2012年8月31日金曜日

奄美自由大学に向けて『物質的恍惚』再再読。まずは「エピグラフ」から。

 今福龍太さんが主宰する「奄美自由大学」が近づいてくる(9月7,8,9日)。今回のテーマは「沈黙」。今福さんのいう「沈黙」にアプローチする方法はいくつもあるだろう。きわめて個人的な日常的な「沈黙」経験からはじまって,哲学的な,あるいは宗教的な「沈黙」にいたるまで,さまざまな「沈黙」をわたしたちは想定することができるだろう。

 しかし,今福さんの仕掛けた,奄美の離島で向かい合うことになる「罠」であることを考えると,無限の「沈黙」がそのさきに広がっているように思います。そのように考えたときに,その鍵を解くための重要な手がかりのひとつに,ル・クレジオの『物質的恍惚』とうテクストがあることは間違いないでしょう。そこで,「奄美自由大学」に参加するためのウォーミングアップとして,まずはこのテクストの巻頭にかかげられたエピグラフをとりあげ,そこから考えはじめてみたいと思います。

 そのエピグラフには以下のような箴言がかかげられています。
 《分かちがたく結ばれた二羽の鳥が,同じ木に住まっている。一羽は甘い木の実を食べ,もう一羽は友を眺めつつ食べようとしない。》

 なんとも謎めいた,不思議な文意になっています。しかし,よくよく考えながら,何回も何回も読み返していくうちに,その含意するところは無限のひろがりをもつと言うことがわかってきます。しかも,世界を考える上での,きわめて本質的な意味内容をかかえこんでいるということも・・・透けてみえてきます。

 この引用の典拠として,つぎのような括弧書きが添えられています。
 (『ムンダカ・ウパニシャッド』,第三ムンダカ,第一カンダ,シュルーティ一。『リグ・ヴェーダ』,I,164,20。『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』,第四アデャーヤ,シュリーティ六。)

 これらの文献をみれば一目瞭然ですが,インド古代の宗教哲学書からの引用であることがわかります。辞書で確認してみますと,ヴェーダはインド最古の宗教哲学書,と書いてあります。わたしたちは『リグ・ヴェーダ』(岩波文庫)というタイトルでこの本を読むことができます。以前,読んだときの記憶によりますと,インド最古の文書記録を残した人びとの,つまり,原初の人間に近い人たちのいだいていたコロモロジーが,全巻にみなぎっています。人間はどこからやってきたのか,どのようにして人間になったのか,ということを考える上でとても貴重な文献です。

 ウパニシャッドは,一連のヴェーダ文献の末尾を飾るものだ,とも書いてあります。また,ヴェーダ文献の奥義書だと呼ばれている,とも。それによりますと,宇宙の根本原理(=ブラフマン)と個人の自我(アートマン)の一致などを説いていて,のちのインド哲学の源流になった,とのことです。いわゆる<梵我一如>の思想です。

 ル・クレジオがエピグラフとして引用したのは,まさに,この<梵我一如>の思想につよく反応したからだ,と言っていいでしょう。

 ヴェーダは,断るまでもなく,バラモン教の根本聖典です。ここからインドの宗教も哲学も文学も大きな影響を受けることになります。その起源は前1500年頃まで遡るといわれています。当然のことながら,ブッダの説いた原始仏教も,このバラモン教の流れを汲むものです。ですから,『ブッダのことば』(岩波文庫,中村元訳)を読みますと,『リグ・ヴェーダ』の世界にかぎりなく近いということがわかります。そして,のちのブッダの弟子たちによって編纂された仏教経典とは,次元が違うと言ってもいいほどです。

 ここまで確認しておけば,あとは,そんなにむつかしく考える必要はないでしょう。このエピグラフが『物質的恍惚』のすべてを暗示している,と訳者の豊崎光一さんは「訳者のことば」のなかで解説してくれています。そのさわりの部分を引いておきますと,以下のとおりです。

 ・・・・・この文章のさまざまな含蓄──書く人と作中人物,書く人と読む人,などなどのあいだの分身関係──にいて,訳者であるぼくは,たまたまこの同じ文章がソレルスの「小説」『ドラマ』にも引用されていることから出発して,すでにある場所に述べたことがあるので,ここにはくり返さないが,簡単に言うと,主体は還元しがたく二重であること,言語というものは自己同一的な「私」への信仰を許さないものであること,そして意識(眼差)が,主体を不可避的にみずからの外にほうり出すとともに,みずからに送り返すものであること──その特権的なイマージュがすなわち鏡である──を,このエピグラフは暗示していようし,それがこの本の根元的な主題にほかならないだろう。

 こうして訳者の豊崎さんは,さらに一歩踏み込んで,つぎのように述べています。

 ところで,まさしく『物質的恍惚』と名づけられることによって,この本は今ぼくが述べてきた種類のことすべてをいわば無に帰そうという衝動,契機をも含んでいる。「物質的恍惚」とは,物質文明がもたらすさまざまな陶酔を指すものではまったくなく,「無時間の物質」(『調書』)が限りなく支配する世界,動物的生命と人間的時間とが絶滅される世界への執拗な回帰の運動であり予感であるのだ。それが実現される「時」が「時の絶滅という時」であり,全き「沈黙」である以上,「物質的恍惚」それ自体の表現がありえないのは自明だろう(序章と終章の題が示すように,「物質的恍惚」と「沈黙」はまったく同じ一つのものなのだ)。

 まだまだ引用をつづけたい衝動に駆られますが,このあたりで収めておくことにしましょう。今福さんの仕掛けた「沈黙」の,奥の深さを知るにはこれで十分でしょうから。あとは,直接,豊崎さんの「訳者のことば」で確認してみてください。

 取り急ぎ,今日のところはここまで。



2012年8月30日木曜日

江田五月メールマガジン第1201号(2012年8月30日)を読んで。

 江田五月さんとは,能面アーティストの柏木裕美さんのパーティのときに一度だけ面識があり,名刺を交換させていただきました。以後,江田五月さんから「メールマガジン」がとどくようになりました。そのときは,参議院の議長さんでした。ですから,参議院議長さんの発行するメール・マガジンという意味で,なにを,どのように発信されるのだろうかと興味をもちました。江田五月さんの眼からみると,こんにちの日本の政治の中枢がどんな風にみえるのか,と考えたからでした。わたしにとってはとても新鮮で,新しい世界との触れ合いでした。

 で,このメールマガジンは,いかにも江田五月さんらしくとても几帳面に毎日,毎日の行動記録や感想が簡潔に書き込まれています。マガジンの末尾の注によれば,毎日,ご本人が直接書いている,とのことです。それにしては,これだけの分量の詳細な記録とそのつどの感想を書かれているのかと,いささか驚きでもあります。

 江田さんが議長さんだったころのマガジンはとても面白かったのですが,議長を退任されてからのマガジンはどこか政治の最前線に立つ政治家の迫力というものが,徐々に薄れていくように感じていました。これはある意味では自然ななりゆきで仕方がないのかもしれません。しかし,そうは思いながらも,ひとりの現役政治家の目線を追いながら,日本の政治を考えるためのひとつの拠点として,いまも楽しみに読みつづけています。

 そこには新聞やテレビやインターネットとはまったく違う,ひとりの政治家をとおして映し出される,生の政治情報を見届けることができます。つまり,江田さんにとっての「真実」がそこに描かれているというわけです。

 で,今日のブログでわざわざ江田五月さんのメールマガジンを取り上げ,みなさんに紹介したいと考えたのには理由があります。

 それは,8月29日(水)の早朝から深夜にいたるまでの,江田五月さんをとおして記述された参議院での問責決議案提出,提出理由とその賛否の弁論,採決,賛成多数による可決のいきさつが詳細に記述されているからです。しかも,その記述は江田五月さんのきわめて冷静な知性のもとでなされていて,感情のひとかけらもありません。それはそれはみごとなものです。しかし,わたしには不満でした。江田五月といえども人間であるはず・・・・。あの江田三郎の血が流れているはず・・・。にもかかわらず,冷静そのもの。淡々と問責決議案提出,可決を記述しています。

 江田さん,貴方には,人間としての,生身の人間としての,熱い血は流れていないのでしょうか。どこまでも毅然とした優等生ぶりを発揮するのみで,政治家としての熱い理想を吐露するご意志はないのでしょうか。ご自分で管理されているメールマガジンなのですから,しかも,ご自分が書かれているというのですから,もっと,素直な心情を吐露されてもいいのではないでしょうか。

 その詳細をここに転載することができないのが残念です。
 以下に,メールマガジンのアドレスを書いておきますので,どうぞ,江田さんの書かれた文章で,直接,詳細をご確認ください。
 http://www.eda-jp.com/

 江田五月さん,そろそろ高見の見物は止めにしてはいかがでしょうか。まるで,他人事のように民主党を語るのではなくて,民主党の長老のひとりとして,これほどまでに迷走をはじめた民主党のあり方について大英断をくだし,江田さんのあるべき政党の姿を提示してください。その意欲がなくなってしまったというのであれば,さっさと引退しましょう。そして,将来に夢をいだいている若手政治家に道をゆずりましょう。

 江田三郎のあの熱血漢の演説を生で聞いたことのあるわたしとしては,あまりに歯痒い思いがしてなりません。「3・11」以後の,この数年が,日本国の命運を決するきわめて大事な時間だとわたしは,ひとりの国民として真剣に考えています。

 いささか過激に過ぎたかもしれません。が,これがわたしのこころの叫びです。どうぞ,お聞き届けの上,善処されますことを願ってみやません。

 合掌。アーメン。ホージャホーロミイ。

2012年8月29日水曜日

ツクツクボウシが鳴きはじめた。夏の終わり。なのに猛暑。「政治ごっこ」はこれから本番らしい。

 日に日に日陰が長くなり,日脚は短くなる。あっという間に夕方がやってくる。この間まで明るかったのに,すぐに夕闇が迫ってくる。時計をみると,まだ,午後6時前なのに・・・・。

 オーシンツクツク,オーシンツクツク,オーシンツクツク,オーシンツクツク,オーシンツクツク,オーシンツクツク,オーシンツクツク,オーシンツクツク,オーシンツクツク,ウイアース,ウイアース,ウイアース,ジ,ジ,ジ,ジィー。

 わたしの出身地では,ツクツクホウシの鳴き声をこんな風に聞いていた。そして,この鳴き声が多くなってくると,ああ,夏休みも終わりだなぁ,と思ったものだ。なにか急速にゆたかな自由になる時間が逃げていくようで,子ども心にも寂しかった。あわてて,夏休みの宿題のにわか仕上げに追われたものだ。つまり,なにかが去って,つぎのなにかがやってくる,そういう端境期のようなうら寂しい印象が強い。

 それはいまもわたしの気持の中では変わらない。なのに,ことしのツクツクホウシの鳴き声はどこか違って聞こえてくる。オーシンツクツクの出だしからして,どこか力がない。そして,ウイアースに入るところで,ウイッ,ウイッ,ウイッアース,ジ,ジ,ジ,ジィー,となんとも間抜けた鳴き方で終わる。とこかで痙攣を起こしているようだ。あれっ?放射能の影響?なとと勘繰ってします。

 が,そうではなさそうだ。どうやら,猛暑のせいでツクツクホウシも少し変になってしまったようだ。去年までとは鳴き方が違うのはそのせいだ。この,いつはてるともしれない暑さのせいで蝉までおかしくなってしまったようだ。

 ならば,人間さまも相当におかしくなってしまっても,なんの不思議もない。とりわけ,政治屋のみなさんは,完全にこの猛暑にやられてしまったようだ。それに引き換え,多くの国民のみなさんは健全そのもの。この猛暑をものともせずに,マンションの窓を開け放って風をとおし,節電にこれつとめている。良識ある企業もみんな節電につとめている。その結果,電力はピーク時でもなんの不安もない。

 にもかかわらず,いまでも安定的な電力を確保するためにゲンパツが必要だと言い張る,頭の狂った政治屋さんと企業トップの理性を失った人々が居すわっている。この人たちは「命」よりも「カネ」の方が大事だと考えているようだ。経済第一優先。つまり,自分たちの確保した利権の方が国民の「命」よりも大事なのだ。

 良識ある国民の大多数は,多少の不便は覚悟の上で,ゲンパツを廃止してほしいと声を大にして叫んでいるのに,ノダ君の耳には「騒音」にしか聞こえてはいない。かれの耳に聞こえる声は,官僚と財界の声だけだ。たぶん,オーシンツクツクがまともに鳴けなくなっているのも気づいてはいないだろう。官邸のあたりでもオーシンツクツクは鳴いているだろうに。

 民主と自公は,都合のいいところでは手を結び,都合が悪くなると決別。そして,お互いの責任のなすりあい。それで選挙が闘えると思っているらしい。なんともけちくさい話ではないか。しかし,多くの良識ある議員はこれでは闘えないと気づいている。だが,いまのところは身動きがとれないでいる。そして,じっと動静を見極めようとしている。つまり,日和っているのだ。しかし,みずからの政治姿勢がはっきりしている政治家はとっくのむかしに離党し,堂々とみずからの信念にもとづいて,新たな道を歩みはじめている。

 そんなことをしているうちに,とうとう問責決議案が参議院に提出され,可決されるという。こうなると,もはや,すべての議案は宙に浮き,つぎの国会が開かれるまで,すべて見送りになってしまう。日本国は完全に機能不全の状態に入り,とうとう集中治療室に放り込まれてしまうことになる。こんな馬鹿げた「政治ごっこ」を,「3・11」以後,手を変え品を変えして,懲りることもなく繰り返している。

 日本政府が弱体化していることを見透かしたかのように,周辺国は一斉に動きはじめた。アフリカのサバンナで動物たちの狩りがはじまり,一番弱っている獲物にターゲットを絞り,遠巻きにしつつついに脅かしに入った,そんな状態だ。それに対してなにも打つ手がない。悲しい現実を,国民は目の当たりにしているだけだ。

 こんなことをしているから,ますます,ハシモト君の出番が大きくなってくる。衆議院議員の定数を半分の240にしてしまえという。そして,比例配分して,定数是正を一気に解消してしまえ,と。半数以上の議員を確保できたらやりますよ,と豪語する。あまりにわかりやすくて恐ろしい。しかし,この鬱積した状態を打破するには,このくらいの迫力が必要なのだ。そうすると大衆は動く。ちょうど,ヒトラーが登場したときとよく似ている。ヒトラーは,多くの人が誤解しているようだが,まことに合法的に選挙で多数を確保して,あれだけの権力をわがものとしたのである。

 一度,多数を占めてしまえば,解散しないかぎりその権力は維持される。そのさきに待っているのは・・・・説明するまでもないだろう。

 10月には解散・総選挙だという。
 いよいよもって日本国は正念場を迎える。問われているのは,われわれの一票だ。本気で,ほんきで,ホンキで,考えないといけない。

 おそらく「想定外」の政界再編がこれから短期間のうちに展開されることになるのであろう。日本国憲政史上,未曽有のわけのわからない大混乱が起こるのだろう。メディアにも理解不能な・・・。そのどさくさにまぎれて,いったい,どんな政権がこの秋には誕生するのか,だれも予測はつかないだろう。

 鳴き声が引きつってしまって,ウイッ,ウイッ,ウイッアースと鳴くツクツクホウシの鳴き声は,その悪しき予兆のようにわたしには聞こえて仕方がないのだか・・・・。

2012年8月27日月曜日

久し振りに『ブッダのことば──スッパニバータ』(中村元訳,岩波文庫)を拾い読みする。

  鹿島田真希の芥川賞受賞作『冥土めぐり』を読んでいたら,『ブッダのことば──スッパニバータ』(中村元訳,岩波文庫)をどうしても読みたくなり,古い本のなかからひっぱりだしてきて,久し振りに拾い読みを楽しんだ。こういう本を読むと,ああ,やっぱり坊主になるべきだったなぁ,としみじみ思う。もはや手遅れではあるのだが・・・・。

 この本は,第一 蛇の章 一、蛇 からはじまる。その冒頭の詩文からして,わたしの眼は釘付けになる。もう何回も,いや,何十回も,この冒頭の詩文は読んでいるにもかかわらず・・・・。引いておこう。

 一 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように,怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は,この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

 「怒りが起こったのを制する修行者(比丘)」になりたいと思う。そのためには「この世とかの世とをともに捨て去」ればいいとブッダは説く。それは「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」とブッダはさらりと言う。「この世とかの世」とを「ともに捨て去る」,それだけのことだ,と。それは蛇の脱皮と同じだ,と。

 この詩句には,つぎのような注が付されている。
 蛇──この聖典の最初に蛇のことばかり出てくるので,日本人は異様な感じを受けるであろう。しかしインドないし南アジアでは,どこへ行っても蛇が多い。従ってインド人にはむしろ親しく感ぜられるのである。こういう風土的背景があるために,仏像やヒンドゥー教の神像には,光背が五頭とか七頭とかの蛇になっている場合が少なくない。蛇が霊力を以て神々を,また人々を護ってくれるのである。仏伝にも竜(つまり蛇)がしばしば登場する。

 日本にも蛇は身近にいくらでも棲息しているが,インドではもっと多いらしい。わたしの育った寺には大きな青大将が天井に棲みついていて,しばしば姿を露すことがあった。しかも,青大将は家の守り神として大事にされていた。けして追い立てたり,いじめたりしてはいけない,と厳しく注意されていた。インドでも蛇は「霊力」をもっていて,神々や人々を守護する生きものとしてむかしから大事にされていたらしい。その教えが日本にも仏教とともに伝来してきたと考えることもできそうだ。

 そして,この詩文に登場する「修行者(比丘)」にも,つぎのような注が付されている。
 修行者──bhikkhu. 「乞う者」の意。漢訳では「比丘」と音写する。当時インドの諸宗教ではすべて家を出た修行者は托鉢によって食物を得ていたので,このようにいう。それのサンスクリット形 bhikqu という語は,インドのどの宗教でも用いられる。在家の人々は修行者に最上の敬意を示して食物を捧げるが,修行者は平然としてこれを受け,挨拶を返さない。

 日本で言えば修行僧と同じだ。修行僧は同時に托鉢僧でもある。托鉢僧は家々の前に立ち,食物をいただく。だから乞食坊主という蔑称が生まれた。わたしなども子どものころには乞食坊主の息子と囃し立てられたことが何回もある。

 ここでわたしの目を釘付けにするのは,「修行者は平然としてこれを受け,挨拶を返さない」というところだ。これは,日本の托鉢僧も同じである。お経を唱えながら玄関口に立ち,その日の食物を乞うのであるが,「挨拶」はしない。黙ってそのまま右回りをして立ち去る。

 なぜ,挨拶(お礼の挨拶)をしないのか。答は簡単である。修行者(托鉢僧)は「この世とかの世をともに捨て去っている」からだ。つまり,世俗の価値観を超越した存在であるからだ。だから,食物を乞うても,いただけないものはいただけない,いただけるものはいただく,ただそれだけ。どちらの場合でも黙って立ち去るのみだ。蛇が脱皮するように世俗も来世も捨て去るということは,すでに,人間ではない,ということだ。つまり,人間の<外>にでてしまった存在だ,ということだ。もう一歩踏み込んで,バタイユ的な解釈をしておけば,人間性を捨てて,かつての動物性の世界にもどった,と考えることも可能だ。つまり,「水の中に水があるように」存在する,ということだ。

 ここに至って想起されるのが『冥土めぐり』(鹿島田真希作)に登場する奈津子の夫の立ち居振る舞いである。とくに,脳の発作がおきて障害者となってからの夫の姿勢は,まさに,この修行者と同じだ。他人に親切にしてもらってもなにも言わない。食べ物をもらってもお礼も言わない。そして,ただひたすら美味しそうに食べる。それがごく当たり前のように振る舞う。それでいて見ず知らずの周囲の人たちにもすぐに好かれてしまう。そして,ごく自然に,すぐに周囲の中に溶け込んでしまう。なぜなら,周囲の人たちを傷つけることもしないで,ごくごく自然体で生きているからだ。あるがままに。空気のように。障害者である夫がそういう存在であるということに気づいた瞬間から,奈津子のこころは翻転する。わたしがこの人の世話をしているのではない。この人のお蔭でわたしが癒されている。生きるということの原像をそこにみとどける。こうして,奈津子は目覚めた人となる。

これが『冥土めぐり』を読み終えたときの,正直なわたしの読後感であった。だから,わたしは『冥土めぐり』を読み終えた瞬間から,そうだ『ブッダのことば──スッパニバータ』を読もうと決めていた。そして,それは間違いではなかった。

 しばらくは,『ブッダのことば──スッパニバータ』を手放すことはてきそうにない。どのページを開いても,ハッとさせられる詩文でいっぱいである。ルクレジオの『物質的恍惚』とも通底するものがある。もちろん,バタイユの『宗教の理論』や『内的体験』とも,深いところでつながっている。座右の書に加えることにしよう。そして,折あるごとに開いてみることにしよう。もちろん,ひとり旅には必携である。

2012年8月26日日曜日

第147回芥川賞受賞作『冥土めぐり』(鹿島田真希著,河出書房新社)を読む。

   このところ小説を読む時間がつくれなくて,いささか欲求不満がたまっていた。買い込んだ本が山になっている中から,とりあえず,と思って手を伸ばしたのがこの本『冥土めぐり』だった。いつも,芥川賞と直木賞の受賞作だけは読んでおこうと心がけてはいる。その他の小説は,わたしの好きな作家のものは読むが,それ以外の作家の作品にはなかなか手が伸びない。その意味では,芥川賞・直木賞の受賞作は,わたしの読書範囲をひろげてくれる絶好のチャンスでもある。

 恥ずかしながら,わたしは鹿島田真希という作家を知らなかった。作家の略歴をみると,すでに,文藝賞(1998),三島由紀夫賞(2005),野間文芸新人賞(2007)と多くの賞を受賞している。そしてこんどの芥川賞だ。だから,すでにこの世界ではよく知られた存在だったわけだ。こんなことが最近,多くなってきている。まるで浦島太郎のような経験が。

 『冥土めぐり』というタイトルをみて,なんだか抹香臭い本だなぁ,と思っていたら,案の定,仏教的世界観が通奏低音となって鳴り響いている作品だった。そのことがわかるまでは,なんとも退屈な,どこにでもある壊れた家族の話がつづく。いったいこの小説はなにを言いたいのだろうかといぶかりながら読み進む。この前半にしかけられたお膳立てが後半の急転回にとって必要だったのだということがわかった瞬間から,一気に引き込まれていく。そうか,この作家は『ブッダのことば』(岩穂波文庫)の世界に親近感をもっているのだ,と。

 人間はこころの置き所によっては,たいへんに不幸な,ありえない話だと思い込んでいた自分の過去の記憶も,一転して,ありがたいお話に化けることがある。つまり,こんにちのわたしをあらしめるための試練として悲惨な過去があったのだ,と。この境地に立ったとき,世界は一変して,あるがままの自然体のありがたさがみえてくる。世俗の欲望に振り回されている生き方の<外>へ一歩踏み出した瞬間から,安穏な,なんとも平らかな世界がみえてくる。そして,わたしを苦しめた「冥土めぐり」も卒業となる。

 主人公の奈津子は,ごくごく平凡なおとなしい女性。その奈津子の母親と弟は,奈津子が金持ちの男性と結婚しなかったことがわが家の不幸のはじまりだと言って奈津子をことあるごとに誹謗中傷し,責めたてる。母親は過去の栄光(父親が金持ちだったので,贅沢三昧の生活に慣れきっていて,そこから抜け出せないまま,夫を亡くし,老後を迎えている)こそがほんとうの生活であって,それができなくなってしまったのは奈津子が金持ちの男と結婚しなかったからだ,と信じて疑わない。弟も母親似で,経済観念の欠落した生活破綻者。いよいよ現金がなくなるとカード生活に頼り,ついに破綻をきたし母親のマンションを売却しなければならない羽目に陥いる。にもかかわらず,懲りずに贅沢な生活を追い求めている。

 そんな母親と弟に脅かされながらも,奈津子はパートで働いていた区役所勤務の青年と結婚する。その青年は北海道出身で,じつに素朴でおおらかな性格。のみならず他人の生活や生き方にはなんの干渉もしない。日々,淡々と生きている。母親や弟になにを言われようが「われ関せず」の姿勢をくずさない。まったくのマイペース。そんな彼が,ある日突然,脳の発作を起こし,大きな手術を受ける。九死に一生をえるも,残されていたのは障害者としての車椅子生活。奈津子はパートで働きながら必死で夫のリハビリを支える。

 それでも母親と弟は奈津子にカネを無心する。夫は障害者になって,ますます「われ関せず」の生き方が全面に表出してきて,まるで童心にかえったかのように,淡々と清らかに生きている。夫が障害者となって8年が経過したとき,奈津子は思いきって,母親が子どものころに慣れ親しんだという豪華ホテルの割安チケットを手に入れ,夫とふたりで出かける決意をする。そこに見出したものは・・・・「冥土めぐり」,そして,そこからの脱出。禅のことばを借りれば「脱落(とつらく)」。世俗のしがらみを越えた清らかな世界との出会い。

 夫が障害者となったことが,奈津子を救うための,あらかじめ用意されたシナリオだったのではないか・・・・,と奈津子は思う。カネとも無縁の,計算も打算もない,ますます童心に帰っていく夫の障害者としての生き方こそが,純粋無垢の,清らかな人間の生き方ではないのか,と。

 この小説の後半に入ってからは,わたしの頭のなかは『ブッダのことば』のフレーズがつぎつぎに浮かんできた。とくに,「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく,あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく,また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め」,というフレーズが。

 久し振りに小説らしい小説を読んだ。そして,こころが洗われた。どこにでもある日常の,虚実皮膜の間(あわい)にこそ真実は宿る,とあらためて認識した。読後にズシンとくる,とてもいい作品だった。とくに,いまのわたしには・・・・。

2012年8月25日土曜日

柔道のグローバル化に欠けていたのは「外交力」。選手たちを責めてはならない。

 ロンドン・オリンピックで男子柔道が惨敗。その責任問題が持ち上がっている。篠原監督は「すべてわたしの責任」といって,自分が金メダルを逃したときと同じ姿勢を貫いている。現場の監督としてはそういう態度をとる以外にはない。しかし,個人が腹を切ればそれで問題が解決するかといえばそうではない。

 一部の報道によれば,コーチの数を減らしたために選手の指導が十分に行き届かなかったとか,厳しいスパルタ式稽古により選手たちと指導者たちの間に亀裂ができていたとか,いろいろともめていたかのような話が多い。しかし,選手や監督・コーチを責めてはならない。みんな必死で頑張ったのだから。少なくとも「篠原体制」でいくと決めた段階で,柔道関係者のこれまでの経験と叡智が結集され,必勝パターンを模索した結果なのだから。

 問題は,柔道がJUDOになってしまった,その経緯にあるとわたしは考えている。

 いま,国際柔道連盟には日本人理事はひとりもいない。すべてが,外国人。それもヨーロッパ系の人が多い。この人たちが集まって,柔道を議論し,ルール改正(改悪?)をしてきた。今回のジュリーなどという制度をつくったのも,日本人理事のいない理事会だった。つまり,国際的な柔道の主流は,日本人の手から離れ,外国人の手にゆだねられてしまったのだ。だから,いまや完全なJUDOへの道をまっしぐら,という体制ができあがってしまっている。(※山下理事の落選以後)

 なぜ,こんなことになってしまったのか。

 柔道を世界に正しく伝えるための「外交力」の不足。

 もっと簡単に言ってしまえば,外国語の話せる柔道指導者を養成してこなかった,ということ。もっと言ってしまえば,いま,現役のトップ・クラスの選手たちに外国語の話せる選手がどれだけいるのか,ということだ。

 国際試合で闘うには,ただ柔道が強いだけでは駄目なのだ。ゴルフの選手たちをみれば明らかだ。国内試合では強くても外国にでるとさっぱりだ,という選手がほとんどだ。そして,外国語がある程度話せるようになって,ようやくその実力を発揮できるようになってくる。プロ野球の選手たちだってそうだ。外国にでて,実力を発揮できる選手には共通したものがある。長谷川投手が早くから英語で記者会見をしていたり,サッカーの中田選手はイタリアではイタリア語で記者会見をし,イギリスに移籍すれば英語で記者会見している。柔道の選手たちにその例をみた記憶がない。

 柔道でいえば,日本の看板ともいうべき山下泰裕選手(現・東海大体育学部長)だって,現役を引退してからイギリスに2年間ほど留学している。だから,英語はかなり達者なはずである。しかし,国際柔道連盟の理事として,会議をリードするほどの英語力はなかったらしい。だから,理事二期めの選挙では落選している。もちろん,その他にも理由があったらしいが・・・・。

 いずれにしても,これまでの柔道の国際試合では,その判定がデタラメだったというのは,よく知られている事実である。当初はとくにひどかった。柔道をよく知らない協会の幹部が審判員として派遣されてくることが多かったからだ。その傾向はいまも払拭されたとはいえないらしい。今回のロンドンでの柔道の判定をみていればよくわかるように。

 ことしのロンドン・オリンピックでは,27億円をかけて日本選手団をサポートする「マルチ・サポート・システム」が機能して,それが大きな成果をあげる一因になった,と聞いている。そのなかには,もちろん,通訳も雇われている。しかし,通訳は日常生活のサポートには役に立つとしても,試合会場での「抗議」には役立たない。現場の抗議には瞬発力が必要だ。間髪を入れずに,気合の入った抗議をしないかぎり,相手にしてはもらえない。ここには,通訳の出番はない。

 今回の判定が逆転したときにも,最初の判定がでた瞬間に,篠原監督がスタンドから吼えていた映像が映し出されていた。あれを,選手をサポートしていたコーチが,即座に英語で抗議することが必要なのだ。そのシーンは残念ながらテレビ観戦では確認できなかったが・・・・。それでも,どこかからの抗議を受けてジュリーが動きだしたのだろう(これは推定)。

 男子柔道の今回の惨敗は,日本の柔道界がこれまで怠ってきた積年の「外交努力」の不足の総決算にすぎない,とわたしは考えている。そこから立て直さないかぎり,日本の柔道は国際社会から消え去り,JUDOだけが世界を一人歩きをしていくことになる。すでに,そうなってしまっているのだが・・・。その意味では「手遅れ」か。

 フランスの柔道人口はすでに日本より圧倒的に多いという。フランスの柔道の普及は,最初に乗り込んでいった日本の柔道指導者の貢献によるところが大きい,と聞いている。しかし,そのあとにつづく日本人柔道指導者については,あまりいい話は聞いていない。その壁になったのがフランス語だった。だから,フランスJUDOは一人歩きをはじめたのだ。そして,フランスJUDOが旧植民地を経由して世界に広まっていったという経緯がある(この点については,いまも精査中)。

 さて,みなさんは,どのようにお考えでしょうか。

 グローバリゼーションのはらむ諸問題を「柔道」をとおして考えてみると,とてもよくわかる。つまり,どの分野にしろ,グローバリゼーションの推進にはくれぐれも要注意,ということ。

2012年8月24日金曜日

「これはもはや柔道ではない」,グローバル化の成れの果て。

 柔道がレスリング化している。

 さすがに見兼ねたか,いきなり足のタックルに入ることはルールで禁止された。しかし,襟の端をつかんでおいてから足のタックルに入るのは許されている。

 そうしたルール改正(改悪?)も含めて,オリンピックの柔道ではおかしなことが平然と繰り広げられている(狂った理性のショウアップ)。

 まずは組み手争い。自分の得意(特異?)な組み手を求めるのは当然だが,相手十分の組み手になることをお互いに徹底して嫌う。だから,最初から最後まで,お互いにしっかりと組み合うという光景はほとんどみられなくなってしまった。そして,レスリングのフリー・スタイルと同じで,お互いの手を手繰りあったり,それを振りほどいたりすることばかり繰り返す。ついには,一度も組み合うこともなく判定に持ち込まれることもある。もはや,柔道としてはなんの意味もない。

 背負い投げに入っても投げきれずに,相手の足を手で巻き込んだままうしろに倒れ込んで,それで1本となる。これを軽量級の野村選手がオリンピックでやったときには驚いたものだ。この技をなんと呼ぶのだろう。知っている人がいたら教えてほしい。背負い投げくずれ?

 以前のオリンピックでは,小外刈りで相手が尻餅をついたことがある。この段階で,国内の柔道の試合なら完全に一本となる。しかし,オリンピックでは,技ありの判定。いまでは,技ありというルールもなくなってしまったので,小外刈りという技は判定の対象にもならないことになる。あるとしたら,小外刈りで尻餅をついた相手にのしかかっていって,相手の背中をつけるか,それともそこから寝わざに入るしかない。

 篠原選手(今回のオリンピックでは監督)の内股すかしが決まったのに,倒された相手選手が転がりながら篠原選手を巻き込んで横に倒し,これが有効となり篠原選手は金メダルを前にして涙を飲んだ。のちに,あれは誤審であった,と一応の釈明がなされた。ただ,それだけ。それどころか,技をかけられて転がりながら相手選手の襟をつかんだまま巻き込んで,もう一度投げ返す,しかも,そちらの技を有効とする判定があちこちにみられ,みていてわけのわからない判定がいくつもあった。

 ジュリーという制度があるとは,今回,初めて知ったが,あれもおかしなものだ。言ってしまえば,試合を進行させ,判定をくだす3人の審判が信用できない,ということが前提となって生まれた制度だ。事実,国際試合における柔道の審判のレベルはお粗末だ。柔道がどういうものであるのか,柔道の技の内容すらわかっていない審判が多すぎる。だから,わけのわからない判定が下されることになる。今回も,その判定に対してジュリーからクレームがつき,判定がくつがえったシーンがいくつもみられた。ならば,審判は不要だ。ジュリーが判定をくだせばいい。

 要するに,柔道の技と,技にあらざる技と,技でもなんでもない技(相手に投げられたのでしがみついたまま倒れ,二転三転しながら,最後に投げたようにみえる技)との区別がついていないのだ。その結果,相手の背中がついたかどうか,というところに判定の基準が変化してしまっている。だから,ますますレスリングとの差がなくなっていく。

 「これはもはや柔道ではない」。日本の柔道界のほとんどの人が同じことを言う。わたしの主張するように,柔道はJUDOになってしまったのだ。つまり,似て非なるものに進化してしまったのだ。だから,わたしの知っている柔道と,オリンピックなどで繰り広げられるJUDOとは,まったくの別物だ。まったく異なる競技が誕生したのだ。

 これが,柔道がグローバル化した結果の成れの果てだ。
 柔道をオリンピック競技種目に加えるということは,こういうことなのだ。

 その結果,どういうことが起きるか。全日本柔道選手権で繰り広げられる試合も,柔道ではなくなりJUDOになる,ということだ。言ってしまえば,全日本JUDO選手権大会と名乗りまで変えなくてはならなくなる,ということだ。そんなJUDOを普及させることになんの意味があるのか。

 いくら努力しても日本の柔道を世界に普及させることは不可能だというのであれば,日本は国際試合(すなわち,JUDO)から撤退すべきではないか。そうして,本来の柔道を国内で温存すべきではないか。でなければ,柔道はこの世から姿を消してしまうことになる。あるいは,講道館柔道として,ほそぼそと継承されることになるのだろうか。

 男子柔道惨敗という(これにはまた別の大きな理由があるのだが)結果を踏まえて,日本の柔道界は大きな岐路に立たされることになった。JUDOのための新しい攻防の手法を編み出すか,それとも毅然として一本勝ち柔道の姿勢を貫くか。

 JUDOからの撤退か,それとも,勝敗を度外視した真の柔道を世界に見せつけるか,あるいはまた,徹底したJUDOの開発に突進するか,その動向を見守りたい。

 グローバル化の内実とはこういうことなのだ。

2012年8月23日木曜日

「オリンピック・メダリスト銀座パレードに50万人」・考。

 オリンピックご苦労さん,といってメダリストたちを首相官邸に招いてドジョウ君が面談した,というニュースが流れた。人気低迷をつづけるドジョウ君にとっては,そこから抜け出すためのまたとないチャンス。首相がメダリストたちに面談するのは,これまでの前例どおり。ここでも,相変わらず「3・11」以前と同じことをくり返す政府官邸。しかも,想定外の長時間にわたったという。ドジョウ君は久しぶりにリラックスして,少年のように顔を輝かせたともいう。

 それから二日後の22日(水)には,毎週金曜日の首相官邸前で反原発を求めるデモを企画している首都圏反原発連合の代表者らと面談をした。それはひととおり代表者らの意見を聞いて,「貴重なご意見,参考にします。ありがとうございました」のたったの30分だったそうだ。メダリストたちの面談とくらべて,あまりにも短い,とデモの代表者たちは記者会見で憤った。しかも,話し合いもなにもない。ただ,聞き置いた,というだけの話。これはドジョウ君の人気とりのための単なるパフォーマンスでしかなかった。

 この落差(あるいは,差別)にドジョウ君の,現段階での政治姿勢の特質がみごとに露呈している,とわたしはみる。

 オリンピックのメダリストたちは,首相面談のあった20日(月)の午前11時から約20分,1キロの銀座パレードを行っている。そこに50万人もの人が集まってきたという。このニュースもまた大きく報道された。わたしは一瞬,ことばを失って呆然としてしまった。50万人という数の多さに。自分の好きな選手の姿を一目見たくてわざわざ銀座まで押しかけ,ほんの数秒間,目の前を通過していくメダリストたちに気持ちを集中させる,なんとも無邪気な人たちの多いことか,と。

 この人たちは,日本国が「非常事態」に陥っていて,いまもなおにっちもさっちもならない,手詰まりのまま苦悩している,という未曽有の厳しい現実は眼中にないのだろうか。自分たちの視野に入る小さな日常だけをみつめ,平和で安全な生活が保証されている,と信じて疑わないのだろうか。もちろん,政府を筆頭にした関係者たちも必死で,いま,わたしたちが引き受けざるをえない「非常事態」をひた隠しにしていることは衆知のとおりである。

 その筆頭のひとりがイシハラ君だ。しかも,考えていることの質(たち)が悪い。「巨人軍だって優勝パレードを銀座でやるではないか」のひとこえに,JOCは便乗した。ウィークデーの月曜日に銀座のど真ん中を交通止めにするには,かなり困難なハードルがあったらしい。でも,大きな声の人の言うことにはとても素直な人たちの一致団結によって,あっさりとメダリストたちの銀座パレードが決まったという。

 これは断るまでもなく2020年オリンピック東京招致のためのデモンストレーションだ。いや,デモンストレーションなどということばは美しすぎる。たんなる「デモ」だ。この「デモ」に動員された50万人のうちの圧倒的多数の人は,その「デモ」に利用されたということも意識していないだろう。ただ,ただ,目指すメダリストの姿が一目見たいという一心だから。

 ご承知のとおり,東京都のオリンピック招致運動はさっぱり盛り上がらない。来年の9月7日には最終決定がIOCでなされることになっているというのに。対抗馬のマドリードやイスタンブールでは,市民の支持率が70~80%にも達しているというのに,東京都の都民の支持率は50%にも達しない。だから,なにがなんでもオリンピックのメダリスト人気に便乗して,支持率を上げる必要がある。イシハラ君はそこに眼をつけた。

 しかし,イシハラ君のやっていることは矛盾だらけだ。本気でオリンピックを東京都に招致したいと考えているのであれば,センカクなどに手を出すべきではなかったはずだ。外交無能の政府は竹島だけでも手を焼いていたはずなのに,わざわざ,このタイミングでセンカクを買い取ろうというのだから。一番近い燐国と国土領有をめぐって,真っ向から対立するという事態が,ますます深刻化しつつある。そうなれば,韓国と中国の票は,間違いなく東京招致からは逃げていくだろう。

 のみならず,センカクは,沖縄の基地問題を固定化させる,というイシハラ君の深慮遠謀がその背後にちらついているようにみえる。だとしたら,イシハラ君は,またしても沖縄の人びとを裏切る行為にでていることになる。どこまで沖縄を蔑視すれば気がすむのだろうか。文学者としての人間洞察力はどこにいってしまったのだろうか。

 史上最多の38個(金7,銀14,銅17)というオリンピックの集約の仕方そのものに,じつは,大きな問題がある。だが,そのことはひとまずここでは措いておくとして,そのメダル数をふりかざして,わたしたちがいまもっとも根源的な問題として取り組まなくてはならない,フクシマという「非常事態」から人びとの眼を逸らせようという,この悪意に満ちた「暴力」こそが糾弾されるべきであろう。

 「オリンピック・メダリスト銀座パレード」については,まだまだ,取り上げなくてはいけないことが山ほどある。室伏問題もふくめて,本気で考えなくてはならないことが・・・・。

 とりあえず,今日のところはここまで。

2012年8月22日水曜日

猛暑のなかにも秋の気配が・・・・。空の青と日陰の色の濃さに・・・。

 田舎の小さな禅寺で育ったわたしの子どものころの夏休みはお盆すぎからでした。それまでは,お盆を迎えるための準備に子ども(小僧)のときから追われていました。ですから,お盆がすぎると,ようやく自分の自由になる時間がやってきました。それから慌てて,夏休みの宿題にとりかかり,あっという間に夏休みは終わりでした。

 お盆が終わると,一度に,なにもかもが変化する,そういう印象が子どものころから強くありました。その習慣はいまも,わずかながら,からだのなかに残っているようです。

 その最たるものが「秋の気配」でした。

 夏の湿った空気から,秋の乾燥した空気に変化すると,まずは,空の青さが際立ってきます。ふと,真っ青な空を仰ぎみながら,胸一杯に空気を吸い込んだものです。そして,同時に,吹く風も爽やかになってきます。強い日差しはそれほど変化はしないのに,日陰に入ると,心地よい風が皮膚をなぜてくれます。そんなほっとした安らぎのようなものは,いまも,はっきりとからだが記憶しています。

 今日(21日)も快晴の一日でした。鷺沼の駅を降りたら,いつもにも増して空の青さが眼にしみました。溝の口の空とはまったく違います。電車でわずかに7分(急行だと4分),西に移動するだけです。それなのに,とにかく空が「明るい」のです。そして,空気が澄んでいます。駅の改札口を出るといきなり高台になっていますので,風も爽やかに吹き抜けていきます。帽子が風に飛ばされないように手で抑えながら,サングラスをとり出します。陽の当たるところと日陰のところとの明暗のコントラストが,サングラスによって一段と強調されるせいか,しみじみと「秋だなぁ」とひとりごち。その秋の気配に身をゆだねながら歩きはじめます。

 身もこころも,お盆前とはまったく違う自分に気づき,ひとりでニヤリとしてしまいます。事務所に向かう下り坂の一番見晴らしのいいところからは,東京の都心をみることができます。お盆前まではどんよりとスモッグがかかっていたスカイ・ツリーも六本木ヒルズも東京タワーも,みんなくっきりと見えるようになります。さらに坂道をくだると,いつもの植木屋さんの屋敷に差しかかります。強い日差しに照らされながら,木々の葉も負けてはならじとばかりに,テカテカと光っています。とくに,山茶花や椿の葉,そして,泰山木の葉が,一段と輝いてみえます。大王松も長い葉を風に吹かれながらキラキラと光っています。百日紅の花も元気です。

 こんな風景をみながら,子どものころ住んでいた寺,堀内山長松院を思い出します。文字どおり,門の横には大きな見越しの松がありました。4,5キロ離れた豊橋市内の吉田城の石垣からも,わが家の松を確認することができました。あそこの松がおれんちの松,と友だちに自慢したものです。その松の太い幹がつくる日陰の色が一段と濃くなってくるのもお盆すぎのことでした。その日陰に筵を敷いて,寝ころんで本を読んだり,友だちとふざけ合ったりしたものです。でも,時折,太陽の移動とともに筵も移動させなくてはなりません。日没が早くなるのもお盆すぎのことでした。

 秋の気配とともに思い出すことはたくさんあります。
 それらもいつしか遠いむかしの記憶のかなたに消え去ろうとしています。
 人生の秋の気配もとっくのむかしに通過してしまいました。なのに,気持だけは,いまもむかしも変わりません。だから,毎日,毎日が楽しく過ごせるのでしょう。

 「お迎えがくるまじゃぁ,生きとるだぁやれ」と晩年を迎えた,大伯父・一道和尚の声が聞こえてきます。この人の達観した生き方が,秋の気配とともに思い出されます。まだ,子どもだったころに「人は死ぬとどうなるだのん」と尋ねたことがあります。「死んでみにゃぁ,わからん」と,いまにして思えばお釈迦様と同じ答えでした。禅坊主としてのみごとな生涯でした。曹洞宗ですので,道元さんの「正法」(お釈迦様の教え)を大事にしていたのだろう,といまは想像するだけです。

 『般若心経』も『法華経』も通過して,お釈迦様のことばとして伝えられている「犀の角のように,ひとりで生きていけ」をみずから実践していたのでしょう。ようやく大伯父の前に坐して,静かに語り合えるところに近づいてきたかなぁ,とほんのちょっぴり思います。

 ことしの秋の気配は,これまでとは違った,またまた,新しい生き方を教えてくれるようです。ありがたいことです。このさきに見えてくる光景を楽しみに,秋の深まりを静かに見つめてみたいと思います。

2012年8月21日火曜日

ロンドン・オリンピックを語る意欲が湧かない。なぜか。

 ロンドン・オリンピックについて語る意欲が湧きません。そして,その理由がなにであるのかもよくわかりません。これはいったいどうしたことでしょう。

 ロンドン・オリンピックを客観視し,冷静に振り返るには,いま少し時間が必要なのかもしれません。あるいは,わたしのものの見方・考え方が大きく変化してしまったために(「3・11」以後),これまでのオリンピックのように無邪気に反応することを拒否しているのかもしれません。あるいはまた,あまりにもお粗末なメディアの報道の裏舞台(視聴率主義など)が透けてみえてしまうようになったからかもしれません。日本の選手中心主義の報道も問題です。外国の選手はいったいどこに行ってしまったの,というような報道の仕方にも不満を抱いたのかもしれません。もっと言ってしまえば,「やらせ」ではないかと思われるような報道も少なくありませんでした。とくに,家族愛,絆,元気を与える/もらう,背中を押してもらう,などはくり返し見せられているうちに,徐々にどこか不自然なものを感じ,増幅していきました。

 そんなわたしの個人的な特殊な事情や情況判断の中にあっても,やはり,オリンピックの映し出すシーンの中には「感動」的な場面がたくさんありました。思わず全身に力が入りました。大きな声も発しました。涙もしました。嗚咽もしました。人間に秘められたとどまるところを知らない可能性を,必死の努力で切り開いていくアスリートたちの姿に触れたときの「感動」は,素直にわたしのからだの中に滑り込んできます。なぜなら,そこに剥き出しの「生」の源泉(=「無償」の「消尽」=「贈与」)に触れることができるからです。それは,自己を超えでる経験に立ち合うことの喜びでもあります。もっと言ってしまえば,「供犠」に立ち合うような全身全霊のふるえであり,その「ふるえ」に共振・共鳴する悦び,と言ってもよいでしょう。

 しかし,この「感動」までもが,場合によってはあまりにみごとに演出されたりしていて,興ざめになってしまうことも少なくありませんでした。

 さきにも触れたように,ひとつは家族愛。いまの日本の社会にもっとも欠落しているものがこの「家族愛」。毎日の新聞やテレビのニュースをみていれば明らかなように,家族が崩壊したことによる悲劇や犯罪はあとを絶ちません。それを,なにがなんでも掻き消そうと必死になっているかのように,活躍した選手たちの家族愛を美談に仕立てあげていました。そのために,選手たちの家族がつぎつぎに登場し,場合によってはビデオ作品が用意されていたりしました。そして,いかに家族が一致団結して,ひとりのアスリートを支え,育ててきたか,という物語が泥縄式に作り上げられていました。それが,つぎからつぎへと繰り出されると,「ああ,またか」と食傷ぎみになってしまいます。美味しいご馳走は一品にかぎります。

 「絆」ということばも多用されました。「3・11」を契機にして登場した政府公認の「絆」。これもまた,現代日本の社会ではもっとも欠落してしまったもののひとつではないでしょうか。その「絆」を復活させて,「向こう三軒・両隣」の時代にもどそうとでも思っているのか,とわたしなどは不信感さえいだいてしまいます。「絆」は美しいものであると同時に,とても,やっかいなものでもあります。そのさじ加減がとてもむつかしいものだとわたしは考えています。とくに,体育会系の「絆」は,とんでもない拘束力をともなうことはよく知られているとおりです。

 それから,意識的にか,無意識的にか,選手のことばとして多用されたのが「元気を与える/もらう」でした。なにか,ステレオタイプ化されていて,だれかが教えているのだろうかと思ったほどです。自分が頑張れば,被災地の人たちに「元気を与えられる」と本気で選手たちは考えているのだろうか,とこのあたりのところにきたときに,もはやテレビでオリンピックをみる意欲も失せてしまいました。もちろん,「元気を与えてもらった」と受け止めることのできる人も多くいたでしょう。しかし,「冗談じゃない」と強く拒否した人も少なくないと思います。先祖伝来の土地を追われ,仕事もえられないまま流浪している人びとにとって「ロンドン・オリンピック」とはなにであったのか,とわたしは深く考えてしまいます。そして,テレビをつければ,どこもかしこもまるでお祭り騒ぎのようにオリンピック,オリンピック・・・・。国内政治の重大ニュースを押しつぶしながら・・・。

 こうして書いているうちに,やはり,オリンピックを語る意欲はますます減退していくばかりです。
一番がっかりしたのは,にわかナショナリストの増産でした。テレビに映るオリンピック・シーンは日本人アスリートばかり。外国の選手のことはほとんど知ることはできませんでした。自国の選手にしか眼が向かない日本のメディア。日本人を総白痴化するための文化装置として,これほど大きな役割をはたすものはほかにはないでしょう。

 JUDOの判定のこと,ミサイル付きの平和運動の裏舞台,オリンピックとはなにか,いかにあるべきか,その理想と現実,昨日の銀座パレード,などについてはいつか書く「意欲」が湧いてきたときにゆずりたいと思います。とりあえず,今日のところはここまで。

『古事記』関連本が書店に平積み。1300年目とか。

  もう,しばらく前から『古事記』に関する本が書店で眼につきはじめていました。が,そういう情報にうといわたしは,いまごろ,なぜ,とひとりで不思議に思っていました。ところが,わたしの住む溝の口の書店にも,いまごろになってようやく,一番目立つところに『古事記』関連の書籍だけを集めて平積みにしているのをみて,おやっ?と思いました。

 その多くは『古事記』の現代語訳であったり,口語訳であったりし,場合によっては意訳と創作とが半々になっていたり,と種々雑多です。が,要するに読みやすくしてある,というだけの話だと思いながら手あたり次第に本をめくっていたら,なんということはない,ことしは『古事記』が編纂されて「1300年目」の節目だということがわかりました。そのことを教えてくれたのは『現代思想』の「5月臨時増刊号」総特集・古事記・1300年目の真実(2011年4月刊,2012年2月第二刷,青土社)でした。ああ,そういうことだったのか,とえらく納得です。

 ならばということで,ついでに『古事記』関連の何冊かの本を買ってしまいました。もちろん,『現代思想』の「5月臨時増刊号」も。こういうときは,佐藤優のいうように(『読書の技法』東洋経済新報社),「超速読法」を用いて(一冊に5分),本のよしあしについてのあたりをつけます。しかし,まだ,熟達していませんので,ときにはこんな本を買ってしまって・・・と後悔することも少なくありません。

 『現代思想』の総特集・古事記・1300年目の真実,は初版が2011年4月刊となっていますので,この本の企画は「3・11」以前になされ,原稿もそれまでには全部揃っていたようです。ですから,言ってしまえば,この特集は「3・11」以前の発想で構想され,原稿依頼をし,内容もそのまま掲載されたと考えてよいでしょう。

 しかし,いま,わたしたちは「3・11」後を生きるたいへんな現実と向き合っています。おそらく,第二次世界大戦で敗戦を迎えたときにも匹敵するほどの大きな転換期だとわたしは認識しています。それどころか,わたしたちの「ライフ・スタイル」を根底から建て直す必要があるという意味では,長い人類史的スパンからみても画期的なできごとだ,と考えています。

 そういう時代にあって『古事記』の1300年を振り返るということは,いったい,なにを意味しているのでしょうか。まさか「3・11」のようなできごとが起こるとは夢にも思っていなかったときに企画され,その方針にもとづいて刊行された『現代思想』総特集が,ことしに入って第2刷と増刷されています。しかも,雑誌としては安くありません(1500円)。なのに,この雑誌もまた平積みになって,溝の口の書店にも並ぶようになっているのです。

 よく売れそうな本は,あらかじめ都心の大型書店が買い占めてしまって,地方の書店にはまわってきません。今回の『古事記』関連本も,約1年遅れで,ようやく地方の書店に並ぶようになったという次第です。

 まあ,それはともかくとして,とりあえずは『古事記』がどのように読まれようとしているのか,しばらくは注目してみたいと思います。少なくとも,「3・11」以前の時代に引き戻すために仕掛けられた罠ではない,と信じて。それどころか,「3・11」後の時代を展望する上で,『古事記』関連本をどのように読むことが可能か,を探りながら。

「カラオケに行きなさい」「音楽とからだをシンクロさせなさい」李自力老師語録・その17.

  トップ下のランキング選手の個人レッスンを見学させていただいたときのことです。ひととおり,稽古が終わり,汗を拭きながら整理運動に入ったときに発した李自力老師のことばが,標記に書いたことばでした。

 「カラオケに行きなさい」
 「音楽とからだをシンクロさせなさい」

 なぜか,強くこころに響くものがありました。なるほど,と。
 がしかし,同時に,李老師はカラオケに行って歌を歌っているのだろうか,という疑問も湧きました。ですから,稽古が終わって着替えも終わったところで,聞いてみました。「李老師はカラオケに行くことがあるんですか」と。

 ちょっと恥ずかしそうな顔をしながら,意外なことに,つぎのような話をしてくれました。

 最近はあまり行きません。遊びのお付き合い程度です。しかし,学生時代(北京体育大学)にはカラオケではないけれども,同級生の前で歌を歌うことはよくありました。偶然,指名されて歌うことがあって,うまいと褒められて,以後,機会あるたびに歌うことになりました。歌っているうちに,だんだん好きになり,いつのまにかはまっていました。歌の中に自分自身が溶け込んでいくことの快感を覚えました。そのときの経験が,のちに,太極拳の表演をするときに役立ちました。伴奏音楽のなかに,身もこころも溶け込ませていき,音楽とからだがシンクロするとき,全身に快感が走ります。そういう表演ができるようになるには,相当の工夫と努力が必要です。わたしは,いまでも,その意味では進化していると感じています。からだを駆け抜ける快感は,かならず太極拳の表演に表出しているはずです。それは,見る人のからだにも共振・共鳴するはずです。そういう表演が人のこころを打つのです。そこを目指して頑張るよう若い選手たちには期待しています。

 珍しくご自分の太極拳の経験について,かなり踏み込んだお話をしてくださいました。思わず,じっと耳を傾けました。

 ※注・これこそ,まさしく「如是我聞」です。つまり,李老師がこのとおりに話をした,ということではなくて,「わたしはこう聞いた」という話です。

 わたしたちも,たとえば,「24式」の動作をひととおり覚えて,全体を流して稽古ができるようになったころから伴奏音楽に合わせて稽古をするようになりました。李老師の動作に合わせて動いているときは,それとなく音楽にシンクロしていることがわかります。しかし,李老師から「はい,つぎは自分たちだけでやってみましょう」と言われると,とたんに動作がぎこちなくなり,伴奏音楽を聞いてはいるのですが,シンクロするにはとてもとてもという状態に陥ってしまいます。

 第一,李老師にじっと見られているということを意識したとたんに,わたしのからだはわたしのからだではない状態に半分入ってしまっています。ですから,いつもはできていることが急にできなくなってしまいます。こころここにあらざるがごとき状態に陥ってしまいます。そうなると表演は安定を欠いて支離滅裂になってしまいます。そして,ふらついたりして,しまった,と思った瞬間には李老師の視線が針のようにチクチクとからだに突き刺さってくるのを感じます。伴奏音楽などどこかにふっとんでしまっています。

 ひとりで,無心になって稽古しているときがあります。このときには,時折,伴奏音楽が心地よく聞こえてきて,ほんの一瞬ですが,音楽とからだがシンクロするときがあります。あっ,これだっ,と思った瞬間から,もう,いつものわたしのからだにもどってしまっています。自己を超えでていくからだの経験は,いくつものヴァージョンがあるわけですが,まだまだ「道は遠く険しい」ものがあります。

 太極拳は奥が深い。だからこそ面白いのだと思います。

 自己と自己を超えでていく自己との境界領域で遊ぶ「からだ」の快感が,いつの日か到来することを夢見ている,今日このごろです。

2012年8月20日月曜日

「如是我聞」(にょぜがもん)ということについて。仏教の世界の不思議だけではない。みんなそうやって生きている。

  仏教の経典のなかには,しばしば「如是我聞」ということばが登場します。

 一般的には,「お釈迦様の話をわたしはこのように聞きました」と解釈されています。そして,そのこと自体はなにも不思議はありません。なにせ,お釈迦様は人びとの前でお話をしただけで,文書として書き残すということはしなかった人でしたから(ここにじつは大きな意味が隠されているのですが)。ですから,お釈迦様の死後,お弟子さんたちが集まって,お互いにその記憶を確かめ合いながら,お釈迦様の教えをまとめて仏教の経典をつくりました。ですから,お経のなかにはしばしば「如是我聞」ということばを登場させて,お釈迦様の教えを伝えようとしたわけです。言ってしまえば,仏教の経典は「聞き書き」にすぎないというわけです。

 では,その「聞き書き」とはどういうことなのでしょうか。お釈迦様はこう仰いました,と言ったとたんにそのことばは一気に権威づけられます。そこが,じつは,大きな問題です。なぜなら,お釈迦様の話を聞いた人(聞き手・弟子たち)によって,その受け止め方はみんな違うからです。おそらく,10人の人が一緒に,同じお釈迦様の説法を聞いたとしても,そから受ける印象や記憶はみんな違うでしょう。つまり,「聞き書き」は受け手の関心や感度によって,微妙にズレが生ずるということです。もっと言ってしまえば,必ず受け手の脚色が入る,ということです。

 ですから,仏教の経典が,かくもいろいろの種類となって書き残されることになります。しかも伝承の途中で加筆・訂正(解釈のし直し)がほどこされます。その結果,まったく意味が対立してしまうような経典ができあがってしまいます。そうして,仏教のなかにいろいろの宗派が生まれ,ついにはお釈迦様の教えとはまったくなんの関係もない宗派までがつぎつぎに生まれてこんにちに至ります。ですから,こんにち伝承されている仏教の経典のほとんどはお釈迦様の教えとはずいぶんとかけ離れたところに到達してしまっています。言ってしまえば,お釈迦様はそんなことは言ってません,というわけです。

 わたしたちがどこかで経験したことのある「伝言ゲーム」と同じです。ひどいときには,4,5人の人の間を伝言していくうちに,まったく意味の違うものになっています。そこが面白くて,このゲームが成立しているわけです。仏教の経典もまた同じだという次第です。

 しかし,このことを笑っている場合ではありません。そんな資格はわたしたちにはありません。なぜなら,人が生きていくという実態は,「如是我聞」で成立しているのですから。

 その最たるものはメディアです。情報を情報として受け止め,整理し,伝えるということの根源にあるものは「如是我聞」です。わたしたちの身辺にもよくあるように、だれだれさんがこう言ってましたよ,というのも同じです。もっともひどい話はアカデミックな論文です。文系の論文には,まず,間違いなく先行研究批判があり,その批判の正当性を根拠づけるための典拠が示されます。たとえば,バタイユはこう言っている,といって注を付し,典拠が示されます。これもまた立派な「如是我聞」です。

 人間が生きているかぎりこの「如是我聞」から解放されることはありません。なぜなら,人間はことばを操る動物であり,ことばによってコミュニケーションを構築している生きものですから。問題は,そのズレを最小に食い止めること,つまり,レシーバーの感度をよくすること,その精度を高めることにあります。それでも,その人の思想・哲学のよって立つ立場によって,ひとつのことばの受け止め方は違います。

 なぜ,こんなことを書いているのかといいますと,このところ第2回日本・バスク国際セミナーの話を連続して書いています。が,それらはすべてわたしの個人的な「如是我聞」である,ということをお断りしておきたかったからです。だからといっていい加減な「聞き書き」なのかというと,そうではありません。わたしにとっては,まぎれもない真実です。全体重をかけた「如是我聞」です。

 人間はそこに依拠しながら生きていくしか方法はないのです。お釈迦様もそれでいいのだ,と考えていたようです。有名な『般若心経』というお経も,お釈迦様が没後500年も経ってから龍樹(「空」の思想家)が書いたのではないか,と言われています。この話のつづきは,いずれまた。

とりあえずは,「如是我聞」についてのコメントまで。今日のところは,ここまで。

2012年8月18日土曜日

西谷 修講演「グローバル化と身体の行方」(第2回日本・バスク国際セミナーにて)。

 第2回日本・バスク国際セミナーの最後の締めくくりの特別講演を,西谷修さんが引き受けてくださり,それはそれはみごとなものでした。題して「グローバル化と身体の行方」。

 今回の国際セミナーのテーマは「グローバリゼーションと伝統スポーツ」。そのことを強く意識した西谷さんのお話でした。

 まずは,世界がグローバル化するということはどういうことなのかを説き,そのこととわたしたちの身体がどのようにかかわっているのか,わけても,その身体を生きることによって成立する近代スポーツ競技や伝統スポーツとはなにかをわかりやすく説き,さらに,スポーツから生まれる感動とはなにか,というところまで踏み込んでお話をしてくださいました。

 これまで,わたしの頭のなかでもやもやしていたものが一度にすっ飛んでいき,すっきりとした青空が広がりました。お話の全体は,必ず活字にして,みなさんにも読んでもらえるようにしたいと考えていますので,ここでは割愛。そのうちの,わたしにとって重要だと思われる部分について,わたしなりに理解できたことを書き記しておきたいと思います。

 それは以下のとおりです。

 グローバル化の進展とともにわたしたちの身体は「中性化」してしまう。つまり,地域に固有のバナキュラー性(土着の言語,信仰,生業形態,文化,など)が削ぎ落とされ,平準化,規格化,数量化できる身体の要素だけがクローズアップされることになる。そして,産業社会に貢献できる身体,すなわち中性化した身体が増産されていく。

 前近代から近代への移行過程で起きたことの大きな特徴がそれである。スポーツもまたその渦に巻き込まれ,グローバル化への道を選んだものが近代スポーツ競技となり,それを拒否したものが伝統スポーツとして温存されることになった。その結果,近代スポーツ競技を支える身体は,ますます「中性化」し,「透明化」していくことになる。その反面,伝統スポーツはバナキュラー性を保持した「豊穣な」身体を維持していくことになる。

 しかし,その伝統スポーツにもグローバル化の波が押し寄せていて,徐々に変化・変容を余儀なくされつつある。つまり,伝統スポーツをささえる身体が危機に瀕している。他方,近代スポーツ競技にいたってはドーピングする身体が登場して,大きな壁に突き当たってしまっている。その最大の問題は,グローバル化によってもたらされたテクノサイエンス(科学技術)と経済によって,スポーツ本来のあり方が圧倒されてしまって,あらぬ方向に彷徨いはじめたことにある。

 にもかかわらず,オリンピックを筆頭とする近代スポーツ競技も,地域に伝承されている伝統スポーツも,衰えるところを知らない。なぜなら,スポーツには人を「感動」させる力があるからだ。素晴らしいパフォーマンスに立ち会う人間は,アスリートもそれを観る人も,みんな「感動」の渦に巻き込まれていく。

 この感動の源泉は,アスリートたちの真剣さであり,純粋さであり,それらを支える無償性にある。利害得失を度外視して,全身全霊を注ぎ込む,生身の身体の剥き出しの表出にある。その身体に触れたとき,わたしたちは抑えきれない感動に身を震わせる。そのとき,生きている,とわたしたちは実感する。わたしたちが「生きる」ということの実感は,この純粋な身体経験を積み重ねることにあるのだ,と。

 これは,アスリートたちによる無償の「贈与」である。だからこそ感動が生まれるのだ。贈与(マルセル・モース)には計算も打算もない。無償性によって支えられる贈与だ。それは場合によっては公衆の面前での破壊であり,焼却である。つまりは「消尽」である。その贈与のルーツをたどっていくと,そこには「供犠」が待っている(ジョルジュ・バタイユ)。

 以上です。多少,わたしの脚色もまじってしまいましたが,西谷さんの講演を聞いてのわたしの感想の一部です。この他にもたくさんの重要な問題についてお話をしてくださいましたが,それらはいずれまたの機会に。

 そしていま,わたしの脳裏をよぎるのは,供犠とはなにか,儀礼とはなにか,そして「スポーツ儀礼」とはなにか,という問題です。「スポーツを考えることは,人間とはなにか,を問うことだ」とこのところずっと考え,人にも話してきています。そのための重要な扉のひとつを,西谷さんの講演は指し示してくれた,とわたしは受け止めました。

 10月13日(土)に予定されている「アフター・国際セミナー」(公開)の企画も,西谷講演を手がかりにして展開してみたいと考えています。それが「グローバリゼーションと伝統スポーツ」を考えるための,重要な土俵を提供してくれている,と考えるからです。場所は同じ。神戸市外国語大学三木記念会館。西谷さんも,再度,参加してくださるとのことです。ご期待ください。

蝉の鳴き声が喧しい。しかも,その鳴き声が変だ。いつもと違う。

 西谷さんの最新のブログによると,ちかごろの蝉は「イシン,イシン」と鳴くそうだ。わたしも耳を澄まして聞いてみた。なるほど,そんな風にも聞こえる。しかし,よくよく聞いていると,ちょっと変な鳴き方をする蝉がたくさんまじっていることがわかってきた。

 たとえば,こんな風にわたしの耳には聞こえてくる。

 北の方に耳を傾けると,「クナシリ,クナシリ」と鳴いていように聞こえる。
 西の方に耳を傾けると,「タケシマ,タケシマ」「トクト,トクト」「リアンクール,リアンクール」と声変わりがうまくできていないのか,声がひっくり返って,さまざまに聞こえてしまう。
 さらに,南の方に耳を傾けてみると,「センカク,センカク」「ウオツリ,ウオツリ」と鳴いているように聞こえる。

 放射能に犯された蝉が,突然,こんな風に鳴きはじめたわけでもなかろうが,どうも様子が変だ。ことしになって急に,こんな風に聞こえはじめるのは,なにか理由があるはずだ。

 長い長い自民党政権時代には,のらりくらりと誤魔化しながら「外交問題にはしない」などという暗黙の了解をとりつけながら,なんとかしのいできたのに・・・・。しかし,官僚との連携プレイが下手な民主党が政権をとってから,どうも,日本の国の屋台骨のあちこちがぎくしゃくしはじめているように思う。どうやら民主党政権の弱腰外交が露呈してしまったようで,ここを先途とばかりに近隣諸国があの手この手で「ワナ」を仕掛けてきているらしい。

 「茹でガエル」になってしまった日本人の多くが,やれオリンピックだ,やれお盆だ,やれ外国旅行だと浮かれている間に,気づいてみればあちこちに火種が仕掛けられてしまっているではないか。なのに,日本の外務大臣は「夏休み」をとるとか,という呑気な話がインターネットを流れている。ドジョウ君以下の嘘つき・無責任集団の,もたつきぶりがいよいよ断末魔を迎えようとしている。が,その間に,蝉の鳴き声はますます喧しくなるばかりだ。

 すでに,一部では,「オキナワ,オキナワ」と鳴く新種の蝉まで現れているという。そのために,これまで「オキナワ,オキナワ」と鳴いていた蝉が,まるで虚を突かれたかのようにとまどっているとか・・・・・。これまた大変なことになりそうだ。生態系を犯すようなことにだけはならないように,なにがなんでも回避してもらわなくては・・・・。

 いっそのこと「イシハラ,イシハラ」と鳴く蝉を増やして,どこぞの国におみやげをつけて,いやいや熨斗をつけて「イシハラ」島をプレゼントしたいくらいだ。この惚け老人の発言はほんとうに困りもので,いい加減にしてもらいたいものだ。

 下手をすると「ドンパチ,ドンパチ」と鳴く蝉が現れたりしかねない。
 だが,この蝉だけはなんとしてもこの世に生まれ出てくる前に阻止しなくてはならない。

 「フクシマ,フクシマ」と鳴く蝉が去年から突如として現れたが,その勢いは収まるどころかますます声が大きくなっている。「ゲンパツ,ゲンパツ」と鳴く蝉も同じだ。

 その声を聞き違えて「センパツ,センバツ」と聞こえている人も少なくないようだ。でも,この蝉はまもなく時期がすぎれば鳴き止む。

 「カイサン,カイサン」と鳴く蝉もいるが,まだまだ声が小さい。どうやら,「イシン,イシン」と鳴く蝉に抑え込まれているようだ。

 その代わりに,ちかごろでは「イジメ,イジメ」と鳴く蝉の声がしだいに大きくなってきて,これはとどまるところを知らない勢いだ。これもまた困ったものだ。

 この夏の異常気象は自然界だけではなくて,人間界にも異変をもたらしつつあるようで,なんとも薄気味悪いがして落ち着かない。なにかがはじまりそうで・・・・。

 テレビの馬鹿番組に騙されないように気をつけなくては・・・・。

2012年8月16日木曜日

バスク民族の伝統スポーツ・ペロタのルーツはジュ・ドゥ・ポームか?それは逆ではないか?

 バスク民族の伝統スポーツの代表的なものの一つにペロタ(球戯)がある。その研究者であるオイドゥイさん(バスク大学)の説によれば,ペロタのルーツはジュ・ドゥ・ポームだという。しかし,わたしは,それは逆ではないか,という仮説を立てている。それは,わたしの長いテニス史研究の一つの結論でもある。

 じつは,この背景には大きな問題が隠されている,とわたしは考えている。
 一つは,ヨーロッパの文明先進国によるバスク隠しの問題である。あるいは,バスク蔑視にもとづく歪んだ歴史叙述の問題である。
 二つには,キリスト教文化による異教信仰文化排除という力学が働いているのではないか。その典型的な例をペロタのルーツにもみてとることができるからだ。
 三つには,資料実証主義歴史観によって隠蔽されてしまった,重大な事実隠しを類推することができるからである。
 四つには,フランコ政権時代の徹底したバスク語・バスク文化排除の弾圧の成果をそこにみてとることができるからだ。

 大きくは,この四つの柱を立てて,これまでわたしはバスクの伝統スポーツの問題を考えてきた。 その結論の一つが,たとえば,フランスに起源をもつとされるジュ・ドゥ・ポーム(のちにテニスとなる)のルーツはバスクのペロタである,というものである。この根拠をきちんと説明するためには,相当のスペースを必要とするので,ここでは深入りしない。

 しかし,ペロタ研究者のオイドゥイさんは,ペロタのルーツはジュ・ドゥ・ポームである,と信じて疑わない。なぜなら,これまでのテニス史研究の主流がそのように結論づけているからだ。わたしたちが翻訳したH.ギルマイスターの『テニスの文化史』(大修館書店)にも,同様の記述がある。しかも,そこにはご丁寧にも,ラケットでポールを打ち合うようになったテニスがバスクに伝承され,それが先祖返りをするようにして,ラケットからそれ以前の打球具が使用されるようになり,最後に「素手」で打ち合うジュ・ドゥ・ポームの形式に至りついたものだ,と説明されている。

 わたしは,この記述を知った段階で,こんな馬鹿げたアナロジーがテニス史研究の権威者によって平気でなされていて,しかもなんの反論も提示されることもなくこんにちに至っている,その事実に唖然としたものである。ユーロセントリズムなどということばは使いたくもないが,現実に,こんなかたちで歪曲もはなはだしい歴史叙述が大通りを闊歩し,バスク隠しに大いなる貢献をしている事実をみると黙ってはいられない。

 その犠牲者のひとりがオイドゥイさんではないか,と。自民族の誇るべき伝統スポーツであり,バスク民族のアイデンティティを構築する上でのきわめて重要な文化装置の一つでもあるペロタを,フランスから移入されたものである,というのだ。

 わたしは,ペロタのルーツは太陽信仰にあると考えている(それを裏付ける傍証もある)。つまり,太陽信仰儀礼の一つなのだ,と。だから,ペロタはずっとずっと古い歴史をもっていたはずである。他方,ジュ・ドゥ・ポームがゲームとしてその存在が知られるようになったのは修道院である(テニス史の図像資料に明らか)。なぜ,修道院なのか。じつは,ここにこの謎解きの大きな鍵がある。その鍵の一つだけを記しておこう。

 それは,キリスト教公認のボール・ゲームにするには,異教信仰にルーツをもつペロタであってはならないのであって,それを換骨奪胎して,修道院で考案されたジュ・ドゥ・ポームと名前を変える必要があった。そして,修道院のネットワークをとおして全ヨーロッパに広まっていった。それが,やがてテニスに進化していった,と。

 この議論の詳細については,第3回日本・バスク国際セミナーが開催される折には(いまのところ未定),ぜひとも取り上げてみたいと考えている。バスクの人たちがどんな顔をするのだろうか,とその顔を想像しながら。

 ちなみに,オイドゥイさんの顔は,能面アーティストの柏木さんの言うに,達磨さんそのものだ,とのこと。達磨さんはインド人のはずだが,ひょっとしたらバクス人かも?バスク語と日本語とはとても近い類縁関係にあるとも言われていることだし・・・・。

 最後にひとこと。バスクの人たちは日本人にたいしてとても親近感をもっている。これは実際にバスクに行ってみて実感した。こんどはわたしたちの方からなにかお返しをしなくては・・・・とも考えている。その一つが,テニス史の定説を書き換えることではないか,と。

2012年8月14日火曜日

「世界一の女性総合格闘家」女性がアスリートであること(『世界』)を読む。

 岩波の『世界』という雑誌には時折,スポーツを題材にした論考が掲載される。しかし,その比率はきわめて少ない。しかし,こんにちを生きる「人間」や「世界」におけるスポーツの意味や役割を考えると,もう少し頻繁に取り上げてもいいのではないか,とわたしは考えている。

 今月(9月号)の『世界』に久しぶりにスポーツの話題が取り上げられている。
 題して「世界一の女性総合格闘家──女性がアスリートであること」。筆者は秋山訓子さん。同誌の筆者紹介によると以下のとおり。朝日新聞記者。東京大学文学部卒業。政治部,アエラ編集部,国際報道部などをへて現在 globe編集部所属。

 内容は文句なく面白い。一気に読ませる文章も魅力的。周到に手をつくした取材が光る。なにより,女性総合格闘家にそそぐまなざしがいい。そこはかとない敬愛の念がつたわってくる。まさに,女性でなくては書けない,ゆきとどいた目配りがいい。しかも,女性という狭い視野にとらわれることなく,人間としての生き方に強い関心を示す。そして,「世界一」になる人間とはどういう内実を伴っているのか,というところに筆者の手が伸びていく。

 こういう人がスポーツを語ってくれるとありがたい。
 最近では,スポーツ・ライターなる肩書で仕事をしている人が激増している。しかし,そういう人たちの大半は,確たる思想も哲学も持ち合わせることなく,ましてや歴史や世界を視野に入れてスポーツを語るという姿勢が欠落している。もちろん,人間とはなにか,という基本的な思考の素養もない。そういう事態がなし崩し的に広まっている。由々しき事態であると歯痒い思いをしている。

 スポーツは,ちょっと取材するだけで,ある程度の読物としての記事は書こうと思えば書ける。人が驚いたり,まさかと思われるようなネタが拾えれば,それだけで書ける。しかし,アスリートの側からすれば,あまりに薄っぺらい内容に驚き,自分の真意は伝わってはいない,という不快感が残る。単なる使い捨てにすぎないではないか,という後味の悪さだけが残る。

 じつは,用意周到な筆者の秋山さんはわたしのところにも取材の依頼があった。『世界』の中本さんのご紹介だということだったので,喜んでお引き受けした。聰明な方で,つぎつぎに核心をつく問いが発せられる。そうして,わたしの話をどんどん吸収され,あっという間に取材ノートが埋まっていく。そして,それとなく取材ノートをみると,重要なところは大きな〇で括り,その〇と〇との間に矢印がつけられたり,番号がふってあったり・・・と,なるほど,取材しながら,もうつぎの作業に入っている・・・と感心してしまったほどだ。

 こんなこともあって,今回の『世界』の原稿のなかにはわたしの談話も登場する。どんな風に使われるのかといささか心配ではあったが,まったく問題のない,むしろ正鵠を射た内容になっていて,さすがだなぁと感心した。丁寧なお仕事をされる人らしく秋山さんは,原稿の段階で一度お見せします,と言われたが忙しいでしょうからお任せします,とわたしは応じておいた。それで間違いのない人だったということも証明された。

 あのときのお話では,ロンドン・オリンピックの取材のお手伝いもすることになっている,と聞いている。帰ってこられたら,中本さんも交えて,オリンピックのお話を聞かせてもらいたいと心待ちにしている。秋山さんも中本さんも,とんでもなく超多忙な方なので,なかなかそんな時間はないかも知れない。でも,楽しみに待つことにしよう。いつかはチャンスがあるだろう,と。


「バタイユ没後50年」『週刊読書人』が特集。

 『週刊読書人』(8月10日刊・第2951号)が「バタイユ没後50年」を特集している。精確にいえば,ことしの6月3日に日本フランス語フランス文学会春季大会(東京大学本郷キャンパス)が開催され,そのときのワークショップ「バタイユ没後50年:これまでとこれからを考える」に参加した5人のプレゼンテーターとその仕掛け人の計6人による寄稿を掲載したものである。

 仕掛け人は福島勲(北九州市立大学准教授),プレゼンテーターは濱野耕一郎(青山学院大学准教授),岩野卓司(明治大学教授),湯浅博雄(東京大学名誉教授),酒井健(法政大学教授),西谷修(東京外国語大学教授)。この順番でプレゼンテーションが行われたが,最後の西谷さんのところにきたときには時間がほとんど残っていなかった,という(西谷さんからの伝聞)。シンポジウムやワークショップではよくみかける光景ではあるが,結局は最後のスピーカーの存在を無視した行為で,失礼千万だとわたしは考えている。学者先生方は,意外にだらしがない。もっと,約束どおり与えられた時間を守るべきである。その上で,フリーのディスカッションの時間で大いに弁舌を振るえばいい。

 こういうワークショップが行われたということは西谷さんから聞いていたので,どんな内容だったのかなぁ,とじつは楽しみにしていた。とこかで特集が組まれるはずだから。と思っていたら『週刊読書人』がわたしの期待を叶えてくれた。

 わたしも長い間,西谷さんのお話をうかがいながら,ジョルジュ・バタイユという人の考えたことに強い関心を寄せてきた。全部とは言わないまでも,バタイユの主だった文献は読破してきたつもりである。とくに,『宗教の理論』と『有用性の限界 呪われた部分』の2著は,何回も何回も繰り返し読みこんだ愛読書でもある。このテクストを用いて,神戸市外国語大学で集中講義をしたこともある。そのときの読解の試みの一部は『スポートロジイ』創刊号(みやび出版,2012年刊)に掲載してある。ご覧いただければ幸いである。

 そんな事情もあって,この特集は一気に読ませていただいた。いずれの論者の寄稿も面白く読ませていただいた。しかし,5人の論者が勢揃いして,一堂に会して議論をするということは,かなりの冒険でもあるなぁ,としみじみ考え込んでしまった。この寄稿原稿はその反映にほかならないのだが,なんとまあ,個人差があることか,と驚いてしまったのだ。

 もちろん,5人の論者はそれぞれバタイユに向き合うスタンスが異なるので仕方がないとはいえ,かくも違いがはっきりするものか,しかも,そのレベルの違いまでもが否応なく表出してしまうものなのか,と驚いてしまった。いずれも日本を代表するバタイユ研究者でありながら,この短いスペースに盛り込む内容の密度の濃さがまるで違うのである。

 で,ほかの論者のことはともかくとして,わたしのこころを強く打った論考は西谷さんのものだった。ほかの論者たちのものは「バタイユを」考えるという立場をとったのに対して,西谷さんだけがひとり「バタイユから」考えるという姿勢をとった。西谷さんは,おそらく,「バタイユを」考えるという段階をとうのむかしに通過して,そこからさらに「バタイユから」考えるというところに足を踏み出して,数々の著作を世に問うてきた。『不死のワンダーランド』や『世界史の臨界』『戦争論』,そして『離脱と移動』などがそれである,と西谷さんみずからが書いている。

 この短い寄稿のなかに,これ以上は圧縮できないというほどの密度の濃い内容が盛り込まれている。逆にいえば,西谷修とバタイユの思想とがどのように絡み合っているのか,ということを知るための絶好のガイドラインとなっている。この寄稿をもとにして,内容を展開していくだけで,ゆうに一冊の単行本が可能である。そういう内容として,わたしは受け止めた。

 言ってしまえば,西谷修が,ひとりだけ異次元の世界を遊んでいるようにわたしにはみえる。体操競技の内村航平選手が,世界でひとりだけ異次元の世界に飛び出しているのと同じように,わたしにはみえる。なんという人とわたしはお近づきになってしまったのだろうか,とわが身が引き締まる思いである。

 最後に,西谷さんの結論的な言説を引いておこう。
 「バタイユは単に特異な思想家であるのではない。近代を画したヘーゲルのかなたにキリスト教化初期のプロティノスを読むと,バタイユの<内的体験><非-知>の体験が,長い西洋思想の中でとのような位置をしめるのかがわかってくる。その意味ではバタイユは西洋思想二千年を画する思想家なのである。この点については拙稿「輝く闇,バタイユ・ヘーゲル・プロティノス」(『離脱と移動』所収)を参照されたい。」

女子サッカー・なでしこ対フランス戦,ホテルのテレビで今福さんと観戦。至福のとき。

  思い返してみれば,今回のロンドン・オリンピックはわたしにとっては遠い存在でした。その日程が第2回日本・バスク国際セミナーとかぶっていたとはいえ,それにしても,オリンピックを見ようという意欲がどこか欠けていました。なぜだろうかといろいろ考えてみますが,その理由はよくわかりません。興ざめの部分と感動の部分が相半ばしたからだろうか,と思ったりしていますが,どうもそれだけではなさそうです。このことについては、もう少し時間をかけて考えてみたいと思います。

 そんななかで,わたしが唯一,リアル・タイムでオリンピックをテレビ観戦したのは,6日の深夜(いや,7日の早朝)に行われた女子サッカーのなでしこ・ジャパン対フランス戦でした。しかも,ありがたい(ありえない)ことに今福龍太さんと一緒でした。

 8月6日(月)は第2回日本・バスク国際セミナーの初日でした。オープニングの特別記念講演で今福さんは「身体──ある乱丁の歴史」というタイトルでお話をされました。とても感動的な講演で,わたしたち研究者仲間が考えつづけ,求めつづけてきた「身体」をめぐる問題系というテーマを力強く後押ししてくれる内容でした。「身体はつねになにかを裏切り,逸脱し,思いがけない働きをするものである」という次第です。これで自信をもって,これからもわたしたちの研究がつづけられる,という勇気を与えてもらいました。ありがたいことです。

 この今福さんの特別講演につづいて,バスク側の代表者パレルバさんの基調講演が行われました。が,パレルパさんは欠席のためホセバさんが代読しました。そのあと,日本側を代表して,わたしの基調講演。テーマは「スポーツのグローバリゼーションにみる<功>と<罪>──伝統スポーツの存在理由を問う」というもの。今福さん,西谷さんを前にしての講演で,いささか力みすぎて,論旨がうまく展開せず,苦労しました。また,通訳を間に挟んでの講演ですので,なかなかリズムがつかめなかったということもありました。が,いずれにしても,実力以上のことを話そうとするからのことであって,その点は大いに反省しているところです。

 6日のプログラムはそこで終わり,あとは夕食を兼ねて懇親会。和食をメインにしたレストランで一室を借り切っての会食でした。お酒が入ると陽気なバスクの人たちはにわかに元気になり,おしゃべりで盛り上がりました。とくに,今福さんはスペイン語をなに不自由なく話される方なので,そのまわりはバスクの人たちが取り囲むかたちになり,楽しく会話がはずんでいるようでした。

 この会が終わってホテルへ。バスで移動。こういう集まりのときには,わたしの部屋が二次会の場になるのが恒例。なので,今福さんにも,もし,よろしければ部屋に遊びにきてください,と声をかけました。すると,少し遅くなるかもしれませんが,寄ってみます,という返事でした。わたしはメインの仕事が終わったので,すっかり気が楽になっていました。すぐに大勢の人で一時は部屋が満杯になりましたが,明日のプレゼンテーションのある人から順番に消えていき,あと数人が残っているところに今福さんが現れました。なんの話をしていたかは記憶にありませんが,いつのまにかサッカーの話になり,そういえばなでしこ・ジャパンがフランスともうすぐ対戦するよ,ということになりテレビをつけました。

 すぐに試合ははじまりました。が,立ち上がりは緊張のせいか,少しつまずいたりしていましたが,そのうちにパスがまわるようになり,次第になでしこペースになっていきました。フランスがなんだか慎重な立ち上がりをしてくれたお蔭で,日本ペースの試合展開になっていきました。みんな,だまって,真剣なまなざしでテレビの画面を見つめています。今福さんもほとんどしゃべることなく,じっと画面を凝視しています。気がついてみたら,日本が2点をとって前半が終了。この段階でみんななでしこの勝ちを信じたか,明日のセミナーもあることだし・・・ということで自分の部屋にもどっていきました。

 ひとりぼっちになったわたしも,明日のことを考えてすぐに寝ようとしました。が,いささか興奮していて眠れません。とうとう起き出してきて,後半戦もしっかりみることになってしまいました。後半は,フランスが捨て身で攻撃をしかけてきて,日本は防戦に追われます。そして,ついに,フランスのみごとな連携プレイで1点を失います。このあたりから日本も必死の攻防を繰り返します。とても迫力のある攻防がつづき,ついつい興奮してしまいます。

 フランスのバックスも上にあがってきて,大きなスペースができたところに日本のボールがでます。それを大儀見選手がドリブルで持ち込み,絶好のチャンスを迎えます。が,残念なことにシュートははずれてしまいます。ここは決めておくべきところだったのですが・・・。

 フランスも同じようにPKをとりながら,それをはずしてしまいます。
 が,わたしはいずれフランスに追いつかれ,延長線になるのでは・・・・,と思っていました。そうなると死闘が繰り広げられることになる。これは大変だ,とある程度は覚悟していました。が,日本はよく守って逃げきりました。

 翌日,休憩時間に,今福さんと全体の試合展開についていろいろとお話をすることができ,なるほど,今福さんはそんな風にみていたのか,という視点がいくつかあり,大変,勉強になりました。たとえば,フランスがPKをはずしたのは,前半の日本のプレスが効いていたからだ,と今福さんは分析します。PKは直接ゴールが狙える絶好のチャンスです。それだけに,それまでの試合の流れが選手たちの身体にプレッシャーとなってのしかかり,反乱をおこすことになりかねない,というわけです。意のままにならない身体が,突然,表出することになります。だからこそ,サッカーは面白い,というわけです。その他にも,いかにも今福さんらしいサッカー批評があって,至福のひとときを過ごすことができました。

 『ブラジルのホモ・ルーデンス』──サッカー批評原論(月曜社)という名著のある今福さんと,同じ部屋で深夜,サッカーの試合をみて,その論評を聞かせてもらえることになるとは夢にも思わなかったことでした。以前,一度,ブラジルのサッカーを見に行きませんか,と誘われたことがあり,なぜ,行かなかったのかと,いまにして思うと残念でなりません。今福さんの説によれば,ブラジルのサッカーこそ,その攻防がじつに美的で感動を呼ぶものだ,というのです。ですから,前線からつぶしにかかり,得点させないサッカーは邪道だと断言されます。その美しい攻防のあるサッカーを,いつか,見てみたいと,いまごろになって思うようになりました。

 いずれにしても,こんな経験ができたのも,第2回日本・バスク国際セミナーのお蔭というほかはありません。やはり,動いていないと出会いはやってこない,としみじみ思いました。

 こんど今福さんとお会いするのは奄美自由大学。9月7,8,9日。いまから楽しみ。

2012年8月13日月曜日

能面アーティストの柏木裕美さん大活躍(第2回日本・バスク国際セミナーにて)

 日本で初めて「能面アーティスト」を名乗る柏木裕美さんにも,特別にお願いをして第2回日本・バスク国際セミナーに華を添えていただきました。バスクの人たちに日本文化の一端を理解してもらうためには能面がいいだろうということになり,ぜひにとお願いをしました。

 柏木さんは,西谷さんとわたしの太極拳の兄妹弟子だということもあって,実行委員会のお願いを快くお引き受けくださいました。しかし,素人の考えは甘く,能面の展示と実演の両方をお願いしてしまいました。ところが,結果論ですが,能面を入れる特別のケース(約12,3面が入る)をはじめ,実演用の道具その他,全部で16ケースに及ぶ荷物を宅急便で運ぶことになりました。ほんとうは,赤帽さんに頼んで,美術品運搬用の特別の自動車で運んでもらうところなのですが,あまりにも費用がかさむため,やむなく宅急便にしてもらいました。

 荷物をさきに送っておいて,8月5日に会場での設営にとりかかりました。すでに,お願いをしておいたわたしの研究者仲間のFさん,Mさん,Mさんが待ち受けていてくださいました。その他にも,Tさん,その他の若い院生さんたちも手伝ってくださったので,あっという間に設定完了。神戸市外国語大学の事務局の人までお手伝いくださり,ありがたいことです。

 会場正面の両サイドに,般若面(左側)と小面(右側)に,漆を塗った欅の板を壁面に天井からぶら下げて,飾りました。そして,会場正面に向かって右側の壁面に長い机をならべて,その上に伝統面(能舞台で使われる面)と現代人をモチーフにした創作面を,そして,左側の壁面にも長い机をならべて小面百変化と題する創作面をならべました。全部で50面がならび,それはそれは壮観でした。その他にも空いたスペースに柏木さんの手になる能面絵画が額に入れて飾られました。いずれも手にとってみることのできる卑近距離ですので,みなさん,顔を寄せてじっと眺めたり,写真を撮ったりして楽しんでくれました。柏木さんのアイディアで,一つずつの面のタイトルにスペイン語訳がつけてありましたので,バスクの人たちも一つずつしっかり眺めていました。大きな声で笑っている人もいました。

 休憩時間には,小面に紐をかけて,実際に顔につけてもらったりしました。みんな大喜びで,交代で面をつけては写真を撮って楽しんでいました。みんな童心に帰り,はしゃぎながらポーズをとったりしていました。この企画も大成功。

 会場正面の右手奥にある控室を急遽,柏木さんのアトリエに仕立てて,そこで柏木さんに能面の制作・実演をやっていただきました。休憩時間だけではなく,ひっきりなしに一般参加の人たちも含めて,多くの人がその実演を見入っていました。柏木さん専属の通訳もついていましたので,質問にも応答することができました。柏木さんもバスクの人たちとも大いに交流してくださいました。

 バスクの研究者のなかのひとりは,能面を買いたいという人までいました。しかし,値段を聞いてびっくりしたようです。が,柏木さんは折角ですから原価でもいいですよ,という提案もしてくださいましたが,それは止めておきましょう,ということにしました。やはり,あまりに過剰なサーヴィスはよくない,と考えたからです。

 その代わりと言っては変ですが,柏木さんは能面の写真を和紙に印刷したアート作品(色紙から,扇形や,掛け軸もある)を,バスクの研究者たちに一つずつブレゼントしてくれました。日本の研究者にも配分がありましたので,みんな大喜びです。みんな無邪気に喜んでいましたが,わたしはこれらのおおよその値段を知っていますので,柏木さんの大盤振る舞いに,じつは,はらはらしていた次第です。

 8日のプログラムには,能面アーティスト柏木裕美さんのお話,が組まれていました。インタヴュー方式で,面打師(伝統面のみを打つ専門家)から能面アーティストへの道程について語っていただきました。能面を制作してみたいと思った動機からはじまって,やがて,面打師の枠組みの外にでて,創作面に向かうプロセスをわかりやすく語っていただきました。途中で,能面を打つということは柏木さんにとってどういう意味をもつものでしょうか,という問いについては,柏木さんのとっさのひらめきで,その間の事情について熟知している西谷さんにバトン・タッチして,代わりに答えてもらうというハプニングもあって,なごやかなうちに話が進展しました。

 なかでも,「能面とはなにか」と問われたとき,一番,短く答えるとすればどのようになるのでしょう,という問いにたいして,「能面とは人間の顔です」と応じられ,思わず唸ってしまいました。あまりのみごとな応答に,返すことばもありませんでした。こんな対話を聞いて,日本の研究者たちも,あるいは,一般参加者たちも,あらためて能面についての認識を深められたのではないか,と想像しています。

 この4日間をとおして,柏木さんはセミナーの議論を聞きながら,粗削りの段階とはいえ,五つの面を制作されました。わたしたちがセミナーをやっている間も,隣の部屋でトントンと鑿を打つ音が心地よく響いていました。柏木さんは音がうるさくないかととても気になさっていましたが,閉会式のときの,バスクを代表したホセバ教授のお話のなかにも,隣で面を打っている音がとてもいい効果音となっていた,だから,とても楽しくセミナーに参加することができた,と二度も繰り返して褒めていました。

 柏木さんの参加によって,第2回日本・バスク国際セミナーは何倍にも楽しい会になりました。ホセバ教授に言わせれば,柏木さんは22歳くらいにみえる,とこれまた驚くべき発言もあり,大いに盛り上がりました。総じて,柏木さんは,みんなに好かれているんだなぁ,という印象を持ちました。これは,偏に,柏木さんの人徳というものでしょう。

 4日間,そして,帰宅されてからもまた荷物を受け取って,整理をして,と大変だったと思います。お疲れがでませんように。ほんとうにありがとうございました。実行委員会のメンバーのひとりとして,こころからお礼を申し上げます。ありがとうございました。

気がつけばオリンピックの閉会式,そして盂蘭盆会のはじまり。

 8月13日(月)。東京は今日も朝から猛暑。強い日差しと南の湿った空気が流れ込んで,最悪の状態がつづく。北の高気圧がもう少し南下してきてくれれば,湿った空気とぶつかって,せめて夕立くらいは降らせてくれるだろうに・・・・・。と,思わず空を仰ぐ。昨夜も寝苦しい一夜だった。日に何回もシャワーを浴びているのに,腰のまわりには汗疹ができている。

 テレビでは朝からロンドン・オリンピックの閉会式をやっている。そして,お盆の帰省ラッシュを報じている。加えて,海外旅行ラッシュも。さらに,帰京,帰国ラッシュの予想も。そんなテレビを,まるで他人事のようにぼんやり眺めているわたし。

 この夏も世間とは無縁のところで暮れていきそうだ。年々,そういうことになっていくようだ。なにが悪いわけでもない。ただ,身辺の雑事が多いだけで,その多忙さに振り回されているだけの話。言ってしまえば,仕事のさばき方が年々,下手になっているという悲しい現実。

 ただ,ことしの夏は日本・バスク国際セミナーがあって(8月6日~9日),その準備段階から開催期間中は,このことに翻弄されてしまった。気持の上ではいろいろとストレスがかかったとはいえ,国際セミナー自体はとても内容のある充実した時間を過ごすことができた。その意味では,大満足である。とくにゲスト参加してくださった今福さん,李さん,柏木さん,西谷さんに感謝である。お蔭さまで,わたしの古びた脳細胞も久し振りに活性化されたように思う。そして,いまもなお,その余韻に浸っている。

 そして,嬉しいことに,これから西谷修講演「グローバリゼーションと身体のゆくえ」のテープ起こしが待っている。この仕事はみずから手を挙げて,競り落としたものである。今回の西谷講演は,どうしても自分で引き受けたかった。なぜなら,これまでのわたしの頭ではうまく説明できなかった「グローバリゼーションと身体」の関係が,じつにみごとに要約されて,説明されているからである。いわば,これからのスポーツ史やスポーツ文化論を考え,語る上で不可欠のパラダイムを西谷さんが提示してくれているからだ。ここはなにがなんでも,自分の耳で,熟読玩味ならぬ熟聞玩味しながら,きちんとした文章にしておきたかった。

 しかし,この他にもやらなければならない仕事は山ほどある。こうして,あっという間にことしの夏も終わるのだろう。でも,素晴らしい夏ではないか。

 今日(13日)になって,あれもうロンドン・オリンピックも終わるんだ,そして盂蘭盆会がはじまるんだ,と浦島太郎の心境である。こんなことも久し振りである。

 オリンピックを生中継でみたのは6日(精確には7日の夜明け前)の女子サッカー・なでしことフランス戦だけだ。しかも,なんと今福さんと一緒にホテルのわたしの部屋のテレビでみた。このときのことは,また,このブログでも書いてみたいと思う。が,とにもかくにも,この一つしかオリンピックの実況中継はみることはなかった。みる余裕がなかったというのは口実で,みる意欲がなかったといった方が正しいだろう。このことも,また,別のかたちでブログに書くことにしよう。

 今日(13日)からは,もう盂蘭盆会のはじまりである。わたしは小さな禅寺に育ったので,物心がついたころから,夏休みの大半は盂蘭盆会に備えての寺の大掃除が年中行事となっていた。寺の境内の雑草をとり,細葉垣根の刈り込みをし,墓地をきれいにし,本堂の縁の下の掃除をし,最後は,仏壇・仏具の掃除をする。とくに,真鍮でできた仏具を磨き砂でこすって磨き上げる仕事は根気が必要で,量が多いだけに大変だった。が,これだけは寺に住んでいるかぎり避けてとおることはできなかった。

 少し大きくなって,いくらか仕事ができるようになると,母の在所の大きな寺の応援にでかけた。大伯父が汗びっしょりになって朝から夕方まで,休むことなく働く姿はいまでも忘れることはない。そして,ときには海に連れて行ってくれて遊んでくれた。大喜びで従姉妹たちと海にいく。内海なので,ついでに,ハゼや貝をとってきて,夕食の足しにした。加えて,大伯母が,ほんとうに心根のやさしい,賢い人で,この人と一緒にいるだけで,わたしはとても幸せだった。陰に日に,密かに,わたしを支えてくれたことが忘れられない。この大伯父・大伯母の存在がわたしのこんにちの土台をつくってくれたと思う。もちろん,両親や祖父母の存在が大きかったのは当然だが,それにも匹敵する大きな存在だった。だから,母の在所の寺はわたしの第一の故郷でもある。

 なぜ,第一の故郷になるのか。わたしは生まれてから東京に遊学するまでの間に6回も引っ越しをしている。その後も,両親は4回も引っ越しをして,ようやく土地を手に入れ,家を建てた。兄弟が多かったので,父の稼ぎ(給料)は全部,わたしたち兄弟が食いつぶしていたのだ。兄弟の3番目のわたしが大学を卒業して,負担が軽くなってしばらくしてから,父は家を持った。

 盂蘭盆会のせいか,祖霊がわたしを呼び出しているようだ。さきほどから,いまはなき懐かしい親族の人びとの顔が浮かんでは消えを繰り返している。今日から三日は,少なくとも『般若心経』を唱えることにしよう。墓参にも行かれないことをお詫びしながら。

李自力老師の表演とワークショップ(第2回日本・バスク国際セミナーにて)

 すでに書きましたように,第2回日本・バスク国際セミナーの第3日目(8月8日)の午後のプログラムに李自力老師による太極拳のワークショップと表演が組まれていました。8月下旬に予定されている太極拳のアジア選手権大会の選手たちの最後の仕上げの段階で,ナショナル・チームのコーチとして超多忙をきわめていらっしゃる時期でしたので,相当の無理をお願いすることになってしまいました。にもかかわらず,李老師はこころよくお引き受けくださり,日帰りでこの仕事をこなしてくださいました。ありがたいことです。

 李老師による表演とワークショップは三つの部分に分けて行われました。
 最初に,李老師とその弟子(Nさん,Iさん,Mさんの3人)の計4名による「24式」の表演が行われました。この中の「Iさん」とは,じつは,わたしのことです。じつを言いますと,わたしは太極拳の表演に加わることには反対でした。人さまの前で演ずることなど恥ずかしくてできません。ひとりで,しこしこと稽古をするのは好きですが,人前で演ずるのは好きではありません。ところが,Nさんはまったく別の考え方をされます。他人に観てもらうことも大事な太極拳の稽古なのだ,と主張されます。そして,自分ひとりの世界も大事だが,人前で演ずることはもっと大事だ,と言うのです。なぜなら,否応なくみずからのすべてを曝け出すことになるからだ,と。つまり,自己を超えでる経験の積み重ねこそが,太極拳を稽古することのもっとも重要な要素となるからだ,と。

 この理屈はよくわかります。日本舞踊の世界でも,100回の稽古より1回の舞台,という言い方をします。人間は追い込まないと本気にはならないし,その追い込まれたところでの経験こそが,また,新たな自己を構築していく上では不可欠だからです。

 言われてみれば,原稿を書いたり,講演をしたりするのも同じです。ただ,ひたすら本を読むだけでは,たんなる物知りな人,それだけの人間で終わりです。しかし,原稿を書く,講演をするという,みずからを曝け出す行為によって人間はそのつど生まれ変わります。とても苦しい,辛いことではありますが,そこを通過するのと,通過しないのとではまるで人間の到達点が異なります。むかしから「苦労は拾って歩け」というのも同じことでしょう。

 そんなわけで,わたしも生まれて初めて太極拳の表演なるものを経験しました。いまの感想は,やはり,やってみてよかったということです。Nさんは,また,機会があったらやりましょう,とわたしを誘ってくれます。なるほどなぁ,とある意味では納得です。Nさんの,あの驚異にも値する好奇心の強さ,そして,なんでも経験してやろうとする姿勢,知らないことにはことのほか強い関心を示す,あの生き方がこんにちのNさんを構築したのだ,と納得できるからです。それに引き換え,わたしはことあるごとに「逃げてきた」という忸怩たる思いが脳裏をかすめます。

 さて,話をもとにもどしましょう。「24式」の表演のあとは,太極拳のワークショップです。参加者全員による太極拳の体験学習です。まずは,基本の姿勢からはじまって,基本の歩き方(足の運び方),・・・・という具合にみなさんに経験してもらいました。バスクの人たちも興味津々で参加してくれました。やはり,アマイヤという水泳のバックストロークで世界選手権に出場した経験をもつ女性は,下半身もしっかりしていて,ほとんどなんの違和感もなく,足の運び方ができてしまいます。しかし,そうでない人たちはなかなかの苦戦を強いられることになりました。見た目よりも,やってみると大変だということを理解してもらったところで,ワークショップは終わり。

 で,最後に,李老師ひとりによる「楊式」の表演です。いつものように,李老師が姿勢を正した瞬間から,みんなの視線が一点に集中します。音楽が聞こえはじめるとその音楽に溶け込むように李老師のからだが動きはじめます。静まりかえった会場は,いつもとはまったく次元の違う世界を醸しだしています。言ってしまえば,明鏡止水といった雰囲気のなかにみんな吸い込まれてしまったかのようです。あとは,李老師ひとりが行雲流水のごとく,やわらかくもあり力強くもあり,一瞬一瞬のすべてがゆるぎない,みごとな太極拳を繰り広げていきます。

 驚いたことに,「楊式」をお願いしたはずなのに,途中で「陳式」の動きが現れました。あれっ?と思いましたが,李老師はときおり気持が乗ってくると,そのときの気持が突如として表出してきて,まったく別の太極拳を折り込むことがある,ということを思い出しながら拝見していました。あとで確認してみましたら,案の定,にやりと笑って「気がついたら陳式が入っていました」ということでした。名人の身体はときおり,こうして「乱丁」を折り込んでしまうようです。そして,そのとき,なんとも言えない快感が全身を駆けめぐるのだそうです。この瞬間が太極拳をやってきてよかったと思う瞬間だそうです。

 名人の表演は,素人がみてもすぐにわかるようで,「とんでもないものを観てしまった」「あれはアートですね」とみんな感動していました。やはり,ふつうの身体からは現れえない,どこか次元の異なる神技のようなからだの動き,そして,その気魄がじかに伝わってきたとき,人は感動するのだ,と確信をえました。

 わたしは,この卑近距離で,李老師の表演をみるのは初めてでした。途中からは,李老師のからだの動きにつられて自分のからだまで動きはじめていました。すると,偶然なのか,それとも必然なのか,李老師がほんの一瞬でしたがわたしの方をみました。そして,みごとに視線が合ってしまいました。その瞬間,わたしのからだに電撃が走りました。そして,そのまま,わたしのからだは固まってしまい,李老師の表演が終わるまで微動だにしませんでした。こんな経験は生まれて初めてのことでした。これがなにを意味しているのか,こんど李老師にお会いしたときに聞いてみたいと思います。

 それにしても,李老師の「楊式」(+陳式)に酔い痴れることができ,至福のひとときでした。
 李老師,ありがとうございました。国際セミナーに参加していたすべての人を代表して,こころからお礼を申し上げます。そして,わたしからもう一度,ありがとうございました,と。

2012年8月12日日曜日

今福龍太講演「身体──ある乱丁の歴史」(第2回日本・バスク国際セミナーにて)

 すでに,このブログでも書きましたように,第2回日本・バスク国際セミナーは,今福龍太さんの特別記念講演でその幕が切って落とされました。そのテーマは「身体──ある乱丁の歴史」。しかも,通訳なしの一人二役。まずは,スペイン語で語りかけ,そのあとで日本語にして語るという滅多にお目にかかれない講演となりました。

 一人二役は,だれでもできるというわけにはいきませんが,できればこの方が通訳を入れるよりははるかにいい,と今回の経験で知ることができました。なぜなら,自分の言いたいことを自分でスペイン語に置き換える作業をするわけですので,その趣旨をはずすことはありません。しかし,通訳を入れた場合には,「身体」にかかわる専門的な微妙な表現はどうしても酌み取ることはできません。おのずから「ズレ」が生じてしまいます。その点,今福さんのスペイン語・日本語という一人二役は完璧と言っていいでしょう。

 あとで今福さんからうかがったところによれば,スペイン語で話したことをそのまま日本語にしてしゃべったわけではない,とのことでした。つまり,スペイン語では論旨を簡潔にわかりやすく述べることにつとめ,日本語ではアドリブでその論旨をかなり踏み込んで細部にわたる話にした,と。もっと言ってしまえば,言語を変えることによって,二つの意味内容の講演を同時に進行させていたというわけです。この試みは今福さんにとっても初めての経験で,とてもスリリングで楽しかったとのことです。

 そのことを知らないで聞いていたわたしは,こんなに細部にわたる身体の話をバスクの人たちは理解できるのだろうか,と心配していました。ところが,今福さんもその点は心得ていて,バスクの人たちが身体を,われわれ日本人とはまったく違う理解の仕方で考えている,ということを前提にしてお話をされたようです。つまり,バスクの人たちは,遠いむかしのことはともかくとして,いまでは敬虔なカソリック信仰の世界を生きていますので,身体は「物質」(「もの」)だと考えているということです。その人たちに対して,身体は「物質」でもなんでもなく,まことに捉えどころのない,複雑怪奇な存在なのだ,ということを話されたという次第です。

 もう少しだけ踏み込んでおけば,バスクの人たちは,身体は自己の所有物である,と信じています。だから,自己の身体をどのように加工してもそれは自己責任の範囲内にあるものだ,と考えています。しかし,それに対して,今福さんは身体はハイブリッドな複合体であり,精神も情緒も肉体もあらゆる要素をすべて合わせてひとつの身体となるのであり,自己が所有できるものではない,と説きます。それどころか「所有を突き放す」もの,「所有の外にとどめ置く」ものだ,と主張されます。

 この今福さんの講演は,バスクの人たちにとってはきわめてショッキングな話ではなかったか,とわたしは想像しています。あるいは,まったく理解不能であったかもしれません。それほどの大きなギャップのあるものでした。しかし,わたしたちとしては,まことにありがたい理論武装となりました。日本側の研究者はなぜ,そんなに身体にこだわるのか,というのが第1回日本・バスク国際セミナーでの結論でしたので,そのことへの応答として最高の講演となりました。

 たとえば,今福さんが用意されたレジュメには,つぎのように書かれています。まず,最初にスペイン語の文章があり,そのあとに日本語の文章がつづいています。そのうちの日本語の文章だけを引用しておきましょう。それは以下のとおりです。

 「歴史にも乱丁や落丁があるとすれば,わたしたちの身体は一つの乱丁の歴史の反映にほかならない。私たちの日常の身体には,歴史の通時的経過をくつがえすさまざまな亀裂や不意の断片が組み込まれている。歴史学者が見落としてしまうような隙間が広がり,正統の歴史からは見えなくなった修復のあとが刻まれている。」

 「身体はつねになにかを裏切り,逸脱し,思いがけない動きをするものである。私たちの身体という野性獣にたいする猛獣使いはいない。歴史も,社会も,私たち自身ですら,身体の核心に触れることはむずかしい。それは反逆児,本能的な革命家であり,支配的な価値のシステムにたいしてたえず根底的な批判をおこなう。伝統スポーツという名で私たちが考えようとする領域は,まさに私たちの日常の身体が革命的な戦いをくりひろげる特権的な舞台にほかならない。」

 さて,これらの文章をバスクの人たちはどのように受け止めたのだろうか。いつか,しっかりと確認してみたいと思う。そのためには,こちらから出かけていく必要がありそうだ。これもまた近い将来の楽しみのひとつにしておこう。とりわけ,アシエールに聞いてみたい。

「異文化理解」は容易なことではない。日本とバスクの間にある深い溝。

 「異文化理解」という美しい言い回しがいつのころからか世間に流通している。そして,それは異文化に触れることによって,いともかんたんに理解が可能であるかのような幻想をいだかせている。かく申すわたしも異文化に触れる回数を増やしていけば,おのずからその理解は深まるものと単純に思っていた。もちろん,異文化に触れないよりは触れた方が理解が深まることは間違いない。しかし,「異文化理解」はそんな簡単なことではない。そのことを今回の第2回日本・バスク国際セミナーをとおして痛感した。

 「異文化理解」などということばを軽々しく用いるべきではない。

 第一,異文化に対峙するとき,にわかに露呈してくることは,わたしたち自身が「日本文化」に対してどれだけの理解をもっているのか,ということである。つまり,「日本文化」に対する理解の深さに応ずる程度にしか「バスク文化」を理解することはできない,ということだ。つまり,「バスク文化」を理解するためには「日本文化」という写し鏡をしっかりと磨いておくことが重要なのだ。それなしには「バスク文化」を受容することはできない。

 異文化理解の最大のハードルは,なんといっても「ことば」の問題である。今回は,スペイン語・日本語という二つの言語をもちいて,相互に通訳をとおして理解するという,国際セミナーであればごく当然のことが行われた。しかし,通訳(翻訳)にはいかんとも超えがたい壁がある。たとえば,辞典的にはまったく同じ意味のことばであっても,そこには微妙なニュアンスの「ズレ」が生ずることになる。それは,もはや,仕方のないことなのである。そこを,どのようにしてクリアしていくか,国際セミナーとしてこんご超えていかなくてはならない大きな課題が明らかになったことが,今回の収穫ではあったのだが・・・・。

 たとえば,こんなことがあった。バスク側の研究者のひとりであるHさんが,日本側研究者の抄録原稿を事前に丹念に読んで,それを要約した発表をした。それは,少なくともわたしを驚愕させるに値するものであった。なぜなら,かれの結論は,「日本人は神道と仏教という二つの宗教のなかにどっぷりと浸かって生きており,日本の伝統スポーツもまたすべてこの二つの宗教と密接に結びついている。その前提に立つと,稲垣の言っていることは〇〇〇のように理解することができる」というように要約されていたからだ。この論調でわたし以外の日本側研究者の抄録原稿もまた,ブルドーザーで地ならししたかのように,なにからなにまで神道と仏教に結び付けて考える姿勢に貫かれていたからだ。わたしの場合には,わたしが抄録原稿に書いた日本の大相撲に関する内容の要約だったのだ。わたし自身はそんなことを強調した覚えはないにもかかわらず・・・・。これには参った。逐一,反論をしようかと思ったが,止めておくことにした。10分や20分の時間で,しかも,通訳をとおしてのディスカッションでは,ますます誤解を生みかねないと考えたからだ。

 その背景には,日本側の研究者のTさんが,Hさんの何回かの日本訪問の際に,Hさんを伝統スポーツが行われている現場に案内したことがあるように思う。かれの印象として深く残ったものが,どこに行っても伝統スポーツの現場には神社があり,寺がある。また,日本国内を移動中にも,どこをみても,いたるところに神社があり,寺がある。それはキリスト教文化圏からきた人たちの眼には強烈な印象を残すことになったであろうと思う。

 なぜなら,わたし自身がウィーンで10カ月間の初めての長期滞在をしたときの,最初のもっとも強烈な印象は「教会」の数の多いことだったからだ。とくに,教区教会はほんの数100mも歩けば,また,その教区の教会が建っていて,街中のありとあらゆるところに教会が建っている。よくよく考えてみれば,日本の神社や寺も,外国人の眼からすれば,ありとあらゆるところに建っている,という印象をもつだろう。だからといって,どれだけの日本人が神社や寺にお参りに行くかということとは別問題だ。ウィーンの友人もまた,最近の若い人たちはほとんど教会には関心をもっていないし,わたしたち自身も日曜日のミサにも行かない,と言っていた。その意味ではウィーンも日本も同じだなぁ,と思ったことがある。

 そんなことを考えていたら,ハッと気づいたことがある。わたしたちの「バスク理解」も,同じようなレベルにすぎないのではないか,ということだ。なぜなら,バスクの友人たちに案内されてえた見聞をもとにして,まことに自分勝手に,自分なりの「バスク文化」の理解の仕方をしているにすぎないからだ。多少の文献を読んだりして,それでわかったつもりになっているだけのことではないか。おそらく,長期滞在をしながら,地に足のついた見聞を広めていかないかぎり,ごくごく表層的な文化理解の仕方しかしていないのだから。

 バスクのHさんのプレゼンテーションをとおして,びっくりすると同時に,みずからの非を知らしめられた次第である。その意味でも,今回の国際セミナーはわたしにとっては大きな収穫があった。そして,「異文化理解」の奥の深さを知った以上は,これからは軽々しくこのことばを用いてはならないと肝に銘じておくことにしよう。


2012年8月11日土曜日

山登りをこよなく愛する友・アシエールに贈った扇子。「六根合一」の意味。

 アシエール。本名は,アシエール・オイアルビデ・ゴイコエチェア。バスク人。バスク大学で登山や野外活動を教えている教授。苦労して最近,博士号を取得したばかり。大の日本贔屓で,バスク大学の人たちに言わせれば「アシエールは半分日本人だ」とのこと。本人もそう思っているらしい。

 わたしたちは,かれのことを密かに「ザビエル」と呼んでいる。その風貌が似ているだけではなく,自然との一体感を求めることに関してはまるで求道者にも似た生き方を徹底させているからだ。その生き方がどことなく日本人の雰囲気を漂わせる。だから,かれのことは日本人の研究者の多くが好きだ。まさに,日本人的なハートをたくさんもっていると感じられるからでもある。

 そのかれが,今回のプレゼンテーションではなかなか議論がかみ合わず,大いに落ちこんでしまった。とくに,期待していた日本側から十分な理解をえられなかったことが,よりいっそうかれの気持を落ちこませてしまったようだ。プレゼンテーションが終わった翌日は,みるも無惨な様子がありありと伝わってきた。

 これはいけないと考えたわたしは,かねてからかれにプレゼントしようと思ってもってきた扇子を,みんなの眼に触れないようにそっと渡した。そして,扇子に書いてある「六根合一」という文字の意味について,ごく簡単な説明だけをして,あとで詳しい説明をすることにした。もちろん,そのときは嬉しそうな顔をしたが,すぐに顔の表情は曇っている。で,仕方がないので,スペイン語のできる友人のTさんに「六根合一」の意味について少し詳しい説明を書いたメモをわたして,いつかチャンスがあったら説明してやってほしい,とお願いをした。

 その扇子は,じつは,将棋の羽生名人が「千勝記念」の折に関係者に配ったものだ。その中に「六根合一」と書いてある。字はどう考えても上手とは言えないが,毛筆で,それなりに一生懸命に書いたものだ。羽生名人のお人柄が文字に浮びでている。

 この「六根合一」とはなにか。たぶん,日本人でも多くの人は理解できないはず。わたしは子どものころから寺に育ち,『般若心経』などにもなじんでいるので,その意味はみてすぐに理解していた。だから,この扇子をもらっても使わないで大事にしまってあった。なにか特別のとき以外はほとんど使うこともなく,しまってあった。このままでは使われることなく無駄になってしまうと考え,思いきってアシエールにプレゼントしようと考えた次第。

 「六根合一」の「六根」とは,仏教でいうところの六識。すなわち「眼・耳・鼻・舌・身・意」のこと。つまり,六つの感覚器官のことだ。これに対応するのは「色・声・香・味・触・法」である。これらのことについては『般若心経』をみれば詳しく書いてある。このお経を知っている人なら口をついてでてくる有名な文言である。

 一般的によく知られている言い方をすれば「六根清浄,お山は晴天」であろうか。これは信仰登山をする人たちがいまでも唱える文言である。山に登りながら,みんなで「六根清浄,お山は晴天」と交互に唱える。そうして,一歩一歩足を踏みしめ山に登っていく。この情景は,志賀直哉の『暗夜行路』にも描かれている。主人公の時任謙作が,いろいろ思い悩んで鳥取の大山に登る。そのときに「六根清浄,お山は晴天」と唱えながら,時任謙作も登山している。

 六根とは文字通り感覚器官である。それらの感覚器官をとおしてわたしたちは日常の世界と接している。しかし,仏教では,これらの感覚器官をとおして把握する世界は仮のものであって,真実ではない,と説く。形あるもの(色)も,音(声)も,匂い(香)も,味覚も,触れるものも,直感的なひらめきも,みんな仮のものでしかない,という。これらの感覚をすべて「合一」してしまえば,個々別々の情報は入らなくなる。日常の感覚世界が消え去り,あらゆるものを超越した世界がひろがってくる。そのときに「無」が立ち現れる,という。

 登山をしながら,汗をいっぱい流し,呼吸も苦しくなるほどにからだを酷使して,極限状態に近づいていく。すると,やがて,なにも考えない「六根清浄」の世界がやってくる。この世界が「無」(あるいは,「無」に近い状態)だというわけである。六根清浄をなしえた人間は菩薩にも等しい,と考えられている。「無」とは「なにもない」ということではなくて,むしろその逆である。つまり,「無」とは邪念がすべて消え去った,とても清浄で充実した状態のことを意味する。

 老子のいう「無為自然」(むいじねん)もまた,「為すことのない完璧な状態」を意味する。「無心」になるとはなんの迷いもない完全無欠の状態に入ることを意味する。

 とまあ,こんなことをメモにしてTさんにお願いをする。
 いつ,どこで,Tさんがアシエールに説明してくれたのかは知らない。しかし,これでお別れという日の朝,かれはわたしをしっかりと抱きしめ,頬ずりをしながら,「最高のプレゼントをありがとう,ぼくの宝物にするよ」と言ったあと,バスクにぜひ来てほしい,そのときには半年くらい滞在すればいい,あちこちの山に案内したい,と。そして,背を向けて歩きはじめるときの最後の一瞥は真剣そのものだった。

 ああ,やっぱりアシエールはザビエルだった,とこころの中で思う。そして,あの扇子はいい人にもらわれていったなぁ,と思う。かれはしばしばあの扇子を開いては凝視することだろう。そして,「六根合一」について考えることだろう。それでこそ,あの扇子は生きる。そして,よき思い出となるだろう。わたしという人間の記憶とともに。

 日本語を覚えて,また,日本に来たいと言ったアシエール。そう,日本語を修得すること,それが君が期待する日本文化を理解するための最短距離だ。楽しみに待ってるよ。アシエール。そして,「六根清浄」について,もっともっと深く理解してもらえるように,わたしも勉強しておこう。

いつの日にか,きっと。
未来に夢をもつことは生きていく上で大事なことだから。

第2回日本・バスク国際セミナー,無事に終了。ゲスト参加の今福龍太さん,柏木裕美さん,李自力さん,西谷修さんに感謝。大きな成果を残す。

 第2回日本・バスク国際セミナーが無事に終わり,昨夜(10日),帰宅しました。6日(月)から9日(木)の4日間,朝8時30分から午後6時までびっしりの講演,研究発表,ディスカッション,ワークショップと盛り沢山のメニューをこなしました。夕食は関係者全員で,懇親会を兼ねて,楽しく飲み食いをしました。第2回ということもあって,みんな顔なじみですので,すっかり打ち解けた楽しい雰囲気で盛り上がりました。夕食後は二次会もあって,深夜まで語り合いがつづき,時間はいくらあっても足りないほどでした。ですが,みんな完全燃焼して,大満足の様子でした。

 冒頭の今福龍太さんの特別講演「身体──ある乱丁の歴史」が,このセミナーの根幹にかかわる問題を提起してくださり,一気に佳境に入りました。しかも,国際セミナーですので,通訳が介在するのがつねですが,今福さんは一人二役をしながらの講演をしてくださいました。つまり,スペイン語でバスクからの研究者に語りかけ,そのあとで,わたしたぢ日本側の研究者に語るという離れ業を演じてくださったというわけです。あとで,バスク側の研究者に聞いたところ,じつにみごとなスペイン語で,しかも,美しい,詩のようなことばの連続だった,ということでした。それは,今福さんが日本語で書かれる著書もそうですよ,と話したらびっくりしていました。いつも,日本語を話すときもそうなのか,という問いがありましたので,「そうです」と答えておきました。すると,「それなら詩人ではないか」というので,ふたたび「そうです。今福さんは詩人でもあります」と応えておきました。

 このあと,日本とバスクの研究者によるプレゼンテーションとディスカッションが合計18題,熱心に繰り広げられました。この内容については,また,いつか詳しく報告することにして,ここではわたしたちの国際セミナーに華を添えてくださったゲストの方々のお話をしておきたいと思います。

 今福さんの講演にさきだち,能面アーティストの柏木裕美さんが,前日(5日)に,会場のあちこちにご自身で打たれた能面(約50面)と自筆になる能面の絵を展示してくださいました。能面もまた「人間の身体」である,しかも,伝統的な身体の記憶であり,他方,創作面は現代のグローバル化を生きる日本人の身体の表出である,という発想から参加依頼をお願いしました。そのわたしたちの希望にこころよく応えてくださり,しかも,会場の一室をアトリエに仕立てて,面打ちの実演までしてくださいました。バスクの人たちだけではなく,一般参加された日本人の人たちも目を瞠って眺めていました。
 プログラムの第4日目には,インタヴュー方式で柏木さんが歩んでこられた能面の世界を語っていただきました。伝統面を打つ面打ち師の世界から出発し,さらにもう一歩外に足を踏み出して,いわゆる創作面の世界を自由奔放に切り開いていらっしゃる,日本でただひとりの能面アーティストを名乗るまでのご苦労を聞かせていただきました。最近の創作面の多くは,フクシマを通過したいまを生きる人間の感情を,アヴァンギャルドの方法を用いて打たれていることがわかり,会場のみなさんも大きく納得されたようでした。

 もう一人のゲストは,太極拳の李自力老師です。李老師のことについては,すでに,このブログでたくさん書いていますので簡単にしておきますが,いま,生きていらっしゃる方のなかではもっとも傑出した太極拳の表演をなさる方です。で,まずは,李老師の弟子である西谷修さんとわたしと,もう一人,三井悦子さんを加えた4人で24式を表演しました。西谷さんもわたしも人さまの前で太極拳を表演するのは初めて。でも,李老師がリードしてくださることをいいことにして,みんなで楽しみました。そのあと,簡単なワークショップ(太極拳の初歩の解説と全員での練習)を行いました。そして,最後に李老師ひとりで,楊式の表演をしてくださいました。李老師の表演がはじまると,会場は水を打ったように静まり,みんな李老師の動きに目を釘付けにされ,すっかり魅了されていました。そして,異口同音に「素晴らしい」の連発でした。なかには,「あの動きはアートですね」とおっしゃる方もいました。弟子のひとりとしては大満足。「明鏡止水」の世界をおのずから醸しだし,その上で「行雲流水」の世界を演じてみせる,まさに現代の名人の表演でした。
 李老師は超多忙の方でスケジュールの調整がきわめて困難ななか,日帰りで参加してくださいました。ありがたいことです。

 そして,最後に感謝しなければならないゲストは,西谷修さんです。西谷さんには,今回の国際セミナーの締めくくりの特別講演をお願いしました。ですから,このセミナーの4日間,ずっと参加してくださいました。テーマは「グローバリゼーションと身体の行方」。西谷さんには,すでに何回もわたしたちの研究会にお出でいただいて,素晴らしいお話をしていただいていましたので,その蓄積もあってか,今回のお話はからだのなかに水が染みこんでいくような,とても自然な流れで理解することができました。気宇壮大な世界史を視野に入れた上で,いま,わたしたちの「身体」のなにが問われているのか,そのことと伝統スポーツやオリンピックの「身体」とはどのようにかかわっているのか,という大きくて深いお話を,わたしたちにもわかりやすくしてくださいました。これからのわたしたちの研究を進めていくための大きな土台を提示してくださいました。日本側のプレゼンテーターはみんな大喜びでした。バスク側では,バスク大学のホセバ教授がひとり,必死でメモをとりつづけていました。スポーツ社会学の専門家としても聞き流すことのできない重要な内容である,ということを意識している様子がありありとみてとれました。この内容については,できるだけ早くテープ起こしをして,活字で読めるようにしたいと考えています。

 以上,第2回日本・バスク国際セミナーを無事に終えることができたのも,偏にゲストのみなさんのご尽力のお蔭である,と信じて疑いません。その意味で,まずは,貢献してくださったゲストのみなさんにお礼と感謝の気持をこめて,このブログを書くことにしました。

 まずは,ゲスト参加のみなさん,ありがとうございました。
 こころから,こころからお礼を申し上げます。
 もう一度,ありがとうございました。


2012年8月4日土曜日

第2回バスク・日本国際セミナーでの基調講演の草案をねる。

 いよいよ8月6日(月)からはじまる第2回バスク・日本国際セミナーが目の前に迫ってきた。いまさらどたばたしたところではじまらないことではあるが,やはり,なにか落ち着かない。なぜなら,6日のオープニングの今福龍太氏の特別記念講演のあと,バスク側の代表者であるピエール・パルレバ氏による基調講演が予定されていたのだが,氏の都合で欠席,そのあと,わたしも基調講演をやることになっている。ということは,今福氏につづいての講演となる。しかも,初日のプログラムはそれで終わりである。

 講演内容については,もうすでに発表抄録集『グローバリゼーションと伝統スポーツ』(神戸市外国語大学・バスク大学第2回国際セミナー実行委員会,2012年)に全文掲載されているので,それを変えるわけにはいかない。しかし,この抄録集の原稿は,じつは,2010年のはじめころに書いたものである。しかも,大急ぎで書き上げて締め切りに合わせ,ゲラの段階で推敲するつもりでいた。しかし,諸般の関係から,ゲラの推敲なしに,いきなり印刷・製本されてしまった。したがって,あとで手を入れるつもりで書いた部分もそのまま剥き出しになっている。たとえば,「主要参考文献一覧」である。

 この発表原稿を書き上げてから印刷・製本されるまでの間に,問題の「3・11」があった。この「3・11」は,わたしにとってはそれまでの研究者としてのスタンスを大きくゆるがす事件であった。だから,当然のことながら,考え方も大きく変化せざるをえなかった。いま,読み返してみると,あちこち直したいところがあって,なんとなく恥ずかしい。でも,いまとなっては,この抄録を軸にして講演を組み立てるしかない。できることは口頭で若干の修正を試みるだけだ。

 講演の時間は1時間30分。通訳付きの講演なので,実際にわたしが話す時間はその半分。つまり,45分。400字詰め原稿用紙にして,約30枚程度(ゆっくり読み上げたとして)。抄録集に書いた原稿の分量は,約60枚ほど。さあ,これを半分に縮めなくてはならない。いまから30枚の抜粋原稿を作成するだけの余裕もない。気持ちが焦っているときは文章は書けない。書くとろくなものにならない。経験的によく知っている。とくに,わたしの場合は。

 では,どうするか。抄録集は事前に配布されているので,みんな読んでくることが前提になっている。しかも,この抄録集はよくできていて,日本語原稿にはスペイン語訳が,そして,スペイン語原稿には日本語訳がついている。だから,間違いなくみんな読んできているに違いない。だとすれば,抄録集の原稿を,その骨格となる部分だけをピックアップして,読み上げていく,という方法がある。それに若干の補充をしていけば,それなりの体裁はととのう。でも,それにはいささか躊躇してしまう。

 わたしの講演のタイトルは「スポーツのグローバリゼーションにみる<功>と<罪>」──伝統スポーツの存在理由を問う,というものである。いま,読み返してみると,サブタイトルの「伝統スポーツの存在理由を問う」というところに力点があるようにおもう。そして,メイン・タイトルのなかの<功>と<罪>についてはほとんど論じられていない。なぜなら,なにが<功>で,なにが<罪>なのかという線引きはしない方がいいという判断があったからである。つまり,このような二項対立的な思考方法,論理の構築の仕方そのものが,なにを隠そう近代の生み出したものであり,グローバル化の原動力となったものであるからだ。

 そこをちょっとずらして,「伝統スポーツの存在理由を問う」というところに比重をおいている。伝統スポーツはなぜ存在し,いまも伝承されているのか,という点についてはかなりしつこく追い込んでいる。ここは大事にしたいところ。

 話しの中核はどうやら,スポーツの起源,つまり,伝統スポーツの起源を問うことにあるようだ(と,自分の書いた文章を読み取っている。なにせ,ずいぶん昔に書いたものなので)。となると,その問いは,ヒトが人間になるときになにが起きたのか,というもっとも根源的な問いに到達することになる。ヒトが人間になったがゆえに,人間は「スポーツ的なるもの」を必要とした。しかも,祝祭的な時空間という非日常的な「聖なる」時空間を設定して。では,なぜ,そのようなことが必要とされたのか。人間は「スポーツ的なるもの」なしには生きていかれない動物となったからだ。そして,その経緯をしつこく追っている。とりわけ,バタイユの理論仮説を借りて。

 この発表抄録原稿はいつかさらに手を加えて,しっかりとした読み物にして残しておきたいと思う。それほどに,部分的には,これまでに書いたことのない思考の深さをもっているし,論理の立て方も面白い内容となっている。自画自賛(笑い)。

 そろそろ字数を数えながら,抜粋原稿の作業にとりかかろう。
 なんとか無事に講演が終わるように。

2012年8月3日金曜日

復興予算が使われていないという。なのに,復興増税をいう野田君,頭は確かか。

インターネットをサーフしていたら,「エエッ,ほんと?」というような情報が飛び交っている。しかも,その情報源はひとつだけではない。あちこちのメディアが一斉にとりあげている。多少,怪しい情報もないわけではないが,総じて同じ主張をしている。

たとえば,こうだ。復興予算が使われないまま残っている,という。復興予算(2011年度計上分)の15兆円が使い切れず,余らせている,と。その額,復興予算の約4割に相当する6兆円。国の一般会計予算でも約2兆円の「余り」がでている,という。

さらに斬り込んだ情報には以下のようなものがある。
「復興用の予算からシーシェパード対策費に5億円が使われていた」(「週刊ポスト」)
「復興予算から107億円が核融合エネルギー研究に拠出されていた」(「週刊ポスト」)

この107億円は,独立行政法人・日本原子力研究開発機構に拠出されたものだという。この法人は,文部科学省や会計監査院からの天下りの多いところとしてよく知られている。まさに,原子力ムラの中心的役割をはたしているところだ。この107億円のうち65億円は除染と廃炉の研究などに使われ,残りの42億円は「国際熱核実験炉計画」(イーター計画)の研究開発,設備費用に使われる,という。(福島ひとみ+「週刊ポスト」取材班)。

こんなことがまかりとおっているとしたら,とんでもない話だ。東日本大震災からの復興については,議論がいつも交錯していてややこしいのは事実だ。しかし,どこまでも,地震+津波による被害からの「復興」とフクシマの原発による汚染からの「復興」とは分けて考えないと,訳がわからなくなってしまう。だから,復興予算も別会計にしないと,その使用目的がわからなくなってしまう。そのドサクサにまぎれて,独立行政法人・日本原子力研究開発機構のような権力に直結した機関が予算を横取りしてしまうことになる。そして,その分,東北地方の被災地の「復興」が置き去りにされてしまう。

第一,予算を消化できない,ということはどういうことなのか。15兆円のうち約4割に相当する6兆円が余ったままだというのだ。これだけのカネがあれば,相当大規模の「復興」ができるはずなのに。しかも,そのカネを必要としている人が山ほどいるというのに。日本の復興行政はいったいなにをやっているのか。とにかく,フットワークが悪い。

「復興庁」の発足ですら震災後11カ月を要した。記録をみると,関東大震災のときには「26日後」にはその体勢を整えている。そして,恐るべき速さで「復興」の槌音が鳴り響いた,とある。なのに,いまもなお仮説住宅から身動きすらできずに,「蛇の生殺し」のような生活を強いられている人たちが何万人といるのだ。なぜ,この人たちに復興予算を配分することができないのか。そして,使い余したままでいるのか。

しかも,「復興予算15兆円のうち約6兆円が使われず,1兆円は各省庁に分配する」(「ガジェット通信」)などという情報もある。

こういうことをインターネットで調べていくと,つぎからつぎへと,信じられないことが「復興」という名のもとで,平然となされている。

復興増税は,まさに,その最たるものだ。
このドサクサにまぎれて,これまでできなかったことを全部やってしまおうという,見え透いた悪政が丸見えになってきた。いよいよ,野田君に引導を渡すときがきた,ということのようだ。

恐ろしいことが,つぎつぎに行われている。
まるで,オリンピックを隠れ蓑にするかのように。

2012年8月2日木曜日

いよいよ,第2回バスク・日本国際セミナーの開催日が迫ってくる。緊張。

 連日の猛暑と闘い,日常の雑務にまぎれているうちに,いつのまにか今日はすでに8月2日(木)。ずっとさきのことだと思っていた第2回バスク・日本国際セミナーの開催日がもうすぐそこに迫ってきている。そのことに気づいた瞬間に緊張がはしる。テーマは「グローバリゼーションと伝統スポーツ」。

 8月6日(月)から4日間,9日まで,そして朝から夕刻までびっしりのスケジュールで第2回バスク・日本国際セミナーが開催される。精確には,バスク大学と神戸市外国語大学の姉妹大学協定にもとづく国際セミナー。実行委員会委員長は竹谷和之教授(神戸市外大)。長年にわたってバスクの伝統スポーツをメインの研究テーマにして取り組んできた日本を代表する研究者だ。そのかれと,バスク大学のホセバ教授との熱い友情の結果として,この国際セミナーの企画が誕生した。第1回目は,5年前,バスク大学主催(実行委員長はホセバ教授)で開催された。

 本来ならば,4年後に開催という約束だったので,昨年開催するつもりで準備を進めていた。しかし,あの「3・11」後のフクシマの問題もあって,1年延期してことしの開催となった。折しも,セミナー初日の8月6日はナガサキの日,セミナー最終日の8月9日はヒロシマの日。偶然とはいえ,フクシマのあとの国際セミナー開催日としては最高のお膳立て。やはり,日本からの発信メッセージは,原爆と原発を抜きには語れないということか。

 この国際セミナーの目玉は四つある。
 一つは,セミナーのオープニングを飾る文化人類学者・今福龍太氏の特別講演である。
 二つめは,能面アーティスト柏木裕美氏の作品展示と制作実演である。
 三つめは,李自力老師による太極拳のワークショップである。
 四つめは,セミナーの締めくくりとしての思想・哲学の西谷修氏の特別講演である。

 今福龍太氏の特別講演のテーマは「近代スポーツ科学に抗うローカル・ハビトゥス」。伝統スポーツを問うためには不可欠のピン・ポイントの視点だと思う。この視点から,今福氏がどのような論理を展開されるのか,いまからとても楽しみである。文化人類学者として,アカデミックに認知されてきたいわゆる参与観察という方法に疑問を投げかけ,その壁をひとつ越えたところの,フィールドにじかに触れるための参加観察を提案し,実践してきた人の問題提起として,わたしはいまからわくわくしながら楽しみにしている。ローカル・ハビトゥスをこんごどのように温存していくのか,21世紀を生きるわたしたちにとってきわめて重大な視点を提示してくれるのではないか,という期待でいっぱいである。

 柏木裕美氏はこんにちの能面作家のうちでも特異な存在としていまもっとも注目を集めているアーティストのひとりである。それは,伝統面の制作の枠組みに閉じこめられることを拒否し,伝統面を尊重しつつ,さらに,自由奔放な能面制作の世界にその作品の幅を広げているからである。それは,ひとくちで言ってしまえば,伝統面の制作と,現代人を能面に写し取る制作と,小面を百変化させる制作と,能面の様式を守りつつアヴァンギャルドの世界に飛び出す制作の四つの分野にわたっている。さらに,追加しておけば,最近では能面の絵を描き,その世界を文章化することにも意欲的に取り組んでいる。だから,この人の作品は見るだけで楽しい。しかも,今回はその制作現場を実演してみせてくれるというのだから,贅沢な話である。

 李自力老師は,日本武術太極拳連盟のナショナル・チームのコーチとして,長年にわたり日本に滞在し,日本の太極拳の普及に大きな貢献をしている方である。のみならず,『日中太極拳交流史の研究』で博士号を取得された文武両道の人でもある。温厚な人柄と,高度な太極拳の表演能力(現代の名人と言われている)と,そして優れた指導力によって,太極拳の世界では大きな信頼を獲得されている方である。いま,太極拳の世界のトップに立つ李老師のワークショップがこのセミナーのプログラムのなかに組まれていることの意味は重大である。そして,冒頭では,李自力老師と一緒に,西谷修,三井悦子,稲垣正浩の3人が加わって24式太極拳の表演が行われる。さらに,最後のところで,楊式太極拳の表演が李老師によって行われる。これは必見である。

 最後の西谷修氏の特別講演のテーマは「グローバル化と身体の行方」である。これまたとてつもなく大きな,そして重いテーマでの講演である。わたしたちはいま,否応なくグローバル化が進展するなかで生きている。ということは,好むと好まざるとに関係なく,わたしたちの身体は無意識のうちに変化・変容させられるとういうことだ。しかし,そのことにわたしたちは無抵抗でいるだけでは済まされないだろう。必ずや,ローカル・ハビトゥスとしての,たとえば,伝統スポーツが身体のグローバル化には抗うことになるだろう。というように考えてくると,オープニングの今福龍太氏の講演と,エンディングの締めくくりの西谷修氏の講演は,みごとに呼応し合うことになる。まさに,このセミナーの全体テーマの「クローバリゼーションと伝統スポーツ」の収めの講演として,きわめて重要な意味をもつことになる。その意味で,わたしはいまからワクワクしている。

 この今福龍太氏と西谷修氏の講演の間に,日本側から10題,バスク側から10題の研究発表とディスカッションが用意されている。さて,どんな展開が待っていることだろうか。興味津々である。

 バスクの研究者は,1日に第一グループが,今日2日に第二グループが日本に到着している。そして,明日から神戸を中心とした各地の伝統スポーツのフィールド・ワークを開始する。竹谷教授やその周辺のサポーターは大変な仕事が待っている。でも,すでに準備は万端怠りなく進んでいるので,心配はないと思う。

 そろそろ,わたしもスイッチを入れてこのセミナーに備えなくてはならない。まずは,すでにできあがっている膨大な「発表抄録集」を読み込んでおかなくてはならない。明日からは,第2回バスク・日本国際セミナーに突入である。そのさきに待っているものはなにか。真剣勝負である。その真剣さが,つぎの展開を導き出すと信じて進む以外にはない。だから,楽しいのだ。

 それこそが,バスクと日本の架け橋を築く基となるべきものだから。

イタリアのモデナから娘の友人ミケーラ(女性),来遊。ボーイ・フレンドを連れて。

 7月30日(月)・31日(火)の二日間,東京に滞在するというメールが少し前にイタリアからとどいていた。そのあとは関西方面に旅にでるという。日本にはもう何回もきているので,東京での案内は不要ですという。では,二晩の夕食を一緒にしましょう,と約束。

 ミケーラ。ヴェネツィア大学で日本語・日本文学を専攻した女性なので,日本語はまったく不自由しない。でも,長い間,使っていないので忘れてしまった,と本人は笑う。

 2003年に,わたしがドイツ・スポーツ大学ケルンの客員教授をしていた夏に,彼女の住んでいるイタリアのモデナを家族で尋ねたことがある。このときには,彼女はわざわざ休暇をとって,いわゆる旅行客では行かれないところに車を運転して案内してくれた。しかも,行くさきざきの親戚の家にも立ち寄ったりして。どこに行っても熱烈に歓迎してくれた。

 もともとは娘の友達。娘がまだ学生だったころ,ミケーラも学生さんだった。そのころに,二人は鹿児島から沖縄行きのフェリーに乗り合わせ,その船の上で知り合い,すっかり意気投合して仲良しになった。以後,お互いに連絡を取り合いながら,楽しい交流をつづけている。

 今回はボーイ・フレンドを連れて日本にやってきた。名前はマルコ。マルコといえば,すぐにヴェネツィアのサン・マルコ広場を思い出す。聞いてみると,音楽学校の先生をしているという。日本に興味があって,ミケーラが教えている日本語学校に通い,そこで知り合い,仲良しになったとのこと。ミケーラよりはかなり若い青年。でも,なかなかのいい男。わたしたちの話す日本語にも一生懸命に耳を傾け,ときどきわかるらしくて大きくうなづく。わからないところはミケーラに説明を求めている。それで,もう,最初からすっかり打ち解けた会話がはずむ。

 話題は,ご両親やお姉さん家族のことからはじまって,やはり,この間の大きな地震の話になる。彼女の住んでいる町はモデナ。ボローニャのやや北にある古い町。たしか,ボローニャまでは汽車で30分くらいだったと記憶する。モデナの旧市街には,むかしながらの古い石造の教会やそれに関連する建物がたくさんある。しかも,わたしの記憶では,そのほとんどが傾いている(イタリアの古い町の建物はほとんどが傾いている)。そして,ボローニャの古い町並みの建物の多くも傾いている。ピサの斜塔しか知らなかったわたしは,イタリアの古い町に入ると,どこの塔もほとんど間違いなく傾いているのをみて驚いた。

 ミケーラが学んだ大学のあるヴェネツィアには,傾いた塔が数えきれないほどある。だから,イタリアに大きな地震が襲ったと聞いて,まっさきにわたしの脳裏に浮かんだのは,あの傾いた塔は大丈夫だったのだろうか,というものだった。しかし,それらの塔は昨日や今日つくられたものではない。すでに,1000年近くもの長い間,立っているのである。だから,そうそう簡単には倒れないのだそうだ。だから,市民もなんの不安もなく暮らしている。日本では考えられないような光景である。

 かなり詳しく,イタリアの各地の危なそうな建物について尋ねてみたところ,そういう文化遺産的な建物はほとんど大丈夫だったという。それよりも,ミケーラの住んでいるマンションの壁にはあちこちヒビが入り,修復にたいへんだったとのこと。近代建築の方が地震には弱いということなのか。石造の古い建物は意外に地震に強いらしい。力を吸収してしまうからなのだろうか。

 地震の被害が大きかったのは,モデナからもボローニャからもほぼ30キロほど離れたところの地域が集中的にやられてしまったとのこと。そこは,ほとんどの建物が崩れ落ちてしまい,多くの死者もでたという。壊滅的な被害が,そういう特定の局地を襲ったのだ。

 そして,こんどは日本の東日本大震災の話になる。地震の被害については,イタリアではほとんど情報が流れることなく,あの大津波の映像がくり返し流れたとのこと。その点は日本国内でも同じだった,と説明。つづいて,フクシマの爆発の映像が最初から流れていて,とても緊張したという。しかし,われわれは最初のうちは知らされていなかったので,ぼんやりしていたと話す。しかし,徐々に情報が流れるようになり,東京脱出をした人も少なくない,とくに,外国人は早々に引き上げた人が多かった,と。

 そうして行きつくところは,どうしてもフクシマの話。こちらは半永久的に解決しない,困ったものだとわたし。日本人は賢いから必ず乗り越えていくとミケーラ。いやいや,最近の日本人はあまり賢くない人が権力の中枢に大勢いて,その人たちに振り回されているから,そこから抜け出すことが大きな課題だ,と話す。それには政治の流れを変えるしかない,と。イタリアの政治もひどいものだ,とミケーラ。政治はどうしてこんなにヤクザな人ばかりが屯すことになったのだろうね,とお互いに笑う。

 といったような話をしてお別れ。あとは,関西方面(京都,大阪,奈良,そして広島)を旅して,帰路,できれば白川郷を尋ねる予定だ,という。時間がかかるよ,と話すと二日を充てている,とすでに調べつくしている。それなら大丈夫。帰りは一直線に成田にもどって,イタリアに飛ぶとのこと。

 では,次回はイタリアで逢おうと約束。
 久しぶりに楽しい夕べが二日もつづいた。
 そして,地震の話題から政治の話題まで,さらには,これからの世界にとって大事なことはなにか,まで広がり,いい時間を過ごすことができた。お互いにとてもいい思い出になったと思う。こうなったら,イタリア語の勉強でもはじめて,準備にとりかかろうか。そんな夢でもみていないと,いまの日本を生きていくのはつらい。この困難な情況から一刻も早く抜け出す手筈を,本気で考えなくてはいけない,としみじみ思う。