2010年9月30日木曜日

大相撲って,神事なの?

 大相撲が神事であると信じている人が,いまの日本人にどのくらいいるのか,どこかでアンケート調査でもしてくれるといいなぁ,と思いながら,ある雑誌の記事を読んだことがあります。
 ちょっとだけ古い話になってしまいますが,『文藝春秋』九月特別号のなかに,「大相撲賭博調査団の全報告」(特別調査委座長伊藤滋)という記事がありました。じつは,ここが読みたくてこの雑誌を購入したのではありません。芥川賞発表・受賞作全文掲載という新聞広告をみて,書店に急ぎました。毎年,芥川賞掲載誌のみは買って読むことにしているからです。なぜなら,芥川賞選考委員の人たちの「選評」がおもしろいからです。とりわけ,イシハラ君がとんでもない時代錯誤的な選評を書いてくれるので,最近では,たまらない楽しみの一つになっています。このことについては,このブログでも書いた記憶がありますので,これ以上は触れないことにしておきましょう。
 で,この芥川賞掲載誌を購入したら,たまたま,冒頭の記事が掲載されていたという次第です。「全報告」というから,これはおもしろそうだと思ってとびついたのですが,それがズッコケだったのです。参りました。なにからなにまで,参りました。この特別調査委員会座長の伊藤滋という人は,あとで知ったことですが,作家の伊藤整の息子さんだそうです。専門は都市計画学者だそうです(ご本人がこの記事のなかでそう言っています)。で,しかも大相撲については素人だと,みずから白状しています。多少,割り引いて聞くとしても,この記事を読むとほんとうに素人だなぁ,ということがわかってきます。そういう人がなぜ,「日本相撲協会賭博問題特別調査委員会座長」という重責をになうことになるのか,わたしには理解不能です。それは横綱審議委員会のメンバーの選出方法についても同様です。わけがわからない,というのがわたしの感想です。結果的には「仲良し倶楽部」にしかみえません。つまりは,「コネ」。それあるのみ。ほかには根拠らしきものが見当たりません。
 さて,愚痴はこのくらいにして,本題に入りたいと思います。つづく。

2010年9月28日火曜日

新田一郎さんの『相撲の歴史』再々読。

 新田一郎さんの『相撲の歴史』(講談社学術文庫,2010年7月)を再々読。いま,相撲の通史として読むにはもっともよい本。
 なんといっても,いまも土俵に立ち,学生さんたちと一緒に稽古をしている現役の力士であり,東大教授。相撲をこよなく愛していて,土俵だけでは足りず,テレビ観戦をしている奥さんを相手に,実際に相撲を取りながら「解説」をするほどの熱の入れよう。そのあふれるばかりの相撲への「愛」が,この本を読んでいてひしひしと伝わってくる。だから,読んでいて心地よい。
 それだけではない。新田さんは,いまは,法学部教授だが,もともとは文学部の日本史を専攻した人だ。しかも,中世法制史が専門。だから,古代の相撲節(すまいのせち)・相撲人(すまいびと)の制度がどのようにして成立し,中世に入って相撲節が制度的に崩壊し,相撲が見せ物化していく過程をみごとに解きあかしてくれる。
 新田さんの説によれば,相撲節によって一定の様式化をはたした相撲は,やがて庶民の娯楽として普及するところとなり,相撲人の系譜につらなる人たちは社寺の祭礼相撲へと転じ,次第に芸能化していった,という。しかも,その土壌は猿楽や能と同じで,地方の社寺を巡回する芸能集団を形成して相撲人の命脈を保った,という。したがって身分もきわめて低く,猿楽などと同様,賤民あつかいをされながら,地方の社寺の祭礼を彩る芸能の一つとして相撲が演じられていた,というのである。ところが,これまた猿楽と同様,武士の支配階級の目にとまり,お抱えの相撲人となっていく。ちょうど,観阿弥・世阿弥親子が,室町幕府の将軍足利義満に見出され,一気に世の注目を浴びたように,相撲もまた武士階級の娯楽として歓迎され,武家屋敷で貴賓を迎えての芸能の一つとして観賞されたというのである。
 つまり,新田さんの言うには,相撲は「芸能」となったことによって命脈を保つことができたのだ,と。そして,相撲は「芸能」になることによって,真の「相撲」となることができたのだ,という。このあたりの論の展開はとても魅力的で,ぜひ,ご一読をお薦めしたい。しかも,新田さんは,こんにちの大相撲も「芸能」でいいのだ,と言い切る。いや,「芸能」として磨きをかけることにこそ「大相撲」の価値があるのだし,存在理由があるのだ,ともおっしゃる。それに追い打ちをかけるように,大相撲が勝利至上主義に舵を切ったのは,天皇杯という賜杯制度が確立した1926年以後のことだ,という。それまでの大相撲は,勝負預かりや引き分けがいっぱいあって,勝敗の決着がつくものに迫るほどだったとか。優勝杯が授与されるようになってから,大相撲の取組の内容は一変したという。つまり,それまでの大相撲は,勝ち負けよりも「芸能」としての「技芸」のせめぎ合いをショウとしてみせていたのだという。
 断わっておくが,新田さんが,こんなに露骨に極論を展開しているわけではない。すべて,わたしが読み取って,編集すると,こういうことになる,という話である。お間違いのないように。つまり,新田さんの書かれた文章を丹念に読み込んでいくと,最終的には,こういうことが言いたかったに違いないというわたしの読解である。
 まあ,いずれにしても,この本はおもしろい。とりわけ,新田さんも書いていらっしゃるように,これまでの相撲の歴史書があまり取り扱ってこなかった「中世」に力点をおいているという点で,この本の存在価値がある。これから,もっと読み込んで,わたしなりの大相撲の改革問題について考えてみたいとおもう。そのための絶好の導きの書である。いまも,問題になっている「相撲は日本の国技である」という根拠は,どこにも見当たらない。1909年に国技館ができたときの「挨拶文」のなかにはじめて用いられたのが嚆矢となり,以後の国策の一環として,このことばが繰り返し喧伝されることになっただけの話だ,ということがこの本を読んでいくとよくわかる。とりわけ,第二次世界大戦を戦うための国策として,決定的な意味をもった,と。
 それが,こんにちまで継承されることの時代錯誤から,いまも多くの日本人は気づいていない。まあ,こんなことを考えるための材料がふんだんに詰まった好著。これからしばらくは,この本を手がかりにして,大相撲問題を考えてみたいとおもう。乞う,ご期待!
 

2010年9月27日月曜日

太極拳が線維筋痛症に効用があるそうな。

 今日の夕刊に(どの新聞とは言わない),「やさしい医学リポート」というコラムがあって,「線維筋痛症 太極拳の効用」という見出しの記事が載っている。
 この記事を読んで,思わず笑ってしまった。こんなレベルの記事を新聞社が平気で載せる,その無防備さに驚いてしまったからだ。書いたのは東北大教授〇野吉〇さん。記名記事なのでフルネームを書いて差し支えないのだが,こちらが恥ずかしい。記事の書き出しはこうだ。
 「線維筋痛症は全身の強い痛みを主な症状とする慢性の病気だ。原因は不明で,特効薬はまだない。この病気の症状の改善に太極拳が有効という論文がニューイングランド医学誌に8月掲載された。
 研究は米国の一大学病院で行われた。線維筋痛症の患者66人をくじ引きで太極拳群(33人)と比較群(33人)に分けた。患者は平均約50歳,病気にかかっている期間は平均11年だった。
 太極拳群には,一人の指導者による1回60分,週2回のレッスンを12週間続けた。自宅でも毎日20分以上の練習をするよう指導した。比較群には,線維筋痛症についての健康教育40分とストレッチ20分からなる1回60分の指導を,太極拳群と同じ回数行った。自宅でも毎日20分のストレッチをするよう指導した。」
 この段階で,ふつうの神経をもった人なら,これが医学誌に掲載されるような論文なのか,と疑問をいだくだろう。こんな比較をしてなにがわかるというの,と小学生でも疑問をもつだろう。いや,小学生だからこそ疑問をもつのであって,頭脳のマヒしてしまった大人たちにはなんの疑問もないのだろう。そして,ただ鵜呑みにして,太極拳はからだにいいらしい,という部分だけが口伝えに広がっていく。「たばこは肺がんになる」という医学の常識(この根拠はどこにもないということを実証した人がいることは以前のこのブログで書いたとおり)と同じだ。
 健康教育40分,週2回,計12週やると,線維筋痛症に効用があるとでもいうのだろうか。じゃあ,健康教育をすれば症状が改善される,ということになる。まあ,まったくないとは言わないまでも,あったとしても微々たるものだ。知らないよりは知っていた方がいい,という程度だ。それと,太極拳を実施することとを同列に比較することに,この大学病院の先生方はなんの疑問もなかったのだろうか。そして,この記事を書いている東北大学教授さんも,なんの疑問も感じなかったのだろうか。少なくとも,この記事を読むかぎりは,どこにも疑念をいだいている様子はない。
 それどころか,この記事の最後は,つぎのように括られている。
 「この研究は,米国立補完代替療法センターなどの助成で行われた。太極拳のような民間療法を評価するしっかりとした研究を,公費で行う重要性を感じさせる。」
 ここまで読んだとき,唖然としてしまった。どこまで,お狂いになっていらっしゃるのか,と。太極拳が「民間療法」だと。それを「評価する研究」を「公費で行え」とおっしゃる。いやはやあきれてものも言えないとはこのことだ。
 この記事には,カラー写真まで付してあって,雪の上で,防寒着に身を固めた(おそらく,ニューイングランドの)人たちが太極拳をやっている。「イエマフントゥン」という太極拳の典型的なポーズの一つをみてとることができる。間違いなく太極拳である。
 ついでに,少しだけ,太極拳について書いておきたい。太極拳は中国の伝統的な武術の一つであること。民間療法でもなんでもないこと。そして,日本に太極拳が紹介されたとき「健康体操」と銘打たれたために,ラジオ体操の中国版と受け取られたことは否めない。以後,日本には健康法としての太極拳と武術としての太極拳の二つの系譜が主流となっている。その違いを明確にするために,日本武術太極拳連盟を立ち上げ,こちらは「競技」をめざしている。オリンピック・北京大会では正式オリンピック種目にしようとしたが,間に合わなかった。すでに,世界選手権大会も開催され,ヨーロッパでもたいへんな人気を呼んでいる。
 それと,もう一点。武術太極拳は,素人が1時間も稽古をしたら脚の筋肉が疲労して,ときには動けなくなることもある。まして,毎日20分以上の稽古を義務づけている。初心者にこれを要求することは,太極拳の経験者であれば,それは無理だ,ということはすぐわかる。わたしは,太極拳の稽古をはじめてからことしで6年目に入る。少なくとも,最初の3年くらいは,週1回,1時間の稽古で,3,4日は脚の筋肉痛とたたかった。4年目に入ると,ようやく,太極拳をする身体になじんできて,心地よくなってきた。1週間に1回は自分で稽古しなさい,と薦められたが,それができるようになったのは4年目に入ってからだった。5年目に入ると,ほぼ,「太極拳する身体」の基礎ができあがり,自主稽古の回数も増やすことができるようになった。それでも3日,あるいは4日,続けて稽古したら1日はからだを休めるようにしている。そこに落ち着くまでには,いろいろと稽古の「やりすぎ」で痛い目にあっているからだ。
 まあ,年齢のことを割り引くとしても,初心者が,1時間の稽古を週2回,そして,毎日20分以上の自主稽古を12週,さらに,24週とつづけることは,6年目に入ったわたしでも考えられない。ときおり,わたしの耳にも聞こえてくる「太極拳をやって膝を悪くしてしまった」という高齢者は少なくない。わたしの太極拳の老師は,準備運動だけでたっぷり30分はかける。それから,ようやく気功を5分ほど,そして基本の稽古を15分ほど,本命の24式は5分もあれば終わる。そして,さらに整理運動をしっかりと行う。最初はこの意味がよく理解できなかったが,いまは,痛いほどよくわかる。これをきちんとやっていれば,「膝を悪くする」ということを回避できる。わたしの出会った太極拳愛好者の話を聞くと,一般的に準備運動にかける時間が少ない。この準備運動だけで,最初の半年くらいはつらかった。
 太極拳は,ゆっくりとした動きなので,手抜きをして重心の位置を高くすれば,ふつうに歩くことと大差はない。だから,ひとくちに太極拳と言っても,その実施内容は千差万別である。重心を下げて,気持ちを集中して,からだの声に耳を傾けながら,よりレベルの高い太極拳をめざすとなると,これは並大抵のことではない。わたしは,いま,足首の固さ(先天的に固い)の限界と闘いながら,太極拳の可能性をさぐっている。6年目にして,ようやく手にすることができた一つの境地のようなものが,ほんの少しだけみえてきた。それでも1時間以上の稽古は無理だ。あとは,手抜きをするだけで,無駄である。
 すると,ニューイングランドで行われている太極拳と,わたしのめざしている太極拳とは別物と考えた方がよさそうである。
 以前から,スポーツ医学や運動生理学などで,鍛練群と非鍛練群とを分けて,比較研究する方法論そのものに疑問を感じていた。問題は鍛練内容の強弱の内容の精度にある。しかも,これを数量化して,統計処理をする。ときには,この数字はとんでもない「化け物」になっていることがある。そのことに研究者が気づいていないとたいへんなことになる。実験とは,あくまでも,ある特定の条件のもとでの結果であって,それに普遍性をもたせることの「危険」にもっと慎重であってほしいと願う者である。

2010年9月26日日曜日

白鵬の偉業をこころから讃えたい。でもね・・・。

 今日,千秋楽を迎えた大相撲は,横綱白鵬の4場所連続全勝優勝,しかも,62連勝という輝かしい記録とともに幕を閉じた。この調子なら,来場所も全勝,そして,77連勝も不可能ではない。
 なぜなら,朝青龍がいなくなってしまって,いまや,白鵬を脅かす力士がひとりもいないからだ。いまごろになって,日本相撲協会は朝青龍を残しておくべきだった,とほぞを噛んでいることだろう。いまや,向かうところ敵なしだ。千代の富士を引退に追い込んだ貴乃花のような若手の力士がいない。この調子では,100連勝も不可能ではない。
 しかし,ひとことだけ言っておかなくてはならないことがある。それは,白鵬がずば抜けて強い,ということではないということ。そうではなくて,他の力士があまりにも弱いというだけのこと。わたしは個人的には白馬富士に期待を寄せていたが,どういうわけか,その後の伸びがない。なにか目標を失ってしまったような相撲をとっている。そうではないだろう。もっと,真っ正面からぶちかましていって,そのあとの変化だろう。当たりが弱すぎる。あれでは,そのあともなにもできないし,勝てない。それ以外には白鵬を脅かす力士はいない。だから,このまま,だらだらと勝ち星を重ねるだけになってしまう。なんとも,迫力のない土俵がつづくことになる。
 相撲は,やはり,実力が伯仲していて,やってみないことにはどちらが勝つかわからない,これが基本だ。はらはらどきどきするから面白いのだ。それがなくなって,まあ,よほどのことがないかぎり白鵬が勝つなぁと思ってみているテレビは面白くない。千代の富士が全盛の時代は,強い力士がきら星のごとくいた。だから,ひょっとしたら千代の富士は負けるのではないか,といつもはらはらどきどきしながらテレビを見入っていた。熱烈な千代の富士ファンとしては不安で不安で仕方がなかった。いま,わたしは白鵬のファンである。しかし,少しもはらはらどきどきしない。相手があまりにも弱すぎるからだ。負ける気がしない。だから,あとは,どんな取り口で勝負をつけるのかな,ということしか楽しみがない。これではいけない。一番肝腎な「ドキドキ」感がない。
 だから,本場所まで見に行こうともおもわない。ましてや,テレビを見ようともおもわない。どうせ,白鵬が勝つに違いないと確信しているから。結果があらかじめわかってしまうほどつまらないことはない。スポーツは「やってみなければわからない」からこそ面白いのである。もう一度やったら,どちらが勝つかわからない,それがスポーツの醍醐味だ。
 白鵬が負けるとしたらどういう場面か。残りの楽しみはこれしかない。これから白鵬の連勝記録は限りなく伸びていくことだろう。そのことによって,いっときは,大相撲人気は高まりをみせるだろう。しかし,それに寄り掛かっていると,それが大相撲の命取りになりそうだ。なぜなら,なんの異変も起きない,想定どおりの土俵は面白くないからだ。
 ここにきて,朝青龍という横綱の存在がどれほどのものであったか,多くの人が気づきはじめていることだろう。かれは,勝っても負けても,絵になった。あの全身から溢れ出てくる気迫,仕切り直しのたびに少しずつ変化する肉体,そして,最後の仕切りでは,顔つきまでが極限状態に入る。もう,これだけで充分だ。わたしは,ここまでで,すでに満足している。しかも,立ち上がってからの相撲は,まったく予測がつかない。なにが起こっても不思議はない。まるで,ダンスのコンタクト・インプロビゼーションを見ているような楽しみがあった。相手の出方次第でいかようにも対応する。からだが勝手に反応する。自分でもよくわからない,と朝青龍は応答したことがある。これがみていて面白い相撲なのだ。
 もちろん,間違いなく白鵬は偉大な横綱だ。相手に付け入るスキを与えない。こういう相撲もあっていい。どちらかと言えば玄人好みの相撲。かつて,輪島が全盛時代にこういう相撲を取った。少し長い相撲であったが,負けない相撲を取った。じっくりと構えて,相手がいやがるところを攻めて,いつのまにか自分得意の型に持ち込む。そこから勝負にでる。絶対に負けない相撲という点では,いまの白鵬は申し分ない。だから,その相撲を楽しむことはできる。しかし,それだけでは面白くないのである。
 今場所,一度だけみせた「呼び戻し」の大技。ただし,場内アナウンスは別の決まり手をとった。そんなことはどうでもいい。もっとも大きな技,たとえば,「仏壇返し」のような技をやってほしい。そうすれば,間違いなくお客さんは入る。わたしも重い腰を上げてでかける。大技を,この眼でみてみたいのだ。連勝記録もさることながら,わたしは大技をみたい。早く,どこかで負けて連勝記録が止まったら,この大技がでるのではないか,むしろ,こちらの方が楽しみである。そして,その方が大相撲のためにもなる。ファンも増える。
 白鵬は間違いなく歴史に残る名横綱である。それも,とてつもない記録を残すことによって。しかし,記録だけを追っていると,相撲の醍醐味を失ってしまう。ないものねだりになってしまうが,白鵬には,その両方を追ってほしい。そのときこそ,前人未到の名横綱の名をわがものとすることができるだろう。そして,だれもが尊敬のまなざしを向けるだろう。
 とりあえず,おめでとう! のエールだけを白鵬に送っておきたい。
 そして,いつか,直接会って,話をしてみたい。

2010年9月25日土曜日

朝日新聞さん,どうしちゃったの?

 新聞を実名で批判するのはあまり品のいいことではないと承知しつつも,書かずにはいられないので,あえて書く。朝日新聞さん,どうしちゃったの?
 まえにも,このブログで少し書いたので記憶に残っている方も多いとおもう。が,あえて,もう一度だけ書いておきたい。
 この数日間,毎日のように「イチロー」記事のオンパレードである。それも大きな写真を飾って,ほぼ全面をつかって「イチロー」記事で埋めている。いつからスポーツ新聞になってしまったのか,と嘆かわしい。その分,世界の動向は陰になってしまって,なにもわからなくなってしまう。朝日新聞の存在理由はどこにあるのか,よくよく考えてもらいたい。これではスポーツ新聞とほとんど変わらない。ときおり,これは,とおもわせるようないい記事が載るが,あとは,ほとんど読まなくて済む。重要なニュースは,その多くは前日の夜にはインターネットでみている。だから,朝刊を手にしたとき,ときどきデジャ・ヴュのような錯覚を起こすことがある。しかも,あまり情報量がない。もう少し詳しく書いてくれれば・・・とおもうのだが。
 いま,世界でなにが起きているのか,大手新聞社はもっと真剣に取り組んでほしいとしみじみおもう。なぜなら,16日から21日まで沖縄に滞在していた関係で,ホテルのロビーにおいてある「琉球新報」と「沖縄タイムス」の2紙を読んでいた。そして,眼からうろこ,という体験をした。この何十年間という長い間,朝日新聞を購読してきたために,いつのまにやら,わたしの頭は朝日新聞的なニュースのアンテナの張り方にすっかりなじんでしまっていたのだ。ところが,「琉球新報」や「沖縄タイムス」は,その報道の姿勢が,朝日新聞とはまるで違うのだ。なんと,つねに「沖縄」という立ち位置をしっかりと固め,そこから「ヤマト」を眺め,「台湾」「中国」「韓国」という近隣諸国を視野に入れ,「アフガニスタン」「イラク」の動向にアンテナを張っている。そして,その中核になっているのは,「米軍基地」を抱え込んでいる住民の共通の要求に応えるべく,「アメリカ」に関するかなり詳しい情報が,きちんと書かれている。たった6日間の沖縄滞在でしかなかったが,「琉球新報」や「沖縄タイムス」を読んだお蔭で,かなり世界をみる視野が広がったようにおもう。朝日新聞ではとても得られない「世界」に関する情報が満載なのである。
 ヤマトンチューは「平和ぼけ」している,「経済ぼけ」している,そして,なによりも「人間ぼけ」している,と痛いほど教えられた。ヤマトンチューの多くは「自分のこと」しか真剣には考えようともしない。だから,人と人との関係性がますます希薄になってしまっている。沖縄の新聞には,現代社会を生きていく上で,いかなる情報がいま必要なのか,というコンセプトがじつにしっかりしているのだ。朝日新聞にはこれが感じられない。
 伝え聞くところによれば,「東京新聞」がなかなか健闘しているという。しっかりとした新聞社の主張が感じられる,と。「東京新聞」といえば,「中日新聞」と同系の新聞である。「中日新聞」は,わたしの子どものころ父親が愛読していた新聞である(愛知県なので当然といえば当然)。わたしの意識では,朝日・読売・毎日の大手3紙にくらべれば,一段低い地方新聞だと長い間,思っていた。ところが,最近は,地方新聞の方がしっかりしているというのだ。独自の取材網をもっていて,独自の報道をしている,と。
 最近の朝日新聞で,もう一つ気になっていることがある。それは「広告」の多くなったこと。しかも,全面広告の多いこと。ページは多いが,その半分近くは広告だ。だから,読むところがほとんどない。最近は,「イチロー」君を専属のキャラクターにしている企業の広告が,これまた「全面」をつかって登場するので,ますます,朝日新聞は「イチロー」新聞になりつつある。
 イチロー君は,たしかに偉業をなしとげ,さらに進化をめざして,いまもヒットを打ち続けている。それはもうこころの底から敬意を表したい。それに引き換え,白鵬の60連勝という,とんでもない偉業は陰が薄い。こんなところに日本人のひがみ根性というか,こころの狭さを感じてしまう。それをそのまま新聞の紙面が「写し鏡」のように映し出してしまっている。情けないかぎりである。イチロー君をあそこまで持ち上げるのであれば,同じように,白鵬の偉業もまた大きく報道すべきではないのか。これをメディアの暴力と言わずしてなんというべきか。
 家郷を離れてから,すでに50年を越える。その間,朝日新聞の熱心な読者であったが,いよいよ決別すべきときがきたとおもう。できることなら,「琉球新報」か「沖縄タイムス」をとってみたいとおもう。それに「東京新聞」も。

2010年9月24日金曜日

「おもしろい」のチェック数が伸びない・・・・。やはり,おもしろくない・・・?

 いっとき,「おもしろい」にチェックしてくれる人が5人とか,6人とかあって,とても気をよくしていたのだが,ここにきて「0」がつづく。ちょっとだけ寂しい。これが本音。
 もともと,読者のことなど考えないで,勝手に自分の思考の鍛練の場と考え,原則として1時間でどれだけの文章が書けるのか,そのトレーニング代わりにブログを利用しようという魂胆ではじめたことなので,いまさら,という気がしないでもない。しかし,人間というものは弱いもので,だれかが「おもしろいよ」と言ってくれるとすぐにその気になり,浮かれはじめる。そして,「おもしろい」が「0」となると,とたんに気落ちする。勝手なものである。読者のことなど考えてはいない,なんてとんでもない。大いに気に病んでいるのである。ここは正直に告白しておこう。
 できることなら,「コメント」がほしい。でも,変なことばかり書いているからコメントのしようがないというのが本当のところなのだろうなぁ,とわかったつもりではいる。それでも,なにかコメントしてほしいのである。情けないことに・・・・。それなら,コメントしてもらえるような内容のものを書けばいいではないか。たとえば,イチロー君の200本安打の話とか。しかし,こういう話は書けないのである。なぜなら,書けば「すごい,すごい」の連発で終わりだから。イチロー君のどこが「すごい」のかはわたしなどより読者のみなさんの方がはるかによく知っていることは間違いないのだ。だから腰が引けてじつって書けない。
 もっとも,このところ,神戸市外国語大学の集中講義の準備のためにこのブログを利用していたこともあるし,西谷さんの沖縄国際大学の集中講義のレポートもつづいたりして,内容もよく伝わらないものが多く,おもしろくなかったことは反省している。
 というわけで,少し,肩の力を抜いて,ごくふつうに感動したり,発見したり,出会ったり,触れたりしたことを話題に取り上げていくことも意識したいとおもう。うまくいくかどうかはともかくとして,いろいろ思考の幅をひろげていく努力をしたいとおもう。
 ので,みなさん,どうぞ「ご鞭撻」のほどよろしくお願いします。できれば「コメント」を。時間のないときは「おもしろい」に一票を。
 なんだか「物乞い」になってしまった。これも情けないが,こんな「触れ合い」しか,いまの世の中というか,わたしのような生活をしている人間にはなくなってしまっているのである。正直に告白して,これからも「物乞い」をつづけていくと居直ることに。ので,よろしくお願いしまっ。

山のような仕事と格闘中。10日間のツケは大きい。

 10日間,留守にするとこういうことになる,としみじみ反省。山のような郵便物と,毎日,こんなに多くのメールの交換をしていたのかとびっくりするほどのメールの山。
 こうしてみると,わたしのブログやHPをみていてくださる方はごくわずかだ,ということがよくわかる。わたしが10日間ほど留守にするとブログで書いておいたので,それを読んだ人は,きちんと21日にメールをくれている。こんなことをとおして意外な事実がわかってくる。人間というものはいろいろの顔をしていて,だから,面白いのだとしみじみおもう。
 まだ,少し残っているが,急ぎのところはほぼ終わった。那覇のホテルにまで,ゲラの校正がFAXで送られてきて,大急ぎで送り返してやれやれと思っていたら,鷺沼の事務所にも雑誌原稿のゲラがとどいていた。こちらはかろうじて締め切りに間に合い,ホッ。と,おもったのも束の間,こんどは24日締め切りの原稿があったことを思い出し,あわててその準備にとりかかる。あと一日でなんとか仕上げなくてはならない。こうなったら,火事場の馬鹿力に頼るしかない。南無大明神。
 さらには,研究所の紀要『IPHIGENEIA』の校正ゲラがもどりはじめているので,そろそろ目次をつくったり,あとがきを書いたり,という編集の最終段階の仕事も待っている。あれこれ考えていたら,自分の原稿がひとつもないことに気づく。これはまずい。なんとかしてひねり出さなくては・・・と思案投首。こちらもまた,南無大明神。
 こんな風に追い立てられながらも,刻々と近づいてくる「大相撲問題」についての「鼎談」が気がかり。ほとんどなにも準備ができていない。少なくとも,新田一郎さんの『相撲の歴史』と風見明さんの『相撲,国技となる』と,できれば,舟橋聖一の『相撲記』くらいは眼をとおしておきたいところ。そうして,大相撲を改革するとはどういうことなのか,という根源的な問いにある程度の問題提起ができるようにしておきたい。こちらも,ほとんど不可能に近い。でも,可能なかぎりの準備はしておかなくてはならない。鼎談のメンバーを考えたら・・・・足が震えだす・・・・。南無大明神。
 そのうちに,神戸市外国語大学の集中講義のレポートが送られてくるはず。こちらも10月上旬には成績をつけて送らねばならない。いいレポートは読んでいて楽しいが,そうでないものは読んでいて辛い。これはとても疲れることなのだ。どうか,読んで楽しくなるようないいレポートがとどくことを祈るのみ。南無大明神。
 まだまだ,この他にも,ここには書けないごく個人的な雑用もある。これが結構やっかいものだ。でも,浮世をわたるためには必要不可欠のことばかり。えーいッ,こうなったら居直るしか方法はない。矢でも鉄砲でも飛んでこいッ,てなもんだ。思いっきり居直って楽しんでやろう。そのくらいの気構えでないとやってはいかれない。
 やはり,10日間のツケは大きい。

 このブログは23日分のつもりで書いていましたが,タッチの差で24日になっていました。たった,3分の差で翌日というわけ。できるだけ毎日書くという原則を守ろうと努力していたので,残念。これからは,その日のうちに途中でもアップしておいて,あとで追加記入という方法を多用することになりそう・・・・。

2010年9月22日水曜日

長い旅から10日ぶりに帰宅。

 今月12日に家をでて,昨夜21日にもどってきました。久しぶりに長い旅でした。が,内容が充実していましたので,あっという間のことでした。
 12日(日)は,「ISC・21」9月神戸例会。情報交換のところで,日本体育学会スポーツ人類学専門分科会のシンポジウムの報告をきいて,いささか興奮。それはないだろう,と。どこか根源的なところで勘違いしているのではないか,と。スポーツ人類学は,今福さんの方法論をどのように批判的に乗り越えたのか,明らかにしてもらう必要があろう。今福さんのきわめて深い問題提起について,十分な理解をしないまま,これまでの形式的な「聞き取り」調査をもってよしとする立場に立て籠もってしまったのではないか,といささか心配。だとすれば,ル・クレジオの書くものなどをどのように理解しているのだろうか。あるいは,まったくの無視なのだろうか。あるいは,視野にも入っていないのでは・・・。大いなる疑問を感ずる。
 13日(月)から15日(水)まで,神戸市外国語大学の集中講義。こちらはおとなしい学生さんたちばかりで,あまり発言がなく,いささか手こずる。でも,あらかじめ「ブログ」で問題提起をしておいたので,なんとか演習らしくなる。テクストの選択ミスということも反省の材料のひとつ。後期は,もっと難しい問題に挑む。さて,どうなることやら。むしろ,夜の部(この演習に参加してくださった有志の方々)での話題が楽しかった。その分,睡眠不足になったのではあるが・・・。
 16日(木)神戸空港から那覇へ。ホテルに着くと,さすがに疲れがでたのか,すぐに昼寝。これですっきりしたので,4日分の洗濯。ホテルの下がコンビニなので,なにかと便利。ホテルのロビーに降りて,4日分の新聞を出してもらって,じっくり時間をかけて眼をとおす。わずか4日間なのに,世の中いろいろのことがあるものだと驚く。夕刻から国際通りにでて散策。この通りが見違えるほど変化している。ここだけみると,沖縄は活性化しているようにみえる。古い,ごちゃごちゃしたむかしながらの商店が取り壊され,近代的な建物に変化している。国際通りの再開発とかで,大きなビルもあちこちに建っている。あと少しですっかり工事が終わる。そうなると,まるで別の町に生まれ変わるのではないか。ここでも,一種のグローバル化が進行中。娘の勤めが終わるのを待って(残業で,夜8時すぎ),わしたショップで待ち合わせ。一緒に夕食。なぜか,中華。
 17日(金),今日の夕刻から西谷さんの集中講義(沖縄国際大学大学院)がはじまる。西谷さんがホテル(おもろまち駅前,わたしのホテルは安里駅前)に到着したところで,電話が入ってくる。初日の手続があるとのことで,午後5時をめざしてタクシーで一緒に大学へ。午後6時から集中講義がスタート。その一部は,ブログで書いたとおり(しかし,「未完」が多い)。
 18,19,20日の三日間は,午後1時から午後6時まで。話しの内容が重いので,ふつうの5時間の何倍もの重みがある。どこか期するところがあるという気迫を籠めて,西谷さんの話が展開する。本邦初公開という内容の,深みにわたしたちを導いていく。ブログにもすでに書いたように,驚くべき「事実」を提示しながら,その背景に潜むアメリカならではのタクティックを解きあかしていく。わたしは初日から興奮。
 21日(最終日)は,午前10時にチェック・アウト。ロビーで新聞を読む。午後,西谷さんと落ち合って,壺屋を散策,それぞれに買い物。真っ青な青空が広がり,真夏の太陽がじりじりと肌を焼く。子どものころに体験した「じりじり」。なんだか懐かしい。汗っかきの西谷さんは汗びっしょり。牧志の公設市場でソーキそばと海鮮サラダ。腹一杯で,海鮮サラダを残してしまう。スタバでコーヒーを飲みながら歓談。そのあとわしたショップを眺めて,県庁前からモノレール。西谷さんはおもろまちへ。そして,最終講義へ。わたしは安里で下車。ホテルの荷物を持って,折り返し,モノレールで那覇空港へ。最終回の授業が聞けないのは残念だが,これは打ち合わせのミス。夜の授業があるということは想定していなかったのだから仕方ない。あとで,録音を聞かせてもらうことに。
 空港の最上階で夕日を眺める。ちょうど,慶良間諸島に沈んでいく。展望台のガイド地図で確認したら,太陽の沈んでいく山並みは渡嘉敷島であることがわかる。天気がよければ,こんなに近くに渡嘉敷島がみえていることを知り,いささか感動。夕日はまことに美しい。大勢の人たちと感動を分け合う。娘から電話で,残業の区切りがつかないので「ごめんなさい」と。彼氏も連休明けでとても忙しく,「申し訳ありません」と。ひとりで,ジャーマン・ポテトとソウセージを食べながら,生ビールの夕食。なかなかよろしい。
 20時20分発のフライト。予定どおり羽田着(22時50分)。しかし,荷物がでてくるのに時間がかかる。家に着いたのは翌日の0時40分。
 荷物の整理もそこそこに,郵便物の確認,そして,メールの確認。わずか10日なのに,こんなに多くの郵便とメールがあるとは・・・・。とりあえず,急ぎのメールだけ,返信を書く。それだけで,すでに3時をまわる。あわててシャワーを浴びて,就寝。
 以上が,日記風の報告です。
 今日は,9時に起きて,朝食もそこそこに鷺沼の事務所へ。やはり,事務所はいい。どなたかが命名してくれた「男の隠れ家」。早速,掃除からはじめる。たまっていた空き箱を壊してたたんで,所定の場所へ運ぶ。環境が整ったところで,シャワーを浴びて,雑誌『環』のゲラ校正。肩書などの必要事項を記入して,投函。雑誌『SF』用の絵(絵画にみるスポーツ施設の原風景)を探す。途中で仕事を忘れてしまい,ピカソ展のときのカタログなどに見入ってしまう。やはり,天才の力はすごい。この迫力はいったいなんだろう,と。
 というところまでで,ひとまず,おしまい。
 阪神タイガースが中日に1対0で負けて,これで優勝の二文字は消えた。残念。来年は,岩田がもどり,能見と秋山と,そして,気まぐれの外国人投手をうまく絡ませることができれば,ことしの打線をもってすれば楽勝のはず。来年を期待しよう。

2010年9月21日火曜日

アメリカ的「自由」について。西谷修・集中講義第4日目。

 西谷さんの集中講義もいよいよ第4日目。ますます佳境に入る。これまでに考えたこともない視点からの「アメリカとはなにか」という根源的な問いが,つぎつぎに繰り出される。
 まことにスリリングな時間がつづく。しかも,時間の流れが止まってしまったかと思うほど内容が多く,しかも濃い。そして,次第に<恐怖>の観念に襲われる。<アメリカ>とは,こんな歴史過程を経て成立し,その建国の理念のひとつである「自由」を当たり前のこととして,いまも実行され,それを「世界」に広めていこうとしている,というのである。この内容の全部をここで語ることはとてもできないが,その一部を紹介しておきたいと思う。
 たとえば,アメリカ的「自由」について。

 未完。のちほど。

2010年9月20日月曜日

<アメリカ>-異形の制度空間・西谷修集中講義第三日目。

 西谷さんの集中講義はますます佳境に入る。<アメリカ>という異形の制度空間がいかにして形成されてきたのか,そのプロセスを徹底的に分析していく。
 雑誌『世界』に連載されたときも,この論考はいずれ単行本になるなという予感はあったが,今回の集中講義をとおして,これはもうどうしても単行本にして欲しいと痛切に思う。それほどに内容が濃く,しかも説得力をもつからだ。こういう視点をしっかりと共有しながら,日本の将来を考え,「世界」のあり方を考えることが不可欠だと,講義を聞けば聞くほどにそう思う。
 ユーロセントリズムという考え方やアメリカニズムについて論ずる人はこれまでにも多くいた。しかしながら,たとえば,ユーロセントリズムを語る場合にも,その多くはフランス革命以後のヨーロッパの覇権争いあたりからはじまる。また,アメリカニズムを語る場合も,やはりアメリカ独立宣言(1776年)以後からはじまるものが多い。とりわけ,アメリカ独立に関しては,さも当然の権利を主張して膨大な土地をわがものとしたかのように書いてあるものが圧倒的である。だから,わたしたちはいつのまにかアメリカはイギリスからの独立を勝ち取ったのだと思い込んでいる。
 しかし,きっかけはそうであったかもしれないが,その実態はかなり違うようだ。いわゆるイギリスの重商主義(インドの負債をイギリスの植民地であったアメリカ東部海岸のイギリス人たちの税金で穴埋めしようとする政策)に反発した東部海岸に入植したイギリスの人びとが独立をめざして立ち上がり,1776年には「独立宣言」を発表して,交戦状態に入る。初めは,植民地側がかなり苦戦をしていたが,隣り合わせのフランスの植民地の人びとが加担し,さらにオランダ,スペインの植民地の人びとも参戦して,イギリス植民地の人びとを支援した。そして,ついに,81年に勝利する。その結果,83年のイギリスとの和平条約によって,正式に独立した。
 ふつうの教科書には,13のイギリスの植民地が合併して,アメリカという国家を形成した,とある。すなわち,United States of America というわけである。この場合の States とはなにか,と西谷さんは問いを発する。たしかに,最初に独立した13のStatesはイギリスの植民地であったが,やがて,独立に賛同し,独立戦争に協力したフランス,オランダ,スペインの植民地も,United States of Amerecaに加わっていく。したがって,「アメリカ合州国」の「州」は,最初の13州だけがイギリスであって,それ以後は,フランス,オランダ,スペインの植民地も加わっていく。だから,これは「アメリカ連合国」と呼ぶべき性格のものだったのだ,と西谷さんは主張する。
 しかも,この独立戦争は,いわゆる植民地が宗主国から独立するための戦争とも性質が違うのだ,と。なぜなら,アメリカ東部海岸に入植した人びとは,すべて,先住民を排除して,純粋に自分たち(ヨーロッパ・キリスト教国民=カール・シュミット)だけの植民地を構築していたからだ。つまり,イギリス人がイギリス人と戦って独立したのであり,その他のフランス,オランダ,スペインからの入植者たちもまた同じように,先住民を排除した上で,植民地を形成し,イギリス植民地と手を結び,イギリスと戦って独立を手に入れたのである。繰り返すが,先住民を徹底的に排除した上での,イギリスからの独立だったのである。もっと言ってしまえば,「アメリカ合州国」とは,ヨーロッパ・キリスト教国の「連合」体を基盤にして出発したものだ,ということだ。
 その後,フロンティア作戦を展開して,アメリカ先住民であるアメリカ・インディアンを西へ西へと追い詰めてゆき,略奪した土地に物差しで線を引いたような区画をして,「州」を増やしていく。それでも足らずか,アラスカをソ連から「購入」してひとつの「州」として加え,さらに,ハワイ諸島を併合して,ついには50州に達する。アメリカという国家は,つぎつぎに「増殖」していくことが立国以来の体質として,ついてまわっている。だから,いつ,日本が「51番目」の「州」として加えられてもおかしくはない,ということになる。あるいは,すでに,半分,アメリカの「州」になっているのではないか,とする指摘も可能となる。

 先住民であるアメリカ・インディアンはなぜ,簡単に土地を奪われ,西へ西へと追い詰められていくことになったのか。よく知られているように,アメリカ・インディアンにとって土地とは「みんなのもの」であって,だれかが「所有」するものではなかった。天与の共有の財産であって,だれかが私有財産として「所有」するという考え方はみじんもなかった。これをいいことに,入植者たちは,土地を裁判所に登記して,売買可能な物品に仕立て直してしまったのである。この登記された土地だけが法律によって守られることになった。だから,植民地政府はつぎつぎに土地を登記して,この土地を入植者たちに分け与え,農作物をつくることを義務づけた。入植者たちは土地を「所有」し,食べ物を確保できれば,当面,生きていく上での最低限の「自由」をわがものとすることができる。
 ヨーロッパ・キリスト教国民にとってアメリカという「新世界」は,土地はだれのものでもない大地が広がり,入植すれば土地を「所有」することが可能であり,努力すればあらゆる夢が叶えられる「自由」が保証される,というまさにアメリカン・ドリームそのものとしてイメージされた。そして,それをつぎつぎに実現させていった。もちろん,その陰で,先住民たるアメリカ・インディアンの生活圏をつぎつぎに奪い取る,という行為がキリスト教的「正義」の名のもとで展開されたのである。
 これが,アメリカという国家を成立させ,増殖していく上での「原理」となった。しかも,そのことが,アメリカという国家の当初から背負わなくてはならない「原罪」でもあった。その「原罪」はいまもなお解消されることなく背負いつづけている。しかも,その「原罪」をいかに覆い隠して,「正義」(聖書の名においての正義)を貫くかということに,いまも,一意専心しつづけている。だから,アメリカ・インディアンがそうであったように,テロリストをうまく演出して作り上げ,それを敵に仕立てて,総攻撃を加える。この手法はいまも変わらない。変えようがないのだ。この手をゆるめてしまうと,アメリカという国家が抱え込んだ「原罪」がさらけ出されてしまうからだ。アルカイーダはだれが育てあげたのか,考えてみれば一目瞭然だ。
 アメリカがいまやっていることは,まるで,自分で自分の首を締めているかのようにみえてくる。この方針は変えようがないので,あとは,自滅へのシナリオをひたすら歩みつづけるしかないのだろう,と西谷さんの講義を聞きながら,ひとりで妄想をたくましくしている次第である。西谷さんは,あくまでも,事実関係を丹念に洗いあげていく。その話を聞きながら,わたしの頭は勝手に,さまざまな妄想をめぐらすことになる。
 その妄想は,単純明白に,アメリカン・スポーツの成り立ちやルール,戦略や技術などにも,ストレートに直結していく。この問題はまたいつか明らかにしてみたいとおもう。この稿は,とりあえず,ここまで。

2010年9月19日日曜日

<アメリカ>-異形の制度空間・西谷修集中講義第二日。

 西谷さんの集中講義第二日目のテーマは「<アメリカ>-異形の制度空間」。これまでの一般的なアメリカ理解を根底から問い直す,というみごとな展開であった。
 この授業はまことに刺激的だった。眼からうろこということばがある。まさに「眼からうろこ」であった。わたしの理解は,『アメリカ・インディアン悲史』(藤永茂著)のレベルで止まっていたが,この講義を聞いて,なるほど,アメリカという国がいかなる歴史過程を経てこんにちの姿を形成するにいたったかがより鮮明に,しかも,根源的に納得することができた。それを知るにつけ,アメリカという国の裏側に秘められたドグマ性というものに底抜けの恐ろしさを感じ,身震いした。
 この問題を語る西谷さんの骨格となる見出し(パワーポイントによる)は以下のとおりである。
 1)「新世界」の出現
 2)「新世界」,「自由」の二つの相
 3)<自由>の制度空間
 4)<アメリカ>のグローバル化とその挫折
 5)グローバルな人口移動
 6)アメリカ化 vs. クレオール化
 このテーマは,じつは,雑誌『世界』(2008.11,12,2009.1,2.)に4回にわたって連載されたものである。これを,さらに,270分(3コマ)かけて立論の背景から,その問題点を取り上げ,熱のこもった弁舌となって,わたしたちに投げかけてくれた。しかも,1)から3)まで。つまり,全体構想の前半の半分を語ってくれたわけである。この後半は,今日(19日)のテーマとなる。
 雑誌『世界』の論考も,わたしにとっては相当に衝撃的で,ついにここまでアメリカを追い込んだのか,という印象であった。(詳しくは,『世界』で確認のこと。ちなみに,「アメリカ 異形の制度空間」と題して短期連載された4回分のテーマは以下のとおり。第1回 「二つの西洋」,2008年11月,第2回 「自由と所有権」,2008年12月,第3回 「『民主化』─拡大する自由のレジーム」,2009年1月,第4回 「底なしの『自由』に溺れて」,2009年2月。なお,受講生にはそのコピーが配布資料の一部として配布されている) しかし,雑誌の論文には,掲載上,原稿枚数に制約がある。だから,かなりコンパクトに論理を整理しなければならないので,必然的に抽象的な,あるいは,概念的な操作にたよらざるをえない。しかし,集中講義の場合には,パワーポイントをつかって必要な図像をふんだんに用いることができるし,プロジェクターをつかって映像も用いることができる。だから,雑誌『世界』で論じられたことがらに,図像・映像的な補填がほどこされ,よりヴィジュアルなイメージが加わることによって,一段と説得力を増す。だから,すでに,雑誌『世界』で読んでいた記憶が,より具体的なイメージとなって,わたしの脳裏によみがえり,強烈なインパクトとなって迫ってきた,という次第。その結果,サブイボ(奈良地方の方言でとりはだのこと)が立ち,恐怖におののく。いやはや,こういうからくりになっていたのか,と。
 ほんとうはこのことをわたしのことばに置き換えて書いてみたいとつよく欲望するのだが・・・・。変な間違いを犯したり,あるいは,誤解が生じたりすることを避ける意味で,ここでは割愛する。どうか,雑誌『世界』の方で確認してみていただきたい。その方が確実である。
 今日のところは,とりあえず,ここまで。

2010年9月18日土曜日

西谷 修さんの集中講義・第一日目。

 昨日(17日)から,沖縄国際大学大学院地域文化研究科の集中講義がはじまった。タイトルは「グローバル世界とメディアの現状」。
   西谷さんは,いつものように平常心のまま,やさしい口調で静かに語りはじめたが,その裏側にはなみなみならぬ気迫が漲っている。それがそこはかとなく伝わってくる。いいなぁ,としみじみ思う。いわゆる講演会やシンポジウムとは違って,なにせ,15コマ分の授業である。1コマが90分。ということは,全部で1350分。すなわち,22時間30分。講演はふつう90分。シンポジウムだともっと短い時間での発言になる。もちろん,これはこれで短期決戦的な,一点集中的な論旨の展開があって面白いのだが,22時間にもわたって論旨を展開する集中講義は別格だ。だから,微に入り細にわたり知の背景にまで話が食い込んでいく。なるほど,ひとつの知の体系を明らかにするために,これだけの裏付けがあるのだ,と感動の連続である。こういう話は滅多に聞けるものではない。やはり,沖縄まで追っかけてきてよかったと思う。
 配布されたレジュメや資料だけで,A4の用紙,35枚。それにパワーポイントをつかって,懇切丁寧な説明がある。その上で,映像・図像をみせながら,むつかしい話をわかりやすく展開していく。みごとというほかはない。
 西谷さんは,まず最初に,この集中講義の全体構想を明確にする。それは,以下の三つの柱である,と。
 1.メディアをめぐる問題系
 2.アメリカとはなにか
 3.自発的隷従(ボエシー)
 これらのテーマの概要をあらかじめかなり詳しく説明しながら,それぞれのテーマに籠められている重要なポイントを明らかにしていく。そして,それらはいずれもしっかりとお互いにリンクしているので,何回もくり返し,こちらのテーマからあちらのテーマへと往復運動をすることになる,とのこと。そして,このテーマを設定した背景には,①日米安保50年という節目の年であること,②沖縄にとってまたとない重要な節目の年を迎えていること(ことしこそ,これまでにない重大な年であること),の二つを強く意識した,と。
 こうして,これからはじまる集中講義の全体像を明確にしていく。なるほどなぁ,と感心しながら聞いている。このことをあらかじめきちんと解きあかすことによって,思考の共有の「場」を確保しようというわけだ。これができていれば,あとは,かなりランダムに話があちこちに飛んでしまっても,戻るべき「場」がわかっているので,迷うことなく,楽しく聞きとることができる。なるほど,集中講義への入り方まで教えてくれる。学ぶことばかり。
 考えてみれば,沖縄国際大学は,キャンパス内に普天間の米軍基地のヘリコプターが墜落して,その取り扱いをめぐって大問題になった過去をもっている。ヘリコプターが激突した建物は新しく建て替えられてきれいになっている。だから,どの建物にヘリが当たったのか確認することはできない。ただ,幹を残しただけでその他はみんな焼けてしまった黒こげの木がモニュメントとして大学正門の左側に残されている。キャンパスの外からも自由に出入りできるようになっている。その右手に,フェンスに囲まれるようにして,ヘリが激突したときの傷跡を残した壁面が一部設置されている。また,大学のキャンパスの内側にも,幹だけを残してそのさきがなくなってしまった木がロータリー風の緑地の中に立っている。しかも,その幹の周囲には,新しい芽を吹いた若葉が色鮮やかに輝いている。こうしたモニュメントをとおして人びとの記憶はつねに新たにされていくに違いない。そういう沖縄国際大学の集中講義であるということを,西谷さんは意識して,学生さんたちに「考えること」の重要性を語りかけていく。
 初日から,西谷さんは気迫を籠めて重いテーマを投げかけていく。
 これからさきが楽しみだ。

2010年9月17日金曜日

神戸市外国語大学での集中講義が終わり,沖縄・那覇にやってきました。

 昨日(16日),神戸から沖縄・那覇に移動。ホテルでゆっくり休んでから,洗濯をして,それから久しぶりの「国際どおり」を散策。
 神戸市外国語大学での集中講義(12日~15日)も無事に終え,ほっと一息。最終日には,午後7時から打ち上げコンパまでやってくれ,ありがたいかぎり。授業中にはだんまりを決め込んでいた学生さんも,コンパになると人が変わったように元気になり,おやおや,人はさまざま。
 マルセル・モースの『贈与論』を,スポーツ文化論のスタンスから読む,という世にも不思議な演習によくぞ神戸市外国語大学の学生さんたちはお付き合いくださったものだ,いまごろになってこころから感謝している。たぶん,一番,得をしたのはこのわたし。学生さんたちという「場」の力を借りて,わたしの思考がまたもうひとつ深いところに達することができた,としみじみ思う。ありがたいかぎりである。おまけに,学生さんたちも,こういう思考の方法があるのだ,ということをびっくりしながらも感じ取ってくれた。そして,素直に興味を示してくれた。しかも,若い頭脳はあっという間に「贈与論」的思考をわがものとして,こんにちのわたしたちをとりまく生活環境のなかから「贈与」なるものの存在を確認し,また,こんにちのスポーツ文化のはらむ諸問題を「贈与」という視点から分析し直す方法の入り口に立ってくれた。あとは,かれらがその方法をどれだけわがものとして,これからの生活に活かしていくか,楽しみである。
 後期の集中講義では,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をテクストにして,スポーツ文化の「原点」をさぐる演習をしようと予定している。このテクストは,『贈与論』で描き出された民族誌よりも,さらに古い時代,あるいは,ヒトが人間になるときになにが起こったのか,ということを思い浮かばせてくれるものなので,当然のことながら,「スポーツ的なるもの」がどのうようにして出現してくるのか,という「起源」の問題に接近することが最大の狙いである。まあ,あの学生さんたちなら,かなり本気で食いついてくれるのではないか,といまから楽しみである。こちらもそれに応えられるだけの準備をしなくてはならない。緊張がつづく。この緊張感がいい。これを「贈与」してもらうためにこそ,集中講義にでかけていくようなものだ。学生さんたらから送られる「贈与」(ポトラッチ,あるいは,ハウ)をエネルギーにして仕事ができる。ありがたいことである。
 この集中講義には学外のゲストの方も参加され,演習の場を盛り上げてくださった。その人たちとは毎晩,授業が終わってから「反省会」を行い,明日の授業のための「直会」に精を出した。神戸の学園前駅の近くにとても雰囲気のいいお店があって,そこが定番となり,存分に議論を楽しんだ。そこには,なんと泡盛の春雨がおいてあった。これがまたとてもいい味で,みんな気に入って,ビールの乾杯のあとはすぐに泡盛。30度ほどの,やや甘く,すっきりとした感じがちょうどいい加減。お蔭で,毎晩,夜遅くまで楽しみ,宿舎に帰ったらそのままばったんグー。朝,シャワーを浴びて眼を覚醒させ,それから大学へという毎日。意外につかれなかったのが不思議。どうやら,元気も「贈与」されたらしい。

 16日(木)に神戸空港から那覇空港へ。神戸は曇っていたが,九州南端あたりから真っ青な海がみえはじめ,沖縄の群島がつぎつぎに姿をみせてくれる。波打ち際の白波と,そこから沖に向ってひろがるコバルト・ブルーの眼の覚めるような「青」。そして,深海の黒ずんだ「青」。何回も,沖縄にはフライトしているが,こんな景色を飛行機から一望できたのは初めて。カメラをもたなかったことを後悔する。いつももっていなくてはいけない,と反省。沖縄本島の東側を飛んでくれたので,わたしの座席の窓から丸見え。そのうちに,沖縄本島の真ん中に長い滑走路がみえてくる。米軍基地の滑走路だ。ここではたと気付く。なるほど,この滑走路を邪魔しないように,大きく東側を民間機は飛ぶように義務づけられているのでは・・・と。しかも,沖縄・本島の南端に達したところから急旋回して,北に進路をとる。つまり,180度,向きを変えるのである。そのころには,海面に右側の翼が触れるのではないかと錯覚するほどの低空を飛ぶ。限りなく低空飛行をしながら,那覇空港に接近していく。この方向は,そのまま,米軍基地の滑走路の方向と重なる。これもまた,その影響なのか,と勘繰ったりする。
 那覇空港に着陸する直前のところに,手を伸ばせばとどくのではないかと思われるほどの至近距離に,泡盛の「まさひろ」の工場がある。工場の屋根におおきく「まさひろ」と書いてあるのですぐにわかる。そのたびに,ありがとう,と感謝する。なぜなら,工場見学に行ったとき(もう,ずいぶん前の話),身分証明書を示し,記帳すると,「おれも,まさひろ」というラベルを張ったボトルを一本プレゼントしてくれた。それだけで,もうすっかり「まさひろ」ファンとなる。人間というものは不思議なものだ。そんな単純なことに欣喜雀躍するのだから。そんなことがたくさん連鎖する人間が,たぶん,幸せなんだろうなぁ,とぼんやり考えたり・・・・。
 いつものことながら,ランディングには注意を集中する。機長の腕のみせどころだから。今回は,久しぶりに名人級のランディングだった。おもわず拍手したくなる。が,日本人は,なにも考えていないのか,ランディングで拍手する客はいない。外国では,時折,そういう場面にでくわすことがある。とくに気流が悪く,フライト中にしばしばエアポケットに入って,ストンと落ちていくようなことが起きたあとのランディングがみごとだと,どこからともなく拍手がわく。そして,みんな「ニコニコ」顔だ。たぶん,この人たちは,飛行機が揺れるたびに一生懸命祈っているのではないか,と思う。だから,その願いが叶ったときには,神に感謝しなくてはならない。その気持ちが「拍手」となって表出するのだろうか。
 これで,今日からの沖縄にはいいことがいっぱいあるよ,という予感につつまれる。こういう予感は多いほどいい。
 

2010年9月11日土曜日

明日から長旅に出発。ブログはしばらくお休みです。

 明日・12日から長旅に出かけます。一応,パソコンは持っていきますが,このブログを書きつづけることができるかどうかは,まったくの白紙。もし,うまく時間をみつけることができれば,そのときには書きますのでよろしく。
 12日(日)は「ISC・21」9月神戸例会です。竹谷和之さんのお世話で,場所は神戸市。詳しくは,ホームページの「掲示板」をご覧ください。夜は懇親会。
 13日(月)~15日(水)は,神戸市外国語大学の集中講義。講義題目は「スポーツ文化論」。演習形式で展開する予定。テクストは,『贈与論』(マルセル・モース著)。スポーツ文化を「贈与」という視点から光を当てると,どのような姿が立ち現れるのか,まったく新しいスポーツ文化像を模索してみよう,というのが狙いです。学生さんたちもびっくり仰天かと思います。昨今,話題満載の大相撲問題もふくめて,スポーツとはなにか,という根源的な問い直しが喫緊の課題となっています。その先取り的な試みをしてみようという次第です。もちろん,わたしにとっても初めての挑戦です。いまから,胸がどきどきしています。
 16日(木)には神戸から沖縄・那覇に飛びます。ここで一息,入れられればというところ。でも,洗濯をしたり,ちょっとした買い物をしたり,と予定は満載。
 17日(金)~21日(火)まで,西谷修さんが沖縄国際大学で行う集中講義に出席(じつは,鞄持ちという名目で潜り込む)。ここには,日頃から西谷さんと親交のある意外な有名人たちが集まってくるやにうかがっています。それもまた楽しみのひとつ。さて,この集中講義で,西谷さんがどんな話を展開されるのか,これがもちろん最大の目玉。
 途中,19日(日)の夜には西谷さんを誘って「うりずん」へ,という特別メニューも組んであります。こちらもまた楽しみのひとつ。土屋さんとも,銀座三越につづいて本拠地で再会。娘とその彼氏とも久しぶりに再会。こういう楽しみもあってこその沖縄です。
 21日(火)の最終便で羽田にもどってきます。
 もどってくれば,積み残しの仕事が山のように待っています。この日常化してしまった仕事の山を忌避して,しばらく異質の刺激をからだにいっぱい詰め込もうという次第です。はたして,うまくリフレッシュできるかどうか。神さまからいただいた「下賜休暇」(天皇ではありません)=「贈与」のつもりで,存分に気分転換をしてこようと思っています。
 21世紀スポーツ文化研究所主幹研究員としての休暇兼出張。ちょっと中途半端にみえるかも知れませんが,これがわたしには最大の良薬。
 それでは,しばらくの間,ブログをお休みにしてしまうかもしれない,といういい訳まで。
 お元気で。

2010年9月10日金曜日

琉球料理『御茶屋御殿』(うちゃやうどぅん)のオープニング・セレモニー

 昨夜,琉球料理のお店『御茶屋御殿』のオープニング・セレモニーが行われ,喜び勇んで出席させていただいた。場所は銀座三越の12階。
 ついに,「うりずん」の土屋實幸さんが,日本の臍(中心)・銀座四丁目に進出した。しかも,デパートの老舗「三越」の最上階(12階)の西北の角という最高の場所。つまり,銀座四丁目の交差点を眼下に収め,銀座通りの西には東京タワーが,晴海通りの北には皇居の杜が,そして,その周囲には最近になってニョキニョキと建てられた超高層ビルの群れが,ところ狭しとばかりに密集している。しかも,色とりどりのネオンに飾られ,夜景だけでも天下一品である。
 つい2年ほど前には,新丸ビルに「東京うりずん」店をオープン。このときも超満員。店の外にも椅子を出して・・・という盛況であった。その後も,予約なしには入れないほどの大盛況。こちらは,沖縄の郷土料理と泡盛とオリオン・ビールがメイン。
 この勢いに乗って,今回の銀座進出である。こんどは,琉球王朝が遠来の賓客を接待するために編み出されたという琉球料理である。土屋さんのお話によれば,すでに,琉球料理をつくれる人がほとんどいなくなってしまっている,とのこと。もし,いても高齢化していて,店をやってもらえるだけの体力がなくなっている,とか。そこで,土屋さんは考えて,若手の琉球料理志願者を募って,高齢者から技術を伝授してもらい,それを磨き上げるという手法だった。どうやら,20年,30年も前から土屋さんの構想のなかには組み込まれていたようだ。その一部が,もう何年か前に,那覇のうりずんの近くにオープンした琉球料理専門のお店だ。このときも運良く,わたしたち家族は那覇に滞在していて,オープニング・セレモニーにお招きいただいた。古い民家を改造したのだそうだが,内装は凝りに凝っていて,土屋さんのセンスのよさがここかしこに光っている。ずいぶん,時間をかけて,材料を集め,職人を探し,やっとここまできた,と土屋さんが感慨深げにつぶやかれたのが印象に残っている。
 こういう長い時間をかけて,とりわけ琉球料理の味についても,いろいろと試行錯誤しながら,ようやくここにたどりついたという次第である。そのたどりついたところが銀座四丁目だった。この感慨が,オープニング・セレモニーでの土屋さんのご挨拶のなかにも現れていて,聞く人のこころを打った。沖縄の食文化を,銀座四丁目から,世界に向けて発信したい,と。そのために全力を傾けるつもりなので,ぜひ,応援をしてください,と。いつもにこやかで,おだやかなお人柄とは別の,こころの奥深くに秘めた情熱が,そこはかとなくつたわってくる。味のある人だなぁ,としみじみと感心してしまう。
 若いころ,土屋さんのお世話になったお蔭でこんにちがある,と語る人のなんと多いことか。わたしのような,ほんのたまにしか那覇の「うりずん」も東京の「うりずん」もでかけることのない人間ですら,ちょっと数えられないほどの人と出会っている。そういう人が,あらゆるジャンルにわたって活躍していらっしゃる。このことについては,いつかまた機会をみつけて「土屋實幸物語」でも書いてみたいと思うほどである。困った人に会うと黙ってはいられない。可能な範囲で支援してやりたい。そんな土屋さんの思いが,あちこちで表出する。おそらくは,若いころに苦労されて,そのときに受けた温情が忘れられないのだろうとおもう。だれもが,そういう経験をもっている。そして,みんな,困った人は助けてあげたいとおもう。おもうところまではみんな同じだが,それを実行できるかどうかは,大違いだ。
 昨夜のパーティでも,じつに多くの人が,初対面のわたしに向って,土屋さんにはお世話になっているんですよ,とおっしゃる。そして,またまた,いろいろの人とお知り合いになれ,一夜にして宝物が増えたなぁとおもう。これらの人たちとは,また,新しいお付き合いがはじまる,という予感でいっぱいだ。嬉しいかぎりである。これもまた土屋さんのお蔭。かく申すわたしも,娘が土屋さんのお世話になっている。土屋さんとの出会いがなかったら,娘のこんにちはなかった,と思う。娘は「沖縄のお父さん」と慕っている。
 土屋さんのことを語りはじめるといつも際限がなくなってしまう。この話はこの程度にしておこう。それよりも,今回は,『御茶屋御殿』。案内状のふりがなをみて,なるほど「うちゃやうどぅん」と読むのかと知る。「御殿」を「うどぅん」と読むことは知っていた。琉球王朝に伝わったという空手の「御殿手」(うどぅんでー)についての本を,むかし読んだことがあるから。この「うちゃやうどぅん」が,新丸ビルの「東京うりずん」につづいて,大盛況であらんことを祈るばかりである。
 営業は,午前11時から夜の11時まで。時間帯によって,ランチ・タイム,カフェ・タイム,ディナー・タイムの三部構成になっているそうだ。読者のみなさんも,どうか,珍しいお客さんの接待にはもってこいの場所・内容ですので,大いに利用してください。外国のお客さんなどには,忘れられない思い出になること,請け合いです。古い友人との一夕にも,申し分なし。
 以下は,『御茶屋御殿』の概要。
 〒104-8212 東京都中央区銀座4-6-16
            銀座三越12階
            Tel/Fax 03-6228-6916
                               http://www.utyayaudun.com/
 〔営業時間〕
 昼食              11:00~14:00
 なかゆくい(カフェタイム) 14:00~17:00
 夕食              17:00~23:00   
 ※年中無休
 ※コース・メニューによっては,2日前までに予約が必要なものがありますので,電話で確認をしてください。
 以上。

 読者のみなさん,『御茶屋御殿』をご贔屓にしてくださいますよう,わたしからもお願いいたします。


 

2010年9月9日木曜日

相撲の大転換:「決闘」から「芸能」へ。

 「国ゆずりの相撲」も「決闘の相撲」も,こんにちわたしたちが思い浮かべる相撲とはおよそ縁遠いものであった。つまり,ルールというものが存在しない,なんでもありのきわめて乱暴な「格闘技」だった。
 相撲が現代の様式をととのえる濫觴となったのは,聖武天皇の神亀2年の神事相撲だったという。このとき,「諸国が旱魃して大凶作であったので,天皇は畏くも近畿付近の明神,大社に勅願されて,天地長久・風雨順治・五穀成就を祈らせたもうた。ところが,翌年には果たして豊作だったので,相撲を奉納して,神霊を慰め奉ったという。これが神事相撲の濫觴となっのである」と舟橋聖一は書いている。そして,「相撲式」から,つぎの文章を引用している。
 「五聖武天皇の御時,神亀年中,国富民栄,世の豊なる事前代にも希なりとぞ。諸国一同に相撲のわざ益盛に起,朝廷にも専ら行はれしなり。其外相撲の作法,此時に道正敷定る。先作法勝負理り決しがたき故,其道に精しき者を御尋有りしに近江国志賀の里に,志賀清林といへる者此道に達しける事世のきこへ有故に,召上せられて相撲御行事此人と定めらる」
 これが,こんにちに伝わる司(つかさ)家の始祖となった,というのである。しかし,志賀清林の存在については,一部では疑問視するむきもあり,定かでない部分が残る。この問題については,いつかまた取り上げて,考えてみたいとおもう。ここでは,相撲が,生死を度外視する乱暴な「決闘」から,徐々に「作法」(ルール)を定めて,より安全な「遊技」や「芸能」へと進化していく上で,重要な役割を演じた人物がいた,ということを確認できればいいことにしよう。それが,のちの記録によれば,「志賀清林」という固有名詞に集約されて,一つの物語が構成され,伝承されることになったのであろう。
 この志賀清林について,舟橋聖一はつぎのように記述している。
 「・・・・清林は,単に相撲の司となっただけでなく,彼が当時,選ばれて,御行事人になったのについては,それに相当する権威ある大力士であったからで,身長も六尺八寸,殆ど天下無敵の強剛であったらしい。そして彼が司家として,制定したルールは,突く,蹴る,殴るの三手を禁じ,現行の四十八手の初源の型法を創成したのである。」
 この記述によれば,当代の実力者が「突く,蹴る,殴る」の三手を禁じ手と定めたこと,これが相撲の作法(ルール)として広く受け入れられるようになったこと,の二点が透けてみえてくる。これを聖武天皇が採用したことによって,さらに,権威づけられ,広く流布していったと考えられよう。
 ここではじめて,相撲なるものが乱暴な「決闘」から決別して,「命」を保証された「格闘技」へと,その歩を進めたという次第である。そして,この禁じ手が次第に多くなり,細部にわたるようになっていく。このことが,相撲にとってなにを意味しているのか,ここは注意を要するところである。
 そこで,少しだけ前にもどって,聖武天皇が「神事相撲」を行ったことについて,触れておきたい。前年の旱魃・大凶作に対して天皇みずから明神・大社に勅願して,天地長久・風雨順治・五穀成就を祈ったこと(ここまでは,まだ相撲は登場しない),その結果,翌年には豊作となったので,こんどは「相撲を奉納して,神霊を慰め奉った」という記述について。つまり,勅願を聞き入れてくれた神霊に対して,「相撲を奉納する」という考え方が,どこからくるのか,ということである。そして,なぜ,相撲なのか。
 この前後の舟橋聖一の記述によれば,聖武天皇のころには相撲があちこちで盛んに行われるようになっていた,という。それは,おそらく,それぞれの地域で独自の作法(ルール)を定め,いわゆるローカル・ルールで行っていたことが想定できる。つまり,一つには比較的安全に「相撲」を楽しむことができるようになっていたということ,もう一つには,なぜ,それほどに人びとは「相撲」を愛好するようになったのかということ,さらに,もう一つは,だれが,なんの目的のために,「相撲」を普及させたのかということ,などが考えなくてはならないポイントとして浮上してくる。
 一般の相撲史の本などでは,ほとんど扱われない話(あるいは,知っていて忌避されている話)に,野見宿禰の一族とその子孫(その末裔は菅原道真にいたる)がはたした「相撲」への影響力が強かったのではないか,という裏の話がある。野見宿禰の直系の子孫は,その後も『古事記』や『日本書紀』にもしばしば登場し,朝廷のなかではかなり重要な地位を登っていく。そのフィナーレを飾ったのが「菅原道真」である。なぜ,野見一族の相撲への貢献が,ほとんど評価されないのか,ここに一つのポイントがある。
 野見宿禰は,当麻蹴速を蹴り殺し,一躍勇名を馳せることになり,朝廷でも重く用いられるようになる。有名な「はにわ」(人身供犠の代わり)の提案は,当時の人びとにとってはなによりもの恩寵をもたらしたに違いない。こうして,ますます,野見一族の名は広まっていったはずである。しかし,その一部で,それをこころよしとしない貴族が現れる。なぜなら,野見一族は,葬送儀礼に携わる職能集団の一つだったからである。つまり,身分が低い,ということ。貴族たちは,野見一族を「葬祭屋」として蔑視する。その頂点に立つ事件が菅原道真の太宰府流しである。
 しかし,庶民は,野見の身分には関係なく,相撲への貢献をそのまま受け止め,庶民の「遊技」の一つとして受け入れていったのではないか,というのがここでのわたしの仮説である。もっと言ってしまえば,聖武天皇が「神事儀礼」として相撲を奉納する以前に,葬祭儀礼として相撲が広く行われていたのではないか,というのがもう一つのわたしの仮説である。
 つまり,「決闘」からの離脱,そして,「遊技」への移行,あるいは,「葬祭儀礼」への移行,そして,「神事儀礼」への移行,という具合に拡大していったのではないか,と。こうして,相撲が「芸能」となる下準備が着々と進展していったのではないか,と。
 相撲の禁じ手は,志賀清林のあとも,つぎつぎに追加されていった節がある。近世の木村柳悦直の著した「相撲伝書」によれば,「次のような,数カ条があげられている」と舟橋聖一は紹介している。たとえば,
 〇拳或は大指を以て眼を突く事。
 〇両掌を以て一拍子に両耳を強くうつときは気を絶し茫然となるなり。
 〇顕露(目と鼻の間)を拳をもって突くこと。
 〇鼻尖を上から,撲ひしぎては,眼くらむのみにて絶入はせず。鼻柱を下より上へ突こむときは悶絶す。茫然ともなる。
 以下,割愛(さらに10項目,その他にも3項目が追加され,さらに,人体の急所を図示して,この部分を攻撃してはならない,と断わっている)。一つひとつ確認していくと,まことに懇切丁寧というべきか,驚くべき指摘がなされている。
 禁じ手については,時代や社会によって,さまざまな変遷をへてこんにちにいたっている。雷電為右衛門が「張手」「閂」「鯖折り」の三つの技を禁じ手とされた話は有名である。つまり,力士個人に対して「禁じ手」が定められたのである。こういう「禁じ手」は特例中の特例というべきであろう。なぜなら,「張手」「鯖折り」で相手の力士が死んでしまったという珍事が起こったこと,「閂」では相手の力士の両腕をへし折ってしまったというこれまた信じられないようなことがおこったためである。こんなことは滅多にあることではないのだが・・・。それほどに,雷電という力士はケタがはずれるほどに強かったという証左でもある。
 いささか脱線してしまったが,雷電の時代の相撲は,すでに勧進相撲などと呼ばれる「見世物」(「芸能」)そのものであったことも書き加えておくことにしよう。
 とりあえず,今日のところはここまで。

 

2010年9月8日水曜日

野見宿禰と当麻蹴速の「決闘」の話を再検討してみる。

 野見宿禰と当麻蹴速の間で繰り広げられた「決闘」の話は,日本人であればたいていの人が知っている。しかも,これが「相撲の祖」として,一般に語りつがれていることも。
 しかし,この話,典拠となっている『日本書紀』の該当部分をよくよく読んでみると,野見宿禰は当麻蹴速を蹴り殺しているのである。昨日のブログで書いた話は,まずは,手と手を取り合って力競べをしている。そして「つかみひしぎて投げはなって」いる。こちらは,いくらかこんにちの相撲のイメージに近いものがあるが,野見宿禰と当麻蹴速の相撲はお互いに蹴りあって,蹴り殺してしまっている。いわゆる「決闘」である。このことが,ずっと以前から,なんとなく釈然としないまま,こんにちにいたっている。
 しかし,舟橋聖一は『相撲記』のなかで,とても面白い話を紹介している。それは,杉浦重剛の解釈である。「倫理御進講草案」というもので,そのなかに以下のような記述がある,という。
 「我が国の遊技にして,外国に類例無きものは,相撲を以て最も著るしと為す,故に世人之を日本の国技と称す。
 太古より武人が其の力量を角することは無きにしもあらざりしが,相撲道の祖としては一般に野見宿禰を推す。宿禰は出雲国の産にして垂仁天皇の御世の勇士なり。当時当麻蹴速といふものありて,強力無双,能く角を毀き,〇を申(の)べたり。天下我に敵するものなしと傲語す。
 天皇之を聞召され,出雲国より宿禰を召して,蹴速と力を角せしむ。両人相向って立ち,互に足を挙げて蹴合ひたるに,宿禰遂に勝ちて,蹴速を蹴殺し了りぬ。
 天皇大に宿禰の勇力を称し蹴速の所領を収めて,悉く之を宿禰に下し賜はりぬ。
 是れ相撲道の濫〇なり。爾後朝廷に於ても相撲(すまひ)の節会(せちえ)を設けらるることありて,之を奨励せられたり。(以下略)」(倫理御進講草案,第一学年序説第十二篇中の第十一より)
 杉浦重剛といっても,いまの人たちにはとんとなんのことやらわからないという人が多いかもしれない。簡単に触れておけば,明治・大正の時代に,日本の国粋主義者としてその名をとどろかせた論客である。読売・朝日の論説を書いていた時代もあり,各方面で大きな影響を及ぼした人物である。この人物が,昭和天皇や,その兄弟である秩父宮,髙松宮,両親王に帝王学の一環として「倫理」を進講した,その「草案」が上記の引用文献である。
 こうした背景はともかくとして,杉浦重剛も,「互に足を挙げ蹴合ひたるに,宿禰遂に勝ちて,蹴速を蹴殺し了りぬ」と述べている点に注目したいのである。つまり,「手」が登場しないのである。『日本書紀』の原文を読んでみても,「手」はひとこともでてこない。互いに蹴り合って,「足」で「蹴り殺した」とあるのみ。これを,なんの疑問もなく「相撲」と断定して,「相撲の祖」としている。しかも,「之を日本の国技と称す」とまで言っているのである。
 この杉浦重剛の文章を引用した上で,舟橋聖一もまた,「蹴速は,脇骨をふみさかれ,腰をふみくじかれて,遂に死んでしまったというのであるから,まさに死生を賭した,壮絶凄絶の一番勝負であったことが想像される」と述べている。「ふみさかれ」「ふみくじかれ」て死んだということは,「手」はつかってはいないと判断することができ,もっぱら「足」で勝負がつけられている,と推測することができる。これが「相撲の祖」であり,「相撲道」の原風景なのである。
 昨日の「国ゆずりの相撲」といい,今日の「決闘」といい,「手」で勝負をしたり,「足」で勝負をしたりしていて,言ってしまえば,「なんでもあり」の,「ルール」なき闘いである。生死を超越した格闘技,それが日本の国技といわれる相撲の原風景なのである。この原風景は,たとえば,古代ギリシアの神話のなかにもしばしば登場する「レスリングをして相手を殺した」という話と,まったく変わらない。おそらく,世界中のあらゆるところの古い「格闘技」は,こうした「決闘」であったのではないか,とわたしは類推している。
 にもかかわらず,舟橋聖一は,杉浦重剛の「我が国の遊技にして,外国に類例無きものは,相撲を以て最も著るしと為す,故に世人之を日本の国技と称す」という文章をそのまま紹介している。そこには,なんの疑念もない。それどころか,ごく当然のように歩調を合わせるかのようにして,ほとんど同じ立場に立って,このテクストの文章を展開している。
 こういう話をそのまま垂れ流しにしてしまうと,こんどは相撲は人殺しの技だったのだ,というとんでもない誤解が生じかねないので,もう一歩,踏み込んで,ここは考えておきたいとおもう。
 それは,「決闘」が正当化されるのは,どうしてか,という素朴な疑問である。なぜ,人は人を殺さなくてはいけなくなるのか。人を殺す必然性はどのようにして成立するのだろうか。自分にとって都合の悪い存在は殺してしまえ,という論理はどこから生まれてくるのだろうか。その根をたどっていくと,どうやら「供犠」にたどりつくように,いまのところは考えている。では,人間はどうして「供犠」を行うようになったのか。「供犠」をしなくてはならない必然性はどこにあるのか。とりあえず,ここでは,人間の存在を不安にする「超越」的な存在への「贈与」としておこう。では,なぜ,人間は「存在不安」に陥るのか。ここでの仮説も,すでに,このブログを以前から読んできてくださっている読者の方にはわかってもらえるものとおもう。それは,「内在性」からの離脱による「存在不安」である,と。「内在性」の内側で生きている者同士は,よほどの生物学的な理由がないかぎり,殺し合うことはない。なぜなら,お互いの「存在不安」がお互いの生死を賭して戦わなくてはならなくなる必然性は考えられないからである。
 相撲のはじまりは「決闘」だったのだ,というところで話を終わらせてはならない,とわたしは考えている。そうではなくて,その「決闘」という文化がどのようにして成立するのか,という根源的な問いが必要である,と考える。そうでないと,「神事儀礼」としての「相撲」というものの本質はみえてこない,とわたしは考える。なにゆえに,こんにちの土俵の上で展開される,荒々しい相撲にわたしの魂がとりこになってしまうのか,あるいはまた,相手の動きを封じ込めた上で,正々堂々と「寄り切る」相撲にこころを奪われてしまうのか,さらには,電光石火のごとき一瞬の技が決まるときの感動にしびれてしまうのか。相撲という文化の奥底に見え隠れしている,計り知れない「生の躍動」の源泉を,この眼で確認したい,このからだで感じ取ってみたい,という果てしない夢をいまも追いつづけているのである。すべての人間に共有されてしかるべき時空間の在り処を求めて・・・。その多くは「近代」が排除してきたように思われて仕方がないのだが・・・。
 21世紀のスポーツ文化を考えるために。

2010年9月7日火曜日

相撲に関する最古の記録「国ゆずりの相撲」について。

 ちょっとした相撲の歴史の本であれば,必ず書いてあることだが,相撲に関する最古の記録は『古事記』のなかにでてくる「国ゆずりの相撲」だということになっている。
 この話に関して,作家の舟橋聖一は『相撲記』(講談社文芸文庫)のなかで,なかなか興味深いことを書いている。その大筋は以下のとおりである。
 天照大神の詔を奉じて,建御雷(たけみかずち)の神が,出雲の国伊那佐の小浜にやってきて,剣を引き抜いて波打ち際に刺し立てておいてから,国津神の大国主命に向かって,お前の所領している豊葦原の中つ国をわたしによこせ,そして,家来になれ,と言った。大国主命はひとりの息子とともに「わかった」とその申し出でを受け入れることにした。ところが,もうひとりの息子の建御名方(たてみなかた)の神はそれに反対して,まずは,力競べをしよう,と提案した。そして「かれ我れ先づその御手を取らむ」と言った。
 この「御手を取らむ」という記述が,相撲に関する最古の記録だ,というのである。いまの,わたしたちのことばで理解しようとすると,ただ,お互いに手を取り合った,つまり,握手をした,と読めてしまう。しかし,舟橋聖一は,これをなんの矛盾もなく「相撲を取ろう」と言ったと理解している。舟橋聖一は,もともとは東大文学部国文科の卒業なので,日本の古典を読むことに関しては専門家である。そのことを勘案しながら,舟橋聖一の言うことに耳を傾けてみると,おもしろいことがわかってくる。
 「相撲を取る」という。相撲は「する」でもなく,「行う」でもない。もちろん,「プレイする」ものでもない。相撲は「取る」ものなのだ。その発端になる記述が,この「御手を取らむ」だというわけである。そして,この「御手」というのは,単に「手」のことを言っているのではなく,この「手」は,技,業をふくんだ手業を意味している,と。つまり,いざ,勝負となったときにお互いに手さぐりをしながら,相手の手をとろうとする。それも,できるだけ自分有利になるように手をとろうとする。立ち会いに「ぶつかり合う」ようになるのは土俵ができてからのことなので,当初は「手さぐり」からはじまったのであろう。現に,土俵のないモンゴルの相撲も,立ち会いは「手さぐり」からはじまる。韓国のシルムは,お互いに手でまわしをしっかりと「取って」(つかんで)から,試合開始となる。つまり,まわしを取ってがっぷり四つからはじまる。中国の少数民族の間で行われている相撲も,最初は「手さぐり」からはじまる。レスリングも同じである。
 「かれ我れ先づその御手を取らむ」というのはそういうことを意味しているようだ。だから,相撲にとっては「手」はきわめて重要な意味をもっていたということが,「手取り」「極め手」「手合い」「四十八手」ということばとなって残っていることからも理解できよう。つまり,「手」の意味する範囲が広い。同じように,「取る」もそうだ。「関取」「取的」「相撲取り」「取組」「取り直し」などをみれば一目瞭然である。
 ところで,建御雷神と建御名方神(よく似た名前でとてもやっかい)の勝負の結果はといえば,建御雷神の方が圧倒的に強く,あっという間に勝負はついたようである。その様子は,
 「若葦を取るがごと,つかみひしぎて投げはなち給へば,即ち逃げ去(い)にき」とある。
 建御雷神があまりに強すぎて相手ならなかった建御名方神はあわてて逃げたというのである。さて,では,建御名方神はどこに逃げたのか。遠く信州の諏訪湖に逃げたのである。しかし,建御雷神は,そのあとを追って,とうとう諏訪湖で建御名方神を取り押さえてしまう。仕方がないので,平身低頭,謝りつづけ,大国主命ともうひとりの兄弟と同じように,国を譲り渡し,建御雷神に恭順することを誓い,命だけは助けてもらう。
 こうして建御名方神は諏訪を新たな所有地として勢力を張り,こんにちの諏訪神社の祭神となる。この諏訪神社の祭りの一つの大きなイベントが,あの「御柱まつり」である。出雲大社が,かつては木造の巨大な神殿であったことを思えば,その系譜に連なる巨木を切り出す技術をもった職能集団も移住して行ったということも考えられようか。この地方の一種独特の共同体意識の強さは,この祭りと無縁ではないと言われている。
 もうひとりの建御雷神は,さらに,北東に進み,鹿島神宮に祀られているという。鹿島神宮が,当時にあっては,東北地方にあった一大勢力に対抗する,天照大神の勢力の北限であったと言われている。鹿島神宮は,いまでも「武」の神さまとして,武術が伝承されている。建御雷神は,たんに相撲が強かっただけではなく,武芸百般に通暁する武の達人だったのだ,ということが明らかになってくる。なかでも,相撲は武芸の中核をなしていた,と言ってもいいかもしれない。刀折れ,矢尽きたあとの「組み討ち」は,決闘にも等しかった時代の相撲そのものと考えてよいだろう。
 「御手を取らむ」の「手」は,武術全般に用いられる「手合わせ」するという意味での「手」であることも,ここまでくるとよくわかる。囲碁や将棋などの勝負ごとでも「手合わせ」ということばが用いられる。この「手」も技,業,術を全部ふくんだことばである。
 相撲の「手」ともいう。「攻め手」「守り手」「決まり手」などの「手」も同じ。
 「手のうち」ともいう。こうなると,作戦,戦略まで取り込んできて,ますます意味が広がっていく。
 際限がなくなってきた。このあたりで「手打ち」をして終わりにしておこう。

 

2010年9月5日日曜日

サッカー映画『ルドandクルシ』をみる。

 最近はあまり映画をみなくなってしまって,これはよくないなぁ,と思っていたら,『ルドandクルシ』というサッカー映画のDVDが送られてきて,短いコメントをしてくれという依頼があった。
 これは絶好のチャンスとばかりに,ほかの仕事をなげうって,さっそくこの映画をみてみた。面白い,のひとこと。最初から最後まで,とにかく面白い。話の展開のテンポもいいし,つぎからつぎへとさまざまなメッセージが発信されてくる。一瞬たりとも退屈しない。
 ストーリーはきわめて単純。メキシコの片田舎のバナナ園ではたらく兄弟が,偶然とおりかかったサッカー・スカウトの目にとまり,メキシコ・シティへつれていかれ,プロへの道を歩む。田舎者が都会にでてきて,だれもが経験するさまざまな洗礼をうけながらも,幸運なことに二人とも才能をはやばやと開花させ,一躍有名人となる。兄はゴールキーパーとして,弟はフォワードとして。有名人になるととたんに都会ならではの悪魔のお誘いがあの手この手で押し寄せてくる。純朴な青年である兄弟は,あっという間に,その道に引きこまれていく。そして,あとは・・・・,というお定まりのストーリー。それでも,大好きな母親のために,母親の好きな海岸に豪邸をプレゼントし,兄弟二人の夢は実現する。しかし・・・・,という話。
 冒頭のサッカー・スカウトとの出会いの場面が,まず,腹をかかえて大笑いする。スカウトは二人は無理だから,とちらか一人だ,という。そこで,仕方がないので,それぞれ得意のポジションである兄はゴールキーパー,弟はフォワードとして,ペナルティ・キックをすることになる。止めれば兄,入れれば弟。ところが,ここで兄弟愛がとんでもない演出をする。兄は弟に「右に蹴ろ」と指示する。弟は仕方がないので,「右」に蹴る。ところが兄は「右」に飛ぶ。お互いに自分からみての「右」しか考えていなかったのだ。だから,弟のシュートがみごとに決まり,すぐに,兄が弟のところに駆け寄り,掴み合いの大喧嘩となる。兄が「右と言っただろう」,弟「だから,右に蹴った」,二人が激しく口論する場面で,まずは大笑い。
 ところが,このペナルティ・キックはこの映画の伏線になっていて,最後のフィナーレで,ふたたび兄弟対決となる。兄は,弟に,同じように「右」を指示する。どちらも「名声」と「名誉」がかかっている。兄はキーパーとして,パーフェクト・セーブの記録を更新中,弟は女性問題で謹慎中で,このペナルティ・キックをはずせば,以後はペンチ組になると監督に言われている。この事情を知っている兄は,弟に花をもたせようと覚悟を決めている。しかも,兄は,この試合でセーブに失敗すれば,賭博で負けた借金をチャラにするという八百長が仕掛けられていることも知っている。おまけに,もし,この八百長を成立させなければ,マフィアに命を狙われる,ということも言い聞かされている。弟も,兄がその気になっていることがわかっている。だから,以前と同じように「右」に蹴ればいいのである。しかし,弟には一瞬の迷いが生じ・・・・,運命の明暗を分けることになる。
 兄のサッカー選手としてのニックネームは「ルド」(=タフな乱暴者),弟は「クルシ」(=ダサい自惚れ屋)。二人とも,その名のとおりの大活躍をする。映画としてみているかぎりは,まことに面白い。そのひとことに尽きる。
 しかし,見終わったあとの,なんとも言えない寂寥感はなんだろう。人間とはなんと愚かなんだろう。田舎の素朴な人間同士のほのぼのとした暮らし,たとえ貧乏であろうとも,暖かいこころの通い合いにささえられた日々。それを断ち切って,まだ,見たことのない都会に憧れ,サッカーの夢の実現に猛進する兄弟。そこに待ち受けていたものは,得点をとれば(兄はセーブすれば)英雄。ただ,それだけ。兄弟が英雄となり,豊かな暮らしをはじめたとたんに,忍び寄る悪魔の手。田舎育ちの純朴な兄弟には,その罠が見抜けない。女,麻薬,賭博,マフィア,八百長へと一直線。そして,最後は虫けら同然のように,光り輝く世界から放り出される。兄は命こそ助かるものの片足を,マフィアの銃弾にやられて失う。弟は,しがない歌手となり,場末を流れて生きていく。
 人生は「賭け」だなぁ,としみじみおもう。サッカーに夢を託して都会をめざす若者は,だれもとどめようもない。ごくごく当たり前のことだ。それが,サッカーでなくても同じだ。勉学に夢を託して都会をめざすのも,大相撲で夢の実現をめざす若者も,みんな対等だ。しかし,その夢を実現させた者の方にかえって大きな落とし穴が待っている。功なり名をとげた,立派な学者・研究者の中にも「女」で失敗した人を何人も知っている。政治家でも同じだ。人生は,分け隔てなく,大きな罠が仕掛けられている。まがりなりにも,若き日の夢を実現できた者はまだしも,大多数ははやばやと夢破れて,第二の人生を歩むことになる。
 つまり,圧倒的多数は「敗者」なのだ。それは,スポーツをみれば一目瞭然だ。サッカー選手なり,野球選手をめざす若者は,掃いて捨てるほどいる。その熾烈な競争を勝ち抜いた,ほんの一握りの人間しか,その頂点には立てないのだ。その意味では,人生は「いさぎよく負ける」ための哲学を学ぶ場なのだとおもう。そして,何回も何回も立ち上がり,挑戦をつづける。そのうちに「あきらめる」。このとき,人はほんとうの意味で「達観」するのではないか。よく闘い,よく負けること。そういう人のみが到達することのできる「境地」がある。「明鏡止水」の境地は,こういうプロセスを経た人たちにのみ可能なのではないか,としみじみおもう。
 運良く成功した人たちこそ,ありとあらゆる悪魔の手が忍び寄ってきて,人生のどこかで大なり小なり失敗をする。他人には絶対に知られたくない「隠し事」は,こういう成功組の方が多い。政治家をみれば,一目瞭然だろう。ほとんどの政治家は叩けば埃が舞い上がる。身辺がまったく潔癖で,最後まで生ききることのできる政治家のなんと少ないことか。財界も官僚も学者も,みんな同じだ。つまり,人間としての弱さなのだ。人間はわかっていながらにして,悪の深みにはまっていく。ほんとうに弱い存在だとおもう。
 この映画をみて,こんなことを思いめぐらせてしまうことになった。さて,わずか700字足らずの字数で,どんなコメントをしたらいいのだろうか。こんどは,わたしが悩む番だ。

2010年9月4日土曜日

コメントの入れ方について(お詫びとお願い)。

 複数の方から,このブログへのコメントの入れ方がわからない,という連絡をいただきました。この件について,お詫びとお願いがあります。
 じつは,ことしの6月に,それまでのブログを閉鎖しました。理由は,コメントの書き込みが,悪質な読者に妨害されたためです。そして,このブログを立ち上げました。そのときも,できるだけオープンにして,いろいろの人のコメントをいただければと考え,だれでも書き込めるようにセットしました。ただし,公開するかどうかは所有者が決めるように設定をしました。そのため,いきなり公開されることはなくなりましたが,きわめて悪質なコメントが,あるときから殺到するようになりました。そこて,あらためてコメントの入れ方について,設定の変更をしました。
 そのために,読者のみなさんにご迷惑をおかけすることになってしまいました。
 コメントを入れるには,まず,Googleアカウントを取得してください。その上で,コメントを入れてみてください。それでも,すぐには「公開」されません。わたしが「確認」をした上で,「公開」か「非公開」かを決定いたします。ですから,コメントを入れてから,わたしが「確認」するまでの間の時差が生じます。お許しください。朝と夜の2回,このブログに関してチェックするようにしています。その点をご理解いただけますよう,お願いいたします。
 Googleアカウントでは,匿名で登録することも可能です。ですから,匿名の場合には,わたしにも読者のみなさんにも,ご本人がだれであるかはわかりません。ただし,Googleの管理部門では,メール・アドレスを把握していて,わたしとの間のメールのやりとりを仲立ちしてくれます。また,悪質なコメントが入った場合にも,わたしから管理部門に連絡をして,注意をしてもらうことができます。その意味では,わたしとしてはとても安心です。
 ちょっと面倒なことになっていますが,以上のような事情があってのことですので,どうぞよろしくお願いいたします。
 なお,「読者」の登録をすると,どういうメリットがあるのか,わたしにもよくわかりません。匿名で登録された方のなかには,わたしの承知していない方もいらっしゃいます。それはそれで構いません。たぶん,わたしの方からメールを管理部門をとおして送信することができる,という利点があるということのようです。ですので,この利点を活かして,別途,「Webマガジン」でも発行して,送付できるようにしようかな,と考えたりしています。あるいは,「読者」に登録してくださった方で,どういうメリットがあるのかご存知の方がいらっしゃいましたら,教えていただけると助かります。それはともかくとして,「読者」登録をしてくださる方が増えてくるのは,なんとも勇気づけられます。頑張って,ブログを書こうという気になります。どうか,激励の意味で「読者」登録してくださることを心待ちにしていますので,よろしくお願いいたします。
 もう一点。ブログの最後のところに,「リアクション」という窓がありますので,「おもしろい」と思われた方は,どうぞそこをクリックしてください。いまのところ,どなたもクリックしてくださいませんので,「おもしろくない」と思われているのでは・・・と落ち込んだりしています。自分で入れるのも癪なので,そのままになっていますが・・・。たとえ,面白くなくても,どうぞクリックをしてやってください。気の弱いわたしにとっては,励みになりますので,よろしくお願いいたします。
 以上,お詫びとお願いまで。

2010年9月3日金曜日

見田宗介さん,大丈夫ですか?そして,朝日新聞さん,大丈夫ですか?

 ちょっとあきれてしまって,ものも言えないくらいショックを受けた記事が目に入り,どうしようか迷った末にこのブログで書くことにした。
 朝日新聞夕刊一面の下段に,「人・脈・記」という大きなコラム記事が連載されている。9月2日は「イラク 深き淵より・22 憎しみを超えて 共生へ」という見出しで,ウルリッヒ・ベックさん(ドイツの社会学者)と見田宗介さんの主張が紹介されている。そして,ベックさんのまことにまっとうな主張に対して,見田さんの主張は,どう考えてみても納得しがたい。それどころか,見田さん,大丈夫ですか,と問いただしたい。いやいや,怒りすら覚える。そして,同時に,このような記事を朝日新聞は掲載して,たぶん,両論並記のつもりなのかもしれないが,わたしの目には,どう考えてみてもメディアによる「暴力」以外のなにものでもない,と写る。
 精確には,新聞記事を全文転記してから,わたしの主張を展開すべきであるが,そうもいかないので,その骨子だけを記しておく。説明不足の部分は,新聞で確認していただきたい。
 ここでは,2点にしぼって,問題提起をしておきたい。
 1点は,パレスチナの民衆が,世界貿易センタービルが崩壊するのを,躍り上がって喜ぶ映像と,米国の爆撃でアフガニスタンやイラクの子どもたちが死んだことに対し,ニューヨーク市民が「かわいそうだが,仕方がない」とインタビューに答えている映像を比較して,「二つの映像は,一見すると正反対だが,自分たちが受けた被害に対する憎しみのあまり,『相手には何をしてもかまわない』という感情にとらわれている点では,同じだ」と発言している,このこと。
 2点めは,紀元前600年ごろまでの古代ギリシアでは,今の中東と同様,血で血を洗う激しい抗争が繰り広げられていた。「でも,人々はある時,『こんなことをいつまでも続けていてはだめだ』と考え,異なる部族が互いに共存できるアテネの市民社会を,100年かけてつくったのです」,という発言。
 こんなことを,ほんとうに,あの見田さんがおっしゃったのだろうか,とわたしはわが目を疑った。かつて,飛ぶ鳥を落す勢いで活躍された若き俊秀が,ある事件(中沢人事)をきっかけにして,メディアから姿を消していたとはいえ,この認識の甘さはなんとしたことだろう。しかも,この内容を朝日新聞社の「校閲」の手も経ないで(経たとしたら,もっと重大),デスクは掲載を許可している,という事実。わたしのような専門家でもない人間ですら,事実認識という点で奇怪しい,とすぐにわかることが「大通り」を闊歩しているとは。もし,これが朝日新聞社の主張を代弁するものだとしたら,もっと恐ろしい。
 2点めの方が簡単なので,こちらから,わたしの考えを述べておく。ホメーロスの『英雄叙事詩』(『イーリアス』『オデュッセイア』)にも,詳細にわたって「血で血を洗う激しい抗争」が描かれているし,あるいは,一連のギリシア悲劇も同じ情景を詳細に描いていることは,よく知られているとおりである。しかし,見田さんもご指摘のとおり,これらの抗争は「部族間」のものだ。ということは,お互いが「対等」の立場で戦っている。しかも,名門同士が「名誉」をかけて戦っている。逃げも隠れもしない,正々堂々と真っ正面から名のりをあげての「戦争」だ。しかし,この古代ギリシアの抗争(戦争)を「今の中東と同様」と,見田さんは認識されていらっしゃるが,大丈夫ですか,とうかがいたい。目にみえない,どこにいるかも定かではない相手に向かって,「血で血を洗う抗争」どころか,最新兵器を用いた一方的攻撃でしかない「テロとの戦い」とを混同していらっしゃるのでは・・・とわたしは危惧する。
 1点めの方は,もっともっと根の深い,暴力的「地ならし」としか言いようがない。この問題をこのブログの枠組みのなかで論ずることは,むしろ,危険ですらある。だから,ここでは,その,ほんの部分だけをとりあげるにとどめたい。パレスチナの人びとの戦いの手段は,みずからのからだに爆発物を巻き付けて,イスラエルの群衆のなかに紛れ込んで,「自爆」するしかない。しかも,女性も子どもも,この「自爆テロ」に志願する。つまり,もはや,生きていても,無抵抗のままミサイル攻撃でいつか死ぬ運命にあることを自覚している。ならば,自分の意志で「死」を賭して,ひとりでも多くのイスラエル人を巻き添えにする方がいい,と覚悟を決めている。そういう人たちの「憎しみ」と,圧倒的な「安全」のもとに平和な暮しが保障され,身が守られているニューヨーク市民の「憎しみ」とを,わざわざ取り上げ,比較して,「同じだ」と断定する見田さん,ほんとうに大丈夫ですか,と再度うかがいたい。
 おまけに,吉本隆明のいう「関係の絶対性」の概念をもちだしてきて,「同じだ」とおっしゃる。こんな援用のされ方をしたのでは,さすがの吉本さんも苦笑する以外にないだろう。
 こういう,わたしの目からすれば,明らかな「暴論」を,朝日新聞社の記者が「実名」で書いている,という事実に唖然としてしまう。

 思い起こせば,ちょうどほぼ一年前,竹内敏晴さんが亡くなられたときの「追悼文」を見田さんが,ご自分で書かれた(と記憶する)ものが,朝日新聞に大きく掲載された。このときの文章もまた,わたしの目には耐えられない,まことに粗雑きわまりないものであった。このときも,わたしは我慢できなくて,このブログをとおして,思いのたけを書かせてもらった。

 これ以上のことは書かない方がいいだろう。
 ブログで書くことには限界があるから・・・・。

2010年9月2日木曜日

熱中症による死者496人とか・・・・。

 梅雨明け(7月17日)してから8月31日までに,熱中症がきっかけで死んだとみられる人が496人に達したという。
 この数字は,時事通信社が,消防,警察,自治体に取材して明らかになったものだという。しかも,自治体によっては,その数をカウントしていないところもあるそうで,実際はもっと多くの人が熱中症で亡くなっているはずだ,という。だとすれば,この夏に500人以上の人が熱中症で亡くなっていることになる。
 総務省消防庁が把握しているかぎりでも,熱中症で救急搬送された人は全国で4万6728人。この数をみて驚いてしまった。その原因の主たるものが,クーラーはからだに悪い,扇風機もからだに悪い,という思い込みだそうだ。とくに,窓を締め切ったまま眠っているお年寄りが圧倒的に多いという。
 こういうニュースをみるとわたしなどは胸が痛む。わたしたち以上の世代の多くがそういう誤解にもとづく「信念」で生きているからだ。思いかえせば,わたしの子ども時代は扇風機はなかった。みんな,夜はうちわを一つずつもって眠ったものだ。目的は二つ。一つは暑さしのぎ。もう一つは蚊遣。香取線香だけでは間に合わず,うちわで蚊を追った。朝,目覚めるとからだのあちこちに蚊にやられた赤い斑点がついていたものだ。
 扇風機が家庭に入りはじめたのは,わたしが大学を卒業してまもないころ。昭和35年(1960年)以後のこと。結婚の早かった友人のところの赤ん坊に,夏に,扇風機の風をあてているのをみて「あてっぱなしはからだに悪いから気をつけた方がいいよ」と忠告した記憶がある。扇風機の出始めのころは,みんな喜んで赤ん坊に風を送った。使い方を間違えた人が,それで赤ん坊を亡くす,という悲しい記事が新聞紙上を賑わしていた。それにつづいて新聞には「特集記事」も組まれ,結局,扇風機は使い方次第である,と書いてあったはずなのだが,いつのまにやら「扇風機はからだに悪い」というイメージだけが定着してしまった。
 そのあと,クーラーが家庭に入りはじめる。それはもっとあとのことで,1980年代に入ってからだと記憶する。出始めたころのクーラーは製品の性能もあまりよくなく,からだを冷やしすぎてしまって,体調をくずす人が多くでた。それを「冷房病」と呼んだ。その後,どんどん改良され,最近ではエアコンと呼ばれ,冷房・暖房兼用である。上手に設定すれば,まことに快適な空間を確保することができる。しかし,こちらも,ある年齢以上の人たちには「冷房病」という恐ろしい病気の名前だけが強く印象づけられてしまい,クーラーはからだに悪い,ということになってしまった。
 いまも,熱帯夜というのに,窓を締め切って眠りにつくお年寄りは,こういう誤解にもとづく「信念」を貫いている人たちだ。なにを隠そう,かく申すわたしも,どちらかと言えばクーラーは嫌いである。だから,自宅には,扇風機もエアコンもない。熱帯夜は窓を開けっ放しにして,うちわを片手に自分で涼を確保し,いつのまにか眠りにつくのを待つ。慣れるというものは恐ろしいもので,それで,眠れなくて困ったということはほとんどない。ただし,夜中に何回も目が覚めて,そのつど水を飲みにいく。水分を相当に補給しているはずなのに,一晩で1キロは軽く体重が落ちている。その代わり,朝起きてすぐにシャワーを浴びる。
 ただし,鷺沼の事務所は,エアコンをセットし,扇風機も小型ながらおいてある。この両方をうまく組み合わせて,快適な室温と風を送るようにしている。そうすると,室温29℃で,ちょうどいい。室温は,仕事をする机の上の温度計による。そして,扇風機は床から天井に向けて風を送る。ようするに攪拌することが目的。そうしないと,天井は暑く,床は寒い,という「からだに悪い」状態になってしまう。この夏は,きわめてまじめに事務所に通った。家にいるより,はるかに快適だから。こうして,なんとか夏を乗り切ったつもりであるが,なんと,まだ2週間ほどは,猛暑日と熱帯夜がつづくそうである。9月に入ったというのに。

 2003年の夏のことを思い出す。ちょうど,ドイツ・スポーツ大学ケルンの客員教授として4月から9月末まで滞在していたときのこと。ヨーロッパが記録的な猛暑に襲われ,ケルンも大変だった。新聞をみると,フランスでは〇〇人が熱中症・熱射病で死んだ,という報道が連日のようにつづいた。ドイツやフランスでは,一般の家庭にはほとんどエアコンは設置していない。天井は高いし,夏でも涼しいからだ。むしろ,夏でも夜になると寒いくらいだ。それが例年のことである。しかし,この2003年は異常気象がヨーロッパを襲い,どこもかしこも猛暑となった。ドイツ人たちは,この夏のワインはうまくなるぞ,と噂をしていた。猛暑がようやく去った9月中旬には,フランスで死者が5000人を超えたというニュースが流れた。ドイツにいるのに,テレビも新聞も,フランスの死者のニュースだけである。ドイツの死者の話も報道される。しかし,人数は一度も流れない。不思議に思って,ドイツの友人たちに聞いてみた。みんな同じ答えだった。ドイツではそういう死者はカウントしない,というのである。じゃあ,フランスとどっちが多く死んでいるのだろう,と聞いてみる。にやっと笑って,ドイツ人だ,という。なぜ?とわたし。ドイツ人の方が太った老人が多いから,とドイツ人。それでケロリとしている。

 まあ,この猛暑,いつまでつづくのかと恨めしくなって天を仰ぐ。でも,今日あたりは道を歩いていても,日陰に入ると流れる風は,どことなく秋を感じさせる。ほんのちょっと涼しい風にあたるだけで,皮膚は明確にその違いを感じ取っている。人間のからだというものは不思議だ。わたしのからだは,すでに,秋は近いと感じ取っている。早く,それが現実となってくれることを祈るのみ。