに冷めた眼で世の中を受け止めていますし,人物観察もそのままです。逆に,そういう人物がお笑い芸人を目指したことの方が不思議でもあります。が,この小説を読んでみますと,お笑い芸人の「ふところ」の深さをしみじみと感じないではいられません。人を笑わせるためなら,なんでもする,その覚悟のようなものを,ひしひしと感じさせられる,そういう説得力をもった小説になっています。

 わたしは明石家さんまのファンで,食事どきにテレビに登場する番組は,欠かさずみるようにしています。かれがつねづね口にする,お笑いの現場は「戦場」なのだ,というセリフは有名です。だから,だれよりも早く相手を「笑い」で打ち倒す,そういう格闘技のようなものなのだ,とかれはいう。したがって,間髪を入れずギャグを連発して,あらゆる人を笑いの渦のなかに巻き込まなくてはならない,とかれは主張します。ですから,かれのパフォーマンスをみていると,それはそれは恐ろしいまでの「芸」の深さに感動してしまいます。

 この小説のなかにも,つぎのようなセリフが登場します。

 「漫才は・・・・本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」

 このように,主人公が尊敬する先輩のお笑い芸人に言わせています。しかも,この芸人こそ「本物の阿呆」の典型的な人物として描かれています。となると,「本物の阿呆」は,なろうとおもってもなれない,底抜けの「阿呆さ加減」が求められます。世間でいうところの「ボケ」と「ツッコミ」の関係は,そんなに単純なものではない,ということが透けてみえてきます。

 考えてみれば,人が笑う,ということはきわめて哲学的なテーマであるということに気づきます。少しオーバーに言ってしまえば,「笑い」というものは人間の存在論に深く根ざしたテーマでもあります。つまり,人が生きることと「笑い」は不可分のものなのだ,と。ですから,お笑い芸人たちの人間観察は尋常一様ではありません。その「芸」の底の奥深くには,鋭い人間洞察力が隠されているというわけです。

 この本の帯には,つぎのようなキャッチ・コピーが踊っています。

 この物語は,人の心の中心を貫き通す

 「文学界」を史上初の大増刷に導いた話題作。芸人の先輩・後輩が運命のように出会ってから劇は始まった。笑いとは何か,人間が生きるとは何なのか。

 お笑い芸人二人。奇想の天才である一方で人間味溢れる神谷,彼を師と慕う後輩徳永。笑いの神髄について議論しながら,それぞれの道を歩んでいる。神谷は徳永に「俺の伝記を書け」と命令した。彼らの人生はどう変転していくのか。人間存在の根本を見つめた真摯な筆致が感動を呼ぶ!

 といった調子です。最初に,書店で手にとってこの帯を読んだとき,なんと大げさな・・・と苦笑してしまいました。が,中を読んでみて,こころの底から納得してしまいました。

 なるほど,お笑い芸人は作家のまなざしも持ち合わせているのだ,と。そういえば,司会,役者,歌手,MC,画家,などさまざまな分野で驚くべき才能を発揮しているお笑い芸人は少なくありません。なぜ,このような現象がいま起きているのかを考える一助にもなる,とおもいます。お薦めです。

 あのテレビに登場する,どこか焦点が定まらないような,あの又吉直樹が,ほんとうにこの小説を書いたのか,と疑問をいだいしてしまうほどの出来ばえのよさです。騙されたとおもって読んでみてください。