2015年9月30日水曜日

スペイン・カタルーニャ自治州議会選挙。独立派が過半数。こんごの行方やいかに。

 スペインのカタルーニャ自治州議会の選挙が行われ,独立派が過半数の議席を確保した,というニュースが28日に流れました。カタルーニャ自治州といえば,スペインにあっても独特の言語や文化をもつ地域として,むかしから「独立」の動きがありました。スペイン北部に位置するバスク自治州もまた,バスク民族の居住地として知られ,独自の言語・歴史・文化を温存しつつ,やはり独立運動が熱心に展開されています。

 スペインでは,この二つの自治州が独立運動をめぐって,賛成派と反対派とが拮抗しています。バスク自治州は,いまは,反対派が政権を握っていますが,その前までは賛成派が握っていました。カタルーニャ自治州も同様で,こんどの選挙でも僅差で独立賛成派が過半数を占めました。とはいえ,独立推進派は昨年11月に住民投票を行い,約8割が独立賛成の票を投じたといいます。しかし,法的拘束力がなかったため,こんどは正式に独立の意思を確認するために前倒しの選挙に踏みきったという。

 カタルーニャ自治州のマス首相は,この選挙結果を受けて,いよいよ独立に向けた作業を進める考えを表明。それに対して,スペインの中央政府は,独立を断固阻止する構えだ,といいます。こうなると,両者の対立は激しくなり,どのような推移をたどることになるのか,世界中が注目するところとなります。

 昨年には,スコットランドの独立をめぐる選挙が行われ,かろうじて独立反対派が過半数を占めて,一応の安定をえました。このときも,英国中央政府はかなり神経を尖らせて,いろいろの切り崩し作戦が展開されたことも報道されました。

 ヨーロッパには,じつは,独立を希望する地域がほかにもあって,カタルーニャ自治州のこんごの成り行き次第では,各地の独立運動が活性化する可能性が大だといわれています。

 ドイツの友人から,The Economist 紙の情報がFBをとおして送られてきました。それによれば,スペイン,英国以外の地域で,独立運動が展開されている地域は以下のようだといいます。

 1.ベルギーのフランダース(『フランダースの犬』で知られる地域)
 2.ドイツのバイエルン州(ドイツ最大の州。州都ミュンヘン)
 3.フランスのコルシカ(地中海に浮かぶ島)
 4.イタリアの南チロル(オーストリアと国境を接する山岳地帯,言語はドイツ語)
 5.イタリアのベネチア(むかしから自由都市として栄えていたが,18世紀にはオーストリア,19世紀にイタリアに併合された)

 それぞれの地域に固有の歴史があり,独自の文化を育み,経済力もあり,自主独立の機運がむかしから強いことが共通しています。言ってみれば,近代国民国家という枠組みに取り込まれてきた,その諸矛盾が鬱積していて,そこからの解放が独立へのエネルギー源になっているということです。

 このことは,日本でいえば,沖縄をみればよくわかります。琉球王国として栄えた独自の歴史・文化は,いまでも沖縄のアイデンティティの中核をなしているといっていいでしょう。薩摩藩による琉球併合以来,沖縄は,つねに中央政府に翻弄されてきました。いまもなお,米軍基地をめぐる問題から解放されることなく,むしろ,過重な負担がさらに大きくなろうとしています。ですから,そこに積もっている抑圧・鬱積は,すでに臨界点に達しつつあります。ですから,沖縄にも「独立」の機運が盛り上がってきています。

 そういうことも視野に入れて考えてみますと,スペイン・カタルーニャ自治州のこんごの独立への進み行きは,沖縄を含めた世界中が注目するところとなっていくことでしょう。わたしも,息をひそめて見守りたいとおもいます。

2015年9月29日火曜日

SEALDsの奥田愛基さんに「お前と家族を殺す」と脅迫状が・・・。

 SNSをとおして,この情報が飛び込んできました。が,わたしが今日みていたテレビのニュースでは,どこも扱いませんでした。どこの局もスルーしてしまったようです。テレビがスルーするということ自体が,この恐るべき事態を容認する側に立つ,ということを如実に示しています。つまり,世の中のとんでもないアホが,たまたま脅迫状を送りつけた,というような単純な事件ではないということを最初にお断りしておきたいとおもいます。

 もっとはっきり言っておきましょう。どことは名指しはしませんが,どこか大きな権力につらなる団体がその背後で動いていることは間違いないだろう,ということです。ですから,テレビもスルーしてしまいます。同じ仲間ですから。そして,警察もまた積極的には動かないだろうということです。あってはならない,とてつもない「大事件」だというのに。

 SNSに流れている情報によれば,以下のとおりです。
 今月の24日に,奥田愛基さん宛ての脅迫状「お前と家族を殺す」が,奥田さんの通う大学とは別の大学にとどいていた,ということ。奥田さんは,警察に被害届けを出したこと。そして,記者会見をしてコメントを発表したこと,などです。

 詳しい情報については,29日の新聞か,SNSを検索して確認してみてください。

 SEALDsは,すでにご存じのように非暴力をモットーに,警察公認の抗議集会を開いたり,デモを行っている,じつに温厚な学生の団体です。しかも,外郭のどこの団体や党派とも手を結ぶことなく,一人ひとりが自律した個人の集まりであり,資金も自分たちの持ち出しと一般の寄付をもとに活動を展開しています。じつに,自由でゆるやかな組織であることを大切にしています。

 そういう団体で活動する奥田愛基さんのところに「お前と家族を殺す」という脅迫状が送りつけられたのです。それも,かれの通う大学とは違う大学宛てに。これもなんだか稚拙というか,ふざけたやり方というか,まともに付き合えないようなレベルの話です。ということは,黒幕が絶対にわからないように,末端のまたその末端の,どうでもいい輩にやらせた・・・,というような・・・・。このやり口の卑劣さが,またまた,恐ろしい。

 それにもまして,SEALDsに所属している学生さんたちに及ぼす影響の大きさが,わたしは心配です。やはり,かなりの動揺は隠せないとおもいます。わたしが学生だったら,ショックです。この程度の活動ですら,脅迫の対象になってしまうのか,と。でも,こうなったら,金曜日の集会には,なにがなんでも参加しようという気にもなってきます。より大きな結束となって,正攻法で政権への圧力をかけていくしかありません。

 この「事件」が,こんご,どのような情報となって流れていくことになるのか,わたしにはわかりません。しかし,「戦争法案」が通過したことによって,ますます,権力は露骨になり,世の中は暗く,陰湿な方向に進展していくことは間違いなさそうです。だからこそ,なにがなんでも,戦争法案を「無効」にする運動を根気よくつづけていくしか方法はありません。

 持久戦のはじまりです。立憲デモクラシーを擁護するために。

2015年9月28日月曜日

捜索令状もなしに土足で踏み込む。これがアベの言う「積極的平和主義」か。

 憲法に保証された「思想・信条の自由」については,中学生になればみんな学校で学んで知っていることです。この憲法の精神にもとづいて,国会前などでの「憲法守れ」の運動に参加した学生さんたちの抗議行動が社会に大きな波紋を投げかけ,大きな運動のうねりとなっていることは周知のとおりです。かく申すわたしもそのなかのひとりです。

 そんな学生さんの住むアパートに,ある日,突然,警察がやってきて,警官が窓から進入し,玄関を開けて大勢の警官が家宅捜査をはじめた,という情報をSNSで知りました。学生さんは,令状の提示を求めたそうですが,「そんなものは関係ない」と切り捨てて,土足のまま踏み込んできた,といいます。

 令状ももたずに,あるいは,令状を提示することもなく,いきなり土足で学生のアパートに踏み込む,こんなことは60年安保,70年安保の時代にも聞いたことはありません。

 じつは,70年安保の時代に,わたしはさる県人寮(学生寮)の寮監をしていたことがあります。もちろん,当時の寮生の多くがヘルメットとゲバ棒をもって,安保闘争に参加していました。そんな折に,寮のまわりを機動隊に囲まれ,責任者として対応したことがあります。そのときも,寮の中の捜索をさせろと強く言われました。門の鉄扉越しに,「中に入れろ」「捜査令状をみせろ」「そんなものはない」「では,そちらの責任者をここに連れてこい」「いまはいない」こんな押し問答をかなり長い間したあげく,かれらは諦めて帰っていきました。

 あの三派系全学連が過激に闘争を繰り返していた時代ですら,いざというときの最後の手続はきちんと守られていました。ましてや,いま,学生さんたちが,たとえば,SEALDsの学生さんたちが取り組んでいる抗議行動は,いかなる暴力も排除された,じつに紳士的なものです。ですから,赤ちゃんを抱いた若いママさんも参加しています。幼稚園・小学生の幼い子連れの親も参加しています。わたしのような老人も参加しています。

 なのに,そういう非暴力の抗議行動に参加している学生さんのアパートに,いきなり土足で警官が乗り込むという,あってはならないことが起きています。

 アベ政権にとっては,目の上のたんこぶにも等しいSEALDsの活動でしょう。ましてや,「戦争法案に賛成した議員を落選させよう」という運動を展開していて,その支持者はネットをとおして鼠算式に増えているといいます。こうなると,アベ政権としては危機感をいだかざるをえません。こういう輩は早めに叩け,ということなのでしょうか。

 政権にとって都合の悪い奴らは,徹底的に叩け,そして,排除・隠蔽してしまえ,これはこのところますます露骨になってきたアベ政権の戦略です。アベの理想とする「平和」にとって邪魔な奴は徹底的に消してしまえ,これがアベの言う「積極的平和主義」のひとつの表出なのでしょうか。だとしたら,この方法は,アメリカのやり方と同じです。

 政権に楯突く集団は許せない,これがアベの「正義」です。ですから,SEALDsはその「正義」に楯突くわけですので,アベにとってはテロリストという位置付けになります。このイメージを,世の中に広めるための情宣活動の一環として,令状なしの暴力的な家宅捜査をはじめたとしたら,これは大問題といわなければなりません。なぜなら,政権が警察を私物化し,政権の利害を守るためだけに,意のままに動かすということが常態化しかねないからです。

 とうとう,こんなことまでやることになったのか,と唖然としてしまいます。
 しかし,こんな行政的手続を無視した,無法の家宅捜査が行われるとなれば,ますます反権力に目覚める国民(とりわけ,SNSを駆使する若者たち)が増大していくことは間違いありません。アベは率先して,みずからの反対勢力を増大させることに貢献しているのですから・・・・。このことに気づかないほどに,アベ政権は盲目になってしまっています。ここが怖いところです。

 ついに,恐怖政治の時代に突入です。これだけは,なんとしても歯止めをかけなくてはなりません。意を決して,粛々と取組みをはじめる以外にありません。

2015年9月27日日曜日

悲願の横綱での優勝!鶴竜,おめでとう。

 本割で照ノ富士に寄り切られ,両者ともに12勝3敗。優勝決定戦へ。お客さんは大喜び。場内は盛り上がった。

 本割では,照ノ富士が右四つがっぷりに組み止め,力強い寄りがでて完勝。
 優勝決定戦は,鶴竜が素早く左前みつを引き,右も前みつをつかむことができ,得意の型に持ち込み,左からの出し投げで完勝。

 両者ともに,それぞれ得意の相撲を展開して,千秋楽に華を添えた。
 鶴竜にすれば,長いトンネルからようやく脱出することができ,ほっとしたことだろう。横綱になって9場所めにしてようやく手にした賜杯だった。途中,左肩の怪我もあり,苦しい土俵がつづいた。が,これで来場所からの展望が開けたことだろう。そうなれば,3横綱そろっての優勝争いが期待できそうだ。

 鶴竜といえば,中学生のときに日本の大相撲に憧れ,力士になることを決心し,日本語を勉強して,自分で手紙を書いて入門を申しいれた,という逸話がある。父は大学教授。みずからを律して生きることを学んだ鶴竜は,大相撲入門後も必死で稽古を重ね,日本文化も勉強し,憧れの横綱を手に入れた。喜怒哀楽をあまり表情にみせない地味な性格ながら,意思の強さを内に秘めて,もくもくと精進するタイプ。平常心をなにより大切にする。

 低い姿勢からの鋭い踏み込み,素早く左前みつを引き,相手の胸に頭をつける得意の型をもつ。こうなると負ける相手はいない。この相撲にさらなる磨きをかけて,右に左に変化したり,はたいたりする悪い癖を卒業してほしい。そうすれば,押しも押されもしない立派な横綱が完成する。このたびの優勝を機に,その日の到来することを期待したい。

 一方,照ノ富士。破竹の11連勝のあと,リズムが狂った。気のゆるみがあったのだろうか。一度も負けたことのなかった栃煌山に,なすすべもなく寄り切られてしまった。中途半端な,気魄のない立ち合いが落とし穴となった。その翌日には,稀勢の里に寄り立てられ,むりやり小手投げでからだを入れ換えて耐えようとしたが,とうとう俵に右足がかかったところで,稀勢の里の前へでる圧力に屈した。なぜか,左足から力が抜けたように崩れ落ち,仰向けに倒れてしまった。

 左足の靱帯を損傷し,親方から休場を薦められたが,部屋の横綱(日馬富士)が休場しているのに,自分まで休場するわけにはいかないと決意し,強い気持ちで場所をつとめた。翌日の豪栄道戦は,やはり力を発揮することはできなかった。が,今日・千秋楽の鶴竜戦では気魄十分にぶちかまし,突き立て,自分の得意の右四つがっぷりとなった。あとは,休むことなく前にでる。気魄の勝利を手にいれ,12勝3敗で,鶴竜とならぶ。そして,優勝決定戦へ。

 決定戦での勝利は逃したものの,本割での成績は,優勝した鶴竜と同じ12勝3敗の同率。準優勝とはいえ,優勝力士と同率の,優勝に準ずる成績を残した。これで来場所,優勝すれば,当然のことながら,横綱もみえてくる。となると,3横綱から4横綱時代へと,新しい時代の幕開けともなる。すべてがモンゴル出身の横綱という,大相撲の歴史を画する新しいページが加わることになる。いろいろ批判もでてこようが,わたしは大いに期待している。

 ついでに,今場所11勝4敗で終わった稀勢の里についても,触れておこう。いつものことながら,後半になって存在感を示すことができた。前半の「とりこぼし」が痛い。この「とりこぼし」という悪い癖を克服して,最初から優勝争いの先陣を切るんだという強い気持ちをもってほしい。横綱になれる素質を十分にもっていながら,その手前で足踏み状態がつづいている。照ノ富士戦でみせた気魄,そして前にでる圧力を徹底していけば,おのずから道は開けてくる。今場所はその可能性がほのかにみえたようにおもう。ライバルの琴奨菊も復活してきた。ふたりで土俵をかき回すくらいの気概をもって来場所に臨んでほしい。

 最後に,鶴竜の優勝をこころから言祝ぎたい。この地味な横綱になぜか惹かれるものが多い。これを機に,来場所での,得意の左前みつを引く型の完成をめざしてほしい。そうなると,とても質の高い大相撲が展開することになる。日馬富士と白鵬が復帰し,そこに照ノ富士が割って入る。そうはさせじと,稀勢の里と琴奨菊が待ったをかける。来場所がそういう場所になることを,こころから期待したい。

2015年9月26日土曜日

なぜ,森喜朗会長の責任は問われないのか。新国立競技場・第三者委員会報告。

 腰砕けの第三者委員会の報告。これが,わたしの第一印象でした。

 問われるべきは,森喜朗組織委員会会長である,とにらんでいたからです。新国立競技場をめぐる一連の不祥事の背景には,いつも森会長の陰がちらついていました。この恐るべきドンの存在は格別で,文部科学大臣といえども,ましてやJSC(日本スポーツ振興センター)理事長などにいたっては,平身低頭,言われるがままだったのではないか。

 もちろん,組織のトップである文部科学大臣と,それに連なるJSC理事長に責任があることは,だれの眼にも明白でした。ですから,この二人の責任を明確に指摘したという点では,第三者委員会(正式には,新国立整備計画経緯検証委員会)を評価したいとおもいます。しかし,この二人とも,手も足も出せない存在であり,その発言力が莫大であった森喜朗会長の責任が問われなかった,というのはどう考えてみても納得がいきません。

 「新国立・検証報告書要旨」なる記事が,9月25日の東京新聞に掲載されていましたので,それらをしっかりとチェックしてみました。いくつかの問題点が指摘されていますが,なかでも,つぎの文言がわたしの関心事を裏づけてくれていました。すなわち,有識者会議(正式には,国立競技場将来構想有識者会議)の存在です。

 「有識者会議はJSC理事長の諮問機関の位置付けにもかかわらず,メンバーが重鎮ぞろいで,実質的に重要事項の承認機関となっていた。JSCの意思決定を遅らせる要因の一つになっていた」。

 重要なことは,すべてこの有識者会議で決めていた,と第三者委員会は判断しているのです。にもかかわらず,この有識者会議のメンバーの「聞き取り」調査は行っていないのです。つまり,第三者委員会といえども,有識者会議に手を出すことはできなかった,ということです。この有識者会議のメンバーは全部で14名。各界のトップが顔を揃えています。それでも政治的発言力からいっても群を抜いており,その中心的な役割をはたしたのが,森喜朗会長です。

 詳しいことは省略しますが,これまでの経緯をみていても,ポイント,ポイントには森喜朗会長の名が登場し,その影響力の大きさはだれの眼にも明らかでした。有名なところでは,ラグビーのワールド・カップを開催する会場にせよ,とごねたこともありました。

 それはともかくとして,第三者委員会のメンバーは6名。委員長は東大名誉教授(柏木昇),そして,公認会計士,弁護士,アスリート,京大教授,それに経済同友会専務理事(横尾敬介)が加わっています。これは,どうみても森喜朗会長と横尾経済同友会専務理事との連携プレーがあったな,とおもわざるをえません。

 有識者会議のメンバーの聞き取り調査をしなかった理由を問われた柏木委員長はつぎのように答えています。
 1.第三者委員会のメンバーのなかから,有識者会議のメンバーの聞き取り調査をせよ,という声はあがらなかった。
 2.もし,それをやるとしたら,時間も金も膨大なものになってしまう。
 3.期限を切られた短期間では不可能だった。

 これらをみれば,最初から,第三者委員会の検証には限界があって,しかも,その筋書きもできあがっていた,とおもわざるを得ません。要するに,身内同士の馴れ合いのお手打ち式だった,ということです。ですから,文部科学大臣とJSC理事長という組織のトップの責任を指摘するにとどめ,諸悪の根源には蓋をしたまま閉じてしまった,という次第です。このシナリオもまた,森喜朗会長の指示どおりだったのではないか,とわたしなどは勘繰ってしまいます。

 なお,東京新聞は,第三者委員会の検証について,28日朝刊に特集紙面を掲載する,と予告していますので,それを読んで,さらに考えてみたいとおもいます。

 というところで,今日はここまで。

2015年9月25日金曜日

「強い」と褒めたら,いきなりこけた照ノ富士。残り3番の相撲が大事。

 あまり安易に人を褒めるものではない,と深く反省。あんなに強い照ノ富士が,いとも簡単に寄り切られてしまった。相撲巧者の得意の型に持ち込まれると,やはり耐えきれないようです。まだまだ,相撲が甘いというべきでしょう。

 一度も負けたことのない栃煌山に,まんまとしてやられてしまった。自信過剰か。位を下げてしまったのか。どこかにこころのスキがあったのだろう。立ち合いが中途半端。だから,すぐに双差しになられてしまい,慌てて小手に振った。これが間違いのもと。これですっかり腰が伸びて立ち腰になってしまった。いくら照ノ富士でも,低い重心から双差しで寄って出られたら,なすすべもない。一直線に寄り切られてしまった。

 栃煌山に双差しになられることは想定内のはず。ならば,両腕で抱え込んでから,腰を引いて一呼吸入れるべきだった。そうして辛抱しながら,自分の体勢をつくっていくべきだった。そうはならないところが相撲の面白さ。今日の相撲は栃煌山を褒めるべきでしょう。一度も勝ったことのない相手をなんとかしたいという気持ちが前にでた。そして,自分得意の型に持ち込むしかない,と割り切っていた。

 自分の相撲をとりきること,と多くの力士が語ります。たぶん,師匠から口をすっぱくするほど言われているからなのでしょう。しかも,それがもっともオーソドックスな相撲のとり方なのですから。それが,照ノ富士にはまだない。だから,相手によって取り口が変化する。力の差のある相手なら,それでも通用するが,やはり上位の相撲巧者には通用しない。

 あと三日間の相撲が大きな意味をもつことになる。立ち合いで,相手を圧倒するくらいの気魄が大事だ。「張り差し」などという片手間のような立ち合いはやめるべきだ。白鵬がやっているので,見よう見まねで,それをやっているのだろうが,やめた方がいい。大きなからだを生かして,どっしりとした立ち合いをして,ひとまず相手をしっかりと組み止めること。右四つでも左四つでもいい。ただ,それだけでいい。がっぷり四つに組み合えば,いまや負けることはないのだから。そういう相撲を磨くべきだろう。

 いまの相撲では,同部屋の横綱・日馬富士には勝てないだろう。右から喉輪で先制攻撃され,からだを起こされてしまえば,あとは日馬富士の自由自在のはず。その喉輪を封じこめるような立ち合いを身につけること。

 昨日までは,このまま全勝優勝をしそうな勢いだったので,横綱も手のとどくところにきている,と甘い判断をしていた自分を恥じるばかりです。今日のような相撲がでるようでは,まだまだ,横綱までは遠い。

 その判断は,このあとの3番をみて,しっかりと確かめてからにしよう。いずれにしても大器であることは間違いないのだから。きびしい,先手のとれる立ち合い,これが課題。敵は「立ち腰」。これでも相撲がとれてしまうところに落とし穴が待っている。大関のままなら,これでいい。横綱になりたいのなら,これでは駄目。

 このあとの3番を楽しみにしたい。

オンデマンド出版による『牛窪考』(柴田晴廣著),刊行。電子版も。

 『牛窪考』。牛窪とは,こんにちの地名でいえば,愛知県豊川市牛久保町のこと。この牛久保町とその周辺に伝承されている祭りの祭祀儀礼をてがかりに,古い神社・仏閣の来歴や伝承を,文献とフィールドワークをとおして蒐集・分析し,「牛窪」という地域がもつ不思議な磁場の意味を徹底的に探求する意欲作です。

 意欲作だと書いたことには理由があります。『牛窪考』は,一見したところ,牛窪という地方を対象にしたごくふつうの地方史研究のようにみえますが,そうではありません。直截に言ってしまえば,「牛窪」という地方の庶民生活の目線から中央の権力構造を逆照射する,という立場を著者はとります。そのことによって浮かび上がる,「記紀」に基づく日本史(=正史)の諸矛盾を徹底的に洗いざらいにし,なにゆえにこのような事態が起きているのか,その理由を明らかにしようという深慮遠謀がその裏に隠されているからです。もう一歩踏み込んでおけば,権力によって構築された表の日本史を,権力によって抑圧・排除・隠蔽されてきた陰の日本史の側から,その欺瞞性を根底から解き明かそうという,とてつもなく壮大な企みが著者・柴田晴廣さんの問題意識として脈々と流れているからです。

 著者の柴田さんには,『穂国幻史考』(常左府文庫,2007年)という大部の名著があります。今回の『牛窪考』は,『穂国幻史考』のなかに収められている「第三部 牛窪考」を抜き出して独立させ,その後の研究成果を加え,全面的に改訂・増補したものです。しかも2000ページにもなんなんとする大著です。

 さて,牛窪とその周辺の地域は,そのむかし,穂国(ほのくに)と呼ばれていました。その呼称の由来は,開化天皇を曾祖父とする朝廷別(みかどわけ)王にこの地を治めさせ,穂国と名づけ,穂別の祖となった(『古事記』開化条による)のがはじまり,だといいます。しかも,柴田さんの考察によれば,朝廷別王は,じつは,垂仁の悲劇の皇子ホムツワケだ,ということになります。となりますと,これはただごとでは済まされません。しかし,この穂国の歴史は,いわゆる古代史の正史からは徹底して排除され,無視されてきました。なぜ,そのようなことになったのか,その謎解きをしようというのが,柴田さんの野望のひとつです。

 しかし,柴田さんは,そんな野望などおくびにも出さず,「牛窪」という視点から,この地方に伝承されている祭り祭祀を淡々と語っていきます。しかも,微に入り細にわたり,じつに詳細に,持論を展開していきます。その迫力には圧倒されてしまいます。ぜひ,手にとって読んでみてください。

 少しだけ余談を。牛窪は,じつはわたしの育った豊橋市大村町とは,すぐ眼と鼻のさきに位置しています。その意味では,わたしもまた穂国の文化圏の真っ只中で育ったと言っていいでしょう。たとえば,牛窪のお祭りと同じ奉納芸能である「笹踊り」は,わたしの育った大村町の八所神社でも行っていました。三人一組になって太鼓を打ちながら舞い踊る,とても不思議な芸能です。ですから,大きくなったら(青年団に入ったら),この踊りをやるんだ,とこころに決めていました。

 その「笹踊り」の話も,穂国に分布しているすべての事例を詳細に探査し,分析した論考がみごとに展開しています。ですから,わたしにとっては,読み始めたら止まらない,ドキドキ・ワクワクのテクストとなっています。

 しかし,一般の人が読んでも,こういうアングルからの研究があるのか,と眼を見張ることは間違いありません。その意味でも,是非にご一読をお薦めしたいとおもいます。

 もうひとこと,書き加えておけば,わたしの個人的な関心事である「出雲」幻視のスタンスからも興味津々です。穂国のヘソとも言うべき三河一宮である砥鹿神社の祭神はオオクニヌシです。そして,この地方にはスサノオ神社がいっぱいあります。あるいは,天王社の系譜もあちこちにあります。こういう興味をもつ者にも,それとなくメッセージを発しているテクストでもあります。あるいは,また,「ひょうすべ」の考察もあり,河童研究のヒントもここに隠されている,と言っていいでしょう。柴田さんの視点はじつに多岐にわたる,みごとなものです。

 このテクストを入手したい人は,わたしまでご連絡ください。柴田さんに取り次ぎます。

2015年9月23日水曜日

圧倒的な強さが光る照ノ富士。琴奨菊を圧倒。

 相手力士十分の型になっても,負けない。なんとか凌いで勝ってみせる。場合によっては,相手十分の型にみずから誘い込んでおいて,それからじっくりと攻めて自分の型に持ち込み勝負をつける。立ち合いのあと,どんな型になろうとも,びくともしない。慌てない。とにもかくにも,最後には,自分十分の型をつくりあげ,力で圧倒する。なんという恐ろしい力士が現れたものか。

 この強さは尋常一様ではない。照ノ富士自身も,絶対の自信をつけつつある。ふつうに取っていれば負けはしない,と。

だから,最後の仕切りには怖い顔になるものの,気持ちは落ち着いている。さあ,来い,とばかりに。精神的にもとてもタフだ。勝っても当たり前のような顔をしている。加えて,からだが柔らかい。上半身も下半身も柔軟性に富んでいる。これは,どうやら天性のものらしい。そこに,稽古でつけた力強さと技能が加わった。

今日(23日)の相手は,大関・琴奨菊だ。得意の型をもった力士だ。その型にはまると一気にがぶり寄りが炸裂して,もっていかれてしまうこともある。今日は,慎重に,右から張ってでた。左をこじ入れて左四つ。しかし,右の上手がとれない。一度は,琴奨菊の寄りがでて押し込まれそうになるも,左半身に構えてその寄りを止める。ここからが素晴らしかった。相手の左差し手を絞り上げ,徐々に照ノ富士の型に持ち込む。最後には,強烈な右からのおっつけで琴奨菊の体勢を完全にくずしておいて,突き倒し。勝負が終わったあとの挨拶では,負けた琴奨菊のからだが小さく縮んだようにみえ,その分,照ノ富士のからだはふくらんで大きくみえた。だから,照ノ富士の相撲が,またまた,ひとまわり大きくなったというイメージを残した。

 残り4日間。この調子では負けそうにない。なによりいいのは,すべて真っ向勝負にでて,勝っていることだ。はたいたり,いなしたり,立ち合いで変化したり,などという小細工はいっさいしない。すべて,正攻法だ。しかも,がっちりと組み止めてから,徐々に自分の型をつくりながら,攻めていく。相撲にスキがない。この相撲をとり続けているかぎり負けはない。ということは,このまま勝ち続け,全勝優勝も夢ではなくなってくる。

 わたしが相撲に興味をもち始めたのは小学生のときからだ。当時は,横綱・照国や東富士が活躍した時代だ。地方巡業にきたときには,はるばる6㎞ほどの道を歩いて見物にでかけたものだ。照国は,秋田県出身の色白の力士で,仕切り直しをしている間に,からだが紅潮してきて,がっぷり四つに組み合うと,全身が真っ赤になる。その相撲の流れを,自分の眼ではっきりと見届けたときから,わたしは照国のファンになった。

 照ノ富士の「照」は,おそらく,この照国の「照」をいただいたに違いない。そして,照ノ富士の「富士」は,師匠の旭富士の「富士」をいただいたに違いない。だから,照ノ富士とは,どちらも名横綱だった人のしこ名にゆかりのある,素晴らしいしこ名だ。だから,照の富士が力をつけ,大関に上がったときから,ずっとこの力士の相撲に注目してきた。

 ここまでくると,もう横綱は目の前だ。さらに稽古を積んで,自分の型ができあがったときには,堂々たる大横綱が誕生することは間違いないだろう。しかも,白鵬をはるかに超える,受けて立つことのできる大横綱の誕生である。その日がやってくることをいまから楽しみにしている。稽古相手にも恵まれている。申し分ない環境も幸いしている。期待大である。

2015年9月21日月曜日

「手首の力を抜いてぶらぶら振ってみなさい」・李自力老師語録・その59。

 李老師が,ある時,こんな話をしてくださいました。

 「手首をぶらぶら振ってみなさい。そうです,そうです。このとき,手の指の力は抜けていますね。こんどは,手の指に力を入れて,手首をぶらぶら振ってみなさい。手首は固くなってしまって,ぶらぶら振ることはできませんね。」

 「これと同じように,肩に力が入ってしまうと,上腕も前腕も肘も手首も指も硬直してしまいます。ですから,まずは,肩の力を抜くこと。そうすれば,腕から指先まで力が抜けて,柔らかで滑らかな腕の動作ができるようになります。」

 「このことは,脚の動作でも同じです。つまり,股関節が緊張していると,膝,足首,爪先もまた緊張してしまいます。とにかく,必要のない筋肉をいかに弛緩させるか,これが流れるような美しい動作を導き出す上で不可欠です。」

 この李老師のことばを,折に触れ,思い出しては考えていましたら,以前につぎのようなことを話してくださったことを思い出しました。

 「一動無有不動」
 「一静無有不静」

 つまり,ひとつの動作をするときには,からだ全体が動いているのであって,その部分だけが動いているのではない。同じように,ある部分の動作を静止させるときには,からだ全体を静止させることになる,というわけです。

 このことばに倣って,こんな風にも言えるのではないか,と考えてみました。
 すなわち,
 「一弛無有不弛」
 「一緊無有不緊」

 「弛」とは,「弛緩」の「弛」の意。
 つまり,からだのどこかを弛緩させるには,全身を弛緩させることが必要であり,どこかを緊張させるということは全身を緊張させることになる,という次第です。

 とまあ,頭のなかではなんとなくわかったつもりにはなれるのですが,実際にからだを動かすとなると,そうはかんたんにはいきません。だから,普段の稽古の積み重ねが重要になってくるのでしょう。これも,頭ではわかっているつもりなのですが・・・・。

 つまるところ,太極拳の究極のゴールは,必要最小限の筋肉だけを使い,あとの筋肉はすべて弛緩させることにあるようです。もっと極言してしまえば,筋肉で動かすという意識を忘れなさい,そして,骨を動かしなさい,ということになるようです。そして,これができるようになることを「骨(こつ)をつかむ」「骨をおぼえる」と言うのだ,と。

 最後の「骨」の話は,ある地唄舞の名手が語ったことばからの借用です。芸事のすべてに通ずる表現で,素直に納得してしまいます。

 太極拳の「骨」をつかむところまで,なんとか頑張って稽古に励みたいとおもいます。

2015年9月20日日曜日

さあ,これから「アベ・ファシズム」と「立憲デモクラシー」の闘いのはじまりだ。

 とうとう,アベ政権のファシズムを確立するための「アベ・クーデター」に押し切られてしまいました。クーデターの仕上げは,いうまでもなく参議院・特別委員会での強行採決でした。採決を進めるはずの委員長の声は聞こえず,議事録にも採決の記載なし,もちろん「可決」宣言もなし。こんなデタラメが,良識の府・参議院で行われたのです。すべて,自民党政権の筋書きどおり。意図的・計画的な「犯罪」です。にもかかわらず,ジャーナリズムは「可決成立」と書き立てました。

 この一部始終を,国民はテレビをとおして監視していました。

 国会というところは,いつから「治外法権」の場になったのでしょうか。

 これから,「戦争法案無効」の裁判闘争がはじまることは必須ですが,それには長い時間がかかってしまいます。

 ほんとうに,アベ政権はやることが卑劣そのものです。しかも,あまりにもお粗末です。

 野球でいえば,延長線ののち,時間切れ寸前の最終回で,突如として審判が「暴走」したのと同じです。ストライクをボールといい,アウトをセーフといい,怒った観客が球場になだれ込み,もちろん,審判もどこにいるのかわからない状態に陥り,まさに試合不能となった間に,塁にいた走者がホームに駆け込み,サヨナラ勝ちと審判が,野球場の<外>で判定した,というのと同じです。

 試合不成立はだれの眼にも明らかです。

 戦争法案も採決不成立はだれの眼にも明らかです。

 にもかかわらず,戦争法案は実効性のあるものとして,世の中を闊歩していくことになります。が,そんなことを国民が許すはずもありません。ほんとうの闘いはこれからです。憲法とはなにか,民主主義とはなにか,議会制民主主義とはなにか,といった根源的な問いが投げかけられたのですから。多くの国民が政治の暴力に気づき,立憲デモクラシーの危機に「目覚め」ました。

 さあ,これからは「アベ・ファシズム」と「立憲デモクラシー」の闘いのはじまりです。国家の主権はわれわれ国民にあるということを強く自覚して,一人でも多くの国民が立ち上がること,このことが不可欠です。

 まずは,来年の選挙に向けて,できるところからはじめましょう。もはや,沈黙は金なり,などという時代ではありません。いやなことはいやだ,と声を挙げないことには「アベ・ファシズム」はどこまでも「暴走」をつづけていくこと必定です。

 国家の存亡にかかわる重大事です。気持ちを引き締めて,みずからの意思を表明していきましょう。息長く。

2015年9月19日土曜日

今朝(19日)の東京新聞。「戦争法案」特集。迫力満点。保存版?

 今朝(9月19日)の東京新聞が渾身の「戦争法案」特集を組んでいます。たぶん,中日新聞も同じような特集を組んでいるとおもいます。他社がどのような特集を組んだかは,これから調べてみようとおもっています。

 が,とりあえず,東京新聞の記事を,一面トップから順に紹介しておきます。内容の感想などについては,また,機会をあらためて取り上げてみたいとおもいます。なお,今日の新聞は保存版としても価値があるとおもっています。

 ということで,今日のところは,ざっと紙面の紹介だけにしておきます。見出しだけでもお楽しみください。東京新聞の気魄が伝わってきます。


 
 
 
 
 
 
 
 
 

アベ政権は戦後最悪。憲法を無視。国会のルールも無視して「やりたい放題」。これは「クーデター」」だ。

 「ポツダム宣言」は読んでいません。「憲法」も精読はしていません。こんなことを国会の審議のなかで平然と言ってのけた総理大臣は,過去にいたでしょうか。それでいて,勝手に自分たちの都合のいいように憲法解釈をし,それを閣議決定して,戦争をできる国にするための「戦争法案」を提出する。しかも,最後までこの法案の法的根拠の正当性を説明できないまま,それどころか,まったく根拠のない法案だということが明白になったにもかかわらず,国会のルールを無視して「強行採決」に走り,議事録も残せない採決を,「可決」したと偽り,そのまま参議院の議決に持ち込む。おそらく,今夜半,いや早朝には可決成立させることになるのでしょう。

 こんな無茶苦茶なことをする政権はかつて存在したでしょうか。

 国家の根幹にかかわる憲法を無視し,議会制民主主義を踏みにじり,立法のための最低限の手続も約束事も無視して,議席の数のみを頼りに,あともどり不可能な最悪の悪法「戦争法案」を成立させようというのです。

 つまり,「戦争のできない国」を「戦争のできる国」へと大転換させようというのです。すなわち,国家としてのあり方を180度転換させようというのです。

 これは「クーデター」としかいいようがありません。

 反立憲主義,反民主主義,反平和主義,反知性主義・・・・いくつ並べても足りないほどの無知蒙昧な政治が,多くの民意を無視して展開されています。こんな醜態をさらけ出す政治が,なんの根拠もない「合法性」を騙り,「暴力」的に展開されています。

 今夜(18日)もまた,多くの人びとが国会前に集結して,一日中,「戦争法案,絶対反対」「民主主義って,なんだ」「これだ」「アベは,辞めろ」「いますぐ,退陣」「賛成議員は,落選させよう」などと声を挙げています。この声が国会の中にも聞こえているといいます。おそらく,賛成議員の多くはこころのなかで怯えているに違いありません。逆に,反対議員の背中を押し,勇気を与えていることは間違いありません。

 明日(19日)からは,第二ステージの抗議集会へと進展していくことになるでしょう。まずは,この「戦争法案無効」の闘い(憲法98条による)がはじまることでしょう。そして,少なくとも,来年の選挙まで持ち込み,自民・公明両党,ならびにそれに追随する政党を徹底的に批判し,「賛成議員落選」運動が激烈に展開されることになるでしょう。

 それほどの「怒り」を,われわれ国民に与えたのは,アベ君,君なんだよ,とはっきり「NO」をつきつけていくことにしましょう。

 今夜は「怒り」に震えて,眠れそうもありません。
 のみならず,今夜も夜を徹して声を挙げつづけるであろうSEALDsの若者たちの情熱をおもうと,ますます眠ってなどいられません。少なくとも,念力だけでも,国会前に向けて送りつづけたいとおもいます。

2015年9月18日金曜日

あの「強行採決」の結果を,だれが「可決」と認めるのか。議事録もない,なにも確認できない「採決」は「無効」だ。

17日の参議院・特別委員会の一部始終をテレビでしっかりとみていました。委員長不信任動議が否決され,委員長が委員長席に着席したところから,委員長席に佐藤正久理事が歩みより,それを契機にして与党議員がいっせいに委員長席に駆け寄り,委員長席を取り囲む。遅れて,野党議員が委員長席に駆け込む。そして,大混乱となる。

そのあとは,委員長がなにを言っているのか,なにも聞こえない。佐藤理事が委員長を囲む輪のなかに頭を突っ込むようにして,なにかを聞き取り,それを与党議員に「立て」と手で合図。与党議員はその合図に呼応して,立ち上がり,ばんざいと拍手。あとは,野党の議員もふくめて全議員が立ちっぱなしのまま。なにが,どのように議決されたのかは,与党議員も野党議員もなにもわからないまま,大混乱がつづく。

委員長席の周囲を,ボディ・ガードよろしく固めた与党議員は,からだを張って委員長を守っただけで,賛成の意思表示もしていない。ただ,野党議員の抗議から委員長を守っていただけだ。国会の守衛さんと変わらない。この中には,バッジをつけていない「人」もいた,という。佐藤理事は,途中で,野党議員に強烈なパンチを見舞ってもいる。こうなると,「ビデオ判定」が必要となる。

委員長の声も聞こえない,早々に安倍総理は退場してそこにはいない,議員による賛成を示す「起立」も判然としない(ずっと立ちっぱなし),議事録もない,もちろん,委員長には賛成議員を確認することもできない,しかも,「よって本案は可決されました」という委員長の宣言も聞こえない,そのまま委員長は国会の守衛さんに守られて委員会室を退場。

 こんな議決の仕方は,前代未聞だ。しかも,これで「可決」された,とメディアは報道する。いったい,なにを根拠に「可決」されたというのか,わたしには理解できない。委員長がたったひとりで,「可決」と判断し,参議院議長に報告すれば,それで「可決」となるとでもいうのだろうか。

 ここは少なくとも「議事録」を確認し,「議事録」が存在しない場合には,この「可決」は「無効」として,採決のやり直しをすべきではないのか。その手続をも「無視」して,参議院では「可決」を当たり前のこととして,最終議決に入ろうとしている(これを書いているこのとき,まさに,進行中)。

 いま,行われている大相撲でも,行司の軍配にたいして勝負審判は「ものいい」をつけることができる。そして,土俵の上にあがって協議をする。意見が分かれた場合には,「ビデオ判定」が行われる。それでも,「判定」が分かれる場合には,「取り直し」となる。

 これが,ものごとが判然としない場合の,世の中のひとつのモデルだ。大勢の人が納得する上で,必要不可欠な手段なのだ。

 参議院・特別委員会の「強行採決」は,どう考えてみても,委員長も,それを取り巻いていた議員も,議員席にいた議員も,だれひとりとして,「採決」の結果を確認することはできなかったことは明々白々である。したがって,これは「仕切り直し」以外の方法はない。この手続を「無視」して,かりに参議院で「可決」されたとしても,この法案はなんの根拠ももたないことになる。孫末代までも「禍根」を残すことになる。

 こんなことを放置しておいていいのか。ジャーナリズムはなにをしているのか。怒りを籠めて,訴えたい。断じて許せない。もはや,日本の国会は「無法地帯」と化してしまっている。

9月16日,SEALDsの若者たちは夜を徹して朝までコール。その傍ら,ゴミ拾いも。頭がさがる。

 17日午後,参議院の特別委員会で「戦争法案」の「強行採決」が行われました。そのときの醜態はニュースでも何回も繰り返されましたので,ご承知のとおりです。もはや,なにをかいわんや,です。委員長の声はなにも聞き取れず(委員会室に出席していたすべての議員に),ましてや議事録も残せない「強行採決」が有効であるとはとても思えません。なのに,ニュースでは,委員会で可決,と報じられています。

 しかし,外国のメディアはこれを大問題として,大きく取り上げている,という情報がSNSをとおして流れています。いまや,日本の議会は,世界の笑い物になってしまいました。このことの結末がどういうことになるのか,アベ政権の責任は重大です。

 というようなことを,今回は書くつもりではなく,9月16日のSEALDsの若者たちの抗議行動について,どうしても書いておきたいことがありましたので,そちらに焦点を当てたいとおもいます。

 もう,よくご存じのように16日の夜は小雨から次第に本降りとなり,深夜には相当激しい降雨に変わっていきました。その様子はIWJがリアル・タイムでSEALDsの抗議集会を中継していましたので,それで知ることができました。いまも,YouTubeでみることができますので,確認してみてください。

 その雨の降りしきるなか,夜中の12時はおろか,夜を徹して朝まで,かれらは抗議のコールをつづけました。この日が抗議行動の「山場」である,とはっきりと自覚し,覚悟を決めた態度表明であったようです。それにしても,雨の降るなか,徹夜で抗議集会をつづける,その情熱にこころからの敬意を表したいとおもいます。日頃から,かれらが言っている「本気でやる」はたんなる見せかけではありませんでした。それをみごとに証明してみせたのです。

  そして,かれらのコールの数あるなかのひとつ,「賛成議員は,落選させよう」が,今夜の国会前抗議集会でも繰り返されています。この声が,こんご次第に大きくなっていくことは間違いありません。そして,この声が全国津々浦々にまで浸透していくことも間違いないでしょう。それほどに,今回の「強行採決」は酷いものでした。だれの眼にも無茶苦茶だ,と。とりわけ,新しく選挙権を認められる高校生に与えた影響は,計り知れないものがあるとおもいます。また,その予備軍である中学生もまた,「なにごとか」と訝ったに違いありません。ましてや,小学生は,どう受け止めたことでしょう。

 「民主主義って,なんだ」「これだ」というSEALDsの若者たちの専売特許ともいうべきコールが,骨身にしみます。まさに,議会制民主主義を否定する「暴挙」以外のなにものでもありません。そして,それが小中高生に与える甚大なる影響はだれの眼にも明々白々です。一番困るのは学校の先生方でしょう。児童・生徒から質問されたとき,どのように答えるべきか,悩むことだろうとおもいます。しかし,ここはひとつ勇気を振り絞って,今回の「強行採決」は民主主義の否定であり,断じて許されるべきことではない,としっかりと教えてあげてください。それが立憲デモクラシーを標榜するわが国の正しいあり方なのですから。自信をもって教えてあげてください。

 またまた脱線してしまいました。もとにもどします。SEALDsの若者たちの情熱は,老いたりとはいえ,わたしのような老人をも叱咤激励し,奮い立たせるほどの迫力を覚えます。ほんとうに素晴らしいとおもいます。そんなSEALDsのメンバーの一人で,公聴会でスピーチした奥田愛基君の動画も何回も繰り返し,聞いています。全文,起こし原稿も,何回も読み返しています。それほどに,かれのスピーチはみごとでした。

 これで一気にメディアも注目するところとなり,かれ一人が脚光を浴びることになってしまいましたが,SEALDsの素晴らしさは,かれ一人だけではありません。かれ以外にも,この運動を支えている,いろいろの分野のエキスパートがたくさんいるということです。詳しいことは省略しますが,縁の下の力持ち的な存在,陰でこの運動をささえている人たちを忘れてはなりません。

 たとえば,これも動画でみて驚いたことですが,16日の深夜の午前2時30分ころに,雨の降るなか,大きなビニール袋を手にたったひとりでごみ拾いをしているSEALDs のメンバーがいた,という事実です。これを知ったときには,おもわず涙が流れてしまいました。なんというメンバーがいるのか,と。それも,おそらくは,自分で気づいたことを自分の判断でやっているにすぎない,と本人は問われれば答えたに違いありません。

 これがSEALDsなのです。みんな,それぞれに自立(自律)した個人です。そして,自分にできることをやる,それが大原則。これまでにみたこともない新たな共同体の姿をわたしはみる思いがします。その意味で,これからもSEALDsを,可能な範囲で支援していきたい,と考えています。

 奥田君の活躍もさることながら,真夜中の雨中をたったひとりでごみ拾いをしていた若者の姿をわたしは忘れることはないでしょう。いまでも涙がこみあげてきます。そして,頭がさがります。

2015年9月17日木曜日

「民主主義って,なんだ!」「これだ!」。強行採決でまざまざと・・・。

 「民主主義って,なんだ!」「これだ!」

 SEALDsが得意とするコールのひとつだ。
 初めてこのコールを聞いたとき,「これだ!」の意味はなんだろうな?と考えていました。今日,その答えがでました。

 答えは二つ。
 ひとつは,国会前や渋谷,新宿で抗議集会を開いたり,デモを行ったりすること,つまり,自分たちの意思を表明すること。すなわち,「思想・信条の自由」という憲法の精神に乗っ取って,みずからの考えを明らかにすること。
 もうひとつは,今日,参議院の特別委員会で,自民・公明両党がとった行為,すなわち,ルールをまったく無視した「騙し討ち」そのものというべき「強行採決」。すなわち,民主主義を頭から否定する,反民主主義のこと。

 この二つの意味を籠めて,SEALDsの若者たちはコールする。
 「民主主義って,なんだ!」「これだ!」
 これからは,SEALDsの若者たちのコールに応えて,この声を発するとき,いつも,わたしの胸を去来するのは,この二つの答えを行き来することになるだろう。

 それにしても,珍しく,NHKが,特番を組んで,急遽,参議院の特別委員会を中継しました。たまたま,遅い昼食をとろうとおもって点けたテレビから,この画像が飛び込んできて,一瞬,わが眼を疑ってしまいました。新聞の番組には載っていなかったからです。

 あとは,全身を眼と耳にして,のめり込むようにして眺めていました。そして,最後はあの醜態です。語るもおこがましいので,そこでなにがなされたかは省略します。すでに,何回も何回もニュースで,あの馬鹿げたパフォーマンスが繰り返されていて,どなたもご承知だとおもいますので・・・。

 これが,SEALDsの若者たちが言うところの,もうひとつの「民主主義」だ,というわけでしょう。この二つの民主主義が,いま,この国を二分して展開されていることへの,みごとなまでの「諧謔」と「警鐘」と言っていいでしょう。

 この「強行採決」によって,自民・公明両党による「国会茶番劇」は第一幕が終わり,つぎの第二幕へと進むことになります。つぎの本会議では,こんどは野党主導の「国会茶番劇」の始まりです。それが終わると,第三幕へと進展していくことになります。第三幕は,国民であるわたしたちが主役になります。「戦争法案」に賛成した議員への徹底攻撃です。できることなら,自民・公明の両党が崩壊するところまで追い込むことです。第四幕は,おそらく,つぎの選挙になるでしょう。

 これらのシナリオを演出するのは,わたしたち一人ひとりの意思の総和になります。この国の行く末を見誤ることのないよう,しっかりと見極めていきたいとおもいます。

 今日の「国会茶番劇」を目のあたりにして,怒り心頭に発しています。この気持ちをエネルギーにして,明日からのみずからの行動を,気持ちを新たにして考えていきたいとおもいます。

押し寄せる波のよう・・・・。雨の中,来る人,帰る人ひっきりなし。16日の国会周辺抗議行動。

 9月16日。国会周辺抗議行動。雨の降るなか,どれだけの人が集まったことだろうか。カウントできないほどの人,人,人。早めに帰るお年寄り。それよりも多く遅れてやってくる人びと。一昨日と同じ永田町駅から憲政記念館に向かう歩道に立って(何度も往復しながら),スピーチを聞き,コールしてきました。

 まずは,午後6時からはじまる立憲デモクラシーの会のリレー・トークを目指す。参議院議員会館前と聞いていたので,永田町駅をでて,そちらに向かおうとしたら,すぐ目の前に山口二郎さんが立っていて集会の場所が変更したことなどをマイクを片手に話している。そのすぐうしろで幟旗をもっている西谷さん。わたしは気づかずに山口さんの写真を撮ろうとおもってカメラをリュックから出していたら,西谷さんがみつけてくれて,手を振ってくれる。

 
ああ,元気で,ここに来られたんだ,よかった,と安堵。というのも,滅多なことでは休まない太極拳の稽古(16日の午前)を「一昨日から体調がよくないので休みます」という連絡があり,お休みだったからです。じつは,このところの西谷さんの過密かつ過重なスケジュール(の一部)を知っていただけに心配していました。このあとの連休にかけても,びっしりスケジュールが詰まっていることも。ですから,ゆっくり栄養をとって休養してください,とメールを送りました。

 
立ち止まって写真を撮っていたら,すぐに,警官に「立ち止まるな」と注意されてしまいました。大変な混雑で身動きできない人でいっぱい。仕方がないので,歩道に並んでいる立憲デモクラシーの会の人たちの行列のうしろに立つことにしました。ところが,ハンドマイクひとつだけの装備でしたので,リレー・トークのほとんどは聞き取れませんでした。

 小一時間ほど耳を傾けていましたが,わたしの耳では聞き取れません。それよりも,すぐ近くの参議院議員会館の前で,どこかの団体が性能のいいラウド・スピーカーを使ってコールしている声の方が圧倒的に大きかったということも原因でした。と同時に,今夜は国会周辺のあちこちで,いろいろの団体が分散して集会をもち,それぞれに抗議行動を展開していることを知り,そこはかとない迫力のようなものを感じました。この怒りの結集はただごとではない,これまでとは異なるすさまじいものがある・・・・と。

 立憲デモクラシーの会の集会はまだつづいていましたが,少し前にこの場を離れ,一昨日,立った憲政記念館に渡る横断歩道の手前をめざしました。ところが,今日はこの横断歩道は警察官によって「封鎖」されていて,向こう側に渡ることができません。そのため,あふれんばかりに人が溜まっていて横断歩道のはるか手前から身動きできません。仕方がないので,はるか手前の銀杏の木の下に立つことにしました。

 しばらく前から降りはじめた小雨がだんだん激しくなってきて,傘をさすのも困難なほどの人でごった返していましたので,雨避けにもなって好都合だったからです。しかも,すぐ近くにラウド・スピーカーもあって,国会前で行われているスピーチやコールも聞き取りやすかったからです。

 時折,報告される国会内の動向も知ることができ,ここはいいポジションでした。委員長室で行われている理事会が膠着状態で,何回も中断していて,一向に結論がでる気配はない,委員長室の出入り口を野党議員で封鎖している,特別委員会室にはまだ総理は顔を見せていない,などの情報が断片的に流れました。そのたびに,大きな歓声と拍手が起こりました。

 今夜の集会にきている人たちは,これまでの人たちよりも熱いなぁ,と感じ入りながら立っていました。その間も,ひっきりなしに来る人,帰る人が交叉しています。どれほどの人がくるのだろうかとおもうほど,来る人の波は衰えません。が,その人たちのほとんどは封鎖されている横断歩道からもどってはきません。ということは,そのまま歩道に沿ってこの場所から流れているとしか考えられません。

 午後7時30分を過ぎても続々とやってくる人の波を観察していると,今夜は高校生が多いことに気づきました。なかには,大きなスポーツ・バックを担いでいる高校生の集団がありました。よくみると,その大きなスポーツ・バッグには「日比谷」と書いてありました。ああ,そうか,かれらはクラブの練習が終わって,そのままここに流れてきたんだ,とわかりました。日比谷高校なら,ここから歩いても,さして遠くはありません。こういう若い高校生が関心をもって抗議集会にやってくる光景をみると,未来は明るい,と嬉しくなります。

 さらに,よくよく観察していますと,中学生や小学生を連れた母親も少なくありません。なかには,父親も一緒で,明らかに子連れの家族とおもわれる人たちも見受けられました。また,勤め帰りにやってきたサラリーマン風の人もみかけ,今夜,集まってくる人たちは,これまでと少し違ってきている,ということも実感しました。

 今夜は,立っている足はまだ大丈夫だと言っていましたが,午後8時を過ぎたあたりで,からだが冷えてきてしまいました。これ以上,からだを冷やしてはまずいと判断し,引き揚げることにしました。気持ちは,もっとここにいてコールをつづけたかったのですが・・・・。おそらく,SEALDsの若者たちは,このあとも頑張ってコールをつづけるだろうに・・・・と後ろ髪を引かれるおもいで。病み上がりの,末期癌レベル4を生きる人間の限界でした。


 

2015年9月16日水曜日

嘉風,絶好調。自分の相撲をとりきり,横綱連破。おみごと。

 注目すべきは,嘉風はどんな相手にも,両手を土俵にしっかりとついて待つ。そして,相手の呼吸に合わせて立つ。大きな相手でも小さい相手でも変わらない。上位の力士でも下位の力士でも同じだ。もちろん,横綱相手でも,きちんと土俵に両手をついて,立ち合いの呼吸を合わせる。こんなきれいな立ち合いをする力士はいない。

 ここに嘉風というお相撲さんのすべてが秘められている,とわたしはみてきた。正々堂々と,自分の相撲をとりきること,これしか考えていない。立ち合い,低い姿勢でぶちかまし,まずは相手に圧力をかける。そして,腰をしっかりと下ろし,頭を下げたまま激しく突き立て,押し立て,前へ前へと出ていく。相手はたまらずはたきたくなる。そこが狙いどころ。待ってましたとばかりに相手のふところに飛び込んで,押し立てる。

 今日(三日目)の横綱・鶴竜との一戦は,嘉風が理想とする自分の相撲をみごとにとりきった。完勝である。100点満点。親方の元・琴風も絶賛したことだろう。

 鶴竜も負けじとばかりに突き立て,立ち合い直後は優勢だった。しかし,それでも諦めない嘉風の激しい突き押し相撲に盛り返され,後退をはじめる。その瞬間,鶴竜の悪い癖の「はたき」がでた。それほどに嘉風のスキのない厳しい突き押し相撲が炸裂したということだ。鶴竜のはたきは,体の間合いが十分ではなかったので,逆に嘉風を呼び込むことになってしまった。ここを先途とばかりに鶴竜のふところに飛び込み,一気に寄り立てた。ここで勝負あり,だった。完勝である。

 嘉風は,勝っても負けても表情が変わらない。じつにサバサバしている。呼び出されて土俵に上がってから,相撲をとり終えて引き揚げるまで,同じ表情なのだ。まるで修行僧のような顔だ。ただ,すたすら,自分の相撲をとりきることに専念している。結果など,どうでもいい,といった風情だ。もちろん,こころの内では燃えるような闘志を秘め,勝てば歓喜に満たされ,負ければ悔しさと葛藤しつつも,けろりとした顔をしている。勝っても負けても,今日はこういう結果だったか,とすべてを引き受け,明日の相撲を目指す。

 この姿勢は,坐禅と取り組む修行僧のそれと変わらない。いまあるがままの自分を坐禅にぶっつけ,あるがままの境地と向き合う。そこにすべてを注ぎ込む。常住坐臥,これ坐禅なり,という教えを,嘉風は相撲で行っているように,わたしの眼には写る。

 調子のよい悪いは場所ごとに違う。それは,どれだけいい稽古ができたかによって違う。あとは,からだの状態による。どこにも「痛い」ところのない完璧なからだで場所に臨むことができたか,あるいは,どこか稽古で痛めたまま完治していないからだで土俵に上がるのか,これらによって当然,結果は違ってくる。そういうこともすべて引き受けて,淡々と土俵に上がり,いまできるすべてを出し切る,すなわち,自分の相撲をとりきる,ここにすべてを賭けている。嘉風の相撲をみていると,そういう相撲をめざしているに違いない,とわたしは確信する。

 だから,勝っても負けても,嘉風の相撲は清々しい。心地よい。相撲をよく知る相撲通に,ファンが多いというのも,よくわかる。

 花道を入ってくるときから,花道を引き揚げていくまで,一挙手一投足,すべての所作が絵になるお相撲さんである。

 その嘉風が,今場所は絶好調である。このあと,どのような相撲を展開するのか,じつに楽しみだ。優勝の行方の鍵を握る,そういうキーマンになりそうだ。今場所の活躍を期待したい。

2015年9月15日火曜日

どうした?白鵬。位を下げたか。無敗の相手に連敗。しかも,完敗。

 相撲界には「位を下げる」ということばがある。弱い相手に対して力を抜くことを意味する。それでも「勝てる」という自信に支えられた上位力士の「上から目線」のことだ。しかし,土俵の上には「魔物が棲む」とむかしから言われている。つまり,なにが起こるかわからない。ありえないことが起こる,ときには大怪我をする,あるいは,弱いとおもわれていた力士が突如として驚くべき力を発揮することもある。そういう想定外のできごとを総称して「魔物が棲む」と表現する。だから,気を抜いてはいけないという戒めでもある。

 今場所,稽古も十分,絶好調と評判の高かった白鵬が,初日につづいて二日目も負けた。それも「完敗」である。これまでの白鵬の相撲からは想像もつかない「つたない」負け方である。場所前は部屋の移転もあって,稽古場が間に合わず,よその部屋に出稽古に精を出した。いつもよりも気合の入った稽古を積んだといわれている。しかも,絶好調だ,と。

 にもかかわらず,初日から連敗してしまった。やはり,土俵には「魔物が棲んでいた」らしい。その「魔物」が突然,白鵬に襲いかかった,ということなのだろうか。

 この場合の「魔物」とはなにか。

 初日の隠岐の海の顔はいつもの顔ではなかった。顔面蒼白,真っ白だった。テレビをとおしてみていてもはっきりと認識できるほどに白かった。ということは,実際には,もっと白かったはずである。この真っ白な顔に,白鵬が気づかなかったはずはない。初日とはいえ,こんなに緊張してしまって・・・と,たぶん,白鵬は余裕をもって眺めていたはずである。

 案の定,立ち合いがわずかに合わず,隠岐の海が突っかけてしまった。隠岐の海は,すぐに頭をさげて謝った。それに対して,白鵬も右手で軽く会釈をして,「合わせなくて悪かった」と言っているようなポーズをとった。余裕綽々の姿勢である。そのあと,隠岐の海は土俵下の勝負審判にも丁寧に頭をさげていた。しかし,それでも隠岐の海の顔面蒼白は変わらなかった。まだ,緊張が解けてはいないようだ。あれっ?どうしたのだろう?と訝りながら,わたしはテレビを見入った。

 二度目の立ち合いは,珍しく隠岐の海が頭を下げてぶちかました。その圧力に圧倒されたのか,白鵬はちょっと後退しながら軽くいなしながら土俵を左にまわって体勢を建て直そうとした。そこに間髪を入れず隠岐の海は飛び込み左四つに組み止め,左のかいなを返した。行き場を失った白鵬の右は隠岐の海の首を巻くしかなかった。その直後に,隠岐の海は右を巻き変えて一瞬,双差しとなる。白鵬も即座に右をこじいれて応戦。しかし,この巻き変えにきたところを隠岐の海は寄ってでた。相撲の鉄則である。いとも簡単に「寄り切り」である。白鵬はなすすべもなく土俵を割った。隠岐の海の完勝である。文句なしの100点満点の相撲である。

 この相撲をみた直後のわたしの感想は「白鵬は位を下げたな」というものだった。理由はかんたん。白鵬はこれまで隠岐の海に一度も負けたことがない。合い口のいい相手なのだ。隠岐の海は大きなからだを生かした,やや荒っぽい雑な相撲だ。そこを白鵬は上手にさばいて難なく勝ちを収めてきた。そこに油断があったのではないか。それに対して,隠岐の海は「必勝」の策を立てて土俵に上がった。今日は勝つ,とみずからに言い聞かせて。だから,気合十分だった。それが顔面蒼白の原因だった,とあとでわかる。

 相撲にはこういうこともある。いや,よくあることだ。だから,面白いのだ。

 二日目の相手は曲者・嘉風。しかし,この嘉風も白鵬にとっては「お客さん」。まだ,一度も負けたことがない。いつものとおりに取ればいい,と白鵬は考えていたに違いない。しかし,この日の嘉風は違った。低い姿勢で頭から当たった。白鵬は思わずうしろに下がりながらはたきにでた。しかし,しっかり腰のおりている嘉風は足を送って,さらに白鵬を追撃する。一定の距離をおきながら,突いたり,いなしたり,フェイントをかけたり,と嘉風が主導権を握る。白鵬は防戦一方で,うしろへうしろへと下がりながら左にまわる。機をみて,嘉風が左で白鵬の胸を突く。白鵬はこれに負けじとばかりに体重を前にかけた瞬間に,嘉風はこの左の突き手をはずして右に回り込んで突き落とし。支えを失った白鵬はなすすべもなくばったりと土俵に両手をついてしまった。

 この相撲は,完全に嘉風の術中にはまってしまった結果だ。白鵬はまだまだ,と余裕をもっていたはずだ。その余裕に落とし穴が待っていた。前日につづいて,この日の相撲も「完敗」である。なすすべもなく負けた。一度も攻撃をしていない。受けて流せばなんとかなる,というこころのスキがあった。これが敗因だ。

 つまりは,「位を下げた」のだ。

 しかし,力士のからだというものは不思議なものだ。負けると,必ず,からだのどこかが「痛く」なる。白鵬は,取組が終わって,すぐに病院に直行。左膝の「痛み」を訴えた。しかし,どこも悪いところがみつからないまま,帰宅。親方とも相談。そして,翌日(今日)の午前に,もう一度,病院へ。精密検査を受ける。その結果は,左足・大腿四頭筋の腱炎,全治4週間を要す,というものだった。

 休場するための,とってつけたような診断書。わたしの眼にはそうみえる。

 さて,白鵬が休場となると,色めき立つ力士が何人もいる。まったく予想だにしなかった新しい展開に,三日目からの熾烈な闘いがはじまる。これもまた面白かろう。それを大いにエンジョイしよう。

 〔追記〕嘉風は絶好調。今日(三日目)の横綱・鶴竜からも金星を挙げた。今日も,嘉風の相撲が炸裂。鶴竜はたまらず前にはたいてしまった。悪い癖がでてしまった。そこを待ってましたとばかりに嘉風は押してでた。鶴竜はあっさりと土俵を割ってしまった。

「9・14」国会前大包囲集会。装甲車出動。道路を封鎖。なんのために?

 いったいなにがどうなっているのか,大群衆のなかに入ってしまうとほとんどわからない。ときおり,主催者が警察権力に対して抗議している声を,近くのラウド・スピーカーをとおして聞きながら,あれこれ想像する以外にない。

 
わたしは,今日の国会前の交差点は危険だというおぼろげな予感のようなものがあったので,ちょっと距離を置いたところから,シュプレヒ・コールをしながら大集会の行方を眺めていた。立っていたのは,永田町の駅から憲政記念館に渡る交差点の手前のところ。ここでメモをとりながら,様子をうかがっていたら,突然,装甲車が続々とやってきて目の前を通過し,国会前の交差点に向かっていく。

 
なにが起きたのか?と訝りながら様子を見守る。ちょうど,国会前あたりの様子が遠目ながらも視野の中にとらえることができる位置だ。急に赤い点滅ランプが増えたとおもったら,それまで通っていた車が来なくなった。どうやら,国会前の交差点を装甲車で封鎖してしまったらしい。永田町方面からやってきて国会前の方向に曲がろうとした定期バスも止められ,迂回するよう警官が指示している。タクシーも自家用車もその他の営業車もすべて,迂回させられている。

 どうやら,なにか起きたらしい。救急車がやってくる。消防車までやってくる。これらはみんな国会前の交差点に向かう。しばらくしたら,さきほどの救急車がサイレンを鳴らしながらもどってくる。だれかを搬送しているらしい。

 突然,リレー・トークが中断した。しばらくあって,主催者代表が名前を名乗り,おもむろに装甲車に向かって抗議をはじめる。「装甲車は必要ない。道路を封鎖するな。集会参加者を挑発するな。集会参加者は怪我をしない範囲で抗議をしてください。今日の集会ではひとりの怪我人も出してはならない。そのためにも,過剰警備は止めろ・・・・。」というような趣旨の声が聞こえてくる。これを聞きながら,国会前の交差点で起きていることを想像する。

 いまにも暴動が起きそうな,そんな雰囲気が主催者の声から伝わってくる。でも,そんな血気にはやるほどの元気な若者の数は多くない。しかも,主催者が準備した過剰警備監視要員が,かなりの数,要所には配置してある。国会議員もタスキをかけて,過剰警備に対して監視している。集会に参加している人たちの圧倒的多数は中高年だ。なかには,子どもを抱いた若いママさんも相当数いる。手をつないで歩いている親子もいる。要するに暴動を起こしようにも起こせない,いわゆる「弱者」がほとんどだ。

 にもかかわらず,装甲車を出動させ,その装甲車の前に膨大な数の警察官を並ばせているのが,遠目にみえる。

 
午後8時ちょうどに,主催者が集会の終了を宣言。大勢の人が帰路につく。永田町方面に向かう人たちがわたしの目の前を帰っていく。と同時に,永田町方面から国会前に向かう人もあとを断たない。しばらくすると,このあとSEALDsと学者の会の集会がある,というアナウンス。

 ならば,と思い立ち国会前に進む。ほとんど立っている人もまばらになっている。が,国会前の交差点の手前で大群衆が固まったまま身動きできない状態になっている。まわりをみると,想像どおり装甲車がずらりと並び,その前に警察官が二列横隊で並んで睨みをきかせている。むりやり人をかき分けて,並んでいる警察官の前にでる。早速,写真を撮りはじめる。なぜか,その前を歩いてとおしてくれる。が,国会前の交差点のところで身動きできなくなった。装甲車が,霞が関方面への横断歩道を封鎖しているのだ。

 
装甲車と装甲車の間に,過剰警備の旗が2本立っていて,そのあたりでどうやら道路を開けて,帰る人をとおせ,という交渉をしているらしい。女性の声で,「家に帰りたいのよ。もう,集会も終わったのだからとおしてよ」と繰り返しているのか聞こえる。が,ちょっと距離があって,だれとだれがどのような交渉をしているのかは確認できない。

 
ここから先へは進むことができない。この間にも,SEALDsの若者たちがコールをつづけている。そのコールの間に,「道を開けろ」「人を通せ」「嫌がらせはやめろ」と抗議をしている。が,情況は変わらない。もう,ほとんどの人が永田町方面に向かい,残っているのは霞が関方面に帰ろうという人たちだけだ。なのに,装甲車は道路を封鎖したままだ。いったい,なんの意味があるというのか。たんなる「見せしめ」でしかない。なんのことはない,アベの権力の手先がここまで伸びている,というなによりの証拠。まことに馬鹿げた話。これが権力のリアルな姿だ。

 ここまで見届けたところで,時計をみたら午後8時40分。午後5時30分からここにいるので,もう3時間,立ちっぱなしだ。さすがに足が文句を言っている。自然も呼んでいる。空腹は我慢できそうだが,そろそろ限界と判断。帰路につく。

2015年9月14日月曜日

政治が乱れると自然界も反応か?ついに阿蘇山噴火。

 数日前の東京新聞のコラムに山口二郎さんが「人の世の乱れに自然界も呼応しているのではないか,どうもそんな風に思えて仕方ない」という趣旨のことを書かれていました。ああ,山口さんもそんな風に思う人なんだ,といたく共感してしまいました。もっとも,わたしの場合はもっと極端で,「人間もまた自然存在,だから,自然界と相互に共振・共鳴するのは当たり前」と,かなり本気で信じています。長い人生経験でもそれを裏切ることは,ほとんどありませんでした。

 昨夜の日曜討論を聞いていて,あきれることばかりでした。高村・北側の両氏の思考の狂い方が如実に現れていて,こういう発想しかできない人たちが政権の座についているのだから,もはやどうしようもない,としみじみ思いました。あの場でまともな発言をしていたのは,岡田,志位,山本の3人だけ。その他の野党代表もトンチンカン。もう,救いようがない,政治の堕落だ,とがっくりきてしまいました。

 もちろん,すでに,国会での審議を聞いていて(NHKが国会中継をしている間は),安倍政権の堕落ぶりは百も承知していましたが,ほかの野党の多くも同類だということを目の前で見せられてしまうと,ほんとうに落ち込んでしまいます。国会議員の圧倒的多数が,狂気の沙汰。それが,いまの日本の政治を動かしている・・・・。

 こういう惨状を嗅ぎ取った若者たちが,「これは変だぞ」と気づき,「自民党って気持ち悪いよね」というもっとも素直な感性を共有して立ち上がってきたのは,とてもよく理解できます。そこには凝り固まったイデオロギーはありません。「えーっ?どうして?」という素朴な疑問をベースにした,まさに,ごくふつうの人間としての反応です。ですから,そういう感性を共有できる,多くの国民の支持がえられたのだとおもいます。少なくとも,わたしはそうでした。

 いまや,全国津々浦々にいたるまで,ほんとうに「草の根」的な抗議行動が浸透しています。この情況に,政府自民党も公明党も相当に「脅威」をいだいているはずです。公明党にいたっては,支持母体である創価学会の会員が集めた署名を,党本部が受けとらない,受けとるには条件がある,というトラブルまで起きています。自民党も地方の議員さんたちは,これでは選挙に勝てない,と神経を尖らせている,という報道もあります。口には出さないけれども,自民党の国会議員も同じはずです。

 とことん追いつめられて,あとは,強行採決のタイミングを虎視眈々とうかがっている,ただ,そういうことしかできないところにきています。今日も「9・14」国会大包囲集会が18:30~から予定されています。なんとか天気がもちそうですので,大勢の人が集まってくるのではないかと期待しています。もちろん,わたしも参加の予定です。

 こういう,世俗の混迷に対して,自然界の神々も黙ってはいません。ついに,今日(14日)の午前10時50分ころには,阿蘇山が噴火しました。噴火した煙は約2000mに達しているといいます。テレビの画像でもみましたが,これは,どう考えても自然界の怒りの表明としか,わたしの眼には写りません。

 東京直下型?と言われている地震もありました。府中市では震度5弱だったと。震源地は東京湾。いよいよ,やってきたか,とわたしは覚悟しました。こういう地震が,もはや,日常的に日本列島では起きています。

 箱根・地獄谷の地下活動も少し収まりつつあるようですが,いつ,また,大きな噴火を起こすか予断を許しません。レベルを3から2に下げたのは,箱根駅伝を視野に入れての,かなり政治的な判断だ,という噂もあります。が,ことの真実は,わたしたちにはわかりません。この種の情報は,フクシマを筆頭に,精確な情報はすべて秘匿されてしまい,わたしたちは知ることができなくなっています。

 関東・東北の大水害も,自然界からの反逆ではないか,と。被災されたみなさんには申しわけありませんが,やはり,200年に一度といわれる集中豪雨に備えを怠った「人災」だという声も次第にもちあがってきています。これもまた政治の堕落がもたらした「人災」だというわけです。これは,東日本大震災の時と同じです。

 フクシマはいまも,どんどん情況は悪化しています。にもかかわらず,精確な情報は蓋をされたまま。わたしたちは,わずかに専門家の調査・研究の結果を聞き知ることしかできません。が,まぎれもなく悪化の一途をたどっていることは間違いなさそうです。

 にもかかわらず,原発の再稼働です。こんな「愚行」を「正しい」判断といいくるめる安倍政権の狂い方は,もはや「病気」としかいいようがありません。しかも,この「病気」にほとんどの国会議員が感染してしまっているのですから,もはや手のつけようがありません。

 のみならず,メディアまで感染してしまっているのですから・・・。NHKを筆頭に。たとえば,昨夜の日曜討論では,山本太郎がNHKがなぜ国会中継を止めたのかと発言しはじめた途端に,司会者はあわてて発言を制して,話題を転じてしまいました。その狼狽ぶりは映画をみるより迫力のあるスペクタクルでした。

 自然界の反応がこれ以上に激しくならないように,戦争法案だけは「廃案」にしてもらいましょう。その他の悪法が,戦争法案の陰に隠れて,ジャジャ漏れに議会を通過していますが,それには眼を瞑るとしても,戦争法案だけは,なんとしても「廃案」に持ち込みましょう。

 そうして,自然界の神々に祈りを捧げたいとおもいます。

2015年9月13日日曜日

関東・東北水害による被害甚大。政府は真っ正面から災害対策に取り組め。

 関東・東北水害による被災者のみなさんにこころからお見舞いを申しあげます。

 日毎に災害の大きさ,広さが明らかになるにつれ,驚きを禁じえません。しかも,多数の行方不明者が,まだ,確認できていないと知り,こころが悼みます。

 わたしは,遅い昼食をとりながら,何気なくテレビを点けたら,ちょうど常総市の鬼怒川堤防決壊現場の映像が写っていました。思わず身を乗り出すようにして見入ってしまいました。堤防が決壊した場所から猛烈な勢いで濁流が民家を襲っていました。その濁流が直撃している民家の窓からは白いタオルを必死で振っている人,そのすぐ下流の家の屋根の上から手を振っている人,そのまた隣りの家のベランダから助けを求めている複数の人,そのすぐ近くの電柱に寄り添うようにして救助を待つ人,などが映し出され,旋回をつづけながら報道がつづきました。

 やがて,救助のヘリがやってきて,順次,救助にあたりはじめました。ああ,これでなんとか助かりそうだ,と一安心。でも,急がないと家屋が押し流されてしまう,と危惧しながら気もそぞろで眺めていました。すると,濁流の直撃を受けていた,もっとも危険な家の人(4人)から救助がはじまりました。この4人の人を救助して,ふたたび,ヘリがここにもどってきたときにはその民家はすでに流されていてありませんでした。まさに,間一髪のきわどい救助でした。

 こういう場面を,たまたま,わたしはテレビをとおして「目撃」したにすぎません。おそらく,テレビで放映されていない他の多くの地域でも同じような救助が展開していたものとおもいます。

 その翌日から,連日のように災害情報が取り上げられ,その規模が予想外に広く,大きかったことが報道されはじめ,ふたたびこころが悼みました。とりわけ,孤立してしまった病院,老人介護ホーム,市役所,などの救済が思うように進まず困っていることを知るにつけ,これはたいへんなことになっている,とますますこころが悼みました。一刻も早く救助の手がとどくように,と祈るばかりです。

 こんな大災害が起きているのに,政府の関係者が災害の現地に飛んで視察をしたという情報は流れてきません。安倍総理は「政府としては全力を挙げて災害対策をとる」とおざなりな記者会見をしましたが,実際には,災害対策のために閣議で割いた時間はわずかに「10分」だったと「日刊ゲンダイ」は報じています。しかも,戦争法案のための対策には長時間をかけて協議がなされた,とも。

 これが「事実」だとしたら,いったい政府はなにをやっているのか,ということになります。太田国土交通大臣がどういう対策を指示したかも,明らかにはなっていません。政府の頭のなかは,戦争法案のことしかないようです。相当に追いつめられていると言っていいでしょう。

 「国民の命と生活を守る」というセリフを耳にタコができるほど安倍総理は繰り返してきました。これもまた「嘘だった」ということが,こんどの大災害を前にして明白になってしまいました。もはや,手も頭もまわらないというのが現政権の実情のようです。戦争法案のことで頭がいっぱい(答弁のロジックが完全に破綻した上に,国会前では連日のSEALDsなどによる大集会の抗議行動がつづき,全国津々浦々にまで抗議行動が浸透しているため)のところに,辺野古新基地協議の決裂・工事の再開・翁長県知事による工事認可取り消しの動き(明日の月曜日にも発表),加えてフクシマをはじめとする放射能汚染の拡大,等々と難題が山積みです。

 ですから,安倍政権得意の「弱者切り捨て」のロジックが支配し,関東・東北大水害への対応は,ほんのおざなりの応急手当だけでやりすごそうという算段のようです。

 ふと脳裏をよぎるのは,ドイツのメリケル首相であれば,本人が真っ先に災害の現地に飛び,自分の眼で視察し,検分した上で,つぎつぎに指示を出していくだろうに・・・・ということでした。

 一事が万事,もはや,この政権は完全に機能麻痺に陥っています。

 一刻も早く,戦争法案を廃案にして出直すこと,そして,弱者救済(フクシマ,辺野古,労働者,被災者,など)に全力を傾けること,これこそが現政権の喫緊の課題であり,使命です。戦争法案は,どうしてもやりたいのなら,憲法改正の手続を経てからの問題です。

 こんなことは,立憲デモクラシーを標榜する国家にあっては,基本中の基本です。これすら守れない政権は,もはや,存在する根拠はなにもありません。安倍政権はさっさと退陣すべきです。自民党の議員さんの中にも同様の考え方をしている人は少なくないとおもいます。なのに,ひとりとして総理に「進言」する人はいません。集団的狂気というべきか,集団病理というべきか・・・・・。

 こんな政治的真空状態の中からファシズムは立ち現れてくるのでしょう。いま,わたしたちは,その現場に立たされていることをしっかりと胸に刻んで,みずからの身の振り方を決するときです。いまこそ,そのクライマックスにある,というべきでしょう。

 18日がタイム・リミットだと言われています。それまで,残る力を振り絞って,全力で立ち上がりましょう。まずは,明日(14日)の国会大包囲が大きな山場(60日ルールのタイム・リミット)です。オキュパイもありうる,という情報も流れています。ですので,こころの準備も。

戦争法案についての政府答弁はすでに「崩壊」。いったん廃案にして「仕切り直し」をすべし。

 今日(12日)も国会前では,辺野古新基地の工事再開に対する抗議集会が行われました。国民の安倍政権に対する不信感は募るばかりです。

 戦争法案の審議も,昨日(11日)になって,17日ぶりに総理が出席して答弁に立つという珍事が起きています。その間,総理は,戦争法案の審議を放り出して,大阪のテレビ局や右翼系のネット・テレビ(桜井よし子主宰)には出演し,いいたい放題の放言をしています。なんたることか,と考えてしまいます。本気で戦争法案をこの国会でとおしたいのであれば,もっと,真っ正面から議論をして,この法案の正当性を主張すべきではないか,とあきれてしまいます。あれほど,「国民のみなさんには丁寧に説明をします」と繰り返していたのに・・・・。

 「嘘ばっか」。

 総理の虚言癖はつとに有名ですが,それにしても酷すぎます。「嘘ばっか」という同名の佐野洋子の小説がありますが・・・。その書き出しには「桃太郎には桃次郎という弟がいました」とあります。この一行を読んだ瞬間から腹をかかえて笑ってしまいます。が,総理の「嘘」も,すでに怒りを通り越して,いまや「笑う」しかないほどに酷いものになってしまいました。つぎからつぎへと繰り出す「嘘」の渦に巻き込まれ,国民の多くは「目眩」がしているのではないでしょうか。このままでは,「嘘からでた真」になりかねません。

 NHKが国会中継を止めてしまいましので,国会審議の実態をありのまま知ることは難しくなってしまいましたが,それでもSNSやYouTubeなどをとおして,かなりの事実を知ることはできます。それらから見えてくる国会審議は,もはや完全に「崩壊」しています。なぜなら,野党議員の質問に対して,まともには回答ができなくなってしまっているからです。

 ですから,ここでの答弁も「嘘ばっか」。

 あまりのみえみえの「嘘」の答弁をするたびに,審議は中断。それも,すでに「100回」を超えたということです。つまり,政府がまともに答弁できないので,「嘘」をつく。それは許せないと抗議する。そのたびに審議は中断。それの繰り返し。これが,いま,参議院で行われている審議の実態です。もはや,完全に審議は「崩壊」しているとしかいいようがありません。

 17日ぶりに出席した総理は,さっそくヤジを飛ばしています。「総理,ヤジを飛ばさないでください」と質問に立った福山哲郎議員(民主党)に注意までされています。NHKは「ヤジ」のことを「自席発言」と言い換え,政府にすり寄っていますが・・・・。これもお粗末そのもの。そして,総理の私語も多いので,やはり福山議員から「総理,質問をちゃんと聞いてください」と叱られてもいます。17日ぶりに出席したのに,じつに不真面目そのもの。行儀が悪いなんてものではありません。傍若無人とはこのことでしょう。そして,答弁は,馬鹿の一つ覚えのように,いつも同じことの繰り返し。誠意のかけらも見受けられません。

 このあまりの無様さでは,さすがのNHKも放送できません。ますます支持率が低下してしまうからです。いまや,りっぱな国営放送局に堕してしまって,政府の擁護ひとすじに走っています。これでは受信料は取れません。詐欺のようなものです。

 こういう国会審議の実態を知った国民の多くは,危機意識でいっぱいです。ですから,寸暇を惜しんで国会前に立つことを決意する以外にはありません。そういう人たちが今日も国会前に集まっています。午後からの「座り込み」もはじまっています。

 それも国会だけではありません。いまや,全国的な展開をしています。小さな僻村ですら,戦争法案反対のデモが行われています。わたしの故郷の愛知県豊橋市でも,400人が抗議集会を開いたということです。あのおとなしい三河人としては,驚くべきできごとです。いまや,全国の津々浦々にいたるまで,戦争法案反対の抗議行動が展開されています。

 政府も相当に怯えていることは間違いありません。当初,強行採決を16日と設定していたのに,いまごろになって17日へと一日ずれ込んでいます。これは明らかに,全国の抗議行動がカウンター・ブローとなって政府のボディにヒットしている,と言っていいでしょう。

 ここまできたら,戦争法案はいったん廃案にして,ゼロからの仕切り直しをすべきです。どうしても戦争法案を成立させたいのであれば,選挙公約で「憲法改正」を掲げ,十分に議論を積み上げ,多数の支持を得てからのことです。拙速は大怪我のもとです。

 このことのためにも,9月14日(月)の国会前集会は成功させたいところです。この日ばかりは,万難を排して,国会前に行こうと,いまから決めています。もちろん,明日(13日)も,体調がよければ,でかけようとおもっていますが・・・・。

 あと一息。みんなで頑張りましょう。

2015年9月12日土曜日

安倍政権はクーデターをやっている(古賀茂明)。SEALDsのスピーチで。

 9月11日。「9・11」を念頭に思い描きながら,国会前のSEALDsの集会に行ってきました。途中で小雨が降るなか,続々と人が集まってきました。わたしは少しだけ早めの18時には国会前に到着していました。が,まだ,集会がはじまる前でしたので,周辺を,どんな人たちが集まっているのか知りたくて一回りしていました。

 国会前の角の一等地を,一般の人たちにゆずるようにして,周辺を各種の団体が幟旗を立て固めていました。なかには,自分たちでステージを用意して,活動報告会・演説会をやっている人たちもいました。ちょっと立ち止まって聞いていましたら,フクシマの子どもたちの被曝を中心にした内容の活動のようでした。

 18:30~は,<戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会>が主催の統一行動で,いろいろの人が入れ代わり立ち代わりしてスピーチをやっていました。上野千鶴子さんも,ここでスピーチをしました。比較的醒めたスピーチで,わたしとしては意外でした。

 20:45~が,SEALDsの集会でした。さきに集会を開催した「統一行動」の人たちが帰りはじめたころに,SEALDsの集会を目当てにした人たちが続々とやってきました。抗議集会をやるには場所が狭すぎるので,入れ換えをしたというわけです。

 
さて,SEALDsの集会のトップに登壇した古賀茂明さんが,簡潔に,強烈なスピーチをしました。それは,安倍政権がいまやっていることは「クーデター」に等しい,と。

 以下,古賀さんのスピーチを要約。なぜなら,憲法改正には国民投票が必要なのに,集団的自衛権の行使容認という憲法違反の法案を閣議決定ですり抜け,国民投票をスルーして憲法解釈を変更するという「暴挙」にでたからです。これは国民投票によって国民の意思を問わなければならない重大な法案を,閣議決定だけで決めてしまおうという,まさに憲法を無視した「クーデター」以外のなにものでもありません。これは立憲デモクラシーを根底からひっくり返す,つまり,国家のあり方を根底から変えてしまうことを意味しています。すなわち,独裁体制への突入です。これを「クーデター」と言わずしてなんというべきか。こういう「暴挙」に対して,国民の多くの人たちが危機意識をもっているのだとおもいます。この「クーデター」はなにがなんでもストップさせなくてはならない,そういう熱い思いを秘めた人たちがいま,ここに集まっているのだとおもいます。戦争法案を廃案にさせるべく頑張りましょう。

 
小森陽一さんも,気合の入ったとてもいいスピーチをされました。が,割愛。

 
まだ,集会はつづいていましたが,21:00を過ぎたところで,わたしは帰路につきました。18:00に到着してから立ちっぱなし。相当の疲れと生理的欲求と空腹とが限界に達していましたので,ここが引き時と決心しました。

 
帰りの地下鉄・田園都市線も満員で,とうとう溝の口まで立ちっぱなし。さすがに疲れました。喉も乾いていましたので,久しぶりに缶ビール(大)を一本飲みながら,即席の夕食をとりました。ビールが美味い,と感ずる程度に体調ももどっていました。

2015年9月11日金曜日

集団的自衛権の行使=米軍の関与する戦争を手伝うこと,これに尽きる(田中秀征)。

 9月6日(日)のTBS系列の日曜朝のワイドショー番組(関口宏司会)で,ゲストの田中秀征さんが語った戦争法案の本質が,簡潔で,わかりやすく,話題になっています。わたしのFBのネット・ワークでも,複数の人がこの動画を取り上げていました。

 わずか3分少々の時間のなかで,これほどわかりやすく集団的自衛権の行使とはなにか,を説明してくれるとは・・・・,と感動してしまいました。詳しくは,わたしのFBで確認してみてください。

 ここでは,その概要を紹介しておきたいとおもいます。
 田中秀征さんの発言の骨子は以下のとおりです。

 集団的自衛権の行使は,アメリカの関与する戦争を手伝うこと,これに尽きる。

 つまり,日本がアメリカと軍事的に一体化すること,だ。

 それは,つぎの三つを「肩代わり」することを意味している。
 1.資金
 2.人命
 3.危険

 1.については,戦争をするには莫大な金がかかる。そのためのアメリカの資金の一部を肩代わりするため。
 2.については,アメリカに漂っている厭戦気分の源泉になっている「戦死者」の数を減らすこと。つまり,日本の自衛隊員が,アメリカ兵の「人命」の肩代わりをするため。
 3.は,テロリストに脅かされているアメリカの危険を,日本が肩代わりするため。つまり,アメリカを攻撃のターゲットにするよりも,アメリカと一体化した日本を攻撃する方がテロリストにとってはやりやすい,ということ。言ってしまえば,日本がアメリカの「危険」の前面に立つということ。

 さらに,問題なのは,こんなとてつもないリスクを背負うことになる集団的自衛権の行使容認という決定を,閣議決定で済ませてしまったということだ。これは大学入試でいえば,完全なる裏口入学に等しい。こんな姑息なやり方を,国民が認めるわけがない。だから,反対する人が増大するのだ。しかも,もし,決まったとしても,こんな方法でとおした法律は機能しないだろう。

 しかも,もっとやっかいなことは,一度,アメリカと軍事的に一体化してしまうと,もはや取り返しのつかないことになる,ということだ。この二つの国を引き離すためには,何十年かかっても不可能だろう。あるいは,永遠に不可能かもしれない。それほどの重大なことなのだ。そんな重大なことを閣議決定(=裏口入学)でお茶をにごそうというのだ。

 さらには,もし,アメリカが日本の真の友人であるのなら,間違った戦争をやってはいけない,と忠告すべきではないのか。過去のアメリカが引き起こした数々の間違った戦争に対して,日本はなにも言わないで,黙ってつきしたがってきただけだ。それでは真の同盟国とは言えない。

 以上の理由で,どんなことがあっても集団的自衛権の行使を容認してはならない。したがって,戦争法案は廃案にすべきだ。

 これがわたしが聞き取った田中秀征さんの主張の骨子です。
 じつに明解そのものです。もう,これにコメントを付する必要はまったくありません。

 「軍資金」の肩代わりをしまうょう。
 「人命」も肩代わりをしましょう。
 その上,アメリカの背負っている「危険」の前面に立って,その肩代わりもしましょう。

 アメリカにとって,こんな好都合なことはありませんので,表面的には熱烈歓迎でしょう。ですから,アベ君は有頂天です。しかし,その裏では,日本のリーダーはなんというアホなんだろう,と蔑視していることも間違いありません。そういう情報も流れています。

 こうした,信じられないような「自発的隷従」の姿勢と,辺野古新基地問題とは密接にリンクしていることも,はっきりとみえてきます。すなわち,アメリカ軍のための軍事基地も肩代わりしましょう,というわけです。沖縄県民の民意が明確になっているにもかかわらず,アベ政権が基地移転を強行するのも,こうした背景と連携しているからだ,ということがよくわかってきます。

 その意味では,これからはじまる翁長知事のアベ政権との闘いは,日本の未来を決するきわめて重大な意味をもってきます。これは,もはや,沖縄県だけの問題ではなく,日本全体の問題として,すなわち,わたし自身の問題として,しっかりと受け止め,翁長知事支持を表明し,支援をしていかなくてはならない,と肝に銘じておきたいとおもいます。

2015年9月10日木曜日

昨夜の激しい雨のなかの抗議集会。日比谷野外音楽堂,そして,デモ。

 関東地方から北に伸びた雨雲によって,茨城,栃木,などに大量の雨を降らせ,各地で大きな災害をもたらしています。鬼怒川(常総市)では堤防が決壊し,つぎつぎに家屋が流され,必死のヘリコプターによる救助活動が展開されている,とさきほどのニュースで知りました。

 東京でも昨日は激しい雨でした。太極拳の稽古に向かう,ほんのわずかな距離を歩くだけなのに,ズボンの膝下までびっしょり濡れてしまうほどでした。この雨は断続的に一日中,降りつづきました。夕刻になって,小降りになってくれることを期待していましたが,とうとう雨足が弱まることはありませんでした。

 <戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会>が発表している抗議行動の日程によりますと,このところ毎日,抗議行動が組まれています。ついに,9月10日(木)からは国会前座り込み抗議(13:00~17:00)が組まれ,その上に,18:30からは国会前抗議集会が,連日,組まれています。

 昨日(9日)は,18:30~,日比谷野外音楽堂で抗議集会が開かれ,そのあと,銀座と国会に分かれてデモを行う,ということになっていました。ですから,この集会とデモにはなんとか参加したいと考えていました。そのために,午睡までとって体調を整えていました。

 雨も小降りになってきたので,そろそろでかけようかと考えていたら,突然,篠つくような雨が降り始めました。しばらく様子をみていましたが,この降り方は尋常ではないと考え,でかけるのを取りやめることにしました。

 体調はかなりもどってきていますので,少々の雨なら大丈夫と考えていましたが,この雨では駄目だと諦めました。相当の雨対策をしていかないことには,全身,びしょ濡れになることは間違いありません。びしょ濡れになって,からだが冷えてきても大丈夫,というほどには体調はもどっていません。ここは残念ながら,大事をとって見送ることにしました。

 深夜になって,SNSで情報(毎日新聞,23時30分,最終更新)を確認してみましたら,予想どおり日比谷でも激しく雨が降ったこと(写真もあり),みんなびしょ濡れになっていたこと,にもかかわらず,5,500人(主催者発表)が集まった,報じていました。

 別の情報によれば,メイン・ゲストの人たちは早めに引き揚げたようですが,会場を埋めつくした人びとは最後まで,熱心にリレー・スピーチに耳を傾け,シュプレヒ・コールに元気よく応答していたとのことです。しかも,激しく降りしきる雨に濡れながら・・・・。

 この天候の悪条件のなか,集まった5,500人という数は,わたしの想定外でした。この雨では,わたしのような行きたいとおもっていても二の足を踏んでしまう人が続出するに違いない,それでも押し切ってでかける元気のいい人たちとなれば,かなり限定されてしまうだろうなぁ,と天候を恨んでいました。

 にもかかわらず,5,500人です。この数は尋常ではありません。なにがなんでも,戦争法案を廃案にするまでは,からだを張って抗議するのだ,という強い決意の人たちの集団です。あの激しい雨さえ降らなければ,この3倍も4倍もの人たちが集まったに違いありません。そういう重みのある5、500人だとおもいます。

 こういう国民の決然たる意思表明が,残念ながら,いまのアベ政権には直接にはとどきません。しかし,眼にみえないところで,カウンター・ブローとなって,相当のダメージを与えていることは間違いありません。必死で「無視」を決め込み,素知らぬ顔をしながらも,こころの中は穏やかではないはずです。

 たとえば,このところ株価が下落しつづけているとのこと。それも,日本の株価だけは世界的な株価の動向とは異なる動き方をしている,と。中国の経済不況が世界の株価に大きな影響を及ぼしていて,それによって株価が乱高下しているけれども,日本だけは,日本一国だけは,それと関係なく,ただ,ひたすら下落をつづけている,といいます。その理由に,アベノミクス(あるいは,安倍政権)に対する国際的な不信感があること,そして,SEALDsなどの若者たちが反政府活動を展開し,全国的な広がりをみせていることが大きい,としています。

 日本はいまや一枚岩ではない,やがて政権はひっくり返る,と国際社会がみているというのです。わこしたちの地道な抗議行動が,即効的な効果をもたないまでも,じわじわと意外なところで力を発揮しているようです。

 かつての全共闘運動が,完全なる「敗北」であったかのような論評がなされてきましたが,よくよく考えてみると,その後の自民党政権の「手堅さ」を引き出し,こんにちまで曲がりなりにも「平和」な社会を維持してこれたのではないか,という声を聞きます。

 ですから,いま,展開しているSEALDsの活動も,けして無駄にはならないどころか,まったく新しい日本を再生させる大きな原動力になる,とわたしは信じています。かれらの運動は,けして一過性のものではなく,遠く日本の未来を見据えています。「わたし個人の未来よりも,日本の未来の方が重要です」と言い切るスピーチを聞いて,わたしは涙しました。

 かれらは本気です。そういうかれらの純粋な情念に,わたしたち大人が眼を覚まさせられた,というのがわたしの本音です。この覚悟を,いまこそ持とう,とかれらの集会に行くたびに反省させられます。なんという若者たちか,とこころからエールを送りたいとおもいます。

 激しい雨のなかの5,500人。明日,金曜日の国会前集会(18:30~)には,どうか雨だけは降らないでほしい。わたしのような病み上がりの老人のためにも。16日まで,どうか雨だけは降らないように,と祈るばかりです。

 こういう抗議行動があった,という事実をのちのちの政権にしっかりと認識させるためにも・・・・。  

2015年9月9日水曜日

労働者派遣法改正案(=改悪案)が通過。弱者虐待法。経営者,大はしゃぎ。

 今日(9日)の参議院本会議で「労働者派遣法改正案」(じつは「改悪案」)が自民・公明の多数で可決されました。これで労働者は経営者の思いのままに,「雇う」も「雇止め」も自由自在というわけです。経営者は大はしゃぎ。労働者は涙。

 昨日(8日)の委員会審議では,傍聴していた派遣労働者が涙を流し,一時,騒然となったといいます。そして,自民党の議員が,「さっさとつまみ出せ!」と怒鳴ったそうです。これが,現在の自民党の姿を如実にあらわしています。邪魔な者はさっさと排除してしまえ,というわけです。みんなアベ君を見習って,尋常な人間ではなくなってしまっているようです。

 弱い立場の労働者が使い捨てにすることを合法化する,この「悪法」がとうとう現実のものになってしまいました。この結果がどうなるのか。

 わたしの結論をさきに言っておきましょう。この法律は自衛隊員を確保するための悪魔のマジックです。それを拒否するまじめな若者は自殺してしまいます。あるいは,だれでもいいから殺したい,という衝動にかられる自暴自棄の人間を増産することになります。

 もちろん,これは言い過ぎです。でも,こういう方向に大きく道を開くものだ,ということは間違いないとおもいます。なぜ,このような不安をわたしが抱くのか,その理由をかんたんに述べておきたいとおもいます。

 ひとつは,いまの学生さんの多くは奨学金を貸与してもらいながら勉学に勤しんでいます。すると,卒業時には,500万円前後の借金を背負うことになります。大学院などに行けば,もっとその額は大きくなります。すると,卒業後,正社員として雇用されたとしても,毎月,相当の額の返済が必要になってきます。それが,運悪く非正規社員として働かなくてはならなくなった人は,もっと大きな負荷がかかってきます。場合によっては,奨学金返済のために,生活が成り立たなくなってしまう人も少なくないでしょう。こうして,多くの若者たちが夢も希望も失ってしまう,という最悪の状態が待ち構えています。

 そういう若者は自衛隊にいらっしゃい,というわけです。そうすれば,奨学金返済免除,仕送りができるほどの給料と手当てを用意していますよ,と。

 ふたつには,日本の非正規社員の待遇が劣悪な情況にある,ということです。国連の社会権規約委員会の見解によりますと,日本の最低賃金は「最低生存水準を下回っている」,ということです。そして,そこに提示されている非正規社員(パート,など)の一時間あたりの賃金は,文明国のなかにあっては「ぶっちぎりの世界ワースト1」だということです。

 たとえば,日本のパートは正社員の半分にも満たない,とのこと。スイスやスウェーデンでは90%,悪くても60%以上は確保されている,というのです。実際に,最低賃金を比較してみますと,以下のとおりです。

 フランス 9.43ユーロ(約1,311円)
 イギリス 6.31ポンド(約1,055円)
 アメリカ 8ドル(約818円)
 ドイツ 8.5ユーロ(約1,181円)

 これに比べて,日本は600円です。驚くべきことに,アメリカが低賃金である,ということです。それは,貧乏人の若者たちを軍隊に志願させるための,恐るべき装置として機能させている・・・このことは,すでに,よく知られているとおりです。そして,日本もアメリカに倣え,というわけです。困ったら自衛隊に行け,というわけです。

 そのための労働者派遣法改正案というわけです。すなわち,恐るべき「改悪案」そのものです。

 それでも,親に資産があって,子どもを支援することができる場合には,なんとかしのぐことができます。が,そうではない若者はどうすればいいのでしょうか。そして,どうしても自衛隊にだけは行きたくない,という平和主義者は,行くところがありません。ひたすら,非正規社員として,どん底の生活に耐えるしかありません。それにも限度があります。

 その結果,自殺者の多発という事態が待ち構えています。真面目な若者ほど,この方向に向かう傾向があるといいます。

 その自殺者の数も,どうやらコントロールされているらしい。ここ10年ほど,連続して3万人超がつづいていて,マスコミがなにかと問題にしています。しかし,実際には,少なくとも11万人いることは確実だ,といいます。日本の変死者数は15万人。WHOはその半分を自殺者としてカウントするそうです。となると,この15万人の半数と,自殺者の3万人を加えて,約11万人。実際には,もっと多いのではないか,と考えられています。

 自殺とは逆のベクトルの自暴自棄路線に走ると,こんどは「殺人」です。「だれでもいいから殺したかった」という事件が,年々,増加傾向にあります。

 そうした土壌をますます増大させる法律,それが「労働者派遣法改正案」。すなわち「改悪案」。

 この法律は,戦争法案とセットです。65%もの国民が反対している戦争法案がとおってしまえば,そのあとに待ち構えているものは「地獄」以外にありません。

 このさきの「地獄」から脱出するには,つぎの選挙で,徹底的に自民・公明両党の候補者に厳しい批判の眼を向けることです。その上で,投票行動でみずからの意思を表明することです。それ以外にはありません。

2015年9月8日火曜日

なぜNHKは国会中継をしないのか。国民の理解を得る最高の手段なのに・・・・。

  なぜか,NHKが国会中継をやめてしまった。戦争法案審議の最後の詰めの,いちばん大事なときだというのに・・・・。よくも悪くも,広く国民が考え,みずからの理解を深めるためのもっとも重要な「とき」だというのに・・・・。「丁寧に説明する」と約束したアベ君にとっても絶好のチャンスだというのに・・・・。なぜ,やめてしまったのか。

 結論から言っておこう。

 官邸が「勝ち目」がない,「プラスにならない」と判断したからだろう。あの国会討論を聞いていたら,当然だろう。政府がひた隠しにしていた,きわめて重要な「事実」までもが,つぎからつぎへと国会の場であからさまにされ,もはや,答弁不能の事態に追い込まれてしまったからだ。そして,しばしば審議はストップし,そのたびに委員長は理事者を集めて協議。こんな醜態を,官邸としては,もはやこれ以上,国民の前にさらけ出したくはないだろう。支持率がさがるだけだ。

 不利なものには蓋をする。官邸によるみごとなまでの言論統制だ。NHKも「はい,わかりました」とばかりに協力する。それどころか,「自主的に」判断し,「自発的隷従」までする。いまや,完全に,政府自民党の思うがママ,いや,その代弁者そのものである。

 多くの国民が受信料を払っている「公共放送」であることを忘れている。もっと厳密な意味での公正中立の立場に立ち,いま,進行中の重要な案件の情報をありのまま放送すべきである。その意味で,国会中継は,もっとも公正中立な「生放送」だ。ことの善悪は,視聴している国民が判断すればいい。それが民主主義の大原則だ。

 官邸は,戦争法案の,これ以上の審議は「負け戦」だと判断したに違いない。だから,一刻も早く打ち切りたい。そして,「十分審議は尽くした」と嘯いて,強行採決のチャンスをうかがっている。そのなによりの証拠が,国会中継の中止である。うやむやのうちに,なし崩し的に,法案成立の「事実」だけを残せばそれでいい,と判断しているようだ。高村副総裁の発言(国民が反対しても法案は通す)がそれを裏づけている。

 9月6日に名古屋で開催された「国会議員に聴こう」という戦争法案についてのシンポジウムでも,野党各党代表の議員は出席したが,自民党と公明党の議員さんは欠席。ここでも戦争法案を正当化し,国民の前で説得するだけの根拠がもはやなにもない,ということを実証してしまっている。もし,どうしても国民を説得する必要がある,そして,国民の支持を得たいという意思があれば,なにをおいてもここにやってきてみずからのよって立つ根拠を主張すべきではないか。しかし,それがもはやできないところにまで追い込まれてしまっているのだ。しかも,そのことを「自覚」してもいる。にもかかわらず強行採決を虎視眈々と狙っている。

 戦争法案の審議・議論に関して,こんな最悪の終末局面を迎えている以上,とりあえずは,「廃案」にして,仕切り直しをするのが良識というものだ。そして,選挙公約に憲法改正を掲げ,その禊ぎを経てから法案を提出する,これがスジというものだ。こんな判断すら,もはやできない,最悪の状態に政権与党は陥ってしまっている。

 しかも,アベ君は「裸の王様」。とりまきの議員は,みんな「裸」であることを承知の上で,「自発的隷従」。そして,運命共同体。総裁選挙も一致団結して「無投票」に。全派閥が結束して(大臣ポスト欲しさに),野田聖子立候補の突き崩しに対抗した。ここに断末魔の自民党の姿をみる。いよいよ重症患者の態をなしてきた。

 さて,いつ,どこで,どのようにして自民党の「崩壊劇」がはじまるのか,それこそわれわれ国民の「力」の見せどころだ。その「力」を結集するのはいつか,「いまでしょう」。

 NHKの国会中継を力づくで中止させた政府自民党って「気色悪いよね」。アベの「顔もみたくないよね」。一刻もはやく「お引き取りを」。「ア・ベ・ハ・ヤ・メ・ロッ ! 」

2015年9月7日月曜日

『世界』10月号の田中淳哉論文「安保法制NO!」に光明をみる。

 昨日(6日)の新宿・伊勢丹前・歩行者天国でのデモに参加して帰宅したら,『世界』10月号がとどいていました。いつものように,目次を眺め,編集後記(清宮編集長)を読み,そのうしろの広告を眺め,それから,本文をざっと拾い読み。

 そのあと,編集後記に紹介されていた田中淳哉論文を,こちらはじっくりと読みました。とても平易な文章でわかりやすく,説得力がありました。タイトルは,「これからどうする?わたしたちにもできる『安保法制 NO!』」というもの。

 国民の6割以上が「廃案」を求めているのに,それでも政府は議席の数を頼りに強行突破しようとしています。審議もじつにいい加減なままに。アベ君にいたっては,審議の終盤のいちばん大事なときに国会をさぼって大阪のテレビ番組みに出演する始末。ほんとうに国民を馬鹿にしています。国民を舐めています。

 昨日のSEALDsのシュプレヒ・コールがまだわたしの耳にはっきりと残っています。
 「国民 舐めんな!」
 「オレを 舐めんな!」
 「人間 舐めんな!」
 「子どもを 舐めんな!」
 「ジイちゃん 舐めんな!」
 「バアちゃん 舐めんな!」

 そして,つぎのようにつづきます。
 「日本を 守れ!」
 「生活 守れ!」
 「未来を 守れ!」
 「子どもを 守れ!」

 こうした抗議行動は,もはや全国津々浦々にまで浸透しています。まさに,草の根の運動にまで浸透しています。その数の総和が「6割」以上の意思となり,「廃案」を求めています。にもかかわらず,立憲主義も民主主義も無視する政府は,16日には強行突破して,この「でたらめ法案」を成立させようとしています。そして,それはその気になれば,可能です。

 もし,そのようなことになれば,これまで抗議行動をつづけてきた人びとの落胆はいかばかりか,と推測してしまいます。なぜなら,このわたしがそうですから・・・・。いったい,この先,どうなっていくのか,という不安でいっぱいです。この「これからどうする?」という,わたしのような人間に真っ正面から応答してくれたのが田中淳哉論文でした。

 詳しいことは本文に譲りますが(すぐに読めますので,本屋で立ち読みをしてみてください),その中にありました「アクション・リスト」(田中淳哉作成)を紹介しておきましょう。これなら,わたしにもできる,という抗議行動が,初級⇨中級⇨上級⇨達人!までランクづけされて,一覧表になっています。この中のできることからはじめればいい,というとても親切,かつ便利なアクション・リストです。

 
わたしが気に入ったのは,「アピール行動で」の上級に「サイレント・スタンディングする」というものです。これなら,たった一人で行動することができます。しかも,いつでも,どこでも。ただし,ちょっとばかり勇気が必要ですが。2,3人,友だちを誘って「サイレント・スタンディング」するなら,少し楽になるなぁ,などと想像しています。

 これから気の長くなるような闘争がはじまる覚悟で,いま,できることに全力を傾けたいとおもいます。  

2015年9月6日日曜日

安全保障関連法案に反対する学生と学者による街宣行動@新宿伊勢丹前・歩行者天国,に参加してきました。

 9月6日(日)午後3時からはじまる抗議集会に行ってきました。題して「安全保障関連法案に反対する学生と学者による街宣行動@新宿伊勢丹前・歩行者天国」。ときおり,通り雨のように激しく降る雨のなか,1万2000人(主催者発表)が集まりました。

 
伊勢丹の交差点からJR新宿駅東口近くまで,車道も歩道も人でいっぱい。わたしは少し早めに到着したのですが,すでに,人でいっぱい。歩行者天国になっている大通りに交叉する道路にも人がいっぱい。

 
雨が激しく降るたびに,傘・レインコートなどの準備のなかった人たちが,集会から離脱していきます。それでも,その穴を埋めるかのように,つぎつぎに歩道から歩行者天国の道路に人はなだれ込んできます。ですから,歩行者天国の道路はつねに人でいっぱい。

 
いつものように,テンポのいいシュプレヒ・コールがはじまる。
 「憲法 守れ」
 「戦争 反対」
 「勝手に 決めるな」
 「安倍は 辞めろ」
 「人を 殺すな」
 「民主主義って,なんだ」「これだ」
 「立憲デモクラシーって,なんだ」「これだ」

 
まずは,学生たちがリレー・スピーチ。
 ついで,学者たちがリレー・スピーチ。
 そして,政治家たちがリレー・スピーチ。

 民主党からはれんほうさん。歯切れのいい迫力満点のスピーチがつづく。一緒にいたNさんが,水谷八重子の新劇のセリフのように聞こえる,と笑っている。
 社民党からは吉田党首。一生懸命,声を張り上げ,語りかけるもいささか冗長。こういう場のスピーチになっていない。でも,善良な人だというハートは伝わってくる。
 共産党からは志位委員長。若いころに比べたら,演説が上手になったなぁ,と感心するほどのいいスピーチ。何回も,大きな拍手を浴びている。

 
午後5時をまわったところで,雨にも濡れ,からだが冷えてきたので,わたしは帰路につく。Nさんは,もう少しここに残る,ということでお別れ。

 
これでも,安倍は強行突破していくでしょうね。そのあとが大事でしょうね。さて,どんな展開が待っているのか・・・・,などという話を雨宿りしながらNさんとひとしきりする。

 不思議なことに,待ち合わせもなにもしていないのに,Nさんとはいつも現場でばったりと出会う。その割には,他の知っている人には出会わない。なぜか,ご縁を感ずる。

自民・公明両党の地元選出議員に抗議の電話・ファックスを送ろう!

 いよいよ16日(水)に,6割強の国民が反対している戦争法案の強行採決が行われるようです。もう,時間がありません。

 国会前や,都内の各地で,連日,抗議行動の予定が組まれています。ネットで調べればすぐにわかります。行動できる日時を確認して,一回でも多く参加したいとおもいます。

 それも思うにまかせない多忙な方は,自分の選挙区から選出されている自民・公明両党の議員さんに電話か,ファックスで抗議の声を伝えましょう。

 そのとき,注意したいこと以下の点です。
 まずは,こちらの名前(フルネーム)と住んでいる地区を精確に伝えること。
 用いることばは,できるだけ丁寧に。
 そして,気持ちをこめて語ること。
 余分なことは言わずに,簡単明瞭に。

 たとえば,ファックならば,以下のように。
 「わたしは稲垣正浩と申します。川崎市の高津区に住んでいます。戦争法案に断固,反対です。この法案が廃案になるよう,行動してください。もし,賛成の行動をとられた場合には,つぎの選挙では投票しません。別の候補者を応援することにします。よろしくお願いいたします。」

 というような具合です。もっと,短くてもいいと思います。一行でもいい,と思います。とにかく,選挙民としての意思を伝えましょう。

 これは,議員さんにとっては最大の脅威です。こういう声が多く寄せられれば,考えざるをえなくなるはず・・・・。

 それでも,こちらの意思を無視するようでしたら,こんどこそ「落選」させるための運動を展開するだけの話です。

 こうした息の長い運動を覚悟して,いま,できることから始めましょう。

2015年9月5日土曜日

9月16日強行採決だとか。自民・公明の全議員よ,覚悟はいいか。選挙が待っている。

 ついに,アベが「今国会で決める」と宣言し,16日採決で調整に入った,という。

 あんなデタラメな答弁しかできない法案,それも質疑を重ねれば重ねるほどに重大なる「隠された事実」がつぎつぎに明るみにでてくる始末。とうとうNHKは国会中継を取りやめ,アベは国会をさぼって大阪のテレビに出演。つまり,国会で答弁するのが嫌になってしまって,国会逃亡。仲良しクラブに囲まれたミヤネヤ一家と放談する道を選んだ。まことにもって「幼稚」な,わがままな選択。こういう人間が,国のトップにいることの悲劇が,いま,目の前で進行している。

 そして,この情況そのものが,まるごとひっくるめて国際社会の「笑い物」になっている。この事実を必死になって蓋をする日本のメディア。情けない。犯罪にも等しい行為だ。アメリカの議員だって,腹の底ではほくそえんでいる,という。

 中国外交も「面白くない」(歓迎してくれない)というただそれだけの理由で「無視」。それどころか,抗議までして,危機的情況を意図的に作り出してさえいる。そう,戦争法案を正当化するために。やることが稚拙である。ロシアにも抗議をして,緊張感をあおっている。やることなすことが「子ども」の稚戯に等しい。まるでマンガの世界だ。

 政治の貧困。こんなに荒れ野原になったことが,かつてあっただろうか。

 いずれにしても,9月16日には強行採決をするべく,調整に入ったという。

 さて,わたしは,そして,あなたはどうする?
 これから16日までの間にできることはなにか。
 ふんどしを締め直して,覚悟を決めなくてはならない。

今野哲男の『竹内敏晴』(言視舎,2015年刊)を読む。渾身の評伝。「竹内レッスン」理解のためのバイブル。

 今野哲男さんの気魄が伝わってくる渾身の評伝,これがわたしの第一印象でした。竹内敏晴という大きな存在を,しかも,二転三転と,虫が蛹となり,やがて蝶になるように,生き方そのものを変化させざるをえなかった,ぎりぎりいっぱいの実存の「生」を生きた竹内敏晴という存在を,どのように描くかは尋常一様の作家の手には余るものだ,とわたしは考えていました。ですから,今野哲男さんが,さて,どのように描くのか,わたしには興味津々でした。

 しかし,今野哲男さんは,ご自分の全存在を賭けて竹内敏晴という存在に体当たりをするようにして,場合によってはご自分が木っ端みじんに砕け散っても構わないというほどの覚悟をもって,この評伝に全エネルギーを注ぎ込まれました。そういう気魄が全編にみなぎっています。少なくとも,わたしはそのように受け止めました。

 ですから,最初から最後まで,ピンと張りつめた緊張感が持続され,竹内敏晴という人物について多少とも興味・関心をもち,とりわけ「竹内レッスン」についてある程度の理解をしている人間にとっては,息継ぐ間もないほどの迫力で,今野さんの選び抜かれた的確なことばで構築された文章が迫ってきます。そして,読み終わってみると,この本は,最終的には「竹内レッスン」を理解するための貴重なバイブルになっている,としみじみおもいました。

 
その理由は以下のとおりです。

 評伝の書き方にはいろいろの方法やスタイルがあるとおもいます。今野さんは,竹内敏晴の生き方を,時代や社会の思想情況と,みずからを取り巻く「生」の現場とをクロスさせながら,それらと真っ正面から向き合い,いかなる妥協をも許さず,つねに全力で闘い,前へ前へとみずからを駆り立てていく,そういう「生」の探求者として描いているようにおもいます。そして,そこに縦糸のように,「身障者性」という補助線を一本とおして,竹内敏晴の「生」の独自性を際立たせようとしています。「身障者性」とは,竹内敏晴を生涯の前半生の長きにわたって悩ませた「耳疾」「聴覚障害」「吃音」,そこから出来するコミュニケーション障害,そして,「ことば」に対する徹底したこだわりと透徹した思考を導き出すことになった,今野さんの行き着いた,この評伝に流れる通奏低音のようなキー・コンセプトのことです。

 今野さんによれば,竹内敏晴は,この「身障者性」と時代精神の二つとの絶えざる闘いであった,ということになるようです。とりわけ,敗戦後の時代の混沌とした思想情況,とりわけ,左翼的なイデオロギー論争との格闘が,竹内敏晴の演出家としてのスタンスをつくりあげていくことになります。その際,既製の組織に身を寄せることなく,つねに,一匹狼として,自己に忠実に生きることをみずからに課していきます。そのときの導きの糸(Leitfaden)が「身障者性」であり,みずからの「からだ」をとおして確認・把握できるものだけに「信」をおくことでした。つまり,既製のイデオロギー論争に寄り掛かることなく,「ことば」を発する「からだ」の声に耳を傾け,それをみずから信ずる思想・哲学で裏づける,そういう生き方を第一としたということです。

 竹内敏晴の生きた時代を,かれのライフ・ヒストリーと重ね合わせて,簡単に要約しておけば,以下のとおりです。第二次世界大戦が終わるまでの戦中時代,つまり,幼少期から第一高等学校卒業直前まで(第一期),敗戦から東大文学部卒業,そして,「ぶどうの会」での演出家として活動をはじめ,岡倉士郎からの影響を強く受ける時代(第二期),さらに,「ぶどうの会」でのごたごたからみずから身を引き,「竹内演劇研究所」を立ち上げ,そこでの実験に満ちた演出家としての活躍の時代(第三期),そして,さらに,ここでの実験を普遍に広げるべく,まるでとんぼを切るような一大決心ののちに役者ではなく素人を主たる対象とする「竹内レッスン」に全力投球する時代(第四期),という具合です。

 今野さんは,このうちの第二期,第三期,第四期の三つの時代を,竹内敏晴がホップ,ステップ,ジャンプした三つの時期として,敗戦後の時代精神と格闘しながら大きく変容していく姿を丹念に,しかも,今野さんでなければ手のとどかない演劇の世界の舞台裏までを緻密に描き切っています。ここの部分は,わたしにとってはまことにありがたい分析になっていて,わたしが関心をもつ「竹内レッスン」を理解する上でとても役に立ちました。

 その意味で,この本は,「竹内レッスン」を理解するための貴重なバイブルになった,とわたしは受け止めました。

 いずれ,わたしたちの研究会(「ISC・21」月例会)でも,この本をテクストにした合評会をもちたいとおもいます。もちろん,今野哲男さんにもお出でいただいて。そして,それぞれに思い描いている竹内敏晴像について思いの丈を語り合いたいとおもいます。

 今野哲男さん,とてもいいお仕事・・・,いやいや畢生の傑作評伝をまとめられ,こころからお慶びを申しあげます。そして,こんなに素晴らしい評伝『竹内敏晴』をわたしたちに提示してくださり,ありがとうございました。ここから多くのものを学んでいこうとおもっています。どうぞ,こんごとも,よろしくお願いいたします。

2015年9月4日金曜日

「白紙撤回」がつづく。新国立競技場,五輪エンブレムときたら,こんどは戦争法案の番だ。一蓮托生。同罪。

 新国立競技場建造計画が白紙撤回された。とおもっていたら,こんどは五輪エンブレムも取り消して,振り出しにもどる,という。ならば,こんどは戦争法案の番だ。こちらも早々に白紙撤回してもらおう。これらはすべて同根。遺伝子は同じ。同罪。同じアベ政権の無責任体制のなかから批判の対象として表出した事態なのだから。すなわち,一蓮托生。すべて白紙撤回すべし。

 ついでに,東京五輪2020も返上すべし。

 この無責任体制がつづくかぎり,五輪を開催する能力はもはやない。だれも責任をとらない組織が,大きなイベントをコントロールする力などないのは明々白々だ。それをなにより物語っているのが,新国立競技場に建て替え失敗。その責任を問うこともなく,担当大臣を一人加えただけで,あとは組織替えもしないで,同じメンバーが担当している。


しかも,新国立競技場を建造する共通のコンセプトもなにもないまま・・・・。烏合の衆が,別々のロジック(業界ごとのロジック)や力関係(利害・打算)のもとで,しかも密室で,ごそごそと,下心や根回しやえさ(金,地位,権力,など)の渦巻くなかでの「合議」が重ねられているだけ。そして,最後は,声の大きな人の一声で,さも,なにもかもうまく決まったかのようなポーズをとる。しかし,内実はなにも変わってはいない。

 新国立競技場問題も,これから公明正大にゼネコン選びをやると言っているが,その応募条件は基本的には最初のときと変わってはいない。高さ制限も,環境に対する配慮(風致地区)も,周囲の住民に対する配慮も,みんな最初のものと同じだ。このまま,ずるずると話を進めていくと,またぞろザハ案が復活してくる可能性もある。あげくのはては,上限を決めたはずの金額をもはるかに超えていく可能性もある。

 わたしの眼には,単なる責任逃れ(無責任体制の正当化)と国民の批判をかわすための時間稼ぎ(冷却期間)にしかみえない。白紙撤回などというのも,アベの得意とする「ウソ」。

 なぜ白紙撤回しなければならなくなったのか,その理由はなにか,そうなってしまった責任はだれにあるのか,これを突き詰めることが先決ではないのか。こんなことは短期間でやろうとおもえばできる。しかし,もとよりやる気はないのが権力だ。それで済ませられると,国民を舐めている。権力の驕りそのものだ。

 つづいて飛び出してきた問題が,五輪エンブレムの「白紙撤回」だ。これも,もはや,ここに書くのもいやになるというしろものだ。こちらこそ,徹底的に「責任」を問うべきだ。組織委員会には公正なコンペをやる資格も力もない。やれば,またぞろ同じことの繰り返し。第一,応募条件に,なんらかの賞を受賞したことのあるレベルの高いデザイナーに限定し,しかも,デザインの世界の大御所と言われるメンバーで委員会を固め,密室で議論していることが大問題なのだから。

 
さっさと手放して,第三者委員会にでも委託すればいい。
わたしの考えはこうだ。

 デザインの公募は,すべての国民に開かれるべきだ。デザインの専門家などに頼ることなく,幼稚園から小中学校の生徒,高校生をはじめ,あらゆる国民が応募できるように開くべきだ。そうして,国民全体に東京五輪2020への関心と親しみをもってもらうことだ。そうして,われこそは,という人たちにいいアイディアを出してもらうことだ。

 そうして応募される作品は膨大なものになるだろう。その選別方法もいろいろやり方はある。それこそ第三者委員会で頭をひねってもらって,適切な方法を決めればいい。このわたしですら腹案があるくらいだから。そして,最後は,「ベスト10」を選出し,その作品を公表して,国民投票で決めればいい。これが公明正大ということだ。

 これをやれば,たぶん,相当に盛り上がることだろう。それが五輪を招致した最大の理由だったのではないのか。初心にかえって,もう一度,仕切り直しをすることが,いま,なにより求められている。どうでもいい「有象無象」が寄ってたかって,ハイエナのように食い物にしている姿が,ここまで剥き出しに露呈してしまったいま,もう失うものはない。とうのむかしに,国際社会の笑い物にまでなってしまったのだから・・・。

 この二つの案件とまったく同じことが起きようとしている。それが「戦争法案」だ。国会審議の政府の答弁を聞けば聞くほど,この法案を成立させる根拠が,ほとんどなにもないということがはっきりしてきた。第一,閣議決定で憲法解釈を変えたところからして,憲法違反だ。憲法をもっとも守らなくてはいけない政府が,率先垂範して,それを無視するという暴挙にでた。憲政史上初の「暴挙」だ。こんな政府はみたことも聞いたこともない。

 だから,歴代首相も歴代法制局長官も,みんな「廃案」にすべきだ,と声を挙げた。そして,国民の「6割」以上が「廃案」と言っている。「8・30」集会では,12万人が国会を取り巻いた(わたしなどは,国会前までたどりつけなくて,引き返し,霞が関の周辺で行っていた抗議行動に参加していたほどだ)。もはや,これ以上の議論も不要だろう。すなわち「白紙撤回」。

※今日になって,ついに元最高裁長官が発言をした。すなわち,戦争法案は違憲であるとし,廃案を求めている。

 政府は,どうしてもやりたいなら,即刻,「廃案」にして,仕切り直しをすればいい。そして,つぎの選挙公約で「憲法改正」を掲げればいい。そこを通過してからの「戦争法案」だ。

 「白紙撤回」の茶番劇も,新国立競技場⇨五輪エンブレムと進行した。つぎは,戦争法案だ。ホップ・ステップ,そして「ジャンプ」だ。戦争法案は「白紙撤回」の最後のジャンプだ。そこで幕引き。でも,この茶番劇はなかなか収束しそうにない。ホップもステップも,まだまだこれからだ。そして,最後の「ジャンプ」はもっとやっかいなことになりそうだ。

 この三つを並べてみると,ホップもステップも,大したことではない。こんなものは「屁」のようなものだ。言ってしまえば,どうでもいい。最後の「ジャンプ」に比べれば。問題はこの戦争法案だ。これだけは,どんなことがあっても阻止しなくてはならない。日本国の命運にかけても。そして,これから生きていかなくてはならない国民の「命と安全を守る」ためにも「廃案」に持ち込まなくてはならない。

 一蓮托生。三つ揃い踏みで「白紙撤回」。全部,仕切り直し。これが現政権の実力だ。こんな程度の低さから一刻もはやく脱出しなくてはならない。道は険しいが,諦めてはならない。

 9月14日まで,国民が一丸となって,闘うしかない。頑張りたい。頑張りましょう。

2015年9月3日木曜日

『スポーツ学の射程』(井上邦子・松浪稔・竹村匡弥・瀧元誠樹編著,黎明書房,2015年9月刊)がとどく。

 身にあまる光栄というべきか,この本は,わたしの喜寿記念論集として刊行されました。
 まずは,編著者をはじめとする喜寿記念論集刊行委員会のみなさんにこころからお礼を申しあげます。わたしごときの人間にこのような最高のプレゼント(=ギフト=「贈与」)をしてくださり,感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

 「贈与」となれば,それなりの応答をしなくてはなりません。いわゆる「贈与経済」でいうところの応答です。贈与(=Gift)には「毒がある」といいます。この「毒」は「薬」にもなります。まずは,この「贈与」を「薬」としていただきたいとおもいます。そして,この「贈与」はなによりも,わたしの術後のからだにとっての最高の「良薬」にしたいとおもいます。

 つまり,元気になって,毎月の例会に出席し,みなさんからの「スポーツ学」的な挑発を受け止めつつ,こちらからも投げ返す(返礼=贈与を返す)ことができるようになること。養生につとめながら,この道をまっしぐらに歩みたいとおもいます。

 重ねてお礼を申しあげます。ありがとうございました。

 
このテクストは,総勢18名の研究者が顔をそろえ,それぞれの専門領域の研究成果のエキスを論考としてまとめ,寄稿してくださっています。ざっと拾い読みをさせていただきましたが,いずれも「力作」ばかりで,感動しました。やはり活字になりますと,いつもの例会での議論とはまた違った側面が明確になり,ありがたいことです。と同時に,それぞれの研究者の方たちの研究の「深み」を知ることができ,教えられることがたくさんあります。これからじっくりと拝読させていただこうとおもいます。

 ここでは,とりあえず,目次を紹介させていただき,このテクストの紹介に代えさせていただきます。表紙カバーの折り返しの部分のコピーと一緒に。

スポーツを,既存の見方に捉われない視点より追究し,知的冒険に誘う18の論考。
『スポーツ学の射程──「身体」のリアリティへ』
Ⅰ章 <競争>を問う
1.スポーツにおける判定を考える
2.「無気力試合」を「問題」とする問題
3.レースは過酷だったのか
4.スポーツと国家
Ⅱ章 <歴史>を紐解く
1.体罰の起源を探る
2.軟式庭球の名づけ
3.戦時下のプロ野球
4.集団体操時代の「変な体操」
5.学校体育に初めて正式採用された体操
6.20世紀初頭の体操改革運動が残したもの
Ⅲ章 <民俗>をみつめる
1.野見宿禰は河童なのか
2.舞台における<武>からなにが見えてくるのか
3.ヨーロッパ球戯考
4.バスク地方のペロタ球戯と教会
Ⅳ章 <身体>を感じる
1.生きる/動く,からだ
2.身体という盲点と出会うために
3.「からだ」の探求者
4.「生きもの」としてのからだといのちを考える

 ご覧のとおりの,とても魅力的なテーマが並んでいます。ぜひ,手にとって内容をご確認いただければ幸いです。

 なお,一つだけわたしからのコメントを付しておけば,以下のとおりです。
冒頭論文の「スポーツにおける判定を考える」と末尾を飾る論文「『生きもの』としてのからだといのちを考える」は,いずれも近年のわたしの問題関心に対して,それをみごとに投げ返す構成になっていて,すみずみにまで気配りの効いた,素晴らしいテクストになっている,ということです。この二つの論考の間にも,わたしの問題意識にもろに跳ねかえってくる論考が満載です。

 この点については,いつか,合評会の折にでも・・・と考えています。

 それから,最後に,つぎの点も触れておきたいとおもいます。

 思い返せば,わたしが定年で退職するときにも,このメンバーの多くの人が参集して,「退職記念論集」=『スポーツ学の冒険──スポーツを読み解く<知>とはなにか』(船井廣則,松本芳明,三井悦子,竹谷和之編著,黎明書房,2008年刊)を刊行し,「贈与」してくださいました。こんどのテクストは,その意味では,「続編」に相当します。しかも,編著者も前回は,毎月開催しています例会の世話人の4人(船井,松本,三井,竹谷」が担当してくださり,今回は,そのつぎの世代の4人(井上,松浪,竹村,瀧元)が頑張ってくださいました。これで,「21世紀スポーツ文化研究所」が主催する月例会「ISC・21」も,少しずつバトン・タッチがなされ,つぎの時代への扉が開かれていく,とこころの底から喜んでいます。

 この意味でも,今回のこのテクストの刊行は意味深いものだ,とこころから感謝しています。

 最後に,重ねてお礼を申しあげます。
 編著者のみなさん,そして喜寿記念論集刊行委員会のみなさん,ありがとうございました。

高い姿勢で,よいイメージを描きながら,手足は力を抜いてへらへらと動かしなさい。李自力老師語録・その58。

 久しぶりに李自力老師が稽古に顔をみせてくださいました。日中往来の超多忙のなか,貴重な時間を割いてくださり,申しわけないのひとことです。

 今日は,しばらく黙ってわたしたちの稽古をみとどけた上で,わたし個人に対してつぎのような指導をしてくださいました。

 「これは,わたしの個人的な考えですが・・・・」と前置きして,かなり厳しい口調で「高い姿勢で,よいイメージを描きながら,手足は力を抜いてへらへらと動かしなさい」「なぜならば・・・・」というお話をされました。もちろん,わたしの術後のからだのことを念頭に置いてのお話で,特例中の特例というべきかもしれません。しかし,よくよく考えてみますと,以前から何回も言われてきた「高い姿勢で,からだの力を抜いて,楽な気持ちで」という指摘と,基本的には同じことです。つまり,太極拳の「普遍」に通ずる道を指摘されたということです。

 別の言い方をすれば,世阿弥の『風姿花伝』にでてくる「時分の花」を超越した境地をめざせ,ということでもある,とわたしは理解しました。いたずらに低い姿勢をめざして,若さと競合するようなことはやめなさい,と。年齢相応に,そして,術後の「からだ」にふさわしい太極拳をめざせ,と。つまり,弱ったからだに無理を強いて,余分な負荷をかけて稽古をしてもなんの役にも立ちません,と。

 こんな李老師のお話を聞いていたら,道元のいう「修証一等」ということばが浮かんできました。修行と悟りは一つのことである,と。つまり,修行は悟りのレベルに応じて可能なのであって,無理をして修行をしてもなんの役にも立たない,と道元は『正法眼蔵』のなかで説いています。つまり,修行とは悟りの表出なのだ,と。あるいはまた,悟りとは修行そのものであって,それ以外のものではない,と。

 ここまで考えたときに,今日の李老師のことばはとても重いものだ,と気づきました。そして,最後の「とどめ」は,術後の胃(三分の二切除)と肝臓(三分の一切除)に負荷をかけてはいけません,というものでした。低い姿勢で脚に負荷がかかると,それと同じように内臓にも負荷がかかります。その負荷は術後の内臓の回復のためになりません。できるだけ,内臓に負荷をかけないで,ゆったりとした太極拳をめざしなさい。それが術後の太極拳というものです。

 からだ最優先。それに見合った太極拳をしなさい。無理は禁物。そこにもまた太極拳の新たな地平が拡がっています。と懇々と説諭されてしまいました。ここまで言われたら,もはや,返すことばもありません。それどころか,身にあまる光栄,ありがたいことです。

 この説諭のあと,「高い姿勢で,よいイメージを描きながら,手足は力を抜いてへらへらと動かす」太極拳の見本を垂範してくださいました。つまり,よいイメージを描くことに意識を集中させることを最優先にし,あとは,全身の力を抜いて「適当に」手足をへらへらと動かせば,それでいい,と。これがまた,みごとに美しいのですから,困ってしまいます。とても,あんな風にはできません。そうか,高い姿勢とはいえ,そして,力を抜いてしまっても,いや,力を抜いてしまうからこそ,そこに浮かび上がってくる表演は,また,新たな,もう一つの太極拳の醍醐味なのだ,と納得しました。

 かくなる上は,これからの太極拳はそこを目指そう,とこころに決めました。

 今日の稽古はわたしにとっては「値千金」でした。長く記憶に残る稽古になるでしょう。また,そうあらねばならない,とも感じました。ありがたいことです。謝々,李老師!

2015年9月2日水曜日

国会周辺12万人は「大いなる誤解」(すが長官),とんでもない!

 「8・30」の国会周辺12万人,抗議行動が官邸を中心にあちこちに相当のダメージを与えているらしい。その「あせり」の発言が相次いでいます。

 まずは,すが長官。12万人は「大いなる誤解」だ,と発言。なにを,とんちんかんなことを言っているのか。これではますます火に油をそそぐようなもの。国民の怒りがさらに燃え広がる。当然のことながら,支持率もさがる。そういう意味では,まことに結構。もっともっと言ってほしい。

 それにしても「大いなる誤解」とはよく言ったものだ。ということは,歴代首相を筆頭に,歴代法制局長官,法曹界,憲法学者,大学有志の会,ママさんの会,SEALDs,その他(わたしのような人間),みんな「大いなる誤解」をしているということか。ならば,ついでに「誤解」をしていない人たちにどういう人たちがいるのか,教えてほしいものだ。戦争法案賛成のデモもあったそうだが,集まったのはたった「100人」たらずだった,とか。

 つぎに,アベ君。国民の理解がえられていない,と発言。いえいえ,テレビ中継をじっくり拝見させていただいて,この戦争法案は駄目だ,と十分に「理解」し,ただちに「廃案」にすべきだと判断した人たちが全国各地で蜂起しただけの話。もうすでに,「廃案」にすべきだという人が62%に達していることを,しっかりと受け止めるべき。もう,これ以上の国会討論は不要。ただちに「廃案」にして,国会を閉会にすべし。税金の無駄遣い。それが民意を受け止め,その声に従うということ。

 最後は,ハシシタ君。「たった12万人で国政が影響を受けるとしたら,それは民主主義の否定だ」だと。君はほんとうに弁護士さんなのか。法律の専門家が,こんな認識をしているとしたら,とても恥ずかしい。維新の党を分裂させて,なおかつ,新党を設立するという。おやおや,政界から引退するのではなかったっけ。党費を返せ,という抗議の電話が党員から日に100件もかかっているとか。とにかく人騒がせが好きなだけ。この「わが・まま」(my mother )ぶりは,アベ君と同じ。だから,気が合うのでしょうね。

 こういう発言が飛び出してくることをよくよく考えてみると,やはり,相当に焦っているとしかいいようがありません。これらの声は,もはや,断末魔の表出だとしか聞こえません。支離滅裂。冷静さを欠いています。

 国会審議はストップしたまま。いつ再開されるか目処も立たないらしい。それでも「時間」がくると,強行採決に踏み切るのでしょうね。そうは問屋が卸しません。これから,もっともっと大きな抗議行動が展開されることになるでしょう。

 岸信介政権が,激しいデモ攻勢に押しつぶされ,転覆したことを昨日のことのように思い出されます。全共闘闘争についてはいろいろの批判がありますが,いずれにしても,岸政権を倒したお蔭で,「憲法9条」がこんにちまで守られ,曲がりなりにも「平和」が維持できたことはきちんと評価しておくべきだとおもいます。

 今回は,その主役に,SEALDsが躍り出てきました。しかも,じつに素朴な,素のままの思いを,そのまま表現する抗議の仕方が多くの人びとのこころを捉え,動かしています。しかも,かれらは「本気」です。この盛り上がりが,さらに大きくなっていけば,必ずアベ政権は倒れます。そうなると,日本の現代史にその名を残す大きな功績となります。場合によっては,ノーベル平和賞の対象にもなるでしょう。

 今回の「8・30」抗議行動は,日本のメディアは適当に流していますが,海外ではたいへんな反響を呼んでいることがインターネットで知ることができます。アベ政権が,もはや,海外ではまったく信頼を失ってしまっていることも,伝わってきます。ドイツなどは,原発再稼働と併せて,戦争法案を徹底的に批判しています。むしろ,脅威に感じているようです。

 「国民の命と安全を守る」ための法案が,逆に,「国民の命と安全」を脅かしていることを,日本のメディアは伝えていません。とにかく,日本の報道が,こんな状態になってしまったのも,みんな「アベ」の差し金によるものです。それ以前にはなかったことです。たった,ここ数年の間に,日本のメディアは死んでしまいました。

 そのためにも,アベ政権は早々にお引き取り願わなくてはなりません。
 国会前の抗議行動はまだまだ,これからです。頑張りましょう。