2012年5月31日木曜日

「関西連合」というのは,そんなにヤワな団体だったのか。大いなる失望。

いったい全体,「関西連合」になにがあったのか。あれほど堅固に「脱原発依存」を主張しつづけてきたというのに・・・・・。一夜にして,これか?!

政治は一寸さきは闇だという。この一寸の間に,なにが起きたというのだ。しかも,一気に,全首長が雁首を揃えてコロンと転んでしまった。わけがわからない。ハシシタ君にいたっては,その最終会議に出席もしていない。もはや,出席する意味もない,とでもいうように。

いったい,どこで,どのような計算・打算が働いたのか。
永田町がだらしなくて,頼りにならない,と失望していたので,ようやく「まともな」ことを「きちん」と発言し,行動する「関西連合」に大いに期待をしていた。そして,ここが頑張ってくれれば,原発の再稼働はそんなにかんたんにはいかないだろう,と。

いわば,脱原発依存に向けて舵を切るための「天王山」の闘いが展開している,と受け止めていた。だから,もっともっと庶民感覚にもとづく「まともな」主張を展開して,永田町にプレッシャーをかけてくれるものと楽しみにしていた。

いよいよ時間切れで,ドジョウ君も断末魔の声をあげるのではないか,と。そして,国民の大多数の意向を受けた「まともな」政治をとりもどしてほしい,と。

しかし,この土壇場での大逆転,いやいやこれは謀叛だ。いったい,だれに,どのような毒薬を盛られてしまったのだろうか。政界には魑魅魍魎が跋扈しているという。しかし,首長の一人ずつが,その魑魅魍魎に匕首でも突きつけられて,なし崩し的に順番に落ちていくのなら,まだわからないわけではない。そうではないのだ。まったく,一瞬のできごとだったかのように,まるでオセロ・ゲームのように(とわたしは感ずる)。

原子力ムラの一斉攻撃が,政治の背後ではじまっている,というような噂もないわけではない。しかし,その程度では,「関西連合」が枕をならべて討ち死にするとは思えない。

ひょっとしたら,ハシシタ君の時間稼ぎのための陰謀ではなかろうか,と思ったりする。既成政党から政権を奪取するには,まだまだ,準備の時間が足りない。この「関西連合」をまるごと抱き込んで,既成政党に太刀打ちできるだけの基盤をつくりたい。つまり,「事実上容認」しつつ,条件付きの「条件」を小出しにつきつけながら,時間をかけて政権党をゆさぶり,民意を惹きつけ,その上で「選挙」に持ち込む・・・というような・・・・。

水面下では,わたしたちの想像を絶するような「駆け引き」がなされているに違いない。イシハラ,コザワ君だけではなく,民主党の若手大物をふくむ日和見主義者たち,あるいは,ワタナベ君やタロウ君や,一部の評論家たちもふくめて,どんな「駆け引き」がなされているのか,わかったものではない。まったくありえないような選択肢もそこには隠されているのかも知れない。しかも,日替わりメニューのように変化しながら・・・・。

いずれにしても「関西連合」の,この転び方は,わたしにはまったく理解不能だ。

こんなことが起こるのだとしたら,いよいよもって,わたしたちは,わたしたちの民意を「きちん」と受け止めて行動してくれる政治家を,身近なところから創出する以外にはない。これまでの政治家は,みんな手垢によごれた,節制もくそもない,欲望の固まりみたいな人間ばかりだ。だから,かれらは目の前の利害・打算に明け暮れる。表面では隠しつづけながら・・・・。

そういえば,栃木県選出の民主党の代議士(名前を忘れた)で,選挙公約と違うと言っていちはやく民主党を離党した人がいたではないか。かれのような人をこそ,国民はもっともっと押し立てていく努力が必要だ。そういう人は少なからずいるはずだ。

「命よりカネの方が大事」という政治家の一覧表でもつくって,新聞で一人ずつ俎上に載せて,書き立ててほしい。そんな根性も,もはや,いまどきの新聞記者には消え失せてしまっているのだろう。情けないことではあるが。

これで政界はますます昏迷の色を強めていく。これは政界大再編の予兆なのか。まるで,富士山が噴火を起こす予兆であるかのように。

しばらくは,政界から眼が離せない。
なにが起きても不思議はない,そういうところに追い込まれてしまった。
いまこそ,国民がみんなで眼を光らせて,監視しつづけなければならない。
そして,「脱原発依存」の声を挙げつづけなくてはならない。
ほんとうの「天王山」はこれからだ。

2012年5月30日水曜日

「むすんでひらいて手を拍ってむすんでまたひらいて手を拍ってその手を上に」の真意は?

 むかしからそうだが,近頃,とみに整理学が下手になり,困り果てている。とくに,本の整理学ができない。つい最近買って読んで感動した本が,もう見つからない。ぜひ,人に紹介してあげようと思って探しても見つからない。そんなことが多くなってきた。困ったものである。

 とうとう業を煮やして,事務所の本を書棚から全部下ろして,ある系統別に分類しようと取り組んだ。志やよしとしても,途中で,おもしろい本がでてくるといつのまにか読みはじめている。そして,われにかえると,なにをしていたのか忘れている。これはこれで本好きの醍醐味なのだから仕方がない。しかし,仕事ははかどらない。いま,事務所の仕事部屋は本の山があちこちにできて足の踏み場もないほどだ。

 こんな作業をしていたら,眼の前に『しあわせる力 禅的幸福論』(玄侑宗久著,角川SSC新書,2010年刊)がひょっこりでてきた。あっ,そういえば・・・・という記憶がよみがえってきて,開いて読みはじめる。すぐに夢中になって読み耽る。もう本の整理など忘れている。

 この本の中程に「むすんでひらいて」という小見出しの,とてもおもしろい話がでてくる。
この曲の作曲者は,あの『社会契約論』や『エミール』などの著作で知られるジャン・ジャック・ルソーだということはなにかの本で読んで知ってはいた。が,この曲につけられた作詩がだれの作品なのかは,いまも不明なのだという。これは初耳だったので,最初に読んだときも驚いた。

 しかも,この曲にこの詩が付されて,日本全国で歌われるようになったのは第二次世界大戦後のことだという。1947年に,小学校唱歌の教科書に載ったのがはじまりだという。これまた,驚くべき事実だ。

 1947年といえば,敗戦直後の,まだ闇市があちこちに点在していたころのことだ。社会党が政権をとって,片山哲が総理大臣をやっていた年だ。わたしが9歳のとき。つまり,小学校3年生のときだ。教科書もまだまともなものはなかった。戦前の教科書に,先生の指示にしたがって筆で黒く塗りつぶしたものが,しばらくの間,用いられた。そして,少しずつ,新しい教科書が配給されるようになったが,いまでいえば新聞紙に印刷された折り込みのままのもので,それをナイフで切って,開いて読めるようにして使っていた。もちろん,音楽の教科書がとどくようになるのは,ずっとあとのことだったと記憶する。

 だから,この「むすんでひらいて」を,いつ,どこで教えてもらったのか記憶がない。いつのまにか歌っていたようにおもう。しかも,ずっとむかしから歌い継がれてきたものだとばかり思っていた。しかも,子どものお遊戯のための歌だと思い込んでいた。

 しかし,である。玄侑宗久さんの手にかかると,この「むすんでひらいて」の歌がとてつもなく深い意味を宿していることが明らかになる。詳しくはこの『しあわせる力』禅的幸福論にゆずるしかないが,ごくかんたんに,わたし流の解釈を加えて紹介しておくと以下のようである。

 「むすんでひらいて」のお遊戯は,だれでも知っているとおり,手の平を結んだり,開いたり,拍手をしたりを繰り返して,その手を「上」にあげる,のが基本になっている。そして,順に,歌の最後に手をどこにもっていくのかは,即興でだれかが決める。その意外性がおもしろくて,ある年齢までは夢中になって遊ぶ。

 ところが,玄侑宗久さんは,ここには深い意味がある,と読み解く。日本人のこころの奥底に宿る仏教的な考え方,すなわち,思想・哲学が籠められている,というのだ。だから,この作詞者は,名前を意図的に伏せて,GHQの監視の眼をはぐらかしたのではないか,と類推している。では,その思想・哲学とはなにか。

 玄侑宗久さんは,この歌を,人間としての生き方の基本を示している,と説く。結んだり,開いたりする「手の平」は,人間の「こころ」の象徴だという。つまり,人間は,「こころ」を開いたり,閉じたりしながら日常を生きている,と。そして,ときには衝突したりする(手を拍つ)。その衝突は,単純な「ケンカ」であるかも知れない。しかし,「ケンカ」をとおして,人間はお互いにもっと深く理解し合う可能性も秘めている。あるいは,「手を拍つ」は,和解の象徴とも解釈することができる。あるいはまた,肝胆相照らし合うこととも理解することができる。

 つまり,人は,こころを開いたり,閉じたりを繰り返し,ときにはお互いのこころとこころが触れ合ったりしながら生きていくものなのだ,と。これが日本人のむかしからの生き方なのだ,というのである。そのことを,子どもの遊びをとおして伝承しようと考えたのが,作詞者のほんとうの意図ではないか,と。だから,名前を伏せたのでは・・・?と玄侑さんは類推する。

 当然のことながら,これだけではことば足らずなのだが,あとは,『しあわせる力』を読んで補っていただきたい。もっともっと深いところにまで案内してくれます。

 そして,その結論は,以下のとおり。

 かつて日本人は幸せを「仕合わせる」と書いた。しあわせの原点はここにある。
 固くなった心を「むすんでひらく」。そして,手の平を「合わせる」。そうすればしあわせを感じられます。

2012年5月29日火曜日

橋本一径さんをお迎えして第62回「ISC・21」6月東京例会を開催します。

 5月10日刊の『同一性の謎 知ることと主体の闇』(ピエール・ルジャンドル著,以文社)の訳者・橋本一径さんをお迎えして,第62回「ISC・21」6月東京例会を開催します。場所は,青山学院大学。日時は,6月16日(土)13:00~18:00。

 例会の前半は,参加者による情報交換や近況報告などを行い,後半を橋本一径さんの講演という形式をいまのところ考えています。詳細は,決まりしだい,このブログで紹介いたします。なお,どなたでも参加自由ですが,一応,事前にわたしのところにご連絡ください。連絡先は,inagaki@isc21.com です。

 「ISC・21」は,わたしの主宰しています「21世紀スポーツ文化研究所」の略称です。この研究所の主催する月例会は,東京・名古屋・大阪・神戸,などを巡回しながら,毎月1回を原則に開催しています。6月は東京の順番,という次第です。

 で,かねてから,西谷修さんを中心とするピエール・ルジャンドルの「ドグマ人類学」研究会のメンバーとして活動してこられた橋本一径さんが,このたび最新の翻訳を刊行されたのを機に,ぜひ,お話をうかがってみたいと考えました。橋本さんは,しばらく前から「ISC・21」の名古屋での例会に参加されるようになり,いわばわたしたちとも仲良しの研究者仲間でもあります。

 いまさら,橋本さんについてご紹介するまでもないかもしれませんが,一応,わたしが承知しているかぎりでのアウトラインだけでも書いておきたいと思います。
 まずは,『指紋論 心霊主義から生体認証まで』(青土社,2010年)が大きな反響を呼び,一躍,注目の人となったことはよく知られているとおりです。この本は,橋本さんの博士論文をもとに加筆されたもので,第2回表象文化論学会賞奨励賞を受賞。橋本さんの研究の柱になっているものだ,とわたしは理解しています。

 この研究が,じつは,ピエール・ルジャンドルの興味・関心と深いところで通底していて,もう10年も前になりますが,ルジャンドルが来日したときに開かれたワークショップで,橋本さんがこの発表をされたとき,ルジャンドルの眼がキラリと光り,きわめて饒舌にコメントをしたことを記憶しています。その場にいられたことを,いまでは懐かしく思い出しています。とても感動的なシーンでした。

 ですから,その後,橋本さんがピエール・ルジャンドルの研究にも深く分け入っていくのは,ある意味では必然でもありました。思い起こせば,ルジャンドルが来日したのは2003年のこと。その機会に合わせるようにしてルジャンドルの主著『ドグマ人類学総説』(西谷修監訳,嘉戸一将,佐々木中,橋本一径,森元庸介訳,平凡社)が出版されました。こうして日本にルジャンドルの「ドグマ人類学」の全貌を紹介する下準備ができた,と考えていいでしょう。

 つづいて,2006年には『真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』(西谷修さんとの共訳,人文書院)が刊行されます。この本の巻末には,橋本さんの書かれた,「解題 普遍と限界について」が掲載されています。冒頭の,西谷修さんの手になる「『真理の帝国』への導入」と合わせて読まれると,ルジャンドルのこの本での企みが透けてみえてきます。

 ついでに触れておけば,この『真理の帝国』の後半部分では,スポーツにも言及しています。そして,びっくりするような結論を導き出しています。以下に引用しておきましょう。

 「スポーツについてのこうした結論は,スポーツや文化などによる社会統治のプロパガンダと,これらの活動を分類し解釈するわれわれの学者的手法とが共謀していることに気づかせる。スポーツとは宗教的・訴訟的な意味でのドグマの発露の一様態であるなどとあえて主張すれば,不真面目学者の謗りを受けるのもやむをえないだろう。だがこれは確かなことなのであり,スポーツ関連の書籍や雑誌を一目見れば,心-身主義──産業的合理主義の典型的表象──がスポーツ理論の後ろ楯や補強になっていることはすぐにわかるはずだ。「体を鍛えましょう,精神状態にも有益で,人格形成にも役立ちます。」この手のお馴染みの書き物のテーマはおおよそこんなところだ。」(P.272.)

 思いがけない展開になってきましたので,このブログはそろそろ終わりにして,このさきの議論は例会の折に,と思います。

 最後に一点だけ。このピエール・ルジャンドルとジョルジュ・バタイユとの関連について,西谷修さんが『スポートロジイ』創刊号(2012年6月1日刊)の「スポーツにとって『理性』とはなにか」のなかで,4ページほどにわたって述べています。これは,きわめて重要な指摘になっていますので,参加される方は必読です。

 橋本さんのお話を,きちんと理解するためには,できるだけ多く「ルジャンドル」関連本を読破してきてください。最近になって,ようやく日本でもルジャンドルを受け入れる受け皿ができつつあるのか,翻訳本がつぎつぎに刊行されています。また,どの本にも懇切丁寧な「解説」が付されていますので,そちらを手がかりにしてルジャンドルに挑戦してみてください。

 では,今回はここまで。
 順次,このブログをとおして,ルジャンドル読解・私論を試みてみたいと考えています。
 ご批判をいただければ幸いです。

2012年5月27日日曜日

日曜美術館で「佐藤忠良」をみる。あらためて感動。

アートについては,あまり明るくはないわたしですが,佐藤忠良さんの彫刻はなぜか惹かれるものがあって,かなり前から好きでした。ですから,佐川美術館(滋賀県)にも足を運び,たっぷりと鑑賞させてもらったことがあります。その佐藤忠良さんの作品展が,佐川美術館を振り出しに,宮城県美術館ほかを巡回すると,今夜の日曜美術館が教えてくれました。

テレビの映像を見ながら,もう一度,佐川美術館に行ってみたい,とそんな衝動にかられました。
佐藤忠良さんの作品,いいですよねぇ。

「強い人はやさしい」と言ってました,と娘の佐藤オリエさん。
シベリア抑留生活3年を経て,帰国。酷寒のシベリアでの労働のさなかに,仲間たちがつぎつぎに倒れて死んでいく,そこを生き抜いて帰国した佐藤忠良さん。98歳の生涯を閉じるまで,彫刻に全身全霊を打ち込み,すばらしい作品を作り上げました。基本的には丈夫な人だったんだなぁ,としみじみ思いました。汗びっしょりかきながら,粘土を力いっぱい手で叩きつけ,彫刻のための土台づくりの作業をしている姿は感動的でした。美しい作品ができあがる陰には,なみなみならぬ努力が隠されているのだと。

「自然は捉えきれない」「自然は素晴らしい」と死の直前まで語っていたと最後を看取った娘の佐藤オリエさんは言います。自然と真っ正面から向き合って,なんとしても自然を捉えてみたいと願った佐藤忠良さんの願いは,最後まで叶わなかったようです。しかし,作品は,限りなく自然に接近していったことが,今日の映像をとおしても見て取ることができました。

とりわけ,野外彫刻の一連のシリーズ「緑の風」は,人間という肉体像をどこまで自然の背景のなかに溶け込ませることができるか,を追求したものだといいます。人間の肉体もまた「自然」存在そのもののはず。しかし,人間の肉体はいつのまにか「自然」を拒否して(あるいは,抑圧して),自然存在から遠のいてしまいました。このことに,おそらく,大きな疑問をいだいた佐藤忠良さんは,人間の肉体こそ自然の風景のなかに溶け込むべきだと考えたのではないでしょうか。人間は,もっともっと,自然に帰るべきではないか,と。

そこには無限に広がる「自然回帰願望」を感じ取ることができます。人間の本質はそこにある。本来,自然存在であったはずのヒトが,あるとき,人間になることに目覚め,以後,雪崩を打つようにして,ヒトから人間への離脱と移動を繰り返すことになります。そのなれのはてが,こんにちのわたしたちだという次第です。ですから,先達の覚醒者たちは,哲学者もアーティストも宗教者も,そして科学者も,みんな,人間からヒトへの逆行ではなくて,人間がヒトに接近していくことの新たな可能性を模索するようになったのではないか,とわたしは考えはじめています。そのなかに,むかしながらの武術家も,そして,現代のトップ・アスリートも含まれる,と。

そんなことを佐藤忠良さんの作品はわたしに語りかけてくるように思います。

「働く母の姿」などは,一度,目の前にしたら,身動きができなくなってしまいます。夫を若くして亡くし,縁故を頼って北海道の炭鉱にだどりつき,針仕事ひとすじで子供たちを育てた母の姿は,佐藤忠良にとっては,生涯忘れることのできない「姿」だったことでしょう。そういう思いが,そこはかとなく伝わってきます。もう,それは佐藤忠良の分身でしかありません。その他の作品も,そのようにして生まれたに違いありません。「帽子をかぶる少女」は,娘さんの佐藤オリエさんがモデルだと聞いたことがあります。ですから,作家佐藤忠良と作品とはいつしか一心同体となっています。そういう深い「愛」が佐藤忠良さんの作品には通底しているといいます。

その深い「愛」とは,人間性を超越した,動物性にかぎりなく近いところで芽生えるものに違いありません。それは,あるいは,神の領域に近い「愛」というべきかもしれません。英語でいう「it」,ドイツ語でいう「es」が,それに当たるかもしれません。そうです。It is fine.というときの「it」です。

芸術の世界も同じことなのだ,としみじみ思いました。佐藤忠良さんの言う「自然」とは「it」なのではないか,と。

岡本太郎は「爆発」だ,と言い切りました。ここでいう「爆発」は太陽だとわたしは確信しています。すなわち,「it」の権化です。それは「消尽」です。あるいは,「贈与」です。

「スポーツ」もまた,究極のゴールはそこにある,と。

こんなことを考えさせられました。
佐藤忠良さんに感謝。

第61回「ISC・21」5月犬山例会が盛り上がる。

「ISC・21」は「21世紀スポーツ文化研究所」の略称。わたしが定年退職する前に立ち上げたもの。原則として毎月1回の研究会を東京・名古屋・大阪,などの都市を巡回しながら開催してきた。昨日(26日)は,その第61回目。途中でお休みの月もあるので(学会大会などの大きなイベントのある月は研究会の方はお休み),ずいぶんの年月が経過している。

今回は,船井廣則さんのお世話で,犬山の名古屋経済短期大学を会場に開催された。
そのプログラムは以下のとおり。
日時:2012年5月26日(土)13:00~18:00
場所:名古屋経済短期大学(名鉄線・田県神社前下車)
プログラム:
第一部:情報交換
第二部:研究発表
1.瀧元誠樹(札幌大学):<ゆるむ身体>から武術する身体を考える~朝山一伝流体術のワー    クショップを通じて~
2.松本芳明(大阪学院大学):ヨーガのグローバル化──グローバル化によるヨーガの多様化と    その変容
3.船井廣則(名古屋経済短期大学):鬼遊びと「カミ」について──その宗教的背景──
終了後に懇親会。宿泊組みはホテルで二次会。
以上。

話は最初から盛り上がり,時間はいくらあっても足りないほど。
瀧元さんの発表は,いつものようにワークショップ付き。武術する身体にとっては<ゆるむ身体>が大前提になっていて,からだをゆるめることによってワザが繰り出される,その理論と実践を提示してくれる。たとえば,相手に手首を掴まれたときには,掴まれた手の平をいっぱいに開く。すると,その手首は太くなる。つぎの瞬間,開いた手の平の力を抜く。すると手首が細くなると同時に,掴んでいた相手の力も抜けてしまう。その瞬間に,手首を外側にまわせば,掴まれた手が解き放たれる。実際にやってみると,じつに鮮やかにはずれてしまう。つまり,<ゆるむ身体>がワザの基本になっていることの,一つの典型的な事例を示してくれる。

つづいて,松本さんがヨーガのグローバル化の問題を取り上げる。インドの伝統的なヨーガは,グローバル化すると,似て非なるものになってしまう。とりわけ,日本にあっては,健康のためのヨーガが何種類にも分化して,驚くべき流行現象をもたらしている。そこには,ヨーガの本来の目的であるべき精神の鍛練はどこかに薄れてしまっている現実が露呈している。大きな視野に立てば,グローバル化という現象は,経済に典型的に現れているように,ひつとの必然でもある。問題は,グローバル化によって失われるものと新たに得られるものはなにか,ということを見極めることだろう。そして,それは,ジョルジュ・バタイユのいう「有用性の限界」という考え方を持ち込むことによって,さらなる研究の可能性が広がるのではないか,とわたしは問題提起してみた。さて,あとは松本さんがどのように料理してくれるか,楽しみである。

最後の船井さんのところで,残された時間はわずかに30分。用意されたレジュメを大急ぎで説明して,あわてて終了。ちょっと,勿体ないことをしてしまった,と残念。しかし,短い時間ながら,とても刺激的な話題だった。

とりあえず,このブログはここまで。あとで補充するつもり。

以下は28日の追記。

船井さんのプレゼンテーションについて,追加の感想をひとこと。
鬼遊びの「オニ」をどのように特定するか,その背景に存在する「カミ」をどのように考えるか,その宗教的背景に迫る,きわめて意欲的な問題提起であった。それは同時に,スペイン・バスク地方の子供たちの「遊び」を想定し,その背景にある「カミ」観念を類推するところにまで問題意識が伸びていて,まさに「遊び」のグローバル化を考えるための,核心に触れる話題だった。

なかでも,英語圏では,日本の鬼に相当する表現のひとつに「it」がある,という指摘はわたしには衝撃的だった。そうか,It's fine. というときの「It」とはなんだろうと,かねがね考えていたからである。天気や自然現象を現す表現のときの主語をなす,この「It」とはなにか,と。これは日本語の「カミ」観念にきわめて近い,と。しかし,どこか少し違うなぁ,と。

それは,ドイツ語圏でいえば「Es」だ。しかし,この非人称「Es」はフロイトをとおして特別の意味付与がなされ,いちやく有名になった。フロイトの「エス」は日本語にもなったように,人間の「内なる他者」であり,意識(理性)をも支配する無意識の帝王の名称だ。これを人間の「内なるカミ」と置き換えることも可能だろう。

ここまで考えてくると,スペイン・バスクの「カミ」がどのような性格のものなのか,とても知りたいところである。その席には,バスク研究者の竹谷さんもいるのだ。「it」や「Es」に相当することばは,スペイン語ではなんというのか,そして,バスク語ではどうか。その意味内容はどのようなところまで伸びているのか,ということを聞いてみたかった。おそらくは,スペイン語とバスク語では,ことばの誕生からしてまったく異なる文化的(宗教的)・歴史的背景を背負っているのだから,そこには面白い話題があるはずだ。まあ,この問題は,国際セミナーのディスカッションのポイントとして楽しみにしておくことにしよう。もっとも,事前に,竹谷さんからのコメントを,このブログにいただけたらありがたいかきり。楽しみにして,待つことにしよう。

もうひとことだけ。日本の遊びの原点のひとつは「神遊び」だという仮説を,わたしは以前からもっている。奈良時代の天皇の「野遊び」は,自然と身体との「接触」に眼目があって,大自然のもつ呪力を天皇の身体にいただくためのもので,そのために天皇は定期的に「野宿」をしている(『古事記)。野の花を摘むのも,そのためのひとつの儀礼として行われた,と。

この系譜は,「物見遊山」として,庶民にも継承され,「花見」などは現代にも引き継がれている。ただし,それは形骸化してしまって,天皇の行っていた「野遊び」の意味は失われている。しかし,「花見」の飲み食いはともかくとして,心静かに「花見」を楽しむと,どこか日常のこころの憂さが洗われるように感ずるのは,多くの人びとが経験しているところだ。

日本の「鬼遊び」もまた一種の「神遊び」のバリエーションではないか,とわたしは考えている。「カミ」は良いことも悪いことも行う。バリ島の「魔女ランダ」(中村雄二郎)も同じだ。日本の「鬼」もまた同様。赤鬼・青鬼の話はその典型のひとつ。このことと,日本の鬼ごっこの「追う・逃げる」の関係が,捕まえると,その瞬間からその関係が「逆転」するというのも,とても意味のあることではないか,と船井さんの話を聞きながら考えていた。

このつづきを,どこかでできるといいなぁ,とわたしは密かに楽しみにしている。船井さんの「遊び」研究が,バスクで注目されているのは,バスクと日本の類似性と相違性に強い関心を寄せているバスク人のハートのどこかと共振・共鳴するものがあるからなのだろう。これぞ,国際セミナーの醍醐味だと思う。

以上,とりあえず,追加まで。

2012年5月25日金曜日

ほやほやの『スポートロジイ』創刊号がとどきました。

.とれたての,ほやほやの『スポートロジイ』創刊号の顔見せです。



実物はもっと美しいのです。悪いのはわたしの写真の技術です。これからは写真のテクニックも勉強しないといけない・・・と最近はとくに思います。が,もう,手遅れでしょうか。

これだけでは芸がないので,目次も思いきって写真にしてみました。が,やはり素人の写真になってしまいました。でも,なんとか読めそうなので,これでお許しください。


じつは,いましがた,見本としていただいたばかりのものですので,内容についてはまだほとんどなにもチェックしていません。これから美味しい美酒(泡盛・まさひろ)でもいただきながら,じっくりと堪能したいと思います。

今月末には書店に並びますので,どうぞ,手にとってご覧ください。
A5判,296ページ,定価2,400円(税別)。みやび出版発行,発売・星雲社。
お問い合わせは,みやび出版(電話・Fax:044-855-5723),星雲社(電話:03-3947-1021,Fax:03-3947-1617)へ。

読みごたえのある本に仕上がっています。手応え十分,じっくりと読み込んでいただける内容であると信じています。どうぞ,よろしくお願いいたします。

とりあえず,ご紹介まで。

2020年オリンピック招致の東京都,一次審査パス。盛り上がらない都民。

オリンピックのことは書くまい,と思っていたが,メディアがあまりにうるさいので,やはり書いておくことにする。みなさんのご意見をお聞かせください。

五つの候補都市のうち,ドーハ(カタール)とバクー(アゼルバイジャン)が第一次選考会で落選して,イスタンブール(トルコ),マドリード(スペイン),そして東京の3都市が通過した。

東京新聞も,昨日(24日)の夕刊トップで記事を書いている。東京都民のための新聞という立場からすれば当然のことではある。しかし,脱原発依存をかかげている新聞社としては,やや,腰が軽すぎはしないだろうか。第一に,東京都民の半数以上がオリンピック招致に賛成していない(IOC調査による),という事実をもっとしっかりと受け止めるべきではないか。そして,そういう背景について,つまり批判的な意見があるということについて,ほんの少しだけでもいい,書いておくべきではなかったか。東京新聞のこんごの奮起を促したい。

で,ここからは,わたしの意見。原発推進運動とオリンピック促進運動とは表裏の関係にあって,まったく同じ構造をしている。このことについては,すでに,このブログでも書いてきた。オリンピックという平和運動は,原発安全神話と同じで,まったくの「みせかけ」にすぎない。嘘で固めたでっち上げにすぎない。ということが,わたしの理解のなかではっきりした以上,オリンピック・ムーブメントには協力できない。むしろ,反対である。原発推進と同じように。

その根拠については,これから折にふれ,このブログでもできるだけわかりやすく書いていこうと思っている。一点だけ触れておけば,今夏のロンドン大会では,軍隊と警察,合わせて2万人以上を警備に当てると発表されている。それほどに「敵視」されるスポーツの祭典とはなにか,ということだ。ここではこれ以上の話は,ひとまず措くとして,第一次審査を通過した現時点での,わたしの所感を述べておくことにしよう。

もし,オリンピック・ムーブメントが,5大陸(五輪)を結ぶ全世界の民族の祭典を目指すのであるなら,次回は,イスタンブール(トルコ)で決定である。基本的な条件をクリアしているということが第一次審査で明らかになったのだから,2回目開催を目指す東京もマドリードも,辞退すべきだ。それでもなお,第二次審査に向けて運動を展開すると言っている。そんなカネを使わないで,そのつぎに回せばいい。カネの無駄遣いだ。IOC委員がまともな人間で多数を占めていれば,最終選考で東京が選ばれる可能性はない。

たとえば,イスタンブールはすでに5回も連続して手を挙げているのに落選つづきだ。そして,まだ,一度も開催されてはいない。しかも,政府も国民も熱烈にオリンピック開催に情熱を傾けているという(IOC調査)。ここがポイントだ。開催国の国民が熱望していることが,まずは第一優先事項だ。あとは,開催国としての管理・運営能力の問題で,この条件は満たされていればそれでいい,という第二優先事項だ。国民の「熱望」という点で,東京は失格である。オリンピック開催に賛成する都民が50%に満たないのだから。

マドリードも,すでに,3回連続して手を挙げている。しかも,前回は,東京はマドリードに負けている。今回も事情はそれほど変わってはいないので,東京がマドリードに勝てる可能性はほとんどない。しかも,東京は,住民の支持が低いだけではなく,電力供給は大丈夫かとクギまで刺されている。(このクギが問題だ。なぜなら,IOCは原発を再稼働させて電力を供給せよ,と言っているのに等しいからだ。IOC委員会のメンバーというのはそういう人たちの集団なのだということを銘記しておこう。)

表立って議論はされていないようだが,裏では,放射能汚染は大丈夫かと心配するむきは少なくないと聞いている。ヨーロッパ人の多くは放射能汚染に過剰に反応する。それは実際に,チェルノブイリ事故のときにウィーンで直接,経験してわかっている。それはそれは徹底したものだった。このことは,また,いつか書くことにしよう。

まあ,いずれにしても「3・11」を通過したいま,日本からオリンピック招致の手を挙げるのはいかがなものかとわたしは考える。その前に,もっともっと,真剣に取り組まなければならない課題が山積みだ。そこをいかにして通過するか,日本国民に課せられた課題は重く,大きい。これらの問題をいかにしてクリアするか,そのことが先決ではないか。

それを忘れさせるための,つまり,国民の「思考停止」をさらに前進させるための,とんでもない仕掛けがオリンピック招致運動だということを,わたしたちはこころの奥深くに銘記しなくてはならない。

と同時に,オリンピックで金儲けをしようとしている輩がだれであるかも,しっかりと眼を見張っていくことにしよう。

以上が,この時点でのわたしの所感である。
ご意見をお聞かせください。

非生産的な意見でないかぎり,コメントはすべて公開するつもりです。

『かぶく美の世界』(徳川美術館刊)にみる「スポーツ施設」の原風景。

前のブログのつづき。
『SF』誌に投ずる原稿のために,何冊もの『図録』をめくりながら,ようやく今月はこの『かぶく美の世界』から話題を拾うことにした。

主たる資料は「洛中洛外図」。つまり,1600年前後の「面白(おもしろ)の花の都」といわれた京都の遊楽の図がたくさん描きこまれている。この図録のテーマは「かぶく美の世界」なので,当然のことながら「かぶく」遊楽の図が集められている。その中心はもっぱら「舞い踊り」である。

この「舞い踊り」こそが「スポーツ的なるもの」が誕生する源泉の場=祝祭の場でもあったという仮説に立つわたしのスタンスからすれば,「洛中洛外図」はきわめて貴重な資料ということになる。そこに「スポーツ施設の原風景」という補助線を引いてみると,とても面白いことがみえてくる。

ちょうど,この「洛中洛外図」が盛んに描かれるようになった時代,すなわち1600年前後の四条河原の周辺にある変化が生まれてくるのだ。それは,「舞い踊る」のも「かぶく」のも自然のままの「河原」とその周辺が舞台となっているのだが,それらの一部は次第に,小屋掛けをして,それらを見せ物化して,興業化していくという新たな動きをみてとることができるからだ。歌舞伎の元祖とされる出雲阿国の「舞い踊り」はその典型的な例といっていいだろう。そして,次第にその種類も増えていく。つまり,新しい意識をもつプロの芸能者の登場である。

自分たちで「舞い踊る」ことが楽しくて,四条河原の好きな場所で,派手な衣装を身につけて「かぶく」パフォーマンスを勝手にしている,いわゆるアマチュアの「かぶき者」たちのなかから,小屋掛けをした見せ物への道を選ぶ芸能者が生まれる,そのちょうど過渡期の様子が「洛中洛外図」のなかに描かれている。この点に注目すると,この膨大な情報が満載の図像をみる一つの視点が明確になり,新たな発見が可能となる。

たとえば,四条大橋の上で「舞い踊る」人びとの姿である。つまり,四条大橋の上を「舞台」に仕立てて,そこで「舞い踊る」人びとの登場である。おそらく大勢の人びとが河原から,これらの「舞い踊る」人びとのパフォーマンスを楽しんでいたことだろう。が,こちらは小屋掛けと違って「囲い込み」はしていないので,無料である。つまり,興業ではない。それが下の図像である。



こうした「舞い踊る」人びとが,もともとは花見の宴を楽しみながら,野外で即興的に楽しむ人びとの間から現れてきたのは自然な流れでもある。この「舞い踊る」人びとが,次第に場所を移動していくのが,この「洛中洛外図」や「祭礼図」(祇園祭礼,賀茂の競馬,豊国祭礼,など)をみているとわかってくる。たとえば,大きな屋敷の邸内で「舞い踊る」人びとの姿である。三味線や笛,そして鼓を打つ人びとを中心に,派手な衣装で身を固め,輪になって「舞い踊る」人びとである。みんな似たような所作をしているところをみると,単なる「舞い踊り」にも曲目によって一定の「身振り」が共有されていたことが推測される。それが下図である。



こうした「舞い踊り」が遊里で盛んに行われていたことは容易に想像できるだろう。その図像は,この『かぶく美の世界』のなかにふんだんに収録されている。その一つが下図である。




この時代にあっては,「かぶく」人びとが,その時代の遊楽の流行の最先端に立ち,新しい時代を切り拓いていたことがよくわかる。その情況は,いまの若者たちが演ずる「ストリート・パフォーマンス」と少しも変わってはいない。いつの時代にあっても「かぶく」人びとは奇異の眼で眺められる。そして,いつも少数派である。しかし,こういう,いささか胡散臭い人びとが時代の閉塞感を打破する上で重要な役割をはたしてきたこともまた事実である。


※写真が横になったまま。これを立てる方法を次回までにマスターしておきます。今回はこれでお許しを。




2012年5月24日木曜日

雑誌『SF』での連載「絵画にみるスポーツ施設の原風景」の締め切りが近づく。

『SF』なる雑誌に,隔月で「絵画にみるスポーツ施設の原風景」という見出しタイトルで連載を担当している。その必要もあって,「絵画」にはいつもアンテナを張っている。そして,その絵画がスポーツ,あるいは,スポーツ的なるもの,となんらかの関係がないかと眼を見はらせている。存分に楽しみながら。

いま,『SF』と書いてみて,自分でも驚いたのだが,どう考えたって「SF小説」の「SF」を思い浮かべてしまうのが自然だ。しかし,ここでいう『SF』は,それとはまったく関係がない。この雑誌は「スポーツ施設」を扱う専門誌なのである。つまり,Sports Facility の頭文字をとった「SF」だ。

このネーミングについては,わたしも少なからぬご縁がある。ずっと長い間,月刊『体育施設』(体育施設出版)として刊行されてきた。その時代には,わたしは「文学にみるスポーツ」という連載をやらせてもらっていた。わたしの長年の仕事の一つである「文学のなかにスポーツを読む」シリーズは,この連載から生まれた。もう,20年以上もの長いお付き合いである。

そういうご縁もあって,いまの担当編集者の五味亜矢子さんが訪ねてきて,雑誌をおおはばにリニューアルしたいのだが,なにかいいアイディアはないか,という。それで,わたしは迷わず第一声で「体育施設」という名前をやめませんか,「スポーツ施設」の方がはるかに若者受けすると思いますが・・・と提案。五味さんも,わたしもそう思う,と言って帰っていった。

それから数カ月して,月刊『体育施設』が完全にリニューアルされ,なんと月刊『SF』という雑誌になって送られてきた。これには驚いた。もちろん,大きな文字の「SF」のすぐ下に小さく「Sports Facility」と書いてあるので,なるほどとは思う。しかし,それにしても思い切ってそこまでやるか,と感心してしまった。意外に五味亜矢子さんという編集者は大胆な人だなぁ,と感無量。みかけは大人しげな優しい女性なのだが・・・・。

でも,どうなのだろう? 書店のスポーツ雑誌が並んでいる棚に『SF』と書いてあったら,「なんで?」と思うのが普通ではないだろうか。そして,よほどの「SF」ファンでないかぎり,スポーツ・コーナーに置いてある雑誌『SF』に手を伸ばすこともないのでは・・・,などと想像している。むしろ,素直に『スポーツ施設』と背に書いてあれば,ちょっと手を出してめくってみるということも,わたしならするだろうなぁ,と思ったりしている。

もっとも,この雑誌はもともと各県の教育委員会や公立の体育施設(スポーツ施設)関係者に向けて発行されているものなので,すでに一定の読者を確保している。最初にこの雑誌を立ち上げたころには,「体育施設」がもっともとおりがよかったはずである。たぶん,県議会や市議会の予算申請などの用語としても「体育施設」が公用語として通用していた,という背景もある。

が,もうすでに,かなり長い期間がすぎているので,行政用語としても「体育施設」よりは「スポーツ施設」の方がとおりがいいはず。しかし,この雑誌に関していえば,いまではすっかり『SF』で定着しているようだ。

A4サイズの,オールからーで,上質紙を用いたとても贅沢な雑誌である。文字どおり,スポーツ施設に関する時代の最先端の情報が満載である。だから,めくっているだけでも楽しい。それにしても,スポーツ施設というものは,この20年ほどの間にどれほど様変わりしたことだろう。この雑誌のバックナンパーをめくりながら,そこに掲載されている写真をみるだけで,その進化の様子が手にとるようにわかる。スポーツ施設に関するテクノロジーはどこまでいくのだろうか,と心配になるほどだ。そんなことを感じながら雑誌をめくるだけでも,この雑誌は面白い。

が,こんな雑誌に,わたしは「文学にみるスポーツ」を20年以上も連載し,そして,いま,また「絵画にみるスポーツ施設の原風景」を連載している。ありがたいことである。お蔭で,絵画の方のアンテナもずいぶん高くなってきた。面白そうな美術展があると,必ず足を運び,堪能した上で『図録』(カタログ)を買って帰ることにしている。そうした『図録』だけで,いまでは,相当の部数になっている。それは驚くほどだ。

ちょっとした空き時間に,これらの『図録』を眺めるのは,とても楽しいし,気分転換にもなる。しかも,大いに勇気づけられる。なぜなら,一つひとつの作品に力があるから。そして,それぞれのアーティストの生きざまが迫力満点だから。

その「絵画にみるスポーツ施設の原風景」の原稿の締め切りが今月末である。そろそろ気がかりになってきたので,今日も何冊かの『図録』をめくっていた。いつものことだが,そのつど,大いなる発見があって楽しい。

その話を,このつづきとして書いてみたいとおもう。
今日は,とりあえず,ここまで。

『スポートロジイ』創刊号の表紙「刷り出し」がとどく。

表紙の「刷り出し」
『スポートロジイ』の表紙の「刷り出し」がとどきました。
こんどの25日(金)には見本誌がとどくそうです。
出来上がりが,いまから楽しみ。

この見本誌をもって,26日(土)の午後から開催される「ISC・21」5月犬山例会にでかけるつもりです。参加されるみなさんに見ていただこうと思っています。この例会に参加されるみなさん,楽しみにしていてください。

図像が,やや暗くなってしまいましたが,理由があります。
じっさいの「刷り出し」はもっと透明感があって,すっきりした刷り上がりになっています。
この「刷り出し」は,PDFで送られてきたために,このブログに取り込もうとしたときに,どうしても「画像」として認識してくれず,直接,転載することはできませんでした。そのため,苦肉の策として,パソコン画面上の「刷り出し」を写真に撮って,それをここにアップしました。

もっと上手な撮影の仕方があるのだと思いますが,残念ながらわたしの技術としては,これが限度。また,実物がとどきましたら,きれいな写真にして,再度,紹介させていただきます。今回は,とりあえず,こんなイメージの表紙になります,というご紹介まで。

表紙のイメージは,わたしからみやび出版の伊藤さんに伝え,それをキャデックの井上さんがかたちにしてくださったものです。何回かのやりとりを経て,ほぼ,わたしのイメージをそのまま表現していただきました。

じつは,ここまでうまく表現してもらえるとは思っていませんでした。ですから,わたしとしては大満足。でも,イラストレーターの井上さんは,わたしの注文を聞いて,たいへんご苦労をされたそうです。それはそうでしょう。わたしが出した注文は,「水の中に水がある」「9」「舞い踊る」「宇宙」というようなキー・ワードだけ。こんな注文は聞いたことがない,というのが井上さんの正直な感想ではないかと思います。できることなら,一度,お会いしてお詫びをした上で,感想などお聞きしたいと思っています。

これは偶然だと思うのですが,飛び散った「水」が「舞い踊る」姿にみえるのは,たぶん,井上さんの工夫によるものだと信じていますが,その「水」が「無頭」です。この「無頭人」(アセファル)のイメージこそ,バタイユの思想の根幹をなすものだとわたしは考えています(詳しくは,『無頭人(アセファル)』(ジョルジュ・バタイユ他著,兼子正勝,中沢信一,鈴木創士訳,現代思潮新社,1999年。ついでに,宇佐美圭司の絵も想起しておこう)。ですから,わたしは思わず唸ってしまいました。しかも,その頭に相当する位置に「九つ」の惑星が飛び散っています。この「九つ」がなにを隠喩しているかは,しばらく内緒にしておきたいと思います。加えて,そこに「宇宙」のひろがりを感じ取ることができます。

と,ここまで書いてきますと,この写真がきれいでないのが残念。実物はとても美しいのです。あとで,きちんとした写真を追加したいと思います。

この本が今月末には書店に並ぶそうです。
定価は2,520円(税込)です。

書店でみかけたら,ぜひ,手にとってご覧ください。
意外な内容でびっくりされると思います。尋常一様ではありません。予告しておきます。
特集・スポーツ学事始め。
いよいよスタートです。
よろしくお願いいたします。

取り急ぎ,表紙「刷り出し」のご紹介まで。

2012年5月21日月曜日

北茨城の震災被害の大きさに驚く。それでも海岸近くに住みつづける人間の意思をおもう。

北茨城ということばは,地震が多発する地域として全国的に知られるようになったが,大震災のときも大きな被害を被っていたことは意外に知られていないとおもう。なにを隠そう,このわたしもそのひとりだ。

19日(土),高萩市の知人は五浦の六角堂(岡倉天心)が津波で流されてしまったが,ようやく再現されたからといって,案内してくれた。そこでの感慨もさることながら,わたしには,その途中の光景が忘れられない。

五浦といえば,すぐとなりは福島県。茨城県の北部は,山が海岸まで迫っていて,平地はほんのわずかしかない。そのわずかな平地に人びとは家を建てて暮らしている。海岸から砂浜があり,防波堤のすぐそばに民家があり,国道が走り,常磐線が山側を走っている。だから,大きな都市はないが,小さな町は点々としてつながっている。そのあたりは,津波が常磐線を越えて,山側まで迫ったという。ということは,このあたりの家は全部,津波に襲われたということだ。

その地域の国道を走っていると,ほとんどの家の屋根がピカピカ光っている。そういう家のほとんどは津波に流されたあとに新築した家だという。そうでなければ,たまたま残ったけれども,屋根は地震で壊れてしまったので,それを修復したのだという。それでもまだ修復できないで,順番を待っている家の屋根はブルー・シートが被っている。そういう光景がつづく。

少し込み入った街中に入ると,歯が抜けたような空き地が点々とある。よくみるとその空き地には家の土台(礎石)が残っている。その周囲に建っている家は,ほとんど新築である。そして,鉄筋コンクリートでできた家だけは津波に流されないで残っている。ということは,木造の家は全部,津波に流されたということだ。つまり,この地域も津波で全滅状態になったのだ。しかし,名の知れた都市でも町でもないので,マスメディアはみてみぬふりをしたのだ。だから,わたしたちは,こういう地域の惨状を知らないでいた。

テレビで流れた津波の,あの光景は,この地域にも間違いなく襲っていたのだ。

そして,考えた。

東北地方の大きな漁港などは,再度の被災を避けて高台に移住すべきだという意見が強い。そして,政府も県も加わって,住民の意志を確認することもなく,高台移住を前提とした補助金の分配が,復興の大きなネックになっていると聞いている。しかし,その対象になっていないこの地域では,おそらく自費で家を再建しているという。しかも,自分の意志で,もともとの土地に。そうでない人は,どこかに転居したという。

津波に流されるようなところに住んではいけない,という権利はだれにあるのだろうか。テレビにも放映された東北の漁港の漁師のひとりは,滅多にやってこない津波のために高台に移住する意志なんかない,と語っていた。そして,津波がきたときはきたときで覚悟している。だから,もとどおりの土地に家を建てて住みたい。そして,これまでどおり漁師をしていきたい,と。なぜ,それができないのか,と。

東北地方には,これまで何回も大きな地震があり,そのつど大きな津波が押し寄せて,被害にあっていることは,その地域の住民はみんて知っている。にもかかわらず,先祖代々そこに住みつづける。そのことの意味は,東京の都会に住む高級官僚や政治家や財界の人間たちには理解できないだろう。

住めば都という。どんな僻地や危険をともなうような土地であっても,住めば都なのである。他人がとやかくいうべき筋合いのものではない。いやな人はさっさと引っ越している。しかし,その土地に愛着を感ずる人にとっては,ほかのどの土地よりも住み心地がいいのだ。

この北茨城の海岸地域に住む人たちにとっても,大きな津波が来ないかぎり,住み慣れたいいところなのである。だから,また,津波が襲ってくるかもしれないけれども,おそらくそれはずっとさきのことに違いない,とみずからを納得させているのだろう。

それでいいのだろう,とわたしはおもう。おそらく,わたしがその立場にあったとしたら,やはり,同じように先祖代々の土地に家を再建して住む道を選んだだろう。

復興とはなにか。まず,なによりも地域住民の意志を確認することが先決ではないのか。それを行政指導が優先されるようなことになると,とんでもない「復興」がはじまりかねない。つまり,『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン著)で明らかにされたような,「惨事便乗型資本主義」が「復興」の名のもとに乗っ取りかねないからだ。

が,すでに,その路線を選んだのは宮城県知事だ。それに抵抗しているのが岩手県知事だ。この明暗を分けた知事の考えは,やがて,結果がでてくる。どちらが地域住民にとって満足のいく「復興」になるかは,火を見るよりも明らかだ。

こんなことを考えながら,五浦の六角堂の,ここまで津波がやってきたという標識を眺めていた。ここの「復興」は茨城大学が支援しているという。そして,その日も,沖合の磯の上に石灯籠を再建する作業を行っていた。やはり,ここでも,同じような津波がやってくれば,また,元の木阿弥となることを承知で,この作業に取り組んでいる。それでいいのだ,としみじみ思いながら,その作業に眼をこらす。

人間はこんなことをくり返しながら生きてきたのだ。改められるものは改めなくてはならないが,そうでないものは,そのままにしておくしかないのだろう。それは「合理主義」の<外>にあるものなのだから。

こんな文章を書きながら,わたしの脳裏にはジョルジュ・バタイユの『呪われた部分 有用性の限界』(中山元訳,ちくま学芸文庫)がちらついている。そして,もう一度,読み直そうとおもっている。

いま,わたしたちに必要なのは,こういう根源的な問い直しではないか,と。

そして,スポーツ文化論やスポーツ史研究もまた,このような根源的な問い直しが迫られている,とわたしは考えている。まもなく世にでる『スポートロジイ』(みやび出版,今月末刊行)は,こういう深い反省に立つ企画である。ご批判をいただければ幸いである。

今回の北茨城への旅は,なにかと収穫が多く,また,新たな出発ができそうだ。
高萩市の知人に感謝したい。

津波の被害がほとんどなかった鵜の岬(北茨城)周辺の海岸。

鵜の岬の国民宿舎の北側に隣接して海水浴場がある。高台にある国民宿舎から北を眺めると,右手(東側)に海,左手(西側)に長い砂浜,さらに左手にさほど高くもない堤防があって,その堤防に隣接して防砂林の松林が帯状に北に伸びている。その防砂林のすぐ西側には一般の民家がある。この地帯一帯はほとんど津波の被害はなかったという。

国民宿舎はやや高台に建っているが,海岸に隣接している。つまり,海岸の絶壁の崖の上に建っている。が,一部は海岸に降りて行かれるようにコンクリートの階段が入江の砂浜につながっている。この地帯一帯は,天然の鵜の棲息地で,たくさんの鵜が海面に浮かんでいる。その砂浜に降りていくコンクリートの階段のところに「津波到達点」という標識が立っている。目測では海面から5mくらいのところだ。

つまり,この鵜の岬と,それに隣接する海水浴場のある砂浜のあたりにやってきた津波は5m前後だった,というのだ。だから,このあたりはほとんど津波による被害はなかったという。

しかし,この鵜の岬の南側と少し離れた北側の海岸は大きな津波に襲われて,たいへんな被害を受けたという。なぜ,こんなことが起きたのか,国民宿舎の従業員で津波情報に詳しい人に聞いてみた。すると,つぎのような説明がかえってきた。

鵜の岬の海岸から東の沖合に向けて岩礁が10キロメートルほどさきまで伸びている。だから,魚もたくさんいるし,鵜の棲息地としてはまことに適している。この沖合まで伸びている岩礁が津波の侵入を防いだ,というのである。

もう少し精確に言えば,沖合から押し寄せてきた巨大な津波は,この岩礁に抵抗されて二つに分断され,北と南に分かれて海岸に押し寄せてきた。だから,鵜の岬の南側も北側も大きな被害を受けたが,鵜の岬に達した津波は南北に分散した残りの,力の弱いものだった,というのである。「地の利」ということばを思い出していた。

なるほど,こういうことなのか,と納得。
自然というものは,まことに正直なものだ。だから,むかしから津波の被害はほとんどなかった地帯だったと言い伝えられている,という。やはり,民間伝承にはそれなりの意味があるのだ。それを科学的根拠がないという理由で否定してきた「近代」という時代の,理性中心主義,つまり,科学中心主義の方に,むしろ落とし穴があったというべきだろう。自然現象のスケールの大きさに比べたら,科学が明らかにした事実などは微々たるものにすぎない。にもかかわらず,その「科学」に全面的な「信」をおき,そこにもたれかかった「近代」の奢れる「理性」,狂った「理性」こそが,いま問われている。

原発推進もまったく同じ路線を突っ走った結果である。

自然の猛威をあなどってはならない。つまり,自然は「神の領域」だ。その神の領域に人間が踏み込み,自然には存在しない元素に手を出してしまった。その結果がフクシマだ。

そんなことを考えながら,高台の上の9階にある大浴場から海を眺めていた。そんなときに,きちんと地震がやってきた。震度3。現地に身を置いて考えること。その重要性をからだで確認した旅だった。

2012年5月20日日曜日

苦節20年,37歳8カ月の平幕力士旭天鵬の優勝,おめでとう!

17歳で旭鷲山と一緒に大島部屋に入門して,苦節20年。こんにちのモンゴル力士たちの活躍の道を開いたパイオニア。片方は,ワザのデパート旭鷲山ともてはやされたが,旭天鵬はその陰に隠れた存在だった。しかし,力士としての才能は旭天鵬の方が上だとわたしは期待していた。が,なかなか芽が出なかった。が,ようやく日の目をみることになった。一方,旭鷲山は早々に引退してモンゴルに帰国。そして,いまや国会議員として活躍。

今日の優勝の陰には,白鵬の存在が大きかった,とわたしはみている。白鵬は27歳。もはや押しも押されもしない大横綱である。しかし,その白鵬は,10歳も年上の大先輩に支えられてこんにちがある。同門のよしみもあって,大島部屋へはいつも出稽古にでかけ,新弟子時代には旭天鵬に稽古をつけてもらった。白鵬のいる宮城野部屋は小部屋で,強い力士がいない。だから,いつもあちこちに出稽古にいかねばならなかった。なかでも,モンゴル出身力士の多い大島部屋は,もっとも居心地のいい稽古場だった。

だから,旭天鵬は,白鵬にとっては文字通りの兄弟子のような存在だった。その大島部屋が,大島親方(もと旭国)の定年とともに部屋を閉じることになっていた。だから,白鵬は根回しをして,大島部屋の力士たちを宮城野部屋に引き取ってもらって,部屋が大きくなることを期待していた。そうすることが宮城野親方(もと竹葉山)にも喜んでもらえるものと確信していた。それがせめてもの恩返しになる,と。ところが,宮城野親方はなにを考えたのか,その提案を断ってしまった。なぜだ,と怒ったのは白鵬だ。

ここで,角界も羨むほどの仲良しだった親方と白鵬の関係が,真っ正面からぶつかることになった。それが,今場所の直前の話である。白鵬は親方と口も聞かない関係となった。朝青龍のときと同じだ。以来,いろいろの人が間に入って,一応,和解したことになっている。しかし,白鵬は場所直前の一門の連合稽古を親方に無断でさぼって大島部屋に出稽古にでかけた。親方はこちらにくるものと思っていた,という談話を明らかにしている。ということは,親方が直接,白鵬に声をかけなかったということを意味している。白鵬は「強い力士は連合稽古には来ないと思っていた」といいわけをしている。

その状態は,いまもつづいている。白鵬が,今場所,前半で大きく躓いた理由はここにある,とわたしは受け止めている(このことはすでにブログで書いたとおり)。後半に入って大関5人を倒し,横綱として一応の面目を保った。が,千秋楽は日馬富士に送り出された。みごとな八百長相撲だった。断っておくが,金銭の授受のない,人情相撲である。これが大相撲千秋楽の典型的な相撲である,という見本のようなものだった。素人にも玄人にも,十分見応えのある相撲で華を添えた。

こんな状態の5月場所に,よりによって旭天鵬が優勝したのである。しかも,その優勝パレードに白鵬がみずから名乗りをあげて旗手をつとめた。その車の助手席には大島親方が笑顔で乗っている。さあ,この光景を宮城野親方はどう受け止めたことだろう。この場所後の宮城野部屋がどうなるのか,わたしは心配である。白鵬は覚悟の行動である。しかも,これは美談として情報が流れている。しかし,一方では苦々しくこの情景を眺めている日本人も少なくないだろう。

すでに,ネット上を流れているように,今場所の白鵬は「謙虚さ」を欠いていた,と相撲関係者はみている。このままでは朝青龍と同じだ,とも言っている。こうして,すでに,白鵬バッシングがはじまっている。だから,わたしはあえてこの段階で言っておきたい。

朝青龍のときもそうだが,親方が指導者としての適性を欠いていることが,そもそもの原因なのに,そのことは隠蔽したまま,モンゴル出身力士だけが槍玉にあげられる。それは本末転倒ではないか。朝青龍の親方は元大関の朝潮だ。白鵬の親方は元平幕の竹葉山だ。弟子が親方の地位を越えていくと,その指導はなかなかむつかしいらしい。あの若・貴の両横綱を育てた実父である親方ですら,元大関だったわたしが横綱に指導すべきことは,もはや,なにもない,と言ったことがある。それほどに相撲界の地位は別格なのだ。そのことをジャーナリストは百も承知なのに,そのことは触れないで,親方の言うことを聞かない(じっさいには,会話が成立していない,いや,親方が無視している)という理由で,モンゴル出身力士たちを叩く。

このゼノフォビアが,大相撲の世界では当たり前のようにして,吹きまくっている。情けない,とわたしは思う。そして,なにかといえばモンゴル出身力士といって差別する。が,白鵬も旭天鵬も日本国籍を取得した立派な「日本人」なのだ。大相撲を取材するジャーナリストならみんな知っている事実だ。にもかかわらず,この事実は,あまり公にはされていない。

その証拠に,両国国技館から,日本人優勝者の額が消えて久しい,と新聞は書き立てる。これは事実に反する。日本生まれの,日本出身力士の優勝額が消えて久しい,と書くべきだ。しかし,そうは書かない。

この5月場所から夏場所の間に,またまた,大相撲は一波瀾あるのではないか,とわたしは危惧している。いずれは引退して,独立した部屋をもつことになるだろう白鵬がどのような行動をとるのか,まだまだ眼が離せない。

しかし,これもまた「大相撲」なのだ。むかしから,じつは,大相撲の世界はもめごとだらけなのだ。そのもめごとも含めて,相撲という「芸」を楽しめばいい,とわたしは考えている。少なくとも,どこぞの新聞記者のように大相撲を近代スポーツ競技と混同してはならない。大相撲の世界は歌舞伎界と同じようにみるべきだ。いやいや,歌舞伎界の方が「優勝劣敗主義」が明確でないことからも明らかなように,はるかに複雑怪奇だ。しかし,興業として「芸」を売っているわけだから,このことだけは忘れてはいない。ここがポイントだ。

大相撲もそれでいいのだ,とわたしは思っている。人気がなくなれば消えていくだけの話。だから,それほど日本人横綱が欲しければ作ればいい。免許を与えればいいのだから。あとは贔屓筋が判断することだ。

これで,ますます,大相撲が面白くなってきた。これまで伏せられてきた角界の裏側が露呈してくる。それも,モンゴル出身力士という存在のお蔭で。

そういうことも含めて,昭和に入ってからの最年長者優勝という名誉を得た旭天鵬関,おめでとう!こころからお慶びを申しあげます。これで自信をえた旭天鵬の来場所での活躍を期待したいと思います。

〔お詫びと訂正〕
このところ記憶だけで書いてしまって,あとで間違いであることに気づくことが多い。
白鵬はまだ日本国籍を取得していない。将来的に日本国籍を取得して,親方になる希望をもっている,という談話を読んだことがあり,それでもう,すっかり日本国籍を取得しているものだと思い込んでいた。したがって,上記の文章のうち,多くの修正が必要である。が,このときの気分の高揚はそのままにしておきたいので,このままとする。
正しくは,旭天鵬の優勝によって,6年ぶりの日本人力士の優勝が実現した,と書くべきところ。
お詫びして訂正します。

日本一の国民宿舎・鵜の岬(茨城県)を拠点に北茨城の被災地を旅する。

宿泊の利用率が99%を越えるといわれている日本一の国民宿舎・鵜の岬を苦労して確保してもらって,2泊3日で,北茨城を旅してきました。北茨城といえば,おなじみの地震多発地域です。わたしが滞在していたときも,地震がありました(18日の夕刻)。

ちょうど,お風呂に入っていて(9階にある大浴場は見晴らしがよくて最高),いい気分でいました。が,周囲の人はだれも気づいていません。はじめに「ドンドン」と下から突き上げられるような感じだったものが,やがて,ゆらゆらと揺れはじめました。が,そんなに大きな揺れではなかったせいか,だれも気づいてはいないようでした。だから,わたしも黙っていました。が,あとで考えてみれば,みんな見知らぬ人ばかり。気づいていてもこの程度なら大丈夫と判断し,黙っていたのかもしれません。

まあ,そんな具合で,早速,鵜の岬の大浴場で地震の歓迎を受けました。

その翌日,高萩市に住む知人の家を訪ねて,「3・11」の地震体験とその後の様子について詳しくお話をうかがうことができました。やはり,被災者の生の声は迫力があって,報道されている情報とは異質のものでした。

知人の家は,地元の名家で,古いけれどもとてもがっしりした造りの家でした(若い学生時代から通っていますので,熟知していました)。10畳ほどの部屋が四つ,田の字型の構造になっていて,その周囲を廊下で囲むようにできていました。ですから,柱は田の字の線の交差するところの9本が立っていて,その周囲を囲む廊下のところにやはり9本,使われていました。ですから,普通であれば,9本の柱で済むところが,その倍の18本の柱が用いられていました。

それでも揺れが激しくて,ガラス戸のガラスは全部割れてしまい,障子紙も全部,ひとます毎に,みごとに破れて変形し,床の間の土壁も,部屋を仕切ってある土壁も,土は全部剥落して骨になっている竹の井桁だけになってしまった,とのことです。そして,家が少しだけ傾いただけで,屋根の瓦は一枚も落ちることなく,もとのままだったといいます。

で,言われてみて,外にまわって屋根を見上げてみましたら,まったく普通の家の屋根ではないことがわかりました。太い柱と屋根を支えている横木(これもじつに太い)が交叉する部分は,しっかりとかみ合わせてあって釘は使われていません。まるで奈良の古い寺の建築と同じ建て方がしてあります。この家は,明らかに宮大工の仕事だということもわかりました。その上に乗っている屋根もどっしりしていて,瓦も一枚ずつ固定してあって,じつに手の込んだ建築だと,修復に当たった大工さんたちが語っていたということでした。

ですから,障子も襖もガラス戸も,そして壁もボロボロになってしまったけれども,屋根はどこも壊れていなくて,家全体がやや傾いただけだった,とのことでした。

で,この家を取り壊して立て替えるか,この家をそのまま修復させるか,ずいぶんと迷ったそうです。新築にしてしまった方が住みやすいからそうした方がいいという意見の人と,この家は素晴らしい建築なのだからこのまま残して修復した方がいいという意見の人とに分かれたとのこと。いろいろと考え,迷いに迷ったあげく,先祖代々,住んできた家は残したいという気持ちの方が強かったので,修復することにしたそうです。いまは,もう8割方修復が終わっていました。

さらに,びっくりしたのは,屋敷の中にある二階建ての物置です。長年,雨風に打たれて建物の外側の木材はボロボロです。が,びくともしなかったそうです。もちろん,屋根もそのまま。よくみると,校倉造りになっているではありませんか。全部,横木をかみ合わせて,二階部分まで積み上げてあります。奈良の正倉院を思い出しながら,やはり,むかしながらの名建築といわれてきたものは凄いものだ,と感心してしまいました。

周囲の家を見回してみますと,新築の家が多く,それらは全部,新しく建て直したものだそうです。中には,屋根だけ葺き替えた家もあるようです。そして,まだまだ,修理の手が廻らない(人手不足の)ため,ブルーシートで被せてあるだけの家もたくさんありました。

そのようにして眺めてみますと,地震直後の被害の大きさというものが,次第に浮かび上がってきます。

これに加えて海岸沿いの津波による被害が,いまも,そのみじめな姿を残していました。が,この話は,つぎにしたいと思います。

今夜(20日深夜),ETV特集・テレビが見つめた沖縄(西谷修・知花くらら)が,再放映されます。

このブログでも,すでに紹介しましたように(5月14日),このETV特集は必見です。そのETV特集が,今夜(20日深夜)に再放映されます。見逃された方はぜひご覧ください。

西谷修さんのナレーションが,沖縄問題の闇の部分を,抑制の効いた,落ち着いた声で解きほぐしながら,次第に明らかにしてくれます。ナビゲーターをつとめた知花くららさんとの呼吸もぴったり合っていて,重いテーマにもかかわらず,さらりと沖縄問題の深部に分け入っていきます。深夜の再放映ですが,ぜひ,ご覧ください。

「復帰40年」とはいえ,喜ばしきことはなにもなく,事態はますます悪い方向へ進展していることも明らかになってきました。そこに見切りをつけた若者たちの新しい感性のうちに,ウチナンチューとしての,新たなスタートにほのかな希望を見出すところで,この番組を終っています。

どういうことかと言いますと,あの忌まわしい沖縄戦で,多くの肉親や隣人・友人を死に追いやられたウチナンチューは,敗戦後も米軍の統治下におかれ,米軍基地に多くの土地を奪われ,厳しい生活強いられてきました。ですから,なんとかして米軍の統治下から抜け出し,平和憲法で守られた本土に「復帰」したい一心で,それを願い,それを達成しました。しかし,その期待の本土は,米軍に代わってウチナンチューに救いの手をさしのべるどころか,「日米」が一体となって,これまでと同じ統治を継続することになってしまいました。ですから,ウチナンチューにとっての「復帰40」年は,いよいよ,日本政府に見切りをつけて,まったく新たなスタートを切る,そういう決断の年にもなりそうだ,というわけです。

今日(20日)の東京新聞の「筆洗」につぎのような詩が掲載されていましたので,それ以外の新聞購読者のために紹介しておきます。

吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み 平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ

祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された

この詩文を刻んだ碑は,沖縄本島最北端の辺戸岬に立っているそうです。しかも,「復帰」から4年後に建てられたといいます。ウチナンチューの憧れた「平和憲法」の下に守られるはずだったのに,現実はなにも変わらなかった,それどころか「軍事強化に逆用された」というのです。そのなんとも許しがたい憤りが,「直に」伝わってきます。そして,それは,いまも,なにも変わってはいないのです。

こんな詩文を読むと,それらしき努力をなにもしてこなかった自分が恥ずかしくなってきます。それは,原発推進に対して,ほとんど「なにも知らない」まま,なにもしてこなかったことと二重写しになって,わたしの脳裏を駆け巡ります。「知らなかった」はたんなる「無知」ではありません。それは「無視」であり,「抑圧」であり,「排除」なのだ,ということを奈良教育大学に勤務していたころに「同和」の問題に触れたときに教えられました。

残念ながら,わたしたちは,沖縄について,ほとんど「知らない」状態にあります。それが,米軍基地から沖縄がいまもなお解放されないままに「捨て置かれて」いる,最大の原因です。もう,これ以上,沖縄に米軍基地を据え置くことは許されません。

そういう沖縄問題を考えるための根源てきな疑問を,イデオロギーを超えた,一般市民の目線から,もう一度,振り返ってみようというETV特集です。ぜひ,ご覧ください。

〔お詫びと訂正〕
わたしの勘違いで,この再放映は,5月20日0時30分から。つまり,5月19日(土)の深夜,20日(日)の早朝ということでした。精確な日時を確認しないで,記憶だけで書いてしまいました。こころからお詫びして訂正させていただきます。
読者からのメールで知り,びっくり仰天です。ご指摘くださったSさん,ありがとうございました。

2012年5月17日木曜日

「猫騒動」も一件落着。それにしても報道の無責任ぶりに腹が立つ。

タレントの猫ひろしさん。本名・滝崎邦明さん。34歳。
報道は,お笑い芸人の猫ひろしとして,上から目線の,しかも「いじり」の入ったものが多かった。だから,読んでいて不快なものが多かった。

たしかに,マラソンを走る前もあとも,テレビ・カメラが回ると,わざわざ「ニャー」と鳴いてみせた。お笑いタレントとしてのサービスだ。あるいは,売り込みでもある。が,フル・マラソンを走るということは,単に「ニャー」と鳴くだけの才能では不可能なことは,だれも知っている。しかし,報道は冷たく「上から目線」でいじりまくった。

フル・マラソンを走る力をわがものとするために,滝崎邦明さんは,これまで,どれだけの努力を積み重ねてきたことか。そして,なにがなんでもオリンピックで走りたい,という子どものころからの夢の実現に向けて全力を傾けてきた。そして,職業としてお笑いタレントの道を歩みはじめたが,もう一人の滝崎邦明さんはいつもまでもマラソンに夢を託してきた。

いろいろとルール上の問題がないとは言わないが,とにもかくにも,カンボジア国籍を取得して,代表選手選抜のレースを走り,カンボジア陸上競技連盟は,カンボジア代表のマラソン・ランナーとして滝崎邦明さんを内定した。この間のことが,なにかと取り沙汰されたが,きちんとした取材にもとづく根拠のある報道は,ほんとうに少なかった。が,圧倒的な情報量によって多くの日本人は「洗脳」されてしまって,「猫ひろし」はなにをやってんだ,というバッシングに流されてしまった。悪しきポビュリズムを煽ったのは,レベルの低い報道各社だ(いまの日本人の多くは,すべて,この構造によっていいように振り回されている。困ったものだ)。

根がまじめな滝崎邦明さんは,夢の実現のために可能なことはすべてチャレンジしてきた。そうした努力の結果として,ようやくカンボジア代表の切符を手に入れることができた。滝崎さんとしては,それだけが真実。

そこに割って入ってきたのは,国際陸上競技連盟だ。最後は,「ルール」の解釈の問題となった。ここは,滝崎さんはスポーツマンらしく,残念だが,仕方がない,と割り切った。川内選手のときのような「爽やかさ」が印象に残った。これでいいのだ。立派なものだ。

「毎日30~35キロのトレーニングを積んでいたので悔しい。本当に残念に思っています」と神妙な表情で話し,今後の活動については「マラソンを中心としたカンボジアのスポーツの発展に貢献したい」と意気込みを語った,と5月13日の東京新聞の「脱衣室」のコラムで写真入りで紹介されている。スーツ姿の滝崎さんがマイクを前にした,素の顔がアップになっている。いつもの「猫」さんではなく,まじめな青年の顔になっている。

馬鹿げた報道の「猫騒動」も一件落着。
今回,繰り広げられた,これみよがしのいい加減な報道だけは,止めてほしい。
国民を愚民化するだけのことでしかない。
なんでもかんでも面白おかしくすればいいという問題ではない。
そこには限度がある。

もどってきた横綱白鵬の相撲。あとは6大関総なめにして意地をみせよ。

横綱白鵬の相撲がもどってきた。もう,大丈夫だろう。あとは,6大関を総なめにして横綱としての意地をみせるだけだ。居直ってしまえば,こころの迷いは消える。こころの迷いがなくなれば,鍛え上げたからだは自然に動きはじめる。

初日,安美錦に不覚をとったのが,そもそものはじまりだ。日頃から大の仲良しで,横綱土俵入の太刀持ちまでつとめる安美錦とは星勘定でも圧倒していたので,よもや負けるとは思っていなかったであろう。しかし,なんといったって安美錦は相撲巧者だ。一瞬のスキをついてワザを繰り出す。その相撲勘は素晴らしいものがある。だから,あの上位をキープすることができるのだ。もちろん,白鵬だって百も承知。なのに,足が動かなかった。相撲でいうところの「足が止まった」瞬間,そこに一瞬の「間」が空く。そして,つぎに動く瞬間をたぐられてしまった。体が離れていたからだ。

この調整がうまくできないまま,尾を引いてしまった。だから,やはり,いずれも相撲巧者にやられた。こういうこともある。魔がさすのだ。がっぷり組んで十分の横綱なのだから,体をしっかりと寄せて,前に圧力をかけながら攻めていれば,あの逆襲(たとえば,首投げ)は食わなくてすむ。

本来なら,親方が問題点を指摘して,早めに調整に入ったはずだ。が,今場所はそうはいかない。仲直りをしたとはいうものの,それは外部に向けてのもの。白鵬の内心はまだまだ穏やかではないはず。そんな状態では相撲はとれない。格下の力士のつけ入るスキはそこしかない。そして,それがもののみごとに決まってしまった。白鵬もわけがわからない状態だったのではないか。

しかし,四つも負けたら,眼が覚めるだろう。横綱になってから初めてのことだ。優勝の二文字も消えた。もう,失うものはない。そこで,ようやく腹が坐った。ふっきれたように前に圧力をかける相撲がもどってきた。あとはもう心配ないだろう。こうなったら,6大関を総なめにして,横綱としての意地をみせるしかない。

今場所の山場のひとつは,稀勢の里と琴奨菊との一戦だった。どちらも1敗。ここを制した方が優勝する,とわたしは予想していた。今場所の勢い的には琴奨菊だとわたしはみていた。しかし,蓋を開けてみたら,稀勢の里に余力があった。つねに攻め込まれていたが冷静だった。だから,稀勢の里に危ない場面は一度もなく,余裕すら感じた。そして,最後は力つきた琴奨菊が,転がされた。まるで,稽古場の土俵のように。

ここで勢いづいたのは,もちろん,稀勢の里。負け相撲まで拾って,勝ち星につなげた(鶴竜戦の取り直し相撲)。運も味方のうち。こうなると,力士は元気がでてくる。久しぶりに日本人力士による優勝の目がでてきた。白鵬が,かりに土をつけたとしても,2敗で逃げ切ることができる。が,こういうときには,稀勢の里が白鵬を圧倒するかもしれない。そういう相撲が過去には何番かあった。いまの調子で,どっしりとした相撲をとりつづけていけば,優勝の二文字もみえてくる。

いよいよ終盤を迎えて,大相撲が面白くなってきた。
白鵬が6大関総なめにして意地をみせるか。そうはさせじと稀勢の里が,その壁をぶち破って,14勝1敗で待望の優勝を勝ち取るか。

国技館に日本人力士の優勝額が消えて久しい。そろそろひとりくらい割り込んでいかないと,相撲ファンが逃げていく。その意味でも,今場所は久しぶりに湧いている。このままだと,稀勢の里・白鵬戦は千秋楽になるだろうか。できることなら,この目で確かめておきたい。

これからの4日間。大相撲から目が離せない。
どういう星のつぶし合いがはじまるのだろうか。

2012年5月16日水曜日

21世紀スポーツ文化研究所編『スポートロジイ』の広告が「5月15日」の東京新聞にでました。

5月15日(火)の東京新聞朝刊一面下に,『スポートロジイ』(21世紀スポーツ文化研究所編)の広告がでました。みやび出版のほかの刊行物と一緒に,掲載されました。この『スポートロジイ』の刊行をとおして,新しい「スポーツ学」への道を切り開こうという強い思い入れを籠めたものであるだけに,感慨無量です。すでに,このブログでも何回かにわたって紹介してきていますので,詳しいことはそちらをご覧ください。

5月15日といえば,沖縄「復帰」40年の記念すべき日。この日,沖縄ではさまざまなイベントが各地で開催されました。が,雨でした。沖縄が本土に「復帰」して40年が経過したにもかかわらず,米軍基地をめぐる事態の本質はなにも変わりませんでした。ですから,この雨は沖縄県民にとっては哀しみの涙以外のなにものでもない,と受け止めた人が多かったに違いないと思います。

40年前,「復帰」を前にして,沖縄では賛否両論が激しく対立していたことは,みなさんもよくご存知のとおりです。そのドキュメンタリーもたくさん記録されています。1951年9月8日に締結されたサンフランシスコ条約(1952年4月28日発効)によって,日本の主権・平等は承認されましたが,外国軍隊の日本駐留継続を認めなければならなくなりました。その結果として,在日米軍基地の約75%が,日本の国土のわずか0.6%しかない沖縄に集中して置かれることになりました。それから20年,沖縄は在沖縄米軍司令官が兼務する高等弁務官と米民政府による統治がはじまりました。

その間,さまざまなできごとがありました。が,最終的には,米軍司令官による統治下から逃れ,本土に「復帰」する運動(沖縄県祖国復帰協議会)が効を奏して,1972年5月15日に「復帰」することになりました。この日も雨でした。それから40年。やはり,雨でした。この40年間は「喜び」の雨にはじまり,「哀しみ」の雨でおわりました。そして,その雨は止むことなく降り続けるしかありません。結局,米軍基地はそのまま居座り,事態はなにひとつ解決されてはいません。言ってしまえば,日本政府は基地移転について,ほとんどなんの救いの手もさしのべることなく,こんにちを迎えています。

これと同じことが,いま,また,フクシマで繰り返されそうとしています。

このような時代情況の真っ只中で,わたしの乾坤一擲,『スポートロジイ』を世に送り出そうというわけです。すなわち,「3・11」以前までのスポーツ文化全体をふり返り,「3・11」以後の新しい「スポーツ文化」の創造に向けて,わたしたちはなにをしなければならないのか,を模索していこうという次第です。その意味で,この『スポートロジイ』の新聞広告が5月15日に打たれたという奇縁を,喜びとしたいと思います。

特集・「スポーツ学」事始め,と題した『スポートロジイ』がどのように世に迎え入れられるか,楽しみに待ちたいと思います。今月末には書店に並ぶ予定です。ぜひとも,手にとってご覧いただければ・・・と祈っています。

広告の一部を添付しておきますので,ご確認ください。


2012年5月14日月曜日

ETV特集・テレビが見つめた沖縄・アーカイブ映像からたどる本土復帰40年,を見る。

5月13日(日)午後10時から11時30分まで,NHKのEテレが,ETV特集を放映した。題して「テレビが見つめた沖縄・アーカイブ映像からたどる本土復帰40年。テレビの番組表には,▽沖縄と本土・・・揺れた若者たちのその後▽沖縄戦の記憶,知花くらら,とある。

が,この番組のナビゲーター役は,西谷修さんだ。もう少し精確にいえば,西谷修さんと知花くららさんのお二人をナビゲーター役として登場させ,番組が進行していく。知花くららさんは,沖縄出身の若者代表として,西谷修さんは,長年にわたって沖縄問題を考えつづけてきた思想家・哲学者として,それぞれの持ち味を出し合いながら,粛々と「復帰40年」がなにを意味していたのかをふり返る。その主役は,NHKがこれまでに撮りためてきた映像アーカイブである。

沖縄が1972年に本土復帰をはたして「40年」。この「40年」を映像アーカイブから,さまざまなシーンを切り取ってきて,少しずつ問題の核心に迫っていく。とてもいい番組に仕上がっていて,久しぶりに深く考えさせられた。欲をいえば,もっともっと,沖縄問題を考える番組を,NHKならではの映像アーカイブを用いて制作し,放映してほしいところだ。なぜなら,本土で起きた東日本大震災関連の,あの膨大な情報量にくらべたら,沖縄の基地問題に関する情報の量は圧倒的に少ないからだ。その結果,沖縄の米軍基地問題に関する「無知」が,当たり前のようにヤマトンチュー(本土の人びと)の間に広がっていく。

1972年に本土復帰(内実は米軍支配下から逃れたい一心での本土復帰)をはたした直後に,中卒で集団就職をして愛知県の機織工場にやってきた少女たちの話が,まず,冒頭でわたしの頭を直撃した。みんな親切でいい人たちだと思っていたが,少し落ち着くと,周囲の人たちの自分たちを見る眼がまったく違うことに気づき,この人たちが沖縄についてなにも知らないことに驚いた,という。たとえば,沖縄ではお風呂に入るのかと聞かれたり,裸足で歩いているのかと聞かれたりして,ショックを受ける。まるで原始人のようなイメージで見られていることを知ったときの悲しさを,いまも忘れることはできないという。

いまはもう,そんなことを聞く人はいないと思うが,米軍基地を沖縄県に押しつけて平気でいられる人は,いまも圧倒的多数を占めている実態は変わらない。都道府県知事ですら,沖縄県の長年にわたる基地負担の実態を知りながらも,その負担軽減のために基地の一部をわが県で引き受けようとはいわない。みんな「見て見ぬふり」をして,やり過ごそうとしているのだ。その意味では,根本的なところでは,40年前の本土復帰前となにも変わってはいない。

「沖縄の勲章」というドキュメンタリー映像もまた,なんともはや,やりきれない気持にさせられた。沖縄戦での功績を讃えて,生き延びた人びとに「勲章」を日本政府は与えるという。沖縄戦で集団自決をして死んで行った親族や友人,隣人たちのことを語ろうともしない人びとに勲章を授与するというのである。そんなものは欲しくもなんともない。それどころか拒否したいくらいだろう。しかし,勲章に付随している「年金」は欲しい。だから,ただ,黙って勲章を受け取る。その手は震えてさえいるようにみえた。その間の経緯について,コメントをつける西谷修さんと仲里効さんのことばが重い。知花くららさんは,自分の「おじい」から聞いたという話をする。

この番組の最後のところで,基地移転候補地である辺野古の美しい海岸を遮る金網の前での4人のお話が印象に残った。外国にでたときに,「あなたはどの国からきたのか」と聞かれたらなんと答えますかという問いに,知花さんは「I am OKINAWAN」と答えるという。問いかけた田仲康博さんもまた,長いアメリカ生活をふり返り,ぼくも「JAPAN」とは言えなかった,言うことに強い抵抗があった,と告白。しかも,知花さんは,外国にでると「OKINAWAN」になってしまうけれども,東京で仕事をしているときには「沖縄と東京」とはフラットにつながっている,そういう自分もいる,と正直に語る。西谷さんは,この若い二人の会話に触発されるようにして,この会話こそじつにフレッシュだと受け止め,「沖縄と日本」という,この「と」をとおして未来への希望がかいま見える,と結ぶ。(このあたりの詳しいことは,西谷さんのブログに書かれているので参照のこと)

西谷さんが,NHKの番組のお手伝いをしてきたと言って真っ黒に日焼けした顔をして太極拳の稽古に現れたのは,5月2日(水)のことだ。そのときにはこの番組のことについて多くを語ることもなく,照れくさそうに,NHKの映像アーカイブはもっと活用されるべきだ,というようなことを力説されていたと記憶する。わたしの知己でもある仲里さんと田仲さんの話は,ほんの少しだけされたけれども中味には入ることはなかった。

毎週,顔を合わせている西谷さんが,こういう「沖縄復帰40年」という重い番組のナレーションまで担当していたとは知らずにいた。映像に映し出された西谷さんの顔は,いつも「まぶしそう」な眼をしていたのが印象に残った。たぶん,昼の録画が終るとホテルに帰って原稿を書いていたと聞いているので,寝不足がつづいていたのではないか,とわたしは想像する。そして,一週間後の5月9日(水)の太極拳の稽古は,珍しく「風邪を引いてしまったので,大事をとって休みたい」とメールが入った。4月の後半から,相当に無理が重なっていることは聞き知っていた。おそらく,その峠を越えてほっとしたのだと思う。

このブログでも紹介済みであるが,岩波の雑誌『世界』6月号は特集・沖縄「復帰」とは何だったのか,を組んでいる。ここにも西谷修さんと仲里効さんは健筆をふるっている。その他の人びとの論考も素晴らしい。ぜひとも手にとって読まれることをお薦めしたい。

昨夜は,あの番組のあと,じっと沖縄に思いを馳せていた。
娘がウチナンチュと結婚して,沖縄に住みついているというのに,わたしのこころは,なぜか,沖縄に向かわない。というか,行きたいのにからだが動かない。行動にならないのだ。この「こころ」のザワツキとからだの反応がなにを意味しているのか,いま,しばらく考えてみたいと思う。

つぎの太極拳の稽古のときに,西谷さんはどんな話をされるのだろうか,といまから楽しみ。もちろん,風邪が全快していることを祈って。

2012年5月13日日曜日

白鵬が3敗目を喫す。わたしの不安が的中。さあ,どうする?

相撲は心技体のバランスが大事という。そのバランスがくずれると,いかに強い横綱といえどもいとも簡単に負けてしまう。これが相撲というものの恐ろしさだ。

今場所の白鵬は,場所がはじまる前から,不安要素をかかえこんでいた。しかも,とてつもない爆弾を。一応,表面的には「和解」したことになっているが,そうは簡単には納まるわけがない。宮城野親方との確執である。詳しいことは,前に,このブログで書いているので,そちらを参照してほしい。

部屋の親方と真っ正面から意見の対立でぶつかって,部屋の連合稽古にも無断で欠席し,別の部屋に出稽古に行った。これは,覚悟の行動である。朝青龍もそうだったが,親方と一度スレ違ってしまうと,もう,ほとんど修復不可能だ。モンゴルからやってきて,異文化のど真ん中に身をおいて,しかも横綱まで駆け上がった力士の「心」は尋常一様ではない。表面はとりつくろっても,内心は穏やかではない。たぶん,白鵬は親方のとった行動が許せないのだろう。

この確執は,こんごも長くつづくことになりそうだ。だとしたら,白鵬のこんごの力士生命にも大きな影響を及ぼしかねない。だれかが,それこそ,むかしであればタニマチが,それも双葉山についていたタニマチのような人物が,間に入ってきちんとけじめをつけないことには,どうにもならないだろう。このままでは,白鵬は引退に向かって一直線だ。

中日を前にして「3敗目」。これは横綱になって初めての経験である。しかも,今場所は6大関がしのぎを削っている。後半戦に入れば,上位の7人が,お互いに星のつぶし合いになる。そこを生き延びるのは容易ではない。いったい,だれが,無傷で駆け抜けていくのだろうか。それが今場所の大いなる楽しみだ。

今場所の白鵬は,からだに切れがない。動きが悪い。厳しさがない。つまり,集中力を欠いている。こころにわだかまりがあるかぎり,土俵に集中するには無理がある。心技体の「心」が不安定なのだ。そうなると,もののみごとに「技」に影響がでる。つまり,厳しい攻めができなくなる。これまでの白鵬は,相手のちょっとしたスキをみごとに攻めて,自分有利の体勢をつくる。今場所は,それが逆になってしまっている。相手にスキをつけ込まれている。

その典型が,初日の安美錦戦だ。いつもの白鵬なら,相手に自由に動かせない間合いで攻めたてるのに,この日はほんのわずかながら間があいてしまった。そこを,ベテラン安美錦はみごとに突いた。相手のでてくるところを,うまく交わして,体を入れ換える。かれの得意技でもある。それにまんまとはまってしまった。白鵬としてはとても珍しい負け方である。

昨日の豊響の小手投げも同じだ。もっと体を寄せて密着していたら,あの小手投げは食わなかっただろう。今日の相撲は完敗である。いいところがひとつもなかった。どこか相撲感が狂ってしまったのではないか,と思われるような後手,後手にまわる下手な相撲になっている。このままでは,後半戦が思いやられる。

問題は「心」だ。一刻も早く宮城野親方(元竹葉山)とのスレ違いを解消することだ。これを放置しておくと,朝青龍のときと同じことが起きてしまう。とても心配である。

と,ここまで書いたところで,NHKのETV特集「テレビが見つめた沖縄・アーカイブ映像からたどる本土復帰40年」がはじまった。

『ひとはなぜ裁きたがるのか』判定の記号論(日本記号学会編)がとどく。

 2010年5月8,9日に開催された日本記号学会第30回大会でのセッション(1,2,3)をまとめた単行本が,いろいろの事情があって,一年遅れで刊行された。わたしもセッション3のプレゼンテーターとして呼ばれてお話をさせていただいたので,そのときの話が掲載されている。首が長くなるほど待ちわびた本の刊行である。

 題して,『ひとはなぜ裁きたがるのか』判定の記号論(日本記号学会編,新曜社)。なかなかおしゃれなタイトルがついている。わたしは勝手に『判定の記号論』(学会大会時の統一テーマ)という本になると思い込んでいた。しかし,そうではなかった。この学会大会を取り仕切った前川修(神戸大学)さんのアイディアでこの本のタイトルがつけられたのだろう,と想像している。たぶん,間違いないだろう。いかにも前川さんらしいタイトルのつけ方だと思うから。

 じつは,大会時に,このセッションをまとめて単行本にする予定です,と聞いていたのでとても楽しみにしていた。しかし,しばらくの間,まったく音信がなかったので,ああ,あの企画は立ち消えになったと思っていた。ひょっとしたら,わたしの責任ではないか,と心配になってきた。つまり,セッション3.「スポーツをめぐる<判定>をめぐって」を引き受けたわたしの提言の内容が,日本記号学会の期待したものとは違っていたのではないか,と。だから,そのセッションだけを没にするわけにもいかないし・・・・,と。

 しかし,昨年末に,突然,前川さんから連絡があり,いよいよ取りかかりますという。嬉しくて,とても胸がはずんで待ち構えていた。しかし,不思議なことに連絡上のスレ違いなどがあって,わたしの手元には初校ゲラがとどかない。やっぱり,この企画は実現できなかったのだ,と諦めていた。そこに,前川さんから,もう,時間がないので早く初校ゲラの校正を返してほしいという連絡が入った。びっくり仰天である。

 わたしのところにはなにもとどいていない,と実情をそのまま伝える。すると,前川さんから,わたしの手元にある初校ゲラを送信します,とのこと。それから大慌てで朱を入れて返送。こんどは,再校のときに担当編集者の渦岡謙一さん(新曜社)から,何カ所かに「注」を入れてほしい,と注文がついた。こちらも,なるほどと思ったので,かなり力を入れて「注」を入れた。

 しかも,嬉しいことに,担当編集者の渦岡さんから,個人的なメモが入っていて「このセッション3がことのほか面白かった」とある。それから,渦岡さんとは個人的なメールのやりとりがはじまった。伺うところによれば,マラソン・ランナーだという。そして,猫ひろしを応援しているという。そんなことがあって,すっかり仲良しになった気分。まだ,お会いしたこともないのに。いつかお会いしましょう,ということになっている。

 そして,この本を送ってくださった挨拶文に「『近代スポーツのミッションは終ったか』もおもしろく拝読しております。一度,お話をうかがえましたら有難く存じます」と添え書きがしてある。もちろん,わたしは諸手をあげて賛成。で,早速,6月に入ったところでお会いしたい,とメールで礼状を書きながら応答。さて,どんな返信があることやら。

 ちょうど,今日(12日)と明日(13日)は神戸で学会大会を開催しているはず。渦岡さんもそちらに参加しているに違いない。だから,14日(月)くらいにはメールの返信があるのではないか,と楽しみにしている。来月に入れば,わたしの方でいま進めている『スポートロジイ』(みやび出版)も刊行されていて,渦岡さんにも読んでいただいて,その上でお会いすることができる。その方が,はるかに建設的である。『近代スポーツのミッションは終ったか』(平凡社)からは,もう,相当に時間が経っている。その溝を埋めておいてもらった方が話はしやすい。

 さて,この送られてきたばかりの『ひとはなぜ裁きたがるのか』はまだ,あちこち拾い読み程度なのだが,なんとなく違和感を感ずるところが随所にある。どうしてなのだろうか,と考えてしまう。そのポイントはかなりはっきりしているのだが,あまり,あわてて結論を出す必要もあるまい。じっくりと考えて断をくだせばいい。

 その前に,5月26日(土)には「ISC21」5月犬山例会がある。そこで,この本の紹介を兼ねて,わたしの意見を披瀝することにしよう。その上で,いつか,みんなで「合評会」をやってもらおう。そうして,日本記号学会のスタンスについて自分なりに「判定」すればいいだろう。この学会には橋本一径さんも参加していらっしゃるので,ご意見を聞くこともできる。

 ひとつだけ,わたしの違和感を提示しておけば,書名の『ひとはなぜ裁きたがるのか』にある。ヒトはことばをわがものとし,なぜ?と問うことによって人間になる,つまり「理性」を獲得して「考える」ことをはじめる。いま,わたしの頭の中は,ジョルジュ・バタイユとピエール・ルジャンドルの言説でいっぱいになっている。だから,「ひとは裁き,判定をすることが<生きる>ことの基本になっている」,そういう「生きもの」なのだ,と考える。つまり,わたしたちは,日常的に,向こうからやってくる情報(記号)に対し,一つひとつ「判定」をくだし,取捨選択することを余儀なくされている。それが「生きる」ということの内実を構築している。だから,「ひとはなぜ裁きたがるのか」ではなくて,「ひとは裁くことを余儀なくされている」ということになる。

 もちろん,前川さんは,こんなことは百も承知で,むしろ,逆説的に,このようなタイトルをつけているに違いない。こんなところに,記号論を論ずることの胡散臭さから脱出しようとする洒脱さを感じないではない。が,ジョークと同じで,ひとつ間違えると勘違いされる恐れなしとしない。もちろん,それはレシーバーの感度の問題ではあるが・・・・。

 いつか,前川さんとも,こんな話ができるといいなぁ,とこの本をめくりながら考えている。

 いずれにしても,新しい本ができてくるということは嬉しいものである。これを糧にして,もっといいものを書いてみたいという意欲が湧いてくる。こんなことの繰り返し。でも,これは愉しいことだ。生きる喜びでもある。

その意味で,日本記号学会に感謝。
ちなみに,巻末の編集委員の名前のなかに「石田英敬」さんの名前をみつける。この学会のなかではどんな位置取りとなっているのか,とても興味をひくところ。

2012年5月12日土曜日

『スポートロジイ』の再校校正が終わり,責了。表紙図案も決まる。

『スポートロジイ』創刊号の再校校正が終わり,これで責了。わたしの手から離れ,あとはみやび出版伊藤さんの手を経て,印刷・製本へ。表紙の図案も決まりました。

最後の再校校正は大急ぎの仕事になってしまいました。神戸市外国語大学での講演が間に入ってしまいましたので,時間が足りませんでした。が,大きなポイントとなるところは,ひととおり隈なく確認をしたつもり。いまさらながら(何回も繰り返し読んでいるのに),内容の充実ぶり,重さに驚いています。もちろん,欲をいえば際限なくありますが,大急ぎの創刊号としては,文句なしのスタートが切れたのではないかとおもっています。

表紙の図案もいくつかご提案がありました。それらがいずれも素晴らしいものばかり。イラストレーターの井上登志子さん((株)キャデック)に注文を伝えたみやび出版の伊藤さんの説明がとてもよかったことが,最初の図案をみせてもらってすぐにわかりました。ここまでわたしの考えを受け止めて仕上げてくれるのなら・・・と考えて,さらに甘えてあれこれ追加の注文をさせてもらいました。それを受けて,さらに充実した表紙図案ができあがりました。わたしとしては大満足です。

写真を添付したいところなのですが,ちょっとしたトラブル(どうやら,マックとウィンドウズとの相性の関係で,メールに添付すると一部の図像が欠落している)ことがわかりましたので,いずれ,きちんとした図像が手に入ったら,喜んで紹介したいと思います。とてもいいイメージになっています。

もちろん,コンセプトは「水の中に水があるように」というバタイユのいう動物性の存在の仕方です。これを図像にして欲しいというのがわたしの最終的な希望。これをここまで詰めてくれたのか,と思うと感謝感激です。こんな発想の絵を描いてくれという方が無理な注文。分かり切ってはいましたが,それでも,最初の図案をみて,これならできる人に違いないと信じての注文。それに対して,みごとに応答してくださった,とわたしは受け止めています。いずれ,きちんとした写真が手に入りましたら,このブログで紹介したいと思います。

25日(金)には見本ができるそうですので,26日(土)の「ISC21」5月犬山例会にはもって行って,お見せできるのではないかと楽しみです。奥付をみると6月1日第1刷とありますので,このころには店頭に並ぶのかなぁ,と想像しています。その前の15日には『東京新聞』に広告がでるそうですので,こちらも楽しみ。

今回の『スポートロジイ』は相当に気合を入れていますので,ぜひ,楽しみにしていてください。そして,店頭に並んだときには,ぜひ,ご協力のほどを。このブログを読んでくださっている常連の方たちにとっては二番煎じになります。このブログで書いていたジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』の読解を集めて,集大成として編集してあります。まとめて読むと,これはこれでまた別の意味を帯びてくるようです。少なくとも,わたしにとっては記念すべき作品になる,と信じています。

この『スポートロジイ』の創刊を契機にして,これから活動の範囲を広げていこうかとも考えています。また,そうしなければ,創刊した意味がない,とも考えています。

取り急ぎ,わたしの手を離れて,あとは,刊行を待つのみとなりました,というご報告まで。
そして,創刊されましたら,よろしくお願いします,というお願いまで。


連続講演「スポーツとは何か」(神戸市外国語大学主催),第一回目,無事に終了。

神戸市外国語大学から客員教授を拝命し,ことしで4年目になります。去年までは集中講義を行っていたが,ことしは一般市民にも公開の講演を4回ほどやってほしい,とのこと。そこで考えました。どうせお引き受けするなら,のちに残しておきたくなるようなお話をさせてもらおう,と。つまり,4回の講演を「連続講演」と位置づけ,一つの「通しテーマ」でつないでいき,最終的には一冊の本になるように構成してみよう,というわけです。

で,「通しタイトル」は「スポーツとは何か」。それに各回ごとにサブ・タイトルを付すことにしました。
第一回目のサブ・タイトルは「スポーツのルーツ(始原)について考える」(5月10日・木)
第二回目は「伝統スポーツの存在理由について考える」(7月6日・金)
第三回目は「グローバル・スタンダードとしての近代スポーツについて考える」(11月30日・金)
第四回目は「21世紀を生きるわたしたちのスポーツについて考える」(1月25日・金)

そして,その第一回目のスタートをなんとか無事に切ることができました,というご報告です。
その骨子は以下のようなメモを用意して,配布しました。

 1.はじめに・・・・「スポーツとは何か」という設問について
  〇いま,わたしたちが「スポーツ」だと思っている文化の特異性に注目
  〇わたしが子どものころの「スポーツ」(野球,体操競技,など)
  〇「テクノサイエンス経済」複合体・・・理性の狂気化
 2.図像・映像の紹介
  〇すもう,レスリング,舞踊(ダンス),など
  〇ラスコー(フランス南西部),アルタミラ(スペイン北部)の洞窟画,など
 3.祝祭空間,供犠,儀礼,仮面・・・・興奮,熱狂,憑依,恍惚(エクスターズ)
 4.「自己を超えでる」経験,理性を超えでる経験,自己が自己ではなくなる経験
  〇H.レンク(ドイツの金メダリストで哲学者)のフロー体験(ローマ大会)
 5.動物性への回帰(願望の表出)
 6.ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)
 7.動物性からの離脱と人間性への移動・・・<横滑り>
  「水の中に水が存在する」
  原初の人間の不安(存在)・・・自己感情から自己意識へ(へーゲル)
  生と死を意識
  ことば,道具の獲得
 8.自己意識・・・他者=物・客体(オブジェ)と事物(ショーズ)
 9.植物の栽培と動物の飼育
10.人間の労働・・・本来の「生」を歪曲化する・・・文化の「否定性」(川田順三)
11.人間の事物化
12.本来の「生」にもどすための供犠
13.祭祀儀礼としての伝統スポーツ(古代オリンピアの祭典競技,など)の誕生
  〇すもう・闘羊=優劣の判定=決闘=供犠=神判=儀礼=スポーツへ
14.おわりに・・・「生きもの」としての人間にとって「スポーツとは何か」

だいたい,このメモに沿ってお話をさせていただきました。が,いつもの悪いクセで,あちこちに脱線してしまって,なんとなく「しまり」のない話になってしまいました。大いに反省。第二回目からは,そうならないように心がけたいと思います。

お世話くださったのは,神戸市外国語大学の竹谷和之さん。とくに,図像・映像資料を用意してくださり,放映まで,全部サポートしていただきました。ありがとうございました。この映像のお蔭で,ことばでは説明不能の部分を補うことができましたので,とても助かりました。第二回目以後も,可能なかぎり映像資料の助けを借りながら,お話ができればと考えています。

さきほども書きましたように,反省点のひとつは,もっと理路整然とお話ができるようにすることです。そのためには,事前に,話の内容を原稿にして,文字化しておくこと。場合によっては,それを読み上げながら,随時,補足の説明をしていく,という方法がとれる,そのくらいの準備をすべきだとということです。理想ではありますが,なかなか,できません。でも,第二回目には,なんとかそんな風にできないか,挑戦してみたいと思います。

以上が,5月10日(木)に行った連続講演の第一回目の骨子のメモです。
取り急ぎ,ご報告まで。

2012年5月9日水曜日

世も末か,早稲田大学で「恋愛学入門」の授業に人気殺到とか。

恋は「落ちる」(fall in love)ものであって,理性で考えて「する」ものではない。赤ちゃんは「与えられる」(授かる)ものであって,人工的に「つくる」ものではない。こんな,「生きもの」としての人間の基本がいつしか忘れられている。それを「理性」でカバーすればいいとばかりに,「教育」しようとする。これを「理性の狂気化」といわずしてなんと呼ぼうか。このことの奇怪しさに気づいている人があまりに少ない。

『東京新聞』5月3日(木)の朝刊「T発」というコラムの記事をみて唖然としてしまった。なにを考えているのか。

まずは,見出しの大きい活字順に書き出しておこう。
早大生「恋愛」を学ぶ
森川教授「終了時,交際未経験ゼロに」
生物学的・・・体臭に気をつけよ
経済学的・・・商品価値を同じに

そして,つかみの文章は以下のとおり。
「恋愛学入門」と名乗る早稲田大学の講座が人気を集めている。人が恋に落ちるメカニズムを,政治学,社会学,生物学などさまざまな学問的領域から考察。少子化現象の解明と解決策を示すとともに,実践にも役立てる「恋愛のすすめ」だ。

記事を読んでみると,2008年から全学部共通の「オープン科目」として始まった,という。毎年,受講希望者が殺到する。本年度は244人の定員に850人が応募した。志望動機を作文で書かせて熱意ある学生を選んだ,という。

もう,この段階で,わたしはあきれ返ってしまった。恋愛の仕方を「教えてもらわなくてはならない」のか,と。しかも,この殺到ぶり。これを抽選で選ぶならともかくも,志望動機を作文で書かせて「熱意ある学生」を選んだ,という。この「狂い」ぶり。いい加減にしてほしい。その作文を読んで「選ぶ」森川友義教授(56)の,これまた桁違いの「狂い」ぶり。記事を読んでいて「恥ずかしい」。こんなことが,いまの大学で,しかも,名門早稲田大学で,大まじめに行われている。こんな授業科目を承認している教授会のメンバーにも頭をかしげざるを得ない。

これだけではない。もっと恐ろしいことが書いてある。
「社会科学的アプローチ」では,自分を市場で売買される商品にたとえ,経済学的見地から恋愛を考える,とある。そうかい,そうかい,人間は市場で売買される商品なのかい。ならば,勝手にせい。そんな売買される「もの」(事物)を,わたしは「人間」とはおもわない。

のみならず,終わりの方にはこう書いてある。
講義は全15回。今後は「キスの値段」「なぜ初恋相手と結婚してはいけないのか」「恋愛市場の分類」などのテーマを予定する。

ほんとうに「正気の沙汰か」とわたしはショックだ。冗談じゃないよ。早稲田大学といえば,そのむかしは,バンカラで売っていた大学だ。個性がはっきりしていて,自分のやりたいことをとことん追求する,きわめて魅力的な学生さんが多いところとして名声を馳せていた。少なくとも,わたしの学生時代の早稲田の学生さんは,そういう印象が強かった。が,いまは,どうだ。この体たらく。いつのまに,早稲田の学生さんは「市場の商品」になり下がってしまったのか。それで,恥ずかしいとも思っていないのか。

世の趨勢が,このように流れているらしい。だから,だれも疑問にもおもわない。この記事を読む人の大半も,「ああ,そうなんだ」と納得するのだろう。

人間の「事物」化。ここに極まれり。と,ジョルジュ・バタイユが生きていたらそう言うだろう。わたしもまた,そう言いたい。とうとう人間は「事物」として完成をみたか。
ならば,「ゆでカエル」になってもなんの不思議もないし,「思考停止」になっても不思議はない。もちろん,「自発的隷従」になっても当たり前のことだと言わねばならない。

こんにちの日本の政界,財界,官界,学界,メディア界の,腰抜けぶりも,いまに始まったことではない,ということがよくわかる。原発問題についても,「命」と「金」とどちらが大事かも判断できない人たちが,日本の中枢部に居すわっている。これこそを「理性」の狂気化と呼ばずしてなんといおうか。

ついでに言っておこう。
この記事には,なんの疑問もはさまれてはいない。いまの若者たちにとって必要な授業が早稲田で行われている,という姿勢が貫かれている。これもまた変だ。これを取材し,記事にしたメンバーの「理性」もまた狂っている。記名記事なので,記しておこう。
文・吉岡逸夫/写真・五十嵐文人,安江実/紙面構成・折尾裕子。

一度でいい。自分たちの記事を書く姿勢について,このクルーで話し合ってみてほしい。
君たちに足りないのは「思想・哲学」だ。人間とはなにか,という基本的な問いが欠落している。それを支える「思想・哲学」が,どこにも感じられない。

かつては,辺見庸のような新聞記者がいたことを,君たちは知っているだろうに。そして,いまも辺見庸は健筆をふるっていることも十分承知しているだろうに。新聞社に身を寄せている人間であれば。

わたしは『東京新聞』を支持して,『朝日新聞』から乗り換えた人間だ。
優れた記事が満載なのに,時折,とんでもない記事が掲載される。そこのところを糺してほしい。
スポーツ担当記者も,かなりベレルが低い。優勝劣敗主義や勝利至上主義を吹聴するロジックは,原発推進の論理とまったく同じだということに気づいていない。できることなら,レクチャーをしに,乗り込んでいきたいくらいだ。「スポーツとはなにか」というレクチャーをしに。

こんなことがまかりとおっている日本とはいったいどういう国なのか。
これでは,沖縄「復帰」40年って,なんのこと?と「恋愛学入門」を受講している学生さんならずとも,日本人の多くが言いそうで怖い。

「西洋が西洋について見ないでいること」とピエール・ルジャンドルは言った。「日本が日本について見ないでいること」と,沖縄問題を論ずる中で西谷修は述べている(『世界』6月号)。みんな自分のことは「見ない」でいる。そこに大きな陥穽があることも知らずに。

最後にもう一度,言っておく。
恋は「する」ものではなく,「落ちる」ものだ,と。
人間は「商品」ではなく,「生きもの」だ,と。

森川友義先生,お気は確かですか,と。早稲田大学の優秀な学生さんを「商品」(バタイユのいう「事物」)に仕立てあげるよりは,「生きもの」として活力のある人間に育てあげてください。それこそが,21世紀を生き延びていくために必要なほんとうの「理性」ではないでしょうか。

西谷修の『理性の探求』(岩波書店)を,わたしは,このように読み取っているのだが・・・・。


2012年5月8日火曜日

特集・沖縄「復帰」とは何だったのか(『世界』6月号),必読。

こんどの5月15日で,沖縄の本土「復帰」40周年になる。メディアも相当に取り上げるだろうと期待していたのに,またまた原発と消費税とオリンピックなどの情報にすり替えられてしまって,「40周年」の声が聴こえてこない。

と思って地団駄を踏んでいたら,昨日(7日),雑誌『世界』6月号がとどき,その特集が沖縄「復帰」とは何だったのか,とありほっとした。表紙に,新川明,澤地久枝,西山太吉,西谷修,前泊博盛,仲里効といった人びとの名前が並ぶ。

迷わず,特集巻頭を飾る新川明論文から読みはじめる。「みずからつくり出した矛盾に向き合う」─40年目の感慨。まことに大局的な視座に立ち,「復帰」とは何であったのか,という特集の根幹をなす基本認識を明らかにしてくれる。思わず,「赤線」をあちこちに引きながら,読む。雑誌に「赤線」を引くことは滅多にないのだが・・・。

つづいて,澤地久枝さんへのインタビュー。「フロントライン」沖縄が逆照射する日本。インタビューアーは編集部の中本直子,堀由貴子さんのお二人。このお二人とは,以前,大相撲問題をめぐって今福龍太さんとの対談のときにご一緒している。中本さんとはもっと古いお付き合いがあるので,なんとなく親しみを感ずる。相変わらず,鋭い切り込みでインタビューがはじまり,澤地さんも堰を切ったように話はじめる。迫力満点。最後まで一気に読ませる内容に,うまくまとまっている。このお二人のコンビは,これからも楽しみ。

つぎは,お馴染みの西谷修論文。やはり,よく知っている人のところに自然に眼が行ってしまう。「接合と剥離の40年」──困難な「復帰」のなかの「自立」の兆し。もののみごとに目配りのよく効いた論考になっていて,やはり,こういう知性が健在であることに,とても勇気づけられる思いだ。西谷さんは,学生時代にすでに沖縄に足を運びはじめ,以来,せっせと沖縄を訪ね歩き,多くの人たちと「じかに」触れ合いながら沖縄についての思考を深めてきた人だ。かつて,西谷さんはわたしに「沖縄は世界の臍のようなところで,ここに立ってみると,世界がよく見えるし,日本という国家のあり方もよく見えてくる」と語ってくれたことがある。それまでは,わたしも単なるフツウの日本人であったが(つまり,沖縄のことが視野からはずれてしまっていて,ほとんど無知であるということ),それからはかなりまじめに沖縄のことを考えるようになった。

この西谷論文も,あちこちに「赤線」を引きながら,時間をかけて熟読。沖縄の「いま」が鮮明に浮かび上がってきて,また,ひとつ賢くなったとおもう。とりわけ,後半に入って,「主体化」の兆し,「世界ウチナーンチュ大会」が開くもの,という小見出しのもとで展開されている西谷さんの「希求」に,沖縄に秘められた大きな可能性と希望が感じられ,読後の後味がいい。それでいて,重くて,避けてはとおれない大きな課題も提示されている。この稿の最後のところを引いておこう。

「そして年ごとに齢を数えなおさねばならないほど『復帰』の縫合部が軋みを立て剥離することで,その縫合部を抱えた日本は,おのれ自身の見ようとしないあり方を知らされることになる。この軋みに耳を傾け,その剥離に目を向けることで,日本はいま変動しつつある世界のなかでのおのれの課題に向き合うことになるだろう。「沖縄復帰40年」とは,こうして沖縄によって日本そのもののあり方が問われ,炙り出され,試される40年でもあった。」

この西谷論文のにつづいて,仲里効さんの論文がつづく。題して,「交差する姪彩色の10日間と『復帰』40年」──脱植民地の潮流が旋回する沖縄。この論文は,これから,じっくりと時間をかけて読むことにしよう。「赤線」だらけで真っ赤になるだろうが・・・・。

2012年5月5日土曜日

送電線は国道と同じ。東電だけが独占するのではなく,すべての国民に解放せよ。

いま,遅い昼食をとりながら,いつものように「J-wave」(81.3)のジョッキーの話を聞いていた。そこで,とても面白い提案をしていたので,賛同しながら,ご紹介しよう。

毎週,この時間のテーマは「エネルギーを考えよう」。
そして,今日の話題で印象に残ったのが,「発送電を分離して,送電線を解放せよ」という話だった。

発送電を分離せよ,という議論はすでに前から行われているが,東電は頑として受け付けようとしない。なぜなら,電気を独占して売る,現体制がくずれてしまうからだ。

いま,聞いていたラジオは面白いことを言っていた。これはいただきだ。
つまり,送電線というものは,どこの国もみんな国がつくった,というのだ。そして,日本も国がつくったのだ,という。だから,送電線というものは「国道」と同じだ。道路には,国道や県道のような大きな道路を筆頭に,田んぼや畑をとおる村道や,山の中を通り抜ける林道や登山道まで,各種のものがある。しかし,もちろん,その管理体制はそれぞれに分割されているが,国民がその道路をとおるのはだれもが自由だ。つまり,無料だ。だから,送電線も道路と同じなのだから,国民全員に解放すべきだ,というのである。

この発想は,わたしの頭の中から欠落していた。なるほど,そうか。送電線というものはもともと道路と同じようにしてつくられてきたのか。だとしたら,一民間企業に独占させておく必要など,どこにもない。さっさと,国有化するなり,県有化するなり,村有化するなりすればいい。そして,だれでも自分で発電した電気を送ることができるようにすればいい。道を歩くのと同じように。

ラジオでは,もう一点,興味をひく話をしていた。
送電線を電力会社が独占しているのは,世界中で日本とフランスだけだ,という。そこで,はっとさせられたのは,どちらの国も「原発」をたくさん保有しているということだ。国家と電力会社と原発は三位一体となって推進されてきた,ということがよくわかる。ドイツなどは,送電線は道路と同じように解放されているので,小さな集落ごとに発電装置をもっていて,自給自足ができるようになっているという。これは,同じドイツ語圏であるオーストリアで,わたしの眼で確かめ,現地の人に直接話を聞いて確認した話でもある。だから,オーストリアは原発をつくったけれども,稼働させるかどうかという時点で国民投票をして否決され,そのまま原発は眠ったままになっている。ドイツもほぼ同じシステムだと聞いているので,ドイツもまた原発に頼らなくても,少しやりくりすればなんとかなる,という背景がある。だから,いち早く「脱原発依存」を国家として宣言し,その方針で動きはじめていることはよく知られているとおり。

さて,ここで結論。
日本も,すぐにでも送電線を国有化し,国道なみにだれでも使えるようにすべきだ。そうすれば,村単位,町単位で発電をして,地域住民の電力を確保することができる。山の中の沢沿いの集落なら,小さな水車小屋で発電するだけで,最低限の電力は確保できる。つまり,発電装置を細分化していけばいくらでも電力は確保できる。そのためにこそ,送電線を道路なみに解放すべし。

今日は,日本の原発がすべて停止した記念すべき日。さあ,これからが本番の闘いのはじまりだ。絶対に再稼働させないために。そのためにも,送電線を早く解放すべし。それが,脱原発依存に向けての第一歩かもしれない。


2012年5月4日金曜日

「保安院の人たちっちゃあ,ありゃあ,なんだん?」(懐かしい三河弁の会話)

久しぶりに三河弁で会話をした。昨日(3日)の告別式で,縁戚にあたる大工さん(60歳前後)が声をかけてきて,ひとしきり原発の話になった。わたしも思い出しながら,必死で三河弁を駆使してみる。でも,自分でしゃべっていても,どこか納まりが悪い。かといって,標準語でしゃべるよりは親近感がわくだろうとおもって努力する。

以下はふたりの会話の骨子である。
最初に声をかけてきたのは大工さん。

「保安院の人たちっちゃあ,ありゃあ,なんだん?」
「困った人たちだのん」
「やっぱり,あの人たちゃあ,変だよのん」
「そう,ほんとうに困った人たちだぞん」
「なんであんな人たちが選ばれるだん」
「政府にとって都合のいい人たちが選ばれとるらしいぞん」
「まっとまともな人を選んでもらわにゃあ,あかんのん」
「そう,そのとおりだのん。ちゃんとした人はいくらでもおるでのん」
「政治家っちゃあ,悪い人たちだのん」
「その悪い政治家はだれが選んどるだのん」
「わしらが選んどるじゃん。あっ,悪いのはわしゃんとうかのん」
「そういうことだのん」

「ほいじゃあ,どうすりゃあいいだん」
「わしゃんとうが安心して任せられる人を選挙で選ぶしかないのん」
「そんなことを言ったって,選挙のときにゃあ調子のいいことしか言わんでのん」
「そいつを見破らにゃああかんのん」
「どうすりゃあいいだん」
「あんたが選んだ政治家が,原発について,どういう言動をとっとるか,よく見張っとくことだのん」
「そんなこたあ,だれも教えちゃあくれんぞん」

「あんたぁ,新聞はなにをとっとるだん」
「『朝日新聞』だのん」
「なんで,三河に住んどって『朝日』をとっとるだん。ここは『中日』だらぁ」
「ずっと前に,『朝日』がいいって教えてくれた人がおったもんだえのん,そうしただん」
「そうかん。前は『朝日』がよかったけどのん。最近はダメになっちゃったのん」
「ほんとうかん。ほいじゃあ,なにがいいだん」
「三河で読むなら『中日新聞』だとおもうぞん」
「ほんとうかん。『中日新聞』なんて,みんなバカにしとるぞん」
「わしゃあ,『朝日』から『東京新聞』に乗り換えたら,ここにゃあ地元選出の代議士が,原発に対してどういう姿勢をとっとるか,かなり詳しく報道しとるでのん。わしゃあ,そこでチェックしとるだに。『東京新聞』と『中日新聞』は仲良しだでのん。たぶん,『中日新聞』にも原発についての情報が多いとおもうぞん。いっぺん,試しに買って読んでみりゃあいいじゃん」
「ほんとかん。ほいじゃあ,いっぺんやってみらあ」

とまあ,こんな会話がつづく。
しかし,この大工さん,なかなかよく新聞を読んでいて,「なってったってぇ,世界で一番悪いなぁアメリカだのん」という。思わず「あんたは偉い。ちゃんと見破る眼力がある」と褒めてあげたら,もう喜んじゃって,こんどはとどまるところを知らず・・・・というほどに話がはずんだ。

こういう人たちが,いま,なにを考えているのか,時折,会って話を聞かなくちゃあ(あっ,いけない,三河弁がでてしまった)あかんとおもった次第(だぞん)。のんほい。

義姉を見送る。戦中・戦後を生きた人。一味違う人の「生」。

義姉を見送る。行年85歳。晩年は入退院をくり返していたが,意識はとてもしっかりしていた。ことしに入っても手紙がきていたので,まだまだ元気だと思い込んでいた。しかし,急に衰えはじめて,あっという間だった,と長男(喪主)の話。柩に収められた顔はとてもきれいだった。善行を積んだ人は死に顔がきれいになる,と聞いている。

そのことばのとおり,義姉は,自分のことより他人のことを優先させる人だった。いい人だった。幼児よりあまり丈夫ではなかったそうで,無理の効かないからだだから,と口癖のように語っていた。しかし,その割には,じつによく働いた人だ。野良仕事のかたわら,編み物の下請けまでやっていたことがある。それも屋敷内に仕事場を建てて,何台もの編み機を据え,せっせと働いていた。身を粉にして働いていた,と子どもたちも認めている。

そんな働き盛りのときに,重い荷物を持ち上げたことが障って,腰椎圧迫骨折をしてしまった。それからはできるだけおとなしくしている,とは言いながら,痛みがとれると,また,もとのように働いていた。そして,また,脊椎の別のところを痛めたりしていた。そのたびに,もう懲りた,と言いながらも働いていた。とても芯のしっかりした人で,地味ではあったが,やるべきことはやる,という意志の強い人だった。

50歳のときに,運転免許を取得して,行動半径を広げた。このままではダメになるという危機感があったそうで,意を決して自動車学校に通った。みごと一回で合格して,予定どおり,必要なところにはせっせと足を伸ばした。とても好奇心の強い人で,わたしのやっている仕事にまで興味を示し,熱心に話を聞いてくれた。えっと驚くような質問が飛びだしてくることもしばしばだった。まったく違う世界の話に,真剣に耳を傾けることができる,大した人だった。

戦中に女学校に通っていたので,大した勉強ができなかった,とよくぼやいていたが,どっこい記憶力のいい人で,知識は豊富な人だった。この人の前ではうっかりしたことは言えないとおもったことがある。時折,いただく手紙は,みごとな文章で,語彙も豊富だった。その端々に文才がにじみでていた。義父が,次女であったこの義姉を跡取りと決め,養子さんを迎えたのも,こんなところに共鳴するものがあったからだろう。義父もまた,田舎の人ではあったが,とても粋な人だった。俳句をものしたり,書をよくしたり,料理もする,という人だった。たぶん,この義姉と義父は波長が合ったのだとおもう。

敗戦後の大変な時代を生き抜き,とにもかくにも,子ども3人を育て上げることに全力をつくした。自分が困っていても,他人が困っていれば,そちらを優先させる気配りの人でもあった。だから,大勢の人に好かれた。法事などで,親戚の人たちが集まったときも,みなさんがこの義姉を褒めていた。我慢強い,偉い人だ,と。だから,丸く納まるのだ,と。

一本,芯のとおった,みごとな人生を生き切った人だった。余分なことは一切言わない。口数も少ない。しかし,ここぞというときにはきちんとものを言う人だった。ものごとを慎重に考え,いつも熟慮を重ねる人だった。だから,ブレることがない。とてもすっきりした人生だった。一味違う人だなぁ,と尊敬していた。

そういう味のある人が,また一人,この世を去った。順番だとはいえ,寂しいかぎりである。

本来なら,お通夜からお参りをさせてもらって,昨日(3日)の告別式,分骨,初七日までお参りすべきだった。が,2日の新幹線のチケットはすでに売り切れだった。3日のチケットも苦労した。早朝のこだまのグリーン車の喫煙車の席しかないという。半病人を連れているので,立ったまま行くわけにもいかず,それにした。帰りは駅の窓口に飛び込んで交渉。でも,運良く,ひかりの指定席がとれた。

森の中の火葬場での待ち時間に,新緑があまりに鮮やかだったのでひとりで散策をした。すると,すぐ近くでうぐいすが鳴く声がしたので,しばらくたたずむ。そのうぐいすの声が,どんどん大きくなってくる。最後には,ほんとうにすぐそこで鳴いている。大きくて,響きのいい声だった。姿を探してみたがみつからない。そろそろお骨が上がる時間になったので,歩きはじめたら,なんとそのうぐいすが後を追うようにしてついてくるではないか。その卑近な距離を保ったままに。最後には,もう,耳元で鳴いているかとおもうほどの距離だった。建物に入るときにはひときわ大きく「ホーホケキョ」と鳴いた。建物の近くにいた人たちも,それに気づいて,こんな入り口近くまできて・・・と驚いていた。わたしは,途中から,故人の成り代わりだと信じて,その鳴き声に耳をすました。そして,お別れにきてくれたのだ,と。

帰りの新幹線に坐っていても,わたしの耳にはうぐいすの鳴き声が響いていた。希有なる体験がまた一つ増えた。

2012年5月2日水曜日

横綱白鵬の周辺に暗雲が漂う。いやな予感がする。

横綱白鵬の周辺に暗雲が漂いはじめた。しかも,その報道のされ方が,いつもながら不愉快だ。「親方に無断で,一門の合同稽古をサボった」という見出しに,無意識の作為が感じられるからだ。この構造は,朝青龍のときと同じだ。つまり,いきなり犯罪者扱いにするジャーナリズムのお粗末さ。しかも,その陰には「モンゴル人排除」というゼノフォビア,料簡の狭い,悪しきナショナリズムがちらつく。ジャーナリズムの責任のかけらも感じられない低俗ぶり。記者の能力不足,レベルの低下現象。

この手の報道は,よほど注意して,十分に取材した上でバランスのとれた情報を提供しないと,読者はすぐに洗脳されてしまう。わたしは,明らかにジャーナリズムによる白鵬バッシングがはじまった,と受け止めている。朝青龍と同じで,お前の役割は終った,だから,そろそろ消えてもらおうか。あとは稀勢の里らに道をゆずってもらおう,とでもいったような・・・・。まるで,モンゴル出身力士に大横綱になられては困る,しかも,大記録をづくられては困る,とでもおもっているかのように。

またぞろ,朝青龍の二の舞か,と。

結論から言っておこう。今回の騒動の根源にある問題は,親方の力量不足。横綱を指導・助言するだけの力量,すなわち,人格・見識を欠いている。ただ,それだけ。横綱の品格を問う以前に,親方の品格を問うべし。大相撲で起きている諸悪の根源はすべてここに端を発している,と言って過言ではない。朝青龍のときも,親方の品格はまったく無視された。テレビに映し出されている姿だけでも,親方としての資質が問われる,なんとも情けないものだったのに・・・・。

「無断」とは,どういうことか。なにゆえに「無断」ということが起きるのか。
今回は,親方が横綱に声をかけることができなくなってしまう,つまり,会話が成立しなくなってしまう,なんらかの理由があったはず。そこのところを解きほぐすような報道をしてほしい。それがないために,「無断」ですべてを片づけ,横綱だけが「悪」になってしまう。

少しだけ,解説をしておこう。
親方が「当然,ここにくるものと思っていた」ということは,親方が白鵬には声をかけていなかった,ということ。少なくとも「明日は一門の合同稽古だ。一門の隆盛のために気合を入れて頑張ろう」くらいのことは,どんなに険悪な関係になっていたとしても言わなくてはならない最低限のボーダーラインだ。それを黙っていてもくるのが当然という,そん程度の認識しかない親方の感覚がおかしい。良好な関係が維持されているときは,なにも言わなくてもくるのが当たり前。そうでないときこそ,きちんとけじめをつけておかなくてはなるまい。

じつは,宮城野親方(元竹葉山)と白鵬の師弟関係は周囲もうらやむほどの良さで,ここまでやってきた。そこに亀裂が入ったのだ。つまり,この二人が,大阪場所の期間中に,考え方の違いから,おそらく初めて真っ正面からぶつかり,大喧嘩になったというのだ。ことの真相は味加減があってむつかしいが,伝え聞く話は以下のようである。

立浪一門の大島部屋の親方(元旭国)がこの5月で定年退職となる。大島部屋には旭天鵬と旭秀鵬という二人のモンゴル出身の力士がいる。旭天鵬は白鵬の土俵入のときの露払いをつとめる大の仲良しだ。だから,もし,大島部屋の後継者がいなくて,部屋を閉めるということになれば,白鵬のいる宮城野部屋にくればいい,と二人は暗黙のうちに了解していたらしい。そして,そのとおりにことは進展していった。ところが,宮城野親方は,大島部屋を吸収合併する話を断ってしまった,というのである。白鵬としては,せっかく宮城野部屋が大きくなるチャンスなのに,なぜ,断ってしまったのか納得がいかない。宮城野部屋は小さな所帯で,白鵬の稽古相手にも事欠くほどだった。だから,白鵬は,いつもほかの部屋に出稽古にいかなくてはならなかった。旭天鵬らが入ってくれば,自分の部屋で稽古ができる。そんなことは宮城野親方だってとことん承知のはず。なのに・・・・。ここが発端。その前に,すでに,とんでもない伏線があった・・・とわたしは推測している。

しかも,こちらの真相はもっともっと根が深いようだ。
そもそも大島部屋の吸収合併を,なぜ,宮城野親方が断ってしまったのか。その結果,大島部屋の力士たちは友綱部屋に引き取られることになった。その友綱部屋も,立浪一門の連合稽古を「部屋の都合」という理由で参加していない。その友綱部屋に,白鵬は稽古に出向いたのだ。なぜか? これは白鵬の意思表明であり,明らかな造反である。が,賢い白鵬は「連合稽古は関取が少ないと聞き,より元気のある力士と稽古したかった。一日一日を大事にしたいので」と弁明している(4月29日の『東京新聞』)。

もう一歩踏み込んでおこう。この1月に行われた理事選挙で,一門のリーダー格である立浪親方(元旭豊)が造反を起こして貴乃花親方に一票を投じたのだ。その結果,それまで理事だった友綱親方が一票差で落選してしまった。その責任をとって,一門を離脱する覚悟だと立浪親方は宣言している。しかし,それを認めてしまっては立浪一門が総崩れを起こしかねないので,そのままになっている。その状態での,一門の連合稽古だというのである。ということは,立浪一門のなかに,すでに,長年にわたってなにかがくすぶっていた,ということだ。

そんな形式的な(つまり,立浪一門の結束のための)連合稽古よりは,実のある稽古のできる友綱部屋の稽古を選んだ,というのが白鵬の表面上のいいわけである。これまでもそうして,あちこちの部屋に出稽古にでかけてきたのだ。ましてや,白鵬にとっては,こんな険悪な雰囲気が漂う連合稽古に参加するよりは,気心の知れた旭天鵬らと稽古をした方が,そして,実力のある力士たちと稽古をした方が,ずっといいに決まっている。

このあたりで,このブログは一旦,終わりにしておこう。なぜなら,貴乃花親方を中心とした勢力再編が,いま,大相撲の世界で進行中であること,そして,そのことと白鵬は微妙な関係にあること,おまけに,白鵬引退後の勢力地図も描かれつつあること,などなど,話題はつきないからだ。

いずれにしても,こんにちの大相撲はモンゴル出身力士たちの貢献なしには考えられないということを,よもや,メディアの人びとは忘れてはいまい。だとしたら,それ相応の情報の流し方をするのが,マナーというものではないのか。少なくとも,表面の,ほんの一部を針小棒大にして報道することだけはやめてほしい。でないと,大いなる誤解を招き,朝青龍のように引退に追い込まれるような悲劇があとを絶たなくなってしまう。

白鵬も,すでに,そのターゲットになりつつある。とても,いやな予感ではあるが・・・・。

ソクラテスも,イエス・キリストも,ガリレオ・ガリレイも,みんな無責任な表層を流れる根も葉もない「うわさ」の犠牲者だったことを,想起すべきだろう。こんにちのメディアが,その役割を担いつつあることも,まぎれもない事実なのだから。

白鵬に朝青龍の二の舞をさせてはいけない。断じていけない。熱烈な大相撲ファンのひとりとして,それだけは断じて許さない。二度も同じ愚を犯してはならない。

産経省前のハンストに参加の瀬戸内寂聴さんに拍手。

いま,ネットを流れている情報をチェックしていたら,瀬戸内寂聴さんが産経省前でハンストをやっている市民団体に加わって,ハンストに入ったという。

大病をしたあとは車椅子生活を送っていると聞いていたが,元気を回復しての意思表明の行動である。以前から脱原発の発言をしていたが,大飯原発再稼働にストップをかけなくてはいけない,と立ち上がった。立派,のひとこと。

いかにも寂聴さんらしい行動。思い立ったらすぐ実行。結婚も離婚も家出も,そして出家も,自分のなかで結論がでたらすぐに行動に移す。これほど自分のこころに素直に行動して,生涯を過ごしてきた人も珍しい。だから,彼女の小説の題材になる主人公たちも,多くは「自由人」。自分のこころに素直に生きる人の,鮮烈に光る「生」の瞬間をとらえ,そこを小説にした。

最近では,『東京新聞』に連載小説「この道」を連載していた。つい最近,完結したが・・・・。寂聴さんが出会った「自由人」がつぎからつぎへと登場し,すべて,自分の眼と足で確認した,たしかな取材にもとづく話ばかりで,わたしはハラハラドキドキしながら愛読していた。大杉栄をめぐる女性たちの話は,寂聴さんでなければ書けない,そういうきわどい話になっていた。

そんな寂聴さんがハンストに入った。89歳。車椅子。命の大切さを訴えて。

この人は,たぶん,もう,いつ死んでもいい,と覚悟を決めたに違いない。いやいや,そんな覚悟は出家したときに済ませてます,とおっしゃるかもしれない。ひょっとしたら,家出をしたときに・・・・。それは,一度,みずからの「生」に見切りをつけて,「再生」するための儀礼だったかも・・・。まだ,幼かった子どもを置き去りにしての家出だった。このことについても,寂聴さんは,包み隠すことなく懺悔をし,ありのままのこころの移りゆきを文章にしている。

命の大切さを,みずからの生き方の上でも証明してみせた人だとおもう。自分の「生」をまっとうするための「家出」。このとき,一度,死んでいる,とおもう。みずからを超えでる経験。それが,この人の作家としてのバネとなり,エネルギーの源泉となったに違いない。

ハンストを支援する輪が広がるだけではなく,そこには参加も支援もできないけれども,自分の身のまわりから脱原発依存への「小さな変革」を起こそうと志す人は,間違いなく激増するだろう。なにも行動を起こさなくてもいい。一人ひとりが,こころの奥底で,大事なのは「命」だ,とスイッチを入れるだけでいい。そして,貧乏しても「命」を守ろう,と覚悟するだけでいい。

瀬戸内寂聴さんのハンストに,こころからの拍手を贈りたい。

〔追記〕
NHKが,この情報をどのように扱うか,とても興味があったので,チェックしていたが,わたしが見ていた限りでは,予想どおり一切無視だった。

2012年5月1日火曜日

「まあちゃん」という人と「富士へ・千九百0九年八月」竹久夢二。今福龍太編『むかしの山旅』より。

『スポートロジイ』創刊号の初校段階の仕事が一区切りついて,ほっとしたので,机上に積んである本の一つに手を伸ばす。それが,たまたま,今福さんが送ってくださった『むかしの山旅』(河出文庫)。その冒頭に,竹久夢二の「富士へ・千九百0九年8月」という文章が載っている。そのすぐあとには,芥川龍之介を筆頭に錚々たる人びとの「山旅」の文章がつづく。なのに,なぜ,竹久夢二なのだろうか?とちょっぴり疑問をいだきながら読みはじめる。

すぐに,納得。冒頭から,あの竹久夢二の美人画を彷彿とさせる文章が,惜しげもなく連なっている。そして,「まあちゃん」と呼ばれる,か弱き美人が登場する。あの絵のモデルそのものといってよい,病弱気味の女性が,ごく当たり前のように描かれている。しかも,一気に竹久ワールドに持ち込まれてしまう。たとえば,こうだ。

この夏こそは別れ話も熟して,まあちゃんは九州へ旅し,自分はこの高原の村落へ住んで,思い残した二人のことや,まだ覚め果てぬ夢を思い捨てようと企てた。数ヶ月の後,二人は,他人になって,御殿場の駅で落ち合った。落ち合ったのではない,やっぱりどうかして新しい刺激のなかで生きるか,或いは曾て知らぬ別な空気の中に住んで見たかった。
それで富士へ登って見ようなどという気になったのだ。

こうして富士登山の様子が描かれる。
竹久夢二の文章は,あの絵とまったく同じだ。なんとも気だるくて,身の置き場もないほどかったるいのだが,それでいて,ぐいっと惹きつけられて身動きができなくなってしまう。そして,あの病弱気味の美女に手をさしのべ,寄り添わずにはいられなくなるような,不思議な世界に没入してしまう。なんなのだろう,この感覚は。世にいう理性などとはまるで無縁の,男と女の,ことばでは表現不能のほわーんとした,あやういほのぼの感,とでもいえばいいのだろうか。合理性などとはまるで無縁の,非合理の世界に全身全霊,まるごと身を投げ出したくなるような,そんな魅惑的な世界。

流れている時間の速さが,こんにちのわたしたちが感じているものと,まるで違う。ゆったりと流れているというか,いや,違う。「まあちゃん」は疲れてしまうとすぐにごろりと横になり,いちごを食べる。しばらくするとまた歩きはじめる。そして,また,すぐにごろりと横になりいちごを食べる。それに黙って付き合っているわたし。ときおり,時間を気にはするのだが,日没前に山小屋に到着するかどうかが心配になるときだけ。あとは,まったく無頓着。

それでいて,山の自然とはみごとに向き合いながら,ぞんぶんに楽しんでいる二人。しかし,とうとう高山病のために一夜明けたつぎの日には下山する。なんとも,ゆったりとした時間の経過。こういう時間をわたしたちはすっかり忘れてしまっている。しかも,男と女の,とろけるような関係を大事にする竹久夢二の感性が,あの絵と同じように伝わってくる。

今福さんは罪な人である。こういう文章を『むかしの山旅』の冒頭にもってくる。超有名人たちの「山旅」の文章を集めたアンソロジーだから,どんな順番に並べてみても,なんの不思議もない。しかし,トップ・バッターは竹久夢二をおいてほかにはないのだ。今福さんは,そこに鋭く反応して,冒頭に竹久夢二をもってきたに違いない。

わたしは,まんまと,今福さんの戦略にはまってしまった。
くわえて,主人公の女性が「まあちゃん」である。わたしの子どものころの呼び名も「まあちゃん」。男と女の違いはあるものの「まあちゃん」に変わりはない。だから,文中に最初に「まあちゃん」が登場したときには「エッ」とおもって立ち止まってしまう。それが,また,じつに効果的にわたしのこころに食い込んでくる。そして,この「まあちゃん」に親しみを感じてしまう。これは理屈ではない。情緒の問題だ。理性もなにも関係ない。心地よい,それだけで十分。

この感覚を久しぶりに思い出した。からだが思い出している。頭の記憶ではなく,からだの記憶として。今福さんが,このアンソロジーを思いついたのも,たぶん,ここにあるのだろう。頭の記憶の山旅ではなく,からだに刻み込まれた山旅の記憶を呼び覚まそうと。

ほんのひとむかし前の「山旅」は,こんなにものどかに,ゆったりとした時間の流れのなかで満喫されていたのだ,と。では,この数十年,あるいは,たった100年の間に,なにが変わってしまったというのだろうか。ここを思い返すべし,と今福さんは警告しているようにわたしには伝わってくる。

そのための,冒頭の仕掛けが,竹久夢二の文章なのだ。そして,みごとにそれは成功している。だって,まんまとこのわたしは引っかかってしまったのだから。

この本は読みはじめたら止められない。このあとにつづく芥川龍之介の文章は,たった8ページだ。短編の名人の,たった8ページの「山旅」の文章がどのように書かれているのかは,読まずにはいられない。そして,そのつぎには大町桂月とつづく。

ああ,今夜は眠れない。
ずっと前に送っていただいていたのだが,『スポートロジイ』の仕事が一区切りつくまでは・・・と禁欲の時間をやり過ごしていた。その反動というべきか。今夜こそは,その禁欲を解いて,好きなだけ読んでいいことにしよう。こんな夜もあっていい。これもまた人生。

『スポートロジイ』創刊号の刊行に目処がつく。

21世紀スポーツ文化研究所の新しい研究紀要『スポートロジイ』の刊行にようやく目処がつき,ほっと一息です。今日(1日)の午後,みやび出版の伊藤さんと最終的な打ち合わせを済ませ,これでなんとか峠をひとつ越えたなぁ,という感慨一入というところ。

すでに,初校ゲラがでていて,各執筆者による校正にまわっていましたが,最後の原稿となった「創刊のことば」と「編集後記」が残っていました。この二つの原稿をなんとか書き上げて,ようやく創刊『スポートロジイ』の全体像ができあがり,本としての目鼻がついたという印象です。

「創刊のことば」は,なぜ,いま,このタイミングで「スポートロジイ」なのか,ということについてわたしなりの思い入れを籠めて書きました。「3・11」を通過したいま,わたしたちは「後近代」に突入したという認識に立ち,「近代」という時代をささえてきた「体育学」でも「スポーツ科学」でもなく,「スポートロジイ」(Sportology=「スポーツ学」)でなければならない,と声高らかに宣言しました。ですから,「創刊のことば」のタイトルは「スポーツ学事始め」。

そして,「編集後記」は,「スポートロジイ」という和製英語を造語してまでして,「3・11」後のスタートを切らなければならなかった,わたし自身の思考の経緯を書きました。少しくどいと言われそうですが,それでも,この,いまの,熱い情念を,できるだけ素直に表出しようと覚悟を決めて書きました。とりわけ,狂気と化してしまった「理性」の権化,すなわち「科学」神話からの離脱と移動に力をそそいだつもりです。ピエール・ルジャンドルの表現を借りれば「テクノサイエンス経済」を,いかにして超克していくのか,ということです。それにしても「テクノサイエンス経済」という表現のみごとなこと。このことばに「脱」と「依存」をつけてみるとよくわかります。「脱テクノサイエンス経済依存」,これはそのまま「脱原発依存」にぴったり当てはまります。これから愛用したいとおもっています。

「脱科学依存」を気づかせてくれた『理性の探求』(西谷修著,岩波書店)の合評会での西谷さんのお話をトップに掲載(厳密にいえば,再掲載)した理由を,上に書いたようなこともふくめて,書きました。そのさわりの部分は,「生きもの」としての人間にとっての<理性>を復権させること,という西谷さんの主張をわたしたちはどのように受け止め,スポーツ学的に継承していけばいいのか,とみずからに問いを発しながら「スポーツにとって<理性>とはなにか」を考えてみました。

その応答のひとつが,わたしの書いた「研究ノート」です。それは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』読解をとおして浮かび上がってくる<理性>の原イメージです。つまり,ヒトが動物の世界から離脱して,人間の世界に一歩を踏み出した,その瞬間から立ち上がる自己意識=理性とはどのようなものであったのか,という議論です。じつは,スポーツ(あるいは,スポーツ的なるもの)もまた,そのことと表裏一体となって立ち現れる,人間に固有の文化なのです(このような表現は,いま,初めて出てきたもので,書いているわたし自身が驚いています)。ですから,スポーツとはなにかと問うことは,同時に,人間とはなにかと問うことと同義なのです。

すなわち,「スポートロジイ」=「スポーツ学」は,「人間学」ともイコールなのです。「スポーツ学事始め」はここからスタートするのだ,と。

なんだか,書いているうちに,またまた,熱くなってきました。
自画自賛するわけではありませんが,ひとつの明確なコンセプトを貫き通した,すっきりとした本になったとおもっています。

刊行されましたら,ぜひ,ご一読いただき,ご批判をいただければ幸いです。
一般の書店にも並びます。
広告も打ちます。伊藤さんの言うには『東京新聞』だそうです。伊藤さんの身辺では『東京新聞』に乗り移る人が多いので,ここに打つことにした,とのこと。この話もまたわたしにとっては嬉しいかぎりです。その理由は,すでに,このブログにも書いたとおりです。近日中に掲載されるそうですので,『東京新聞』愛読者の方は,眼を光らせていてください。
刊行予定は5月末。実際には,25日を目標に追い込むとのこと。できれば,25日に何冊かいただいて,26日(土)の名古屋の月例研究会にもっていきたい,と楽しみにしているところです。

ということで,肩の荷が一つ降りた,というご報告まで。