2012年1月31日火曜日

「スポーツは消尽である」という理論仮説立論の試み・Mさんへの応答・その1.

1月28日(土)の「ISC・21」奈良例会での,わたしのプレゼンテーションのなかで,「スポーツは消尽である」という仮説を提示しました。それに対して,Mさんから「この仮説に賛成」だが,それを証明するにはどうしたらいいのか,という趣旨の問いがありました。その場でわたしは,「証明」することは不可能に近いし,また,証明にこだわる必要はない,むしろ,こだわらない方がいい,という趣旨の応答をしました。このことは,さきのブログにも書いたとおりです。

が,その後,時間が経過するにつれ,証明をしようという気にはならないけれども,「スポーツは消尽である」という理論仮説を立ち上げた根拠,つまり,立論の根拠は明らかにしなければならないだろう,と思うようになりました。そこで,まずは,「スポーツは消尽である」という理論仮説立論の試み・Mさんへの応答「その1」として,以下のような考えを公開しておきたいと思います。

この理論仮説は,まだ,わたしの頭のなかで誕生したばかりです。したがって,ずいぶん荒っぽい仮説にすぎません。欠点だらけのものにすぎません。ですので,みなさんとともに揉んでいただいて,より説得力のあるものに仕立て上げていきたいと考えています。ぜひとも,ご意見(反論,支持,異論,など)をお聞かせいただければ幸いです。最初に,まずは,このことをお断りしておきたいと思います。

さて,以下が「その1」の文章です。

太陽の惑星のひとつである地球に生きるわたしたちにとって,太陽は特別な存在である。わたしたち人間のみならず,あらゆる地球上の生命体にとって太陽はなくてはならない存在である。すなわち,太陽なしには,いかなる生命体もこの地球上には存在しない。

その太陽は,その内部で,4個の水素核から1個のヘリウム核に変わる原子核融合反応が起こして膨大なエネルギーを,ただひたすら放出している。太陽は,すでに50億年前から核融合反応を始めており,こんごも約50億年は輝きつづけると考えられている。しかし,太陽は,やがてこの核融合反応を終えると,その輝きを失うという。いわば,太陽の「死」である。すなわち,太陽はひたすら「死」に向かって輝いている,ということだ。ただ,それだけの存在。それ以上のものでもないし,それ以下のものでもない。すなわち,太陽の活動は「消尽」そのものであって,それ以外のなにものでもない。

太陽の死は,同時に,地球上のあらゆる生命体の「死」をも意味する。したがって,すべての生命体は,太陽とともに,「死」に向かって生きている。太陽の寿命がほぼ中程にあるとすれば(100億年の半分の50億年が経過しているとすれば),地球上の生命体は,太陽のこれからの消尽の仕方の変化に合わせて,あらたな「適応」が必要となる。つまり,自然淘汰が起こる。いずれにしても,あらゆる生命体は「死」に向かって生きている。

わたしたち人類もまた,「死」に向かって生きている。いまを生きているわたしたちもまた,「死」に向かって生きている。やがては,みんな間違いなく「死」ぬのである。つまり,「死」から逃れることはできない。すなわち,「生きる」という営みそのものが,すなわち,生命エネルギーの「消尽」そのものにすぎない。

もう少し踏み込んで考えてみよう。

個々の生命体は,誕生以来,ただひたすら「死」に向かって生きている。わたしたち人間もその例外ではない。すなわち,わたしは,オギャーと産声をあげたときから(あるいは,母の卵子が父の精子を受精したときから),ひたすら「死」に向かって生きている。いかなる人間といえども,成長し,老化し,死に至る。仏教でいうところの「生老病死」(しょうろうびょうし)。日々,これ「消尽」あるのみ。(ハイデガー風にアレンジしてみると,人間の存在は「時間性」のなかに拡散していく。時々刻々と変化をし続けるのみの存在,ということになろうか。)

人間が「生きる」ということは,所与の生命エネルギーを,ひたすら「消尽」すること。ただし,このレベルで完結してしまうと,その生は「動物性」のそれと違わない。したがって,人間が「人間性」を「生きる」ということは,所与の生命エネルギーを,ひたすら「消尽」しつつ,自己を超え出る経験を積み重ねること,と言わねばならない。

そして,この自己を超え出る経験のうちのひとつである,「動物性への回帰願望」の実現という経験が重要な意味をもつ。それらは,しばしば祝祭という時空間のなかで繰り広げられてきた歴史的経緯がある。ときには,供犠として。ときには,儀礼として。ときには,贈与として。しかも,酒池肉林を伴いながら。

とりあえずは,ここまでで,Mさんへの応答「その1」としておこう。

2012年1月30日月曜日

奈良・若草山の山焼き。ことしは寒かった。豪勢な花火が色を添える。

1月28日(土)の午後6時から,奈良・若草山の山焼きが,いつもにも増して豪勢な打ち上げ花火の前座のあと,点火された。よく知られているように,毎年,第4土曜日に開催されている年中行事である。しかも,長い歴史をもっている。ことしは,奈良の1300年祭とも重なってか,打ち上げ花火がたくさん上がった。押しかけた多くの観光客は大喜びだったと思う。天候にもめぐまれ,申し分のない山焼きだった。

ただひとつの難点,ことしは「寒かった」。驚くほどに寒かった。わたしはこの15年間,欠かさず定点鑑賞(奈良教育大学の屋上)をつづけているが,こんなに「寒かった」ことは初めてだ。じっと立っているだけで,足の指先から氷になっていくのがわかる。これはいけない,と途中で危険を感じて引き上げた。こんなことは初めてだ。もっとも,毎年,「山焼き」の日は寒い,ということでは有名なのだが・・・・。

ことしは,風がほとんど吹いていなかったので,まだ,屋上に立っていてもよかったと思う。あの寒さに風が吹いたらひとたまりもない。ものの10分ももたないだろう。風が吹かなかったのはよかったのだが,豪勢な花火の連打には不向きだった。なぜなら,花火の煙が上に上がっていかないのだ。風も吹かないからそのまま停滞して宙に浮いている。それでいて,下がりもしない。ちょうど,花火が弾けたあたりにそのまま停滞しているのだ。だから,花火の美しさの邪魔をしているような結果となる。もったいないかぎりだ。

いつもに比べたら3倍も長く打ち上げ花火があげられて,いよいよ,若草山に点火である。奈良県のほとんどの消防団員が掻き集められ,燃やすべき枯れ草の周囲を固める。その人たちが手にもっている懐中電灯がいっせいに光る。それが点火の合図だ。周囲から少しずつ燃え上がる。いつものことだが,左下あたりから勢いよく燃えはじめたのだが,その他のところはなかなか燃え上がらない。枯れ草が湿っているのだろうか。雨が降ったとは聞いていない。では,乾燥しすぎて水でもまいたのか。それは,よく聴くことだ。ただ,ひたすら,勢いよく燃え上がることを期待して待つ。待てど暮らせど,火勢は上がらない。ちょろ,ちょろ,とあちこちが順番に燃え上がるだけ。迫力なし。

その間に底冷えが全身にまわり,これ以上,屋上に立っていたら,完全に風邪を引いてしまう,と判断。そこまで,ということで逃げるようにして退散する。いつのまにか,大勢いた見物人も,あっという間に姿を消していた。残っていたのは,われわれのグループだけだった。

翌29日(日)は,思ったよりは早く起床したので(午前7時20分),京都に向かう前に,わたしの好きな奈良の隠れ道を散歩することにした。東海大のM.M君も一緒に行くというので,連れ立って歩く。奈良教育大学のすぐ北隣の細い路地を入る。その通りには,春日大社の宮司さんの住いもある。その途中から,さらに細い露地に入って志賀直哉旧居に向かう。むかし高畑クラブを組織した志賀直哉が,多くの文人・画人を集めてにぎわったという建物である。建物の設計も志賀直哉が書いたといわれる建物で。いまは,名所のひとつとなっていて観光客にも解放している。もちろん,有料。

そこを通過すると,旧柳生街道にでる。そこを横切って春日大社の境内に入る森のなかの小道(別名:ささやきの小道)をのんびりと歩く。このあたりから鹿があちこちで顔をみせる。こんな朝早くから,森のなかに大きな画架を立てて絵を描いている絵描きさんにばったり。やはり,プロは違うなぁと感心してしまう。ゆるやかな傾斜を登りつめると,いよいよ春日大社への参道にでる。両脇に石でできた灯籠をみやりながら,そのむかし何回もお参りをしたことのある万灯籠を思い出す。もう,遠い記憶になってしまっているから,なおのこと,懐かしい。

春日大社の本殿でいろいろの祈願をするために賽銭をさがす。自分としては気前よく,奮発。ことしに懸ける気合を籠めて。なんとしても,新たな展開がはじまりますように。その大きな転機となりますように,と。おみやげをひとつ買って,本殿の横の灯籠づたいに歩いて,日本最古の酒造所をとおり,宝物殿を通過し,駐車場にでる手前の道を山沿いに折れる。一言主を祀った神社や,その他の神様を祀った小さな祠が並ぶ。春日山から流れてくる川をわたって,石段を一気に昇ると,そこは若草山の麓。

石段には,昨日の山焼きの燃えた黒い灰(草の茎)が散らばっていた。真下から見上げる若草山の最初の笠(三笠山の最初の山)の部分は,みごとに焼けている。最後まで見届けることができなかったので,どうなったかな,と思っていた。が,燃え上がりは上等だったことがこれでわかる。右に若草山,左にお土産物屋さんの軒並みをみながら,手向山神社に向かう。途中の「菊一文殊四郎包永」という有名な刃物屋さんが開いていたら,ペティ・ナイフを買おうと思っていたが,残念ながら,まだ,早くて開店前。

ここからさきは省略。
最終の目的地である二月堂の欄干から奈良盆地を眺めて,JR奈良駅を目指す。小一時間のつもりが,意外に長かったことに気づく。途中で,気温がどんどん下がっていくのがわかる,この日もまたとてつもなく寒い日だった。歩いても,歩いても,しかも,大きなバッグを肩にかけて歩いているのに,少しも暖かくならない。それどころか手の指先から冷えてくる。奈良盆地の底冷えを久しぶりに体感した。そういえば,こういう寒さだったなぁ,とむかしを思い出す。

わたしの大好きな奈良散策コース(そのむかし,よく歩いたコース)をたどることができ幸せいっぱい。M君に,いろいろの思い出話を聞いてもらいながらの散策だったので,さらに一味違う。満足,満足。

JR奈良駅から,M君も一緒に京都に向かう。まもなく,京都駅に到着というときに,昨日書いたブログの『ボクシングの文化史』の書評の情報がとどく。吉報なり,とふたりで喜ぶ。

来年も,もっと大勢で山焼きをみることができるよう,動員をかけておこう。いまから,楽しみ。

「3・11」以降のスポーツ文化を考えるための理論仮説について──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を手がかりにして。

「ISC・21」1月奈良例会でのわたしのプレゼンテーションの報告をしておきましょう。

日時:1月28日(土)午後1時30分~午後6時
場所:奈良教育大学103教室
プログラム:
第一部:情報交換
第二部:研究報告
稲垣正浩(「ISC・21」主幹研究員/神戸市外国語大学客員教授):
テーマ:「3・11」以降のスポーツ文化を考えるための理論仮説について──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を手がかりにして。

プレゼンテーションの要旨を箇条書きにして整理しておくと以下のようになります。
1.「3・11」は後近代のはじまりである。
2.「3・11」は天災と人災のふたつの顔をもっている。
3.フクシマは「原発安全神話」が嘘であったことを証明した。
4.理性の狂気化している(『理性の探求』,西谷修著,岩波書店)。
5.「理性」のはじまり・・・・道具とことばの問題系。
6.動物性からの離脱と人間性への移行・・・・このとき,なにが起きたのか。
  「人間になる」とはどういうことなのか。「人間を生きる」とは。
7.超越(性)への畏敬・・・・宗教的なるものの誕生。
8.供犠,贈与(ポトラッチ)・・・・儀礼・・・・祝祭・・・・・「消尽」・・・・太陽。
9.普遍経済学としての『呪われた部分 有用性の限界』と『エロチシズムの歴史』・・・・「所与」。
10.一般経済学・・・・資本主義経済,カネ,金融化。「所有」の問題。
11.「スポーツは消尽である」という命題。・・・・「命」,「生身のからだ」・・・・「所与」。
12.脱自,脱存(ハイデガーのEkstase とバタイユのextase )・・・・この類似と差異。
  「無意識」(ふロイド),「存在から存在者へ」(レヴィナス),「純粋経験」「行為的直観」(西田幾多   郎),「じかに触れる」(竹内敏晴),「力の一撃」(デリダ),など。
13.自己を超え出ていく経験
14.抑えがたくわきあがる情動・・・・エロスの力・・・・「生きる」力・・・・「消尽」(太陽と同じ)。

以上が,わたしの話の骨子です。おおよそ,この見出しに沿って,ごくコンパクトに説明をしました。しかし,まだまだ進化の途中にあるわたしの思考ですので,これからどのようにこの思考が進展していくのかは,わたし自身にも明らかではありません。ですから,とても粗削りな理論仮説にすぎません。これから,みなさんに大いに揉んでもらって,より説得力のある説明ができるようにしたいと考えています。

したがって,詳しくは,このブログをとおして各論を展開していきたいと考えています。しかも,それは容易なことではありません。相当な時間が必要だとも覚悟をしています。しかし,なんとか理路を整然とさせたいと考えていますので,よろしくお願いいたします。それまで,しばらくの間,猶予をください。

これらの要点を問題提起として提示し,そのあとで,みなさんからご意見をいただくことにしました。わたしが時間を多く使ってしまったために,残り時間わずかでしたが,そのわずかな間に貴重なご意見をうかがうことができました。

そのひとつは,以下のとおりです。
「スポーツは消尽である」という表現や考え方に賛成なのだが,それを立証する,証明する方途を明示してほしい,というMさんからのご意見が,ぐさりときました。で,わたしはとっさに「それはできませんし,また,すべきでもない」と考えています,と応答してしまいました。さあ,大変です。そんなぁ,という顔があちこちに現れ,困るという無言の圧力を受けてしまいました。しばらくは,押し問答となってしまいました。が,この問題は,そんなに単純なものではないからです。

そのとき,わたしはふたつの意味を考えていました。
ひとつは,この問題は禅問答のようなものなので,言説化すればするほど違うものになっていってしまう可能性が強い,ということです。ですから,その内実については,あまり語ることはしたくない,と考えたからです。もちろん,個別的な事例のようなものは提示できるかもしれない(それとても,十分とはいえない)。それにしてもむなしいだけだ,と。つまり,言説化の<外>にあるもの,というのがわたしのイメージでした。でも,この問題は避けてとおることはできない,とも考えていました。これは,とても重い宿題をいただいたなぁ,覚悟を決めました。

もう一点は,やはり,わたしたちはどこまで行っても「近代」の論理から解き放たれることはないのか,という絶望にも似た感情でした。つまり,なにごとであれ,すべて論理的整合性をもつロジックで説明しなくてはならない,という業のようなものに取りつかれてしまっている,ということです。しかし,真理には,言説化できないものもある,いな,むしろ,そちらにこそ比重がある,とわたしは考えています。それどころか,言説化できる真理などというものは,ほんのわずかな,とるに足りないほどのものでしかないのではないか,とすらわたしは考えています。

たとえば,音楽や絵画や彫刻やダンスといった表現芸術は,その言説化不能の世界に迫っていく,分け入っていく,つまり,言語によるロジックを超えでていく分野である,と考えています。スポーツもまた,その分野のひとつである,というわけです。

ですから,「スポーツは消尽である」というだけで精一杯。これで「わかった」というか,「わからない」というか,それだけの世界だというわけです。そこには「善悪」の尺度を超えた,あるいは,「正しい」か,「間違い」か,という価値評価を超えでたところの地平が広がっている,というわけです。どちらかに「断定」した瞬間に,それは,オブジェと化し,ショーズになってしまいます。すなわち,バタイユがいうところの「有用性」のなかに閉じ込められてしまう,というわけです。そうした思考のプロセスこそ,まさに「近代」のロジックそのもの,というげです。この軛から抜け出すこと,これこそが「後近代」のロジックだ,という次第です。

「3・11」が「後近代」のはじまりであるとすれば,まずは,この問題を超えでることが不可欠となります。ですので,Mさんの問いに対して,わたしとしては,あの,わけのわからない禅問答のような応答をするしかありませんでした。しかし,けっして軽んじていたわけではない,ということはこの説明で,ご理解いただければ・・・と思っています。

というような次第で,このプレゼンテーションをきっかけにして,わたしはまた一皮剥けることができました。つぎなる展望が,いま,わたしの目の前に広がっています。ですから,楽しくて楽しくて仕方ありません。このつぎなる思考を,なんとしても深めていって,なんらかの形で提示できるようにしたいなぁ,とほのかな願望をいだいています。それが,どのように表出してくるか,は「乞う,ご期待!」というところ。

とりあえず,2月奈良例会での,わたしのプレゼンテーションのご報告まで。

大阪体育大学大学院の特別講義(27日),無事に終了。

この1月27日(金)に大阪体育大学大学院の特別講義があり,なんとか無事に終ることができました。ことしで3回目だと記憶しています。最初は舞踊論のお話をさせていただいたように記憶しています。が,2回目からはスポーツ史・スポーツ文化論に関するテーマをとりあげて,お話させていただいています。今回(3回目)のテーマは以下のとおりです。

「3・11」以降を生きるわたしたちにとってスポーツとはなにか──スポーツ史的展望からの考察

ずいぶんと長いタイトルをつけてしまったなぁ,といまごろになって反省。でも,この特別講義の依頼を受けたのは半年以上も前のことなのです。ですから,時代がどんなふうに変化しても対応できるテーマを選ぶしかありません。それで苦慮した結果が,上記のタイトルという次第です。まあ,結果論としては,大正解でした。いま,わたしが考えていることのうち,一番,伝えたい内容をセレクトすることができたからです。

大学院生の特別講義といっても,聞き手の院生さんたちの専攻がどのようなものであるのか,まったくわかりません。体育系の大学院ですので,実験系や健康科学やスポーツ医科学系の人たちもいます。わたしがやっているような,スポーツ史やスポーツ文化論を専攻している院生さんは少数派のはずです。ですから,講義内容をどのように構築するかは,相当に考えなくてはなりません。

授業がはじまる前に,大阪体育大学に勤務されている先生方(3人)と,講師控室で雑談をしていました。が,いつのまにか,わたしもふくめて4人で熱の入った議論になっていました。この話をこのまま院生さんたちに聞いてもらいましょうよ,とわたしから提案。みなさん,賛成してくださって,じゃあ,そうしよう,ということになりました。

でも,まあ,いきなりそこに入っていくには,なにがしかの前提が必要だろうということで,まじ,最初にわたしから議論の土俵となりそうな話をして,それを引き継ぐかたちで4人の議論に入りましょう,ということにしました。しかし,授業というものは「生きもの」ですので,そんなにかんたんではありません。その教室の「場」の力がはたらきますので,予定されていたシナリオは,いともかんたんに変更を余儀なくされてしまいます。今回もそうでした。

最初に,わたしが切り出した話は『myb』みやびブックレット(みやび出版)のNo.39号(2012 Spring)に寄稿した初校ゲラでした。2月下旬に刊行される,その前の校正段階の原稿を,たたき台にして,話の糸口をつかもうというものでした。その原稿のタイトルが,「3・11」以後のスポーツを考える,というものでした。ですから,ちょうどいいのでは・・・と考えた次第です。

ここでなにを書いたのかは,『myb』No.39号で確認してみてください。なお,この39号は「特集・スポーツが問われている」というもので,わたしの原稿もそこに寄稿したものです。ちなみに,わたし以外の執筆者は,西谷修,今福龍太,松浪健四郎,森田浩之,といった錚々たる顔ぶれです。この人たちが,いま現在のスポーツ情況をどのように見きわめ,なにをとりあげて論じているかは,とても楽しみでもあります。それぞれ,専門の異なる論客が,なにに着目しているのか,そして,どのような展望をもっているのか,わたしには待ち遠しくて仕方がありません。

興味をお持ちの方は,どうぞ,『myb』をインターネットで検索してみてください。ホーム・ページがありますので,詳しい情報を得ることができます。できれば,購入していただけるとありがたいと思っています。

話をもとに戻しまして,この初校ゲラをもとにして,若干,わたしが話をふくらませてみました。これが意外に面白く展開したので,あとは,うまく議論ができる,と楽しみにしていました。が,その「場」の力というものは恐ろしいものです。院生さんたちの眼の輝きが,いつもと違う。これはどういうことなのだろう,と司会をしてくださった岡崎先生は思ったに違いありません。ですから,まずは,簡単に,いまの話の印象・感想を院生さんたちに聞いてみよう,ということになりました。

ここから意外な展開のはじまりでした。院生さんたちの専攻は,種々雑多。でも,その多くは実験系の院生さんでした。その院生さんたちが,わたしの想定をはるかに越える反応をしめしてくれました。のみならず,自分の感じたことをとても素直に言説化してくれ,わたしにはとても勉強になりました。みなさん,とても表現力があって,ああ,この人たちはすごいなぁ,と思いました。いつもですと,どちらかといえば受け身の院生さんが多く,自分の意見というものを持とうとする人の方が圧倒的に少数派です。ところが,今回は違っていました。ですから,教室の「場」の雰囲気がとてもいいのです。

ということで,とうとう,この院生さんの話を聞いているうちに,時間はとっくのむかしにすぎてしまいました。全員の意見を聞き終わったら20分も時間オーバーをしていました。悪いことをしてしまったなぁ,と思いながらも,わたしとしては大満足の授業がなんとか無事に終了しました。こういう授業ができると,よかったなぁ,教師冥利につきる・・・と思います。しかし,いつも,そうなるとは限りません。その正反対のときのショックたるや,申すまでもありません。

いやいや,大阪体育大学大学院の院生さんたちは素晴らしい。感謝あるのみです。
お世話をしてくださった大学院事務局の窪田さんをはじめ,先生方にこころから感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。

〔追記〕この翌日の28日(土)の奈良教育大学で開催された「ISC・21」奈良例会での,わたしのプレゼンテーションにも,2人の大阪体育大学の院生さんが参加してくれました。ありがたいことだと感謝しています。

2012年1月29日日曜日

『ボクシングの文化史』(東洋書林)の書評が載る・日経新聞。

昨年末に刊行されたばかりの『ボクシングの文化史』(東洋書林,稲垣監訳,松浪・月嶋訳)の書評が「日経新聞」にでた。書評してくださったのは,川成洋さん。まだ,刊行されたから一カ月に満たない,このタイミングのよさはありがたい。

おまけに,訳者の松浪さんと一緒に奈良から京都に向かう列車のなかで,まもなく京都駅に到着する寸前のところで,この情報を知ったからだ。それも,松浪さんの携帯にメールが入り,友人から書評がでたよ,という知らせだった。そのあと,すぐに別れて,別々の新幹線に乗ることになっていた。これはとてもいいお知らせだった,と二人で喜び,さよならをした。

早速,新幹線に乗る前に駅の売店で「日経新聞」を買った。列車の到着を待っている間に,なにはともあれ,書評を読んだ。新聞で書評されるのは,これで何回目だろうか。もう,精確な記憶はないが,いつも思うことは,不思議な違和感である。取り上げてくれたこと事態はとても嬉しいのだが,その内容を読むと,どこか,なにかが違うなぁ,と思う。

もともと書評というものはそういうものなのかも知れない。著者としての,こちらの立場は「俎の上の鯉」のようなものだ。どのように裁かれようと,板前さんのなすがままだ。この鯉は小さいなぁと板前さんが思えば,小さいと書く。立派だなぁと板前さんが思えば,立派だと書く。評者の感じたことがそのまま文章になる。それを,著者(訳者)は受け取るだけでしかない。

だから,ああ,そうなのかぁ,川成さんはそのように読んだのだ,と思うだけのことだ。ということは,その逆もまた,まったく同じだ,ということだから。

自分の著書にしろ,訳書にしろ,こういう主張を籠めて書いた,こういう本だと思って訳した,としてもそれはあくまでもわたしの主観でしかない。そのわたしの主観をそのまま読者が受け止めてくれるとは限らない。場合によっては,まったく違う解釈や理解のされ方をしてしまうこともある。それはそれでまた仕方のないことなのである。どうしようもないのだから。

考えてみれば,新聞や雑誌の書評に与えられる字数はきわめて少ない。その少ない字数のなかで,なんらかの書評をしなくてはならないから,書評をする人もまた大変な制約を受けていることも間違いない。その限られた字数のなかでなにを言うか,ここがまた至難の業なのだ。

じつは,わたしもまた,最近になって(もう3年になるのかな)評論の仕事にたずさわっているので,他人事ではない。『嗜み』(文藝春秋)という雑誌の巻末に「クロスカルチャーレヴュー」というコーナーがある。そこでは,「Book」「Art」「Movie」「Music」「DVD/Blue-ray」などが取り上げられている。そして,これらの評論をする仕事がわたしのような者にも与えられるようになった。ここでの字数は800字弱である。

わずか800字で,単行本や映画や音楽を評論するというのは,まさに至難の業だとしみじみ思う。もちろん,わたしのような初心者になにが言えるのか,というまずは前門の虎を克服しなくてはならない。加えて,ことの本質を把握しえているのか,という後門の狼も待ち受けている。だから,いまもなお,『嗜み』の評論をやるときには七転八倒である。もう,必死になって,ピンポイントで問題の核心に触れることを目指す。

単行本にしろ,DVDにしろ,何回も繰り返し確認できるものはまだしも,映画のように試写会一回で,問題の核心をとらえることは,素人には大変である。なにものにもとらわれることのない,可能なかぎりの「平常心」をこころがけるのみだ。そして,素直に感じられたことを,そのまま,評論のことばに置き換えていくしかない。それが,わたしにとっての「真実」なのだから。

となると,映画監督の思惑と,わたしの受け止め方は,必ずしも一致しない,などということは当たり前のことだ。それどころか,トンチンカンなことが起こらないとも言えない。こういう評論という仕事の「からくり」がわかるだけに,こんどは,自分の著作物が評論されるときに,心穏やかではなくなってしまう。

こんどの『ボクシングの文化史』を書評してくださった川成さんが,はたして,どんな心境でこの文章を書かれたか,それがわたしなりに,なんとなくわかる。たとえば,冒頭から,相当に気合が入っていて,本の内容を超えたところから話を始めている。だから,「あっ」と思う。そして「パンクレーション」ということばをみて,またまた,「あっ」と思う。わたしの頭のなかには「パンクラチオーン」はあっても,「パンクレーション」はまったく存在しないからだ。いつのまにか,ドイツ語読みのまま,日本語化し,そのままカタカナ表記になってしまっている。しかも,わたしたちのスポーツ史学会では,「パンクラチオーン」は認知されていても,「パンクレーション」となると初耳だ,ということになる。

こんな英語の発音表記をとるか,ドイツ語読みの表記をとるか,こんな細かなこともふくめて,書評された文章を読むときは「ドキドキ」ものである。そして,最後には,「うーん,そうなのかぁ」というような,微妙な違和感が残る。それでいいのである。なぜなら,わたしの思考の幅がほんの少しだけ広くなるのだから。

それにしても,川成さん,書評をありがとうございました。いろいろ勉強になりました。
これからも,どうぞ,よろしくお願いいたします。

2012年1月26日木曜日

「3・11」以後のスポーツを考える・講演シリーズについて。

「3・11」以後,わたしはうろたえるようにして「生きる」とはどういうことなのか,と真剣に考えはじめた。それまでの,わたしの頭のなかにあった「生きる」がいかにいい加減なものであったかを恥じながら。要するに惰性の「生きる」でしかなかったからだ。このことが契機となって,それまでつづけてきたジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』読解の取組み方が,根本から変わった。その結果,まったく新たな別の知の地平がみえてきたのである。

この営みの一部は,断続的ではあるが,このブログでも書いてきたとおりである。このことと,おそらく,どこかで連動しているのであろう。「3・11」以後のスポーツを考える,というテーマでの講演や特別講義などの依頼が増えてきた。非公式な場でのそれもふくめると相当の回数になる。そして,そうした場を重ねるごとに,わたしの思考もまた進化していった。とてもありがたいことである。鍛えられたのは,このわたしだったのだから。

その総仕上げとなりそうな講義や講演がこのあともつづく。公的な場でのそれらを,これまでとこれからを合わせて一覧表にしてみると以下のようになる。

〇2011年10月9日(日)午後1時~2時30分,日本余暇学会主催・講演,タイトル:「『3・11』以後の日本人のライフ・スタイルとスポーツ文化のゆくえ──「公」と「私」の交わる場所で,場所:実践女子短大(日野市)。日本余暇学会会員対象。こちらでの講演要旨は,まもなく学会機関誌に掲載される予定。
〇2011年11月30日(水)午後4時40分~午後6時10分,椙山女学園大学主催・特別講義,タイトル:「『3・11』以後の身体について考える」,場所:名古屋市・日進キャンパス。学部学生対象。一般市民にも公開。
〇2012年1月27日(金)午後4時10分~午後5時40分,大阪体育大学主催・特別講義,タイトル:「『3・11』以降を生きるわたしたちにとってスポーツとはなにか──スポーツ史的展望からの考察」,場所:大阪体育大学。大学院生対象。学部学生,その他にも公開。
〇2012年1月28日(土)午後3時~午後6時,「ISC・21」1月奈良例会主催・講演,タイトル:「『3・11』以降のスポーツ文化を考えるための理論仮説──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を手がかりにして」,場所:奈良教育大学教職員会館,「ISC・21」研究員対象。奈良教育大学卒業生,学生,その他にも公開。
〇2012年2月3日(金)午後2時30分~午後4時10分,神戸市外国語大学主催・講演,タイトル:「『3・11』以後のスポーツ文化を考える」,場所:神戸市外国語大学三木記念会館,一般市民対象。

以上。ここまで書いていたら,初校校正ゲラがとどいた。その内容もまた「『3・11』以後のスポーツを考える」というタイトルになっている。しかし,このタイトルについては,これから修正の予定。こちらのエッセイは,『myb』みやびブックレット(みやび出版)に掲載され,2月下旬に刊行される予定。4ページほどの短いエッセイである。

気がついてみれば,「3・11」漬けになっていた。そして,このできごとが,つまり「世界史」に残るであろうできごとが,わたしのこれまでの生き方を大きく揺さぶりつづけてきたことも,こうして書き出してみるとよくわかる。それだけではない。このブログをとおしても「3・11」以後の思考や雑感を何回も繰り返して書いている。

「3・11」まで,もうあとわずかで1年が経過する。よくも悪くも,これまでヴェールにつつまれてきた日本の中枢部の腐敗ぶりが,もののみごとに露呈してしまった。そして,「3・11」以前までのわたしたちの「生き方」そのものまでもが,いかにいい加減なものであったかということも,知らしめられることになった。こんな「できごと」が,わたしの生きている間に起ころうとは夢にも思わなかった。が,それが起きてしまったのである。

路頭に迷う,という。「3・11」の直後,わたしは一瞬ではあったが,路頭に迷った。どうしたらいいのか,と。そこからの立ち直りを,どのように諮ればいいのか,と。その悪戦苦闘ぶりが,はからずも,このブログにも現れている。

そうして,いま,ようやくたどり着きつつあるのは,「3・11」は「日本後近代」のはじまりである,という考え方である。つまり,「3・11」を通過することによって「日本近代」が営々と築いてきた,さまざまな制度や組織や法律などが,そして,慣習行動までもが,もはや限界に達し,さまざまな局面で破綻をきたしている,という現実に直面し,もはや,その継承・発展はありえないということが明らかになったからである。となれば,「日本近代」に代わる新たな「日本後近代」のロジックが必要になってくる。つまり,日本はいま,否が応でも,変化を余儀なくされている。それが,わたしの考える「後近代」のはじまりである。

この仮説を,わたしは長い時間をかけて温存してきた(『スポーツの後近代』のずっと前から)。そして,とうとう「3・11」がその決定的なターニング・ポイントとなる,という確信にいたりつつあるのだ。なんとも不思議な局面との遭遇である。

このことと連動して,わたしの専門である「スポーツ史」研究もまた,大きく変化せざるを得ない情況に直面することとなる。それは,どのように変化することになるのか。後近代のスポーツ文化が,いよいよ具体的な姿を現すことになる。

これらの,いま,まさに進行しつつある思考の変化・変容の,最先端の問題が,さきに記したように,27日(金)の大阪体育大学での特別講義と,28日(土)の「ISC・21」1月奈良例会での講演で験されることになる。そして,最後の仕上げが,2月3日(金)の神戸市外国語大学が主催する,一般市民向けの講演である。わたしにとって,きわめて重要な意味をもつことになるであろう講演・講義が,このあと集中的につづく。

いまは,不思議な期待と不安のないまぜになった気分でいる。いまさら慌ててみたところではじまらない。こうなったら,その場の力を借りて,わたし自身の思考そのものがどのように弾けるか,それを待つのみだ。なにも起こらなければそれだけの話。なにか起これば,それは大収穫。なにか,嵐の前の静けさのような気分。嵐がやってこなければ,なにも始まらない。

わたしの好きな若山牧水の短歌に
「いざ行かん,行きて,まだ見ん山を見ん,この寂しさにきみは耐うるや」というのがある。この短歌に古関裕而が曲をつけ,藤山一郎が歌った。その歌でも歌いながら(もちろん,心の中で),27日は出発することにしよう。身を投げ出すようにして・・・・。

2012年1月25日水曜日

「ISC・21」3月東京例会の会場の変更について。

〔掲示板〕閉鎖の間の,ブログでのお知らせです。

3月19日(月)午後1時から開催予定の「ISC・21」3月東京例会の会場が変更になりましたので,お知らせします。
青山学院大学総研ビル3階第11会議室を取り止め⇒青山学院大学ガウチャー礼拝堂のある建物の5階・第13会議室に変更です。
ガウチャー礼拝堂のある建物は,正門を入ってまっすぐに進み,突き当たったところの右手に見える建物です。
以上,お知らせまで。

〔追伸〕
これもまた,読まれた方は,下の「共感した」にクリックを入れてください。

2012年1月24日火曜日

緊急のお知らせ・「ISC・21」のHPを一時閉鎖します。

「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)のHPの「掲示板」を,一時,閉鎖します。
このことをお知らせする場所がありませんので,わたしのブログをとおして,関係者一同にお知らせします。

理由は,悪質な書き込みが,集中的に行われ,掲示板の容量をオーバーしてしまったため,機能不全となったためです。まことに残念なことではありますが・・・・。

これまで,掲示板の管理人が,悪質な書き込みを見張っていて,そのつど,消去してきました。が,今回は,いっときに大量の書き込みが行われたために,掲示板の容量をオーバーしてしまいました。なぜ,このようなことをするのか,わたしには理解できません。だれも得をする人がいないというのに。ほんとうに困った世の中です。そこで,一時的に,この掲示板を閉鎖して,つぎなる対策を立てることになりました。

これまでは,だれでも,いつでも,書き込みができる,開かれた掲示板をめざしてきました。が,今回のようなことが起きますと,このままではいけないと考える必要がでてきました。どのような方法にするかは,これから,管理人と相談をして,決定したいと思います。技術的な問題が解決するまで,いま,しばらくお待ちください。

それまでの間,「ISC・21」関連の緊急の連絡は,このブログをとおして行いますので,よろしくお願いいたします。どうしても必要な連絡がありましたら,わたしの方に直接,メールをお願いします。すぐに,対応したいと思います。

取り急ぎ,緊急のお知らせまで。

〔追伸〕
こんご,掲示板に関連するブログにかぎり,読まれた方は,ブログの下にある「共感した」をクリックしてください。どのくらいの人が確認していてくださるかの目安にしたいと思います。よろしくお願いいたします。

山田詠美の最新作『ジェントルマン』を読む。大傑作です。

先週の金曜日(20日)に発行された『週刊読書人』の一面トップに,山田詠美さんの顔をアップにした大きなカラー写真が載り,彼女の最新作『ジェントルマン』(新潮社)についてのインタビュー記事が,二面にわたって紹介されていました。久しぶりの詠美ちゃん(むかしから,わたしは勝手にそう呼んできました。そうです。熱烈なファンです)の登場だったので,一気にこの記事を読みました。素晴らしい内容でした。

ひさしぶりでしたので,えっ,そんな小説を書いたの?という驚きがまずはありました。そして,すぐに,その足で近くの本屋に走あました。が,そこにはありませんでした。そこで,仕方がないので,二子玉川の大型書店まで足を伸ばしました。さすがに,そこにはありました。

人気作家の話題作となると,川崎あたりのふつうの本屋にはなかなかまわってきません。田舎に住む悲劇。川ひとつ(多摩川)超えて,世田谷区に入ると大手の本屋がありますので,そこまでいくと置いてあります。本の世界も大手の本屋が,売れる本は最優先で買い占めてしまう,ということを聞いています。つまり,取り次ぎ業者が独占的に大手書店と手を結んでいるからです。ほんとうに,いやらしい世の中になってしまったものです。こんなところにまで資本の手がのびてきていて,好き勝手なことをやっているわけです。その陰で,良心的な小さな,個性的な本屋がつぎつぎに潰れていきました。これじゃぁ,電機屋さんの世界と同じではないか。と,ついつい,愚痴がでてしまいます。

さて,苦労して手には入れたものの,その前に片づけておかなければならない原稿の仕事がありました。だから,読みたい本を目の前に置いたまま,禁欲生活がつづきました。昨夜遅く,ようやく,その原稿が終わりましたので,今日は解禁日というわけです。午後から,待望の『ジェントルマン』を読みはじめ,いま,終わったところです。

詠美ちゃんの最新作は,いつもそうですが,今回もまたわたしの知らない新しい世界を切り開いてくれました。読む前と読んだ後とでは,世界がすっかり変わってしまうほどです。つまり,わたしという人間を,わたしの<外>に引っ張りだしてくれて,また,ひとまわり大きくしてくれる,というわけです。これまでも,ずっと詠美ちゃんの作品を追っかけてきましたが,この感想はいまも同じです。だから,詠美ちゃんの作品は,彼女が新しい作品を書くたびに大きな話題となります。そして,多くの賞を頂戴することになります。詠美ちゃん自身が,日々新たにして,つねに,自己変革をくり返しているからです。同じところに立ち止まるということをしない,そういう人なのです。

今回は,驚いたことに,なんと,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を解体して,小説にしたのではないかと思われる,そういう描写が随所に登場します。ここもそうだ,あっ,ここもまたそうだ,とそんなことをくり返しながら,最後まで興奮したまま一気に,この本を読みました。ちょうど,いまの,わたしが読むにはもっともタイミングがよかったということなのでしょう。

そういえば,かなり,むかしから「猫の眼でまわりをみてごらん。おかしなことがいっぱい見えてきます」と詠美ちゃんは書いていました。人間がいかに不遜で,奇怪しくなってしまっているか,という警告を発していたというわけです。

今回は,詠美ちゃんが,また,一段と進化していて,加えて,わたしのレシーバーも感度がよくなっていて,という次第で相乗効果もあって,いいことだらけでした。ですから,とても深い感動があって,そこから伝わってくるメッセージはずっしりと重いものがありました。人間とはなにか,と問いつづけてきた詠美ちゃんの哲学があちこちに散りばめられていて,この人の人間洞察の奥行きの深さに目眩を起こしそうでした。しかも,これまでどおり,研ぎ澄まされた文章は,無駄なところがどこにもない,密度の濃い,凝縮された詩のようなことばの連鎖です。ですから,ひとことも見逃すことのできない,深い味わいがあります。思わず,何カ所も抜き書きしたくなるような,そういう衝動にかられるばかりでした。

さて,「ジェントルマン」とは,お断りするまでもなく,イギリス近代が生み出した男性の理想像のひとつです。この小説の主人公は高校時代から,スポーツも勉強もでき,だれかれなく優しく声をかける気配りのできる,文字どおりのジェントルマンです。のちに,大学を卒業して銀行マンとなっても,じつにバランスのとれたジェントルマンの姿勢を貫いて生きていきます。一点の非のうちどころもない,完全無欠の人生を送っている,かに見えます。しかし,それは表の顔であって,その裏には,人に知られることなく禁を破ることに快感をいだく,恐ろしい犯罪者の顔をもっています。言ってみれば,ヒューマニズムに満ちた人間の顔と,衝動的で,暴力的な動物の顔の二つを生きている人物,ということになります。この主人公を中心に,不思議なキャラクターをもつ人間たちが渦巻く人間模様が,この小説の大きな枠組みです。

もう少しだけ踏み込んでおきますと,この主人公に恋い焦がれている同級生の同性愛者がからみます。そして,同性愛者からの繊細なまなざしと異性愛者たちのマンネリ化した営みが複雑にもつれ合いながら,人間の業のようなものをきめ細かく描写していきます。もっと言っておけば,バイセクシャルの微妙な世界にも踏み込んでいきます。そうして,男と女という近代の単純な二項対立の世界が引き起こす暴力装置にも,詠美ちゃんのまなざしは分け入っていきます。

そうして,「ジェントルマン」という一見したところ立派な「男」の生き方にみえる理想が,じつは,「生きる」とういことの内実を伴わない,まことに形骸化した,たんなる仮面の世界でしかない,ということを明らかにしていきます。そして,むしろ,「ジェントルマン」という仮面に頼ることなく,ありのままの姿(たとえば,性同一性障害)をみずから認め,そのままの生をまっとうすることこそが,人間が「生きる」という実態に迫ることになるのだ,という詠美ちゃんからの熱いメッセージが伝わってくる。そして,そこに,わたしは深く同意する。

このあたりのところは『トラッシュ』以来の,詠美ちゃんのむかしから抱えているテーマに連なるものですが,今回は,さらに一歩踏み込んだ,わたしの知らない世界を描き出し,人間の奥行きの深さを知らしめてくれました。ですから,これまでとはまた違った,まったく新たな感動をよぶことになりました。人間とはなにか,とわたしもまた深く考えることになりました。

人間は,ヒューマンとアニマルの二つの「生」を内側に抱え込んでいることを,もっと素直に認めるべきだ,という詠美ちゃんのむかしからの主張があります。そして,その両者がバランスよく現実の世界に実現できるようにするにはどうしたらいいのか,と繰り返し問いかけてきます。つまり,昼は淑女のごとく,夜は娼婦のごとく・・・というわけです。この小説のテーマでいえば,昼はジェントルマンのごとく,夜はアニマルのごとく。

人間は,ジェントルマンとしてだけでは生きていかれません。また,アニマルだけでは社会が受け入れてはくれません。この宙づり状態が,現代社会を生きるわたしたちのありのままの姿なのです。この矛盾した「生」をわたしたちが引き受けなくてはならないのは,人間が動物性の世界から抜け出してきて,人間の世界を築きはじめたときからの,宿命(あるいは,業)のようなものです。ですから,終わりのない,永遠のテーマとなるわけです。わたしたちは永遠に,この引き裂かれた「生」を引き受けなくてはならないのです。

この世界は,まさに,わたしがこだわってきたジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』にそのまま通底するものです。ですから,わたしには,みごとなまでのバタイユとの符合が,今回は驚きの発見でした。詠美ちゃんは,さきの『週刊読書人』のインタビュー記事では,バタイユのことはひとことも触れてはいませんが,当然のごとく,彼女の視野のなかにある,とわたしは確信しました。

そんな永遠のテーマを詠美ちゃんは,手を代え,品を代えして,小説世界で説きつづけていきます。今回のこの作品は,恐るべき完成度の高いものとなっている(とわたしは思う)。まぎれもなく,彼女の畢生の傑作です(これまでも,新しい作品がでるたびに,わたしはそう思ってきましたが)。それほどの,素晴らしいできばえだと確信しています。

ぜひとも,ご一読を。

またまた,大きな話題を呼ぶことになるでしょう。それは間違いありません。
詠美ちゃんファンとしては,鼻高々です。

芥川賞選考委員を辞退したイシハラ君に,この本を読ませてみたい。理解不能というのだろうか。

2012年1月22日日曜日

把瑠都の初優勝,おめでとう!先輩大関の意地。日本人大関誕生の皮肉な効果。

琴奨菊につづいて稀勢の里が大関となり,日本人大関の活躍を期待した人は多いだろう。しかし,意外や意外,二人の日本人大関の誕生によって,眠っていた外国出身大関が発奮した。そして,大活躍。その結果,陰が薄くなってしまったのが横綱白鵬だ。

大関が活躍する場所は面白い。

横綱白鵬を倒す力士の登場は,当分の間,ないだろうと思われていた。それほどに,白鵬の強さが際立っていた。他の力士がつけ入るスキはない,とまで思われていた。しかし,そうではなかった。じつは,白鵬がダントツに強かったのではなかったのだ。他の力士が不甲斐なかっただけの話。つまり,白鵬を除く他の力士が弱すぎただけの話。そのことが,この場所で証明された。

それにしても,相撲というものは面白い。心技体というが,そのトップにあるのが「心」だ。この「心」の持ち方ひとつで相撲内容は大きく変化する。そのことを今場所はじつによくみせてくれた。心技体のうち,技と体にめぐまれた若手力士がつぎつぎに育っているのに,肝心要の「心」が足りないために足踏みする有望力士が多い。

今場所,際立って奮起したのは,外国出身の大関陣。琴奨菊や稀勢の里に追い越されてなるものかとばかりに,闘志に火がついた。とりわけ,一度も優勝経験のなかった把瑠都の意識が大きく変化した。その結果,相撲内容まで大きく変化した。前半のバタバタ相撲が,少しずつ落ち着いてきて,後半には力強い相撲が何番もあった。とりわけ,琴欧州を圧倒した力相撲は,把瑠都の将来を照らしだす素晴らしい相撲内容だった。あの型ができあがると,把瑠都は間違いなく横綱になれる。その意味では,いま,最短距離にいる。

相撲というものは面白いものだ。把瑠都ほどの馬力があっても,気持に迷いがあったり,闘志が足りなかったりすると,いとも簡単に攻め込まれてしまう。先場所までの把瑠都はそうだった。今場所は,迷わず前にでることに専念した。そして,粗削りながら,がむしゃらさもでてきた。これでいいのだ。相手につけ入るスキを与えない,そういう攻撃力が,相手得意の型に持ち込ませない破壊力となる。その印象が力士たちの間に広まっていくからこその,あの稀勢の里をはたき込む変化ワザが生きるのだ。だれでもできるワザではない,ということを銘記すべし。

今場所の初優勝で,把瑠都は大きな自信をもつことができただろう。立ち合いの破壊力をもっともっと磨いて,相手がいやがるような型を身につけ,その上でがっぷり胸を合わせるところに持ち込めば,あとは把瑠都の思いのままだ。諸手突きで突き放し,相手の上体をおこした上で,相手が突っ込んでくるところを軽くいなして,横から上手をつかみ,一気に振り回すような型をもつこと。そう,あの琴欧州戦のときのような。

休場つづきだった琴欧州も,今場所で,なにかをつかんだはず。日馬富士も,スランプから眼を覚ましたかのような活躍をした。白鵬を倒す最短距離にいるのは日馬富士だと,わたしはずっと以前からみている。真っ向勝負で突き立てておいて,一瞬の間合いで,白鵬を横向きにさせるスピードとセンスは天性のものだ。今場所も,過去の真っ向から突き立てる立ち合いが白鵬の頭にあったからこその,変化ワザがみごとにはまったのだ。白鵬を上回る敏捷性を武器に,日馬富士も相撲の型を身につけること。

こうして,外国出身大関たちが大きく立ちはだかってくると,日本人大関も黙ってはいられまい。もっともっと稽古をして,先輩大関を超えでていける力をつけること。そうして,壮烈な大関同士の闘いがはじまると,大相撲はまことに面白くなる。そこに,つぎの大関候補が割って入ってくる。そういう期待のできる力士はごろごろしている。いつ,目覚めるか。つまり,しっかりと自覚した「心」をわがものとするか。そのとき,相撲が「化ける」。

その意味で,今場所の把瑠都の初優勝のもたらす効果は大きい。把瑠都を先頭にして,打倒白鵬の意気込みを大関陣がもつこと。そして,それにつづく有望力士がつぎつぎに名乗りをあげること。そうなると,大相撲全体が白熱してくる。そうなったときに,白鵬のほんとうの強さが証明されることになろう。これまでの白鵬の強さは,他の力士が弱すぎただけのことだ(と,わたしは考えている)。大関が元気になれば,白鵬ももっともっと気合が入ってこよう。

このとき,上質の相撲がみられるようになる。それこそが,わたしの期待する芸能としての大相撲なのだ。その世界は,たぶん,歌舞伎のような「美」意識を挑発するような,アーティスティックな濃密な時空間を醸しだすことになろう。そこまでくると,もはや,だれが勝っても負けても,みんな大満足するような一大スペクタクルの完成である。

大相撲のめざす世界はそれではないか。

把瑠都の初優勝を見届けたところでの,わたしの感想である。
まずは,初優勝,おめでとう。そして,来場所はもっと強くなった姿をみせて欲しい。
ヒーロー・インタヴューでの,あの涙は美しかった。わたしも,もらい泣きしてしまった。こういう涙はいいものだ。把瑠都よ,来場所の嬉し涙をこころから期待しているから。

2012年1月21日土曜日

「ダルビッシュ・有」という商品のゆくえ。人間の事物化への道。

いま,ダルビッシュ・有の記者会見が行われている。途中までテレビでみていたが,いやになって書斎に籠もる。しかし,ある一点のことが気になって,仕事が手につかない。ならば,仕方ない。それを書いて,吐き出してしまおう。

ある一点とは,「ダルビッシュ・有」という人間が「商品」として売買されていくことの,なんとも言えない居心地の悪さとでもいえばいいだろうか。プロの選手だから,なんぼのものとして値段がつけられ,商取引の対象とされることは,いまでは当たり前のことだ。サッカー選手はもっと短期間の商品として,あちこちに移籍されている実態を見せつけられているから,もう慣れっこになっている。そして,こうしたスポーツ選手の商品化はますます拡大し,底辺を拡げつつある。まだ,無名の選手に対するスカウティングは,あらゆる競技種目に広がりつつあり,その背景には金銭が蠢いている。たぶん,こうした選手の商品化は,現状では,とどめようもなく浸透していくのだろう。

そういう実態の頂点の一つとして,「ダルビッシュ・有」の商取引が,多くの人びとの耳目の対象となっている。だから,アメリカで行われている記者会見が,リアル・タイムで日本のテレビが放映している。緊張しきったダルビッシュの顔がアップで映し出され,マウンドの上にいるとき以上に,ピリピリした神経質そうな表情の一部始終が伝わってくる。このあたりは,いかにも人間・ダルビッシュが透けてみえていて,微笑ましくもある。

しかし,わたしが居心地の悪さを感じるのは,ふたつある。
ひとつは,ポスティング制度というアメリカ産の商取引のルールに,おそらくなんの疑問もいだくことなく身をゆだねていく日本のプロ野球選手たちの行動と,それを当たり前のこととして報道するジャーナリズムの姿勢である。
もうひとつは,人間の「事物化」(バタイユ)という現象が,こうして無意識のうちに,日常化し,当たり前のこととなっていくという事実に対してである。

前者のポスティング制度は,言ってみれば,TPPと同じで,アメリカの定めた商取引の基準に,あらゆる国の移籍希望の野球選手を巻き込んでいこうというものだ。文句のある奴は,ローカルな野球を楽しんでいればいい。メジャーの選手にはなれないだけの話だ,として切って捨てるシステムだ。つまり,野球のグローバリゼーション,それも,アメリカのメジャー中心のグローバリゼーション,その一翼をになう制度なのだ。こうして,なし崩し的に,アメリカのスタンダードが世界を支配していくことになる。気がついたら,もう,身動きできない状態が世界に浸透していく。「法」という名の暴力装置の発動である(「法制定的暴力」=ベンヤミン)。

それもまた,多くの人びとの無意識に働きかけるという手法によって。なぜなら,ジャーナリズムが,ポスティング制度の普及がもたらす問題点については,なんの批判もしようとしないからだ。あるいは,そんな矛盾に気づこうともしないし,気づいても無視するのが落ちだ。こうして,さらに,「法」が正当なものとして維持されていく暴力が発動する(「法維持的暴力」=ベンヤミン)。

そして,その「法」がもたらす甘い蜜を求めて,ヤクザな人間たちが虎視眈々と新たな「商品」をスカウティングし,資本家に売り込む,という図式ができあがる。ダルビッシュ・有君は,こうして,みごとな「値段」がつけられたということだ。

後者の,人間の「事物化」の問題はもっともっと深いところでの,もっとも深刻な哲学上のテーマだ。つまり,人間が「生きる」ということはどういうことなのか,という問いに突き当たる。

この議論を,いま,ここで展開するだけの余裕はないので,ごく短絡的になるけれども,結論的なことだけを述べておこう(詳しくは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を読む,という一連のブログで確認していただきたい)。

バタイユに言わせれば,人間の事物化の第一歩は,人間が動物性の世界から離脱し,人間性の世界に踏み込んだときにはじまる,という。だから,人間の事物化とは,きわめて,「人間的」な営みでもあるのだ。別の言い方をすれば,人間の内なる動物性を抑圧すればするほど,人間の「事物化」は進展する。文明化の過程は,まさに,人間化の過程であり,動物性から遠ざかることでもあるのだ。それを推進した原動力こそ,人間の「理性」である。

その頼みの「理性」が,どこかで,ボタンをひとつかけ違えたために,「狂気」と化すというとんでもないことが起きてしまった。それが,まさに,現代社会のあちこちで起きている,狂った現象の根幹をなすものだ。そのことに,わたしたちの多くが気づいていない,それが,まさに大問題なのだ。

しかし,原発事故をめぐるその後の展開をとおして,多くの人びとが,なにかが狂っているということに気づきはじめている。「原発安全神話」もまた,わたしたちの無意識に,意図的・計画的に働きかけられた暗示によって,でっち上げられたものだった。

「ダルビッシュ・有」という商品が,これからしばらく大きな話題となって,メディアを賑わすことだろう。しかも,それが人間の事物化に向かう動力と,深いところでつながっているのだ。多くの人びとがなにも気づかないところで。長い人類史にとっても,画期的なことのひとつとして。しかも,スポーツが人類史に大きな影響力をもつ,そういう局面に,いまわたしたちは立たされているのだ。

しかも,狂気と化した理性の延長線上に。

2012年1月20日金曜日

大相撲「優勝争いに冷や水」と書く新聞の愚かさ。

新聞に大相撲の記事を書く人たちというのは,どういう人たちなのだろうか,といつも思う。ずぶの素人なのか。それとも,大相撲についてそれなりの勉強をしている人たちなのか。なかには,ベテランの大相撲担当記者もいるはず。なのに,見出しをみると,まるでポピュリズムの大通り。

今朝の新聞(『東京新聞』)には,昨日(19日)の取り組みについて,「立ち合い変化 ため息」「優勝争いに冷や水」という大見出しが踊る。そして,その記事の書き出しは以下のようである。

「興ざめ」としか言いようがない。立ち合いの変化で把瑠都が全勝を守り,日馬富士は真っ向勝負を避けて白鵬に土をつけた。注目の取組で,なりふり構わず勝ちにいった2人の大関。把瑠都と白鵬の間には2差がつき,優勝争いへの興味も急速にしぼんだ。

しかも,この記事は記名である。ずぶの素人記者とは思えない。全体の記事を読むかぎりでは,かなり大相撲に精通していることがわかる。しかし,大相撲のなんたるかという肝腎なところが,いまひとつ欠落している。大相撲の力士は,別名,男芸者とも呼ばれている。わたしは,この男芸者ということばを悪い意味では受け止めてはいない。相撲という「芸」を売って(その他の「芸」もある),メシを食っている人,というごく当たり前のことばとして受け止めている。かつて,宮本武蔵は「武芸者にござる」と自分の職業について応えている。わたしは,この表現が好きだ。

すべては番付で裁かれる世界だ。この序列が,いま,現在の地位のすべてだ。どんなに若造でも,どんなに生意気な奴でも,番付が上なら,一歩,譲らなくてはならない,そういう世界だ。宴席に坐るときも,メシを食う順番も,すべては番付による。だから,どんなことをしたってルールの範囲内であれば,「勝ち」は勝ち。これが大相撲の世界であるということを,もっと,大相撲ファンに知らせる必要がある。

にもかかわらず,いまも機能しているのは,かつてのアマチュアリズムのフェア・プレイの精神。このフェア・プレイの精神そのものが,かつてのイギリスの特権階級の生み出した,じつに「差別」的な精神であることを,日本のスポーツ担当記者たちは知っているのだろうか。自分が働かなくても(労働をしなくても)収入がある人たちだけがアマチュアであって(ボートのヘンレー・レガッタの初め),労働をして収入を得ている人はすべてプロフェッショナルであるとして,スポーツの世界から排除した上での,フェア・プレイであることを。いまでは,とっくのむかしに意味をなさなくなってしまったアマチュアの倫理を,こんにちの大相撲に当てはめて,なんの矛盾も感じていないスポーツ記者が多すぎる。

そういう記者が記事を書く。なにも知らない読者は「そうか」と思い込む。こうして「風評」なるものは,無意識のうちに公器をとおして,世間に広まっていく。その一翼を,新聞記者であるあなたが担っているという自覚がありやなしや。

この点,力士たちの方がはるかに上を行っている。同じ新聞の別のコーナーにはつぎのような記事がある。

立ち合いの変化にはまった稀勢の里と白鵬。ともに変化は頭に「なかった」と言う。真っ向勝負をしたかったか問われた新大関は「勝負ですから。何があるか分らない」と言葉を選び,相次いで観衆が落胆したことについて聞かれた横綱は「負ける方も悪いからね」と答えた。

このみごとなまでの応答ぶり。さすがに,大相撲を背負う大関と横綱のことばである。これでいいのである。なにも,真っ向勝負だけが相撲ではない。こういう変化わざという手が残されているからこそ,相撲の奥行きがぐんと深くなり,味わい深いものとなる。それが,すべて,真っ向勝負だけであったら,こんにちの大相撲人気はないだろう。大きくて,力の強い人間だけが勝つ,そんな大相撲になんの魅力もない。かつての舞の海のような力士が現れるからこそ,大相撲は面白いのだ。「小よく大を制す」そういう場面が担保されているからこそ,わたしは場所に通う。

くだんの記名記事を書いた文章の一部を,もう一度,引用しておこう。

先に土俵に上がった把瑠都は,優勝の可能性を残す稀勢の里との一番だった。いきなり左に変化し,相手の首を両手で押さえてはたき込んだ。「組みにいこうと思ったけれど,体が勝手に動いた。見に来てくれているファンの皆さんに申し訳ない」。そう話しはしたが,満面の笑みで小走りに花道を引き揚げ,風呂に入るなり「よっしゃあ」と声を上げる姿に,説得力はなかった。

多くの読者は,このまま,受け取るのだろうと思う。しかし,わたしには笑止千万。力士たちがジャーナリストから声を掛けられたら,どのように応対するかは,熟知している。タテマエとホンネを使い分けていることは「勝利者インタヴュー」を聞いていれば,だれだってわかることだ。それを,わざわざ言挙げして,ここまで書く新聞記者はなにを考えているのか,それこそホンネを聞いてみたい。

把瑠都にすれば,初優勝が目の前に迫っているのだ。なにがなんでも勝ちにいく。当たり前のことだ。そのためには,優勝争いに加わっている相手力士はひとりでも多く「つぶして」いく。そのための「はたき込み」だ。しかも「体が勝手に動いた」と言っている。わたしなら,この発言に注目したい。なぜなら,立ち合い,じらしにでたのは稀勢の里の方だ。わざと,仕切り直しのテンポを落し,相手を待たせたのは稀勢の里の方だ。この駆け引きに,把瑠都のからだが反応して「勝手に動いて」の変化ワザだったとすれば,把瑠都の成長をそこにみる。今場所の好調の理由は,まぎれもなく力士としての把瑠都の成長にある。つまり,「相撲を覚えた」のだ。これまでの,不器用な把瑠都とは一味違う,新境地を開いた,もう一つ上のレベルに到達した把瑠都を,わたしはそこにみる。こうなると,把瑠都の横綱はすぐそこだ。

日馬富士と白鵬の相撲は,もう,なにも言うことはない。白鵬の完敗なのだ。そして,わたしは日馬富士にこころからの拍手を送りたい。おみごと,と。この両者の駆け引きを見届けること。わたしは大満足だ。そこを見ずして,ただ,変化ワザが許せないという新聞記者のレベルの低さにあきれはてるのみ。白鵬は冷静に「負ける方も悪い」と言っている。横綱の方がはるかに大相撲の極意に近いところで自分の相撲を振り返っている。やはり,白鵬は偉い。賢い。立派。新聞記者は,白鵬の真意を酌み取って,そのふところの深さを解説すべきではないのか。そして,真の相撲の面白さを引き出すくらいの記事を書いてほしい。それが,わたしの願いだ。

なぜか? これを書きはじめるとエンドレスになる。
残念だが,今日のところはここまで。みなさんで考えてみてください。

2012年1月19日木曜日

「太極拳に正しい,間違いはありません」李自力老師語録・その2.。

李老師が事務所に到着。すると,いきなりカメラをもちだして(ソニーのスマートフォンとかで,カメラの性能がとてもいいらしい。わたしにはよくわからない話),わたしの顔を撮影する,と仰る。なぜ?とわたし。弟さんが設立した商事会社(貿易)のHPに,わたしの顔写真と短い文章を載せたいのだ,と。おやおや,である。それはまあ,無事に終わって,よもやま話になる。

わたしは,早速,「肩関節をゆるめる」は「はずす」だったという話を李老師にしようと思ったけれども,これはこんどみてもらってから話をしよう,と急遽,引っ込めることに。それでも,おのずから太極拳の話になり,いつのまにか,とてつもない奥義に触れるような話になった。

わたしが切り出したのは,太極拳の正しい動作の仕方はとても奥が深くて,むつかしい,という話。この話を受けて,しばらく考えた李老師はつぎのような話をなさる。

太極拳に正しいとか,間違いとかはありません。いま,やっていることがそのまま正しいのです。それ以上でも,それ以下でもありません。それしかないのです。あっ,これだ,と気づいて,それらしくできるようになる,ただ,それだけです。ただし,その気づきは無限と言ってもいいでしょう。とても,奥が深いものです。

なぜなら,太極拳の所作は,その人の理解,イメージの範囲内でしかできません。自分でこうだなと思ってやること,それでしかないのです。それがその人にとっての真実なのです。ですから,初心者に高度な演技を要求しても無理です。それぞれのレベルに応じた演技しかできないのですから。それを無理して高度な演技をやろうとすることは,なんの意味もありません。どうせ,できないのですから。あるいは,見よう見まねでそれらしくできたとしても,それは形だけであって,内実はなにもないのですから。まったく無意味です。

それよりも,大事なことは,いつもくり返しやっている24式をとことん追究していくと,あるとき,突然,からだの方になにかが起こります。からだが勝手に動きはじめるのです。それまでに体験したことのないからだが忽然と現れてきます。そのからだにすべてを委ねるのです。そこは,もはや,桃源郷のような心地よさで充たされ,なにものにも代えがたい,至福の時空間の中に溶け込んでいきます。こういうことが何段階にも分かれていて,あるとき,突然,むこうの方からやってきます。それをひたすら待つのみです。待つことすら忘れて,無心になって,ある集中の状態に入ったとき,それが起こります。

初心者には初心者なりの快感が立ち現れます。それがすべてなのです。あまり上手になろうと欲張らないことです。いま,ある力で,楽しめばいいのです。

という具合に,延々と,こういう話がつづきました。
わたしはこの話を聞きながら,あっ,これは道元禅師が『正法眼蔵』のなかで言っている「修証一等」ということと同じではないか,と思いました。

道元禅師のいう「修証一等」とは,つぎのようなことです。
早く悟りの境地に到達したくて,無理をして修行してもなんの役にも立ちませんよ,と。修行というものは,その人の悟りのレベルに合わせて行うしかできないのですよ,と。その人の,そのときの実力に合わせて,修行のプログラムを組むことが大事です。それ以上のことをやろうとしてもてきるものではありません。つまり,修行(=修)と悟り(=証)は,一つのことであって,等しいものなのです。

このことはタオイズムの元になった老子の『老子道徳経』の中にも,同じような趣旨のことが書かれています。もともと,仏教と老子の思想との接触によって,禅仏教が生まれ,それを道元は中国から持ち帰ったわけですので,こういう符合が起きたとしてもなんの不思議もありません。

李老師は,太極拳の根本にある思想がタオイズム(道教,道家思想)にあることを,もちろん熟知した上で,みずからの体験をまじえて,さきほどのような話をわたしにしてくれたのだと思います。そして,よくよく考えてみれば,わたしが,いまもなお,からだを自分の意志で動かすことに必死になっていることを見極めた上で,そろそろ,そのレベルを卒業しなさい,と婉曲に知らしめてくださっているようにも思います。わたしの,いまの段階の意識としては,24式を,書道でいえば,まずは,楷書でできるようにすること,にあります。それがきちんとできるようになれば,やがて草書も行書も書けるようになるだろう,と。しかし,そんなことにあまりこだわる必要はない,と言ってくださっているようにも思います。

「肩関節をゆるめて」やれば,自然につぎの運動が起きてくる。余分なからだの力みをそぎ落としてやれば,からだは自ずからなる法則にしたがって,まったく別次元の動きをはじめる。そのことを気づかせるために「肩関節をゆるめる」という課題を,わたしに与えてくださったのではないか,といまごろになって気づくわけです。

でも,気づいたときが吉日。そこから,あらたなスタートを切ればいいのです。

李老師は,「正しいとか,間違いとか」というようなヨーロッパ近代の二項対立的な考え方を超越したところに太極拳はあるのだ,とわたしに説いてくださったように思います。わたしの,これからの太極拳の稽古の仕方,あるいは,取り組み方が変化するとすれば,ここからでしょう。さて,これからどんな展開が待っているのやら・・・・楽しみがいっぱい。

最後に,溝の口の会場を借り上げるときの団体名に「自然功力会・溝の口支部」を使わせてもらっていいですか,と許可ももらいました。「自然功力会」は李老師が組織している太極拳愛好家たちの団体名です。これからは,立派な「自然功力会」の一員として認めてもらった,という次第です。ただし,月謝を受け取ってもらえない,この関係はなんとかしなくては・・・・とこれだけが悩みのタネですが(こんなことを書くと李老師ファンの方たちから叱られそうですが,お許しください)。まあ,隠れ「自然功力会」のメンバーくらいのところでお許しを。

「肩関節をゆるめなさい」・李自力老師語録・その1.

ことしの正月から,大岡山でやっていた稽古を溝の口に移して,昨日(18日)で3回目。中国からもどったばかりの李老師が,ふらりと顔をみせてくださった。すっかりもたれ掛かろうと思ったら,いつものように稽古をはじめなさい,と仰る。仕方がないので,わたしが音頭をとることに。李老師はわたしの指示どおりに準備体操から柔軟運動,基本の動作練習と,わたしの見えない位置に立ち,黙々と稽古をはじめる。わたしはもとより,みんな緊張しているのがわかる。お互いにとても親しい間柄なのに,なんともいえない緊張感がつたわってくる。これが実にいい。

基本の動作練習の途中くらいから,李老師が,みんなの見える位置に移動してきて,率先垂範してくださる。いつものことだが,李老師は,口で説明する前に必ずみずからやってみせてくださる。その上で,最小必要限度のことをピン・ポイントで指摘してくださる。

いつものとおりに,24式が終わったところで,李老師から二つのご指摘をいただいた。
一つは,肩関節をゆるめること。もう一つは,上体を腰の回転の上に乗せること。

いずれも基本中の基本だ。もう,何年,稽古をつづけていることだろう。にもかかわらず,この基本がまだできていないのだ。自分ではできているつもりなのに。情けない。

ただ,「股関節をゆるめなさい」ということばは耳にタコができるほど言われてきたので,ことばとしては理解していたし,その努力をしてきたつもりである。しかし,「肩関節をゆるめなさい」は初耳だった。だから「えっ?」とわが耳を疑った。肩関節をゆるめる,とはどういうことなのか,イメージができない。イメージがつかめない運動はできない。李老師が何回もやってくださる。が,わたしの眼には見えない。みんな真剣だ。わたしの見ているかぎりでは,Nさんの動きが李老師のそれによく似ている。しかし,わたしのそれはまったくダメだ。どこかギクシャクしている。が,Nさんの動きはとてもなめらかなのだ。うーん,とこころの中で唸ってしまう。

半信半疑のまま,何回も見よう見まねのままくり返していると,「そう,そう」と李老師は励ましのことばをかけてくださる。しかし,やっている本人はなにもわかってはいない。かえって困ってしまう。褒められても納得できないのだから。

稽古が終わって,昼食をともにして,解散。鷺沼の事務所にきてから,ドアのガラス部分に映るわが姿を見ながら,「肩関節をゆるめる」のおさらいをする。何回もやってみるが,やはり,わからない。ダメだ,わからないことを何回もやっても仕方がない,と諦めたとき,ストンと肩関節がはずれたようにゆるんだ。えっ,いまのはなに?そうか,はずすんだ,と納得。わたしの身体感覚では,ゆるめるではなくて,はずす,だった。なるほど,肩関節をはずしてやると肘が自然に下がってくる。すると,手首からさきの掌が自然に顔の方に近づいてくる。ゆるめる(はずす)ことによって起こる自然の動きを引き出すこと,ここがポイントなのだ。

どうも,自分で動かそうとする意識が強すぎたらしい。李老師にそっくり真似てやろうとすればするほど,違うものになっていく。そうではなくて,「ゆるめる」ことによって起こる,ごく自然の動きが大事なのだ。そういう動きが立ち現れるように「ゆるめる」(はずす)こと。あとは腕に聞いてくれ,とばかりに力学の法則に委ねてしまうこと。そのさきに,李老師の,柔らかく,粘り強く,そして,力強さまで感じられる動きが待っている(らしい)。

すっかり気をよくして,事務所の片づけ仕事をしていたら,そこに李老師から電話が入る。ちょっと用事があって鷺沼に行くので,事務所に立ち寄っていいか,と仰る。ちょうど,コーヒー・タイムにしようと思っていたところなので,大歓迎。ここで,またまた,太極拳の話になり,とても貴重なお話を伺うことになった。その話は,独り占めにしていたのでは申し訳ないので,このつぎのブログに書くことにしよう。まことに奥の深い,味わい深い話で,わたしとしては大満足。

結論をちょっとだけ言っておけば,タオイズムと道元の思想の接点のようなお話である。

では,次回を楽しみに。

文部省(現文部科学省)の審議会委員をしたときの経験と「自発的隷従」ということについて。

毎日,毎日,憂鬱で仕方がない。朝の新聞からはじまって,テレビ,ラジオ,それにインターネットを流れてくる「ニュース」に触れるたびに,日本の国に未来はない,と絶望的になってしまう。ほんのひとかたまりのある特定のムラの住人たちの利害だけで,この国の意思決定がなされてしまう,その実態が透けてみえてくる。それも,じつに巧妙な仕組みを用いて。そのひとつは「第三者機関」と称する学識経験者による審議機関(ふつうは〇〇〇委員会という)。この機関のほとんどは官僚が設定をし,官僚のシナリオどおりに「承認」されることが前提となっている。

わたしの憂鬱の一因は,かつて,わたしも文部科学省になる前の文部省時代の審議会の委員を勤めたことがあり,多数決による「お手打ち式」に加担した経験が,いまごろになって慙愧の思いとともに鮮やかに脳裏に浮かんでくるからだ。もちろん,わたしは官僚作成の原案に反対意見を述べたのだが,圧倒的少数意見(だれも支持してくれなかった)で否決された。なんともやるせない気分だった。この一件以後,文部省からは,なんの声もかからなくなったことは当然だ。

このとき,堂々と原案に対して賛成意見を述べたわたしの後輩は,いまもその世界で大活躍である。それでいて,わたしに逢うと弁解ばかりする。まことに困った御仁である。本人に言わせれば,だれとも仲良くするための方途だ,という。しかし,それは違うだろう。類は類を呼ぶという。そのとおりで,かれをとりまく人種はみんな似た者同士ばかりである。こういう人種が,日本という国家の意思決定の背後で蠢いているのだから。困ったものだ。

わたしの,たった一回だけの経験がすべてだとは断定しない。しかし,最近の省庁の抱えている〇〇委員会とか〇〇審議会などの様子を,メディアをとおして眺めていると,基本的にはまったく変わってはいない,ということが手にとるようにわかる。そのひとつが「ストレス・テスト」だ。どのような基準で,なにが「テスト」されたのか,そして,どういう理由で「合格」となったのかは,なにも明らかにはされていない。極秘裏に決定されている。つまり,最初に「結論ありき」の「お手打ち式」でしかないのだ。(今朝の新聞でも同じことが報じられている)。

このことが疑われると,さらに,IAEAによるチェックをしてもらう,という。このIAEAこそ,原発推進のために設置された国際機関であり,その片側で「安全」をチェックする,という「お手盛り」機関なのだ。要するに,みんなグルになって「お手打ち式」をやっているにすぎない。ただし,このグルに対して反抗する国家は,徹底的に叩かれてしまう。たとえば,イラクのように。「正義」という名のアメリカの武力によって,国家はボロボロにされてしまう。しかも,一方的な誤認だったことが明らかになったにもかかわらず,だれひとりとして責任をとろうともしない。みんな「仲良しクラブ」のグルだから。日本の〇〇安全委員会も同じようなことをして,平気でいられるのはこういうお手本があるからだ。そのためには,日頃から「自発的隷従」の姿勢を貫かなくてはならない。ムラの一員となるために。

これを阻止できるのは,地元住民の「反対」という意思表示しかない。それでも,沖縄県のように,住民の頭越しに,アメリカとの盟約を盾にして押し切ろうとする政府与党の魂胆も明々白々だ。それを,また,見殺しにするヤマトンチューが圧倒的多数を構成しているのだから,始末が悪い。しかし,いつまでもこんなことを繰り返していてはならない。

その意味で,ことし一年は,まさに「正念場」だ。アメリカや国際社会に「自発的隷従」の姿勢を貫くことだけに熱心で,国民ひとりひとりの「命」など犠牲にしてもいいと平気で考えているムラの住人に対して,こんどこそ声を挙げなくてはならない。これをしも放棄してしまうとしたら,これこそ,日本の国に未来はない。どんなに小さなことでもいい。身のまわりの,できることから行動を起こし,声を発して,自分たちの「命」を守ることを実行に移すことだ。それしか方法はないのだから。

まずは原発を阻止しよう。沖縄の米軍基地を県外へ,そして,国外へ。TPPの阻止を・・・・。課題は多い。が,その原点は「自発的隷従」からの脱却だ。つまり,「事物」と化してしまった日本人から,もう一度,生身の血のかよう人間としての日本人を取り戻すことだ。いつのまにか,わたしたちは「事物」と化してしまったのだ,という自覚をしっかりともつこと。ここから,すべてがはじまる。「自発的隷従」という生き方が,いかに賤しい根性のもとに成り立っていることか,と。

遅きに失した感もなきにしもあらずだが,気づいたときが吉日。そこからスタートを切るしかないのだから。わたしたちの眼に見えないところで,メディアが報道しないところで,すでに,ささやかな自覚に支えられた行動を起こしている人たちが,あちこちにいる,ように思う。いや,そうに違いない,と信じたい。いまは,それしか明日への希望を支えてくれるものはないのだから。

だから,わたしも,「自発的隷従」の軛から離脱して,もっと自由な言動のとれる時空間のもとへと移動していくことにしよう。

2012年1月16日月曜日

とうとう体当たりをくらってしまいました。「ながら歩き」の女子高生から。

今日(16日),午後7時30分ころ,鷺沼駅の裏口の歩道で,「ながら歩き」をしている女子高生に体当たりをされ,跳ね飛ばされてしまいました。駅から出てくるサラリーマンや高校生も見ていましたが,見て見ぬふりをして通りすぎて行きました。体当たりした女子高生は,ふり返りもせず,まだ夢中のまま「ながら歩き」をして行きました。

今冬,もっとも寒かった夜の,もっとも寒いできごとでした。わたしは呆然としたまま,しばらく,歩道にある防護柵につかまったまま,立ちすくんでいました。これが,日本社会の,いま現代の,ひとつのまぎれもない現実のひとつであるのか,と。

新聞やテレビで「ながら歩き」が問題になっていて,あちこちでいろいろ事件になっていることは知っていました。わたし個人としても,何回か,スレ違いざまに「出足払い」を掛けてやろうかという衝動に襲われ,それを「まてまて」と制御するのに精一杯でした。と思っていたら,わたしが跳ね飛ばされていました。なんということか。

ことの経緯を精確に記しておきたいと思います。
鷺沼の事務所をでて,いつものコースを通って,鷺沼駅の裏口の坂道の歩道を登っているときのことです。坂道の中程のところまで登って行ったとき,ちょうど電車から降りた人たちが坂道を下ってきました。相手が大勢なので,自然に,わたしは真ん中を避けて,歩道柵にぴったりと寄り添うようにして登っていました。スレ違う人はお互いに身を交わしながらすり抜けていきます。その中に,「ながら歩き」のまま坂道を下ってくる女子高生がいました。しかも,柵に沿って歩いてきます。わたしは,逃げ場を失って,その場に立ち止まりました。

新聞の報道によりますと,中年の「ながら歩き」は駄目だが,若い人たちの視野は広く,スレ違う人を視野の中に入れていて,瞬間的に交わしていく,とのこと。そのことが,ちらっ,と脳裏をよぎりました。だから,逃げ場のなくなったわたしは立ち止まることにしました。そして,最悪の場合でも,わたしの真ん前にきて,相手も立ち止まるだろう,と判断しました。これが甘かった。

彼女がどういう種類の人かはわかりませんが,一歩も歩みを緩めることなく「ドーン」とそのままわたしに体当たりをして,平然とまっすぐに通りすぎていきました。しかも,なにごともなかったかのように,そのまま「なから歩き」をしていました。これをみて,わたしは「エッ?」「なに?」「これって?」と「?」マークが頭中に広がりました。

わたしはどうなったか。まさか,体当たりをしてくるとは思ってもいませんでしたから,油断もあったかもしれません。それと,坂の登りと下りの差もありましょう。上から降りてくる方が質量が大きかったのでしょう。60キロのわたしを跳ね飛ばしたのですから,相手の女子高生も相当のものです。わたしは,みごとに跳ね飛ばされて,縦軸に一回転して,歩道の防護柵につかまって,かろうじて転ぶ難を避けることに精一杯でした。そのつかまった姿勢のまま,振り返って女子高生を見送っていた,という次第です。まわりの人は,だれも,見て見ぬふりをして,通りすぎていきました。なにか,近年に体験したことのない,正体不明の背筋の寒くなる思いがしました。しばらく,身動きすることもできないほどに。

まさか,わたしがこんな眼に逢うことになろうとは・・・・。身を交わすスペースのあるところでは,これまでも,何回も「ながら歩き」の若者たちとぶつかりそうになったことはあります。そのつど,わたしの方から,身を交わして難を逃れるようにしてきました。しかし,今日は,そのスペースがありませんでした。しかも,立ち止まっていれば,体当たりする寸前に相手は気づいてくれる,と信じていました。それが甘かった。

もうひとつショックだったことは,体当たりした女子高生が,振り向きもせず,失礼の挨拶もなく,平然と立ち去って行ったことです。もはや,何をか況や,です。

とうとうここまできたか,世も末である,と吼えてみたところでどうということもありません。これから,こういう情況になったら,大きな声でみずからの存在をアピールするしかない,と覚悟を決めました。じゃあ,どんな声を出すのか,ともうひとりのわたしがせせら笑っています。よしっ,もう,いまから決めておこう。「ヘェークション」という加藤茶のギャグを借りて。それも思いっきり大きいアクションで。いやいや,思いっきり大きなハクションで。

冷えきったからだを芯から温めるには泡盛・与那国(60度)にかぎる。

このところ,寒い日がつつきます。通常は,夜7時になると鷺沼の事務所の後片付けをして,帰宅します。が,最近になって,ようやく吐く息が白くみえるようになってきました。これまでが暖かすぎたということでしょう。その分,寒いなぁ,と感じます。からだがうまく適応できていない証拠です。

家に着くのは午後8時少し前です。それから夕食です。が,すっかり冷えきってしまったからだはなかなか温まりません。そこで,奥の手を使います(もっとも,これは口実という声もあり)。冷えきったからだを芯から温めるにはこれにかぎります。泡盛の与那国,60度。これをストレートで,キュッと,ほんの少しだけ流し込みます。与那国が舌を滑り,喉を超えて食道を駆け下り,胃の腑でジワーと広がっていくのが手にとるようにわかります。

もちろん,このときに使う盃は,与那国用の極小のもの。信楽焼と備前焼の中間のような,土の地肌がそのままみえる,どろくさい盃です。極小,というサイズは理解できるでしょうか。わたしも,沖縄で初めてお目にかかったもので,ほんとうに小さな盃です。最初は,那覇の国際通りにある泡盛専門店の地下で,出会いました。つまり,泡盛の試飲用のものでした。ちびっとずつ,あれこれ,たくさんの泡盛を試飲するのにちょうどいい,というわけです。

しかし,その後,あちこちで,この小さな盃を眼にするようになり,これはなんのためのものなのか,と聞いてみました。そうしたら,もともとは,サトウキビの刈り入れのときに,暑さで気力がなえそうになったら,60度の泡盛を,この小さな盃で「キュッ」といっぱい飲み干す,そのためのものだ,とのこと。なるほど,と納得。いまでは,それが飲み屋さんにも置いてあるし,一般の家庭にも置いてある,というわけです。

それが,いまでは,わが家にもある,という次第。で,これは使い方によっては,とても便利なものであることが,最近,ようやくわかってきました。これまでは,まさひろ(泡盛)の43度を,ぐい飲みで飲んでいました。一杯で終われば問題はないのですが,二杯目が問題です。二杯目をなみなみと注いでしまったら,あとで仕事になりません。そこで,半分くらいにするのですが,なんとなく物足りないときがあります。そうすると,また,ほんの少しのつもりが半分くらいになってしまいます。このときは,あとの祭りです。

ところが,この極小盃のよさは,一杯ずつ飲んでいって,ああ,このあたりだな,と思ったらそこで打ち止めにすればいいわけです。からだの芯が温まり,気分もいいなぁ,と思ったところで打ち止め。この微妙な量の調節が,自在にできる,ここがポイントです。こういう小回りが効くと同時に,何回も注ぎたしをしていきますので,気分としては,かなりたくさん飲んだという充足感もあります。ここが第二のポイント。

しかし,この極小盃は,60度以上の泡盛を飲むための小道具だということも確かです。試しに,まさひろの43度を,この極小盃で飲んでみると,まことに物足りないのです。ひとくちで,コポッと飲んでしまいます。しかし,さすがに60度となると,そうはいきません。この度数の高い泡盛を,何回にも分節化しながら飲む,というところがミソです。

いつか,どなん(泡盛)の70度が手に入ったら,この極小盃で試してみようと思っています。たぶん,うまくいくのではないか,とそういう予感がします。この予感が大事。もちろん,つぎ足す回数は少なくなるとは思いますが・・・・。当然ですね。

厳寒の夜,冷えきったからだを芯から温めるには,この極小盃で,いまは,与那国の60度が一番。こころの中では,この寒波よ,いつまでもつづけ,と叫びつつ・・・・・。冬の夜の楽しみ。

そうだ。延命庵にも備えおくようにしよう。話題の一つに。

2012年1月14日土曜日

フランスの原発,3分の2は改修工事が必要。その経費は約1兆円とか。

鷺沼の事務所で昼食をとるときには,ラジオのJ-waveを聞くことにしている。理由ははっきりしている。とてもすぐれたDJが何人かいるからだ。そのすぐれたDJの名前を覚えるほどの入れ込みはしていないが,とにかく,何人かは抜群に優秀。

今日は,そのうちのひとりだった(男性,もちろん,バイリンガル)。まず,かかっている音楽がとても心安らぐもので,この人の選曲のセンスのよさがにじみでている。話題はあちこちに飛んでいくのだが,一貫しているのは「脱原発」をはっきりかかげていること,そして,自分の主張をきちんと述べ,その根拠まで提示する。なかなかの人である。

そんな話題のひとつに,フランスの原発の現状に関する情報提供があった。しばらく前に,新聞で,フランスの原発を一斉に「ストレス・テスト」をすることになった,と読んで知ってはいた。しかし,その結果がどうなっているのかまでは知らなかった(ひょっとしたら,今日のホット・ニュースだったのかもしれない)。その内容がじつに衝撃的だった(わたしにとっては)。

その骨子を代弁すると以下のようになる。
フランスの原発の3分の2は,ストレス・テストの結果,改修工事が必要,という判定がくだされ,その改修費用はおよそ1兆円を要することが判明した。フランスは折しも,大統領選挙の前。国民の間で,原発の是非をめぐる議論が沸騰している。立候補予定者もみずからの立場を明確にしなければならなくなってきている。フランスは,これまで,原発もやむなし,という立場をとってきたが,このストレス・テストの結果をうけて,脱原発への選択肢が大きく浮上することになった。

その最大の理由は,二つある。一つは,原発はコストが安いと考えられてきたが,逆に,コストは高くつくということが判明したこと。改修費だけでこれだけの費用がかかり,さらに,廃炉にするにしても30年を要する費用が必要となる。しかも,使用済み核燃料の処理にも膨大な年月と費用がかかることも明確となった。二つには,コストが高い上に,危険を背負うリスクが高すぎる,ということがフクシマによってより現実的になったこと。核エネルギーは,いまだ,完全には,人間のコントロールできる範囲内にはないということ。一度,大きな事故が起きたら,もはや,人間による制御は不可能であること。

この問題を,フランス国民がどのように考えるか,世界が注目することになる。その結果いかんによっては,こんごの世界の趨勢に大きな影響を及ぼすことになりそうだ。日本は,カン君が脱原発への舵を切ったのに,どじょうな野田君がどうも煮え切らない。そして,いまでは,ムラのチカラに流されつつある。こんな状態がつづくかぎりは,フランスの選挙結果に期待する方が早そうだ。ドイツにつづいて,フランスも脱原発の道を歩むことになれば,この影響は絶大である。日本もしぶしぶということになるのであろうか。それでもなお,日本のムラビトたちは,アメリカ親分の顔色をうかがいながら,へなへなと誤魔化しつづけるのだろうか。

いずれにしても,これからさきのフランスで展開されるであろう「原発問題」は目が離せそうもない。小学校から哲学の授業があり,就職試験にも「哲学」を必須とするところが多いと聞く。日本と違って,国民全体が哲学的教養をもとに,さまざまな議論をし,判断をくだしてきた国である。どういう議論の経過をたどるのか,そこに注目したい。

J-waveは,ほかにも女性のDJで素晴らしい人がいる。この人の放送を耳にしてしまうと,途中で止められなくなる,そういう魅力をもっている。ラジオのDJには素晴らしい人たちが活躍している。テレビのお人形さんたち(男も女もふくめて)とは比較にならない。とにかく,自己主張がはっきりしていて,聞いていて心地よい。

取り急ぎ,今日のラジオからの情報の受け売りまで。

2012年1月13日金曜日

どんどん「3・11」以前にもどっていく。それは「復興」ではない。

ムラのチカラがこれほど強いとは思ってもいなかった。最近になって,ムラの存在が日ごとに大きくなってくるのがわかる。そして,どんどん「3・11」以前の態勢にもどっていくのもありありとわかる。東日本大震災もフクシマの原発事故もどこ吹く風。東電の好き勝手がまかり通っている。責任のひとかけらもないかのように。そして,わたしたちの税金が湯水のように東電の「復興」のために注ぎ込まれている。その上,さらに「増税」ときた。なんというこった。

政界,財界はもとより,学界も腰抜け。メディア界も大手はみんな腰抜け。ムラに完全にコントロールされてしまっている。そのチカラたるや恐ろしいほどだ。だから,東電にとって都合の悪い報道はなにも流さない。NHKを筆頭に。それを受け取る国民の大半は,なんの疑念もなく垂れ流し情報をそのまま信じていく。国民の意識のなかから「3・11」の教訓がどんどん消えていく。まだ,一年も経過していないというのに。もう「忘却」のかなたに消え去ろうとしている。

これでは,文字通り,大山鳴動して鼠一匹だ。しかも,着々と事態は改善され,いい方向に進展している,と政府は嘯く。しかも,それが「復興」だと言わぬばかりに。嘘の壁で塗り固めた「復興」。これでは,まったくの「後ろ向き」の「復興」でしかない。「復興」とは「前進」することだ。以前の欠陥をいかに克服して,新しい道筋を打ち立てていくのか,これが「復興」だ。にもかかわらず,以前の欠陥をそのままにして,いや,それどころか後生大事に温存したまま「復興」させようとしている。これは間違いだ。

「3・11」以前のどこが間違っていたのか。なぜ,間違えたのか。そこを明らかにすべきではないのか。そして,それに代わるべき理念・方法・方針を明確にした上で,「復興」の道筋を立てるべきではないのか。いまやっている「復興」はその場しのぎの,付け焼き刃的応急処置にすぎない。それもある程度まではやむを得ないとする寛容の精神が大事だと考えてきた。しかし,ここにきて,ムラが息を吹き返し,さっさと「増税」を打ち出し,そして,内閣改造ときた。

ムラにとって都合のいい政権は,なにがなんでも支えていくだろう。自民党ですらできなかったムラの喜ぶことを,まさか,政権交代した民主党が率先してやるとは思いもしなかった。国民の期待も一気に熱が下がり,とうとう政権支持率が20%を割るか,というところまできているのに。もはや,断末魔の体を晒しはじめているというのに。

「復興」の名のもとにまっさきに取り組まなければならないことは,人間の生きる基盤を確保することだ。経済の国際競争にいままでどおりに参入することではない。それよりさきに,まずは,日々を生きる基盤を奪われてしまった人びとの生活を,どのようにして回復させるか,ということだ。カネよりもイノチを第一に。被災者はいまも夢も希望ももてない状態のまま,じっと耐えているのだ。そこに,ほんのわずかな希望でいい。希望の燈火を点けることだ。それが「復興」の内実だ。そのことのためにこそ「税金」を投入すべきだ。

なのに,なぜ,その前に東電に「税金」を回さなければならないというのか。その前に,東電の責任を明確にし,その上で東電を解体し,発送電を分離させ,そのシステムを確立することではないのか。そのために税金が必要だというのなら,まだわかる。いまのままの東電に税金をつぎ込もうとしている意図は,明らかに原発推進,再稼働に向けての体制づくりの一貫ではないのか。なし崩し的に事実を積み上げていく,「3・11」以前までのやり方をそのまま踏襲しているだけのことではないのか。これは,東電が構築してきた得意の「手」ではないのか。

それを大手のメディアは見て見ぬふりをしている。恐ろしいムラのコントロールのもとで。国民は,それを鵜呑みにしていく。あるいは,マヒしていく。それが日常化していく。このシステムは,沖縄の基地移転問題と同じ構造だ。メディアの無視,そして,国民の無関心。いま,被災者は沖縄の人びとと同じ苦しみを味わわされている。大手の新聞各社も,みごとに,それに足並みをそろえている。

『東京新聞』はひとり「脱原発」路線を強烈に打ち出して,日々,これまでの悪弊を暴き立てている。ときに,おやっ?と思う記事もなきにしもあらずではあるが,徹底して原発批判の手をゆるめようとはしない。と,思っていたら,とうとう,今日の新聞によれば,新聞各社で構成している論説委員会から『東京新聞』は締め出されようとしている,という。なにごとぞ。こんなことが,いま,日本の社会のなかで起きようとしているのだ。

東日本大震災とフクシマ原発事故という天災と人災が一度に押し寄せてきた,この一大事のときに,言論統制まで裏では行われようとしているらしい(すでに,「自発的隷従」という名の言論統制は行われいるのだが)。これも,ムラのチカラであることは明々白々である。これでは,まるで,「ショック・ドクトリン」(ナオミ・クライン)を地でいくような話ではないか。ひょっとしたら,わたしたちの知らないところで,極秘裏に「ショック・ドクトリン」の手法は粛々と浸透しているのかもしれない。気がついたときにはすでに手遅れだ(「原発安全神話」の嘘と同じで)。

どうも,いま,「絆」という名のもとでなされている「復興」は,見せかけだけで,ほんとうの仕掛けはもっともっと別のところで進展しているような気がしてならない。でなければ,民主党政権が,かくも平然と国民の意志を裏切っていられるはずがない。

わたしたちは,二度と,「原発安全神話」のような嘘に騙されてはならない。いま,打ち上げられている「復興」音頭の陰で行われていることに,どう考えても奇怪しいと思われることが多すぎる。その最たるものが,「3・11」以前の体制にもどそうとする「復興」音頭だ。すなわち,ムラの再生だ。これは,どう考えても「復興」ではない。もし,そうだとしたら「絆」のスローガンは,ムラの「絆」の再生であり,「復興」でしかない。それを「復興」とは呼ばない。

一度,足を止めて,「復興」の内実について,しっかりと考えることがいま求められている。のちのちになって,後悔しないで済むように。

2012年1月12日木曜日

今冬,はじめての結露をみる。本格的な寒さはこれからか。

ことしの冬は暖かい。冬の衣裳で少し歩くと汗ばんでくる。寒がりのわたしでも,手袋を必要とすることは滅多にない。ところが,ようやく昨日の夕刻,前線が通過してから,急に冷え込んできた。夜道を歩くほっぺが冷たくなっている。そのむかし,スキーに行っていたころの雪山を思い出す。

今朝,起きてカーテンを引いたら,窓にほんのわずかながら結露ができていた。ああ,ようやく本格的な冬の到来だ,と妙にうれしくなった。やはり,冬は冷えてくれないといけない。暖かいのはありがたいが,いつまでも暖かいと,これでいいのだろうかと心配になってくる。人間の世界がいい加減堕落してしまっているので,せめて自然だけでもきちんと時を刻んでほしい,と思う。冬は寒くなくてはいけない。

いつもの年なら,暮れも正月も,朝起きたらまず最初の仕事は窓の結露を拭き取ることからはじまる。なのに,ことしは,なにもしなくて済む。ありがたいような,これではいけないような,中途半端な気分だ。冬は冬らしくなってくれないと・・・・。寒がりのわたしでさえ,そう思う。

本格的な寒波がやってくると,例年なら,昼間,書斎に籠もっていても,窓の結露は休むことなくつづく。乾いた雑巾できれいに拭き取っても,すぐに窓はくもり,やがて結露し,そのうちに結露した水滴が上から下へと運動会をはじめる。アルミサッシの窓枠からも滴が垂れ落ちてくる。こうなってくると,仕方がないので,また,全部,拭き取る。そして,窓を開けて雑巾をしぼる。しぼり落とされた水がベランダに一本の川をつくる。多いときには,一気に雨樋用の切り込みまで流れていく。

こんなことを,日に何回もくり返す。これが,いつもの冬だ。しかし,今冬はまだない。今朝の結露も30センチ四方くらいの範囲に,ほんのりと,窓にくもりを描いた程度だ。拭き取る必要もなく,しばらくしたら消えてしまった。それでも,今冬,最初のささやかな結露ではある。これから,もっともっと本格的な寒波がやってきて,毎日,結露との闘いがはじまるようになるのだろう。その予兆というべきか。こういう冬は遅くまでつづき,ひょっとしたら,3月になっても雪が舞ったりするかもしれない。

奈良のお水取りのころに(最後の大たいまつは3月10日ころだったか)は,間違いなく冷え込むと,地元の人たちは言っていたことを思い出す。実際にも,奈良に住んでいたころには,よくお水取りの行事を見物に出かけたものである。そして,大たいまつの日は超満員になるので,その前のウィークデーにでかける。すると,ほとんど人もいなくて,これまた不思議な光景だった。お水取りの儀礼は,たしか2週間つづくと記憶している。その間,まいにち「たいまつ」はあの二月堂の階段を駆け上り,欄干のところでひと踊りして,右手に消えていく。これを,ほとんどまばらにしか人がいない,がらんとした広場から見上げているのも,なんともいいものだった。

明日の朝には,もう少し大きめの結露ができるだろうか。どんな結露でもいい。冬なんだから,それらしく,日々,結露が窓いっぱいに広がり,さらに,その結露が垂れ落ちる運動会が盛んに繰り広げられることを,密かに期待する。時節にふさわしく,せめて自然現象だけでも,元気であってほしい。だから,理屈を超えてこれからは,がんがんと冷え込んでほしい。

今朝の新聞を開いて,またまた,憂鬱になってしまった。原子力ムラは衰えるどころか,ますます元気になってきて,再稼働に向けて着々とつぎなる手を打っている,という。わたしのこころはますます寒くなる。このままでは,こころの中に結露ができてしまいそう。そうならないように,なんとか耐える手筈をととのえないと・・・・と,いささか焦ってしまう。困ったものだ。

2012年1月10日火曜日

いつまでつづく泥濘ぞ。非常時の自覚が足りぬ政治家たち。

平和なときの党利・党略の争いは,下手な猿芝居をみるより面白い。しかし,いまは非常時なのだ。そんなときに党利・党略のせめぎ合いをしている場合ではないだろう。なのに,自民党も情けない。かつて,政権をとる前の民主党と同じことをやっている。しかも,「3・11」を通過したあとの,この非常時だというのに。いったい目ん玉ァどこについてんだっ,と怒鳴りたくなる。

土壌・野田首相は,被災地のことで頭がいっぱいだ,という。ならば,もっと泥鰌らしく泥んこになって働けばいい。被災地の人びとの側に立って。なぜ,財界の側に身を寄せてしまったのか。それでは,泥鰌にはなれません。泥鰌を生かすも殺すも自由自在の,泥鰌の飼い主である土壌(財界)の側に身を寄せているかぎりは。それでいて,被災地のことで頭がいっぱい・・・・とは。聞いて呆れる。蛙の面に水,の蛙の顔にみえてくる。

メディアの報ずるアンケート調査によれば,国民の約7割が原発推進に反対しているというのに,なぜ,それを無視して財界の望む原発推進に与するのか。政権交代した民主党の使命こそ,自民党の推進してきた原発を阻止することだろう。にもかかわらず,原発の売り込みに身を入れるのか。それでいて「被災地のことで頭がいっぱい」だという。いい加減にしろ。

「3・11」以後,日本という国家を動かしている中枢にいる人びとが,みんな「嘘つき」だということが丸見えになってしまった。だれもほんとうのことは言わない。責任をとろうともしない。これが日本という国家の中枢の真の姿だ。

政府・民主党が原発推進というのなら,なぜ,自民党は脱原発を言わないのか。早く,民主党政権を倒して,政権を奪還したいのなら,いまこそ,脱原発に舵を切るべきだ。そうすれば,選挙で圧倒的多数を占めることができる。なのに,そうはしない。なぜか。その理由も,すでに,みんな自明のことだ。しかし,だれ一人として,その理由についてのほんとうのことは言わない。ここでもお互いに嘘をつきあっている。民主党も自民党も,原発推進のほんとうの理由は明かそうとはしない。暗黙の了解事項だとでもいうように。

地震・津波による被災からの復興もまだまだ手も足も出せない。原発事故についての収束はもっともっとさきのさきのことだ。気の遠くなるほどさきの話だ。にもかかわらず,政府は収束宣言をし,平時にもどったかのように嘯く。それもこれも,みんな計算と打算にもとづく演出であり,演技だ。そのようなフリをして,いかにも事態が進展しているかのように錯覚させるためだ。もっとも痒いところに救済の手を差し伸べなくてはならない原発による被災者たちを,一番,怒らせてしまっている。なんのための政府なのか。なんのための政治なのか。

いまからでも遅くはない。わたしたちは,いま,非常時を生きている,ということを周知徹底させることだ。その前提で政治に取り組むべきだ。自民党の協議拒否など,もってのほかだ。敵がいま,目の前で武器をもって攻めてきているというのに,協議にも参加しない,とは。戦闘放棄だ。つまり,政治家放棄に相当する。前線にいる兵を見殺しにしていていいのか。日々の生活も,将来も,なにもみえない状況で,喘ぎ苦しんでいる被災者を見殺しにしていていいのか。政治家は,いま,なにをしなければならないのか,それすらわかってはいない。平時のぬるま湯に浸かりすぎた「ゆで蛙」そのままだ。

ことここにいたってもなお,党利・党略にしがみつく政治家とはなにか。いまこそ,超党派で国家存亡の危機を救うために立ち上がるべきときではないのか。そのリーダーシップをとる政治家よ,いでよ。なんの腐れ縁もない,若きリーダーよ,いでよ。そして,いまこそ「国民の命」を守ることを第一にかかげる,若きリーダーよ,いでよ。

明日で,「3・11」から10カ月が経過する。なのに,まったく先行きの展望がみえてこない。原発を止めるのか,再稼働させるのか。それすら明確にできないままだ。無責任,思考停止,なりゆきまかせ,足の引っ張り合い,党利・党略,私利私欲,傍観者,臭いものには蓋・・・,ああ,もういい。いったい,いつまでつづく泥濘ぞ。非常時としての自覚が足りぬ政治家たちよ(もちろん,それを操る原子力ムラの住民たちよ),それでもあなた方は人間か。血の流れている肉体をもっているのか。妻子はいるのか。

テレビを購入して,わずかに10日余り。すでに,テレビを買ったことを後悔している。毎日,毎日,テレビに向って咆哮するばかり。こうなったら覚悟を決めて,毎日,1時間はテレビと格闘することにしよう。「それは違うだろうっ!」と吼えつづけつつ。いまや,テレビは,わたしの反面教師となりつつある。そう思えばありがたくもなる。

なんだか,全共闘時代の血が甦ってくる。はらはら,どきどきの毎日だった,あの時代を生きていた感覚が。もう40年も前の,あの若き日々の記憶が・・・・。そうなのだ。いまこそ,闘うときなのだ。老いの身に一鞭あてて。いざ,鎌倉。

2012年1月9日月曜日

国技館から日本人力士の優勝額が消えた。グローバル化の必然か。

日本の伝統スポーツのひとつ,大相撲がグローバル化するとどうなるのか。この問題については,ながい間,考えつづけてきたつもり。そして,その結果が徐々に現実になって現れつつあることは,みなさんもご承知のとおり。そのうちのもっとも顕著な例は,優勝杯が,2006年初場所を制した元大関栃東(現玉ノ井親方)を最後に,外国出身の力士たちに独占されてしまっている,という事実だろう。情けない話ではあるが,これがありのままの大相撲のこんにちの姿のひとつだ。

8日(日)に初日を迎えた大相撲初場所。その会場である両国国技館には32枚の優勝額が飾られている。そこから日本人力士の優勝額が,とうとう0(ゼロ)になってしまった。そう,2006年に優勝を飾った栃東の優勝額がはずされ,新しい優勝額がそれに代わったからだ。32場所の間,日本人力士はひとりも優勝していないのである。こんな時代がくるとは,いったい,だれが予測しただろうか。でも,これが日本の伝統スポーツをグローバル化した結果の,ひとつの現実なのである。

この初場所から国技館に飾られている優勝額は,モンゴル出身の横綱白鵬が20枚,元横綱朝青龍が9枚,大関日馬富士が2枚,ブルガリア出身の大関琴欧州が1枚。ご承知のとおり,モンゴル出身の力士だけで31枚,残りの1枚はブルガリア出身の琴欧州のもの。

かつて,ハワイ出身の力士たちが大活躍した時代がある。かれらは,その巨体を生かして,馬力で勝負していた。だから,日本人力士もそこそこに対応することができた。若乃花や舞の海のような小兵でも,そのスピードとワザで対応することができた。しかし,モンゴル出身の力士たちは,そうはいかない。みごとに鍛えられた体躯は,スピードもワザも申し分なく,じつによくバランスがとれていて,いうことなしである。そこに,気力が加わる。朝青龍や白鵬の燃え上がるような闘魂は,いまの日本人力士に欠落しているものだ。

こののち,たとえば,白鵬と互角に闘える力士が,いつ,登場するかが注目の的となっている。その筆頭が,琴奨菊であり,稀勢の里であろう。大関に昇進して,いま,もっとも勢いに乗っている力士たちだ。かれらが,どこまで力をつけていくことができるのか,これもまた今場所の楽しみのひとつではある。

さて,大相撲という伝統スポーツのグローバル化については,なにも優勝回数を数えるだけでは,問題の本質は明らかにはならないだろう。しかも,大相撲の場合には,現段階では,特殊な条件(制約)もいくつもある。

たとえば,柔道のグローバル化と比較してみるとわかりやすい。柔道は,オリンピックの正式な競技種目に加えてもらうために,さまざまな努力をして,世界に普及・拡大して行った。そして,多くの支持もえて,その目的は達成された。しかし,そのことによって,柔道はJUDOに変化・変容してしまった(このあたりの説明は省略)。もはや,JUDOは柔道ではない,とさえ言われるようになった。つまり,別の競技種目が誕生したというのである。

それに引き換え,大相撲は,まったく事情が違う。まずは,大相撲を世界に輸出しようとは考えていない。あくまでも「国技」という枠組みを死守しようとしている(ように見える)。したがって,厳密な意味でのグローバル化とは異なる。ただ,力士になるための入門希望者の門戸を世界に開いている,というだけだ。そして,伝統の様式やマナーもこれまでどおり守っていこうというのである。にもかかわらず,眼にみえる優勝額に限らず,眼にみえないところでの変化・変容も,少なからず起きている。

新しい血が混ざれば,必ず,なにがしかの変化は起こる。たとえ,古い革袋のままとはいえ,新しい血はそれなりの働きをする。その実態は,きちんとした調査が必要だが,ある程度までは想像することは可能だ。もちろん,それらは「研究仮説」にとどまるのだが。

そんな眼で,ことしの初場所を楽しむのも一興かと思う。なにも,勝った,負けた,だけが大相撲の楽しみ方ではないのだから。土俵の上での一挙手・一投足のひとつひとつにも,いろいろの意味を読み取ることはできる。そうしたトータルな力士の所作の向こうに透けてみえてくるものはなにか。それを,わたしは大相撲のグローバル化という観点から楽しんでみようと思っている。

自己を超えでるような新しい期待の力士の誕生を,わたしは心待ちにしている。

2012年1月8日日曜日

キャベツやトマトが捨てられている。おかしな社会に一矢。京大の学生さん。

今日の「東京新聞」は,読ませる記事が多かった。ときおり,「ハズレ」の記事もあるが,このところなかなかの打率である。記者たちにも気合が入っているのだろう。読んでいて心地よいものが多い。それいけ,わっしょい,と祭りのような掛け声をかけたくなる。

その中のひとつ。一面左上に「雨ニモマケズ」3・11から,という連載コラムがある。今日の見出しは,「廃棄食材生かす学生」「形悪いだけで捨てる」「おかしな社会変えたい」というもの。京都大学農学部4年生・森雄翼(ゆうすけ)さんの活動が,わたしの眼を引いた。

森さんは,名古屋の中央卸売市場からでる廃棄食材に注目し,これを譲り受けて被災地に運び,仲間の協力を仰いで調理し,被災者に振る舞っている。野菜は運搬の途中で痛んだり,変色したり,つぶれたりすることがある。それらは廃棄食材として,文字どおり捨てられているという。その量は,市場で取り扱われる全量の1割に及ぶという。これを見過ごす手はない,と森さんは動く。

もう,かなり前から,曲がったキュウリはスーパーなどでも見かけなくなった。トマトの大きさもみんな同じ。キャベツの大きさもほとんど同じ。大根の大きさも,ネギの太さも,みんな揃っている。そういうものしか商品として扱われない,ということは小耳にはさんで知っていた。農産物もいつのまにか規格化された工業製品と同じ扱いになっている。おかしな世の中になったものだ,と思っていた。

こうした現実の社会の仕組みのおかしさに対して,行動を起こす若者がいた。それが森さんだ。野菜は輸送の途中で,いろいろのことが起きて当たり前ではないか。そういうきずもの野菜を全部捨ててしまう社会はおかしい。痛んだところは取り除けばいい。味に変わりはないかぎり,なんとか生かす仕組みを考えるべきではないか。それをしない,おかしな社会を変えたい。これが森さんの根源にある問題意識だ。

しかも,こういう生活の基盤から,ものごとを考え直すことこそが「3・11」以後を生きるわたしたちの,もっとも重要な課題ではないか,と森さんは考える。自分の身のまわりを見回せば,これは変だ,と気づくことは山ほどある。ただ,「裕福な生活」に慣れてしまった人間には,なかなか気づけないかもしれない。しかし,ちょっと意識をそちらに向けるだけで,気づくことは多い。

「3・11」以後を生きるということはこういうことだ。そのことを見極めたところで,森さんは行動を起こしている。立派なものだ。やはり,若者たちの柔軟な発想と行動力に期待するしかないのだろうか。その点,頭の固くなってしまった中年以上の(わたしも含めて)人間は,若者たちに見倣わなくてはならない。

地産地消の時代には,農産物のこんな無駄なことは行われてはいなかったはずだ。わたしですら,高校時代に,自分のつくったサツマイモを田舎の小さな市場に卸に行ったことがある。筵の上に,闇かご一杯分のサツマイモを転がして,競りに掛けてもらった。そのサツマイモは畑でとれたそのままのもので,大きさも,形も雑多なままだ。それでも,ちゃんと買い取ってくれた。いまでは考えられないことだ。ただ,あまりの安さに愕然としたことだけは,はっきりと覚えている。

いったい,いつから,大手の資本に支えられた流通に支配されるようになってしまったのだろうか。いまでは,農家の畑で,すでに色や形の悪いものは捨てられ,値崩れを恐れて畑で腐らせている野菜をみることは珍しいことではない。ごく当たり前の光景になっている。そして,わたしたちは,豊作であろうがなかろうが,つねに,高い野菜を買わされているのだ。

どこか,いまの電気代を連想させる。ドイツなどの地産地消の電気代の倍もの電気代を,わたしたちは全国一律に払わされているのだ。それでも原発はコストがかからない,と嘯かれてきたのだ。とんでもない話である。こういう情報をメディアはもっとまじめに流すべきではないか。しかし,そうはいかないのだ。メディアもまた立派な原子力ムラの一員なのだから。

電気の流通も,どこかで風穴を開けて,地産地消のシステムを構築することを考えなくては・・・と森さんの活動をとおして,強く思わされた次第である。まずは,できることから始めよう。農産物についても,独自の地産地消のシステムを築いて・・・・と。

それにつけても,あまりに贅沢な生活の仕方に慣れきってしまったわたしたち自身が,まずは,できるところから,このライフ・スタイルに決別すること。そのための小さな勇気がいま求められている。

2012年1月7日土曜日

暮れに,テレビを購入しました。びっくり仰天の世界が広がっていました。

暮れの押し迫った30日にテレビを購入しました。もともとテレビ大好き人間なので,これがあると「やみつき」になってしまう恐れがあるため,10年ほど経過したテレビが突然「ボン!」と大きな音がして,息絶えたのを機にテレビをもたないことにしました。とてもすっきりした自分の世界をとりもどして,いい気分でいました。

しかし,いろいろの事情があって,急遽,テレビを購入しました。
暮れ・正月は特別なのでしょうが(番組が),それにしても,そこには恐ろしい世界が広がっていました。びっくり仰天です。テレビから遠ざかって,3年ちょっと。この間に,テレビはますます狂った方向に向っている,ということがよくわかりました。

とりわけ,「3・11」をどのように受け止め,通過したか,という反省がまったくない。むしろ,「3・11」をひた隠しにしている姿勢ばかりが目立ちます。たまに,特番があったとしても,ツナミの被災からいかにして立ち上がろうとしているか,という人びとに焦点を充てたものが多い。これはこれでいい。とても大事なことだと思う。しかし,原発の事故のために家・土地を追われてしまった人びとの報道はきわめて少ない。わたしは,意識的に,原発事故についてテレビがどのような報道をしているのか,追いかけている。ところが,これがきわめて少ないのです。

もう少しテレビ・ウォッチングをつづけてから結論を出すべきかとは思いますが,とりあえず,現段階でのわたしの感想を述べておきたいと思います。どう考えてみてもテレビは原発事故の報道を忌避している,としかわたしには思えない。そして,それに代わる地震・津波からの「復興」に視聴者の目を誘導している,と。あとは,おチャラ気の「バカ番組」がゴールデン・タイムを独占していて,視聴者になにも考えさせないで笑わせることに全力を挙げている,と。つまり,視聴者の「思考停止」がその目的。国民総白痴化。

要するに,東電の責任隠しにテレビもまた全力を挙げて取り組んでいる,と。そして,原発事故は天災の延長線上にあるものであって,人災ではない,という姿勢を貫いていること。しかも,原発事故は収束した,と政府は発表。テレビはその路線をひた走る。

しかし,原発が天災によって事故を引き起こすことは「想定内」であったこと,原発がひとたび事故を起こしたら制御不能になること(チェルノブイリで明らかになっていた),その愚を今回もくり返していること,つまり,原発はひとたび「火」をつけたら,その事後処理に膨大な時間と経費を要することは専門家たちはみんな知っていたということ,にもかかわらず前倒しして「火」をつけてしまった結果の「人災」であること,このことをわたしたちは肝に銘じておくこと。これらのことを,決して,忘却の彼方に置き忘れてしまってはいけない。

しかし,テレビは圧倒的多数の愚民を育成するために全力を傾けている。そして,あるタイミングを見計らって,「原発推進は必要なことである」と多数決による政治決定に持ち込みたいのだろう。そんな意図がみえみえ。しかし,多くの人びとはそのことに気づいていない。慢性的テレビ漬けになっている人びとにとっては,これが「ふつう」。

わずか3年余の,テレビ・ブランクが,わたしの感性を「振り出し」にもどしてくれた。だから,とても純粋に,そして,ストレートに,テレビの異形な姿が露になっているのが,はっきりと見える。だから,いまの日本が恐ろしい。

毎日,毎日,ありえないことが,政界でも,財界でも,学界でも,官僚界でも,メディア界でも,そして,世俗界でも,起きている。しかも,それが日常化している。だから,みんなどんどん「マヒ」していく。これが当たり前だ,と。テレビ界はその最先端の「まやかし」づくりに大貢献している。もっともまっとうなニュースを提供しているかのような,大まじめな顔をして。

ビギナーズ・ラックという。久しぶりの,テレビ初心者のみる目は,無欲なだけに,正鵠を射ているのではないかという気がして,いささか恐ろしい。どうか,ここに書いたことが杞憂にすぎなかった,ということになりますように。いまは,静かに祈るのみ。

もう少し長い目で,テレビ・ウォッチングをつづけたい,と思います。
二度と騙されないために。そして,なによりも,わたしたちの「命」を守るために。

「アセスメント」持ち込みは沖縄の普天間基地固定化のための通過儀礼にすぎない,と元外務官僚の佐藤優氏。

「東京新聞」に「本音のコラム」という枠があって,山口二郎氏や佐藤優氏が登場したときは,必ず読むようにしている。なぜなら,わたしなどの時代や社会の読みとりとは次元の違う見解を示してくれることが多いからだ。

1月6日のコラムには佐藤優氏が登場。「みじめな鼠輸送」という見出しで,わたしにとっては衝撃的な見解を述べている。その内容は,正直に言って,ショックだった。なぜなら,防衛庁が,去る12月28日未明に,普天間基地の辺野古移設に関する環境影響評価(アセスメント)を沖縄県庁の守衛室に運び込んだのは,太平洋戦争時代に夜陰にまぎれて輸送を行った「鼠輸送」と同じ方法だったといい,さらに,つぎのように断言しているからだ。

「元外務官僚であった筆者には,普天間問題を担当する外務官僚や防衛官僚が何を考えているかが皮膚感覚でわかる。沖縄の反発を考えれば,辺野古移設の可能性がもはや皆無であると外務官僚,防衛官僚は認識している。そして,それど遠くない時期に日本政府が米国政府に『沖縄の状況に鑑み,普天間飛行場の辺野古移設は不可能になりました』と伝えるようになることも織り込み済みだ。その上で,普天間基地の固定化を考えている。そのための通過儀礼として,今回,防衛官僚は,みじめな『鼠輸送』を行ったのだ。」

これを読んで,なんとも思わない人は,もはや人間ではない。もちろん,エリート官僚は,人間を人間とも思ってはいないから,こんなシナリオを平然と描き,そのまま実践に移していく。そして,最終的には,またぞろ沖縄に基地問題のすべてを押しつけて,頬被りをしようとしている。大山鳴動して鼠一匹である。元の木阿弥とばかりに。

こんなことを「なさしめている」のは,じつは,沖縄問題に無関心を装う(実際に,ほとんどなにも知らない人が多い。知ろうともしない人はもっと多い),本土に生活しているわたしたちだ。そこまで官僚は読み取って,こんなシナリオを描き,政治家を動かしていく。官僚はほんとうに悪だが,それを「なさしめている」わたしたちはもっと悪い。

沖縄に基地問題を押しつけて,「県外移設」を拒否し,知らん顔をしている全国の都道府県知事も,同じく人間ではない。自分たちの府県でも,等分の負担をすべきだし,その用意はある,と答えたのは,あの橋本君,ただひとりだった。やれ独裁者だ,やれハシズムだ,と世間は姦しいが,この人間だけが全国都道府県知事のなかでは,たったひとり「人間」の顔をみせた。あとは,計算・打算の世界で生きている「人非人」たちばかりだ。穏健派を装う,冷徹無比の,自己中心主義者だ。いやいや,こういう人は,わたしの身の回りにもうようよいる。日本人の圧倒的多数はこういう人たちなのだ。そして,そういう人たちが政治を動かしているのだ。これが現実だ。まったくもって情けない。いやいや,またまた過激になってしまった。

こんなことを書くのは,同じ日の「東京新聞」の名物記事となっている「こちら特報部」で,フクシマの汚染土壌などを保管する中間貯蔵施設を福島県双葉郡に建設する政府方針をとりあげているからだ。これを読むと,またぞろ,弱い者に汚染土壌の保管を押しつけて頬被りしようとしている,この構造がオキナワとそっくり同じだからだ。双葉町長は「被害者に責任取らすのか」「町民の使い捨て,許さぬ」と声をあげている。ただでさえ,住む土地を追われ,避難生活を余儀なくされている上に,汚染土壌などの「中間貯蔵施設」を町民がいなくなった土地に建設しようと,政府は考えているのである。なんということか。こんなことを平気でできる政府与党とは,いったい,なんなのか。これを「人非人」と言わずして,ほかになんと呼べるのか。

では,汚染土壌を引き取ってくれる都道府県はあるのか。これまたオキナワと同じで,みんな顔を横に向けて知らぬ顔だ。少なくとも,この汚染土壌は,各都道府県で応分の負担をすべきだ,とわたしは考えるのだが・・・・。いやいや,それより前に,まずは,東京電力の保有する保養施設に持ち込むべきではないのか。そのくらいの責任をとったって,なんの不思議もないのに・・・・。政府はそれすら打診することもできない。東京電力に政府が乗っ取られている。原子力ムラなる恐るべきネットワークの実態が次第に明らかになりつつあるのだが・・・・。

正月の松の内だけは,こういうブログは書くまい,とこころに決めていたが,とうとう我慢できなくなって書いてしまった。いや,書かずにはいられなかった。このまま放置しておくと,日本列島全体がこのまま沈没していくこと間違いなしだから。

ことしこそ,もっとも多難な年になりそうだ。それにしては,危機意識が足りない。その上に政府与党は大あぐらをかいている。完全に舐められている。情けないが,これが現実。



2012年1月6日金曜日

奈良・山焼き講演「3・11」以後のスポーツ文化を考えるための理論仮説について」──バタイユの『宗教の理論』をてがかりにして。

毎年,奈良の山焼きの日には,かつての奈良教育大学時代の教え子たちとの約束で,お里帰りをすることにしている。ことしは,1月28日(土)がその日にあたっている(毎年,1月の第4土曜日が山焼きの日)。そこでは,恒例の講演をすることになっている。場所は,奈良教育大学教職員会館。そして,そのあと,山焼きをキャンパス内の最高のポイントから見物し,もどってきてから,懇親会に入る。こんなことを,かれこれ15年ほどつづけている。

ことしのテーマは,「3・11」以後のスポーツ文化を考えるための理論仮説について──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をてがかりにして,というものである。しかも,お世話をしてくださる井上邦子さん(「ISC・21」1月奈良例会の世話人)の希望で,たっぷり3時間をかけて,存分に語って欲しい,と言われている。

じつは,この長時間講演は,半分はわたしの希望でもあった。というのは,ジョルジュ・バタイユの思想・哲学をてがかりにして,スポーツ文化を語ることは容易なことではない。1時間30分くらいの時間ではとても語れない。だから,講演依頼を受けたときに,思わずわたしの口から,時間をたっぷりくれるのなら・・・と言ってしまった。そこは割り切りの早い井上さんのこと。わかりました,3時間ではどうですか?ときた。そうか,3時間ももらえるのであれば・・・・,ということでわたしも決断した次第。

この講演のタイトルを決めたのは,井上さんから依頼を受けたその日の夜(12月23日,「ISC・21」12月神戸例会の懇親会)のことである。昨日のブログにも書いたように,「スポーツに思想はあるか」という恩師岸野雄三先生の30年も前の「問い」に,なんとかしてわたしなりの「答え」を出さなければと考えつづけていたので,この機会に,その一端を披瀝することはできないだろうか,と考えたのである。その瞬間に,ほとんど直観に近い状態から,突然,口をついて出てきたのが,このタイトルだった。こういう直観は信じたい,というのがわたしの流儀。

もう少しだけ踏み込んでおけば,じつは,もうすでに,3年にわたって続けてきた神戸市外国語大学での集中講義そのものが,「スポーツに思想はあるか」という恩師の「問い」に応答する,ひとつの試みだったのである。その一端は,このブログのなかでも何回にもわたって書いているので,ご存じの方も多いと思う(ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』読解。スポーツ史・スポーツ文化論の視点から)。いささか難解なテーマへの挑戦であったが,意外に多くの方が熱心に読んでくださった。やはり,自己を超えでていく,蛮勇をふるっての挑戦には,みなさんが温かく見守ってくださるものだ,と痛感した。ありがたいことである。

ここまで書いてきたら,ふと,思い出したことがある。
わたしがフランス現代思想というものを初めて意識しはじめたころのことを。人間にはレディネスというものが大事で,それがないとつぎの段階のステージは開かれてこない。ちょうど,さきほども書いたように,30年ほど前に「スポーツに思想はあるか」という恩師の「問い」に触れ,おろおろしていたときに,西谷修さんとの何年ぶりかの再会があった。このころ,すでに,西谷さんは,ジョルジュ・バタイユをはじめ,エマニュエル・レヴィナスやモーリス・ブランショという人たちの,いわゆるフランス現代思想の黎明期を代表する人たちの,眼の覚めるような思想・哲学を,さまざまな雑誌に紹介したり,翻訳をしたりしていた。その内の一冊が献本として,わたしの手元に届いた(たしか,モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』だったと記憶する。なぜなら,このころ,大塚久雄の『共同体の基礎理論』という本とにらめっこしながら「共同体」のことを考えていたので,この『明かしえぬ共同体』という本のタイトルをみた瞬間に,なんのこっちゃ,という強烈な衝撃を受けたことを記憶しているから)。これがまた,難解至極,読んでもさっぱり要領をえない。しかし,訳者の西谷修さんの「訳者解説」を読むと,これまた不思議なほどすとんとわたしのこころに落ちた。

これがきっかけとなって,わたしはフランス現代思想の,それまでに学んできた思想・哲学とは,天と地がひっくり返るほどの違いを知り,びっくり仰天しながらも,気づけばすっかりのめりこんでいた。わからないことは西谷さんに教えてもらい,少しずつ,その世界の空気に馴染んでいった。だから,当時,できたばかりの大学院のゼミでも,「共同体」を考えるためのテクストとして,モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』をとりあげたことを思い出す。しかし,このころは,指導するわたし自身がよくわかっていないのだから,院生さんたちには申し訳ないことをした,と反省している。しかし,そのときの「蛮勇」があったからこそ,いまがある,とわたしは思う。

それから,長い長い,フランス現代思想遍歴をへて,いま,ここに立っている。そのわたしを諦めずに導いてくださったのが,西谷修さんである。みなさんもご存じのように,わたしの「思想・哲学」の師匠である。お蔭で,いまでは,西谷さんとお話しているときが,もっとも幸せな時間である。しかも,毎週,太極拳の兄弟弟子として。いま,振り返ってみると,なんとラッキーだったことか,とわが人生を省みて気が遠くなる思いがする。こんなことは,まずは,ありえない,と。お蔭さまで,わたしは,いま,至福のときを過ごしている。

というようなわけで,こんどの山焼き講演は,わたしの人生の集大成のようなものになる,また,そうしなければいけない,と考えている。そういう意味では,ようやく,ここにきて,大学でいうところの最終講義ができる,と思う。ただし,わたしの言う最終講義とは,これまでの過去の自分をすっぽりと切り捨てるための,そして,まったく新たなスタートを切るための,けじめをつけるための講義を意味する。

この山焼き講演を境にして,「スポーツに思想はあるか」という「問い」への,根源的な「応答」をはじめたいと切に願っている。その長年のわたしの願いが,ことしこそ実現するように,と祈るばかりである。

2012年1月5日木曜日

初夢「スポーツに思想はあるか」という恩師の声で目が覚める。

ことしの初夢に恩師の岸野雄三先生が現れた。なぜ,このタイミングで先生が夢に現れたのか,まことに不思議。でも,考えてみれば,これもご因縁ではないか,とも思えてくる。

最近はお墓参りにも行ってないので,たまにはお出でよ,と声を掛けられたに違いない。その声が,なんと「スポーツに思想はあるか」という問いであった。顔は浮かんでこないのだが,声だけは,間違いなく先生のものだった。いつもの調子で「君ねぇ,スポーツに思想があるか,って考えたことある?」と言われ,びっくりして目が覚めてしまった。

昨夜,眠ったのは2時ころ。目が覚めたのは朝方の5時ころ。ここから眠れない。でも,眠いのである。眠いのだから,そのうちに眠るだろう,とぼんやりしていた。眠気と覚醒のはざまを行ったり来たりしながら,なりゆきに身をまかせたまま横たわっている。虚実皮膜の間(あわい)を,さまざまな妄想が駆けめぐりはじめる。なんのことだろうと,ぼんやりとそのままじっとしている。

そのうちに,「セックスに思想はあるか」という問いがどこからともなく立ち上がってきた。えっ,と驚きながら,つぎはどうなるのだろうか,とぼんやり待っている。そうしたら,小さな声で(だれの声かはわからない),「消尽,消尽」と言っているのが聴こえる。またまた,えっ,と驚く。それでも,まだ,なにかつづきがあるらしい,とぼんやりして待つ。

こんどは,天の上の方から「みんな同じ,みんな同じ」と言っている声が聴こえる。この声が聴こえた瞬間に,わたしは起き上がった。机に向って走り,大急ぎでメモをとる。紙に書き取って,その文字を眺める。「スポーツに思想はあるか」「セックスに思想はあるか」「消尽」「みんな同じ」。こうして対象化してみたら,これは偉いこっちゃ,と気づく。しばらく眺めてから,ふたたび寝床にもぐり込む。これでなんとか眠ることができるだろうと期待した。

ところが眠れない。でも,かなりの眠気が襲ってきているので,大いに期待する。そのうち,夢と現(うつつ)の間を行ったり来たりしはじめる。夢を短くみているのに,目覚めている。もう,どうにでもなれ,と思っていたら,忽然とジョルジュ・バタイユの『エロティシズムの歴史』の本が目の前に飛びだしてきて,ページがめくられていく。そうか,この夢の主(あるじ)はこのテクストだったのか,と合点がいく。なぜなら,新年,最初に手にして読みはじめたまともな本がこれだったからだ。そして,毎日,少しずつ拾い読みをしている。

これまでのような,通読ではなくて,わたしの脳裏に浮かんだキー・ワードに誘われるようにして,その該当箇所を探して,読む。じっくり,熟読玩味する。あきたら,また,つぎのキー・ワードに移る。そういう読み方をしていた。いま,もっともひっかかっているのは「近親婚」。バタイユは,レヴィ・ストロースの研究を引き,その説得力のある論説に敬意を表しながらも,最後のところでは,これですべてだとして納得するわけにはいかない,としてみずからの仮説を模索しはじめる。そのときのバタイユの視線はもっぱら「エロティシズム」の成立根拠に向う。そして,動物のセックスと人間のセックスとの根本的な違いはどこにあるのか,と問う。ここが人間と動物を分かつ,ひとつの重要なポイントになるのではないか,として。しかも,その根底に流れているバタイユの問題意識は「消尽」。

こんなことを,この正月以来,拾い読みしながら考えている。バタイユが,エロティシズムに思想を,そして,セックスを真っ正面に据えた思想・哲学の構築に,哲学者たちはあまりに不真面目だったと批判する,テクストのくだりが脳裏から離れない。そして,このことを考えながら,「スポーツを真っ正面に据えた思想・哲学」(全体的経験としてのスポーツを対象にした思想・哲学)は可能か,と考えていた。だから,こんな夢をみたらしい。

もうひとこと,付け加えておけば,こんなこともあった。昨日(4日)の太極拳の稽古のあと,昼食を済ませ,さらに,タバコを吸いたい西谷さんに付き合ってドトールに入り,二人だけであれこれ雑談をしているときに,たまたま,話がバタイユに及んだ。そして,今日からバタイユの『エロティシズムの歴史』を読みはじめようと思っています(じつは,すでに,読みはじめていたのだが),とわたしが言ったら,それに対して,即座に「ああ,それだったら『宗教の理論』と『エロティシズムの歴史』をベースにして,そろそろ,人間にとってスポーツとはなにか,という本を書くといいですね」と,西谷さんはなんのためらいもなく,当たり前のように仰る。しかし,わたしにとってはまことにありがたい「ひとこと」であった。これで,しっかりと背中を押されたのだから,あとは「Go!」だと。もう,これ以上,躊躇うことはない。

その気になって,夜は,またまた,『エロティシズムの歴史』の拾い読みをし,熟考をくり返す至福の時間を過ごした。その結果が,「初夢」となった,という次第。しかも,恩師の岸野先生の声となって。「スポーツに思想はあるか」。じつは,若いころに(たぶん,わたしが40歳代の後半に入ったころだったと記憶する),同じ問いかけを岸野先生からされている。そのときは,ひとことも応答することができず,背中を冷や汗が流れただけだった。そして,情けなかった。岸野先生はじっとわたしの顔を覗き込むようにして見つめていた。以後,トラウマのように,この問いがわたしの脳裏から離れない。だから,ほぼ,30年以上も,この問いと向き合ってきたことになる。こうしてようやく,岸野先生に応答できるときがきた。

今夜は,夢のなかで,岸野先生に応答しよう。「スポーツに思想はあります」,「そのことをぼくが書きます」,と。「その鍵はバタイユの<消尽>にあります」,と。そして,「先生もご存じの西谷さんから背中を押してもらいました」とも。先生はなんと仰るのだろう?


2012年1月4日水曜日

太極拳の稽古始め。新年から李自力老師の住む溝の口で。

今日(4日)は太極拳の稽古始めの日。会場が大岡山から溝の口に移って最初の日なので,まずは,溝の口駅(田園都市線)改札口に集合。みんな揃ったところで,会場へ。会場は,わたしと李老師が住んでいる某マンションの集会室。

今日は,李老師は中国にお里帰りのため欠席。紅一点のKさんは安曇野の穂高神社での能面展のため欠席。あとの5人で稽古をはじめる。いつものとおりの準備運動をして,基本の運動をし,24式へ。そして,部分練習。細かな動作のチェック。ここまで稽古が進むと,Nさんが元気になる。この人は教えることが根っから好きな人。少しでもみんなを上手にしてやろうと,とても熱心。わたしはどちらかといえば,自分のための稽古がしたい。でも,Nさんが熱心に教えているのをみると,わたしもなんとなくつられて口を出すようになる。で,結局,みんなでわいわい言いながらの稽古となる。これがまた楽しい。若い二人もさることながら,Sさんも真剣そのもの。

しかし,面白いもので,いつのまにか,みんな上手になっている。場のもつ力というものは不思議なものだ。稽古に対するNさんの気迫はたいへんなもので,わたしなどは時折,圧倒されることがある。これではいけないとわたしも気を引き締めて稽古に励む。それが連鎖反応を起こして,いつのまにか,みんな真剣そのもの。これが,一緒に稽古することの意味なのだろう。ひとりではこうはいかない。どこか甘えが残っていて,いとも簡単に自分を許してしまう。しかし,大勢で稽古すると,そんなことは許されない。その場の力をもらったり,また,与えたりしながら稽古場の雰囲気が盛り上がっていく。そうして,これまでできなかったことが,少しずつできるようになっていく。

太極拳の稽古をはじめたころは,李老師が毎週,手取り足取りしながら,細かい指導をしてくださった。が,いつからか,李老師が忙しくなって,毎週の指導は困難になった。仕方がないので,最初の弟子だったわたしとNさんとで自主的な稽古をつづけることにした。もちろん,Kさんも李老師不在でも,この自主稽古に参加してくれた。この3人だけでの自主稽古がしばらくつづいた。そこに,Sさんが加わり,若い二人が加わった。合計6人での稽古が,大岡山でつづいた。李老師は,数カ月に一度,ふらりと顔を出してくれる。これがとても嬉しかった。

しかし,面白いもので,李老師がそこにいるというだけで,わたしたちは緊張した。そして,いつもはできていることが急にできなくなってしまう。しかし,李老師はにこにこ笑いながら,みんな上手になった,と褒めてくれる。そして,ワン・ポイント・レッスンをしてくださる。ありがたいことだ。そして,たまにしかお目にかかれない李老師のえも言われぬ,奥の深い「動き」を脳裏に焼き付けようと必死になる。この全神経を集中させても,見えないものは見えない。しかし,あるとき,ひょいと「見える」ときがある。この瞬間こそが至福のときだ。

禅仏教の道元のことばで言えば「修証一等」である。自分の達したレベルに応じて「見える」ようになる。見えていないものを稽古しても,それは無駄である。いま,見えていることを反復練習しているうちにそれがおのずから身につく。そうすると,また,つぎの「動き」が見えてくる。道元は,修行すること(=修)と悟り(=証)とは同時に進行するもの(=一等)なので,無理に難しい修行に取り組む必要はない,と説いた。

太極拳の稽古も,ほとんど同じ構造になっている,とわたしは理解している。いま,見えていることを反復練習するのみ。そして,それが身につけば,つぎの「動き」が見えてくる。個人差はもちろんある。天才は,数段階をすっ飛ばして,つぎの「動き」が見えてくるらしい。でも,凡才であるわたしなどは,一段ずつ,見えてきたものを「わがもの」とすべく努力するのみ。だから,これまで見えなかった「動き」が見えてきたときの喜びはなにものにも代えがたい。

会場を,大岡山から溝の口に移したのは,李老師がよほどのことがないかぎり,毎週,顔を出します,と言ってくれたからだ。では,月謝を受け取ってください,とわたしたち。いやいや,一緒に稽古するだけのことなので不要,と李老師。勿体ない話。となれば,わたしたちは相当に気合を入れて,しっかりとした稽古をしなければならない。でなければ,罰が当たる。

それはともかくとして,来週からは,李老師の名人芸に触れることができる。途切れることなくからだのどこかが動きつづけている,あの不思議な名人の域に達した「動き」を見ることができる。芸事を習うということは,やはり,一流に触れることが第一だ。それは,武芸も学芸も,どの世界でも同じだ。その意味でも,わたしたちは幸せだ。太極拳の現代の名人に,じかに触れることができるのだから。

と,ここまで書いてきて,はっと気づくことがある。この太極拳の兄妹弟子もまた,並の人たちではない,ということに。世界を相手に新しい思考を切り開いている学芸の名人がいる。能面の世界にアートの新風を吹き込ませている能面アートの名人がいる。そして,出版界の大御所がいる。さらには,将来有望な若者たちがいる。おやおや,見回せば,わたし一人を除いて,みなさん大変な人たちばかりである。それはそれは,恐るべき集団ではないか。

こんな人たちに囲まれて太極拳の稽古ができること,こんな幸せなことはない。
よし,ことしは,気持ちのギアを入れ直して,稽古に取り組むことにしよう。そして,李老師に喜んでもらえるような弟子になろう。そして,なによりも,李老師がつねづね口にする「気持ちがいい」と感じられる太極拳を体験できるよう,頑張ろう。新年だから,このくらいの決意表明をしても許されるだろう。ただし,これが,新年の空手形にならないように。

さて,来週からの稽古が,いまから楽しみ。
ことしは,いい年になりますように。

2012年1月3日火曜日

「校庭に歓声が上がる元気のいい学校をめざせ」,被災地の元小学校校長の談話。

昨夜(2日)テレビでみた「ガレキに立つ黄色いハンカチ 被災地巡る山田洋次監督」(NHK第一)のなかで登場した元小学校校長先生と山田監督との対談が,とてもこころに響くものがありましたので,その印象を書き残しておきたいと思います。もう,先生の名前も小学校の名前も,すぐに忘れてしまっていますので,わずかな記憶が頼りです。

被災地(場所はいろいろのところに山田監督が移動しているので,その地名すら忘れている)のある所に,津波で跡形もなく全部流されてしまってガレキだけになってしまった自分の屋敷跡に,「黄色いハンカチ」を飾ったところ,これが話題になり,その話が山田監督の耳に入ります。山田監督は早速,仮設住宅に避難している元住人宛てにはがきを書いて,「感動した」と伝えます。そして,その地を尋ねていきます。そのとき,映画で使ったホンモノの「黄色いハンカチ」を持参し,プレゼントします。元住人は感激して,涙します。もちろん,わたしも涙。

そうした話題の主を,山田監督が尋ねていき,話を聞き出します。そのひとつに,高台にあった小学校の校長先生が,津波を避けるために子どもたち全員を学校に残して,生徒全員の命を救った,という話があります。その校長先生は,昨年の3月末で定年退職しましたが,つぎの校長先生と一緒に,山田監督との対談に参加して,とても,印象的な話をしています。

単刀直入に言いますと,つぎのような話が,わたしのこころにグサリと突き刺さりました。
以下は,その元校長先生の話の要約です。
「3・11」以前までの小学校の教育を根本から改めなくてはいけないのではないか,と退職後,真剣に考えています。もっともいけないのは教科の勉強に眼を向けすぎて,点数や偏差値ばかりに拘りすぎたことではないか,と。そして,教室の中で,静かに先生の話を聞き,おとなしく勉強する子がいい子だと信じ込んでいたことではないか,と。一番,大事なことは,子どもたちが元気であること,休み時間には校庭に歓声が上がるような,そういう学校をめざすべきではないか,と。教室の中でも,元気が余って,多少は騒然としているくらいの方がいいのではないか,と。

なによりも大事なことは,子どもたちが学校が好きになること。学校が楽しくて楽しくて仕方がない,という環境をつくること。友だちがいっぱいできて,みんなで元気よく遊びまわれる環境を,教師は創意工夫すること。これが小学校教育の根幹ではないか,と。子どもたちの「生きる力」は,この遊びの中から育つのだから,と。喜怒哀楽を素直に表現できる環境を,学校は準備すること。喧嘩をすることも,優しさも,助け合うことも・・・・,ありとあらゆる教育の場を学校は用意すべきだったのではないか,と。この一番,大事な教育が「3・11」以前には軽視され,忘れ去られていたのではないか,と。

教科の勉強は,その上に成り立つものではないか。教育の土台・基礎のないところに,点数主義や偏差値主義に傾いた教育をしてきたこと,ここに「3・11」以前の教育の根本的な誤りがあったのではないか,と。わたしは,いま,本気でこのことを考えている,と元校長先生は情熱を傾けて,山田監督に訴えています。

山田監督は,静かに頷きながら,短いコメントを挟みます。それが,絶妙なタイミングでなされるものだから,元校長先生はますます饒舌になっていきます。そして,「3・11」以後の教育のあり方について熱弁をふるいます。しかも,そのイメージが,よくよく考えると山田監督が,もう,かなり以前から取り組んでいる「学校」とか「同胞(はらから)」というような映画で提示してきた問題であることが明らかになってきます。その極めつけが,じつは,「寅さん」シリーズだったということも。

テレビでは,この元校長先生の話の間に,山田監督の制作した映画のシーンを,いくつも折り込みながら,問題の本質に接近していこうと試みています。寅さんが,生まれ故郷の柴又に帰ってきても,すぐに喧嘩をしたり,イザコザを起こして,また,家を飛び出していくシーンは,その極めつけというわけです。つまり,寅さんは,「社会の常識」という「うわべ」だけの,寅さんに言わせれば「嘘だらけ」の社会規範や了解事項に,どうしても馴染めない,というわけです。「そんなおべんちゃらみたいな,いい加減なことを言われて,喜んでいていいのか。そんな人間なんて信じられない」と,寅さんは啖呵を切ります。

教育という常識も,どうやら理性中心主義的で,一見したところ理路整然としているかにみえるけれども,そこには人間としての情緒や喜怒哀楽といった感情の問題が,ほとんど省みられていないのではないか,と訴えかけているように,わたしにはみえてきます。ここにも,じつは,理性が「狂気」と化してしまっている現実をみることができます。この理性の「狂気」化の頂点に立つものが,人間の「命」を軽視した「原発推進」という考え方だ,ということは,もはや,説明の必要もないことでしょう。

元小学校校長先生の行き着いた結論は,どうやら,そういうところにあったとわたしは類推しています。あの先生の口ぶりからすれば,当然,そういうところまで話は行き着いていたに違いない,と。しかし,ここがNHKの悲しいところ。そういう「原発推進」批判になるような言説は,やんわりと,編集でカットされてしまったに違いありません。

山田監督は,そのあたりのことは十分承知の上で,もっぱら「命」を大切に,という立場を貫いています。ただ,ごく簡単に,天災と人災は区別して考えないといけない,とだけ言っています。すべてをお見通しの上で,放送されるぎりぎりのところで発言をコントロールしていることが,見ているわたしにも伝わってきます。

同じような場面は,吉永小百合との対談や,蒼井優との対談の中にもあって,もっぱら「命」が第一,を繰り返しています。それは,そのまま「原発推進」は困ります,と言っているのですが・・・。まあ,最終的に放送されないよりは,放送された方がいい,そうすれば,いくらかは隠されたメッセージを送り届けることができる,と山田監督は考えたに違いありません。

山田監督は,東京を舞台に,「3・11」を主題にした映画を構想中で,ほぼ,そのシナリオもできあがっているようです。主役は蒼井優さん。ラスト・シーンも決まっているとか。たぶん,山田監督は映画をとおして,自分の主義・主張は的確に提示してくれることでしょう。この映画の完成がいまから待ち遠しい・・・・。

「3・11」以後の教育とはなにか,なにを改めなくてはならないのか,現場の学校の先生たちが,どのように考えているのか,生の声を聴いてみたいと思っています。

箱根駅伝。「21秒の悔しさ」をバネに。東洋大のみせた人間の可能性に感動。

この二日間,箱根駅伝に釘付けになっていました。もちろん,目玉は柏原君のラスト・ラン。勝ち負けを超越した「自分を超えたい」という異次元世界のランがみたかったからです。しかし,その期待に応えただけではなく,東洋大というチームが一丸となって,この1年間を頑張ってきた努力に,こころからの拍手を送りたいと思います。感動しました。ありがとう。

「21秒」差で負けた昨年の箱根駅伝の「悔しさ」を,チーム全員で共有し,自分の記録を1秒でも2秒でも縮めていこう,そのさきに「優勝」の二文字が浮かんでくる,と監督以下,全員が取り組んだ一年の成果が,みごとにことしの箱根での驚異的な記録となって実現した。

10時間51分36秒。総合新記録。2年ぶり,3度目の優勝。昨年,早稲田大学が樹立した新記録を一気に約8分も更新。驚くべき全員の快走の結果でした。

柏原君もまた,自己記録を36秒短縮。この走りもまたみごとでした。ことしは1位でたすきを受けたので,前の走者を追い抜くシーンはなかったものの,少しも足の疲れを感じさせない快走ぶりは,強く印象に残るものでした。ゆったりとした入りから,徐々に調子をあげていく走り,そして,下りに入ると一気にギアを入れ換えての,ぶっ飛ばしの韋駄天走り。驚異としかいいようのない,鍛えられた脚力。そして,強い意志。出身地のいわきの人たちの苦しみを考えれば,ぼくの苦しみは1時間ちょっとのこと,そんな程度の苦しみに負けるわけにはいきません,と柏原君の快走後の談話。

キャプテン柏原君のこの「闘う姿」を全員がみせて欲しい,と監督は選手たちに頼んだ,といいます。ですから,選手がみんな,みずからの「闘う姿」をひとりずつ表現した結果が,この驚異的な総合新記録を生み出す源泉だったことがわかります。ひとりとして守りの走りはしていなかった,というのも強烈な印象でした。

「負けて強くなる」とむかしから言います。しかし,それを実現することは,とてもむつかしいことだと,わたしは考えています。言うは易すし,されど実行は難し。それをチーム一丸となって実現させた監督は大した人物だと,これまた感動。柏原君は「ぼくはキャプテンとしてはチームのためになにもしてあげられなかった。みんなが,ぼくを助けてくれた。そのお蔭です。みんなに感謝したい」と涙がこぼれるような話をしてくれました。

いっときは,スランプに陥って,チーム練習についていくこともできなかった,といいます。落ち込んだまま郷里のいわきに帰ったら,被災のなかで黙々と努力している知人・友人たちがいて,柏原君のスランプについてはなにも言わずに,黙って優しくつつみこんでくれた,そして,被災によってくじけることなく前を向いて一歩一歩,日々,努力を積み上げる姿で応えてくれた,これがボクの今日の走りにつながった,エネルギーを一杯もらった,背中を押してもらった,その人たちにも感謝の気持ちで一杯です,と語っていました。わたしは,何度,涙したことか。

この若者は,なんと素晴らしい人生哲学を身につけたことか。これは,東洋大の選手たちみんなが共有していることなのでしょう。自分の身を削りながら,自分の可能性にチャレンジする精神。自己との「闘い」。それを支える強い意志(意思)。燃え上がるような情念を内に秘めて,目指すゴールに向かって全身全霊を傾ける,日々の地道な努力の積み重ね。自立心。自律心。

こんな選手集団ができあがったら,もはや,敵なしです。ひとりの生きる人間としての強さをわがものとしたとき,アスリートは大きく飛躍するということを,これほどみごとに提示してくれた例も珍しいと思います。アンカーの斎藤君の走りもみごとでした。苦しさを耐えて,耐えて,ひたすら耐えて,それでもからだを前に進める,この根性。そして,みごとに区間新。

ことしの箱根駅伝は感動の渦でした。
東洋大のみなさん,おめでとう!
そして,素晴らしい感動をありがとう!

〔以下は余録〕
ひとつめは,青山学院大の走りに拍手。ことしは5位。地味ながら,毎年,少しずつ順位を上げて,ここまでやってきました。ゴール前まで,順天堂大,中央大と競り合ってきて,最後の最後にみせたアンカーのラストスパートは感動でした。中央大の選手も限界を超える,何回ものスパートを見せてくれ,びっくりしました。こういう競り合いに勝てる選手がいる青山学院大なら,来年は,優勝争いに加わることでしょう。いまから,楽しみ。

ふたつめは,早稲田大学。このチームには,毎年,異色の選手が登場してきます。ことしは,愛知県の時習館高校卒業の山本選手(1年生)。箱根の山登りで,明治大学の名選手と抜きつ抜かれつの大接戦を演じ,最後はきちんと勝ち取る快走が深く印象に残りました。もうひとりは,同じ愛知県の岡崎高校出身の市川選手(2年生?)。早稲田のアンカーを任され,よく健闘しました。残念ながら明治大学の鎧坂選手(日本学生最高速ランナー,オリンピック候補)に抜かれましたが,それでも僅差ですぐあとを追ってゴール。来年につながる走りだったと思います。時習館高校も岡崎高校も,愛知県では指折りの進学校。でも,どちらの高校もスポーツに力を入れていることで知られています。でも,高校時代に全国区で活躍できるほどの強いクラブはありません。東大野球部にも時習館卒のピッチャーがいます。こういう特別の経歴のない無名の選手が活躍するところに,早稲田大学の強さがあると思います。

みっつめは,城西大の活躍。ことしは6位でゴール。青山学院大とともに,来年の活躍に期待したいと思います。いくつものハードルを一つひとつクリアして,ここまで上がってくる選手たちの努力,そして,監督の指導力に,なにか響くものを感じます。

以下は省略。

2012年1月2日月曜日

ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを聴く。

久しぶりにウィーンフィルの「ニューイヤーコンサート」を視聴しました。そう,わたしの場合には,まさに,視聴です。なぜなら,クラシック音楽を聴くだけの耳がないので,もっぱら視覚に頼って,この番組を鑑賞した,というわけです。

指揮者の身振りや顔の表情がとても面白くて,もっぱらそちらに関心が向ってしまいます。ことしの指揮者は,マリス・ヤンソンス。どういう経歴の人かは知りません。以前,小沢征爾が指揮したときとはまったく違っていて,そこがとても面白かった。途中で指揮棒を振ることをやめて,両腕をだらりと下げたまま,両眼を閉じ,うっとりとしながらからだを左右に揺さぶるだけのとき(「美しく青きドナウ」の演奏のときもそうでした)には思わず拍手をしてしまいました。

このニューイヤーコンサートには,ほとんど定番となっているウィンナーワルツやポルカがたくさん演奏されます。そのときには,ウィーン国立バレエ団のなかから選ばれたベスト・ダンサーが華麗なダンスを踊ってみせてくれます。その舞台も,なんと,シェーンブルン宮殿やヴェルヴェデーレ宮殿の,かつてのきらびやかな宮廷時代の特別の部屋が使われます。ふだん,一般には公開されていない場所です。その部屋をつぎつぎに移動しながら,男と女のペアリングが微妙な物語を秘めながら,徐々にできあがっていきます。

もうひとつの楽しみは,このニューイヤーコンサートが開催されるウィーン楽友協会の建物を映像でみることです。外観が映し出されたときには,なんだか建物が新しくなったような錯覚さえ覚えました。たぶん,何年に一回かは,きれいに洗って磨き上げることをしていますので,その年に当たったのかもしれません。ふだんは,自動車の排気ガスの影響で,徐々に黒っぽくなっていきますので,ひどいときには「黒い」建物だと勘違いしてしまうほどです。

わたしが初めてウィーンを訪れたとき(ほぼ30年前)には,ウィーンの市庁舎は真っ黒でした。二度目に行ったときには(20年前),ちょうど市庁舎を洗う年でした。ですから,わたしが滞在している間に,黒い建物から白い建物に変化しました。石造建築ですので,それができるというわけでしょう。何回も何回も化粧直しをしている,というわけです。

ウィーン滞在中に,よく散策にでかけたシェーンブルン宮殿のある公園(無料公開)が映し出されたりするのを見るのも,この番組を視聴する楽しみのひとつです。広い,とてつもなく広大な公園ですが,ほとんどくまなく歩いて知悉していますので,風景をみるだけで,からだに刻まれた記憶が呼び覚まされます。ヴェルヴェデーレ宮殿も同じです。ここには美術館も博物館もありましたので,少し遠かったですが,よく通いました。わたしは,美術館・博物館の年間会員になっていましたので,どこも,全部,フリーパスでした。

ニューイヤーコンサートの会場となるウィーン楽友協会の内観も,毎年,少しずつ変化しているように思います。いつも,とてもきれいですが,ことしはとびきりきれいにみえました。古い建物ですので,客席はそんなには多くないので,ここのチケットを手に入れるのは至難の業だといわれています。とくに,ニューイヤーコンサートは,大手の旅行会社がまとめ買いをしてしまいますので,大変です。しかも,楽友協会の年間会員という人も相当数いるわけです。ですから,どうしても聞きたいという人は,一番奥の最上階にある立ち見席のチケットを購入します。わたしも,何度か,この席からコンサートを視聴したことがあります。

演奏時間は,日本時間の午後7時から3時間。日本との時差は8時間ですので,ウィーンの午前11時から午後2時までということになります。ですから,天気のいいときには外の景色がリアル・タイムで映し出されることがありますが,ことしは録画でした。つまり,夏の景色でした。ウィーンの冬は,ほとんど毎日,黒い雲が低く垂れ込めて,太陽がどこにあるのかさえわからないほどです。ほんとうに,暗くて長い冬です。そんなことも思い出しながらニューイヤーコンサートを視聴していました。

また,いつか,ウィーンにでかけてみたい,そんな気持ちが久しぶりにわきあがってきました。
さて,ことしはどんな年になるのでしょう。少しでも,ほんの少しだけでもいい。上を向いて,夢と希望をいだきながら生きることのできる年にしたいものです。

みなさんにとってもいい年になりますように。


2012年1月1日日曜日

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

あけましておめでとうございます。
ほんねんもどうぞよろしくおねがいいたします。

108の煩悩を鐘で打ち鳴らして・・・というわけにはいきませんでしたが,とにもかくにも,新しい年はこのわたしのところにもやってきました。この108という数字が四苦八苦にも関係していると知り(わたしの好きな作家で禅僧の書いているブログより),ああ,そうなのか,となんだか深く納得。四苦(36)八苦(72),合計108というわけです。

まあ,単純な語呂合わせにすぎませんが,そうでもなさそうに思えてくるから不思議です。四苦は,生・老・病・死の四つ。八苦は,愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の八つ。 じつは,この四苦八苦については,かなりむかしから気になっていました。なぜ,お釈迦さんは,これらを「苦」と考えたのか,そして,これらの「苦」との折り合いをつけるために,修行しなければならないと考えたのか。修行をしなければ,これらの「苦」を乗り越えることはできないのだろうか,と。

わたしは,あるときから,これらは「苦」でもなんでもない,と考えるようになりました。そして,むしろ,これらこそが「人が生きる」ということの,ありのままの姿ではないか,と。人間は,ひとたびこの世に生をうけたからには,みんなこういう道をとおって,やがて死にいたるものだ,と。そう思えば,これらは「苦」でもなんでもない,と。

おやおや,元旦早々からこんな話をはじめるとは夢にも思っていませんでした。これもまたなにかのご因縁というものなのでしょう。そんなこころに,ふと,させてくれるなにかがこのところ多くあり,いや待てよと考えています。なにか,別世界とのつながりができつつあるのでしょうか。あるいは,ひょっとしたら,ことしは,もうひとつ上のランクで達観できる予告かもしれません。

とまあ,自分にとっていい方に解釈して,新年を言祝ぐことにしましょう。

ことしは,なんと言っても第2回日本・バスク国際セミナーの開催が待っています。神戸市外国語大学の竹谷さんが事務局長として取り組んでいる4年がかり(実際には5年目)の企画です。テーマは「伝統スポーツとグロバリゼーション」です。タイミング的にも,「3・11」を通過して,これからの日本を,そして世界を考えなくてはならない,きわめて重要な年でもあります。フクシマといういつ果てるとも知れない大きな試練,沖縄の基地移転問題,そしてTPPという,いずれも日本の地域に固有の生業と地域に固有の文化のあり方を直撃する大問題を避けてとおることはできません。

「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)を主宰するわたしとしては,これらの問題と「21世紀のスポーツ文化」を考えることとは,一直線につながる重大なテーマであると考えています。ですので,おのずから力が入ってきます。ことしも,東京・名古屋・大阪(ときに,神戸・奈良も)の三つの都市を巡回して月1回開催される「月例会」を中心に,多くの企画を考えて,活動を拡大していきたいと夢見ています。紀要の刊行,単行本企画,Web上での情報誌,そして,このブログと,大いに楽しい年になるよう頑張りたいと思います。

また,太極拳の稽古の場所も,大岡山から溝の口に移して,李老師の住むマンション(じつは,わたしも同じマンションの住人)の集会室を借りて行うことになりました。ここなら,たぶん,毎週,稽古をみてもらえるのではないか,と期待して。李老師もつよく薦めてくれた結果の決断でした。といいますのは,稽古の質が高くなってきたので,もう少し広いスペースで稽古をしないと,伸びやかな太極拳にならなくなる,と李老師から注意されたからです。1月4日(水)が太極拳の稽古始めとなります。これまでどおり,西谷さん,柏木さん,関口さん,斎藤さん,藤山さん,そしてわたしと計6名。そこに,李老師が顔をみせてくれれば,最高の稽古となります。

そんなこんな,いろいろ楽しい夢を描いています。
こんなこともふくめて,ことしも去年にもまして,ご支援のほど,よろしくお願いいたします。

取り急ぎ,新年のご挨拶まで。