2010年7月31日土曜日

「身体の叛乱」ということについてのメモ・その2.

 昨日のブログは途中で腰砕けになってしまい,失礼しました。やはり,この猛暑で相当にからだは疲れているようです。こういうときは無理は禁物。眠るにかぎる,ですね。
 今朝の新聞によれば,熱中症で200人以上の死者がでている,という。ちょっと,びっくりニュースである。梅雨明け以後のことだから,まだ,10日余のこと。この数字はちょっと大きすぎる。ことしの猛暑が尋常ではないということをしっかり認識している人はそれなりに防衛対策をとっているとおもいますが,そうでない人は大いに気持ちを引き締めてください。わたしの身近な人にも,体調をくずして会社を休んでいる人がいる。たぶん,冷房病。この暑さの反動というべきか,どこに行っても寒いほどエアコンで冷やしている。デパート,コンビニ,銀行,スーパー,電車,本屋,など,わたしの入ったところはこんなところしかないが,いずれも,思わず寒いと感じたほどだ。たぶん,会社も相当に冷やしていて,新聞などによれば,女性社員はカーディガンを羽織ったり,ひざ掛けをかけたり,靴下を二枚にしたり,とこまめに対策を講じている,という。それにひきかえ,無防備なのは男性社員。いつもと同じ格好で仕事をしている,という。その結果,冷房病にやられるのは圧倒的に男性社員が多いとのこと。命に関しては女性は敏感,男は鈍感。だから,男はすぐに「身体の叛乱」を起こす。まあ,いずれにしても,ことしの猛暑はいささか異常である。
 この異常な暑さにつられて思い出すのは,敗戦直後の夏。1945年の夏も暑かった。8月15日の玉音放送の日も,かんかん照りの日だった(愛知県渥美郡)。真っ青な青空の色をいまもはっきり覚えている。禅寺の広庭の日陰でいとこたちと一緒に遊んでいたら(このとき,すでに,豊橋市内でB29による空襲を受け,焼け出されて,母の在所の禅寺に疎開していた),みんな集まれ,という招集がかかって,ラジオの前に正座した記憶がある。しかし,天皇がなにを言っていたのかは,当時のわたしには理解できなかった。大人たちが「終わった,戦争が終わった」というのを聞いて,「ほいじゃ,B29は来んのん?」(三河弁:それでは,B29は来ませんね?)と問い返したことを覚えている。B29と聞いただけで全身が震えるほど恐かった。
 この夏の暑さと,そのつぎの年の夏の暑さも,なぜか,強烈に覚えている。1945年と46年の夏の暑さである。45年の夏は,日向に出るな,日陰で遊べ,と厳命がくだされた。祖父・祖母も健在だったので,大人たちのだれかが,いつも,どこかで子どもたちの遊びを監視していたようにおもう。日向で遊びはじめると,すぐに,どこかから注意の声がかかった。46年には,すでに,疎開先からでて,兵舎の空き家に住んでいたので近所に遊ぶ友だちがいない。だから,かなり歩いて友だちのところまで通ったものだ。母が見かねて,手縫いの白い帽子をつくってくれて,必ずこの帽子をかぶっていないと「日射病」にかかって死んでしまう,と言い聞かされた。このとき,初めて「日射病」ということばを知った。そして,しつこく,どういう病気なのかと聞き返したことも覚えている。母の指示は的確だった。喉がかわいたら友だちの家で,水をください,と言いなさい。汗は流れるようにかいていなさい。暑いのに汗が出なくなったら,水をのみなさい,と。ことこまかに教えてくれた。以後,喉の渇きは我慢してはいけない,と知った。
 お蔭で,わたしは幸いなことに,暑い夏に「身体の叛乱」を起こしたことは一度もなかった。が,まわりの友だちは,ひっきりなしに,夏風邪を引いたり,日射病にかかったり,下痢をしたり(これは水の飲み過ぎ),と大変だった。
 もう一つは,みんな日焼けして真っ黒だった。腕も足も,顔も真っ黒だった。大人もみんな真っ黒だった。もちろん,都会で焼け出されてからは,一学年48人しかいない小さな田舎の村に住んでいたので,まわりは農家ばかりだった。ふんどし一張で野良仕事をしている人もいた。全身,真っ黒である。色の白い人をみた記憶がない。いまでは,農家の人たちもみんな完全武装をして,日焼け対策に余念がない。もっとも,敗戦当時といまとでは,紫外線の強さがまったく違うのだから,単純に比較することはできないが,それにしても日焼けした人をみることは少なくなった。むしろ,都会の土日などに,野球やサッカーにでかける大人の集団の人たちの方が,農家の人たちよりも日焼けしているようにおもう。こういう真っ黒な顔をした大人の集団に,電車などで出会うと,なんだか懐かしくなってほっとする。
 それにしても,最近は,黒い日傘をさし,黒いアームカバーをして歩いているご婦人の多いこと。これほどまでに神経質にならなくてもいいとおもうのだが・・・・。こういうご婦人たちは,エアコンの調節も,室内での着るものも,おそらく,マニュアルどおりにきちんと管理なさっていらっしゃるに違いない。そして,ほぼ,完璧に自己管理ができているに違いない。しかし,この完璧主義は,おおむね見上げたものだとおもうが,どこかに落とし穴があるのではないか,とわたしは危惧する。
 「身体の叛乱」は,一つの危険信号のようなものだから,あまり,たびたび起こしてはいけないとおもうが,ときには必要なのではないか,ともおもう。ある種の,からだの免疫力は,ときには「身体の叛乱」を経験することによって自力で高められていくことがある。まあ,予防接種のようなもので,時折,なにかの拍子に「身体の叛乱」を体験しておくことも必要悪のようにおもうのだが・・・。
 過剰な身体防衛は,意外なところに落とし穴が待っている。適切な身体防衛は必要であるが・・・。なにごとも「過剰」はよくない。ほどほどがいい。ことばの正しい意味での,いい加減,を保つことが大事だとおもう。

2010年7月30日金曜日

「身体の叛乱」ということについてのメモ・その1.

 ここ数日来,ある必要があって「身体の叛乱」ということについて考えている。いろいろの様態があって,概念として整理する上で手を焼いている。
 とりわけ,薬物使用による「身体の叛乱」をどのように考えればよいのか,いまも決断がつかない。そう,スポーツでいえば「ドーピング」の問題である。しかし,ドーピングは,厳密にいえば,スポーツ選手が禁止薬物を使用することを意味する。それ以外の薬物を使用することはドーピングとは言わない。それなのに,世間一般では,ドーピングの概念はきわめてあいまいなまま,勝手に一人歩きをして用いられている。
 2003年に滞在したドイツ・スポーツ大学ケルンの学生寮(超高層ビル)の一階には「ドーピング」という名のカフェ兼飲み屋があった。ジョークにしてはやりすぎだとおもったが,ドイツ人的感覚ではそれほどでもないようだ。酒を飲むということが,日本ほど罪悪視されてはおらず,学生食堂ですらビールを売っていて,昼食をとりながらビールを飲んでいる光景はごく日常的なものであった。そして,そのあと,実技の授業にもでていくし,教室の授業にもでていく。もちろん,先生も飲んでいて,そのあと授業をやっている。つまり,かれらにとって夏のビールは水とほとんど同じなのである。喉の渇きを潤す清涼剤の一種という感覚である。
 それでも学生たちが屯するカフェ兼飲み屋に,しかも,キャンパスの中にあるにもかかわらず(ということは立派な公的施設の一部),その店に「ドーピング」という名前を冠して,それとなく楽しんでいる風でもある。やはり,いくらかアルコールを飲むことによって,身体の叛乱を期待しているところもなきにしもあらず・・・というところなのだろう。まあ,言ってみれば,ビールを飲むということとドーピングのイメージはどこかでつながっているのだろう。その点,われわれ日本人は,すぐに酔っぱらうから(ドイツ人は滅多に酔っぱらわない),アルコールとドーピングはほとんどイコールで結ばれる。ビールといえども立派なアルコール,すなわち,薬物なのだから。こうして,いつのまにか薬を飲むこと,イコール,ドーピングのような感覚が広がっている。
 さきほどからいささか躊躇しながら書いていることがある。それは,「叛乱」ということば遣い。つまり,身体の叛乱と言ったときに,どういう状態から身体の叛乱というか,ということ。理性のコントロールにたいして,言うことをきかなくなる身体の境界線をどこで引くか,ということ。アルコールでいえば,酒乱や泣き上戸や怒り上戸,笑い上戸などで,明らかに常軌を逸したときには身体の叛乱と呼べるとしても,その常軌を逸するのラインはどこか。
 ちょっと中途半端になってしまったが,今日はここまで。

2010年7月29日木曜日

「静坐する身体」と格闘するわたし・その2.

 つづきを書くと予告しておいて,さぼってしまった。というか,やんごとなき理由はあるのだが・・・。さて,今日は早速,具体的な話から入ることにしよう。
 わたしのいう静坐の方法は少し変わっている。もちろん,我流だから,どんな方法でもかまわないのだが・・・。まず,両膝を肩幅ほどに開いて膝立ちの姿勢をとる。つぎに,両足の親指がかすかに触れる程度のところに位置づける。そうして,静かにゆっくりとお尻を降ろしていく。理由はない。あるとすれば,太ももの大腿筋がすでに筋萎縮をはじめているので,それを伸ばすときに痛みをともなうことがある。いや,ほぼ,間違いなくある。だから,ごく自然に,それを感じながら,恐るおそるお尻を降ろしていくことになる。そうして,踵と踵の間にお尻が割り込んでいき,ペタンと床につくところまで降ろす。そう,床の上での静坐。これが,我流の静坐である。
 この位置を決めるまでが大変で,最初の膝立ちのときから,じつは,両手を床について上半身を支えている。だから,お尻を降ろすという動作は,両手で上半身を後ろに送り込む,というのが現実だ。そうして,お尻の位置がしっかりと決まったら,それから,やおら,上半身を起こしにかかる。このときから,本格的に大腿筋の痛みが襲ってくる。そして,両手を床から離して,上半身をまっすぐ垂直になるまで立ち上げていく。こんどは,例の左の膝と足首に痛みがくる。この痛みが比較的少ない「場所」を探す。それを探し当てたら,上半身を「鳩胸・出っ尻」を意識してまっすぐにする。頭のてっぺん(太極拳では「百会・ひゃくえ」という)をできるだけ高くするよう,ややあごを引き,目線を水平におく。これでできあがり。
 でも,ほんとうは,ここからがとてもむつかしい。ちょっと文章で表現するのは不可能なほどに。たとえば,上半身の重心をどこに置くか。ほんのちょっと動くだけで,重心の位置が大きく動いたように感ずる。しかも,この位置によって,静坐の楽しさが変わってしまう。というか,左足の痛みと,それを克服したときの心地よさとの格闘というべきか。この位置は,毎日,変わる。それほどに,わたしの左足の状態というものは変化しつづけている,ということなのだろう。だから,いつも,左足に声をかけながら,今日はどんな具合でしょうか,とお伺いを立てる。すると,左足は素直に教えてくれる。これはまことに不思議である。最初のころは,さっぱりわけがわからないまま,手さぐりで,その位置を探していた。いまも,基本的には変わらないのだが,大分,要領がよくなってきて,左足が教えてくれる声のとおりに位置を探す。そうすると,その「場所」に到達する。
 うまく「場所」に到達して,やれやれとおもいながら,しばらく静坐する。これも,日によって差があって,短い日は5分くらいで膝か足首のいずれかが悲鳴を上げる。もう勘弁してくれ,と。長くても20分くらいで,悲鳴が聞こえてくる。でも,最近,少しずつ長く坐れる日が増えてきている。からだが馴染むというか,左足が馴染んでくる。目標は1時間。これだけの時間,静坐ができて,痛みもなにもなければ,さぞや心地よいことであろう,と想像している。
 ところがである。5分くらいで左足が悲鳴を上げて,さて,静坐を解こうとすると,これがまた大変なのである。そんな簡単には解けないのだ。まず,両手を前について,上半身を徐々に前に倒して,額が床につくところまで倒す。お尻がやや浮いてくる。その姿勢で数呼吸,息を吸って長く吐く,をくり返す。上半身がどんどん深く沈んでいくのがわかる。それと同時に全身の力が抜けていく。和式のご挨拶で,両手をついて,思いっきりからだを小さくしていくような感覚である。これだけ小さくなってご挨拶ができたら,これはこれですごいことだなぁ,と勝手に想像している。つまり,迫力満点。相手にこの姿勢をとられたら,わたしは「参った」と声に出して謝ってしまうだろう。
 もう,これ以上には小さくなれないな,とおもったところで両手を前に送り出し,四つんばいの姿勢をとる。その姿勢で,自分の尻尾をふりかえって見るふりをする。若いころは尻尾が見えた。しかし,いまはもう遠いむかしの話。だから,ふりをする。でも,一応は,見てやろうと努力する。つまり,意のままにならぬわが身体と格闘するのである。そこが大事なところ。左右,数回ずつ。これもやり方によってはとても心地よい。心地よさはつねに苦痛の隣にある。だから,苦痛に耐えながら,心地よさを探すしか方法はないのである。
 尻尾をみたら,伸びきっていた両足首を曲げて,爪先を床につけて,立ち上がる準備をする。四つんばいになっていた両手を少しずつ後ろに送り,上半身を起こしていく。すると,自然にしゃがんだ姿勢で両手をついているところまでくる。こんどは,両手をついて小さくなってしゃがんでいる姿勢を保ちながら,片足に体重を乗せて,もう片方の足を横に伸ばす。交互にこれを行う。これが,じつは,老人にとってはなかなか大変な運動なのだ。ここでも,狙いは「心地よさ」。苦痛を克服したのちの「心地よさ」。ここでも,わたしの気持ちとしては,格闘している気分。それも,「心地よさ」に到達するための格闘。
 あとは,ゆっくりと立ち上がる。これで,わたしの静坐のプログラムは終了。
 言ってしまえば,静坐は,わたしにとってはすべて格闘。
 こうして,一日に一度は自分のからだと向き合うこと。そして,自分のからだの声に耳を傾けること。しかも,格闘しながら。すなわち,心地よさをわがものとするために。ほんの一瞬でも,ああ,心地よい,と感じられただけで,もう,その日の大仕事は終わった,と大満足。生きていてよかったなぁ,と素直におもう。
 よろしかったら,お試しあれ。

2010年7月27日火曜日

「静坐する身体」と格闘するわたし。

 「静坐」ということに,しばらく前から取り組んでいる。世間では「正座」というらしいが,「正」と「座」という文字がどうも気になって,わたしとしては「静坐」の方がしっくりくる。
 いきなり,いささか余談めいた話になるが,最近,気になっていることに「正しい姿勢」「正しい歩き方」「正しい食事の仕方」などという具合に,なにかと「正しい」が濫用されすぎているのではないか,ということがある。「正しい」ことには,かならず,なにかの基準があって,ただそれに合っているかどうかというだけのことであって,それ以上の意味はない。だから,その基準が違うところでは「正しい」は通用しない。つまり,その基準というものが,それぞれの地域や人びとの文化として構築されてきたものにすぎない。当然のことに,文化が違えばその基準は違う。こうして,「正しい」などということはあっという間に雲散霧消してしまう。
 はたして,「正しい座り方」などというものがあるのだろうか。正座の意味は,おそらく公的な場で威儀を正して座るときの座り方,くらいのことで,それ以上の意味はないだろう。つまり,正面を向いてきちんと座る,ということ。こちらの方の意味が強いのだとしたら,わたしがひとりで坐るのに「正座」は必要ない。だれも意識しないで,たったひとりで静かに坐る,だから「静坐」。ただ,それだけ。でも,それだけのことだからこそ,こだわりたいのだ。
 もうすでにお気づきかとおもうが,「座」か,あるいは「坐」か,ということにもわたしなりのこだわりがある。詳しくは白川静の辞典で確認していただきたい。が,かんたんに言っておけば,「座」には歴史的・文化的にいろいろの意味賦与がなされてきていて,その使用範囲はきわめて広い。一方,「坐」の方は,ただ坐るだけの意味しかない(もちろん,例外はあるが)。このように考えると,「正座」にはそれなりの意味があり,「静坐」は「ひとり静かに坐る」というきわめて単純な意味しかないことがわかってくる。だから,わたしの場合には「静坐」でなければならない,ということになる。こういうこだわりは,趣味の領域においてはきわめて重要なことだ,とにんまりしながら自己満足している。
 以上が「前座」。
 さて,そのこだわりのわたしの「静坐」。ただ,坐るだけなのに,これができない。困ったものである。もう,ずっと以前からできないのだ。それには理由がある。
 最近では,初対面の人はほとんどだれも信じてはくれないが,こうみえてもわたしはスポーツ大好き人間だったのだ。しかも,ほんの一瞬のまぼろしではあったが,オリンピックにでてみたい,とまで夢見たことがある。これを言うと,みんな大笑いになる。でも,あまりに素直にあっけらかんと笑われてしまうと,ほんのちょっぴり寂しい思いがよぎる。でも,まあ,それを黙って見過ごして,しつこくスポーツに熱中したころの話をする。熱中したスポーツは,野球,体操競技,登山,スキー,卓球,水泳,テニス,バドミントン,など。この間に,さまざまな大怪我をした。それが完治しないまま,適当にしてきたツケがいまごろになってまわってきた。とりわけ,左足首の捻挫と左膝の捻挫。しかも,慢性の捻挫。その他のところは,だましだまし,なんとか使える。が,この左足の故障は,いまもときおり疼く。天気予報よりもよく当たるほどの感度のよさである。
 それはともかくとして,この故障があって静坐ができないのである。だから,法事などで,どうしても「正座」をしなくてはならないときには,腰を少しだけ浮かせてごまかす。その分,座高が高くなって立派な人にみえるらしい。しかし,左足全体の力を抜いて,ペタッとお尻を足裏に当てることはできない。だから,若いときから「正座」はできなくなったまま。
 ところが,不思議なことに「坐禅」の結跏趺坐はできた。捻挫で痛めた角度がちょうどうまい具合に結跏趺坐と噛み合っていたようだ。が,この得意の結跏趺坐も,あるときから,とても困難を感ずるようになった。つまり,あちこちの関節に痛みを感じ,長く持続することができなくなってきたのだ。それで,いまでは半跏趺坐でごまかすことにしている。が,これで十分なのである。大事なのは,どこまで無心になれるか,ということなのだから。だから,坐禅はいまでも思い出したように,その気になったときには,坐って楽しんでいる。
 にもかかわらず,なにを思ったのか,ある日,突然,静坐がしてみたくなったのである。なんだかわけのわからないものに誘われるかのように。坐れないことは百も承知しているというのに。いまだにその理由がわからない。でも,こういう入り方をするというのは,そのむかし,ある日,突然,逆立ちがしたくなったのとそっくりである。なんの理由も根拠もなく,もちろん,理性のはたらきもなく,ふらふらっとそう思ったのである。それが,こんにちに至る,わが人生の最初の間違いだった,ということにいまごろになって気づく。では,今回の「静坐」への誘惑は,わが人生においてなにを意味しようとしているのだろうか。などと大げさなことは考える必要はなかろう。すでに,余命いくばくもなくなってしまったのだから(今日の新聞によれば,日本人の男子の平均年齢は78歳,?記憶違いかな)。そんなことはなにも考える必要はない。ただ,やりたくなったのだからやりはじめた,それだけで立派な意味がある,とみずからを励ます。
 (突然ですが,時間切れ。あとは明日のブログで)つづく。

 

2010年7月26日月曜日

横綱白鵬の「涙」。

 優勝インタビューで,横綱白鵬が「涙」を流した。不思議な感動を覚えた。この「涙」は,いまの日本人がどこかに置き忘れてきてしまった,日本人の「古層」に触れるものだったようにおもう。
 今日の午後,たまたまテレビをみていたら,大相撲名古屋場所を総括する番組をやっていた。何人かのコメンテーターが,いつものように,どうでもいい話をもっともらしくつくっていた。演出やシナリオがあるのはわかっているものの,それにしても馬鹿げた話ばかりをやっている。そんな中に,昨日の映像が織り込まれていて,その中の白鵬の千秋楽の一番の映像と,優勝インタピューと,そのあとの記者会見の三つの映像だけは,いいものをみた,という満足感を与えてくれた。結論から言ってしまえば,白鵬に感動した,のひとこと。
 47連勝,3場所連続全勝優勝,という輝かしい大記録もさることながら,人間・白鵬にしびれた。偉業をなしとげる人間というものは,もちろん,ふつうの人とは基本的なところが違うのだが,それにしても白鵬はすごい。こまかなことはともかくとして,わたしが一番,ズシンときたものは,優勝インタピューの折の「涙」だった。
 場所前から,「国技をつぶす気か」「NHKの相撲中継はやってほしい」「天皇賜杯まで中止することはない」などの発言が,新聞紙上を賑わし,とかく話題になった。わたしも白鵬はそこまで言うのか,と半信半疑だった。が,その意味はこの優勝インタピューの「涙」でわかった。
 わたしは基本的に,名古屋場所については,日本相撲協会全体が反省し,謹慎するという意志表示の意味で開催中止,そして,徹底した真相解明に向けて全力をそそぐ,もし,開催するのであればNHKの中継はやるべし,そして大相撲とはなにかという問題提起をすべし,という意見だった。それが,全部あべこべになってしまった。これではますます疑惑が深まるばかりで,お先真っ暗になる,と考えていた。ほぼ,予想どおりの展開になっていて,いささか恐ろしいほどである。
 唯一,今場所の救いの神は,白鵬の活躍だった。まるで,人が変わったかとおもわれるほどの,最後の記者会見の話ぶりに,弱冠25歳の,モンゴルからやってきた若者の姿はどこにもみられなかった。その落ち着き,もの言い,内容(責任感)・・・・完璧である。これで日本の大相撲は持ち直す,そのための重要なきっかけをつかんだ,とおもった。あとは,いま起きている疑惑をどこまですっきりさせることができるか,それだけだ。
 そして,このブログで書いておきたいことは以下のことだ。
 「天皇賜杯を目標にこれまで努力してきた。それなのに,それがいただけないとは・・・・」という趣旨の発言が,わたしの胸にグサッと刺さった。そして,その悔しさが「涙」となった。こんにちの平均的日本人の感覚からすれば,天皇賜杯などもらえなくたって,優勝に変わりはないし,大記録樹立の称賛をえたし,文句ないではないか,というところであろう。しかし,白鵬は違った。かれは「儀礼」の重みを,おそらく,からだで知っているのである。優勝の最高の栄誉を讃える「天皇賜杯」を土俵上で授与されることの意味を,全身全霊でわかっているのである。ただ,優勝すればそれでいい,というのではなくて,それをきちんと「カタチ」にすること,つまり「儀礼」を執り行うこと,このことによって「優勝」の意味を日本全国のファンはおろか,モンゴルの熱烈なファンたち,そして,世界の大相撲ファンの「網膜」にしっかりと刻み込むこと,そして,それを感動とともに記憶のなかに定着させること,そのことの重要さを知っていたのである。
 戦後民主主義によって展開された「生活合理化運動」によって,日本の伝統的な「儀礼」の多くが,意図的・計画的に廃止されていった。それでも,いくつかは生き残っている。しかし,それらもまた「形骸化」してしまい,本来の意味を失ってしまっている。いまでも,そんな形式的なことは止めましょう,という意見の方が主流であろう。しかし,それでも完全になくなることはない。なぜなら,それなりに意味をもっていることを知っている人たちがいるからである。むしろ,ある世界では,近年,少しずつ復活しつつあるとも聞く。その功罪をいまは問わない。
 大相撲という,わたしの眼からすれば,典型的な伝統芸能だからこそ,千秋楽の賜杯授与の「儀礼」のもつ意味は限りなく重いのだ。この「儀礼」をとりやめにするというのなら,最初から名古屋場所を開催すべきではなっかた。この「儀礼」が執り行われることによって,大相撲はめでたく千秋楽となるのである。こういう判断すら,いまの日本相撲協会をとりまく,暫定執行部すらできないのである。その「奇怪しさ」「不可解さ」を,なんと,モンゴルからやってきた大横綱・白鵬の「涙」が教えてくれたのである。白鵬をモンゴル人とおもってはいけない。現代のわたしたちよりも,はるかに多くの古き日本人の「古層」に触れるハートをもっている人,それが白鵬なのである。
 混迷をきわめる大相撲を救済するために急遽,招集された「外部役員」のみなさん。この白鵬の「涙」をしっかりと受け止めて,ことに臨んでいただきたい。大相撲の長年にわたる熱烈なるファンのひとりとして,お願いである。これまでの報道をみる限りでは,「外部役員」のみなさん,と言っては言い過ぎならば,ほとんどのみなさんは,どこか腰が引けていて,「雇われマダム」のようにしか見えない。まるで,アルバイトか,パートタイマーのようにみえる。理事長代行ですら,場所中に,仕事があるからといって東京にもどったという報道があった。そんなに大事な仕事をもっているのなら,理事長代行などという重責を引き受けるべきではない。なんという「無責任」なことか。ことほど左様に,多くの「外部役員」のみなさんも,どこかにそんな意識が流れてはいないか。現に,何回も委員会を招集しようとしても,メンバーが集まらない,という。これでは,お先,真っ暗としかいいようがない。しかし,これが日本のリーダーたちの実態なのかもしれない。もう一度,言っておく。政界も財界も学界もふくめて,「無責任」という病に犯されつつある。
 そんな中での白鵬の「涙」である。わたしには,あまりに「重い」。そして,「痛い」。わが身をふり返りながら,こころの底から反省したいとおもう。わたしも,そういう駄目人間の一角を担っているのだから。

2010年7月25日日曜日

『物質的恍惚』を読みはじめる。

 ル・クレジオが27歳のときに書いたといわれる『物質的恍惚』(豊崎光一訳,岩波文庫)を読みはじめる。なんともはや,驚きの連続である。
 まずは巻末に収められている今福さんの解説「ル・クレジオの王国を統べるもの」が抜群で,ちょっとものが申せない,という状態である。この部分だけで立派な独立した読物になっていて,40ページ余に及ぶ。濃密な文体で,今福節がうなる。しかも,心地よい。こういう解説が書けるということ事態が脅威である。この部分は,何回も熟読玩味してから,そして,自分なりのことばで語れるようになったところで,このブログでもとりあげてみたいとおもう。
 今回は,その前に,このテクストの冒頭にかかげられた「物質的恍惚」ということについて,考えてみたい。全体は三部構成になっていて,第一部に相当するのが「物質的恍惚」,第二部が「無限に中ぐらいのもの」,第三部が「沈黙」という具合。で,なにが驚いたかといえば,第一部の「物質的恍惚」は,ル・クレジオがこの世に生まれてくる前のイメージを語っていること,そして,第二部の「無限に中ぐらいのもの」では,生きるということはどういうものであるのか,ということについてさまざまな角度から分析・考察し,第三部の「沈黙」は,死後の世界を取り扱う。つまり,「誕生前」「生前」「死後」を語っているのである。しかも,27歳という若さで。
 まだ,全部を読み切っているわけではないので,及び腰で語るしかないが,ル・クレジオの考える「人間とはなにか」の総体的なイメージが微に入り細にわたり描かれているようにおもう。そして,もし,そうだとしたら,ル・クレジオは,この世に生きている間だけが「人間」なのではなくて,誕生以前も,死後も,全部ひっくるめて「人間」である,と考えているようだ。こういう発想をル・クレジオはどこから身につけたのか,それが知りたいところ。この点については,今福さんはあまり強い関心を示そうとはしない。(ひょっとしたら,わたしが読み取れないでいるのかもしれない)。
 で,「誕生前」を扱った第一部「物質的恍惚」というタイトルである。(これが書名タイトルにもなっているわけだが・・・)。この意味が不明というか,不思議である。最初にこの本を書店で手にとったとき,いったいこの本はなんの本なのだろうか,と考えた。まず,ふつうに「小説」なのだろうなぁ,と。しかし,どんな小説なのかがまったくイメージがわかない。で,あちこち拾い読みをしてみて,驚いた。これはなんという世界を描いた本なのか,と。
 第一に「物質的恍惚」とはなにごとか,と。意味不明である。物質が恍惚になるわけがない。あるいは,物質のように恍惚,と読み替えてもなんのことかわからない。かなりしつこく第一部の部分を読み込んでみて,なるほど,と合点がいく。それは,まさに,ル・クレジオ自身が生まれる前のイメージをひとことで言い表すとすれば「物質的恍惚」ということになるのか,と。人間がヒトであった時代には,「内在性」の中に生きていたといわれる,その「内在性」に生きるイメージですら,相当に頭を柔軟にしないと理解不能である。ましてや,自分の誕生以前のイメージを,ル・クレジオは語ろうとしているのである。しかも,そこから自己という存在のはじまりを見届けようとしているかのように。自己のはじまりは,時間も空間も超越してしまって,単なる「物質」として,しかも,あらゆる物質の中を自在に行き来しながら浮游していた,あるいは,あらゆる物質の内・外に関係なく遍在していた,とル・クレジオは考えているかのようである。
 でも,それにしても「物質的恍惚」とは? じっとにらめっこしながら考える。はたして,自己の誕生以前は「恍惚」なのであろうか,と。フランス語の原語を確認してみると,バタイユと同じ「extase」(エクスターズ)である。だから,「恍惚」でいいのである。しかし,・・・とまた考える。エクスターズは,「バタイユの恍惚」としてあまりに知られているので,ここでも「恍惚」と訳出したのであろうが,「物質的恍惚」の内容をよくよく読んでみると,「バタイユの恍惚」につながるようなイメージはどこにもない。だとしたら,これは意味が違うことになる。で,はたと気づくのは,哲学用語の訳語にある「脱存」「脱自」の方が近いのでは・・・と。しかし,「脱自」は,自己が存在しているのに不在となることを意味するので,この訳語ははまらない。で,ゆきついたのは「脱存」である。自己の存在が最初から不在と考えれば,まさに,自己の誕生前を表現するにはぴったりではないか,と。
 で,行き着いたのが「物質的脱存」。それでも,どこか変だ。でも,「物質的恍惚」よりは,いくらかイメージは近いようにおもう。それにしても,ル・クレジオは誕生以前の自己のイメージをこのようなことばで表現しようとしたのか。まだまだ,疑問は多い。
 そう思いながら,眼を皿のようにして「物質的恍惚」の章を読み込んでいく。すると,意外なことがわたしの頭のなかにひらめいた。それは,「父母未生以前の本来の面目」という禅問答の公案である。両親が生まれる前のお前の存在はいかに,というのである。公案であるから正解はないのだが,応答の仕方は相当に工夫をしないことには相手にしてもらえない。ひょっとしたら,ル・クレジオは,禅のこの公案を知っていたのではなかろうか,と。そう考えながら,さらに読み進めていくと,これは仏教的世界ではないか,とおもわれる説明がいくつもでてくる。(一にして多であるこの世界)(生きること,それは死んであることであり,そして死は生きているのである)など。しかも,相当に日本通である。(ミゾクチの作品は・・・)(「ミゾクチ」の名前が何回も登場する)
 ひょっとしたら,この公案への応答として,この「物質的恍惚」を読むことも可能なのではないか,と考えたりしながら読み進む。だとしたら,ここの訳語は「物質的恍惚」がぴったりである。西田幾多郎を引き合いに出すまでもなく「絶対矛盾的自己同一」の世界を,この「物質的恍惚」は言い当てている,と読むこともできるからだ。しかも,死と再生のテーマを輪廻転生的に語っているのではないか,と読み取れる部分も少なくない。
 ル・クレジオが,27歳にして,このような発想をもっていたとすれば,それから4年後に『悪魔祓い』を刊行するのも,わたしのなかではまことにすんなりと納得できてしまう。
 さて,この本を最後まで読み切ったとき,わたしはいったいどのような感想をもつことになるのだろうか。いまから楽しみである。
 なお,今福さんの解説のところには,ル・クレジオに関して,びっくり仰天するような話がでてくる。この問題についても,意識しながら,このテクストを読み進めていきたいと考えている。大変な本との出会いである。困ったものだ。が,楽しみでもある。久しぶりに味わうドキドキ感である。読書の醍醐味。
 

2010年7月24日土曜日

「1日1万5000歩」子どもは歩こう・・・・だって?!

 昨日の朝日の夕刊に,こんな見出しの記事が載っていた。そして,「体力低下に危機感」都教委,歩数計配る,という小見出しがつづく。
 記事を読んで,唖然としてしまった。子どもたちに歩数計を持たせれば,歩数が増えるだろう,その結果,体力低下を防止できるだろう,という考えのなんといういい加減さ。都教委というところは,この程度のことしか考えられないのか,と。あまりの情けなさに涙もちょちょ切れてしまいそう。あきれ返ってものも言えないとはこういうことだ。
 都教委が考えることはこんな程度。同じように,横綱審議委員会も似たようなもの。そして,新しく設置された特別調査委員会も,みていると同じようなもの。自分たちで考えることはほとんどできない。NHKの大相撲放送中止も同じ。世の中の声に右往左往した結果の保身の術でしかない。みんな,思考停止。お相撲さんは,特殊な社会にいて世の中の常識をわきまえない,というのが通り相場になっているようだが,はたしてそうだろうか。小中学校からずっと優等生で,大学も一流大学に進学して,一流企業に就職した人間もまた「世の中」をほとんど知らない。優等生を演ずることはできても,世の中の困難を克服するための智慧を生み出せる人は少ない。ましてや,その困難を克服するためにからだを張って実行できる人はもっと少ない。それは,優等生だけではない。ふつうの成績をとってきた人も,成績の悪かった人も,みんな同じだ。簡単に言ってしまえば,みんな自己保身しか考えない。自己中心主義,だ。自分本位。
 いま,街中を歩いていても,電車に乗っても,よくみかけるのは「ベビー・カー」に乗った比較的大きな子ども。もう立派に歩ける,しかも駆けだしたら母親よりも早いかもしれないほどに成長している子どもが,ふんぞりかえって「ベビー・カー」に坐っている。なぜか。親しいご婦人に聞いてみたことがある。その答えがなんと,「うろちょろされるより世話がないから」という。なるほど,ベビー・カーに閉じ込めておけば,母親は自分の思うままに歩くことができる。子どもがうろちょろ歩き回られたら,つねに監視し,注意を向けていなくてはならない。それが大変だから,というのだ。この気持ち,わからないわけではない。
 つまり,街中も電車のなかも,小さな子どもを寄せつけない,ある種の圧力がかかっている。小さな子どもたちが,うろちょろ動きまわると,まわりの大人たちは一様に不快な表情を浮かべる。ときには母親が叱りつけられている。こうなったら,ベビー・カーに縛りつけておく方が気が楽だ。子どもも慣れたもので,黙ってふんぞりかえって,まわりの景色をうつろな眼でぼんやり眺めている。生き生きとした眼とはほど遠い。それはそうだ。自分で判断して行動する必要がないのだから。丸抱えの受け身。なにも考える必要がない。
 「思考停止」の原因の一つはここからはじまる(じつは,もっと深い根があるのだが,その話はまたの機会にする)。つまり,子どもは,自分の判断で,あるいは,自分の興味にしたがって,うろちょろ動いてはいけない,と早い時期からしつけられる。幼稚園や小学校でも,きちんと椅子に坐っている子がいい子。こういう子はたぶんベビー・カーでしっかりとしつけられた子に違いない。そうでない子は,教室に入ってもうろちょろ動きまわる。先生は困り果てて,「多動性症候群」なる病名まで発明して,みずからを納得させる。
 これは根本が違う。「多動性症候群」というレッテルを貼られる子どもの方がむしろ「健全」そのものであって,じっとして動かない子の方が危ない,とわたしは考えている。少なくとも,わたしの子ども時代を考えればそうだ。みんなじっとしてなんかいなかった。先生たちは苦労しながら,いかに授業を面白いものにするかと智慧をしぼっていた。そして,いい授業が展開されるとみんなおとなしくなった。こうして先生と生徒の信頼関係はおのずから構築されていたようにおもう。もちろん,力が抑えつけようと必死になった先生もいた。表面的にはうまくいっているようでいて,生徒たちはみんな裏で舌を出していた。
 子どもは,うろちょろ動く。興味のあるものが眼に入れば,かならずそこに近づく。そして,そこから緊張の時間がはじまる。真剣そのものの時間が。そのむかし『人生で大事なことはみんな幼稚園の砂場で学んだ』というベストセラーがあった。先生や親から教えてもらうことも多い。しかし,人生に役立つ智慧の多くは,子どもどうしの遊びのなかで学ぶ。この子どもどうしの遊びの「時間」や「空間」を奪ってしまったのはだれなのか。
 子どもたちは,快適な場所を与えられれば,放っておいても「動き回る」。歩数などに関係なく動く。面白い遊びをわがものとすることのできる「空間」「時間」をまずは確保すること,都教委の考えることは,まずは,ここからだろう。この問題には眼をつむり,歩く歩数を数えさせよう,というのだ。大人たちが,健康のために歩きましょうといって歩数計で計りながら歩くことを,子どもたちにやらせよう,というのだ。わたしに言わせれば,歩数計を腰につけて手を大きく振って歩いている大人は,基本のところで狂っているとおもう。つまり,健康のために歩く,この発想がまずは大間違いなのだ。別に歩かなくても健康は保持・増進することができる。その智慧も持ち合わせない人間こそが問題なのだ。なにかといえば,マニュアル。偉い先生が推奨しているから,それをする。完璧なる「思考停止」。諸悪の根源はここにある。
 一人ひとり,大人も子どもも,身長も体重も,食事も睡眠時間も,労働内容も,みんな違う。それをみんな平均値に置き直して「1日1万5000歩」歩こう,と子どもに呼びかける都教委の発想のお粗末さ。いま,一番必要なのは,好きなことに熱中することのできる「時間」と「空間」を確保することだ。そのための智慧を発揮するところの一つが都教委ではないか。もっと画期的な提案をしてみたらどうか。
 たとえば,サマー・タイムの導入。わたしたちの子ども時代にはこれがあった。そして,夜9時すぎまで明るかったことを覚えている。夕食を済ませてから,学校の運動場に集まって,その日,二回目の野球の試合をしたものだ。最後は,ボールがよく見えなくなってきて,石灰を塗って見えるようにしたこともある。このころの子どもたちは,一日にどれほど動きまわっていたことだろう。ただ,食べ物が充分ではなかったので,やたら空腹であったことも忘れられない想い出である。
 もっと,みんなで智慧を出し合って,大人も子どもも,どうすれば運動不足を解消することができるか,できるところから試行錯誤的に展開してみたらどうか。そのためには,もっともっと,頭を使おうではないか。理性的にものごとを考えるということは,こういうところからはじめるべきなのだ。すなわち,生きものの要請に応える理性の復権を。
 ああ,Nさんの顔が浮かんできた。

 

2010年7月22日木曜日

マルチン・ブーバーの「対話」について

 これまで何回もとりあげてきたテクスト『我と汝・対話』(植田重雄訳,岩波文庫)の後半部分に収められている「対話」について,少しだけ触れておきたい。
 有名な「夢」の話からはじまる。ブーバーはみずからの体験として,自分のみる夢,それもくりかえしみるおなじみの夢のなかで,なにか遠いところから聞こえてくる人間の声でもない,動物が吠えているような,得体のしれないものの発する「音」を聞く。その不思議な「音」に対して,夢のなかでははっきりと意識して「応答」している自分がいる。その「応答」も,なんだかわけのわからない「叫び」だという。しかも,全力をあげて大きく長く「叫ぶ」のだという。すると,また,どこか遠いところから,意味不明な「音」が聞こえてくる。それを何回もくり返す。ここでは明らかに「対話」が成立している,と。
 ブーバーはこれを「原初的記憶」と名づけて,なぜ,こんなことが起こるのかとみずからに問う。しかし,あるときから二度と,この「野獣の夢」をみなくなる。最後にこの夢をみたときには,「わたしの叫びの声が消え,再び心臓が静かに止まった。しかしそのあとに静寂のままで,応答の叫びはおこらなかった」と書いている。このことがきっかけとなって,ブーバーは,それまで聴覚にたよって外部の情報をえることしか考えていなかったが,それ以後,からだ全体をつかって,つまり,あらゆる感覚器官を総動員することを覚えたという。そのとき以来,わたしのからだは「開かれた」状態になった,と。すると,こんどは「遠くからではなく,わたしの身近なまわりの大気から,声とはならない応答がやってくるようになった」と。
 このあたりが,どうやら,ブーバーのいう「われとなんじ」(Ich und Du)の原風景なのかなぁ,と想像している。つまり,日常のなかでごくふつうに起こる「ぼくときみ」ではない,大文字の「Ich」と「Du」の関係が成立する原点を指し示しているのだろう,と。夢のなかでなにかに「呼びかけ」られ,それに「応答」する「わたし」は,明らかに日常の「わたし」とはまったくの別人である。つまり,意識が立ち上がる以前に,なにものかから「呼びかけ」があって,それに対して,自分でもわけのわからない「叫び」(応答)を発する,これはある意味では,自他の区別もあいまいなままの状態での「対話」の始原としか言いようがないだろう。だから,ブーバーは「原初的記憶」という言い方をしているのだろう。
 そこを通過すると,つぎには(これはあくまでブーバーの個人的体験に限定されるが),身近なまわりの大気から,夢のなかでよりはやや明確な「呼びかけ」があり,それに対して「応答」しているわたしがいる。このわたしは,わたしであってわたしではない。つまり,わたしではないわたしの出現である。すなわち,大文字の「Ich」=「われ」である。言ってしまえば,自然の声を聞き,それに応答するわたしは,日常のわたしではない。同時に,「呼びかけ」をしてくる自然もまた,たんなる自然ではない。こうして他者のなかでも他者にあらざる他者が誕生する。ここが「なんじ」=「Du」の「場」となる。
 こういう「われとなんじ」が成立する「場」があって,はじめて「対話」が成立することになるのだろう。この夢の話のつぎに登場してくるテーマが「沈黙が伝えるもの」である。ここでは,たまたま出会った二人の男性が,ベンチに並んで座り,ひとこともことばを交わさないでいる。ひたすら,お互いに沈黙を守ったままでいる。にもかかわらず,一人の男のなかで,突然,自分を拘束していた呪縛が解消してしまうということが起きる。「それがどこから生起したかは問わない。とにかく突如として起こった。しかし彼は今や彼自身だけが支配する力をもっていく一つの隔意を自ら止めてしまうのである。すると彼から隔意なく伝達が流れ出,沈黙がこの伝達を隣りにいる男にもたらすのである。この伝達はこの男に向けられたのであり,すべての真の運命の出合いにたいしてこの男がいつもするように,この伝達を隔意なく受け取るのである。」
 愛し合う恋人同士でもない,信仰を共有する二人の宗教者でもない,たまたまゆきずりの男二人が沈黙の時間をすごす。そうして,このような「伝達が流れ出」て,その伝達を「隔意なく受け取る」ということが起こる。ブーバーは「対話」にことばも身振りも,なにもいらない,という。必要なのは,自分をがんじがらめにしている呪縛を解き放つことだ,と。つまり,精神的にも身体的にも,まったくの自由を確保すること,そうすれば「隔意」がなくなる,あとはなるがままに・・・,という具合である。
 このようにして,ブーバーは「宗教の対話」を語り,つぎのような「問題提起」を行っている。引用しておくので,熟読玩味のほどを。
 対話的なものは,人間相互の交わりに制限されない。すでにそれはわれわれに例示されたごとく,相互に人間が向かい合う態度である。ただ人間の交わりにおいて,じつにこれがよく表わされているにすぎない。
 したがって,会話や伝達がおこなわれなくとも,対話的なものの成り立つ最低条件には,内面的行為の相互性が,意味上分離しがたい要素となっているようである。対話によって結ばれている二人の人間は,明らかに相互に相手の方に向かい合っていることでなければならぬ,それゆえ,──どの程度,活動的であったか,どの程度活動性の意識があったかということはとにかくとして──向かい合い心がそこに立ち帰るということでなくてはならない。
 このブーバーの主張をどのように読むかは自由である。わたしは不遜にも,この引用文を読みながら,じつは,スポーツの成立要件のことを考えている。スポーツは「対話」ではないか,と。そこでの「対話」はいかなる特徴(特質)をもっているのか,と。本気である。

2010年7月21日水曜日

『アマゾン』民族・征服・環境の歴史,の紹介。

 ジョン・ヘミング著,国本伊代+国本和孝訳『アマゾン』民族・征服・環境の歴史,東洋書林,2010年5月刊。
 新聞広告をみた瞬間から食指が動いた。でも,いま,この本に手を出すわけにはいかない。それまでに片づけなくてはならない仕事が山ほどある。それらの仕事に一区切りついたら,この本を買おうと決めた。そうしたら,なんと,この本がプレゼントとしてとどいたのである。念ずれば通ず,というが驚いた。しかし,まだ,読むだけの余裕はない。それでも気になって仕方がないので,パラパラめくってみる。これがいけなかった。いつのまにか読みはじめてしまっているのである。気持ちが向かっているときというのはそういうものなのだ。とにかく面白そうなところから,あちこちとぱしながら,拾い読みをする。
 まず,書名のつけ方がうまい。原著は「Tree of Rivers, The Story of The Amazon」。直訳すれば『川たちの樹,アマゾン川の話』となる。なんのことだろうか,とおもう。しかし,訳者と編集者の智恵は,これを『アマゾン』民族・征服・環境の歴史,という書名にいたりつく。この書名だったから,わたしは新聞広告をみて素早く反応したのだとおもう。もし,直訳のような書名だったら,「この本はなんだろうなぁ」と想像するだけで通過してしまっただろう。翻訳とはこういうことなのだろう,と以前から考えていたので,まさに諾うべしである。
 アマゾン・・・世界一の川にして,その周囲はジャングル。そのほとんどは原始の状態のまま,人びとはその大自然と折り合いをつけながら生を営んでいる。最近では,この大自然に「開発」という名の暴力が襲いかかり,密林がつぎつぎに消えていく,という。この程度の知識しか,残念ながら持ち合わせてはいない。しかし,不思議なことに,最近になって,わたし自身の問題意識が大きく変化しはじめてきて,そのことと連動して「アマゾン」ということばに敏感に反応するようになった。それは,「ヒトが人間になる」ということはどういうことだったのか。そのとき,なにが起こったのか。ヒトは大自然の内在性のなかに生きていたのに,なぜ,その内在性に生きる道を捨てて,その<外>にでてきてしまったのか。このときから,ヒトの大脳新皮質には大きな革命が起きた。つまり,ヒトから人間になるとは,自分の頭脳で「考える」ということをはじめたことを意味する。
 そのきっかけとなったのは「有用性」だとバタイユはいう。その「有用性」は,はじめは,人間としての「生きもの」の要請に応えることが中核にあったはずである。しかしながら,人間は徐々にその「有用性」にさまざまな「過剰な」「価値」を賦与しはじめる。そのきっかけはなにであったのか。狩猟・採集から,しだいに動物の飼育や,植物の栽培へと,「生きもの」としての要請は拡大していく。それとともに,狩猟・採集時代の「祝祭」とは異なる飼育・栽培時代の「祝祭」へと変化・変容していく。このとき,「スポーツ的なるもの」が,どのようにして発生してくるのか。かんたんに言ってしまえば,こんなことを考えはじめている。
 だから,「アマゾン」のひとことで,わたしの眼は一気に惹きつけられてしまったのだ。おまけに,「民族・征服・環境の歴史」というサブ・タイトルが,さらに追い打ちをかける。ちょうど来年の秋には「グローバリゼーションと伝統スポーツ」という国際シンポジウム(第二回日本・バスク国際セミナー)が控えている。そこでの基調講演も依頼されている。全部で三日間にわたる議論を,どのように仕掛けて,少しでも実り多いものにするにはどうしたらいいか,徐々に切実な問題になりつつある。すでに,何回もこの準備のための組織委員会も開催されている。
 とりわけ,「グローバリゼーション」ということばが,勝手に一人歩きをしていて,どうも「空中戦」に流れてしまい,その実態がみえにくくなっている。とくに,「グローバリゼーションとスポーツ」といったときの具体的なイメージが湧いてこない。もちろん,すでに,多くの議論があることは承知している。しかし,どこか空々しいのである。そうではなくて,もっと地に足のついた,実際に生きている人間にとって「グローバリゼーションとスポーツ」の問題がどのようにかかわっているのか,ということを考えたいのである。そのためのアンテナを張っていたところに,この本の広告が眼に入った。だから,その瞬間に「これだ」とおもった。
 その直感は間違ってはいなかった。この本を手にとり,まず,帯を読む。そこにはこうある。
 この川は私たちの未来なのだ! 自然の魅力と脆弱性,そして人間の先取の精神と飽くなき欲望・・・世界最大の熱帯雨林地帯は,すべてを呑み込みながら今日も息吹き,「地球の肺」として営為を続けている。先住民史研究の第一人者たる著者が,大航海時代に「発見」された先住民とヨーロッパ人との酷薄なかかわりから,近代化と産業化が自然に与え続けている影響までを語り,21世紀の世界の行く先を明示する。
 これで,わたしの予感は一気にふくらむ。すぐに,目次にいく。
 いきなり「第6章 ゴム・ブーム」と「第7章 ゴムの暗黒面」が眼に飛び込んでくる。すぐに,ここから読みはじめてしまう。だが,いまはそれをしているときではない,ともう一人のわたしが止めに入る。そんなことを何日かにわたってくりかえしているうちに,この二つの章は読んでしまう。断るまでもなく,ゴムは近代スポーツの展開にとっては不可欠の存在である。ゴムを製造・加工する技術と近代スポーツの進展とはパラレルである。このゴムの原材料を収集するために,先住民がどれほど過酷な労働を強いられ(それはまさに奴隷そのものであった),一日のノルマを果たせなかった人びとは「死の鞭打ち」刑に処せられた,という。近代スポーツのグローバリゼーションの負の側面がこうして浮き彫りになってくる。この話を書きはじめたら止まらなくなってしまう。あとは,それぞれの興味・関心に合わせて読んでいただくとしよう。
 つぎに,わたしの眼を惹きつけたのは「第10章 飛行機,チェーンソー,そしてブルドーザー」である。ここには,ヨーロッパ人がこの地に踏み込んでからこんにちにいたる500年の間に,なにが起こったのか,恐るべき事実が浮き彫りにされている。たとえば,最初の450年の間に起きたことは,ヨーロッパ人が先住民を徹底的に搾取したこと,そして,ヨーロッパ人の強欲が無制限に「暴力化」し先住民の人口を激減させたこと,だという。そして,この間はアマゾンの自然破壊はほとんどなかった,という。残りの,わずか50年の間に,技術革新とも相まって,恐るべきスピードで熱帯雨林が破壊されつづけているのだ,という。
 このことと,わたしたちの日々の生活は無縁ではない。この地で伐採された木材が日本に大量に輸入されていることは,もはや知らぬ人はいまい。しかし,日本人移住者がブラジルに持ち込んだ大豆の栽培が,密林を広大な畑地に変えてしまった,という事実や,カラジャス鉄鉱山の開発に日本もその一旦をになっていること,そして,その実態がいかなるものであるのかを知ることの衝撃は,いかんともしがたいものがある。わたしたちは,なにもしていないつもりでいる(日々の日常生活はそのように進行している)が,立派に地球の環境破壊に貢献していることを肝に銘ずるべしである。
 というような次第で,この話もエンドレスになってしまう。あとは,どうぞ,みなさん読んでみての感想などお聞かせください。大脳の新皮質の皮が一皮剥ける覚悟で読んでみてください。ひとまず,ここまで。

2010年7月20日火曜日

虚実皮膜の間(あわい)に漂うもの

 近松門左衛門は,芸は「虚実皮膜の間」にある,と言ったそうだ。皮膜とは「ヒニク」とも読むそうなので,「皮肉」,つまり皮と肉の「間」にある,ということでもある。
 それがやがて敷衍して,「事実と虚構との中間に芸術の真実がある」とする論になっていったという。事実と虚構との中間,といわれてもわたしのような人間は困ってしまう。
 虚と実,皮と膜,皮と肉,事実と虚構,とならべてみるとますますわからなくなってしまう。近松のいう「芸」とか,一般論としての「芸術」とかも,そもそもはよくわからないことの代表と言ってもいいのだろう。いいようがないので,わかったようなわからないような,相手を煙に巻くような説明になってしまうのだろう。しかし,近松にとっては「虚実皮膜の間」こそがもっともぴったりの表現で,本人にとってはこれ以上の表現はないのだろう。また,いわゆる芸術家とよばれる人びとにとっても「事実と虚構との中間」が,もっとも適切な表現なのであろう。わからないのは,わたしのような凡人だけなのかもしれない。
 それでは悔しいので,あえてわかったふりをしてみると,つぎのような調子である。上の表現のなかでは,わたしにとっては「皮と肉」が一番わかりやすい。鶏肉を思い浮かべて,あの皮と肉と考えれば,ああなるほどとなる。人間の皮もはがすことができるそうで,アウシュヴィッツに収容された人びとの皮を剥いでつくったというハンドバッグ(なかには入れ墨入りのものもあった)というものを写真でみたことがある。しかし,わからないのはその皮と肉との「間」に「芸」が存在するということの意味である。皮と肉との「間」というのは概念としては存在しても,実際には密接していて「間」は存在しない。
 つまり,「芸」とは概念の問題であって,そら,これが「芸」だ,といって指し示すことができるものではない,ということだ。しかも,わかるものにはわかる,しかし,わからないものにはいくら説明してもわからない,そういうものなのだ。芸術も同じだ。そういう比喩として考えればいいのだろう。皮膜の「皮」と「膜」にいたっては,ますますその「間」なるものは複雑怪奇になってしまう。皮も細胞で成り立っている以上,細胞の一つひとつが「膜」(細胞膜)でつつまれている。だから,一つひとつの細胞に分けてしまうと皮は存在しなくなってしまう。
 ここまでくると,なるほど,近松の言った「芸」とはそういうものか,ということがよくわかる。ついでに言っておけば,虚と実も,厳密にいえば分類不能な概念にすぎない。虚と実の境目には厳密な線をひくことは不可能である。虚と実はどこかでオーバーラップしているところがある。それは,事実と虚構も同じである。どちらかといえば虚構の方がわかりやすい。だれかが勝手にでっちあげた「つくりもの」という意味ではわかりやすい。しかし,この「つくりもの」も,見方が変わると「事実」に翻転することがある。虚構にくらべれば,事実の方がわけがわからない。事実とはなにか。だれが,どのようにして実証するのか。事実ほど不思議なものはない。人間が生きていく上で,事実とはなにか。事実も虚構にみえることもあるし,虚構が事実にみえることもしばしばである。優れた役者の流す涙などは,演技なのか事実なのか,そんなことはどうでもいいことだ。しかし,ここに「芸」が潜んでいるのだ,といわれるとよくわかる。
 なぜ,こんなことにこだわっているのか。すでに,おわかりのように,わたしの頭のなかにはマルチン・ブーバーの「我と汝」の「間」(あいだ)の問題がある。正直に白状しておこう。厳密にいうと,わたしにはマルチン・ブーバーのいう「われ」も「なんじ」もよくわからないのである。「われ」をどのように定位すればいいのか,大文字の「ICH」が含意するものはなにか。もう少し踏み込んでおけば,わたしには「わたし」がわからない。わたしが自分でおもっている「わたし」と,わたしの目の前に向き合っている人がわたしをみている「わたし」とはまるで違う。おそらく,どちらの「わたし」も正しくて間違っているのだろう。つまり「わたし」に正解はないのである。これと裏返しになったものが「なんじ」である。
 つまり,「わたし」も「あなた」も,いい意味での誤解のなかに生きているのである。つまり,日常のなかの「わたし」と「あなた」とは,美しい誤解のもとで「恋」をしたり,「愛」を育んだり,「友情」で結ばれたりしている。(これは「虚構」以外のなにものでもない,とわたしは考えているのだが・・・。となると,「事実」とはなにか。この問題系は別に問いを立てて考えてみたいとおもう)。そうした日常性を切り離して,「われ」と「なんじ」という「場」を設定し,素で「向かい合う」こと,そういうステージに立つこと,そのためには「ICH UND DU」という関係を意図的に立ち上げなくてはならないのだろう。こうして,過去の個人情報もなにもなしに,素で「向き合う」「われ」と「なんじ」の間には,一瞬とはいえ,時間も空間もなくなるのだろう。その瞬間にこそ「じか」が立ち現れる可能性が開かれているのだろう。
 この「じか」が立ち現れる「場」が,「なんじ」と「われ」の「間」であり,その「じか」が立ち現れる瞬間こそが「真の実在」である,とブーバーはいう。「真の実在」は「ICH UND DU」の関係性のなかでしか生まれない,とブーバーはいうのである。そして,「われ」と「永遠のなんじ」とが「じか」に触れ合うとき,神との合一体験が起こる,と。この世界はまさに「ユダヤ・キリスト教」的な教理に支えられている,とわたしは考える。
 このように書きながら,わたしはいま,西田幾多郎の「場所的自己」のことを考えている。西田は,自他未分化の状態で見たり,聞いたりする経験のことを「純粋経験」(ジェームズをヒントにして)と名づけた。こうした「純粋経験」こそが真の「実在」であると考えた。西田の背景には,断るまでもなく禅の思想がある。西田は,無念無想の自己のことを「場所的自己」と哲学的に定義し,「絶対無」を通過することによって「絶対矛盾的自己同一」に到達する,と考えた。
 この禅的世界を「自己」と「真の自己」との一体化のプロセスと,さらに「絶対無」を通過したのちに開かれる「遊戯三昧」の世界を描いてみせたものが「十牛図」である。第十図(最後にして最初)にいたって,初めて「自己」以外の「他者」が現れ,「お前はだれか?」と聞かれる。「どこからきて,どこに行くのか?」と問われる。ここで,初めて,マルチン・ブーバーのいう「ICH UND DU」の関係が,禅の世界で明示されている。しかも,これがゴールにしてスタートである。ただし,遊戯三昧の心境・境地でのスタートである。このさきに待っているのは,良寛さんの旅であり,山頭火の旅である。
 「われ」と「なんじ」も,「自己」と「真の自己」も,いうなれば「虚実皮膜の間」である。「じか」に触れる瞬間も,牛の背中に跨がり笛を吹いている境地も,「虚実皮膜の間」ということなのだろう。もし,こういうことであるのだとしたら,近松のいう「芸」も,一般論としての「芸術の真理」も,わたしなりに理解できないことはないのだが・・・・。

2010年7月19日月曜日

日本の教育現場は「我とそれ」(ICH UND ES)に占拠されてしまったのだろうか。

 今朝の朝日新聞に「いま,先生は」という特集記事の第一回目「孤立,命絶った教師」が掲載されている。読んでいて情けなくなってしまった。涙が止まらない。
 2004年9月,静岡県磐田市の市立小学校に採用されて半年後,24歳の女性教師は絶望の果てにみずからの命を絶った,という。わずか半年である。
 この女性教師はこどものころから先生が大好きで,教師になることを夢見ていたという。いい教師になるためにといって,学生時代からボランティア活動に取り組み,東南アジアのストリートチルドレンの支援にかかわったこともある,という。新任教師になってからの半年間の記録は,担任としての実践記録や友人に送ったメールや親との会話で,ほぼ,全体像が把握できている。
 その主なものを転載してみると以下のとおり。
 4月1日 とても緊張した。責任の重さを感じると同時に,子どもたちを愛していこう,全力を尽くそうと心に誓った。
 5月7日 いじわるをされ仕返しがこわくて何も言えない子や,円形脱毛症になりかけている子がいると,家庭訪問した親の話をきいて初めて知った。
 5月31日 授業が下手だから・・・教室内の重い空気になんともいえない息苦しさを感じる。子どもを愛すること,できているのかな。
 7月17日 「悪いのは子どもじゃない,おまえだ。おまえの授業が悪いから荒れる──と言われ,生きる気力がなくなりそうに感じました。苦しくて。苦しくて。苦しくて。」(友人へのメール)
 9月28日 同じ教室にいてなんで止められないんだ,問題ばっかり起こしやがって,って言われた。何回も学年会で助けてほしいと言っているけど,言ったときに来るだけで後がないんだよ。(母親への訴え。死の前日)
 わたしはこの記事を読みながら,かつての奈良教育大学時代の教え子のH君の話をありありと思い出していた。熱血漢のかれは中学の体育教師として,大阪府の中学校に着任した。そして,陸上競技の部活に力をそそぐ。ちょうど梅雨どきだったように記憶する。深夜に,わたしのところにやってきて,相談がある,という。顔をみたら別人である。顔全体が腫れ上がって,眼のまわりは青痣だらけである。唇も切れていて,何カ所か絆創膏で止めてある。わたしの方がギョッとした。なにがあったのだろうか,と。
 H君の話を聞いたら,こういうことだった。学校では生徒たちとも楽しく授業ができているし,先生たちとも仲良くしている(かれの学生時代の人気ぶりからみても,そうだろうとわたしは確信する)。ある雨上がりの日の放課後,中学の卒業生がひとりオートバイに乗ってやってきて,運動場を走り回り,グランドをぐちゃぐちゃにしめじめた。あわてて飛び出していって,「こんなことをしてはいけない」と諭して,オートバイごと校門の外に追い出した。
 翌日の放課後,昨日の1人とその仲間の5人が徒党を組んで職員室になだれこんできて,H君を取り囲んだ。H君は,校長先生から,どんなことがあっても学校内で手を出してはいけない,と固く言い含められていた。なぜなら,H君は空手の有段者で,しかも関西地区で優勝した経験もあるからだ。校長先生の言うとおり,手を出さないで口で応答していたら,こんな風になった,という。職員室にはほぼ全員の先生方がいたという。しかし,だれ一人として助けてもくれなかったし,見て見ぬふりをしていた,という。校長さんは「よく我慢した」と褒めてくれた,という。H君は「冗談じゃない」と校長さんに食ってかかったという。こんどは,まわりの同僚の先生たちが止めに入った,と。そのあと,すぐに病院に行って手当てをしてもらい,家に帰っていろいろと相談をした。友人にも電話をして意見を聞いてみたという。みんな「手を出したらいけない」と言ったという。
 まず,なによりショックだったのは同僚の先生たちのとった態度だった,という。ふだんのあの親しげな同僚の先生たちが,あんな態度をとるとは信じられない,と。
 で,わたしへの相談とは,こうだった。あの卒業生たちは,雨が降ったら必ずオートバイでやってくる。そして,これみよがしにグランドを荒らすに違いない。もし,来たら,こんどは一人残らずなぐり倒してやる。そうすることがそんなに悪いことか,どうか,先生の意見を聞きたい,と。
 わたしは即座に答えた。やりなさい。ぼこぼこにやりなさい。でも,向こうが抵抗しなくなったら,黙って追い出しなさい,と。当然,そういうことが起これば大きな事件になるだろう。そして,裁判になるようなことがあったら,わたしも法廷に立とう。命懸けで応援してやる。それで君が首になるようなことがあったら,わたしも大学を辞する。そういう覚悟を決めたから,やりなさい。
 H君は涙を流しながら,わたしの手を握って,黙って頭を一つ下げて帰っていった。
 それから数日後,新聞の三面記事のトップにでかでかと大きな活字が躍っていた。「暴力体育教師,卒業生をめった打ち」。わたしは覚悟していたから,「やはり」と納得しながら冷静に記事を読んだ。そして,すぐに親に連絡をとった。必ず先生のところに相談に行くことになるとおもうので,よろしくお願いします,とのこと。
 それから,毎日のようにこの「事件」が報道された。しかし,活字がだんだん小さくなっていく。しかも,事実関係が明らかになるにしたがって,報道の表現が変化しだした。そして,いつのまにか,警察も新聞も味方につけてしまい,教育委員会だけが煮え切らない態度をとりつづけた。しばらくの間,H君は自宅謹慎だったが,生徒や親からの嘆願書,そして,かれの大学時代の同期の仲間たちからの嘆願書などが認められて,やがて,職場復帰した。生徒たちからは圧倒的な支持を受け,陸上競技部の生徒が100人を超えたという。しかも,陸上競技の練習は早朝練習のみ,放課後は勉強せよ,という指導方針。それでいて,やがて大阪府で総合優勝し,ついには全国大会でも総合優勝する陸上の名門校になった。
 いま,H君の本は本屋さんに平積みになって置かれている。H君の講演はどこもかしこも大入り満員。迫力のある話芸も相当なものだ。それは,みんな血の出る経験から磨きあげられた,H君の努力の賜物である。いまも,時折,H君とは会って話をすることがある。礼儀正しい,さわやかな青年の顔をしている。もう,いいおじさんのはずなのに・・・。
 ついに,残念なことに,わたしの出番は一度もなかった。それもまた,H君のこころにくいほどの神経のゆきとどいた配慮があったからだ。
 この「できごと」は,すでに30年ほど前の話である。
 いまは,もっと陰湿というべきか,個々ばらばらというべきか,自己中心主義の浸透というべきか,自己保存のためには手段を選ばずというべきか,周囲には人間はいなくて,いや,人間がいるのだが,それらはすべて「事物」と化してしまったというべきか。
 マルチン・ブーバーの言う「我と汝」(ICH UND DU)の関係が,ごくわずかしか残っておらず(それが,かろうじて教育現場を支えている),その大半は「我とそれ」(ICH UND ES)に占拠されてしまった,というべきか。
 このことは,なにも教育現場だけの話ではない。日本の社会全体がそういう隘路にはまり込んでしまっている,ということだ。教育現場はそのひとつの縮図にすぎない。企業も官僚も,そして,大学も,みんな同じだ。この問題をうまくクリアしている企業は優良企業としての実績を残しているし,官庁も,大学も同じ。いま一番熱心にこの問題に取り組んでいるのは,わたしが耳にするかぎりでは,優良私学である。経営者も教員も職員も一丸となって,この問題に取り組んでいる。そういう私学はすぐに世間が評価する。公立から私学へと,財力のある親は子どもたちの進学先を変えている。公立学校にいま,いろいろの改革の試みがなされているのは,こういう背景があるからだろう。
 わたしたちは,単なる学校現場というように限定したり,特定して考えるのではなく,自分自身の「我と汝」(ICH UND DU)問題に真剣に取り組むべきところに立たされている,と自覚すべきであろう。まずは,「生きもの」としての要請に答えうる「理性」を,いかにして獲得するか,ここで,ふたたび『理性の探求』(西谷修)の主張が甦ってくる。
 竹内レッスンもまた,こういう視座に立って,なんとかして思い悩んでいる人びとに手をさしのべ,「応答」の方法を探索し,その努力の「粋」が,たとえば「呼びかけのレッスン」であり,「じかに触れる」レッスンだったのだ,と痛いほど伝わってくる。
 わたしたちは,ようやく,その端緒についたばかりなのだ。

2010年7月18日日曜日

「ISC・21」7月東京例会「竹内敏晴さんとわたし」,無事に終了。

 昨日の土曜日,「ISC・21」7月東京例会が無事に終わり,ほっと一息。北は札幌から西は神戸からと,遠くから13名の仲間が集まって「竹内敏晴さんとわたし」というテーマで語り合った。
 会場は青山学院大学総研ビル3階第11会議室。プレゼンテーターは,河本洋子(青山学院大学):呼びかけに応える,松本芳明(大阪学院大学):「から だ」について考える,瀧元誠樹(札幌大学):武術からのまなざし,の3氏。この3氏の話題提供をきっかけに,参加したみなさんが,それぞれの立場から,竹内敏晴さんとの接点を語り,なにを学んだのか,いかなる「対話」が交わされたのか,などを語り合った。
 わたしは一番最後のところで「竹内敏晴さんとマルチン・ブーバー(『我と汝・対話』)と禅の思想(『十牛図』)との関係について」というお話をさせてもらう予定だった。しかし,前の3氏のお話とディスカッションに刺激され,自分の出番まで待ちきれずに,3氏との議論のなかで,準備した話のネタを全部,話してしまうことになった。終わってみたら,ちょうど午後6時。折角,集まってくださったみなさんには悪いことをしてしまった。でも,単独でお話をさせてもらうよりも,3氏のお話のなかに折り込んでもらった方が,具体的なお話とうまくかみ合っていたのではないか,と自分を慰める。そして,その方が深いところまで思考が到達したのではないか,と自分では満足。
 河本洋子さんの「呼びかけに応える」をとおして,マルチン・ブーバーの『我と汝・対話』から竹内さんがなにを引き出してきて,レッスンのなかに取り込んだのか,という構造がかなり具体的にみえてきたようにおもう。また,松本芳明さんの「『から だ』について考える」からは,野口三千三との接点や,三木成夫の『胎児の世界』(中公新書)や『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書院)などと竹内さんとの接点がみえてきた。さいごの瀧元誠樹さんの「武術からのまなざし」では,竹内さんと禅の思想との接点やマルチン・ブーバーの思想を超克する努力などの深いテーマが話題となった。とりわけ,弓の名手でもあった竹内さんが『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル著)を消化していないはずはないし,にもかかわらず,ブーバーの思想に分け入っていったのはなぜか,そして,それをどのようにして超克しようとされたのか,といった興味のつきない話が展開した。たとえば,禅の「無」の世界をブーバーの「我と汝」の「間」に見届けつつ,そこに,竹内さんの工夫がどのように加えられていったのか,ということなどが語られた。
 しかも,ハプニングのようにして,存在論の話まで飛び出した。たとえば,マルチン・ブーバーが「間」に「真の存在」をみたのに対して,「十牛図」では「絶対無」の世界に遊ぶところに人間の存在をみているし,西田幾多郎は「純粋経験」こそが「実在」であると説いたし,ジョルジュ・バタイユは「エクスターズ」する人間に存在者の不在を見届けた,というような話が。そして,ブーバーとバタイユは,ある部分では共通したものを持ち合わせつつも,決定的な違いももっていること。つまり,ブーバーがユダヤ教信仰をみずからのスタンスの拠点としているのに対し,バタイユは「無神論」に立つ,と。そして,このあたりの話が,わたしにとっての竹内さん想い出の一番深いところに残っている。竹内さんがどうしてもバタイユの思想に首肯しなかったことの理由(根拠)も,いまごろになって,ほんの少しだけわかってきたようにもおもう。
 たった一人での思考ではとても到達しない,「場」の力を得てこそ可能となる知の開けが,昨日の研究会でも何回か経験でき,わたしはありがたい経験をさせてもらった。研究会のよさとは,新しい自己の「開け」に出会うことだ,としみじみおもった。いい研究会の「場」があって,わたしは幸せである。
 この研究会の記録はきちんと整理しておきたいとおもう。そして,それをつぎの研究会につなげていけるように。

〔追記〕
 この研究会は,当然のことながら,竹内敏晴さんが昨年9月6日に他界されたことを追悼する気持ちの表出として開催されました。竹内さんは,わたしたちのこのグループと4回にわたって,「対話」の機会をもってくださり,夜の懇親会にも気持ちよく参加してくださった。そして,第5回目の「対話」では,二日間にわたる特別メニューの「竹内レッスン」と「対話」を約束してくださいました。その矢先に病魔に襲われ,かなわぬ夢で終わってしまいました。わたしたちはそのことが限りなく残念で,なんとかして竹内さんがお考えになっておられた「精神」(あるいは「志」)を,ほんの部分でもいい,継承させていただきたい,という気持ちで一杯です。
 わたしたちのグループの活躍の場はそれぞれに異なりますが,竹内さんが提示された「じかに触れる」というレッスンが,どのような構造をもっていて,どのような哲学・思想のバックグラウンドとつながっているのか,そして,それが,なにをめざしているのか,とりわけ,21世紀を生きるわたしたちにとってどういう問題を投げかけているのか,ということを考える上ではみんな共通です。今回は,その共通の問題意識を共有すべく,第一回目の研究会と位置づけています。
 ということは,第二回目の研究会も遠からず開催される予定です。もっとも,今回のような特別企画はともかくとして,月例会のなかの一部を「竹内敏晴研究」に当てる,という具合にして継続的に思考を深めていきたいと考えています。できることなら,4回にわたって開催された「竹内敏晴さんを囲む会」での「対話」を,原稿に起こし,ある編集の手を加えて,単行本にしたいと考えています。しかし,この仕事は,どう考えても三井悦子さんにやってもらうしかありません。なんとか三井さんに音頭をとってもらい,われわれも精一杯の応援をして,この夢を実現させたいと考えています。この夢をかなえて,みんなでお礼の墓参ができれば・・・と。
 わたしたちは,いま,そのスタート地点に立ったにすぎません。これから,ほんとうの協力体制が必要です。一つの夢を実現するということはたいへんなエネルギーを必要とします。が,諸先輩方のご努力を見習いつつ,わたしたちも頑張っていきたいとおもっています。
 こんごともご支援をいただければ幸いです。

2010年7月16日金曜日

竹内敏晴さんとマルチン・ブーバーと禅の思想の関係について(その3.)

 昨日のつづきから。「ICH UND DU」と「ICH UND ES」の「DU」と「ES」にこだわる理由から入ることにしよう。
 上田閑照は『十牛図』のなかでは「我」と「汝」と「それ」という訳語を当てて説明をしている。一方,マルチン・ブーバーの『我と汝・対話』(岩波文庫)の訳者・植田重雄は「われ」と「なんじ」と「それ」という訳語を本文では用いている。書名では『我と汝』とした上で,本文では「われ」と「なんじ」とひらがな書きにしている。その断り書きはどこにも見当たらない。しかし,相当に考えての選択には違いないだろう。
 たとえば,ドイツ語の「わたし」に相当することばは「ICH」ひとつだけである。しかし,日本語の「わたし」に相当することばはいくつもある。同じように,第二人称はドイツ語では「DU」と「SIE」の二つだけであるのに対して,日本語ではいくとおりもある。したがって,「ICH」を「我」と訳すと,それに対応する「DU」は「汝」しかない。「ICH」を「おれ」と訳せば,「DU」は「おまえ」になるだろうし,同じように「ぼく」と訳せば「君」,「わし」と訳せば「あんた」,「拙者」と訳せば「おぬし」・・・という具合に対応することになるのだろう。しかし,植田重雄は「我」(「われ」)と「汝」(「なんじ」)を選んだのである。しかも,この対応は男ことばである。
 この本の初訳が1979年である。この時代の「我と汝」ですら,なんとなくわたしたちの言語感覚からすれば,相当に時代がかった印象があった。ましてや,こんにちの時代にあっては「我と汝」の関係性は,ごく例外的な,特殊な関係以外にはありえない。今風に訳すとすれば,「ぼくと君」(男)か「わたしとあなた」(両方),あるいは「うちとあんた」(女)か「おれとおまえ」(男)になるのだろう。ことほどさように「ICH UND DU」の訳語はやっかいなのである。
 さらに,ドイツ語の「DU」には,日本語では考えられない意味内容が賦与されている。たとえば,「神」への呼びかけは「DU」である。つまり,キリスト教文化圏にあっては,「わたし」と「神」の関係は「ICH UND DU」の「契約関係」にある。つまり,「向き合う」関係,しかも,相互的で双方向的で,主体的に真っ正面からの出会い,の最終的なゴールは「わたしと神」なのである。だから,「私に対して直接に自らを向けてくる相手が与えられる」のは,文字どおり「恩寵」以外のなにものでもない。しかも,これこそが「本質的行為」ということになる。
 このことは,マルチン・ブーバーの『我と汝・対話』(植田重雄訳,岩波文庫)を読んでいくとわかる。「なんじ」の最終ゴールは「永遠のなんじ」である。「永遠のなんじ」とは「神」のことである。すなわち,キリスト教文化圏にあっては,「永遠のなんじ」である「神」が,「ICH」にとってはもっとも重要な「DU」であり,もっとも身近な「DU」なのである。このことを,まずは,念頭に置いておくことが肝要である。(禅にあっては,「永遠のなんじ」は「絶対無」に対応する。この話を明日の月例会でできるといいのだが・・・)
 そろそろ整理しておこう。ブーバーが「ICH UND DU」と言ったときの「DU」は,「ICH」と真っ正面から向き合う関係の「DU」,それは,すぐとなりにいる「隣人」(「愛する人」)から「永遠のなんじ」(「神」)までの「間」に存在するすべてのもの,が含まれる。それは,自然現象であってもいい。野に咲く草花であってもいい。「ICH」と真っ正面から向き合い,「じか」に触れ合うような関係が成立するものであれば,なんでもいい。「山路きてなにやらゆかしすみれ草」「牡丹散って打ち重なりぬ二三片」。一瞬の「じか」に触れる交信が可能な関係。これが,ブーバーのいう「ICH UND DU」の関係であり,「DU」のひろがりである。
 つぎに,「ICH UND ES」の「ES」である。この「ES」については,ブーバーのテクストの「第一部」に,いまのわたしにとっては強烈な説明が登場する。そのほんの部分を紹介しておこう。
 ブーバーのことばを借りれば,未開の原始人に関する文化人類学の研究成果をみると,「ES」の問題が理解しやすいという。たとえば,こうだ。原始人は,自分の身のまわりの小さな環境世界のなかにどっぷりと浸りこんで,生活している。生まれたときから,ものごころがついたときから,いつも同じ環境世界のなかで生きている。したがって,原始人には「ICH」は存在しない,という。「ICH」と環境世界とはひとつになっていて,両者の間に差異はない。しかし,その慣れ親しんだ環境世界になにか異変が起きたとする。たとえば,大雨が降って,山から土石流が流れてきたとしよう。それまでのジャングルの風景が一変する。新たに風景のなかに加わった無数の石ころが,異様なものにみえる。なんだろうとおもってさわってみる。他者の到来である。すなわち,原始人にとってのオブジェの出現である。この不思議なオブジェとなった石ころをいじっているうちに,これが道具として役に立つということを,なにかの拍子に知った原始人がいたとしよう。固い木の実を叩いて割ったり,すりつぶしたり,なにかの重しにしたり・・・と。こうなると立派な「事物」の誕生である。この「事物」がブーバーのいう「ES」である。
 このあたりのことを読みながら,わたしはバタイユの『宗教の理論』の冒頭の部分を思い出していた。若干,論理の展開の仕方は違うものの,ヒトから人間に移行するときのオブジェや事物のイメージはほとんど同じである。
 つづいて,ブーバーのテクスト(第一部)に登場する,幼児の成長過程の話がわたしにはとても説得力があった。胎内にいる赤ん坊は,胎内という環境世界のなかで,つまり,内在性のなかで生きている。誕生と同時に,外気に触れる。赤ん坊にとっては最初の「DU」の登場。そして,母胎とは異なるまったく新たな環境世界と真っ正面から「向き合う」ことになる。はいはいをし,立ち上がり,歩くようになり,やがて,ことばをしゃべりだす。こうして,初めての体験がつぎつぎに起こる。そのつど,幼児は真剣に「DU」と「向き合い」,なんらかの交信をしながら,いくつものハードルをクリアしていく。そうした過程をとおして,幼児にとって「DU」であったものが,つぎつぎに「ES」に転化していく。つまり,真剣に「向き合う」必要がなくなってしまったものたちは,いつのまにか「事物」と化し,役に立つか立たないかという有用性の原理のもとに分類・整理されていく。その「事物」が「ES」だというのである。
 じつは,このテーマも延々とつづくのであるが,このあたりにしておこう。あとは,テクストで補っておいていただきたい。
 以上が,ブーバーのいう「ICH UND DU」と「ICH UND ES」に関する大雑把な,わたしなりの理解である。このブーバーの思想・哲学が,禅の思想とどのようにクロスしていくのか,このあたりのことは,明日の月例会でお話できれば・・・・とおもう。
 とりあえず,今日のところはここまで。

2010年7月15日木曜日

竹内敏晴さんとマルチン・ブーバーと禅の思想の関係について(つづき)

 いよいよ上田閑照のテクストに導かれながら,マルチン・ブーバーの『我と汝』の世界に入っていくことにしよう。しかも,それが「十牛図」との対比が目的なので,これ以上のテクストはない。
 まず,上田閑照はつぎのように切り出す。
 「・・・・ブーバーの『我と汝』と十牛図第十の人『間』(十牛図のテクストが直接にテーマとしているのは『老人と若者』であったが,その『間』をも含めてより基本的には第八空円相が示すような絶対無における『自己と他己』という人『間』)とを簡単に対照して,それによって後者の構造を別方向から照らし出してみたい。このような対照は現代世界のうちでの禅の新しい位置を探る試みの端緒ともなり得るであろう。」
 まずは,「十牛図」の構造を,ヨーロッパの精神史の考え方と対比させることによって,まったく新たな禅の位置づけをしたい,というのが上田の意図であることを明らかにする。おそらく,マルチン・ブーバーの思想と禅の思想とをクロスさせるような試みはこれまでみられなかったことだろう。その意味では刮目すべき,上田の試みである。
 「ブーバーの『我と汝』は,『人(にん)と人(にん)』,あるいは『問答』という出来事となってその活生命を展開する禅とある根本的な親近性を示していると言えるが,同時に,両者の間には微妙にしてかつ決定的な違いもあるように思われる。」
 上田はまず,ブーバーの思想と禅の思想との「親近性」に着目する。しかも,その上で,この両者の「微妙にしてかつ決定的な違い」もしっかりと意識している。じつは,ここのところにわたしは注目しているのである。わたしの分析では,マルチン・ブーバーの思想と禅の思想とは,まったく相容れないものであるというひとことで一蹴して,おわりである。だから,何故に,竹内さんのなかでは,禅の思想がベースにありながら,マルチン・ブーバーの思想が矛盾なく受け入れられたのか,ここが知りたいところである。上田は,そんなわたしの疑問にきわめて有益な助け船を出してくれたのである。上田は,この両者には「親近性」がある,と断言する。しかしながら,厳密にいえば,「微妙にしてかつ決定的な違い」がある,ともいう。この「親近性」と「違い」はどこにあるのか,それがわかれば,竹内さんのレッスンの着眼点も明白になってくるのではないか,とわたしは考える。
 さて,マルチン・ブーバーの考え方の基本はなにか。
 「ブーバーにおける『我と汝』という考えの出発点は『人間存在の原本的事実は人間と共にある人間』ということであった。この『と共に』は,個人にも全体にも還元され得ない独特の領域であって,その独自性を把握するためには,個でもなく全でもない第三の範疇が必要である。そこでブーバーは人間存在の原範疇として『間(あいだ)』という基本語を提出する。それはしかし,人間と人間との間柄というように対象化してみられるようなものではない。あくまで,向かい合っている双方の『間』に,向かい合っている当の双方にとってのみ,そして双方から向かい合いとしてのみ開かれる主体的な場である。それ故にブーバーは『我と汝』と言う。この『我と汝』に人間存在の根源的リアリティが置かれることによって,自我を出発点とする近代の思想に対して,いわゆる「主観─客観」の枠を破って動く原理的に新しい立場が開かれたと言える。そしてブーバーはこの『我と汝』を,人間存在そのものが『人間とはいったい何であるのか?」という問に化してしまったその問としての存在(虚無,孤独,機械化など)の根本的解決という意味をもって提出したのである。」
 いささか長い引用になってしまったが,マルチン・ブーバーの思想が竹内さんを引きつけたことの,もっとも根幹的なことがらが,この引用文のなかにほとんど言い尽くされているようにおもう。ブーバーのいう「我と汝」は,向かい合う者同士の双方の「間」という第三の範疇を設定し,そこに生ずる向かい合いとしてのみ開かれる双方の主体的な場である,という。つまり,「我と汝」の「と」によって開かれる場,ここに人間存在の根源的リアリティを置く。ここのところに竹内さんは注目し,「と」によって開かれる場をいかにして確保していけばいいのか,という実験(模索)にとりかかったのだろう,と理解することができる。
 そのうちの一つが「呼びかけのレッスン」として,次第にその精度を高めていくことになる。呼びかけに対する応答。呼びかける「我」と応答する「汝」。最初に呼びかけた「我」は,「汝」の応答を聞く。呼びかけた「我」も主体,応答する「汝」も主体。こうして向かい合いとしてのみ開かれる双方の主体的な「場」が成立する。すなわち,対話のはじまりである。こうして,主体と客体という関係は,絶えず逆転しつつ,対話が進行する。そして,そのような対話が成立する「場」はおのずから純度が高まっていく。そうなると「じか」の降り立つ「場」はすぐそこだ。
 人間存在そのものが「虚無,孤独,機械化,など」の隘路に落ち込んだときの根本的解決が,「我と汝」の「間」に生まれる双方の「主体的な場」を開くことによって,すなわち,「じか」に触れる体験をとおして,可能となる,と竹内さんは考えたのではなかったか。
 「このような意義をになった『我と汝』をブーバーは『我とそれ』との対比によんて鮮明に特色づけてゆく。『我とそれ』というあり方は,我からの一方向的な対象化であり,対象とされたもののある特定の抽象的断面についての知を獲得し,それに基づいてまた我からの一方的関心によってその対象を利用してゆくあり方である。そしてそのようなあり方において実は我もまた抽象化してゆくのである。『それ』世界のほとんど無制限の拡大が人間をどこにつれてゆくかをブーバーは近代の科学技術社会の中に見ている。それと異なって『我と汝』は,たんに我からの一方向的な関わりではなく,相互的双方向的な真正面からの出会いである。私に対して直接に自(みずか)らを向けてくる相手が与えられる「恩寵」であるとともに,その相手に応じて自らの全体を向けてゆく「本質的行為」でもある。ここでは双方の存在の全体と全体とが直接に具体的に触れ合い,それが存在の充実であり真の現在になる。」
 この上田閑照の要約はみごとというほかはない。これ以上にコンパクトにマルチン・ブーバーの思想や概念をわかりやすく説くことは不可能であろう。「相互的双方向的な真正面からの出会い」「私に対して直接に自らを向けてくる相手が与えられる『恩寵』」「本質的行為」「双方の存在の全体と全体とが直接に具体的に触れ合い,それが存在の充実であり真の現在になる」などという表現を,わたしは何回も口ずさんでしまう。突然,現れた「恩寵」ということばに「ハッ」として,からだごと惹きつけられてしまう。熟読玩味あるのみ。
 これらとはまったく別のところで,わたしには,しっかりと考えさせられてしまうところがある。それは,つぎのようなところである。
 ブーバーは「我と汝」(ICH UND DU)に対比するための概念装置として「我とそれ」(ICH UND ES)という対立項を立てる。ドイツ語で「DU」は第二人称の親称であり,尊称の「SIE」とは区別される。では,親称である「DU」は,どの範囲までを意味しているのであろうか。いわゆる親しい友人関係,親子関係,師弟関係,親戚関係,などに適用されるという。しかし,それを日本語に置き換えることは,ほとんど不可能である。そのため,わたしには「我と汝」(ICH UND DU)という関係の具体的なイメージが湧いてこない。だれでもいいというわけにはいくまい。竹内さんは,ここの問題をどのようにクリアされたのだろうか。この点は,竹内レッスンに詳しい人がいらっしゃるので,あとで教えていただくことにしよう。わたしの危惧は,現代の日本の社会にあって,「DU」と呼べる関係がどこまで保証されているのか,すでに,そういう関係すら結べないところにきてしまっているのではないか,と。だからこそ,竹内さんは,「我と汝」という関係を基軸に据えることに,強い決意とともに立ち向かわれたのだろう,と。
 それと,もう一点は,「我とそれ」(ICH UND ES)というときの「ES」である。英語でいえば「IT」である。ドイツ語の「ES」も英語の「IT」もじつは,日本語の「それ」ではあっても,一筋縄では片づかない意味内容をもっている。ここで,ややこしいドイツ語論議を展開する必要はないが,いずれにしても日本語の「それ」であると同時に,「それ」以外の意味内容もある(しかも,ESが主語になったときの用例はじつに複雑だ)。
 なにゆえに,ドイツ語の,こんなところにこだわるのか。
 その根拠については,明日のブログで明らかにしたいとおもう。
 とりあえず,今日のところはここまで。(つづく)

2010年7月14日水曜日

竹内敏晴さんとマルチン・ブーバーと禅の思想の関係について

 上田閑照の『十牛図』の読解のなかで,マルチン・ブーバーが登場するとは夢にもおもっていなかった。だから,正直言って,驚いた。しかし,わたしにとっては「恩寵」そのものであった。
 時間が経過するのは早いもので,竹内さんをお見送りしてもう一年が経過する。あんなにお元気だった竹内さんが病魔におそわれるやいなや,あっという間のお別れとなってしまった。まさか,と半信半疑だったので,三鷹公演でお会いしたときも「わたしたちとのお約束がありますので,それを果たすためにも早くお元気になってください」などと,いま考えてみるとなんと呑気なことを言っていたのだろうか,と反省することしきりである。竹内さんは,やさしく手を握り,精一杯の笑顔で「ありがとう,ありがとう」と繰り返された。それから一週間も・・・・。
 そんなことを思い出しながら,上田閑照の『十牛図』と格闘しながら,このブログを書きつづけている。なんだか,竹内さんに背中を押されているような気がしてくる。なぜなら,このブログを書きながら,わたし自身の思考に激震が走っているからである。とりわけ,このテクストのなかにマルチン・ブーバーの『我と汝』が取り上げられていることを知ってからは,何回も何回も,このテクストを読み返すことになり,そのつどわたしの脳細胞は生まれ変わりつづけている。このテクストに寄り添いつつ,もっとオーバーに言ってしまえば,第一図から第七図までのように,なるほど,なるほどとわかったつもりになっていると,必ず第八図の空円相の「絶対無」の世界の前に立って,百尺竿頭から一歩も踏み出すことができず,そのまま突き返されてしまうのだ。そのつど「大死」することを夢見るものの,果たせず,また,第一図から出直しである。そのお蔭で,わたしの脳細胞は,そのたびに生まれ変わっていくのがよくわかった。いまは,もう「大死」などという分不相応な夢はみないことにして,「如是」の側に身を寄せながら,わかったふりをすることにしている。それでも,本を開くたびに,最近はわたしの全身に激震が走る。快感である。竹内さんからの「恩寵」ではないか,となんとなくそうおもう。ありがたいことである。
 はからずも前置きが長くなってしまった。さきを急ごう。
 でも,もう少しだけ前置きを。
 竹内敏晴さんを囲む会で,何回もお聞きしたことばの一つに,マルチン・ブーバーの『我と汝』との出会いが,わたしのワークショップの重要な原点の一つになっている,というものがある。そのつど,帰ってきては岩波文庫の『我と汝・対話』(植田重雄訳)を開くのだが,こちらにレディネスがないものだから,この世界に入っていけない。情けないなぁ,とおもいながら。もう一つは,禅の思想についてのお話をちらりとされる。わたしも育ちの関係で(禅寺で育つ),禅については耳学問も多少はある。本もいくらかは読んでいる。その話に割って入りたいのだが,竹内さんがお考えのレベルは深くて重い。つまり,竹内さんはみずからの実践に裏打ちされた理論のみを信ずる,という姿勢を提示されるので,生半可な知識では「対話」が成立しないのである。でも,なんとか,禅の問題こそは理論武装して,有効な対話の「ツッコミ」をしたいと考えていた。それも果たせないまま終わってしまった。残念の極みである。
 そのころ,わたしはジョルジュ・バタイユの本にのめり込んでいて,とりわけ,バタイユの「恍惚」ともいわれる「エクスターズ」の概念をめぐる問題を竹内さんに投げつづけていた。竹内さんはとても謙虚に「ぼくはあまりきちんとは読んではいないけれども」とおっしゃりながらも,ぎりぎりの言説でわたしを挑発してくださった。もちろん,応答できないところまでも。でも,わたしの知りたかったことは,竹内さんのおっしゃる「じか」に触れるというレッスンが,バタイユの「エクスターズ」とどこかでつながっているのではないか,ということだった。わたしは,さらに,話を広げて,ハイデッガーの「エクスターゼ」(脱自・脱存)の問題を提示するのだが,うまく説明ができない。でも,竹内さんは,このあたりからは上手に話を拾ってくださって,面白いねぇ,一緒に考えてみようよ,ところで・・・・,という具合に話は進んだ。
 こんな話を書きはじめたら,どこまで行っても本題には入れない。このあとは,本題に入るための要約で済ますことにしよう。
 「竹内敏晴さんを囲む会」は全部で4回ほど,名古屋で開催され,つぎにまたやりましょう,という話になっていたところで終わってしまった。この4回ほどのお話をとおして,わたしの頭のなかに強く印象づけられたことは以下のようである。
 竹内さんの思考の一番深いところには,どう考えても禅の思想がある。「じか」に触れるレッスンの原点は,禅の思想に違いない(これはわたしの勝手な理解と直感)。しかし,宗教的な神秘主義の考え方を理論化したものは,竹内レッスンでは用いたくはない。もっと,普遍的な,正統派の哲学・思想に裏付けされた理論を用いるべきだ。そのために,メルロ・ポンティを相当深く読み込んだりされ,ここからも多くのヒントをえている,とこれはご本人の弁。そんな折に,マルチン・ブーバーの『我と汝・対話』(第一刷,1979年)が岩波文庫として刊行され,これは面白いとおもった,とのこと。以後,このマルチン・ブーバーの『我と汝・対話』を縦糸にして,竹内レッスンの構想が少しずつ組み立てられていくことになったようだ。竹内さんのことだから,どの理論もすべて,実践の場で確認しながら,きめ細かく修正をほどこしながら進められたに違いない。現に,いまも,毎回,レッスンが終わると反省することばかりだよ,とおっしゃってらした。レッスンは「生きもの」だから,一度だって,同じことはできないんだよね,とも。毎回,毎回,真剣勝負。
 この姿勢が,わたしには禅僧の修行にみえたし,果てしなき「平常底」に向き合っていらっしゃるようにみえた。わたしの推測では,若いころに弓道の道を究めようとされたそのころに,たぶん,禅との出会いがあったのだろう,と。そして,竹内さんのことだから,徹底して,禅の修行もされたことがあるのではないか,と。だから,禅の深い境地(絶対無,場所的自己,など)で触れられた「じか」の経験を,ことばのレッスンをとおして,あるいは,からだのレッスンをとおして,あるいはまた,両方合わせたレッスンをとおして,普遍化することはできないだろうか,と考えられたのではなかったか,と。そこに登場したのが,マルチン・ブーバーの『汝と我・対話』というテクストだったのだろう,と。こんな推測もやりはじめるとエンドレスになる。
 というようなわけで,上田閑照の『十牛図』が奇縁となって,マルチン・ブーバーの『我と汝・対話』と再会することとなった。不思議なことに,こんどは,なぜか,マルチン・ブーバーの世界がわたしのからだのなかにすんなりと入ってくる。これは,どう考えても竹内さんが導いてくださっているに違いない。それが嬉しくて,ついつい,前置きが長くなってしまった。
 今回はとりあえず,ここまでとし,次回には本題に入ることを・・・・。(つづく)

 というわけで,
 

2010年7月13日火曜日

うどん供えて,母よ,私もいただきまする(山頭火)

 標題にかかげた俳句は,「自己ならざる自己」になりきった種田山頭火の境涯を示す傑作だといわれている。
 山頭火は,生涯の後半を放浪の旅ですごしていた人なので,まさか母上のお位牌を持ち歩いていたとは考えにくい。だとすれば,「うどん供えて」は,どこに向けて供えたのだろうか,とわたしは考える。旅の途中だったとすれば,うどん屋のテーブルの上にぽつんと置いて,山頭火の頭のなかでは,亡き母に供えたつもりだったのではなかったか。そして,供えたつもりの山頭火は,いつのまにか亡き母になりきっていて,こんどは亡き母の側から「お前もお食べ」という声を発する。その声を聞いた山頭火は「私もいただきまする」と応答していく。たぶん,そこに供えられたのは一杯のうどんだったに違いない。その一杯のうどんを母と山頭火は分け合って食べるのではなくて,母と山頭火はとうのむかしに一体化していて,二人が同時に一杯のうどんを食べている。母と山頭火の間に仕切りはない。そこには,「無」(あるいは「絶対無」)を通過して,自他を超越した「自己ならざる自己」になりきっている山頭火が存在するのみ。
 あるいは,こうも読み取ることができる。
 うどんを供えて,山頭火は「母よ」と呼びかける。すると,母は「私もいただきますよ」と応答した,と。呼びかけたはずの山頭火が,そのまま母になっていて,「いただきます」,と。あるいはまた,うどんを供えて,お母さん,私もいただきますよ,と言いつつ一杯のうどんを食べている,と。そのとき食べている人は山頭火であり,同時に「母」でもある,と。山頭火は母であり,母は山頭火なのである。「自己ならざる自己」というわけである。
 以上は,わたしのかなり強引な独解である。一般的には,平常そのものを,そのまま写し取った俳句として,いかにも山頭火らしいと評価されている。しかし,その平常そのもののなかにこそ,深い味わいが折り重なっている。それをそこはかとなく感じさせる。平常なるがゆえに,あるいは,あまりの平常さに虚を突かれる,そういう句ではある。そういう意味では,この山頭火の俳句は,そのまま,うどんを供えて,お母さん,わたしも食べますよ,と呼びかけていると読んでおく方がいいのかもしれない。禅では「平常心是道」と教えている。
 「十牛図」の第十図の読解では,上田閑照は驚くべき地平を示してくれる。第十図は,布袋さんのような老人とこれから修行に出ようとする若者とが往来でばったりと出会う。そして,なにやら会話をしているように見える。上田閑照はつぎのように述べる。
 「出会って互いに頭を下げて挨拶する。それはたんに礼儀の交換には尽きない。頭を下げるのは,相手に対してであるが,下方に向かってである。すなわち自他を底から包むところの,底なき深みの中へである。互いに我(われ)という我(が)を折って頭を下げ(頭を下げるのは我(が)を折ることの具体である),互いに我を深く無にしつつ,我もなく汝もない,自もない他もないというところにいったん還って,そこからあらためて向かい合う。それは同時に,「我と汝」の既成の関係にしばられたあり方をいったん離れたところから,新たに出会うことである。」
 日本の伝統的な武術の多くは「礼にはじまり,礼に終わる」という作法を大切にしている。このことはよく知られているとおりである。しかし,上田閑照のような解釈をきちんと教えている武術家は,はたしてどれほどいるのだろうか。礼をする,つまり,頭を下げるというきわめて単純な作法のなかに,これほどの意味が籠められているとは,じつは,わたしも知らなかった。まずは,頭を下げて,お互いに我(が)を折って,無になり,自他の区別のないところに立ち,その場所からあらためて向かい合う。すなわち,「立ち合う」。それは,それまでのあらゆる既成の関係をすべていったん断ち切って「無」にし,そこを通過してのち,「自己ならざる自己」,すなわち「真の自己」となり,まっさらな状態で,まったく新たな「出会い」をすること,を意味する。
 上の文章につづけて,上田閑照は,さらに,意外な地平にわたしたちを導いていく。
 「このように互いにまず,自もなく他もない底なき深みに自己を無にしてゆく,いったん無底の開けに自己を無化してそこから甦る(それではじめて真に自己)。という仕方で互いに向かい合うのである。その場合,自もない他もないところ(すなわち第八の境位)と「自他の全体が自己」(第十の境位)が相即的に成立するのである。自なく他なき自他未分のところをふまえて甦った自己であるから,自他の向かい合いでありながらその向かい合い全体が自己なのである。しかしこれは,あくまで,自なく他なき無に自己を無化した「自己なし」と相即的にのみ成立する。故に,向かい合った自他を逆に自己なくして他にすべて委ねることができるのでなければならぬ。しかもさらに,自なく他なきところから甦って向かい合う時,同時に甦りの具体として「いい天気ですね。(あるいは,ひどい雨ですね。)」(すなわち第九の境位に当たる)。自他を包む場にすっかり開かれていてそこに現前する自然が私なき交わりの最初の共同具体になるのである。」
 「いい天気ですね」という挨拶もまた,わたしたちが日常的にしている挨拶と違い,無を通過したのちの「自己ならざる自己」による挨拶はまた別の意味を帯びてくる。つまり,天気をも自己の開けのうちに取り込み,「いい天気」そのものになりきってなされる挨拶は,形骸化された日常の挨拶とはまったく別のはたらきをもつことになる。お互いのこころの奥深くまで響き合い,お互いをつよく結びつけ,生命力の躍動する関係性がそこから立ち上がってくる。
 うどん供えて,母よ,私もいただきまする。
 この俳句が,わたしたちのこころをとらえて離さないのはなぜか。そして,このことばの並び方だからこそ,つまり,あまりの当たり前さ,自然さ,平常さだからこそ,わたしたちのこころに響いてくる,虚を突かれるような強度が,そこにはある。山頭火は,すでに,うどんにもなりきり,母にもなりきり,そして,私にもなりきり,「いただきまする」という。
 「十牛図」の第九は「返本還源」であり,ただ,流れる川とその岸辺に花の咲いた木が立つ,ただ,それだけの絵である。そこに寄せられた頌には「水は自(おのずか)ら茫茫(ぼうぼう),花は自ら紅」とある。自然の有り様をそのまま描き,自然そのままの頌が添えられている。ただ,それだけである。山頭火の俳句は,この境涯とも響き合っている。
 山頭火は,第一図から第七図までの修行をとうのむかしに終えていて,しかも,その到達した禅定をもかなぐり捨てて,第八図の空円相のなかに身を投げ出し,絶対無の真っ只中に身を置きつつ,第九図や第十図の境涯に遊ぶ。その境涯を山頭火はことばにして発する。それが,かれのめざした自由俳句の世界だったのだろう。俳句の形式も季語もいっさい無視して,自他を超えた世界の会話を楽しむための方法,それがかれの自由俳句だったのだろう。
 まさに「遊戯三昧」の境地である。
 
 
 

2010年7月12日月曜日

「自己ならざる自己」が立ち現れる「絶対無」という「場所」

 さきを急がないと,マルチン・ブーバーを語ることなく,17日の研究会がきてしまう。それまでに,できるだけのことはしておこう,という次第で,今日2つ目のブログに挑戦。
 「自己」でもなく,「真の自己」でもなく,「自己ならざる自己」とはどういうことなのか。そして,それが立ち現れる「絶対無」の場所とはいかなる「場所」なのか。もう少し踏み込んで考えてみることにしよう。もちろん,上田閑照の読解に寄り添いながら。
 「・・・・絶対無は,聖俗なみならず,本来非本来という実存哲学的な,主客という認識論的な,有無という存在論的な,善悪美醜という価値論的な,あらゆる形態と意味における二元(両頭)とそれに基づく区別対立が空ぜられるところである。したがってまた一元論ではない。「一」は「二」と二をなしている故に。絶対無は,「一」に非ず「二」に非ず,空空たるところ,ここが根源的な「自己なし」の場である。単に「自己の無」というのではない。端的に絶対無。ここで真に「自己の無」。」
 さて,一直線に核心部分に飛び込んでみたが,いかがだろうか。
 ここをうまく通過できるとあとが楽になる。
 絶対無とは,実存哲学的な区別対立(本来非本来)も,認識論的な主客や,存在論的な有無や,価値論的な善悪美醜や,ありとあらゆる形態と意味における二元論的な区別対立を,ゼロにしてしまうところである。それは一元論でもない。なんにもなくなってしまう「空空たるところ」だという。だから,こここそが「自己なし」が成立する場である,ということだ。それは単なる「自己の無」というのではなくて,「絶対無」を通過することによって照らしだされてくる,真の「自己の無」だ,と。
 ここで想起してほしいことは,以前のブログで話題にした「百尺竿頭一歩出」である。百尺の竿のてっぺんに立って,そこから一歩を踏み出せ,というのだ。その一歩を踏み出した瞬間に,わたしたちのからだは宙に舞う。この重力の法則に身をゆだねたさきに広がる「落下」の世界。なすすべもなく「空」(=絶対無)に身をゆだねるのみである。ここには,すでに「自己は無い」。禅でいうところの「大死」である。この「大死」をも表現したものが第八図「空円相」である。
 さきの文章につづけて,上田閑照はつぎのように説く。
 「自己の経歴としての十牛図におけるこの第八空円相はある種の絶対性をあらわしている。しかし,自己がここで絶対になるという意味では決してない。自己が自己として絶対というのでは決してない。ここが最肝要のところである。真に「自己の無」ということが絶対的なのであり,そしてそれは自己による自己の自己否定では決してあり得ず,端的に絶対無ということである。絶対=無。」
 「絶対=無」。「無」は「絶対」である,と。だから,「自己の無」は「絶対」である,と。そこには,「否定」も「肯定」もありえない。ましてや「自己否定」はありえない。自己が「無」なのだから。この「絶対」である「自己の無」=「大死」を通過すること,ここがポイント。
 さらに,上田閑照はつぎのように説く。
 「仏教の場合もともと,実体的思惟を解体する智慧の働きが空観であり,そこに実相が現れる。絶対無は,非実体的に「無の無」と転ずる。大乗仏教一般の古典的な言い方では,空とは「空もまた空」ということであり,したがって「色即是空,空即是色」ということである。そしてこの「空もまた空」「無の無」と転ずるところに「命根(みょうこん)断ずるところ絶後に再び甦(よみがえ)る」,「自己ならざる自己」に甦るということが現起する。」
 さて,ここで問題の「自己ならざる自己」が登場する。この「自己ならざる自己」が「絶対無」という「場所」において甦るというのだ。これがなにを意味しているのか。そこからさきを上田閑照は語ろうとはしない。これでこと足れりとしている。欲張りなわたしには不満である。あるいは,無知なわたしには理解不能である。そこで,なにがなんでもわたしなりに納得できる論理を求めたくなる。それは以下のとおり。
 「色即是空,空即是色」という『般若心経』の中核をなす考え方と,「空もまた空」や「無の無」という考え方とは若干のズレがある,とわたしは考える。「色即是空,空即是色」は,かたちのあるものはかたちのないものであり,かたちのないものはかたちのあるものである,その両者の間には違いはない,みんな同じだ,とわたしは読み解く。このことと「空もまた空」や「無の無」とは違う。こちらは,同語反復(トートロジー)である。「自己ならざる自己」は,「空もまた空」や「無の無」と同列には並ばない。では,「自己ならざる自己」とは,どういうことなのか。
 絶対無を通過して自己が無となる。そのとき,自己は絶対無の「場所」に開かれていく。それまで維持されていたいかなる自己も無となり,絶対無のなかに溶け込んでしまう。その絶対無のなかに溶け込んでしまう自己とは,わたしのイメージでは,内在性のなかに溶け込む自己と同じにみえる。すなわち,「水のなかに水があるように存在」する「自己」である。その「自己」は,すでに,以前の自己ではない。水のなかに溶け込んだ水のような「自己」である。ということは,水のすべてが「自己」と同一化するということだ。「自他」の区別がなくなるということは,こういうことだ。だとすれば,他者の中に「自己」をみることも可能となる。もっと言ってしまえば,あらゆるもののなかに「自己」を見出すことになる。すなわち,「自己ならざる自己」の出現である。
 それを可能とする「場所」が「絶対無」の「場所」であり,わたしの好きなことばに置き換えれば「内在性」の「世界」である。竹内敏晴さんが,じっと眼をこらして見据えていたのは,この地平ではなかったか。そして,この地平こそ,竹内敏晴さんがワークショップをとおして試し,確認し,みずからの理論と実践の根拠としようとしていたのではなかったか。「火になる」ワークショップなどは,「自己ならざる自己」のもっとも典型的な事例と言ってよいのではないか。「じか」に触れるワークショップは,その原点を指し示すものではなかったか。
 ここにマルチン・ブーバーという補助線を引いて,17日に議論できれば,幸いである。
 もちろん,その前に,まだまだ考えておかなくてはならない問題は山ほどある。
 わたしの思考がそれまでに整理できていればいいのだが・・・・。

「悟など云う無調法いたしたる覚え之れ無く候」(一休)

 「十牛図」の第八図空円相(「人牛倶忘」)については,以前,このブログでも書いたことがあるので,そこと重複しない話題を取り上げてみたい。
 第七図「忘牛存人」が,いわゆる「悟り」の境地を描いたものだと一般的には理解されているのだが,では,この第八図の空円相(たんなる〇が描いてあるだけ)はなにを意味しているのだろうか。結論からさきに述べておけば,「無」=なにもない,を表現したものといわれている。それは,悟りの境地を通過したさきの境地=「絶対無」である,という。
 室町時代の臨済宗の僧・一休さんの歌に「悟など云う無調法いたしたる覚え之れ無く候」というものがある。一休さんに言わせれば,「悟」は無調法だという。そんな無調法をした覚えはこれっぽっちもございません,という。ここが第八図「空円相」の境地だということになろうか。つまり,人も牛も倶(とも)に忘れてしまいました,という境地。すなわち,絶対無の境地。
 中島敦の短編に『名人伝』がある。弓の名人の話である。弓の名人としてその名をとどろかせた人物が晩年になって弟子の家に招かれた。行ってみると,弓が飾ってある。名人はそれをみて「これはなんだ?」と聞いたという。「十牛図」に置き換えてみれば,牧人と牛の関係が,名人と弓の関係になっている。弓の名人になるべく臥薪嘗胆して努力し,ついにその名をほしいままにする。しかし,いつのまにか弓を手にすることもなくなり,弓なしで飛ぶ鳥を落した,という。ついには,飛ぶ鳥がその名人の家の上に飛んでこなくなってしまった,という。名人は弓のことはすっかり忘れて,まったく別の次元で遊ぶようになる。つまり,絶対無の世界に遊ぶことになる。こうして,かつての自己(名人になりたくて仕方がなかった自己)を通過して,その自己も弓も忘れてしまった,という次第である。
 こうして,名人は「自己の自己への関係」としての自己とは異なる,まったく別の自己にいたる。これが絶対無の世界に現れる「自己ならざる自己」である。西田幾多郎は,これを「場所的自己」と名づけ,みずからの哲学の中心概念の一つとした。ここが,この「十牛図」の肝心要のポイントとなる。ここが解ればあとは楽勝である。ついでに,先取りして言っておけば,竹内敏晴さんのいう「じか」に触れる場所は,ここではないか,とわたしは考えている。そして,同時に「ここ」がマルチン・ブーバーのいう「我と汝」(ICH UND DU)の「接点」になる,と。
 ここで,上田閑照の読解に耳を傾けてみよう。
 「自覚とは,一般に,自己内反省とはちがって,単に「自己が自己に」ということではなく,同時に,そのような自己の置かれている場から自己が照らされることであるが,そのためには自己はその場の開けへと真に切り開かれていなければならないからである。真の自覚は,究極的な場の開けに切り開かれてその開けに照明されつつ成立する。」
 ここでいう「真の自覚」と西田幾多郎のいう「場所的自己」とは同じである。すなわち,竹内敏晴のいう「じか」の降り立つ場である。それを「十牛図」では第八図の「空円相」として表現している。そこは,第七図の「忘牛存人」との境地とは,根源的に次元の異なる世界である。すなわち,「絶対無」である。
 「かくして,自己であることの主軸が事実変わらなければならない。自己のエレメントが変わらなければならない。自己が真に究極の場の開けに切り開かれなければならない。そのためにはいったん自己が(真の自己とされたものであっても)徹底的に滅せられねばならぬ。もはや,自己の自己否定の問題ではない。絶対無の事である。本来空であり,本来無一物である。」
 ここまでくると,わたしの頭は一気に「内在性」へとリンクしていく。そうか,絶対無の場に立つということは,内在性の内に立つということか,と。
 一休禅師も,そうか,内在性に生きていた人だったのか,と。

2010年7月11日日曜日

第27回全日本武術太極拳選手権大会・2010をみる。

 午前中に参議院議員選挙を済ませて,午後から表記の「第27回全日本武術太極拳選手権大会・2010」を見物する。
 会場は例年どおり東京体育館。全部で三日間開催され,今日が最終日。つまり,決勝が多く組まれていて,もっとも盛り上がる日。今回は「第16回アジア競技大会日本代表選手選考会」を兼ねているので,選手も応援団もたいへんである。とりわけ,最後のプログラムになっていた「自選難度競技」は新国際競技ルールにもとづいて行われる初めてのこころみ,と聞いていたのでこれが見たかった。国際化・グローバル化の道を選んだ太極拳競技がいったいどういう路線を進むのか,わたしにはとくべつの興味があった。いやはや,驚いた,というのが第一印象。
 全国の予選を勝ち抜いた男女23名の選手によって競われた。種目は,長拳,南拳,太極拳の3種目。それぞれ男女の優勝者がアジア大会の日本代表となる。だから,選手も応援団もいやがおうでも熱が入る。このときばかりは,観客席から選手たちへのエールも間断なく送られる。技が決まると拍手も起きる。
 さすがに,この23名のなかに選ばれた選手たちはレベルが高く,みていても気持ちがいい。動きの切れもいいし,表現力も豊か。「自選難度競技」(規定套路ではなく,自選套路の難度を競うもの)なので,自分で技の組み合わせを考え,演出も考えることになる。つまり,選手の得意な技を,どれだけ美しく見せるか,が競われることになる。よく鍛え抜かれた選手たちばかりなので,演技はみんなみごとなものである。
 長拳と南拳は,以前から,飛んだり跳ねたりする動きの激しい套路がつづく。こちらは体操競技のゆか運動に似たところがあって,わたしには馴染みやすかった(見るという点で)。以前は,わたしのつける点数と審判が出す点数はほとんど違わなかった。しかし,今日は違った。それも,かなりのズレがある。その理由は「新国際競技ルール」にある。
 それによると,一人の選手の採点を,A組審判,B組審判,C組審判の三つのグループに分かれて採点し,それを集計するという。簡単に説明しておくと以下のとおりである。
 A組審判は,動作の質とその他のミスを3人の審判員がチェックする。配点は5点。
 B組審判は,演技レベルを3人の審判員がチェックする。配点は3点。
 C組審判は,難度動作を3人の審判員がチェック。配点は2点。
 これらを集計して,10点満点で採点される。わたしは,ただ,演技の流れなどをみながら「うまいなぁ」とおもえば,前の演技者の点数をもとにして加点する。「へただなぁ」とおもったら,やはり前の演技者の点数から引き算をする。ただ,それだけだった。だから,わたしの判定はA組審判のところしかわからない。つまり,5点分しかわからない,ということ。あとの「演技レベル」も「難度動作」も,細部の規則を知らないのだから,ここに「ズレ」がでてくる。
 これをみていて,いまの体操競技の採点とよく似ているなぁ,とおもった。体操競技の点数は,わたしにはまったく不明である。むかし,経験した体操競技の採点方法とはまったく異なる。わけがわからない。だから,見ていて楽しくない。その点,まだ,太極拳の方が素人採点でもかなり近い点数になる。その分,見ていて楽しい。
 自選難度競技として行われる太極拳は不思議だ。これだけは考え方の基本が理解できない。太極拳は,陳式にしろ,楊式にしろ,ゆったりとした動作が基本である。しかも,基本となる技の型をつなぎ合わせたものである。だから,いろいろな流派太極拳の技がつぎつぎに演じられることになる。これはこれで見ていて楽しい。しかし,この太極拳が,突然,飛び上がるのである。しかも,高さを競うかのように。おまけに,飛び上がって半回転,一回転,一回転半と,アイス・スケートのフィギュアのように回転して着地するときは「片足」で,「ピタッ」と静止しなければならない。しかも,その着地のときの足の角度が,180度なら180度,ときちんと回転して着地しなければならない,という。これは,みていて笑ってしまった。なにをやってんだか,と。これは,もはや,武術ではない。武術とはなんの関係もない。忍者でもこんなバカなことは考えない。もっともっと合理的である。
 回転が足りないとか,回転しすぎとか,は直近でみていないかぎりわからない。観客席からはほとんど無理である。このルールは,だから,二つの欠点をもっている。一つは,武術を無視していること,もう一つは,観客の眼を無視していること。もはや,これは太極拳にして太極拳にあらず,というまったく新しい競技種目が生まれつつある,というべきであろう。
 それともう一点,気になったことがある。太極拳の演技者たちの基本動作はほとんど完璧と言っていいほど磨き上げられ,流麗で,美しい。しかし,どこか違う。太極拳ではないのである。それは,かぎりなく舞踊に近い。重心の低さ,足の運び,しなやかさ,目線,腰の回転,手の運び,どれもうまい。しかし,なにかが足りないのである。
 あえて言ってしまえば,李老師の太極拳からにじみでてくる,あの「味」がないのである。李老師の太極拳は,見る者のこころもからだも鷲掴みにして,引っさらっていくような,不思議な力がある。会場にいる全観衆が静まり返ってしまうほどの吸引力がある。しかも,それは立派な「武術」であることを主張している。奥の深さが垣間見られるのである。こうした「味」は,点数化はできないものなのであろう。その「味」は見る人のレベルによって(たとえ一流の審判員といえども),それぞれ異なるものなのだろう。ある一人の名人がすべての演技者の「味」を採点するのならば,それは可能であろう。しかし,その客観性は,だれにも判定はできない。新ルールが目指すもの,の中につぎの条項がふくまれている。3.審判員の採点基準を数量化し,客観化をすすめる,と。
 こうなってくると,ますます,太極拳がもともとの太極拳から遠ざかっていき,似て否なるものに変化していくことは間違いないだろう。それは,ちょうど,日本の柔道が国際化・グローバル化によって経験した道と同じ道をたどっているようにみえる。いまごろになって,日本の柔道関係者が,国際化した柔道のことを「もはや,あれは柔道ではない」と言わなくてはならなくなってしまったように。そう,世界に広まった「JUDO」は「柔道」ではないのである。そのうち,日本では,「JUDO」の選手権大会と「柔道」選手権大会とを区分して,別の競技として行うようになる日がくるのではないか,とわたしは想像している。それでいいのだ,とおもう。進化するとか,発展するということは,そういうことなのだから。生物学がそのことをみごとに教えてくれる。そして,いつしか自然淘汰されて,適者生存の法則どおり,生き残るものと,死に絶えるものとに分かれるだけのことだ。
 柔道もJUDOも面白いという人が大勢いれば,どちらも残って,さらに細胞分裂をして,もっと多くの「ジュウドウ」や「じゅうどー」が生まれてくるのかもしれない。
 いいとか,悪いとかは,ここでは問題ではない。太極拳も,いま,大きく「進化」しようとしているだけの話である。このとき,人間の智慧がどのようにはたらくのか,なんのためにはたらくのか,なにをよしとするのか,そこでいかなる取捨選択がなされるのか,わたしには興味津々である。ここにこそ,歴史を考える醍醐味がある。

2010年7月10日土曜日

「第六騎牛帰家」と「第七忘牛存人」をどのように読み取るか。

 昨日のブログの「見牛」(第三),「得牛」(第四),「牧牛」(第五)につづく図が,今日これから考えてみようとしている「騎牛帰家」(第六)と「忘牛存人」(第七)である。
 「騎牛帰家」(きぎゅうきか)は,「十牛図」のなかではもっとものどかな雰囲気があって,わたしの大好きな図柄である。そのむかし,まだ,時間がたっぷりあって,ゆったりとした時間が流れていたころ,丑年の年賀状にこの図柄を選んで版画にして刷って送ったことがある。たいへんな手間暇がかかったが,送った方は大満足,受け取った友人たちからも喜んでもらえたことを思い出す。この当時(たぶん,20代の後半),すでに「十牛図」に強い関心があって,何冊かの解説本を読んだ記憶がある。しかし,ほとんど理解不能であった,といってよい。それでも,第六図の「騎牛帰家」の意味するところだけはそれとなく理解していたとおもう。
 この図柄は,ゆったりと歩く牛の背中に牧人が座って天を仰ぎみながら笛を吹いている,というものである。牛と人とが一体化して,なんの迷いもなく,清らかな音曲の世界に浸っている,そういう姿として描かれている。この図柄を眺めながら,当時のわたしは,悟りの境地というものはこういうものなんだろうなぁ,と想像していた。つまり,他者と自己とが一体化して,お互いに溶け合っている状態,自他の差異(区別)がなくなる,そういう世界を想像していた。だから,この「牛」が「真の自己」であるなどとは考えていなかった。牛は他者の代表であって,それは路傍の石ころでもいいはずであるし,竹藪のなかの竹であってもいいし,自然そのものでもよかったはずである。そんな風におぼろげに考えていた。
 それはちょうど,芥川龍之介が描いた短編『寒山拾得』のイメージと重なっていた。水墨画の画題としてもよく描かれる題材なので「寒山拾得」の話は繰り返す必要はないだろう。ただ,ここで指摘しておきたいことは,二人とも寺の裏山に住んでいる野生の虎と仲良しで,村人たちが恐れおののいているのもどこ吹く風とばかりに,ときには虎の背中にまたがって寺に帰ってくることもあったという。この「寒山拾得」は牛ではなく虎であったが,その虎と一体化するほどの境地に達していたことを,芥川龍之介はみごとに描いている。だから,わたしのなかでの第六「騎牛帰家」は,この虎のイメージと重なっている。
 しかしながら,このテクストの著者である上田閑照は,まったく別の解釈を試みている。その読解にわたしは刮目する。
 「牧牛の次は第六騎牛帰家。牛の背に騎(の)り,笛を吹きながら家路を行く。牧牛の境位では,牧人と牛とは肯定的に統一されつつもまだ二重であったが,ここでは,牧人と牛とはすでに一体,自己の自己への関わりにおける分裂葛藤がやみ,自己存在はおのずから詩趣を帯びてくる。牧人と牛との「二」の統一の「一」がすっかり自然になり,その一体の自然さはおのずから天地の自然に交響して笛の音になる。牧人が吹いているというより,牧人と牛との一体性が吹いているのである。天地との一体性という曲を。「限りなき意」がこめられている。その曲の中で自己自身の「一」性そのものに還帰してゆく。還郷の曲と言われている。もはや,外からはそのような一体性に隙を入れることはできない。ここの図は美しい。画調そのものから調(しらべ)が聞こえてくるよである。それまでは牛にのみ注意を集中していた彼の目(まなこ)は,今や遥かに大空をのぞみみる。」
 「拾牛図」の読解とはこういうものなのだ,と初めて知る。読解そのものが美しい。上田閑照の独り舞台という印象すら受ける。このように読み解けるほどに上田閑照自身が禅の修行を積んでいる証拠である。このことについては,また,いつか機会をみつけて書いてみたいとおもう。ここでは,これ以上に深追いはしないことにしよう。
 こうして,いよいよ,問題の第七図に入るとしよう。
 まずは,上田閑照の読解を紹介しておこう。
 「このように騎牛して,帰るべき本来の家郷,自己が真に自己であるその在り処に現に帰着した境位が,第七忘牛存人(牛を忘れ人を存す)である。ここで主題的に忘牛と言われるのは,牛と全く一つになりきり,牛が完全に現に自己化されて,もはや牛として別に見られることが全くないところだからである。自己自身が現に牛であるが故に牛のことはすっかり忘れたという意味である。今までは第一から第六までずっと牛をめぐって標題がつけられていたが,この第七忘牛存人において「忘牛」とともにはじめて標題に「人」(にん)があらわれる。牛が人(にん)になったのである。さきの第六では求める自己が求められている真の自己と一つになるという方向であったが,第七ではその一体の内で真の自己が現実の人になったのである。図の上では,家に帰り着いて自己自身に落ち着き安坐した(図柄によっては,ごろんと閑(のど)かに寝ころがった)一人(いちにん)だけが描かれている。牛の姿は消えている。すなわち,その一人のうちへと消えているわけである。これは,この境位の大切な点である。」
 みごとな読解である。もう,余分なことはなにも言えない,完璧な読解である。なるほど,このように読むのか,とこころの底から納得である。しかしながら,わたしの少しばかり曲がった臍がもぞもぞと動きだす。なぜ,牛が消えて「人」(にん)だけが残ったのか,と。牛が「真の自己」であるのなら,その「真の自己」と一体化をはたした自己が消えて,「真の自己」が残るべきではないのか。すなわち,「人」(にん)が消えて「牛」だけが残る,ということにならないのか。わたしの頭のなかでは,ごろりと牛が寝そべっていて,「人」(にん)が消えている方が,迫力があっていいし,自然の流れのようにおもうのだが・・・・。
 この第七図までは,とにかく「真の自己」に目覚め(第一「尋牛」),「真の自己」の痕跡(牛の足跡)を見つけ(第二「見跡」),それを追ってみると牛の後ろ姿を見つける(第三「見牛」),牛に縄をかけて捕獲する(第四「得牛」),そして,その牛(「真の自己」)を飼い馴らす(第五「牧牛」),ついには牛との一体化をはたして家路につく(第六「騎牛帰家」),という具合に,現前する「自己」が目には見えない「真の自己」をなにがなんでも「わがもの」としよう,そして「一体化」しようと一直線に精進するわけである。その結果として至りついたところが第七「忘牛存人」なのである。そこにきて,「真の自己」である「牛」が消えてしまって,「自己」である「人」(にん)だけが残る,というのである。なぜ,このようなことになるのか,という素朴な疑問がわたしのこころのなかにわき上がってきたのである。そして,静かに考えてみる。やがて,この疑問はすんなりと消えていくことになるのだが・・・。この点については明日のブログで挑戦してみるとしよう。
 一般的には,この第七「忘牛存人」をもって,一応の「悟り」の境地に達したと考えられている。しかし,「十牛図」で説くところの禅は,この第七図は,まだまだ「通過点」にすぎないのである。しかも,この第七「忘牛存人」の境地は,たしかに「悟り」には違いないのだが,もっとも危険な「悟り」の境地なのだ,という。その鍵を握るのが,まさに,牛が消えて「人」(にん)が残る,という図柄にあるというのである。
 上田閑照の腕の冴えどころである。まさに「自己の現象学」と言い切るところの根拠ともなる言説がこのあとにつづく。明日は第八「人牛倶忘」(じんぎゅうぐぼう)に挑戦である。

2010年7月9日金曜日

「せぬときの坐禅」「動中の工夫」ということについて。

 昨日のブログの最後のところに「せぬときの坐禅」「動中の工夫」ということを紹介しておいた。そして,見牛──得牛──牧牛という行の相続においてこの問題は特に大切である,と。
 おまけに,みなさんはどのようにお考えだろうか,と問題を投げかけておわりにしておいた。ところが,親しい友人たちから「投げかけだけで終わるのは許せない」という趣旨のメールが何通か直接わたしのところにとどいた。問いは問いのままにしておくのが禅のいいところなのだが,近代合理主義に毒されてしまった近代人には,それでは居心地が悪いらしい。無粋を承知で,わたしなりの「解」を少しだけ書いておくことにしよう。もちろん,それ以外にも「解」は無限にある,ということだけは最初にお断りしておく。
 昨日のブログに引いた最後の文章の重要なところを,もう一度,確認しておこう。
 「行とはしかしいわゆる坐禅だけの事ではない。いつでも,何をしていても問題になるのが自己というあり方であり,行は『全自己』(西田幾多郎)の問題だからである。行住坐臥すべてが行によって統一されなければならない。」
 いささかしつこいかもしれないが,わたし流の「解」を求めてみることにする。
 「行とはしかしいわゆる坐禅だけの事ではない」・・・・ここでいう「行」とは,いわゆる「修行」のことだと解釈すれば,いかなるものもすべて「行」と名づけることは可能となる。仰向けに寝ころがって,ぼーっとしていても,それを「仰臥禅」と呼ぶこともできる。要は外見上の姿勢や行動だけで判断すべきではなくて,そのときの意識がなにと向き合っているのか,ということが肝腎なのであろう。
 「いつでも,何をしていても問題になるのが自己というあり方であり」・・・・つまり,「自己」と向き合っているかどうか,これがポイントとなろう。しかしながら,禅でいうところの「自己」はなかなかやっかいなのである。いま,現前している自己と,もう一つ「見えないもの」としての「真の自己」が,いつもワン・セットになっている。だから,なにをしていても,いつも問題になるのは,この「真の自己」なのだ。この「真の自己」と向き合うことが大事なのだ,と。
 「行は『全自己』(西田幾多郎)の問題だからである」・・・・西田に言わせれば,「行」は,いま現在の「自己」のすべてが問われるのだから,それを表現するとすれば「全自己」というしかないだろう,となる。つまり,自己という全存在が問われるのだから,という意味である。ここには,意識的自己も行為的自己も分け隔てなく,すべての「自己」=「全自己」が表出するのみである。道元のいう「修証一等」「修証一如」である。そこにはごまかしは一切ない。
 「行住坐臥すべてが行によって統一されなければならない」・・・・というよりも,わたしの「解」でいえば,「行住坐臥がすべて行になってしまう」となる。言ってしまえば,「行ならざる行」から「行そのものの行」にいたるまでの範囲のなかに「行住坐臥」は包括されてしまうからである。それは,仮に「坐禅」をしていたとしても,頭のなかで「妄想」にふけっていたら,それは「行ならざる行」であって,坐禅でもなんでもない,ということになろう。仮に歩いていても坐禅とまったく同じような境位にあるとしたら,それは,まさに「歩行禅」と呼ぶにふさわしい。
 ここまで「解」を提示してくれば,もう,わたしがなにを言おうとしているのかは,大方の理解をえられたのではないかとおもう。「せぬときの坐禅」「動中の工夫」は,なにも「禅」の世界に限定する必要などまったくない,ということだ。一つの道を追究する姿勢は,どの世界にあっても同じである。たとえば,茶道のいうところの「茶の湯」の工夫も,千利休を引っ張りだしてこなくても,すべては禅の工夫と同じであることはよく知られているとおりである。
 同じ路線でいえば,弓道,柔道,剣道,相撲道,などもまったく同じである。ここでいう「道」はすべて「禅」の精神を根底においていることを意味している。だから,これらはすべて「行」なのである。「礼にはじまって礼におわる」という教えもまた「武道」の根源をなすものである。ここでいう「礼」がなにを意味しているかは,「十牛図」の第十で解きあかされることになろう。それまで意識しておいていてほしいのだが・・・・。
 「見牛──得牛──牧牛という行の相続においてこの問題は特に大切である」・・・・見牛(第三図)という行,得牛(第四図)という行,牧牛(第五図)という行のそれぞれの「相続」において,「せぬときの坐禅」「動中の工夫」が大切である,という。いよいよクライマックスである。これを自分の経験してきたスポーツの問題にそっくり置き換えることができるからだ。
 たとえば,「見牛」。牛は「真の自己」を意味するが,この牛をスポーツの技(わざ)に置き換えてみると,われわれの得意の地平が一気に視野のなかに入ってくる。スポーツの技はなんでもいい。たとえば,鉄棒の蹴上がり。初心者にとってはマジックにみえる。上手な人の蹴上がりほど,なにを,どのようにしているのか,さっぱりわからない。つまり,技が「見えない」のである。しかし,この技を分解して,一つひとつの要素に分けて説明されると,なんとなくわかったような気になる。そこで,部分に分けての反復練習がはじまる。わたしたちは,自分の眼で「見えた」運動しか習得できないのである。だから,まずは「見る」力を養うことが肝要となる。反復練習をかさねるうちに少しずつ技の全体像が「見えてくる」。そうなると,とりあえず,蹴上がりという技の運動経過ができるようになる。これが「得牛」(第四図」の段階である。しかし,粗形成である。まことに粗っぽい技のままである。これに,さらに磨きをかける。もっと細かな技の分節化がなされ(それらが「見える」ようになり),その一つひとつが身についていく。そうして,最終的に,流れるような美しい「蹴上がり」という技が完成する。精形成である。「牧牛」(第五図)の段階である。
 この運動習熟の段階によって現れる「牛」は,自己の「内なる他者」と呼ぶことができるだろう。つまり,意のままにならない身体。すでに習熟した運動をするときの,わたしの身体は意のままになる。しかし,いまだ習熟していない運動をするときには,つねに,この意のままにならない身体,すなわち,自己の「内なる他者」との格闘がはじまる。それを克服した暁には,「内なる他者」はどこかに消え去っていて,あるいは,自己と一体化していて,もはや,意識すらされなくなる。こうした一つひとつのプロセスは,「十牛図」に指し示された禅の境位を高めていくことと,みごとに符号する。
 しかしながら,「行の相続において」という表現が意味するところを,さらに注目しておくことが肝要であろう。「相続」ということばが,禅の世界で用いられると,これはまた特別の意味を帯びてくる。行の「継続」とも,「持続」とも異なる「相続」である。「せぬときの坐禅」「動中の工夫」は,「継続」でも「持続」でもなくて「相続」なのである。ということは,「工夫」というものに鍵がありそうだ。つまり,「工夫」というものは時々刻々に変化していく。その,つねに変化・変容していく「工夫」というものを積み重ねていくには「相続」しかないのだろう。
 「相続」。よくよく眺めてみると,なかなかいいことばである。より優れた技は,満足した時点で,技の精彩を欠く。つねに,創意工夫を重ねて,磨きに磨いてこそ名人の技となる。その技は,「継続」でも「持続」でもなく,まさに「相続」なのだろうとおもう。
 この意味での「相続」は,練習や訓練では得られない世界の話であろう。それよりは,日本の伝統芸能で用いられる「稽古」の方が受け止めやすいようにおもう。つまり,つねに創意工夫を重ねながらの稽古こそ,ここでいう「相続」に値しよう。「差異のある反復」という意味での「稽古」,これがここでいう「相続」ということなのだろう。なんと味わい深い表現ではないか。
 「せぬときの坐禅」「動中の工夫」があって,はじめて「行の相続」は可能となる,という次第である。以上が,とりあえずの,わたし流の「解」である。ということは,このつづきもののブログが終わるころには,さらに思考が深まり,また,違った「解」に到達することになるであろう。そのためにこそ,「せぬときの坐禅」「動中の工夫」を「相続」したいものである。

 

2010年7月8日木曜日

「坐禅という身体」について

 『十牛図』の「一」のP.40以下に「坐禅という身体」について,上田閑照が面白い議論をしている。それは「自己とはなにか」という問いと答えそのものである,という。
 まず,上田の言うところに耳を傾けてみよう。
 「たとえば行の基本である坐禅ということで言えば,坐禅という身体(身心全体をひっくるめての具体という意味での身体)のあり方は,いっぽう,自己全身で「自己とは何か」と事実具体的に問うていくあり方であり,しかもどこまでも「自己とは何か」の追究において行きつまり,自己と世界の一切がこの自己自身の身体として一つの問の塊(かたまり),手も足も出ぬ問の塊となったということである。」
 「十牛図」の第一尋牛(じんぎゅう)が投げかけている問題は「見失われた心牛を尋ね求めて行くという初発の境位を示す」といわれている。つまり,「真の自己を求めるというまさにそのあり方が真の自己のはじまりなのである」と。この「心牛」=「真の自己」を求める「行」が坐禅であり,その「坐禅という身体」のあり方は,一つには「自己とは何か」と問うていくあり方だ,という。しかも,「手も足も出ぬ問の塊」となることが,「坐禅という身体」だ,と説く。「面壁三年」というダルマの有名なことばがある。手も足もでない問の塊となって,ダルマは三年間,壁に向かって坐禅をつづけたというのである。問の塊とは,このようなことを言うのであろう。さらに,上田はつぎのように説く。
 「他方,そのような問への答がその坐禅においてまさにその同じ坐禅として具体化してきているのである。答がどこか外から与えられてくるのではない。坐禅という身体のあり方(坐禅儀その他に示されている)が,何ものにも対立せず自己を無限の開けの中に見出すような本来の自己の具体化である。坐禅というあり方として答が身体のうちに現前してきているのである。そして,身体が問になり切っている故に答をその身体で受け取り得るのである。坐禅が答であるという面だけで言えば,打坐即仏法であり,坐禅をして悟るということではなく,坐禅をしているその事が端的に本来の自己の現(げん)である。」
 問の塊は同時に答の塊でもある,というのである。答は外からやってくるものではなく,みずからの身体そのものの内側から立ち現れてくる,というのである。身体が問の塊になり切っているからこそ,その答を身体で受け取ることができる,と。すなわち,「打坐即仏法」である,と。つまり,坐禅がそのまま仏法なのだ,と。道元はこのことを「修証一等」と表現した。「修」は「修行」,「証」は「悟り」,すなわち,修行と悟りとは一つのことで対等のことなのだ,と。つまり,「修行」というものは「悟り」のレベルでしか行えないものである,と。だから,無理をして難行苦行をしてみたところで,なんの意味もないのだ,と。「修証一如」という言い方もする。
 さらに,上田はつづける。
 「しかし問との関わりのうちで,坐禅という身体のあり方に現前してくる本来の自己が答として真に身体化されるためには,行の持続がなければならない。その面からは,坐禅は本来の自己の具体的な先取りと言うべきであろう。先取りされたものが行の持続のうちで充たされてくるのである。道元禅師が「坐禅すれば自然(じねん)によくなるなり」と言うのは,行の持続のことである。そして,そのように行を持続せしめるものは,どこまでも具体的に問い続ける己事究明にほかならない。」
 このようにして,わたしのことばに置き換えれば,「坐禅する身体」は本来の自己の先取りだから,持続することが重要だ,となる。「先取りされたものが行の持続のうちで充たされてくる」という表現はみごとである。そして,坐禅という行の持続こそが「己事究明」なのだ,と。ここで問題にされている「自己」とは,ヨーロッパ近代の哲学や思想が到達した「自己」とはまったく次元が異なるようにおもう。もっと言っておけば(あとで,しっかりと論じたいとおもうので),我(Ich)と禅仏教でいう自己とは,その根源のところで異なっている。しかしながら,問い詰めていくと限りなく近いところまで接近してくる。それでも,最後の一線を超えて一致することはありえない。この問題については,もう少しさきのところで(マルチン・ブーバーの「我と汝」問題を考えるところで)考えてみたいとおもう。
 上田は,この問題にかんして,最後につぎのように述べている。
 「行とはしかしいわゆる坐禅だけの事ではない。いつでも,何をしていても問題になるのが自己というあり方であり,行は「全自己」(西田幾多郎)の問題だからである。行住坐臥すべてが行によって統一されなければならない。古人も,「せぬときの坐禅」,すなわち坐禅をしていないときの坐禅,「動中の工夫」を強調している。見牛──得牛──牧牛という行の相続においてこの問題は特に大切である。」
 さて,この一文を読んで,みなさんはなにを考えるのだろうか。

2010年7月6日火曜日

「十牛図」の「牛」は「真の自己」だという。

 「十牛図」に描かれている「牛」は「真の自己」を意味するという。では,「真の自己」とはなにか。禅的世界を図解したものとして知られる「十牛図」について,これからしばらく考えてみたいとおもう。
 テクストは上田閑照・柳田聖山著『十牛図』(ちくま学芸文庫)。そのなかの前半部分「自己の現象学──禅の十牛図を手引として」(上田閑照)を取り上げる。「十牛図」そのものの禅学的解釈については,後半部分の柳田聖山が懇切丁寧に展開している。それに対して,上田閑照は「自己」とはいったいいかなるものなのかという根源的な問いを立て,それを「現象学」という方法で解きあかそうと試みる。そのときの手がかりとして禅の「十牛図」を用いる,という次第である。別の言い方をすれば,「十牛図」の現象学的解釈,ということになろう。
 この「十牛図」の上田閑照的解釈がまことに素晴らしく,他に類書をみないほどのできばえなのである。以前から禅に関するテクストには関心があったので,「十牛図」に関する解説本もかなり読んできたが,いずれも禅学(あるいは,禅思想史)という立場のものばかりであった。しかし,上田閑照のこのテクストは,ヨーロッパの哲学と禅の思想との間にブリッジを架け,その両方から光を当てながら「現象学」として読解してみようという,わたしにとってはまことにありがたい論の展開の仕方をしてくれている。しかも,とてもわかりやすい,というのがありがたい。そういうわけで,じつは,かなりむかしから繰り返しくりかえし読んできたわたしの愛読書の一つなのである。
 ついでに述べておけば,上田閑照は「十牛図」を,初心者から上級者へ,そして,ここが現段階でのぎりぎりの解釈であるというところまで,わかりやすく読解してみせてくれる。それを,全部で六つの章に分けて,少しずつレベルを上げていくという手法をとっている。これがとてもありがたいのである。途中でどうしても理解不能となったら,また,一つ前の章にもどって出直せばいいのである。そんなことをくりかえしながら,理解を少しずつ深めていくことのできる,素晴らしいテクストなのである。
 「十牛図」はよく知られているように,自己(わたし)が「真の自己」の存在に気づき,それを探し求め,発見し,確保し,飼い馴らしてわがものとしたら,ふたたび「真の自己」は姿を消してしまい,その存在すら忘れてしまい,ついには自己すら消えてしまう,そして,ついには他者のなかに自己を見出すという境地に達する,そのプロセスを図解したものである。このプロセスについて,これから一つずつ,わたしなりの読解を試みてみようとおもう。もちろん,スポーツ史的読解(あるいは,スポーツ学的読解)である。このことについても,おいおい明らかにしていきたいとおもう。
 で,とりあえずは,その導入として,わたしの読解のためのある仮説を提示しておきたいとおもう。それは,上田閑照をはじめどの解説者のものを読んでみても,「十牛図」に象徴的に描かれいる「牛」は「真の自己」を意味している,という。では,その「真の自己」とはどういうものなのか,ということになるとあまり定かではない。上田閑照もまた「真の自己」とは「自己ならざる自己」だ,というのみである。もう少しだけ補足しておけば,自己とは意識でとらえることのできる自分のことであって,真の自己とは意識を超越したところに立ち現れる,ある自覚にもどづく自己のことで,それは意識される自己に対して「自己ならざる自己」である,という。だから,自己と真の自己とが一体化することがまずは目標とされる。それが,一つの「悟り」の境地というわけである。しかも,それがゴールではなくて,そのさきに「無」の境地があり,さらには「無」であることすら忘れてしまう境地があり,ついには自己を他者のなかに見出すという境地に到達する。
 そのときの「真の自己」が,なぜ,「牛」で示されるのか,これがわたしの現段階での大きな疑問であり,「十牛図」を考える大きな仮説の一つとなっている。牛は,一般論でいえば,聖牛という考え方がかなり広く分布しており,日本にかぎったことではない。「牛に引かれて善光寺詣で」という言い方もよく知られているとおりである。あるいはまた「牛頭天王」という信仰形態もある。天神様と牛の関係もある。こうした「牛」にまつわるさまざまな伝承も,いまのわたしには大きな関心事である。でも,「十牛図」の原典は中国なので,古代の中国での「牛」にまつわる伝承がどのようなものであったのか,も確認しなければならない。
 わたし自身は,もう一つ,少し違ったアングルからの補助線を引いてみたいとおもっている。すなわち,「真の自己」=「牛」だとするイメージを,素直にそのまま受け止めて,ふだんの自己を意識的自己だとするなら,「真の自己」は無意識的自己と考えてみたらどうだろう,というものである。理性的自己に対して「真の自己」は動物的自己であってもいいのではないか。だとすれば,わたしたちは「人間」であると同時に「ヒト」でもある,その「ヒト」こそ「真の自己」と考えてはいけないのだろうか。「ヒト」は,内在性のなかに生きているという意味では,自他の区別をもたない。自他が一体化するところに最初の「悟り」の境地があるとすれば,人間がヒトにもどることと,それは同じではないのか。「十牛図」のすごさは,そこがゴールなのではなく,そのさきがあるということだ。ヒトと人間が一体化したときが一つのピークであることは間違いないのだが,そのあと,さらに,ヒトの存在を忘れ,人間であることも忘れ,ついには他者のなかに自己を見出していく,あるいは,他者のなかで自己を生きる,という境地に立つ。
 かんたんに言ってしまえば,「牛」=「ヒト」と考えてはいけないのか,ということ。「ヒト」であれば,まさに,動物としての人間,すなわち「牛」,これが「真の自己」である,という次第。もちろん,この仮説は,先学の教えからすれば相当の暴言に等しいが,わたしのなかではなんとも納まりがいいのである。つまり,スルリとバタイユ的世界につながっていくのである。すなわち,「非-知」の世界に通ずる道であり,エクスターズの世界へと開かれていく,とわたしは考えるのである。
 こんな問題意識を導きの糸としながら,これから上田閑照の「自己の現象学──禅の十牛図を手引として」を読んでいくことにしよう。

2010年7月5日月曜日

貴乃花理事の退職届が意味するものは?

 貴乃花理事が退職届を日本相撲協会に提出した,という。しかし,協会は「預かり」にして,理事退職は認めなかった。が,考えてみると不思議な展開ではある。
 今回の大相撲の世界に起きている不祥事は,日本相撲協会の存続が危ぶまれるほどの大事件であるにもかかわらず,どこか釈然としないものが多すぎる。以前のブログにも書いた記憶があるが,野球賭博のみならず,力士・親方と反社会的集団とのしがらみは長い歴史と深い関係があって,そんなにかんたんには断ち切れる問題ではない。それこそ「すべてのウミを絞り出すまでは止めない」と大見得を切った理事長は本気でそう言っているのだろうか。ほんとうに「すべてのウミ」をさらけ出したら,日本相撲協会は解散の憂き目に会うことは必定だと,わたしは考えている。だとしたら,理事長の発言もよくわかる。「すべてのウミを絞り出」してしまえば,日本相撲協会は解散してしまうから,おのずから理事長も不要ということになる。そのつもりで発言しているとしたら,これはこれで見上げた「決意表明」というものである。
 力士的発想や力士的「決意表明」は,やはり,一般社会人とはいささか別のようである。理事長の決意表明とどこかよく似ているなぁ,と感じさせられたのが今回の貴乃花理事の退職届の提出である。新聞の報道によれば,貴乃花理事誕生に貢献した大嶽親方と大関琴光喜を理事会でかばい,救うことができなかったことに対する責任をとったのではないか,という。この報道に触れたとき,わたしの頭のなかは目まぐるしく回転をはじめた。
 なるほど,と納得してしまい,その上,あらぬ妄想までつぎつぎに湧いてくる。
 貴乃花は,もう一期,理事選挙を待てば,順番として一門の推薦を受けて難なく理事に就任することができた。にもかかわらず,理事選挙に立候補した。一門の反対を押し切って。しかも,一門を離脱してまで。なにをそんなに急いでいるのか,あわてるのか,相撲界の常識からすればまことに奇異な行動であった。
 しかし,今回の理事退職届の提出を知って,なるほど,と納得してしまったのである。理事当選に必要な一門外からの2票が,大嶽親方と大関琴光喜のものだったとすれば,その責任をとったというじつにわかりやすい構図が浮かび上がる。と同時に,ここからあらぬ妄想も湧き上がってくる。
 大嶽親方は,現役時代の貴闘力のころから「博打好き」で知られていた。巡業などにでると,頭に捩り鉢巻を巻き,そこに10万円ずつの札束を丸めて何本も差し込んでおいて,一本ずつ引っこ抜いて「さあ,コイ!」と「コイコイ」(花札)に熱中する姿をよくみかけた,とある新聞記者は語っている。だから,貴闘力が現役を引退して,大鵬親方の婿養子になるとき,「あいつの博打を止めさせろ」と大鵬親方が発言していたことを,わたしは記憶している。この貴闘力と貴乃花は同部屋の兄弟弟子である。一緒に苦楽をともにし,同じ釜の飯を食い,輝かしい二子山部屋時代をきづいた仲間同志である。
 だとすると,貴乃花は今回の内部調査の結果は「白」だったのだろうか。本人の申告が「白」だとしただけの話ではないのか。貴乃花自身の身辺も,これからマスコミの禊ぎを受けることになるのでは
なかろうか。将来の理事長候補といわれる貴乃花が「傷物」になるようなことがあると,日本相撲協会の将来はますます暗雲が漂うことになる。武蔵川理事長が,貴乃花の理事退職届を「預かり」にして,「君は日本相撲協会の宝なのだから,理事として大いにはたらいてもらわないと困る」と発言したことの背景にあるものは意味深長である。
 もう一つの妄想は,理事選挙の折に,すでに,大嶽親方と大関琴光喜の野球賭博の関係は,協会内部ではかなり知られていたのではないか,というもの。しかも,この点について,すでに,ある理事から厳しい発言がでていたのではないか。その口を封じ込めるだけの力をもった理事はいなかったのでは・・・。そこで,急遽,貴乃花をかつぎだすという動きがでてきたのではなかったか。その大任を受けて,めでたく理事に当選したが,ついに,この情報が外部にもれてしまい,もはや手のつけようがなくなってしまった。そして,理事会での「解雇処分」が決定してしまった。こうなれば,もはや,貴乃花の任務は終わった,ということなのか。
 もし,貴乃花が完全なる「白」だったとすれば,理事を退職して,理事会の<外>から日本相撲協会改善のための強烈なゆさぶりをかける,という手はある。それは,ある意味では,内部告発に近いものとなるであろう。日本相撲協会の内部には,ひた隠しにされている「恥部」が,まだまだあるようにおもわれる。今回の内部調査の結果ですら,自己申告した力士の名前の公表を渋った。それも,外部へではない。理事会にすら,当初はほんの数名しか明らかにされなかった。日本相撲協会の執行部が,極秘情報を権力で握りつぶすことなど,常套手段である。とりわけ,反社会的団体との癒着問題などは,その典型だろう。
 妄想のご披露は,このあたりで止めにしておこう。じつは,際限がないのである。無限地獄のように,穴を掘れば掘るほどに,魑魅魍魎が立ち現れてくる。しかも,ますます信憑性が高くなってくる。それは,もはや,妄想どころではなくなってしまう。それらは,これから外部委員会が機能しはじめ,徹底した調査が行われれば行われるほどに,恐るべき事実が浮かび上がってくるようにおもう。これまでは,早めに手を打って「トカゲのしっぽ切り」でことなきをえてきたが,今回ばかりはそんなことでは済まされまい。
 その意味で,貴乃花理事の退職届は,これからどういう波紋を呼ぶことになるのか,わたしは強い関心をもたずにはいられない。ほんとうの改革につながるのか,それとも,旧体制の結束につながるのか,あるいは,日本相撲協会の解散にいたる起爆力となるのか,その選択肢もまた無限である。貴乃花という人の,どこか謎めいた雰囲気が,より多くの妄想を呼び起こす。またぞろ,謎の整体師や謎の占い師などが登場するのだろうか。
 大相撲界の話題は眼が離せない。 

2010年7月3日土曜日

ル・クレジオの『悪魔祓い』について。

 ル・クレジオの『悪魔祓い』が文庫本となって復活した(岩波文庫,6月16日第一刷)。早速,手にとって読んでみる。涙があふれてきて止まらない。どうにも止まらない。なにかが,わたしのからだの中心を突き抜けていく。
 1975年に新潮社からでた初訳本は,とうのむかしに絶版となっていて,わたしは苦労して古書を手に入れた。そのときの感動も鮮烈だった。が,今回のものは別だ。なにかが違う。もちろん,文庫化にあたって,訳者の高山鉄男さんは全面的に改訳をした,とおっしゃる。初訳本とくらべてみると,なるほど,固い表現がやわらかくなっていて,インディオのハートを映し出すことばに進化している。だから,流れるようにわたしのからだの中を駆け抜けていく。そして,不思議な残響に酔いしれる。そのたびに本を閉じる。しばらく,呆然として時間をやりすごす。いや,時間を忘れて呆然としている。なにも考えようともしない。かすかに残る余韻に浸っている,とでもいえばいいのか。
 たとえば,冒頭の書き出しからして,一撃をくらう。
 どうしてそんなことがあり得たのかよくわからないのだが,とにかくそういう具合なのだ。つまりわたしはインディオなのである。メキシコやパナマでインディオたちに出会うまで,わたしがインディオであるとは知らなかった。
 訳者の高山さんの解説によれば,1970年にインディオに出会って,そこにしばらく滞在し,翌71年にこの『悪魔祓い』が刊行されたという。しかも,それから74年まで,一年の半分以上をインディオと生活をともにした,という。「わたしはインディオなのである」と気づいたものの,それでもとうとう「インディオ」にはなれなかった,とル・クレジオは別のところで述懐している。つまり,「わたしはインディオなのだ」と気づいた位相のまなざしから,この『悪魔祓い』は書かれている。
 今福さんがおっしゃるように,ル・クレジオの文章はディスクリプションではなくて,インスクリプションなのである。西谷さんに言わせれば「そうなると入れ墨ができてしまう」(『近代スポーツのミッションは終わったか』)ことになる。まさに,インディオたちがボディ・ペインティングするように,ル・クレジオもまた,みずからのからだにインスクリプションするように,インディオたちの「すへでを見る目」(タフ・サ)と「歌の祭り」(ベカ)と「悪魔を祓われた肉体」(カクワハイ)について,全身全霊をこめてインスクリプトする。
 「20年ほど前のこと,1970年から1974年まで,ぼくはパナマのダリエン地方に住むアメリカ先住民の人々,エンベラ族およびその親族にあたるワウナナ族と,生活をともにする機会を得た。この経験は,ぼくの人生をすっかり変えた。世界および芸術についての考え方,他の人々との付き合い方,歩き方,食べ方,愛し方,眠り方,さらには夢にいたるまで,すべてを変えた」(ル・クレジオ『歌の祭り』管啓次郎訳)
 当時,ル・クレジオはまだ30歳の前半である。ちょうど,この時代に,今福さんはル・クレジオに出会っている(詳しくは『荒野のロマネスク』参照のこと)。しかも,深く深く共感していらっしゃる。今福さんもまた「わたしはインディオなのである」と同じ位相で,ル・クレジオと交信・交遊されたのではなかったか。もっとも,今福さんは,ブラジルに行けばブラジルの人と,奄美大島に行けば奄美の人と,「水のなかに水があるように存在」できる人だから,だれとも分け隔てなく,あるがまま,ふわりとそこに存在できる特異能力をもった人だ,とわたしは勝手におもっているので,ル・クレジオだから特別だったということでもなかったのだろう。気がついてみれば,のちに(2008年)ノーベル文学賞を授与される人だった,というだけの話かもしれない。
 こんなことを書きはじめると際限がなくなってしまう。
 わたしの涙が止まらなくなってしまう理由なども,ここでもっともらしく書く必要もさらさらない。
 最後に,ル・クレジオが,インディオについて語りながら,なにをメッセージとしてわれわれに発しようとしているのか,高山さんの引用をそのまま借用してこのブログを終わりにしよう。
 「現代世界をおびやかすあらたな大洪水に抗して,一人の作家になにができるのだろうか。(中略)おそらく森のワウナナ族と同じように,ひたすら踊り,音楽を奏でること,つまりは丸木舟のまわりに集まったこれらの男たち,これらの女たちの祈りを一つのものにするために,語り,書き,行動することができるのだろう。(中略)あらたな大洪水に抗して書こう。踊ろう」
 「踊る」ことを忘れてしまった現代文明人。ここでの「踊り」は,現代の様式化したダンスや芸術としての舞踊ではない。気がついたらみんなが,思いおもいに踊っている,だれに強制されるわけでもなく,からだが勝手に動きはじめるような,そういう「踊り」である。いうなれば,「踊り」の原点。
 たぶん,それはヒトが人間になる,その中間(はざま)点で,時間が止まったまま生き長らえてきた人びとの「踊り」なのだろう,とわたしは考える。ヒトの時代への畏敬の念と,人間になりきることへの不安(あるいは,拒絶)とが入り交じった,「生」の根源から沸き上がってくる情感のみをエネルギーとする「踊り」,それがインディオたちの「踊り」なのだろう。
 だから,ル・クレジオは,ただひとこと「踊ろう」と書く。
 流れる涙の理由は,ここにあるのかもしれない。
 

2010年7月2日金曜日

「スポーツにおける裂け目のような瞬間に魅力を見出す・・・」とは?

 去る5月9日(日)に開催された日本記号学会のセッション3「スポーツの判定」の席で,わたしのプレゼンテーションに対して,対話者をつとめてくださった吉岡洋(京都大学教授)さんのご発言が,いまもわたしの耳元でささやきかけてくる。
 それは,「スポーツにおける裂け目のような瞬間に魅力を見出すことしか,われわれにはできないのではないか」というご趣旨の発言であった。わたしの問題提起の根幹は,スピード・スケートでは1000分の1秒差まで最先端の科学技術を用いて測定し,優劣を判定しているが,これはもはや人間の眼では判定不能の領域に踏み込むもので,このような近年の傾向は,本来のスポーツのあり方からすれば自殺行為にも等しい,というものであった。もちろん,もう少し,いろいろのことを発言しているのだが,思いっきりそぎおとして骨格だけを提示するとこういうことになる。当然のことながら,吉岡さんは,わたしたちの書いた『近代スポーツのミッションは終わったか──身体・メディア・世界』(西谷修,今福龍太氏と共著,平凡社,2009)を念頭におきながら,上記のような発言をなさったことは間違いないだろう。
 したがって,吉岡さんのこのご発言を聞いた瞬間に,これは偉いことになった,とんでもないところにまで踏み込んで議論をしなくてはならないなぁ,と覚悟を決めていた。なぜなら,今福さんは近年のトップアスリートの身体を「透明化する身体」ととらえ,その一方でアルフォンソ・リンギスの『異邦の身体』のなかで論じられている「流体としての身体」からの問題提起をなさっているし,西谷さんは,その根底にはジョルジュ・バタイユの思想をはじめ,フランス現代思想の系譜と,さらにはピエール・ルジャンドルの「ドグマ人類学」を視野にいれて「近代スポーツ批判」を展開されている。吉岡さんのおっしゃる「スポーツにおける裂け目のような瞬間」とは,どう考えても今福さんや西谷さんが問題にされたことがらと確実にリンクしている,とわたしは考えた。だから,そこまで踏み込んで議論するとなると,これは時間が足りないなぁ,とおぼろげに考えていた。
 そこで,まずは,蓮実重彦さんの『スポーツ批評宣言』を引き合いに出して,「潜在的なるものが顕在化する瞬間を擁護すること」「これがわたしのスポーツ批評の原点である」と蓮実さんが高らかに宣言されたこととつながる問題意識でしょうか,とわたしは問い返した。おそらく,司会をしてくださった(同時に議論にも参加してくださった)前川修(神戸大学教授)さんも,これはたいへんなことになるという予感をもたれたのか,問題の所在を手際よく整理されて,質疑をフロアに開いてくださった。だから,吉岡さんがおっしゃった「スポーツにおける裂け目のような瞬間」が,具体的にどのようなことを指して言われたのか,そのまま,わたしの宿題になっている。
 そして,フロアからは,檜垣立哉(大阪大学教授)さんが,比較的好意的な発言をしてくださり,お得意の競馬の判定について,とても魅力的なお話をしてくださった。競馬もまた,最先端科学のテクノロジーを駆使して「ハナの差」まで厳密に判定する時代になっている,とご指摘があった。わたしは,檜垣さんの『賭博/偶然の哲学』(河出書房新社,2008)を予習しておいてよかった,とほっとして「先生のご著書はとても興味深く読ませていただきました」と応答,檜垣さんはとても素直に「それは嬉しい」と喜んでくださった。ここでは,わたしは「スピード・スケート」の判定と「競馬」の判定とは,同じスポーツではあるが,競馬の賭け事を成立させるためには,なにがなんでも厳密な判定が要求されてしかるべきだ,と答えたように記憶する(すでに,定かではない)。
 この他にも,いろいろのお話があったが,それは割愛することにして,このブログの本筋に話をもどそう。檜垣さんもまた,おそらく,吉岡さんの「スポーツにおける裂け目のような瞬間」に反応して,ご著書の『賭博/偶然の哲学』で,九鬼周造やドゥルーズをてがかりにして展開された「賽の一振りと永劫回帰の反復」あたりの話につなげてみたら面白いかな,とお考えになられたのではないか,とこれはわたしの推測。つまり,哲学的な意味での「偶然」の問題系と,吉岡さんの言われた「裂け目のような瞬間」とは呼応するに違いない,といまのわたしは考えている。
 このようにして,「偶然」の問題について考えてみると,これはこれでなかなか面白いテーマではある。しかし,議論の枠組みを相当にきちんとしておかないと,すぐにどこかに逃げていってしまう。まるで,そのことが「偶然」であるかのように。でも,これは大テーマなので,いつかまた取り上げて議論することができれば・・・とおもう。
 そういえば,この日本記号学会のセッション・3を聞いてくださった橋本一径さんからメールで,「吉岡さんの指摘は,近代スポーツのミッションは終わったことを確認するのとは,重なり合う部分もあるようでいて,根本的には別のことではないかという気もして,こうした点について,いずれ具体的な例に依拠しながらお話を・・・・」というご提案をいただいている。いろいろと楽しい宿題があって,わたしは幸せである。
 ここ何回にもわたって「偶然」の問題を考えてきたが,ひとまず,このテーマはここまでで一区切りとしたい。また,なにかリクエストがあれば,喜んで応答したいとおもう。長い間,お付き合いくださり,感謝あるのみ。

2010年7月1日木曜日

スポーツは「賭け」である。

 スポーツは「賭け」である。勝つか負けるかはやってみなければわからない。これはスポーツが成立するための前提条件である。
 このように書くと,ただちに,勝ち負けと関係のないスポーツもある,という反論がでてくるだろう。そんなことは百も承知で書いている。ここでいうスポーツは,ごく一般的な近代競技スポーツのことを念頭におき,とりあえずは,ごく一般論として考えてみよう,という次第。
 「スポーツは賭けである」というテーゼを立てるということの意味は,スポーツには「偶然」(あるいは「偶然性」)が多く含まれているということを前提にして,スポーツとはなにかを考えてみようというところにある。どこまで,このブログで可能なのかは未知数だが,とにかく行けるところまで行ってみよう。
 そのむかし,イギリスで競馬が行われるようになった初期のころ,ある特定の馬が連戦連勝することがあって,競馬の賭けが成立しなくなり,急速に客足が遠のいてしまったことがある。そのときに,ある知恵者が現れて,ハンディキャップなる制度を提案した。つまり,勝ってばかりいる強い馬の背中にある一定の重さの「砂袋」を乗せるというハンディを負わせることによって,勝負結果の予測を不可能にする,つまり,勝負結果を混沌状態にする,というアイディアである。それがこんにちの「ハンディ」と呼ばれる制度の発端である。この制度がいかに有効であったかは,こんにちに至るまで大切に維持されていることをみれば明らかである。つまり,「偶然」の要素を意図的(人為的)に盛り込んだというわけだ。
 ただし,この競馬の例はきわめて例外的なものと考えるべきであろう。スポーツの勝敗を決する最大の根拠は「実力」である。どれだけの修練を積んで,アスリートとしての「力」をどれほど蓄えることができたか,がまずは大前提となる。その上で,コンディショニングの調整,気候条件,気持ちの集中力,その日の体調,勝負の駆け引き,などなどもろもろの条件が重なって,勝負の結果が生まれてくる。その結果が,かならずしも「実力」どおりにはならないから,スポーツは面白いのである。つまり,スポーツには「偶然」を呼び出す「隙間」があちこちに仕掛けられているのだ。この「偶然性」が多ければ多いほど勝負の結果を混沌状態にさせる。
 ようやく寝不足から解放された人も多いであろうサッカーW杯のにわか応援団も同じだ。サムライ・ブルーが予選リーグを勝ちぬく「確率」はきわめて低かった。戦前の予想ではほとんど絶望視されていた。ところが,カメルーンに勝ったチームは一気に息を吹き返した。オランダには負けたけれども善戦した。その勢いを維持してデンマークには予想外の勝ち方をした。こうなると,ひょっとしたら,という期待値がにわかに高まり,二匹目のどじょうを狙うようになる。そして,延長戦にもつれこみ,それでも勝敗を決することができず,ついに,PK戦で敗退となる。最後は「弱気の虫」がでてしまった。
 スポーツは賭けである,ということを考える事例としては申し分のないタイミングだった。「偶然」という「隙間」があちこちに仕掛けられている・・・からこそサッカーは面白いのだろう。そして,この「偶然」を呼び込む「運の強さ」もまたついてまわる。それが,ほんの一瞬の「隙間」をついて立ち現れる。信じられないようなスーパー・プレイが生まれる。人びとは,そこに「神の降臨」をみる。感動の一瞬である。
 すなわち,人事を超越したところで起こる現象は,すべて「神事」であり,「神の領域」のものとしてみずからを納得させる。もっとも,「偶然」を呼び込むのも「実力」のうち,という考え方もある。しかし,そこでいう「偶然」は人事と神事の中間領域に発生するレベルのことであって,「偶然」のすべてを言い当てているわけではない。だから,最終的には「偶然」は「神頼み」であり,「神の領域」のものである,といわざるをえない。したがって,この「偶然」に「賭ける」という人間の営みは,じつは「神事」なのである。すなわち,これこそが「正義」。
 スポーツの淵源はこの「神事」にたどりつくことができる。つまり,勝つか,負けるか,はやってみなければわからない。すなわち,スポーツは「賭け」である。その「賭け」を支配しているのは「神」。だから,「賭け」は「正義」なのだ。古代オリンピアの祭典競技は,その典型的な事例と考えてよい。この時代の人びとは,競技の結果はすべて「神」が決定すると信じていた。だから,「神」に供犠をささげ,必勝祈願を全身全霊をこめて行った。しかし,時代とともに古代オリンピア祭の「世俗化」が進展し,やがては本格的な「プロ選手」の登場となる。そうして,「神事」としての競技は没落の一途をたどることになる。
 現代のスポーツ競技はその延長線上にある。「偶然」を科学の力で否定し,競技を「神の領域」から引きずり降ろし,ついには「神事」から「人事」の占有物にしようと企む。その頂点に立つものが「ドーピング」である。つまり,「ドーピング」の背景には徹底した「偶然性」排除の思想がある。もっと言ってしまえば,「神」を否定して,その代わりに「科学」を君臨させようという思想である。すなわち,「科学」という名の新しい「宗教」の誕生をそこに見届けることができる。はたして,「ラプラスの悪魔」は,世界を支配することができるのであろうか。
 世界は「偶然」に満ち満ちているからこそ面白い,とわたしは考える。「偶然」に満ち満ちているからこそ「賭け」(ここでは「正義」そのものの意)が成立する。だから,人生は面白い。「偶然」が皆無となった人生など生きるに値しない。ファウスト博士が「命」と引き換えに「魂」を売り飛ばしてしまった結果,そのさきには「絶望」しか待ってはいなかったことを想起するまでもない。人生には「未知」の世界が待っている。だから,生きるに値する,と。「未知」の世界とは,まさに「偶然」に満ち満ちた世界そのものだ。
 サッカーのW杯の年になると,日本国民の大半が,いや,世界中のW杯にチームを送り込んだ国の人間の圧倒的多数が,にわかに「熱狂」する。その「熱狂」ぶりは例をみない。オリンピックやその他の競技種目のW杯とも比較にならない。なぜか。それにはいろいろの理由があろう。それについては,いつか,きちんとした分析をしてみたいとおもう。が,ここでは,「偶然」との絡みで,ごく簡単にその一旦に触れておこう。
 「熱狂」する人びとは,みずからの人生の写し鏡(あるいは,代替物)としてサッカーをみているのではないか。もっと言ってしまえば,みずからの人生に「欠落」している「偶然」の具現を見届けようとしているのではないか。もっと言っておこう。みずからの「生の淵源」に触れる機会を待ち望んでいるのではないか,と。すなわち,「偶然」に「賭ける」ということは,「偶然」に「触れる」という経験への期待であり,それはそのまま「神の領域」への接近を意味し,もし,可能であれば「勝利の女神」と「合体」することを夢みているに等しい。
 いうまでもなく,それは自己の<外>に身を投げ出す経験であり,絶対的なる「他者」との「合体」をめざす。現代社会を生きる人間の,圧倒的な「欠落」を補填する営み,そんな文化装置がサッカーには秘められているのではないか。その決定的な鍵を握っているものこそ「偶然」という「神の領域」の占有物ではないか。その「神の領域」の占有物である「偶然」を,全身全霊をこめて現世に引きずり出すこと,それこそが「サポーター」と呼ばれる人びとの「生きがい」そのものではないか。この種の「熱狂」,あるいは「祝祭空間」の復権に,多くの「にわかサポーター」たちを巻き込む力がサッカーには秘められているのではないか。
 その淵源をたどっていくと,そこには「ヒト」が「人間」になるときに失った「内在性」への回帰願望がある,とわたしは考えている。すなわち,「偶然」に満ち満ちている世界への回帰願望が。