2011年8月30日火曜日

両足義足の400mランナーが世界選手権大会で活躍。

生まれたときからむこうずねの骨(脛骨)がなく,11カ月後には両足とも切断した赤ん坊が,いま,陸上競技の世界選手権で大活躍。一次予選を通過して,その堂々たる走りが注目を浴びている。両足義足の400mランナーのオスカー・ビストリウス選手(南アフリカ・24歳)。その義足が,競技を有利にする「補助具」であるかどうか,が大きな論点のひとつになっている。

かれにとっては,ものごころついたときから,その義足が自分の足だった。補助具でもなんでもない。まぎれもなく自分の足だった。その足で立ち上がり,その足で歩くことを覚えた。ふつうの赤ん坊と同じように。やがて,近所の子どもたちと同じように走りまわって遊んだ。成長とともに,その足も大きくなっていった。やがて,駆けっこの面白さに目覚め,走ることに夢中になる。

努力すれば健常者と対等に走ることができるようになると確信したかれは,いよいよ,本格的なトレーニングをはじめる。そのために,かれは桁外れの練習量をこなしたという。トップ・アスリートをめざして,どんなに辛い練習にも耐えた。少しずつ記録が伸びていくのが嬉しくて,歯をくいしばって,みずから立てた練習計画に耐えた。そこを耐え忍んだ結果が,こんにちの姿である。その義足のランナーを排除しようとする動きが一部にある。

この問題を考える上で欠かすことのできない,もうひとつの話がある。
2008年,国際陸上競技連盟は,「同選手の義足は,反発力などで健常者に比べて少ないエネルギーでスピードを維持でき,装置による助力に当たる」という理由でオリンピックや世界選手権への出場を禁止した。しかし,オスカー・ビストリウス選手はそれを不服として,スポーツ仲裁裁判所に提訴した。その結果,「有利となる十分な根拠がない」として,出場が認められることになった。

こうして,晴れて競技会に復帰したかれは,ことしの7月に参加標準記録を上回る45秒07をマーク。いま,韓国のテグで開催されている世界陸上選手権大会に南アフリカ代表選手として乗り込んできた。400mと1600mリレーの選手として。そして,400mの一次予選を通過したことによって,一段と脚光を浴びることになった(今日30日の新聞によれば,残念ながら二次予選を通過することはできなかった)。

さて,テグに乗り込んできてからの,かれの談話に耳を傾けてみよう。
「歴史的な瞬間。世界のトップ選手と競えることを誇りに思う」
「この舞台に立つことで健常者と障害者スポーツの融合の象徴となれることを誇りに思う」
「陸上のようなスポーツでもっとも重要なのは自分に勝つこと。自分との闘いに勝つとき,記録は更新されるだろう」

このオスカー・ピストリウス選手の活躍をこころよく思っていない,競技役員や選手たちも少なくない,という情報が流れている。その理由は「公平性を欠く」というのである。つまり,「平等ではない」というのである。はたして,どうか。この点については,これからオスカー・ビストリウス選手が活躍すればするほど話題になり,議論になるところだろう。メダリストになったら,間違いなく大議論が沸き起こることだろう。

わたしの結論はこうだ。もし,かりに,オスカー・ピストリウス選手が金メダリストになったとしても,かれを排除すべきではない。その理由は,かれにとっては「自分の足」を鍛えに鍛えて,その上で走ったその努力の結果の精華なのだから。もうひとつの理由は,スポーツにおける「公平性」とか,「平等」というものに懐疑的だから。

詳しくは,いずれ機会をみて語ってみたいと思う。今回はとりあえずの頭出しまで。
みなさんのご意見をお聞かせいただければ幸いである。

2011年8月29日月曜日

笠井叡著『カラダという書物』(りぶるどしおる)を読む。

ダンサーにとって<カラダ>とは何か。
宇宙の感覚器官としての人間身体を問う。

たとえばミミズやバラの花や魚の,大地や海との一体的ありよう。これは人間には不可能である。自然としての身体を持ちながら。なぜだろう・・・人間身体と生命のありようを徹底考察する。

本書の帯に書かれているコピーです。上段が帯の表に,そして下段が帯の裏に書かれているものです。とくに,下段のコピーは,なんと不思議なことを言う人だろうか,と思って間違いありません。そのとおりの不思議な本なのですから。第一,『カラダという書物』というタイトルからして変です。「カラダ」は書物だ,と言うのですから。それに,身体のことを「カラダ」とカタカナ表記をするのも,この人独特の手法です。ふうつは,身体とか,肉体とか,漢字のイメージから解き放たれたいときに「からだ」とひらがな表記をします。が,そうではなくて「カラダ」です。

そして「人間身体」という言い方も笠井の独特の表記です。人間の身体でもなく,人間は身体である,でもなく「人間身体」です。この「人間身体」こそ笠井の追求したい最終ゴールではないか,というのがとりあえずのわたしの読解です。もちろん,笠井の最大のテーマは「ダンサーにとって<カラダ>とは何か」にあります。しかし,その<カラダ>とは「宇宙の感覚器官としての人間身体」そのものでもあります。ですから,「人間身体」を究めないとダンサーとしての笠井は納得しないのだ,とわたしは考えています。

じつは,わたしも「スポーツする身体とはなにか」という問いを,すでに長い間,問いつづけてきています。その営みの必然的な帰結として「舞い踊る身体とはなにか」という問いが,その根底にあります。別の言い方をすれば,「舞踊する身体」「踊る身体」「舞う身体」「ダンスする身体」という表記も必要に応じて用いたりしています。ですから,わたしも「からだ」という表記を用いることはあります。しかし,「カラダ」とカタカナ表記をしたことはありません。

ここに,じつは,笠井とわたしとの「身体論」を語るときの基本的な姿勢の違いがあります。笠井はあくまでもダンサーです。そして,そのダンサーにとって<カラダ>とは何か,と問います。つまり,ダンサーである「わたしの身体」は,わたしの「身体」でもなんでもない,単なる<カラダ>だというわけです。そういう<カラダ>とはなにか,それをいかに読み解くか,そこをダンサーは避けてとおることはできない,と笠井は主張します。だから,「カラダという書物」だ,という次第です。

それに引き換え,わたしの「身体論」は,まことに残念ながら,あくまでも抽象論です。言ってしまえば,当事者としての身体論ではありません。若干あるとすれば,若いころに熱中した体操競技をする身体とはなにであったのか,というような経験にできるだけ即して考えようとする程度です。ですから,むしろ,じっさいに生きる人間にとって「スポーツする身体」とはなにか,というような問いになっていきます。これはこれで一つの「身体論」のスタンスであっていい,とわたしは考えています。

そういうわたしのスタンスから,このテクストを読むと,いいなぁ,うらやましいなぁ,とさえ思うほどです。なぜなら,そこには,たえず踊りながら,ダンサーであるおれにとって,このとらえどころのない<カラダ>とはなにか,という対話がつねにあるということです。そして,その次元で納得のできることと,納得できないこととの「境界領域」が,たぶん,ダンサーである笠井の<カラダ>のなかで渦巻いているのだろうと思います。この点が,わたしには欠落しています。残念ながら。

さて,話を少し前にもどします。そして,帯の下段のコピーについて,少しだけ私見を述べておきたいと思います。このコピーは,わたしの感覚器官からすると,「あっ,ジョルジュ・バタイユだ」と反応してしまいます。バタイユは「水のなかに水があるように存在する」,それが自然存在というものであり,動物や植物や鉱物はそのようにして存在している,といいます。しかし,人間は,動物性から離脱してしまったために,残念ながら,どう頑張ってみても「ミミズやバラの花や魚」のように存在することはできません。「自然としての身体を持ちながら」。という具合にみごとに一致していきます。

しかし,笠井はバタイユの世界もしっかりと視野のうちに収めながら,シュタイナーの神智学・オイリュトミーの世界に没入していきます。断るまでもなく,その前に,笠井がダンサーに目覚めるきっかけを与えたのは大野一雄であり,土方巽です。いわゆる「舞踏」ということばが立ち上がるころに,18歳で大野一雄の手ほどきを受けます。

その時のことを笠井はつぎのように回想しています。
「鉛の眼で世界をみろ」,「そこに見えてきたものを踊ってみろ」と言われ衝撃を受けた,と。たぶん,そのときから,まったく意のままにならない,わたしであってわたしではない<カラダ>を読み解く作業がはじまったのだろうと思います。それは,土方巽との出会いによって,さらに深められていったのだろうと思います。

笠井によれば,大野一雄は,ある日,突然,眼の前に現れたコオロギをみて「あっ,わたしのお母さん」と言って,すぐに踊りはじめたといいます。このあたりにも笠井がわざわざ<カラダ>という表記をし,特別の概念付与をしていることの謎を解く鍵があるかもしれません。しかし,それを最終的に決定づけたものはシュタイナーのオイリュトミーだったと言っていいでしょう。

その笠井が説くところの<カラダ>についての深い考察がこの本のなかにはぎっしりと詰まっています。それは,ひとくちに言って,驚くべき内容になっています。おそらく,このような「身体論」を提示した人は,管見ながら,わたしは知りません。(もちろん,大野一雄や土方巽の書いたものとのシンパシーはつよく感じますが,そこにシュタイナーの神智学が入り込みます。この視点が笠井独自のスタンスだと,わたしは理解しています。)

わたしの考えとは,基本的なところでは,とてもよく波長が合うのですが,ところどころでわたしの感覚器官では受け止められない世界にはみだして行ってしまいます。そこが,また,わたしにとってはとても面白いと思ったところです。言ってしまえば,そこが,シュタイナーの神秘主義的な発想と思考にもとづく一つの到達点なのだろう,とわたしは想像しています。

とにかく笠井ワールドを知るには絶好のテクストになっています。「ダンサーの<カラダ>とはなにか」ということに関心のある方は必読のテクストです。そして,科学主義にからめとられた身体論から抜け出すための一つの重要な示唆を提示している,と言っていいと思います。ただ一つ,わたしの不満は「エロティシズム」について語ろうとしない点です。その点,ジョルジュ・バタイユは丸裸の「人間」そのものを真っ正面に据えて,「人間とはなにか」を問い,『宗教の理論』を展開しています。もちろん,問題関心の持ち方が基本的に違うということが大前提となりますが・・・。

久しぶりに,いささか興奮する読書体験をさせてもらいました。ダンスに興味をお持ちの方には,お薦めです。

2011年8月28日日曜日

内藤誠監督作品『明日泣く』の試写会に行ってきました。

昨夜(26日),渋谷ユーロスペースで行われた映画の試写会に行ってきました。なにせ,25年ぶりに監督復帰をはたしたという内藤誠さんを言祝ぐ,それが最大の目的でした。立派なものです。75歳にして監督復帰というのですから。それだけ周囲の期待が大きいというところが凄いと思います。やはり,奇才監督とかつて言われたとおり,いまごろになってふたたび脚光を浴びる人なのですから。そういう時代を経てなお古くならない普遍のテーマが内藤さんの作品には隠されていたということでもあります。わたしも見倣わなくては・・・と反省。

わたしの太極拳仲間の友人たちを誘ってきてください,と一人ひとり名指しで内藤さんからメールがきました。Nさんは仕事の関係で無理。Sさんはすでに別の試写会でみたとのこと。Kさんは行く行く,ということでKさんとご一緒しました。

映画はとてもいいできあがりだった,というのがわたしの印象です。これまでわたしが見てきた内藤監督作品とはいささか雰囲気が違っていました。脂ぎったこてこてしたところが抜け,オカルト的な仕掛けもなく,ストーリーの山場を上手に見せながら,淡々と主人公の若き日のハチャメチャな青春時代を振り返る,そういう仕上がりになっていたと思います。やはり,25年という内藤さんの人生経験がそこにおのずから滲み出てきたということでしょう。

もっとも,原作者の色川武大さんとも年齢的に7歳しか違わないので,同時代を生きた人としての共感もあったことでしょう。内藤さんとわたしとは県人寮で3年間,一緒でした。実年齢では2歳,内藤さんの方が上ですが,学年では一つしか違わなかったので,とても仲良くしてもらいました。だから,わたしもまた同時代の人間といっていいと思います。ですから,原作のもつ雰囲気も,内藤さんによる演出も,わたしには一つひとつ響くものがありました。懐かしさをともなった,不思議なこころをくすぐられたような気分でした。

上映前に監督の挨拶があって,そのなかで「一度みたあとで,しばらくして,もう一度,あれをみてみようか,という気持になってくれればいいなぁ,と思ってつくりました」とありました。見終わった翌日のいま,すでに,もう一度,みたいなぁと思っています。一般公開されたら,もう一度,こんどは別の視線からみてみようと思っています。そんな監督の意図をそのまま感じさせる映画でした。その意味でも,とてもいい映画だと思います。

「明日泣く」ことがわかっていても,やはり,いま,やりたいことはやりたい,だから「今日は笑って生きてやる」と粋がる,それが青春というものなんだ,とこの映画は教えてくれます。もちろん,原作がそうなっているわけですが・・・。

言ってみれば,原作者色川武大の青春自伝小説の映画化ですので,その点から眺めてみても面白さがひろがります。そうか,高校時代から作家を夢見ていながらも,学校をさぼっては雀荘に足を踏み入れたり,賭場にまで紛れ込み,さんざんな眼に遇いながらも,そこから足を洗うことはできない,そういう自分を作家になってから振り返りつつ小説化しているというわけか,と。高校の同級生だった女の子がジャズ・ピアノの世界で活躍するようになり,そこでの再会がかれのその後の人生に大きな影響を及ぼすことになります。この女の子こそ,どんなに辛いことがあっても,好きなことはやりとおす,そして「今日は笑って生きてやる」と主人公に主張します。

いまはもう懐かしく思い出すしかないわたしの青春時代。ものはない,金はない,常時空腹,夢も希望も大きすぎて実現性はない,しかし,時間だけはたっぷりある。そういう充たされないながらも「あの古きよき時代」をわたしも生きたひとりです。ですから,この映画にでてくるシーンのほとんどは全身で共感できるものばかりでした。金はないのに安いバーを探して飲み歩く,バーの女の子を口説く,吸ってもうまくもないタバコを吸う,マージャンにものめりこむ。話すことは女のことばかり。ひたすら妄想の世界のみ。そして,ひたすら「消尽」(フィンガー・スポーツと言った人がいる)これあるのみ。

そういうことが許された,あるいは許容された,あっけらかんとしたあの時代。いまの学生さんたちは,いったい,なにをして青春を謳歌しているのだろうか・・・といささか気の毒になってきます。ここまで管理社会が浸透してしまうと,社会そのもののなかにいささかの悪事も許されない,まことに息苦しい時空間のなかを生きるしか方法がありません。危ない火遊びをする「逸脱」こそ,人間を成長させるバネなのに・・・。老境に入りつつあるわたしですら息苦しいのですから,若者たちはもっともっと息苦しいに違いありません。

青春とは,自己の枠組みを超えでていく経験を積み上げて,一回りもふたまわりも成長するための,人生のなかではもっとも大事な時代です。それを大人の都合で「秩序」のなかにがんじがらめにしてしまったら,いつまで経っても「自立できない」人格不全の人間ばかりになってしまいます。いまの若者たちをみていると,ほんとうに可哀相に,と思います。そんな世の中にしてしまったのは,なにを隠そう,このわたしたちなのです。

そんな反省点も含めて,この映画は,わたしたち世代からの懺悔のメッセージではないか,とも見えてきます。

そういえば,内藤監督の学生時代は,タバコも吸わない,酒も飲まない(飲めない?),マージャンもやらない,ジャズにのめりこんだという話も聞いたことがない,おまけに「消尽」の方法も知らなかった,というまことに優等生そのものでした。が,たぶん,大学の4年生のあるときを境にして,人生が180度転換する,そういうことがあったようです。内藤監督の「イタ・セクス・アリス」?そこから,これはあくまでもわたしの想像ですが,内藤誠という剥き出しの人間が姿を現したに違いない,と。まあ,この話はいずれまたの機会にゆずることにしましよう。

その意味でも,この映画は,内藤さん自身の自画像の一部が投影されているようにも,わたしは感じ取ることができます。ああ,ここからさきは,内藤さんと美味しいお酒でも呑みながら(最近は,強くはないが,いくらかは飲めるようになったと聞いています),じっくりと「映画論」として,いやいや「人生論」として意見を交わしたいと思っています。

以上,25年ぶりの内藤さんの監督作品についての,ほんの序論まで。
まもなく一般公開されます。ぜひ,ご鑑賞くださることをお薦めします。
とても,いい映画です。

2011年8月27日土曜日

「君には医者が必要だ」(ナセル大統領)という人が激増中?

今日の『東京新聞』のコラム(筆洗)に,カダフィ大佐の若かりし日の逸話が紹介されている。わたしも初めて知って「ヘエーッ,そうなんだ」と妙に納得。

とうとう行方不明という存在と化した独裁者ガダフィ大佐。いつの時代も独裁者の末路は,みんな同じようなものだ。独裁者というのは一皮剥いてみると,意外に小心者が多く,最後は殺されるのが怖くなり,どこかに隠れてしまう。しかし,逃げ切ることのできたためしはない。なのに,なぜか逃げる,隠れる,と必死になる。

さて,そのカダフィ大佐の若かりし日の逸話である。そのまま引いておく。
「1970年,ヨルダン内戦収拾のためのアラブ首脳会議。激高したその人は卓上に拳銃を置き,ヨルダン国王に退位を迫った。それを見て,当時のエジプト大統領ナセルは,こうたしなめたそうだ。『君には医者が要る』。リビアの最高指導者,否,最高指導者だったカダフィ大佐の逸話だ。『アラブの英雄』ナセルに憧れ,その行動をなぞるようにして,まだ二十七歳の時,クーデターで国王を追放。以来,四十二年にわたり強権支配を続けてきた。」

「君には医者が要る」とは,けだし名言である。

しかし,この名言,「3・11」を通過したわたしたちは,そんなに素朴に笑ってはいられない。日本国中,あらゆる職種のトップから下々にいたるまで,「医者が要る」人だらけだということが,もののみごとに露呈してしまったからだ。

たとえば,同じ日の『東京新聞』の一面トップの記事は,「東芝・日立など『OBが”自社”原発検査』,「10年で36人,保安院に再就職」,「中立・公平性に疑問」という衝撃的な見出しが躍っている。この記事の要約文を引いておくと以下のとおり。

「原発メーカーなどの社員が経済産業省原子力安全・保安院に再就職し,出身企業の製品が納入された原発などの検査を担当したケースが過去十年で少なくとも三十六人に上ることが,経産省が国会関係者に提出した資料で分かった。保安院は『検査の中立性や公平性に影響はない』と説明しているが,専門家は『なれ合いになる恐れがある』と指摘している。」

これを読んで,開いた口が塞がらなくなった。オイオイオイッ。保安院は,まだ,こんなことを平気で言っているのか,と。この人たちこそ「君たちには医者が要る」と諭す人が必要だ。それは総理大臣の仕事ではないか。でも,その総理大臣もまた「君には医者が要る」人だから,もはやどうにもならない。こんな保安院のメンバーは一刻も早く「総入れ換え」をしてもらいたい。こんな人たちに税金を給料として払う必要はない。それこそ「君には医者が要る」と,「専門家」がはっきりと言うべきだ。なのに,「なれ合いになる恐れがある」などと間の抜けたことを言っている。そういう「専門家」もまたグルだから,この人たちにも「君には医者が要る」ということになる。となったら,こんどは「君にも医者が要る」とメディアは書くべきだ。だが,そうは書かない。

なぜか? ジャーナリズムも骨抜きにされていて,見えない「影」に怯えている。ちょうど,放射能が見えないけれども(見えないがゆえに)「恐ろしい」のと同じだ。取材をとおして「核心」に近づけば近づくほど「危険」に身を晒さなくてはならなくなる。だから,この手の記事には記者の名前入りということは,まず,ない。そういう根性のある記者は,すっかり影をひそめてしまった。育ちのいい,秀才のお坊っちゃま記者は,そんな冒険はしない。まずは,身の安全を確保し,すべからく,ことなかれ主義に徹する。

そういう記者は,職種を間違えたと考えなくてはなるまい。だから,こういう記者にも「君にも医者が要る」と,わたしたち読者が提言しなくてはならない。ところが,この読者なるものが,すでに「ゆでカエル」になりきってしまっているので,なんの疑問も抱こうとはしない。すっかり,「受け身」で情報を受けとることに飼い馴らされているからだ。

だから,「電力が足りないというから,やはり,原発は必要だ」という人がわたしのまわりにも少なくない。この人たちにも「君には医者が必要だ」と言ってやりたい。

ところが,医者のなかにもほんとうに困った医者がいる。そういう医者にも「君には医者が要る」と教えてやらなくてはならない。自分が病んでいることに気づいていない医者と同じように,自分だけは病んでいないと信じきっているこの「わたし」という存在が,一番,危ないのだ。

「君には医者が要る」に該当するのは,カダフィ大佐だけではない。
身のまわりを見渡してみると,あちこちに「医者を必要」としている人がいっぱいだ。さて,日本人の何パーセントが,このような「ビョーキ」に罹ってしまっているのだろうか。
まずは,自分の胸に手を当てて,よくよく反省することからはじめよう。「君には医者が要る」と言われないように。

2011年8月26日金曜日

菅啓次郎×小池桂一著『野生哲学』アメリカ・インディアンに学ぶ(講談社現代新書)を読む〔補遺〕。

やはり,昨日のブログだけで終わるのはなんとも後ろ髪が引かれてしまい,納まりがわるい。つまり,菅啓次郎のいわんとするところをひとつも紹介しないで終わるわけにはいかない,と。というわけで,〔補遺〕として追加することにした。

じつは,わたしは本に巻かれている帯と,そこに書かれているキャッチ・コピーが好きだ。そこに,著者なり,編集者なりの,その本によせる思い入れのようなものを感じ取ることができるからだ。そして,そのときに,まったくの予備知識もなく,いってみれば無垢の状態で,素直に感じたことはほぼ間違いがない。

で,この本の帯が,また,面白い仕掛けになっている。まず第一に,けたはずれに大きい。一瞬,カバーかと思うほどの幅広の帯だ。しかも,カラー。そこに,小池桂一の絵がたっぷりと描きこまれている。その絵に重ねて大きな白抜きの文字が浮かぶ。「人間がこの地球で生きるということ」「豊穣で普遍的な世界の教え」とある。思わず,この帯をはずして横に拡げてみる。表紙の横幅のほぼ4倍もある。たぶん,ナバホ族が住んだ聖地を思わせる風景である。しかし,文明化社会に生きる人間からすれば,たんなる荒涼とした砂漠と青空と白い雲でしかない。しかし,この絵をじっとみる(観賞,観照,透視する)だけで,もう8割方は,この本の内容を想定することができるし,さらに,理解したといっても過言ではないほどだ。

以上が,帯の話だ。

さらに,表紙カバーの内側に折り込まれたところには,つぎのような「本文より」という抜き書きがある。このことばが,どれほどのインパクトをもって受け止められるかは,その人のトータルなレディネス(そこから立ち上がる感性)次第だ。が,とにかくこの文章からまずは紹介しておくことにしよう。そは,つぎのような文章である。

七世代先を見て決定する
──部族の会議が開かれるたび,人々はまず自分たちの義務を次のような言葉で誓いあうのだった。「何事を取り決めるにあたっても,われわれの決定が以後の七世代にわたっておよぼすことになる影響をよく考えなくてはならない」と。ある決議事項をめぐって自分が投票するなら,その票は自分だけではなく,まだ生まれていない者たちも含めて,以後の七世代のための一票なのだ。ざっと見て,百五十年から二百年。そんな遠い未来の子にまで,いくつもの世代を超えて,いま決められたこのことは,影響を与えつづけるのだから。

「アッ」と思わず小さな声をあげてしまった。なぜなら,わたしの思考にはまったく欠落していた発想だったからだ。せめて,孫の世代くらいまでは考えなくては・・・という自戒程度でしかなかったからだ。「そうかぁ,七世代かぁ」と思わず天を仰いでしまった。

わたしたちはなんと安易にさまざまな約束事や法律を定めていることだろうか,と。
「原発推進」を国策と定めた当時の総理大臣中曽根康弘は,はたして「七世代先」を見越していただろうか。そして,いま,「脱原発」を主張するわたしたちもまた「七世代先」を視野に入れて決断をくだしているだろうか,と。

「3・11」を通過したいま,わたしたちは人類史に残るきわめて重大な選択を迫られている,とわたしは考えている。それこそ「七世代先」を視野に入れた決断が必要だ。しかし,不思議なことに,そうした緊張感があまり感じられない。それどころか「3・11」以前の日常を一刻も早くとりもどそう,という掛け声すら聴こえてくる。そうではないだろう,とわたしは考える。「3・11」以前の日常に大きな問題(科学神話,あるいは原発安全神話)があったからこそ,こんにちのフクシマが発生してしまったのではなかったか。

菅啓次郎の視線は,もっぱら,そこにそそがれている。しかも,「3・11」以前に,この本の初校は上がっている。つまり,フクシマ以前から,菅啓次郎は「科学信奉主義」に埋没してしまっている現代人への警告として,アメリカ・インディアンの「智慧」に学ぶべきだ,と主張したかったのだ。そこに,まるで絵に描いたかのように,残念ながら「3・11」が起きてしまった。

その結果,この本は「3・11」以後を生き延びるわたしたちのためのひとつの重要な指針を提示することになった。その意味ではまことにタイムリーな刊行となった。その眼で,この本をじっくりと腰を据えて読むことをお薦めしたい。内容は,アメリカ・インディアンの人びとが,長い歴史をとおして蓄積してきた「経験知」を菅啓次郎が抽出して,それをひとつの「哲学」としてわたしたちに提示したものである。

「土地」とはなにか,動物とはなにか,植物とはなにか,太陽とはなにか,と一つひとつテーマを提示しながら,アメリカ・インディアンの人びとがどのようにして,これらと「折り合い」をつけながら生きる智慧を身につけてきたのか,と菅啓次郎は熱っぽく語りかけてくる。そして,「大地のすべては神聖」なものだ,と説く。その大地こそ,小池桂一が帯に描きこんだナバホ族の聖地だ。

わたし自身のことで恐縮だが,8月の上旬に神戸市外国語大学の集中講義で,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をスポーツ史・スポーツ文化論的に読み解く,というテーマに取り組んだばかりのところでこの本と出会った。だから,バタイユの思考の延長線上に,そのままそっくりアメリカ・インディアンの智慧が直結してしまった。だから,こころの底から感動してしまった,というわけだ。矛盾をいっぱいに抱え込んだまま「生きる」ことを余儀なくされている人間の原像を,どこまで浮き彫りにすることができるのか,というバタイユの願いが,菅啓次郎の手によって,アメリカ・インディアンの智慧をとおして写し鏡のように描きだされている。

だから,まだまだ,述べたいことはたくさんある。が,それは際限のないことだ。だから,この辺りでこのブログは閉じることにしたい。そこで,最後にひとこと。この本は,「3・11」以後を「生きる」ということを考えるための,まことに時宜をえたテクストだ。ぜひとも,ご一読をお薦めしたい。

2011年8月25日木曜日

菅啓次郎×小池桂一著『野生哲学』アメリカ・インディアンに学ぶ(講談社現代新書)を読む。

久しぶりに面白い本に出会った。むかしから,ほとんど用事もなく本屋さんをみるとふらふらと立ち寄るクセがある。そして,ほとんどなんの意識もなくぼんやりと並んでいる本の背表紙を眺めていると,突然,本の方から「買ってくれ」と声をかけてくることがある。この場合,できるだけなにも考えないでぼんやりと眺める,というところがポイントだ。本には明らかに「意志」がある,とわたしは信じている。だからなのか,その意志がわたしに伝わってくることがある。

菅啓次郎×小池桂一著『野生哲学』アメリカ・インディアンに学ぶ(講談社現代新書)もそういう一冊だった。だから,中味をみることもなくこの本を書棚からとりだして,そのままレジに向う。もちろん,菅啓次郎がどういう人であるかは知っていた。が,小池桂一という人は知らなかった。が,躊躇する必要はなかった。はっきりとわたしに聴こえる声で「買ってくれ」と言ったのだから。

こういう一種の「出会い」があったときには,ほかの本にはもうまるきり関心がなくなってしまう。眺める気もない。すぐに電車に乗って帰路につく。そして,電車のなかである種の期待感と緊張感がないまぜになった気分で恐るおそるページをめくる。

「えっ?漫画本かい?」と小さく驚く。後半の三分の一くらいは漫画というか劇画というか,わたしにはその区別もわからないが,とにかく,達者な絵で描かれた魅力的な絵物語がある。最初のページには「これから述べる話は遠い遠い昔から伝えられてきた話だ──」とあって,不思議なトーテムを思わせるような抽象的な絵が載っている。そして,ぺージをめくると,「最初の世界は闇だった──」とあり,世界のはじまりの話が2ページにわたって描かれている。そして,つぎのページをめくると,いよいよ,物語のはじまりだ。『太陽の男と大地の女』ナバホの創世神話。

まずは,ここから読みはじめる。というか,気がついたらもう読みはじめていた・・・・。それほど巧みな絵が並ぶ。そして,ぐいぐいと創世神話の世界に惹かれていく。さまざまな想像力をたくましくさせてくれるみごとな絵物語である。本を読んでいて,ときおり,呼吸が止まる,ということがある。この本は,読みながら,何回も呼吸が止まってしまう。だから,苦しくなって深呼吸をする。その数回の深呼吸をしているうちに,物語は終わる。

フィナーレが,これまた凄い。「そうして東の方から,白人がやって来た──」とあって,そのあとの2ページで,「長い長い苦難の日々をナバホの人々は耐えた」「世界に再び秩序と調和が回復することを願って──」白人の攻撃に倒されていくナバホの人びとが描かれ,星条旗がかかげられ,エンパイア・ステート・ビルや平和の女神や歴代大統領の顔や月ロケットや煙を吐くツイン・タワー・・・などが描かれている。「そしてすべてこれらのことは,遠い遠い昔に起きたこと──」とある。

しかも,おまけのようにして「ずうっと遠い昔に起きたこと・・・・」という見開き2ページの絵が描かれている。ニューヨークと思しき大都会のビルが傾きながら大自然の大地に埋没している荒廃した現代文明の姿が描かれ,二人のアメリカ・インディアン(男女)の語り部が山の頂上から見下ろしている。その絵は,東日本大震災の津波の跡をも,そして,フクシマの放射能のために人が住めなくなってしまった跡地をも連想させる。

そして,最後のページに真っ黒いページに白抜きで「そういうふうに伝えられている──」とあって,ナバホのコスモロジーを示すと思われる「曼陀羅」が描かれている。

おみごと。

これだけで,わたしには十分だった。

が,せっかく買ったのだからと思って,夕食後に,前半の菅啓次郎の担当部分を読みはじめた。これがまたとんでもない内容だった。夜,眠ることなど許されるものか,というほどの迫力でわたしに迫ってきた。ほとんど徹夜のようにして,一気に読んだ。

この内容を書きはじめたらエンドレス。
まさに『野生哲学』の名にふさわしい名著である。ごく簡単にポイントに触れておけば,現代の「科学的知」一辺倒の,そして,それを盲信している人びとに警告を発し,野生を生きる人びとの間から導き出されたトータルな「経験知」に,いまこそ耳を傾けるべき時だと説き,アメリカ・インディアンの事例がつぎつぎに紹介されている。菅啓次郎の一種独特の美しい文体で,まさに「野生」の哲学が語られている。わたしは感動した。「あとがき」にも触れているが,初校ゲラの段階で「3・11」が起き,しばらく成り行きを見届けた上で,再度,手直しをしたという。

文化人類学者で詩人の菅啓次郎と漫画家の小池桂一の,息の合ったみごとなコラボレーションというべきか。
だれでも読める,とてもわかりやすい「哲学書」。
みずからの生きるスタンスを修正するためにも,そして,「3・11」以後を生き延びるためにも,お薦めの一冊。

2011年8月24日水曜日

居酒屋「延命庵」開店計画中。

定年退職して,すぐに立ち上げた「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)の事務所(研究室?)が,いつのまにか4年目に入っている。あっという間のことだ。当初,予想したよりは順調にここまできている。これも丈夫なからだに恵まれてのことだ。まずは,親に感謝である。

この研究所を立ち上げたときに,お祝いだといって「延命冠者」なる能面をいただいた。長くつづくようにという激励の意味で。だから,毎日,事務所に到着すると,まずはこの「延命さん」に挨拶をすることにしている。ところが,この「延命さん」,いつもニコニコ笑っているだけだと思っていたら,不思議なパワーを秘めていることが少しずつわかってきた。

それはどうやら,日常的に,わたし自身が「笑う」ということを忘れた生活をしているかららしい。なぜなら,この「延命さん」に挨拶すると,いつのまにかわたしの顔もニコニコしている。すると,どこか肩の力が抜けて,自然体になる。ほっとするのだ。この「ほっとする」気持ちにしてくれるパワーが「延命さん」には秘められている。4年目にして,ようやくこのことに気づいた。

定年後は人と人のコミュニケーションがあっという間に痩せ細り,場合によっては,病気になったり,わけもなく死んでしまったりする。定年後の3年間を上手に乗り切れ,そうすればあとはなんとかなる,と先輩たちに教えられてきた。たしかに定年後,まもなく死んでしまう人が多い。そんなことも念頭にあって,思い切って研究所を立ち上げ,事務所を借りて,ここまでやってきた。気づいたら4年目に入っている。

身心ともに可もなし,不可もなし,というところ。それが一番。研究所にも意外な人が尋ねてきてくれるし,退屈する暇もなく,結構,忙しくしている。が,ここにきて冷静に「自己点検・自己評価」をしてみた。その結果は,「やや単調な日々」「もっと世間を拡げるべし」「刺激が活字に偏りすぎている」「生きた人間との接触を増やすべし」「笑いが足りない」とでた。

で,思いついたのが居酒屋「延命庵」の開店。週に一回開店(曜日を固定?)。午後6時開店。午後9時閉店。予約制(あるいは,招待制)。持ち込み自由(いいえ,持ち込み大歓迎)。無料。テーマは「よくしゃべり,よく笑う」。時間厳守。ルール:「すべて店長の独断と偏見にしたがうこと」。

とまあ,こんなことを考えている。要するに,わたしにとっての「世間」の窓口を一つ増やそうということ。そうしないと生活が単調にすぎる。いやいや,人生をもっと積極的に楽しもうということ。そして,ほんとうに「自由」に生きる,という方向に舵を切ること。

なんだか,文字にすると偉そうなことにみえてくる。それは違う。ただ,「わがまま」に生きることを宣言しているだけのこと。マイ・マザー(my mother)。「わがママ」。そうだ,「ママさん」も募集しなくては。

最後にお願いがひとつ。
居酒屋「延命庵」開店に関するいいアイディアがありましたら,ご教示のほどを。

2011年8月23日火曜日

町内会の組織にまで手を伸ばしていた東電の「まき餌」の話。

いまさらなにを・・・と言われそうですが,直に経験した人からこの話を聞いたときは「えっ,そうなの?」と確認してしまいました。東電の接待で,バス1台をチャーターして柏崎原発に見学に行ったことがある,と。いわゆる,あご,あし,付きの接待。いまは,世田谷区に住む学生時代からの友人の体験談。

会社を定年で退職したあと,町内会の仕事を手伝うようになり,いつのまにか会長さんに。人望のある人間なので,さらに大きな町内会連合会の会長さんにもなった。そのころの話(しかし,そんなに古い話ではない)。役員さんの懇親会を兼ねた自主的な旅行は以前からおこなわれていた,という。そこに,東電が割り込んできて,一泊二日の観光を兼ねた柏崎原発の見学会へのご招待,という話が持ち上がった。

只なら,こんなありがたいことはないとばかりに,希望者を募った。すぐに満席になったという。その当時はまだ「原発安全神話」の真っ只中にいたので,なんの疑問もいだいてはいなかった。だから,柏崎原発の見学もさることながら,途中で温泉にひたり,飲み食いをし,観光地をめぐり,みんなで存分に旅を楽しんだとのこと。

しかし,いまにして思えば,あのときの金は全部,おれたちの払った電気代だったのだ,と友人。しかも,あのときの接待はみんな原発推進のための「まき餌」だったのだ,と。どうりで電気代が高いなぁ,と思ってはいたが・・・と。この友人は仕事の関係で外国事情に詳しい。かれによれば,日本の電気代はアメリカにくらべたら3倍ほどになる。みんな原発建設費と地域住民説得費とその他の人びとへの「まき餌」代(もちろん,この中には政治家や官僚の接待も含まれる)。その結果が,今回のフクシマであり,その後のゲンシリョクムラの演じた「やらせ,隠蔽,ウソ,八百長,でっちあげ,無視,おどし,改竄,内部告発隠し,・・・・」などのやりたい放題の露呈だ。

ひとしきり,こんな話が繰り広げられ,「世も末だね」ということになった。そして,なんともはや情けないこと限りなし・・・と落ちこんでしまった。こんなにまでしなければ原発推進は不可能だったのだ。ということは,最初から当事者たちは原発は危険なものだということを熟知していた,としか思えない。だから,そのことを必死になってひた隠しにしなければならなかった。だがら,いかにして原発のイメージを平和で明るい未来をきりひらくためのツールとして印象づけるか,ということに全力をあげたとしかいいようがない。でなければ,町内会の懇親会や旅行までセットして,ご招待するなどということはありえないはずだ。

もし,そうだとしたら,これはまぎれもない詐欺ではなか。国を挙げての「ペテン」ではないか。ウソをウソで固める,ウソだらけの話。ここまでウソを積み上げれば,それはいつしか「真実」になってしまう。ウソ変じて真実となる,という手品の仕掛けが,とうとう露呈してしまった。

いつ,だれが,どのようにして,この手品の「仕掛け」をでっちあげてきたのか。その検証はいつか必ずやらなくてはなるまい。それなくして,日本の再生はありえない。

それにしても,この友人の話は,あまりにも身近で,しかも,リアルで,わたしにはショックが大きすぎた。「まき餌」はどこにでも待ち構えている。おいしい話ほど危ない。みずからがその罠にはまらないように気をつけなくては・・・・。

2011年8月22日月曜日

脱原発70%の国民の意志に背を向ける民主党総裁選び。

この29日あたりには民主党総裁選挙が行われるらしいというもっぱらの「風評」。しかしながら,もっとも気になる「脱原発」の議論がどこかに飛んでしまっている。あるいは,無視されている。いやいや,そんなことはなかったかのようにどこ吹く風である。恐ろしいことだ。

国民の70%が「脱原発」を希望しているという各種調査機関の結果がはっきりしているのに,この国民の意志を引き受けようという政治家が,民主党にはいないのか。「脱原発依存」はカン君のひとり芝居だったとでもいうのだろうか。この意志を引き継ぐと明確に宣言する総裁候補がひとりもいないというのはどうしたことなのか。

民主党の総裁候補は,みんな「ゲンシリョクムラ」の一員だというのだろうか。それにしてはあまりにお粗末。政治家としての矜持を問いたい。無残・無惨・無慙・無惨。それほどまでに「金」と「核」にこだわらなくてはならない理由はなんなのか。人の「命」などどうでもいいというのだろうか。

総裁候補といわれている人たちはいったいなにを考えているのだろうか。党利・党略どころか,ただ,ひたすら党内の「数」集めだけに眼が向いている。だから,党員資格を剥奪されてしまって,こんどの総裁選挙に加わることさえできないコザワ君のところに日参するという無様な姿を露呈しなければならないのだ。まことに情けなくなってくる。

と思っていたら,まさかのウミエダ君まで総裁候補になろうとしている。ウミエダ君をおしだす勢力がどういう人たちかは明らかだ。いよいよ,ゲンシリョクムラの影武者たちが動きはじめたか,と。これまた恐ろしい話だ。動くなら,堂々と「原発必要論」をぶちあげて,だから,ウミエダ君を推す,くらいのことをやったらどうか。公明正大にやってほしい。そうすれば,国民も,本気で考えるようになる。でないと,ますます,政治不信が増幅していくだけだ。そのさきには最悪の事態だけが待ち受けている。

いっそのこと,自民党の河野太郎君のように,過去の誤りを懺悔し(自民党の原発政策は間違っていたと明言,そして,懺悔),これからのあるべき道を提示する,すなわち「脱原発」をめざす,と言い切れる若手議員が民主党にはひとりもいないのだろうか。もっとも,いたとしても立候補に必要な「20票」を確保できない,という現実がある。たとえ「20票」を集めることが不可能であってもいい。そういう動き(発言)をするだけでいい。そういう議員がひとりもいないとは・・・・。その点,河野太郎君は立派。もっとも,自民党の中では「総スカン」を食っているらしいが・・・・。でも,3年も経てば,自民党の空気も変わるはず。そこまで隠忍自重あるのみ。

カン君にも失望したが,それでも「脱原発依存」をぶち上げた。あまりに「唐突」といわれようが・・・。そして,関連法案を立ち上げた。でも,こんどの総裁候補にはそういう人がひとりもいない。カン君が去ったら,あとは蛻の殻,とでもいうのだろうか。だとしたら,こんどは,国民が眼を光らせる番だ。もっと声を大にして,みんなで議論を高めていかなくてはならない。場合によっては,街頭に立たなくてはいけない。

はたして,いま,大連立などと言っている場合なのだろうか。いまこそ,「脱原発」という国民の意志を,真っ正面から受け止める政党をめざすべきではないのか。「国民の生活が一番」とうたったキャッチ・コピーは,たんなる選挙のための見せかけだったとでもいうのだろうか。このスローガンを支持した国民は,間違いなく,同じように「脱原発」を支持しているはずだ。

こんな単純なことがなぜ,いまの民主党の議員たちに,わからなくなっているのだろう。ゲンシリョクムラの「毒」はそれほどに強烈だ,というのだろうか。そして,すでに,その「毒」が全身にまわってしまって,末期症状を呈している,というのだろうか。もっとも,この「毒」は国民の間にも相当に浸透しているようなので,要注意。

「政・官・財・報・学」の五位一体のゲンシリョクムラに「国」(国民)が巻き込まれようとしている。そこに「宗」(宗教)が加われば,日本国ゲンシリョクムラの完成である。すなわち,「政・官・財・報・学・国・宗」の七位一体。日本国没落のシナリオの完成である。そうならないように,くれぐれも【ご注意】を。クワバラ,クワバラ。スガワラ,スガワラ。雷の一撃を。



〔追記〕今日(22日)の『東京新聞』の記事によれば,「脱原発」政策の継承を希望する国民が「75%」という。それでも,民主党の議員は知らん顔なのだろうか。

2011年8月21日日曜日

バドミントンのルール変更(2006年)の意味を「深読み」してみる。

「角を矯めて牛を殺す」という俚諺がある。
矯正するということに疑問をさしはさむ余地はない。しかし,矯正をしすぎるとどうなるのか。本来のあるべき姿が消えてしまって,まったく別のものになってしまう。本末転倒ということだ。
もともと曲がっているのが牛の角だとすれば,その曲がっている角を「矯めて」まっすぐにしたら,それは牛の角ではなくなってしまう。つまり,「牛を殺す」ことになってしまう。

バドミントンのルール変更(2006年)は,「角を矯めすぎ」ではなかっただろうか。そんな不安がふとよぎる。バドミントンの長い歴史を考えると,バドミントンそのもののあり方を根源から変化・変容さける,いい意味でも悪い意味でも「画期的」なことだったとわたしは考えている。だから,これは「ルール変更」であって,「ルール改正」とは言わない。

なぜか。「ルール変更」の内容や,それらをめぐる議論はひとまず措くとして,結論から入っていくことにしよう。

たとえば,プレイをする選手の側からすれば,突然,天から降ってきた「ルールの変更」である。選手たちは,ただひたすら,その「ルール変更」にしたがってプレイすることを強いられる。それしか方法はないのである。なぜなら,そうしないかぎり,選手は試合に出場することができなくなるからだ。つまり,「ルール違反」を犯すことになるから。(このことを,ベンヤミンは,権力による「法措定的暴力」と名づけた)。

それに対して,バドミントンという競技を統括し,管理・運営する組織体であるIBF(国際バドミントン連盟)は,これまでのバドミントンのルールに,なんらかの不都合を感じていた。その不都合を解消しようというのだから,こちらの側からすれば「ルールの改正」ということになる。そして,そのルールの改正を「是」として,それを「維持」していくことに全力を傾ける。(このことを,ベンヤミンは,権力による「法維持的暴力」と名づけた)。

言ってしまえば,選手の側からすればたんなる「ルールの変更」であり,IBFの側からすれば,なにがなんでも実行しなければならない「ルールの改正」だ。ここで考えなくてはならないのは,「ルールはだれのためのものなのか」という点である。

もともと,バドミントンは「羽根突き遊び」から派生したスポーツだ。だから,「羽根突き遊び」のルールは,その遊びをする人たちの都合のいいように決めた(厳密にいうと,「羽根突き遊び」のルーツには深い呪術的な意味があって,そのコロモロジーや神話にもとづいて,最初の「約束ごと」,つまり「ルール」が決められた。その後,紆余曲折を経て,しだいに近代化の道を歩むことになる)。つまり,プレイヤーの論理が優先した。すなわち,この遊びをもっと面白くするにはどうしたらいいかとプレイヤーたちが智慧をしぼって,初期のバドミントンの「ルール」が工夫された。

やがて,このバドミントンが近代スポーツ競技の仲間入りをすることになる。このときから,バドミントンという競技を統括し,管理・運営する組織が誕生する。つまり,競技をする選手と,管理・運営する団体との二極化がはじまる。当然のことながら,この両者は,ときには利害が対立することも起きる。そして,そのつど,両者は話し合いをとおして「折り合い」をつけてきた。

しかし,2006年の「ルール変更」はそうではなかった。選手の側の論理はほとんど無視されて,管理・運営する統括団体の論理が最優先されることになった。そのポイントは,試合時間の短縮(持久力よりも瞬発力重視),テレビ放映の都合(試合の途中にコマーシャルを流す時間を確保するためのルールの採用,など),テレビ観戦者の論理(ルールの単純化,競技のスピード化,など)を優先させることにあった。(本来はここを詳論する必要があるが,割愛)。

この「ルールの変更」は,なにを意味しているのか。

ここも一足飛びにして,結論へ(じつは,経済のグローバリゼーションというとてつもなく大きな時代の要請というものがあり,スポーツもその波に呑み込まれているだけの話)。

バドミントンという競技の「金融化」。選手の「商品化」。つまり,バドミントンの商品価値を高めること。その主役を担うのは「選手たち」だ。テレビの視聴率を上げるための「道具」立ての一つとして,選手という「商品」を位置づけ,その価値を高めること。

もう少しだけ踏み込んでおけば,オリンピックの正式競技種目の仲間入りをはたすには,高い放映権料を担保できる「人気」が不可欠の条件になった,ということだ。だから,バドミントンという競技を「金融化」して,自由に取引できるようにすること,それが「ルール変更」の背景に見え隠れしている。少なくとも,わたしにはそうみえる。

選手は使い捨て。バドミントンという競技の特性や特質などは考慮の外。少しでも多くの人が「面白い」と思ってくれればそれでいい。最終ゴールは「ラケット種目」のナンバー・ワンになること。テニスを押し退けて。その地位を確保するためには「なりふりかまわず」,できることはなんでもやる,という発想。ここに危険な落とし穴が待っている・・・・とわたしは危惧するのだが・・・・。(じつは,原発推進と,まったく同じ構造をそこにみる)。

そんなことはどこ吹く風。テニスを凌駕すれば,バドミントンはオリンピックの正式競技種目として安泰である。ただ,そのことのための「ルール改正」だとしたら・・・・。これを「改正」と呼ぶことができるだろうか。ベンヤミンのいう「法措定的暴力」や「法維持的暴力」が,いま,まさに,スポーツの世界で席巻している。

この構造や,ここに働いている力学は,「ゲンシリョクムラ」のそれとほとんど瓜二つだ。このことはあらためて指摘するまでもないだろう。(ほんとうは,もう少し詳細に比較検討をする必要があるのだが・・・)。しかし,このような視点を提示する「スポーツ批評」は残念ながら,いまのところ,見当たらない。

以上の論考が,単なるわたしの「深読み」にすぎないことを,わたし自身がどれほど願っていることだろう。しかし,現実はもっともっと根深いところにある。ここに取り上げた視点は,まだまだ,ほんの氷山の一角にすぎない。

これからもっともっとエネルギーを蓄えて「スポーツのグローバリゼーション」解体の作業にとりかからねば・・・と憂慮する,今日このごろである。

2011年8月20日土曜日

〔お詫び〕映画の試写会のブログ,加筆・修正しました。

昨日書いた映画の試写会のブログ,あまりにひどい書きなぐりになっていましたので,深く反省し,こころを籠めて加筆・修正をしました。いくらか読めるものになったのではないかと思います。再度,お目通しをいただければ幸いです。

これまでにも,いくつか,そういうブログがあって,あとで恥ずかしい思いをしました。わたしの悪いクセで,一度書いたものはなんだか忌避してしまうのです。自分の書いたものは「読みたくない」という,逃避本能のようなものかも知れません。ですから,ほとんどのブログは書きなぐりです。

でも,人さまに読んでもらうために書いている以上は,そして,公開している以上は,自分の書いたものに責任があります。それは,いずれ,なんらかのかたちで私自身に跳ね返ってきます。このことを肝に銘じておきたいと思います。これからは,できるだけ推敲し,読んでいただけるものにするよう努力したいと思います。

こんごともよろしくお願いいたします。

取り急ぎ,お詫びとお願いまで。

2011年8月19日金曜日

デブラ・グラニック監督・脚本『ウィンターズ・ボーン』の試写会に行ってきました。

全世界絶賛!各国映画賞46部門受賞!139部門ノミネート!!
世界中の映画賞を席巻したインディペンデント映画の新たな傑作。
10月29日(土)TOHOシネマズ シャンテ他,全国ロードショー。

こんな鳴り物入りの映画『ウィンターズ・ボーン』の試写会(六本木)に行ってきました。試写会で映画をみるのは『アンチ・クライスト』以来のことです。『アンチ・クライスト』が文字通り衝撃的な映画でしたので,今回もまた,どんな映画なのだろうかと楽しみにでかけました。

おそらく,ことしの都心での最高気温を記録したのではないか(36℃)と思われるほどの,熱風が吹いている中をでかけました。15時30分開演でしたので,14時少しすぎに家をでました。条件的には最高気温。でも,電車に乗れば,あとは涼しいもの。しかも,試写会の部屋の中は,冷え冷えに冷えていて,上映が終るころにはからだの芯まで冷えてしまいました。これでは風邪を引いてしまう,と心配したほどでした。それでも,さすがにベテランと思しき人(女性)は,席につくなり肩掛けとひざ掛けをとりだして,完全武装。最初は,この人はなにを勘違いしているのだろうか,と思ったほどでした。が,この人が正解でした。

試写室が冷えていたから・・・というのはなんの理由にもなりませんが,試写室をでるときのわたしの気持ちも「冷え冷え」でした。なんの感動もないのです。あの『アンチ・クライスト』を見終わったときは,「えらいものを見てしまった」「考えなくてはならないことが山ほどある」「さすがに凄い映画だ」と興奮していました。そして,あまり来たことのない夜の半蔵門あたりを歩いた記憶があります。しかし,今回は,なにもありません。映画のエンディングも妙なものでした。突然,「ブチッ」となにかが壊れたような音とともに真っ黒な画面が流れ,それからしばらくあってエンディングのテロップが流れはじめました。ああ,やはり終ったのだ・・・・と。

『ウィンターズ・ボーン』,直訳すれば『冬の骨』。この骨は,死んだ父親の骨。この骨のお蔭で,父親が保釈金代わりにした家・土地を失わずに済む。父親は麻薬のディーラー。身辺が危なくなって家をでてしまってから行方がわからない。しかし,その後,逮捕されたが保釈金を払って,逃亡生活を送っている,ということだけは噂で聞いている。母親は,こころの病にかかり,会話もできない闘病生活者。17歳の娘(リー)が幼い弟と妹の面倒をみながら一家を支える。しかし,お金が底をつき,軍隊志願までするが,未成年ということで断わられる。そこに,一週間以内に家の立ち退きをするよう保釈金の保証人から迫られる。逃亡中の父親が,裁判所に出頭すれば,家・土地は失わずに済む。仕方がないので,17歳の長女が父親探しをはじめる。ここからの展開が凄まじい。けたたましいほどの苦労のはてに,ようやく手にしたものが,父親の骨。この骨が,父親の「死亡証明」となり,家・土地を失わずに済む,という話。

ここには書かなかったが,映画の中には,恐るべき「ならず者」一家の親族がつぎつぎに登場し,長女のリーは,みるも無残な辛酸を舐めることになる。その艱難辛苦を乗り越えたさきに,ようやく到達したのが,父親の骨。涙なしには見られない映画には違いない。そして,大きな感動も得られたに違いない。なのに,わたしのこころは感動すらしない。なぜか。

「3・11」以前に,この映画をみていたら,わたしは文句なく感涙に打ち震え,絶賛のことばを書きつけることになっただろうと思う。しかし,「3・11」を通過したいまのわたしのこころは,もはや,そんな反応をしなくなっている。もっともっと悲惨な日常を,いま,わたしたちは生きているという実感の方が強いからだ。「未来はすでにここにある」(西谷修),つまり,未来を夢見ることすら不可能となった日常を,わたしたちは,いま,生きている。夢も希望もない日常を。

それに比べたら,この映画はアメリカの山村で暮らす,麻薬に汚染された一族の,当たり前すぎるほどの凋落の途次にある悲劇をとらえたものにすぎない。アメリカの国家的恥部を暴いたというべきか,それとも,アメリカ社会の根源に横たわる崩壊のシナリオの一つを描き出したというべきか。だから,この映画を,会場でもらったリーフレットにあるコピー,すなわち「愛する家族を守るために。自分の未来を切り開くために。一人の少女が希望を持って力強く生きる姿に,誰もが心を揺さぶられる感動作」どおりには受け止められなかった。

むしろ,闘う少女の姿に,あまりに無謀というべきか,アメリカのいう「テロリスト」の姿が重なり,逆にならず者一家の親族がアメリカ帝国そのものにみえてきて困ってしまったほどだ。アメリカのいう「正義」とはこの程度のものだ,という意味で。

この映画は未完のまま終った。なぜなら,殺された父親の犯人がそのまま放置されるはずもないし,殺された父親の兄(少女の伯父)も麻薬中毒者ながら,犯人を知っていると少女に告げ,このままでは済まされない予感につつまれている。となれば,犯人(ならず者一家のだれかと推定できる)の側も放ってはおくまい。このあとに,待っているのは,ここまでのストーリー以上の凄惨な事件の連鎖だ。場合によっては,少女一家も皆殺しにされてしまうかも知れない。そこには明るい未来はない。だから,突然,ブチッという不快な音とともに,この映画は終る。

そして,どう考えてみても,この映画は,アメリカのある山村の麻薬に毒されてしまった一族の間に繰り広げられる「正義」(?)の闘いにしかみえてはこない。だとしたら,この悲劇は一族全滅をもって終わりを告げることも可能だ。可哀そうなのは無垢な子どもたちだけだ。少女の賢さと気の強さは,このさきどのような展開をみせるか予断を許さないものがある。一転して,女親分になる素質もある。みずから,「わたしのからだには一族の血が流れている」と断言までしている。

が,この映画は,この一族の間に起きている利害関係にのみ終始している。それ以上の広がりはない。小さな社会のできごとにすぎない。そして,少女ですら,一番身近な伯父の存在に怯えている。ラストになって,ようやく伯父と姪の関係がやや修復されることになるが・・・・。それでも伯父は麻薬づけのままだ。未来に明るい展望はない。

ひるがえって,わたしたちの「いま」はどうか。福島原発のこれ以上の暴発をなんとか制御しえたとしても,何万人もの作業員を使い捨てにし,放射能は垂れ流しのまま,使用済み燃料棒は半永久的に水で冷やしつづけなくてはならない,そういう日常をわたしたちは余儀なくされている。
東日本の海には,いまも一万ともいわれる遺体が沈んだままだ。その霊をきちんと弔うことすらできないまま,見捨てられたままの日常。家・土地がありながら住むことすらできない20キロ圏内の住民をはじめ,7万人を超えるといわれる避難生活を余儀なくされている人たちの日常。よもやと思っていた会津でも川崎でも,数値の高いセシウムが発見される日常。いよいよ東京都民もガイガー数量計を持ち歩かなければならなくなる可能性がないとはいえない日常。水や食べ物すら,すべて危ないと疑わなくてはならない日常。

こんな言い方は許されないのかもしれないが,わたしは,この映画をみたあとの帰りの電車のなかで,ひたすら「日本のいま,の方が何倍も,何十倍も,いやいや,何万倍も」無残な生活を強いられている,という現実に想いを馳せていた。つまり,逆説的な言い方になるが,『ウィンターズ・ボーン』をみたことによって,ますます「日本のいま」が際立ってみえてくるようになった,ということだ。その意味で,わたしは恐ろしい体験をしてしまった。

6月末に尋ねた東北地方の被災地の光景が,いまもまた,ふたたび鮮明に脳裏に浮かんでくる。あの三日間の訪問で焼きついた記憶が,この映画をきっかけにして,ふたたび甦ってくる。そして,もう一度,被災地に立て,とわたしを促す。とりわけ,20キロ圏内に立て,と。できることなら,原発の近くに,と。それが叶わぬなら,女川原発へ行け。そこなら,すぐにも行ける。

そして,未来をいまに引き寄せてしまった,わたしたちの現在を,もっともっとしっかりと見届けておかなくては・・・と焦りのようなものすら感ずる。からだの奥底にしっかりと刻み込んでおくこと。そして,確たる行動がとれるように。

とうとう「原発推進」派が,ようやく鎌首を持ち上げるようにして立ち上がりつつある。その魁となったものが,北海道の高橋はるみだ。政治の大混乱に乗じて,着々とその触手をのばしつつある。わたしたちの眼にみえない裏側で「やりたい放題」だ。なのに,人びとの意識は,日々にフクシマからは遠ざかる。いわゆる風化現象のはじまり。恐ろしいことだ。

この映画を全世界が絶賛しているということは,それぼどに,全世界が「病んでいる」ということでもあろう。しかし,それは「3・11」以前の,贅沢な「病い」にわたしにはみえる。アメリカ社会の「麻薬」と「貧困」の問題は,いまにはじまったことではない。近代社会(資本主義社会)の進展とともに,深く根を下ろすことになった,宿痾のようなものだ。資本(金)がすべて,命は二の次,としてきた社会の必然だ。その点では,日本も同じだ。そのつけが,こんなに大きな負債となって,いま,わたしたちの双肩にのしかかってきている。

わたしたちの「病い」は「3・11」以後にはじまったものだ。そして,そこからは,どうあがいてみても後戻りできないものだ。
いうまでもなく,それは放射能(「死の灰」)の日常を生きることだ。しかも,半永久的に。
骨は焼いてしまうとboneではなくashesになる。この映画の骨はboneであって,しかも,「冬の骨」という限定つきであって,ashesではない。

わたしたちは,いま,「災厄の翌日を生きている。未来はすでにここにある」(西谷修)。
この映画は,このわたしたちの置かれている「明日なき」実態を,さらに鮮明に想起させることになった。少なくとも,わたしには。

ブログの書き込み機能が修復されました。

今朝になって,ブログの書き込みが以前と同じようにできるよう,修復されていることがわかりました。丸二日間,ブログが書けなくてイライラしていましたが・・・・。これで安心です。

以前にも一度,こういうことがあって,困り果てたことがありました。そのときも,数日で旧に復していましので,いずれ・・・とは思っていました。が,いろいろ試しているうちに,十分ではないものの意外な裏技があるということもわかりました。やはり,人間は「困らない」となにも工夫をしない動物だ,ということも身をもって知ることができました。子どものころ「必要は発明の母」ということを聞いたことを思い出しています。わたしも,いつのまにやら「ゆでカエル」になりかけているなぁ,とわが身を振り返っています。

ついでに,ブログのことを書いておけば,この二日間の「ページヴュー」の数値がいつもにもまして多かったということです。これもまた不思議現象です。気合を入れて書いて,自分では大満足のブログの日のページヴューの数値が少しも上がらず,がっくりくることよくあります。そして,軽く書き流したようなブログのときに,意に反するほどの反応があったりして,驚いたりしています。今回は,「書けない」状態だったために,空白の二日間でした。にもかかわらず,異常なほどに数値が高い・・・。なにが理由なのか,わけがわからず,これまたオロオロ。

読者の数やページヴューのことは気にしないで,好きなことを好きなように書けばよい,と親しい友人たちは慰めてくれますが,やはり,わたしも人の子。「数値」がそのまま「評価」にみえてきて,それが気になってしまいます。もっとも,「研究ノート」的な内容のときには,自分用のメモリーのつもりですので,なにも気にはならないのですが・・・・。たとえば,集中講義用に書いたジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』読解などは,その典型的な例です。このときは,みごとに読者の数も,ページヴューの数値も低くなります。が,これは覚悟の上。

いつも自分に言い聞かせていることですが,このブログを書く目的は,思考停止にならないようにという自戒がひとつ,もうひとつは文章を書く「瞬発力」を維持すること,の二点です。あとは,そのときの「ひらめき」に素直に反応して書くだけ。言ってしまえば,たんなる「ボケ防止」策でもあります。お蔭さまで,すこぶる元気(こころもからだも)。毎日,新しい発見がいくつもあって,そのうちのひとつをブログに書くこと。

ときには過激になることもあります。とりわけ,「うそをつく」人は許せません。確信犯的な「うそ」がもっとも許せません。最近では「ゲンシリョクムラ」の住人たち。高橋はるみさんも,とうとう馬脚を現してしまいました。東京新聞の「こちら特報部」でしっかり「ウラ」をとられてしまい,暴露されてしまいました。もっとも,そういう人を選挙で選んでしまった道民の責任です。でも,最初からわかっていたら,こんな人に投票するはずはありません。ですから,この手の人たちはみんな上手に「うそをつく」。その「うそ」をわたしたちは見破るだけの眼力をもたなくてはなりません。それでも騙されてしまうのが世の常。東京都のこの間の知事選がそうでした。最初からわかっているのに,フタを開けてみたら,シンタロウ君の当選です。オヤオヤです。

このような話も,ときどきは書いてみたいと思っています。が,最終的なテーマはお断りするまでもなく「スポーツ・遊び・からだ・人間」です。そんなつもりで,これからもお付き合いくださることを期待しています。できれば,コメントを入れてください。よほどの悪意を感じないかぎりは,全部,公開しています。

それでは,こんごともよろしくお願いいたします。
取り急ぎ,ブログ修復のご挨拶まで。


2011年8月18日木曜日

パソコンのトラブルでブログの書き込みが思うようにできません。

突然,ブログの書き込みができなくなり,あわててあちこちさわりながら修復可能かどうか試しています。この文章がうまく掲載されるかどうか,まずは,その実験1.です。

2011年8月16日火曜日

甲子園・春夏連覇の我喜屋優監督の「この道」の連載コラムが素晴らしい(『東京新聞』)。

お盆がすぎ,高校野球がクライマックスを迎えている。ことしは好天にめぐまれ,順調に試合が消化され,ペスト8まできた。あとは準々決勝と準決勝と決勝を残すのみとなった。それにしてもこの猛暑のなか,選手たちは立派である。鍛えぬいた力を精一杯,発揮している姿は感動的である。しかし,ときには思いもよらないエラーがでて,一生,悔やむ選手もいるだろう。でも,これをバネにして,つぎなる人生に賭ければいい。

いま,東京新聞の夕刊に,我喜屋優さんの「この道」というコラムが連載されている。あらためて紹介するまでもなく,去年の甲子園大会を春・夏ともに連覇した沖縄・興南高校野球部監督だった人である。いまは,興南学園理事長。校長も務める。いま,第31回目まで連載がきている。いよいよ,春・夏連覇の話になる,その直前まで話が進んでいる。

こういうコラムを読んでいると,多感な高校生にとっていかに指導者が大事かということがしみじみとわかる。我喜屋監督の全人格をとおしての指導が,高校生たちに伝わっていく。そして,一歩一歩,もののみごとに変身していく高校生の姿が彷彿とする。高校生一人ひとりが課題をみつけては「自己を超えでていく」。その手助けをするのが監督の仕事だ,と明言される。その内実がじつにきめ細かく語られている。

最終ゴールは,みずからを律して,ほんとうの自分と向き合うことができる人間になること。これがこの監督の目指す,教育としての高校野球。だから,日常生活の整理整頓から指導をはじめる。挨拶,観察,自分がいますべき課題の発見,実践,観察,反省,あらたなる課題の発見という具合に繰り返していく。

これらのプログラムのうち,わたしには「一分間スピーチ」というアイディアが印象に残った。
合宿所での生活は早朝の起床と同時に掃除からはじまる。そして,そのあと全員で散歩にでる。あちこちの風景や人や天気や・・・とありとあらゆるものを観察させる。そして,そのなかでもっとも印象に残ったことを「一分間」にまとめて,みんなの前で「スピーチ」をする。これはナイス・アイディアだと思った。自分で気づいたことをみんなの前で話すためには,それなりに順序だった話の構成が必要だ。そのために,思考を深めることになる。この「思考」が大事だと思うから。

そのむかし,大松博文監督(女子バレーのナショナル・チームの監督として日本の黄金時代を築いた人)が,選手たちに「新聞を読め」と指導した話はよく知られている。監督は,バレーしかやらない選手はバカになる,だから,少なくとも,日々の新聞だけはよく読むように,と指導した。そして,やはり読んだ記事のなかから印象に残ったことを「スピーチ」する,これを練習のプログラムのなかに組み込んだ。選手たちの顔つきが変わったという。

猛練習だけでは選手は強くならない。猛練習の中味が大事なのだ。選手自身が猛練習の中味をよく理解していて,みずから積極的に取り組んでいくことが先決だ。そのためには,その猛練習に耐えられる「こころ」がなくてはならない。この「こころ」をどのようにして作り上げるか。ここが監督の腕のみせどころ。わかりやすく,噛み砕くようにして,一人ひとりの選手に語りかける。そのときのことばの一つひとつが,選手の「こころ」に響くものでなくてはならない。ここでは監督さんの全人格がにじみでてくる。気持ちの籠もった監督さんのことばが選手たちの胸を打つ。このとき,なにかが伝わる。そして,選手たちは変身していく。

我喜屋さんのコラムを読んでいると,それが手にとるようによくわかる。この人は根っからの教育者だということがよくわかる。しかし,特別に教育者になるための訓練を受けたわけではない。野球をとおして,人間を学んだのだ。この人の才能というべきか。いやいや,それ以上に,こころの温かい人なのだろうと思う。生徒が「変わる」ということはそういうことだ。人のこころを打つ感動がなければ人間はそんなにかんたんには変わらない。

ことしも,今日,明日で甲子園大会も幕を閉じるだろう。そして,いくつものドラマが生まれ,多くの高校生が「自己を超えでる」経験を(いい意味でも,悪い意味でも),いくつも積み重ね,生まれ変わったような地平に立つことだろう。そのための道場のひとつが甲子園球場というところだ。この日のために,長くて厳しい練習過程があったはず。勝っても負けても人間は「成長」するものだ。そこが大事なところだ。勝ち負けを超越したところに,最終のゴールが待っている。

蛇足ながら,『東京新聞』は素晴らしい。このような特集コラムがいくつもある。「こちら特報部」などは必見のコラムだ。じつにきめ細かく「目配り」が効いていて,どの記事も読んでいて面白い。読みとばすところがほとんどない。そして,なによりも,記事を書く記者をはじめ,編集部の熱気が伝わってくる。みんな一致団結して,ひとつの理想を追求している姿がみえてくる。

ここに,もう一本,「思想・哲学」の柱を立てて,連載コラムをやってくれるとありがたいと思っている。いま,ほんとうの意味で問われているのは,現代という時代を読み解く「思想・哲学」だと考えるからだ。その点,スポーツに関するコラムも同じだ。スポーツの「思想・哲学」を考えるような連載コラムがほしい。スポーツ新聞に横並びするようなやすっぽい記事やコラムはいらない(残念ながら,そういう記事が目立つ)。

その意味でも,我喜屋監督の連載コラムはひときわ光彩を放っている。この人には,立派な「思想・哲学」がある。それに引き換え,スポーツ・ジャーナリストやノン・フィクション・ライターなどによる単なる「評論」は不要だ。他人事を,第三者的に,さも物知り顔に,なんの感情移入もなく「評論」するだけの記事は要らない。

我喜屋優さんのような,逃げも隠れもせぬ,まさに「人間だなぁ」という味のある人のエッセイを期待したい。

2011年8月15日月曜日

「念ずればそれでよし」という教えに便乗して,墓参りもせず・・・。

お盆の三が日を故郷で過ごすことがすっかりなくなってしまった。両親が生きている間は,なにかと理由をつけては実家に帰ることもあったが,それ以後はだんだんに疎遠になってしまった。ときにはお墓参りに・・・と思うこともないわけではないが,なんだか遠のいてしまう。ご先祖さまには申し訳ないと思いつつも・・・。

こんなときには,自分に都合のいいことだけが,ふと脳裏に浮かんでくるものだ。ある時,わたしの父が,奈良の古寺の境内に立ってじっと動かなかったことがあった。本堂の広庭の真中あたりに立って,じっとしている。いつもなら,さっさとお賽銭箱の前に立ち,それとなく般若心経を唱える人なのに,なぜか,動かない。からだの調子が悪かったわけではない。ときおり,あちこちの様子をうかがうように,ゆっくりと視線を巡らせている。

どうしたのだろうと思って声をかけてみる。「お参りはしないの?」とわたし。「別にお参りをする必要はない。念ずればそれでよし」と父。「えっ,どういうこと?」とわたし。「手を合わせることも大事。経文を唱えることも大事。しかし,もっとも大事なのは本気で念ずることだ。だから,なにもしなくてもいいんだ」と父。なるほど,「念じていた」のか,と納得。それから,いつのまにか道元さんの話になり,道元さんが「形式よりは念ずるこころが大事」と説いているとその根拠を教えてくれた。

父の名は「戒心」。幼名は「唯雄」。幼いころ(小学校の1年生くらいだったと記憶する)に養子にもらわれていったさきの寺の坊主(わたしの祖父)が,「戒心」という僧名を与えた。理由は,将来,僧侶になったときに「唯雄」は「ゆうゆう」と読むことになるので,これでは具合が悪かろう,ということだったらしい。そこで付けた名前が「戒心」。わたしは不覚にも,つい最近まで,単純に「こころを戒める」ことを忘れるな,という意味で祖父が付けた名前だと思い込んでいた。

しかし,恥ずかしいことに,そうではない,ということがわかった。「戒心」ということばは『四書五経』のなかにある。そこからとった名前である,と。つまり,「心気」「家法」「気静」「厚謹」「性心」「行跡」「戒心」などの文言が『四書五経』のなかで説かれている,と。そして,生きるための心構えとして,これらの教えが重要であると説かれているのだ。これを知ったときは驚いたと同時に恥ずかしい思いをした。

名づけをした祖父はあまり多くを語る人ではなかった。が,あるとき,おれは勉強では負けることはなかった,とポツリと言ったことがある。それは,わたしが高校生になったころの話である。たぶん,激励のつもりで言ったのだろうが,突然のことだったのでいささか驚いた。ただ,じっとこちらの顔を見据えるように眺める人で,それ以上のことはなにもない人だった。だから,顔を合わせても「こんにちは」と挨拶する程度で,それ以外のことはなにもない,と油断していたからだ。

が,いまにして思えば,この祖父は『四書五経』を熟知していて,そのなかからお気に入りの「戒心」ということばを選んで,幼い養子の名前にした,ということは明白である。むかしの教養人であれば,『四書五経』に精通しているのは当たり前の話だろう。だから,こういう古典から,わたしなどはもうずいぶんと遠ざかってしまっていただけの話である。でも,偶然とはいえ,ある本を読んでいたら,そこにこの事実を見出すことができ,大いに満足である。

父は,結局は,教員と坊主の二足のわらじを履きながら,わたしたち兄弟を育て,生涯を閉じた。しかも,「戒心」という名前を本人は気に入っていたようだ。「おれは本来は気が短く,すぐに腹が立つ性格だったが,名前のお蔭で自分を律することを覚えた」と,晩年になって語ってくれたことがある。わたしの印象としては,穏やかな,どこか達観したところのある人だなぁ,というものだった。「戒心という名前をみて,ひやかす人間も少なくなかったが,立派な人はみんな『いい名前だ』と言ってくれた」とも。さらには,「いい名前だと言ってくれた人と親しくお付き合いできたことは幸せであった」とも。

経済的な理由で,3人の男の子を育てることはできないと判断してか,「このおじさんについて行きなさい」とひとことだけ言って送り出した実母(わたしの祖母)は,自分の実子である「唯雄」を,死ぬまで「戒心さん」と「さん」づけで呼んでいた。わたしは,かなり大きくなってから,そのことに気づき,はっとさせられた。そして,いまも思い出すだけで涙が止まらない。

その祖母とは一回だけ,ほぼ一里(4キロ)の道を,二人で手をつないで歩いたことがある。小学校4年生だった。「正浩さんはいい子だ。きっと立派な人になるよ」とも言ってくれた。このときも,考えてみれば,孫を「さん」づけで呼んでいる。心根のやさしい人だった。が,どこかに自分を責めているところがあったのだろうか。ほとんど口をきかない寡黙な人だった。が,ときおり,細い線のような眼が「ギロリ」と光ることがあった。それはそれは鋭いまなざしだった。そのときばかりはわたしの心臓が止まりそうになった。不思議な人だった。

父が教えてくれた「念ずればそれでよし」という道元さんのことばについて書くつもりが,いつのまにか父の思い出を書くことになってしまった。そして,名づけの親である祖父と,実母の祖母のことにまで話題が拡がってしまった。となると,わたしにとっては大事な「一道」和尚(大伯父)のこと,その奥さん(この人がまた無類の善人)のこと,母方の祖母(わたしにはことのほか厳しい人だった)のこと,なども書きたくなってくる。そして,なによりも母のことも。

そうなると際限がなくなってしまう。が,いずれまた,なにかの折に懐かしく思い出すこともあろう。そして,このブログで書くことになることもあろう。いずれの人もみんな鬼籍に入られた人たちばかりである。今日はお盆の送り火の日。遠く離れたところにいるが,「念ずればそれでよし」と教えてくれたことばどおりに,それらの人びとを思い出しながら「念ずる」ことにしよう。

こんにちわたしがここにあるのは,この人たちのお蔭だ。
そう考えると無限にわたしの存在が小さくなっていく。
そんなことがこころの底からわかる年齢になってきたということなのだろうか。
いい人たちに恵まれて,いまがある。感謝あるのみ。

1945年8月15日の青空。

毎年,この日がくると思い出すのは,きれいに晴れたあの「青空」である。天に抜けていくような青空ではなくて,そこに空が存在するぞといわぬばかりの「青」だ。やや黒みがかった存在感のある「青」だ。そう「紺碧の空」だ。

場所は愛知県豊橋市杉山町の宝林寺。そこは母の在所。わたしたち家族は豊橋市内の空襲で家を焼かれてしまったので,そこに疎開していた。その広庭から仰ぎみた空だ。本堂,庫裏,支寮に囲まれ,正面の門の内側には大きな楠が2本。寺全体も森や竹藪に囲まれていて,みえる空は頭上の真上だけ。その空が「紺碧」だった。いまにも襲いかかってきそうな,そういう存在感に満ち満ちていた。周囲から聞こえるのはクマゼミの,耳の中で反響するような勢いのいい鳴き声から,アブラゼミのなんとも暑苦しい鳴き声,つまり360度,あらゆるところから聞こえてくる蝉の大合唱である。蝉の鳴き声のシャワーを浴びているようなもの。聞こえる音はただそれだけ。オーシンツクはまだ鳴いてはいなかったと思う。

じりじりと肌に突き刺さってくるような太陽の直射を避けて,楠や泰山木の下の木陰を選んでいとこたちと一緒に遊んでいた。なにをしていたのかは記憶がない。ただ,時間が止まっていたのではないか,という感覚だけは残っている。国民学校(いまの小学校)2年生。

12時ちょうどに「玉音放送」があるというので,ラジオの前に呼び集められた。みんな正座していたようにも思うが,なんだか,ぼんやりと立ちっぱなしで聞いていたようにも思う。記憶が定かではない。もちろん,天皇の声は大きく波打つように大きくなり,小さくなりして,なにを言っているのかは理解できなかった。ただ,まわりの緊張感から,なにかとくべつのことが起きたのだ,ということだけはわかった。それが「敗戦宣言」だった。

戦争が終った,という。大人たちの沈鬱な顔が印象に残っている。しかし,小学校2年生のわたしにその実感はまったくない。ただあったのは,もう「B29」が飛んできて爆弾を落すことはないこと,艦載機が飛んできて低空飛行で銃撃されることもないこと,このふたつだけだ。このふたつだけが,とにかく恐怖だった。「殺される」「死ぬ」ということに異常なほどの恐怖を感じていた。「死ぬ」とどうなるのだろうか,と気が狂いそうなほど考えつづけたこともある。「命」へのこだわりは,あのころが一番,強かったように思う。

夏休み明けには学校に行くことができた。これが嬉しかった。なぜなら,1945年の4月ころから空襲が激しくなり,通学が危険だということで,近くの字ごとにある集会所が学校になった。先生は,ときおり見回りにくるだけだったので,その時だけ板の間に坐って,勉強らしきことをやった。が,あとの時間は外を駆け回って遊んでいた。お昼になると,みんなそれぞれの家に帰って食事をした。すでに,食料難で,けっして十分なものを食べるだけの余裕はなく,もっぱら雑炊だった。でも,みんな「うまいものを食べてきた」と嘯いた。

学校にもどっての最初の仕事は,教科書に墨を塗ることだった。戦前の教科書の記述のうち,占領軍によって「不適切」と指摘されたところを,一人ひとり墨で塗りつぶすのだ。とくに,国語は,読むところのほとんどない教科書になってしまった。ノートも鉛筆も戦前からあるものを使い切ると,あとの補充はできなかった。物資がまったく不足していたからだ。

その所為かどうかは不明だが,音楽の時間が鮮明に記憶に残っている。担任の市川先生(女性)が音楽が得意だったのかもしれない。もっぱら,みんなで合唱をした。「松原遠く,消ゆるところ,白帆の波は・・・・・,干し網高く・・・・,カモメは低く波に飛ぶ,みよ,広い海,みよ,広い海」と声高らかに歌った。が,このとき,先生は「ピアニッシモ」と「フォルテッシモ」の歌い方を上手に教えてくれた。みんな大喜びで,「ピアニッシモ」では思いっきり小さな声に落し,「フォルテッシモ」では思いっきり声を張り上げた。先生が褒めてくれるので,みんなその気になって,何回も,何回も歌った。どんどん上手になっていき,しだいに「ハーモニー」が生まれてくるのがわかった。このときの快感はみんなで共有したものだ。だから,止められない。最後には,終業の鐘が鳴っても「もう一回」「もう一回だけ」と先生にねだった。

国民学校2年生から小学校2年生になったときの,授業での唯一の記憶である。
それ以外の記憶はたくさんある。たとえば,学校の運動場が「芋畑」から,もとの運動場にもどったことだ。もちろん,芋の収穫が終ってからだ。収穫した芋はふかして,クラスごとに順番に食べた。これもなんだか楽しい記憶として残っている。

食べるものも,着るものも,教科書もノートも鉛筆も,なにもかもが不自由だった。そして,なによりも,いつも空腹でひもじかった。が,気持ちだけは「戦争」の緊張感から解放され,なんだか晴れやかだった。

そう,8月15日の記憶に残っている「紺碧の空」と同じように。そして,なんだかわからないけれども,これからいいことがはじまるのだという「希望」に満ちていたように思う。

しかし,66年後の「8月15日」の気持ちはまったく逆だ。「3・11」以後,わたしの気持ちはふたたび,「1945年8月15日」以前にもどってしまった。放射能というみえない敵に,しかも,半永久的に向き合わなくてはならない,この重苦しさは戦争以上だ。なぜなら,戦争は「白旗」をかかげればいい。放射能との闘いは「白旗」すら許してくれない。

そんな暗い影に包まれた「今日」という日,空港には海外旅行にでる家族連れが「ピーク」を迎えると報道されている。不思議な光景をみる想いだ。そして,今日も猛暑がつづく。複雑な気持ちで,被災地の人びとの「今日」に思いを馳せる。

2011年8月14日日曜日

「笹踊り」と朝鮮通信使との関係について。

愛知県豊川市の牛久保町に住む郷土史家柴田晴廣さんから,この地方に伝わる「笹踊り」を収録したDVDとUSBが送られてきた。この「笹踊り」はわたしの育った愛知県豊橋市の大村町にも伝承されていて,子どものころの祭りの楽しみのひとつだった。

「笹踊り」は,大太鼓ひとつ,小太鼓ふたつ,計3人が太鼓を打ちながら舞い踊るのが基本となっている。太鼓をからだの前にくくりつけ,両手にもったバチで叩きながら,さまざまな所作をしながら,村の各地を練り歩く。神社の本殿から舞いでてきて,本殿前の広場でひとしきり踊ったあと,村の集落をへ巡っていき,それぞれの重要なボイントにくると「笹踊り」をみせる。

わたしの育った大村町では,八所(はっしょ)神社を中心にした,住吉,柴屋,沖木,為金の四つの集落が氏子集団を形成していた。八所神社という名からすると,かつては八つの集落があったのか,と推測される。しかし,いまはそれを確認することはできない。この四つの集落から,毎年,3人の踊り手が選ばれ,一カ月ほど稽古を重ねて本番を迎える。自分の集落のところに「笹踊り」がやってくると,みんな集まってそれをみて楽しんだ。踊り手さんたちも真剣に舞い,踊り,ときに拍手ももらったりしていた。

この「笹踊り」の大太鼓はからだの大きい人が選ばれ,小太鼓は小柄な人が選ばれていた。わたしは,ちびだったので,大きくなったら小太鼓に選ばれることを夢見ていた。大太鼓は大きな踊りだったが,小太鼓は重心を低くして後ろに反り返る,越後獅子のような所作があって,そこを大太鼓が飛び越えていく(跨ぎ越していく)ところが強く印象に残っている。村中の子どもたちが,いつかはおれも,と憧れていたと思う。

話は一足飛びにとぶが,この「笹踊り」の起源は,朝鮮通信使にあるという。この話は,冒頭の郷土史家の柴田晴廣さんから聞いた。これには驚いた。少なくとも,わたしの育った大村町にはそのような伝承はすでに忘れられていたように思う。あるいは,わたしが耳にしなかっただけのことかも知れないが・・・。この風変わりな「笹踊り」の起源が朝鮮文化にあったとは・・・・?

朝鮮通信使といえば,江戸時代の将軍職が交代したときに,その慶賀のために朝鮮から派遣された使節だったはず。その朝鮮通信使たちの中に,この「笹踊り」の起源になる踊りをする人たちがいて,東海道の主だったところで舞い踊りをみせたらしい。それが話題になって,大勢の人が集まって観賞した。ここまではいい。問題は,なにゆえに,その「踊り」に「笹踊り」という名前をつけて,このあたりのひとたちが伝承してきたか,ということだ。

朝鮮通信使は,東海道をとおって江戸まで行ったはず。だとすれば,この踊りが東海道筋の各地に伝承されていてもおかしくはない。なのに,なにゆえに,この地域にだけ集中して伝承されているのか,というテーマが浮かび上がってくる。

そこで思い出されるのが,金達寿の書いた『日本のなかの朝鮮文化』(全6巻?)という本である。もう,かなり前のことだが,ある必要があって,この本をかなり熱心に読んだことがある。この本によると,日本のあちこちに朝鮮文化が,かなり集中的に伝承されている,というのである。そして,いまの市政でいえば,豊橋市,豊川市,田原市には,相当に多くの朝鮮文化が伝承されている,という。しかし,この本のなかには「笹踊り」のことはなにも記述されていなかった。

だから,子どものころに馴染み,憧れていた「笹踊り」が朝鮮通信使にそのはじまりがあると聞いて,ビックリ仰天したほどだ。なぜなら,それが村祭りのひとつの呼び物となるパフォーマンスとして伝承しているからだ。村祭りといえば,少なくとも氏子集団の結束を確認するための,ひとつの重要な年中行事だ。その中に「笹踊り」が組み込まれているということ。しかも,日本の祭りの多くは,江戸時代の後期に入って盛んになったという。

大村町は,わたしの育った時代には,豊川が氾濫すると,すぐに水浸しになってしまう。大雨が降ると学校は自動的に休みになった。集落ごとに大水に囲まれて孤立してしまうからだ。こういう地勢学的にみても不思議なところに住みついた人たちが,どういう人たちであったかは容易に推察ができよう。いまごろになって,こんなことを思い描いている。

その引き金になったものが「笹踊り」である。朝鮮通信使のみせた踊りに惹きつけられるなんらかの心象が共有されていた人びとだったのか,と。なるほど,文化というものは,そういう形で伝承されるものなのか,と。わたしもまた,そういう心象をどこかに分けもっていることに違いはない。いまもなお,なつかしく「笹踊り」を思い出しているのだから。

それにしても,「笹踊り」のDVDとUSBを送ってくださった郷土史家の柴田晴廣さんに感謝である。柴田さんは,ご自分で,「笹踊り」が伝承されている村祭りを尋ね歩いて,ビデオで収録されているのだ。その成果を,わたしに分けてくださったという次第。ありがたいことである。

2011年8月13日土曜日

「アンチ・ドーピング」と「節電」の論理はとてもよく似ている。

「ドーピング」はやめましょう,と言われたらちょっと文句のいいようがない。その前提に立って「アンチ・ドーピング」運動が成立している。それと同じように電気の無駄使いはやめましょう,と言われたらそれはそのとおりと答えるしかない。その前提の上に立って「節電」運動が成立している。

しかし,よくよく考えてみると,この二つは「瓜二つ」ではないかと思うほどよく似た理屈の上に成り立っていることがわかる。

アンチ・ドーピング運動の目的は,よく知られているように,アスリートたちの健康を守るために,競技の公平性を保つために,社会悪(麻薬)を根絶するために,の三つが提示されている。これもまたまことにもっともな目的にみえる。(じつは,この三つを,一つひとつ考えていくと矛盾だらけであることも明白なのだが・・・・。この問題はひとまずここでは問わないことにする。)

しかし,こんなもっともらしい目的をかかげる必要はない。アンチ・ドーピング運動の目的は,近代オリンピック競技会をこんごも維持・発展させるため,のひとことでいい。つまり,現状維持がその最大の目的なのだ。それほどに,ドーピング問題は重大な問題をかかえている,ということだ。つまり,ドーピングをうまく制御できないと,オリンピック・ムーブメントは崩壊してしまう。いわば,時限爆弾のようなもの。だから,目の敵のようにしてドーピングを取り締まろうとしている。

そこに,じつは,大きな落とし穴が待っている。
ドーピングの検査は「抜き打ち」で行われるのが通例となっている。だから,逆の不公平を生む可能性を秘めている。

たとえば,金メダルを剥奪されたソウル・オリンピックでのベン・ジョンソン(100m)の言い分を聞いてみよう。かれは,「おれは罠にかかってしまっただけの話だ」,と強く訴えている。そして,「あの100mの決勝を走った選手全員のドーピング検査をして,おれだけがクロだったのなら,それは納得する」がそうではなかった。かれ一人だけが「抜き打ち」検査の対象とされた。かれの言い分では,あの決勝レースを走った選手のうち,ドーピングをしていなかった人間の方が少ないだろう,という。事実,ドーピング検査に長年たずさわってきた専門家も,カール・ルイスも間違いなくドーピングをしていたと思う,と証言している。

では,なぜ,ベン・ジョンソンだけがチェックを受けなくてはならなかったのか。金メダルだったから,というのがその理由のひとつ。しかし,その影にカール・ルイスの金メダルを期待していた「アメリカ」という国家の姿がちらつく。つまり,「抜き打ち」検査には恣意的な力が働きうるということだ。もっと言ってしまえば,政治的な力が,あるいは,金の力が・・・と憶測はいくらでもできる。ベン・ジョンソンはその罠にはまった,というのである。

不公平をなくすのがドーピングの目的であるのなら,決勝レースに出場した選手は全員,ドーピング検査を受けることを義務化しておけば,なにも問題はない。

アンチ・ドーピング運動の背景には,じつは,もっともっと複雑な構造(思惑)がある(残念ながら,ここでは割愛)。が,いずれにしても,アンチ・ドーピングの目的は近代スポーツ競技を,もっともっと発展させることにある。しかし,その近代スポーツ競技のミッションはすでに終った(すでに,臨界点に達してしまった),というのがわたしの意見である(『近代スポーツのミッションは終ったか』,今福龍太,西谷修,稲垣正浩共著,平凡社)。

だから,なにがなんでも「アンチ・ドーピング」を唱えつづけなくてはならないのである。

他方の「節電」の合唱も,とてもよく似ている。電気の無駄使いはよくない。そのとおり。では,その節電の目的は? 電気が不足しているから。なぜ? 原発が止まってしまっているから。早く原発の運転を再開させないと,いつまでも節電することになるから。そして,もっともっと原発を建造しなくてはならないから。つまりは,「原発推進」だ。

しかし,専門家の計算では,この夏の電気は足りている,という。政府も経済産業省も東電も,この夏の電気は足りない,という。だから,節電が必要だ,と。しかし,専門家の計算によれば,いま運転を休止している火力発電を再開すれば,十分に足りるという。そして,徐々に再生エネルギーに転換していけば,脱原発は可能だという。にもかかわらず,政府も経済産業省も東電も「再生エネルギー」に対して腰が重い。どこまでも「原発推進」にこだわる。なぜか?経済重視。金重視。命よりも金。

原発の安全神話が破綻し,核燃料棒の後始末の方法もないまま(10万年,水で冷やしつづけるつもりらしい),いまなお「原発推進」を唱える不思議な人種たち。政財界の老人たちは,すでに耄碌しているとしても,若い学者・評論家たちにも,そういう輩が少なくないことをわたしは危惧する。そして,いまも「節電」の大合唱だ。

アンチ・ドーピング運動も「決め手」はない。つまり,ドーピングは止めようがないのだ。「いたちごっこ」の連続。どこまでも,どこまでも「いたちごっこ」。あるいは,「もぐらたたき」。終わりのないドラマをみているようなもの。

「アンチ・ドーピング」と「節電」の論理はほんとうによく似ている。
近代スポーツ競技も原発も,その論理は同じ。(ビックリする人がいるかも知れないが,よくよく考えてみていただきたい)
そろそろ「幕引き」にとりかからないといけない。

わたしたちの「命」を守るために。

2011年8月12日金曜日

「午睡」という快楽を満喫。これぞ「内在性」への誘い。

6日間,旅にでていたので,毎日がまことに楽しく,充実していた。だから,あっという間に時間がすぎていった。が,どこか,なにか,違うなぁ,と思っていた。その理由が今日になってわかった。「午睡」という快楽がひとつ欠けていたのだ。

神戸も暑かったが,かの地は海と山に挟まれていて,猛暑になっても風がそよそよと吹いてくる。日陰に入ればどことなく涼しげである。しかも神戸市外国語大学は郊外の山の中腹のような緑に囲まれた地形のところにある。近くに谷もあり,そこが風の通り道になっている。だから,直射日光さえ避ければまことに快適そのもの。教室のエアコンは要らないくらいだ。

が,昨日(11日)の大阪はうだるような暑さ。市街地は熱風が吹いている。暑さには自信のあるわたしだが,この暑さは危険域に達している。と思いながら溝の口にもどると,夜も背中を汗が流れている。おお,久しぶりの熱帯夜。幸いなことに,高層マンションに住んでいるので,風向きによっては涼しい風が入ってくる。が,風が巻いているらしい。あまねく,すべての家に均等に風を送り込んでいるらしい。でも,夜半には気温も下がり,快適な眠りに落ちることができた。

そして,今日(12日)である。朝からがんがん気温が上がっていく。Tシャツ一枚なのに,背中は汗の運動会。やるべきことを済ませて,鷺沼の事務所へ。午前11時30分,到着。窓を全部開け放って,留守の間の空気の入れ換え。まずは,旅の間,持ち歩いていたパソコンを設定したり,あちこち片づけたりして,いつもの事務所の状態にもどす。と,異様に暑いことに気づく。ここの窓は東と北にあるので,そちら方面からの風が吹いてくれれば,真夏でもエアコンは不要という,まことに都合のいい部屋なのである。しかし,今日はその風ではない。だから,室温は外気とまったく同じ。扇風機(2000円を切る安物)が唯一の頼り。35℃を越えたらエアコンをつけることにしている。いま,34℃。どうしようかと迷いながら我慢している。

とたんに集中力が欠けてくる。これではいけない。エアコンをつけようか,どうしようか,と躊躇しているうちに眠気が襲ってきた。こういうときの眠気は,からだからの貴重なサインである,とわたしは考えている。よほどのことがないかぎり,眠ることにしている。すなわち,「午睡」である。昼食をとっていないのに眠気がくる。こういうからだからのサインに逆らってはならない。食欲と睡眠欲では,睡眠欲の方が上位なのだから。この生物学的法則に逆らってはいけない。

急いで,柔軟体操用のウレタン・マットをのばして,ごろり。あっという間に眠りに落ちていく。この,えもいわれぬ「快感」。そうか,これもまた動物性の世界に身をゆだねるひとつの経験なのに違いない。バタイユのいうように,動物性の世界から離脱して人間性の世界に移動してしまった人間は,どこか,わけのわからないところで(理性では説明不能の)存在不安を抱え込んでしまっている。その存在不安から解消されるひとつの方法が「眠る」ことだ。眠りの世界に入り込んでしまえば,あとは,ふつうの一般の動物となんら変わりはない。内在性へも,内奥性へも出入り自由のはずだ。意味不明の夢をみるのも,理性から解き放たれているからに違いない。だから,なにものにも代えがたい「快楽」なのだ。

お盆休みで自由になる時間はたっぷりあるはず。この猛暑のなか,無理して外にでていくことはない。部屋のなかで,少々暑さに耐えて,難しそうな本でも読むとよい。間違いなく睡魔からの招待状がとどく。そのときは素直にお招きに預かること。そこは,なにものにも優る「快楽」の場所。素直に身をゆだねるべし。そのための休暇ではないか。

などといいわけをしながら,「午睡」という快楽にひたることにしよう。せめて,お盆の間くらいは。

「くわばら,くわばら」の反対はなんというのだろう? カッパ博士に聞いてみよう。応答願います。「すがわら,すがわら」はもうありません。

スペイン・バスク大学のアシエール教授と大阪で再会。

8月8日(月)から三日間の神戸市外国語大学の集中講義をなんとか無事に終え,その翌日の11日(木)にアシエール教授と大阪で再会した。2007年にスペインで開催された第一回日本・バスク国際セミナー(1週間)のときにはじめて会って以来,意気投合しすっかり仲良しになった。かれもまた日本文化につよく惹かれるようになり,日本語の勉強もはじめた。

以来,第一回セミナーのときに仲良しになった日本人研究者たちと,さまざまなかたちで接触を保ちながら,二度ほど来日し,今回は三度目の来日と記憶する。そのうちの一回は,沖縄の渡嘉敷島でのダイビングと綱引き儀礼のフィールドワークだった。このときは,わたしも参加し,楽しい経験をともにした。もう一回は,安曇野で開催されていた柏木裕美さんの能面展を中心にした安曇野ツアーと,その帰路,わたしの鷺沼の事務所で3,4日の合宿をしながら東京観光を楽しんだ。

アシエール教授は11日の朝8時ころに関西空港に到着して,入国手続に手間取り(どうやら麻薬運搬人と勘違いされたらしく,警察官まで現れたという)相当に疲れているはずなのに,元気に応答してくれた。場所は,大阪のM教授宅。もっとも,わたしと神戸のT教授がやってくることは内緒にして「サプライズ」が仕掛けてあったので,アシエール教授はビックリ仰天。でも,こころからの喜びを全身で表現してくれた。ありがたいことである。

早速,シャンパンが抜かれ,歓迎のパーティとなった。アシエール教授は,すぐに,脱原発デモでインタヴューされたわたしの映像をスペイン国営放送でみて,とても感動した,と切り出した。そのまなざしにとても温かいものを感じ,いい男だなぁ,と感心してしまった。そして,いきなり東日本大震災のことからフクシマの問題へと,一気に問題の核心に触れる話題へと入っていった。こんなときに,やはり,被災地に立ち,フクシマの20キロ地点に立ち,放射能のホット・スポットを通過した経験をしておいてよかった,としみじみ思う。これらの話にアシエール教授はいつもにもまして集中力をそそいで耳を傾けてくれた。かれは,来日の最大のテーマが初日から聞けて,こんなに嬉しいことはないと喜んでくれた。

疲れていませんか,と聞いたら,疲れてなどいられない,と笑う。では,もう少し,ということでセミナーのときに会った友人たちのその後の様子について質問。わずかな間に,人それぞれのドラマがあって,いいこともよくないことも起きている。まあ,それが人生なのだよ,とまじめに語り合う。そして,わたしが日本に滞在している間に研究会はないのか,とアシエール教授の問い。残念ながら,つい4日前に終ったところだ,と応答。でも,いま,ここで,このまま研究会に切り換えればすぐにはじめることができる,とわたし。

では,ということで,アシエール教授ご持参のワイン(バスク地区の名産「リオハ」というとても美味しいワイン)をとりだし,それを呑みながら,ほんとうの「シュンポシオーン」(プラトンの『饗宴』)をはじめることに。そして,いきなり飛び出した話題は「禅」の話だった。アシエール教授は,ヨーロッパでは禅はネガティーブなものだという受け止めかたがされているけれども,わたしはポジティーブなものだと考えるが,どうか,と問う。そこで,禅はネガティーブでもないし,ポジティーブでもない,そういう二項対立的な思考の外に立つものだ,とわたし。いきなりの「禅問答」となる。

アシエール教授のあだ名は「ザビエル」。わたしが命名した。その根拠は,スペインにあるザビエル城(ザビエルの生まれた家,かれは貴族)の中の一室に飾ってあったザビエルが祈りながら上の方を見つめている絵が,かれに似ていたから。かれはそれをとても光栄だけれども,ザビエルは偉大すぎてわたしとはとてもとても・・・・と謙遜。

が,そのザビエルも,じつは日本にやってきて禅僧と会って話をしている。当時の薩摩藩の役人がザビエルに会って話を聞いたけれども,なにを言っているのかさっぱりわからず困りはてた。そこで,一計を案じて,禅僧を会わせてみようということになり,その会見が成立した。しかし,お互いになにを言っているのやら,さっぱりわけがわからなかったらしい。そんな逸話が残っている。

アシエール教授のキリスト教信仰がどの程度のものであるかはわからないけれども(どっぷりではなくて,いくらか距離をおいているように感じている),ものの見方・考え方の基本のところはそこにある。それに対して,わたしの立場は曲がりなりにも禅寺で育ったという経緯もあり,いつのまにか禅仏教の関係の本になじんできたし,いまも道元さんの『正法眼蔵』とは格闘中。そして,わたしなりに信仰の「信」を置いている。だから,ある意味では,キリスト教的発想の人と禅仏教的発想の人との対話ということになる。

話は,当然のことながら,「無」とか,「空」という話になっていく。たとえば,ザビエルも最初に行った修行であるイグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」では,イエス・キリストとの一体化がその目的となっている。それに合わせて説明してみれば,禅の修行は,自然との一体化がそのゴールとなる。この話はいくらかわかってくれたようだが,納得はできなかったようだ。だから,自己が自然と一つになりきることが「無」であり,「空」の世界だ,といってもイメージができなかったようだ。この話は奥が深いので,そんなに単純な話ではないので,また,いつか,じっくりと話をしましょう,というところでお暇をした。

6日(土)から6日間も旅にでているので,こちらもそろそろ限界だ。しかも,午前中からアルコールが入った。こんなことはまことに珍しいことで,わたしのからだの方がビックリ仰天している。午後3時すぎにお暇。またの再会を約して。

アシエール教授は,このあと日本の各地を旅行しながら,屋久島に渡り,屋久杉と対面する。これが今回の旅の一つのクライマックスだ,ととても楽しそう。
楽しい旅ができますように。
Guter reise !

2011年8月10日水曜日

「節電15%,ご協力お願いいたします」と駅前で大声を張り上げる高校生,中学生。

神戸市の地下鉄駅前で「おやっ?」と思う光景に出会った。それも二日つづけて。時刻は午後6時前後。「節電15%にご協力を」と書かれた横断幕と「KEMS」と書かれた横断幕を手にして横一列に並んで立つ高校生である。横断幕の後ろには「兵庫県教育委員会」と「県立〇〇高等学校」の名前の印刷してあるのぼり旗が一本立っている。生徒の数はおよそ10名ほど。

この生徒たちは,一人ずつ順番に,節電についての「前口上」を大声を張り上げて述べたあとで「ご協力をよろしくお願いいたします」というと,こんどは全員が「ご協力をよろしくお願いします」と大声で応じている。わたしは「おやっ?」と思ってしばらく立ち止まって,この高校生たちを観察していた。そして,一緒にいた地元の人であるTさんに「KEMS」ってなんですか?と尋ねた。「神戸で環境問題にとりくんでいるNPO法人かなにかの団体だと思います」とのこと。で,ますます「おやっ?」と思ってしまう。

でも,初日は,つぎの用事があったのでそのまま立ち去った。しかし,翌日,同じ時刻にとおりがかると,昨日とまったく同じ光景に加えて,いま,はやりの丸うちわを2,3人の男子高校生が通行人に配布している。わたしももらってみると,白黒の格子模様が印刷してあり,表に「KEMS」,裏に「Checker」と印刷してある。そこで,この男子高校生に「KEMS」ってどういう意味なの?と聞いてみた。ところが,この高校生君は知らなかった。あわてて,近くで配布していた仲間の高校生君に助けを求めている。が,この高校生君も知らなかった。それを見ていた指導の女性の先生らしき人(横断幕の先頭のところに立っていた)が手をあげたので,そちらに移動。

すると,「神戸環境マネージメント・サービス」の英語表記の頭文字だ,とおっしゃる。具体的にはどんな活動をなさっているんですか,とわたし。すると,こんどは猛烈なスピードでその活動内容についてお話くださる。じゃあ,たとえば・・・・,とつぎの質問をしようとしたら,「これで失礼します」と言ってくるりと背中を向けてしまった。あれっ?と呆然としていたら,バッグから携帯電話をとりだして話をはじめてしまった。

おやおや,である。もし,くだんの女性が教員であるのなら,勤務時間中の携帯電話での応答ということになる。もしかりに,急ぎの連絡であったとしても,「ちょっとだけ失礼します」と言い残しておいて,手短に電話の応答をした上で,もう一度,わたしに向き直って,話を継続することはできる。わたしは,それを期待した。しかし,その背中には,みるからにわたしからの質問を拒否する「なにか」が表出してしまっている。ふたたび,おやおや,である。

あきらめて,わたしは横断幕に立っている高校生の一人ひとりの顔をみながらゆっくりと歩きはじめた。すると,横断幕の端っこに「〇〇高校ボランティア部」と小さく書いてある。同行のTさんに尋ねてみると,神戸・淡路大震災のあと,あちこちの高校にボランティア部ができた,とのこと。これは,これでわたしにとっては大発見。そう思いながら,つぎの「KEMS」という横断幕をもっている女の子に,ボランティア部の活動内容について尋ねてみる。そうしたら,意外なことに「わたしたちは中学生です」という。だから,ボランティア部ではありません,と。「えっ?」。よくよくみれば,なるほど,まだあどけなさを残す中学生の顔であった。

中学生も,動員されて,ここに立っているのか,と思ったので「何時間くらい,ここに立つの?」と聞いてみる。「半時間ほどです」が,わたしには「3時間ほどです」と聴こえたので,ふたたび「えっ?」と思い,再度,確認してみたら「半時間」の聞き間違え。その間にそれとなく,さきほどの指導の先生らしき人の様子を気づかれないように観察する。すでに,電話は終わって,わたしの方の様子を心配そうな顔をしてみている。ならば,と思い,しっかりとわたしのまなざしをそちらに向けてみる。すると,みごとに視線をはずされてしまった。おやおや,である。

疑問点は大きく分けて二つ。
一つは,兵庫県教育委員会が県立高校の部活をとおして「節電15%」を訴えることの意味。
もう一つは,KEMSという神戸市の管轄下にある環境団体が中学生を街頭に立たせて「節電15%」を訴えることの意味。

いま,メディアを賑わせている「節電15%」は,もはや,完全なる政治的な駆け引きの問題となっている。ほんとうに「節電15%」が必要かどうかは,専門の学者の間でも意見の分かれているところだ。つまり,その根拠(積算の基礎)に疑問を呈する論者は少なくない。そして,「節電15%」は脅かしの論理であり,そのゴールは「原発推進」だ,と。

もし,そうだとしたら,兵庫県教育委員会とKEMSは「原発推進」のために「節電15%」を訴えていることになる。しかも,それを県立高校の部活や,中学生を使って。ということは,兵庫県教育委員会も神戸市も「原発推進」なのか,とわたしなどは勘繰ってしまう。

「原発はクリーンなエネルギーです」と教科書にまで書き込んで「原発推進」を担ってきた文部科学省のこれまでの方針を,兵庫県教育委員会がそのまま継承し,いまもなお,なんの反省もなく県立高校生の部活をとおして,「節電15%」の街頭活動を支援・展開している・・・としたら,わたしの背筋が凍りつく。環境団体もまた「二酸化炭素」排出を根拠に火力発電に反対し,原発を支持・推進してきた経緯がある。いまや,その根拠は完全な誤りであり,原発もまた核燃料を抽出するまでにとてつもない量(火力発電の何倍も)の「二酸化炭素」を排出していることが指摘されている。そこに「頬かぶり」をしたまま,またぞろ「原発推進」で活動しているとしたら,それこそ論理矛盾もはなはだしいということになる。

このあたりのことは,もっと厳密に調べた上で,きちんと考えをまとめてみたい。とりあえず,旅先での偶然の出会いから感じた疑問点の提示まで。

2011年8月9日火曜日

ドーピング問題と原発問題は同じ構造。

ソウル・オリンピックの陸上100m決勝でベン・ジョンソンが驚異的な世界新記録を出して金メダルに輝いたが,その後のドーピング・チェックで「クロ」と判定され,金メダルが剥奪されたことは,いまも多くの人が記憶していることだろう。しかも,一件落着したあとの談話で,ベン・ジョンソンはつぎのように語っている。

「おれは罠にはめられたんだ。ドーピングをやっているのはおれだけではない。みんなやってるんだ。だから,全員,ドーピング・チェックをすべきだ。それでなければ不公平ではないか。なぜ,おれだけがドーピング違反にされなければならないのか。」

8月7日(日)の午後から開催された「ISC・21」8月神戸例会で,伊藤偵之先生に「ドーピングの現在を考える」という講演をしていただいた。長年にわたって,JADA公認シニア・ドーピング・コントロール・オフィサーとして活躍された方だけに,話題に事欠かない。しかも,これまであまり公にはされてこなかったドーピング・チェックの表の話も裏の話も含めて,わたしにはとても刺激的なお話だった。途中休憩もはさんで,たっぷり3時間半にわたってお話いただいたにもかかわらず,もっともっとお話をお聞きしたいというところで時間切れとなってしまった。伊藤先生のお話では,これが「ラスト講演」だとのこと。その意味では,わたしたちは貴重なお話をうかがうことができたわけだ。こころから感謝の意を表したいと思います。

このご講演の内容については,後日,研究所紀要『IPHIGENEIA』に掲載させていただけるということですので,細部については,そちらにゆだねることにして,ここでは,もっとも印象に残った話題を一つだけご紹介しておくことにしよう。

ドーピング問題は「いたちごっこ」だと言われる。特定の薬物を禁止すると,それに代わる新しい薬物が開発され,それをまた禁止するという終わりのないドラマが展開されているからだ。しかし,問題はそれだけでは終わらない。ドーピングに関する根源的な問題は,人体には存在しない薬物を体内に取り込むということだ。それは,一時的に筋肉や神経にある特定の作用をおよぼすだけではなく,最終的には脳に影響をおよぼすことになる。つまりは,死に至る。

人体には存在しない薬物とはどういうことか。漢方薬のようにある特定の植物の成分を抽出して処方するものもあれば,動物の体内から特定の成分をとりだすもの,そして,鉱物から抽出するものまで,多種にわたる。しかし,植物や動物から抽出されるものは,少なくとも「生きもの」の成分であるという点では,人体とまったくの無縁というわけではない。なぜなら,人間は,他の生命体,つまり,植物や動物を「食べ物」として「いただいて」生き長らえているからだ。しかし,鉱物は,そこからは除外される。

その鉱物からも,いわゆるドーピング用の「新薬」が開発されている。しかも,自然のままの鉱物には存在しない成分を,ある特殊な方法を用いて,新たに創り出してしまう技術も開発されている,という。こうして,つぎつぎに,これまでの技術では考えられなかったようなドーピング用の「新薬」が開発されている,という。つまり,「新薬」はその「効用」という点でますます過激になりつつある,というわけだ。しかも,それらはいきなり「人体実験」として,「極秘」で用いられている。恐るべき現実が,いまトップ・アスリートたちの世界で繰り広げられている。

この現実はどこかで原発とよく似ている。たとえば,ウラン鉱石のなかから,特殊な技術をもちいて,自然界には存在しないプルトニウムという物質をとりだし,その核分裂のときに放出される膨大なエネルギーを利用して電気を発電させようという,その発想といい,その方法といい,そっくりではないか。電力を生み出す単位時間内での「効率」だけが重視されていて,その後のことは考えられてはいない。使用済み核燃料の処理には何万年もの時間を要するというのに・・・。それでも「コストは安い」という。そこでは,人命を犠牲にする「コスト」というものは計算されてはいない。

ドーピングもじつによく似ている。競技での記録や勝敗での「効率」だけが重視され,そのための「効用」だけが対象とされる。あとは,使い捨てだ。人成長ホルモンを飲まされたある女性選手は,中年を過ぎてもまだ「成長」をつづけていて,とどまるところを知らないという。その「成長」を止める方法がまだわかっていない,という。

ひとたび暴走をはじめた原発は手のつけようがない。恐るおそる原発を遠巻きにしながら,試行錯誤的にあれこれ試みることしかできない。情けないかぎりだ。制御不能となって暴走することもありうる原発を「想定外」と割り切って(マダラメ君),見切り発車させてしまう,この発想と方法は,ドーピング問題とあまりにも酷似している。

「未来はすでにここにある」と,原発問題に触れて西谷修は書いた。ドーピング問題もまったく同じだ。近代スポーツ競技の「未来はすでにここにある」。すなわち,もはやエンディングのシナリオがはじまった。伊藤先生は,「ドーピング問題は解決不能」,「ドーピング問題を解決しないかぎりオリンピックは21世紀を超えることはできないだろう」と警鐘を鳴らす。

2011年8月7日日曜日

阪神・淡路大震災記念「人と防災未来センター」を見学。

8月6日。ヒロシマのことを思い出しながら神戸にやってきた。神戸は夜の花火祭りをお目当てにした観光客が目立つ。それ以上にわたしの目を驚かせたのは若者たちのゆかた姿。若い男女のペアが圧倒的に多かったが,なかには中年の男女のゆかた姿もあって,微笑ましい。東京でも,最近は若者たちの間でゆかたを着るのが一種の流行のようになっているが,よくよくみると,これは単なる流行ではないなと思う。どうやら,いまの若者たちにとっては「ニュー・ファッション」なのではないか,と思う。つまり,「新しい」もの。だから,とても楽しそうにみえる。

そういう楽しそうな若者たちのおしゃれの集団をかわすようにして,わたしたちはまったく別の目的地をめざした。わたしたちとは,むかしの教え子たち。いまは立派な教員。中堅をささえる大事なポジションにいる。その彼らと年に一度,集まって,さまざまな情報交換をする。今回は,神戸に集まった。夜の懇親会までの間,どこに行こうかといくつかの提案があったが,わたしは躊躇することなく,神戸・淡路大震災記念「人と防災未来センター」を選ぶ。

三宮から一駅の春日野道で下車。徒歩10分。6階建てのとてもモダーンなおしゃれな建物。西館と東館の二棟が並んで建っている。その間は広いスペースになっていて,ここでもくつろげるようになっている。料金は大人600円。小中学生は無料。老人(60歳以上)は300円。

1995.1.17。We don't forget.  ~1.17は忘れない~,と配布されたリーフレットの表紙に書いてある。そうだ,寒い冬のできごとだったと思い出す。早朝,夜明け前。まだ深い眠りのなかにいた。突然の横揺れに眼が覚めた。一瞬,30センチほど頭の方に横滑りしたか,と思った。それから激震がつづく。わたしは,奈良の学園前に住んでいた。

あわてて飛び起きて,すぐにテレビをつける。臨時ニュースが流れ,まもなくヘリコプターからの夜景が映し出される。そのとき,すでに2箇所から火がでていた。まだ,小さな炎だった。それに引き換え,数えきれないほどの報道関係と思われるヘリコプターが飛んでいる。わたしは思わずテレビに向って吼えた。報道ヘリは2~3機でいい。あとのヘリは消火に当たれ。いまのうちなら消すことができる。自衛隊もただちにヘリコプターを出動させて消火に当たれ,とわたしは吼えつづけた。が,むなしいかな,火の手はつぎつぎに上り,あっという間に火災の海に変化。

たしか,死者は6千人を越えたと記憶する。
そのときの記憶をよみがえらせてくれるさまざまな展示が,全部で7フロアーにわたってセットされている。とても贅沢な空間である。映像あり,パソコンあり,記録あり,遺物あり,写真あり,・・・・となんでも並んでいる。が,どこか居心地が悪い。展示されている内容が内容だから・・・ということもあるかも知れない。「1.17」を再現する映像室では,「気分の悪くなった人は係員にお知らせください」という予告まであった。が,どうもそれだけではない。

わたしの場合に限ってと限定しておくが,博物館や美術館は見慣れてきているので,かなり風変わりな特別展であっても,それなりに「なるほど」と思うことがある。郷土資料館なども好きで,機会があれば覗くことにしている。しかし,それらともどこか違う。なぜだろう,と考える。

結論。多くのものを見せすぎる。あれもこれもみんな並べてある。雑然と。言ってしまえば,展示のコンセプトが不鮮明。つまり,「人と防災」の未来を指し示す具体的なイメージがみえてこない。むしろ,こんなに「悲惨」だったのだ,ということばかりが印象に残る。それはそれでいい。ならば,もっと徹底してそこに焦点を当てるべきではなかったか。

ご丁寧にも,今回の「東日本大震災」の「津波」被害の展示も,一番目立つ一階フロアーでなされている。ここから入るのか?と最初から,わたしは違和感をもった。違うだろう?と。そして,もっと違和感をいだいたのは,では,なぜ,フクシマは展示しないのか?ということだった。どこか,ちぐはぐしている。せっかく,「人と防災未来センター」とうたっているのだから,もう少しコンセプトを明確にすることができるはずだ。「防災未来」の最先端のテーマは,いまは「フクシマ」にある。

このセンターの管理主体を確認してみたら,(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構,とある。思わず,これはなんだ?と首をかしげてしまった。この研究機構については,いずれ,きちんと調べてみようと思う。ここになにかがある・・・・と,とこれはわたしの直感。

こういう展示館では,出口にはミュージアム・ショップと軽食がとれるカフェがあるのがふつうだ。ここにも,やはり,同じようなものがある。しかし,ショップはお土産品のみ。わたしのお目当ては「図録」だった。が,それはない。あわてて,入り口まで確認に行った。「このセンターの図録のような,なにか刊行物はありませんか」「このセンターを紹介するリーフレットでもいい」,と。受け付けのお嬢さん二人は「まことに申し訳ございません。当センターでは,そのような刊行物はございません」とまことに丁寧。

そうか,このセンターには「学芸員」のような資格をもった人はいないのだな,と納得。まことに贅沢のかぎりをつくした建物。そこに施された設備も一流。しかし,展示に関してはコンセプトがない。この(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構というものものしいネーミングの影になにかが隠されているのでは・・・・と余分なかんぐりまでしてしまった。残念ながら。美名の影に・・・・?

2011年8月5日金曜日

バタイユの『宗教の理論』の位置づけについて。

バタイユは65歳という,こんにちでいえば比較的若い年齢でこの世を去った。だから,バタイユ自身としては,志半ばにして・・・という思いが強かったと思う。たとえば,よく知られているように,バタイユはみずからの思想・哲学を『無神学大全』全5巻でまとめ,完成させる構想をもっていた。しかし,この構想を実現する前に,病に倒れてしまった。

この『無神学大全』が完成していたら,バタイユの思想・哲学はもう少し違ったかたちで世の中に受け入れられたのではないか,とわたしは考えたりしている。なぜなら,いまでもバタイユの考えたことがらを否定的にしか受け止めない,世にいう「哲学者」は少なくないからだ。この問題に深入りしてしまうと本題からはずれてしまうので,ここはこの程度にとどめおくことにする。

で,バタイユの『宗教の理論』の訳者である湯浅博雄は,巻末に寄せた「解題」のなかで,注を付してつぎのような興味深い話を展開している(P.233.)。

付け加えておくと,1948年2月26日,27日に「コレージュ・フィロゾフィック」で二回行った講演『宗教史概要』を発展させて記述された『宗教の理論』は,1953年のプランによると「非-知のもたらす効果に関する著作」の一部として組み込まれ,『笑い死ぬ,死ぬことを笑う』という総題の下にまとめられることになっていた。1954年の『内的体験』の再版の中では,その著作の題名は『非-知の未完了な体系』と変更され,『無神学大全』の第五巻となる予定であった(第四巻の予定は,これも完成しなかったが『純粋な幸福』。その『非-知の未完了な体系』は第一部が『宗教の理論』であり,第二部がやはり「コレージュ・フィロゾフィック」で行った<非-知>に関する五回の講演をまとめ,改稿したものとなる計画だった。実際はバタイユの病気と死によって,こうしたプランは実現されることはなかったが,『宗教の理論』が高い完成度を持つにもかかわらず生前には未刊に終ったのは,内容に不満があったというよりもおそらくそれを組み込むもっと大きなプランを練っていたためである。

このテクストの要所,要所に付された注をたどっていくと,バタイユという人は,みずからの思考の深化とともにこれまでに書いたものを改稿したり,あらたな構想のもとに改編したり,とめまぐるしくそのスタンスを変化させながら,自分の思考をいかにして伝えたらよいかを工夫しつづけた人であることがわかってくる。それでも,最終的には『無神学大全』全5巻でみずからの思想・哲学を完結させようと考えていたことは変わらなかったようだ。

この湯浅博雄の注を読んで,これはいったいどういうことなのか,と思うことはたくさんある。たとえば,『笑い死ぬ,死ぬことを笑う』という表題はいったいなにを考えていたのだろうか,と頭をひねる。しかも,それが『宗教の理論』をその内容の一部として組み込まれることになっていた,というとますます考えてしまう。

このことを考える手がかりを求めるとすれば,つぎのようになろうか。
バタイユは,「人間の特性」を三つに分けて考えていた。
1.道具をわがものとしたこと。
2.動物性を否定(禁止)したこと。
3.死を認識したこと。
つまり,動物性から離脱して人間性に移行することによって新たに獲得した「人間の特性」は,大雑把に整理すると以上の三つになるというのである。そのうちの「3.死を認識したこと」が,『笑い死ぬ,死ぬことを笑う』という表題と対応しているのだろう,とわたしは考える。

当初の人間が,死を認識するようになってくると,その認識の進み具合に応じて,ますます人間性へと分け入っていくことになる。死を認識するということは,言ってしまえば,死を恐れることであり,死に対する畏敬の念の芽生えである。この死を認識する(恐れたり,畏敬の念をいだいたりする)ことによって,人間は,一つは宗教の問題に分け入ることになったし,もう一つは労働というものを深化・進化させることになった。

死と宗教の問題が結びつく,あるいは,死の認識が宗教を産み出す,ということについてはもはや説明を要する問題ではないだろう。しかし,死と労働との関係については,わたしたちはあまり考えたことがない。この点については,ヘーゲルが『精神現象学』のなかで,<主>(主人)と<奴>(奴隷)の関係という有名なテーゼを提出しているので,そちらを参照していただきたい。ごく簡単に説明しておけば,死を恐れることなく闘う人間は支配者となり<主>となる。が,死を恐れて闘うことを放棄した人間は被支配者となり<奴>となる。しかし,<主>は労働することなく,<奴>の労働によって,その生産されたものを搾取すればいい。だから,労働する必要はない。しかし,死を恐れた<奴>は,<主>に隷従し,ひたすら労働をしいられる。したがって,自然を相手に労働をするのはあくまでも<奴>であって<主>ではない。だから,最終的に自然の<主>になるのは<奴>であって<主>ではない。ここに<主>と<奴>の逆転が起こる。

こうした「死」をめぐる人間のスタンスのとり方が<主>と<奴>という二つの階層を導きだすことになり,そこから「労働」という問題が立ち上がり,こんにちの状況へと一直線につながっている。つまり,動物性から人間性へと移行することの内実の一つはこういうことだったのだ,とバタイユは説く。だとすると,この「死」をどのように止揚していくかということが,つぎの大きな問題として立ち現れることになる。この問題を超克するための一つの提言が『笑い死ぬ,死ぬことを笑う』という総題には籠められているのだろう,と考えてみる。

死ぬことに日常的に怯えていたら,それは主客転倒というものだ。人間が「生きる」ということを重視するのであれば,死なんか笑い飛ばしてしまえ,という次第なのだ。「笑い死ぬ」という逆説的な表記が,これまた強烈である。そして,「死ぬことを笑う」というのも,度胆を抜かれる。バタイユがこのような総題を考えていた背景には,現代人の過剰なまでの死へのこだわりのなかに,ものごとの本質的な過誤をみとどけていたのではないか,と考えられる。だから,笑いすぎて死ぬこともある(「笑い死ぬ」)。死を悼んで泣くのではなく「笑う」ことも視野のなかに入れろ。そこまで行かないかぎり,人間にとっての真の解放,すなわち「自由」の回復は不可能だ,とバタイユは考えていたのではないか,とわたしは考える。

バタイユの『宗教の理論』が,バタイユの構想のなかでは,そのような位置づけになっていたということを視野のなかに入れると,そこからまた一段と見晴らしのいい読解が可能となってこよう。こうしてまたまた『宗教の理論』を読み解くことの楽しみが増えていく。

2011年8月4日木曜日

バタイユとドイツの詩人リルケとの関係について。

バタイユの『宗教の理論』の訳者である湯浅博雄が,その巻末に付した「解題」がみごとである。こんなに要領よく,手短にバタイユをわからせてくれる文章もめったにお目にかかることはない。だから,どこかでバタイユについて話題になりそうなときには,ここをさっと読んでからでかけることにしている。こんどの集中講義の前夜には,間違いなくここを読んで,思考の整理をしておくことになるだろう。それほどに,湯浅博雄の解題はみごとである。

その解題には,つぎのようなタイトルが付されている。
「意識の経験・宗教性・エコノミー──解題に代えて」
バタイユの『宗教の理論』の解題のために「意識の経験・宗教性・エコノミー」という三つのキー・ワードをならべているところに,湯浅博雄の透徹した視線がみごとに表出している,とわたしは受け止める。バタイユが『宗教の理論』で語るところの「宗教」は,いわゆる世界宗教のような具体的な宗派宗教のことを指しているわけではない。そうではなくて,そのまったく逆で,人間の「意識」のなかにそれとなく滑り込んでくる「聖なるもの」への畏敬の念をひとまとめにしたようなもの,それがバタイユがここでいう「宗教」の概念である。しかも,そうした「聖なるもの」への畏敬の念と「エコノミー」(バタイユのことばでいえば「普遍経済学」)は,同じ土壌から生まれてくるものだというわけだ。つまり,モースのいう「贈与」であり,「ポトラッチ」である。

いささか脱線してしまったが,本題のバタイユとリルケの関係について,湯浅博雄の「解題」のなかでとても興味深い話が展開されているので,そちらに移ることにしよう。

湯浅博雄は,バタイユのいう動物性や内奥性について解説するなかで,バタイユの用いた「詩的な虚偽」という表現をてがかりに,ドイツの詩人リルケを引き合いに出す。そして,リルケの詩の断片を引用しながら,バタイユの思想の根源に迫っていこうとする。たとえば,リルケのいう「世界内面空間」ということばに注目する。そして,リルケの詩集『後期詩集』から,つぎのようなフレーズを引用している(1914年8月の日付のある詩)。

 あらゆる存在を貫いて唯一の空間が拡がる,
 世界内面空間。黙したまま鳥たちは飛ぶ,
 われわれの真中を通過して。おお,伸びようとする私,そして外を視る,
 すると樹木は私の内で生い茂るのだ。

余分な説明はぬきにして,いきなり本題に入ることにしよう。
わたしは,この引用を読んだ瞬間に,「ああ,禅だ」と直観した。リルケのいう世界内面空間は,禅でいうところの「悟りの世界」と同じではないか,と。すなわち,禅的時空間。つまり,自他の区別のない,あらゆるものが一つに溶け合って存在する世界。バタイユは「水のなかに水があるように存在する」という言い方をする。

このリルケの引用について湯浅博雄はつぎのような解説を加えている。
「リルケが<世界内面空間>と呼ぶもの,それは外と内がある連続性へと集められ,同時に内奥でもあり,かつ外でもあるような空間,ブランショが言うようにそこでは空間は外において既に精神の内奥性であり,内奥性はわれわれの内で外の現実であるので,われわれはそこにおいては自分の内で内奥性としてあることで外にいるような空間である。あるいはまたそこでは,われわれは<開かれたもの>と親密に交わり,つまりわれわれ自身<開かれ>ており,<純粋な関係>がかいま見られるような空間であると言ってもよいだろう。リルケにとって文学の探求とはこのような空間を窮めることであり,すなわちそれは文学的な言語が可能となる空間,あるいは詩的言語の行為や活動のみが可能にする空間をその果てまでたどることである。」

リルケにとっては,この<世界内面空間>に文学的な言語や詩的言語によって「その果て」までたどることが,最終ゴールになっていた。バタイユに言わせれば,リルケのいう<世界内面空間>は,かつて人間が動物であったときに身をゆだねていた空間である。そして,そこから離脱して人間性の世界に移行したことによって,人間としての「拘束」や「苦悩」がはじまる。ヨーロッパ近代の合理主義が到達した世界は,まさに,その一つの到達点を示している。そのことに気づいた人間は,ふたたび,動物性への回帰をめざすことになる。リルケは文学の世界でそれを実行に移した人だ。バタイユは,思想・哲学の世界で,人間存在の根源的な問いを突きつけつつ,動物性から人間性へ,そして,ふたたび,人間性から動物性へと回帰する,とてつもなく大きな人類史的スパンから
「わたしたちのいま」を透視しようとする。

そこで,わたしは,ここに「スポーツ」(ことばの正しい意味で)という補助線を入れてみたいのである。それぞれの時代や社会を生きる人間にとって「スポーツ」とはなにであったのか,と。そして,いま,なにであろうとしているのか,と。

リルケのいう<世界内面空間>について「スポーツ」の領域で考えることはそんなに困難なことではない。バタイユのいう動物性や内奥性について「スポーツ」の領域で考えることも,そんなに困難なことではない。しかし,そのことを真っ正面に据えて,「スポーツ」の哲学的な議論を展開した人を,寡聞にして,わたしはまだ聞いたことがない。哲学者のH.レンクですら,みずからの体験として,「フロー」現象を語ることはあっても,そこに含まれる人間の存在論的な議論を展開しようとはしていない。リルケが文学や詩の領域で取り組もうとしたことが,「スポーツ」の領域でも,やはり,きわめて重要なテーマであることは明らかである。そのことは,バタイユの『宗教の理論』が,他のいかなる議論よりも深くわたしに語りかけてくる。

このさきの議論を,ぜひ,集中講義で展開してみよう。

バタイユとレヴィ=ストロースの接点について。

レヴィ=ストロースの記述したもののなかにバタイユが登場することは,管見ながらみたことがない。しかし,バタイユの記述のなかにレヴィ=ストロースは登場する。しかも,『宗教の理論』を書くに当たって,バタイユはレヴィ=ストロースの論考を丁寧に分析している。しかも,そこから重要な概念を導き出し,さらにそれをもとにしたバタイユ・ワールドを展開している。その意味で,バタイユ理解にとってレヴィ=ストロースは不可欠である。

この二人が出会って,なにか話し合ったのかどうかは,残念ながら,わからない(この点を確認できるのではないかと,じつは,今福さんの近著『レヴィ=ストロース 夜と音楽』(みすず書房)に期待したのだが,そのような記述はなかった)。ちなみに,バタイユの生年は1897年,レヴィ=ストロースの生年は1908年。わずかに11歳違いである。この二人がパリのどこかの街角でばったり出会っていたとしてもなんの不思議もない。

なぜなら,この二人はお互いに顔見知りだったのではないか,とわたしは考えるからだ。というのは,レヴィ=ストロースと『シュールレアリズム宣言』(1924)を書いたアンドレ・ブルトンとは,しばしば会って意見を交換していることがわかっている。そして,アンドレ・ブルトンとジョルジュ・バタイユは一時,同志の関係にあった。つまり,バタイユはブルトンたちのシュールレアリズム運動に参画し,ともに活動した時代がある(のちに,考え方の違いから疎遠になったり,ふたたび,和解したりを繰り返している)。このような経緯を考えると,ブルトンをとおして,バタイユはレヴィ=ストロースと知り合っていても不思議はない。

そんな詮索はともかくとして,早速,バタイユがレヴィ=ストロースをとりあげ,論じているところに入っていくことにしよう。

バタイユの著作のなかに『エロティシズムの歴史』(湯浅博雄・中地義和訳,哲学書房,2001年)がある(最近,ちくま学芸文庫から復刻された)。この本には,「呪われた部分──普遍経済論の試み:第二巻」というサブ・タイトルが付してある(この点についても,きちんと説明が必要なところだが,今回は割愛)。このテクストの第二部 近親婚の禁止というところで,バタイユはレヴィ=ストロースを取り上げ,かなり丁寧に論じている。

その内容は以下のとおり。
第一章 近親婚の問題
1.人間における「エロティシズム」と動物の「性活動」との対比
2.近親婚の禁制
3.近親婚の謎に対する学問の側からの解答
4.禁止と合法性との間の区別は,モラルに関わる意味によって支えられるような性格のものでは   ない
第二章 レヴィ=ストロースの回答
1.外婚性の規則,女の贈与および女の分配
2.禁止の多様な諸形態は一見恣意的な外観を持つけれども,実際は贈与による交換に適した性格を持っていること
3.エロティシズムの諸々の変遷──一つの歴史として考察された変遷
第三章 動物から人間への移行
1.レヴィ=ストロースの理論の限界と動物から人間への移行
2.人間の特性
3.近親婚の規則の可変性と性的禁止の諸対象の一般的に可変な性格
4.人間の本質は近親婚の禁止のなかに,そしてその結果である女性の贈与のなかに与えられている

少し長くなったが,この目次をみるだけで,バタイユがレヴィ=ストロースからいかに多くを学び,しかも,それを批判的に超克し,みずからの論理を構築しているかを窺い知ることができる。

ここで取り上げられているレヴィ=ストロースの論考は『親族の基本構造』(パリ,P,U.F,1949年)である。この論考のなかからバタイユは「近親婚の禁止」の理由を読み解いている。もちろん,レヴィ=ストロースが「近親婚」がなぜ禁止されているのかということの基本的な考え方については明らかにしている。しかし,バタイユはそれだけでは満足できなくて,さらに,深い読解を展開する。つまり,近親の女性は部族の外に嫁がせ,その代償として外部の女性を嫁として迎える,これは女性の贈与であり,普遍経済の基本構造である,と説く。さらに,女性をとおして外部と交流する,つまり,内部に自閉するのではなくて,外部に開かれた部族関係を構築するための智慧なのだ,と説く。

こうして,バタイユは,動物性から人間性へと移行した結果として到達した人間の本質的な特性の一つを浮かび上がらせることになる。

こうしたバタイユの論考の背景には,マルセル・モースの『贈与論』(1925年)やデュルケームの一連の社会学に関する論考が加わっている。こうして,バタイユに固有の論理が展開していく。その一つが『宗教の理論』であり,『エロティシズムの歴史』である。

以上が,バタイユとレヴィ=ストロースの接点の大枠である。こうした大枠のスケッチを手がかりにして,それらの詳細については,集中講義のなかで展開してみたいと考えている。

2011年8月3日水曜日

ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』読解のスタンスについて。

8月8日(月)から神戸市外国語大学で集中講義がはじまります。テーマは「ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』読解──スポーツ史・スポーツ文化論の立場から」というもの。とてつもなく大きなテーマですので,しばらく前からその準備にとりかかっています。

そのための準備の一つは,すでに,このブログをとおして『宗教の理論』読解について,何回にもわたって連載しているとおりです。興味のある方はそれらをご確認ください。相当の分量になりますので,読みごたえは十分だとおもいます。

もう一つは,6月18日(土)に「ISC・21」6月東京例会で行った西谷修さんとのトークです。「ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をどのように読むか」というテーマで,ほぼ5時間にわたってトークをしました。トークとはいえ,そのほとんどは西谷修さんによる「バタイユ理解のための基礎知識」についてのレクチュアになってしまいましたが・・・。わたしとしては大変ありがたいことでしたし,参加されたみなさんも喜んでくださったとおもいます。西谷修さんといえば,ジョルジュ・バタイユ研究の日本の第一人者ですから(このことについては,また,いつかこのブログでも書こうと思っていることの一つです)。

三つめは,今福龍太さんから送られてきた近著『レヴィ=ストロース 夜と音楽』(みすず書房)の読解です。バタイユはレヴィ=ストロースの論文をしっかりと読み込んで,そこから重要なヒントをえて『宗教の理論』の基本構想を立てています。その意味で,レヴィ=ストロースをどのように読み解くかということは,バタイユ理解のためには不可欠の課題であるわけです。このことについては,このあとのブログで詳しく書きます。

四つめは,8月7日(日)に予定されています「ISC・21」8月神戸例会です。この会で,月嶋紘之さんが,6月東京例会の折に西谷さんがレクチュアしてくださった内容について,要約して報告してくれることになっています。月嶋さんの理解をめぐって,神戸例会に参加される方たちがどのような受け止め方をされるのか,そして,そこからどのような議論が展開されるのか,いまからとても楽しみです。この議論をとおして,わたしの集中講義への準備は完了です。

というわけで,かなり念入りに今回の集中講義は準備してきたことになります。
が,最後に,もっとも重要なことについて,ひとこと述べておきたいと思います。
それは,このブログをとおして何回もくり返していることがらです。
すなわち,「3・11」以前と以後とでは,バタイユの『宗教の理論』を読み解くスタンスが激変したということです。つまり,バタイユが提起したように「動物から人間に移行する」ときに,いったい,なにが起きたのか,という根源的な問いともっとも深いところで今回のフクシマの問題がリンクしているからです。もう少しだけ書いておきますと,動物から離脱して人間になるきっかけの一つは「道具」の発明であり,それを用いる「技術」の獲得であり,「労働」の誕生でした。それは,人間にとってきわめて「有用」なものとして歓迎されました。しかし,あるときから,その「道具」や「技術」や「労働」が人間を拘束するようになりました。つまり,人間が「事物」にからめ捕られてしまって,人間もまた「道具」と同じ「事物」になってしまったということです。その当然の帰結が,今回のフクシマの問題です。もう少しだけ踏み込んでおきますと,便利で役に立つという「有用性」に人間が支配されてしまって,そこで「思考」が「停止」してしまった情況,それがこんにちのわたしたちが直面している現実です。しかも,その「有用性」が突然牙を剥いて,人間に襲いかかってきました。しかも,その便利で役に立つ「有用性」の塊だと信じてきた原発が,ひとたび牙を剥いたら,人間はそれを制御する「技術」を持ち合わせていませんでした。しかも,そんな恐るべき事実がひた隠しにされてきた,という事実に二度びっくりでした。そして,とうとう,わたしたちは手も足も出せない状態に放り出されたままになっています。だから,いまは,ただひたすら「祈る」しかありません。そういう,人類がいまだかつて経験したことのない,まったく新たな「宗教情況」のもとに,いま,わたしたちは立たされています。

西谷修が「未来はすでにここにある」と言い切ったことの意味の一つはこういうことです。

ここまで考えてくれば,もう,バタイユの『宗教の理論』を読み解くスタンスがどのようなものになるかは,明白でしょう。これからあとのことは,集中講義のなかで考えることにしましょう。

2011年8月2日火曜日

「なでしこ」に国民栄誉賞,おめでとう!

今日の午前中の閣議で,女子サッカーのナショナル・チーム「なでしこ」に国民栄誉賞を授与することが決まった。早速,高木文部科学大臣は,チームの運営や助成のための予算の増額を検討する,と談話を発表した。これで,女子サッカーも一歩前進である。

しばらく前から,民主党政権の人気とりにすぎないとか,大盤振る舞いだとか,チームに国民栄誉賞を授与するのはいかがなものかとか・・・まあ,言いたい人はなんでもいう。もともと政府が決定する国民栄誉賞などというものは,政権の人気とりであり,大盤振る舞いであることはわかりきったことだ。王貞治さんには悪いが,ときの自民党政権の道具に使われたことに変わりはない。だから,もっともっと大盤振る舞いをしてもらって結構。たかがスポーツの話ではないか(されど,スポーツだとも,かつての朝日の名物スポーツ記者中条一雄さんは言った。これは名言。)。

個人であれ,チームであれ,一瞬とはいえ,国民にこれだけのインパクトを与えた功績は高く評価されていい,とわたしは考える。

PK戦でのゴールキーパーのみごとな3セーブにも感動したが,その前の沢選手が入れた同点ゴールは,まさに神技と言ってよい。あのときばかりは,さすがのわたしも,ピッチには神がいる,と確信した。まさに,「神の降臨をみた」。蓮實重彦さんは「潜在的なるものが顕在化する瞬間を擁護すること」「これがわたしのスポーツ批評の基本的姿勢である」と,かれの著書『スポーツ批評宣言』で書いている。

神がいるかどうかはどちらでもいい。しかし,まさに,神がいるのではないか,と思わせるシーンがスポーツの場面ではしばしば現出する。そのとき,多くの人は感動し,ストレスを発散させ,こころをリフレッシュし,大きな勇気をもらう。この瞬間に立ち合うために多くのスポーツ・ファンはスタジアムに足を運ぶし,テレビの前に釘付けとなる。そして,この瞬間を創出するために選手たちは日々トレーニングを重ね,練習に励む。それには涙ぐましいまでの努力と忍耐を必要とする。

そのためには莫大な時間とお金を必要とする。ナショナル・チームに選抜された「なでしこ」の選手たちとはいえ,経済的にめぐまれている選手ばかりではない。ほとんどの選手たちが,アルバイトで資金を稼ぎ,その金を惜しみなくサッカーのためにそそぐ。だから,同じ世代の女の子のような世俗的な楽しみのすべてに目をつむり,サッカーひとすじに打ち込んできた。男子サッカーとは天と地ほどの違いがある。そこを耐えて,今回の世界選手権での優勝である。

神さまは,そういう「なでしこ」たちに味方をしてくれた。神さまはいたずらが好きだから,ときにはとんでもないこともする。だから,時折,そのときの気まぐれで「弱きを助ける」こともする。今回は,実力的には,ドイツ戦以後の闘いは,いつ負けてもおかしくはなかった。にもかかわらず,神さまはなにをお考えになったのか,「なでしこ」の努力に味方した。そして,チームをみごとに生まれ変わらせてしまった。ほんとうに気持を一つにして,みんなが力を合わせた。控えの選手たちもピッチに立つ選手たちと一体化して,試合を闘っていた。

折しも,東日本大震災とフクシマ原発事故のダブルパンチに見舞われ,わたしたちが茫然自失しているこのときに,この快挙である。これが国民栄誉賞でなくて,なにがあろうか。

できることなら,民主党政権のみならず,すべての政党が「なでしこ」に見倣ってほしいものだ。なでしこの選手たちの間にも,そして,監督との間にも,いろいろの葛藤があったと聞く。しかし,ひとたび,ピッチに立ったときにはさまざまな葛藤のすべてをかなぐり捨てて一致団結した。政治家こそ,この「なでしこ」の選手たちを見倣うべきだ。議論はいくら激しくやってもいい。しかし,その目的は,まずは原発制御のためであり,大震災からの復興のためでなければならない。

にもかかわらず,政界(どの政党に限らず)のみならず,財界(電力業界を筆頭に)も,官僚(天下り待ちの)も,学界(とりわけ,御用学者の集団)も,みんな自分たちの利害でしかものごとを考えようとはしない。つまり,「思考停止」状態に入ってしまっている。そこに,メディアが加担している(最近,朝日が脱原発にシフトし,その路線で記事を書きはじめると,こんどはカン君との癒着だと言って叩く)。のみならず,原発安全神話も,東電が公表するデータも,そして民意も,みんな「ウソ」で固めて,「やらせ」までしていたことが,ここにきてみんなバレてしまった。なんとも情けない話である(この情けないは,こんな人たちに騙されつづけてきたわたし自身のことだ)。情けないどころか,自分自身に腹が立ってくる。なんと愚かであったことか,と。

こういう「思考停止」状態の人たちが日本の命運を分ける舵をにぎっている。だから,危なくて仕方がない。「親はあっても子は育つ」と西谷さんは皮肉たっぷりに書いたことがある。親がダメなら子どもが頑張るしかない。これからは親に任せておくのではなくて,われわれ「子ども」たちが力を合わせて舵とりをしていかなくてはならない。

「なでしこ」の国民栄誉賞受賞を契機にして,わたしは,やはりこんなことを考えてしまう。そして,できることなら,「なでしこ」とは,いまの日本にとっていかなる存在なのか,という議論がもっともっとまじめに立ち上がることを期待したい。

その意味でも,「なでしこ」の国民栄誉賞の受賞をこころから祝福したい。
「なでしこ」のみなさん,おめでとう!ほんとうに,おめでとう!
よく頑張った,その臥薪嘗胆の努力に対して,おめでとう,を。そして,歓喜を与えてくれたことに,ありがとう,を。


2011年8月1日月曜日

われわれは「災厄の翌日」を生きている。「未来」はすでにここにある。(西谷修)

タイトルの文章をもう一度ここに書いてみよう。
われわれは「災厄の翌日」を生きている。「未来」はすでにここにある。
と西谷修は気合を入れて書いた。

わたしは震撼した。いままでぼんやりしたイメージのなかにあったわたしの意識が,みごとに「言説化」されていたからだ。前半の文章はそのまま素直に受け入れ可能であったとしても,後半の,「未来」はすでにここにある,と断言されて身動きがとれなくなった。なるほど,「未来」は無限にひろがる可能性だと思って生きてきたが,もはや,「未来」はない。これまであった「未来」は「3・11」以後,有限のなかに囲い込まれてしまって,それ以外の選択肢はない。わたしたちは,いま,すでに「未来」を生きているのだ。

書いたのは『ツナミの小形而上学』(ジャン-ピエール・デュピュイ著,嶋崎正樹訳,岩波書店,2011年7月28日刊)の巻末によせた解説「大洪水」の翌日を生きる─デュピュイ『ツナミの小形而上学』によせて,のなかで(P.149)。

ジャン-ピエール・デュピュイについては,『世界』(岩波書店,5月号,P.89~95.)で,すでに取り上げられ,紹介されている。「未来の追悼」,『ツナミの小形而上学』より,と題した橋本一径さんの訳文がそれである。この部分は,こんどの嶋崎訳の単行本の冒頭の論文として収められている。(翻訳ということに興味のある人は,この両者の訳文を比較してみるといい。かつて,ドイツ語からの翻訳にたずさわったことのあるわたしは,そのときの苦労をまざまざと思い出す。)

この『世界』に紹介された橋本訳の末尾に,〔解説〕ジャン=ピエール・デュピュイについて,という短い文章を西谷修が書いている。ついでに触れておけば,同じ『世界』の5月号のなかで,西谷修は「近代産業文明の最前線に立つ」という論考を寄せている(P.80~88.)。こうした論考を通過して,さらに大局的な歴史観に立って,デュピュイの思考を紹介しつつ,西谷修みずからの思想がおのずから噴出するかたちでまとめられたものが,今回の単行本の「解説」である。

細部については「解説」にゆずるとして,わたしの読後の,強烈な印象のいくつかを紹介しておこう。
ひとつは,「3・11」以後を生きるとはどういうことなのか,とわたしなりに自問自答をくり返してきた。そして,それに応答する識者の論考もそれなりに読んできていた。しかし,いま一つ,こころの底からの納得というところには届かなかった。その,なんとも歯がゆい思いをしていたところに,西谷修の「解説」はみごとに応答してくれた。だから,わたしは震撼した,と書いた。

「災厄の翌日」を生きている,という意識はもちろん,わたしのなかにもあった。そして,もはや,それは,これまでのいかなる「災厄の翌日」とも違うものだ,ということも自覚していた。では,なにが,どのように違うのか,ということを自分のなかで整理できないままでいた。それを,みごとに言い当ててくれたのが,「未来」はすでにここにある,というこの一文である。これには参った。

そうか,「未来」はすでにここにある,のか・・・・と。人類の「未来」は,いつも遠い「夢物語」のなかにあった。少なくともわたしの頭のなかではそうであった。しかし,「未来」はすでにここにある,という自覚に立つとき,わたしがこれまで思い描いてきた世界観なり,歴史観が一変してしまった。そうか,もはや人類の終焉のシナリオがはじまったのか・・・と。だとしたら,これからの「世界」をどのように思い描けばいいのか,そして,これからの「歴史」をどのように構想し,記述すればいいのか(もちろん,わたしの場合には「スポーツ史」であるが)。

少なくとも「3・11」以前とはまったく次元の違う,まったく未知の<外部>に投げ出されてしまったことは間違いない。「3・11」以前まではヨーロッパの伝統的な思考にもとづく形而上学の<内>に身をゆだねておけば,それなりの安寧を確保することはできた。しかし,その安寧は崩壊してしまった。そして,その<外>に飛びだしてしまった。好むと好まざるとにかかわりなく。もはや,後戻りはできない。だとすれば,どうすればいいのか。

不遜で傲慢な近代的人間であることを封印して,もう一度,人類が生き延びるための「理性」をとりもどすこと,ここからの再出発しかない。そして,人類の終焉のシナリオを,どこまで「先送り」にすることができるか,そのための「理性」の回復が求められている。このことを,すでに,西谷修は『理性の探求』(岩波書店)のなかで明らかにしている。そして,とうとう『世界史の臨界』(西谷修著,岩波書店)が現実のものとなってしまった。

この巻末によせられた西谷修の「解説」は,小論ながら,コンパクトにいまわたしたちが立たされている位置を,じつにわかりやすく,しかも力強く解きあかしてくれる。ぜひとも,ご一読をお薦めしたい。

わたしは,「未来」はすでにここにある,のひとことで目が覚めた。
これからは人類が一度も経験したことのない未知の世界との闘いだ。その世界が,いま眼前にひろがっている。しかも,そこへの一歩を否応なく踏み出さなくてはならない。その最初の一歩をどのように踏み出すかが問われている。いまこそ,全人類の叡智を結集して,その態度決定をしていかなくてはならない。そのためのわたしたち一人ひとりの「理性」が問われている。と同時に,覚悟と勇気が必要だ。

禅語にいう「百尺竿頭,一歩を出ずる」の覚悟が求められている。