2012年1月19日木曜日

「肩関節をゆるめなさい」・李自力老師語録・その1.

ことしの正月から,大岡山でやっていた稽古を溝の口に移して,昨日(18日)で3回目。中国からもどったばかりの李老師が,ふらりと顔をみせてくださった。すっかりもたれ掛かろうと思ったら,いつものように稽古をはじめなさい,と仰る。仕方がないので,わたしが音頭をとることに。李老師はわたしの指示どおりに準備体操から柔軟運動,基本の動作練習と,わたしの見えない位置に立ち,黙々と稽古をはじめる。わたしはもとより,みんな緊張しているのがわかる。お互いにとても親しい間柄なのに,なんともいえない緊張感がつたわってくる。これが実にいい。

基本の動作練習の途中くらいから,李老師が,みんなの見える位置に移動してきて,率先垂範してくださる。いつものことだが,李老師は,口で説明する前に必ずみずからやってみせてくださる。その上で,最小必要限度のことをピン・ポイントで指摘してくださる。

いつものとおりに,24式が終わったところで,李老師から二つのご指摘をいただいた。
一つは,肩関節をゆるめること。もう一つは,上体を腰の回転の上に乗せること。

いずれも基本中の基本だ。もう,何年,稽古をつづけていることだろう。にもかかわらず,この基本がまだできていないのだ。自分ではできているつもりなのに。情けない。

ただ,「股関節をゆるめなさい」ということばは耳にタコができるほど言われてきたので,ことばとしては理解していたし,その努力をしてきたつもりである。しかし,「肩関節をゆるめなさい」は初耳だった。だから「えっ?」とわが耳を疑った。肩関節をゆるめる,とはどういうことなのか,イメージができない。イメージがつかめない運動はできない。李老師が何回もやってくださる。が,わたしの眼には見えない。みんな真剣だ。わたしの見ているかぎりでは,Nさんの動きが李老師のそれによく似ている。しかし,わたしのそれはまったくダメだ。どこかギクシャクしている。が,Nさんの動きはとてもなめらかなのだ。うーん,とこころの中で唸ってしまう。

半信半疑のまま,何回も見よう見まねのままくり返していると,「そう,そう」と李老師は励ましのことばをかけてくださる。しかし,やっている本人はなにもわかってはいない。かえって困ってしまう。褒められても納得できないのだから。

稽古が終わって,昼食をともにして,解散。鷺沼の事務所にきてから,ドアのガラス部分に映るわが姿を見ながら,「肩関節をゆるめる」のおさらいをする。何回もやってみるが,やはり,わからない。ダメだ,わからないことを何回もやっても仕方がない,と諦めたとき,ストンと肩関節がはずれたようにゆるんだ。えっ,いまのはなに?そうか,はずすんだ,と納得。わたしの身体感覚では,ゆるめるではなくて,はずす,だった。なるほど,肩関節をはずしてやると肘が自然に下がってくる。すると,手首からさきの掌が自然に顔の方に近づいてくる。ゆるめる(はずす)ことによって起こる自然の動きを引き出すこと,ここがポイントなのだ。

どうも,自分で動かそうとする意識が強すぎたらしい。李老師にそっくり真似てやろうとすればするほど,違うものになっていく。そうではなくて,「ゆるめる」ことによって起こる,ごく自然の動きが大事なのだ。そういう動きが立ち現れるように「ゆるめる」(はずす)こと。あとは腕に聞いてくれ,とばかりに力学の法則に委ねてしまうこと。そのさきに,李老師の,柔らかく,粘り強く,そして,力強さまで感じられる動きが待っている(らしい)。

すっかり気をよくして,事務所の片づけ仕事をしていたら,そこに李老師から電話が入る。ちょっと用事があって鷺沼に行くので,事務所に立ち寄っていいか,と仰る。ちょうど,コーヒー・タイムにしようと思っていたところなので,大歓迎。ここで,またまた,太極拳の話になり,とても貴重なお話を伺うことになった。その話は,独り占めにしていたのでは申し訳ないので,このつぎのブログに書くことにしよう。まことに奥の深い,味わい深い話で,わたしとしては大満足。

結論をちょっとだけ言っておけば,タオイズムと道元の思想の接点のようなお話である。

では,次回を楽しみに。

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