2011年12月31日土曜日

この一年を振り返って。露呈した日本のありのままの姿に茫然。

いよいよ,ことしも暮れていく。なにがあっても時間は過ぎていく。待ったなし,だ。年々歳々,人はむかしから,こんな風にして生きのびてきたのだろうか,と不思議な気さえする。でも,それが現実であり,ありのままの人間の生きる姿なのであろう,とも思う。

それにしても,この一年は,いつもとはまったく異なる年だった。しかも,ショックだった。もちろん「3・11」がその引き金になっていることは事実だが,それによって露呈してきた,あまりにも不甲斐ない日本という国を動かしている人びとの,犯罪にも等しい「無責任」体制を目の前にしたショックだ。おそらく,この感慨はわたしひとりだけのものではないだろう。

その一方では,哀しみを内に秘めて被災から立ち直るべく渾身の努力をつづけている人びとがいる。その人びとに,貧者の一灯をともすべく義援金を投じた人びとも少なくない。そして,いまもなお,フクシマでは線量計とにらめっこしながら,被曝覚悟で仕事に取り組む人たちがいる。さまざまなボランティア活動に新たな可能性を見出そうと踏ん張っている人たちもいる。なにもできないが,せめて,デモの行進に身を投じて,ささやかな意志表明をしようという人たちもいる。いろいろの人たちが身を寄せ合って,なんとかしてこの難局を乗り切ろうと必死に頑張っている。こちらに眼を向けると,日本も捨てたものではないなぁ,とも思う。

わたしも,ささやかながら,デモにも参加し,現地にも立ち,「3・11」をめぐる発言(講演,シンポ,など)もしてきた。そして,多くの人びとが,もっともっと積極的な意志表明をつづけている。新聞などのアンケート調査によれば,約7割の人が「原発推進」に反対しているというのに,日本を動かす立場にある人たちは,そういう国民の意志を無視して,原子力ムラの住民としての姿勢を崩さない。それどころか,アメリカの「いいなり」だ。

沖縄のアメリカ軍の基地移転問題も,「評価書」搬入に典型的に現れているように,一方的な押しつけをして頬被り。これでボールは投げた。あとは,打者の問題だ,と言わぬばかりに(アメリカに向けての体裁づくり)。敗戦後,すでに70年になろうとしているのに,わたしたちは,いまだにアメリカの軍事基地を沖縄県民に押しつけたままである。せめて県外移設を,という沖縄県民の意志(悲願というべきか)を,どうして酌み取ることができないのか。

「評価書」搬入が大きなニュースになりかけたところに,消費税の増税をタイミングよく打ち上げ,あっという間に「評価書」問題はニュースから消えてしまった。そして,正月を過ぎたころには,本土の人びとの意識からも消えてしまうだろう。こんなことの繰り返しばかりだ。こうして,沖縄だけは,ずっと「継子」扱いにされてきた。もっとも過酷な軍事基地を70年近くも背負わせて。

復興という,だれも否定できない大看板をかかげて,政府民主党は,かつての自民党政権ですらできなかったことを平気でやり通そうとしている。政権交代の大義名分はどこに行ってしまったのか。わたしたち選挙民の意志は,いつのまに「手品」のようにすり替えられてしまったのか。こんな政治をやっていいとはだれも認めてはいない(原子力ムラの住民を除いて)。

沖縄もフクシマもTPPも,みんな「復興」という大義名分のもとに,わたしたち国民はいいように翻弄されている。まさに,「眼くらまし」状態だ。そこから一刻も早く目覚めなくては・・・・と焦るばかり。

来年こそは,正念場だ。アメリカのいいなりになっている政府民主党の思考や眼を,そうではない,と声を大にして叫び,わたしたち国民に向けさせなくてはならない。これができなかったら,日本という国に夢も希望もなくなってしまう。そういう大転換期だ,とわたしは覚悟している。

なにはともあれ,ことしとの別れを惜しみつつも,来年に向けて身もこころも一新して,新たなスタートを切りたいものである。

みなさんも,よい新年をお迎えくだい。

2011年12月30日金曜日

「3・11」の政治利用に励む政府・民主党に絶望。つまりは,原子力ムラの住民たちの思うまま。

とうとう消費税の増税に踏み切った民主党。政権交代の志はどこに行ってしまったのだろう。これでは国民を騙し討ちにしたのも同然だ。こんなことがまかりとおるとなれば,上(かみ)から下(しも)まで,なんでもあり,が大手を振って歩くようになる。若者たちだって,政治に失望するどころか,まじめに努力する意欲を失ってしまう。うまいこと,めくらましをかまして,その場をやりすごせばいい,そういう風潮が世の中にひろまっていく。

この一年を振り返って,わたしは日本という国に失望している。いや,絶望していると言った方がよさそうだ。とりわけ,「3・11」以後の政府与党を筆頭に,野党である自民党,その他の政党も全部ひっくるめて,日本には骨のある政治家がいなくなってしまった,と。だれも責任をとろうとはしない。いざとなると,みんな逃げてしまう。調子のいいところにはしゃしゃり出てくるが,都合が悪くなるとどこかに雲隠れ。「3・11」以後の日本の運命を担った政治家,財界人,官僚,学者,メディア,みんな揃って,なんだか夜盗の集団ではないか,とさえ思う。

信頼して乗り換えた『東京新聞』ですら,今日の朝刊のどこを探してみても,沖縄の米軍普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設に向けた環境影響評価(アセスメント)の評価書をめぐる情報はどこにもない。みごとに政府の放った「めくらまし」(大相撲でいう「猫だまし」)にひっかかってしまったのだ。これでは政府の思うツボだ。もう,どうにも身動きできなくなって,無理やり送り届けた「評価書」問題で,沖縄の人びとは暮れも正月もなく,怒りに燃えている(という情報がわたしのところには届いている)。ヤマトンチュウの心ある人びともまた,政府のあまりに一方的なやり方に対して,怒りに燃えている。少なくとも,多くのヤマトンチュウは,こんなことをしていていいのか,と批判的になっているはずだ。

そこに,じつに,タイミングよく消費税の増税を民主党として決定した,という情報である。この情報にみごとに塗りつぶされて,あっという間に,沖縄の「評価書」の問題が,人びとの意識から霞んでいってしまう。これも政治の戦略のひとつだそうだ。つまり,計算しつくした戦略なのだ。だから,なおのこと腹立たしい。

ことほど左様に,フクシマ問題に関する情報も一休みしてしまう。これで,当分の間,消費税の増税問題でメディアを占領することができる,それだけで十分だ,と民主党も政府も「ニンマリ」していることだろう。しかも,「議員削減などの3条件」付きなので,この増税案の実現はほとんど不可能になったともいわれている。だとすれば,単なる時間つぶし,ということになる。なんのための?そう,フクシマ問題をぼやかすための。

つい,昨日のニュースに,福島第一原発では「20年前にも事故」があった,と東電が発表した,というものがあった。これの詳しい情報が知りたい。にもかかわらず,これもまた「増税」でもみ消しにされてしまった。

なにを隠そう,この増税案だって,フクシマの事後処理もふくめ,東日本大震災の「復興」のためという大義名分を立てた「めくらまし」にすぎない。こうして,いま,一番喜んでいるのは「東電」さまである。話題ができるだけ,あちこちに散ってくれた方がいい。その影に隠れるようにして,つぎなる「手」を考えていればいい。

わたしは不思議でならない。「3・11」から9カ月が優に過ぎたというのに,つまり,福島第一原発が暴走をはじめて,大変なことになっているのに,東電の担当者のだれひとりとして「わたしが間違っていました」と名乗りでる人がいないことだ。あるいは,事故原因を,ここまで「ごまかし」つづけていて平然としていられる,その神経に。しかも,われわれは間違ってはいなかった,と居直ってさえいる。恐るべき神経の持ち主たちである。

にもかかわらず,政府は東電の国有化を考えている,という。このまま,丸抱えで。とんでもない。もし,国有化するのであれば,まずは,東電という会社を破産させて(すでに,破産しているのだから),会社更生法にかけて,人心を一新した上で国有化すべきではないのか。

それすらも,しようとはしない。なぜか。原子力ムラの住民が許さないから。つまり,いまや,政府与党など,どこ吹く風とばかりに,一致団結して,自分たちの利権を守り抜くために全力をそそいでいるから。それほどに,東電が長年にわたって,ばらまきつづけてきた「贈与」の恩恵にあずかってきた人びとの勢力は大きいということなのだ。「贈与」という名の「わいろ」,これすらメディアは報道しようとはしない。なぜなら,メディアもまた,東電の「贈与」の恩恵にあずかってきた主流派なのだから。

断っておくが,「贈与」とは,英語では Gift という。この Gift には「毒」という意味もある。「贈与」をいただくということは,同時に「毒」もいただくことになる。長年にわたっていただきつづけた「贈与」の中の「毒」が,いまや,全身にまわってしまっていて,もはや,身動きできないほどの「重体」になってしまっている・・・・。そのことに,原子力ムラの住民たちは気づいているのだろうか。

いまもなお,東大医学部の某助教授(新聞記事なので実名を挙げてもいいのだが)は,朝日新聞社とガン対策協会との共同主催による講演会に招かれて,放射能による汚染は大したことではない,と学校の子どもたちに向けて,もっともらしい話を聞かせている,という(詳しくは,能面アーティスト柏木裕美さんのブログを参照のこと)。

まだまだ,いい足りないことがたくさんあるが,この一年は,国の中枢を形成している人たちが,これほどまでに「嘘つき」であったのか,ということを思い知らされた一年でもあった。このことは,悲しいどころか,情けない。半信半疑ながらも,国の中枢にいる人びとは,もう少し,しっかりしている人びとだと信じていた。しかし,そんなイメージはどこかにすっ飛んでしまっている。それどころか,あちこちに火を点けてまわって,問題の本質をぼやかすことばかりに奔走しているかのようだ。その総仕上げをドジョウ総理はめざしているようにみえて仕方がない。

これでは,沖縄の人びとも,避難生活を余儀なくされている被災者のみなさんも,永遠に救われない。消費税の増税問題は,わたしたちが,いま,真っ正面に据えて考えなければならない「本質」を,いかに逸らし,隠すために放たれた絶妙な一矢なのだ。

わたしたちは,東日本大震災復興のために,という旗振りの影に沖縄の「評価書」問題が隠蔽されようとしている,という事実を忘れてはならない。

「3・11」以後,多くの日本人が賢くなった,とわたしは信じたい。これだけ騙されつづけてきたのだから。これからは,しっかりとしたアンテナを立てて,騙されないようにみずからの身を守るしかない。国はなにもしてはくれない。情けないが,それが現実だ。

来年からは,そこを起点にして出発したい。いよいよ,ことしのどん詰まりを迎えて,自戒を籠めて,こころからそう思う。

〔追記〕
原子力ムラのいいなりになるということは,じつは,アメリカのいいなりになる,ということでもあります。併せてお考えいただければ幸いです。

2011年12月29日木曜日

カズオ・イシグロが『わたしを離さないで』に仕掛けた2重3重の罠を読み解く。

少し前に,映画『わたしを離さないで』のDVD版についての短い評を書いてくれ,という依頼があった。その評の冒頭に「出自の明らかでない子どもたち」と書いたところ,この映画に登場する子どもたちはみんなクローンなので,この書き出しは誤解を招きやすいから一考を要す,という編集者からのコメントが入った。

わたしの記憶では,カズオ・イシグロは原作の小説でも,そして,この映画でも,この子どもたちがクローンであるとは断言してはいない,そう思わせる描写はあるが・・・・,というものであった。だから,驚いて,もう一度,急いでDVDを見なおしてみた。映画の方は,小説よりもはるかにメッセージ性を鮮明にさせ,このストーリーのふところの深さをわかりやすく前面に押し出す手法をとっている(優れたシナリオになっていると思う)。

しかし,再度,確認した結果でも,わたしの記憶どおり,この子どもたちがクローンであるとは断定していない。この子どもたちが成長していく途上で,自分たちの「オリジナル」探しをする話が,映画の中盤のひとつの山場をなしている。その場面では,彼ら自身がみんなクローンではないかという「噂」を信じている様子が描かれている。しかし,その一方では,その「噂」を信じたくないという葛藤も描かれている。けれども,彼らがクローンであるという断定は,どこにもない。

カズオ・イシグロが,この映画のなかに仕掛けた重要な罠のひとつは,この「噂」をめぐる問題系にある,とわたしは受け止めている。それが太い柱となってこの映画を構成するテーマとなっている,と。そして,「噂」というものが,いかに,根拠のない,あいまいなものであるか,いかに,人間はこの「噂」を信じやすいか,騙されやすいか,ということをカズオ・イシグロはこの映画のなかで,きわめて念入りに2重3重に仕掛けている,とわたしは読み解く。ここを見落としたら,この映画の大半は意味を失ってしまう,とすら考えている。

人間は幻想なしには生きてはいけない。いい悪いは別にして,人間は,自分にとって都合のいい,あるいは,納得しやすい幻想は,いとも簡単に信じてしまう。そして,その幻想を大事に温めながら,それに依拠して生きていく。人間にとって,ある種の幻想はきわめて大事なのである。と同時にきわめて危険でもあるのだ。だから,この幻想を,権力者たちは巧みに操る。「噂」はその最たるものだ。

この幻想が,厳しい現実の前でもろくも崩れ落ちていく,それがこの映画のラスト・シーンのクライマックスになっていることは,だれの眼にも明らかだろう。真実の愛が証明されれば恋人同士の延命が,ほんの2~3年とはいえ認められるらしいという「噂」を信じて,トミーとキャシー・Hはその嘆願にでかける。が,そんなものはない,単なる「噂」に過ぎなかったということを知って,その帰途,原野の闇夜に向かって「絶叫」するトミー,その絶望を共有しようとするキャシー・Hとがひしと抱き合いながらも,膝から崩れ落ちていくトミー,それを支えきれないキャシー・H。じつに象徴的なシーンである。

じつは,ここに到達するまでには,いくつもの伏線がこの映画のなかには埋め込まれている。冒頭にでてくる「噂」は,子どもたちの生活の場であり,学びの場である「囲い込まれた」敷地の<外>にでると,生きては戻れない,という「噂」をすべての子どもたちが信じて疑わない,という場面だ。ボール遊びをしていて,敷地の囲いの近くまで転がっていったボールを,だれひとりとして拾いには行こうとはしない。それをみていた新任の先生(女性)が,こどもたちに,なぜ,ボールを拾いに行かないのか,と問い詰めたときのこどもたちの応答がこれだった。「生きては帰れなくなる」という「噂」を信じて疑おうとはしない。

これは,彼らがものごころついたときからの「刷り込み」でもある。その「刷り込み」の最たるものが,将来は「臓器提供者」となるべき使命(ミッション)を,あなた方は背負っているのだ,というものだ。そして,この使命を疑おうともしない。教育というものの恐ろしさを思い知らされる場面だ。戦前の国民学校に入学したわたしは,将来は,「立派な兵隊さんになって,お国のために役立つこと=死ぬ」ことを信じて疑おうとはしなかった。その記憶がまざまざと蘇ってきた場面である。映画のなかの校長先生(女性)のみごとな説話(毎朝,行われている)の語り口。凛とした,あの威厳に満ちた姿勢は,こどもたちをその気にさせる恐るべき力をもっている。

言ってしまえば,意図的・計画的な「洗脳」教育がここではみごとに実践されているのである。このことの恐ろしさは,わたしたち大人でさえ「原発安全神話」を信じ込まされてきた経緯をとおして実証済みだ。こういう「噂」をテコにした「刷り込み」や「洗脳」は,あの手この手で,現実の世界のいたるところで行われている。それらの「怪情報」をいかにかいくぐって間違いのない人生を生きていくべきか,そのリテラシー教育さえ,まじめに議論されている時代だ。この情報化社会の空恐ろしい落とし穴だ。このことは,ここではひとまず,措くとしよう。

この映画は,わたしたち観客をも巻き込んで,この「噂」「刷り込み」「洗脳」を展開している。まずは,映画の冒頭の「DNA」という文字が全面に羅列された映像がつよくわたしたちの脳裏に刷り込まれていく。わたしたちの無意識のなかに「DNA」がスルリと入り込んでくる。しかも,科学の驚異的な発達の結果・・・・,という字幕も入る。これも,みごとなカズオ・イシグロの仕掛けた罠だ,とわたしは受け止めている。だから,映画の主人公たちがオリジナル探しをはじめると,もう,無意識のうちに「ああ,クローンなのだ」と観客のほとんどは,なんの疑いもなくそう思い込んでしまう。しかし,そう断定できる場面はどこにもない。

こうした,カズオ・イシグロの仕掛けた罠は,あちこちに仕掛けてあって,じつはきわめて複雑な構造をなしている。その一つひとつは,映画をみながら確認してみていただきたい。じつに手の込んだ,綿密な計算の上に成り立っていることがわかる。原作の小説はもっともっと精密に,しかも読者の想像力を無限にかき立てる力をもって,描写されている。

映画の方は,すでに,クローンを取り扱った映画だという「噂」は定着しつつある。しかも,完全なるフィクションであるにもかかわらず,さも,現実にありうる話であるかのようなリアリティをもってわたしたちに迫ってくる。しかも,過去の話としてクローンの問題を取り扱っている。しかし,それでもなお,クローンではない可能性をも想像させる仕掛けをカズオ・イシグロは,この映画のなかに埋め込んでいる。それがわたしの理解であり,感動なのだ。

クローン以外の,堕胎児や,捨て子や,場合によっては誘拐されたり,売買されたり,といった具合にして「出自が明らかでない子どもたち」である可能性も,十分に残されている。ヤン・ソギルの小説には,東南アジアのどこかを舞台にした少女たちの人身売買と臓器提供の裏社会を描いた作品がある。これもまた衝撃的な作品になっている。他方,イギリスとはいえ,「過去」の国策として「臓器提供者」を確保するという前提に立てば(つまり,フィクションとして),なにもクローンに限定しなくても(あるいは,クローンと見せかけることによって),「出自の明らかでない子どもたち」を掻き集めてきて「洗脳」することは,十分にリアリティを持ちうることになる。

ここまで想像力を働かせることを,カズオ・イシグロはこの映画のなかで仕掛けている,とわたしは読み解く。つまり,あらゆる想像力をかき立てるべく,さまざまな罠が仕掛けられている,と。また,その方がはるかに映画としてのふところの深さ,奥の深さが増してくる。あまりに,単純に,クローンだと決めつけることを,たくみにカズオ・イシグロは忌避している,とさえわたしは考えている。こうして,この映画の含みもつ空恐ろしさにわたしは襲われる。

だから,仮に,この子どもたちがクローンであったとしても,その「出自」(=オリジナル)が明らかでないことに変わりはない。ここまで,わたしは解釈した上で,「出自の明らかでない子どもたち」という文言を修正する必要はない,と結論を出した。そして,その結論だけをメールで,くだんの編集者に伝えた。編集者からは,わたしの評を読んだ某女流作家から「誤解を招く恐れあり」という指摘があったので,そのまま鵜呑みにして返してしまった,申し訳ない,わたしが確認をすべきことがらでした,という詫びのメールが返ってきた。

この問題については,わたしの敬愛してやまない,この編集者と膝を交えて,とことん議論をしてみたいと思っている。彼がどのようにこの映画を読み解いているのか,を。とりわけ,この映画を「究極のラブ・ロマンス」と見出しを付して評した,プロの映画評論家(新聞に書いてあった)のあまりのお粗末さを,酒のつまみにして。できることなら,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』の仮説にもとづいてこの映画を読み解くと,なにが,新たな「知」の地平として浮かび上がってくるのかを。さらには,西谷修の『理性の探求』で提示された「狂気と化した理性」の視点から,この映画を読み解くと・・・・ということも。

「人間の生を理解することもなく,みんな終ってしまう」というキャシー・Hのひとりごともまた,単に,この映画の登場人物たちに限られることではなく,現代社会を生きるわたしたちのすべてが考えなくてはならない普遍のテーマなのだ。「人間の生」とはなにか。「3・11」以後を生きるわたしたちにとっては,もはや避けてとおることのできない,もっとも切実なテーマなのだ。

この議論の場に参加ご希望の方は,お知らせください。定員2名まで。ただし,バタイユと西谷修の本を相当に深く読み込んでいる,というのが前提条件。居酒屋『延命庵』の催しものとして。無料。飲食物持ち込み自由。

2011年12月28日水曜日

『東京新聞』の新規の購読者が増えているそうです。

数カ月前に『東京新聞』の集金にきた若いお兄ちゃんに,「『東京新聞』応援しているからね。頑張って!」と声をかけたら,「ありがとうございます」と言って,ペコリと頭を下げたことがある。その頭の下げ方が気に入ったので,「ブログでも応援してるんだよ」と言ったら,「えっ,そうなんですか?ありがとうございます」と,ふたたび,こんどはもっと深く,ペコリと頭を下げた。いまどきの若者にしては珍しいなぁ,と思っていた。

数日前,ふたたび,そのお兄ちゃんが集金にやってきた。嬉しそうに,ニコニコしている。だから,「調子はどう?購読者は増えている?」と声をかけた。そうしたら,「ありがとうございます。昨日3軒,今日も2軒,購読の申込みがありました」という。「それって,凄いことじゃないの?」とわたし。「はい,そうだと思います」とお兄ちゃん。

「最初のころにはゴタゴタがあってご迷惑をおかけしました」とお兄ちゃん。このゴタゴタとは,『東京新聞』がこれまでの新聞配達店から独立して,独自に新聞配達と集金をはじめたことに対する,それまでの新聞配達店がとった妨害行為(じつに,いやらしい「イジメ」のビラを配布したこと)のこと。「最初はなんだろう?なにごとだろう,と不思議だったけれども,すぐに,単なる「イジメ」だということはわかったよ」とわたし。そして,「そんなことは,もう,心配することはないよ」と。「それを聞いて安心しました」とお兄ちゃん。

「ところで,『東京新聞』の購読者が増えていくのは,なぜか,知っている?」とわたし。「さぁ?」と言って首を傾げるお兄ちゃん。「『東京新聞』が脱原発を宣言して,その方針に添って記事が書かれるようになったからだよ」とわたし。「ああ,そうなんですか」とお兄ちゃん。なんだ,そんなことも知らずに新聞を配達しているのか,とちょっと「ムッ」ときたわたし。折角,いい会話ができているのに・・・,そんなものかなぁ,と。

しかし,それは杞憂だった。というか,逆に驚いた。唐突に,「ぼく,福島出身なんです」という。「どこなの?」「福島第一原発から5キロのところにある村です」「えっ,じゃぁ,避難してきたの?」「そうです」「それで新聞配達をはじめたの?」「そうです」「そうかぁ,じゃぁ,大変だったんだねぇ」「ぼくらは帰ることができるでしょうか」「5キロかぁ,ちょっと大変だよねぇ」「南相馬でも,若い人たちはだれも戻っていない,と聞いています」「安心して住めるようになるまでには,ちょっと時間がかかるんだよねぇ」「もう,絶望でしょうか」。ここでちょっと詰まってしまったが,ここで怯んではいけないと自分を鼓舞して「いや,希望は捨てちゃァ駄目だよ。必ず故郷に戻るんだという希望はもちつづけていた方がいい。これを失ったら,生きがいをなくしてしまうからね」「ぼくもそう思います。でも,遠いさきのことですよね」「時間のことはわからない。でも,希望は持ちつづけようね」「ハイッ,ありがとうございます」と,またまた,ペコリと頭を下げた。そして,「済みません。自分のことをしゃべってしまって」「いやいや,そういう人に直接会って話を聞いたのは初めてだったので,とても勉強になったよ」「ありがとうございます。また,こんごともよろしくお願いします」と言って,帰っていった。

とても,爽やかな,いい青年だった。こうして頑張っている福島の若者が,こんな身近にいたということを知って,なんとなく「じーん」とくるものがあった。そして,しまった,名前を聞いておくのを忘れてしまった。こんど集金にきたら,もう少し話を聞いてみようと思う。できることなら,集金とは別に,ゆっくり話を聞いてみたいと思う。ひとりの人間として。

ほんとうに短い会話だったけれども,久しぶりになにも知らない若者と気持ちの通い合うものを感じて,ちょっとだけ嬉しくなった。こういう会話が,最近は,とみに減ってしまった。もっと積極的に,こういう会話ができる場を確保することが,これからの課題だ。やはり,被災地にでかけ,その現場に立ち,そこでの人との出会いをとおして,わたし自身にゆさぶりをかけていかなくては・・・・としみじみと思う。そうしないと,自閉したまま,自己完結してしまう。これではいけない。フットワーク軽く,ここぞと思うところにはでかけなくてはいけない。

この年の瀬に,こういう若者と出会うことができたのは,やはり,なにかの暗示とでもいうべきか。来年は,もう少しだけ「移動」することを考えてみよう。思い立ったが吉日ということばがある。そのとおりだと思う。忙しさにかまけて,自己のうちに閉じていてはいけない,と。

西谷修さんのブログをみると,じつに軽快に,動いている。有馬記念のレースもちゃんとみているし,ふっと思い立ったように仙台に1泊2日ででかけている。そして,ガンジー金田などという不思議なお坊さんとの出会いを楽しんでいる。漁民の話も書いている。人間だなぁ,としみじみ思う。わたしには,こういう素直な行動力が足りない。

来年は,「離脱」と「移動」──これは,西谷修さんの本のタイトルでもある──をテーマに,新たな人生設計をしてみようと思う。『東京新聞』の新規購読者も増えているというし,城南信用金庫も順調に伸びているというし,新聞配達のお兄さんも元気溌剌だし・・・・,こんどはわたしの順番だ。

来年に向けて大掃除でもしようか。

2011年12月27日火曜日

ついに賀状を断念。暮れ,正月もなし。恥ずかしながら。

いよいよ暮れも押し迫ってきました。
いまも,駅前やスーパーの入り口などで賀状が売られています。その人たちの顔をみていると,どう考えても郵便局の正社員ではなさそうです。どういう人たちなのだろう,と想像しながらそこはかとなく観察しています。なんだかものの哀れを感じます。

ずっと年賀状をなんとかしなくては・・・・と考えつづけていましたが,どう考えても賀状を書くだけの瞬発力と持久力が足りない,ということに気づき,とうとうことしは賀状を諦め,断念することにしました。いよいよそういう時期がきたか,と複雑な気持ちです。賀状大好き人間にとっては,とても寂しいかぎりです。

若いころに,定年退職された先生から「ことしをもって賀状は最後にします」という添え書きのある賀状をいただき,なんとも寂しい思いをしたものです。しかし,わたしの方からは賀状を出しつづけましたが,なんだか空しい気分でした。でも,わたしも,いつのころからか,賀状はもういい,と思うようになりました。とりわけ,肉筆の痕跡がどこにも確認できない賀状が増えはじめたころからは,そう思うようになりました。

かく申すわたしもまた,宛て名書きと添え書きだけは自筆で,あとは印刷になってしまいました。むかしは,版画を彫って,刷って(元気のいいころは3色),宛て名は毛筆で,添え書きは万年筆で,と凝った賀状に仕立て上げ,それを出すことを楽しんでいました。同じことをする友人もかなりいて,毎年,楽しみにしていたものです。が,その数も次第に少なくなり,いまでは例外的にしか版画の賀状は手にすることはできなくなってしまいました。のみならず,表書きまでパソコンでプリントアウト。それが当たり前になってきました。そういう時代なのだなぁ,と感慨一入です。

それでも,賀状を断念する気持ちは複雑です。いくら多忙とはいえ,書こうと思えば書けるはずです。しかし,そのためには肝心要の瞬発力と持久力が必要です。ひとことで言えば気力と体力です。このふたつを賀状にそそぐだけの余力がなくなってしまった,というのが実態です。もういい,暮れ・正月はのんびりと過ごそう,と。そういう心境になってしまった,ということです。これはいいとか,悪いとかの問題ではない,からだの問題だ,と居直って。

その代わりと言ってはなんですが,このブログで新年のご挨拶をさせていただいて・・・・と自分を慰めることにしています。どうか,これまで賀状の交換をさせていただいた方々には,この場をお借りして,お詫びとご報告をさせていただきます。どうぞ,ご寛容のほどを。

しかし,賀状を断念する以上は,賀状に代わる内実のあるコミュニケーションのとり方を新たに工夫する必要があります。人間はひとりでは生きていけませんから。やはり,大勢の人に支えられて生きているという現実に背を向けることだけはしてはならない,と肝に銘じています。

このブログもそのためのひとつの方法だと考えています。が,それだけでは抜け落ちてしまう恩人たちがたくさんいます。その人たちに向けて,日常的に,どのように向き合うかを考えてみたいと思っています。なかなかいいアイディアが浮かびませんが・・・・。

というわけで,恥ずかしながら,ことしは暮れ・正月もなしの日常の生活を送ることにしました。その分,いつもよりも出だしのいいスタートを切りたいと思っています。まあ,そのくらいに追い込まれていることも事実ですので・・・・。

みなさんの,無事の越年を,こころからお祈りしています。



2011年12月25日日曜日

『ボクシングの文化史』(東洋書林・監訳)を手にして感慨無量。

ことしもいよいよ暮れていく,このタイミングで首を長くして待っていた『ボクシングの文化史』(東洋書林・監訳)を手にすることができました。いま,とどいたばかりで,まずは,「監訳者あとがき」をチェック。トンチンカンなことを言ってないか,ここだけは気がかりでした。短い時間の制約のなかで急いで書いたものでしたので・・・。

前のブログにも書きましたが,予定では,12月15日に見本刷り,20日発売,ということでしたので,どの段階で完成品を手にすることができるかなぁ,と心配していました。といいますのは,19日には神戸に入って集中講義に備えていなくてはなりませんので,実際に受け取れるのはそれが終って帰宅してからになるからです。でも,できることなら,実物を持って神戸に乗り込みたいなぁ,という願望はありました。

ところが,20日の朝,訳者のひとり月嶋君に会ったら,もうすでに書店に並んでいます,すでに,1冊購入しました,という。「えっ!?」とわたし。「そんなはずはない」「いいえ,ほんとうです」という会話がありました。

で,実際に手にして眺めたのは23日の「ISC・21」12月神戸例会の席でした。主催者の竹谷さんが持ってきてくれました。そして,「情報交換」の時間帯に,この本を紹介してほしい,と。大急ぎであちこち眺めて,あとは,記憶を頼りに,この本のセールス・ポイントを紹介。

『ボクシングの文化史』,カシア・ボディ著,稲垣正浩監訳,松浪稔+月嶋紘之訳,東洋書林,2011年12月31日,第一刷発行,4,800円,本文570ページ,参考文献・索引など18ページ。

著者はカシア・ボディ。女性です。まずは,この点で,最初の驚きがありました。彼女は,ロンドン大学などの大学で,メディア論,文化論,現代英米文学論などの教鞭をとるかたわら,著述家として活躍。もちろん,大のボクシング・ファン。マニアックなほどのボクシングへののめり込み方が,この本を読んでいてもじかに伝わってきます。ボクシングに寄せる「愛」の深さは微笑ましいほどです。

いわゆるスポーツ史やスポーツ文化論を専攻する研究者とは違って,まずは,文学作品のなかに描かれてきたボクシングの記述を徹底的に洗い出し,そこに図像資料をクロスさせながら,古代ギリシアのむかしからこんにちまでのボクシングの変容を,懇切・丁寧に描き出しています。近代に入ってからは,絵画や彫刻にネットを拡げ,さらに,写真,ラジオ,テレビ,インターネットといったメディアがボクシングにいかなる影響を与えたかを,得意の「メディア論」「文化論」の手法で説き明かしていきます。みごとな手際のよさを遺憾なく発揮して,読者を魅了します。

わたしも,かなり早くから,スポーツ史研究に「文学作品」と「絵画資料」(彫刻も)を持ち込むことによって,新たなスポーツ史研究の可能性がひろがっていることを提示し,実際にいくつかの試みをしてきました(『図説スポーツ史』『図説世界スポーツ史』など,共著)。ですから,この著者のカシア・ボディの炯眼に,こころから同感し,共振・共鳴しながら,この本を読みました。

手にとっていただければ,すぐに,わかることですが,とにかく図像(写真もふくむ)がふんだんに取り込まれていて,それらを拾って眺めていくだけでも,存分に楽しむことができます。その上,カラーの綴じ込みページもあって,豪華そのものです。

巻末には,参考文献,参考映画,参考音源,ボクサー名索引,人名索引まで付してあります。この本を手がかりにして,もっと詳細なボクシング情報を得ようとする読者にとってはまことに便利な本になっています。ぜひ,手にとってご覧になられることをお薦めします。

最後に写真を掲載しておきますので,参考にしてください。


「けんちく体操」をする身体とはなにか。

「けんちく体操」の発想は20年も前にさかのぼる,と「けんちく体操」博士ことイサーム・ヨネ(米山勇)さんはいう(12月15日のトークショウで)。「えっ,そんなに前なんですか?」とは,「けんちく体操」ロボットの3人。つまり,ずっと長い間,温めてきたものを実践に移したのは10年ほど前とのこと。

「けんちく体操」のそもそものはじまりは,小さな子どものころから「建築」に興味をもってもらおう,そのためにはどうしたらいいだろうと考えた結果,自分のからだで「建築」の真似をする「体操」をしてみては・・・・ということだったそうです。初めのころは,みんなに笑われてしまって,何回もめげてしまったこともあったとは「けんちく体操マン」1号こと高橋英夫さん。

大の大人が,開脚姿勢で立ち,両手を頭の上に伸ばして,手の平を合わせて「ハイッ,東京タワー」とやるだけの「体操」。「そんなことをやっていて恥ずかしくないですか」と取材にきた記者に言われて,ショックだったと高橋さんはいう。

この話を受けて,わたしは,つぎのような話をした。
ここに,じつは,重大な問題が露呈している。体操は「まじめに」やるものであって,そんな「おふざけで」やるものではない,とふつうの日本人は思い込んでいる。つまり,学校教育をとおして刷り込まれている。そして,そこになんの疑問もいだかない。

わたしたちの頭に刷り込まれている体操は,ヨーロッパ近代になって登場したもので,そのはじまりは「医療体操」でした。明治のはじめに日本に入ってきた体操も,ドイツの医者シュレーバーの考案した「医療体操」でした。 とくに「姿勢矯正」に主眼がありました。あらかじめ「正しい姿勢」というものを規定して,そこに国民の身体をはめ込んでいくことを目的とした体操でした。まずは,健康なからだの標準が当時の医学の観点から規定され,すべての国民のからだを健康にすることが目的でした。

こうして,日本の富国強兵策の進展をささえる「強い兵士」と「頑強な労働者」を育成することを目指しました。ですから,初期のころの学校での「体操」は軍人によって指導されました。こうして,「体操」から「おふざけ」は一掃されてしまいました。「まじめに」,近未来に向けて努力する「勤勉さ」が近代を生きる人間の規範として浸透していきました。わたしたちは,その延長線上にいるわけです。

ですから,「体操」は健康のためにやるものだ,しかも「まじめに」やるものだ,と信じて疑いません。そこに「けんちく体操」の登場です。しかも,「けんちく」を好きになってもらうためにやる「体操」です。言ってしまえば,一種の「ものまね芸」です。「芸」であるということは,わたしたちが考えている「体操」とはまったく次元の違うものです。むしろ,面白奇怪しくやる「ふざけごころ」があった方が「芸」の幅はひろがります。しかも,そのひろがりは無限です。およそ健康などというものとは無縁です。

しかし,実際にやってみると,これはたいへんな「体操」です。「ふざけごころ」があるので,目指す「けんちく」の表現のためには相当に無理をしてでも頑張ります。そして,みている人に褒められると,ますます頑張ります。夢中になってやっているうちに,からだには相当の負荷がかかってきますので,筋肉痛を起こすことも稀ではありません。

「けんちく体操」は,からだを用いた「アート」の世界に属しているのではないか,というのがわたしが経験した上での理解です。なにより必要なのは「想像力」(創造力でもある)です。直観したイメージを,からだを用いて,どのように表現するか。これが勝負です。しかも,「けんちく」ですから,静止していなければなりません。動きを抑圧した「体操」です。

これまでの体操の領域には「組み体操」というものがあります。ピラミッドやタワーやブリッジを,集団で表現する組み体操をやったことのある人も少なくないと思います。しかし,こちらの目標は「難易度」の高さにあります。ですから,「おふざけ」は禁物です。

さて,この「けんちく体操」をする身体とは,いったい,いかなるものなのでしょう。生身の身体を「けんちく」にしてしまう,というのですから大変です。いわゆる,ヨーロッパ近代に出自をもつ「けんこう体操」は,自然である身体を,近代的健康観に当てはめていく「文化」的産物です。つまり,わたしたちの身体を「自然」存在から「文化」的存在へと変化させるものです。こんにちの,わたしたちの身体は,現代の「文化」そのものです。

しかし,「けんちく体操」をする身体は,この範疇からはいちじるしくはみ出しています。というよりも,むしろ,次元が違うと言った方がいいかもしれません。なぜなら,「けんちく体操」が目指すものは,「けんちく」を愛するこころを育てること,そして,そのために感性ゆたかに「けんちく」を表現することにあります。ですから,言ってしまえば,みずからの身体をどこまで「けんちく」に近づけることができるか,あるいは,「アート」の素材と化すか,ということになります。つまり,身体の「事物化」の極限を追求しているようにみえてきます。なぜなら,どこまで「けんちく」に成りきるか,一体化するか,が勝負なのですから。

ところが,「けんちく」と一体化したからだからは「快感」が湧き出でてきます。ここに,じつは,わたしはヨーロッパ近代が生み出した健康体操とは異なる,ある種の可能性をみています。ひょっとしたら,近代を突き抜けたさきの,後近代の「体操」となりうる可能性があるのでは?と。その意味で,この「けんちく体操」のこんごのなりゆきには注目したいと思っています。

いつか,「けんちく体操」博士のイサーム・ヨネさんをはじめ,「けんちく体操」ロボットのみなさんと,たっぷり時間をかけてお話をしてみたいなぁ,と考えているところです。わたしの研究会で,その場を設けてもいいなぁ,と。あるいは,一献傾けながら・・・・。ああ,やはり,最初のお話はこちらの方が良さそうですね。楽しみがまたひとつ増えました。

※文中に「からだ」と「身体」ということばが混在しています。これは意図的に仕掛けているつもりですので,お含みいただければ幸いです。

2011年12月24日土曜日

真板雅文先生の作品「風の道」を神戸市外国語大学で発見。

神戸市外国語大学での集中講義はことしで3年目。昼休みや,講義の途中の休み時間には,できるだけキャンパスの中を散歩しながら気分転換をはかっている。だから,キャンパス内の様子はだいたいわかっているつもりでいた。

しかし,昨日の散策の途中で,新たな発見があってびっくり仰天。いつも何気なく眺めていた不思議な形のモニュメントの存在が急に気になって,一緒に散策していた神戸市外大の竹谷先生に「あの作品はだれのものですか」と聞いてみた。「いやぁ,作者の名前までは知りません」という。そこで,近くまで寄っていって作者の名前を確認してみた。そこには「真板雅文・1984」とあるではないか。

あっと驚いて,「この人は世界的に活躍したアーティストです」とT先生に得意満面で説明。とはいえ,わたし自身もそんなに詳しいわけではない。もちろん,面識はない。ただ,作品は,とびとびながら現物や写真などでみて,なぜか印象に残っている。鉄,石,木,竹,などの素材をつかった作品が多く,一種独特の雰囲気のある作品だ。

神戸市外国語大学のキャンパスにある作品は,鉄でできている。制作年は1984年。真っ赤に錆びているのは,年数を経たからではなくて,そのような作品として最初から制作されたものなのだろうなぁ,と想像している。一見したところ,広島の原爆ドームを地上に下ろしてきたのかな,というように見える。ちょっと殺伐としたものを感じるのだが,しばらく眺めていると,少しずつ印象が変化しはじめる。しかも,みる位置や角度を変えると,それぞれに別の表情をみせる。そのうちに,変に曲がった鉄の小さな造形が小鳥にみえてくる。小鳥たちが群れて戯れているようにもみえる。そこを「風」が吹き抜けていく。(写真参照)

早朝の表情と,昼休みと,夕方では,その表情を変える。曇り空と晴れではまったく別物にみえる。こうなってくると,毎時間の休みの間にでかけて行って,じっと対面してみる。すると,いつのまにか,作品がこちらのからだに馴染んでくる。いや,からだが,作品に馴染んでいく,というべきか。そして,とうとう会話まではじまっていることに気づく。そのころから,「風」を感ずるようになる。なるほど,「風の道」だ,と。

インターネットで「真板雅文の略歴」というところを開いてみると,このアーティストがどれほどの活躍をした人であるかが一目瞭然である。しかも,驚くほどのご活躍である。世界を相手にした大活躍である。その略歴の最後のところに「野外彫刻・立体造形」(設置年代順)という見出しがある。そこのはじめの方に,「第9回神戸須磨離宮公園現代彫刻展でユニヴァーシアード神戸大会記念賞」(1984年)という記録がある。たぶん,「風の道」はこのときの作品ではないだろうか,とわたしは想像している。

1984年の翌年,1985年には,まさに,ユニヴァーシアード大会が神戸で開催されており,神戸市外国語大学のキャンパスには「記者クラブ」が設置されていたという(当時,毎日新聞社の記者であった玉置通夫さんの話)。大学がこの地に移転してきたのは1986年という(竹谷さんのお話)。ということは,真板先生が,賞をとられた所縁の地に,大学の移転を記念して寄贈されたのではないか,と想像をたくましくしている。

わたしは,能面アーティストの柏木さんをとおして,真板先生の存在を知った。彼女の話では,銀座の文藝春秋画廊で能面の展覧会をやっているときに,真板先生が来られて「貴女の作品は世界にでていく力をもっている」と感想を述べられた,という。それが嬉しくて,ますます制作に熱が入るようになった,という。だから,急に亡くなられたときには(心臓発作)悲しくて悲しくて,涙が止まらなかった,とのこと。そして,とうとう,その泣き顔を能面に写し取り,作品にしてしまった,という。

その作品を展覧会に出品したときに,その会場で,偶然,真板夫人とお会いして,お話をさせていただいたことがある。とても優しい話し方をされる,上品な方だった。そのときには,真板先生が残された作品をどのようにすればいいのか,いろいろの方のご意見を聞くために奔走している,というようなお話だったと記憶する。

それにしても,ご縁とは不思議なものだ。真板先生の作品「風の道」が,1984年のユニヴァーシアード神戸大会記念賞だった可能性があるのだから。(わたしはまず間違いないと確信する)。しかも,いまの予定では,来年8月に開催される第2回バスク・日本国際セミナーのときには,能面アーティストの柏木さんの作品展示と実演が行われることになっている。となると,真板先生の作品「風の道」と柏木さんの作品「悲しくて」とのコラボレーションが成立する。ひょっとしたら,真板夫人も来られるかも・・・・。

とまあ,こんなことを夢見ている。楽しみは多い方がいい。







2011年12月23日金曜日

神戸市外国語大学の集中講義,無事に終了。

三日間で15コマの集中講義が,22日午後5時30分に,無事,終了。なにか感慨深いものがある。なぜなら,神戸市外国語大学客員教授としての,3年契約の,これが最後のお勤めだったことが一つ。もう一つは,バタイユの『宗教の理論』読解の授業に,3年生,4年生と2年間にわたって受講してくれた学生さんたちの反応がすこぶるよかったことだ。

精確にいえば,2010年前期には,マルセル・モースの『贈与論』を読み,2010年後期から,2011年前期,そして,今回の後期と3回にわたってジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を読んだことになる。さすがに,2年間,とおしてこの授業を受講してくれた学生さんたちの理解は,予想以上に深いものがあり,今回の読解でも,しばしば新しい視点を提示してくれ,わたしを挑発・興奮させてくれた。やはり,柔わらかな思考のできる若い頭脳は,いまのわたしには貴重な存在だ。

講義題目は「スポーツ文化論」。この「スポーツ文化」を,まずは,マルセル・モースのいう「贈与」という視点から考えてみると,なにがみえてくるのか。とりわけ,ポトラッチという概念に分け入って,スポーツ文化の起源との関係を考えてみた。これを受けて,バタイユの『宗教の理論』をベースにした「スポーツ文化」読解にとりかかる。しかし,『贈与論』から『宗教の理論』への橋渡しをするために,バタイユの『呪われた部分 有用性の限界』(普遍経済学の第一部)を通過する必要があった。こうして,バタイユのいう「消尽」「供犠」「贈与」「オブジェ」「事物化」といった重要な概念をなんとか視野の中に収め,『宗教の理論』読解に入っていった。

こうして,『宗教の理論』だけで,1年半,つまり,3期にわたって読解に取り組むことになった。この手続きを踏んだことは,結果論ではあるが,まずまず正解だったと思う。そして,いまは,『エロチシズムの歴史』(普遍経済学の第二部)へと分け入っていくときだ,と考えている。なぜなら,こんにちの「スポーツ文化」の批評を展開するとすれば,やはり,資本主義経済学の枠組みの<外>に立つバタイユの「普遍経済学」という視座が不可欠である,と考えるからだ。つまり,「消尽」をキー・コンセプトにした「経済」の大原則に立ち返るために。

そして,この「消尽」という考え方を基準にして,スポーツ文化を再考してみると,そこにはこんにちのスポーツ文化とはまったく異なった,スポーツの深層に潜むもう一つの姿が浮かび上がってくる。原初の人間にとっての「スポーツ的なるもの」は,ひたすら「消尽」そのものではなかったか。それが,いつから「有用性」の原理に絡め捕られていくことになったのか。そのとき,スポーツ的なるものに,いかなる変化・変容が起きたのか。

その謎解きのための,つぎなる方法が「供犠」と「贈与」ということになる。こうして,スポーツ文化の謎解きをするための三つのキー・コンセプトが立ち上がる。今回の集中講義では,もっぱら,「消尽」「供犠」「贈与」という三つの概念を軸に据えて,スポーツ文化の諸相をとりあげ,あらたな検討を加えることになった。この設定に,学生さんたちは,じつにみごとに反応してくれた。わたしはとても嬉しかった。なるほど,継続するということは大事なことだ,と。広く浅く,あれこれアラカルト的な知をかじるよりは,ジョルジュ・バタイユというひとりの思想・哲学者に徹底的に光を当て,その人の発想を確実にわがものとすること,そして,そこから,スポーツ文化をとらえ直してみること,そのことの方がはるかに実りが大きいと思う。しかも,このバタイユ的視点は,他のあらゆる領域にも当てはめて,応用することができる。

折しも,わたしたちは「3・11」以後を生きなくてはならない。その「3・11」よりもはるかに前から取り組んできたバタイユ読解が,いま,ここにきて,わたしにはきわめて重要な意味をもちはじめている。おそらく,この授業を受けた学生さんたちも,スポーツの世界とは別の,いわゆる外国語を駆使する職種について,その世界で活躍することになるだろう。そういう人たちにとっても(あるいは,そういう人たちであればこそ),バタイユ的思考が,どこかで活かされることになるのではないか,とわたしは期待している。

なにはともあれ,神戸市外国語大学客員教授としての,最低限の職務をなんとかはたすことができたのではないか,とひとまず安堵の胸をなでおろしている。と同時に,万感,胸に迫るものがある。この3年間,わたしの集中講義を受講してくれた学生さんたちに,こころから感謝したい。卒業生もふくめて,みなさん,ありがとう。わたしも,これで卒業です。そして,おそらく,もう二度と集中講義という名のもとで授業を担当することもないだろうと思う。

西田幾多郎は,定年退職のときの最終講義で,つぎのように述べたという。
「わたしの半生は黒板を前にして座した。そして,わたしの残りの半生は黒板を背にして立った」と。なんと直截な表現であることか。そこには,さわやかな風が吹いている。むしろ,潔い風というべきか。そこには,一本の凛とした「風の道」が,浮かび上がってくる。

これは偶然の一致なのか。神戸市外国語大学のキャンパスの中には,「風の道」と題する真板雅文先生のモニュメントが据えられている。もう,何回もこの大学を訪れ,キャンパスの中を散策し,そのつど,このモニュメントにはお目にかかっていたのだが,この作品が,どなたのものであるかは確認もしないでやりすごしていた。が,今回は,そのモニュメントがとても気になり,作者の名前を確認してみた。そこに「真板雅文・1984」とある碑銘を見出したとき,これまた,なんとも言えない感慨があった。これもまた,なにかのご縁というべきか。

以上,神戸市外国語大学の集中講義,無事に終了のご報告まで。

2011年12月21日水曜日

モンゴルの競馬をバタイユ的に読み解くと,それは「消尽」であり,「供犠」であり,「贈与」ではないか。

神戸市外国語大学での集中講義もはや二日目を終了。バタイユの『宗教の理論』をスポーツ文化論的に読解するというテーマでの講義も,これで三期目に入っているので,学生さんの反応がすこぶるいい。当然のことながら,わたしも気合が入ってくる。それに応えるようにして学生さんも熱が入ってくる。そんな相乗効果もあって,充実した時間が過ぎていく。惚けかけた頭が,いつのまにか,大いに活性化して,新たな発見がつづく。嬉しいかぎりである。

加えて,今日(21日)の二日目は,教室に行ってみると,モンゴルのナーダム祭の研究者である井上邦子さんがだれよりも早く到着して待っていてくれた。バタイユのいう「消尽」「供犠」「贈与」という考え方について,理解を深めたいという。そういうことであれば,大歓迎。ならば,というわけで,学生さんが集まる前から,早速,ふたりだけの話がはじまり,知らぬ間に熱が入ってくる。

気がつけば,学生さんは全員集まっていて,始業の時間もとっくに過ぎている。あわてて,井上さんを紹介しながら,話のつづきのまま,授業に入る。まずは,わたしの方からモンゴルの競馬について問いをかける。井上さんが,丁寧に,初めての学生さんたちにもわかりやすく説明をしてくれる。それを聞きながら,わたしはバタイユ的に解釈すると,どうなるのだろうかと考える。

井上さんのお話の概要は以下のとおり。
一番はじめは,野生の馬の捕獲からはじまり,それを飼育する。モンゴルでは,ゲル(住まい)の近くに放牧して飼育する。牡馬は種牡馬1頭を残して,全部,去勢する。牝馬はそのまま育てて,子どもを産ませる。競馬で走る馬は去勢された牡馬から選ばれる。選ばれた牡馬は,まずは,ゲルの近くの杭に「つながれる」。この牡馬を杭につなぐ人のことをオヤチと呼ぶ。こうして,つながれた牡馬は「調教」に入る。調教は1~2週間という短い期間に行われる。放牧してあった牡馬を,競馬馬に仕立てあげるのは容易なことではない。だから,特別な馬として聖別され,徹底した調教が行われる。まずは,躾け。人間の指示に素直に従うように。そして,つぎは,走る距離を伸ばしていく。やがて,人馬一体となるところまで調教する。この間,ラマ教のお経を,暇さえあれば聴かせる。競馬馬は全身を青い絹の布で磨き上げられ,尻尾は工夫して編み上げられる。こうして「聖別」された競馬馬へと仕立てあげられていく。この競馬馬には子どもが乗って,30㎞,50㎞という長い距離を走る。まずは,ゴール地点に集合してから,スタート地点まで移動して,それからスタートする。したがって,結果的には,じっさいの距離の倍を走ることになる。途中で疲れ切った馬は倒れてしまったり,死んでしまうこともある。あるいは,子どもが振り落とされてしまうこともある。馬も子どもも,死と隣り合わせという,ある種の極限状態に向き合うことになる。

これをバタイユ的に読み解くとどういうことになるのか。
動物性の世界を生きていた野生の馬は,捕獲され飼育されることによって人間の「事物」と化す。しかも,牡馬は去勢されることによって,「事物」としてのレベルを高める。さらに,競馬馬として選ばれ「つながれ」たときから,特別の存在として神聖視され,ますます「事物」としてのレベルを高めていくことになる。そして,事物化の極限ともいうべき調教をとおして人馬一体となることを目指す。こうして,人間もまた「事物化」していく。のみならず,人間はひたすらラマ教のお経を唱える。しかも,それを馬の耳に向って唱える。まさに「馬の耳に念仏」である。そこまでして,調教され,神聖視され,人馬一体となった競馬馬を,場合によっては「死ぬ」(「倒れる」)かもしれない長い距離を,馬に子どもを乗せて走らせる。これは,なにを隠そう,「消尽」以外のなにものでもないではないか。しかも,「供犠」そのものではないか。そして,それは広義の「贈与」にも相当するのではないか。

こうした経緯について,じっさいの授業の中では,微に入り細にわたって,可能なかぎりバタイユの概念をもちいて言説化を試みてみた。井上さんも協力してくれて,これまでには考えたこともない,バタイユ的「知」の地平に「初めて」立つことができた。なんと面白い風景がそこに広がっていることか。こんな僥倖にめぐまれながら,至福のときを過ごす。

ほんとうは,もっと詳細に記述しておきたかったことではあるが,時間切れのため,とりあえず,ここまでとする。いずれまた,きちんと整理してみたいと思う。

2011年12月19日月曜日

明日から神戸市外国語大学の集中講義。その主題となる六つのテーマについて。

ことしも残りわずかになってきました。毎年のことながら,時間の経つのは早いものだと,いまではあきらめ顔。わたしの人生もいつのまにか第四コーナーを回って,いよいよホームストレッチにさしかかっている。最後の仕上げの時期というべきか。

そんな中で,明日(20日)から神戸市外国語大学の集中講義がはじまる。早朝の午前8時50分からはじまるので,今日(19日)のうちに神戸に入って,スタンバイ。講義題目は「スポーツ文化論」。用いるテクストは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』。

すでに,2年にわたって,このテクストの「スポーツ文化論」的読解に取り組んでいる。だから,最初から参加している学生さんたちにとっては,すでに,お馴染みのテーマ。しかし,初めての学生さんにとっては,きわめて難解。でも,授業が終ったときには,かならず,なんらかのお土産をもって帰ってもらえるように,こちらも必死。

取り上げる具体的な内容の一部は,すでに,このブログをとおして「公開」しているので,そちらを参照していただきたい。このバタイユのテクストを用いての集中講義はこれが最後となるので,今回は「総ざらい篇」と称して,とくにポイントとなるところを取り上げてみたいと思う。

その最大のポイントは以下のとおり。
人類が動物性の世界から離脱し,人間性の世界に移行するときに,いったい,なにが起きたのか。ひとつは,もの=客体(オブジェ)という他者の発見によって自己が覚醒する,そのプロセスの意味するところを考えること。ふたつには,やがて,自己意識が立ち上がり,理性に目覚めるとき,自己の内なる他者=動物性をどのように止揚しようとしたのか。みっつには,このとき「宗教的なるもの」が同時に立ち上がるのだが,そのことと「スポーツ的なるもの」は表裏の関係にあったのではないか,というわたしの仮説を深めること。つまり,スポーツの原初の姿(起源)を確認すること。それは,祝祭的な時空間とはなにか,を考えることでもある。よっつには,人間の内なる他者=動物性と向き合っていたはずの理性が,いつしか一人歩きをはじめ,「狂気」と化していくのはなぜか,を考えること。科学至上主義ともいうべき理性のたどりついた典型例として「原発」がある。いつつには,スポーツ文化もまた,同じ進展をみるのは,なぜか,と問うこと。たとえば,1000分の1秒を計測することの意味を問うこと。むっつには,21世紀を生きる人間にとって,とりわけ,「3・11」以後を生きるわたしたちにとって「スポーツ」とはなにか,を考えること。

とまあ,なかなか欲の深いことを考えている。しかし,期せずして「3・11」に遭遇した,この年の最後に取り組む集中講義としては,ここまで踏み込まないことには無意味ではないか,とわたしは考えている。なぜなら,これもまた,「いま・ここ」を生きるわたしたちの,避けてとおることのできない重要なテーマであるからだ。その意味では,世界の最先端を突き破る,まったく新しい「スポーツ文化論」の展開を試みようとしている,と言っても過言ではない。日本はいま,あらゆる意味で,世界の最先端をいく「実験国家」でもあるのだ。

いま,スポーツ文化を考えることは,「世界」を考えることでもある。しかも,スポーツ文化は新しい「世界」を切り拓いていく尖兵でもあるのだ。このことを考えるためのヒントが,テクストである『宗教の理論』のなかには満載されている,というのがわたしの読解である。

さて,この課題がどこまで達成できるか,楽しみである。おそらく,大学での集中講義という形式で,このようなチャレンジができるのは,これが最後のチャンスでもあろう。と思うとますます気合が入ってくる。また,新たな発見があるのではなかろうか,という期待も大きい。

今回は,このテクストのほかに,DVDをふたつ用意している。ひとつは,『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ原作)である。「人間の生を理解することもなく,みんな終ってしまう」という主人公のキャシー・Hのセリフがわたしの頭から離れない。人間が生きるとはどういうことなのか,という根源的な問いを,カズオ・イシグロはわたしたちに投げかけてくる。ふたつには,『けんちく体操』(米山勇,ほか)。ついこの間(15日の夜),この人たちのワークショップに参加し,そのあとのトークショウにも加わっておしゃべりをさせていただいた。そのお蔭で,また,あらたな感慨(発見)をもつことができた。しかし,そのときは時間切れで話すことができなかったことがらについて,理論仮説を構築してみたいと考えている。たとえば,事物と化した人間が,これからさき,なにを目指そうとしているのか,しかも,「体操」をとおして。

三日間の集中講義のあとの,23日には「ISC・21」12月神戸例会が待っている。いつもの研究者仲間と意見を交わすことができる。こちらもまた,楽しみのひとつ。そのあとには,「忘年会」。ことしの「締め」となる。

まずは,体調を整えて,万全の体制で臨むこと。
行って参ります。

2011年12月17日土曜日

オリンピックは,いつから「戦争」になってしまったのか。

「五輪警備に英軍1万人超投入,戦艦やミサイルも」という見出しの情報がインターネット上を流れている(読売新聞提供)。びっくり仰天である。もはや,「戦時体制」を敷かないとオリンピックの開催はできないらしい。

いつからオリンピックは「戦争」になってしまったのか。姿の見えない敵を相手に,なにを,そんなに怯えなくてはならないのか。なにゆえに,敵が攻撃してくると考えるのか。いったい,だれが敵をつくっているのか。敵の勢力が少しも衰えないのは,なぜか。つぎつぎに新しい敵が生み出されてくる世界のあり方に,なぜ,もっと疑問をいだかないのか。こんなに恐ろしい敵が存在すると予想されているのに,なぜ,オリンピックを開催しなくてはならないのか。オリンピックとは「平和運動」ではなかったのか。五輪のマークはなにを意味しているのか。オリンピック開催そのものが敵の勢力を増大させる契機になっていることの意味を,なぜ,考えようとはしないのか。オリンピックは反対勢力を排除するだけでいいのか。「テロとの戦い」というパラドックス(背理)について,なぜ,考えようとはしないのか。オリンピックが最大の攻撃対象とされる原因を,なぜ,取り除こうとはしないのか。徹底的に攻撃するだけでいいのか。いつまで,終わりのない「戦争」をつづけるつもりなのか。

こんな疑問が,つぎからつぎへと,浮かんでくる。問いを立てていくと際限がないほどだ。オリンピックは,もはや,「世界」というものの現状を映し出す絶好の素材となっている。いやいや,オリンピックは「世界」の写し鏡なのだ。「世界」の諸矛盾がすべて凝縮されて,露呈される「場」,それがオリンピックなのだ。

インターネット上の情報によれば,以下のようだ。
英国防省は15日,来夏のロンドン五輪の警備に約1万3500人の兵力と海軍艦船や地対空ミサイルを投入することを明らかにした。
英政府は当初,警察約1万2000人の警備態勢を想定していたが,「何十年かに一度の大きな行事で,安全確保に万全を期す」(ハモント国防相)との方針で大規模な兵力が投入されることになった。しかし,「アフガニスタン派遣部隊(約9,500人)よりも多くの兵力が必要か」(BBCテレビ)など疑問の声も出ている。
国防省の計画によると,投入される部隊は,競技会場の警備のほか,爆発物処理に備えるなどの役割を担う。ロンドンのテムズ川には,英海軍で最も大型の強襲揚陸艦「オーシャン」が停泊して警戒にあたるほか,戦闘機が地対空ミサイルを配備して空からの攻撃にも備えるという。

これは,もはや,完全なる「戦時体制」そのものである。さあ,どこからでも攻めて来い,と待ち構えている態勢そのものではないか。ここまでしてオリンピックを開催する意義はどこにあるのか。

去る15日には,2020年のオリンピックを東京に招致することを閣議決定した,という情報が流れている。表向きには,東日本大震災から復興した日本の姿を世界にアピールするため,とうたっている。しかし,本音は,全然別のところにあるのではないか。

もし,東京開催が決まったとすれば,日本もまた,ロンドンと同じような「戦時体制」を敷かなくてはならないだろう。いや,それ以上の警備態勢をとらなくてはならなくなるだろう。ということは,つまり,東京オリンピック招致の最終目標は防衛力(=戦闘能力)の増強にほかならない。すなわち,自衛隊を軍隊化させるための絶好のお膳立てであり,体のいい軍事訓練を行うことだ。こうして防衛予算も拡大させることが可能となる。

そうか,イシハラ君の狙いはそこにあったか。軍事力という点では,中国に舐められ,北朝鮮に舐められ,韓国にもいいようにあしらわれて,イシハラ君は頭にきているに違いない。冗談じゃない,と。近隣諸国から,日本国がこんなに軽くあしらわれていていいのか。これは日本の恥だ,と言いたいのだろう。しかし,そこまであからさまに言うだけの勇気もないので,とりあえず,オリンピック招致という手にでた「野田」ろう。オリンピックの「平和」という名の隠れ蓑を着て,じつは「戦時体制」の強化を狙うこと。衣の下から鎧が透けてみえてくる。

ロンドンの面積は,1,610平方キロ,人口:696万人(1994年),それに引き換え,東京の面積は2,186平方キロ,人口:1,157万人(うち,23区で783万人)。その上,ロンドンは周囲を田園に囲まれた独立都市であるのに対して,東京はその周辺を多くの大都市に囲まれ,いわゆる巨大な首都圏を構成している。その面積も人口も,ロンドンの何倍にも相当する。ここを眼にみえない敵から守るためには,これまたロンドンの何倍もの「軍隊」が必要となってくることは必定だ。いったい,どうやってオリンピックを開催しようと言うのだろうか。

オリンピック招致もまた,原発推進とまったく同じ手法で,強引に推し進められつつある。オリンピックの「平和運動」もまた,原発の「安全神話」とまったく同じ構造をもっていることは,もはや,指摘するまでもないだろう。

東京都民だけではなく,首都圏住民として,いやいや,日本人として,東京オリンピック招致の是非論を立ち上げていかなくてはならない。都民,住民,国民を無視して,イシハラ君とドジョウ君とが手を結んで,オリンピック招致に突っ走っている。しかも,巨額の招致資金を使って。その上,わたしの予想では,東京が選定される可能性はほとんどないにもかかわらず・・・・。無駄な労力と資金の浪費以外のなにものでもないのに・・・・。

2011年12月16日金曜日

イベント「けんちく体操ナイト」を楽しんできました。

昨夜(15日)はイベント「けんちく体操ナイト」(20:00~22:00)があって,しっかりと楽しんできました。場所は,神田・岩本町の「ワンドロップカフェ」。ほぼ,満員になる盛況。

もともと『けんちく体操』なるものとの出会いは,アルシーヴ社の佐藤真さんのご紹介で書評をさせていただいたのが,はじまりです。書評をする都合上,かなり丁寧に読んで(眺めて)いるうちに,意外なことがひらめきました。これはひょっとしたらとてつもない仕掛けになっているのではないか,長い体操史の視点から考えると,ひょっとしたら革命的なできごとではないか,とひらめきました。

が,書評の原稿の方は,わずか800字足らずの分量でしたので,ほんのさわりの部分に触れただけで終わりでした。これだけでは,とても満足できなくなってしまいましたので,このブログを利用して,かなりの分量を2回に分けて書きました。(このブログを検索してくだされば,見つかります)。

そのブログをいちはやく,「けんちく体操ウーマン・1号」こと田中元子さんがみつけて,すぐにコメントを入れてくださいました。一度,お話がしたい,と。わたしも喜んで「ぜひとも」と応対しておきました。が,わたしの方もなにかと忙しくしていて,そのチャンスに恵まれないまま,時間が過ぎていました。

そこに朗報が入りました。『けんちく体操』の書籍版が好評なので,それの映像版(DVD)を制作して12月7日には発売する,ついては,これを記念して「けんちく体操ナイト」なるイベントを開催したい,ついては,その一部となる「トークショー」に出演してほしい,と。タイミング的には原稿をたくさん抱えていて大変なときではありましたが,このチャンスを逃す手はない,と判断して快諾。この日を心待ちにしていました。

以上が,わたしと「けんちく体操」との出会いとこれまでの経緯です。

さて,最初の1時間は,ワークショップがあって,参加者全員で,まずは,「けんちく体操」を体験。
「けんちく体操博士」こと米山勇むさんの指導のもと,パワーポイントを使って,テーマとなる建築物の名前当てクイズからはじまり,正解がでるとその建築物の映像が映し出され,それを2人,3人で表現します。最初は,基本ワザでからだ慣らしをした上で,少しずつレベルをあげて難題に取り組みます。最後は,10人ほどの集団で一つの建築物を表現しました。

わたしは「けんちく体操」なるものを体験するのは初めて。にもかかわらず,すぐに童心にかえって,初対面同士もなんのその,和気あいあいで,声を掛け合い,アイディアを出し合って,一つの作品を仕上げていく。それも,ほんの数分の間に。「けんちく体操博士」の解説によれば,「スピード」も重要な要素だ,といいます。つまり,直感力が求められているわけです。

米山博士の話術にも乗せられて,みんな汗だくになって,夢中になって取り組む姿をみながら,この「けんちく体操」なるものの奥の深さを感じていました。1時間があっという間でした。

これが第一部。約10分ほどの休憩をはさんで,第二部の「トークショウ」に。
けんちく体操博士・米山勇さん,けんちく体操マン1号・高橋英久さん,けんちく体操ウーマン1号・田中元子さん,けんちく体操マン2号・大西正紀さんの4人のなかに,わたしが加わってトークショウのはじまりです。この内容は長くなりますので,機会を改めて紹介したいと思います。

このときの写真を紹介しておきましょう。


わたしの横に立って,メモをとっているのは読売新聞社の伊藤紘二記者。少しあとになるけれども,記事にする,とのこと。写真も撮っていましたので,どんな記事になるのか,楽しみ。
トークの内容については,いずれまた。
取り急ぎ,昨夜のご報告まで。

追記。大阪から二人の友人がかけつけてくれました。また,ご縁をつくってくださった佐藤真さんとも久しぶりにお会いしました。その他にも友人が参加してくださり,嬉しいことでした。

2011年12月15日木曜日

日本余暇学会の講演原稿(近代スポーツ競技と原発は一心同体?)にとりかかろう。

10月に依頼されていた原稿がいまだに書けないままになっている。12月20日が締め切り日。原稿というものは不思議なもので,締め切り日が近づいてこないとエンジンがかからない。今日はすでに15日。のんびり屋のわたしも,ようやく焦りはじめている。さあ,これからだ。

でも,今日の夜は「けんちく体操ナイト」というイベントがあって,そのトークの部に参加することになっている。となると,どことなく「けんちく体操」の方に頭が向かっていて,落ち着かない。今日は原稿には手がつけられない。明日も夜に,ちょっと重要なミーティングがある。こうなると,今日・明日と二日は駄目だ。19日からは,神戸市外国語大学の集中講義に出発。ということは,17日・18日の二日しかもう残りはない。

今日はとりあえず,原稿の骨子だけでも固めておこう。原稿の内容は,10月9日に日本余暇学会で行った講演をまとめる,というもの。しかも,20枚(400字)程度で,という。これもちょっと中途半端なボリュームなので,そこがネックになっている。つまり,50枚くらいだと,かなり前から気合を入れて準備に入るのだが,20枚くらいだったら気分が乗ればすぐに書ける,という甘えがわたしのなかにある。そこが落とし穴だ。

でも,もはや待ったなしだ。すぐにも取りかからなくてはいけない。
そこで,少しだけ準備に入ることにした。

10月に行った講演のタイトルは「『3・11』後の日本人の生活とスポーツ文化の行方」──「公」と「私」のまじわる場所で,というものだった。これはかなり念入りに準備をして,資料も提出して臨んだのだが,結果は支離滅裂の話になってしまい,消化不良をさらけ出したような,恥ずかしいものになってしまった。しかも,時間切れで,落しどころまでたどりつくこともできないまま,話の途中でプツンと終るという情けない結末だった。

1時間30分という講演時間に対して,内容をてんこ盛りにしすぎたのだ。だから,これを思いっきり無駄なところを削って,核心部分だけを抽出する必要がある。20枚の原稿というのはそういうものだ。こちらの方の手加減はいくらか心得がある。しかも,一度書いたものを修正することもできる。しかし,講演はライブなのでそうはいかない。一度,方向を間違えると,とんでもない方向に暴走をはじめてしまう。そうなると,もはや,引き戻すことができなくなってしまう。日本余暇学会では,そういうことが起きてしまった。残念。

だから,原稿の方でなんとか汚名を挽回しなくてはならない。折角,学会誌に掲載してくださるというのだから,ここは,なにがなんでも頑張らなくてはならない。少なくとも,活字にして残すだけの価値のある内容にまとめなくては・・・・。

そこで,まずは,タイトルも少しだけ工夫を加え,書きやすくしようか,と考えている。
たとえば,「『3・11』以後の日本人のライフスタイルとスポーツ文化の行方」──「公」と「私」のまじわる場所で,という具合に。そして,とりわけ,「3・11」以前までのわたしたちのライフスタイルをふり返り,どこに問題があったのかを明確にすること,同時に,「3・11」以前までのスポーツ文化とはなにであったのか,その問題点を浮き彫りにすること,その上で「公」と「私」の問題を考えてみよう,といまのところは考えている。

なかでも,ライフスタイルの問題点としては,あまりに電力に依存しすぎる,わたしたちの「甘え」の構造をしっかりチェックすること,しかも,「過剰」ともいえる家電製品に取り囲まれた安穏なライフスタイルはここ30年足らずのうちに起きた,きわめて特異な現象であること,だから,もう少し手間隙がかかっても質素な生き方を選択すべきところにきているのではないか,と。「ものの豊かさ」の追求から「こころの豊かさ」に舵を切る絶好のチャンスではないか,と。

スポーツ文化については,少しラディカルに問題提起をしてみようと思う。
素朴で長閑な,祝祭的な時空間のなかで展開していた「スポーツ的なるもの」が,近代に入って急速にルールや組織が整備されて,いわゆる「近代スポーツ」としての体裁を整える。そして,このルールのなかでの「競争原理」が推奨され,「優勝劣敗主義」を錦の御旗に仕立て上げ,近代国民国家を支える優れた国民教育に利用されたばかりでなく,植民地政策の尖兵として「近代スポーツ」は予想をはるかに超える大きな役割をはたしたのではないか,と。そして,このロジックは,もののみごとに「資本主義」と歩調を合わせ,みるみるうちに世界に浸透していくことになった,と。

言ってみれば,オリンピックやワールドカップなどは,欧米のスポーツ文化による「世界制覇」をなし遂げた典型例ではないか。この流れは,まさに,「資本主義」による「世界制覇」と表裏の関係にあった,と考えることができよう。

つまり,競争原理,優勝劣敗主義,効率主義,経済原則・・・等々はみんな同じ腹から生まれた兄弟なのではないのか。だとすれば,近代スポーツ競技をささえ,それを過剰な競争原理の世界に導いていき,アスリートたちの身体がぼろぼろになるまで追い込まれていくロジックと,「いのち」の保障もできないまま原発導入に突っ走っていくロジックとは瓜二つではないか,と。

ここまで追い込むことができれば,ここにこそ「公」と「私」の交わる典型的な「場所」を見届けることができるのではないか・・・・とわたしは考えるのだが・・・・。スポーツはだれのためのものなのか,そして,原発はだれのためのものなのか,と。

そして,ここまで考えてくると,「公」と「私」という近代が生み出した二項対立的な思考方法そのものが,すでに限界にきているのではないか,ということが新たに浮かび上がってくる。つまり,「3・11」は,近代が生み出した思考方法や,それによって構築された制度,組織,法律・・・等々にいたるまでの諸矛盾を一気に露呈させてしまった,というべきではないのか。だとしたら,わたしが『スポーツの後近代』(三省堂)でも提起してきたように,時代そのものが「近代」から「後近代」へと転換せざるを得ない情況が,こんどの「3・11」によって,わたしたちの眼前に提示されたと,わたしは考えたい。

さて,これだけの内容のものを,20枚で書く,それだけの力量がわたしにあるかどうか。でも,折角のチャンスなのでチャレンジをしてみたいと思う。

バタイユは『宗教の理論』の「緒言」で,繰り返し述べているように,このテクストは「素描」(エスキス)である,と。運動性の豊かな思想・哲学は,たえず流動的で,つぎつぎに進化していくものであって,最終的な結論などというものはありえない。だから,「素描」をすることが必要なのだ,と。つまり,断言してしまうことによって,その思想・哲学は歩みを止めてしまう。そうではなくて,「未完了」や「不可能性」の思想・哲学に挑むには「素描」(エスキス)がもっとも有効なのだ,ということを説いている。

このバタイユの言説に勇気をもらって,わたしもささやかな,ほんとうに,ささやかな「素描」を試みてみることにしよう。12月19日の朝までには,原稿が仕上がりますように。

2011年12月14日水曜日

城南信用金庫が「脱原発ビジネス」を本格的に支援するという話。

今日(14日)の『東京新聞』に,城南信用金庫の吉原毅理事長の談話が写真入りで大きく取り上げられている。それによると「脱原発ビジネス」を本格的に支援していくという。

早い時期に「脱原発」宣言をした金融機関として注目を浴びてきたので,いまでは城南信用金庫の名前を知らない人はいないだろう。わたしは,その情報を知って,いちはやく城南信用金庫・鷺沼支店に口座を開設した。そのときの話は,すでに,このブログで書いたとおりである。ほんのわずかな,ささやかな普通預金に過ぎないが,吉原理事長の心意気に賛同して,わたしなりの支援の意志を表明したつもりである。

だから,このような記事に触れると,なんだかわがことのように嬉しい。つい,この間も,東電からの電力購入を止めて,PPS(電力の小売業者である特定規模電気事業者)から購入することに決めたという報道があった。こういうシステムがあることを知らなかったわたしは,そういう方法もあるのか,と眼からうろこであった。

この話が,今日のインタビューにも紹介されている。以下は,吉原理事長の談話の一部。
「電気が足りなくなるから原発は止められないという議論がある。ならば東電が供給すべき電力を減らそうと考えた。東電の供給電力のうち,原発で賄っている分を減らせば原発を止められるはずだ。
電力の小売業者である特定規模電気事業者(PPS)から電気を買う。全国に47社あるPPSは,原発を一つも持っておらず,企業から買い取った余剰電力などを販売している。しかも電気代は大手電力会社より安い。原発に依存しない社会にぴったりの選択肢なのに,あまり知られていない。現在,PPSのシェアは3%だが,需要が増えれば事業者は設備を増強し,供給は増える。」

と語り,さらに,「PPSは50キロワット以上の(高圧契約をする)需要家なら利用でき,マンションや町工場,学校も対象になる。変更の手続きも書面で簡単にできる。小冊子をつくり,店頭や営業活動で顧客に説明したい」という。

すでに,ソーラー・システムの導入については支援をはじめており,一戸建ての屋根やビルの屋上などに設置しようとする人たちのための融資と事業者の紹介を行っている。そのためのパンフレットも店頭に置いてあるし,HPにも紹介されている。ソーラーの導入についてはいろいろの方法があるようだが,素人には,このような信頼できる金融機関が間に入ってくれると安心である。わたしが一戸建てに住んでいたら,すぐにも駆け込みたいところだ。

この吉原理事長の談話の下には,城南信用金庫の取引先である相模原市の中小企業有志が,家庭で手軽に使える節電商品を共同開発した,という記事が載っている。各家庭で,いま設定されているアンペア数を可能なかぎり低くするための測定器だという。10アンペア低くするだけで,電気代は相当に安くなる,という。どこの家庭も,標準のアンペア数で設定されているので,やや高めになっている。小家族であれば,一度に使用する電気器具を上手にコントロールすれば,最低のアンペア数で間に合うそうだ。そのための測定器だという。

普通に開発すると1000万円ほどかかるが,複数の事業者がみんな手弁当で負担し,80万円に抑えて,販売価格も5000円程度にしたいと考えている,とか。こういう自発的に「節電」のための器具を開発する人たちもまた,吉原理事長の話を聞いて,一念発起したのだそうだ。これからは,こういう「節電」のためのアイディア商品が,つぎつぎに出回ってくるのだろう。こんな小さな巷の町工場の努力が積み重なると大きな力となる。偉いなぁ,と感心する。それに引き換え,原子力ムラに寄り掛かって,楽して儲ける(数量的合理主義というのだそうな)ことばかり考えている大手メーカーの猛省を促したい。これからは数字ではない,ハートです,と教えてやりたい。

東電はいまもなお,計算方法をごまかして,原発のコストは安い,と主張している。なにをとんちんかんなことを,この後におよんで,よくぞ平気で公表できるものだ,とあきれ返ってしまう。この人たちには,人間の「ハート」はひとかけらもないのか,と直談判がしたくなってきた。社員のすべてがそんな人たちばかりだとは思いたくないが,それでもなお東電という会社にしがみついているところをみると,よほど美味しい汁を吸っているに違いない。そのうちに,だんだんと人間の「ハート」を忘れて,気がつくと「数字人間」になっていくのだろう。

その点,城南信用金庫で働いている人たちは,じつに溌剌としている。なにか困っていると,気づいた人が,デスクの奥の方からでも飛び出してきて応対してくれる。役職に関係なく,気づいた人が対応してくれる。だから,気分がいい。ついつい,「応援してますよ」と声をかける。すると,元気のいい声で「ありがとうございます」とかえってくる。ときには,「みなさんにそう言っていただけると励みになります」という社員もいる。

吉原理事長のコンセプトが社員の末端まで行き届いていることが,直に伝わってくる。1000円でも,2000円でも残高を増やして,ささやかながらも応援していきたいという気にさせてくれる。こんなことでさえ,人間は気分がよくなり,その日一日は幸せになれる。小さな感謝と小さな支援。その積み重ねが人生であってほしい,とみずからに語りかける。こんな日々を少しでも多くしたい,と祈りたい。

「お前,いつから,そんなにいい子になったんだい?」と天の声(笑い)。

2011年12月13日火曜日

バタイユ『宗教の理論』・総ざらい篇・『聖ジュネ』におけるサルトルの悔悟について。

「緒言」の最後の文章の末尾に,訳者注(2)が付してある。その最後の文章とは,前のブログにも書いたが,とても重要な内容を含んでいるので,もう一度,引用しておこう。

「この『宗教の理論』が衝こうとする背理(パラドックス),すなわち個人を『事物』にし,さらにまた内奥性の拒否としてしまうこの根本的な背理は,おそらくある一つの無力さを明るみに出すであろうが,この無力さの叫びこそ最も深奥にある沈黙への前奏曲となるのである。」

この文章の末尾に訳者は,つぎのような注(2)を付しているのである。
「第三資料(タイプ原稿)には,この箇所に次のような手書きの書き込みがある。「『聖ジュネ』におけるサルトルの悔悟を,注として引用すること」。知られているとおり,バタイユはサルトルの『聖ジュネ』(ガリマール,1952年)に関して,重要な論評を行ったが(『クリティック』誌,65号,66号,1952年10月-11月),それは『文学と悪』に収録されている。」

そこで早速,バタイユ著『文学と悪』(山本功訳,ちくま学芸文庫)を引っ張りだしてきて,再読してみる。以前に読んだときにも強烈な印象があったが,こんどは,きちんとした問題意識をもって読むので,これまた非常に面白い。すなわち,バタイユが手書きで書き込みをしたという「『聖ジュネ』のサルトルの悔悟」とは,なにを意味しているのか,ということだ。

その前に,サルトルとバタイユの関係を確認しておこう。サルトルとバタイユは同時代の人間だが,まったく対照的な生き方をした。サルトルは早くから哲学者として脚光を浴び,日の当たる道を歩むが,バタイユは,最初から地下活動をとおして発売禁止になるような著作をペンネームで発行する。しかも,その思想・哲学は時代をはるかに先取りした内容であったために,いわゆるアカデミズムの世界からは無視・排除されてしまった。その残像はいまの日本のアカデミズムにもある。思い切って二人を対比させれば,以下のようになろうか。サルトルはフッサールやハイデガーに学びつつ,実存主義を唱えたけれども,結局は,近代アカデミズムの路線を踏み外すことはなかった。が,それに対して,バタイユは,最初からアカデミズムを否定し,ヘーゲルを超克し,ハイデガーを批判的に乗り越え,ニーチェを生きると宣言した。だから,サルトルは戦後の日本にもいち早く紹介され,『存在と無』などは,わたしの学生時代にも本屋で平積みになっていた。しかし,バタイユは,一部の識者の間では,熱烈に支持されていたが,その著作が日本で紹介されるようになるには,相当の時間を要した。時代がバタイユを受け入れることができるようになるには,あまりに時間がかかりすぎたということだ。しかし,「3・11」以後の,日本のみならず,世界を考える上で,わたしの導きの糸はバタイユにますます傾斜しつつある。いまこそ,『宗教の理論』を精読する絶好のタイミングではないか,とわたしは確信している。

思いがけず長くなってしまったが,ここは重要なところなので,お許しいただきたい。
さて,問題のサルトルが書いた評論『聖ジュネ』である。ジュネとは,わたしたちの記憶に残っている作品でいえば『泥棒日記』がかれの代表作と言ってよいだろうが,作家のジャン・ジュネのこと。いろいろの事情があって,貧民救済施設で育ち,幼少時より悪の道に走り,少年院を転々としながら成長するのだが,成人してもその習性は納まらず,刑務所入りをくり返しながら無頼と放蕩の生活を送った。30歳をすぎたころから,自分の経験を主題とする,読者を驚かせるような小説を書きはじめる。いずれも,悪を礼賛するような内容の小説ばかりなのだが,人間の内奥に潜む普遍の問題についての描写が高く評価された。

サルトルもまた,ジャン・ジュネを高く評価したひとりである。そして,ついには『聖ジュネ』という大作書いて発表。大きな話題を呼んだ。しかし,バタイユは,この『聖ジュネ』を読んで,この作品はサルトルの最高傑作であると持ち上げつつ,サルトルは根底的なところで勘違いをしている,と鋭い批判を展開。その内容を紹介するスペースはここにはないので,それは集中講義の中で行うことにしよう。しかし,さわりの部分だけは,ここで触れておこう。

バタイユがサルトルを評価したのは,サルトルがアカデミズムの閉鎖的な社会から一歩踏み出して,ジュネのような悪を礼賛するような小説を,異常とも思える情熱を傾けて論評する姿勢である。そして,ジュネの作品評論をとおして,サルトル自身もまた,初めて赤裸々な思想・哲学を曝け出している,この姿勢は素晴らしいと褒めたたえる。しかし,ジュネの悪の世界のよき理解者であり,その世界を承認しているかに見せかけておいて,最終的には,ジュネの提起している本質的な問題を読み切ることができないまま,きわめて曖昧な結論にいたる,それは結局はジュネの世界を排除するに等しいのだ,とバタイユはサルトルを断罪する。

つまり,「サルトルの悔悟」とは,ジュネの作品に触れ,それによって啓発されたみずからのそれまでの姿勢に対する悔悟のことを指しているように思われる。しかし,一見したところ,いかにも悔悟の姿勢をとっているようにみえるけれども,実際には,そうではない,とバタイユはいう。その理由は,「緒言」の末尾の文章に暗示されている,とわたしは解釈する。すなわち,「個人を『事物』にし,さらにまた内奥性の拒否としてしまうこの根本的な背理は,おそらくある一つの無力さを明るみに出すであろうが,この無力さの叫びこそ最も深奥にある沈黙への前奏曲となるのである」,というところに。根本的な背理までは,サルトルも理解した上で,ジュネを礼賛したけれども,そして「一つの無力さ」も理解したはずなのだが,「この無力さの叫びこそ最も深奥にある沈黙への前奏曲となる」というところまでは理解が届かなかったのではなかろうか。その点を,バタイユは『文学と悪』の中に収録された批評である「ジュネ」をとおして,詳細に展開している。

これを書きながら,いま,わたしの脳裏に浮かんできたひとつの情景がある。DVDになった映画『わたしを離さないで』のラストの方でのワン・シーンである。臓器提供者としての宿命から逃れられるかもしれないという最後の望みを託して交渉に行くが,それは単なる幻想にすぎなかったということを知り,夜道を走る車を,荒れ果てた原野で止めてもらい,そこから降りてひとりになり,絶望のあまりに「絶叫」する。なすすべはもはやなにもない。個人を「事物」にし(臓器提供者),内奥性の発露(魂の表出としての絵画)も拒否され,まさに「無力さ」が明るみにでてきて,ついに「無力さの叫び」をあげるしかなくなってしまったトミーの姿が,いま,わたしの脳裏にさらなる精気を帯びてまざまざと浮かんでくる。

しかも,バタイユは,「この無力さの叫びこそ最も深奥にある沈黙への前奏曲となるのである」と,なにやら暗示めいた文章で,この「緒言」を閉じている。つまり,「最も深奥にある沈黙」とはいったいなんなのか,それを問い詰めることがこのテクスト『宗教の理論』の最終ゴールなのであろう。そのための「素描」(エスキス)である,と。

さてはて,集中講義が楽しくなりそうだ。
いよいよエンジンがかかってきたようだ。

2011年12月12日月曜日

バタイユ『宗教の理論』・総ざらい篇・素描(未完了,不可能性)ということについて。

バタイユは,このテクストの緒言の冒頭で,つぎのように書き記している。
「この『宗教の理論』は,一つの完成した仕事ならばそうなるはずのものの素描(エスキス)である。私はある運動性に富む思想を,その最終的な状態を求めることなく表現しようと試みたのである。」
という断り書きからはじめている。しかも,この文章の末尾には「注1.」が付されている。そして,その「注1.」を確認してみると,これがまた4ページ(P.163~166.)にもおよぶ長いものである。

その「注1」は,つぎの三つの柱で構成されている。
(a)この「宗教の理論」は,一つのエスキスである。
(b)本書が従った方法に関する一つの重要な保留条項について。
(c)ここでさらに私はこの叙述の一般的な原則を,緒言のうちに提示しておかなければならない。
順次,読解をしてみると以下のとおりである。

(a)この「宗教の理論」は,一つのエスキスである。
本文でも同じことを言っているのだが,このテクストはあくまでも「素描」(エスキス)である,という。なぜなら,思考の成熟を待つ前に,浮かんできたアイディアを,とりあえず書き記しておこうと考えたからだ,とバタイユはいう。つまり「運動性に富む思想」は,そのときどきにわき上がってくる発想を,とりあえず書き記しておくことが重要だというのである。そして,絵画の例をひく。「画家の積み重ねる努力がそのエスキスの形のままで,完成したタブローよりももっと多くの重要性を孕み,もっと興味をそそるように思われる時が生じるという事態である。」その上で,バタイユは,「一軒の家」と「作業現場」という比喩をもちいて,巧みに,このテクストの位置づけをしている。つまり,ある完成された思想は「一軒の家」のようなものだが,つぎつぎにアイディアが浮かびつつある,流動的な思想は「作業現場」のようなものだ,と。だから,このテクストは,いま,まさに,いくとおりにも書き換え可能な「作業現場」で織りなされた思想の一端を書き記したものである,と。

これを読みながら,わたしは画家のピカソのことを思い浮かべていた。写実からはじまって青の時代を経て,という具合につぎつぎと新境地を開いていき,ついには「立体派」と呼ばれるような平面の画布に立体を表現するという独特の手法にたどりつく。そして,さらには,抽象画に到達する。たとえば,ピカソの代表作といわれる「ゲルニカ」という絵を描くにあたって,ピカソは,じつに多くの素描(エスキス)を重ねている。それらの素描は,ときには,完成された「ゲルニカ」よりもはるかに雄弁にある情況を語っていることがある。つまり,素描の積み重ねがバタイユのいう「作業現場」であり,作品「ゲルニカ」が「一軒の家」というわけである。(一頭の牛を抽象画として描いた作品があるが,このときもまた「一軒の家」に到達するまでに,40枚余の素描が「作業現場」では描かれている。その過程(プロセス)が,わたしのような素人には,感動的だった。素描の一枚一枚が,わたしからすれば,立派な「一軒の家」なのだ。)(陶器のような焼き物も,アートの世界では同じ)。

(b)本書が従った方法に関する一つの重要な保留条項について。
ここは短いので,そのまま引用しておこう。
「とり急いで素描したこの概要においては,私は用語法を綿密に定めるまでに至らなかったが,その点に関しては償いようのない不都合であると認めねばならない(もっとも敏速に公表できるという可能性がそのおかげで与えられた面は別として)。
哲学的思考は完了することがなく,その未完了から自らの価値の一部分を引き出すと私は述べたがそれと同じことを,まだ十分厳密に定められていない用語法に関して主張するわけにはいかぬだろう・・・」

(c)ここでさらに私はこの叙述の一般的な原則を,緒言のうちに提示しておかなければならない。
ここも,全文,引用しておこう。
「私は歴史上所与の諸形態(たとえば『供犠』とか『資本主義』のような)を,諸々の事実の歴史的な継起とは別の地点で表している。
私は論理的な順序を考慮しているのであって,年代順的な継起をそうしているのではない。それはちょうど『精神現象学』において,本来的な意味での歴史が外側に残されているのと同じである。どう見ても歴史は,その歴史がまさにそれらの結果としてあるような諸々の要請に,不承不承という仕方によってしか応えようとはしなかったと思える。歴史のめまぐるしい紆余曲折は,おそらく野原のなかで一匹の犬が行う右往左往に似ていたのである。
それにもかかわらず私が動物性から記述し始めるのは,総体としては私が時間の継起とともに展開した出来事を辿ろうとしたということを示すものである。」

以上のことを確認すると,本文の「緒言」では難解だった「未完了」とか「不可能性」の意味が明確になってくる。バタイユは,こうして,何回も何回も「素描」を積み重ねていくことの重要性をはっきり意識して,このテクストも書いていたのである。言ってしまえば,「作業現場」の手の内を,そのまま公表することによって,さらに,思想を練り上げることを目指していたのだ。このことを,わたしたちは銘記しておこう。

2011年12月11日日曜日

バタイユ『宗教の理論』・総ざらい篇・人間性のパラドックス(背理)ということについて・その2.

前回のつづき。
未完に終っているので,その補填をまずさきに。
「いかにして,必要性による行動に服従している思考,有用な区切りを立てるよう定められている反省的思考から,自己意識へと,すなわち本質なき──が,意識的な──存在の意識へと横滑りしていくのか,という問いが結ばれているのである。」

ここで言われている「横滑り」という言いまわしが,バタイユのテクストにはときおり顔を出す。「必要性」や「有用性」の思考から自己意識へと「横滑り」していくという,ここのところをどのように読み解くかが重要なところであろう。

そのキーとなるのは「自己意識」だろう。コジェーヴの引用文のところでも考えたように,動物性のレベルでの欲望からは「自己感情」しか生まれないが,動物性から人間性への移行期にいたってようやくその欲望は「自己意識」を立ち上げるようになる,という。つまり,ここでいう「自己意識」とは,ヘーゲルがいう自己意識とは,若干,異なるということを念頭におく必要があろう。つまり,ここでバタイユがいうところの「自己意識」とは,まだ,理性とは無縁の,きわめて素朴な,人間性に目覚めた原初の人間の自己意識のことである。

そのことは,「自己意識へと,すなわち本質なき──が,意識的な──存在の意識へと横滑りしていく」という文言からも窺い知ることができる。自己意識とは,「本質なき存在の意識」のことであり,それでいて「意識的な存在の意識」でもあるものだから。「本質なき存在の意識」とは,まさに,動物性の世界に片足を突っ込んだままの「存在の意識」と読み替えてもいいだろう。しかし,同時に「意識的な存在の意識」でもある──こちらは,かなり人間性の世界に踏み込んでいる状態のことを指していると考えていいだろう。

そのことが,同時に,「人間的な情況」から「外」にでることをも意味している。ここが,この『宗教の理論』を読み解くときの重要なポイントとなる。原初の人間が,初めて動物性の世界から人間性の世界に足を踏み入れたときの情況は,こんにちのわたしたちが生きている世界である「人間的な情況」からはほど遠いものである。だから,そこの,ある意味では「中間領域」(動物性と人間性の)に接近して,新たな思考を展開するには,まずは,「人間的な情況」から「外」にでなくてはならない,とバタイユは言うのである。この「中間領域」に移動していくことを「横滑り」と表現する(谷口指摘により一部修正)。なぜなら,一足飛びに,動物性の世界から人間性の世界に移行することは不可能だから。つまり,徐々に,徐々に,動物性から人間性へと移行していく状態を,バタイユは「横滑り」と表現したわけである。

ここまで読み解いておけば,二つめの問題点は簡単である。
「この『宗教の理論』が衝こうとする背理(パラドックス),すなわち個人を「事物」にし,さらにまた内奥性の拒否としてしまうこの根本的な背理は,おそらくある一つの無力さを明るみに出すであろうが,この無力さの叫びこそ最も深奥にある沈黙への前奏曲となるのである。」

このテクストが衝こうとするパラドックスが,手短かに,凝縮したかたちで語られている。ここを,どのように読み解くかは,かなりの個人差があろうと思う。だから,とりあえず,わたしの読解を提示しておくので,みなさんで議論してもらえれば幸いである。

まずは,「個人を『事物』にする」というパラドックス。「事物」とは,本文にでてくるルビによれば「ショーズ」のこと。事物の前の段階は,「もの」そのもの(オブジェ)。原初の人間は,まず,他者の存在に気づく。その最初の他者が,すなわち「もの」(オブジェ)。「水の中に水があるような存在」,すなわち,動物性の世界にあっては他者はありえない。しかし,原初の人間は,動物性の世界から,ほんの半歩ほど外に踏み出した瞬間に「水ではない」なにか別の他者の存在に目覚める。それが最初の他者,すなわち「もの」そのもの(オブジェ)。

そのオブジェの存在があるとき意味をもち始めることになる。つまり,役に立つ道具となる。石や棍棒などは,その原初の人間の道具であった。このとき,石や棍棒は他のものたちとは別の「事物」(ショーズ)として,はっきりと人間に認識されるようになる。つまり,人間にとって特別の存在となる。「事物」とはそういう存在のことだ。

しかし,やがて人間は,みずからの存在をも事物とするようになる。道具を事物として取り扱うようになると,人間は道具なしには生活できなくなってしまう。つまり,道具と人間の逆転が起こる。道具を駆使しているつもりの人間が,やがて,道具に人間が束縛されることになり,ついには,道具と人間は同格になってしまう。すなわち,人間の「事物化」である。

このことが,もっとも端的に進行したのは,植物の栽培であり,動物の飼育である。植物を栽培しているつもりの人間が,いつのまにか栽培植物の「事物」になってしまう。動物の飼育も同じである。栽培や飼育という人間の営みが,いつのまにか栽培させられ,飼育させられる関係性のうちに閉じ込められてしまう。こうして,人間はいつのまにか「事物」となってしまうのである。

しかも,バタイユに言わせれば,いったん「事物」なってしまった人間は,もはや,元にもどることは不可能だという。このパラドックスを衝くことが,このテクストの目論見だと,バタイユは手の内を明らかにしている。

これと同じパラドックスが「内奥性の拒否」である。原初の人間は,動物と同じ「内奥性」の世界に生きていたのだが,次第に「内奥性」の世界から人間性の世界に移行するにしたがって,やがて,内奥性を拒否するようになる。かつての故郷である動物性,すなわち,内奥性を忌避し,ついには拒否するようになる。それが,こんにちのわたしたちの現実の姿なのだ。

しかし,そのことによって,わたしたちは説明不能の「無力さ」に襲われることになる。つまり,存在の寄る辺なさのような,一種の「不安」である。ひとたび,その不安に襲われると,わたしたちは当てもない「叫び声」を発したくなる。この叫びこそ「もっとも深奥にある沈黙への前奏曲となる」とバタイユは言う。これこそが,祝祭における酒池肉林へと人間を惹きつけて止まない原動力のことではないのか。だとすれば,そこにこそ「宗教的なるもの」の原初の姿が立ち現れるはずであるし,同時に「スポーツ的なるもの」の出現の契機があるに違いない。こんにちのスポーツが含みもつ「闇」のような魅力の源泉は,じつは,ここに行き着くのではないか。

こんなことをわたしは考えつづけているのだが,はたして,どうなのだろうか。多くの人の意見を聞きたいところである。集中講義の楽しみの一つ。

バタイユ『宗教の理論』・総ざらい篇・人間性のパラドックス(背理)ということについて・その1。

これまでの集中講義の折には,飛ばしてきた「緒言」という見出しの短い文章が,テクストのP.13~17.にかけて掲載されている。これまでは,なにげなく読みとばしていたのだが,久しぶりにここを読んでいたら,「えっ?」,「なぬっ?」という直観のようなものがひらめいたので,少しだけ足を止めて考えてみようと思う。

どこが引っかかったかといえば,終わりの方の二カ所。
一つずつ取り上げて考えてみることにしよう。

まずは最初の部分について。
「哲学というイデーそのものに,ある一つの原初的な問いが,すなわちいかにして人間的な情況から外へ出るのかという問いが結ばれている。いかにして,必要性による行動に服従している思考,有用な区切りを立てるよう定められている反省的思考から,自己意識へと,すなわち本質なき──が,意識的な──存在の意識へと横滑りしていくのか,という問いが結ばれているのである。」

「・・・・いかにして人間的な情況から外へ出るのかという問い・・・」。これがバタイユのいう「哲学というイデーそのものに,ある一つの原初的な問い」だというのである。いかにも,バタイユ的な視覚を感じさせる問いではあるが,では,「人間的な情況から外へ出る」とはどういうことを意味しているのか。ここが,この『宗教の理論』を読み解いていく上でキーになるところだ。

わたしたちは,「人間的な情況」にあることに,なんの不思議も感じない。いな,むしろ「人間的な情況」にあることに満足すらしている。あるいは,「人間的な情況」を維持することに生きがいすら感じている。幸せに生きるということは「人間的な情況」を上手に保つことだとさえ思っている。

しかし,哲学的イデーからすればそうではないのだ,と逆説的な問題提起をバタイユはしている。つまり,「いかにして人間的な情況から外へ出るのか」ということが哲学では重要なイデー(理念)なのだ,というのである。ここには,「外へ出る」というもう一つのキーがある。外とは「ex」。バタイユの基本概念の一つである「エクスターズ」(extase)(恍惚,脱自,脱存)の「ex」である。この「エクスターズ」こそが「外に出る」ことそのものを意味している。

ここには,すでに,立派なパラドックスが仕掛けられている。バタイユは,ヘーゲルのいう「絶対知」を対極に設定して,みずからの知,すなわち「非-知」を拠点にして,かれの思想・哲学を展開していく。したがって,ここに何気なく書かれていることは,バタイユにとってはきわめて本質的で,重要な意志表明なのだ,ということがわかってくる。

となれば,「必要性による行動に服従している思考」とか,「有用な区切りを立てるよう定められている反省的思考」というものが,まさに「人間的情況」に生きる思考である,ということもわかってくる。つまり,近代合理主義的な思考そのもののことである。ヨーロッパ近代の論理は「必要性」や「有用性」に思考の軸を置いていることは,もはや,説明するまでもないだろう。わたしたちの,こんにちの生活の価値観の軸はここにあるのだから。

しかし,ここに軸足をとられているかぎり,哲学的イデーをまっとうすることはできない,とバタイユは考える。そのことの意味を説明するために,長い前ふりが,繰り返し,くりかえし述べられている。それは,緒言の冒頭にあるように「私はある運動性に富む思想を,その最終的な状態を求めることなく表現しようと試みたのである」という文章の根拠,あるいは,言い訳ともとれるものである。しかも,この冒頭の文章の末尾には注1.が付されている。

この注1.は,P.162.から166.にいたる,きわめて詳細にわたるものである。この内容をここで取り扱うことは不可能である。したがって,この内容については,講義の中で丁寧に読み解くことにしたいと思う。

ただひとことだけ,断わっておけば,バタイユは,このテクスト『宗教の理論』に限らず,一度,書いた論考に,あとから何回にもわたって推敲を重ねていく,という手法をとっている。それが「私はある運動性に富む思想を,その最終的な状態を求めることなく表現しようと試みたのである」ということの実態である。

このテクストは,その意味では,本文よりも「注」をしっかりと読み込むことが,バタイユの運動性豊かな思想を理解する上では不可欠である。ということは,今回の集中講義では,もっぱら,「注」に光を当ててながらの読解に主眼をおくことが,これまでの読解を補填する上で有効であろうと思われる。

この稿は,思いがけず,長くなってしまったので,ひとまずここで区切ることにしよう。
つぎのブログでは,二つめの問題点をとりあげることにする。

「原発によらない生き方を求めて」,全日本仏教会が異例の「脱原発」宣言。)

12月1日に全日本仏教会は理事会を開き,「原発によらない生き方を求めて」という宣言文を採択した。その要旨が,今日(11日)の『東京新聞』に掲載されたので,紹介しておきたい。

「東京電力福島第一原発事故による放射性物質の拡散により,多くの人々が住み慣れた故郷を追われ,避難生活を強いられている。乳幼児や児童をもつ多くのご家族が子どもたちへの放射線による健康被害を心配している。
 私たち全日本仏教会は『いのち』を脅かす原発への依存を減らし,原発によらない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指す。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく,個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければならない。
 自身の生活のあり方を見なおす中で,過剰な物質的欲望から脱し,足ることを知り,自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くし,一人一人の『いのち』が守られる社会を築くことを宣言する。」

 以上は「要旨」だということなので,実際の宣言文はもっと長いものになっているはず。宣言文の全文は全日本仏教会のホームページでも開けばみつかると思う。あとで,調べてみようと思う。

 いずれにしても,全日本仏教会が「脱原発依存」に踏み切った決断にこころからのエールを送りたい。わたしも道元禅師の教えに帰依する者の端くれにいるひとりとして(別に僧籍にある身ではない),ほっと安堵の胸をなでおろしている。堕落の一途をたどっていた仏教がようやく本来の姿を取り戻しつつある,という点で。

 もともと,鎌倉時代の仏教をみればわかるように,仏教は世の中の諸悪に対して「闘う」姿勢をもっていた。日蓮などはその先頭に立っていた。法然・親鸞にしても,生身で生きる人間にとって仏教とはなにかと問いかけ,その到達点を身をもって提示していた。だから,多くの信者を獲得する力をもっていた。道元もまた,京の都を離れて,福井の地に修行道場を建て,「只管打坐」,ひたすら坐禅に励んだ。贅沢三昧の生き方をすることから遠く離れて,質素な生活の中から仏教の布教につとめている。偉大なる僧たちの共通項はここにある。

 さきの宣言文要旨のなかで,仏教の本来のあり方に立ち返る姿勢が述べられていること,そして,そこから「脱原発依存」を説いている点が,わたしには救いとなった。いま,わたしの周囲でも威勢よく「脱原発」を叫ぶ人が少なくないが,自分の生活態度そのものへの反省もないまま,政府・東電を批判することのみに力をそそぐ人が多いのが気がかりでもある。やはり,「足るを知る」生活,「自然の前で謙虚である」生活,この実現のために「脱原発依存」が必要であることの自覚を,まずは身につけるべきだろう。
 
 『いのち』ということばが二度でてくる。『いのち』を脅かす原発を排除し,『いのち』が守られる社会を築くこと。この単純明快な論理を,まだ,理解しようとしない人びとが少なくないことをこそ,わたしは憂慮する。というよりは,悲しい。情けないとも思う。どうして,こんなかんたんな道理を拒否できるのか,わたしには理解できない。

 これは,イデオロギーでも,信仰でもない。生きものとして身を守る,もっとも基本的な本能のようなものだ。これを否定してしまうような「理性」とはいったい,なんのための「理性」なのだろうか,としみじみ考えてしまう。西谷修さんが『理性の探求』(岩波書店)のなかで,繰り返し訴えていることも,この狂気と化してしまった「理性」を取り除き,「いのち」を前提とした「理性」の復権を求めることにある,とわたしは受け止めている。そして,その根源をなす思想・哲学として,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(ちくま学芸文庫)がわたしの脳裏をかすめていく。

 「いのち」との決別の仕方,「いのち」に向き合うスタンスのとり方,「いのち」を超越する方法,「いのち」のみつめ方(まなざし),「いのち」への接近の仕方,「いのち」との折り合いのつけ方,「いのち」のとりこみ方,などなど。バタイユの『宗教の理論』は,「いのち」と人間がどのように向き合ってきたのか,その折り合いのつけ方が,時代や社会によってどのように変化してきたか,をわたしたちに提示してくれる。

 とりわけ,わたしが興味をもつのは,人間が,動物性の世界から抜け出し,人間性の世界を構築するときに,「いのち」とどのように向き合い,折り合いをつけようとしたのか,という点にある。このとき「理性」が次第にその姿を整えはじめるからだ。そのことと,「宗教的なるもの」の出現とは無縁ではない。しかも,この「宗教的なるもの」に付随するようにして「スポーツ的なるのも」の原初の姿が立ち現れる。つまり,スポーツのオリジンをここまで遡って考えてみたい,という次第である。

 この問題については,20日(火)からはじまる神戸市外国語大学の集中講義で,徹底的にこだわって考えてみたいと思う。「脱原発依存」と「狂気と化した理性」と「1000分の1秒の世界」とは一直線に繋がる連鎖なのだ。この問題系を解く手がかりをバタイユの『宗教の理論』に求めよう,というのが集中講義の趣旨である。

 もう時間が足りないが,全力で準備にとりかからなくては・・・。
 「原発によらないスポーツのあり方を求めて」・・・・「21世紀スポーツ文化研究所」の重要なテーマの一つでもある。

2011年12月9日金曜日

バタイユ『宗教の理論』・総ざらい篇・「欲望」その3.

コジェーヴの言説に耳を傾けてみよう。バタイユが引用した最後のパラグラフで,コジェーヴはつぎのように語る。

人間を受動的な平静さ(キエチュード)の内に維持する認識とは反対に,<欲望>は人間を不安(アンキエ)にし,行動するように促進する。行動はこうして<欲望>から生まれたものであるから,それを充足させようとする傾向を持つけれども,行動がその充足をなし遂げることが可能なのは,その欲望の対象を「否定」すること,それを破壊するか,あるいは少なくともそれを変化させることによる以外ない。たとえば飢えを充足させるためには,食料となるものを破壊するか,あるいは変化させる必要がある。このように全て行動というものは,「否定的」に作用するのである。

このコジェーヴの言説をどのように読み取ればいいのだろうか。まずコジェーヴは,人間としての認識は受動的で平静さの内で維持されるけれども,それとは反対に,動物的な欲望は人間を不安にさせるだけではなく,行動を引き起こさせる,という。このパラグラフからコジェーヴはなぜかさきを急ぐようにして,論旨を急転回させている。ここでのキー・ワードは「不安」(アンキエ)であろう。そして,この不安は,人間的な認識と動物的な欲望との落差(亀裂,矛盾,不整合)によって生ずるものを言っているのであろう。だから,その落差を埋め合わせるために「行動」するようになる,という論の展開になっている。このコジェーヴの指摘する「不安」(アンキエ)と,ハイデガーのいう「不安」(ゾルゲ)とは,考えている位相がかなり違うということを,ここでは注意しておこう(その内容については,授業のなかで解説する予定)。

動物的な欲望が,認識を身につけはじめた人間を不安にし,その不安を解消するために行動を引き起こす。しかし,その行動が欲望を充足させるには,欲望の対象を「否定」する以外にない,という。ここでいう「否定」とは,対象を破壊するか,変化させることを意味している。かつて,「文化の否定性」(川田順造)ということがさかんに議論されたことがあるが,そのひとつの根はここにも存在する。いな,この根こそがもっとも根源的なところに届いている,といった方がいいだろう。その意味で,コジェーヴのいう「否定性」のロジックは注目しておくべきであろう。

飢えを充足させる,というたとえは,一見したところわかりやすいが,なかなかそうそう単純ではない,とわたしは考える。つまり,食料となるものを破壊するか,変化させる必要がある,といとも簡単にコジェーヴは述べているが,はたしてどうか。

バタイユは『宗教の理論』の第一部のなかで,この問題に触れて,かなり重要な問題提起をしている。つまり,この「食料となるものを破壊するか,変化させる」ということの意味について,深い論考を展開している。それによれば,人間が,動物性から離れて人間性の世界に入れば入るほど,存在不安を抱き,ますます不安になってくる,という。その不安を解消させるために,人間性の世界では,食料となるものを「殺して,調理する」ということを始める。それは,美味しく食べるという現代的な意味とはまったく無縁で,むしろ,生き物を殺して食べるということに対する恐怖・不安を解消するための智慧の所産だ,とバタイユは説いている。

動物性の世界にあっては,自他の区別がないので,そのままお互いに食べる/食べられる。つまり,調理などすることはない。その必要も感じない。つまり,自己が食べられることも他者を食べることも同じ位相のできごとにすぎないからである。

しかし,動物性から人間性への移行期にあっては,人間は二つの世界を往来することになる。このとき,人間は動物性へ回帰することを諦め(不可能でもある),逆に,決別を迫られることになる。と同時に,動物性の世界にあっては当たり前であったことに,大いなる不安を抱くようになる。この新たな不安を解消することが,人間にとっての大きな課題となって登場することになる。そのひとつが「食べる」という行為の不安解消の方法だ。

動物のようにそのまま「食べる」ことは,人間にあっては許されない。そこで,まずは,動物を殺すことを供犠として位置づけ,供犠としての儀礼を経たのちの動物を,さらに「調理」することによって,動物性の世界との決別・折り合いをつける。そうしてから,はじめて「食べる」という行為が可能となる。このことが,いわゆる「宗教的なるもの」のはじまりと深く結びついている。そして,同時に,「スポーツ的なるもの」のはじまりもまた,こうした人間の存在不安と深く結びついているのではないか,というのがわたしの現段階での仮説である。

ことほどさように,人間の「行動」はすべて「否定的」に作用するのだ,とコジェーヴは断言する。とすれば,「スポーツ的なるもの」の「行動」はなにを「否定」するために立ち上がり,継承されることになったのだろうか。そこに,なんらかの意味がなければ,原初の「スポーツ的なるもの」は伝承されることなく立ち消えになったはずである。しかし,そうではなかった。

では,いったい,なにが「スポーツ的なるもの」を継承させる原動力となったのだろうか。
この点については,この『宗教の理論』読解のための,耐えざる問題意識として維持していくことにしよう。

以上が,コジェーヴの引用文についてのわたしの読解である。
もちろん,これ以外の読解があって当然である。したがって,わたしの読解とは異なる読解があって,それとのすり合わせをとおして,さらに深い読解を目指したい。

以上,コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』からの引用文の読解まで。

バタイユ『宗教の理論』・総ざらい篇・「欲望」その2.

コジェーヴの引用文の読解をつづけよう。

人間は「彼の」欲望のうちに,かつ欲望によって,あるいはむしろその欲望として──自分自身に対しても,また他者に対しても──,自らを一個の<自己>として,すなわち<非-自己>とは本質的に異なっており,かつ根底的にそれと対立するような<自己>として構成し,啓示するのである。<自己>(人間的な)とは,一個の<欲望>の──あるいは<欲望>そのものの──<自己>である。

人間が<自己>を啓示する,という。啓示するということは,人間の意志によってなされることではない。もちろん,意識にものぼらない。むしろ,神の領域に属するというべきだろう。言ってしまえば,造物主の意のままになるもの,ということになろう。欲望とはそういうレベルの話なのである。人間は,その造物主の手のうちにある「欲望のうちに」「欲望によって」「欲望として」<自己>を構成し,啓示する,という。だから,人間的な<自己>とはいえ,それは一個の<欲望>の<自己>であり,<欲望>そのものの<自己>である,という。

ここでコジェーヴが指摘していることは,わたしたちの常識として理解している自己(意識,認識)を根底かひっくり返す力をもっている。すなわち,人間の意のままにはならないレベルの欲望によって,非-自己が立ち現れ,その非-自己の存在によって,それとは本質的に異なる,しかも根底的に対立するような自己がはじめて出現する(啓示する)というのである。自己とは,最初から,そのように運命づけられている。あるいは,自己とは,所詮,その程度のものでしかない,ということをしっかりと頭に刻んでおけ,とでもいうかのように・・・・。

つづけてコジェーヴはつぎのように言う。
人間の<存在>そのもの,つまり自己を意識している存在とは,したがって<欲望>を当然のものとして含んでおり,またその前提として仮定している。だから人間的現実とは一つの生物学的現実の内部,また動物的な生の内部においてしか構成されず,維持されることはできないのである。しかし動物的な<欲望>が<自己意識>の必要な条件であるとしても,それはその十分な条件ではない。この欲望はそれだけでは,<自己感情>しか構成しないのである。

人間の存在とは,自己を意識している存在である,と断わった上で,それでもなお人間の存在は<欲望>を含んでおり,人間の存在の前提として<欲望>を仮定している,という。つまり,自己を意識する人間の存在であっても,なお神の領域である<欲望>から解き放たれているわけではない,とクギを挿している。ここからあとは,そのまま読み取ることができるだろう。「だから人間的現実とは一つの生物学的現実の内部,また動物的な生の内部においてしか構成されず,維持されることはできないのである」。言い換えれば,人間的な生はどこまで行っても動物的な生の内部から解き放たれることはない,と。

このあとも,そんなに難解であるわけではない。自己意識(これはヘーゲルのいう意味での自己意識と理解していいだろう)を人間が獲得するには,動物的な<欲望>が必要条件ではあっても,十分条件ではない,という。なぜなら,動物的な<欲望>だけでは,<自己感情>しか構成しないからだ,という。つまり,人間的な自己意識を生み出す引き金となるのは動物的な欲望であるが,それだけだとしたら,それは自己感情しか生み出さない,というのである。

では,いったい,人間的な自己意識はどのようにして立ち現れてくるのであろうか。
このつづきは,次回のブログで,考えることにしよう。



バタイユ『宗教の理論』・総ざらい篇・「欲望」その1.

 それ自身によってそれ自身へと,認識(真正な)のうちに啓示された<存在>を,ある「主体」へと啓示される一個の「客体」に変えるのは,すなわちその客体とは異なり,その客体に対立しているような一個の主体によって,その「主体」へと啓示されるある「客体」へと変化させるのは,<欲望>である。

眩暈がするような文章である。これが,『宗教の理論』の目次のあとの,最初のページに,アレクサンドル・コジェーヴ(『ヘーゲル読解入門』)からの引用文として紹介されている小文の書き出しである。ここに引用されているコジェーヴの文章は,最後まで,この調子である。最初に読んだときは,ほんとうに眩暈がした。なんのこっちゃ,と。

何回も何回も,それこそ何十回も読み返しているうちに,あるなにかが氷解したようにすっと透けてみえてくるものがあった。それからあわててヘーゲルの『精神現象学』(長谷川宏訳)を読んでみた。眼からうろこが落ちるように,内容が染み込んでくる。

すでに,ブログで書いているように記憶するのだが,バタイユはアレクサンドル・コジェーヴが講義していた『精神現象学』読解の授業に,かなりの年齢になってから何年にもわたって熱心に通った。そして,バタイユ自身もヘーゲル読解に取り組んだ。このヘーゲル読解をとおして,バタイユの「非-知」(エクスターズ,恍惚)という概念がヘーゲルの「絶対知」と対をなす概念として不動のものとなったことはよく知られているとおりである。

そのバタイユの思想・哲学形成に大きな影響を与えたコジェーヴからの引用が,この『宗教の理論』の冒頭に掲げられていることに,まずは注目しておきたい。

なぜなら,『宗教の理論』の第一部 基本的資料は,動物性の世界から人間が離脱し,人間の世界に移動していく過程でいったいなにが起きたのか,動物が人間になるということはどういうことなのか,その結果,なにが新たに起きたのか,といった問題を徹底的に洗い出している。そのための,きっかけとなった文章が,コジェーヴからのこの引用文ではなかったか,と考えられるからだ。だとしたら,この文章はあだやおろそかにはできない。

その意味で,もう一度,このコジェーヴの文章をじっくりと熟読玩味しておきたい。ここを,どのように通過するかによって,以後のバタイユの文章の読解にも大きな影響がでてくることは必定だからである。しかも,余分な修飾語を削ぎ落したきわめて密度の高い凝縮された文章なので,いくとおりにも読解可能である。しかし,きちんと読みきれていれば,あとは,まっしぐらにバタイユの世界に入っていくことができる。そういう文章だと理解していただきたい。

ところで,このコジェーヴの文章のキー概念は<欲望>である。

さきの引用文の結論は,主体が客体を認識するのは欲望だ,ということ。言い方を変えれば,欲望が主体を開くのだが,そのきっかけとなるのは客体だ,ということ。たとえば,いつも眺めている一本の大木が,ある日,突然,わたしにとってある意味をもちはじめるのは,わたしの欲望だ,と置き換えてもいいだろう。一本の大木は一本の大木として,だれの眼にもその存在は明らかなのだが,その一本の大木が,ある主体にとってある意味を帯びた客体になるのは,主体の欲望だ,というのである。これでも,まだ,ことばが足りない。この場合,わたしという主体と,一本の大木という客体は,まったく異なる存在であり,かつ「対立」しているような存在であるからこそ,主体の欲望が作動する,と言っているように読める。

もう少しつづけてみよう。主体は主体だけでは主体にはなりえない。客体が存在しないかぎり主体は存在しない。客体と主体の間の区別がない状態にあっては,主体は存在しない。すなわち,動物性の世界では,主体は存在しない。もちろん,客体も存在しない。主体も客体もなにもない,「水のなかに水がある」ような状態が,バタイユのいう動物性の世界である。

だから,コジェーヴの引用をバタイユがここにもってきた理由は,動物と人間を分かつ,そのきっかけと根拠を明確にするためなのである。そのキー概念が<欲望>だ,というわけである。

しかも,この<欲望>のはたらきによって,主体と客体は二転三転していく。この議論はまた,のちほど,取り上げることにしよう。いましばらくは,コジェーヴの引用文の読解に取り組むことにしよう。

神戸市外国語大学の集中講義が近づいてくる。

身辺に不如意なことが多く,あちこちに迷惑をかけている。約束していた原稿は,締め切り日がきているのにまだ書けないまま,いたずらに引き延ばしているし,つぎの原稿の締め切り日もすぐそこにきているし・・・・・・。その間に,学会誌の論文査読が3本もあるし(これが全部違う学会)・・・・。困った,困ったの連続である。

その上,神戸市外国語大学の集中講義が20日(火)からはじまる。19日(月)には神戸に入っていないといけない。しかも,こんどの集中講義が,契約上,最後の講義となる。その意味では,3年間,つづけてきた集中講義の総集編ということにもなる。だから,しっかりした準備をしてでかけたい。しかしながら,これまた,不如意。

前期も後期も,集中講義がはじまるかなり前から,このブログをとおして,講義の1回ごとの問題を投げかけておいて,それを手がかりにして授業を展開するという方法をとってきた。この方法は学生さんも覚悟の上でやってくるし,わたしもウォーミングアップとしてとても具合がいい。だから,今回もそうしようと思っていたのだが,そうはいかない。残念。

直近の3回の集中講義では,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)をテクストにして,これをスポーツ史的に読み解くことを試みてきた。テクストのタイトルが『宗教の理論』となっているので,多くの人が意外に思うらしい。しかし,内容を読んでみれば,その疑問はすぐに解ける。ここでバタイユが説いている「宗教」は,既成の宗教とはなんの関係もないからだ。そうではなくて,なぜ,人間は「宗教的なるもの」に惹かれていくのか,なにゆえに「宗教的なるもの」に依存していくことになるのか,という原初の宗教の起源の問題をとりあげている。

しかも,この原初の「宗教的なるもの」が立ち上がるとき,同時に「スポーツ的なるもの」が出現してくる,とわたしは考えている。だから,このテクストはスポーツ史・スポーツ文化論に関心をもつ者にとっては避けてとおることのできない,必読の書ということになる。

別の見方をすれば,こんにちのスポーツ情況に慣れきってしまったわたしたちにとって,スポーツのルーツはどこにあるのか,を考えるための絶好の手がかりを与えてくれるテクストでもある。いま,「こんにちのスポーツ情況に慣れきってしまった」と書いたのは,メディアの都合によって「つくられ」てしまったスポーツ情況のことを意味する。そして,これがスポーツだ,と信じている人が圧倒的多数を占める時代に突入している。

とりわけ,テレビの映像をとおして,スポーツのイメージは自在に操られていると言っても過言ではない。しかも,そこに働いている力学は「視聴率」なる経済原則だ。つまり,カネになる映像ばかりが拡大・再生産されていく。そうして,ますます,スポーツのルーツからは遠ざかっていく。その是非はともかくとして,スポーツ本来の姿はどこかに忘れ去られてしまうことになる。

いま,ちょうど,「3・11」はスポーツを変えるか,という問題がわたしの周辺では議論されている。そのとき,もっとも問われるのは,「スポーツとはなにか」という問いへの応答である。つまり,原点に立ち返って「スポーツとはなにか」を問おうとするとき,わたしの念頭には,真っ先に,このバタイユの『宗教の理論』が浮かび上がってくる。そして,そのつど,このテクストを読み返すことになる。しかも,そこから,じつに多くのヒントをえることができる。

そこで,いま,考えていることは,こんどの集中講義では,このテクストの「総ざらい」をしてみてはどうだろうか,ということだ。いわゆるバタイユの『宗教の理論』の総集編として。つまり,もう一度,このテクストの「第一部 基本的資料」の「動物性」「人間性と俗なる世界の形成」「供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則」を,総ざらいすること。

それならば,すでに,このブログをとおして,すべて,わたしの読解は提示してある。それらをとりだしてきて,そこを手がかりに議論を展開すればいいことになる。

もう,すでに,しびれを切らしたかのように,これまでに書いたバタイユ読解のブログがふたたび読まれはじめている。このブログのシステムはよくできていて,どのブログがいつごろ,どの程度(回数)読まれているかという統計がわかるようになっている。たぶん,神戸市外国語大学のこの授業を受けようという学生さんたちが,予習を兼ねて読んでくれているのだろう,とわたしは推測している。だとしたら,ありがたいことである。

ということで,このブログは,しばらくの間は集中講義向けの「たたき台」を提示することになりそうだ。また,しなければならないと思っている。が,はたして,どうか。でも,もう,待ったなしだ。なりふり構わずやるしかない。恥ずかしながら挑戦するのみ。

ここまで声高らかに宣言した以上は,もう,戻れまい。
これは,なにいおう,みずからへの引導わたしそのものだ。
いよいよ,此岸と彼岸の別れ道。

2011年12月6日火曜日

スピードスケート500m,1000分の1秒の世界。

オランダのヘーレンフェインで開催されたスピードスケートのワールドカップ第3戦(12月3日)で,加藤条治選手が2日,つづけて第2位に入り,ようやく復活のきざしがみえてきたようだ。それに引き換え,長年のよきライバルである長島圭一郎選手は自分のスケートのブレードで足首を切るという,滅多にないハプニングに泣いた。日本の誇るスピードスケート男子500mの二枚看板には大いに頑張ってもらいたいところ。

この二人は,2010年に開催されたバンクーバーのオリンピック冬季大会の折にも,競り合っておおいに気を吐いた。その結果,金メダルは韓国のイム・テヒョンに奪われたものの,長島が銀メダルを,加藤が銅メダルを獲得した。このときのタイムを,ある必要があって,比較検討してみたことがある。そこから,とても面白いことがみえてきた。

ある必要があって,というのは,2010年5月に開催された日本記号論学会第30回大会(「判定」の記号論)の〔セッション3〕の話題提供者としてお誘いを受け,近代スポーツの終焉?─判定の変容,裁かれる身体の現在─,というテーマでお話をさせていただいたときのことである。そのとき,いろいろ考えた末に,ちょうどその年の2月に開催された冬季オリンピックのスピードスケートで,史上初めて1000分の1秒を計測するということがあったので,これを取り上げることにした。

つまり,1000分の1秒まで計測して優劣の「判定」をくだすという世界は,いったい,なにを意味しているのか,と問いたかったからである。近代スポーツ競技の競争原理がますます過剰に機能しはじめるとともに,スポーツの世界はいつのまにか異次元の世界に足を踏み入れてしまったのではないか,その世界は,すでに,神の領域ではないのか,とわたし自身はかなり以前から考えていた。そのサンプルとして,スピードスケートの世界の計測の方法に注目してみた,という次第である。

1000分の1秒の世界。スピードスケート・男子500mの優勝タイムは35秒前後なので,そこを基準にして秒速を計算してみた。端数は四捨五入して,その結果をみると,驚くべき世界がみえてくる。男子500mの秒速は14.3m。したがって,10分の1秒では1m43cm,100分の1秒では14cm,1000分の1秒では1cm4mm,ということになる。

秒速14mでゴールに飛び込んでくる二人の選手の,1000分の1秒差,距離にして1cm4mmの差は,どう考えてみても人間の眼にはみえない。100分の1秒差の14cm差も,おそらく,人間の眼には判定不能だろう。それを最先端のテクノロジーの力を借りて,あえて優劣の差をつける,この行為はいったいなにを意味しているのだろうか,というのがわたしの問いであり,日本記号論学会のみなさんとともに考えてもらいたかったポイントである。

で,2010年のバンクーバー大会での記録を紹介しておくと,以下のとおりである。
金:イム・テヒョン(韓国)1分09秒82(34秒923,34秒906)
銀:長島圭一郎(日本)1分09秒98(35秒108,34秒876)
銅:加藤条治(日本)1分10秒01(34秒937,35秒076)

説明するまでもなく,この大会では,2回のトライアルを1000分の1秒まで計測し,それを合計して1000分の1秒のところを四捨五入して,100分の1秒までの記録で順位を「判定」し,その記録を正式記録として公表した。この方式は,この大会が初めてのことであった。だから,多くの人びとが,この計測の方法には注目した。

この結果,どういうことがみえてきたか。2回のトライアルの記録をみると,第一回目のタイムで順位を判定すると,イム・テヒョン,加藤条治,長島圭一郎の順になり,第二回目のタイムで順位を判定すると,長島圭一郎,イム・テヒョン,加藤条治の順になる。しかも,最高タイムを出したのは長島圭一郎だ。

もし,大会ルールが別のものであったら・・・と考えると,この判定の方法は不思議なシステムになっていることがわかる。安定した実力を重視する,というのがこの大会でのコンセプトだったのだが,2回のトライアルでの自己ベストで順位を決める,という方法も選択肢のひとつとして存在する。まあ,それまでの過去のいきさつもあって,判定の方法は,さまざまに変化してきている。

そこで問題になるのは,判定を合理化する(正当化する)ためのコンセプトである。だれのための判定なのか,なんのための判定なのか,という問いが新たに立ち上がってくる。そして,最終的には,スピードスケートとはなにか,という問いに至る。

わたしの問いは,人間の眼にみえない世界をテクノロジーの力に頼って,優劣の判定をすることの意味はどこにあるのか,というものである。そこは,もはや,神の領域ではないのか。その世界にテクノロジーの力を借りて踏み込んでいくことの意味を問いたいのである。そして,それに応答することが,たぶん,「スポーツとはなにか」という最終的な問いの応答にもつながっていく,とわたしは考えている。

つまり,生身のからだを生きる人間にとって「スポーツ」とはなにか。
スピードスケートの世界は,すでに,この問いからは無関係のところにはみ出してしまっているのではないのか。
ここからさきの議論がじつはとても面白いのだが,今回はここまでとしておく。

岡本太郎の父親はだれ?瀬戸内寂聴が推理。

『かの子繚乱』で作家としての地位を築いた瀬戸内寂聴さんが,いま,『東京新聞』で「この道」という自伝風の連載を書いている。「青踏社」の話からはじまって,なかなかスリル満点の秘話がつぎつぎに登場する。もはや,怖いもの無しの境地にある寂聴さんは,自由闊達に過去の記憶を書き記す。こんなことまで書いてしまっていいのだろうか,と思われるものまで・・・。

昨日の夕刊(12月5日)では,「太郎さん2」で,岡本太郎の出生にかかわる秘話を披瀝している。ほんまかいな,と訝りながらも,でも,ひょっとしたら,と想像したりしている。

岡本太郎の両親は,よく知られているように父は岡本一平,母は岡本かの子。二人とも,当時にあっては超売れっ子の漫画家と作家である。岡本太郎はこのお二人の間に生まれた一人っ子。子どものころからあふれんばかりの才能に恵まれ,その情熱の捌け口がときにはとんでもない方向に向かうことも多々あったようである。そのため,小学校だけでも,何回も転校している。

その岡本太郎の父親は,岡本一平ではなくて,伏屋某という男だったかもしれない,という話を寂聴さんは書いている。その話がまたまた凄まじい。ある日,突然,岡本太郎から直接,寂聴さんのところに電話が入ってきて,すぐに来い,という。寂聴さんが大急ぎででかけてみたら,どこかの週刊誌の記者が3人,太郎さんの前にすわっていた。聞くところによると,この週刊誌の記者たちは,伏屋某という人に頼まれてここにきたという。その伏屋某の依頼は「太郎はわたしとかの子の間にできた子だ。わたしは余命いくばくもない。生きている間に一度,会わせてほしい」というものだった。それを聞いた太郎さんは,ちょうどそのとき『かの子繚乱』を書いている最中の寂聴さんを呼びつけて,ことの次第の立会人になってもらおうとした,というのである。そして,太郎さんが,いまから言うことをよく聞いておいてくれ,と寂聴さんに念を押した上で,つぎのように啖呵を切った。

「伏屋何とかいう死にぞこないが,何を言っても自分とは関係ない。二子の大貫家で,かの子の腹から生まれるところは,何人も見た者が証明するから間違いない。母はかの子だ。物心ついた時から一平が父として二階に暮らしていた。育ててくれたのは一平だ。尊敬できる芸術家で,一平を父として今も誇りに思っている。伏屋に言ってくれ。逢う必要はないと」

こういう修羅場に寂聴さんを呼びつける太郎さんも太郎さんだが,それをまた,この自伝的連載に書きつける寂聴さんも寂聴さんである。まあ,二人の傑出したとてつもない感性ならではのこととはいえ,空恐ろしいような話である。

しかも,寂聴さんは,その後,伏屋某という人の写真を手に入れて,その顔が太郎さんにそっくりだった,とまで書いている。これまた,なんと大胆な,思い切った書きっぷりではないか。どう読んでみても,寂聴さんは,太郎さんの父親は伏屋某だろう,と推理していることが丸見えである。

しかし,寂聴さんは,かの子の実家である大貫家の人たち,つまり,かの子の兄弟たちの写真は確認しなかったのだろうか。大貫家は,二子新地の旧家で,代々,医者の家系だった。わたしがいま住んでいる溝の口から歩いても10分ほどのところに大貫家がある。わたしが溝の口に住みはじめたころには,まだ「大貫医院」は開業していた。つまり,かの子の甥(兄の息子)が医業を継いでいたが,高齢になって廃業し,いまは,その跡地に大きなマンションが建っている。田園都市線のすぐ近くなので,いつも,電車から眺めている。

この医業を廃業にして,マンションを建てるというときに,いろいろと近隣の住民との間に意見の違いがあって,新聞記事になったことがある。そのときに,かの子の甥である大貫某という人の顔写真が新聞に掲載された。わたしは,その写真をみた瞬間に,あっ「岡本太郎だ」と思った。瓜ふたつということばがそのまま当てはまるほどに,いやいや,同一人物そのものの顔なのだ。だから,わたしは岡本太郎の顔は大貫家の血筋を引き継いだものなのだ,と納得していた。

だから,寂聴さんのこの連載を読んで,えっ,ほんまかいな,と思った次第である。

しかし,それにしても,岡本太郎の啖呵はみごとなものである。いかにも太郎さんらしいというか,なにをたわけたことを言っているのか,と大向こうに向かっての大口上である。ひょっとしたら,自分自身に向けての大口上であったのかもしれない。しかも,この事実を『かの子繚乱』の作家に知らしめておこう,と。そして,それは,作家がこの事実をいかように創作の中に取り入れようと自由だよ,というアーティストとしてのサーヴィス精神の表出であったのかも・・・。

ちなみに,岡本太郎には子どもはいなかった。ただひとり,養女にした敏子さんという女性と生涯をともに暮らした。太郎さんの書いたものによると,執筆中の母の背中には鬼気せまるものがあって,子どものころは恐かった,という。その代わりに,父一平は太郎さんをやさしくつつむようにして可愛がってくれた,という。

岡本太郎という人のもうひとつの深淵を覗き見るような思いがした。寂聴さんもまた凄まじい人生を歩んだ人だ。だから,平然と太郎さんの秘密を語ることもできるのだろう。いやはや,驚くばかりである。

この連載,しばらくは楽しめそうだ。

2011年12月4日日曜日

快晴。真っ白に冠雪した富士山が部屋の窓からみえます。

朝,起きたら,快晴。雲ひとつない上天気。部屋の窓から,真っ白に冠雪した富士山がみえます。久しぶりに清々しい気分。晴れ男は,こういう天気が大好きです。

11月30日・12月1日に名古屋を往復したときには,富士山には頂上付近にほんのわずかな雪しかなくて,ことしの冠雪は遅いなぁと思っていました。しかも気温は高く,とても冬とは思えないほど。でも,2日には冬将軍がやってきて,ぐっと冷え込みました。そして,また,3日には低気圧の通過で,雨こそ降ったものの,気温は高め。このとき,富士山は雪だったのでしょう。今日,みるかぎりではかなり下の方まで真っ白。これでいよいよ冬化粧ができあがりました。

わたしの部屋からみえる富士山も,ビルとビルの谷間にかろうじて姿を現しているだけで,その他の周囲の山はみえません。いまのところ運がいいということなのでしょう。この眺めも時間の問題でしょう。それまでの間,堪能できることは幸せです。

そのむかし,江戸の人びとは,東京のちょっとした高みからみえる富士山をこよなく愛していたのでしょう。いまでも,東京のここかしこに「富士見坂」という地名が残っています。つい,この間の新聞によれば,富士見坂という地名のあるところから富士山がみえる最後の場所も,まもなく高層ビルが建って,みえなくなるとのこと。地域の住民が必死になってビル建設反対運動を展開して,建設中止を懇願しているものの,それを規制する法律はないので,いずれ,みえなくなってしまうだろうという。

関東平野とはいえ,東京はとても起伏の多い地形です。言ってみれば,坂道だらけです。ですから,低地では富士山を仰ぐことはできなかったものの,ちょっとした坂道を上がっていけば,どこからでも富士山はみえたといいます。いまでは,高層ビルが立ち並び,地上から富士山を仰ぐことはもはや不可能となってしまいました。

この間,横浜のランドマーク・タワーの最上階展望台に昇る機会があり,この日も天気がよかったので,夕刻から日没までの展望を楽しんできました。ちょうど,富士山側は夕日が沈む方向ですので,とても大きくて,真っ黒になっていくシルエットの富士山を存分に堪能してきました。朝早くここに立つことができれば,おそらく朝日にかがやく「赤富士」が眺められるのだろうなぁ,と想像していました。このときも,ことしの富士山は雪がないなぁ,と思っていました。

日本列島のみならず,地球全体が地震の活動期に入ったようで,あちこちで揺れているようです。これは,大昔からつづいている地球の活動ですから,いたし方ありません。これが自然の活動なのですから。日本列島は,統計的にみても,とくに,著しい活動期に入ったといわれています。場合によっては,富士山も,いまは休火山になっていますが,活火山になる可能性もあると専門家は言っています。

鹿児島の活火山・桜島では,11月だけで何万回という活動(小爆発)が記録されている,といわれています。この間の東日本大震災の折の大きな揺れで,日本列島には相当に大きな歪みが起きていて,貯えられたエネルギーも相当なレベルに達しているとも聞きます。松本市では,局地的に地鳴りがしたり,局地的な地震が何回も起きているため,そのための対策に市を挙げて全力で取り組んでいるといいます。松本市民の地震避難に対する意識はとても高い,とも聞いています。同時に,原発に関する市民講座も何回も開かれ,こちらの意識もとても高いとのことです。なにせ,市長さんがその道の専門家ですから。

快晴の冬空に映える富士山はまぶしいほどに美しい。しかし,ひとたび活火山になれば,大暴れする火山です。富士山の肩のあたりにある宝永山は,宝永4年(1707年)の噴火によってできた「新山」であることはよく知られているとおりです。富士山の頂上には,いまも220メートルにおよぶ火口があり,いつ噴火しても奇怪しくはないとのこと。

関東ローム層と呼ばれる黒い土は,富士山がたびたび爆発を繰り返した結果の痕跡として,いまもしっかり残っています。富士山から吹き飛んできた火山灰です。それが,数メートルの層をなしているというのですから,大変です。

鹿児島の桜島は,いまも活火山ですので,周期的に大爆発を起こしています。一度,大きな爆発を起こすと鹿児島市内は真昼でも夜のように暗くなり,地上に数センチにもおよぶ火山灰が積もるといいます。富士山が,もし,活火山になって大爆発を起こしたら,東京も火山灰に埋まってしまい,首都としての機能もマヒするといわれています。これは,いつ起こるかは予測がつきませんが,明らかに「想定」できる範囲内のことです。

そういう世界にも名だたる火山列島・日本に原発が54基も据えられているのです。それも,すでに老朽化して,廃炉にすべき年限にきているにもかかわらず,なおも稼働させようとしている人びとが日本の支配層をなしています。

今朝の美しい富士山を眺めながら,せっかくの清々しい気分が,いつのまにやら,またまた憂鬱な気分にすれ代わってしまいます。なんとかしなければ・・・・と今日も頭を悩ますことになりそうです。せっかくの美しい富士山なのに・・・。

2011年12月3日土曜日

「ながら歩き」は邪魔であるのみならず腹が立つ。

最近になって「ながら歩き」人間が激増。邪魔で仕方がない。のみならず,腹が立つ。最初のうちは少数だったので,まあ,仕方ないかと思っていたが,ここまで増えてくると許せない。なにゆえに,若者たち(わたしからみれば)の「ながら歩き」のために,わたしが必死になって避けて歩かなくてはならないのか。年寄に道を譲るのは若者たちだろうに・・・。

「ながら歩き」。いまさら説明するのも腹が立つ。つまり,携帯とにらめっこしながら歩いている人種のことだ。いま,はやりのスマートフォン(多機能携帯電話)や携帯ゲーム機の画面をみながら,周囲にどんな人間が歩いているのかもまったく無視して,われ関せず,ひたすら自分の世界に没入している。だから,歩いているわたしにぶつかる寸前まで,どこもみてはいない。ぶつかりたくはないので,少し手前でこちらがさきに避けることになる。

これがひとりやふたりくらいならまだ許せる。つぎからつぎへと歩いてくる人間のほとんどが携帯画面とにらめっこ。わたしは,毎日,午後7時に事務所を片づけて帰路につく。鷺沼の駅まで約8分。すでに真っ暗である。ちょうど,都心からもどってくる若いサラリーマンが鷺沼の駅から歩いてやってくる。まあ,言ってみれば,わたしひとりが流れに逆らって歩いていることになる。つまり,帰りの通勤ラッシュの流れに逆行しているというわけだ。

その中の多くの若者たちが携帯とにらめっこしながら歩いてくる。だから,結果的にわたしは右に左にと必死に避けつづけながら歩くことになる。最初のうちは邪魔だなぁ,と思っていた。しかし,いまでは腹が立って仕方がない。いっそのこと,スレ違いざまに膝蹴りでも入れてやろうかと思うほどだ。相手の太股あたりに膝を一発見舞っておいて,「おっと失礼」と言ってこちらがよろけたふりでもしていれば,別にどうということもなさそうだ。・・・・とまあ,そんな妄想をしたくなるほどに腹が立ってきた。もちろん,当分の間は決行する気はないけれども・・・・。

今日の東京新聞の夕刊によれば,もっとひどいことになっているらしい。プラットホームでも「ながら歩き」をしていて列車に接触する事故が増えているという。いい大人が・・・,アホかと思う。単独事故なら放っておけばいい。しかし,駅の担当者によれば,「ほかの利用客にぶつかって,事故の巻き添えにする危険もある」という。だから,転落・接触事故防止のためにホームドアを設置する必要があるのだ,と。一駅に設置する費用はおよそ数億円。コストがかかるのでなかなか設置が進まない,と。

わたしは,個人的には,駅のホームドアが嫌いだ。地下鉄などではプラットホームが狭くなって,なんともやりきれない。JRのオープンの見晴らしのいいホームにもホームドアが設置されつつある。こちらも,なんだか囲い込まれているような圧迫感がある。これまでどおりの風通しのいい,解放感のあるプラットホームの方が好きだ。

酔っぱらいや「ながら歩き」族のために,ホームドアを設置するのだとしたら,そんなものはやらない方がいい。これこそ自己責任の範疇だ。鉄道が走りはじめてこんにちまで,ホームドアなどは不要だったはずだ。ところが,最近になって,自己管理もできないような酔っぱらいや「ながら歩き」をする人間が増えてきている。だから,ホームドアを設置する必要があるという。

そうだろうか。酔っぱらいや「ながら歩き」をする人間のために,なにゆえにそこまでサービスをしなければならないのか。ごくふつうに自己管理ができている人たちばかりであれば,そんな余分なホームドアは必要ない。正体不明になるまで酔っぱらってしまう人間や,危険性をも省みることもなく勝手に「ながら歩き」をする人間に,安全基準を合わせる必要はない。

酔っぱらいは駅から追い出すべきだし,駅構内での「ながら歩き」は禁止すべきだ。でないと,そのうちにぶつかってトラブルを起こすことになる。迷惑千万,この上ない。

とにかく日本の鉄道はお客様本位で,お客さまのわがまままで引き受けてくれる。いつのまにかそんな習慣が身についてしまっている。だから,なにかあると,すぐに駅の責任を問う。それがさも当たり前であるかのように。しかし,あるところで一線を引くべきではないか。とりわけ,「ながら歩き」をしている人間については,守ってやるべきなんの理由もない。それどころか,ふつうに歩いている人間の邪魔だ。そして,ホームにあっては危険だ。こんな連中を保護するためのホームドアなどというのは論外だ。

ホームドアなどない方がどれほど解放的で気分がいいか。少し考えればすぐわかることだ。一般の道路でも「ながら歩き」は他人に迷惑をかけている。だから,さっさと禁止すべきだ。たぶん,まだ,それを規制する法律や条例がないので,いまのところは放置されているのだろう。

いずれにしても,「ながら歩き」などは群衆の中にあっては,迷惑であり,マナーに反する。それを自分で判断して,自粛できない人間が増えていること自体が問題だ。公共のマナーが欠落していくということは,それだけ政治性への意識も欠落していくことになる・・・とハンナ・アーレントなら言うだろう。みんな自分勝手な人間ばかりが増えつづける日本の現実が,「ながら歩き」という現象となってみごとに露呈してきている・・・・とわたしは思うのだが・・・・。

みなさんは,どう思いますか?

東京都も再生可能エネルギーに舵を切るという。花丸。

東京都のイシハラ君は,五輪招致運動を展開するかと思えば,電力を東電だけに頼らない方法をさぐるともいう。ひょっとしたら両面作戦か。それとも,単なるみせかけだけか。それにしても,三菱地所が都から3000万円の補助金を受けて,来年3月までに調査結果をまとめる,というのだからまずはよしとしよう。

もっとも,三菱地所が原子力ムラにとりこまれていたら,その調査結果はいまから予測ができようというものだ。しかし,都はこの調査結果を公表し,新宿や池袋などの他のエリアやビルでも参考にできるようにするという。今回は,とりあえず,「大丸有」地区(大手町,丸の内,有楽町)の大規模再開発エリアで,複数のビルを含む街区を対象とする,という。

そして,来年度は,三菱地所のデータをもとに,採算性も含めた詳細調査をする予定,という。これまで使っていない下水排熱などの利用や,太陽光発電など再生可能エネルギーの導入拡大を検討し,スマートグリッド(次世代送電網)の構築も模索する,という。

なにはともあれ,東京都が舵を切って,エネルギーを大量に消費する都内のオフィスビルの集積地で,電力の供給を東京電力だけに頼らず,再生可能エネルギーなどにシフトさせる方法の模索に動きはじめたことに,花丸。

再生可能エネルギーへのシフトに関しては,なにせ腰の重い民主党政権。そして,野党の自民党。それらへの牽制か,はたまた「大阪の乱」に刺激されて,これまで温めてきた政策を加速させたということか。いずれにしても,圧倒的多数を占める「脱原発」への民意に真っ正面から向き合う姿勢を示すことが政治家としての矜持だ。大阪のハシモト君とも,妙なところで共鳴しているようなので,その先手を打ったというところなのだろうか。あるいはまた,そのさきの展望まで含めて,大きな野望を抱いたということなのだろうか。

とにもかくにも,東京都が動きはじめた。このことの意味は大きい。大阪も黙ってはいまい。そうなれば,各道府県でも,それぞれの地域の特性を生かした再生可能エネルギーの開発や,スマートグリッドの構築に取り組む道が開けてこよう。これからの東京都の実績の積み上げに注目したい。

昨日の城南信用金庫のような,企業サイドからの努力を,地方自治体のサイドからもサポートする道が開かれてくれば,再生可能エネルギーへのシフトが一気に加速するというものだ。こんどは,個人が努力する番だ。

今日の「東京新聞」の「脱原発」考というインタビュー記事に,物理学者の池内了さん(総合研究大学院教授)の談話が載っている。「太陽光発電の設備を自宅の屋根に備えるには150万円かかると聞くと尻込みする。だから,手がとどく発電用のパネル一枚からでいいんです」と提案している。「それで明かりをつけてみる。発電の威力に惹かれるでしょう」と体験を語っている。

まずは,わたしたちのできるところからはじめようと池内さんは力説する。そして,節電や代替エネルギーの設備を個人でも負担していくことが大事だ,と。

「脱原発」を声高に叫んでいるだけではなにも進まない。わたしたちの身近にできるところから,小さな努力を積み上げていくこと,これが一番大事なことだ,とも。

今日の「東京新聞」が伝えてくれた,もうひとつの話題。自動車ショーがはじまり,自動車と家とのコラボレーションの提案がいくつもあって,面白いという。そのひとつは,自動車に蓄電されている電気を家電につなげて,夜はこちらでも利用する,という提案。蓄電池の性能がよくなれば,かなりの電力を補填することができるという。災害時に思いついたアイディアが,いよいよ,実用化の段階に入っていくという。これだけでも,相当の電力を賄うことができるそうだ。

自転車のペダルを踏んで自家用発電をしながら,テレビをみる,ということも絵空事ではなくなってきた。もう,すでにその設備は開発されていると聞いているので,あとは普及させるだけのこと。

こんなアイディアはこれから,いくらでも浮かんでくるだろう。
それと「節電」とを組み合わせれば,不可能が可能となってこよう。

今日の新聞は,なんだか元気をたくさん与えてくれた。
夢と希望を与えてくれる週末になりそう。
少しは明るい夢でもみないと,ほんとうに「ウツ」になってしまいそう。
「東京新聞」に感謝。

2011年12月2日金曜日

脱原発宣言をした城南信用金庫が東京電力との契約を解除すると発表。拍手。

脱原発宣言をしたことで注目を浴びている城南信用金庫が,こんどはもう一歩踏み込んで,東京電力との契約を解除する,と発表。拍手喝采である。

ネットを流れている情報によれば,東京電力の代わりに,自然エネルギーによる発電などを手がけている電力供給会社「エネット」(東京都港区)から購入するという。原子力発電に頼らない「脱原発」の姿勢をさらに強くアピールすることが狙いである。

さらに,そのニュースを追ってみると,以下のようである。
「城南信用金庫は来年1月から本店など契約電力が50キロワット以上の77店舗で,エネットとの契約に切り替える。2011年度に約2億円だった電気代が約1000万円の減額になる見込み。」

しばらく鳴りを潜めていた原発推進派,すなわち,脱「脱原発」の動きがこのところ目立ってきて,困ったものだと思っていた矢先の城南信用金庫の勇気ある第一歩に,こころから拍手喝采を送りたい。よし,こうなったら,脱原発宣言をしない大手銀行に預けてある預金も少しずつ城南信用金庫に移そうかと思う。ほんのわずかな金額にすぎないけれども,脱原発を支持する人間のささやかな応援歌として。

このニュースを読んで,まず,最初に驚いたことは,電気代が安くなるということ。これまでも,いまも,発電も送電もみんな東京電力が独占しているはず。他の会社が電気を発電して,送電する場合には,東京電力の送電線を借りるしか方法はない。つまり,送電線の借用料を支払わなくてはならないはず。ということは,エネットという会社は,東京電力の所有する送電線の使用料を払っても,なお,東京電力よりも安い電気を供給できる,そういう能力をもっているということになる。東京電力の言い分である原発の方がコストが安上がりだという根拠が,この事実によってはかなくも崩れ落ちていく。真っ赤な嘘だったのだ。

以前から議論があるように,発電会社と送電会社は別組織にして,送電会社はあらゆる発電会社の電気を送電できるようにすべきだ,ということが城南信用金庫のこんどの決断によって,ますます説得力をもつことになる。少なくとも,現在の送電網を国が買い取って,あらゆる自然エネルギーによる電力を送電できるようにすれば,原子力発電に頼らなくても済む道が開けてこよう。そうすれば,もっともっと電気代は安くなる。

大企業が独自に発電している電力も,地産地消をめざす小規模発電の電力も,個人の屋根で発電する電力も,みんな同じ送電線を共有することができる。そうなれば,電気代は,いまより格段に安くなるはずだ。

原発依存から脱出するためのもっともわかり易い道はこれではないか。国がその方針を明確にすれば,国民もその気になって,もっともっと智慧を発揮するだろうと思う。電気代は安くなり,原発から徐々に手を退いていくことも可能だ。一挙両得なのに。

それなのに国はそこに踏み出そうとはしない。
ここに諸悪のすべてが凝縮している。つまり,「東電マネー」という名のドーピングにべったりと寄り掛かってしまって,もはや立ち直れないほどの腰抜けになってしまっているのだ。もはや完全に堕落してしまっているのだ。政治家も企業家も官僚も学者もメディアも。もっと言ってしまえば,商店会も自治会も農協も,みんな自堕落な「原子力ムラ」の住民となってしまったのだ。甘い汁を吸わされて働くことを忘れた,自堕落な蟻のようなものだ。

そんな中にあって,城南信用金庫は確たる企業哲学を確立させ,それを明示して,「3・11」以後を生き抜く姿勢を率先して貫いている。これにつづく企業よ,いでよ,と言いたい。

と同時に,わたしたち個々人もまた「3・11」以後を生き抜くための哲学と姿勢を貫くことが求められている。ここが正念場だ。つまり,個々人の「生き方」が問われているのだ。脱原発とは,そういうことなのだ。ただ,原発を止めればいいというだけの問題ではない。

あまりに贅沢な暮しに走りすぎた生活に歯止めをかけ,多少,貧しくとも「こころの豊かさ」をわがものとすべく,そのベクトルを変える覚悟をもつこと。

このことを,城南信用金庫の脱原発宣言につづくこのたびの決断は,わたしたちに迫っている。わたしは,6月に,城南信用金庫に口座を開設してから,ちょくちょく鷺沼の支店に立ち寄る。どこの銀行よりも店内の照明が暗い。しかし,中で働いている店員さんたちはみんな生き生きとしている。そこには脱原発宣言をした会社で働いているという自覚のようなものが漲っている。その情熱のようなものが伝わってくる。とても気持ちがいい。居心地がいい。

店の照明なと多少暗くてもいい。店員さんたちの明るさがそれを補って余りあるものがある。
城南信用金庫のこの姿勢に学ぶべきものは多い。

2011年12月1日木曜日

五輪招致議員連盟発足だとか。正気の沙汰か。

鳩山由紀夫元首相を会長に,五輪招致議員連盟が発足した,というニュースが流れた。来週には,五輪招致推進を求める国会決議をめざす,という。正気の沙汰か,とわが眼を疑う。

2020年夏季五輪招致に東京都が立候補したこと自体が時代錯誤であるのに,それに便乗して議員連盟までもが・・・・と開いた口がふさがらない。最高顧問に森喜朗元首相,会長代行には五輪メダリストの橋本聖子,谷亮子の両議員。

2年前の招致に失敗した鳩山元首相は「東日本大震災から日本が復興した姿を世界に強く示すことが重要」とあいさつしたという。どうやら8年後には東日本大震災から日本は復興すると信じているらしい。ならば,すぐにも,福島原発の周囲の土地を買い取って,そこに立派な五輪用の競技施設と宿泊施設を建造することも「決議」していただきたい。

2016年の五輪招致がいかなる理由で失敗したかという分析も十分にしないまま,またまた,2020年五輪招致をめざすというイシハラ君を支持する国会の議員連盟のレベルの低さに愕然としてしまう。「3・11」以後の政府与党はもとより,野党の議員の対応をみているだけでも,すでに,この国の政治がほとんど機能マヒに陥っていることは明々白々となってきていたが,そこに輪をかけるようにして2020年の五輪招致を国会決議する,というのだからあきれてしまう。

いま,そんなことをしている場合か。

いまもなお,寒さに震えながら,このさきの展望もえられないまま,絶望の日々を送っている人びとのことを思い描く想像力すら欠落してしまっている議員連盟のセンセイ方。それどころか,そういう生活不安に怯えている人びとの情報をシャットアウトして,蓋をしてしまうような情報を,あえてこの時期に意図的・計画的に生産して,流しているとしか思えないセンセイ方。すなわち,脱「脱原発」情報の発信である。ここには,かつての「原発安全神話」をでっちあげたときとまったく同じ構造が機能しているように思われる。そこが恐ろしいところ。またまた,みんな騙されてしまう。

オリンピックもまた「原発安全神話」と同じで,地球をひとつにする立派な「平和運動」だとする「オリンピック神話」が浸透しきっていて,それを疑う人もほとんどいない。しかし,オリンピックの「平和運動」はヨーロッパのルールにもとづく「平和」を世界に広めること,すなわち,近代スポーツ競技による「世界制覇」という野望がその裏に隠されている。そして,それはみごとに成功しつつあるかにみえる。しかし,オリンピック開催国は,テロリストの攻撃に備えて,信じがたいほどの過剰な警備をしなければ「安全」には開催できないという現実があることも事実だ。オリンピックが,支配権力のための「平和運動」でしかない,ということはこの事実が証明している。

東京都で五輪開催となれば,1964年のときとはまったく違った,徹底した「安全」対策をしかなくてはなるまい。つまり,ギリシアで開催したときのような,巨大な軍隊(NATO軍)に匹敵する警備が求められることになろう。それは,すでに,自衛隊ではまかないきれないほどのものとなろう。となれば,どこが守ってくれるかは,もはや論ずるまでもあるまい。

この問題は恐ろしいことに,沖縄の基地移転問題ともリンクしていく。アメリカの思うツボだ。ならば,本土の各都道府県は,本気で基地の一部を分担する覚悟が必要だ。でなければ,米軍基地を国外に移転する運動を展開すべきだ。そういう努力はいっさいしないまま,ズルズルと沖縄に基地を押しつけて,あとは知らぬ勘兵衛。

こんなこともトータルに考えた上で,国会は,五輪招致に猛進する東京都の動きに対して,冷静に歯止めをかけていくべきではないのか。そんなそぶりはどこにも認められない。すべては「五輪招致はよいことだ」という前提に立っている。ひょっとしたら,過剰な警備が必要だという理由で,自衛隊をさらに補強していくことを企んでいるかもしれない。

フクシマの行方がまったくわからない現状を無視するかのように「東日本大震災から日本が復興した姿を世界に示すことが重要」と,平気で演説をぶつことのできる宇宙人には付き合っていられない。しかも,こういう考え方が多数を占める国会をいつまでも容認するわけにはいかない。新しい先見性のある政党を立ち上げて,旧態依然たる政治姿勢からの脱出を諮るしか,もはや,手はない。

大阪府民は,いい,悪いはともかくてとして,勇気ある選択をしたものだとある意味で感動している。こういう流れが,もっと違う形で起きてくることを待ち望んでいる。

五輪招致問題もまた,そういう根本的な議論を産み出すことが先決だ。これを機会に,国のあり方とリンクさせながら,思考を深めていきたいと思う。

それにしても,まずは,この「五輪招致」国会決議を求める動きが,脱「脱原発」とつながっていて,欧米ルールによる「世界制覇」の片棒を担ぐことに等しい,ということを指摘しておきたい。そして,
沖縄の基地移転問題ともからみ,自衛隊の増強への道を開くことでもあることを,わたしたちは忘れてはならない。

2011年11月29日火曜日

「3・11」以後を生きるわたしたちの身体について考える。

「3・11」以後を生きるわたしたちの身体について考える
──「ものの豊かさ」から「こころの豊かさ」へ

これは明日に迫った特別講義のテーマです。場所は,名古屋の椙山女学園大学(日進キャンパス)。時間は16:40~18:10。前のブログでも書きましたように,学生さん対象ですが,一般にも開かれていて,聴講自由です。時間のある方はお運びください。

いよいよ明日という段階になって,さて,どのような話をしようか,と少しずつ気になってきました。今回は,フリーハンドででかけていって,その場の力を借りて,「いま,ここ」での,ギリギリいっぱいの話ができればなぁ,と夢見ています。わたしにとっては一種の賭けであり,挑戦です。これこそが「正義」と信じて。

それにしても,ある程度は,話題のポイントは抑えておかなくてはなりません。そのための整理を少しだけ試みておこうと思います。

テーマのポイントのひとつは,「3・11」をどのように受け止めるのか,というところにあります。
もうひとつは「生きる」とはどういうことなのか,ということ。
三つめは,身体とはなにか,ということ。
四つめは,「ものの豊かさ」とはどういうことなのか,ということ。
五つめは,「こころの豊かさ」とはどういうことなのか,ということ。
最後は,もう一度,出発点にもどって,「3・11」以後,すなわち「後近代」を生きるわたしたちの身体とはなにか,と問い直すこと。

これらの一つひとつが,断わるまでもなく,とてつもなく大きなテーマになっています。ですから,それほど立ち入った議論を展開することは,ほとんど不可能です。それでも,大きな問題の所在はどこにあるのか,という提示はしなければ・・・と考えています。そのためのポイントをさらりと触れておけば,以下のようになりましょうか。

「3・11」は,わたしにとっては,「後近代」のはじまりです。ずいぶん前から,核エネルギーの開発は近代論理の破綻をもたらした,つまり,「自由競争」原理の枠組みの一角がくずれはじめた,と主張してきました。そして,このときから,「後近代」への移行期に入った,と考えてきました。しかし,今回の「3・11」は,近代論理の限界をみごとに露呈させることになりました。ですから,「3・11」以後は,近代論理を超克する新たな論理を構築しないかぎり,もはや,わたしたちの「生」は成り立たない,と考えています。

つまり,「3・11」は,世界史的な転回点になる,ということです。そういう認識に立つこと,そして,そこからわたしたちの「生」を考えなくてはならないこと,それがいまや強く求められている,と考えています。

つづいて「生きる」とはどういうことなのか。動物が生きることと人間が生きることの共通点と差異はなにか。それはそのまま,本能と理性。このふたつの「折り合い」のつけ方をどこに求めていくのか。近代のように「理性」中心主義に大きく舵を切り,「本能」を抑圧・隠蔽する制度や組織では,もはや,立ち行かなくなっていることは明らかです。そこを,どのように超克して,生き生きとした「生」の躍動をとりもどすか,ここがポイントとなります。すなわち,ニーチェのいう「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」との「折り合い」のつけ方です。これ以上の「悲劇」を誕生させないために。すなわち,「生身の身体」を可能なかぎりありのまま「生きる」こと。

つぎの「身体」は,存在しつつ存在しない,ということの再確認。すなわち,「わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではない」そういう存在である,ということ。つまり,平穏無事であるときにはわたしたちの身体はほとんど忘れ去られているけれども,危機に立ち会うと身体はにわかにその存在を主張しはじめる。すなわち,「身の安全」を主張しはじめる。つまり,「3・11」以後を生きるわたしたちの身体とは,「身の安全」を強く意識させられる存在だ,ととりあえず位置づけておくことにしましょう。つまり,危機に立ち向かう身体である,と。もっと言ってしまえば,放射性物質と向き合う身体。

「ものの豊かさ」と「こころの豊かさ」のヒントは,大塚久雄の著作『ものの豊かさとこころの貧しさ』(みすず書房)からのものです。そして,最近では,ブータン国王のいうGNH(国民総幸福)。つまり,まずは物質的欲望の充足という呪縛から解き放つこと。そして,「こころの豊かさ」の実現に向けて舵を切ること。そのためには,貧乏になってもいい,という覚悟をもつこと。むしろ,そうすることによって,人と人との関係性はより豊かになっていく,とわたしは考えています。

まあ,ざっと,こんな話が展開できれば・・・と,あとは祈るのみ。
それでは,明日の,特別講義を楽しみに。

2011年11月27日日曜日

稀勢の里の大関昇進に疑問。

なにかちぐはぐなものを感ずる。もう少し上手にできなかったのだろうか。急いてはことをし損じる,とむかしから言う。

日本相撲協会が二人めの日本人大関誕生を喉から手がでるほど待ち望んだことはよくわかる。多くの日本人も同感だっただろう。かく申すわたしも同じだ。そして,過剰に稀勢の里に期待をかけた。今場所は12勝は挙げてくれるだろう,と。でも,緊張するだろうから,少なくとも大関合格ラインの11勝は挙げてほしい,と。

しかし,10勝を挙げた段階で,つまり,千秋楽を残した段階で,大関推挙を日本相撲協会の審判部会議で決めてしまった。部長は貴乃花。なにを企んだのか,と勘繰りたくなってくる。

どういう裏工作があったかは知らないが,10勝を挙げた段階で,新聞もまた大関確実と報じた。こうして,マスコミを含めて稀勢の里を大関にするお膳立ては整っていた。そのタイミングをはかるようにして,審判部部長の貴乃花親方は,緊急に会議を招集して,稀勢の里の大関推挙を決めてしまった。いま,このブログを書いている段階では,目立った異論はなさそうだ。

しかし,3場所で33勝をクリアすること,という大関推挙の基準(申し合わせ)がある。このところずっとそれは遵守されてきた。にもかかわらず,稀勢の里は例外扱いにされた。その理由は,横綱に勝つ力量があるし,げんに,勝った実績をもつ,というもの。要するに,実力がある,というのだ。ならば,33勝するまで待てばいいではないか。

大相撲は興業だ。今場所のお客さんの入りは悪かった。となれば,なんとしても集客のための手を打たなくてはならない。それが,二場所つづけて日本人大関誕生という手だったのか。だとしたら,それは拙速というものではないか。力士の出世については,大関にしろ,横綱にしろ,よほど慎重に運ばなくてはならない。

かつての双羽黒のような例もある。不世出の大器と期待された,わがまま大関双羽黒は,規定よりも甘い基準で横綱に推挙された。その結果は,ご覧のとおりだ。それと逆だったのが,貴乃花だ。横綱になる条件はクリアしたが,一場所,見送りになった。そうしたら,一回りも二回りも強くなって,優勝を飾り,横綱を手にした。その後の活躍もご覧のとおりだ。

そのことを,もっともよく知っているはずの貴乃花親方が,稀勢の里には甘い基準をあてがった。しかも,大関の実力は十分と弁護までしている。今回の稀勢の里の大関誕生の主役を貴乃花親方が買ってでたふしがある。

だから,勘繰りたくなる。それは,次期の理事選挙だ。
隆の里の鳴戸親方は,初代二子山親方が見出し,育てた力士だ。部屋の系列,血縁からみても鳴戸部屋は親戚だ。しかし,貴乃花は「造反」して理事に立候補し,別の部屋の支持をえて,予想を裏切って,理事に当選した。しかし,その立役者だった元貴闘力が,いまはいない。とすれば,次期の理事選挙は票が足らない。その不足の票をなんとしても確保しなくてはならない。その一端が,今回の大関誕生の背後に見え隠れしてしまう。

でなければ,千秋楽が終ってから,審判部会議をもち,理事会に推挙すればいいはずだ。それを,あえて,一日前に,しかも,10勝で推挙するところに,なにか怪しげなものが感じられてならないのだ。しかも,この審判部長の行動を,理事長も支持しているのだ。

日本相撲協会の,背と腹は替えられぬという焦りの気持ちはよくわかる。しかし,通すべき筋は通しておかないと,のちのち,奇怪しなことになる。そういう火種は残してはいけない。なにを,そんなに焦ったのか,そのうちに明らかになることだろう。

稀勢の里には,もっと,すっきりした形で大関になって欲しかった(まだ,過去形ではないが)。かれもまた,それを望んだはずだ。もう,一場所,待ってもよかったのではないか。今日,千秋楽で勝ってしまった琴奨菊は,もっと複雑だったのではないか。ご当地場所とはいえ,ご祝儀としてプレゼントすべきだったのではないか,と。しかし,先輩大関としての意地をみせた。これが,もし,千秋楽の一番に,稀勢の里の大関昇進がかかっていたとしたら,もっともっと場所は盛り上がったのに,と残念でならない。そういう一世一代の緊張を乗り越えて,大関を勝ち取ること,それがほんとうに強い大関をつくることになるのだ。折角のチャンスを台無しにしてしまった日本相撲協会の責任は重い。稀勢の里にも気の毒なことをしてしまった。

もし,稀勢の里が,もう一場所,見送りになれば,来場所はいやでも盛り上がるのに・・・・。そして,納得のいく大関誕生がみられたのに・・・・。それこそが,お客さんを呼び集める最短距離なのに・・・。

残念。

「身体はまるで軟体動物のよう・・・」宇宙飛行士古川聡さん,ツイッターで。

今日(27日)の東京新聞で,宇宙飛行士の古川聡さんが「身体はまるで軟体動物のよう」とツイッターでつぶやいたということを知り,急いでその出典を確認してみました。ありました。順番に紹介しておくと,以下のようです。

「無重量環境では,自分の脚の重さを考えないでよいので,わずかな力で脚を上げることができた。地上でも脳は,わずかに脚の筋肉を動かすことで歩けると判断して指令を出した。しかし,地上では大腿はほとんど上がっておらずつまずきやすかったものと推測」

宇宙飛行士が無重量環境から重量環境にもどってくると,大腿への命令がうまく伝わらず,つまずきやすくなる,と聞いてなるほどなぁ,と納得。でも,無重量環境でからだを動かすことはできるわけですので,それなりの筋肉は使っているはず。しかし,ほんのわずかな命令で動くことができるらしいということは,宇宙飛行士の無重量環境での訓練を伝える映像などで,想像はしていました。しかし,歩けなくなるほどとは思ってもみませんでした。

それにしても,「無重量環境」というものがどういうものなのかは推測するしかありません。わたしの経験に近いものとしては,鉄棒の車輪をやっていて手が滑って飛ばされ,空中に投げ出されたときの状態なのかな,と想像しています。しかし,この場合には,遠心力が加わっていますので,自動的にからだは回転していきます。それに抵抗するのですが,それはどうにもなりません。ですから,それとも違うようです。

歩行するときに「つまずく」という経験はあります。むかし,海で3時間ほど遠泳をして浜辺にもどってきたときに,立ち上がって,歩こうとしたとたんに前にばったりと倒れてしまったことがあります。この場合には,大腿が,脳の命令をほとんど受け入れることなく動かなかったように記憶しています。ですから,そのまま,じっとうつ伏せに横たわったまま,脚に感覚がもどってくるのを待ちました。大腿が温まり,感覚がもどってきたので,そろそろいいかなと思って歩きはじめたときに,思いがけず「つまずく」ということがありました。その感覚に近いのかな,と想像。

「ドクターの観点から。重力は,耳の奥にある前庭という部分で感知される。前庭がすっかり無重量環境に慣れてしまったため,再び重力に適応するための過程だったのであろう。」

古川さんはお医者さんだったのだ。うかつにも知りませんでした。ならば,なおのこと好都合。これを読むと,重力に慣れるということ,つまり,神経回路の回復と筋肉の反応が順調にいくようになるには,時間がかかるということのようです。長期にわたる療養生活をして,ずっと寝ているだけの生活をしていた人が,病気が癒えて,歩く訓練をするのは大変だという話は聞いたことがあります。最初の第一歩が,どんなに頑張っても前に出ない。不思議だった,と言ってました。しかも,この人は,元オリンピックの陸上競技の短距離の選手でした。そして,第一歩が前に出たときには感動した,とも言ってました。そんなものかなぁ,と当時はその程度の認識でしかありませんでした。

「地球帰還当日,気分は最高だが身体はまるで軟体動物のよう。身体の重心がどこだか全く分らず,立っていられない,歩けない。平衡感覚がわからず,下を見ると頭がくらくらして気分が悪くなる。歩くつもりで足を出すが,大腿が思っているほど上がっておらずつまずく。」

気分は最高なのに,「身体はまるで軟体動物のよう」という表現につよく惹きつけられてしまいます。「軟体動物のよう」という感覚が,いまひとつ,ピンとこないからです。でも,想像はつきます。骨のない軟体動物は横たわることしかできないはずです。その軟体動物が,立って,歩こうというのですから,所詮は無理な話です。重力に逆らう支点がないのですから,平衡感覚もわかるはずはありません。しかし,「下を見ると頭がくらくらして気分が悪くなる」というのは,脳細胞もまた重力に慣れるまでに時間がかかるということを言っているのでしょうか。

わたしたちの日常の感覚でいえば,立ちくらみのように,急に立ち上がったことによる脳細胞の不適応症状が,これに近いのでしょうか。

野口体操や竹内レッスンでは,わざわざ「軟体動物」になるための稽古をしますが,宇宙飛行士は,無重量環境に長期滞在するだけで「軟体動物」にならされてしまう,ということのようです。これもまた,意に反しているわけですから,もとにもどす訓練をしなくてはならないのでしょう。

それにしても,宇宙飛行士の身体が「軟体動物」のようになる,ということはわたしにとってはとても興味のあるところ。一度,古川さんの話を聞いてみたいなぁ,直接,質問をして応答してもらいたいなぁ,と思ったことでした。

人間の身体は,環境次第で,なににでも適応するものだという恰好の事例といってよいでしょう。
これからも,古川さんのツイッターをしばらく追跡してみたいと思います。お医者さんとして,宇宙飛行士の身体をどのように観察しているのか,興味津々というところ。

今日のところは,ここまで。


2011年11月26日土曜日

竹内敏晴さんのレッスンを記録した映画をみる。

竹内敏晴さんが亡くなられて,すでに2年が経過している。いつのまに,こんなに多くの時間が流れてしまったのだろうか,と不思議な思いがする。いまでも,にこにこ笑顔でひょっこり現れて,いきなり問題の核心に触れるお話をされる夢をみる。だから,竹内さんの存在は,まだまだ身近な存在のままだ。

そんな竹内さんのお元気な姿を映像で拝見して,「久しぶりにお会いしたなぁ」という,そんな印象が強い。
昨夜(11月25日),早稲田大学言語文化教育研究会が主催する,竹内レッスンの記録映画「語りかける からだとことば 自分の声と出会う」を見にでかけた。場所は,早稲田大学22号館8階会議室。

映画は,2000年に東京賢治の学校の先生方や保護者の方たちを対象に,竹内さんが行ったレッスン(宮澤賢治『鹿踊りのはじまり』)をまとめたもの。なにしろ,竹内さんが亡くなられる9年前のレッスンなので,まだまだ,若々しいし,声も大きいし,とてもお元気。だから,なにより印象に残ったのは,竹内さんのその声のとどき方。強弱アクセントをつけながら,ここというときの声の力強さ。その迫力。それは,からだの緊張をゼロにした,弛緩したからだ,つまり,ひらかれたからだから発せられるゆったりとした声に,聞き手はついひきこまれていく,そこに,全身を貫くような強い声がひびく。

間のとり方といい,強弱のアクセントといい,その場の情景を全身で受け止めながらことばに声を託すことといい,ことばとからだのコラボレーションといい,この映画(レッスン)を見ながら考えることはたくさんあった。その基本は,自然体で立つこと。自然体で相手と向き合うこと。しかし,これが一番,むつかしい。その自然体に接近するためのさまざまなレッスン。

からだの緊張を解きほぐすための「ゆらし」,喉の緊張を解くためのさまざまな身体技法,野口体操に竹内さんの工夫が加えられ,つぎからつぎへとからだと喉と声の結びつきを確認しながら,自分の声を取り戻すためのレッスン。そして,次第に,その人の本来の声をとりもどしていく。ときにやさしく,ときにきびしく。ときには,怒気すら感ずる竹内さんの一歩もゆずらない毅然とした態度に鳥肌が立つ。迫力満点だ。

こうしたレッスンを全部で6回(1回がほぼまる一日かかるので,6日間と考えてもいい)。このレッスンをとおして宮澤賢治の『鹿踊りのはじまり』を,演劇として完成させていく。そのプロセスがじつに素晴らしい。演劇のプロである俳優さんたちに演技指導をするのとは違って,学校の先生方や保護者の方たちという,演劇ということに関してはいわば素人集団を相手に,みごとな変身をさせてしまう竹内マジック。声の出し方,身のこなし方,その場その場のインプロビゼーション,顔の表情,目線,などなど。

わたし自身は,こうした本格的なレッスンを受けたことがないので,初めて「じかに」竹内さんからレッスンをしてもらったような感覚だった。ただ,ごく簡単な「呼びかけのレッスン」を,ある座談の途中でやってくださったことがあるので,「声がとどく」ということがどういうことなのか,ということはからだでわかる。だから,その延長線上にあるレッスンとして,半分は想像いで補いながら,あとの半分はからだにひびいた。正直に言ってしまえば,どこか,宙ぶらりんの変な感じではあった。そして,それは,どこか「拒絶」につながる瞬間のようなものもないまぜになっていたように思う。この感覚がどこからくるのかは,少し,慎重に考えなくてはいけないな,と思う。

この映画の上映のあと,高田豪さんのトークがあった。34年の長きにわたる竹内さんとのかかわり(途中,10年ほどのブランクがあるものの)をとおして,いま,感ずるところを思い出すままに素直に語ってくださった。しかし,どうやら,竹内敏晴という人の存在を対象化して,客観的に語るという境地にはまだ至らないらしく,思いが千々に乱れる。それはそれで,実感がよくでていて,それなりに伝わるものはある。でも,ほんとうに,いま,感じていることはなにであるのか,ということをもう少し忌憚なく披瀝してくれてもよかったのでは・・・・とも思う。

最後に,この会を主催した代表者の方(大学院教授)からの話があったが,このことについては触れないでおこう。あまりのお粗末さに唖然としてしまったから。受け止め方によっては,竹内敏晴さんに対して失礼ではないか,という内容でもあった。折角の素晴らしい企画が台無し。残念。

2011年11月24日木曜日

「けんちく体操」のトーク・イベントに出演します。

『けんちく体操』という本を出した大西正紀(代表)さんからメールがとどきました。「けんちく体操」の映像版(DVD)を発売するので,それを記念してイベントを企画している,と。ついては,トーク・ショーのところに出演してもらえないか,とのこと。これまた嬉しいお誘い。もちろん,よろこんで引き受けました。間をとりもってくれたのはアルシーヴ社の佐藤真さん。ならば,なおのこと。

日時:12月15日(木)20:00~22:00
場所:ワンドロップカフェ(03-5829-6822)
〒101-0032千代田区岩本町2丁目9-11
イベント:「けんちく体操ナイト」(仮)
DVD披露+実演+トークショウ

DVD「けんちく体操」は(株)ポニーキャニオンから12月7日発売。2,000円(税込)。
メディアで話題となり(わたしも季刊雑誌『嗜み』・文藝春秋社で書評),大人気。静かなブームを呼んでいるとか。学校でも取り上げられ,子どもたちも大喜び。老若男女,だれでもできる身体表現。
国内外の有名建築を身体で表現。これを「体操」と位置づけたところが,きわめて斬新。

「21世紀スポーツ文化研究所」(「ISC・21」)を主宰しているわたしとしては,まさに,21世紀的身体技法の可能性を秘めるものとして,大いに注目しているところです。いわゆる,近代スポーツ競技のような競争原理から解き放たれ,性差・年齢からも解き放たれ,優劣の比較からも解き放たれた,新たな「スポーツ文化」の登場,というように受け止めています。

このブログでも2回ほどとりあげて,かなり詳しく論じていますので,そちらを参照してください。
たとえば,両脚を肩幅分だけ開いて立ち,両手をまっすぐ上に伸ばし,そのまま手の平を合わせて,「ハイッ,東京タワー」,という具合です。なんだか,飲み会の一発芸のような身体表現にも見えますが,そうではありません。

コンセプトは「建築」。つまり,「建築とはなにか」という根源的な問いがそこに埋め込まれています。ですから,大のおとなが大まじめに「東京タワー」を,全身をつかって表現します。ポイントは「東京タワー」に成りきることです。つまり,身もこころも「東京タワー」と同化することです。もっと言ってしまえば,「東京タワー」を体感することです。

いまは亡き建築家の荒川修作が,これをみたらなんと言うだろうか,とわたしは考えたりしています。荒川修作は,あくまでも,建築の側から「身体」を挑発することに全力を傾けました。そして,「死んでしまった身体」を,もう一度「生き返らせる」ための建築を,つぎからつぎへと提案しました。養老天命反転地(テーマ・パーク)も,奈義現代美術館の展示室「太陽」(遍在の場・奈義の龍安寺・建築的身体)も,三鷹天命反転住宅も,みんなコンセプトは同じです。

それに対して,大西正紀さんたちの試みは,建築を身体の中に取り込み,そこで感じたままを,身体という素材をとおして表現する・・・すると,そのさきに新たな身体の知の地平が開かれていく・・・そこに生まれる新たな身体知を建築に還元していくと,そこにはどのような建築が可能となるのか・・・・,そういうきわめて先鋭的な実験ではないか・・・・というようにわたしは理解しているのですが,はたして,どうなのでしょう。こんな質問をまじえながらのトークショウが展開すると楽しいなぁ,といまから楽しみにしています。

でも,わたしの役割は,あくまでも体操の実技の専門家として,あるいは,体操史の研究者として,もっと広い意味でのスポーツ史・スポーツ文化論の研究者という立場からの発言にあります。ですから,大西さんたちのグループの人たちとのトークをとおして,また,新たな知の地平が開かれていくといいなぁ,と夢見ています。

夜の8時からの開演ですので,お勤めの方も,十分間に合います。
どうぞ,お運びください。お待ちしています。

2011年11月23日水曜日

「3・11」以後のわたしたちの身体を考える(椙山女学園大学で特別講義をします)。

この2,3年つづけて,椙山女学園大学からの招聘で,特別講義なるものをやらせていただいています。お世話してくださるのは,三井悦子教授。テーマもわたしの好きなものでいい,というとても寛容な応対をしてくださり,ありがたいことこのうえなしです。というわけで,三井教授とご相談の結果,ことしは,以下のような要領で開催されることになりました。

日時:11月30日(水)16:40~18:10
場所:椙山女学園大学人間関係学部(日進キャンパス)5号棟205教室
テーマ:「3・11」以後のわたしたちの身体を考える
──「ものの豊かさ」から「こころの豊かさ」へ

もちろん,この講義は学生さんに向けて行われますが,一般の方たちへの参加も呼びかけられています。去年も,近在の大学の先生をはじめ,院生,主婦の方たちも聴講されました。学生さんたちだけではありませんので,わたしとしては,かなりのプレッシャーを感じますが,それだけ気合も入ります。その場の力を借りて,いつもとは違う,もうひとつ上のレベルの緊張感のもとで,話をさせていただけることを感謝しています。

ですので,興味をお持ちの方は,どうぞ,気軽にいらしてください。たぶん,黙って教室に入って坐っていれば,それでOKなのだと思います。もし,心配な方は,わたしが教室に入るときに,声をかけてみてください。それだけで,なんの問題もないはずです。

さて,今回は,いわずとしれた「3・11」を主題に据えて,わたしたちの身体について考えてみたいと思います。「3・11」をどのように定置するのか,それによって,これからのわたしたちの生き方そのものの根源が問われる,とわたしは考えています。とりわけ,身体という視座から,原発問題を解きほぐしていくと,そのさきになにがみえてくるのか,を考えてみたいと思います。

かんたんに触れておけば,あなたは,「経済」(カネ)と「生命」(いのち)のどちらに優先権を与えますか,という問いかけです。そして,生きるとはどういうことなのか,というもっとも根源的な地平にまで降りていって,わたしたちの「身体」とはなにか,を問うてみたいと思います。と,こんな風に書きますと,なんだか,小むずかしい話をするように思われるかも知れませんが,話はとてもかんたんなことです。わたしたちの身体を生き生きさせるのは,カネではなくて,こころです。この原点に立ち返って,原発問題を考えてみたいと思います。

おりしも,ブータン国王夫妻が来日されました。そして,被災地にまで足を伸ばして,直接,じかに被災者との触れ合いをされました。まだ,若い国王なのに,立派な人だと思いました。さすがに,GNPではなくて,GNH(Gross National Hapiness=国民総幸福量・幸福度)を,国王の提案で国策として推進することに全力を投球している人だと,納得しました。

この話も加えて,人間が幸せに生きるとはどういうことなのか,を考えてみたいと思います。そのための思考の中心にあるものが,すなわち,わたしたちの「身体」です。この「身体」をどのようにすることが,多くの人びとの「幸せ」につながっていくのか,を考えてみたいというわけです。

もちろん,わたし自身にとっても,初めての試みです。
で,今回は,とりあえず,「ものの豊かさ」と「こころの豊かさ」という二つの視点を据えて,可能なかぎり思考を拡げてみたいと考えています。

あとは,当日の,その場の力をお借りして,わたしの思考がどのように反応するか,を楽しみにしたいと思います。

興味のある方は,ぜひ,お出かけください。黙って,教室に入って坐っていてください。


「菅野」は「江川」の二の舞になるのでは・・・?

東海大の菅野投手が,日ハムからの一位指名を拒否した,と新聞が報じている。伯父である原監督はどのような助言をしたのだろうか。そして,祖父である原貢氏はどのように対応したのだろうか。この両者は,しばらく前の報道では「本人の意志を尊重したい」という趣旨のことを語っていた。その結果が,これだとしたら,情けないというべきか,いやいや,哀れとしかいいようがない。あるいは,あまりにもお粗末,というべきか。

日ハムは交渉を継続する,という。当然だ。どこまでも,説得すべきだし,わたしはその姿勢を支持する。少なくとも,菅野投手は,11月末まで真剣に考える,と表明していた。それでいい。じっくりと腰を据えて考えることが大事だ。なのに,なぜ,いま,ここで意志表明をしなければならないのか,わたしには,まったく理解不能だ。(あっ,ひょっとしたら,ナベツネが動いたのかな・・・・これは,まったくの個人的推量)。

わたしの結論はこうだ。菅野投手は日ハムに行くべし。それを拒否するなどと,まったくもって「甘い」。いったい,何様だと思っているのか。ドラフト制度をなんだと思っているのか。いやいや,そんなことはまるで眼中にはなくて,ただ,ひたすら幼き日の憧れをそのままに「おいちゃんのチームでなくてはいやや」とゴネている駄々っ子と同じだ。甘い。これでは江川君と同じだ。投手としては大成しない。折角の逸材だというのに。

原監督も甘い。伯父なればこそ,「日ハムに行け」と助言すべきではなかったのか。それがプロ野球のためだ,と毅然たる態度を示すべきではなかったのか。公私の区別をきちんとつけること,これが名門巨人軍の監督としての矜持ではないのか。それができない。これでは,来年の巨人軍もおぼつかない。

おじいちゃんは,これに輪をかけて甘い。浪人中は東海大で練習して,もう一回り大きくなって,再挑戦すればいい,という。どうやって「もう一回り大きくなる」のか。どうやって,それを証明するのか。その方法もないのに・・・・。ただ,ひたすら練習すればいいという問題ではない。野手ならともかくも,いやしくも投手だ。打者との真剣勝負こそが投手を育てる。

実戦こそが選手を鍛え,磨きをかける唯一の手段だ。こんなことはプロならぬ身でもわかる。日本の伝統芸能では,100回の稽古よりも,たった1回の舞台,という。舞台に立たないかぎり,ほんとうの力はつかない,と。

楽天のマー君は,高卒からプロの洗礼を受けて,驚くべき成長をとげた。あの星野仙一君をして,絶句させた,というほどに大きくなった。かたや,ハンカチ王子のユーちゃんは大学リーグで,ほどほどに交わすピッチングを身につけてしまった。が,それではプロでは通用しない,ということが実証されてしまった。両者とも,4年間を,実戦で鍛えあげたはずである。にもかかわらず,プロでのたくましさと,大学での甘さとが,みごとに実証されてしまった。

人間はいとも簡単に環境に同調する。きびしいプロの洗礼を受ければ,そのレベルでなんとかしようとする。大学野球で通用すれば,それでよし,となる。この差は,おそらく,もはや,取り返しがつかないものだろう。

菅野投手に告ぐ。まだ,猶予はある。日ハムと誠心誠意,交渉に応じ,最善の努力をして入団すべし。そして,まずは,なによりも実績を残すべし。そして,まずは,噂どおりの逸材であることを証明すべし。そして,FA権を確保してから,堂々と巨人入りすればいいではないか。史上最高の契約金の記録づくりを目指して。

プロ野球を私物化してはならない。菅野君も,ナベツネ君も。



2011年11月22日火曜日

トヨタ博物館を見学。トヨダからトヨタへの社名変更の理由を知る。

20日のブログに書いた,愛知教育大学元ゼミ生の集まりの名前は「48会」。昭和48年に入学したことからとった名前(と記憶している)。ということは,ことし56~7歳になるはず。いつのまにやら立派な紳士・淑女になっている。大学時代のことを思うと隔世の感がある。ことしはまた校長先生がひとり増えていた。

ことしの幹事はA君。豊田市で小学校の教員をしながら,サッカー・クラブの指導にも力をそそぐ。同級生たちが,つぎつぎに校長・教頭になっていくのを横目でみながら,どこ吹く風とばかりに,ひたすら子どもたちとのじかの「触れ合い」を求めている根っからの教育者。そして,熱血漢。本人は博物館おたくと自称する。ちょっと意外な取り合わせなのだが,博物館の前をとおりかかれば,よほどのことがないかぎり躊躇することなく入るという。

そんなA君が幹事なので,ことしの集まりのプログラムの中に,地元(豊田市)の最大のトヨタ博物館見学が組み込まれるのは当然のなりゆき。以前は「挙母市」と呼ばれていた都市の名前を「豊田市」に変えてしまうほどの「トヨタ」一色の町。この町にニッサンの車で乗り入れるとにらまれると言われるほど。わたしも愛知教育大学に勤務するようになってから,ニッサンからトヨタに変えた。それだけで,お前は偉い,と褒められた。そんな土地柄でもある。住民のほとんどがトヨタつながり。A君が監督を務めるサッカー・クラブもトヨタつながり。

さて,トヨタ博物館と聞けば,ああ,自社の製造してきた車を並べて,社の宣伝を兼ねて,社史を誇らかに展示しているものと思い込むのがふつうだろう。わたしもそう思い込んで入館した。ところが,である。自社製品は,最初に製造したという記念すべき「トヨダAA型乗用車」が入り口正面に飾ってあるだけで,あとは,世界の名品といわれた自動車を並べたみごとな「世界自動車博物館」になっている。しかも,それらの展示車はすべて動かすことができる,という。

トヨタを含めた日本の自動車の歩みは,別のフロアーの一角に展示してあって,ここでもトヨタの自己主張はほとんどない。みんな,平等に,年度ごとの評判のよかった新車が並んでいる。わたしが愛知教育大学に勤務していたころに乗り替えた「トヨタ・カリーナ」も展示してあって,急に親近感を覚える。そして,「ああ,いい博物館だ」とA君に声をかける。すると,A君が嬉しそうに「そう言ってくれると嬉しい」と正直に応えてくれる。

自動車マニアにとっては,丸一日いても時間が足りない,そういう博物館の展示になっている。なぜなら,自動車の展示と同時に,それぞれの自動車の時代背景を「生活史」という側面から,かなり詳しく解説したパネルが,あちこちにセットしてある。これを読みながら,わたしなどは,歩く人から車に乗る人へと,大変貌する日本人の姿を思い浮かべていた。むかしの人は,どこに行くにもみんな歩いていた。そこに馬車が走り,バスが走りして,歩行文化が少しずつ痩せていく。そして,最後のとどめを刺したのが「自家用車」の普及。これが,たった50年前のことだ。この半世紀の間に,日本人のほとんどの人たちは「歩く」ことを忘れ,どこに行くにも自動車。コンビニに行くのも自動車。銭湯に行くのも自動車。歩くことを忘れてしまった日本人のからだは,こぞって「肥満」。すなわち,文明病。あわててスポーツ・ジムに飛び込む。とき,すでに,遅し。しかも,なんというもったいないことをしていることか。ぜいたくと無駄の見本。

この話は,また,別の機会に。
ここでは,社名が「トヨダ」から「トヨタ」に変更されたときの話を書いておきたい。なぜなら,わたしは,むかしから「トヨタ」と呼ばれていたと信じて疑わなかったからだ。しかし,そうではなかった,ということを今回の博物館見学で知った。これは,わたしにとっては驚くべき「発見」だった。というよりも,虚を突かれた思いだ。

豊田佐吉が自動織機を発明したのが,こんにちのトヨタのオリジンだということは,中学のときの教科書(あるいは,副読本)で学んだ。この豊田佐吉の読みは「とよださきち」だったので,会社の名前は漢字で「豊田」と表記され,読みも「とよだ」だった。これは当たり前のことだ。

「トヨダAA型乗用車」が,初めて世に公表されたのは1936年だという。この年の9月14日から16日にかけて東京丸の内の東京府商工奨励館で開催された「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」の会場が,お披露目の場となった。このときは,まだ「トヨダ」と濁点がついたままだった。しかも,車の鼻先にあたるところのロゴをよくみると「豊田」と漢字で書いてある。まあ,これも,ちょっと意外だったが,よくよく考えてみれば,それが自然。なにも不思議ではない。

ところが,この展覧会の直後に,トヨダマーク懸賞募集が行われ,その審査の結果,トヨタマークが決定し,10月から製品名を「トヨタ」と呼ぶことにした,というのである。わずか,一カ月の差で,1号車は「トヨダ」(しかも,漢字で「豊田」)となり,そのご,しばらくは「トヨダ」のロゴが用いられたという。もし,このトヨダマークの懸賞募集が,もう少し早く行われていれば,最初から「トヨタ」のロゴになっていた,というのである。

以上は,トヨタ博物館のミュージアム・ショップで購入した『ガイド・ブック』の説明。

しかし,会場に立って,いろいろと説明をしてくれる美しいガイドのお姉さんは,これとは別の面白い説明をしてくれた。それによると,「トヨタ」は画数が「八画」となり,末広がりで縁起がいい。「トヨダ」では「十画」になり,しかも,×印になってしまうので,それを避けた,と。じゃあ,キリスト教文化圏だったら「トヨダ」の方が縁起がいいということになるね,とわたし。ガイドのお姉さんは困った顔をしてしまった。

それと,もうひとつの説がある,と教えてくれた。その説によると,外国人が「トヨダ」と発音すると間延びしてしまって,アクセントの置き所がわからなくなってしまう,と。つまり,「トーヨーダー」という具合に棒読みになってしまう。「トヨタ」なら,日本語と同じように発音することができる,というので,こちらがご採用になった,という。

そのあと,家に帰ってから,わたしが考えた作り話は,以下のとおり。
豊田佐吉の自動織機から,離脱して,自動車に乗り換えようとしたのは豊田喜一郎。かれは,自動織機は「トヨダ」とし,自動車は「トヨタ」とする,その差異化を狙ったのではないか。先代の功績を超えて,自己の存在を明確にするためには,差異が必要だ。そのためには,新生「トヨタ」がもっともいい,とアイディア・マンの喜一郎は考えたのだ。

というような具合で,「トヨダ」が「トヨタ」に変更した,ほんとうの理由はどこにも書いてない。書いてあることは,トヨダマーク懸賞募集の審査会が行われ,トヨタマークが決定した,とあるだけだ。なぜ,「トヨタ」にしたという議論の経緯は明らかにされてはいない。わかっていることは,懸賞募集に応募しただれかが「トヨタ」を提案し,それが採用された,というだけのこと。

すべては「藪の中」。意外に「画数」説が当たり・・・かも。
ここでは,1936年10月に,「トヨタ」というロゴが決定された,という事実だけを確認しておこう。そして,いつから,「豊田」という漢字表記から「トヨタ」というカタカナ表記に変わったのかは,ガイド・ブックをみるかぎりではわからない。

たぶん,トヨタの「社史」を調べれば,そのあたりのことはわかってくるのかもしれない。だれか,調べてみてくれませんか。

2011年11月21日月曜日

『アフターマス』震災後の写真(飯沢耕太郎+菱田雄介著,NTT出版)を読む。

出版されて間もないころに(10月28日初版第1刷),新聞の書評でとりあげられ,話題になっていたので,一度,読んでおこうと思っていた本である。ようやく,ここに手が伸びて,本日,読了。

「2011年3月11日14時46分」にはじまる東日本大震災がもたらした事態の総体がまだ十分に把握できないうちに,はやくも人間の記憶や意識は変化しはじめている。いい意味でも悪い意味でも。そこに鋭いクサビを打ち込むとすれば,まずは写真が,もっとも身近で,わかりやすい,というのはあまりに素人じみた考えにすぎないのだろうか。

写真評論家飯沢耕太郎と写真家・テレビディレクター菱田雄介のコラボレーションとして編まれたこの本は,いま一度,東日本大震災とはなにかを問い,「写真になにができるのか」と問う。

飯沢は評論家としての立場から,つまり,写真家の側からの,写真を撮ることの倫理性について思考を深めていく。それは,「3・11」以前までの写真を撮り,発表していく,というプロのカメラマンにとっては,ごく当たり前の行為が許されない情況が出現したこと,これが,かれの思考を深めさせる原動力となっている。つまり,「3・11」以後の東日本大震災の実態が日を追って明らかになるにつれ,かれの写真評論家としての,これまでのスタンスや思考にゆさぶりをかけてくる。そんなことでいいのか,と。そのゆさぶりに真向から向き合い,どうすればいいのかと日々,写真のこれからについて思考を重ねていく。もっと言ってしまえば,東日本大震災の情況の進展と同時進行のようにして,リアルタイムで自己の内に開かれた思考を書きつけていく。こうして,評論家の苦悶がそのまま記録されていく。

他方,菱田は写真を撮る人としての倫理の問題について,その苦しい胸の内を吐露する。写真は,撮る人,撮られる人,そして,その写真を見る人との,すくなくともこの三者の微妙な関係性の上に成り立つ。そのどこがくずれてしまっても,それはもはや写真として成立しなくなってしまう。だから,これまでのような写真の考え方だけでは,「3・11」以後という事態に対処できない,という。つまり,どういう被写体を,どのように撮って,それをどのような方法で公表していくのか,その反響はどうか,最終的な責任のとり方をどうすればいいのか,などを考えると身動きできなくなってしまう,という。

そして,二人とも,同じように悩み苦しむ問題は共通している。それは,死者の写真を撮るべきかいなか,もし,撮ったとしたら,どのような方法で公表すればいいのか,そして,それらの写真家の行為に対する批判にどのように応えればよいのか,ということだ。

この問題を考える手がかりとしてスーザン・ソンダクの論考を引き合いにだす。それは「死者との距離」の問題ではないかとして,思考をもう一歩踏み込んでいく。ソンダクは,アフリカの飢餓や中東の戦争の死者の写真は,撮る方も公表する方も,そして,それを見る方もあまり抵抗はない,という。この見解に,飯沢も菱田も,なるほどと納得する。

しかし,飯沢は,今回の被写体は日本国内で起きた自然災害による死者となるので,あまりにも距離が近すぎる,という。いわゆる身内意識が強く働くからだ,と。だからといって,撮らないで放置しておいていいのか,とみずからに問う。しかし,そこからさきの論理的整合性をもった思考は開かれない。

そこで,飯沢は,みずからを死者となったと仮定して,仮説を展開する。もし,自分が死者だったとしたら,やはり写真は撮ってほしいと自分は思う,と書く。そして,公表してほしいと。こんな風に考えるのは自分だけかも知れない,と断りながら。そして,自分の死を無駄にしたくはない,とも。だからといって,これを他人に押しつけたり,普遍化することは不可能だ,ともいう。

しかし,飯沢は,こういう未曽有の情況に真っ正面から立ち向かうことによってこそ,そこから新たな写真の可能性が開かれるのではないか,と一縷の夢と希望を託す。

菱田の苦衷はもっと切実だ。災害による死者を目の前にしてカメラを向けるだけの勇気も覚悟もできているか,と自分自身に問う。どう考えても自分にはそれはできない,と葛藤する。ここを超えていくには,なにが必要なのだろうか,と考える。そして,むしろ,それは勇気とか,覚悟とかの問題ではなくて,自然体そのものに身をゆだねるしか方法はないのではないか,と自問する。そのとき,その場の,自分のからだの反応に任せ,そこからの身やこころの動きにしたがうしかないのでは・・・,と。そして,ここからつぎのステージに向けて模索をつづけたい,と締めくくる。

菱田の思考を,もし,わたしが引き受けるとしたら,それは「開かれた身体」にゆだねる,ということになるのだろうと思う。あらゆる構えも意図も目的も意味も,すべて捨て去って,あるがまま。ひたすら,その「場」の力に身をゆだねる。無心。無我。大いなる他者に身を投げ出すしかないのでは・・・,と考える。そこは,西田幾多郎のいう「純粋経験」であり,「行為的直観」の世界だ。禅でいうところの「無」の境地。

となると,写真を撮る営みとは,まるで修行のようなものだ。その行の深まりとともに,写真という行為もまた深まっていく。つまり,写真という理念と行為が同時に進行していく世界。禅仏教でいえば,「修証一等」(しゅしょういっとう・道元)の世界。無駄に力んだり,大義名分を立てて頑張ったところで,所詮,底は割れている。だから,あるがまま。無理は禁物。

以上が,読後,直後のわたしの感想。
そして,本の中程に挟み込まれている菱田の28枚の写真について論評する資格はわたしにはない。ただ,文字通り,写真のタイトルである「hope/TOHOKU」を写し取っているなぁ,と感心するのみである。ただ,ひたすら,悲惨な写真ばかりを並べるのではなくて,そこはかとなく「hope」が伝わってくる中学生の卒業式の写真を組み込んだところが,嬉しい。人間・菱田が,こういう作品をとおして,みごとに露出している。ハートのある人だなぁ,と感ずる。

「3・11」は,間違いなく「世界史」に記録されるできごととなった。それは,1000年に一度と言われる地震の規模の大きさと,信じられないほどの大きな津波をもたらし,とてつもなく大きな災害をもたらしたのみならず,これに加えて原発事故という10万年単位で対処しなければならない「人災」をともなったからである。

しかし,このテクストには,原発事故の視点は,なぜか,除外されている。まるで忌避しているかのような印象が残る。

あるいは,放射能災害を「写真」でとらえることは不可能だとでも考えているのだろうか。被写体としてとらえどころがない,とでも考えているのだろうか。もし,そう考えているとしたら,それは違うだろう。もちろん,放射性物質による災害を写真にすることの「困難」はよくわかる。しかし,この「困難」と真っ正面から向き合うことによってこそ,写真の新たなる可能性が拓かれてくるのではないか。それこそが「写真」の未来ではないのか。

写真の思想性が問われるとしたら,まさに,放射性物質を「写し撮る」ことこそが21世紀の写真の最大のテーマとなるのではないか。そこを,なにゆえに,忌避したのか,わたしには納得のいかないところだ。

もう,ひとこと,付け加えておけば,地震や津波からの災害復興の足を引っ張っているのは,なにを隠そう原発事故をコントロール(制御)する手立てがまったくみえてこないからだ。だからこそ,東日本大震災と原発事故とはセットで考えなくてはならないのだ。なのに,この著者たちは,原発事故のことにはいっさい触れてはいない。なぜか?

この問いをないがしろにしてはならない,とわたしは真剣に考えている。

このテクストの素晴らしさを,けして貶めるつもりはない。が,わたしのこのような視点を併せ持ちながら,このテクストを鑑賞していただければ,幸いである。