2016年1月21日木曜日

「玄之又玄、衆妙之門」(『老子』第1章)。「あらゆる微妙なものが生まれてくる」ところ。

 予告どおり,第1章を読んでみたいとおもいます。
 まずは,テクストの第1章をそのまま転記しておきましょう。

 これが道ですと示せるような道は,恒常の道ではない。これが名ですと示せるような名は,恒常の名ではない。
 天地が生成され始めるときには,まだ名は無く,万物があらわれてきて名が定立された。
 そこで,いつでも欲がない立場に立てば道の微妙で奥深いありさまが見てとれ,いつでも欲がある立場に立てば万物が活動する結果のさまざまな現象が見えるだけ。
 この二つのもの──微妙で奥深いありさまと,万物が活動しているありさまは,道という同じ根元から出てくるものであるが,(微妙で奥深いとか活動しているとかいうように)違った言い方をされる。同じ根元から出てくるので,ほの暗く奥深いものと言われるが,(そのように言うと道の活動も万物の活動も同じになるから,)ほの暗く奥深いうえにも奥深いものが措定されていき,そのような奥深いうえにも奥深いものから,あらゆる微妙なものが生まれてくる。

 道(みち)の道とす可(べ)きは,常(つね)の道に非(あら)ず。名の名とす可(べ)きは,常の名に非(あら)ず。
 名無きは天地の始め,名有るは万物の母。
 故に,常に欲無くして以(もっ)て其(そ)の妙(みょう)を観(み),常に欲有りて以てその〇(きょう)を観る。
 此(こ)の両者は同じきより出(い)でて而(しか)も名を異(こと)にす。同じきを之(これ)を玄(げん)と謂(い)う。玄の又(ま)た玄,衆妙の門。

道可道、非常道。名可名、非常名。
無名、天地之始。有名、万物之母。
故常無欲以観其妙、常有欲以観其〇。
此両者同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

 以上です。
 〇(きょう)の文字は,「激」の「さんずい」の代わりに「ぎょうにんべん」。

 さて,これをご覧になっていかがでしょうか。ちょっとだけ偉そうなことを言ってしまえば,この訳文と読みくだし文と原文とを比べてみますと,読みくだし文のリズムの良さばかりが目立ち,やはり,訳文がもたもたしていていささかもの足りない気がします。もっと簡潔にわかりやすく訳文にすることはできないものか,とおもってしまいます。そこで,恥ずかしながら,思い切って拙文を提示してみたいとおもいます。

 これが道です,と言えるような道は,ほんとうの意味での道ではありません。これが名です,と言えるような名は,ほんとうの意味での名ではありません。
 天地が始まるときには,まだ名などありません。いろいろの物の存在が意識されるようになって初めて名がつけられるのです。
 だから,名にとらわれない人は道のほんとうの姿を見てとることができますが,名にとらわれてしまう人はものごとの眼に見える現象を見ているにすぎません。
 この二つの立場は,同じ道から出てくる立場ですが,そこに見えているものはまったく別のものです。この二つの立場を産み出す道のことを玄といいます。玄は奥が深く,その玄のまた奥の玄はほの暗く混沌としていますが,そこがありとあらゆる微妙なものが生まれるところなのです。

 どうでしょうか。いくらか鮮明になったのではないか,と自讃していますが・・・(笑い)。もっとも,これがわたしの理解の範囲にすぎないことは,白状しておかなくてはなりません。著者の蜂屋さんが,各章の終わりに付してくれている訳注は,その該博な知識に裏打ちされたほれぼれするほどの内容に満たされています。ぜひ,テクストを手にとって確認してみてください。その訳注をわたしなりに受け止めて,試みてみたのがこの拙文です。

 で,問題の第6章との関係です。第1章の最後の章句,「玄之又玄、衆妙之門」(玄のそのまた奥の玄はありとあらゆる微妙なものが生まれてくるところ・門)は,第6章でいう「玄牝之門、是謂天地根」をも包括していて,共振・共鳴している,とわたしには読めてしまいます。すなわち,「衆妙之門」と「玄牝之門」とは,概念の大小の差異があるものの,イコールで結ぶことができるのではないか,と。

 もっと思い切って言ってしまえば,道(タオ)とは「衆妙之門」であると同時に,性や生殖を営む女性器や男性器をも包括し,その思想・哲学の中核に位置づけているのではないか,と。老子はそのことを強く意識して「道」(タオ)を説いているのではないか,と。

 ここに至りついたとき,「生」の源泉のイメージが透けて浮かび上がってくるようにおもいます。そして,第1章の冒頭の「道可道,非常道」の意味もからだに染み込んできます。さらには,老子が説く「無為自然」の意味も,「一」の思想も,あたまではなく,からだでわかるレベルに移行していきます。

 もっと拡げておけば,『般若心経』に何回も繰り返し登場する「無」の意味も,チベット密教の修行の一つとしてプログラム化されているという「男女和合」の行も,剣術の極意として説かれる「男女和合」の術も,そして,ジョルジュ・バタイユの『エロチシズム』や『エロチシズムの歴史』での主張も,みんな「玄之又玄」での「微妙なもの」(「妙なるもの」の方がわたしとしてはすっきりします)が生まれる「ところ」に連鎖・連動しているのではないか,とおもいます。

 これらのことについては,また,つぎの機会に考えてみたいとおもいます。
 今回はここまで。
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