2014年4月30日水曜日

2014年全日本武術太極拳競技会を観戦。

 全日本武術太極拳競技会を初めて観戦させていただきました。これまでは年に一回開催されます全日本武術太極拳選手権大会を時折,覗き見させていただく程度でした。覗き見とは失礼な,と叱られそうですが,三日間にわたる選手権大会を全部観戦することは,いまのわたしには不可能ですので,とくに注目している選手が登場する日と時間に合わせてでかけ,それが終わると帰ってきてしまうからです。でも,今回の「競技会」は一日だけでしたので,開始から終了まで全部観戦することができました。

 その開催要領は以下のとおりです。

2014年全日本武術太極拳競技会
日時:2014年4月29日(火・祝)10:00~
会場:東京・江戸川区総合文化センター
主催:公益社団法人日本武術太極拳連盟/江戸川区武術太極拳連盟
主管:日本連盟選手強化委員会・審判委員会
後援:文部科学省,公益財団法人日本オリンピック委員会,公益財団法人日本体育協会,江戸川区,アジア武術連盟

 この「競技会」への選手の参加資格は,連盟の強化指定選手で,しかも選手強化委員会が指名した選手ということでしたので,まさにハイレベルの,内容の充実した大会でした。そのせいか,驚くべき発見がいくつもありました。

 その一つは,女子の二人の選手でした。もう,すでに長い間,日本のトップを凌ぎを削りながら競り合ってきた選手です。お互いによきライバルとして切磋琢磨してこられたその成果が,ここにきてもののみごとに花開いた,その演武に感動しました。お二人とも演武に「華」がある。このお二人が演武をはじめると,それまでざわついていた会場が水を打ったように静かになります。姿勢を正しただけで,見ている者のハートをぐいっとつかみ取る,そういう「力」があります。これは世阿弥が『風姿花伝』のなかで力説した「華」に通ずるものだなぁ,と感動しました。元気のいい応援席からの応援コールも黙ってしまいます。これはとても珍しい光景です。つまり,単なるスポーツとしての「競技会」のレベルを突き抜けて,ついに「芸術」の域に達したんだなぁ,とわたしは感動しました。別の言い方をすれば,異次元世界を垣間見せてくれる,そういうアーティスティックな演武だ,とわたしは感じとりました。

 もう一つは,男子選手の世代交代でした。わたしが記憶していた素晴らしい選手たちの名前がありません。しかも,演武する選手たちの動きがピチピチしていて「若さ」が全開でした。ああ,もののみごとに若返っているなぁ,という感動でした。やはり,若い生きのいい選手が登場するのは夢があって愉しいものです。ついこの間までジュニアの選手として活躍していた選手たちが,もう,そのままスライドして全日本のトップに躍り出てきているのですから,頼もしいかぎりです。その中の一人にわたしは注目していました。太極拳では,ちょっとしたミスがあって僅差の三位に甘んじましたが,太極剣ではみごと優勝を飾りました。まだまだ,のび盛りだと思いますので,こんごの成長ぶりを楽しみにしたいと思いました。

 競技人口が比較的少ないと聞いています南拳女子の二人の選手の演武も印象に残りました。すでに国際大会でも活躍してきたベテランの域に達しているK選手と,それを凌駕するまでに成長してきた若手のS選手。いっとき,K選手のスランプの時代がありましたが,またまた全盛時の元気を取り戻してきました。あとは,発する声の迫力が全盛時のものに戻れば,おのずから演武のレベルもあがってくるのでは・・・・と素人ながら楽しみにしているところです。いまは,S選手が頭ひとつ抜け出した印象がありますが,そのS選手を脅かすK選手の存在は貴重です。やはり,よきライバルがいてこそレベル・アップにつながるのですから。K選手にこころからの声援を送りたいと思っています。ひとこと申し添えれば,ネックスプリングの技に磨きをかけると(これは男子も同じ),もう一味違った演武になるのでは・・・・と思い描いています。

 最後に,中国からのお二人の招待選手の演武が,強烈な印象となって残りました。なるほど,中国現役選手のトップの演武とはかくなるものか,とこれは文句なく脱帽でした。寸分の隙もない演武。それどころか「溜め」があって,演武全体に余裕すら感じられました。一つは滞空時間の長い跳躍力,そして,着地の磨き上げられた精確さ,そして攻撃的な技のスピード。静から動へ,そして動から静へ,この切り換えの妙もみごとでした。それから,なによりも太極拳は「武術」であるという強い意識が表出していて,一つひとつの簡単な動作(技)にも,神経のゆきとどいた「武」のこころが浸透していました。これはとてもいい勉強になりました。

 こういう演武をみてしまいますと,やはり「武」のこころとはなにか,という根源的なテーマにわたしの思考は走っていきます。漢字の「武」と「舞」は,そのむかし同根・同義であったと諸橋轍次の『大漢和辞典』に書いてあります。いまでは,この二つの漢字はまったく別の意味になってしまいましたが,その根は一つ。その一つ根のなかに封じ籠められている「武」のこころ,そして「舞」のこころ,つまり,「ぶ」「む」のこころ,これはいったいなにか,とこれはもう長い間考えてきたことです。これは「無」につうじているのではないか,といまのところは考えています。つまりは,「無」のこころ。すなわち「無心」。

 これはたいへんな宿題をもらったことになります。これからも考えつづけながら,稽古に取り組んでいきたいと思っています。

 なお,最後に思いがけないことがありました。それも,これから帰ろうとしたときです。
 李自力老師から携帯に電話が入り,岡山のご婦人がたを引き合わせてくださったことです。李老師の話では,わたしのこのブログ(「李自力老師語録」)を楽しみに読んでいてくださる方がただとのことです。しかも,100人ほどの人が楽しみに読んでいる,とのこと。びっくり仰天です。さらに驚いたことは,李老師が26歳のときからの長いお付き合いだそうです。わたしは思わずかぶっていたベレー帽をとって最敬礼をさせていただきました。恐るべき姉弟子集団の,突然の登場でした。わたしのような,まだ年数の浅い李老師の弟子とは桁が違います。

 これからはこころしてこのブログを書かなくては・・・と身の引き締まる思いでした。
 とてもいい一日でした。
 

2014年4月27日日曜日

日本(ヤマト)は沖縄(ウチナァ)から独立せよ。基地の当事者意識に目覚めるために。

 久しぶりに鳥肌の立つシンボジウムを傍聴させていただいた。その功績の多くは,コーディネーターを務めた西谷修さんによるところが大であった。この人はいま絶好調だ。コーディネーターとしての最初の話をはじめたとたんに,7人のパネリストたちの顔つきが変わった。身を乗り出すようにして,西谷さんの方を向き,じっと耳を傾けている。切れ味がいいのだ。

 それはシンポジウムのまとめの話でも同じことが起きた。西谷さんは「戦争」とはなにか,と問いかけ二つの大きなポイントがあるとしてそれを提示した。一つは,戦争とは個人の存在(尊厳)を抹殺して全体に奉仕する仕組みであること。つまり,「個」(人間であること)を消してしまう装置なのだ,と。二つには,人間は戦争をすることはできない,ということ。戦争は突発的にはじまるものであって,気がついたときには「巻き込まれて」いる,そういうものなのだ,と。だからこそ,いかなる理由があろうとも戦争だけは回避しなくてはならない,と。そのための叡知を結集しなくてはならない,と。

 短い,ほんとうに短い時間のなかで(パネリストが7人もいて,この人たちも苦労していた),濃密な話をコンパクトに,しかも切れ味鋭く語る西谷さんのパッションに感動した。このシンポジウムを傍聴してよかった,としみじみ思った。

シンポジウム:沖縄の問いにどう応えるか──北東アジアの平和と普天間・辺野古問題
日時:2014年4月26日(土)午後2時開会
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス さったホール
主催:普天間・辺野古問題を考える会(http://urx.nu/7cSD)
共催:法政大学沖縄文化研究所

 プログラムは,大江健三郎(作家),我部政明(琉球大学教授),ガバン・マコーマック(オーストラリア国立大学名誉教授)による三つの講演があって,それを受けてシンポジウムが展開された。こちらは,冒頭に触れたようにコーディネーターが西谷修(立教大学教授),そして,シンポジストに佐藤学(沖縄国際大学教授),島袋純(琉球大学教授),遠藤誠治(成蹊大学教授),川瀬光義(京都府立大学教授),古関彰一(獨協大学教授),西川潤(早稲田大学名誉教授),和田春樹(東京大学名誉教授),という錚々たるメンバー。

 冒頭の講演で,大江さんが「われわれはもはや沖縄から問いかけられてはいないのではないか」というテーゼを提示して,話を切り出し,最後には「琉球独立に向けた新しい時代に踏み出した」ように思う,と結論づけた。つづいて我部政明さんが立ち,沖縄サイドからの「問い」を提示するとすれば,「当事者意識」を持ってほしいのひとことだ,と強烈にアピールした。本土の人間が当事者意識を確保するためには沖縄の基地を軽減して,本土に移転することだと強く訴えた。そして,最後のガバン・マコーマックさんは,「普天間飛行場閉鎖・名護市辺野古への新基地建設に関する声明」(声明①世界の識者と文化人による,沖縄の海兵隊基地建設にむけての合意への非難声明,署名人には,ノーム・チョムスキー,ジョン・ダワー,ナオミ・クライン,オリバー・ストーン,などの著名人が名を連ねている)を発進するにいたった経緯について語ってくれた。そして,アメリカ政府の「対日政策委員会」の内部でも,「辺野古移転計画は現実的ではない」という議論がなされている,と力説。

 つづいてシンポジウムに入る。
 シンポジストの選定と時間配分がよかったので,じつに内容の濃い問題提起がつづいた。シンポジスト全員の発言を紹介するだけの余裕はもはやないので,なかでももっとも強烈にわたしの印象に残った島袋純さんのお話の骨子だけを書いておきたいと思う。

 島袋さんはいま,「オール沖縄の再結集」という運動を展開していて,その輪が次第に大きくなりはじめている,と現状を報告。これまでの「立憲主義」に寄り掛かった運動の限界を突き抜けていくために,住民一人ひとりの「人権」を守ることから運動を立ち上げるにいたった経緯を熱く語る。つまり,運動の原点に立ち返って,新たな沖縄(琉球)の再構築のために「オール沖縄の再結集」を呼びかけ,「建白書」を提出することをめざしている,と。この運動は「沖縄独立学会」とも連動しながら,これからの新しい沖縄(琉球)を模索していく,という。そして,現段階では「日本国は琉球国から独立すべきだ」という主張を展開している,と。そして,日本国が琉球国に基地依存をつづけて平気でいられること自体が,日本国の最大の「病理」だ,と断じた。

 この最後のことばを聞いて,わたしは全身に電撃が走った。そうか,「病理」なのだ。そのことすら気づかずに日常の中に埋没してしまっている。この状態こそが,わたしたちヤマトの人間にとっての最大の「病理」なのだ。しかも,その「病理」から脱出するには,琉球国からの日本国の分離独立しかない,と。

 琉球国の日本国からの分離独立ではない。日本国こそが琉球国からでていけ,ということだ。そのとき,初めて日本国を成り立たせるにはどうしたらいいのか,ということに気づく。つまり,基地問題を当事者として考えはじめる契機となる。それしか「薬」はない,と。

 この話に共振したのか,和田春樹さんは,単刀直入に「わたしは沖縄の人に抱きつきたい」と言い切った。コーディネーターの西谷さんも,この話と和田さんのことばに強く共鳴し,最後のまとめの話のなかに盛り込んだ。

 夕闇迫る外壕の土手道を「抱きつく」「抱きつく」とつぶやきながら,沖縄からの自立ということをこれまで深く考えてこなかったわが身を恥じた。「抱きつく」ことも忘れて。美味しいところだけをご馳走になって,あとは無視。「贈与」の精神に悖る。情けない,と。

 戦後70年を経て,いま,ふたたび沖縄が大きな転機を迎えている,しかも,日本国最大の危機とともに(西谷修)。

 時あたかもバラクがやってきて,尖閣諸島は安保条約の第5条に相当すると断言し,その上で「集団的自衛権の行使」を支持した。となると,シンゾウ君は喜び勇んでつぎの行動にでるだろう。その延長線上には,沖縄の米軍基地は,時を待たず「日米軍基地」となり,ついには「日本軍基地」となりはてるだろう。「自発的隷従」を恥じとも思わないシンゾウ君なれば・・・。しかし,あまりにやりすぎると,バラクの思惑とは逆方向に向かうことになるので(すでに,そのような危惧を抱いている),ひょっとしたら,シンゾウ君そのものがバラクによって切って捨てられる日も遠くないのでは・・・と勘繰ったりもしている。

 それにしても,わたしにとってはとても熱くなる,稔り多いシンポジウムであった。コーディネーターの西谷さんにこころから感謝したい。

2014年4月25日金曜日

(下巻)『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也著,新潮文庫)を読む。

 「木村の前に木村なし,木村の後に木村なし」と謳われた不世出の柔道家・木村政彦の生涯を追ったノン・フィクションの傑作です。文庫本化の際に,上下2巻に分冊しましたが,それでも上下とも600ページに達する大部の作品です。著者・増田俊也の執念ともいうべき情熱が全巻にみなぎっていて,木村政彦を理解するためには必読の作品です。のみならず,力道山という人間についても,わたしがこれまでに読んできた伝記もののどの作品をも凌駕する,最高のノン・フィクションになっています。その理由は,綿密な取材・調査にもとづくしっかりとした裏付けにあります。ですから,説得力が抜群です。

 上巻は木村政彦の生い立ちからはじまり,木村が柔道家として大成していくプロセスを綿密に追っていきます。ですから,木村の歩んだ柔道の世界がリアルに描き出されています。その結果,これまでの講道館柔道史が無視してきた,日本武徳会の柔道や高専柔道が綿密に描写されることになっています。しかも,戦前までは講道館柔道は私的な家元柔道でしかなかったという事実が浮かびあがってきます。その意味で,このノン・フィクションは立派な「日本柔道史」にもなっている,ということに注目すべきでしょう。

 下巻は大づかみに言えば,第二次世界大戦後の木村政彦の人生を追っていきます。敗戦後の柔道界は大変でした。まずは,GHQ(連合軍総司令部)による柔道の禁止命令があって,柔道家の活動の場がなくなってしまいます。ですから,生き延びるために闇屋はもとより,裏社会とも結びつきながら(用心棒,など),ありとあらゆる仕事に手を出すことになります。木村政彦もその例外ではありませんでした。

 が,いつまでもそんなことはしていられないということになって,柔道をショーとして見せる「プロ柔道」を木村の師匠である牛島辰熊が中心になって旗揚げをします。もちろん,柔道日本一の木村はそのスターとして駆り出されます。が,所詮は武士の商法で,最初は興行として成り立っていましたが,徐々に問題(さまざまなトラブル)が露呈してきます。そのプロセスで木村と師匠の間に亀裂が走ります。そして,木村は自分で「プロ柔道」の仲間をかき集めて海外遠征に飛び出していきます。

 この海外遠征によって,日本の柔道の真髄が世界に知れ渡ることになります。木村は行くさきざきのナンバーワン格闘家(主としてプロレスラー)と戦い,連戦連勝をつづけ,柔道は世界最強の格闘技であり,無敵であるという強烈な印象を各地の人びとに与えることになります。ここでの柔道は立ち技ではなく寝技が中心でした。なぜなら,格闘技では(とくに,プロレスでは)立ち技で投げても勝敗には関係ありません。寝技に持ち込んで,相手をギブアップさせて,初めて一本をとることができるからです。木村は立ち技でも,目にも止まらぬスピードで,みごとな一瞬の技を見せつけます。その上で寝技に持ち込んでいきます。これは「ショー」としても,それまでの「プロレス」にはない面白さがありました。ですから,どこの会場も満員の盛況。

 かくして,木村は巨額の富を手にして凱旋します。力道山がプロレスを目指して海外行脚にでるのは,木村が地ならしをしたあとのことでした。が,興行主としての才覚も持ち合わせていた力道山は行くさきざきのプロレス界に大事な人脈を構築していきます。帰国したときには,日本でのプロレス興行は力道山抜きにはできない,そういうネットワークを確立していました。しかし,木村政彦の興味・関心は格闘技の攻防の内容にあって,興行主になって一旗挙げてやろう,などとは考えていませんでした。ここが,力道山と木村政彦の大きな違いでした。

 力道山は帰国するとすぐに木村政彦とタッグを組んで,アメリカの最強のプロレスラー・シャープ兄弟を招聘して,日本各地を転戦してまわります。が,興行の主体は力道山が握っていましたので,木村は一試合のファイトマネー契約で雇われた形となりました。そして,そこでの木村の役割は「負け役」でした。木村は律儀にも,その「負け役」を演じていきます。本気でやれば俺の方が強いという自負を胸のうちに秘めながら・・・・。しかし,いくら興行とはいえ,勝負のシナリオが決まっているという事実を知らない当時の日本国民は,連戦連勝の力道山の強さに惹かれ,あっという間に力道山は国民的ヒーローになっていきました。

 契約上のこととはいえ,木村政彦の胸のうちには面白くない感情が鬱積していくことになります。真剣勝負をすれば,力道山などはまったく相手にならないほどの力量の差があるにもかかわらず,興行のために力道山に主役を譲っている・・・・。そして,力道山の人気はうなぎのぼり・・・・。

 こうした流れが伏線になって,あの世紀の対決「木村政彦vs.力道山」戦が立ち上がることになります。こんにちでは「伝説」となっている巌流島の対決の虚実を,著者・増田俊也は丹念に描きだしていきます。それは,ことごとく「伝説」をひっくり返す作業にもなっています。ここからさきの話はここでは封印しておきましょう。読む人の楽しみを残しておくために。

 最後にひとこと。「歴史は創られる」・・・このことばが全巻をとおして,わたしの脳裏から離れませんでした。そして,ひとたび「歴史が創られ」てしまうと,それはもはや立派な「伝説」となり一人歩きをはじめます。多くの人びとは,その「伝説」を「真実」であると信じて,生きていきます。そして,その「伝説」はいまも生きつづけています。

 著者・増田俊也は,その「伝説」崩しに全エネルギーを注入していきます。その作業は,まるで「歴史の天使」(ベンヤミン,多木浩二)が強風に煽られて吹き飛ばされてしまったあとに残った「瓦礫」や「屑」を一つひとつ掘り起こして,歴史の「真実」に迫っていく,鬼気せまるほどの戦慄を覚えずにはいられません。その意味で,資料実証主義とはなにか,という根源的な「問い」が二重,三重の構造となってわたしに迫ってきます。

 書名「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の問いに対する解答は,最後まで読み切ったところで,さまざまなイメージとなって浮かび上がってくる仕掛けになっています。人間の強さと弱さが渾然一体となって,木村政彦という人間の人生模様が織り上げられている・・・・そこから発せられているメッセージはなにか,とわたしは受け止めました。深い感動とともに。

 あとは読んでのお楽しみ。

2014年4月24日木曜日

「外三合」「内三合」ということについて。李自力老師語録・その43.

 太極拳の動作は,それが武術の技の連鎖であることを忘れさせてしまうほど,ゆったりと動いていきます。しかし,李老師の動作をよくよく観察してみると一瞬たりともとどまることなく,流れるように,それでいてゆるぎない力強さも伝わってきます。要するにどこにもスキがないのです。やはり,武術だなぁ,と納得してしまいます。

 そこで,どのような稽古をすれば李老師のような太極拳の境地に近づくことができるのでしょうか,と尋ねてみました。すると,太極拳の教えのなかに「外三合」「内三合」ということばがあります,と仰る。これらがうまく融合して一つになるように心がけなさい,と。

 「外三合」とは,腕で言えば「手首,肘,肩」の関節のこと,脚でいえば「足首,膝,股」の関節のこと。これら三つの関節をうまく同調させ,融合させることによって動作が滑らかになっていく。一つひとつの関節をそれぞればらばらに動かすのではなく,三つの関節がほとんど同時に,連動するように動かすところに「コツ」がある。そうすれば,流れるような動作が生まれてきます,と。

 しかし,それだけでは舞踊と変わりがなくなってしまう。太極拳がしばしば舞踊的だと批判されるのはこの点にある。そこで,太極拳が舞踊とは異なることを明確にするために「内三合」ということばがある。

 「内三合」とは,「こころと意識」「意識と気」「気と力」の三つをいう。
 「こころと意識」は,まずは「こころ」の緊張を解き放ち,軽く笑みを浮かべられるようなこころの状態を確保した上で,一つひとつの動作に意識を集中すること。つづいて「意識と気」は,こころが解き放たれてわざに意識が集中していけば,そこにおのずからなる気が生ずる。この気の流れを生みだすこと,これが「意識と気」。最後の「気と力」は,気が生ずることによって力強さが生まれてくること。つまり,筋力による力強さではなく,気に支えられた力,これが太極拳のめざす力となる。

 この三つは,個々バラバラに存在し,機能するわけではない。それとは正反対に,この三つの機能が一つに合一し,この三つの機能の間を自在に往来する境地に到達することが肝要である。この境地は,いまのバイオメカニックスのことばを借りれば「自己組織化」ということになる。すなわち,「自動化」。気持をそこに向けるだけで,からだがおのずから反応する,そういう境地。からだが勝手に動く世界。

 さらに,「外三合」と「内三合」は表裏一体のものである。もちろん,主従の関係もない。この両者が完全に融合すると,さらに別次元の世界が広がってくる。いつしかからだの中心の芯から湧き出ずるような「心地よさ」がつたわってくる。その「心地よさ」が,またまた「外三合」と「内三合」の関係を増幅させ,太極拳の理想的な動作が生まれてくる。そうなると,それを見る人のこころをもうっとりさせつつ,悠揚迫らざる圧倒的な「力」を伝えることにもなる。

 以上は,李老師がこれまで折にふれわたしに語ってくださったことを,わたしなりにアレンジして文章化したものです。ですから,間違った解釈や余分な解釈も含まれているかもしれません。ほんとうは,李老師の校閲を経たものをブログにアップすべきだとは思いますが,その時間が待てません。と同時に,このようなブログをアップするのも勇気のいることです。李老師に叱られるのではないか,と内心怯えています。ですから,ある意味で「覚悟」をしています。これもまたわたしの太極拳「修行」の一環である,と。ということで,どうぞご寛容のほどを。

 以上,「如是我聞」まで。
 

「中立って何」(斎藤美奈子さんの「本音のコラム」)。分かりやすく鋭い指摘。快調。

 4月23日の東京新聞「本音のコラム」で,斎藤美奈子さんが快調にとばしています。短い文章のなかに籠められた分かりやすく,鋭い指摘が光っています。いつのまにか,週に1回のこの人のコラムの登場を心待ちにするファンになっています。

 今回は「中立って何」というタイトルで,自治体が「政治的中立」を理由に市民の自由な活動に横やりを入れている実態を取り上げ,みごとな批評を展開しています。その書き出しは以下のようです。

 「二十一日のNHK午後七時のニュースが『”政治的中立への配慮”が相次ぐ』と題して講演会や展示会に対する自治体の対応を報じていた」と切り出しておいて,「施設の貸し出しを断った」自治体が2件,「内容の変更を求めた」が6件,「後援の申請を断った」が22件,という数字と同時に自治体名を列挙しています。今回の調査は121自治体だけなので,実際はもっと多いだろうとのことです。その内容は憲法11件,原発7件,ほかにTPPや介護,税と社会保障,など。

 このあとの美奈子節が心地よいので引いておきましょう。
 「この件が暗に発するメッセージは『政治的な意見を持ってはいかんよ』『政府に楯突く意見などもってのほか』という言論統制が平気でまかり通っている現実だろう。
 笑っちゃうのは,この種の『配慮』には熱心な自治体が,選挙になると急に投票を呼びかけるバカバカしさだ。『政治的に中立』で,どうやって誰かひとりに投票するのさ。このように建前と本音を使い分けるダブルスタンダードが人々の政治離れを助長する。投票率が低いと嘆く資格はないよ。」

 いつものことながら,読み終わったあとスカッとします。おみごととしか言いようがありません。

 同じような話題をとりあげた政治学者の山口二郎さんは,同じコラムで「忖度」ということばを用いて説明をしていました。的確な読みごたえのある内容だったのですが,やや重くて,理屈が先行している感じで説得力に欠けている印象でした。それに引き換え,斎藤美奈子さんの文体はひょうひょうとしていて,読みやすく,するりと読者のふところに飛び込んできます。

 どこでどのような力学が働いているのかは知る由もないですが,自治体が「政治的中立」を騙って,責任逃れをしつつ,しかもなんのことはない権力にすり寄っているだけの話です。これは「忖度」などというレベルではなくて,立派な「自発的隷従」です。言われる前に,率先して「贈与」(ギフト)を差し出し,権力に対して忠誠心を表明する。そうして,補助金や助成金のおこぼれを頂戴する,という算段なのでしょう。

 同じようなことを,なんのことはない,シンゾウ君がオバマ君にしようとしています。「集団的自衛権の行使」という「贈与」を差し出して,ご機嫌をうかがおうと思ったいたら,どうやらこれはシンゾウ君の計算違いで逆効果になるらしい・・・・。それどころかヤスクニ問題でクギを刺されそうな雰囲気です。

 「強い日本をとりもどす」のスローガンも国内向けには受けがいいのでしょうが,外からみれば,大戦前の日本に逆戻りというとんでもない所業にみえていることに,シンゾウ君が気づいていません。アメリカも中国もポツダム宣言をとおして「強い日本」をぶっつぶした同盟国なんだ,というもっとも基本的な事実を忘れています。

 おやおや,脱線してしまいました。「政治的中立」という隠れ蓑が,じつは,それ自体が立派なイデオロギーであるということすらわかっていない,そういう自治体の長がいかに多いことか。そして,それがじわじわと浸透しつつあるというのですから,恐ろしいことです。市民はますます萎縮していくしかありません。そこにポピュリズムが乗っかってきます。とんでもない「暴力」だらけの世の中へとまっしぐら。

 いつものことながら「困ったものです」。大火傷をするまでは気づかないのでしょうから。

2014年4月22日火曜日

「立憲デモクラシーの会」の活動に賛同者は署名を。

 「立憲デモクラシーの会」結成の記者会見(18日)についてのブログを19日にアップしました。NHKや大手新聞社も取り上げてくれたせいか,このブログにも大きな反響がありました。集団的自衛権を行使する道は国家の命運を賭けた大きな博打です。そのことの危険性について,わたしが思っていたよりも多くの方々が理解し,同調してくださっていることを知り,少しばかり安心しました。

 この「立憲デモクラシーの会」設立の呼びかけ人の一人である西谷修さんのブログに,懇切丁寧な設立の趣旨が書かれていますので,ぜひ,ご覧になってみてください。西谷修の名前で検索すれば,すぐにブログに入っていくことができます。

 そのブログのなかに,「立憲デモクラシーの会」の活動に賛同される方はぜひ署名をしてください,という呼びかけがなされています。署名の書式も「ホームページ」を開くと,ただ書き込むだけで済まされるように準備されています。むつかしい手続きは一切ありませんので,ぜひ,覗いてみてください。

 なお,つぎのようなシンポジウムが予定されていますので,紹介しておきます。

シンポジウム:「私が決める政治」のあやうさ:立憲デモクラシーのために
 共催:立憲デモクラシーの会・法政大学現代法研究所
 日時:4月25日(金)午後6時~8時
 会場:法政大学富士見キャンパス58年館3階834教室
開会挨拶:奥平康弘(憲法学)
基調講演:
 
 愛敬浩二(憲法学・名古屋大学)「立憲デモクラシーは『人類普遍の原理』か?」
 山口二郎(政治学・法政大学)「民意による政治の意義と限界──なぜ立憲主義とデモクラシーが  結び付くのか?」
シンポジウム:
 毛里和子(中国政治・早稲田大学)
 青井未帆(憲法学・学習院大学)
 大竹弘二(政治学・南山大学)
 シンポジウム司会:阪口正二郎(憲法学・一橋大学)
閉会挨拶:杉田敦(政治学・法政大学)
総合司会:齋藤純一(政治学・早稲田大学)

 以上です。たった2時間でこれだけのプログラムではもったいないような充実ぶりです。ぜひ,足を運んでみてください。

 取り急ぎ,緊急のお知らせまで。

入院・手術にいたるからだの異変。いま思い起こせば・・・・。わが「解体診書」・その2.

 「あとの後悔,さきに立たず」といいますが,こんな大手術をしなければならないからだになるにはそれなりの予兆があったことが,いまになって思い当たるようになりました。それだけ,余裕といいますか,いまのからだの回復ぶりが順調である,ともいえるのだと思いますが・・・・。

 それとなく考えてみますと,予兆らしきものはいくらでも思い浮かんできます。とりあえず,すっと思い浮かぶことからを箇条書きにしてみましょう。
 1.今日やってしまった方がいいということがわかっている仕事を明日にまわしてしまう。
 2.頭でわかっているのに,からだがついてこない。
 3.排便の色が変だなぁ。でも快食・快便なのでまあいいか。
 4.からだが冷える。気温は低くないのにからだが冷たい。寒くて仕方がない。暖房器具を購入。
 5.いつも見慣れた景色が,いつもと違う景色にみえる。
 6.いままで目につかなかった(気づかなかった)ものが,どんどん増えていく。
 7.部屋の明かりが暗い,と感ずる。実際にも本が読みづらいので,電気スタンドを購入。
 8.道を歩いていて,つまずくことが多くなる。段差がわかっているのにつまずく。
 9.空腹なのに平気で耐えられる。一日の食事の総量が減る。
10.体重がすとんと落ちる。以後,増えない。リバウンドがない。減量成功と喜んでいる。
11.酒がうまくない。酒を飲みたいという欲望がほとんどなくなる。
12.昼食後の午睡が多くなる。毎食後,必ず眠くなる。
13.歩くスピードが遅くなる。ふと気づくと,道行く人びとに追い越されている。
14.本を読むスピードが遅くなっている。視力が落ちたのかな,と考える。
15.集中力,持続力が落ちる。老化現象かなぁ,と考える。
16.机上の整理がめんどうになる。片づけない。どうしたのだろう,と自分でも不思議に思う。
17.手紙の返信が書けない。メールはすぐに応答できるのに。
18.背中全面に違和感を感ずる。どこか変だと気づく。が,異変の場所が特定できない。
19.ときどき背中に痛みが走る。痛みの場所は日によって異なる。なんだろう,と様子を伺う。
20.睡眠時間が長くなる。いくらでも眠れる。でも,ほどほどにと考え起きることに。
21.以下,省略。

 という具合に挙げていくと際限がありません。
 いま考えてみれば,一つひとつ,全部「アウト」なのに,当時は都合のいいように解釈して適当に自分を納得させていました。これがいけないのです。やはり,身近にホーム・ドクターのような親しいお医者さんがいて,気軽に相談できる環境を整備しておくことが肝要と,今回は痛く反省しています。

 子どものころ,小さな村に一軒しかなかったお医者さんが,なにかと親身になって相談にのってくれたことを思い出します。困ったら,躊躇することなくお医者さんに走りました。同じような年齢の子どもさんもいたので,遊びにもよく行きました。まあ,家族ぐるみのお付き合いでした。家には電話がなかったので,電話の取り次ぎもしてくれました。いま考えるとありがたい存在でした。

 わが人生を振り返ってみますと,転々と引っ越しばかり繰り返してきましたので,近所にそういうお医者さんを確保するいとまもないまま,こんにちに至ってしまいました。医療のあり方もむかしとは大違い。とても便利であるような,不便であるような・・・・。

 あっ,話が脱線してしまいました。今回の話は,わたしの「解体診書」でした。今回は,とりあえず,ざっとこんなことがありました,という総論で終わりにしておきます。次回から各論に入って,一つひとつの話題の深層(真相)に迫ってみたいと思います。今回はここまで。

2014年4月21日月曜日

女子ゴルフ界に,さわやかな「みなみ」風が吹いてきた。アスリートの育て方・考。

 勝みなみさん。15歳。鹿児島高校1年生。
 二日目のラウンドは「六甲おろし」(阪神タイガースの応援歌)を口ずさみながら回ったという。この記事を読んで,すぐに新聞の切り抜きを始めたわたし。

 テレビのニュースも新聞も,みんな「15歳 勝選手ツアー最年少V」を大きく取り上げ,過去の記録との比較をする。その相変わらずのメディアの報道姿勢にうんざりしながら,今日の東京新聞を読んでいたら,あちこちに「勝みなみ」さんの人柄についての記事が掲載されているのを見つけ,少しく安心する。そして,わたしの関心はそちらに吸いつけられていく。

 世間をアッと言わせるような偉業をなしとげるアスリートがどのようにして育ってきたのか,と考える。すると意外なことが少しずつわかってくる。たとえば,持って生まれた性格そのままに,じつにのびのびと育っているということ。

 勝みなみさんのコーチはゴルフ好きの祖父。まだ小さかったころは近所の体操教室に通っていたという。だから,バック転も側転もできるそうだ。が,あるころからおじいちゃんのやっているゴルフに興味を示す。おじいちゃんも孫可愛さに手ほどきをする。みるみる上達するので,おじいちゃんの指導にも熱が入る。かなりの腕前になっても(日本ゴルフ協会のナショナル・チームに所属),コーチはおじいちゃん。

 高校進学も,ゴルフの強豪校に留学することは考えず,迷わず地元の鹿児島高校に進学。まずは高校を卒業することが第一の目標で,プロになることはそのつぎの問題だ,という。もちろん,プロになるには「18歳以上」という年齢制限がある。が,優勝もしたので単年登録という方法もあるが,いまは考えない。プロは将来の夢として残しておくという。

 わたしが記事のなかで興味をもったのは,「ドキドキしなかった」という彼女の性格。ついでに,興味深かった記事をもう少し拾ってみると以下のとおり。

 「生まれてから緊張したことがほとんどないんです」。
 「ドキドキしなかった。自分なら(優勝)できると思っていた」。
 「が,自分の体じゃないなとも思いました」。
 「これは,みなみなら優勝すると確信していた」(おじいちゃん)。
 「コーチは必要だと思うが,理想は自分で全部やるべきだと思う」。
 「将来はオリンピックで金メダルを取りたい」。
 「しかりつけても,次の瞬間には忘れてケロッとしている。怒りがいがまるでない子です」(母親)。

 緊張しない性格,(最終ラウンドは二位発進ながら)優勝できるという自信(おじいちゃんをも確信させるなにかをもっている),自分を超え出る経験(を自覚している),理想は自立・自律だという考え方,(叱られてもすぐに忘れる)打たれ強さ・・・・など。

 アスリートにはいろいろの個人差があるので,ひとくくりにして一般論を語るのはむつかしいが,それでもやはりなにか共通するものがあるように思う。それは,もって生まれた<持ち合わせ>が違うということだ。加えて,その<持ち合わせ>がうまく「引き出される」僥倖に恵まれるかどうか,がつぎの問題。別の言い方をすれば,才能と環境。最終的には,アスリートとコーチの「マッチング」の問題。

 結果論とはいえ,勝みなみ選手とおじいちゃんとは最強のコンビ。おじいちゃんは名伯楽。孫の性格を見抜いた上で,その良さを引き出すために指導・助言をしてきたはずだ。だから,「6年早かった」(いま,74歳のおじいちゃんが80歳になるころには優勝できる選手になってほしいと期待していたので,おじいちゃんの口からでてきたことば),というほどの成果が上がったということだ。祖父と孫という距離感も抜群。これが両親だとそうはいかない。お互いにわがままがでる。

 「私の能力,知識では教えることはもうできない」とおじいちゃんの談話。そんなことはない。おじいちゃんにしかできない指導・助言がある。ベテラン・コーチにもできない祖父の目からみた孫のとらえ方がある。みなみさんの自立・自律のためには,まだまだ,おじいちゃんの出番がたくさんあるはず。このコンビでさらなる高みをめざしてほしい。

 「自分の体じゃないな」と感じられる境地にどのようにして到達したのか。わたしの興味・関心はこの一点に集中する。つまり,自分を「超え出て」いく体験こそが,トップ・アスリートにとっての不可欠の条件だから。しかも,断るまでもなく,その境地を維持することはたやすいことではない。やはり,名伯楽のおじいちゃんとの二人三脚がいいのでは・・・・。ちょうどいい緊張のバランス。そして,「六甲おろし」を口ずさみながら(おじいちゃんも阪神タイガースのファン)プレイを楽しむことのできる才能。そこから最高のパフォーマンスが生まれる。

〔付言〕
このブログを書きたかった動機のひとつは,女子柔道で起きた「コーチと選手」の「主人と奴隷」の関係にも等しい不祥事がある。しかも,それはスポーツ界にあっては「氷山の一角」にすぎないということ。ゴルフ界にもきな臭い話がないわけではない。とりわけ,女子ゴルフ界にあっては・・・。こういう話には触れずに書く・・・を目指したつもり。
 

2014年4月20日日曜日

北の湖理事長と九重親方の確執が露呈。貴乃花親方は漁夫の利。その背後にあるものは?

 数の横暴。一門の保有する潤沢な票数を自在に操る北の湖理事長。ワンマン体制をほしいまま。こんなことがまかり通ると思っているのだろうか。いずれ,どこかで,抑圧された怨念は「亡霊」となって表出する。その恐ろしさは百も承知のはずなのに・・・・。それにしても九重親方の人望は急速に失われてしまったらしい。その背景にあるものはいったいなにか。

 わたしの耳に入ってきた極秘情報とネット上を流れている情報がほんとうだったとしたら,という前提条件つきで,以下はわたしの個人的な虚実入り交じっての仮説。

 さきの理事選挙で九重親方(元横綱千代の富士)が落選してしまった。本人はもとより,相撲界を熟知するタニマチにしても,予想だにしなかったことが起きた。角界ナンバー2で,次期理事長の声も聞かれていたのに・・・・。「わたしの不徳のいたすところ」とは九重親方理事落選のおりの弁。ぐっと唇を噛みしめた顔が印象的だった。が,その顔にはすでに舞台裏の動きを読み切ったかのような,不敵な自信も表われていた。なにかを期するかのように・・・・。

 しかし,4月3日に,新しく公益財団法人に移行した新体制のもとで,新しく選出された理事による理事会が開催され,親方衆の新しい担当職務が決定され,発表されると,関係者の間に大きな波紋が広がったという。たとえば,九重親方に代わって角界ナンバー2の事業部長に座ったのは八角親方(元横綱北勝海)。つまり,九重親方の弟弟子である。しかも,この人事は次期理事長のためのショート・リリーフで,長期政権をになうことになる理事長の本命は貴乃花親方だという。そのためのお膳立てが今回の新人事だったというのである。

 しかも,九重親方の扱いはみるも無惨なものであった。悪くても,理事からワン・ランク下がって副理事待遇か,もしくはもうワン・ランクさがって役員待遇あたりで落ち着くはずと思っていたら,そうではなかった。それらもすべて飛び越えて「3階級降格」という前代未聞の扱いを受けることになった。その結果,どういうことが起きたか。単なる平の「監察委員」に就任させたのである。

 監察委員は,場所中の取り組みの内容を一番一番チェックして,八百長や無気力相撲がなかったかどうかを打ち出し後に責任者である監察委員長に報告することが仕事。その監察委員長に貴乃花親方が就任している。ということは,九重親方は貴乃花親方の部下として相撲協会の仕事を引き受けなくてはならないのである。昨日までの部下が上司になってしまったのである。九重親方の心中やいかに。しかも,貴乃花は41歳。最年少理事である。

 この貴乃花親方が,これまた破格の出世をしたのである。貴乃花親方が任命された役職は以下のとおり。広報部長,総合企画部長,指導普及部長,生活指導部長,監察委員長,危機管理部長の六つの役職に加えて,相撲博物館運営委員にも任命されている。しかも,北の湖理事長は「これからの角界を背負って立つ貴重な人材なので,たくさんの勉強をしてもらって,将来に備えてほしい」という談話まで発表しているのである。

 この貴乃花親方と九重親方の天と地ほども違う扱い方はあまりに酷すぎる。普通では考えられない。よくよく情報を集めてみると,北の湖理事長と九重親方との間に,とんでもない怨念の応酬があったという。両者の間には以前から小さな確執があってお互いにそりが合わないという噂は聞いていた。しかし,今回のこれほどまでの酷い処遇に関しては,そうなるべく理由があったというのだ。

 ことの発端は,北の湖理事長の腹心といわれる男が協会と業界との間に入って仕事をまとめた報酬(賄賂)として500万円を受けとった現場を,九重親方サイドが隠し撮りしていて,それをネット上に流したことにある,という。つまり,北の湖理事長失脚をねらったシナリオだ。これを知って激怒した理事長が,理事改選の折に九重親方の票の突き崩しに全力を傾け,落選予定の候補を当選させるという挙にでて,それがまんまと成功した。

 すると,旧理事の最後の理事会の折に,九重親方はくだんのフィルムの問題を持ち出し,理事長の責任問題を追求した。しかし,時すでに遅しで,理事長サイドはしっかりと根回しがしてあって,九重親方の動議はいともかんたんに否決されてしまったという。その上で,新旧入れ代わった新理事会での九重親方の処遇である。ここを先途とばかりに,徹底的な追い打ちを九重親方に課したというのが,角界通のもっぱらの噂である。

 長年,理事を務め上げ,次期理事長の最有力候補と多くの理事が信じて疑わなかった元横綱が,それも輝かしい戦績を残した名横綱が,理事選挙で敗北を喫した直後に「3階級降格」という,みるも無惨な処遇をしたなどという話は前代未聞である。それに引き換え,貴乃花親方に対する目にあまるほどの厚遇も,これまた前代未聞である。

 これにはもう一つの裏がある,という。現役時代の千代の富士の身辺には八百長の噂が漂っていた。また,稽古場での暴力問題もしばしば話題になった。それに引き換え,貴乃花親方の身辺には「兄弟対決」以外には八百長の噂はいっさいなかったという。そのことは力士仲間の間ではよく知られた事実だという。だから,貴乃花親方は一門を超えた他の親方衆たちからの人望もきわめて篤いという。北の湖理事長はここに目をつけ,貴乃花親方を自分の陣営にひきつけて,身の保全をはかったのだ,という。

 それにしても,九重親方の理事長への道を断ち切ったばかりか,八百長問題を監視する監察委員に任命し,清廉潔白で知られる貴乃花親方の部下に据えるという,あまりにできすぎたシナリオの展開には,どこか恐怖に似たものを感じてしまうのはわたしだけであろうか。

 ついでに触れておけば,貴乃花親方の父である先代貴の花(元大関)に引導をわたして引退に追い込んだのが千代の富士であり,その千代の富士を引退に追い込んだのがその息子の貴花田(当時)だった,という奇しき因縁までついてまわっている。

 こうなってくると,まだ,ひと波瀾もふた波瀾もありそうな気配が漂ってくる。これもまた大相撲を楽しむ醍醐味の一つだと言ってしまうと叱られるだろうか。わたしには,これぞ人間のドラマであって,だから大相撲は面白い,と感じられるのだが・・・・・。

2014年4月19日土曜日

「立憲デモクラシーの会」結成(4月18日)。大きな輪になるよう支持・支援したい。

 憲法の「解釈」を見直して,戦争ができる国にする(集団的自衛権の行使)というとんでもない暴走をはじめた安倍内閣の姿勢に,「待った」をかけようという学者たちが立ち上がった。しかも,憲法学や政治学といった特定の専門領域の学者たちに限定しないで,広く哲学,経済学,文学,物理学などの分野の学者たちも取り込んだ点が,これまでの護憲運動とは一味違う視野の広さと重みをもつことになり,大きな特徴となっている。

 その名は「立憲デモクラシーの会」。4月18日(金),会設立の報告記者会見を衆院第二議員会館地下の会議室で行った。記者会見した10人の呼びかけ人のなかには,わたしにも馴染みのある西谷修(哲学・立教大学特任教授),小森陽一(文学・東大教授),金子勝(経済学・慶応大学教授),山口二郎(政治学・法政大学教授)といった人びとの名前もある。こうなると他人事ではなくなる。

 わたしもスポーツ史・スポーツ文化論を専攻する学者のはしくれのつもりである。そして,わたしはわたしのスタンスから,「解釈改憲」を目指す安倍内閣の姿勢にたいして大いなる疑念をいだいてきた。だから,可能なかぎり「9条の会」や「96条の会」や個別に開催されるシンポジウムなどにも参加し,問題の本質を学びながら支持・支援の意思表明をしてきたつもりである。

 そこに今回の「立憲デモクラシーの会」の結成である。わたしの方から手を挙げてでも,会の支持・支援の意思表明をしていきたい,と考えている。そして,「スポーツ学」(Sportology)にかかわる研究者仲間にもその輪を広げていきたい,と。つまり,自分の手のとどく,自分の専門領域の足元から,この運動の輪を広げていきたい,と。

 今日の東京新聞の記事から,話題を拾ってみると以下のとおり。

 「解釈変更は法や政治だけの問題に限らない」

 哲学者の西谷氏は会見で,会に賛同した理由を説明。「哲学は言葉に強くこだわる学問だが,首相は合議や手続きもなく(9条など)言葉の意味を変えようとしている。合議をせずに原則を崩せるなら,全ての制度も好きに変えられてしまう」と力説した。

 専門家の横断的な動きは,安倍政権が改憲に踏み込もうとしたり,憲法が保障する国民の権利をないがしろにするような政策を押し通そうとするたびに,自然と広がってきた。

 首相が政権復帰後,改憲手続きを定めた96条の要件緩和に意欲を示すと,憲法学者と政治学者を中心に「96条の会」が誕生。文学者やメディア研究者も加わって「立憲主義の破壊だ」と世論を喚起し,96条改憲論は下火になった。

 という具合につづく。
 今回の「立憲デモクラシーの会」も,「96条の会」のようなはたらきができることを期待したい。問題は,どこまでその運動の輪を広げることができるかどうかにかかっている。憲法の根幹にかかわる解釈を合議もなしに変更しようという暴挙は,なにがなんでもストップをかけなくてはならない。話を簡単に要約しておけば,戦争を容認するのか,それとも,あくまでも戦争放棄を守り平和主義を貫くのか,という岐路にいまわたしたちは立たされているのだ。

 憲法第9条で,戦争放棄を宣言してまもなく70年になろうとしている。この「9条」をノーベル・平和賞の候補に推薦する努力がみのって,受理されたという報道がつい最近あったばかりだ。もっと大きなニュースとなってしかるべきなのに,メディアはマヒしてしまっている。いな,安倍内閣に「自発的隷従」の姿勢を示している,と言うべきだろう。

 いまや,地方自治体の会議室やホールを借りるにも,政権の顔色をうかがいながら,その許認可を判断している状況になってきている。場合によっては,この「立憲デモクラシーの会」の集会も,地方自治体によっては許可しないところもでてくるのではないか,そんな危惧さえ感じられる。すでにして恐るべき時代・社会に突入しているのだ。

 「政権と民意のギャップが広がっている」(山口二郎),「今ほど憲法9条が危機にさらされていることはない」(小森陽一),などの声をしっかりと受け止めて,わたしたち一人ひとりが腹をくくらなくてはならない,とわたしは考えている。その意味で,今回の「立憲デモクラシーの会」の旗揚げにこころからの声援を送りたいと思う。

 地球が活動期に入ったのと同調するかのように,人間の意識も大きな変動期に入った,とわたしは考えている。まさに,正念場を迎えた,と。

それでも新国立競技場建造を推進するのでしょうか。独立行政法人・日本スポーツ振興センターどの。

独立行政法人・日本スポーツ振興センターどの。

 拝啓 新緑の美しい季節となりました。国立競技場周辺の新緑も目が覚めるような爽やかさです。この辺りを散策する人びとやジョギングを楽しむ人たちの表情も生き生きとしています。この人たちの多くも,自然に恵まれたこのヘリテッジ・ゾーンがいつまでもこのままであって欲しいと願っているに違いありません。

 すでにご承知のように,建築家の槙文彦さんが「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」という論考を建築の専門誌に発表したのは,東京五輪招致決定前のことでした。以後,新国立競技場建造をめぐって批判的な論考があちこちで発表されています。反対運動を展開する市民団体まで組織されています。また,槙文彦さんらが中心になり,シンポジウムまで開かれ,問題提起がなされています。

 これまでにどのような問題提起がなされてきたのか,という点についてはここでは繰り返しません。が,それらの問題提起にたいして,新国立競技場建造の責任者としてなにも応答されようとはしないのはなぜでしょうか。とりわけ,デザイン・コンペの中心的役割を果たされた建築家の安藤忠雄さんもだんまりを決め込んだままなのは,なぜでしょうか。

 多くの国民が疑念をいだき,その疑念について真剣に問題提起をしていることがらについては,真摯に受け止め説明する義務があるとわたしは考えています。なぜなら,独立行政法人・日本スポーツ振興センター(JSC:Japan Sport Council )は,わざわざ「独立行政法人日本スポーツ振興センター法」(2002年)という法律によって定められた,文部科学省の外郭団体であるからです。つまり,2003年10月1日に,それまでの「日本体育・学校健康センター」を改組して,いまのJSCとしてスタートするときには1,953億円もの多額の金を政府が出資している,そういう特別の団体であるからです。

 JSC設立の趣旨は国民の健康増進にあるとHPに記載されています。しかも,その前史を見ますと,1955年日本学校給食会の設立がそもそものはじまりだといいます。以後,着々とその事業内容を拡大し,いまでは国立競技場の運営,スポーツ科学の調査研究,スポーツ振興くじ(toto)の実施,などのスポーツ関連事業と,学校災害共済給付制度の運営,学校における安全・健康保持の普及,などの学校関連事業の二つに取り組んでいらっしゃいます。

 しかし,よくよく考えてみますと,これだけ多岐にわたる事業内容をどのような専門職の人たちが,どのように役割分担をして,事業を管理・運営していらっしゃるのだろうか,と素人には不思議です。よほどのスーパーマン(エキスパート)がその重職を支えていらっしゃるのだろうなぁ,と想像するのみです。

 が,その一方では,JSCの役員には文部科学省や財務省などの中央官僚からの天下り官僚が就任しているという批判もあります。さらには,公開であった会議も,2007年以降は非公開になったという批判もでています(運動記者クラブにのみ公開)。公開されていた会議が密室化するのはどうしてなのでしょうか。

 そのために,わたしたち国民はJSCの内部でどのような議論がなされているのか,まったくわからないままです。たとえば,新国立競技場の建造をめぐって,どのようなコンセプトのもとに,どのような条件を満たす施設が求められているのか,そして,その管理・運営はどのようにして行われるのか,わたしたちはなにも知ることができません。もっと言ってしまえば,これだけの批判の声があがっているにもかかわらず,JSCとしての公式見解を発表しようともしません。

 このままですと,わたしたちはなにも知ることもできないまま,この7月からは国立競技場の解体工事にとりかかると聞いています。そうして一年余ののちには新国立競技場の建造がはじまるとのことです。しかも,この新国立競技場は「風致地区・高度地区・用途制限・容積率制限・都市公園」という五つの法律に定められた「制限」に抵触する(柳沢厚氏による「神宮外苑と国立競技場を未来へわたす会」公開勉強会),といいます。それでも,設置者が国の機関である場合には許認可の手続きは不要とされていますので,その特権を全面に押し立てて「反対運動」を強行突破しようとお考えのようですね。

 でも,それだけは避けてください。将来に禍根を残すもとです。
 もし,どうしてもこの巨大な競技場が必要であるというのであれば,どうか「東京ベイ・ゾーン」に建造することを検討してみてください。更地に建造するのであれば,まだ一年余の時間的余裕があります。じっくり時間をかけて検討してみてください。

 まだまだ書いておきたいことは山ほどありますが,それでも限度というものがありますので,この辺りで終わりにしておきます。
 最後になりますが,どうか,国民の付託を裏切らないよう,最後の最後まで,大いに智恵を働かせてくださることを祈っています。

2014年4月18日金曜日

講道館柔道中心史観のはじまりは敗戦後のGHQ対策にあり。「柔道はスポーツである」(昭和24年)。

 柔道といえば講道館柔道,そして嘉納治五郎の名前がまっさきに浮かんできます。
 しかし,講道館柔道が脚光を浴びるようになるのは第二次世界大戦の敗戦後のことだ,といえば驚く人は少なくないでしょう。かく申すわたしも,この事実を知って驚いたひとりです。

 端的に言っておきましょう。敗戦後のアメリカによる占領政策のもとで,GHQ(連合国軍総司令部)は,ただちに柔道をふくむ日本の武道・武術全般を禁止しました。あわてた講道館は家元として,お家芸の柔道の存亡をかけた智恵をしぼります。そして,お家芸の柔道が生き延びるための苦肉の策として「柔道はスポーツであって武道ではない」と主張して,GHQのお墨付きをもらいます。こうして講道館柔道だけが,つまり「スポーツとしての柔道」だけが敗戦後の日本で活動が許されます。

 じつは,ここに大きな落とし穴がありました。というか,日本柔道史にとって致命的なターニング・ポイントとしての足跡を残すことになります。ひとことで言ってしまえば,武道の精神が形骸化してしまい,スポーツの勝利至上主義が最優先される,そういう柔道への大転換です。もっと言ってしまえば,嘉納治五郎のめざした総合武術としての「柔道」をかなぐり捨てて,単なるスポーツ競技への道をめざした,ということになります。

 このことを,作家の増田俊也氏がみずからの作品『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮文庫,平成26年3月刊)をとおして明らかにしています。作品名にだまされてしまいがちですが,この作品は,じつに丹念に当事者たちの聞き取り調査をし,当時の新聞,雑誌を洗いざらい調べ尽くして,手堅く裏付けをとった上で,持論を展開しています。言うなれば,講道館柔道中心史観の誤りを徹底的に突き崩す,批評精神に満ちた素晴らしい作品です。

 以下に述べることがらも増田俊也氏の主張にもとづくものです。もちろん,わたしの脚色が多少なりとも加わっていることもお含みおきください。

 GHQが禁止した敗戦前までの柔道には,大きく三つの流れがありました。一つは,国策にもとづいて武道の再編・統合がなされた大日本武徳会での柔道です。当時の日本の柔道を統括する全国組織です。したがって,ここが主催する柔道の全国大会がもっとも権威あるものとして高く評価されていました。二つには,「高専柔道大会」というものがありました。こちらは,京都帝国大学が中心になって組織された大会で,旧制高校(国立)と専門学校(私立)の柔道の強豪校が地区予選を経て全国大会に進出してくるものです。この「高専柔道大会」が,当時もっとも人気があったといいます。三つめが,講道館柔道でした。ここは嘉納治五郎の権威(家元)による段級制度は認知されていたものの,講道館が主催する柔道大会への参加者はきわめて少なかったといいます。

 この三つの流れのうち,大日本武徳会と講道館が主催する柔道大会は「個人戦」が中心でした。が,高専柔道大会だけは「団体戦」でした。しかも,競技ルールにも大きな違いがありました。前二者の「個人戦」は,すべて競技審判がコントロールし,「一本」「技あり」「押さえ込み」を判定しました。が,高専柔道柔道大会は,対戦相手が「参った」というまで,つまり,「負け」を認めるまで試合がつづきました。立ち技で相手を投げても相手が「負け」を認めなければ勝負が決まったことにはなりません。したがって,その主たる戦法は「寝技」でした。しかも「負け」は認めたくないので,「関節技」が決まっていても「負け」を言わない。「締め技」が決まっていても「負け」をいわない。どういうことになるか。関節が折れるまで,締められて「落ちる」まで,という試合も少なくなかったといいます。団体戦ですから,チームの名誉が個人にのしかかってきます。なかには,からだは小さいけれども「引き分け」専門のエキスパートという選手もいたといいます。ですから,試合会場はものすごい熱気にあふれたといいます。

 この三つの流れのうち,GHQの占領政策のもとで,講道館柔道だけが敗戦後に生き延びて,他の柔道はその姿を消してしまったというわけです。言うなれば,講道館柔道だけが漁夫の利に与った,という次第です。ここから,柔道といえば講道館,そして講道館の発する情報がすべてとなり,権威づけられ,やがて講道館柔道中心史観が構築されていく,という次第です。同時に,全日本柔道連盟が結成されたときも講道館館長が連盟の会長を兼任しました。つまり,講道館と全日本柔道連盟とは表裏一体となったのです。この「癒着」がいまも混迷をつづける根源にあります。ですから,こんにちの柔道の世界的な隆盛と頽廃の端緒は,すべて「柔道はスポーツである」と主張した講道館自身の播いた種にある,と言っても過言ではないでしょう。

 さて,ここからさきは「柔道とはなにか」という基本的な問いに立ち返ることになります。作家の増田俊也氏はみずから北大柔道部での経験もふまえて,この問いに恐るべき執念をみせつけます。そして,「木村政彦」という希代の柔道家をとおして,その解を求めていきます。この木村政彦の残した足跡が,のちの「プロ柔道」「プロレス」「異種格闘技」へと連なっていく,その過程を丹念に描いていきます。

 オリンピックのJUDOをめぐって「これはもはや柔道ではない」という発言が有名になりましたが,その端緒は,敗戦直後の講道館のとった「苦肉の策」にあったということを,わたしたちは忘れてはなりません。日本柔道史が蓋をしてきた「秘事」に,思い切ってメスを入れた作家・増田俊也氏の「批評精神」に拍手を送りたいと思います。

2014年4月17日木曜日

オボカタ劇場の幕切れ。「無責任」という「スタンプ」印だけが残る。

 だれも責任をとらない。わたしはここからしか関与していない,わたしはここだけしか担当していない,その前後のことは知らない,だから責任はない,となすり合い。みっともない。ならばオボカタさんが書いた論文の「共同研究者」あるいは「共同執筆者」に名前を連ねるな。しかし,一つでも多くの業績を稼ぎ,研究費を多く確保するためには,論文の全体像を確認することもなく(学者としてもっとも恥ずかしいことなのに),恥じも外聞もなく共同研究者を名乗りたがる。ましてやノーベル賞級の研究らしいとなればなおさらである。その後の特許の利害もからんでくる。言ってしまえば,みんなカネの亡者ばかり。そして,「無責任」。

 共同執筆者のたったひとりでもいいから,オボカタさんの書き上げた論文を通読すれば,引用文献の出典が抜け落ちている論文作法の初歩の初歩くらいは見抜けたはずだ。この段階ですでに論文としては失格なのだから。

 メディアもアホだから,理系の研究者間のコミュニケーションはとてもむつかしいらしい,と報道する。もし,それが事実なら,共同研究者としての条件が最初から欠落しているではないか。それぞれの専門のパートの実験・検証をした結果をメールで送信して終わりではないはずだ。わたしの理解している範囲では,ひとつの研究プロジェクトが立ち上がり,それが完了し,論文に仕上げるまでには,共同研究者が全員,複数回は顔を合わせてお互いの意見を交換して,最終結論を導きだした上でユニット・リーダー(ファースト・オーサー)が論文執筆にとりかかるはずだ。そして,少なくとも共同研究者のうちの複数の人が仕上がった論文を通読して「校閲」をするはずだ。科学者としてもっとも基本的な,こんな作法も欠落していた・・・・というのでは話にならない。

 オボカタさんが率いるユニットのプロジェクト研究のために使われた経費は膨大なものであるはず。そのなかには,共同研究者間の通信・連絡費はもとより,全員が集まってディスカッションをするための会議費(交通費,宿泊費,日当,など)も計上されているはずだ。研究が完了すれば,それに要した科学研究費の決算報告書が提出されるはずなので,そのあたりもしっかりとチェックしてほしいものだ。ひょっとしたら,とんでもない「からくり」が露呈してくるのではないか,とわたしは想像している。すでに,壁紙をピンクに張り替えたり,研究とは直接無縁と思われる高級家具の購入が報道されているように・・・。こんなのは序の口で,その裏にはとんでもない会計処理がなされているのではないか・・・・とわたしは危惧する。

いずれにしても,研究結果についての「責任」の所在だけは,だれの目にも明らかにしてほしい。断るまでもなく,膨大な国民の税金がそこに注ぎこまれているのだから。

 たとえば,自動車の部品を下請け会社に発注して,その部品を組み立てて不具合が生じれば,その自動車を販売した会社が前面に立って謝罪をし,該当する自動車を全部回収し,修理してもどすのは世間の常識だ。

 理化学研究所は,研究所としての責任をとろうとはしていない。トカゲの尻尾きりでことを済ませようとしている。ササイ君もその姿勢を貫いた。ノヨリさんはもっと酷い。所長としての責任をもっと重く受け止めるべきだ。今回のオボカタ問題は理化学研究所の組織としての致命的な欠陥が露呈した,という認識が薄い。ササイ君もノヨリさんも研究者としてはだれの目にも疑いようのない立派な人たちだ。理化学研究所にはそういを人たちが結集しているとも聞いている。しかし,組織の「管理者」としてはどうか。

 少なくとも,ノヨリさんは「今回の不祥事の全責任はわたしにあります」とお詫びをすべきだ。そうすれば,ササイ君もまた「いえいえ,わたしの責任です」と言えたはずだ。それが内部委員による調査委員会を設けて,オボカタ論文の是非論に終始した。すると,悪いのはオボカタさんだけで,あとはだれも責任をとらなくてもいい,というところに逃げ込んでしまう。そこでは,同僚同士のお互いの脛の傷の舐め合いという防衛本能だけが,無意識のうちにはたらいてしまう。

 この問題は,もののみごとに日本の現状を映し出している,とわたしは考える。アベ君を筆頭に,堂々と嘘をつき,都合の悪いことはすべて蓋をし(「秘密」にし),だれも責任をとろうとはしない。経済産業省もそうだ。東京電力もそうだ。原子力規制委員会とて同類だ。みんなで「絆」という名のタッグを組んで,カネのためなら国民の命も勇んで犠牲にする「原子力ムラ」という運命共同体のなかに逃げ込む。こんなことがまかりとおっている。

 一事が万事。この「無責任」体制(体質)は日本の社会の隅々にまで浸透していて,もはや手のつけようがない。理化学研究所も同じだった,というだけの話。

 奈落の底に向かってまっしぐら。どこまで転げ落ちていけば気がつくのだろうか。火の粉が自分の身の上に降りかかるまで,「待つ」しかないのか。
 

2014年4月16日水曜日

横綱日馬富士,大学院生となる。「人間道」で論文を書きたい,と。

 「人間として正しく生きること」。日馬富士が横綱に昇進したときに「どういう横綱を目指すか」と聞かれて答えたことばです。それを聞いた瞬間,わたしは鳥肌が立った。この男はなにを考えているのだろうか,と。並の男ではない。勝ち負けを超越しているではありませんか。

 「日本とモンゴルを比較して,どうしたら安心安全で人を信じて暮らせる場所が作れるかということについて論文を書きたい。横綱という最高の地位をはることができたが,いろんな意味で一人前の人間になるように”人間道”に向かって頑張りたい」。こんどは,大学院生として初登校したときのことば(4月12日)。日馬富士のまなざしはどこまでも「人間」に向かっています。しかも,そこには立派な人生哲学があります。

 「モンゴルでは,男は30歳からと言われる。全ての力や考えがしっかりしてくるから。ぼくもしっかりと相撲に集中する」。4月14日は日馬富士の30歳の誕生日。三十路の決意を述べたことば。ここでも立派な人間,立派な男として生きる「人間」の覚悟が述べられています。

 この三つの談話を並べてみますと,そうか,日馬富士という男は「人間」に強い興味・関心をいだいているんだ,そして,自分の生き方はこれでいいのかと常に問い続けている,ということがはっきりと浮かび上がってきます。わたしは日馬富士の,あの天才的な切れ味鋭い相撲が好きでファンになりましたが,こういう談話を聞いていると,ひとりの生きる人間としての日馬富士にも強く惹かれるものを感じます。一度,会って話を聞いてみたい・・・と。

 出典を示すことができませんが,どこかの雑誌対談で,「相撲道を究めるということは,結局,人間道を究めることだと思います」と語っていたことを記憶しています。そうか,この人は「求道」の人なのだ,とそのときに思いました。

 しかし,日馬富士についてのイメージは,一般的にはあまりいいものではありません。なぜか,メディアも日馬富士バッシングに加担してきました。白鵬だけが,なぜか,善玉。朝青龍は典型的な悪玉あつかい。そして,日馬富士も喫煙する,ガムを噛む横綱という目で,一方的に片づけられています。しかも,横綱として安定していない(調子の波が大きすぎる),と。思い出すのは,「連続優勝しても横綱にすべきではない」と主張した女性の横綱審議委員(名前は書きたくない)のこと。偏見と独断の強い人間は,男女を問わず好きにはなれません。「連続優勝すれば横綱になれるのなら横綱審議委員会は不要だ」とまでのたまわれました。相撲のなんたるかが少しもわかってはいない横綱審議委員でした。

 横綱審議委員や,あるいは,ジャーナリストたちは,力士についてどれだけの情報にもとづいて発言したり,報道をしているのでしょうか。わたしはずっと疑問に思っています。なぜなら,力士についての報道のレベルが低すぎます。そのために一般のファンの力士理解のレベルもまことにお粗末です。その結果が,勝ち負けだけ。記録主義。勝利至上主義だけが一人歩きをしています。力士の人間性などはメディアの関心事からは抜け落ちてしまっているのです。

 この日馬富士についても同じです。12日にはNHKも日馬富士の大学院生としての初登校をテレビで放映しましたが,ただ,それだけ。つまり,「横綱が大学院生になったんだって?」という,単なる面白ニュース扱いでした。ですから,13日には「なんで横綱が大学院へ行く必要があるんだ」とわたしに詰め寄ってきた人がいました。この人はかなりの相撲通の人です。しかし,強いか弱いか,そこにしか興味がもてない人です。仕方がないので,わたしの知っている範囲で,日馬富士に関する特殊な経歴についての話をかい摘んでしました。要旨はつぎのとおりです。

 日馬富士は,モンゴルのNPO法人「ハートセービングプロジェクト」(HSP)の会員で,心臓病の子どもへの医療支援をしていること。とりわけ,医療の遅れているモンゴルの田舎での検診活動の費用を懸賞金で全額賄っていること。日本の小児循環器病棟への慰問活動も熱心に行っていること。首都ウランバートルにある視覚・聴覚障害者のための雇用施設を運営していること。その他の慈善活動も積極的に行っていること。こういう活動をとおして,日馬富士は本気で勉強したくなったのだろうと思う,と。そのために,モンゴルの大学の通信制で法律の勉強をし,去年,卒業。そして,この春の,法政大学大学院政策創造研究科への入学につながっていること,など。

 「そんなことは知らなかった」と。そして「なぜ,NHKはそういう情報も流さないんだ」と憤っていました。そうなんです。メディアのスポーツ報道の根幹が狂っているのです。モンゴルからはるばるやってきた,しかも,あまりからだも大きくはない少年が,臥薪嘗胆,必死の稽古をとおして横綱の地位にまで登りつめるには,単なる才能だけではなく人間としての総合的な「力」が必要だったことは,少し考えればわかることです。ですから,横綱になるのは「なりたい人がなる」のではなく「なるべくしてなる」のだ,ということを日馬富士は言っています。こういうことばがするりと出てくるところが日馬富士のすごいところだと思います。

 ちなみに,日馬富士のお父さんは警察官。ブフ(モンゴル相撲)の国家ザーン(大相撲でいえば関脇)。「日本に行って立派な人間になりなさい。そして,人のために尽くす人間になりなさい」と言って送り出したといいます。この父の教えをひたすら守りとおして,ひたすら研鑽を積み重ね,今日の日馬富士があるのです。その研鑽はいまもつづいています。その到達点の一つが「横綱大学院生」の誕生です。2年課程ですが,4年かけて論文に挑戦するとのこと。はたして,どんな修士論文を書くのか,いまから楽しみです。しかも,日本語で書くことを目指すと言っていますから。

 日馬富士のことですから,修士論文を書き終えた暁には,また,つぎの目標が忽然と眼前に立ち現れることでしょう。そのとき,経済学修士・日馬富士公平がどんなことばを吐くか,これもまた楽しみの一つ。

 日馬富士の魅力は,わが道をまっしぐら。自立していること。つねに自己と向き合いながら,人間とはなにか,という「人間道」を追求していること。勝率や優勝回数も大事ですが,わたしは人間として立派な横綱をめざす日馬富士の生き方にこころから声援を送りたいと思います。そして,ひとまわりもふたまわりも大きな存在になることを期待したいと思います。

 絵画はセミプロの腕前だと聞いています。日馬富士のアーティスティックな相撲の取り口はそこからきているのかもしれません。あなたの相撲はまぎれもなく「アート」です。過去のどの力士も踏み込んだことのない特殊個の境地を切り開く世界です。その意味では孤高の人でもあります。だれも真似のできない世界に向かって,自己を超え出て行ってください。そういう相撲をわたしは一番でも多くみられればそれで充分です。勝敗を度外視した世界に飛び出し,自由自在に遊んでください。そこに待っているものが「相撲道」の奥義であり,「人間道」の最高の境地ではないでしょうか。

 あなたならできる,と信じています。

2014年4月15日火曜日

宮武外骨著『アメリカ様』(ちくま学芸文庫,2014年2月刊)を読む。

 久しぶりに本の方から「買ってくれ」と声をかけられました。しばらくなかったことなので,ちょっとばかり驚きました。書店のたくさんの本のなかで『アメリカ様』宮武外骨,という背文字だけがまわりの書名を圧倒して,ひときわ輝いているのです。こういう本にこれまで「はずれ」はありませんでした。ですから,もちろん,即,購入。

 なぜ,こういう現象が起きたのかは,すぐにわかりました。帰りの電車のなかでこの本の目次をみていたら,最後の解説のところに,「アメリカ様」と「強い日本」(西谷修・P.211),とありました。そして,「あっ,そうか」と急に記憶が蘇ってきました。そうです。最近,西谷さんが書かれたブログの文章のなかに,「アメリカ様」(宮武外骨),という文言があったことを思い出したのです。このこと自体はすっかり忘れていたのですが,本の背文字をみた瞬間に忘却の暗闇のなかで無意識が反応した,というわけです。

 で,早速,西谷さんの解説から読み始めました。この解説がまた,いつもにも増して歯切れがよく,じつに刺激的でした。まるで宮武外骨の向こうを張るかのようなテンポのよさでした。その冒頭の書き出しを引いてみましょう。

 どういう巡り合わせか,戦前の満州国の設計者を自認しながらアメリカ(CIA)と取引して戦犯の科(とが)をまぬがれ,やがて首相になって日米安保の体制固めをした岸信介の孫が,再登板でまた首相になり,今度こそ「強い日本を取り戻す」と称して,交戦権回復(集団的自衛権)の画策,治安維持法まがいの特定秘密保護法制定,相変わらずの札冊で沖縄再処分と次々に手を打ち,年の終わりに意気揚々と靖国参拝までやったところ,TPPの国売り出血大サービスですり寄っているにもかかわらず,そのアメリカからとうとうダメ出しが出たという,このあんまりなタイミングで宮武外骨の『アメリカ様』が再刊される。

 という具合に一気呵成に安倍政権を厳しく批評しながら,日本と『アメリカ様』との結びつきを明確にしていきます。言ってみれば,安倍政権は「アメリカ様」への献身的なほどの「自発的隷従」の姿勢を示しているにもかかわらず,そのことごとくがダメ出しを受けるという憂き目に会っている,といっても過言ではなさそうです。

 なにより目が覚めるのは,集団的自衛権を「交戦権回復」,特定秘密保護法を「治安維持法」,沖縄の基地移転を「沖縄再処分」,TPPを「国売り」という具合に,それぞれの問題の本質を剥き出しにしたことばの批評性です。いまのジャーナリストは宮武外骨のような批評精神を持ち合わせてはいないために,政府の記者会見をそのまま垂れ流すだけです。ですから,集団的自衛権などというわけのわからないことばをそのまま鸚鵡返しのように用いて平然としています。これを,わかりやすく言えば「交戦権回復」ということなのだ,と言い切るだけの批評精神がいまの多くのジャーナリストには欠落しているというわけです。

 こういうジャーナリストの現状をみるに見かねて西谷さんは,あえて,権力から嫌われることも承知の上で,「ほんとうのこと」を言わなくてはいけない,とみずからを鼓舞していらっしゃるように見えます。ましてや,宮武外骨の『アメリカ様』の解説を書くにあたっては,さらなる覚悟が必要だったのではないか,とこれはわたしの推測です。

 この解説の末尾にも,思わず目を見張らずにはおけない強烈な文章がおかれています。ちょっと長くなりますが引いておきましょう。

 要するに,国民全体がアメリカに自発的隷従しているわけではない。そうではなく,「自発的隷従」とは,権力に与(あずか)る者たちが自らの権力を守るために国民を売ってでも強者に媚びる,という事態を言うのだ。「アメリカ様」への好みの「ご進物」を差し出して,自分たちが日本の統治者として居座ることを許してもらう。「お役に立ちますぜ」というわけだ。それを「代官」という。すると,一見,国際社会のパートナーという形をとっても,実質は「属国」あるいは植民地と変わらない。だから日本の首相は,就任するとすぐ,まず「アメリカ様」に認めていただこうとワシントン詣でをし,大統領といっしょに写した写真を自国の新聞に掲載させる。それが日本の首相であることの承認手続きになる。ついでに言えば,安倍首相はそのとき「大統領様」に冷たくあしらわれ,晩餐会を開いてもらえなかった珍しいケースだった。
 もうそういう状態が七〇年も続いている。いい加減にわれわれも「アメリカ様」から自立したいものだが,「自立」とは戦後のもたらした資産を一掃して旧体制のゾンビたちが生き返ることではない。そうではなく,彼らを生き延びさせた「自発的隷従」を断ち切って,グローバル世界に対応する新たな地歩を作り出すことだ。その自立の胎動はいま,「ご進物」として久しく差し出され続け,もはやその運命に甘んじまいとする沖縄から最も強く起こっている。

 最後の「自立の胎動は・・・・・・・沖縄から最も強く起こっている」という文章が目に焼きついて離れません。

 宮武外骨は,その歯に衣着せぬ舌鋒の鋭さゆえに,入獄4回,罰金・発禁29回という輝かしい記録の保持者です。詳しくは本書の後半に収められている「改訂増補 筆禍史」をご覧ください。
 

2014年4月14日月曜日

「なにを食べてもよろしい」,術後の回復は驚異的と褒められました。

 今日(14日)は診察の日でした。3週間ぶりでした。いつものように採血をして血液検査,その結果にもどづく診察。今日から担当医が代わって(執刀医は3月末で退職し,母校の大学に復職・栄転),院長先生がそのあとを引き継いでくださいました。入院のときから,ずっと見守っていてくださいましたので,とても安心です。

 「やあ,お久しぶり。元気そうですね。とてもいい顔をしてらっしゃる」。これが院長先生の第一声。「お蔭さまでもうすっかりよくなった気分です」とわたし。で,すっかり打ち解けた雰囲気のまま,すぐに診察に入りました。

 「血液検査の結果は驚くべき回復ぶりです。ただ,若干,貧血気味なところが残っていますが・・・。でも,徐々に数値はよくなってきているので心配はいりません。で,その後の様子はいかがですか」と問われましたので,自分で感じているからだの具合をできるだけ精確にお伝えしました。そして,最後に,「4月に入って食欲がでてきて,一回に食べる量も増えてきました。そのせいか,体重も1キロちょっと増えてきました」と伝えました。

 すると,「それはいい傾向です」と言ったあと,やおらカルテになにかを書き始め,うん,うん,とひとりでうなづきながら熱心に記録を残していらっしゃる。かなり長い時間,パソコンで過去のデータなどを確認しながら,カルテを書き続けていらっしゃる。それが終わると,「じゃあ,ちょっとお腹を診せてもらいましょうか」となり,ベッドに横になりお腹を出しました。

 「いやーっ,お腹、しわだらけになりましたねぇ」と笑う。そして,手術の傷を中心にあちこち手で押さえながら,「ここも大丈夫,ここもいい具合,ああ,もうどこも心配ないですねぇ。術後の回復は驚異的です。もう,なにを食べてもいいですよ」というお墨付きをいただきました。そのあと,「体重が落ちた理由は筋肉細胞のエネルギーが胃の回復のために消費されたのであって,皮下脂肪ではありません。だから,体重がもどるには相当の時間がかかります。慌てないでじっくりと構えてください。まだ,多少の体重のアップダウンは繰り返すでしょう。なかなか体重がもどらないからといってがっかりする必要はありません」とのこと。

 このお話はわたしにはとてもいいヒントとなりました。なるほど,と納得できるものがありました。体重の増減は一筋縄ではないということを経験的に熟知していたからです。健康なときでさえそうなのですから,ましてや,病後となればもっともっと複雑な要因があるはずです。これからじっくりと向き合ってみようと思います。

 そして,椅子にもどってから,つぎのようなお話がありました。
 「体力がもどってきましたので,つぎの治療計画を検討したいと思います。最終ゴールに達するには数年を要すると思っていてください。次回までにこれからの治療計画を立てておきますので,そこでまたご相談をということにしましょう。」

 つぎの治療計画とは,要するに「抗ガン剤治療」ということです。院長先生はなぜか「薬剤による治療です」という表現をされました。いやいや,これは長距離レースになるぞ,と覚悟せざるをえない状況になってきました。次回の診察は5月12日(月)。それまでに,わたしの方もそれなりの覚悟を決めておかなくてはなりません。

 が,まあ,今日のところは「なにを食べてもよろしい」というお墨付きをいただいただけで充分。そして,「驚異的な回復」のおかげで,つぎの治療計画に手がとどくようになった,といい方に頭を切り換えることにしましょう。折角,院長先生に褒められたのですから・・・。

 朝,曇っていた空が,帰りには晴れ上がり,ポカポカ陽気。気分がよかったので,あちこち眺めながら最寄りの駅まで歩きました。厚着をしてでかけましたので,うっすらと汗をかきました。この暖かい日差しはなにものにも代えがたい快感です。太陽の力は偉大です。ときどき立ち止まっては,顔を太陽に向けて「ジワーッ」とくる熱に身を委ねたり,手のひらで太陽の熱を受け止めたり,しながら散策気分を楽しみました。

 その気分に浮かれて途中で書店に立ち寄りました。突然,わたしの目に飛び込んできたのは宮武外骨の『アメリカ様』(ちくま学芸文庫)。大きな声で「買ってくれ」と言ってます。ですから,即,購入。そして,電車のなかであちこちめくっていたら,おやおや,という発見がありました。この話はまた,このブログで書くことにしましょう。

 とりあえず,今日のところは「なにを食べてもよろしい」という主治医のお墨つきをいただきました,というご報告まで。もちろん,お酒もOK。これがなにより。
 

2014年4月12日土曜日

八重桜が満開。いつもの道を歩きながらの花見。

 
 
 
 

 安倍政権が,気が狂ったように,いな,まさに狂いっぱなしのまま暴走をつづけるなか,自然は偉大です。どんな世の中になろうと,自然の法則どおりに季節がくれば開花し,実をつけ,落葉し・・・をごく当たり前のこととして繰り返します。

 駄目なのは,動物の世界から<横滑り>して,突然変異を起こした「サル」です。その成れの果ては,ことばを獲得し,考えることを覚え,飛び出してきた自然をみずからの欲望のままに支配しようとしてきた「人間」です。そして,いまではお互いの欲望と欲望とがぶつかり合い,無駄な消尽を繰り返すばかりです。懲りることもなく・・・・。

 フクシマの避難地域の桜の名所も,毎年,間違いなく満開の花を咲かせています。「ことしは,例年よりも綺麗に咲いているような気がする」と元住民の方がボツリとつぶやいた姿をテレビでみました。「だれもみる人がいない・・・・。それがなにより寂しいし,残念だ」とも。みんな避難させられて,だれも住民がいなくなってしまっても桜は無心に生きつづけ,時節がくれば花を開きます。まるでなにごともなかったかのように・・・・。

 それを考えると人間さまは駄目ですね。目先の欲望にとらわれて,全体をみる目が欠落したまま,無駄な労力を費やすことになります。そこから目を覚ますそぶりもみえてきません。どうしてこんな中途半端な動物になりはててしまったのでしょう。

 こんなことを考えているうちに気持が滅入り,落ち込んでしまったわけではありませんが,ことしも花見はできませんでした。仕方がないので,鷺沼の事務所に通う道すがらの花見でよしとすることにしました。鷺沼は駅前のロータリーの桜もみごとですが,旧道沿いの商店街の桜並木もみごとです。ぶらりと一往復することも何回も試みてみました。でも,ひとりだけの花見は寂しいものです。

 やはり,なじみの顔がそろってゴザを敷き,車座になってお重でも開いて,一献傾けながら心置きなくワイワイやるのが一番。でも,それをやるには相当にエネルギーが必要なんだということが,加齢とともにわかってきました。いつしか,歳とともに億劫になり,まあどうでもいいや,と簡単に諦めてしまうのです。これこそ老化現象なのでしょう。

 ことしは,鷺沼の事務所に通ういつもの道すがらの花見で終わりそうです。今日(12日)はカメラを持っていましたので,いつもの植木屋さんの屋敷に咲いている八重桜を撮ってみました。ついでに,この八重桜に並んで植わっている緋色のもみじ,黄緑の新緑が輝いてみえた名前のわからない木,それとヒイラギ。花が終わって実をつけていました。やがて,色づいてくると,これまた美しく輝いてきます。

 この植木屋さんには,一年中,お世話になっています。無断で,立ち止まっては,あちこち眺め,写真を撮らせてもらっています。一度だけ,ここの主人と会話をしたことがあり,いろいろと樹木の名前を教えてもらいました。桜だけでも,河津ざくら,緋寒桜,しだれ桜,染井吉野,八重桜,もう一種類(名前を忘れてしまいました)があります。少しずつ時間差をつけながら開花しますので,この季節はとても楽しみでもあります。

 政界全体の体たらくにこれほど絶望したことが過去にあっただろうか,と思いを巡らしながら鷺沼の事務所での時間を鬱々と過ごしています。救いは自然の力だけです。いつに変わらぬ大自然の運動だけは嘘をつきません。人間もまた自然存在であることを,もっともっと自覚的に生きるすべを身につける必要がある,とわが身に言い聞かせながら・・・・。いまも,空を仰いでいます。
 

とうとう「原発稼働ゼロ」方針を撤回した安倍政権。原子力ムラのいいなり。

 どさくさに紛れて矢継ぎ早に「閣議決定」というカードを切り続ける安倍政権。国民は「猫だまし」にあったように,一瞬,あっと驚くが,翌日にはまた新たな「閣議決定」。これが繰り返されると,それが日常化してしまい,国民の多くは「思考停止」してしまう。テレビは「首相談話」だけを一方的に繰り返し垂れ流す。国民の圧倒的多数は無意識のうちに「操作」され,いまや,官邸のいいなり。いや,官邸を動かしている原子力ムラのいいなり。

 その結果は,なにより「国民不在」。いや,「国民無視」である。いやいや,国民は虫けら同然。使い捨て自在の道具でしかない。原子力ムラと官邸は一心同体となって,国民の命を犠牲にして,みずからの利益を守ることに猛進。その姿勢が,恥じも外聞もなく,露骨にでてきた。ただ,それだけの話。それが自分たちの首を締めることに等しいということも知らずに・・・・。

 「政府は11日,国のエネルギー政策の指針となる新たな『エネルギー基本計画』を閣議決定した」。これが今日(12日)の東京新聞一面のトップ記事の書き出しである。つづけて「原発を『重要なベースロード電源』と位置付け,原子力規制委員会の基準に適合した原発を再稼働させ,民主党政権が打ち出した2030年代の『原発稼働ゼロ』方針を撤回することを正式に決めた」と報じている。

 そこで,この基本計画をチェックしてみる。そこには,再生可能エネルギー導入をも最大限加速させ,その後も積極的に推進する,というようなとってつけたような文言も入っている。実際にも,テレビで流れた首相談話でもこのことを力説している。だから,このことばの影に「原発再稼働推進」の主張がかすんでしまう。また,それを意図した談話の発表の仕方であり,メディアの編集の仕方である。それを計算に入れた安倍首相の得意技(めくらまし談話)である。

 しかし,その一方では,「計画案の了承に向けた与党協議が大詰めを迎えた3月下旬。経産省資源エネルギー庁の担当課長は,再生可能エネルギー導入の数値目標の明記を求められ『できません』と拒否した。『その態度はなんだ』。要求した自民党の長谷川岳参議院議員によると,課長は椅子に反り返り,足を組んだまま受け答えしたという。長谷川氏の激怒で協議は中断した」という実態がある。

 要するに,再生可能エネルギーの導入は,国民の目を欺くための,たんなる文言だけの話であって,原子力ムラも官邸も本音はまったくやる気はないということだ。その実態は,いまも遅々として進まぬ再生可能エネルギーの推進状況をみれば明らかだ。音頭だけは推進のボーズだが,実際にはなにもしない,むしろ,足を引っ張っているのが現実だ。

 かくして,安倍首相の「ごまかし」戦略が日毎に顕著になっている。つい最近では,全面改定された「武器輸出三原則」は,この表現の代わりに「防衛装備移転三原則」を用いることになったという。こうして,内実が見えない文言に変えることによって,国民の目を欺こうというのである。しかし,よく考えてみると「防衛装備」とは「武器」を意味することになり,「移転」とは「輸出」をも意味することになる。となると,国語辞典に新しい「語釈」を追加する必要がある。

 こんな愚かなことまでして,国民の意識を「操作」しようとする政権を,若者たちが支持しているというのだから不思議である。若者たちが,この暴走をはじめた政権を面白がって追随していこうとする心情はどこからくるのだろうか。それは若者だけではない。支持率がいっこうに下がらないという事実の背景にあるものはなにか,本気で考えなくてはならないところにきている。

 鬱屈した国民感情,一向にさきが見えてこない絶望感,ますます生きにくくなる人間関係,日常の凡庸化・空疎化,コミュニケーションの「機械化」「モノ化」,などなど。どこか,1930年代のドイツ・ヒトラーが選挙によって多数を独占し,一気にファシズム化していったときの雰囲気に似ている気がしてならない。これがわたしの単なる杞憂に終わればいいのだが・・・・。

 日本国はいま「カタストロフィ」に向かってまっしぐら。にもかかわらず国民の多くは「茹でカエル」。無反応。

2014年4月11日金曜日

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』・上(増田俊也著,新潮文庫,平成26年)を読む。

 このぶっそうな名前の本は刊行と同時に大きな話題になりました。わたしも書店で手にとって読み始めたとたんに,「この本はいけない」と直感して,すぐに元にもどしました。なぜなら,こんな本を買ってしまったら,しばらくは仕事ができなくなってしまう,と思ったからでした。分厚い上に細かな文字がびっしり詰め込まれた大部な本でした。ここは禁欲,とみずからに言い聞かせました。

 が,このほど文庫本となって(上・下2巻,平成26年3月),ふたたび書店に並びました。もう,どうにも我慢できなくて,即刻,購入。でも,一日50ページまで,それ以上は読まないと自分に言い聞かせました。この作戦はどうやら正解でした。なぜなら,じつに密度の濃い内容で,よくぞここまで調べ上げたものだと感心してしまうこほど,その情報量はいわゆるノン・フィクションでは考えられないレベルの高いものだったからです。つまり,わたしの惚けはじめた頭にも,しっかりとした記憶として残すには「50ページ」くらいがちょうどよかったからです。

 いま,ちょうど上巻を読み終えたばかりです。「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」というなんとも怪しげなタイトルに惹かれて読み始めたわたしは,完全に裏切られてしまいました。なぜなら,少なくとも上巻にはその謎解きも答えもどこにも書いてなかったからです。ヒントらしきものもなにもありません。それなのに,まったく別の意味で,この本には驚かされ,こころの底から感動させられました。

 この本は,多くの日本人が信じて疑わない,講道館柔道にまつわるまったく根拠のない「神話」を根底から突き崩し,日本の柔道史の真の姿を描き出すことを大きな目的のひとつとしてかかげているからです。少なくとも,上巻は徹底して講道館柔道の虚像を突き崩すことに,筆者・増田俊也は全力を傾けています。そして,そこには柔道史には相当明るいつもりでいたわたしにも,びっくりするような内容が満載されていました。

 著者の増田俊也氏は北大柔道部出身の,柔道をこよなく愛する柔道マンのひとりです。その著者が「柔道とはなにか」という根源的な問いを内に抱え込みながら,木村政彦のライフ・ヒストリーを丹念に追っかけていったら,そこには講道館柔道とはまるで別の柔道の世界が広がっていて,しかも,そちらの方が日本の柔道としては「主流」であった,という「事実」が明らかになってきます。いわゆる武徳会柔道と高専柔道の二つの系譜が圧倒的な力をもっていて,講道館柔道は細々と流派柔道の伝承に励んでいたにすぎない,ということが。

 上巻を読んだかぎりでの結論を言ってしまえば,講道館柔道は第二次世界大戦後になって,ようやく柔道界の中心に位置づけられるものであって,それまでは単なる流派柔道の家元にすぎなかった,と(増田俊也は力説します)。それも,戦後のGHQの占領政策のもとで,講道館柔道以外の柔道団体がすべて解散させられてしまったからだ,と。講道館柔道は,要するに漁夫の利を拾ったにすぎない,と。

 その結果,講道館柔道と全日本柔道連盟とが表裏一体の癒着関係が生じてしまったこと,つまり,講道館柔道こそが柔道の本家本元である,という「神話」が一気に広まり,いつのまにか定着し,みごとにその「神話」が構築されてしまったこと,ここに日本の柔道が堕落・頽廃していく根源的な理由があった,と。このまったく偶発的に,降って湧いたような,つまり,GHQですら意図しなかったであろうような,戦後の柔道政策の,とんだ置き土産が「講道館柔道中心主義」を導き出し,同時に柔道の歴史を語る上でも,「講道館柔道中心史観」がまかりとおるようになった,と増田俊也は主張します。そして,その根拠を一つひとつ提示していきます。その迫力たるや,読む者をして「目からウロコ」にさせてしまいます。

 しかも,その一つひとつが木村政彦という希代の柔道マン誕生の足跡を綿密にたどることによって,確たる根拠をもって浮かび上がってきます。その説得力は,これまでわたしが目にしてきた柔道の歴史に関する本にはなかった,みごとなものです。もっと言ってしまえば,著者の一歩も譲らないぞという気魄さえ感じられます。

 そうです。この本は,木村政彦という柔道界のレジェンドの謎解きをしていったら,期せずして日本の柔道界の「虚実」が一気に露呈し,噴出してきた,そういう本なのだというべきかもしれません。場合によっては,著者自身が「虚実」の第一発見者であり,もっとも興奮しながら,その謎解きに挑んでいった,というのがほんとうかもしれません。だからこそ,読む者のこころを打つのだと思います。

 この本のなかに埋め込まれた柔道の「虚実」の面白さは,計り知れないものがあります。それらの「各論」については,また,追々,このブログでも取り上げてみたいと思っています。いずれにしても,歴史は「創られる」という見本のような作品です。と同時に,わたしもまた「スポーツ史」という領域で,同じような「愚」を侵しているのではないか,と痛く反省を迫られるそういう本でした。

 こんどでた文庫本の帯には「大宅壮一ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞」受賞と仰々しく謳われています。が,その名に恥じない力作であり,傑作だとわたしも思いました。

 これから下巻にとりかかります。一日50ページを禁欲的に遵守しながら。
 いまからこころが躍ります。こんどこそ「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の謎解きがはじまるはずですから。
 

2014年4月9日水曜日

笹踊り・考。朝鮮通信使との関係について。

 ことしも笹踊りの季節がやってきました。『穂国幻史考』の著者・柴田晴廣さんから,この季節になると笹踊りの写真が送られてきます。ことしもきれいな写真を送ってくださいました(前回のブログに掲載)。笹踊りの特徴を絶妙なタイミングでとらえた素晴らしい写真です。わたしの育った村祭りでも笹踊りが伝承されていて,毎年,楽しみにしていたものです。このことを知っている柴田さんは親切にわたしに写真を送ってくださるという次第です。

 笹踊りは穂国(ほのくに・愛知県東三河地方の古称)のほんの限られた地方にのみ伝承されている伝統芸能の一つです。詳しいことは柴田さんの著書『穂国幻史考』にゆずることにして,今回は,朝鮮通信使との関係について,少しだけわたしの頭のなかにみえてきたイメージについて書いてみたいと思います。

 笹踊りと朝鮮通信使との関係については,柴田さんも著書のなかで書かれていますように,ほぼ間違いはないと思います。が,朝鮮通信使が江戸に向かう途中で,東海道を練り歩いたとされる,その情景がわたしにはいまひとつイメージが湧いてきませんでした。ですから,朝鮮通信使に関する専門書にあたって,「練り歩き」の実態を確認してみたいと考えていました。が,ついつい後回しになっていて,いまだにそこまで手がまわりません。

 そんななかで,雑誌『世界』の4月号で,寺島実郎さんが連載「能力のレッスン」(144)──「朝鮮通信使」にみる江戸期の日朝関係──17世紀オランダからの視界(その21)を書いていることを知り,飛びつきました。もちろん,笹踊りのことはなにも書いてはありませんが,朝鮮通信使の「練り歩き」について興味深い描写をしています。そこにはつぎのようにあります。

 「一行の楽団パレードは多くの日本人に衝撃を与え,唐人行列,唐人踊,馬上才(曲馬)は今日の韓流ブームどころではない人気を博して各地の行事や芸能に影響を残した。興味深い偶然もあった。第四回使節(1636年)の行列を江戸参府中のオランダ商館長クーケパッケルが目撃し,『行列が通り過ぎるのに五時間かかった』と記述している。オランダ商館長一行の参府は,あくまで株式会社の地域代表の表敬訪問だが,朝鮮通信使は国家を代表する外交使節であった。」

 こんな記述に出会いますと,なるほど,穂国の人びともまた東海道を練り歩く朝鮮通信使の行列(約500人といわれる)に惹きつけられ,じっと見入っていたんだろうなぁ,というイメージが鮮明に浮かんできます。いまに伝わる笹踊りの衣装のきらびやかなデザインは,往時の影響を如実に写し取っているものと思われます。

 1636年といえば,関が原の戦い(1600年)が終わってようやく天下統一がなり,平和が訪れ,人びとのこころもようやく安らぎがえられたころと言っていいでしょう。そんなときに,朝鮮通信使が歌舞音曲とともにきらびやかな衣装に身をかため,500人もの大行列が練り歩いた,というのですから,それはそれは大騒ぎだったことでしょう。東海道からかなり離れた地方からも大挙して見物に集まってきただろうことは容易に想像ができます。

 さきの引用から推察すれば,「唐人踊」が,いまわたしたちが目にする笹踊りの原型のようです。だとすれば,朝鮮通信使の「唐人踊」がどのようなものであったのか,これを調べればもっとイメージがはっきりしてくるということになります。

 同じく引用にあるように「行列が通り過ぎるのに五時間かかった」という描写もまた興味を引きます。いま行われている笹踊りも,一つところを行ったり戻ったりして,なかなか前には進みません。わたしの寺の前の道路は村のメイン・ストリートにもなっていましたので,そこでは必ず笹踊りが行われました。たった,50メートルほどの門前を通過するのに相当の時間を要しました。笹踊りの人は大変だなぁ,と子どもごころにも思ったものです。

 それともう一点は,穂国の人びとが,たとえば,この唐人踊にほかの地方の人びと以上に強いシンパシーを感じたのはなぜか,という問題があります。穂国には花祭りのような伝統芸能を筆頭に,三河漫才など,数々の伝統芸能が伝承されています。わたしの子どものころの村祭りでは,村の若い衆が歌舞伎を演じていました。わたしの育った寺はその稽古場でした。近隣の村には少女歌舞伎が盛んに行われていました。考えてみれば,穂国は伝統芸能の宝庫のようです。

 そんなことを考えながら,柴田さんの送ってくださった写真を眺めていますと,その写真の向こうに隠れているさまざまなイメージが際限もなく湧き上がってきます。幻視の悦び。至福のとき。やはり,子どものころに触れた祭りは,いまごろになって生き生きと蘇ってきます。やはり,いいなぁと思います。柴田さんに感謝。

〔追記〕
冒頭の「笹踊りの季節がやってきました」という書き出しについて,柴田さんからコメントが入りました。笹踊りはたしかに春が多いけれども,秋にも盛んに行われていること,また,夏にも行われているので,春を「笹踊りの季節」と断定することにはいささか違和感がある,とのことです。わたしは子どものころの記憶で,どこの笹踊りもみんな「春」だと思い込んでいました。わたしのブログはその程度のものであることをお断りし,ここでも柴田さんに感謝です。

 

牛久保の若葉祭の笹踊り。写真の部。

 
撮影・柴田晴廣
撮影・柴田晴廣
撮影・柴田晴廣

撮影・柴田晴廣

 
※文章はつぎのブログ「笹踊り・考」にまわします。
 

2014年4月8日火曜日

「ウクライナの安定はウクライナ人にしかできない」(西谷公明・『世界』5月号)。

 雑誌『世界』の5月号に,西谷公明(ともあき)さんの目が覚めるような説得力のある論考が掲載されています。西谷公明さんとは,かれがまだ学生だったころに一度だけお会いしたことがあり,かれの瞬発力のある会話力,そのテンポの良さが強烈な印象となっていまも鮮明に残っています。その西谷公明さんが「誰にウクライナが救えるか──友ユーシェンコへの手紙」というタイトルの論考を『世界』に寄せたのです。

 
初めてお会いしたときから幾星霜,ウクライナの第3代大統領を務めたユーシェンコ氏(1999年12月22日~2001年5月29日)を「友」とし,「貴殿は」と呼びかける人になられたことにある種の感慨を覚えます。この論考の冒頭には,公明さんが3年間のウクライナの日本大使館勤務を終えるお別れの会(1999年3月15日)に,当時はウクライナ国立銀行総裁だったユーシェンコ氏を招いた話がでてきます。それ以後も,公明さんはモスクワに居住しながら,ユーシェンコ氏との交友を持続されたこともこの論考のなかにでてきます。公明さんは,いろいろ紆余曲折を経ながらも,トヨタのモスクワ支社の社長として勤務され,大きな業績を残されます。そして,この時代をとおしてプーチン大統領とも直に電話で話をすることもあったと伺っています。いうなれば,ロシア,ウクライナに関しては日本で屈指の情報通であるというわけです。

 その西谷公明さんがこの論考の最後のところで「ウクライナの安定はウクライナ人にしかできない」という,鮮明な結論を導き出しています。この結論にいたるまでの論考の展開が,わたしにはこころの底から符に落ちるものでしたので,「やはり,それしかないよなぁ」と独り言をつぶやいてしまいました。

 このところずっと考えていることは,国連とか,欧米とかが,そして,ロシアが,一国の国内紛争に介入することの意味でした。とくに,アメリカを筆頭とする「欧米」の介入とはどういうことなのか,と。それは体のいい「戦争」と同じではないか,と。たとえば,経済制裁という名の代理戦争ではないか,と。それは,もっと言ってしまえば,欧米のキリスト教文化圏のなかで構築されてきた価値観の押しつけではないか,と。そして,その価値観だけが「正義」であって,それ以外はすべて「邪悪」なるものとして排除の対象とされてしまう,この事実はなにを意味しているのか,と。

 しかも,それらの一方的な介入はことごとく失敗に終わっていること。たとえば,アフガニスタン。最後まで責任をもつということはしないで,採算が合わなくなれば「投げ出し」て終わり。長い歴史と伝統のもとで構築されてきた部族社会に欧米型の民主主義を持ち込んでも,それはなんの役にも立たないことは,もはやだれの目にも明らかです。かえって混乱を大きくするだけの話。

 いま,また,その悲劇がウクライナで繰り返されそうとしています。欧米とロシアの利害打算のぶつかり合い・・・つまりは,戦争にあらざる戦争。これはどこまで行っても終わりのない戦争。主役であるはずのウクライナ人は宙に浮いたまま。双方の情報合戦の行き交うなか,なにを,どうすればいいのかさえ見えてはこないまま右往左往するばかり。まさに泥沼化の一途をたどるのみ。

 しかし,西谷公明さんはこの論考の最後のところで,一条の光明を見出そうとしています。
 それは,キエフの友人から西谷公明さんのところにとどいたメールです。そこにはつぎのように書かれていたといいます。
 「ウクライナで何が起こっているか。これについて答えることは数日前にはむずかしかった。しかし,ロシアがクリミアに侵略したいま,私は平易な言葉で答えることができます。私たちはいま,自由と独立のために闘っているのです,と」。

 そして,さらに別の友人からのメールにあった「ウクライナ人とロシア人の兄弟のような友愛の情に満ちた関係」という文章も紹介しています。

 その上で,「しかし問題は,暫定政権が内部にはらむリスクです」からはじまる最後の迫力のある文章は,どうぞ,ご自分の目で確認してみてください。

 なにはともあれ,西谷公明さんと誌面をとおして再会できたことをこころから言祝ぎたいと思います。エコノミストとしてのこんごのより一層のご活躍を祈りたいと思います。

「戦後レジーム脱却」──戦後史にゆがみをもたらす乱視鏡(西谷修×小森陽一対談)に注目。

 雑誌『世界』5月号(8日発売予定)に表題の対談が掲載されています。朝日カルチャーセンター新宿での対談(1月28日・講座「現代社会への視点」)を編集して,密度の濃い,しっかりとした読み物になっています。西谷さんと小森さんは年に2回,朝日カルチャーセンターで対談を,ここ数年,つづけていらっしゃると聞いています。ですから,お二人の呼吸もぴったりで,もののみごとに問題の本質に迫っていきます。この迫力はこのお二人でなくてはでてこないのではないか,と思います。

 
この対談の大きなポイントは,安倍首相の「暴走」がどこからはじまるのか,そして,その「暴走」はどこに向かっていくのか,ということを徹底的に論じているところにあります。そして,その「暴走」のはじまりを自民党結党以来の「戦後レジーム」のねじれを安倍首相が「錯誤」してしまったために,そこからの脱却の手法もまたとんでもない「逸脱」となってしまっていると論じています。しかも,ここにきて明らかになってきたことは,第二次世界大戦前の「強い国家」に向かってまっしぐら,という体たらくである,と断じています。それは,戦後史にゆがみをもたらす「乱視鏡」以外のなにものでもない,と。

 わたしの頭のなかにあったもやもやした曇りガラスが,これを読んですっかり取り払われ,とても見晴らしのいい高台につれてきてもらったような,いい気分です。このお二人には,いつものことながら,こころから感謝です。

 この対談のすべてを紹介することはできませんが,一つだけ,対談の冒頭で展開されたとても刺激的な話題を紹介しておきたいと思います。

 一つは,安倍首相がかかげる「積極的平和主義」というスローガンです。
まず,小森さんが懇切丁寧にこの「積極的平和主義」を首相が打ち出す背景について説明をしてくれます。安倍首相が「積極的平和主義」を言い出したのは2013年9月からで,以後,国連総会でこれを強調し,10月15日の臨時国会所信表明演説では「三つの現実」があるために,積極的平和主義が求められている,と述べます。「三つの現実」とは,一つは尖閣諸島をめぐる緊迫した状況,二つにはジプチの海上自衛官の現実,三つには非常に厳しくなってきた安全保障の現実,を指摘しています。このあとの詳しい経緯については省略しますが,その最終的な目的は「集団的自衛権の行使」を可能とするための憲法解釈を導き出し,憲法9条の改憲に向かう・・・,つまりは立憲主義の抹殺だ,と小森さんは強調します。

 この話題を受けて西谷さんはつぎのように語ります。
 「積極的平和主義」とはもちろん,「平和主義」を空洞化させるレトリックです。平和のために戦争を構える,というわけだから。ものの言い方で内容をひっくり返してしまうこういう言語戦略は,9・11以降のアメリカが駆使しました。その筆頭が「テロとの戦争」です。戦争とは通常,国家間でするもので,そこにはルールがあり,双方が責任を持たなければなりません。ところが,「テロとの戦争」では,相手は国家ではないとされ,宣戦布告も講和もいらない。自らが敵がと名指ししたものを殲滅することができるのです。いまり,「テロとの戦争」は,テロとまったく同じ構造をしており,テロ殲滅のためのあらゆる無法な措置が,予防として正当化されるのです。同様に,「積極的平和主義」とは,ただ戦争をなくすというのではなく,戦争になりそうな存在をすべて力で抑えこんで,あらかじめ潰すというレトリックです。そのためには軍備を強化しなければならない。そして武器を使って敵とみなした人を殺す。積極的平和主義とはつまるところそういうことでしょう。

 というような具合に,お二人の対談は冒頭から熱を帯びています。この対談に付された「小見出し」を拾っておきましょう。それをみるだけで,内容を読んでみたくなること請け合いです。
 〇「積極的に」平和主義を空洞化させる
 〇異次元のえげつなさを見せる安倍政権
 〇戦後すぐに生じたねじれ
 〇ズレと覚悟の安倍首相
 〇人間を損なうアベノミクス
 〇希望は「自発的隷従」を拒否することから

 これらのどのパーツも,お二人による鋭い切り込みと,そこに横たわる根源的な問題の抉りだしに満ちあふれています。あとは,どうぞ,直接,手にとって読んでみてください。溜飲の下がる思いがするはずです。乞う,ご期待,です。

2014年4月7日月曜日

プロ棋士とコンピューターソフトの勝負? なにか勘違いしてませんか?


 「電王戦」という将棋の勝負の世界がある。2012年にはじまり,翌年から5人のプロ棋士と5台のコンピューターソフトとの団体戦となり,ことしはその第二戦。昨年は一勝三敗一持将棋(引き分け)で,プロ棋士が負けた。ことしはすでに一勝三敗となり,プロ棋士の負けが決まった。

 写真は,第4戦を戦った森下卓九段(47)が敗北を認め,コンピューターソフトの「ツツカナ」に頭を下げているところ(4月6日,東京新聞)。この写真をみながら,わたしはえも言われぬ違和感を覚えた。なにか変だ。どこか根本的なところで間違いを侵しているのでは・・・・?と。そこで,その違和感がどこからくるものなのか考える。

 この写真をみた瞬間のイメージは,人間よりもコンピューターソフトの方が「上」なのだ,というものだ。そうして,そういうイメージが無意識のうちに人びとのなかに浸透していく。そこに,いわゆる「科学技術神話」の発端をみる思いがする。が,それだけではない。もっと大きな問題がそこには見え隠れしている。

 それは,人間が行う将棋とコンピューターソフトが行う将棋とでは「世界」が違うということ。別の言い方をすれば「次元」が違う。つまり,それぞれの存在の「次元」が違う。その「次元」の違うもの同士は比較の対象にはなりえない,という大前提がここでは無視されている。

 コンピューターソフト同士の戦いはあってもいい。というより,別の次元の戦いとして面白そうだ。なぜなら,ソフトの性能の勝負だから,これは対等である。しかし,人間の頭脳とコンピューターソフトの計算能力は「次元」が違う。かつて文化勲章をもらった数学者の岡潔さんの名言を思い出す。「数学は情緒である」と岡潔さんは断言している。つまり,人間の頭脳の働きをささえているのは「情緒」だ,というのである。だとすれば,コンピューターソフトには「情緒」は不要だ。

 もちろん,「電王戦」を仕組んだ人たちも,そんなことは百も承知のはずだ。にもかかわらず,この勝負を成立させているには理由がある。すなわち,将棋人気の活性化をもくろむ日本棋院とコンピューターソフトの性能のよさを売り込みたいソフト業界の利害が一致したからだ。

 しかも,これはあくまでも「余興」の範囲内のことだ。つまり,「面白半分」だということだ。だから,どちらが勝ったとしても,その結果はどうでもいいのである。要は,大きな話題を呼ぶこと。そして,多くの人びとの関心を惹きつけること,それだけでいいのだ。

 そして,忘れてはならないのは,コンピューターソフトをつくったのは「人間」である,ということだ。面白いのは,人間がつくったものに人間が逆襲されている,というこの現象である。これは遊びやゲームの世界であるうちは平和な娯楽ですまされる。しかし,いまや,人間が生みだしたテクノサイエンスに人間が「支配」される時代に突入しているという事実を忘れてはならない。

 その最たるものが「核」である。人類が「核」を保有したときから,人類は「神」の領域に踏み込んでしまった。自然界に存在しない(ということは「神」が創ったものではない)ものを人類が「創って」しまったのである。その結果が,原子爆弾であり,原子力発電である。それと同じ路線を歩んでいるものがiPS細胞だ。そして,いま話題の・・・・へとつづく。

 なにが言いたいのか。コンピューターソフトもまた自然界には存在しなかった「人工頭脳」なのだ。そして,あくまでもそれは「モノ」である。つまり,純粋に「人為的」な物理的存在である。もっと言ってしまえば,それは「自然存在」ではない。それに引き換え人間の頭脳は自然界のなかで育まれたものであり,「生きもの」としての「自然存在」なのである。

 「存在」の「次元」が違う,と最初に書いたことの意味はこういうことである。

〔追記〕
 チェスをはじめいわゆる盤上遊戯は,ヨーロッパでは「スポーツ」の概念に含まれている。その考え方にしたがえば,日本の将棋も立派なスポーツである。その意味で,わたしにとってはこの「電王戦」は他人事ではないのである。
 もう一点。この「電王戦」で戦っているコンピューターソフトは,市販されている将棋盤や将棋の駒には対応できない,ということだ。特別の,コンピューターソフト用の将棋盤と駒でないと,将棋は指せない。このことも忘れてはならない。

葛西臨海公園に五輪用カヌー施設だって。たった数日の競技のために。

 
葛西臨海公園の写真が今日(6日)の東京新聞紙上で紹介されました。月1回,東京都の各地の注目の場所を新聞社のヘリから撮影し,その地の話題を紹介するシリーズ企画です。今回は,「東京湾に面して緑の広がる葛西臨海公園」(本社ヘリ「おおづる」から川上智世撮影)でした。写真の中央上部にうっすらと「東京スカイツリー」が写っています。右奥から左河口に流れている川は荒川。中央の緑地帯が葛西臨海公園。その手前にみえるのが「葛西海浜公園・東なぎさ」,その左奥にみえるのが「西なぎさ」。

 この「野鳥の楽園」が正念場を迎えている,というのです。なぜなら,この葛西臨海公園の一角に,2020年東京五輪用のカヌー会場が予定されているからです。しかも,人工的に「激流」を流すことのできる五輪公認の施設を,ここに建造しようというのです。しかも,たった数日の競技会を開催するために。

 東京都には青梅市に立派な自然のままの野趣に富んだカヌー競技場があります(このブログでも紹介済み)。しかも,近年では国際的な競技会も開催されています。そこにわずかな資本を投ずるだけで素晴らしいカヌー競技場が出来上がります。しかも,半永久的に多くのカヌー・ファンが楽しむことができ,地元青梅市の活性化にもつながります。わたしは,ここ青梅市で,五輪のカヌー競技を開催すれば一挙三徳になる,と考えています。

 新聞の記事は短いので転載しておきます。
 荒川と旧江戸川に挟まれた深い緑の森が,東京湾に突き出るように広がる。先月下旬には春を告げるツバメが飛来した。
 東京ドーム17個分の広さがある23区最大級の公園は1989年にオープンした。都が埋め立てた土地が家族連れらの憩うウォーターフロントとして整備された。マグロが回遊する水族園,高さ117メートルの日本最大の観覧車で知られているが,カワウやカワセミ,カルガモ,春はシギの仲間も観察できる「野鳥の楽園」としての顔もある。
 整備時,ハゼや水鳥が暮らす環境を守ろうと,埋め立て域を縮小し干潟を残した経緯がある。これまでに200種以上の野鳥が確認され,対岸の東なぎさには,世界に3000羽しか生息しないというクロツラヘラサギも立ち寄るまでになった。
 「人の手で造り上げたせっかくの自然。将来も野鳥のすめる環境を残したい」。週末に野鳥解説をするNPO法人生態教育センターの大原庄史(まさし)さん(31)は話す。公園は2020年東京五輪のカヌー会場の予定地となり,影響が心配されている。自然は守れるのか。再びの正念場だ。(奥野斐)

 ここに五輪用のカヌー施設を建造するというのです。しかも,なにもないところに水をくみ上げ,そこから落として激流を生みだそうというのです。途中には人工的に岩をセットしたり,カーブをつけたり,とさまざまなデザインがこらされるはずです。距離も相当の長さが必要でしょう。しかも,五輪会場となれば相当の広さの駐車場も確保しなくてはならないでしょう。となると,この葛西臨海公園の大半がカヌー競技場のために「改造」されてしまうことになります。それは,もはや,大いなる環境破壊としかいいようのない暴挙です。

 それもこれも東京五輪のためなら,と当局に無視されています。この暴挙によって,25年もかけて「野鳥の楽園」をつくりあげてきた,その努力も水の泡となって消えてしまいます。東京都の貴重な財産を,たった数日のカヌー競技会のために,ご破算にしてしまって平気な人たちが,2020年東京五輪を開催し,運営しようとしているのです。これはもう狂気の沙汰としかいいようがありません。

 その狂気の最たるものが「新国立競技場」の建造をめぐる一連の不祥事です。それについても,なんの弁明もありません。もっと言ってしまえば,その責任の所在すらあいまいにされたままです。ですから,だれも責任をとろうともしません。フクシマで起きていることとまったく同じことが,東京五輪でも行われようとしています。「under control」も同罪です。しかも,これらを断罪する意見は「空虚な議論」(安倍首相の発言)として排除しておしまいです。

 いよいよ,この国は「カタストロフィ」に向かってまっしぐら,と言わざるをえません。いつになったら,多くの国民が身に危険を感ずるようになるのでしょう。それまでは「盲目的に」突き進んでいくしかないのでしょうか。困ったものです。
 

2014年4月6日日曜日

IOCの視察団(調整委員会)の役割とはなにか。単なる大名旅行にすぎないのでは・・・・?

 4月5日(土)の新聞に「20年東京五輪へ準備状況問題なし」,IOC調整委員長,という小見出しの小さな記事が載っていた。わたしは恥ずかしながらIOC調整委員会なるものの存在を知らなかったので,慌てて調べてみた。すると,IOC理事会の下部組織として位置づけられた各種委員会の一つであることがわかった。しかし,なにを,どのように「調整」するのか,その役割については知ることができなかった。IOCのHPにも記載はなかった。

 わたしたちは,IOCといえば権威ある国際機関と思いがちであるが,じつはそんな大それた組織でもなんでもないのだ。その実体は,NGO(非政府組織)のNPO(非営利団体)にすぎない。そして,その運営資金は主として放送権料販売とスポンサーシップ収入である。ちなみに,IOCを最初に組織したクーベルタンが会長をつとめていた1925年までは,クーベルタンが個人的に呼びかけて組織した仲良しクラブのような存在であった。運営資金はクーベルタンが個人ですべてを引き受けていた。つまり,きわめてプライベートな組織だったのである。その性格は基本的にはいまも変わってはいない。

 そのIOCの理事会の下部組織である調整委員会のメンバーが視察団として来日し,東京五輪の準備情況を三日間にわたって諮問したり,視察したり,事務折衝を行った,というのである。その記者会見で,IOCのジョン・コーツ調整委員長は「非常に生産的な3日間だった。全てに感服した」と満足感を示し,「現時点で準備状況に関する問題点や要望は<特になかった>」というお墨付きを下した,と新聞は報じている。

 この記事を読んで,思わず「おやっ?」と首を傾げてしまった。
 結論から言っておこう。IOC調整委員会による視察・折衝は単なる大名旅行にすぎなかったのではないか,とわたしは疑念をいだいている。

 手厚い接待をうけ,上等のお土産をもらって,「よくやっている」というお墨付きをわたして,はい,さようなら・・・・これが実態だったのではないか,と。

 この記事の末尾には「IOCは今後も招致時の公約が守られているか監視するとともに,組織委に助言を行う」とある。これを読むかぎりIOCは日本の組織委員会に対して絶対的な権力をもっていることがわかる。IOCの監視や指導・助言は絶対的で,それらを五輪開催国は無条件に受け入れることになっているのだから。

 もし,この考え方に則って,このIOC調整委員会が厳正に仕事をしたとすれば,「準備状況問題なし」という結論にはいたらなかったはずだ。

 第一に,安倍首相がIOC総会で公約した「under control 」について,どのような諮問がなされ,視察がなされたのか。フクシマの事態は,あの総会のときよりもさらに「悪化」の一途をたどっている。この事実を調整委員会は把握したのだろうか。しかも,この事態がつづくかぎり,20年にはさらに「悪化」している可能性がきわめて高いのだ。場合によっては,東京五輪への参加を拒否するアスリートが現れることも十分に予測できる。

 第二に,新国立競技場建造に対して,根源的な疑義が専門家集団によって提起されているにもかかわらず,それに対する説明責任も果たされないまま放置されている,この事実について調整委員会はどの程度まで把握できているのだろうか。

 第三に,五輪関連施設を建造するための資材も労働者も圧倒的に不足しており,それらを補うとすればその予算規模は雪だるま式に膨らんでいく,と予測されている。最終的には間に合うかどうかという危惧さえ,一部ではささやかれている。

 第四に,新国立競技場のデザイン・コンペに関する審査過程がきわめて杜撰なものであったこと,建造物の高さ制限も事後になってから法改正を行うという,一連の不祥事についても当事者たちはすべて「だんまり」を決め込んでいる。こういう人たちが20年の五輪開催をになっているという事実を調整委員会のメンバーたちは,はたして承知しているのだろうか。

 というような具合に,IOC調整委員会が本気で「監視」し,「助言」をするとなれば,きわめて厳しい評価・判定がなされたはずである。しかし,これらには目をつむり,あるいは,なにも知らないまま「準備状況問題なし」とお墨付きを与えたとすれば,かれらのやったことは単なる「物見遊山」であり,単なる大名旅行にすぎなかったのではないか,と思わざるをえない。

 そして,これらの視察団の接待費はどこからひねり出しているのか,それさえ明らかにはされてはいない。それは「招致運動」に要した費用も同じで,その出所も額も明らかにはされなかった。これからも,何回にもわたって「調整委員会」はやってくる。そして,そのつど,莫大な経費を必要とする。それでいて,監視も助言も形骸化した,ほとんどなんの内実もないものでしかない。そして「すべてに感服した」を繰り返すだけの話だとしたら,調整委員会とはいったいなんなのか。いかなる役割をになっているのか,その能力はあるのか,という疑念が際限もなく湧いてくる。

 メディアにIOC調整委員会の存在を「批評」するだけの力量がないのが残念だ。こうして,ほとんど意味のない「物見遊山」が繰り返されることになる。五輪もまた「カタストロフィ」に向かってまっしぐら,そんなイメージを抱くのはわたしだけなのだろうか。 

2014年4月5日土曜日

からだ再発見。壊れたからだを復元するということ。わが「解体診書」・その1.

 全身麻酔をし,自呼吸を止められ,4時間にわたる手術を受け,麻酔から覚めて自呼吸にもどったものの,三日間は絶対安静・・・・この間にわたしのからだは完全に「0(ゼロ)」にリセットされてしまったらしい。まあ,「0」はオーバーにしても,からだの多くの機能が極端に低下してしまったことは間違いない。そのからだを復元するということはたいへんなことなのだ,ということを最近になってしみじみと理解しはじめている。つまり,かなり元気になってきて,初めて気づくのである。からだとは不思議なものだ。

 術後三日目には,尿管をはずされ,自分でベッドから起き上がってトイレに行け,と命令される。腹筋のど真ん中を縦一直線に20㎝ほど切り開いて,胃の摘出手術を受けた,その傷も十分には癒えてはいないはず。でも,おおよそのところはくっついているらしい。だから,医者は自力で起き上がれと命ずる。でも,わたしの腹筋は激しく拒絶する。ほんの少し頭を持ち上げただけで,腹筋が痙攣を起こし,ひきつって硬直したまま,どうにもならない。それでも起き上がれという。このときの格闘ぶりは,いつかまた詳細に書いてみたいほどだ。

 が,まあ,これもなんとかクリアして,腹筋の痙攣から解放されるには4日間を要している。つまり,術後一週間で腹筋も胃も,その接合部分がほぼ完治したらしい。そして,術後5日目には重湯を主体とした食事がはじまる。ほんの少し口にしただけで,胃はもういい,という。でも,ゆっくり時間をかけて,とにかく食べろと医者はいう。なんとか努力して,出された食事を平らげる。これは意思の力だ。味もそっけもない食事。味覚不在。

 しかし,不思議なもので,食事をはじめて二日目には味覚がほんの少しだけもどってくる。こうして徐々に微妙な味覚がもどってくる。が,胃がはたらいているという感覚はまったくない。胃の三分の二は切り取ってしまったので,胃は斜めにぶらさがっているような状態だという。だから,食べたものはほとんど通過するだけで,すぐに十二指腸から小腸へと受け継がれていくらしい。

 が,その腸にしたって,全身麻酔をかけられ,一時機能停止をして休業状態になっていたわけだ。そこにいきなり食べ物が流れてきても,さて,どうしようという状態らしい。なぜなら,最初に食べた重湯が通過していくときに,ところどころでえもいわれぬ痛みを感ずるのである。きたぞ,きたぞ,でもまだ準備ができていない,とでも言っているかのように。まさに通過儀礼そのものだ。

 食事がはじまると,重湯,三分粥,五分粥というようにして一日ごとにランクが上がっていく。そのうち,下腹部の膨満感に襲われる。手で触ってみると,下腹部がぱんぱんに張っている。それもそのはず,術後,ガスも便もでないのである。医者に言うと,病院の廊下を歩けという。そうすれば代謝がよくなり,ガスも便もでる,と。この話は納得できたので,すぐに実行。この効き目は天下一品。すぐにその恩恵に浴することができた。ならば,と気をよくして毎日,せっせと歩く。

 食事をしたあと,腹ごなしを兼ねて歩く。ゆっくりゆっくり歩く。が,わずかに200mほど歩いただけで(廊下を一往復),くたばり,病室にもどるとすぐにベッドに横になる。そして,あっという間に熟睡している。やはり,ゆっくり歩くだけで,相当にからだには負担になっているらしい。また,食べたものを消化するために全力をあげる消化器官も相当に負担になっているらしい。だから,ぐったりきてしまう。いま,考えてみれば,幼児が歩くことを覚えて嬉々として歩くが,すぐに疲れて眠ってしまうのと似ている。

 しかも,自分の足で歩いているつもりなのに,どう考えてみても他人の足でしかない。それもゆっくりでしかない。姿勢も腰が引けている。鏡に写るおのれの姿をみて愕然とする。意識としては,まだ,若いつもりでいるのに,その姿は完璧な老人のそれである。これはショックだった。以後,虚勢をはって姿勢を正し,できるだけ大股で歩こうと努力する。が,足の感覚は他人の足だ。思うようにはいかない。情けなくなる。

 でも,その努力は意外に早く報われる。またたくまに,姿勢もよくなり,歩く距離も長くなる。しかも,疲れも少なくなる。すっかり気をよくして歩いている姿を医者がみかけたらしい。翌日の朝の回診の折に,採血した検査結果の数値を確認しながら,突然,明日にも退院していいですよ,という。えっ,とわたし。そんな急に言われても困ります。少し考えさせてください,と懇願。

 しかし不思議なもので,退院してもいい,という医者のことばもどうやら「薬効」のうちに入るらしい。わたしのからだは三段階くらいスキップして,急激に元気になる。廊下を歩いていても,元気なころとまったく同じではないか,といま考えると錯覚している。急に自信がつく。

 翌朝の回診のときに,では,明日,退院させていただきます,とみずから宣言。もう,そう言い切れるからだになりきっている。実際はそうではなかった,ということをあとで知ることになるのだが・・・。空元気のまま退院。術後,10日目のことである。やはり,どう考えてみたって早すぎる。でも,そのときは暗示にかかったように元気そのものだった。からだというものは気持のもちようで,いかようなからだにもなりうるということを知る。どこも悪くないのに重体だと言われれば,一気に重体のからだの気分になり,からだもまた重体になってしまうのではないか,といまは思う。

 退院はしてきたものの,自分で思ったほどにからだは回復してはいなかった。一度,壊れたからだがもとに復するということはたいへんなことなのだ,としみじみ考えた。病院にいるときは大船に乗った気分でなんの不安も感じなかったが,退院して,たったひとりで自分のからだと向き合うというのは,こんなにも不安なものなのか,とこれには驚いた。

 退院するときに,薬もなにもくれなかった。あとは,栄養の管理を上手にやって,自力で回復させろ,ということらしい。退院のときの血液の量は,正常値の三分の二。まだ,だいぶ足りないとのこと。でも,あまり一気に輸血をするのもよくないので,あとは自力でとのこと。
 

 ということで,ひとまず今日のところはここまで。また,日を改めてこのつづきを書くことにしよう。

2014年4月4日金曜日

原発戯画「氷山の一角」(本田亮)に拍手。

 今日(4日)の東京新聞に新企画「原発戯画」(本田亮)が掲載されています。これから毎月第一,第三金曜日に掲載されるということです。いまからとても楽しみです。

 なぜなら,政府自民党はなし崩し的に原発再稼働に向かってまっしぐら。もはや,歯止めのきかなくなった暴走車のようです。となれば,国民がもっともっと目覚めて,声をあげるしかありません。そのもっとも分かりやすい覚醒のさせ方,それが「戯画」という方法です。戯れと見せかけてほんとうのことをずばりと言ってのける,そのもっとも秀でた方法です。しかも,わかりやすい。文章にくらべたら,はるかに簡単です。

 今日,第一回目の戯画のタイトルは「氷山の一角」。戯画はこのブログの最後のところに乗せていますので,ご確認ください。作者は本田亮さん。この戯画の下にはキャプションに相当する文章が載っています。山川剛史という名前入りの記名記事だとすれば記者の方でしょうか。この文章がまた簡潔に問題の所在を明らかにしてくれています。

 まずは,戯画の方に注目してみましょう。
 自然エネルギーと原発を「氷山」に見立てて,「あのねおっさん」(ひとむかし流行したおっさんの名前)のようなとぼけた顔のおっさんがボートの上に立ち,「発電コスト高いヨ!」と自然エネルギーの氷山の頂上を指さしています。こちらは氷山に見立ててはいますが,これは氷山ではありません。こんなに高く水面にそびえるには水面下の氷がもっともっと大きくなければなりません。が,そうは描かれていません。それは,まさに,政府自民党が「自然エネルギー」の方がコストは高いヨ,と言っていることの,とんちんかんな間違いをそのまま表現しているからでしょう。それに引き換え,原発の方は正しい氷山の絵になっています。

 原発の氷山の水面下には「地元への寄付金」「核燃料税」「核のごみ処分費」「損害賠償」「除染費用」「事故収束費」などが隠されていることを描いています。ほんとうは,もっともっといくつもの費用がかかっているのですが,あまりに多すぎてとてもこの氷山の上に書き込むことはできません。それらは省略されています。

 それを補うようにして,山川剛史さんのキャプションが生きています。原発のコストは安くて,自然エネルギーのコストは高い,というのは完全なる「神話」であって,実際はこうだという裏付けの証拠をあげています。たとえば,文末に書かれていることばを引いてみましょう。

 「福島事故の現時点の被害額は,事故収束(廃炉)の費用が一兆五千億円,賠償費用が三兆五千億円,除染費用が三兆五千億円の計八兆五千億円。まだ増えるのは確実。こうした真のコストは水面下に隠れている。」

 この単純明快さがいい。問題の核心がわかりやすく提示されるのがいい。

 原発再稼働の動きに対しては,再稼働対象原発をもつ地方自治体ではなく,そこに隣接する地方自治体(交付金対象にはならない自治体)が市長の名前で訴訟を起こす動きが活発化しています。これは当然のことで,反原発運動は東京の市民運動だけではなく,各地の再稼働対象原発の周辺自治体を中心とした運動に拡大・拡散されていくことは必定でしょう。この動きがこんごのゆくえを左右するとわたしは考えています。

 「カネと命」のどちらが大事なのか,子どもにもわかる理屈をひた隠しにして,原発がなければ生きてはいかれないかのような詭弁を弄して,経済最優先を掲げて国民を欺こうとする政府自民党,経済通産省,原子力ムラの魂胆がどれほど悪意に満ちたものであるか,そして,それらに「自発的に隷従」するメディア,アカデミックな学界も同罪です。そういう厚顔無恥な輩が百も承知の上でひた隠しにしている諸矛盾をこの「原発戯画」が解きほぐしてくれることを期待したいと思います。

 まずは,この「原発戯画」がはじまったことを言祝ぎたいと思います。

 
新聞の切り抜きです。
新聞紙が薄いのでシワシワ。
これもまた東京新聞の重要な主張の表出。

2014年4月3日木曜日

『新国立競技場,何が問題か』(槙文彦・大野秀敏編著,平凡社,2014年3月刊)を読む。

 ひところ,かなり大きな話題になった新国立競技場に関する情報が,ここにきてパタリと流れなくなった。水面下でとてつもないことが起きている,とわたしは睨んでいる。なぜなら,新国立競技場に関する情報を調べていけばいくほど,こんなでたらめな,じつに杜撰な経緯で建造を決定したその経緯がわかってくるからだ。この経緯がすべてオープンにされ,そのすべてがあからさまに世間に報道されたら,東京都民のみならず国民のだれもが腹を立てて,計画の見直しを要求することになるのは必定だ。


 だから,まるで秘密保護法による特別秘密指定事項であるかのごとき扱いを受け,肝腎なことはなにひとつとして公開もされなければ,説明もない。メディアが情報の公開を求めると,近日中にHP上に掲示するのでそれまで待ってほしい,という。それからすでに半年も経過しているが,なにも公開はされていないという。このままでは,東京都民も国民もなにも知らされないまま,新国立競技場は建造されてしまう。国民不在のまま,なにか空恐ろしいことが粛々と進展していく。


 そんな不気味な雰囲気と関連しているのか,不思議なことに,この本の編集担当者の名前がどこにも記されてはいない。出版元の平凡社に対する謝辞もない。ひょっとしたら,編集の途中でどこかから横やりが入り,編著者と出版社の間になにかトラブルが起きたのではないか,と勘繰りたくなってしまう。中に掲載されている写真や図版も,クレジットが書き込まれているものと,なにも書いてないものとが混在している。明らかに編集の乱れ(手抜き)である。つまり,本の体裁をなしてはいないのだ。なぜ,こんな本を平凡社は刊行したのだろうか。そして,編著者もそれでよしとしたのだろうか。不思議である。


 あの理化学研究所ですら,ありえないことが起きている。どこか箍がゆるんでしまって,組織として機能しなくなってしまった,とでもいうのだろうか。いったい,なにがどうなっているのか,まったく,わけがわからない。


 これと同じようなことが,この新国立競技場建造の中核で起きている。その中核をなす組織は「日本スポーツ振興センター」である。もう少し精確にいえば,この組織の下に「国立競技場将来構想有識者会議」を発足させ(2012年3月6日),ここが中心となって新国立競技場建造の話が進められ,いまも進行中である。委員長は元文部事務次官佐藤禎一氏,石原慎太郎前都知事,建築家は安藤忠雄氏のみ。あとのメンバーは建築や都市計画に関しては素人ばかりだという。


 そして,2012年7月20日には,新国立競技場基本構想国際デザイン競技募集要項交付。その中心的役割をになったのは言うまでもなく安藤忠雄氏である。そして,わずか4カ月後の11月16日には最優秀賞案の発表と講評が行われている。このときの審査過程もじつに不透明で,最終審査会にはイギリス人の委員2名は欠席のまま,日本人委員だけで最終結論を出した,と言われている。あえて言うまでもなく,安藤忠雄氏の意のままであった,と推測されている。しかも,その「講評」もきわめて簡単なものであった,という。


 その後,もっと詳しい審査の経緯についての説明を求めたが,安藤忠雄氏は応じていない。にもかかわらず,2013年4月には基本設計開始,つづいて5月7日には第201回東京都都市計画審議会を開催し,神宮外苑地区の地区計画を決定している。ここでなにが行われたのかといえば,神宮外苑地区は長い間,歴史的風致地区として建造物の高さ制限が他の地区よりも厳しかったが,コンペで最優秀賞となった巨大な建造物を可能とするために,それに合わせて高さ制限を緩和することを決定しているのである。つまり,本末転倒である。


 これを見届けた上で,槙文彦氏が『JIA MAGAZINE』(日本建築家協会機関誌・295号)にエッセイ「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」を発表(2013年8月15日)。これは東京五輪招致決定前のことである。つまり,東京五輪招致が決まる・決まらないに関係なく,デザイン・コンペの手続きとその審査結果の不可解さを取り上げて,建築家の意見を問うたものである。


 しかし,翌月の9月7日に東京五輪招致が決定したので,この化け物のような巨大建造物がにわかに現実味を帯びることとなった。その結果,槙文彦氏のエッセイが一気に注目を集めることとなり,メディアも大きく取り上げた。その流れを受けて,槙文彦氏を中心とする建築家が集まり,急遽,シンポジウムを開催するとこととなる。興味深いのは,このシンポジウムに安藤忠雄氏の参加が呼びかけられたが,拒否された,という事実である。なにゆえに?


 それが,2013年10月11日に開催されたシンポジウム「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」である。本書は,槙文彦氏のエッセイと,シンポジウムのプレゼンテーション(および質疑応答)とを中心に編集され,刊行されたものである。サブタイトル「オリンピックの17日間と神宮の杜の100年」が効いている。巻末には「新国立競技場に関する要望書」および「新国立競技場計画に対する見解〔要望書附属資料〕」が付せられている。


 内容はけして過激な批判ではなく,きわめて穏便な槙文彦氏を中心とした人びとの理詰めの発言で構成されている。しかも,このシンポジウムを契機にして,市民運動まで展開されているというのに,なぜか,メディアは無視しつづけている。その意味では本書の刊行はきわめて重要である。なにが,どのように議論されたのか,ここにすべてが収録されているからだ。


 ひとりでも多くの人がこの本を読み,なにが問題なのかを熟知した上で,さらに大きな運動の輪が広がっていくことを期待したい。

2014年4月2日水曜日

手書きの手紙には温もりがある。「クンスト」Kunst ・考。

 Iさん,Hさん,Mさんと話をしているときに,Iさんが「手紙は手書きが一番」と切り出し,ひとしきり「手書き手紙」論が披露されました。もちろん,わたしも大賛成ですが,困ることが一つある,とわたし。それは手書きで手紙を書いている途中で文章がねじれてきて意にそわなくなることがある,しかも修正がきかない,と。すると,すかさずIさんは「だからいいんです」と仰る。


 手書きの文章は,その瞬間,瞬間のその人の気持がおのずから表出するからいいんです。多少,意にそわない文章になっていても構いません。それがその瞬間におけるその人のありのままの心情なのですから。それを修正する必要はまったくありません。いや,修正してしまったら元も子もありません。折角の心情がどこかに消えてしまいます。この心情こそが人と人とを結びつける,もっとも重要なポイントなのですから。


 手紙を下書きして,それを推敲してから清書する人がいますが,それは最悪です。同じ手書きの手紙でも,そこには乱丁も落丁もありません。味もそっけもなくなってしまいます。


 手書きの手紙のいい点はそれだけではありません。手書きの文字そのものがその人独特のスタイルをもっていて,そこからも伝わってくるものがあります。しかも,その時々の気持の置き所によって文字の勢いが変化します。嬉しいことを伝える手紙の文字はおのずから跳ねたり,躍ったりしています。哀しい内容のときには,それなりの文字になっています。文字は嘘をつきません。ですから,より直接的にその人の心情が伝わってきます。それがたまりません。


 このように考えると,ワープロによる手紙は最悪ですね。文字は画一的で個性が消えてしまいます。文章は推敲して,いかようにも加工ができ,その瞬間,瞬間の情動はどこかに消えてしまいます。流れるようなきれいな文章になってはいても,味がない。誤字・脱字がいっぱいある手書きの文章の味にはかないません。


 この話を聞きながら,わたしは反省することばかりでした。
 もう長いこと手紙というものを書いたことがありません。ほとんどのことはメールで済ませてしまいます。もし,どうしてもメールでは具合が悪いという場合でも,ワープロで文書を作成して,推敲し,プリントアウトしたものを封書にして済ませてしまいます。手書きの手紙は,もう,とんと書いた記憶がありません。


 考えてみれば,ワープロなるものが登場してから,手書きの手紙を書いた記憶がありません。ちょうど,ワープロがではじめたころに,恩師のK先生が「ワープロの手紙は味がないねぇ」と仰ったことがありました。そのとき冷や汗をかいたことをいまも鮮明に思い出します。ですから,K先生にだけは,手書きの手紙を書くようにしていました。それ以外は全部,ワープロ打ち出しの手紙でした。もらう手紙もほとんどはワープロ打ち出しでした。


 そんななかで,手書きの手紙をもらうととても嬉しいものです。くれた相手によっては小躍りしてしまいます。それはいまでも変わりません。それでいて自分では手書きの手紙を書きません。駄目ですねぇ。これからはこころを入れ換えて,できるだけ手書きの手紙を書くよう努力してみたいと思います。


 年賀状の表書きを,ことし初めて毛筆で書いてみました。かなり気合を入れて,毎日,少しずつ書きました。が,なんの反応もなくちょっぴり落胆。でも,受けとった人のうち何人かは喜んでもらえたのではないか,と自分を慰めています。これは,いただく年賀状の大半が,本文も宛て名も全部印刷されたもので,味もそっけもない,ましてやその人の人柄がどこにも見届けられない,せめて宛て名書きだけでも・・・・,という反省に立ってのものです。
 
 まあ,どこまでできるかはともかくとして,手書きの手紙が激減してしまったことの意味を考えざるをえません。やはり,カントのいう「クンスト」Kunst の復権が,ここでも重要なのだ,といまさらのように思い知らされます。この問題は些細なことではすまされない,きわめて重要なことなのだ,といまになって気づきました。


 遅きに失した感もなきにしもあらずですが,気づいたときが吉日と考え,少しずつ実行に移すよう努力したいと思います。

2014年4月1日火曜日

カントの「クンスト」Kunst について。技,芸術,技芸,巧みさ,こつ,など。答えのない問い。「とりあえず」の応答。

 29日に開催された「今福龍太氏を囲む会」(「ISC・21」3月東京例会)で一貫して流れていたテーマのひとつに「クンスト」Kunst がある。


 この日のテクストとなった『映像の歴史哲学』のなかでは,つぎのように語られています。
 「・・・・人間を構成しているのは,大変な思想であったり,芸術であったりするよりもまず日常生活なのです。日常生活こそが人間の文化をつくりあげているひとつの技なのです。カントはこれを「クンスト」Kunst と呼んでいます。「クンスト」というのは技とも読めるし,芸術とも言えます。この「クンスト」を守り抜けるかどうかが,この戦争化した世界のなかでなによりも大切なのです」(P.191.多木浩二)。


 第一部の情報交換の場でも,Kunst が議論の対象となった。1920年代のドイツの体操改革運動の研究者であるSさんから,kuenstlerisch というドイツ語にどのような訳語を当てるかを考えていたら,『映像の歴史哲学』のなかにカントのKunst の話がでてきて,大きなヒントをもらった,という話題が提供された。Sさんの仰るには,Kunst の派生語である kuenstlerisch という形容詞は「芸術的な」という語釈と同時に「人為的な」という語釈が辞典に載っているので,つねに,この二つの語釈の間でこころは揺れ動いてしまう,といいます。たしかに,この二つの語釈はまったく逆の意味になっているので,訳語を間違えるととんでもないことになってしまいます。


 なぜ,迷ってしまうのかというと,Gymnastik 体操の練習プログラムのなかに,Vorschule という学習形態が組み込まれているのだが,それを kuenstlerisch に行うことが重要だ,と書いてあるからだ。で,まずは Vorschule の訳語をどうするかが問題となり,つづいて kuenstlerisch をどう解釈するかが問題となる,と。
 つまり,Vorschule を仮に「就学前の予備学習」と訳すとすれば,ではそれを kuenstlerisch (芸術的に,あるいは,人為的に)に行うとはどういうことなのか,という問題になる。


 したがって,この問題は,最終的にドイツ語の Kunst ということばをどのように解釈するか,というところに突き当たってしまう。
 わたしも若いころ,Gymnastik や Turnen に関するドイツ語文献を読んでいるときに,しばしば考え込んでしまったのが,この Kunst と kuenstlerisch ということばにどのような日本語を充てればいいのか,という問題だった。つまり,辞典の語釈だけでは対応できないのである。そこで苦肉の策として,辞典的語釈に近い日本語を探し出してきて,一つひとつあてはめてみる。そうやってテクストの文脈にもっとも適している日本語を編み出すことをやっていた。
 しかし,ここにカントのいう Kunst という概念を持ち込むと,もっと広義の解釈が可能になってくる。つまり,日常生活を支える Kunst とはなにかを考えればいい。朝起きてふとんを畳む(いまの若い人はベッド・メーキングか),歯磨きをする,顔を洗う,から始まって日常生活を支える身体技法は限りなくある。それらがすべて Kunst である,とカントは言う。なぜなら,それらの身体技法は日々繰り返しているうちに,無駄な動作がはぶかれ,しだいに精度が高くなり,必要最小限の身体技法に到達する。これがカントのいう Kunst ということの意味なのだろう。
 だとすれば、1920年代の体操改革運動のなかで主張された Vorschule を kuenstlerisch に実施するということの意味も具体性を帯びてくる。たとえば,就学前の子どもたちに,歩いたり,走ったり,飛んだりする運動を指導するとき,近代合理主義的な考え方による「正しさ」の枠組みのなかにはめ込むのではなく(「鋳型化」するのではなく),子どもの気持(感情や意思)がそのまま表出するような歩き,走り,飛びを導き出すこと,それが kuenstlerisch の内実ではないか,とわたしは考える。そこが Kunst が立ち現れる「場」なのだ,と。
 この時代のドイツの Gymnastik は,音楽とダンスと体操が渾然一体となったもので,その境界線はほとんどなかったというのが現状である。もう少し踏み込んでおけば,音楽教育のためのリズム体操が考えられたり,ダンス教育のための基本運動としての Gymnastik が模索されたり,あるいは逆に,硬直化し鋳型化してしまった Gymnastik を解き放つために音楽(リズム)やダンス(表現)を取り込む,といった試みがさまざまに展開した時代だった。それらをくくるキー・ワードが Kunst であり,kuenstlerisch であった。
 このように考えてみると,多木浩二さんのいう言語以前のことばの立ち現れる「場」(それは「写真」や「映像」の「場」でもある)や,ベンヤミンのいう Aesthetik (美学)や Aesthetisch (美的なるもの)の対象となる「場」とも通底していることがわかってくる。そして,当然のことながら,シュールレアリズムの主張とも通底している。ついでに言っておけば,バタイユのいう「動物性」(『宗教の理論』)の問題ともつながり,レヴィ・ストロースのいう「蟻塚」にもつながっていく。
 「新しい天使」が,強風に煽られながらも,名残惜しそうに「瓦礫」や「屑」にじっと視線(まなざし)を向ける,クレーの象徴的な絵画(これこそ,子どものこころがそのまま表出したような,一切の装飾を排除した,素朴そのものの絵だ)に反応したベンヤミンの感性,これに反応する多木浩二さんは「歴史の天使」として「写真」「映像」の歴史哲学を展開する。こうした感性が,この体操改革運動を主導した人たちの思考のなかにも通底していたのだろうと,わたしは考える。
 かくして,再度,振り出しにもどって,Gymnastik にとって Kunst とはなにか,という問いが大きな意味をもちはじめる。同時に,Gymnastik にとって kuenstlerisch とはなにか,という根源的な問いが立ち上がってくる。
 というわけで,今回の議論はここまでにして,次回(4月犬山例会)にでも,原典のテクストを前にして,具体的な解釈を試みてみたいと思う。