2014年1月31日金曜日

フクイチで高濃度汚染水がジャジャ漏れ。1時間に3.4トン。これが首相のいう「under control」の実態。

 昨夜(1月30日)のYouTubeにANNnewsCHが,東京電力の記者会見として配信した映像をみて,愕然としてしまいました。その内容が表題に書いたことです。

 東京電力によると,福島原子力発電所一号機では,毎時4.4トンの冷却水を注入しているが,そのうちの8割が漏洩していることがわかった,と言うのです。しかも,その漏洩しているのは圧力抑制室からで,高濃度汚染水である,というのです。単純に計算すると,毎時3.4トンの高濃度汚染水が漏洩していることになります。さらに,別のところからも漏洩していることがわかった,といいます。詳細はさらに調査して明らかにしたい,とのこと。

 以上が,東電が発表した内容の短い映像から知ることのできた概要です。いずれ大きなニュースになるはずなのに,いまのところはなにごともなかったかのように推移しています。メディアの関心事は,いま,都知事選とソチ五輪。こういう喧騒のさなかに狙いを定めたかのように発表された東電の戦略のようなものも垣間見えてきます。じつは,もっと前からわかっていたのに,発表するなら「今でしょ」とでもいわぬばかりに・・・・。

 毎時3.4トンもの高濃度汚染水がジャジャ漏れになっているというのに,政府自民党は「知らぬ勘兵衛」を決め込むつもりなのでしょうか。それどころではない,都知事選と国会対応で手一杯である・・・と。

 都知事選も国会も,相変わらず,確たる事実確認もないままのフィクショナルな議論が展開している。もっと言ってしまえば,嘘のかため合い。その典型的な事例が「原発がなければ経済は立ち行かない」「原発は安全で,もっともコストが安い」。もう,耳にタコができてしまった「嘘の固まり」。そのうち,それが「当たり前」,つまり,本当の話(事実)になってしまいそうだ(もう,すでに,そうなってしまった国民は少なくない)。

 憲法改定論議といい,特定秘密保護法といい,TPPといい,原発再稼働+輸出といい,靖国参拝問題といい,中韓関係といい,再軍備といい,国民の右傾化といい,いま,日本という国家は日々「メルトダウン」に向かってまっしぐら。ジャン=ピエール・デュピュイのいう「破局」論が,いまさらのように,現実化しつつある。恐ろしいことだ。

 いま,わが国にとって最優先課題であるべきフクイチと放射性廃棄物の問題をないがしろにしたまま,原発再稼働も東京五輪もあったものではない。そのフクイチがますます悪化の一途をたどっているというのに,そして,福島の少年たちは「どうせ俺たちはガンで死ぬのだから・・・」と未来のない,いや,未来が過去になってしまった情況を生きているというのに・・・・。そう,未来完了形の「生」を。

 未来完了形の人生というものがどういうものか,という想像力がいまわたしたちに問われている。そして,飛び出そう,なにからなにまでがんじがらめにされてしまった「科学的合理性」という悪夢の外に。

 こんなことを,今日も考えつづけることになる。いま,を生きるために。

〔追記〕
今日(31日)になって,もう一度,記者会見の模様を映像で確認しようと思って探してみましたが,どこにも見当たりません。昨夜のあの映像はどこに行ってしまったのでしょう。30日(木)の『東京新聞』朝刊一面トップの記事と,どこかで連動しているのだろうか,と勘繰っています。その記事によれば,NHKは,ラジオのレギュラー番組を約20年間担当してきた中北徹(東洋大学教授)氏の予定原稿にあった「経済学の視点からリスクをゼロにできるのは原発を止めること」などというコメントに対して,「都知事選中はこの問題に触れるな」とチェックをかけたといいます。中北氏は強く抗議して番組を降板した,とのことです。NHKが,安倍派の新会長を迎えて,いよいよ政府御用達しの専属放送局へと舵を切ったということなのでしょうか。これまでも陰湿に反権力に対するプレッシャーはかかっていましたが,いよいよ本格的になってきたのでしょう。ですから,YouTubeに投稿された映像が,途中で消えてしまうことは,これまでにもたびたびあったことですので,なんの不思議もありません。これが,いま,日本で起きている現実です。政権の右翼化が急ピッチで進み,そこに「自発的」に「隷従」して,美味しい汁を吸う輩がわんさと群れをなしている,ということです。その動きに国民の多くも便乗し,美味しい汁を求めて右翼化が急速に進展しています。困ったことですが,それが現実です。

こうなると,なにがなんでも,とりあえずは「脱原発」知事を誕生させることが不可欠となってきました。さて,都民の選択はいずこへ?
 

2014年1月30日木曜日

『東京新聞』に異変?紙がペラペラ,広告から大手出版社が消える。なぬッ!?

 『東京新聞』が「脱原発」路線を鮮明にしてから記事が生き生きとしてきて,一本筋の通った主張をするようになり,評判をとったのはよく知られているとおりです。その結果,購読者が増えつづけているという情報も流れ,ひところ話題になりました。わたしも長い間,愛読してきた「朝日」から「東京」に乗り換えました。このときのいきさつはかなり詳しく,このブログにも書きましたので,参照してみてください。

 それからしばらくしたら,新聞紙がペラペラに薄くなりました。それは切り抜きをしていますので,すぐに気がつきました。そのときは,そうか,『東京新聞』はパルプ資源節約のために紙質を落として薄くしたんだ,偉いッ!とある種の感動がありました。経費も安上がりになる分,取材費に金をかけることができるなぁ,とエールを送りたい気分でした。よし,それでいいのだ,と。

 それからまたしばらくしたら,新聞の広告欄から大手出版社の名が消えてしまいました。週刊誌はさすがに残っていますが・・・・。これはどう考えてみても奇怪しな話です。『東京新聞』の広告代は安いと聞いています。購読者数も増えています。ならば,広告を出す方は文句はないはずです。なのに,大手出版社は姿を消し,いまではあまり名前を聞いたことのない弱小出版社ばかりが広告を出しています。その結果,大手出版社がどんな新刊を出しているのか,その情報が入らなくなってしまいました。仕方がないので,できるだけ本屋さんに立ち寄って,新刊情報を手に入れるようにしています。

 わたしは『週刊読書人』の定期購読者なので,いま話題の本や,書評などはそこからの情報が中心になっています。ですから,そんなに困ることはありません。インターネットにも,ブック情報はかなり豊富に出回っていますので,困りはしません。しかし,いままで新聞の広告から日常的に得ていた新刊情報は極端に少なくなってしまいました。

 がしかし,最近になって,奇怪しな噂が耳に入るようになりました。広告収入が激減して,経営が危ないらしい,と。それも「脱原発」路線に対する報復らしい,と。だとしたら,その主犯はだれか?あるいは,その主犯たるグループはどういう人たちなのか。もう,賢明なる読者には説明する必要もないでしょう。このブログでも,何度も,何度も,取り上げてきたことですから。

 とうとうここまできてしまったか,と情けないやら,口惜しいやら・・・・。世も末です。

 「未来」はもはや「過去」になってしまった・・・というジャン=ピエール・デュピュイのことばが頭のなかで鳴り響いています。「破局」(カタストローフ)という「過去」が。「3・11」という「過去」が。

 こうなったら,『東京新聞』は広告を当てにしない新聞づくりに路線変更をする以外にはないでしょう。いま,置かれている実態も,まさに,「いま」という時代を象徴するできごとに直面しているわけですので,そのまま記事にして報道したらどうでしょう。徹底して「脱原発」路線を押しとおしてみてはどうでしょう。読者は確実に増えると思います。

 それでも経営が困難ならば,値上げをするしかないでしょう。場合によっては「寄付」を募ったらどうでしょう。ほんとうに「報道の自由」を守るためであるなら,それしか方法はない,ということになります。堂々と,ことの真相を報道しつづけるという姿勢を貫くためであるのなら,わたしは「値上げ」も「寄付」も大賛成です。

 そうまでしても支援をしていかないと,わたしたちはますます「闇」の世界に放り込まれてしまうことになります。「特定秘密保護法」が施行されたら,国民に知られたら都合の悪い「真実」はすべて「秘密」。となると,そのさきはフィクションの世界を生きるしか方法はありません。

 いや,もうすでに,ノン・フィクションを生きているつもりでも,それ自体がフィクションなのですから。となりますと,フィクションのなかに,もう一つのフィクションが生まれることになります。ああ,またまた,ジャン=ピエール・デュピュイが注目したヒッチコックの映画『めまい』の世界の「日本版」を彷彿とさせるような話になってきてしまいました。

 やはり,ここからの思考を練り上げ,立ち上げるしか「方法」はないのでしょうか。しばらくは考えつづけたいと思います。
 

2014年1月29日水曜日

映画『100,000年後の安全』,無料公開中。必見です。

東京都の子どもたちの間に「白血病」が急増している,という情報が密やかに流れています。わたしも複数の方から話を聞いて,いささか驚いています。なぜなら,いかにもありそうな話ですから。しかも,トップシークレットだそうな,というおまけつきです。やっぱり・・・そうなんだぁ,と頷いてしまいます。

寒中の真っ只中での「さぶーく」なる話で恐縮です。
わたしはひとりで,あれこれ想像しながら,ぶるぶるとふるえています。
いまも,フクシマでは放射能が飛び散っています。しかも,時折,報道される放射能の量が日増しに増え続けていることも事実です。そういえば,東京都内の放射線量の情報がすっかり流れなくなっています。NHKを筆頭にテレビはもとより,大手新聞社もそろって足並みを揃えて,自発的に流さなくなっているようです。いまから「特定秘密保護法」の予行練習でもしているのでしょうか。

ちょうどそんなとき,太極拳の兄妹弟子である柏木裕美(能面アーティスト)さんのブログを読んで,ふたたび考え込んでしまいました。そこにはつぎのようにありました。映画『100,000年後の安全』,無料公開中,と。公開日は2014/01/22~02/10まで。アドレスは以下のとおり。
http://www.uplink.co.jp/100000/2014/

北欧・フィンランドに建造された放射性廃棄物の最終処分施設「オンカロ」についてのドキュメンタリーです。柏木さんのブログを読んで,すぐに,この映画をみました。またまた,「さぶーく」なってふるえています。

いま,世界には少なくとも25万トン以上の放射性廃棄物が存在するといわれています。これらの放射性廃棄物が無害になるには最低でも100,000年を要するといわれています。この膨大な量になってしまった放射性廃棄物の最終処分施設を,どこに,どのようにして建造するか,どこの原発稼働国も頭を悩ませています。にもかかわらず,まだ,平然と稼働させつづけていることは,よく知られているとおりです。

そんな中で,北欧・フィンランドはいち早く最終処分施設「オンカロ」を建造して,少なくともフィンランドの産出した放射性廃棄物だけは地中深く封じ込めることにした,というわけです。フィンランドには18億年前にできた岩盤があります。そこに何本もの坑道を掘って,地下500mから600mのところに大都市がすっぽり納まるほどの空間を確保し,そこに放射性廃棄物を封じ込めようという計画です。自己完結型にすること,すなわち,維持管理不要のものをつくる,というのです。完成目標は2100年。

この最終処分施設「オンカロ」が完成すれば,フィンランドの放射性廃棄物の問題は解決するのか,というとそうではありません。18億年前にできた岩盤だからといって,もう大丈夫だ,ということにはならないのだそうです。10万年という歳月の間に,この地球がどのような変化をするかは,だれも予測できないというのです。しかも,これから何回も襲うであろう氷河期を通過して,生き延びるであろう新人類に,この「オンカロ」が危険な場所であることをどのようにして伝えたらよいのか,その方法もわからない,といいます。その他,あらゆる分野の専門家たちが智恵を出し合っても,解決不可能な問題は山ほどあるというのです。

ですから,この「オンカロ」の建造にしても,「不確実性のもとでの決定」にすぎず,「さきのことはわからない」・・・・そういう前提での,仮の最終処分施設にすぎない,というのです。

ひとくちに「10万年」と聞いても,その時間の長さがなにを意味しているのか,その実態は,わたしたちには想像もできません。が,この映画をとおして,徹底的に討論されている内容にじっと耳を傾けていると,ほとんど予測不可能な時間なのだ,ということがよくわかってきます。要するに「さきのことはわからない」というのが結論です。それでも,とりあえず,こういう最終処分施設を建造しておいて,つぎなる手段・方法を考えるしかない,というのです。

こういう,文明社会に生きている人間ならだれもが考えなくてはならない喫緊かつ最大のテーマ「100,000年後の安全」を扱った映画を,一般の映画館で上映できない,この国のあり方を思うにつけ情けなくなってしまいます。それほどに,わたしたちの眼にみえないところで「原子力ムラ」の圧力がかかっていたり,また,その権力に「自発的」に隷従したりする人たちが圧倒的多数を占めているということです。情けなくなって「涙」も出ません。

この映画はイデオロギー論争でもなんでもありません。放射性廃棄物の最終処理場「オンガロ」の建造にとりかかったものの,それでも解決できない問題が山積しているので,それをどう考えればいいのか,ということを問題提起しているだけです。

こういう映画をみてみますと,J.P.デュピュイのいう「破局論」が,一気に現実味を帯びてきます。昨日,紹介しました『聖なるものの刻印』──科学的合理性はなぜ盲目なのか,をそのまま指し示してくれる事例がこの映画です。

とりあえず,インターネット時代の第二のメディアが,その窮地をすくってくれています。ぜひ,みなさんも,1時間少々,この映画を鑑賞するための時間をつくってください。そして,どうすればいいのか,じっくり考えてみてください。

『聖なるものの刻印』─科学的合理性はなぜ盲目なのか(デュピュイ著,西谷修ほか訳,以文社)が届く。

 兼ねて西谷さんから予告されていた名著の翻訳『聖なるものの刻印』─科学的合理性はなぜ盲目なのか(ジャン=ピエール・デュピュイ著,西谷修,森元庸介,渡名喜庸哲訳,以文社,2014年1月刊)が届きました。わたしが出張にでた留守中のことでした。

 帰宅してすぐに,あちこちめくりながら感触を楽しみました。待望の本がでたときのいつものわたしの仕種です。臭いを嗅いでみたり,帯のキャッチ・コピーとにらめっこをしたり,表紙の絵(西谷さんが大好きな宇佐美圭司さんの「ホリゾント・黙示 8つのフォーカス5」1994-95年,セゾン現代美術館蔵)を心ゆくまで眺めたり,それからゆっくりと目次の序章から順に見出しを追いながら全体のイメージをつくり,そして,最後に「なぜ本書を訳出するのか 訳者あとがきにかえて」(西谷修)を熟読玩味しました。これだけでもうすっかり読んだような気分になりますから,不思議です。

 いつものことですが,「訳者あとがきに代えて」と題した西谷さんの「なぜ本書を訳出するのか」に圧倒されました。今回は,これまでの訳者解説に比べたら,とてもコンパクトに,しかし,きわめて凝縮された濃密な文章で仕上がっています。ですから,わたしは続けて2回,繰り返して読みました。一回目は,あちこち線を引いたり,◎や☆や△やのマークをつけたり,その瞬間にひらめいたことを書き込んだり,という具合に熟読玩味しました。本はみるみるうちに真っ黒になってしまいました。そして,二回目は,さっとスピードを挙げて読み流しました。すると,西谷さんが書いた文章の全体の構成もみえてきて,デュピュイ理解のために,ことばの隅々まで気配りがなされているのが,とてもよく伝わってきました。

 それはさておき,この西谷さんの「訳者あとがきに代えて」を読みながら,最初に大きな文字で書き込みをしたのは「1000分の1秒の世界」ということばでした。断るまでもなく,スポーツの世界で起きている「狂気」であり,科学的合理性への「盲目」です。人間の眼では確認できない「1000分の1秒」をハイテクノロジーを駆使して計測し,優劣を区別するという「愚」に多くの人は気づいていません。そして,大相撲でいえば「ビデオ判定」が持ち込まれ,行司さんの判定よりも優先される,この「愚」に疑問をいだく人はほとんどいません。つまり,テクノロジーによる判定に,人間が「隷従」する姿が,いつのまにやら「当たり前」になっています。しかし,なぜ,そのような事態を迎えることになってしまったのか,という疑問に答えるべき言説が極端に不足しています。

 こんなことをひらめかせてくれた西谷さんの「あとがきに代えて」の文章は以下のようです。

 「・・・グローバルに拡張される技術・産業・経済システムが,発展途上国を巻き込んで資源開発・乱獲に拍車をかけ,各地の大気汚染を深刻化し,かつ際限なく求められる「経済成長」がそれをいっそう促進するといった事実をだれも否定することはできない。そのように資源収奪型の産業が経済の基軸になる一方で,経済成長の可能性がテクノロジーの発展を方向付け,核エネルギーやバイオ・ナノ・テクノロジーなど,人間は生き物としてのみずからがもはやコントロールできない技術を,科学的進歩という衣装に包んだ経済的可能性のために際限なく創り出している。だが,その技術的進化の効果は,人間の把握のキャパシティをみるかに超えており,その活用のために必要とれれる巨大で非人称的なシステムによって逆に人間はコントロールされるはめになっている。」

 という具合です。こんな,瞠目すべき文章が随所に散りばめられていて,ジャン=ピエール・デュピュイの本書を理解する手助けをしてくれます。

 こうした西谷さんの解説を熟読してから,読んだのは「いささか趣の違う第七章」でした。「森元が自由に訳したものをほぼそのまま生かして採用した」という章です。

 第七章のタイトルは「わたしが死ぬとき,わたしたちの愛はまるでなかったことになる」──ヒッチコック『めまい』の主題による変奏,というものです。デュピュイがこの映画に初めて出会ったのが17歳。あまりの感動で3回ぶっ通しでつづけてみた,といいます。そして,つぎの週には全部で10回以上は見た,といいます。さらに,その後の50年で少なくとも50回は見た,と書いています。そして,みずからの思考の発端も,そして,その後の思考の展開も,すべてこの映画『めまい』の変奏に終始していた,と断言しています。

 この章のタイトルもいささか変わっています。なんのことだろうか,と思いながら読んでいきますと,なるほどと納得します。「わたしたちの愛」は,「わたしが死ぬ」と「まるでなかったことになる」というのです。つまり,「愛」は「わたしたち」という複数で成立するものです。しかし,この「わたしたち」のうちの一人が死んでしまえば,その代わりをする人間がいくら完璧に近い「そっくりさん」であっても,それはもはや同じ「愛」ではありえない,だから,「まるでなかったことになる」という次第です。このことを,デュピュイのいう「形而上学」を駆使して,迷宮のような世界に導きながら,精細に論じていきます。つまり,未来が過去になったり,フィクションのなかのフィクショナルな部分のもつ意味の不思議を探ったりしながら,人間としての「破綻」の根拠を炙り出していきます。そして,そこからの救済の道を,ヴィくトール・フランクル(強制収容所経験をもつ精神科医)の処方のことばに見出していきます。

 丁寧に読んでいくうちに,読んでいるわたし自身もいつのまにかフィクションのなかに引きずり込まれていくような不思議体験をしながら,過去と未来が交錯する時間性の形而上学というめくるめく世界に導かれていきます。読んでいるわたしまでが「めまい」を覚えてしまいます。そして,「無からなにかを創り出す」ことは無意味なことだ,という最後の落とし所に深く感動してしまいました。

 さて,つぎは,西谷さんが担当したという序章から読み始めようと思っています。いまから,とても楽しみです。

2014年1月27日月曜日

ことしの「山焼き」(奈良・若草山)は最高のできばえ。感動。

 ことしの山焼きの日は1月25日(土)。毎年,1月の第4土曜日が奈良・若草山の山焼きの日。かつては成人の日に行われていましたが,最近では第4土曜日に固定されました。そして,この日はわたしの第二の故郷である奈良にお里帰りする日。奈良教育大学に勤務していたころの卒業生たちとの約束である。以後,すでに,25年もつづいている。

 1月25日の奈良の天気は,午前中晴れ,午後からうっすらと雲がでてきましたが,とても暖かい穏やかな日和。山焼きの日としては珍しく暖かい。奈良には19年間,住んでいたので,その間を合わせると44年間もの間,山焼きを眺めてきていることになる。その間,こんなに暖かかったことはない。風もほとんどない。静かな小春日和。夜になっても変わらなかった。

 この天候が幸いしたのか,若草山の枯れ草の乾き具合がちょうどよかったのか,この44年間,山焼きを眺めてきたわたしの感想では,「過去,最高の山焼き」でした。ちょっと文句のつけようのない,ほぼ,完璧な山焼き。

 いつものように,午後6時を過ぎると,とても古典的な打ち上げ花火が上がりました。この花火は都会の,たとえば,隅田川や二子玉川などであげられる近代的な花火とは一味違います。まことに,古都奈良にふさわしい穏やかな,昔ながらの花火です。これを眺めると,ああ,奈良だなぁ,と感傷的になってしまいます。

 その間に,点火する人たちの松明が点々と山全体を覆うように配置されます。少しの間,静かな時間が流れます。そして,満を持していたかのように,点火が始まります。ことしは,とても静かに,厳かに燃えはじめました。なんとなく荘厳の気配が流れました。それほど大きな炎をあげることもなく,かといって火が消えて途切れることもなく,全体が足並みを揃えたかのように着実に燃え広がっていきました。

 若草山は別名・三笠山。三つの笠が折り重なっているようにみえるからです。それを,仮に手前の低い山から順に,第一の笠,第二の笠,第三の笠,と呼ぶことにしましょう。

 まず,ことしの山焼きの点火は第一の笠から始まりました。いつもだと第二の笠も,第三の笠も一斉に点火されるのがつねでしたが,ことしはそうではありませんでした。が,ことしは,一工夫あったらしい。枯れ草の乾燥の具合,風の吹き具合(強弱と風向き),などさまざまな条件によって山焼きはさまざまな顔をみせます。それよりなにより,もっとも注意されているのは,火が大きくなりすぎて事故につながらないように,ということだと聞いています。

その点でも,ことしはさまざまな条件が整っていたようです。風はほとんどなし。煙はまっすぐに上に昇っていきます。ですから,燃えている景色がそのまま丸見えです。写真を撮るとうまくいくだろうなぁ,と想像などしていました。

 第一の笠に点火されると,下からゆっくりと炎が広がり徐々に上に上がっていきます。それが,みごとに足並みを揃えるかのように,横一線で,上に上がっていきます。こんな山焼きは初めてでした。この第一の笠の点火と同時に,第三の笠の上の方の三分の一くらいのところから横一線に点火されました。こちらは急斜面ということもあって,一気に頂上に向かって燃え上がりました。すると,こんどは三分の二くらいのところから点火です。そして,最後に一番低いところからの点火でした。これは,たぶん,第三の笠の一番下から点火すると,上の方の炎が大きくなりすぎるという判断があったのではないか,と思います。

 こうして,第一の笠と第三の笠が燃え終わる直前くらいに,こんどは第二の笠に点火されました。正面からみると,やや見えにくい部分です。が,わたしたちが毎年,眺めるスポットは特別席です。あまり詳しくは書くことができませんが,ある建物の屋上から眺めています。そこからですと,この第二の笠の燃え具合も半分くらいは見届けることができます。この第二の笠がとてもゆっくり,ゆっくりと燃えていきます。その間,こんどは,第一の笠の裏側の谷間の炎が大きくめらめらと燃え上がってくるのが,時折,見えます。ああ,裏側も順調なのだ,と推測しながら,まさに山焼きを堪能することができました。

 ことしの山焼きは「アート」だ,と驚きました。すべての炎が納まるまで,じっと立ち続けていました。それほどに,みごとで,わたしの眼を釘付けにしてくれました。この山焼きは生涯忘れることはないでしょう。それこそ,ビデオで撮影しておきたかったくらいです。でも,わたしの網膜の裏側にはしっかりとこの情景が焼きついていますので,いつでも,リアルに思い出すことはできると思います。その方が,たぶん,美しいに違いありません。

 こんなみごとな山焼きに出会うことができた幸運を,「聖なるもの」に全身全霊を籠めて感謝したいと思います。もう,二度と,こんなにみごとな山焼きに出会うことはないでしょう。それほどのみごとさでした。天に向かって,あらゆる謝辞を述べたい,そんな気分になりました。

 人為と自然との,この素晴らしいマッチング。

 これぞ,これからの,わたしたちが目指すべき理想像のひとつではないか・・・・などと妄想しながら山焼きに別れを告げ,夜の部の懇親会に向かいました。
 

2014年1月26日日曜日

眠れる獅子が眼を覚ます。鶴竜が白鵬に一矢。立ち合いに鋭さが。

 眠れる獅子・鶴竜がようやく長い眠りから眼を覚ましたか。

 大関に昇進したときに,「この男,ただ者ではない」とこのブログでわたしは書いた。そして,大いに期待し,胸を膨らませていたが,なんと,あの眠り顔のまま,鶴竜の強さが鳴りをひそめてしまった。こんなはずではない,こんなことで終わる男ではない,と臍をかんでいた。が,ようやく立ち合いで先手をとることに目覚めた。

 初日こそ一敗を喫したものの,そのあとはみごとに14個の白星を連ねた。千秋楽には白鵬に土をつけるというおまけ付きの,14勝1敗。相星で優勝決定戦に持ち込んだ。おみごと。さすがに白鵬は「連敗はならじ」とばかりに意地をみせて,優勝はもぎ取った。こちらも立派。この情景は,鶴竜が大関に昇進する成績をあげた場所の再現でもある。つまり,本割で白鵬を倒し,優勝決定戦で負けた。だから,鶴竜はひそかに悔し涙したことだろう。それでいいのだ。鶴竜が,もうひとまわり大きくなるための貴重な試練だ。そして,きっと,そうなるだろう,とわたしはさらに期待する。

※この部分にわたしの記憶違いがあることが判明しましたので,以下のように追加訂正させていただきます。鶴竜は全勝で千秋楽を迎えましたが,一敗の白鵬に本割で土をつけられ,さらに,優勝決定戦でも敗れ,非常に悔しい思いをしました。ですから,今回はその雪辱戦としてこころに期するものがあったと思います。そして,みごとに本割を制し,優勝決定戦に持ち込みました。が,この決定戦では残念ながら,勝ちを制することはできませんでした。それだけに,以前にも増して,悔しさは大きかっただろうと思います。来場所に賭ける意気込みが,いまから伝わってくるように思います。以上が追加訂正文です。

 しかし,これで鶴竜はふたたび白鵬と互角に勝負ができる,ということを立証してみせた。ここに左足首の怪我が癒えた日馬富士がもどってくると,来場所が,俄然,面白くなってくる。来場所の最後の三日間は,火のでるような星のつぶし合いが展開され,眼が離せなくなるに違いない。

 とはいえ,今場所の鶴竜の前半戦は,まだ半分,眠りのなかにいた。だから,立ち合いも甘く,かろうじて勝ち星を拾うという綱渡りの日がつづいた。が,何日目だったろうか。鋭い立ち合いから突いてでた。これは意外だった。しかも,踏み込みがよかったので,その突き押しには威力があった。これで自信をえたのか,立ち合いが一変した。そして,見違えるような鋭い踏み込みがみられるようになった。この日以後の勝負はじつに安定し,余裕すら感じられた。

 そして,この相撲が白鵬にも通用するということが千秋楽結びの一番で実証されたのだ。どういうわけか,この一番が終わったときの鶴竜のからだは,いつもよりもひとまわり大きくなったようにみえた。調子のいいときの力士のからだは大きくみえる。しかも,輝いてみえる。テレビの画像をとおしてもそのようにみえたのだから,直に自分の眼でみていたら,もっともっと美しくみえたに違いない。経験的にそう思う。

 今場所は,鶴竜にとっては,じつに大きな収穫があったと思う。その最大のものは「自信」だろう。横綱と対等にわたり合える,という「自信」だ。鋭い踏み込みと,場合によっては重く,力強い突き押し,その上で,自分有利にくみとめてからの投げがある。そういう相撲をわがものとしたとき,綱が目の前にやってくる。

 来場所は,まずは,初優勝をめざそう。そうして,綱への夢をぐいっと現実のものに近づけよう。ここでつまずいてはいけない。一気に突き進もう。日馬富士が二場所連続全勝優勝して横綱に昇進したように。そういう勢いを味方に引き寄せて。

 仕切り直しをしているときも,取り組みが終わって引き上げるときも,そして,勝っても負けても,鶴竜は表情を変えない。あるいは,変わらない。いつも,なにか現実を超越したような顔をしている。こういう力士に,わたしはそこはかとない無限を感じてしまう。双葉山が好きだった「木鶏」のように。

 綱の期待を一身に背負ったヒーローがもろくも崩れ落ちてしまったと思ったら,意外なところから新たなヒーローが忽然と現れた。しかも,この新しいヒーローは,このままの勢いに乗って綱に手をかけるのではないか,とわたしは予感する。その理由は,心技体ともにバランスがとれてきたからだ。しかも,ポーカー・フェイス。

 もう一回り大きくなって,立派な横綱が張れるだけの「からだ」をわがものとしたとき,鶴竜の横綱昇進が現実のものとなる。そのカギは来場所にかかっている。

 おめでとう!鶴竜!
 眼を覚ました獅子の,来場所での力強い相撲を期待している。
 

2014年1月23日木曜日

田中将大という商品・7年契約,161億円でヤンキースに。売買成立。

 たなかまさひろ。名前がいい。「まさひろ」と呼んでみる。いいなぁ,と自画自賛。なぜなら,わたしの名前も「まさひろ」。だから,とても他人事とは思えない。

 沖縄の比嘉酒造では「まさひろ」という銘柄の泡盛を製造・販売している。最近では,わたしの住んでいる溝の口でも「まさひろ」という泡盛が売られるようになったので,わたしも愛飲することができるようになった。これも,とても嬉しい。夏はロックで,冬はお湯割で。冬はからだが暖まって,わたしにはピッタリだ。

 泡盛の「まさひろ」は比嘉酒造の二代目社長の名前をとってつけたものだそうだ。身分証明書(まさひろという名前であることを立証するための)を持って工場を尋ねると,工場見学をさせてくれたあと,「おれもまさひろ」というラベルを張った泡盛がおみやげでもらえる。わたしは,なにを隠そう,その経験者である。

 泡盛は名前が「まさひろ」であれ,なんであれ,商品としてなんの違和感もない。しかし,同じ名前のスポーツ選手が「売買」されると,なんとも妙な気持になる。本人が希望しての「売買」だから,人身売買ではないが,どこかザラザラした感覚が残る。人間が「商品」として扱われ,実際に金銭の取り引きがなされるのだから。

 契約金は7年間で総額1億5千5百万ドル(約161億円=年平均約23億円)。気の遠くなるような金額である。25歳の若者が手にする金額とはとても思えない。契約が完了すれば,2千万ドル(約21億円)の譲渡金が,ヤンキースから楽天に支払われる,という。楽天は不本意ながら,本人の意思を尊重して「まさひろ」をヤンキースに売ったわけだ。楽天は,この売上金をもとに「まさひろ」の穴埋めとなる別の商品を探してきて,購入することになるのだろう。

 「たなかまさひろ」が,それだけの価値のある商品であることは,だれしも認めるところである。だから,売買が成立したわけだ。したがって,商取引上はなんの問題もない。

 しかし,どこか引っかかるものが残る。

 いまのご時世,人間の臓器ですら売買されたり(カズオ・イシグロの小説「わたしを離さないで」,など)する時代なのだから,なにも驚くには値しない。しかし,こんなことが当たり前になっていく現代社会とはいったいなんなのか,と考えてしまう。人間という生きものがたどりついた「傲慢」というか,「驕り」というか,それが野放しになっていることの不可解さ。

 わたしの思考は一直線にバタイユの『宗教の理論』に向かっていく。動物の世界から<横滑り>した人間は,新たに手にした<理性>を武器に,植物を栽培し,動物を飼育して,それらを自分たちの思うままに取り扱うことのできる「事物」(ショーズ)と化していく。ここからいろいろの問題が派生することになるのだが,ここでは詳しいことは飛ばしておく。

 そして,人間がもともと自然のままの存在であった植物や動物を栽培・飼育して,わがものとし,「事物」化したつもりでいたら,その「事物」化した植物や動物によって,こんどは,いつのまにか,人間も「事物」化されてしまうことになる。つまり,気づけば,栽培させられ,飼育させられている人間がそこに立ち現れる。ヘーゲルのいう「主人と奴隷」の逆転現象だ。

 人間が「事物」になってしまえば,あとは,商品になろうが,金融化されようが,自由自在だ。資本やマーケットの思うままに操作可能となる。そして,ついには人間の身体を切り売りする時代に入ってしまった。

 そのうち,商品「たなかまさひろ」の精子や遺伝子が(秘密裏に)売買されたり,細胞(iPS利用)も特別価格で売りに出されたりする日も遠くないだろう。そして,こんなことが,いまではなんの違和感もなく受け入れられる情況ができあがりつつある。

 そのなによりの証拠が,田中将大・7年契約・161億円,という情報が,ごくふつうに流されている,という現状をみれば明らかだ。

 スポーツは,人間が人間であるための最後の砦である,とわたしは長い間,考えてきた。しかし,その聖域もいつのまにか「マネー・ゲーム」のためのアリーナと化し(たとえば,オリンピック。昨年の『世界』11月号の拙稿を参照のこと),とうとうアスリートの身体にも魔の手が伸びてきて,徐々に蝕まれつつある。そして,今回の商品「たなかまさひろ」の売買は堂々たる商取引として,NHKのトップ・ニュースとして流されている。それを,みんな羨望のまなざしで眺めている。そして,大多数の人たちは「素晴らしいことだ」と感動さえしている。

 このようにして,生身の人間の身体が売買の対象となり,それが「習慣化」することにより,なんの違和感も感じない人間がつぎつぎに再生産されていく。言ってみれば,無意識のうちに市場原理に「隷従」することが「習慣」となってしまい(齋藤美奈子),それが日常となる。そこにはもはやなんの違和感も存在しなくなってしまう。ド・ラ・ボエシのいう「自発的隷従」の「からくり」のひとつがこんなところにも潜んでいる・・・・と考えると空恐ろしくなってくる。

 人間という,この摩訶不思議な「生きもの」について,いまこそ真っ正面から考え直さなくてはならない,その最後のチャンスなのだろう,としみじみ考える。このまま放置しておけば,そのあとに待つものは「破局」(カタストローフ)があるのみ。J.P.デュピュイ。

 ここからさきのことは,泡盛の「まさひろ」でも飲みながら,商品「たなかまさひろ」の売買について,本人「まさひろ」の鈍った頭脳を鞭打って,叱咤激励しながら,じっくり考えることにしよう。

 みなさんも,ぜひ一度,考えてみていただきたい。

いよいよ都知事選,スタート。脱原発に潮の目を変えることができるか。

 近年にない盛り上がりをみせている都知事選。

 「脱原発」をめぐる天下分け目の決戦になると思っていたら,どっこい,そこに自衛隊を軍隊にして戦争ができる国にしたがっている候補までが参入して,ネトウヨを喜ばせているという。とりあえずは,4候補がどのように票を奪い合うのか,しばらくは目が離せない。

 選挙は魔物だから,なにが起きるかわからない。とりわけ,メディアが,知らん顔をして,意図的・計画的に「世論操作」をするから困ったものだ。わけても,「世論調査」という名の「世論操作」。一見したところ公平無私な情報のようにみえるが,調査の方法によってはいかようにも「操作」が可能な,恐るべき「装置」であることを夢忘れてはならない。

 とはいえ,アンケート調査の結果,各候補者の支持率〇〇%と数字で示されると,どうしてもその数字が気がかりになってしまう。たとえば,自分が支持している候補者の支持率があまりにも低いと,こころが揺れる。場合によっては,折れる。でも,気を取り直して,みずからの信ずる候補者に一票を投ずる人もいる。が,多くの人は多数派に流されてしまう。

 選挙は水物。卑劣な選挙運動も,このところ目につく。明らかに選挙運動違反ではないか,と思われるような,えげつない,ダーティな演説も少なくない。沖縄・名護市長選挙では,自民党のイシバ幹事長は,現地の応援演説で「500億円」というニンジンをぶらさげて,移転推進の票を確保しようとした。なりふり構わず,金で票をかき集めようという魂胆だ。実質的には「買収行為」と変わらない。

 こんなことが白日のもと,平然と行われている。メディアも,エアが抜けているから(実際には,イシバからの報復が恐いから),なにごともなかったかのように見過ごす。となると,絶対的権力を手に入れた政府自民党の破廉恥な政治家は,なにをやりはじめるかわからない。対立候補を叩き潰すために手段を選ばず・・・というようなみっともないことが,今回の都知事選では起きるのでは・・・,と思っている。

 すでに,「殿,ご乱心」などと,だれよりも早く牽制するデコチン議員もいた。そこにワルノリして,週刊誌が,あることないことごった煮にして,書きまくる。それを面白がって読む人がいる。そして,非生産的な噂が垂れ流しとなる。こんなことを,もう,何年もつづけてきた。

 だから,民意は政党政治にあきあきし,選挙にも失望してしまった。その結果が,みてのとおりの現状だ。もう,ほとんどの人が,どの政党にも信をおくことができない,という。むしろ,どの政党からも干渉されない無党派から優れた政治家が登場することを期待している。そんな空気が流れているように思う。

 そのあたりのところを鋭い直感力で感じ取ったのか,ホソカワ・コイズミ陣営は「いかなる政党の支持も受けない」と高らかに「無党派」宣言をした。かくして,これからコイズミ劇場のはじまり,はじまりである。その裏にコザワ君までうごめいているやに聞く。さて,この選挙巧者たちの動きが,はたして今回の選挙で功を奏するかどうか。

 いずれにしても,今回は「脱原発」をめぐる東京都民の意思が問われているのだ。この点に関してはメディアの世論操作に惑わされることなく,みずからの熟慮の末の信念を貫いてほしい。結果はどうあれ,「脱原発」をかかげる候補の得票率に,わたしは注目したい。それが高ければ高いほど,仮に負けたとしても,その後の政局に大きな影響力をもつ,と考えるからだ。

 もちろん,僅差でいい。勝ってほしい。名護市長選挙のように。

 そうなると,完全に「脱原発」に向けて潮の目が変わる。ここが,日本再生のスタートとなる。中央の多数を,地方から取り崩していく,というまったく新しい潮の流れが始まる。まずは,外堀を埋めるところから始め,やがて本丸攻めへ。

 いよいよ関が原の戦いの幕が切って落とされた。
 「脱原発」陣営の健闘を期待したい。
 

2014年1月22日水曜日

御岳渓谷のカヌー競技場を見学してきました。自然の野趣豊かな景観に感動。

  1月21日(火),青梅市の御岳渓谷のカヌー競技場を見学してきました。案内してくださったのは『青梅スポーツ』(新聞)の発行責任者・編集長の吉永昌一さん。

 じつは,吉永さんは,わたしがこのブログで,東京五輪のカヌー競技場を都立葛飾臨海公園(江戸川区)に建造して行うという原案に反対であること,その代替地として,すでにカヌー競技の実績をもつ奥多摩の御岳渓谷でやったらどうか,という趣旨のことを書いたのをご覧になり,すぐにメールをくださった方です。「ぜひ一度,御岳渓谷を案内したい」と。

 わたしにとっては渡りに舟。なにはともあれ,現場に立って,この目で景観を確かめ,空気を吸い,場のもつ力を肌で感じ,自分の足で情報を集めないことには,こんごのさらなる主張を展開することはできません。幸いにも絶好の好天に恵まれ,吉永さんの懇切丁寧な説明をいただき,とてもいい勉強になりました。その上,御岳観光協会会長の小澤徳郎さんにも会わせてくださり,忙しい時間を割いて,昼食までご馳走になってしまいました。いたれりつくせりの,まことに贅沢な見学となりました。ありがたいかぎりです。

 さて,本題です。御岳渓谷のカヌー競技場は,すでに全日本選手権大会や国際スラローム競技大会などの大きな大会を開催していて,充分な実績をもっています。ですから,ここで五輪のカヌー競技を開催することは可能だ,と現場に立ってみて確信しました。

 その現場の写真を以下に紹介しておきます。
 こんな大寒の寒い時期なのに,たった一人でやってきてカヌーの練習をしている人に,たまたま出会いました。ほかにも,この渓谷に横たわる巨岩でボルダーリングを楽しんでいる人もみかけました。今日は火曜日でしたが,これが土日となると,大勢の若者たちが集まってきて,大盛況だとのことです。いま,青梅市はこの御岳渓谷に集まってくる若者たちで活況を取り戻しつつある,ともお聞きしました。








 冬の渇水期でもこの程度の水量があります。夏になれば,もう少し水量が多くなるそうです。このすぐ上の写真でみると,右側の巨岩の手前の岩の水面から40㎝ほどが白くなっているのがわかります。この位の水量が常時,流れているようです。そうなると,もう少し迫力のある激流が見られるはずです。

 競技会のときには,この上流にある小河内ダムから毎秒23トンの水を放流して,大激流を演出することができるそうです。ご覧のように,このあたりは巨岩がごろごろしています。ここに毎秒23トンの水を放流すれば,どんな情況になるかは容易に想像することができます。その激流を見るだけでも,迫力満点だろうと思います。

 カヌー競技の本来の姿は,こうした大自然の迫力ある景観がともなって,初めて魅力的なものになります。それを鉄骨とコンクリートで,人工的に建造しようというのは,カヌー競技としては「邪道」です。この点については,きわめて重要なテーマですので,IOC批判もこめてまた,別の機会に書いてみたいと思います。今日のところは禁欲的にここで抑えておくことにします。

中央が吉永昌一さん。両サイドに立つ若者は,たまたま出会ったボルダーたち。
 

2014年1月20日月曜日

南相馬市も「脱原発」の現職が勝利。「経済」よりも「生命」を選択。立派な市民に敬意を。

 名護市民のみなさんにつづいて,南相馬市民のみなさんもまた,勇気ある決断をしてくれた,と感動。こうした良識が生きていること,そして,それを政治の場(選挙)に生かす智恵をもっていること,しかも,結果を出していること。この事実に,わたしは感動した。

 目先の「経済」よりは,苦しくても耐えて,未来の子どもたちの「生命」を確保すること。

 これが「危機」に直面している国民の声であることに,政府自民党は「聞く耳」をもたない,もとうともしない。その政府自民党を,「危機」から遠いところで,「思考停止」したままカネさえあればなんでもかなえられると信じて疑わない「欲望」の亡者たちが支持している。しかも,こういう人たちが50%を超えている,という。

 他人の不幸などわれ関せず。われの,今日,明日の欲望が叶えられれば,それでいい。そういう多数者は,われの利害しか考えようともしない。だから「危機」に直面して,苦渋の選択を迫られている人たちの気持を理解しようという,想像力も持ち合わせてはいない。そういう人たちに支えられて,いまの政府自民党が大あぐらをかいている。だから,あとは民主主義の「多数決原理」で押し切ってしまえばいい。

 いや,政府自民党のなかにも,良識ある判断のできる政治家は少なからずいる。が,党利党略のために言動を封じ込まれているだけのことだ。しかし,いまこそ,声を挙げてほしい。すでに,大きな地殻変動が起きつつあるのだから。その魁が名護市長選挙であり,南相馬市長選挙の結果なのだ。

 あとは「首都決戦」。この結果いかんによっては,政治の流れは大きく変わる。その潮目が,いま少しずつ現れつつある。あとは東京都民のみなさんの決断にかかっている。考えていただきたいのは,目先の利害・打算ではなく,遠い将来の「生存」のことだ。その意味では,名護市民や南相馬市民のみなさんと,同じ視座に立つことだ。もう一度,繰り返しておこう。

 「経済」か,それとも「生命」か。
 「原発推進」か,それとも「脱原発」か。

 現状では,「脱原発」派が二つに割れて,漁夫の利を拾うのが「原発推進」派になるだろう,と予測される。できることなら,「脱原発」派の一本化である。しかし,このまま選挙戦に突入したとしても,トータルで「脱原発」派が圧倒的多数を確保すれば,仮に「原発推進」派が新しい都知事になったとしても,その影響力は甚大である。それは政府自民党にとっては致命傷になるだろう。

 政界再編ということが現実味を帯びてくる。それも,ただの,これまでにみられたような政界再編ではないだろう。つまり,これまでのような党利党略にしがみついたままの政界再編ではもはや立ち行かない,ということだ。そこを超え出る新しいスタイルの政治団体が誕生するかどうか,が大きなカギとなろう。それは,ある意味では,発想のコペルニクス的転回を必要とするものだ。当然,国民にもそれが要求されることになろう。

いずれにしても,なにか,面白いことが始まる。そういう予兆が現実となりつつある。その魁となる選挙結果が,名護市と南相馬市で起きた。さて,「首都決戦」やいかに。

 断るまでもなく,その結果は「東京五輪」にも跳ね返る。
 

2014年1月19日日曜日

名護市民に万感の思いを籠めてこころからの敬意を表します。

 夕食を終えてパソコンを開いたら,稲嶺候補の再選確実,という情報が目に飛び込んできた。「ヨシッ!」と思わず大きな声を挙げてしまった。そして,なぜか,こころの底から安堵した。なぜなら、名護市民のみなさんが,人が「生きる」ことの重要性をきちんと選択することのできる良識を持ち合わせていてくれたことに。そして,この良識を,わたしは東京都民のみなさんに期待したい。

 今日(19日),自民党の党大会が開催された。その席で「地方選で勝利してこそ,初めて完全与党となる」という趣旨のことを,たしかイシバ君が発言していたように記憶する(今日のNHKのニュースによる)。そうか,それで「500億円」の追加の「ばらまき」をする用意がある,と名護市長選の応援演説で発言したんだ,と納得した。

 しかし,そんな甘言にだまされる名護市民ではなかった。やはり,地に根を張った考え方のできる人たちが多数を占めていたのだ。現代文明が,人が「生きる」ということとは相容れないものであることを,日々の暮らしをとおして,からだをとおして名護市民のみなさんは,しっかりと理解していたのだ。

 ところで,東京都民ははたしてどうか。

 あの政府自民党の一連の,わたしの感覚からすれば明らかに「選挙違反」とも言うべき「巨額の金のばらまき」戦略に迷わされることなく,人が「生きる」上でのなによりの「宝物」=「自然」を子々孫々に残す道を選んだ名護市民は素晴らしい。こころの底から感動せずにはいられなかった。日本は捨てたものではない,ということを沖縄・名護の人びとに教えてもらった。こんどは東京都民の番だ。

 都知事選で,政府自民党が支持する候補が,続いて落選したらどうなるか。そして,政府自民党はどうなるか。一気に奈落の底に駆け下っていくだろう,というのがわたしの予測だ。なぜなら,すでに,政府自民党のなかには,あるいは,全国の自民党党員のなかには,都知事候補の支援については大いなる不満を抱く人がいっぱいいると伝え聞く。

 「自民党から除名処分を受けた人を推薦することも,その除名処分を受けた人が自民党の推薦を受けることも,わたしには理解できない」と主張するコイズミ・ジュニアのような,まともな人がいる。そして,この主張を支持する党員がわんさといる,という話も漏れ伝わってくる。それはそうだろう。どう考えたって奇怪しいことをやっているのは,現執行部なのだから。

 この人たちが,こんどの都知事選で敗北したら,黙ってはいないだろう。ここに,わたしは大きな期待を寄せている。この人たちを支援するためにも,都知事選は大事だ。日本国の大きなターニング・ポイントとなりうる,とてつもなく重要な選択が東京都民に委ねられている。

 その先鞭をつけてくれたのが名護市民のみなさんだ。恐らく,この結果は,沖縄県民の総意を反映したものだった,と言っていいだろう。

 沖縄県議会が,仲井真知事に対して「辞職勧告」を議決した,この沖縄県民の意思を名護市民は真っ正面から引き受けた,その結果がこれであった,とわたしは考える。その意味で「民主主義」は生きている。この結果を,民主主義の先進国を自認する「アメリカ」はどう判断するのだろうか。それでも,「日米地位協定」にあぐらをかいて,無視するのだろうか。そして,日本政府は「自発的隷従」の姿勢を貫くつもりなのだろうか。

 都知事選の結果いかんによっては,とんでもない事態が連鎖反応のように起きる,のではないかとじつはわたしは楽しみにしている。日本が変わりうるとしたら,いましかない,と本気で思う。このチャンスを失ったら,元の木阿弥。もはや,これまでどおり破局に向かってまっしぐら・・・・。未来はない。その未来は「いま,ここにある」と断言した人がいる。わたしはこの人の説を支持したい。

 その意味で,わたしたちは「いま」という「未来」のなかで最終の選択を迫られているのだ。その答えの一つが,名護市民の選択だった。しかも,もっともまともな選択だった。だから,わたしは名護市民のみなさんに対して「万感の思いを籠めてこころからの敬意を表したい」。

 未来が,1mほど,先に伸びたから。

 

2014年1月18日土曜日

ソチの冬季五輪は大丈夫か? その2.

 昨日(17日)の毎日新聞の「余祿」に,ソチ・オリンピック開催三週間前の憂慮が,手際よくまとめられていた。たぶん,あの人(論説委員の一人)が書いたな,とわたしにはなんとなく伝わるものがあった。なかなかの勉強家で,わたしの知らないことも盛り込まれていて,ああ,なるほどと納得させられる内容になっていた。と同時に,ここはどうかと思われる大問題もあった。

 まず,勉強になったのは,「スポンドフォロイ」(休戦を運ぶ人)というギリシャ語。「エケケイリア」(古代オリンピアの祭典競技を開催するための休戦)はよく知られていることばだが,「スポンドフォロイ」ということばは知らなかった。そういう使者が派遣されたということは知っていたが,その使者を表すことばまでは記憶していなかった。専門家の端くれとしてはいささか恥ずかしい。「余祿」の筆者は,冬季五輪が目前に迫ったソチの地に「休戦を運ぶ人」=「スポンドフォロイ」が一人もいない21世紀が情けない,と結んでいる。

 その理由は,言うまでもなく,このところ連続して起きている爆破事件であり,それを力づくで抑え込もうとするロシア治安部隊による掃討作戦である。具体的な内容を「余祿」から引いておこう。

 「昨年末,ボルゴグラードの駅やバスを狙った連続爆破テロ後も,自動車爆弾騒ぎなどが続くロシア南部である。犯行はイスラム過激派によるものと見られ,先日もロシア治安部隊の掃討作戦で7人の死者が出た。一方,過激派からも五輪妨害の声明が発せられている。」

 つづけて,つぎのようにも書いている。
 「五輪1カ月前の7日からは関係者以外のソチ立ち入りが厳しく規制され,住民も移動が制限された。また観客も個人情報を登録した観戦パスポートの所持が義務づけられる。市内には人口の1割にあたる治安要員が投入され,無人機や衛星が監視の目を光らせている。」

 こうした異常な情況を「余祿」の筆者は,「ソチはまがまがしい暴力の影への対応に追われている」と集約している。こんにちの新聞などの記事の書き方としては,ごく普通の良識的な書き方であろう。しかも,毎日新聞という看板を背負って論説委員が書く「余祿」の文章としては,これで仕方がないのだろう。

 と,一応の理解を示した上で,でも,それでいいのか,と問いたい。つまり「まがまがしい暴力」=「テロ」という図式化された思考が,マス・メディアをとおして無批判に繰り返されることの「暴力」に,どれだけ自覚的であるのか,と。このメディアの「暴力」は,当然のことながら,「ロシア治安部隊の掃討作戦」を正当化する,もう一つの「暴力」へと連鎖していく。そして,悪いのは「テロ」だというプロパガンダの一助と化すことになる。

 「テロ」とは権力の側が勝手に名づけただけの話である。だから,「ロシア治安部隊」の行為こそ,とてつもない「テロ」行為だ,とイスラム過激派が主張するのも,対等の意味で「正当性」がある。つまり,「暴力」には,その立場こそ違え,一定の理由があるということだ。そこを無視して,一方的に相手を「テロ」呼ばわりすることは,権力者の驕りというものだろう。そこにマス・メディアが加担するのもまた大いなる驕りに便乗した「テロ」行為だ,と言わねばならない。

 結論を急ごう。
 このような「暴力」と「暴力」による対立抗争が,いま,ソチの冬季五輪開催をめぐって激しさを増している。それほどまでしても,なお,五輪を開催することにこだわるには理由がある。簡単に言っておけば,ロシア南部地方に深く根を下ろしているイスラム過激派を徹底的に弾圧・排除するための絶好の口実としてソチ冬季五輪が「利用」されていることが一つ。もう一つは「同性愛」問題から目を逸らすための,より過激な方法として選ばれたのが,ロシア治安部隊による掃討作戦の展開である。

 こうなると,もはや,国際平和運動としてのオリンピック・ムーブメントという最大の看板は,どこかに吹き飛んでしまっている。だから,欧米各国のリーダーたちもまた,いろいろと理由をつけて,開会式への出席を拒否している。この事実をしっかりと見極めておくことが肝要である。

 くどいようだが,東京五輪もまた,日本国として,それ以前にやらなければならないことが山積しているにもかかわらず,それに「蓋」をするための装置として,権力の「道具」と化しつつある。だから,わたしにとっては,ソチ冬季五輪も東京五輪も「他山の石以て玉を攻(おさ)むべし」にしてもらっては困るのである。一人の人間として。もっと言えば,生身の「生きもの」として。
 

2014年1月17日金曜日

ソチの冬季五輪は大丈夫か?その1.

 ロシアはなぜ,以前から治安の悪いソチに冬季五輪を招致したのか。その理由は,このあたりに潜むイスラム過激派を徹底的に弾圧し,排除するための「口実」に冬季五輪を利用するためだったのだ,という説がある。だとしたら,五輪とはなにか。国際平和運動を旗印にかかげる五輪精神に悖る,ゆゆしき事態の出現だと言わざるをえない。

 では,なぜ,そんな事態が起きてしまうのか。
 結論を言っておこう。
 IOCは,もはや,五輪を管理・運営していく能力を持ち合わせてはいない,ということだ。

 ソチ五輪と同じようなことが,東京五輪にも言えそうだ。

 ソチ周辺の都市はイスラム過激派の巣窟になっていて,ロシア政府も以前から手を焼いていたということは,かなり広く知られていたことだ。それと同じように,東京には,すぐ北にフクイチという危険な状態に陥った原発がある,ということは国際社会もよく知っているとおりである。ソチについては,ロシア政府は,気候温暖なロシア国民の憩いの場所である,と言って売り込み,イスラム過激派については完全に「under control 」と説明していたのだ。

  日本の首相もまた,フクイチについては「under control 」と大上段に振りかぶった。しかし,これは言ってみれば詐欺のようなものである。ロシア政府が,かつて,ソチは安全である,と宣言したのも同じような詐欺である。だれに対して? 国際社会に対すると同時に,自国の国民に対して。その両方を詐欺にかけたようなものである。

 何回も言うが,いまもフクイチでは放射能を封じ込める決め手もなく,野放し状態のまま飛び散るにまかせっきり,その一方では,汚染水が海洋に垂れ流しのまま,こちらも決め手が見つかってはいない。のみならず,肝心要のメルトダウンの状態すら詳細は把握できてはいない。こんなことを百も承知の上で,わが国の総理大臣はIOC総会の最終プレゼンテーションで,のうのうと「under control 」と言ってのけたのである。

 あの,東京五輪招致決定の瞬間の,あの似非「感動シーン」は,あれから何回も何回もテレビで繰り返し流されたのである。その結果,日本国民の圧倒的多数の人びとの意識から,フクイチのことは消えてしまった。そして,わたしなどがフクイチの実情について話をすると,必ず,首相が「under control 」と言ったじゃあないか,と反論してくる。お前の言うことより首相の言うことの方が正しいのだ,と。思考停止してしまった人間には勝てない。

 東京五輪招致決定は,政府自民党にとっては思惑どおりの大成功だったのだ。これでフクイチを当分の間,世間の関心事から封じ込めることができる,と。少なくとも,2020年までは東京五輪の旗を降りつづけていれば,国民の眼はそらしておくことができる,と。

 しかし,そうはさせてはおかないとばかりに,都知事選という舞台を利用した小泉劇場の幕が切って落とされた。それでも,おそらく,議論は「脱原発」をめぐる表層的な,短期決戦で終わってしまうのだろう。本質的な重要な議論はそっちのけにして。でも,議論がまったくなされないよりはずっといい。なぜなら,東京五輪開催に向けて国民の感情を浮き立たせておけば,原発推進の道がおのずから開けてくる,と踏んでいた政府自民党のシナリオが崩れることになるからだ。少なくとも,この都知事選をとおして,多くの国民は「脱原発」がなにを意味しているかということに目覚めるはずだから。そして,東京五輪がなにを意味しているかも明らかになってくるからだ。

 つまり,東京五輪開催はフクイチ隠しのための,そして原発推進のための絶好の「口実」になる,と政府自民党はほくそ笑んでいる,という事実が。それだけではない。ここでは深追いはしないが,経済効果(だれのための経済効果であるかが問題なのだが)があり,TTP問題があり,安全確保のための国防軍編成への道があり,国民の体位向上があり・・・・,という具合に,なにからなにまで「東京五輪開催」はまことに都合のいい「切り札」なのだ。ここが大問題なのだが,これらの問題については,いつか,何回にも分けて考察をしてみたいと思う。

 さて,話を最初のところに戻すと,IOCにはこうした高度な政治・経済・外交・秩序不安定,などのあらゆる条件を,すべて総括して判断する能力はない。そのなによりの証拠の一つが,ソチの冬季五輪開催である。そして,今回の東京五輪開催の決定である。

 では,なにが,IOCの各委員たちの判断の基準になったのか。それは,いわずとしれたことだ。水面下でどれだけの〇が取り引きされたことか。噂だけでもたいへんなものである。東京都にはそれだけの備蓄があった,という(その一部については,このブログでも明らかにしてきたことだ)。しかも,これらの〇は公開する必要がないのだそうな・・・・。

 ああ,またしても脱線していく。このブログの落ちは,もう一度,仕切り直しをして,書き直そうと思う。でないと,どうにもまとまりがつかなくなってしまった。ということで,お許しのほどを。このつづきは,すぐにも書く予定。ではまた。

2014年1月16日木曜日

細川元首相の「東京五輪辞退論」について。わたしは「賛成」。

 ネット上につぎのような情報が流れていて,おやおや,と思いつつ,これぞ「正当論」ではないか,と考え直している。

 ニュース・ソースは「産経ニュース」(2014.1.16.21:04)。
 見出しは,細川元首相「東京五輪辞退論」に陣営からも批判続出,公約づくり難航,とあり公約を発表する17日の記者会見を20日以降に再延期すると発表した,とある。

 突然の出馬表明に,陣営がついていかれない「ドタバタ」が露顕してしまったようだ。公約づくり難航。当然といえば当然。4日も先に延ばしたところをみると,相当に難航していることが推測される。大きな問題点は三つあるらしい。

 一つは「脱原発」の定義。二つには「東京五輪辞退論」をめぐる収め所。三つめは「佐川急便からの借り入れ金」問題(古傷)。

 まず,「脱原発」の定義は重要だ。
 小泉:原発即時ゼロ
 民主党:2030年代
 細川:30年後でもいい(主張が揺れ動いている)

 舛添氏との争点を明確にするには,小泉路線でいく方がわかりやすい。そして,民主党の公約などに縛られる必要はさらさらない。むしろ,民主党との違いを明確にした方が票は集まる。細川氏は,即時ゼロと30年後の間で揺れ動いている。その調整に陣営は苦慮しているらしい。本気で小泉氏と組むのであれば,原発即時ゼロでいくしかないだろう。もし,それを「30年後」ということにするのであれば,小泉氏の支援はなくなるだろう。つまり,空中分解。それは避けたいところ。

 二つめの「東京五輪辞退論」。これは重要だ。陣営は封印するために必死になっているらしい。が,よくよく考えるとこれぞ正当な主張であることがわかってくる。選挙に勝つことだけを最優先するのであれば,この辞退論は封印するしかないだろう。国民の圧倒的多数は東京五輪開催を熱狂的に歓迎している以上,これを無視することはできないだろう。

 その点では,細川氏の辞退論はあまりに唐突に聞こえるかもしれない。しかし,わたしなどは,最初から五輪招致に反対だったので,細川氏の真意はよくわかる。

 福島の原発問題を「 under control 」と嘯いて,五輪招致をもぎとってきた安倍首相に対抗して,原発問題が深刻な情況にあることを世界に訴えて,五輪を辞退することの方がはるかに「まとも」な感覚だと,わたしは考える。現に,池上彰氏の著書のなかでも細川氏は,つぎのように述べているという。

 「原発問題があるから,金メダルをたくさん取るよりも,原発をどうするかのほうが,日本の将来にとってよっぽど重要な話のはずだ。」

 この話は昨年の夏ころの取材だったらしいので,その後の情況を加味した今であれば,もっと違うことも言ったに違いない。たとえば,以下のように。

 原発はいまも放射能をまき散らしつづけており,汚染水は海に垂れ流しのままだ。それに対して打つべき効果的な手段はなにもない。こんな状態から抜け出せないのだとしたら,東京五輪どころの話ではないはずだ。加えて,東日本の復興のための資材も人材も不足していて,五輪施設の増設もままならないという(新国立競技場の建造費は,すでに,当初予算を大幅に上回ることがはっきりしており,最終的にどのくらいの経費が必要なのか,予測がつかないとさえ言われている)。その上,かつての東京五輪の折(1964年)に急遽,建造した首都高速道路も老朽化していて,大々的な補修工事が必要だという。だから,東京五輪などといって浮かれている場合ではないのである。まずは,世界が注目している福島の原発問題をきちんと解決してから,そして,東日本の復興をなし遂げてから,堂々と胸を張って五輪招致に臨めばいい。

 こんな当然すぎる話を封印して,公約では東北マラソンの構想など独自色を打ち出して,なんとか打開をはかるつもりらしい。

 三つ目の話は割愛。

 さてはて,都知事選から眼が離せなくなってきた。なにか想定外のことが,このさきには待ち受けているような気さえする。さあさあ,寄ってらっしゃい,見てらっしゃい,「脱原発」劇場のはじまり,はじまり。

2014年1月15日水曜日

J.P.デュピュイの「決定版」の翻訳近刊予告が西谷修さんのブログで紹介されています。

 かねてから,西谷さんにお会いするたびに,J.P.デュピュイの集大成ともいうべき本のお話を伺っていました。まもなく本になります,というお話も伺っていました。一緒に翻訳を担当されていた森元庸介さんからも,たぶん,1月中には出ると思います,と伺っていてとても楽しみにしていました。その予告どおり,1月20日ころには書店に並ぶそうです。

 その見本が翻訳者には届いていて,西谷さんはご自分のブログで新刊を写真入りで紹介をされています。いつものように,この紹介文がまた抜群ですので,ぜひ,ご覧になってみてください。そこを読むだけでも一読に値します。そして,いつものように読む前になんだかわかったような気分にしてくれます。世にいう西谷マジック。原著者よりもわかりやすくその核心を紹介するマジシャン。ですから,わたしなどは,いつのまにやら,西谷さんの解説を読むのがなによりの楽しみになっています。すでに,読んだ本も,ときおり取り出してきて,「解説」のところを繰り返し読んだりしています。そして,頭の整理をしています。ありがたいことです。

 今回の本も,きっと,そうするでしょう。まずは,西谷さんの「解説」から,と。

 J.P.デュピュイの翻訳近刊の書名は以下のとおりです。
 『聖なるものの刻印──科学的合理性はなぜ盲目なのか』(西谷修・森元庸介・渡名喜庸哲訳,以文社)です。西谷さんのブログにも書いてあることですが,原著の書名は『聖なるものの刻印』だけなのだそうですが,それではわかりにくいということでサブタイトルを捕捉したとのことです。それが「科学的合理性はなぜ盲目なのか」というわけです。このサブタイトルをみただけで,パッと明るくなったように思います。そうか,科学的合理性が盲目になってしまった理由・原因・根拠・道理・推理(英語でいえば,reason の一語)を明らかにしてくれる本なのだ,と納得です。

 そういえば,先週金曜日の授業でも,懇切丁寧に,科学や科学技術が(授業の内容に則していえば,医療や医療技術が),みずからの働きの功罪について省みることを忘れ,ただ,ひたすら「役に立つ」(有用性・バタイユ)ことだけに向かって盲目的に猪突猛進していくのはなぜか,というお話をしてくださいました。それを,ざっくりまとめてしまいますと,以下のとおりです。

 科学の盲目性の起源は,古代ギリシアにはじまり,ユダヤ・キリスト教の聖書(たとえば,『福音書』)にその根を求めることができ(たとえば,神が,泥をこねて人型をつくり,そこに息を吹きかけてできあがったものが人間・アダム),その考え方はデカルトの心身二元論に引き継がれ,カリレイの科学以後,眼に見える「もの」だけが研究の対象とされ,眼にみえないものは科学の対象から除外されてしまい,人間機械論を生み出し,ついに,ヘーゲルの『精神現象学』を経て「世界の終焉」を迎えることになる,という次第です。ヨーロッパ近代は,このヘーゲルの考え方に依拠して,さまざまな制度や組織を立ち上げ,近代文明を大きく前進させることになり,その延長線上に,現代の科学の「全能神話」が乗っかっている,という次第です。しかし,その現代の科学は,まさに,デュピュイのいう「盲目性」の上に成り立っている,というわけです。

 おそらく,デュピュイは,このあたりのことを精細に描き出しているに違いありません。わたしの頭のなかはもうすっかりその気になっています。あとは,読んで確認するだけ・・・のような気分です。なぜなら,西谷さんのブログを読んだだけで,そういう気分にしてくれるからです。その西谷さんのブログの核心部分を紹介しておきますと,以下のとおりです。

 「この本はあらゆるものが単位化され,数値化されて,その合理的計算がそのすべてを解決するといった,科学技術や経済学に共通の「合理性」が,じつは盲目の信仰に支えられているとう事態を説明し,人間の社会とはどのようにできていて,それが存続するのはどういうことなのかを,もう一度考えさせるたぐいのものなのだ。
 それが喫緊の課題であるのは,科学技術にせよ経済成長にせよ政治的事象(たとえば,選挙)にせよ,そこに埋め込まれた盲目性が人間の世界を破局に追いつめていることが,いまや明らかだからだ。そんな袋小路のなかで,個々の事象がそれぞれの地域的偏差を伴いながら起こっている。」

 このような解説を読みますと,原著のタイトル『聖なる刻印』が,なにを意味しているかがわかってきます。それは指摘するまでもなく「科学的合理性」です。しかも,それが「盲目性」の上に成り立っているという,まさに「聖なる刻印」だ,というわけです(これは,わたしの推測です。まだ,読んでもいない本を解説してしまうのですから,なんたる「暴力」)。

 あとは,西谷さんのブログで確認してみてください。「西谷修」で検索すると「西谷修─Global Studies Laboratory 」という見出しがでてきますので,そこをクリックしてみてください。ストレートに西谷さんのブログに入っていくことができます。過去のブログもすべて読むことができます。それだけで,優に本一冊になるほどの分量があります。そして,なにより読みごたえがあります。どうぞ,存分に楽しんでみてください。

 というところで今日のところはここまで。
 

2014年1月13日月曜日

都知事選。93%が「投票行く」と『東京新聞』。早くもヒートアップ。

 たった22%の得票率で,圧倒的多数の議席を確保した政府自民党の,目に余る「暴走」ぶりにようやく多くの国民が目覚めつつあるようだ。いまになって,「しまった」と思っている国民が急増しているのだろう。やはり,どこかで歯止めを打つ必要がある,と。

 そのチャンスが,ありがたいことに,こんなに早く巡ってきた。それが2月9日投開票の都知事選。気の早い話ではあるが,もうメディアは投票行動に大きな影響を及ぼす,いわゆる「アンケート調査」を開始し,つぎつぎに情報を流しはじめている。選挙に関心をもってもらうにはとてもいいことではあるが,それが有権者の無意識に働きかける誘導尋問的なはたらきをしていることには,大きな危惧をいだいている。その点,有権者はよほど注意しなくてはならない。

 しかし,それにしても,「93%」が投票に行く,という「都民調査」の結果は,近来まれにみる朗報である。これでいよいよ都知事選に火が点く。ネットを流れている情報によれば,政府自民党の執行部は相当に危機意識をいだいているらしく,もうすでに,自民党が支援する候補が負けた場合には・・・というつぎのステージへの大転換に向けた動きが内部で起きている・・・・とか。もし,それが本当だとしたら,選挙結果いかんによっては予期せざるとんでもないことが起こりうる。

 となると,ますます,都知事選はヒートアップせざるを得ない。有権者にとっても,自分の投票行動によって,ひとつの大きな国家的な転換が可能だとなれば,「よし,それならば・・・」という気にもなる。その意味でも,今回の選挙はとてもいい教訓になりそうだ。おそらく全国の国民の多くの人びともかたずを飲んで見守っていることだろう。

 この調査結果によれば,「半数が態度未定」という。それは当然だ。まだ,選挙公約すら公表されていないのだから。これから公表される選挙公約を読み,演説に耳を傾け,じっくりと考えればいい。そして,この人こそ,という人に票を投ずればいい。もちろん,その投票結果にも責任を負うという覚悟で。

 候補者に不満はない。これが今回の選挙の大きな特徴だ。これだけの候補者が揃えば,まずは,よしとしよう。もっとも,厳密にいえば,終始一貫して筋がとおっている候補者はたったひとりしかいないが・・・・。それはともかくとして,一般の有権者としては,これだけの顔ぶれが揃えば,一人ずつ首実検をしながら,比較検討する価値はあるというものだ。

 今日の新聞で,いくらか安心したのは,「改憲反対56%」「脱原発6割超」という数字である。もちろん,こんな数字で満足できるわけではないが,これからさらに「改憲」の危険性が議論され,「脱原発」しか道はないのだということが周知されれば,次第に整合性をもった議論が盛り上がってくるものと思われる。そこに期待したい。

 だから,「改憲」ということがどういうものなのか,「脱原発」と「原発推進」の根拠はなにか,その違いはどこにあるのか,メディアはもっと気合を入れて報道してほしい。そして,こんどの選挙でなにが問われているのか,逃げたり,隠れたりしないで,きちんとしたジャーナリズムの姿勢を示してほしい。それこそ社命を賭けて。

 あとは選挙民が判断することだ。それだけに選挙民の責任は重い。ここで間違えたら,つぎの選挙まで,その負債を背負いこむことになる。そういうことを覚悟で選挙に臨んでほしいものだ。国家の命運がかかっている,そういう覚悟が求められている。東京都民の責任は重大である。

 そういうことを充分に反映している数字が「96%」の「投票行く」という結果なのだろう。その意味では,すでに,気合充分。あとは,選別眼をたしかなものにすること。それだけだ。しっかりと熟慮してほしい。そして,わたしの希望しているような結果がでることを,大いに期待したい。

 こんどこそ,東京都民の良識を信じたい。
 

2014年1月12日日曜日

横綱への道は遠い。稀勢の里の欠点がまるみえの初日の相撲。

 日本人横綱誕生の夢を一身に背負っての今場所の稀勢の里。それにしても,あまりにもふがいない負け方。相手の豊ノ島を褒める以上に,稀勢の里の一人負け。しかも,いいところが一つもない相撲。なにからなにまで全部駄目。稀勢の里の欠点がまるみえになってしまった。

 これから稀勢の里に対戦する力士は,みんな今日のこの相撲を分析して,作戦を立てればいい。その見本のような悪い相撲をさらけ出してしまった。

 稀勢の里が横綱になるためには,もう一度,0(ゼロ)からやり直すくらいの覚悟が必要だ。解説の北の富士さんは「気持の問題だ」と片づけたが,そうではない。気力も体力も問題はない。そのくらいのことは稀勢の里だって,もうとっくのむかしに克服している。とりわけ,先場所の後半戦で,すっかり自信をつけたはずだ。

 では,どこが悪いのか。

 まずは,立ち合いの姿勢。この姿勢がまことに奇怪しい。以前から,わたしは気になっていたが,仕切りの姿勢が,なんとも横着な姿にみえる。つまり,からだに力が漲っていない。だから,迫力がない。それどころか,だらしがない。

 第一に,腰が割れていない。仕切ったときの姿勢は,お尻が一番高い位置にある。膝も曲がっていない。足首も曲がっていない。だから,頭の位置が一番低くて,その首根っこから背中の線が,お尻に向けて斜め上に競り上がっている。こんな姿勢の仕切りをこれまでみたことがない(北勝力が,この姿勢に近かったが,それよりもっとひどい)。その上,両手はからだの真横にぶらりと下ろすだけ。少なくとも両手は自分の両肩よりは前に出して,さあ,来い,という気魄を相手に対して示してほしい。

 この姿勢からの立ち合いは,相手に圧力をかけるだけの当たりはできない。いきなり,上体を起こして腹を前に突き出すだけ。おまけに脇が甘い(舞の海秀平さんが,脇の甘さに恐さを感じると予想したとおりの相撲になってしまった)。豊ノ島は低い姿勢から頭で当たって,難なく双差し。もっとも得意とする組み手。稀勢の里は,仕方がないので閂に決めてでようとする。一瞬,決まりかかったが,そこは相撲巧者の豊ノ島。からだをゆすって,閂をゆるくする。なおも閂に決めて前に出てこようとする稀勢の里を左からすくうようにして振る。それだけで,稀勢の里は左足から崩れ落ちてしまった。なんとも脆い,という印象。

 立ち合いで先手がとれないのが稀勢の里の最大の難点。その原因は,あの腰高の仕切りにある。だから,立ち上がったときに一瞬,上体が前のめりになる。それを急いで起こして腹を出すようにして自分の体勢を整える。この立ち合いを見切った相手力士は,いつか,頭で当たっておいてはたくという戦法を考えるだろう。わたしなら,一度はやってみたい,と思う。

 脇の甘さは,このからだで勝つことを覚えてしまったので,そんなに簡単には直らない。

 では,どうすればいいのか。

 いまのところ打つ手はない。

 したがって,横綱になる道はまだまだ遠い,ということだ。

 本来なら,日馬富士が左足首の怪我で休場している今場所は,絶好のチャンスなのだ。その他にも,大関陣も万全ではない。相手は白鵬だけだ。しかし,稀勢の里には下位にとりこぼす,というなんとも不思議な弱点がある。おまけに,今場所は初日に,相撲巧者・豊ノ島を相手に,自分の欠点をほとんど全部,さらけ出してしまった。豊ノ島につづく相撲巧者が虎視眈々と「おれも勝てるのでは」と意欲満々になるだろう。こうなると,いつもよりも力がでるようになる。

 さあて,明日から14日間,稀勢の里の相撲に注目である。
 豪栄道,妙義龍,松鳳山,豪風,旭天鵬,安美錦,といった相撲巧者との対戦がことのほか楽しみである。

 今場所の優勝は白鵬。いつも言うが,白鵬が圧倒的に強いからではない。ほかの力士が弱すぎるからだ。いま,絶好調同士で対戦すると,日馬富士には勝てない。それがなによりの証拠。大関陣が弱すぎるだけの話。もっと強い大関がでてくれば,いまの白鵬を倒すことは可能だ。先場所の稀勢の里が,そのいい例だ。今場所も白鵬戦だけは,ひと波瀾起こしてほしい,と期待している。

 強い大関・稀勢の里。当分,据え置き。それでいいのかも・・・・。
 横綱に死角はない。そうなるには,まだまだ,修行が足りないということだ。
 器ということばもある。人それ相応の仕事の仕方がある。
 稀勢の里よ,しっかりと相撲道(貴乃花が好きなことばだった)を究めよ。横綱はその結果だ。あとから,ついてくるものだ。

都知事選。細川元首相の出馬で俄然おもしろくなる。都民の選択やいかに。

 首相経験者が知事選挙に立候補した前例はないのだそうな。だから,菅元首相も,鳩山元首相も,本心はともかくとして,立候補の名乗りを挙げることができなかったらしい。しかし,さすがに名門お殿様は違う。世俗を超越している。「脱原発」をどこかで打ち出さないかぎり日本の未来はない,という殿様としての義憤を抑えきれず,ついに立候補に踏み切った。

 マスコミは,いつものとおり,早速,選挙誘導に入る。あいまいな姿勢で選挙民を誘導するくらいなら,いっそのことはっきりとした根拠を示して,特定候補を応援すればいい。敗戦後のしばらくの間は,徹底して共産党批判を展開した新聞社と,共産党を擁護した新聞社があって,子どもながらとてもおもしろかった記憶がある。有名な「帝銀事件」では,二つの大手新聞社が「有罪」派と「無罪」派に分かれて論戦が展開されたことがある。

 今回の都知事選は,ことの是非はともかくとして,「脱原発」を争点にした,とてもわかりやすい選挙戦になろう。そして,そのカードも出揃った。東京新聞は早くも,記事の書き方のなかに新聞社としての姿勢をにじませている。

 たとえば,1月10日(金)の朝刊一面トップに,「脱原発」元首相連合なるか,と書き,さらに,小泉氏と連携カギ,と見出しを付け,4人の候補者の写真を掲げている。その順番が,面白い。上から下に順に,細川⇒舛添⇒宇都宮⇒田母神,となっている。横並びではない。これは上下関係を視覚化し,無意識のうちに優劣を読者に刷り込もうという戦略である。普通なら,立候補順である。

 ネット上はもっと露骨だ。早くも,細川バッシングを華々しく展開している。「殿,ご乱心」(甘利・自民党)は,NHKニュースでも流れた。その割りには細川さんの顔の露出が少ない。明らかに舛添支持がその背景にあることが透けて見えてくる。読売,朝日,毎日,日経,東京,報知,といった新聞が,都知事選をどのように報道するか,みものである。

 さて,東京新聞が上下に並べた候補者を,各種マスコミがどのように取り扱っていくのか,とても興味ぶかい。細川さんが立候補するまでは,舛添候補の一人勝ちのような報道が一気に流れた。もうすでにして誘導がはじまった,と思っていたら,こんどは細川さんの立候補で混戦模様だと誘導する。読者の多くは,ああ,そうなんだ,とそのまま受け止める。ついでに,東国原さんも立候補してほしい。マスコミがどのように報ずるか。そうなったとき,はじめて「混戦模様」ということばが生きてくる。わたしの本音は,それを期待している。

しかし,こんどの知事選は,マスコミの誘導どおりには動かない,とわたしは考えている。そして,宇都宮候補の善戦が起きる,と期待している。自民・公明も民主も,独自候補を立てることもできず,ただ党利党略のためだけで舛添,細川の両候補を支援するという。それも「勝つ」という結果がほしいだけ。政策も理念もなにもかもまったく無視して。その点,宇都宮候補は前回同様,市民運動を基盤にした上で,共産・社民の支持を受けている。党利・党略も計算も打算もない,国や都のあるべき姿をきちんと提示し,その実現をめざす,まさに信念にもとづく立候補である。

 もちろん,わたしが東京都民であれば,文句なしに宇都宮候補を推す。前回,96万票獲得という実績をもっている。今回は,200万票が当選ラインだという。ならば,前回,宇都宮候補に投じた人が,もう一人ずつ仲間を増やすだけで,当選がみえてくる。ぜひ,そういう市民運動の輪が広がっていくことを願っている。

 それに引き換え,その他の候補はAKBの人気投票のようなものだ。もっとも酷いのは,舛添候補。除名された自民にすり寄ってまで立候補する,この醜態。その舛添候補を除名した自民が支援するという。この体たらく。なにをかいわんや。そこにあるのは党利・党略のみ。党員のなかには猛烈に反発している人も少なくない,という。当然だ。まじめな政治家なら当たり前のことだ。しかし,烏合の衆でしかない自民党は建て前を押しとおす。

 細川候補も脛に傷をもつ人。それをすでにネットは洗いざらいゴシップ扱いでかき立てている。それでも,小泉トリックスターが応援すると,自民・民主の「脱原発」派が動きだすのでは,とささやかれている。都民のなかの浮動票に属する人たちのうち,なんとなく「脱原発」という人たちの票を,小泉演説がかっさらっていくのでは,という。

 しかし,期待は,政府・自民党の暴走に危機意識をいだきはじめた都民が少なくない,という情報だ。この人たちが,少しだけまじめに考えれば,同じ「脱原発」でも,宇都宮候補のいう「脱原発」と,細川候補のいう「脱原発」は根っこの部分で違う,ということに気づくはずだ。そういう情況が生まれてくれば,宇都宮候補の当選ラインがみえてくる。そして,それは夢ではない。

 宇都宮候補は,前日弁連会長である。全国の弁護士に信頼されて会長になった人である。この点はもっと信じられていいのではないか。政治家は,なにをやらかすかわからない。とりわけ,小泉
純一郎氏はその印象が強い。実際にも,新自由主義に基づく経済政策を取り入れ,郵政民営化というとんでもないことをやらかしてしまった。そうしたツケがいま回ってきている。要注意人物の代表のような人だ。

 いずれにしても,小泉劇場に惑わされることなく,厳密な選択をしてくれるよう東京都民に期待する以外にない。こんどの都知事選は,結果いかんによっては,国政を揺るがすほどの大きな影響を及ぼすと考えている。大げさに聞こえるかもしれないが,天下分け目の関が原の戦いのようなものである。政府・自民党が一気に凋落していくことにもなりかねない。

 当然のことながら,東京五輪にも大きな影響がでてくるだろう。宇都宮候補は,すでに,新国立競技場の建築計画を大幅に縮小することを提案している。そして,無駄な経費を原発廃棄と東日本の復興に振り向けるべきだ,と主張している。

もし,宇都宮候補が当選したら,わたしもまた,日本から世界に向けて胸を張って発信することのできる,まったく新しい五輪の理念づくりに馳せ参じたいと思っている。少なくとも,これまでの五輪の開催の仕方に終止符を打ち,まったく意表をつくような新機軸を打ち出してみたい。と考えると,胸がドキドキしてくる。そんな夢を追いながら,これからはじまる都知事選を見守っていきたい。もちろん,宇都宮候補の健闘を祈りながら・・・・。

2014年1月11日土曜日

『科学者が人間であること』(中村桂子著,岩波新書)を読む。「生きもの」である人間の復権を,と説く。

 「科学者が人間であること」という書名を眼にしたとき,この本はなんだろう,なにを言いたいのだろう,と不思議に思った。著者が生命科学者の中村桂子さんなので,なにか尋常ではない企みがそこに隠されているな,とは思った。しかし,妙な書名である。

 まずは,なによりひとつのフレーズとして収まりが悪いのである。完結していないのである。中途半端なのだ。そんなことは承知の上で,著者はこの書名をあえて選んだに違いない。だとしたら,なにか言いたいのか。主語の「が」を「は」に置き換えてみる。「科学者は人間であること」。あまりに平凡で,もっと変だ。まるでピンぼけ写真をみるような後味の悪さが残る。まだ,「科学者が人間であること」の方が,どことなくアグレッシーブでいい。どこか挑発的である。

 「科学者が人間であること」とはどういうことなのか,と問いかけているようにも読める。あるいは,「科学者が人間であること」を忘れてしまっているではないか,そこに現代の科学がはまり込んでしまった諸悪の根源がある,と言っているようにも読める。また,「科学者が人間であること」はきわめて困難な情況にある,とも読める。「科学者が人間であること」は当たり前のことなんだよ,と説得しているようにも読める。あるいはまた,「科学者が人間であること」は不可能だ,と言っているようにも読めてしまう。いささか深読みに類するが,科学が客観的な事物を研究対象にしているかぎり,その研究に従事する営みをとおして科学者もまたいつのまにやら「事物」(バタイユ)に成り果ててしまうのだから,と。

 著者の中村桂子が,なにを企んでこの書名を付したかは,中を読んでいくとすぐにわかってくる。
わたしが予想したとおり,そのいずれの読みもすべて正解なのである。そして,「科学者が人間であること」の宿命的な困難を,科学が歩んできた道(歴史)をはじめ,哲学や思想のサイドからも光を充てながら,ありとあらゆる問題点をとりあげて,丁寧に解説をしていく。だから,書名は「科学者が人間であること」でなくてはならなかったのだ。

 16,7世紀に端を発するこんにちの科学は客観主義を貫くあまりに,客観化できる要素だけを取り出して,それを科学の研究対象と定めたところに,最大の間違いがあった,と突き止めている。つまり,科学者が人間であるためには主観的なものの見方や考え方も温存していなくてはならない。しかし,科学の客観主義は科学者の主観を完全に排除し,否定する方向に向かった,という。だから,「科学者が人間であること」は不可能となってしまったのだ,という。そして,そこにこそ現代の科学の悲劇がある,と。

 その悲劇の最たるものが3・11後の福島原発のメルトダウンにある,と著者は苦悩する。なぜ,こういうことになってしまったのか,科学者のひとりとしてその解を得るべく,この2年間,徹底的に熟慮を重ねたという。そして,多くの識者とも議論を重ね,多くの関連文献を渉猟し,思考を積み重ねた結果の,現時点での結論をまとめたものが本書である。

 著者は冒頭で,みずからの思考のスタンスを「人間は生きものであり,自然の中にある」と見極め,ここから出発する。そして,なぜ,こんな当たり前のことを,科学者が見失ってしまって,行き先不明の迷走をはじめてしまったのか,と問う。そして,その最大の理由は,科学者として当然,身につけていなくてはならない「思想・哲学」の欠落にある,と喝破する。そして,この当たり前をとりもどすための手法とその根拠を丁寧に解きほぐしていく。

 しかも,それは,現代社会を生きるわたしたち全員の問題でもある,と説く。

 「科学万能神話」を生みだしたのはだれか。そして,それを信じたのはだれか。それは,なぜ生まれ,なぜ多くの人に信じられたのか,と問いかける。そして,ここからの脱出の手法について,そして,その根拠について,いかにも生命科学者らしい真摯な姿勢で,自問自答してしながら,みずからの思想・哲学,世界観,自然観,宇宙観を練り上げていく。

 その導きの糸となっているのは大森荘蔵の哲学である。たとえば,『知の構造とその呪縛』(『大森荘蔵著作集』七巻,岩波書店)のなかで展開されている「近代科学批判」を前面に押し立てて,どこでボタンの掛け違いをしてしまったのか,そのルーツをたどっていく。その冒頭で,まずは大森荘蔵のいう「世界観」についての考えを引用する。

 「元来世界観というものは単なる学問的認識ではない。学問的認識を含んでの全生活的なものである。自然をどう見るかにとどまらず,人間生活をどう見るか,そしてどう生活し行動するかを含んでワンセットとなっているものである。そこには宗教,道徳,政治,商売,性,教育,司法,儀式,習俗,スポーツ,と人間生活のあらゆる面が含まれている」。
 「この全生活的世界観に根本的な変革をもたらしたのが近代科学であったと思われるのである。この近代科学によって,特に人間観と自然観がガラリと変わり,それが人間生活のすべてに及んだのである」。

 というところから出発して,みずから「生命科学」から「生命誌」へと研究者としてのスタンスを変えなくてはならなかった思考の遍歴を明らかにしていく。簡単に言っておけば,「生命科学」の陥ってしまった隘路から抜け出し,生命現象をトータルに捉える新たな研究領域として「生命誌」に到達する道筋を明らかにしていく。このあたりの自戒の念に満ちた論の展開はなかなかに説得力をもつ。そして,「生命誌」的視座に立つこと,それが「人間は生きものであり,自然の中にある」という認識に立つことだ,と著者は主張する。

 このあたりのところを読みながら,わたしの脳裏に浮かんでいたことは,「スポーツ科学」が陥った隘路(人間機械論的立場,あるいは二元論的立場)から抜け出すための試行錯誤の結果,ようやく至りついた「スポーツ学」(Sportology)の構想は間違いではなかった,という共感であり,確信である。

 ようやく科学者の側から,このような主張をする人が現れたことは,「科学万能神話」にみごとに染め上げられてしまった現代社会を生きる人びとへの,きわめて説得力のある警鐘として歓迎したい。もちろん,部分的には,わたしなりに異論はある。たとえば,iPS細胞の研究をめぐる現状に対する警鐘の鳴らし方は,この程度のものでいいのだろうか,とわたしなどは危惧する。なぜなら,iPS細胞の研究もまた,このままで行ってしまうと「原子力発電」と同じ問題を引き起こす構造になっていることを,「生命誌」の専門家として明確に指摘しておいてほしかったからである。

 いずれにしても,中村桂子さんの切り拓いた新境地に基づく「科学批判」として,多くの示唆に富んだ名著である。そして,その原点にある「人間は生きものであり,自然の中にある」という,もっとも当たり前のことを,ごく当たり前に提起されたことに,こころからの拍手を送りたい。

 そして,ここまでくれば,書名の『科学者が人間であること』に籠められた著者の真意も納得できるものとなる。しかも,真意を表象する,とてもいい書名である。

 ご一読をお薦めする。


 




 

2014年1月8日水曜日

太極拳稽古初め。「大地に根を生やすように足の5本の指で床をつかみ取ること」・李自力老師語録・その41。

 正月元旦が水曜日でしたが,さすがにこの日は太極拳の稽古をお休みにしました。そして,今日(8日)がことしの稽古初めでした。とは言っても特別のことをやるわけではなく,いつものとおりの稽古でした。

 少しだけ違っていたのは,李自力老師が途中から顔を出してくださり,鋭い目つきでわたしたちの稽古をじっとみつめていてくださったことです。いつもは柔和な笑顔の李老師の目つきが鋭いのです。じっと,わたしたちの稽古をみつめていらっしゃる。なにか間違ったことをしているのだろうか,と心配になるほどでした。でも,それはわたしの杞憂でした。

 わたしたちの稽古が一段落したところで,李老師が立ち上がり,いつもの柔和な顔にもどって,ごくごく基本の動作について復習をはじめました。その一つは,24式の冒頭の動作でした。起勢から両腕を水平まで押し上げ,肩の力を抜いて柔らかに押し下げながら両足を曲げ,右足に加重をして片足立ちとなりながら上体の前に両手で輪をつくり,左へ腰を回転させながら左足を斜め前に送り出し,斜飛の動作を経て功夫の姿勢まで。そして,小止。すぐに,起勢からの動作を繰り返します。すると,90度ずつ向きが変化し,4回やると元の向きにもどってきます。

 この「右足に加重をして片足立ち」となるとき,右足の5本の指に力を入れて,床をつかみ取るように立ちなさい,と李老師。それは,一本の木が大地に根を張るような感覚です。そして,その伸びていった根の先から大地の気を吸い上げ,その気を股関節を通過させて左足に伝えながら左斜め前に送り出し,腰を回転させながらしっかりと斜飛を行い,功夫の姿勢を決めなさい,と。

 考えてみれば,この動作は太極拳の基本中の基本です。まずは,この基本を徹底的にからだに叩き込め,と仰っているように,わたしには聞こえました。なるほど,正月8日の稽古初めは,この基本に立ち返って,ゼロからスタートしなさい,というわけです。この動作がきちんとできないかぎり,つぎの動作もまた中途半端なものになってしまう,という次第です。

 この他にも,ピン・ポイントで,基本中の基本の動作を丁寧に教えてくださいました。それはとても細かな動作で,ことばではとても言い表せないものでした。李老師も,わたしのやることをよく見ながら,そのとおりに真似をしてください,と仰る。ウーン,といつものことながらわたしは唸ってしまいます。なぜなら,これまでに見えていなかった動作が,さらに分節化されて見えてきたからです。また,それが伝わるように示範してくださっているのです。

 それがわかるたびに,わたしは感動してしまいます。わたしたちの力量に合わせて示範してくださっているということがわかるからです。それでも,たぶん,いま,わたしの眼に見えているのはほんの少しだけにすぎないのだと思います。それでも,わたしの眼力が周期的にステップ・アップしているのが自覚できたとき,その悦びはひとしおです。

 ことしもまた楽しく太極拳の稽古がはじまりました。
 この悦びが感じられるかぎり,稽古はつづけようと思います。

 李自力老師,謝謝。

猪瀬直樹氏の公選法違反告発を特捜部が受理。海外での反響やいかに。東京五輪狂想曲,鳴りやまず。

 東京五輪招致の主役だったはずの猪瀬直樹氏が都知事を辞任した時点で,海外では「いったい何事ぞ」と色めき立ったと,ドイツの友人からメールが入った。その後,イタリアの友人からも,東京五輪は大丈夫か,という問い合わせがあった。それに反して,国内では,都知事の椅子にしがみつく猪瀬氏の姿勢を批判する声は高まっても,東京五輪への影響を指摘する人はほとんどいなかったように思う。

 猪瀬氏の辞任で一件落着かと思っていたら,そうはいかなかった。新聞などの報道によれば,市民団体が提出していた猪瀬氏に対する公職選挙法違反容疑などの告発状を,東京地検特捜部が受理したという。素人の眼からしても,知事選告示の直前である9日前に5000万円もの巨額の金が現金で受け渡しされ,それを「個人的な借り入れ」と主張した猪瀬氏の言い分は,どう考えてみても納得はできない。おまけに,公開された「借用書」もまことに陳腐なもので,わたしなどはつい笑ってしまったほどだ。

 さらに,今日(7日)の東京新聞(夕刊)によれば,つぎのような驚くべき情報がある,という。記事をそのまま引用しておくと以下のとおり。
 「関係者によると,猪瀬氏は徳田前理事長と面会した際,東京電力病院(東京都新宿区)取得の意向を伝えられていた。都は東電の大株主で,副知事だった猪瀬氏が東電に病院売却を迫った経緯もあり,特捜部は,金にわいろの趣旨がなかったかについても慎重に調べるとみられる。」

 これが事実だとしたら,ことは,簡単ではない。つまり,「ヤミ献金」の記載漏れ,だけでは済まされない,ということだ。となると,これはもう重罪である。特捜部がどこまで真相を究明できるか,国民の関心は以後その一点に集中する。

 ことの真相はともかくとして,特捜部が動き始めた,という事実を海外はどのように受け止めるのだろうか,とこちらの方がわたしには心配である。都知事が辞任しただけでもたいへんな反響があったのに,こんどは特捜部が取り調べることになった,となればもはや「犯罪」が前提となることはまぬがれないからだ。

 海外メディアはこういうことには敏感だ。東京五輪開催の中心人物が辞任しただけではなく,特捜部の取り調べの対象になった,というのだから。大きな「不信」をいだくことは間違いない。来月7日から開催が予定されている冬季五輪ソチ大会もここにきて揺れている。「プーチン不信 五輪に影」「欧米首脳ソチ開会式欠席続出」と新聞は報じている。

 この種の「不信感」はひとたび起きてしまうと,それを取り返すのはたいへんだ。そのように考えると,今回の猪瀬氏の問題は,そんなに単純な問題ではない。東京五輪開催そのものに大きな「汚点」を残すのみではなく,大きな「不信感」が国際社会の中に広がってしまう。そのための「信頼回復」をどのようにするのか,そこには容易ならざるものをわたしは感じている。

 なぜなら,この種の不信感は連鎖反応を起こす可能性があるからだ。一つは,「under control 」と明言したアベ首相の発言が嘘だったということも次第に広まっているし,二つには,尖閣諸島の領有に端を発した軍国主義化への急傾斜がある。三つには,靖国神社参拝の問題がある。これも国内の楽観的な反応とは違って,アメリカでさえ不快感を示したのだ。こうして挙げていくと,恐ろしいほどの連鎖が待ち受けていることに気づく。

 つまり,日本という国家全体に対する「不信感」の問題である。今回の特捜部受理の問題は,その引き金になりかねない,というのがわたしの危惧である。もはや五輪開催は,たんなるスポーツのビッグ・イベントでは済まされない時代に入っているということだ。このことの認識が欠落している。いまの日本の指導者たちの間には・・・・。これは致命的である。

 まあ,わたし一人の杞憂に終わればいいのだが・・・・。
 クワバラ,クワバラ。

2014年1月6日月曜日

東京五輪狂想曲。新国立競技場よりも高い80mのJSC本部ビルを建設するという。正気の沙汰か。

 今朝(1月6日)の『東京新聞』をみて唖然としてしまった。一面トップ記事に大きな見出しが躍る。「新国立超す高さ80メートル」「JSC本部ビル便乗緩和」「競技場と一体開発」とあって,つづけて「日本スポーツ振興センター(JSC)の建て替え計画」が写真・図入りで大きく掲載されている。なにを考えているのやら・・・・。

 要するに,東京五輪という大義名分のもとに,あるいは,このどさくさ紛れに,JSC(日本スポーツ振興センター)の建物も80mのビルに建て替えてしまおう,というのである。しかも,JSCの建物は築20年しか経っていない。新しく,そんな巨大なビルを建てなければならない必要性はなにもない。

 新国立競技場の高さが最高のところで70m。この高さをさらに10mも超えるビルを建造するというのだ。すでに,よく知られているように,この明治神宮外苑内は,東京都の風致地区条例により,長い間,原則15m以上の建物は造れないことになっていた。そのため,東京都はJSCの提案を受けて,外苑の再整備案をまとめた「地区計画」を作成し,建築制限を緩め,この開発を可能にした。

 その内容は,用途などに応じて,高さや容積率の限度を設定。競技場は高さ75m,容積率250%に引き上げたのに対して,新ビル予定地は高さ80m,容積率600%にした。この結果,外苑地区に巨大な建造物が建てられるようになった,というのだ。それも,新国立競技場のデザイン・コンペが終わってから,あわててこれまでの風致地区条例の見直しをし,巨大な新国立競技場の建造を可能にした,というドタバタ劇を演じている。要するに「お手盛り」でなにもかも決定しているのだ。そのときの理屈は「東京五輪」開催のために,という決まり文句ただひとつだ。

 この「東京五輪」という錦の御旗さえあれば,なんでも可能になる。そんなことが,いま,着々と進行しているのだ。われわれの知らないうちに。

 東京都には,あちこちに風致地区条例にもとづく緑の森や広場があちこちに点在している。都心の巨大なビル群を抜け出すと,すぐ近くにオアシスのような緑の空間,すなわち風致地区が点在している。その意味ではとてもバランスのとれた都市になっている。明治神宮外苑はそのなかでも,もっとも都民に親しまれてきた都会のオアシスである。その風致地区を守ってきた条例を,一気に緩和して,巨大な建造物の建設を可能にしようという,まさに「暴挙」にでたのだ。それも,極秘裏のうちに。

 「地区計画」というものは,そもそも,その地区の特性を生かし,それを保持するために,無秩序な開発を防ぐための制度であったはずである。それを逆手にとって,高さ制限を緩和してしまう,という「地区計画」の趣旨に逆行する,まさに悪魔の手法を引き出したのである。こんなことが東京都の条例としてまかりとおっている。いったい政治とはなにか。だれのための,なんのための政治なのか。都民の意志などはどうでもいいということなのか。

 この際,思い切って言っておこう。諸悪の根源は,日本スポーツ振興センター(JSC)にある。この文部科学省所管の独立行政法人のあり方そのものに大きな問題が潜んでいる。その歴史をたどると,敗戦後の学校給食センターにまでたどりつく,恐るべき組織体なのである。結論からいえば,やりたい放題。官民一体となって,なんでもできる組織を構築してきた。それを文部科学省はすべて許してきた。もっと,はっきり言っておこう。日本スポーツ振興センターは,なにを隠そう,文部科学省のお役人たちの「天下り」の温床だったのだ。だから,恐いものはなにもない。行政を乗っ取ったような組織体なのだから。

 こういうことが「東京五輪」をとおして,たまたま明るみにでてきた。いささか遅きに失したが,この悪の温床を徹底的に洗い出し,大手術をしなければならないときを迎えている。すなわち,日本スポーツ振興センターをとりまく文部科学省,東京都の三位一体となった悪の温床を。

 さて,だれがこの猫の首に鈴をつける仕事をするのか。
できることなら,こんどの新知事は,この大英断をふるうことのできる人になってほしい。しかも,それをなしうる人が立候補している。この話は,いずれまた。
 

寒中お見舞い申しあげます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 寒中のお見舞いを申しあげます。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 松の内が過ぎてからご挨拶をと考えていましたが,小寒に入りましたので,遅ればせながら「寒中のお見舞い」を申しあげます。

 じつは昨年12月中旬に,義姉を見送りました。長年,闘病生活がつづいていましたが,薬石効なく,残念ながらとうとう旅立っていかれました。

 というわけで,ことし一年は少し自重した生活を送りなさい,という天の声と受け止めたいと思っています。考えてみれば,50歳のときに「確率二分の一で癌」と診断された以外は,なに不自由なく過ごしてきました。いささか健康に対して自信過剰なところがありました。が,そろそろ気をつけなさい,という反省の契機と考えたい思います。

 けして無理をすることなく,できるだけ自然の流れに身をゆだねるよう努めたいと思います。つまり,加齢とともに,身心ともに下降線をたどるのは当然のことだ,ということをはっきり自覚したいということです。素直になだらかな下降線に従うこと,これがわたしにとっての「サクセスフル・エイジング」。

 しかし,最大の敵は「欲望」。とりわけ,「食欲」と「飲酒欲」。どこまで自律(セルフ・コントロール)できるかが問題。すべては自分自身の意志の問題。さりとて「欲望」は手ごわい。一筋縄では済まされません。さて,この最大の難題と向き合いながら,わたし自身がどのように対応するのか,その進み行きを存分に楽しみたいと思います。

 思い起こすことは,わたしの尊敬していた大伯父のこと。大伯父は,いつものとおり朝食をとって,大伯母がちょっと裏の畑に行ってくる間に,ひとりで布団の中に入って大往生をとげていた,といいます。それはそれはみごとなものだった,と聞いています。そのことが,いまも,強烈な印象として残っています。

 そういう晩年に尋ねていきますと,「お迎えがくるまじゃあ,生きとるだぁあやれ」と言って笑っていました。そして,「おしんとうはまだ若い。まっと飲め」と言ってコップ酒を薦めてくれました。ご本人もちょっとだけ嘗めるようにして飲み,真っ赤な顔になって,ご機嫌でした。つねに泰然自若。禅僧として「一道清浄」を貫きました。すごい人でした。

 この大伯父の座っているうしろの床の間には「平常心是道」という掛け軸がかかっていました。この書がまた,そのまま達観した世界を伝えてくれる,みごとなものでした。詳しくは,2011年11月08日のブログ「一道清浄妙連不染・考」をご覧ください。

 この大伯父の生き方には,とてもとても足元にも及びませんが,わたしにとっては大切な人生の指標であり,大きな目標です。ことし一年は,「般若心経」を唱えながら,大伯父を中心とした懐かし人びとの顔を思い浮かべてみたいと思います。

 取り急ぎ,寒中のご挨拶まで。
 

2014年1月5日日曜日

大國魂神社の拝殿の右側の狛犬には「子ども」がいる。「子連れ狛犬」? 出雲幻視考・その15。

 正月元旦の午後,初詣にでかけた府中の大國魂神社の拝殿の右側の狛犬には「子ども」がいて,乳を飲んでいる。びっくりしてしまって,「まさか?」と思って,この狛犬のまわりをひとまわりして,もう一度,しっかりとこの眼で確かめてみた。間違いなく「子ども」が乳を飲んでいる。ということは,こちら側の狛犬さんは母親であり,雌である。「子連れ狛犬」だ。こんなことは初めての経験である。いったい,どうなっているのだろうか,と考え込んでしまう。

 出雲系の神社には,ときおり,不思議な仕掛けがしてあるから,要注意。


 慌てて,左側の狛犬さんを確かめてみる。しかし,拝殿のすぐ前なので,人でいっぱい。向こう側にわたることができないので,人並みの頭越しにカメラを掲げて撮影。画像をズーム・アップして大きくしてみたが,どうやらこちらには「子ども」はいない。だとすれば,こちらは父親?で雄?ということらしい。

それから,もう一点。狛犬の口に注目していただきたい。あとで,もう少し詳しく触れるが,とりあえず,この雌雄の狛犬さんの口は,どちらも「阿」でもなければ「吽」でもない。その中間の口になっている。
 それとついでに言っておけば,顔全体の雰囲気は沖縄のシーサーにとてもよく似ている,ということだ。このことについては,また,別途,考えてみたい。


 狛犬に雄・雌があるということを知っている人はどのくらいいるだろうか。わたしは,何年か前に高槻市の公民館に頼まれて講演をしたことがある。その折に,上宮天満宮の宮司さんが聞きにきておられて,終わったあとお話をする機会があった。わたしとしては,千載一遇のチャンスとばかりに,じつは,このあと上宮天満宮にお参りに行くつもりです,と申し入れをした。もちろん,大歓迎してくださって,社務所の中まで案内してくださり,お茶までいただき,のみならずお土産(お酒とお菓子)までいただいてしまった。

 その折に,宮司さんが,上宮天満宮の拝殿の前で,狛犬さんに雄・雌があるのをご存じですか,という。「えっ?ほんとうですか?」とわたしは思わず大きな声を挙げてしまった。右側の狛犬さんをよくご覧になってみてください,と仰る。わたしは迷うことなく,狛犬さんの股間を覗き込んだ。なるほど,そんなにリアルではないが,よくみるとそれらしき形をしたものが上に向かって,彫り込まれている。「うーん」と唸ってしまった。

 すぐに,わたしは左側の狛犬さんに向かう。そして,覗き込んでみる。なにもない。つるんとした下腹部がみえるだけ。そうか,こちらは雌なんだ,と納得。このとき宮司さんは,明確に「雄」と確認できる狛犬さんはここだけです,と仰ったように記憶する。でも,こんなことは大したことではない,と軽く受け流していた。

 しかし,なぜか,その後も意識のどこかにつよく引っかかるものがあって,神社に行くと,必ず性別を確認する。その癖がついてしまった。が,どこの神社に行っても性別は確認できない。だから,上宮天満宮だけが「特別」なのだ,と考えることにしていた。しかし,なぜ,ここの狛犬だけが「雄」を主張しているのか。その謎は解けないままだった。

 だから,今回の「子連れ狛犬」との出会いは,まさに,びっくり仰天である。これほど明確に「雌」を主張する狛犬には出会ったことがない。やはり,出雲系の神社にはなにかが引喩として隠されている。最初のころはみんな承知していたはずだ。しかし,いつのまにか,その理由が忘れられてしまい,なにがなんだかわからないようになってしまった。そういう事例はたくさんある。民俗芸能のなかにはそういうものがいっぱいだ。なんだかわからないが,大事に,先祖代々,伝承されてきているのだ。

もう一点は,狛犬さんの口。これも今回が初めての出会いであった。二対とも半開きの口。狛犬といえば「阿」「吽」と決まっていると信じていた。しかし,そうではない。そのいずれでもない口。まことに不思議だ,と思っていたら,この境内にはもう一対,どちらも「吽」の口の狛犬さんがいた。




 どんなことがあっても口は割らないぞ,という強い決意表明のようにわたしには見える。なんの口を割らないのか,「出雲族の秘密を」,とこれはわたしの勝手な推測。だから,わたしは「出雲の謎解きにお力を」と初詣のときにお願いをした。が,そのすぐあとに,この一対の「吽」という狛犬さんに出会った。やはり,無理なのか・・・・,と。でも,諦めたら駄目だ。諦めたらそれでおしまい。しかし,探しつづけていれば,いつか,どこかでその「解」に出会うだろう。

 当分の間,神社めぐりはつづきそうだ。そのテーマもどんどん増えていく。
 
 楽しい限り。「謎解き」の夢は多いほどいい。

最後に,もう一度,「子連れ狛犬」の写真を。とくと,ご覧ください。




 

2014年1月4日土曜日

無慈悲な「繰り上げスタート」。選手たちのこころをへし折る暴力装置。心情主義と効率主義の葛藤の露呈。

 箱根駅伝が終わってもなおその余韻に浸っている。それは単に楽しかったからということではない。箱根駅伝とは,だれのために,なんのために開催されているのか,ということを考える宝庫だからである。つまり,現代社会の諸矛盾がいっぱい詰め込まれた,きわめて優れた文化装置だから,ということだ。

 その典型的な事例が「繰り上げスタート」。この無慈悲なるルール。駅伝の精神をぶった切る,恐るべき装置。わたしには許せない。断じて許せない。だから,考える。

 トップとの差が「20分」を超えたところで,それ以下の遅れたチームに有無をいわさず「繰り上げスタート」を命じる制度。これは駅伝ではない。タスキが手渡せないということは,つまり,手紙が届かないということだ。手紙をもたずに走る選手とはいったいなんのために走っているのか。それはいったい何を意味しているのか。それは単なる「走る人」。走るロボット。そこには「こころ」がかよっていない。

 タスキをリレーするからこそ「駅伝」である。「繰り上げスタート」とは,この「駅伝」を否定することを意味している。ということは,箱根駅伝は,みずから自分の身体の一部を切り捨てる,という暴挙にでたということだ。つまり,みずからの意志で,半分ほど死に体にしてしまった,ということだ。

 聖火リレーを考えてみるがいい。オリンピアの聖地で,太陽光から火をいただいた「聖なる火」をリレーするからこその「聖火リレー」である。それが途中で消えてしまったら,それは,もはや「聖火リレー」とはいわない。0(ゼロ)からのやり直しが必要だ。

 詳しいことは忘れてしまったが,聖火リレーの途中で「聖火」が消えてしまったことがある。あわてて近くにいた役員らしき人が飛び出してきて,ライターで点火して,ふたたび走らせたシーンをテレビで見たことがある。あのあと運ばれていった「火」は「聖火」ではない。したがって,あの大会は「聖火」ではない「俗なる火」(=「ライターの火」)のもとでオリンピックが開催されたのだ。いろいろ話題になったが,「俗なる火」で押し切られてしまった。が,それは間違いだ。なぜなら,「聖火リレー」の精神をみずから否定してしまったのだから。

 箱根駅伝の「繰り上げスタート」なるものが,いつから始まったのか,精確には確認していないが,調べればすぐにわかる。そんなに古いことではない,と記憶している。が,こんな馬鹿げた制度を定めたことに「自己矛盾」を感じなかった,当時の競技役員たちの力不足を嘆かわしく思う。もちろん,その背景には,いろいろの事情があっただろうことも想像に難くない。

 その最大の理由をひとことで言ってしまえば,それは「経済的効率主義」だ。箱根駅伝がごときに,長時間にわたる道路の専用を許すのは「無駄」だ,という考え方。どこから,どのようにして,このような考え方が出てきたかはいまさら説明するまでもないだろう。

 ならば,箱根駅伝を縮小して,参加チームを少なくすればいい。それでも「20分」以上遅れたら,その時点で失格にすればいい。そういうルールをつくれば,残るのはほんのわずかな大学しかなくなるだろう。それは箱根駅伝を消滅させるシナリオでしかない,ということに気づくはずだ。

 そのことは熟知しているからこそ,その苦肉の策として編み出されたのが「繰り上げスタート」であろう。ことしは参加大学を23大学に増やした(なぜ,そうしたのか,そこには理由がある。が詳しくはまたいずれ)。だから,ますます「繰り上げスタート」が必要になった。上位チームとの力の差は歴然としていた。そのため,何回もカウントダウンをしなければならない場面が生まれた。

 可哀相な場面もあった。中継点に入ってきて,あと数秒あればタスキを渡すことができる二人のランナーが,ラストスパートをかけて飛び込んでくるその目の前で,無慈悲にも「繰り上げスタート」のピストルが鳴り響いた。ゴールしてきた選手たちは二人とも,タスキを握りしめたまま,崩れ落ちるようにして地に這った。なんという無惨なことを・・・。とわたしは憤った。そして,涙した。

 こういう「自己矛盾」「自己否定」に蓋をして,「経済的効率主義」に支配されている,というのが箱根駅伝の現実の姿とし浮かび上がってくる。この風景はどこぞの景色にそっくりそのままではないか。そう,原発だ。まるで詐欺のような「経済的効率主義」で塗り固められた原発だ。違うのは,原発はいま,すぐにでも廃炉に持ち込まなくてはならないが,駅伝は止める必要はまったくない,という点だけだ。

 したがって,駅伝に残された問題は,駅伝から生まれる感動を守ろうとする「心情主義」と,短時間で競技を管理・運営しようとする「経済的効率主義」との葛藤をどのように超克していくか,ということだろう。ここに叡知を結集しなくてはならない。

 以上,大づかみに箱根駅伝が抱える問題の所在だけを描きだしてみた。ここからさきは各論となって,もっともっと,さまざまな局面を捉えて,詳論を展開することが必要であろう。いな,ぜひとも,そういう分析をしていかなくてはならないだろう。

 結論:少なくとも選手たちのこころをへし折るようなルールは廃止しよう。

 まずは,とりあえずの問題提起まで。
 

2014年1月3日金曜日

東洋大学,おみごと。チームワークの勝利。その秘密は?選手たちの「自立/自律」。

 どの大学にも強い選手はいる。が,その選手が期待どおりの活躍をするとは限らない。ときには,無名の選手が突如として快走することもある。だから,面白い。スポーツはやってみなければわからない。ある種の賭けなのだ。それは人生そのものでもある。

 人生が想定どおりのものだとしたら,なんと味気ないことか。生きる夢も希望もなくなってしまう。人生は生きてみなければわからない。スポーツもやってみなければわからない。駅伝も走ってみなければわからない。想定外のことが起きるから面白い。

 しかし,現代社会はこの「想定外」ということばをとことん忌み嫌う。なにからなにまで「想定」できるようにしようとする。人間の驕りである。その端的な例が原発だ。科学の力を過信して,技術的にコントロールできないことまで,「そのうちにできるようになる」と前倒しにして,原発をつくってしまった。まさに,人間の驕りである。とりわけ,科学の領域においては,「想定」できないことに手を出してはいけない。iPS細胞も危ない,とわたしは受け止めている。遺伝子組み替えも危ない,と考える。理由は,神の領域に人間が手を出してはいけない,と考えるからだ。

 その反面,神を祀る祝祭は,可能なかぎり「想定外」の要素を残しておくべきだ,とわたしは考える。スポーツは基本的に祝祭なのだから,あまり厳しく管理しない方がいい。もちろん,危険に関しては徹底した管理が必要であるが・・・・。

 と,ぼんやり箱根駅伝をテレビ観戦しながら考えていた。
 この二日間,箱根駅伝にどっぷり浸っていた。そして,ぼんやりとした頭で,ぼやーっと浮かんでくるものを,ほわーっとした気分のまま,いろいろと考えていた。とてもいい勉強になった。義理でやる勉強と違って,突然,ボコッ,となにかが立ち現れる。その妄想のようなものとつきあいながら,あれこれ空想してみる。それこそ,そこは「想定外」の宝庫である。だから,ものすごく面白い。

 それにしても,ことしの東洋大学はみごと。そうか,チームワークが駅伝の最大の要なのだ,とあらためて知った。激しいトレーニングをすれば強くなる,という科学神話をもののみごとに突き崩してくれた。そうではないのだ。走るのは人間なのだ。科学ではない。このもっとも基本的なことをいつかしら忘れてしまっている。

 東洋大学のまだ若い酒井俊幸監督は語る。
 出雲駅伝,大学選手権とつづけて駒沢大学に破れて第二位。箱根駅伝で駒沢大学に勝つためにはどうすればいいのか,と部員に問いかけた。そうして,部員全員(上級生も下級生も)がみんな対等の立場に立って,どうすれば強いチームをつくることができるか,と議論を積み上げた,その結果だ。お互いが忌憚のない意見を交わし合うことができるチーム,それを目指したら,みるみるうちにチームの雰囲気が変化してきた。そうして,アッ,これはいける,と直感した,と。

 つまり,部員全員を「自立」(自律)させようと考え,それを実行したこと。それに対して部員が応えたこと。上下の関係は大事だが,駅伝で実力を発揮できるチームをつくるための議論に遠慮はいらない。ましてや「自発的隷従」などというものはなんの役にも立たない。最後に走るのは選手個人だ。その選手が自立/自律していないことには,いい走りはできない。と,これはわたしの勝手な解釈である。

 つねに自分で自分のからだのコンディションをチェックし,からだの声に耳を傾けながら,いま,どういう走りが可能なのかを考え,決断し,実行する,そういうことを繰り返す能力,を養うこと。これが最優先課題なのだ。もちろん,試合の前には徹底したミーティングが行われ,お互いの意識を一つに共有することも行われるだろう。そして,レースがはじまれば,監督からの指示がとぶ,他チームの情報も知らせてくれる,ありとあらゆる情報が(たとえば,気温とか,風とか,あるいは,いまのランニングフォームとか)選手の耳に届けられる。しかし,それでも「いま,このとき」のからだの声を聞くことができるのは自分ひとりだ。

 最終的な決断を下し,「いま」どのような走りをするかは自分で決めるしかない。だから,どれだけ自立/自律しているかが問われることになる。このことを選手たちに気づかせ,徹底させるかは,とてもむつかしいことなのである。頭でわかることと,からだでわかることとは別だから。

 昨年の覇者・日体大の別府監督は「人は変われる」という名言を吐いた。そして,そのとおりの結果を出した。だから,いまでも頭ではわかっている。そして,その実績もある。が,毎年,そのようなチームがつくれるかというと,そうではない。チームは生きものなのだ。なにもかも想定どおりというわけにはいかない。だから,面白いのだ。こうして,レースの途中では,想定外の喜劇・悲劇のドラマが生まれるのだ。

 さて,来年も東洋大学は同じようなチームをつくりあげることができるだろうか。ことしの日体大のような例もある(もちろん,ことしもよく健闘して3位に入っているが,優勝ではない)。みんな,どのチームの監督だってわかっているはずだ。だが,それをどこまで詰めていき,どこまでいいチームに仕上げることができるか,こここそが名宰相たるものの腕次第。

 そこのところを,わたしはテレビ観戦しながら,楽しんでいる。来年も楽しみだ。

2014年1月2日木曜日

箱根駅伝・東洋大学往路優勝おめでとう。テレビの放映の仕方にひとこと。

 箱根駅伝は大好きなので,毎年,応援することにしている。とくに,これといって贔屓の大学があるわけではない。が,若者たちが一生懸命に走る姿は美しい。この箱根駅伝に向けて一年間,それぞれに精進を重ね,晴れの舞台に立つ。だから,選手たちの顔の表情も引き締まっていて,とてもいい。みんな,それぞれの可能性にかけて真剣勝負だ。

 その晴れの舞台で,初日の今日,往路で脚光を浴びたのは東洋大学チーム。一区でやや出遅れたが,二区で頑張り,三区で駒沢大学を逆転した。そのあと,四区,五区と頑張ってトップでゴール。その頑張りとチーム・ワークの良さに感動した。これはチームの裏方もふくめた全員の勝利だ。そういうチームの輪(和)があってこその結果だ。そのうちのどれかひとつ欠けても,この結果は得られない。駅伝とはそういうスポーツなのだ。

 たまたま,昨年11月末に開催されたスポーツ史学会大会の会場が東洋大学(朝霞キャンパス)だったので,あのキャンパスで学んでいる学生さんたちが走っているんだ,と密かに親しみを覚えながら応援をしていた。強豪・駒沢大学もよく頑張った。しかし,わずかに59秒,及ばなかった。5人の選手が東京から箱根まで,100㎞余を走ってつないで,たった59秒の差で明暗を分けた。復路に,充分期待をもてる僅差だ。さあ,明日の両大学のデッドヒートを楽しみにしよう。

 今日も多くの感動をテレビ観戦していていただいた。そのテレビに対して苦情を言うのはいささか気がひけるが,ここは言っておかなくてはなるまい。もっともっといい放映をしてもらうためにも。そして,箱根駅伝とはなにか,スポーツとはなにか,ということをテレビ放映チームに理解してもらうためにも。

 それはいまにはじまったことではないが,一つは,コマーシャルの流し方だ。今日,とくに酷かったのは,東洋大学と駒沢大学がゴールした直後に,東洋大学の監督・選手へのインタヴューがはじまったと思ったら,その途中でコマーシャル。そして,かなり長いコマーシャルが流れてからの,再インタヴュー。選手たちはその間,雛壇に立たされ,待ちぼうけ。再び映し出された選手たちの顔は,もう,感動もどこかに消え失せ,うんざり,いい加減にしてくれと言わぬばかりの表情が剥き出しになっていた。応答もどうでもい,と言わぬばかりのものだった。なんと冷めた選手たちなのだろうかと思った人もいたのではないかと思う。しかし,これは選手たちに責任はない。わけてもインタヴューしたアナウンサーの問いかけも,気の抜けたものばかりだった。選手たちにとってはどうでもいい問いかけばかり。もっと核心をつく問いを発すれば,選手たちの顔にも精気がよみがえってきたはずだ。すべては,テレビ局のディレクターの責任だ。

 ゴール直後の優勝チームの感動を伝えようとした企画であることはよくわかる。ならば,なぜ,その途中にコマーシャルを挟んだのか。しかも,長々と。テレビ観戦していたわたしですら,いま,このタイミングでコマーシャルはないだろう,と心底腹を立てていた。東洋大学,駒沢大学につづいて,その他の大学が,ゴール前のデッドヒートを繰り広げている真っ最中だ。まさに死力を尽くして,アンカーたちがチームの命運を賭けて頑張っているのだ。そんな,駅伝にとって一番大事なときに「コマーシャル」。箱根駅伝を冒涜している。

 たぶん,スポンサーやディレクターたちは,もっとも効果のあるコマーシャル・タイムだと信じて疑わないだろうが,そうではない。わたしなどは,あまりの腹立たしさに,さっさとチャンネルを切り換えて他局を覗き見しては,また,もどってくる,を繰り返していた。その間の長いこと。これにも驚いた。したがって,この間,どんなコマーシャルが流れていたのか,なにも知らない。いいたいことは「無駄だ」ということ。しかも,駅伝を台無しにしているということ。

 その間,インタヴューも聞きたい,そして,まだ,ゴールしていない大学がどこを,どのように走っているのか,をこそ知りたい。コマーシャルなどはとんでもない。

 それから,もう一点。東洋大学の選手たちはみんな一丸となって,よく走った。素晴らしかった。にもかかわらず,何回も何回も,そして,ニュースでも,報じられたのは「双子の設楽兄弟の力走」だった。たしかに設楽兄弟の活躍はみごとだった。しかし,この兄弟の力走を際立たせたのは,一区の選手が手堅くまとめた走りをしたこと,そして二区で成長著しい選手がその役割をきちんと果たしたこと,さらには四区の死力を尽くしてのあの力走があったからだ。その選手たちに支えられて,はじめて設楽兄弟の快走が生まれたのだ。その事実をないがしろにしてはならない。

 テレビ局のディレクターやプロデューサーたちの,箱根駅伝というものに対する認識の甘さが,こういうところに露呈してくる。とりわけ,スポーツとはなにか,という根源的な問いが欠落している。安易に「ヒーロー」を見つけ出して,それを強調すればこと足れり,と思っているらしい。そうすれば視聴率がとれる,その採算がかれらの第一の課題なのだ。だから,そのためには駅伝を成り立たせている影の部分などはどうでもいいのである。目立つところ,もっとも分かりやすい感動だけを演出すればそれでいいのだ。その結果が,勝利至上主義。勝った,負けた,それだけの娯楽に成り下がっていてもかられは平気なのだ。

 もちろん,それだけでも人は感動する。しかし,それが駅伝(スポーツ)だと多くの視聴者は思い込んでしまう。そうして,もっともっと豊穣な文化であるはずの駅伝(スポーツ)が,単なる勝ち負けだけの,やせ細った文化に成り果ててしまう。そういうものを,わたしたちは今日も箱根駅伝をとおして,一方的に押しつけられてしまったのだ。こんなことの繰り返し。この点については,わたしは大いに失望した。

 限られた時間のなかで,なにを,どのように伝えるのか,はとても難しいことだ。だからといって安易な方向に流されて欲しくない。きちんと考えればできるはずだ。そのために必要なことは「思想」だ。スポーツ・ジャーナリストに,いま,もっとも必要なのは「思想」だ。人が生きるということとスポーツはどのようにかかわっているのか,そのことを考える気概が必要なのだ。すなわち,スポーツを批評する精神。スポーツ批評。

 このことは,ことしも繰り返し考えていきたいと思っている。
 とりあえず,今日のところはここまで。

 スポーツに「思想」を。
 

2014年1月1日水曜日

大國魂神社(府中)で初詣。「謎解きにお力を」と本気で。出雲幻視考・その14。

 府中駅(京王線)から「けやき通り」をまっすくに南下していけば,その突き当たりが大國魂神社の本殿。そこから府中本町駅(南武線)までは徒歩3分。なんのことはない,府中駅と府中本町駅を南北に一直線につなぐラインが大國魂神社の参道なのだ。そのラインをなすのが「けやき通り」。この「けやき通り」は府中駅からさらに北に伸びていて,全長だと相当に長い。



 この「欅並木」は天然記念物に指定されている。それはそれはみごとなもので,初めてこの欅並木に出会ったとき(このときはまだ大國魂神社の存在をしらなかった),なにか異様な力を感じたことを記憶している。この欅並木のさきにはなにかとてつもないものがあるな,とだけ直感した。最近になって,府中に大國魂神社があることを知り,「あっ,あれだっ!」とすぐに結びついた。この欅並木をみるだけでも一見の価値があろうというものだ。

 今日(正月元旦)は,ものすごい人出で,府中駅の構内から雑然としていた(午後1時30分)。駅からけやき通りに至ると,どこもかしこも人でいっぱい。このけやき通りを少し南に行ったところで交通整理の係員が大勢立っていて,参拝客の最後尾はここだと看板を持って,ロープを張って,この六列の後ろに並べと指示している。頭のなかの地図だとこのさき相当に長いはずだ。一瞬,どうしようかとちょっとだけ逡巡したが,ここまできて参拝もしないで帰るわけにも行かない。やむなく,そこに並ぶ。

 そこから拝殿の前にたどりついたのは約2時間後。その間にあちこち眺めたり,新しい発見があったりした。それらのいくつかを書いておく。
 ・初詣客にしてはみんな地味な出で立ち。いわゆる晴れ着を着た若い娘さんは皆無。
 ・参道のところどころに寄贈者の提灯がまとめてかかげてあるが,その名前をみていると,いわゆる組織の名前はほとんどなく,個人である。
 ・それも商売関係の人,とくに飲食業の人の名前が多い。
 ・これは靖国神社などとは大違いだ。
 ・それもそのはず,ここは大國魂神社だ。つまり,オオクニヌシの系譜の神社だ。ということは「出雲」系。國譲りを強要された側の神社だ。ということは・・・・?と考える。
 ・なるほど,明治神宮や靖国神社は国家の中枢につながっている神社だ。しかし,ここ大國魂神社は,言ってみれば庶民の神社だ。ということは両者は対極に位置することになる。



 拝殿前では,「謎解きにお力を」と祈った。いわずとしれたオオクニヌシの謎解きだ。国譲りの真相(深層)が知りたい。藤原氏はなにゆえにあのような神話を構築しなければならなかったのか,あの神話はなにを封じ込んでいるのか,後世に知られては困る,相当の無理難題(国譲りに相当する難題)がそこには隠されているに違いない。それは「なにか」。

 この国譲りの神話と連動しているのが野見宿禰の事跡ではないか,とわたしは考える。当麻蹴速との決闘はなにを封じ込んでいるのか。垂仁天皇はなにゆえに「出雲の人」野見宿禰を抱え込まねばならなかったのか。そして,垂仁天皇が,巻向の地ではなく,野見宿禰に与えた領地である「菅原」の地に自らの墳墓(天皇陵)を建造したのはなぜか。そして,その地から菅原道真が登場し,桓武天皇との深い関係が結ばれることになる。が,これが藤原一族による冤罪を仕掛けられることになる。そして,太宰府への流罪。

 出雲と朝廷とはきわめて密接な関係にありながら,いつも,表は朝廷,その裏には出雲の姿がちらつく。それは,大和朝廷と国府(国造,総社,一宮,など)の関係にもみてとることができる。律令制とはいったいなにを意味していたのか。土地をとりあげて身分を与え,その土地の監視を国造(出雲)に命じたとすれば,そこから生ずるねじれたストレスやエネルギーをどこかで解消しなくてはならない。その装置が全国に散在する総社(一宮,二宮,三宮といった神社ネットワークの総元締め)だったとすれば・・・・?

 と,こんなことを考えながら大國魂神社の拝殿に達するまでの2時間の行列を過ごした。だから,けして退屈はしなかったし,ひとりで初詣というのも悪くない,と満足。

 だから,こうした「謎解きにお力を」と祈った。わたしの初詣。

 このつづきは,また,いずれ書くことにして,ひとまず今日はここまで。