2012年9月30日日曜日

「おいしそうだねぇ」「味見してみる?」から始まる食品売り場の「催し物」での会話。

  食事の支度をするようになって,まもなく1年が経過する。お蔭で世の中が少しだけ広くなった気がする。それまでは,よほどのことがないかぎり食品売り場などに出向いて買い物をすることもなかった。だから,食品の値段もまともには知らなかった。たとえば,チリ産のさけが安いとか,ほっけの干物も大きくて安いとか。たまごの値段もピンからキリまであるとか。豆腐もこんなに種類があるかとか。納豆を食べ比べてみると値段と味の関係がほとんど一致するとか。

 最近はもうひとつ楽しみが増えた。売り手と買い手の会話である。
 昨日の夕方の収穫をひとつ。
 食品売り場に特設された「催し物」コーナーでの話。

 おいしそうな煮物がパックに入って並んでいる。大根,さといも,竹の子,わらび,こんぶ,などの煮物がそれぞれ単品でパックに入っている。どれも1パック「570円」とある。とおりすがりに「おいしそうだなぁ」と思いながら品定めをしていたら,店番をしていた人の好さそうなおばちゃんが大きな声で客の呼び込みをはじめた。またたくまに人が足を止めて眺めている。今日はもうおかずになるものは買った(とりのもつの煮込み)から,もういいや,と思ってそこを離れようとした。すると,おばちゃんが「お父さん,3パックで1,050円にするから買っていってよ」という。「えっ?」と思って素早く計算をしてみる。1パック570円を3パックにすれば1,710円ではないか。それを1,050円にするという。2パックでも1,140円だというのに。こうなると人間は弱い。ただでさえ「おいしそうだなぁ」という下心がある。ならばという気持になり,再度,おばちゃんに「3パックで1,050円なの?」と確認してみる。「そう,どれでも3パック1,050円だよ」とおばちゃん。一瞬,目が合う。ほんとだよ,という目をしてニコニコしている。こういう目なざしに弱い。

 よしっ,と決断をして,さといも,竹の子,わらびの三つを選ぶ。しかし,大根の煮物がとてもおいしそうだったので,おばちゃんが包んでくれている間に,「大根もおいしそうだねぇ」と声をかけてみる。すると,すぐに「味見してみる?」といって紙の皿に一切れポンと乗せてわたしてくれる。「こんなに大きくなくてもいいよ」「気持だから」「悪いねぇ」「無理して買わなくてもいいよ」「ありがとう」と会話がはずむ。もう,すっかり友だち気分。暖簾に深川・〇〇店と買いてある。「深川からきてるの?」「そうだよ」「深川はむかしから煮物をやってるの?」「そうだよ。うちの店はもう何代目かわからないほど古いよ」「そう。その味がしみこんでるんだ」「そうそう。いいこと言うねぇ。お父さん」という具合に話は途切れない。

 大根にはほのかにイカの味がした。すかさず「イカのいい味がしてるねぇ」「お父さん,いい舌もってるねぇ。そう,イカのゲソを入れてある」「企業秘密じゃないの?」「そこからさきは,ヒ・ミ・ツ」と言ってにっこり笑う。とても健康そうな明るい笑顔がいい。

 いま,大根が安い。よしっ,明日は大根を買ってきて炊いてみよう。ゲソも買ってきて。あとは,おでんの素でも買って・・・などと楽しい妄想がふくらむ。ほんのちょっとした日常のなかの会話がとても楽しいということを,いまごろになって気づいた。これも台所に立つようになってからの,想定外の収穫であった。

 スーパー・マーケットは品数も豊富でまことに便利だ。コンビニもなにかと便利だ。しかし,いずれも,品物を駕籠に入れてレジにもっていき,勘定をして終わり。ひとこともしゃべらない。自動販売機や電車の切符にしてもいまはカードですべて処理されてしまう。なにもしゃべらない。それを「便利」だと思い込んでいる。たしかに便利ではある。しかし,その「便利」さには大きな落とし穴が待っている。そのことはいまは触れないでおく。

 同じ食品売り場に,比較的よく利用するコロッケ屋さんがある。ここはとても繁盛している。安くておいしいから。しかも,若くてきれいなお姉さんが立っている。ここではお客さんと余分な会話をしてはいけないと躾けられているのか,声をかけてもほとんど返事をしない。「ここのコロッケ,おいしよね」と勇気を奮い起こして声をかけてみる。すると,判で押したように「ありがとうございます」という返事。ニコリともしない。それで終わり。

 その点,日本の各地からやってくる食品の「催し物」コーナーの売り手は面白い。第一,気合が入っている。血の通った人間だと顔に書いてある。ひとつ尋ねれば,何倍にもなって返ってくる。こちらも面白くなってツッコミを入れる。ますます面白くなってくる。むかしの小売屋さんは,八百屋さんも,魚屋さんも,コロッケ屋さんも,みんなこうした会話をお互いに楽しんでいたものだ。それがすっかり姿を消してしまった。「機械」に乗っ取られてしまったのだ。そのために,人が生きていく上でもっとも大事なことを失ってしまった。人と人との会話である。絆のはじまりは,まずは,挨拶であり,会話からだ。

 生身の人間を置き去りにした文明という名の「からくり」が,少しこころを落ち着けて考えてみれば,すぐに見えてくる。原発はその最後の「からくり」だ。この「からくり」をどうやってコントロールするか,「3・11」後を生きるわたしたちの最大の課題でもある。

 「おいしそうだねぇ」「味見してみる?」
 「お宅の柿はよう熟れてますか」「いまが食べごろですよ」(これは夜這いの許諾をえるための会話・赤松啓介の著書による)
 絆のはじまり。

「指定廃棄物」最終処分場設置。栃木・矢板市民「NO」,茨城・高萩市民「NO」。当然だ。

 ニッポン国政府を筆頭に,この国の中枢部を動かしている人たちには「人のこころ」をもった人間はひとりもいないのだろうか。やることなすこと,人の道にはずれている。その最たるものが原発推進だ。あたかも脱原発依存であるかのようにみせかけておいて裏切った民主党だけかと思っていたら,自民党の総裁候補全員も原発推進だった。もはや,原発推進は既成事実となりつつある。この民主党のいい加減ぶり(優柔不断,無責任,詐欺師)と,自民党の徹底した「タカ派」ぶりを,わたしたちは肝に銘じておこう。そして,きたるべき総選挙で,きちんとした結果を出すべく,いまから覚悟を決めておこう。

 「人のこころ」を失ってしまった人たちのやることは行き当たりばったり。フクシマの原発事故で発生した「指定廃棄物」(妙な名前をつけるものだ。これもまたまやかし言語の典型だ。はっきりと「放射性物質」といえない苦肉の策。子供騙しもいいところだ。もっと堂々と「原発ゴミ」といえばいい。)の最終処分場の候補地選びも行き当たりばったりだ。ある日,突然,担当大臣(あるいは,副大臣)が現れて,説明がある。だから,寝耳に水。虚を突かれるようにして,候補地に指定された方はいい迷惑だ。

 栃木県の矢板市には,わたしの親しい友人が住んでいることもあって,びっくり仰天した。すぐに矢板市民は立ち上がり,「NO」をつきつけた。と思っていたら,こんどは茨城県の高萩市ときた。こちらにも長い間,親戚づきあいをしている一家が住んでいる。今日の新聞によれば,予定していた「市政について市民と語り合う懇談会」を,急遽,最終処分場問題に切り替えて,市民の声を聞いたという。もちろん,市長をはじめみんな反対。一致団結して「NO」の意思表明をしていこう,ということになったらしい。当然だ。

 しかし,「国への法的な対抗措置はない」ので,「NO」の声が小さいと着々と工事は進められてしまうという。つまり,自治権はないのだそうだ。だから,いよいよになれば国による強行突破もありえるということなのだ。だとすれば,よほど強烈な反対運動を展開しないことには,国に対抗できないことになる。

 この構図は,沖縄のオスプレイ配備と同じだ。沖縄については,県知事を筆頭にすべての市町村長が反対を表明し,すべての議会で反対議決を出しているにもかかわらず,国は強行配備に踏み切る構えだ。市民団体はからだを張って「座り込み」の構えだ。すでに,28日には「座り込み」に入った市民と警察とがもみ合っている。折しも台風の襲来で痛み分け。仕切り直しになっている。それでも,国は強行配備の姿勢を変えてはいない。こちらはアメリカ絡みの話だから,なおさら始末が悪い。

 沖縄の事例を考えると,矢板市も高萩市も,安穏としていられる場合ではない。沖縄と違うのは,こちらは単なる国内問題。国と地方自治体との関係だ。しかし,それでもいまの民主党政府はなにをやりはじめるかは確証がない。なんでもありの政治手法だから。

 こんな具合に,「原発ゴミ」の最終処分の方法すらなにもない,場所も確保されてはいない,まったく展望もえられていないのに,片や,原発推進(再稼働,工事続行)へと平気で舵を切っていく。こんな,小学生でもわかる「矛盾」をなにくわぬ顔をして推し進めることのできる人種なのだ。これを「人非人」と言わずして,なんと呼ぼうか。「人のこころ」をどこかに置き忘れてきた人たちの集団,いやいや,ものごとの筋道すら考えようとはしない「理性喪失」人間の集団,それがいまのニッポン国政府のありのままの姿なのだ。情けないかぎり。

 かくなる上はとばかりに,脱原発デモは広がりをみせ,金曜日夜の首相官邸前の抗議活動だけではなく,こんどは原発推進を自認している自民党本部前でも行っている。さらには,経団連会館前でも行っている。やがてはアメリカ大使館前か。

 ニッポン国の根幹をなす意思決定,原発推進か,脱原発か,を問う天下分け目の決戦が繰り広げられつつある。その一方では,みんなで決めよう「原発」国民投票,という運動も展開している。いよいよなにかが始まろうとしている。そんな予感でいっぱいだ。

 こんな情況にあってもなお,「わたしは原発推進でも,反対でもない」とかつてのたまった著名な評論家や作家は,いまも平然としているのだろうか。いまもって前言を取り消すという発言を耳にしていないが・・・・。この人たちもまた「思考停止」以外のなにものでもない。それだけではない。賛成でも反対でもない,ということは原発を「容認」していることと同じだ

 矢板市にも,高萩市にも,いよいよとなったら応援にでかけるつもりでいる。いまは,行動するときだ,と考えるから。沖縄と同じことが,いま,矢板市と高萩市で繰り広げられようとしている。ひとりの人間として,熟慮と行動を,とわが身に語りかけながら・・・・。







2012年9月29日土曜日

「オリンピックに未来はあるか」「NO!」,講演用レジュメ作成。

  10月2日(火)の午後,講演を依頼されていたことは念頭にあったのですが,もっとさきのことだと思いこんでいました。そうしたら,事務局担当者から,レジュメを送ってくれることになっていたが・・・,と遠慮がちのメールの督促がありました。そうか,いつしかもう9月の月末になっていると気づいて大慌てでこれからレジュメの準備にとりかからなくてはなりません。

 このところ,日馬富士の横綱昇進やら,領土問題やら,オスプレイ問題やらで,わたしの思考は完全にこちらの方向に向っていました。おまけに締め切りの切れた原稿を昨夜,ようやく書き上げたばかりです。ですから,そうそう簡単にオリンピック問題に頭をシフトすることはできません。そこで窮余の策を立てることにしました。つまり,講演に向けてのウォーミング・アップを兼ねて,講演に関するブログを書いてみようと思い立ちました。講演のタイトルは「オリンピックの未来について考える」です。

 このタイトルはロンドン・オリンピックの少し前に決めたものでした。最初は「オリンピックについて,なにかお話を・・・」という依頼でした。しかし,オリンピックが終わってみないことには,なにを,どのように絞り込んだらいいかはわかりません。そこで,どんなことがあっても話の展開はできるのではないかと考え,こんな間口の広いタイトルにしておきました。

 ところが,さて,いよいよレジュメを作成するとなると,まあ,なんと大きなテーマを設定してしまったものかと腕組みをして考え込んでしまいます。どんな話をしてもよさそうなテーマというものは,どんな話をしても的に当たらないことをも意味しています。そんなことが,いまのいまになってわかるというのも情けない次第です。

 こうなったらもはや居直るしか方法はありません。
 でも,折角与えられたチャンスですので,これまで言いたくてもなかなか言うことができなかった大胆な仮設について,この際,思い切って言ってみようか,とたったいま考えているところです。

 たとえば,「オリンピックに未来はあるか?」「No!」というような・・・・。
 では,なぜ,「No!」なのか?
 その理由,根拠はなにかを,一つひとつ取り上げて説明していくという方法はどうだろう。
 これなら,いくらか興味をもって聴いてもらえるのではなかろうか。
 わたしの話もそれほど脱線することなく進みそうだし・・・・。
 かりに脱線したとしても,すぐに,もとの本題にもどることができるだろうし・・・・。

 では,「オリンピックに未来はない」と断定する理由,根拠はなにか。これをこれから考えればいい,というわけです。いま,これを書きながら,たったいま頭に浮かんできていることを書いておけは以下のようになります。

 再度の「東京オリンピック招致運動」がいまひとつ盛り上がりを欠いています。都民のみなさんも,あまり強い関心を示そうとはしていません。むしろ,無関心の人の方が多い,と聞いてきます(アンケート調査など)。ここに「オリンピックに未来はない」と断定する理由・根拠のひとつがある,とわたしは考えています。それは,「いま」を生きているわたしたちにとって,オリンピックよりももっと大事なこと,重大なことがある,ということです。それはなにか?

 「3・11」以後は,とくに,それが顕著になってきているように,わたしは思います。
 もう一度,大きな地震が襲ってきて,ふたたび大津波が押し寄せてきたらどうなるのか,という潜在的な不安があります。しかも,都心直下型の大きな地震もかなりの確率で予想されています。そうしたときに,いまだに収束をみないフクシマ原発はどうなるのか。その他の活断層の上にある原発はどうなるのか。第二のフクシマが起きたら,もう,なにもかもおしまいになる。おまけに,富士山の火山活動がはじまるという予想も現実味を帯びてきています。

 こういう根源的な「存在不安」に,無意識のうちにわたしたちは苛まれています。
 もう少しだけ踏み込んでおけば,地震・津波・火山といった地球の自然の活動による不安と,原発というコントロール不能な人為的な文明の利器による不安の,二つの不安の間に挟まれて,どうにもならない「宙づり」状態にわたしたちはいま置かれているということです。

 では,なぜ,原発というようなコントロール不能な科学技術に,わたしたちは夢を託すことにしたのでしょうか。それは「科学神話」によるものでした。科学は人類が不可能だと思ってきたことをつぎつぎに可能とさせるマジックとして,とりわけ,近代に入って機能してきました。この「科学神話」を構築していく上で,じつは,オリンピックは大きな貢献をしてきました・・・・(以下,省略),というのがわたしの大胆な仮設というわけです。

 結論としては,オリンピック・ムーブメントをこれからも支えていくということは,同時に,原発もまた推進していくことになる,つまり,オリンピックと原発は同根異花である,と。

 ここでは,スペースの関係できわめて短絡的な論理の展開しかできませんが,これを講演ではできるだけ丁寧に説明してみてはどうだろうか,とたったいま考えている次第です。

 さて,これで方針は決まりましたので,その骨子をレジュメに整理してみようと思います。
 最後に,当日の講演の時間・場所などの情報を書いておきましょう。

 日時/平成24年10月2日(火)13時30分~15時30分
 会場/世田谷区立老人会館 体育室
 参加費/無料 先着100名
 〔お問い合わせ〕
 世田谷区生涯大学事務局(老人会館内)
 住所/世田谷区若林4-37-8
 Tel/3419-2341
 Fax/3413-9444

 興味をお持ちの方は,ぜひ,お出かけください。





2012年9月27日木曜日

『辺野古浜通信』を読んで,オスプレイ問題の「核心」を知る。

  親しくさせていただいている岩波の編集者Nさんから『辺野古浜通信』(Webマガジン)が転送されてきた。開いてみると,驚愕すべき情報がそこに盛り込まれていて,わたしは驚いた。これまでヤマトの人間として,オスプレイの問題にどう取り組めばいいのか,ということについてはわたしなりに考えてきたつもりだ。しかし,ウチナンチューの立場に立つ見方は,残念ながらあまり考えたことがなかった。わずかに,新聞などで報じられた「沖縄県民総決起集会」(約10万人が参加)に関するもの(声明文,など)のレベルでしかなかった。だから,きわめておざなりな情報に甘んじていた,というわけだ。

 だから,この『辺野古浜通信』を読んで,あっと驚いた。9月26日現在の時点で,迫りくるオスプレイ移送に対して,からだを張って全基地の機能をマヒさせようと呼びかけているのだ。題して「覚悟を固めるとき・・・普天間飛行場および全基地の閉鎖に向けて」。

 その書き出しから圧倒されてしまう。
 その部分をそのまま引用しておこう。

 「配備強行なら全基地閉鎖」と2012年7月1日,沖縄県知事は語った。

 強行配備されてしまえば,沖縄から「自治」がなくなる。
 40年間,沖縄県下の自治体は,憲法,地方自治法に則り,基地を縮小するよう,被害をなくすよう議決を繰り返してきた。
 いまや沖縄県下全自治体がオスプレイ配備反対を決議している。

 著作家で元名護市議の宮城康博氏はこう語る。
 「それでもなお日本国がオスプレイ配備を強行するのであれば,もはや沖縄の自治はない」「主権者一人一人の一票で選ばれた議会議員は,その存在をかけ,最前線に立ち,逮捕されなければならない」と。(沖縄オルタナティブ・メディアより)

 県知事,那覇市長をはじめとした首長たちも同様だろう。
 日本国がオスプレイを強行配備するということは,沖縄の自治と歴史と人間を否定し,沖縄を,今以上に植民地化するということだから。

 以上が引用文。
 じつは,わたしはここまでは考えていなかった。「日本国」というこの突き放された,完全に他者化されたもの言いに,わたしは圧倒されてしまう。そして,その日本国が,アメリカと結託して,オスプレイを沖縄に強行配備するということは,沖縄の自治を完全に無視するのみならず,暴力的に否定する行為である,と論じている。だから,それはとどのつまり沖縄の歴史と人間を全面否定することだ,と。すなわち,完全なる植民地化することだ,と。

 恥ずかしながら,わたしはそこまでは考えていなかった。日本国のなかでただ一県だけ,沖縄県(沖縄県民)だけが民主主義を否定され,自治権まで奪われてしまうという,とてつもないことを意味しているとは・・・・。ということは,お前らは黙って日本国の言うことに従えばいいのだ,とまるで奴隷扱いをすることと同じではないか。植民地化するということの実態はそういうことなのだ。

 ここまで理解できたとき,わたしは慄然としてしまう。
 では,お前はどうするのだ,と天の声が聞こえる。

 この『辺野古浜通信』はさらに,「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の高里鈴代さんの覚悟を伝えている。それによると,「逮捕されても生活に影響の少ない65歳から75歳」を中心に,抗議行動に打ってでる準備をしている,と。これは,どう考えても「逮捕覚悟の行動」に打ってでるという強い決意が伝わってくる。裏を返せば,「65歳から75歳の女性」が抗議行動の先頭に立つということだ。

 こうなると県知事も那覇市長も,すべての首長たちや,すべての議会議員たちも,総動員で抗議行動に打ってでるしかないだろう。そうしてみんな逮捕されてしまえばいい,と『辺野古浜通信』は檄をとばす。なぜなら,どうせ「自治」がなくなってしまうのだから。つまり,知事も市長も議会議員も不要の存在になるのだから,と。そうして,沖縄の刑務所にすべての首長・議員が収容されればいい,と。そうすれば,「日本国」は世界中の恥さらしになるのだから,と。

 こんな「覚悟」をもって29日を迎えようとしている沖縄県民の人びとの心中を考えると,いてもたってもいられない気持になってくる。わたしはまだ「75歳」の手前だから,男性ながら抗議行動の先頭に立つ資格がある・・・・とも考える。

 そして,『辺野古浜通信』は最後に述べている。こんどの運動はこれまでの運動とはまったく異なるものになる。これまでは自治権の範囲内での運動であったが,こんどは自治権の<外>にでることを「覚悟」しての運動である,と。これは恐ろしい事態の出現を予告しているようなものだ。つまり,植民地の奴隷となって生き恥をかくくらいなら,わが名誉(良心)を守るためにわが身を捨てて,求めて刑務所の収容者になろう,という「覚悟」が透けてみえてくる。こうなると,運動がどれほど過激になろうとも,もはや,とどめようがない。

 その先頭に「おばあ」が立つ。
 前代未聞の抗議行動がこれから展開されようとしている。これを黙って見過ごしていていいのか,とわたしのなかの「良心」がうずきはじめている。眠れぬ夜がはじまる。



2012年9月26日水曜日

みんなで決めよう「原発」国民投票の活動家の笑顔が美しかった。

 「原発」を国民投票で決めようという運動が,その輪を広げつつあるという話は聞いていた。しかし,実際に,どこで,どのような活動をしているのかは,これまで接点がなかったのでまったく知らなかった。また,マス・メディアはほとんど無視なので知るすべもなかった。もちろん,手をつくせばすぐわかることだが,横着をしていた。

 そうしたら,今日(25日)の夜,鷺沼の事務所から帰宅するとき,溝の口の駅前コンコースで中年のご婦人がひとりで立って,なにやらビラを配布している。少し違う雰囲気を感じたので,それとなく観察しながらとおり過ぎようと思っていたら,その手前4,5mのところで偶然,目が合ってしまった。すると,すーっとわたしのところに近づいてきて,はっきりとした物言いで「原発を国民投票で決めよう」という活動をしています,と言ってビラを渡してくれた。あっ,そうだったのか,とピンとくるものがあった。わたしは歩きながらそのビラを読みはじめた。すると,そのご婦人はあとを追うようにして説明をしはじめた。

 わたしはさきを急いでいたこともあって,「だいたいわかっているつもりです。ありがとう」と軽くお断りした。すると,ちょっと残念そうな顔をされたので,すかさず「運動,ご苦労さまです。感謝しています」と声をかけた。その瞬間,ご婦人の顔は,パッと輝くような笑顔になった。その笑顔がとても美しかった。あっ,喜んでくれたと感じた瞬間,こんどはわたしの方が満面の笑顔になっていた。ほんの1秒にも満たないほどの短い時間であったが,お互いに同じ笑顔になれた,と感じた。

 なにか,とても嬉しかった。見ず知らずの人からビラを受け取り(だいたいは不愉快なことが多い),ちょっとした会話をとおして瞬間とはいえ気持のなにかが通い合った,と思えたことが。こんなことは滅多にあることではない。この都会の殺伐とした砂漠のようなところに住む人間の顔はほとんど死んでいる。お互いにことばを交わすこともない。みんな知らん顔である。もちろん,かく申すわたしとて同じだ。

 通勤帰りの人でごった返す駅前コンコースで,こんな出会いがあるとは夢にも思わなかった。こんな些細なことでもいい。ほんのちょっとしたひとことふたことの会話が成立し,なにかが伝わった瞬間は気持がいいものである。やはり,もっと声に出して話をしてみることが大事なのだ。わかっていてもなかなかできない。それは,店員さんとの会話も同じだ。ちょっとしたユーモアをはさむだけで,とたんに親しさが伝わりはじめる。これからできるだけ努力してみよう。生きていることが楽しくなるように。

 帰宅してからゆっくりとそのビラを読んでみた。ビラは全部で3枚(A4サイズ)あった。そのうち2枚は少し厚手の上質紙にカラーで印刷されていた。しかもみごとなデザインがほどこされている。どういう団体なのだろう?と思って読んでいくと,市民グループ〔みんなで決めよう「原発」国民投票〕事務局とある。ビラの内容も上手につくってあって無駄がない。国民投票が実現した場合の設問(第4次市民案)まで提示してある。そして資金はすべてカンパによっていることもわかる。

 ビラの内容を少しだけ紹介しておくと以下のようである。
 ☆おまかせ民主主義から脱却しよう!
 ☆「原発」国民投票を実現するために・・・・・。
  1.署名をしてください。
  2.会を支え,動かす「賛同人」になってください。
  3.カンパのご協力を。
 そして,署名の仕方,賛同人になる手続,カンパ振り込み先がわかりやすく説明してある。

 賛同人は6月末現在約6,000人とある。そして,著名人の名前が32名ほど紹介されている。その中には谷川俊太郎,辻井喬,藤原新也,山口二郎,宮台真司,吉岡忍,などの名前がみえる。いまは,賛同人の数も,もう少し増えているのだろう。

 もう一枚のビラは,ごくふつうのコピー紙に白黒のコピー。こちらは映画の上映のピラだ。
 「シェーナウの想い」(Das Schoenauer Gefuehl)──ドイツの小さな街の市民の手で電力会社をつくった実話,というドキュメンタリー映画の案内。
 日時:10月6日(土)13:30~
 参加費:無料(カンパ大歓迎)
 場所:カソリック藤沢教会センターホール(藤沢駅から徒歩3分)
 主催:みんなで決めよう「原発」国民投票 神奈川
 こちらは映画の上映後に,さまざまな企画が用意されていて,なかなか勉強になりそう。

 ビラを手渡してくれた,あのご婦人の笑顔が脳裏に深く刻み込まれたせいか,なんとなくカンパしてみようかという気になっている。そして,藤沢まで足を伸ばして,この映画をみてみたいとも思っている。そして,そのあとに企画されている催し物にも顔を出してみようかと思っている。

 これまで部屋に籠もって考えることはやってきたが,そしてデモに参加したりもしてはきたが,地道な長期にわたる活動には手を染めてきてはいない。少しは地に足をつけた活動にも参加すべきではないか,とそんなことを考えはじめている。これがきっかけになるかも・・・・。まずは,現場に立って,からだで感じることからはじめようと思う。

 


2012年9月25日火曜日

西谷修さんのブログ「オスプレイ強行配備反対の声明」は必読。

 今日(25日)の西谷修さんのブログは必読ですので,お薦めします。

 じつは,事前に,24日の午後,参議院議員会館でオスプレイの強行配備反対の声明を発表し,記者会見をするという話を聞いていましたので,昨夜のテレビと今日の新聞をチェックしていました。が,テレビはもちろん,『東京新聞』もひとことも取り扱ってはいませんでした。そんなバカな・・・と思ってネットをあたってみたら『毎日新聞』がとりあげていました。ほかにもあったかも知れません。

 で,いつもながらのことだとは覚悟していましたが,あまりにガッカリして,西谷さんのブログを開いてみました。そこには手際よく,昨日(24日)の記者会見のことが書かれていました。タイトルは「オスプレイ強行配備反対の声明」。声明文も全文,紹介されていますので,じっくりと読むことができます。箇条書きにされた,とても簡潔に要領をえた声明文になっています。

 この西谷さんのブログのなかに,昨日の記者会見の映像が流れていることが書いてありました。Ustreamで流れているので,ここをクリックせよという印があって,⇒IWJ(インターナショナル・ウェブ・ジャーナル),とありまた。早速,開いてみました。

 「120924 オスプレイの沖縄配備に反対する学者・文化人共同声明発表」(63.39)というタイトルが現れて,ほぼ1時間の記者会見が流れてきました。元『世界』の編集長の岡本さんが司会をつとめ,3人のコメンテーターが並び,順番にひとりずつ主張を述べています。西谷さんは一番最後に登場(25分後くらいから)。

 短い時間のなかで,西谷さんはつぎのようなお話を展開されています。思いつくまま書いてみますと,以下のとおりです。

 オスプレイはアメリカはもとよりハワイでも飛行訓練をすることができないほど危険だから日本に持ち込んできたものであること,それをまたまたオキナワに重点的に配備すること,復帰40年で明らかになったことはヤマトはオキナワの立場を無視していること,日本政府はアメリカのいいなりでしかないこと,だから,オキナワは「自立」の道を探りはじめていること,オスプレイの強行配備は日米安保条約が構造的に破綻をきたしていることの証左であること,日本はアメリカの顔色ばかりうかがってきたために近隣諸国を「友達」にする努力をなおざりにしてきたこと,気がつけば近隣諸国に「友達」がひとりもいないみじめな国になってしまっていること,などなどを,いつものようにじつにわかりやすく語ってくれています。

 ほかの論者の方のお話もなかなか魅力的ですので,ぜひ,この記者会見をご覧になってください。少なくとも,日頃,テレビや新聞紙上に流れている「オスプレイ問題」の見方・考え方とは,一味もふた味も違う,まことに理路整然たる論拠を提示してくれています。たとえば,オスプレイは安全性ばかりが論議されているけれども,それだけで終わってはならない,オスプレイ強行配備の裏にはオキナワの米軍基地を「固定化」する企みが隠されていること,そこまで見通した議論と行動が必要だ,という具合に。

 いよいよ西谷さんが動きはじめた,という印象をつよくもちました。あまりに急なことだったので,いささか驚きましたが・・・・。というのは,19日(水)の太極拳の稽古のときにはまったく話題にもなっていませんでしたから・・・・。急転直下,ある決意をした,ということでしょうか。

 ついでに書いておきますと,28日(金)には「領土問題」に関する声明文の発表と記者会見が予定されています。いま,声明文が西谷さんからわたしのところにもとどいていて,署名集めのお手伝いをさせてもらっています。声明文のタイトルは,「領土問題」の悪循環を止めよう──日本の市民のアピール(2012年9月28日),です。いま,メディアを流れている「領土問題」とはまったく異なる,まことに穏当な論理が展開されています。もし,協力する意志をお持ちの方は,わたしのところにご一報ください。すぐに,声明文のファイルを転送します。

 最後に,西谷さんのブログは必見ですので,ぜひ,チェックしてください。「西谷修」で検索すれば,ブログにはすぐに到達できます。

 いま,まさに,トータルな意味で(「3・11」以後の復興,原発,オスプレイ,領土,等々,こんにちまでの困難な情況のすべて),日本は大きな,大きな転機に立たされています。ここで道を踏み外すととんでもないことになりかねません。ひとりの人間として,日本国民のすべての人が本気で考えるときだと思います。

 ピンチはチャンスでもあります。大きく日本が脱皮・変身するためには絶好のチャンスでもあります。これからが勝負どころです。そのつもりで,こんごに臨みたいと思います。

2012年9月24日月曜日

日馬富士「優勝より正しい生き方をすること。それを胸に刻んでいる。」

 日馬富士の優勝に興奮して,一夜明けた今朝,ふたたび『東京新聞』で日馬富士優勝・横綱昇進確実の文字を眼で確認しながら,さまざまな日馬富士関連の情報を追っていたら,驚くべき談話が紹介されていて,思わず涙してしまった。

 わたしが「ぐっ」ときてしまった文章を紹介しておこう。

 昇進を確実にした息子に,母は「お父さんなら『思い責任があるからもっと頑張れ』って言う」と天国の父の思いを代弁。日馬富士は「父が喜ぶのは優勝より正しい生き方をすること。それを胸に刻んでいる」と話した。

 「優勝より正しい生き方をすること。それを胸に刻んでいる」・・・・このフレーズを何回,読み返したことか。そして,徐々に,徐々に涙で文字が霞んでいく・・・・ついには,なにも見えなくなって,とうとう嗚咽してしまった。最近,涙もろくなってきているのは承知している。しかし,それだけのせいではない。深い,深い,感動のせいだ。

 「優勝より正しい生き方をすること」などということばを,連続全勝優勝をした力士が吐くとは夢にも思っていなかった。さぞかし「連続全勝優勝」の六文字に酔い痴れているだろう,そして,横綱を手にした悦びにむせんでいるだろうと想像していた。それも人生に一回かぎりのことなのだからいいではないか,と。しかし,日馬富士はそうではなかった。「優勝より正しい生き方」を「胸に刻んで」最優先させている。もう,すでにして立派な,それももっとも大事な心構えとしての「横綱」の品格を備えているではないか。そこに大いなる感動をしたのだ。

 ところが今日の『毎日新聞』の上鵜瀬浄記者は「品格欠く?変則仕切り」という見出しの記事を書いている。日馬富士が,制限時間いっぱいになった最後の仕切りの仕方が「品格を欠く」というのだ。加えて相手力士の「目も見ていない仕切り」と糾弾する。そして,「いつでも誰が相手でも堂々と受けて立つべき横綱に,ふさわしくない」と断じている。

 上鵜記者は双葉山というかつての名横綱がよほど好きらしい。その好き嫌いはともかくとして,「堂々と受けて立つべき横綱」というのはひとつの理想であって,それを実行した横綱をわたしは寡聞にして知らない。制限時間前に横綱につっかけた力士はなんにんかいたが,いずれも横綱に無視されて,立ち合いは成立していない。現代の大横綱白鵬だって,自分の呼吸で立つことに専念しているし,先手をとるべく「張手」や「かち挙げ」を多用している。その白鵬が大尊敬しているのが双葉山だ。

 こうして一つひとつ反論をしたいが,無駄だと気づく。なぜなら,相撲の見方・考え方が基本的なところで違うからだ。相撲を「部分」でみてはいけない,これがわたしの見方だ。相撲をトータルでみる。そして,力士の個性を楽しむ。みんながみんな同じ所作をしはじめたら,それはロボットと同じだ。「塩をたくさん撒きすぎる」といって注意を受けた力士がいた。仕切りが後ろすぎたり,前すぎたり,横を向いていたりして,あまりに変則だといって注意を受けた力士もいた。それは立ち合いに影響するからという理由であった。

 しかし,日馬富士の最後の仕切りは,土俵の神様に捧げる「祈り」の儀礼であることを上鵜記者は理解していないらしい。日馬富士の相撲は全身全霊を籠めて「祈り」を捧げている,とわたしは受け止めている。だから,土俵に上がったら,むやみに相手の眼はみない。土俵の上に漂う神様の「気配」を感じとり,その土俵の神様と対話・交信をしようと意識を集中している。つまり,自己にあらざる自己になろうとしているのだ。もっと言ってしまえば,「自己を超えでる」ことによって,稽古で鍛えた「力」以上の,さらなる「力」を神様から賦与してもらおうとしているのだ。

 だから日馬富士の仕切りは奇を衒うようなものとは質が違う。次元が違う。神に近づきたいという願望から,少しずつ少しずつ構築された,日馬富士に固有の,気持の籠もった「仕切り」なのだ。これをわたしは「個性」という。この「個性」を批判することはできない。善悪の彼岸を超えでていく「個性」なのだから。

 この,自己と向き合いながら,みごとなまでに自己の内面の奥深くまで見据えながら,徹底的に追究された,日馬富士の究極的な個性的で美しい「仕切り」を,「品格欠く?変則仕切り」にしか見えない上鵜記者の眼を疑いたい。優れた力士は人間と神の間を「仲立ち」する領域にまで踏み込んでいく。もともと力士とはそういう存在なのだ,という認識をもってほしい(新田一郎『相撲の歴史』,宮本徳蔵『力士漂泊』,などを参照のこと)。そこから大相撲をみるとき,大相撲の世界がまるで別世界にみえてくる。異次元の世界がそのさきに広がっている。日馬富士の相撲はその域に達しようとしているのだ。

 日馬富士が大横綱として大成するかいなかは,この異次元の世界にどこまで踏み込むことができるかにかかっている。あの「祈り」の儀礼ともいうべき日馬富士特有の,きわめて個性的な,美しい「仕切り」を,来場所からも大いに楽しみにしたいと思っている。

 「優勝より正しい生き方」・・・・これを胸に刻んで,日々,猛烈な稽古に励み,こんにちの「心・技・体」をつくりあげてきた日馬富士のどこがいったい「品格に欠ける」というのであろうか。

 優勝劣敗主義に毒されてきたわたしたちのスポーツ観に対して,伝統スポーツである大相撲の世界から一陣の涼風が吹き抜けていくのを,とても心地よく感じている。

 「優勝より正しい生き方」の「優勝」のところに別のことばを置き換えてみれば,こんにちのわたしたちがいかに見すぼらしい「生き方」をしているかが透けてみえてくる。

 「優勝より正しい生き方をすること。それを胸に刻んでいる。」

 このことばを書にして,しばらくは神棚に飾っておきたい,そんな気持ちでいっぱいである。
 日馬富士よ,ありがとう。こころから,ありがとう。

2012年9月23日日曜日

おめでとう!日馬富士!ついに掴んだ「綱」の夢。さあ,これからだ。大横綱への道。

 大相撲史上に残る名一番を制してみごと二場所連続全勝優勝をはたし,横綱になるための条件をすべてクリア。あとは,正式発表を待つのみ。文句なしの横綱昇進。おめでとう!日馬富士!

 日馬富士,白鵬ともに死力をつくしての大一番。久し振りに血が逆流するほどの素晴らしい相撲をみせてくれた。この両者に大きな拍手を送りたい。勝った日馬富士は,白鵬を投げたあとも一緒に倒れこみ,しばらく立ち上がれなかった。そして,呼吸を整えると,いつもの最後の仕切りのように両手をついて頭を土俵すれすれまで下げて,額を土俵につけた。でこちんに土俵の砂がべっとり。全勝優勝を叶えてくれた土俵への日馬富士の感謝の気持の表明である。

 二場所全勝優勝して横綱に昇進したのは,双葉山,貴乃花につづいて3人目の偉業。大横綱への道を切り開くみごとなものである。

 この大一番,勝ち負けを度外視して,日馬富士がどんな相撲をとるのか,そこだけをわたしは注目していた。白鵬に勝つための相撲は,もはや手の内にある。その勝つための相撲の手順を封印して,今日は真っ向勝負にでた。これが嬉しかった。日馬富士もまた勝負を超越していたのだ。「なる者はなる。ならない者はならない」と信じて。「やるべきことはやった。あとは運命が決する」と自己の外に身をおいた。天の力を確信して。

 立ち合い,両者ともに真っ正面から激しく当たり合い,お互いに右を差した。しかし,両者ともに左の上手がとれない。一呼吸おいたところで日馬富士が左の巻き替えにでた。その瞬間,白鵬も左を巻き替えていた。しかし,日馬富士の左は肩まで入ったのに対して,白鵬の左は浅かった。日馬富士はその白鵬の左を右で上手をつかみながら挟み付けるようにして絞り上げた。苦しくなった白鵬は左の差し手を抜いた。その結果,日馬富士は双差しとなった。

 ここで勝負あった,というところ。しかし,白鵬もそうは簡単に負けるわけにはいかない。日馬富士が左から投げを打って白鵬の体勢をくずしておいて,がぶって寄ってでる。白鵬はずるずる後退し,俵に足をかけて必死で寄り返す。体を入れ換えて,なおも日馬富士が寄りをみせる。ここでも白鵬は渾身の力で踏ん張った。その瞬間,日馬富士が右から下手投げを打つ。白鵬はたたらを踏むようにしてその投げをこらえたが,土俵を一周したところで,ついに土俵に落ちた。

 長い相撲だった。見応えのある相撲だった。両者ともにすべての力を出し切った,そんな相撲だった。こんなにみごとな攻防のつまった相撲を久し振りにみた。この両者の渾身の力の入った相撲展開は「名勝負」として,長く相撲史に残るだろう。

 しかし,終わってみれば日馬富士の一方的な相撲でもあった。白鵬はひたすら守勢に回らされた。この相撲をみて,わたしは,日馬富士ははっきりと白鵬を越えたと確信した。白鵬も,もはや,真っ向勝負では日馬富士には勝てないことを知ったはずである。となると,来場所からは白鵬は奇襲戦法を繰り出すしかない。それに対して,日馬富士はどのように応戦するのだろうか。奇襲戦法なら日馬富士の方が一枚上手だ。これまでは白鵬にからだ負けしていたので,できるだけお互いの間合いをとって,そのわずかな間隙を縫うようにして勝機を見出す,これが日馬富士の相撲だった。が,もはや,その必要はなくなった。こんどは白鵬の方が仕掛けてくる。それでも,スピードに勝る日馬富士は有利だ。となると,白鵬はよほどのことがないかぎり日馬富士には勝てない。

 そのことを実証するような大一番でもあった。

 表彰式では,賜杯に,やはり「でこちん」を何回もつけていた。喜びと感謝の意志表明だ。よほど嬉しかったのであろう。それを密かに,ほとんどの人に気づかれないように,それでも自分の気持を賜杯に伝えていた。賜杯を受け取り,一礼するときの姿勢も,きちんとしていて美しい。立派な力士となった証である。

 優勝インタヴューも素晴らしかった。
 「先祖と両親に,このからだ,このこころを与えてくれたことを感謝したい」
 「全力を絞り出すようにして,一番一番,全身全霊を籠めた」
 「いい親方に出会い,いい先輩力士にめぐまれ,わたしは幸せ者です」
 「応援してくださったみなさんにこころから感謝しています」
 「これからも感動と喜びと勇気を与えられるような立派な相撲をとるよう頑張りますので,よろしくお願いします」
 と,大きな声で,ことばを選びながら宣言。そこに涙はなかった。意志の強い人だと思った。ここでも冷静だった。

 日馬富士の強さの秘密は,足腰のバネのよさ,スピード,相撲勘のよさ,そして,この一番に賭ける集中力の高さ,しかも,冷静さを失わない,ところにある。加えて,からだが一回りも二回りも大きくなったこと,肩のあたりの筋肉の盛り上がりは先場所にはなかったものだ。

 出を待つときに花道の奥で,2,3回両足で跳び上がる準備運動をしてから入場する。その跳躍の高さ,軽やかさをみて,わたしは驚愕した。これは力士の跳躍力ではない。陸上競技のアスリートのものだ。

 この足のバネのよさが,今日の大一番の最後の最後の右下手投げの連続技となってでてきた。そのわずかなバネの差が明暗を分けた。白鵬の桁違いのバネのよさが,土俵を一周するまで,その投げをこらえさせたが,紙一重のバネの差で日馬富士は勝利の女神を呼び込むことになった。そして,白鵬が土俵に落ちたとき,すでに,日馬富士に立っている余力はなかった。

 解説をしていた元舞の海が名言を吐いた。「相撲は体重でとるものではないということを実証してくれた」「他の力士たちの手本となった」「この功績は大きい」と。

 これまで何回も怪我に泣かされてきた日馬富士。もっともっと,怪我をしないからだに仕立てあげて,後世に残る名横綱になってほしい。君ならできる。そして,朝青龍の名誉を挽回してやってほしい。

 おめでとう!日馬富士!バンザイ!

川満信一個人誌『カオスの貌』9号・特集・スマヌパナス(島の話)を読む。

 ことしの奄美自由大学で,詩人の川満信一さんから個人誌『カオスの貌』9号・特集:スマヌパナス(島の話)をいただきました。いわゆる詩文集と言っていいでしょう。内容は,世代の近さもあって(川満さん1932年生まれ,わたし1938年生まれ),とても深いところで伝わってくるものがありました。久し振りに重量感のある至福のひとときを堪能させていただきました。

 特集・スマヌパナス(島の話),とあるように,川満さんの少年時代の思い出を描いた創作が2編。ここに大半のページが割かれています。その他には,エッセイが3編,詩(思想詩)が8編。いずれも川満さんの魂がこめられたことばに圧倒される力作でした。

 「スマヌパナス」は川満さんが生まれ育った宮古島の僻村での,昭和10年代のできごとに題材をえた創作です。そこでは盗みがあれば村のルールにしたがってウガンショ(御願所)で裁きを受ける,カイランバンおばさんがシマでのできごとに関する情報をはこんでくる,竈の燃料は共有地にでかけていって拾ってくる,などなど当時のさまざまな村の慣習行動が描かれています。

 こういう創作を読んでいますと,かつて読んだことのある川満さんの書いた「琉球共和社会憲法C私(試)案」(『新沖縄文学』沖縄タイムス社,1981年6号)を思い出してしまいました。たしか,この「憲法C私(試)案」には,「私有財産の否定」「司法機関(警察・検察・裁判所)の廃止」「商行為の禁止」「軍備の廃止」などが謳われていたように記憶しています。しかも,この「憲法C私(試)案」は,沖縄の本土復帰(1972年)後もなにも沖縄の事態は変わらない,それどころかますます悪化していく事態の進み行きのなかで,ヤマトからの分離・独立を志向するひとつの試みとして,問題提起されたものだったように思います。

 この「憲法」の目玉は,「琉球共和国」ではなく「琉球共和社会」の「憲法」を謳ったところにあります。共和国ではなく共和社会を念頭においているということです。つまり,国家は国民を一把ひとからげにして犠牲を強要する装置となりはててしまっている(とりわけ,沖縄県民に対して)という危機意識が前提となっています。それに対抗し,克服するための装置として川満さんは「共和社会」を構想します。しかも,それは村落共同体のような小さなシマ単位の独自の価値観を重視し,シマごとに独自の約束ごとを遵守するシステムを構築していこうとしていたように思います。

 そうしたシステムはすでに,川満さんが生まれ育った宮古島では当然のようにして構築されていたのではなかったか,そんなことを回想しているかのような「スマヌパナス」がつぎつぎに展開していきます。他愛のないシマの日常生活のなかに,川満さんは「共和社会」のひとつの理想郷を見出そうとしているかのようにも読めてきます。人と自然との対話,交信,交流,共生・・・といった現代社会が遠いかなたに置き忘れてきてしまった,人間が生きる原点を,もう一度確認しようではないか,と呼びかけているようにも読めます。科学では割り切ることのできない人間の心情(あるいは心象風景)の方にこそ,むしろ人が「生きる」ということの実態があるのではないか,と。それを保証し,実現させることを可能とするのは「琉球共和国」ではなく「琉球共和社会」ではないか,と川満さんは仰っているようにわたしには伝わってきました。

 それは同時に,わたし自身の幼生年時代の僻村の生活経験を生々しく想起させる物語でもありました。たとえば,「村八分」という慣習行動を,戦後民主主義教育は封建制の悪の権化のように教えてくれました。しかし,いま考えてみますと,じつによくできたシステムではなかったか,とその智慧の深さに驚くばかりです。長年の経験と智慧に裏付けされた,そのムラ(シマ)固有のシステムを,アメリカ的価値観だけに依拠して排除してしまっていいのだろうか,と強く思います。

 とりわけ,いま,まさに露呈しつつある,だれも責任を取らない,みんな責任逃れをして平気でいられる(民主主義的)「無責任体制」が許されてしまう現実を目の当たりにするにつけ,本気でそう考えずにはいられません。川満さんの提起した「共和社会」の理念は,当時は「理念先行」という大方の意見に押し切られてしまいました。しかし,いまになってふたたび息を吹き返しはじめているように思います。その意味で,「シマヌパナス」はゆたかな「民俗文化」のありようを指し示してくれています。これからも,何回も読み返してみたいと思っています。

 あと一点だけ,ここでどうしても触れておきたいことがあります。
 それは「沖縄における中国認識」と題された川満さんのエッセーです。
 そのさわりの部分を引いておきます。

 明治時代,つまり20世紀初頭まで,琉球は自らの所属を中国にするか日本にするかで,白黒の思想的争いを続けています。つまり琉球と中国の歴史的関係の傷口は,沖縄ではまだ生々しく包帯を巻いた状態だといえます。

 この川満さんのエッセーをどのように受け止めるかは,かなりの個人差があろうかと思います。
 「沖縄本土復帰」と「日中国交回復」は,期せずして同じ「1972年」のできごとでした。そして,ことし同時に「40周年」という節目の年を迎えています。そこに「センカク」という「火種」に,「国有化」というとんでもない「火」をつけてしまった政府民主党の責任は重大です。

 最近の調査によると(琉球大学の教授の調査・名前は失念),沖縄県民のうち,約半数の人びとは「日本人」という意識よりも「沖縄人」という意識の方が強い,と答えているといいます。また,しばらく前に,西谷修さんが参加・出演したNHKのETV特集のドキュメンタリーでも,いまの沖縄の若者たちの多くは,もはやヤマトに依存するよりはひとりの沖縄人として生きる道を模索しはじめている,と結んでいたように記憶しています。
 
 川満さんのエッセーもまた,その意味で,きわめて暗示的です。ぜひ,全文を読まれることをお薦めします。

2012年9月22日土曜日

「日中国交回復40年」の年だというのに・・・・・。

 この9月29日は日中国交回復40周年の記念すべき日だというのに,この騒ぎである。いまや,完全なるアメリカの操り人形と化してしまったノダ政権の,まことにみじめな断末魔の姿の露呈である。こんな馬鹿げた騒ぎを引き起こしているのに,なんの反省もない日本の中枢部に居すわっている人びとに対して,なすすべもなく身を委ねなくてはならないわれわれふつうの国民は哀しみに沈んでいる。それどころか,デモをしても政治には反映されない,なにをしても無駄,もうどうでもいいという無力感が広がりつつある。

 思い起こせば40年前,名古屋で開催された世界卓球選手権大会に中国を招聘した,いわゆる「ピンポン外交」が突破口となり,日中国交の窓口が開かれ,つづいて米中国交へとその輪は広がって行った。中国が国際社会とのパイプを開く,きわめて重要なきっかけを「ピンポン」がつくったことを記憶する人は少なくないであろう。

 スポーツ外交は政治を超える,きわめて有効な(友好な)手段として世界の注目を集めたものだ。そして,スポーツをとおして中国は世界の檜舞台で大活躍し,その存在が広く認められるようになっていったことも記憶に新しいところだ。オリンピック北京大会では,スポーツ大国でもあるアメリカを抜いて世界のトップに立つ,恐るべき力をスポーツの場で証明してみせた。中国国民はこの大会を契機にして,大きな自信をもったことは間違いないだろう。

 この「ピンポン外交」で窓が開かれるまでは,長い間,中国は世界(国際社会)からその存在すら無視されつづけてきた。もちろん,その背景には「二つの中国」を認めることはできないという中国共産党中央委員会の定めた大原則があって,台湾問題が大きなネックになっていた。この台湾とも,いまでは友好的な関係が築かれ,一般市民も自由に往来しているという。

 思い返せば昨年のいまごろわたしたちは,中国旅行の真っ最中だった。李老師を先達にして,まことに楽しい中国旅行をぞんぶんに満喫していたことを,昨日のことのように思い出す。ちなみに,昨年の22日にはナシ族民族博物館を見学し,ナシ族民族村を散策し,麗江から北京に移動している。そして,北京の夜を楽しんでいる。みんな,とても友好的で,日本人であることになんの不安を感ずることなく,むしろ心地よくさえ感じたものだ。

 が,それから一年。事態は急転直下。国会議員の中国訪問までお断り。卓球の石川選手も大会出場を見送り。この秋に予定されていたさまざまなイベントがつぎつぎに延期,または,中止。もちろん,中国からの日本への観光客もその大半がキャンセル。

 しかし,中国の観光客にはこれまでどおり,ぜひとも来てもらいたい。そして,自分の眼で,自分の皮膚感覚で,じかに日本人と接してほしい。日本国民はこれまでとなにも変わらずに応対するだろう。あれだけ中国国内で日本バッシングを受けても,いつものとおり,やさしく応対するだろう。国家間の関係とはまったく別の仕方で,民間は民間として,国民は国民として,ごくふつうの人間として対応するだろう。よくも悪くも,この自然体の日本人のありのままの姿を感じ取ってほしい。ひとりひとりの人間としては,中国人も日本人も,基本的にはほとんどなにも変わらない。同じ人間なのだから。

 困るのは,政治が絡んだときだ。しかも,この政治を国民がコントロールできなくなっているところに日本が直面している最大の問題がある。わたしたちは,そんなに情けない国民になってしまった,ということだ。もっと,もっと声を大にして,わたしたち自身の意志表明をしていかなくてはならないところに,いま,立たされている。しかも,待ったなしの瀬戸際に立たされている。

 雑誌『世界』の10月号は,特集・日中国交回復40年──対立を越えるために,を組んでいる。名だたる論者が,わたしなどの知るよしもないさまざまな視点を提示してくれている。この時期にこそ必読の特集である。なかでも,わたしと同じ世代である河野洋平のインタピュー記事「日本外交に理性と誠実さを──歴史を鑑み,大局と原則を見失うな」は,書店の立ち読みでもいい,さーっと眼をとおしてから「日中問題」を考えることをお薦めする。

 つぎからつぎへと押し寄せてくる重層的な,このなんとも重苦しい空気からなんとか早く脱出したいものである。

 その突破口のひとつに,日中の太極拳交流がなりうるのではないか,とほのかな期待を寄せている。詳しくは,李自力著『日中太極拳交流史』(叢文社刊)を参照のこと。

能面アーティスト・柏木裕美さん,いよいよブレークの予感。

 能面アーティスト・柏木裕美さんの画廊企画展が成功裏に終了しました。ご本人はブログで遠慮がちに,とても充実した展覧会だった,と書いていらっしゃる。が,じつは,今回のこの企画展は柏木さんがいよいよ世界に向けて羽ばたく道を開く,記念すべき展覧会だったのです。

 太極拳の兄妹弟子が,大きく世界に向けて羽ばたくきっかけとなる現場に立ち会えたことは,わたしにとっては望外の喜びでした。西谷修さんと柏木さんは,毎週1回,ともに汗を流すもっとも身近な親しい友人です。その柏木さんがいよいよブレークする,そんな予感に満ちた,充実した展覧会でした。

 わたしは,柏木さんには特別の恩義を感じていましたので,展覧会の全期間,お手伝いをさせていただきました。というのも,柏木さんには,8月の猛暑の中,神戸市外国語大学で開催された第二回日本・バスク国際セミナーの期間中(前後6日間),能面の展示と実演とプレゼンテーションという三つもの役割を担って参加していただきました。これは実行委員長の竹谷さんの強い希望もあって,わたしから柏木さんにお願いをしました。柏木さんはとても快く引き受けてくださり,国際セミナーを大いに盛り上げてくださいました。ほんとうにありがたいことでした。

 そうしたら,こんどは柏木さんから,会場の見張り番の手が足りないので「伏して,伏して,伏してお願い」というメールが入りました。三回も「伏して」お願いされたらお断りすることはできません。そこでわたしは「義をみてせざるは友なきなり」と気合を入れた返信メールを送り,6日間,銀座のギャラリーG2へ通うことになりました。単なる「番人」程度のお手伝いのつもりでしたが,結果的には,柏木さんの幅広い人脈のうちの主だった人がみなさん押しかけてくださり,その人たちを丁寧にご紹介していただき,知己をえることができました。これはとてもありがたい経験でした。

 その筆頭は,このギャラリーのオーナーであり,陶芸作家でもある狩野炎立さんとその娘さんに出会えたことです。じつをいいますと,今回の展覧会は,柏木さんの知人であるアーティスト(造形作家)の佐藤伊智郎さんのご紹介を仲立ちにして,この炎立さんのご希望で可能となったものでした。もう少し書いておきますと,オーナーの炎立さんが「優れた能面作家がいるとは聞いていたが,まだ,見たことがないので,持っている面を全部展示してほしい」というのがことの発端でした。

 ですから,2室ある画廊の壁面すべてを使って,所狭しとばかりに180面もの能面が展示されることになりました。こんな展示の仕方は普通ではありえないことです。が,結果的には,迫力満点の圧巻の展覧会となりました。いまだから白状しておきますが,6日間,この画廊の中は能面の発する気のようなものが感じられ,ひとりでいるときには,姿の見えない人が何人も出入りしている気配を感じていました。これはこれで,とても面白い経験でした。

 オーナーの炎立さんもすぐに「気が充満している」のを感じられたそうで,見えないところに盛り塩をするように娘さんに指示されたそうです。そして,第二日目にじっくりと作品を鑑賞されていました。そして,あとで伺った話では,まずは,これらの能面の中から7面を選んで,10月にローマで開催される「Affordable Art Fair」に持っていくこと,さらに,もし,ローマで評判がよければ,炎立さんのギャラリーの姉妹店のあるニューヨークに,もっと多くの作品を持っていこうと考えている,とのことでした。

 かくして,いよいよ柏木さんの作品が海外に進出する,その展望が一気に開かれることになりました。こういう現場に立ち会える幸運はそうそうあるものではありません。その意味でも,とてもラッキーでした。

 さらに,ここに書いておきたいことはたくさんあるのですが,このあたりで今回は終わりにしておきたいと思います。

〔追伸〕
 昨日(21日)の午後,柏木さんからメールがあり,24日(月)の『毎日新聞』朝刊のコラムに,この展覧会の記事が掲載されるとのことです。担当記者は論説委員でもある落合博さん。じつは,落合さんは夕刊のコラム「スポーツを考える」でわたしを取り上げてくださった方です。そして,その掲載紙を直接,この画廊にとどけてくださった方です。ところが,柏木さんの能面展をみてびっくりされ,翌日,再度,画廊を訪れて,こんどは熱心に柏木さんに取材をしていらっしゃいました。が,まさか,こんなに早く記事になるとは夢にも思っていませんでした。これもまた柏木さんの能面の発する迫力のなせる技以外のなにものでもありません。こんごの柏木さんのご活躍が楽しみです。

2012年9月21日金曜日

オスプレイの試験飛行の愚。アメリカは民主主義国家ではなかったのか。

 とうとう新型輸送機MV22オスプレイ四機の試験飛行がはじまった。民意をまったく無視した愚行としかいいようがない。にもかかわらず,アメリカ政府と日本政府はこれを愚行とは思ってもいない。民意よりも自分たちの意志決定の方が大事だといわぬばかりに,悪ぶれるそぶりもみせない。たぶん,これがアメリカ的「正義」の実態なのだろう。

 日本の敗戦を国民学校2年生の夏に経験し,代わって小学校2年生の二学期からはアメリカの占領下のもとでの民主主義教育を受けることになったわたしには,なんとしても解けない謎がある。そのとき受けた教育では,アメリカは民主主義の国で,国の意志は国民の意志によって決められる,と教えられた。そして,日本はそのアメリカをお手本にして民主主義国家をめざすのだ,と教えられた。

 その民意によって国家の意志決定がなされるはずの民主主義国家が,いまや民意などまったく無視する国家となりはてている。そして,恥じるところがない。アメリカも,日本も。かくして,日米両政府の合意のもとに,民意は踏みにじられたまま,ついにオスプレイの試験飛行がはじまった。そこになんの矛盾も感じないで平気でいられる両国政府の姿勢に,ただ,ただ,唖然とするばかりだ。この人たちに「倫理」の感性はあるのだろうか。「人の道とはなにか」を考える能力をどこかに置き忘れてきてしまったのではないか。それとも人非人か。

 沖縄県民10万人集会が示した民意を,なにごともなかったかのように無視して平気でいられる日米合意とはなにか。このままいけばオスプレイは沖縄の普天間基地だけでなく,日本各地の基地に配備され,試験飛行がはじまることになる。問題は,オスプレイの「安全性」を問うことにあるのではなく,日本全土を沖縄化しようとする恐るべき企みが隠されているということだ。

 問題の核心は,沖縄の米軍基地の県外移転でもなく,ましてや国外移転でもなく,それどころか日本全土の米軍基地化への道を一直線に突き進んでいる現状にある。そこには民主主義は不要らしい。だから,完全無視だ。あるのは,その「そぶり」だけ。いかにも民意を「説得」しているかのようなポーズはとるものの,すでに「シナリオ」は決まっている。民意を無視して決定したことを,日米合意の名のもとに粛々と,推し進めていくだけのことだ。

 こうして封じこめられた民意は,ジャック・デリダが指摘したように,いつか,必ず,姿・形を変えて「亡霊」のごとく突如として立ち現れる。民主主義を無視した圧政は,必ずその報いを受けることになる。

 今日(9月21日)の『東京新聞』「本音のコラム」で,佐藤優が「沖縄を軽く見るな」という見出しで警告を発している。ウチナンチューの血をひく佐藤優の言説は激烈だ。凝縮したことばの発する威力を知ってほしいので,以下に引用しておく。

 森本敏防衛相と防衛官僚は沖縄の力を明らかに過小評価している。MV22オスプレイの国内運用について日本政府は「安全宣言」を行った。米国が要請する十月中に沖縄県の米海兵隊普天間飛行場にオスプレイを移送する流れを森本氏らは本気でつくろうとしている。
 尖閣問題で手いっぱいの首相官邸はオスプレイ沖縄配備がいかなる影響をもたらすかについて,緻密な情勢分析を行える状態ではない。外務省に関しては,竹内春久沖縄大使が玄葉光一郎外相に対してオスプレイの沖縄配備を強行した場合,どのような反発が現地であるかについて,正確な報告をしていないようだ。
 政府が十月にオスプレイを沖縄に配備することを決定すれば,飛行機が到着する前から,普天間飛行場中央ゲート前で座り込みが行われるようになる。そこには沖縄戦を経験した八十歳を超える高齢者も参加するであろう。沖縄県警に強制排除を命じても,沖縄出身の機動隊員はサボタージュする。本土の警官が強制排除を行い,特に高齢者がけがをするような事態になれば,「島ぐるみ」で全米軍基地の閉鎖を求める運動に発展する。
 沖縄が従順と勘違いしている防衛官僚,外務官僚に,1913年1月に発生した,内務省任命の知事の悪政に抗議して行われた沖縄県庁放火事件について研究してみることを勧める。

 以上である。
 沖縄に火がつけば,全国の基地周辺の住民も黙ってはいないだろう。そのさきは,もはや,想定すらできない事態が待ち構えているように思われてならない。世も末だ。なぜ,こんなことが,いまの政治家にはわからないのだろうか。器が小さすぎる。

 




遅々として進まぬ「復興」。気仙沼の仮設住宅に住む友人・Tさんからメール。

 7月29日のブログに,「蛇の生殺しのような世界を生きています」というメールをくださった気仙沼市の仮設住宅に住む友人のTさんのことを書きました。そのTさんから久しぶりにメールがとどきました。「遅々として進まぬ復興に苛立ちを覚える」という内容の長い手紙と,行政の窓口とのやりとりの記録,それに地方紙の情報と盛り沢山のメールでした。

 メールの地の文章には明らかに疲労の色が現れていて,それを読むわたしを驚かせるに充分なものが伝わってきました。ご本人も「推敲してない文章で申し訳ない」と断っていらっしゃいますが,相当の蓄積疲労の表出ではないか,とわたしは心配しながら想像をめぐらせています。

 Tさんの主たる訴えは,「復興」を担当する行政の窓口の複雑さ,手際の悪さ,無責任さに集中しています(この話,プライバシーの問題もありますので,いささか加工してあります)。Tさんは,ころころ変わる「復興」のための担当窓口の名前に翻弄され,そのつど,説明会が開かれるものの,どうも要領を得ないと困惑していらっしゃいます。そこで窓口で直接交渉すると,隣の窓口で聞いてくれ,という具合にたらい回しにされてしまう。ようやく,この窓口で担当してくれるということがわかって書類を受け取るも,この書類を読み取り,理解するまでに相当の時間と努力が必要だといいます。そして,ようやく書き込んで提出すると,間違いが多く書き直しを命じられる,とのこと。もう少し丁寧に教えてくれてもいいのにと思うものの,担当者の人数が足りないために,後ろに並んでいる人への対応に追われてしまうので,どうにもならないといいます。ですから,ただひたすら「忍」の一字で,我慢し,何回も何回も役所通いをするしかありません,と訴えていらっしゃいます。

 こうした複雑な行政手続きの具体的なご自身の経験を,ひとつの事例として記録にまとめ,それらをPDFにして送ってくださいました。せっかくの記録ですので,わたしも時間を割いて,必死になって読んでみますが,素人であるわたしには理解不能の場面がいくつもでてきます。ほんとうにこんなことが行われているのだろうか,と疑問に思うところも少なくありません。とにかく,たったひとつの簡単な行政手続きを完了するまでに,信じられないほどの時間がかかっている,ということが手にとるようにわかります。

 それでも実際に「補助金」が下りるまでには,まだまだ,気の遠くなるような行政手続きが必要なのだそうです。これが,Tさんが直面している現実であり,日常なのか,と信じられない思いでいっぱいです。いまもなお「蛇の生殺しのような世界」から脱出できないまま,格闘していらっしゃるのかと思うと頭が下がります。

 Tさんから送っていただいた資料を読んでいると,国は,どう考えてみても一般の被災者には「補助金」を下ろしたくないのではないか,と思えてきて仕方ありません。行政の担当者もまた,こんなに複雑な書類を書くことにとまどいを感じつつ,被災者にどのように説明したらいいのか困惑している,というのも一方の現実のようです。この行政手続きという分厚い「壁」の前で,多くの被災者は茫然自失の状態に陥り,思い悩んだ結果,ついには故郷を捨てて,どこかに移住してしまう人も少なくないといいます。

 こんな情報に接して間もないころに,偶然,知り合いの弁護士さんとお会いすることがありました。まだ,比較的若い(とはいえ40歳代の半ば?)この弁護士さんは「3・11」以後,福島の南相馬市を中心にボランティア活動をつづけ,いまも通いつづけているとのことです。その弁護士さんもまた,Tさんが直面していることと同じようなお話をなさっていました。

 あまりに複雑な行政手続きのために,被災者は「もういい」「補助金はいらない」と諦める人が続出しているといいます。それでも諦めないで「補助金」を申請する手続きができるようにと思って必死で支援しているのだ,と。

 そして,補助金支給のための「特措法」(特別措置法)をつくって対応しないかぎり「復興予算」はあっても使えないまま,使い残しているのが現状の姿だと,この弁護士さんも訴えていらっしゃいます。だれの眼にも困っている人は一目みればわかる話なのに・・・・。法治国家の悲しい隘路にはまり込んだままのお役所仕事。せめて,例外措置を。この際にかぎり。

 特別予算を組んだ「復興予算」は,もっとも必要な被災者の手にはなかなかとどかなくて,まったく関係のない「もんじゅ」関連の機関に「42億円」ものカネがいとも簡単に流れていく,この矛盾をわたしたち納税者はきびしく追及していく必要があると思います。「復興予算」がゼネコンには流れやすく,地元の零細な土木業者には流れにくい,という構造も同じです。

 「復興予算」は国が末端まで管理するのではなくて,大枠の予算を地元の地方自治体に応分に配分して,その使い方については現場に一任すべきではないのか。そうしないかぎり,いつまで経っても被災者の手には一銭もわたらないことになりかねません。すでに,一年半を経過しているという現実を考えると悲しくなってきます。

 わたしたちは,なにかとてつもなく大事なものを,カネと引き換えに,どこかに置き忘れてきてしまったようです。原発の問題も,まったく同じ構造です。オスプレイの配備の問題も同じです。

 人間の生き方の根源からの問い直しなしには,日本の真の「復興」はありえない,と日毎に強く考えるようになりました。

『日本の聖地ベスト100』(植島啓司著,集英社新書)を読む。

 愛知県の三河地方に「本宮山(ほんぐうさん)」という名の山がある。豊橋市の市街地からみるとほぼ北の方角に,頂上が三角形のバランスのいい山懐をもった山並みがみえる。その三角形の山が「本宮山」だ。わたしの育った豊橋市大村町からみると「真北」に位置する。だから,子どものころから方角を確認するときには,まず,本宮山の位置をみとどけてから判断する習性が身についていた。

 この本宮山。なぜ,本宮山という名なのか,長い間,疑問に思っていたが植島啓司さんの『日本の聖地ベスト100』を読んで瓦解した。答えは「本宮」(もとみや)の山ということ。つまり,本宮山の麓には三河一宮といわれる立派な構えの砥鹿神社があって,それの「本宮」のある山という意味だ。本宮山のほぼ頂上にはその嶺宮が祀られている。しかも,その奥には「奥の院」がある。つまり,そこがそもそもの「本宮」なのだ。それは,山頂の嶺宮からかなり谷間をくだったところに,ひっそりとある。しかも,鬱蒼とした灌木に囲まれた,その奥まったところには洞窟があり,水がこんこんと湧き出ている。まさに,「聖地」の気配があたりを支配している。

 『日本の聖地ベスト100』の著者の植島さんによれば,洞窟と水脈がセットになっているのが「聖地」の基本条件のひとつであり,そこはまことに辺鄙なところで,なかなか見つけにくいところにある,という。そのはるか手前の,見晴らしのいいところに小さな社を建てて「嶺宮」を祀る。そして,さらに,人びとの住む一番立地条件のいいところに大きな構えの社を建てて,勧請し,神様を祀る。
これが,日本の聖地と呼ばれる神社・仏閣の基本構造である,と植島さんはいう。

 平地に下ったところに大勢の信者たちを集めて,大きな祭祀を司ることのできる立派な境内をもつ神社・砥鹿神社=三河一宮は,そのすべての要件を満たしている,立派な聖地なのだ。

 なるほど「本宮山」。三河平野を睥睨する,もっとも高い山。小学校の6年生になると,みんなが遠足で登る山だ。わたしは小学校の校庭から,みんなで隊列を組んで,一直線に本宮山をめざしたことを昨日のことのように記憶している。大人でも敬遠するほどの,相当の強行軍だ。いま,考えると先生もたいへんだったんだなぁ,と感心してしまう。早朝に出発して夕刻に学校にもどってきたように思う。しかも,相当に疲れて・・・。

 さて,本題の『日本の聖地ベスト100』。わたしは,以前からの植島ファンのひとりで,この人の本はなぜか追いかけて読んでいる。一番最初は,どこかの雑誌で鷲田清一さんとの対談を読んで,すっかりとりこになったことを覚えている。この本との関連でいえば『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』(集英社新書)という名著がある。宗教人類学者としての知見をふんだんに盛り込んだ,しかも,だれにも読める,すとんと腑に落ちる名著である。

 ときには,大いに脱線して,きわめて人間的なお話の本も書かれる。『「頭がよい」って何だろう』『偶然のチカラ』などは序の口で,なかには『性愛奥義 性愛の『カーマ・スートラ』解読』という本まである。そのために,しばしば物議を醸しだしたことでも有名だ。しかし,真の意味で,植島さんは宗教人類学者である,とわたしは信じて疑わない。

 その植島さんの卓見によれば,日本の「聖地」は,まず間違いなく鬱蒼と繁った森の奥深くに秘められた「場所」に存在しているという。そして,その聖なる「場所」の多くは,水脈と鉱脈がセットになっているという。水脈には洞窟や瀧があり,さらに竜神にまつわる話があり,子孫繁栄や五穀豊穣の儀礼とも深く結びついているという。また,鉱脈は,古代人のこころを捉える水晶や玉をはじめとする呪術用の呪具の原材料を産出したり,鉄や丹を産出する場所として,むかしから大事にされてきた経緯があるという。

 日本列島は,四つのプレートと多くの火山が生み出す複雑な地形をなしている。それが無数の「聖地」を生み出す源泉になっている,と植島さんは結論づける。大自然の生みなす「聖なるもの」への畏敬の念は,日本人のこころの奥底に,長い時間をかけて構築されてきたものであることを,軽視してはならない,と植島さんは説く。

 なかなか奥の深い本としてお薦めである。

2012年9月19日水曜日

ハラハラ,ドキドキ,日馬富士。勝ちを拾うのも実力のうち。

 今日(19日)のような,こんな危ない相撲をとっていると,またまた,怪我をしてしまう。千代の富士が「ウルフ」という異名で呼ばれた平幕時代の相撲を思い出す。相手の肩ごしに上手をつかんで,そのまま振り回し,強引に投げ飛ばす。投げ飛ばせはいいが,投げ飛ばせないときには「肩関節脱臼」。そして,休場。その結果,エレベーター力士となる。

 お相撲さんに怪我はつきものだ。でも,怪我をしないからだと取り口を身につけないと,上位には上がれない。幕内の力士よりもはるかに大きなからだをした付き人をよくみかける。この人たちは将来有望な力士たちなのだが,その多くは怪我に泣く。そして,そのまま消えていく。その怪我を克服するための「からだづくり」と得意の相撲の「型」(取り口)を身につけた者だけが上位に上がっていく。そして,横綱に到達する。

 千代の富士はその典型的な力士だった。

 ここにきて日馬富士がドタバタした相撲をとっている。今日も,素早く左上手をとり,出し投げを打って,これで押し出せば終わり,という手口だった。が,途中で手順が狂った。相手の態勢がくずれないまま,しかも右の前みつを掴むこともなく,右を差すでもなく,無造作に寄って出ようとした。その結果,相手に双差しになられてしまった。が,ここからが速かった。強引に左手一本で上手投げにでる。そして,倒れ落ちながら相手の頭を抑えたものの,ほとんど同体で土俵のしたに落ちて行った。当然のことながら「もの言い」。

 テレビの映像で確認した結果,わずかに相手の肘が早く落ちていた。

 まことに際どい勝負だった。運がよかったとしかいいようがない。しかし,あの瀬戸際で,ほんの一瞬,体を残すことのできる運動神経のよさも,じつは実力のうちなのだ。足腰のバネが桁外れに優れているということ。こういう能力の高さが横綱になるための必要条件だ。そして,がむしゃらに勝ちを拾うために反応する本能的なからだ。考える以前に反応するからだ。これが現代の横綱には求められる。あとは,怪我をしない取り口を完成させること。

 残り4日間。上位力士との対戦が待っている。気持ちを引き締めて,今日のような相撲をとらないこと。得意の,つっぱり,のど輪,いなしを繰り出してから,素早く左上手をとること。そして,スピードに乗った切れ味鋭い上手投げを打ってから,右で前みつをとり,寄ってでる。この勝ちパターンに持ち込むこと。

 元横綱栃の海に言わせると,ここからさきは一睡も眠れない夜が待っている,と。日馬富士は,そのあたりは図太そうだから大丈夫だろう。気持ちをうまく切り替えて熟睡すること。そして,リラックスすること。場所に入るまでは相撲のことは忘れて,好きなことに熱中すること。子守でもしながら・・・。

 上位に強い日馬富士だ。ここからが本領発揮だ。
 これからの4日間,ほんとうの日馬富士の相撲が見られるはず。楽しみだ。

「センカク」についての記憶をたどっていくと・・・。日本の「勇み足」?

 相撲では,寄り切って勝ったつもりが「勇み足」で負けだった,ということがある。

 今回の「センカク」をめぐる日本政府の対応は,どこかで勘違いをしているのではないか,と思えて仕方がない。また,メディアの報道も,どこかピンぼけな印象が否めない。テレビに登場する評論家諸氏の言っていることも,どこかズレているように思えて仕方がない。

 素人のわたしのごとき者が口出しをすべき問題ではないことは百も承知しているが,ひとりの日本国民として,発言することは許されていいだろう。すでにボケがはじまっていて,わずかにしか残っていないわたしの記憶によれば,政府の対応はもとより,いま,メディアを流れている情報はどこか奇怪しい。つまり,一番大事なところの議論が抜け落ちていて,まるで「センカク」は日本固有の領土であるかのごとき議論が一人歩きをはじめているように,わたしには思えるのだ。

 「センカク」はどちらの国のものでもない「グレー・ゾーン」に位置している,とわたしはこれまで考えてきた。だから,しばらく前までは,地下埋蔵資源について日中共同開発を・・・という方向で話が進んでいたはずだ。その前提になっていたものは,鄧小平が「日中平和友好条約」の批准書交換のために,来日したときに,「センカクの帰属については議論できる情況が生まれるまでは,このままにしておきましょう」という談話だった,と記憶する。だから,自民党政権時代には,その路線が,日中の了解事項として維持されてきたはずである。

 そこに,わざわざ種火を投げ込んだのがイシハラチンタロウだ。「センカクを東京都が購入する」という,とんでもない発言が,突然,飛びだしてきた。わざわざ眠らせておいた子を「叩き起こして」しまうような行動にでた。この陰には,かなり悪質な企みが感じられてならない。つまり,中国嫌いのイシハラを動かしているアメリカの極右との連携である。もし,これが事実だとしたら歴史に残る大事件になりかねない。

 「センカク」を個人が所有しているだけなら,日中関係を現状のまま維持することができる。事実,維持されてきた。それを「東京都」が購入するとなると,話は一気に違ってくる。しかも,それを,さらに「国が購入」するとなると,これは事実上「国境線」を引くに等しい行為となる。となれば,中国としても黙っているわけにはいかないだろう。なんの相談もなく一方的な「宣戦布告」をされたも同然である。

 中国人の金持ちが,北海道の土地を買い漁っていると聞くと,あまりいい気分にはなれないけれども,それは民・民間の法にもとづく商取引だ。しかし,中国という「国家」が北海道の土地を購入するとなると,これは大問題となるのは必定だ。それに匹敵するようなことを,日本政府はやらかしたのだ。なにゆえに,個人が所有している土地(島)を,わざわざ国が購入しなければならないのか。問題はここにある。この背景にある重大な企みをだれも指摘しようとはしない。

 そもそも「センカク」は,日本の敗戦処理のときにも明確な位置づけはなされないままになっていた,と記憶する。そして,さらに,沖縄がアメリカの統治下に置かれていたときにも,あいまいなままにされていたはず(その当時は,米軍の軍事訓練が行われていたとも聞く)。さらには,沖縄の本土復帰(1972年)のときにも,「センカク」の位置づけはあいまいなままだったと記憶する。つまり,ずっと「グレイ・ゾーン」だったのだ。

 この地域の領土問題が話題になりはじめたのは,日中国交回復(田中角栄)後であり,「日中平和友好条約」が締結(1978年)されてからである。あるいは,翌年(1979年)の「米中国交回復」が正式に樹立してからのことではなかったか,と記憶する。そして,そのひとつの結論が「帰属の問題は棚上げ」ということだったはず。

 つい最近,来日したばかりのアメリカの政府高官(すでに,名前も忘れている)も,「センカク」は日米安保の範囲に入る,と発言はしたが,領土については明言を避けた。つまり,グレイ・ゾーンのままだということだ。

 しかし,これは表向きのこと。アメリカの極右とイシハラとノダ(原子力ムラも含めて)とは,どこかで連携がとれているような予感がする。それが原発推進の力であり,オスプレイ配備の力だ。この成り行きをまるで他人事のように,勝手放題に論評している自民党の次期総裁候補たち。ノダ君に言われたことにも消極的にしか協力しない官僚諸氏。

 長くなってきたので,このあたりで終わりにしよう。結論を言っておけば,政権交代の折に,自民党政権からきちんとした「申し渡し」事項,あるいは「引き継ぎ」事項が確認されていないことのツケがここに表出したということ。そのひとつである「センカク」に関する申し渡しもきちんとなされなかったということ。つまり,自民党の手抜き(=無責任)。そして,官僚の手は煩わせないと宣言した民主党政権に対する官僚の無言の抵抗。その結果,民主党政権は手も足も出せない素人集団と化してしまった。だから,やることなすこと,ドジばっかり踏むことになる。このままの状態がつづくと,日本は間違いなく「沈没」する。その先陣を切る種火である「センカク」問題を発端にして,とんでもないことになりかねない。つまり,「ドンパチ」のはじまり。

 それを回避する手だてはただひとつ。「センカク」を個人の所有にもどすこと。そして,「帰属問題は棚上げ」にして,じっくりと話し合いのできる情況が生まれるまで「待つ」こと。鄧小平の深い智慧に学ぶべし。つまり,時期尚早,ということ。

 とんだ「勇み足」で終わってくれることを祈るのみ。



2012年9月17日月曜日

「かかとからつま先へ」,足の運び方は歩くときと同じです。(李自力老師語録・その18.)

 李自力老師の足の運び方は,じつに神経がゆきとどいていて,しかも滑らかで美しい。その美しさはまぎれもなくアートの世界に通じるものだと思います。そのアーティスティックな足の運び方を見習うべく,一生懸命に努力するのですが,なかなかその域に近づけません。

 そこで,これまでにも何回も,足の運び方についてお尋ねしてみました。が,そのつど答えは微妙に違います。それは,たぶん,そのときどきのわたしの上達度に合わせてお話をしてくださるからだと思います。そこで,これまでに伺った李老師の説明をわたしなりに整理してみますと,以下のようになろうかと思います。

 「足の運び方は歩くときと同じです」。つまり,「かかとからつま先へと体重を移動させる,ということです」。これが一番最初に受けた説明でした。そして,人が歩くときにどのように足を運んでいるか,実演してみせてくださいました。そうでない,悪い見本もみせてくださいました。こちらは大笑いしてしまいました。

 それですっかり分ったつもりになって,稽古をしていたのですが,なかなか「歩くときと同じ」ように足が前にでてきません。で,そのつぎに李老師がしてくださった説明は「お尻を巻き込むように」,あるいは「尾てい骨を巻き込むように」すると足は自然に前に送り出されてきます,というものでした。さあたいへんです。この「巻き込む」という身体感覚がピンときません。ふだんはほとんど意識したことのない身体感覚です。

 こちらも意識的に「巻き込む」稽古を積み重ねていくうちに,なんとなくわかってきました。つまり,ときおり絵に描いたようにうまくいくことがあります。しかし,確実に,いつでもできる,というところに達しません。つまり,安定しないのです。

 そこで李老師にお尋ねしてみますと,こんどはつぎのような説明がありました。「軸足にしっかりと体重を乗せて,ふらつかないようにすること」。つまり,どんなことがあっても「軸足がゆるがない」ところまで鍛えなさい,と。また「軸足がふらつくから,足をスムーズに前に送り出すことができないのです」とも。そして,よい見本と,わるい見本とを実演してみせてくださいます。大爆笑しながら,なるほどと納得です。

さあ,こんどは「ふらつかない軸足」「磐石の軸足」をわがものとすべく稽古に専念。しかし,この課題は一朝一夕では達成できません。いまも,まだ,ときどき「ふらついて」しまいます。が,少しずつその回数は減ってきたように思います。が,それでも李老師のようにはなりません。そこで,つぎなる質問を繰り出します。すると,こんどはつぎのような説明がありました。

 「軸足の股関節をゆるめなさい」と。それができれば,「腰がスムーズに回転するようになります」と。つまり,軸足を安定させ,軸足の股関節をゆるめて,尾てい骨を巻き込むようにして足を前に送り出すと,腰は自然に回転する,というわけです。そうして,李老師は,少しオーバーにやってみせてくださいます。またまた「なるほど」と納得。

 しかし,「納得する」ことと,「できる」こととは別問題です。納得した上で稽古をする,ここが大事なところではないかと思います。いまのわたしの段階で李老師が説明してくださったのは,ここまでです。たぶん,もっともっと奥は深いのだろうと想像しています。なぜなら,李老師のアーティスティックな足の運びは,そんなレベルではないからです。

 なぜなら,李老師のからだそのものが「快感」につつまれているように,わたしにはみえるからです。たぶん,全身が「快感」に浸りながら,その「快感」から押し出されるようにして,足が前に運ばれているのではないか。そんな風にみえるからです。だとすると,その域に達するには,まだまだ道は遠く険しい,ということでしょう。

つぎなる課題は,こころの問題になりそうです。
心地よさそうに歩いている人の姿は美しい。
しかし,その前に克服しなければならない課題はいくつもあります。
ただひたすら,納得して稽古する。これあるのみ。

2012年9月16日日曜日

もはやメルトダウンとしかいいようがない民主党政権の迷走ぶり。

 あしたに「原発ゼロ」をかかげたと思ったら,ゆうべには「原発建設継続」を宣言し,夜が明けたら復興予算のうち42億円を「原子力ムラ」に流用しているという記事が踊る。もはや狂気の沙汰どころではない。政権のメルトダウンそのものだ。もはや手のつけようがない。フクシマの原発とまったく同じ状態に陥っている。

 ほんのいっとき,死んだふりをしていた原子力ムラが,黒幕のアメリカさんの強いバックアップを得て,こんどは堂々と表舞台で踊りはじめた。日本という国家はアメリカさんのいいなり。日米安保条約がきっちりと生きている。原子力ムラも原発(電力各社)もすべてはアメリカさんと手を結び,日本の政治を思いのままに動かしてきた。民意がこれほどまでに「原発ゼロ」を求めているというのに,そんなことはどこ吹く風とばかりに無視しつづけている。国民の命よりもアメリカさんのご機嫌を伺うことの方が大事なのだ。すべてはアメリカの国益にもとづく。

 そこまで強い意志をお持ちならば,原発がどうしても必要だというほんとうの理由を,もっと高らかに宣言してはどうか。原発を維持することは最終的に「原爆」を保持することに目的がある,と。すでに,スクープされているように,いま現在の使用済み核燃料だけで,4800発(長崎型原爆)分の原爆を製造することが可能だという。つまり,「核抑止力」として原発は必要なのだ,と。

 ところが「核」は平和利用以外には保持できないことになっているために,口が裂けても言えない。だから,原発にかこつけて「核」を保有したいのだ。ただ,それだけ。それ以外の原発維持の理由はすべて「ウソ」だ。根拠のないでっちあげだ。ドイツ政府の試算でも,原発よりは再生可能エネルギーの方が安上がりだ,とはっきりしている。日本政府の原発政策は,とにもかくにも「原発ありき」のための口実にすぎない。

 オスプレイ配備の問題も同根だ。安全性に問題があるかどうかなどは「眼くらまし」(相撲の手)に等しい。問題は,沖縄の米軍基地をますます強化することにある。民意をねじ伏せてでも沖縄の米軍基地はますます強化されていく。本土復帰の折に約束された「本土並み」の基地問題が,40年を経たいまも,このありさまだ。そこに問題がある。そのことを沖縄の友人たちは声を大にしてわたしにも訴えてくる。そして,いま,民主党政権は「沖縄県民10万人集会」の意志表明をも無視しようとしている。

 原子力ムラの片棒をかつぐ多くのメディアは,こうした問題の本質に迫る情報をいっさい取り扱おうとはしない。そして,それが「世論」を形成しつつある。困ったものだ。あえて指摘しておけば,『東京新聞』でさえ,ときおり,トーンダウンすることがある。おやおや,裏側では相当のプレッシャーがかかっているな,とわかる。

 いまや,日本国民の意志を,ごくふつうの暮しをしている国民の意志を代表する政府も政党も政治家もいない。いまや,日本の中枢部から,完全にメルトダウンを起こしている。手のつけようがない。そして,そこから脱出する手立てもない。フクシマの原発同様,息を顰めて,じっと見守るしかないのか。でも,こちらは決死の覚悟で原発と向き合っている人びとがいる。日本の政府,政党,政治家をなんとかしてやろうという人はだれもいない。

 ことばの正しい意味での「批評家」の存在が霞んでしまっている。なぜなら,本格的な「批評家」をメディアが登用しないからだ。それどころか,完全に排除・隠蔽しようとしている。そして,原子力ムラの片棒をかつぐような節操のない「評論家」たちばかりが徴用され,さも,それが「世論」の良識であるかのように振る舞っている。こうして,国民は完全に「操作」されることになる。

 困ったものだ。さきの選挙で,民主党に一票を投じたわたしは,どのように責任をとればいいのか。日々,悩んでいる。悲しいこと限りなし。

日馬富士の綱とりがみえてきた。絶好調からくる風格。

 今場所の日馬富士の顔つきが変わった。からだも一回り大きくなってどっしりしてきた。それでいて動きは速い。すでにして横綱の風格をにじませている。絶好調が全身に漲り,それがオーラとなって表れている。だれよりも稽古をしたという自信がにじみ出ている。日馬富士が,これまでの世界とは別次元に一歩踏み出した,そういう印象の強い場所になっている。こういう日馬富士に化ける日を心待ちにしていた。

 今場所は13勝で横綱が手に入る。しかも,3大関が休場。二つ星を落してもいいという余裕がある。こうなれば万全だ。調子のいいときの日馬富士は白鵬に負けたことがない。なぜなら,白鵬は日馬富士のスピードについていかれないからだ。これもまた大きな自信につながる。このまま行けば全勝優勝で横綱が転がり込んでくる可能性大である。

 からだの細かった平幕の安馬の時代から,どんな相手にも逃げることなく真っ正面からぶつかり,一歩も引かないという相撲を旨としてきた。その姿勢が好きだった。負けても負けても真っ正面からいく。そして,そこからスピードのある突っ張り,のど輪,いなし,はたき,などの変化で自分十分となる。その相撲を長い時間をかけて磨いてきた。

 しかし,怪我に泣いた。からだが小さい,軽量の弱みといわれた。そのために,大関の手前で足踏みをした。大関になってからも怪我に泣いた。横綱になるチャンスも一度逃がしている。その教訓を生かして,猛然と稽古を積んだ。いつもにも増して稽古に励んだ。つまり,怪我をしないからだをつくった。それが今場所の日馬富士のからだだ。ひとまわり大きくなっている。このからだからにじみ出てくる,自信に満ちた顔,所作などに隙がない。

 そして,こんどが2回目の綱とりのチャンスだ。できることなら,千秋楽まで白星を重ね,全勝同士で白鵬と対決してほしい。白鵬の右からの張り差しをかいくぐって,突っ張り,のど輪,いなしで攻めておいて,左上手をつかみ出し投げを打って体勢をくずして寄り切り,という理想の型に持ち込めるかどうか。今場所のスピードなら可能だ。しかも,相手がよくみえている。

 ここにきてようやく日馬富士の「心・技・体」の3拍子が揃った。見違えるような風格さえ漂わせている。今場所の日馬富士の姿を,テレビではなくて,本場所に行って,この眼で確かめたいところだが・・・・。はたして,そのチャンスがつかめるかどうか,わたしの方に自信がない。できれば,千秋楽の取り組みはみておきたい。その結果いかんによっては,白鵬のこんごがみえてくる。日馬富士の調子がよければ,白鵬のからだよりも大きくみえてくるはずだ。

 相撲にかぎらず,絶好調のときの芸能者(あらゆるジャンルの)にはオーラがでている。とくに,相撲ははだかなので,それがじつによくみえる。からだが輝いてみえるのだ。場合によっては全身から白い粉が吹き出しているようにみえる。それはそれは美しい。力士のからだが美しいと感じられる瞬間だ。場所にでかけて行って相撲をみるわたしの楽しみの,ひとつのみどころである。

 だから,なおさらのこと,今場所の日馬富士のからだをこの眼でみておきたい。
 そのチャンスがつくれるか,どうか。
 今場所は千秋楽まで眼が離せない。
 楽しみな場所だ。

 全勝で綱とりだ。


2012年9月15日土曜日

「視覚の人」から「聴覚の人」へ・奄美自由大学2012。

 奄美自由大学の最終日(9日),島料理の昼食をご馳走になった笠利町大笠利のバンガローの2階のベランダから,絶景の奄美大島北端の海を眺めていました。奄美大島のほとんどの海岸は切り立った山がそのまま海になだれこんでいます。が,唯一,島の北端地域は平坦な土地が広がり,海も遠浅で,美しい珊瑚礁がかなりの沖合まで広がっています。ですから,珊瑚礁独特の波打ちがあちこちにみられます。お腹もいっぱい,ビールの酔いもあって,ベランダの外に両足を垂らして坐り,手すりに両腕を重ねて顎を乗せて,美しい珊瑚礁の波打ちの様子を眺めているうちに,何回も眠りに落ちていました。

 ハッと目を覚ますと目の前に美しい景色と波打ちの音。ときおり通りすぎていく風がソテツの葉を揺らす音。ただ,それだけ。しかし,意識して眼を閉じると波打ちの音がわたしの全身をつつみこんできます。そして,絶え間なく打ちつづける波打ちの複雑な音の組み合わせが少しずつわかってきます。その音にしばらく耳を傾けて,全身をゆだねてみました。リズムもメロディーもありません。ただ,ひたすら波打ちの音が絶え間なく不規則にくり返されているだけです。そのうちに,わたしのからだは波の音のなかに溶け込んでしまいます。波打つときには波と一緒に海面を転がり,そのあとは海面に浮かんだまま一路,汀に向かって進んでいきます。そして,砂浜の上に置き去りにされてしまいます。そこで,ハッとして眼を開いてしまいます。

 すると,こんどは一気にわたしの視覚を美しい珊瑚礁の海が独占してしまいます。と,とたんにわたしの全身をつつんでいた波の音が急に遠ざかり,景色がわたしの意識を独占していきます。そして,波の音は単なるBGMになってしまいます。

 眼を閉じると波の音。眼を開くと美しい景色。わたしの意識とは関係なく,わたしを独占する主役が交代してしまいます。つまり,感覚器官のはたらきに優先順位があるのです。視覚が最優先。

 わたしたちはいつのまにか,眼にみえるものに「信」をおく生き方が習慣化しています。ここから話は一気に飛躍していきます。視覚優先の生き方は,どうやら「近代」という時代の所産ではないか,と。そして,「前近代」までは,その逆で,聴覚優先の生き方がなされていたのではなかったか,と。つまり,聴覚人間から視覚人間へと,「近代」という時代が人間を変化させたのではないか,と。そして,そのとき,ごくふつうに生活している人間にとってなにが起きたのか,と。

 さらに,話を飛躍させてみましょう。近代の初期の発明のひとつに「電気」があります。この電気のお蔭で,わたしたちの生活は飛躍的に変化しました。そのひとつが,闇を照らす明かり(電灯)でしょう。その明かりが,言うまでもなく,わたしたちの環境を一変させてしまいました。これまで「闇」のなかに閉じ込められていた「夜」の時空間が,太陽の照る時空間のなかに組み込まれていくようになりました。そして,都会から闇は追放されてしまいました。不夜城の登場です。

 人間の聴覚は,視覚では捕捉することができない時空間に対して,大いに力を発揮します。つまり,闇の世界の主役は聴覚です。それにつづいて触覚や臭覚や味覚が働くことになります。さらには,第六感というものが登場します。あるいは,気配を感じ取る,直感と言ってもいいでしょう。しかし,科学万能の時代である近代にあっては,第六感も,気配を感じ取る直感も「非科学的」(あるいは「迷信」)という名のもとに,ことごとく抑圧・排除・隠蔽されてしまいました。

 しかし,視覚を遮断された闇の世界では,視覚以外の五感に頼るしか方法はありません。ところが,この五感の機能が「近代」の進展とともに低下するということが起きてしまった,と言っていいでしょう。

 現代社会を生きるわたしたちのからだは,好むと好まざるとにかかわりなく,視覚中心(視覚依存)の生活環境のなかに放り込まれています。その結果として,視覚以外の他の感覚器官の機能低下が起きている,という次第です。しかし,わたしも含めて多くの人びとはそのことを忘れて日常の生活をしています。そのトータルの結果が,現代社会の諸矛盾となって露呈しはじめている,と考えるのはいささか飛躍にすぎるでしょうか。

 奄美自由大学のことしのテーマは「沈黙」でした。この「沈黙」をどのように定義して思考を展開すればいいのかということになりますと,ここにはいささかやっかいな問題があることに気づきます。しかし,「沈黙」というテーマにもまた「近代」という補助線を一本引いて考えてみますと,意外にすっきりとした思考を展開させることができそうです。

 この手法は,じつは,わたしの長年取り組んできたスポーツ史研究やスポーツ文化論では,いまでも用いているものです。ですから,「沈黙」のテーマはわたしの研究にとっても不可欠のものでもあります。

 スポーツ競技の世界にあっても,視覚の及ばない「沈黙」の世界に踏み込むことは,競技力を高める上では不可欠です。しかし,現状では,メンタル・トレーニングだとか,イメージ・トレーニングと言ったスポーツ科学の成果で代替しようとしています。しかし,これは,言ってみればきわめて表層的な応急措置にすぎません。

 奄美大島の北端の珊瑚礁の海を眺めながら,こんなことに思いを巡らせていました。気がつくと,いつのまにか,わたしのとなりに今福さんが,わたしと同じような姿勢で坐って,黙って海を眺めて
いました。お互いに「沈黙」を守りながら・・・・。

2012年9月14日金曜日

明日(14日)の毎日新聞夕刊のコラム「スポーツを考える」にわたしが登場します。

 明日(15日)の毎日新聞夕刊のコラム「スポーツを考える」にわたしの記事が掲載されることになりました。大きさは5段組み,26行どり。その中に見出しと顔写真と略歴が入ります。かなり大きなコラムです。そのゲラが,昨日(13日),落合記者から直接渡されました。記事の最後のところに〔構成・写真 落合博〕とあり,見出しは「3・11後の論理構築を」というものです。なんだか嬉しいような,面はゆいような妙な気分です。

 じつは,一昨日(12日)の段階で,原稿の下書きが落合記者からメールで送られてきて,簡単な修正をして返信したばかりでした。それが,その翌日にはゲラになってでてきたというわけです。新聞社のコラムの段取りというのはこんな風に進むものなのだと感心しました。

 でも,ここまでくるにはかなりの手間がかかっています。

 ある日,突然,毎日新聞社の落合博記者から連絡が入り,一度,お会いしてお話をうかがいたい,とのことでした。オリンピック前でしたので,その話だろうか,それともそれ以外の話なのだろうか,いろいろ考えました。いったいなんだろうと思いましたが,まずは,渋谷の喫茶店でお会いしました。ところが話の途中から,「取材」に切り替えさせてもらっていいですか,ということになりボイス・レコーダーが置かれることに。

 最近の新聞記者の中には,ときおり,とても横着な人がいて,わたしの書いたものを一冊も読まないで〇〇さんに紹介してもらいました,と言ってやってくる人がいます。そういう場合には,即座に,お帰りくださいといってお断りすることにしています。はたして,落合さんはどうかなと半信半疑のままお会いしてみました。落合さんは,とても生真面目に予習をしてこられました。これならばと話に気合が入った瞬間に「取材」ということで・・・ということになりました。

 このときは,喫茶店が騒音でうるさくて,ボイス・レコーダーもうまくわたしの話をひろうことができなかったのではないかと思います。と思っていたら,それからしばらくして,もう一度,取材をということになりました。こんどは,わたしの鷺沼の事務所にきていただきました。ここなら静かに,落ち着いてお話ができると考えて・・・。これは正解でした。顔写真もこのときに撮ったものが掲載されます。

 落合記者から促されるままに,あれもこれも饒舌に語ってしまい,あまりまとまりのない話をしました。ところが,出来上がってきた原稿をみて驚きました。力点のおき方は多少異なるとしても,わたしが言いたかったことをじつに要領よく,限られたスペースのなかでまとめてくださいました。ぜひ,本文は新聞でご確認ください。

 この人は面白いと思いました。わたしのお話したことは,いま考えていることのほんの一部でしかありません。ので,この続編はぜひ「取材」とは関係なく,鷺沼の「延命庵」でやりましょう,ということになっています。3・11後のスポーツをどのように考えていけばいいのか,その思想・哲学的基盤を固めるにはどうすればいいのか,それが喫緊の課題です。3・11前までのスポーツについての考え方をいかに批判的に超克していくか,そのための理論的根拠を明らかにすること,これが「21世紀スポーツ文化研究所」の課題です。

 もう一つ,裏話をしておきますと,落合記者が掲載紙のゲラを直接手渡してくださったのは,なんと柏木裕美さんの画廊企画展の初日の会場・ギャラリーG2でした。ついでに,ギャラリーG2での柏木さんの能面展は圧巻です。来られた方たちが,みんなびっくり仰天されています。しかも,それぞれの業界での一流の人たちばかりです。落合記者もびっくり仰天された人のひとりです。

長くなってしまいました。とりあえず,明日の毎日新聞の夕刊の宣伝まで。

2012年9月13日木曜日

能面アーティスト柏木裕美さんの画廊企画展が今日(13日)からはじまります。

 以前にもこのブログで書きましたように,能面アーティスト柏木裕美さんの画廊企画展が今日(13日)からはじまります。会期は18日(火)まで。テーマは「愛ゆえに」。

 昨日(12日),太極拳の稽古のあとSさんと一緒にセッティングのお手伝いに行ってきました。こじんまりとした2室に,約180面を飾りました。テーマの中心となる「愛ゆえに」と,白の「大般若」の2面を額に,もう1面を漆塗りの板の上に飾りました。あとは,全部,壁面に直接釘を打って,ほとんど隙間なく飾りました。圧巻です。

 加えて,能面の絵と能面の写真の掛け軸の一部を展示。展示できないものは平積みにして,めくってみていただくようにしてあります。なにはともあれ,柏木さんがいま手元に保存している能面のすべてが一堂に展示されています。一人の作家の能面を,それも180面も,一度に見られるということ自体が奇跡のような話です。

 セッティングするための時間と人手の関係で,とりあえず,全部の能面をはじから手あたり次第に並べることにしました。すると,不思議なことに,これまでとはまったく違った空間ができあがり,見る人を圧倒する迫力満点の展示になりました。

 これまでの展示(たとえば,文藝春秋画廊)では,伝統面(能舞台で用いられる面)のグループ,小面100変化のグループ(小面から般若まで),現代人の顔を能面の様式で表現した面のグループ,という具合に展示されてきました。が,今回は,近くに置いてある面から,つぎつぎに釘を打って,そこに掛けていくという無作為・無意識にゆだねることにしました。その結果が,今回の展示です。ですから,一見したところ雑然としています。が,このカオスのような状態こそ「愛ゆえに」のテーマにふさわしいのでは・・・と思えてきますから不思議です。

 ひょっとすると,日替わりのように,作品の展示位置が変化するかもしれません。もうすでに,昨日の段階でも,いくつかの面は移動させたりしています。ようやくそれぞれの能面の位置が落ち着くころには会期が終了しているかもしれません。その意味では,日替わり展示を楽しみに,足を運ぶのも一興かと思います。
 
 画廊に関する情報は以下のとおりです。
 画廊の名前:ギャラリーG2
 住所:中央区銀座2-8-2 日紫ビル1F
 電話:03-3567-1555

 展示されている場所が2室になっていますので,交代でわたしも留守番の応援にでかけることになっています。運がよければ画廊でお会いできるかと思います。あるいは,事前にメールでご連絡くだされば,時間を合わせることも可能です。

 これまでに前例のない能面展であることは間違いありません。
 ぜひ,お出かけください。

2012年9月12日水曜日

「沈黙する身体」・考(奄美自由大学2012)。

 からだの声を聞け,という。しかし,からだは声を発しはしない。「沈黙する身体」。

 声を発することはないが,さまざまなサイン(信号)は発している。歯が痛い,胃が痛い,眠い,からだがだるい,重い,疲れた,などなど。これらはからだの「負」のサイン。この反対に「正」のサインもある。食欲旺盛でなにか食べたい,頭がすっきりしている,からだが軽い,走りだしたい,ジャンプしたい,などなど。気がつく前にからだが勝手に動きはじめることもある。からだの発するサインは,「正」「負」合わせるとじつにさまざま,多種多様である。じつは,ことほどさように,からだはまことに騒々しいのである。声なき声で自己主張をする。それがわたしたちのからだの実態だ。

 これらのうちの「負」のサインを発しないときのからだは,おおむね「健康」だといわれる。つまり,からだのことを忘れている。意識にものぼらない。完全に忘れられた身体。すなわち,「沈黙する身体」。老子のいう「無為自然」。なさざるなし。自然そのもの。すなわち,為すことのない,完全な状態。

 奄美の島々をめぐりながら,こんなことを考えていた。

 今福さんから送られてきた「奄美自由大学2012への誘い──<ウトゥ・ヌ・クラスィン>」のタイトルは「沈黙する島々──鳥籠(ケージ)の声(ウタシャ)に導かれて」とある。<ウトゥ・ヌ・クラスィン>とは「音の暗がり」という島ことば。「音の暗がり」という表現は論理的にはおかしい。しかし,この「論理」という思考のパラダイムから解き放たれたさきに,じつは「人間の根源的な姿への回帰」が可能になるのだろう,とこの案内文は教えてくれる。そして,「小鳥を鳴かせずに鳥籠に入れる」(荘子)ことが可能となるのだろう。

 これはまた,老子のいう「無為自然」と同じ境涯というべきだろう。老荘の世界。この世界は「論理」を超越している。<ウトゥ・ヌ・クラスィン>もまた同様。その「音の暗がり」を尋ね歩いてみませんか,と今福さんは誘う。「群島が古くから受けついできたカナシャル(愛おしい)<沈黙>」を,と。

 奄美大島─加計呂麻島─請島。可能なかぎり「移動溶液」となって,島々を渡り,そして,もどってくる旅の間,ずっと「カナシャル<沈黙>」に思いを馳せていた。

 近代の文明化された社会は,ひたすら科学的合理主義に信をおき,論理的にものごとを考える教育を推し進めてきた。そのゆきついた果てが,いま,わたしたちが直面している現実の社会だ。バタイユのいうところの「有用性の限界」が露呈してしまった社会だ。そこを超えでていくにはどうしたらいいのか。今福さんは,それを『群島─世界論』のなかで展開している。大陸ではなく「群島」の側から逆照射してみようではないか,と。

 この問題は,近代スポーツ競技の世界にも通底している。

 これからも少しずつ,近代論理を超克するための道すじを尋ね歩いてみたいと思う。今回の奄美自由大学の経験もまた,その強烈な刺激となって,わたしのからだの奥深くに刻み込まれることになった。もって瞑すべし,としみじみ思う。

 とりあえず,今回はここまで。





2012年9月11日火曜日

「重くなったり,軽くなったりする身体」の経験・奄美自由大学2012.

 そのむかし,そう,いまから50年以上も前のことです。わたしが山登りに熱中していたころのことです。山に行くとからだが軽くなることに気づきました。でも,それはとてつもなく重いザックを担いで頂上をめざし,山小屋に到着してザックをおろしたときの重力からの解放によるものだ,と思っていました。テントを張ったり,飯盒炊飯の準備をしたり,水汲みに行ったりするときのからだの軽さは,街中の日常のからだの感覚とはまったく別の経験でした。

 しかし,それが山だけのことではない,ということにやがて気づきます。街中でも,聖地と呼ばれるような神社や仏閣,あるいは,大きな墓地などに行くと,からだが軽くなるところと重くなるところがあることに気づきました。そんなことに気づいてからは,あちこち旅にでるたびに,その感覚を楽しんでいました。長く勤務していた奈良という「地」には,いろいろのところにそういうスポットがあることに気づきました。いまは,単なる荒れ地であったり,森になっていたり,古い遺跡であったりするようなところに,「おやっ?」と思うところがあちこちにありました。分け入ってもっと奥まで行ってみたくなるところと,すぐに引き返したくなるところとは,はっきりとしていました。とくに,柳生街道をたどって山のなかに入っていくと,あちこちに,そういう「気配」を感ずる場所がありました。

 60歳をすぎてからの経験では,沖縄の本島でのものがあります。とくに,グスクやウガンショに接近すると,からだが軽くなったり重くなったりすることがあります。総じて,沖縄の本島では,からだが重くなるところが多いのは,仕方がないことではありますが・・・・。

 それと同じようなことが,奄美大島でも起こりました。昨年も「おやっ?」と思っていましたが,あまりいい話ではありませんので,できるだけ独りで「気配」を楽しんでいました。

 が,ことしは帰路に,最南端の請島から加計呂麻島を経て奄美大島に上陸したときに,突然,ひとりの女性が大きな声で「これってなにっ?からだが急に軽くなったぁ!」と叫んだのです。それに釣られるようにして,「わたしも」「わたしも」という声があちこちであがりました。なぜか,女性の声がほとんどで,男性は感じても黙っていたのか(「沈黙」を守って),男性の声は聞かれませんでした。

 わたしはできるだけ聞き役に徹して,「えっ?請島から加計呂麻島では感じなかったのですか?」と聞いてみました。すると,なかには「わたしはそのパターンでした」という女性が何人かいました。が,不思議なことに,その逆の人の声は聞かれませんでした。

 たまたま,ここに集まってきた女性たちにそのような感性の鋭い人が多かったということなのかなぁ,と考えていました。そして,女性よりも男性の方が鈍感なのかなぁ,などとも思ったりしていました。が,あとで聞いてみますと,男性にも何人かは,それに類することを感じたという人はいました。

 わたしは,じつは,奄美に到着したときから,からだが軽くなるのを感じていました。それは去年も同じでした。そして,さらに,加計呂麻島に上陸すると,もっと軽くなるのです。そして,請島に上陸してしばらくすると,さらに「ハイ」になっていることに気づきました。

 民宿の部屋でお茶を飲みながら話をしているうちに,これはなんだろう,と感じたので急いで外にでました。すると,民宿の庭の奥にお地蔵さんが立っていました。やや斜めに海の方を向いていました。しかも,新しくて立派なお地蔵さんです。わたしの育った地方(愛知県豊橋市)では,自宅にお地蔵さんを立てるということは聞いたことがありません。ですので,かなりびっくりしました。そのすぐ隣にはあまり大きくはないけれども,少し変わった石片が並べてありました。こちらはどう考えてみても神道系です。まあ,神仏混淆というところでしょうか。

 どうも,このあたりが「ハイ」になったきっかけのような気がしたものですから,そっと口のなかで般若心経を唱え,小さな鐘が置いてありましたので「チン」とひとつ鳴らしてみました。そして,「あっ!」と気づきました。

 そういえば,民宿の玄関には「永平寺」と書かれた下駄が一足,置いてありました。ということは,この民宿のおやじさんは仏教にも信仰をもつ,しかも曹洞宗に信を置いている人なのだろうか,と。そして,そのことと,このお地蔵さんとは無縁ではないな,とひとりで想像していました。こんなところで「永平寺」と大書された下駄に出会うとは想像だにしていませんでしたので,驚きの経験でした。あとで民宿のおじさんに聞いてみようかなとチャンスをうかがっていましたが,大勢のお客さんの到来でとても忙しくしていて,結局,無理でした。

 この日の夜の宴は,やはり請島という「場」のもつ磁力・威力(偉力?意力?)といいましょうか,驚くべき光景を目の当たりにすることになりました。恐ろしく「ハイ」になる人,頭が痛くなって倒れてしまい起き上がれなくなってしまう人,途中で酔いつぶれてしまう人(これはどこにでもある風景),などさまざまでした。わたしは,その前から「ハイ」になっているのを感じていましたので,ちょっと距離をおいたところに陣取り,黒糖焼酎を舐めながら,「ほんわか」とした酔いごこちにまかせて,ぼんやりと全体の情景を眺めていました。最後には,歌と太鼓のリズムに合わせて,みんなが踊りはじめました。しかも,たいへんな盛り上がりでした。

 この輪に入って行ったら,間違いなく熱狂的に踊りはじめるだろう自分の姿がありありとみえていました。こんな経験も珍しいことでした。心地よく酔った自分と醒めた自分が同居していて,そのいずれでもないわたしのからだ。そして,その境界領域をふわふわと漂うわたしのからだを楽しんでいました。ひとり,ぽつん,と。わたしの「沈黙」。

2012年9月10日月曜日

「奄美自由大学」から無事に帰宅しました。ことしも充実の2泊3日でした。

 9月7日(金)から2泊3日で開催されたことしの「奄美自由大学」から鹿児島経由で羽田に帰ってきました。去年もそうでしたが,とても充実した時間を過ごすことができました。

 まずは,毎年,これを主宰されている今福さんに感謝。そして,現地で全面的にわたしたち参加者をサポートしてくださる濱田kosakさんに感謝。さらに,わたしたちの眼のとどかないところで相当の労力を奉仕してくださっている今福ゼミの学生さんや若い関係者の人たちに感謝。もちろん,宿泊・食事でお世話になった現地の人びとの心温まるおもてなしに感謝。最後に,参加されたみなさんとのそこはかとない触れ合いに感謝。初対面の人が多いなかで,こころ安らぐことのできる幸せをしみじみと感じて帰ってきました。

 ことしは昨年につづき2回目の参加でした。テーマは「沈黙」。お蔭で,なにもしゃべらなくてもいいという勝手な解釈をして,自分のこころや思念の世界に浸ることに専念していました。そんな勝手なことを「黙って」許してくださる場,それが奄美自由大学のひとつの魅力だと,これまた勝手に解釈して,存分に堪能してきました。これらの具体的なことについては,いずれまた,わたしなりの体験として一つずつ書いてみたいと思っています。

 ひとことだけ書いておけば,近代スポーツ競技を超克するための「21世紀のスポーツ文化」を考える上で,貴重な体験になったということです。しかも,深いところにとどくものでした。やはり,「その場」に立つ,ということの重要さをいまさらのように再確認させてもらいました。近代スポーツ競技もまた,もとを尋ねていけば,みんなバナキュラーな特色を色濃く温存している伝統スポーツでした。が,それが大きく変化しはじめるきっかけとなったものが,中世から近代への転換,でした。わたしのスポーツ史研究での議論に置き換えますと,前近代から近代への転換,ということになります。このとき,いったい,なにが起きたのか,ということをスポーツ文化をターゲットにして考えてみよう,というわけです。そして,いま,また,近代から後近代への転換,というとてつもなく大きな転換期にわたしたちはいま立ち合っている,という次第です。

 こんなことを考えながらの奄美自由大学での,じつに多くの,さまざまなかたちで,からだに刻み込まれた記憶を,少しずつ記録に変換する作業に,これからとりかかりたいと思っています。どのくらいのペースでここに再現できるかは未知数ですが,楽しみにしたいと思っています。

 今回は,とりあえず,お世話になった多くのかたがたへの感謝と,無事にもどってきました,というご報告まで。

※このブログを読んでいます,という方との出会いもあり,感動しました。しかも,九州にお住まいの女性でした。藍染めの似合う素敵な女性でした。



2012年9月5日水曜日

ピストリウス「あいつの義足は長すぎる」。ブレード・ランナーとテクノサイエンスの問題。

 オスカー・ピストリウスの3連覇がかかっていたパラリンピック200m決勝で,予想外のことが起きた。ダントツのトップを走っていたピストリウスがゴール寸前で追い抜かれ,まさかの2着になってしまったのだ。さすがのピストリウスも心を乱したのか,記者会見で「あいつの義足は長すぎる」と毒づいてしまった。さあ,こうなるとメディアは黙ってはいない。新聞・テレビはもちろん,ツイッターでも言いたい放題。

 しかし,パラリンピックの背後に秘められているもっとも根源的な問題が,これを契機にして一気に噴出した,と言っても過言ではなさそうだ。

 よくよく考えると,この問題は,なにもパラリンピックに限らない。近代スポーツの進展の裏側には,つねについてまわっていたアスリートと用具・施設の問題なのだ。つまり,一般の生活を営んでいるわたしたちにも通じる普遍の問題なのだ。つまり,人間にとって「道具とはなにか」という根源的な問いが,その背後にあるとわたしは考える。

 早速,映像を確認してみると,なるほど,ピストリウスを追い抜いたアラン・オリベイラ(20歳・ブラジル)のブレードは長い。ピストリウスとオリベイラが並んで写っている写真をみても,そのことは歴然としている。

 しかし,IPC(国際パラリンピック委員会)によれば,義足の長さは選手のからだを計測して,身長に合わせて規定しているという。今回も,すべての選手の義足を試合前に確認し,全員が規定の範囲内である,と判断しているとのこと。その結果がこれだ。つまり,かなりの誤差を認めている,ということだ。

 かつて,棒高跳びの競技が竹とスチールとが同時に用いられていた時代があった。日本の選手が活躍できたのは「竹」を用いていたからだ,という説もある。それから時代がくだると,スチールの性能がよくなり,竹では勝負できなくなる。さらに,グラスファイパーという素材が用いられるようになって,こんにちにいたる。つまり,近代スポーツはテクノサイエンスの進展とともに大きく変化してきている。

 この問題が,プレード・ランナーの場で起きただけの話。こういう不公平が明らかになった段階で,みんなが納得できるルール改正を繰り返してきた。だから,IPCも,ピストリウスの意見を聞く場を後日設ける,と言っている。

 ヒトが人間になるときの契機になったものの一つが「道具」だった。そのときから,よりすぐれた「道具」をわがものとするための競争がはじまる。これが人間の歴史を動かしてきた。バタイユに言わせれば「有用性」の追求である。しかし,その「有用性」には「限界」がある,とも断言している。この問題をバタイユは「一般経済学」と「普遍経済学」に分けて,詳細な議論を展開している。ここに,こんにち,わたしたちが直面している諸矛盾のすべてが凝縮している,とわたしは考えている。

 残念ながら,原発はその典型的な事例になってしまった。

 ブレード・ランナーにとっては「ブレードの性能」が大きく結果を左右する。のみならず,ブレードの性能がさらに高まれば,健常者の記録を上回ることになる。その日の到来するのも,もはやそんなに遠くはない,と言われている。その意味では,ピストリウスは時代の最先端を切り開く革命児だったのだ。そのピストリウスを,さらに上回るアスリートが現れた。それがブラジルのオリベイラだった。

 たしかに,100mのコーナーを回ってからのオリベイラの加速は驚異的だった。約8mもの差(ピストリウスの談話による)を残りの100mで縮め,追い抜くということは,ふつうでは考えられないことだ。しかし,それが可能となる時代の幕が切って落とされた。

 パラリンピックには,現代社会がかかえこんでいる諸矛盾が凝縮しているように思う。それらの一つひとつが可視化される「場」として,わたしは注目したいと思っている。それは同時に,スポーツ文化とはなにか,現代社会を生きる人間にとって「スポーツとはなにか」を考える,絶好のチャンスでもある。その意味で,パラリンピックと本気で向き合いたいと考えはじめている。

2012年9月4日火曜日

わたしが生まれる前のわたしの存在へ。「沈黙」への想像力の飛翔──「物質的恍惚」。

 よく知られているように,ル・クレジオの『物質的恍惚』は,生誕前(=物質的恍惚),生誕後(=無限に中ぐらいなもの),死後(=沈黙)の三部構成をとっています。そして,訳者の豊崎さんの解説によれば,生誕前と死後の世界である「物質的恍惚」と「沈黙」は同じだといいます。わたしがわたしの存在をある程度まで確認てきるのは,唯一,生誕後の生きている間(=無限に中ぐらいなもの)だけのことだ,というわけです。

 たしかに生誕前の「物質的恍惚」の時代も,わたしにとっては「沈黙」以外のなにものでもありません。しかし,ル・クレジオの想像力はたくましく,その「沈黙」の世界がまさしく「無限」のひろがりをもっていることを,わたしたちに指し示してくれます。こんな本を27歳にして世に問うたというのですから,わたしには想像だにできません。しかも,ヒンドゥー教との出会いをきっかけにして,ここまて想念をめぐらすことができたル・クレジオという人の,感性の鋭さと内面の世界のひろがりに,ただ,ただ,唖然とするばかりです。

 あのニーチェがゾロアスター教の影響を受けて書いたといわれる『ツァラトゥストラはこう言った』ですら,ニーチェが40歳を過ぎてからの話です。また,バタイユが,きわめて個人的な神秘体験をもとに書いたといわれる『内的体験』にしても,43歳すぎてからのことだといいます。ですから,ル・クレジオがいかに若くしてその天才ぶりを発揮したかは明々白々というわけです。

 その若きル・クレジオが「物質的恍惚」という,現実にはありえない概念を用いて,明らかにしようとしたことはなにであったのか,しばらくはその「無限」の時空間に向き合って,自問自答しながら格闘する以外にはなさそうです。

 で,まずは,その書き出しを引いてみたいと思います。

 ぼくが生まれていなかったとき,ぼくがまだぼくの生命の円環を閉じ終えていず,やがて消しえなくなるものがまだ刻印されはじめていなかったとき。ぼくが存在するいかなるものにも属していなかったとき,ぼくが孕まれて(コンシュ)さえいず,考えうるもの(コンスヴァーブル)でもなかったとき,限りなく微小な精確さの数々から成るあの偶然が作用を開始さえしていなかったとき。ぼくが過去のものでもなく,現在のものでもなく,とりわけ未来のものではなかったとき。ぼくが存在していなかったとき。ぼくが存在することができなかったとき。眼にもとまらぬ細部,種子の中に混じり合った種子,ほんの些細なことで道から逸らされてしまうに足りる単なる可能性だったとき。ぼくか,それとも他者たち。男か,女か,それとも馬,それとも樅の木,それとも金色の葡萄状球菌。ぼくが無でさえなかった──なぜならぼくは何ものかの否定ではなかったのだから──とき,一つの不在でもなく,一つの想像でもなかったとき。ぼくの精子(たね)が形もなく未来もなしにさまよい,涯(はて)しない夜のうちにあって,行き着くことのなかった他の精子の数々とひとしかったとき。ぼくがひとの養分になるものであって,みずから養分をとるものではなく,組み立てるものであって,組み立てられたものではなかったとき。ぼくは死んではいなかった。ぼくは生きてはいなかった。ぼくは他者たちの体の中にしか存在していず,他者たちの力によってしか力をふるえなかった。運命はぼくの運命ではなかった。極微な動揺が時の流れを走って,実質であるものは種々さまざまな道を辿って揺れていた。どの瞬間に,ドラマはぼくにとって切って落とされていたのか? どの男ないし女の体の中,どの植物の中,どの岩の塊の中で,ぼくはぼくの顔に向かう旅を始めていたのか?

 ほんの少しだけ引用するつもりが,区切ることを拒否するような文章がつづき,とうとうここまで書き写してしまいました。これが,ル・クレジオによる「物質的恍惚」(=「沈黙」)の世界の書き出しです。わたしの存在を確認することなどまったく不可能な世界,それでいて,どこかに,いつかわたしとなるさまざまな要素が,さまざまな他者のなかに分散して存在している,そういう世界。しかも,それでいて,それらの要素がそこはかとなく「わたしの顔」に向かう旅を始めている・・・とル・クレジオは想像力を巡らせています。これが,まだ27歳だったころのル・クレジオの『物質的恍惚』の書き出しの最初のパラグラフです。

 こんな文章が延々とつづきます。しかも,それでいて退屈しないどころか,強烈なインパクトをもって迫ってきます。しばらくすると,身動きできない状態で固まったまま,この本の虜となっています。なぜなら,これまで想像だにしたことのなかった「物質的恍惚」の「沈黙」の世界が映し出され,目の前に展開されているからです。そして,その「沈黙」の世界がなんと騒々しいことか,と耳をふさぎたくなるほどです。

 子どものころ,一度ならず,生まれる前はどうだったのだろうか,死ぬとどうなるのだろうか,と真剣に考えたことがあります。それは,もっとぼんやりとした「空想」の域をでませんでした。が,ル・クレジオの「物質的恍惚」の世界は,不思議なリアリティをもって迫ってきます。しかも,そこに「無限」の時空間が広がり,かつ,音や匂いまでが押し寄せてきます。

 「沈黙」や「無」や「空」が,いかに充実した内実をともなっているのか,ということが明らかになってきます。いま,わたしの頭のなかでは,子どものころから慣れ親しんできた『般若心経』の経文が鳴り響いています。とりわけ,「色即是空」「空即是色」の文言が・・・・・。そして,これらの仏教的世界もまたヒンドゥー教にルーツがあることも・・・・。ですから,わたしにとっては,ル・クレジオの『物質的恍惚』の世界は,仏教(とりわけ,禅仏教)的世界観と二重写しになって迫ってきます。

 ですから,ル・クレジオの『物質的恍惚』は,わたしにとってはなくてはならない座右の書でもあります。気が向いたときに,手が開いてくれたページに眼を落とすだけで,すぐに,その世界の中に入っていくことができます。

 そして,なによりも「訳文」が素晴らしい。

2012年9月3日月曜日

パラリンピック・柔道の試合規定について。

 昨日のブログで「パラリンピックの柔道がおもしろい。これぞ柔道。」を書いたところ,驚くほどの反響がありました。そこにも書いておきましたが,正式の試合規定がわからないので,勝手に想像して書きました。そして,あとで調べた結果について報告するとも書いておきました。

 そこで,早速,近所の本屋さんに行って(かなり大きい),パラリンピック関連の本がないかと尋ねたところ,一冊もないことがわかりました。これはちょっと意外でした。では,雑誌かなにかでパラリンピックの特集をやっていないかと尋ねたところ,こちらもありませんとのこと。おやおや,健常者のオリンピックは前宣伝よろしくたくさんの本が刊行されたのにくらべ,なんという扱い方の違い。簡単に言ってしまえば「売れない」ということなのか。

 障害者アスリートに関する単行本(ノンフィクション)はありましたが,いま,わたしが必要なのはパラリンピックでの柔道の試合規定です。仕方がないので,鷺沼の事務所に行って,ネット情報を調べることにしました。あちこちリサーチしてみましたが,なかなか見つかりません。が,ようやく「公益財団法人日本障害者スポーツ協会の公式HPの奥の奥の方に,以下のような記述をみつけることができました。

 要約しておきますと,以下のとおりです。
 柔道:視覚障害者により行われる。試合の方法は基本的に健常者に準ずる。
 試合は,体重別で,男子は7階級,女子は6階級で行う。
 ルールは,国内大会も国際大会もすべて「国際柔道連盟試合審判規定」および大会申し合わせ事項によって行われる。
 この規定と異なる内容はつぎの3点。
 1.試合は両者がお互いに組んでから主審が「はじめ」の宣告をする。
 2.試合中両者が離れたときは主審が「まて」と宣告し,試合開始位置に帰る。
 3.場外規程は基本的に適用しない。ただし,全盲の選手を保護するため,弱視の選手が故意に利用した場合には適用されることがある。

 肝心要の「組み手」の方法については「両者がお互いに組んでから」としか記述されていません。 相手の襟を右手でとるか,左手でとるか,それぞれ得意の組み手があるはずです。ですから,健常者の柔道ではいわゆる「組み手」争いが起こるわけです。視覚障害者の場合の最初の「組み手」をどのようにするか,という規定がありません。いわゆる相撲で言うところの「けんか四つ」の場合にはどうするのだろうか,というのがわたしの疑問です。

 2日(日)夜の8時のNHKのEテレで,パラリンピックの再放送をやっていましたので,そこで確認することにしました。ちょうど,柔道男子100キロ超級が取り上げられていました。正木健人(25歳,兵庫県・徳島盲学校)選手の試合です。正木選手が今大会の日本選手金メダル第1号というわけです。ですから,かなりの時間をかけて報道してくれました。

 さて,そこで問題の「組み手」です。報道する方にその意識がないので,ほとんど組み終わったところからの映像ばかりでした。正木選手は左手で襟(できれば奥襟)をとるのが得意らしく,すべての対戦相手の襟は左手でとっていました。正木選手と同じ組み手の相手の場合にはなんの問題もないのですが(ごく自然な組み手),けんか四つの場合はいささかやっかいのようでした。

 お互いの襟をとるとき,相手の右手と正木選手の左手が重なってしまいます。袖の方は向こう側になっていて映像では確認できませんでしたが,こちらも,どちらがさきに袖をつかむかによって組み方が微妙に違ってくるはずです。ですから,主審が,かなり念入りに組み手の状態を確認した上で「はじめ」の声をかけていることがわかりました。

 これで試合が成立し,選手の側からもとくに苦情がないようですので,これはいい方法だと思いました。正木選手の初戦だったでしょうか,3連覇のかかった優勝候補のザキエフ(アゼルバイジャン)を相手に,「はじめ」と同時にかなり強引な「足車」の技をかけました。それがみごとに決まって「1本」。相手はなにもしないうちに終わってしまいました。このように,「はじめ」と同時に,すぐに技の応酬がはじまり,手に汗にぎる熱戦が展開します。

 これが「柔道」です。

 健常者の「JUDO」の試合は,みていて面白くありません。視覚障害者の試合の仕方から,とくに「組み手」の方法について,大いに学ぶべきではないか,とわたしは思いました。

 できれば,選手たちが,この「組み手」の方法について,どのような感想をもっているか直接聞いてみたいと思っています。


2012年9月2日日曜日

待望の雨,涼しい風,熱帯夜脱出。ほっと一息。

 ことしの夏はほとんど雨らしい雨も降らず,連日の猛暑。道路のアスファルトの温度が下がらないまま朝を迎える。ますます路面の温度が上がる。建物も同じ。ベランダは焼け焦げそうなほどに温度が上がっている。プールサイドでは火傷をするほどだ。水を撒いてもすぐに乾いてしまう。マンションの窓を開け放っておいても朝から熱風が吹き込んでくる。

 もともとエアコンが嫌いなので,できるだけ自然の風に頼ることになる。しかし,限界をこえると仕方なくエアコンに頼らざるをえない。あるいは,近くのデパートに飛び込む。余裕があるときには近くのスタバに出かけて,コーヒーを飲みながら本を読む。それでも,もともと冷房なるものが好きではないので,長くは居られない。

 冷房のきつい電車は20分が限度。それ以上乗車してlなければならないときは,一度下車して,からだを常温に慣らしてから再度,乗車する。むかしから冷房は体質に合わない質なのだ。その代わり,暑さにはめっぽう強い。みんなが暑い,暑いといって騒いでいても,わたしはほとんど平気。汗もよほどのことがないかぎりかかない。太極拳の稽古のときも汗をかくことはほとんどない。みんなが不思議がるけれども事実だ。

 そんな,暑さには自信のあるわたしも,さすがにことしの夏は参った。夜もエアコンはつけないので,毎夜,びっしょりの寝汗をかいている。第一,寝苦しい。眠りも浅い。すぐに眼が覚める。余分なことばかり考える。枕元のメモ用紙がすぐにいっぱいになる。いいアイディアもあるが,大半はどうでもいいものばかり。

 ほとほと,ことしの夏の,この連日の暑さに弱音を吐きかけていた。
 そこに待望の雨。しかも,土砂降りの雨。それが断続的に襲ってくる。とたんに涼しい風が部屋に流れてくる。そうだ,この風を待っていたのだ。この快感。やはり,自然の風が一番。さっと吹き過ぎていく一陣の風。からだに残るその余韻がまた格別だ。あまり続けて涼しい風が吹くと,こんどは寒くなってくる。まだまだ,からだが涼しい風に慣れていない。だから,強弱のついた風が交互に吹いてくれると嬉しい。

 さっと通りすぎていく風。とたんに全身の細胞が生き返ってくるのがわかる。これまで死んだふりをしていたのだ。全身を新鮮な血液が流れ出す。からだに張りがでてくるのがわかる。しゃきっとしてくるのがわかる。どことなくからだに力がみなぎってくるのがわかる。死んだふりをしていたからだのあちこちが,一気に活性化してくる。全身が大喜びをしている。まるで,血液が細胞に,細胞が筋肉に,筋肉が骨に,それぞれお互いに声を掛け合っているかのように・・・・。

 最初の豪雨が襲ってきたのは昨日(1日)の午前10時ころ。それから断続的に豪雨の襲来。ときには,ものすごい音が遠くから聞こえてきたかと思うと,あっという間にその音の中に閉じ込められてしまう。外をみると雨で周囲の建物もほとんど見えない。まるで水の中にいるような錯覚を起こすほどだ。こんな豪雨も珍しい。でも,長くはつづかない。4~5分でとおり過ぎていく。

 今日(2日)も,断続的に豪雨が襲う。ただし,その間隔が昨日よりは長い。つまり,雨が止んでいる時間が長い。しかし,それでも豪雨がやってくると,ものすごい音がする。だから,きたきた,と声をあげる。それがとても嬉しい。

 なぜなら,ずっと待ち望んだ,ほんとうに心地よい涼風をもたらしてくれるから。この涼風がいつか必ずやってくる,と首を長くして待っていたのだ。

 いま,9月2日(日)のまもなく23時になろうとしている。雨が止んで,涼しい風がそよそよと吹いている。なんとも心地よい。これでなんとか命拾いだ。

 このまま秋に突入してほしい。でも,そうはいかないらしい。まだまだ,暑さはつづくと天気予報。でも,これまでよりはいくらか過ごしやすくなるはずだ。そして,夜には涼しい風が吹くようになるだろう。それを期待したい。

 とにかく,熱帯夜だけは脱出できそうだ。からだが全身でそう言っている。こんな体験は生まれて初めてのことだ。からだは,まだまだ,わたしの知らないいろいろの顔をもっているらしい。そういうまだ見ぬからだの顔と付き合うのも楽しそうだ。わがからだを発見する喜び。だから,生きていることは楽しいのだろう。

 目指すべきは,サクセスフルエイジング。

パラリンピックの「柔道」がおもしろい。これぞ「柔道」。

 ちらりとニュースで眼にしただけなので,詳しいことはわからない。しかし,これぞ「柔道」,と瞬間的に思った。なんだ,やればできるではないか,と。

 すでにご存知の方にはたいへん失礼だが,恥ずかしながら,わたしは障害者のスポーツを観戦する機会がほとんどなかった。だから,ルールなどもほとんど知らないままだ。しかし,少し注意を向けてアンテナを張ってみると,じつにきめこまかな配慮がなされていて,ゆきとどいたルールが考えられていることがわかる。

 パラリンピックの「柔道」のニュースがテレビ画面に流れた瞬間,思わず眼を瞠ってしまった。とりわけ,試合開始の瞬間である。主審が対戦する選手を中央に呼び出し,両選手はお互いに襟と袖をしっかりとつかみ,それを確認した主審が試合開始を宣言する。だから,その瞬間から,つぎつぎに技が繰り出される。試合開始と同時に,おどろくべき速さで攻防がはじまる。みていて迫力満点である。

 たまたま,わたしがみたテレビ画面では,右自然体で組み合って試合開始となったが,左自然体の組み方もあるのだろうか。あるいは,時間を定めて,交互に組み手を変えているのだろうか。もし,そうだとしたら,まことに合理的でいい。利き手の左右は,どちらも譲れない最大のポイントでもあるから,ここのハードルをうまく乗り越えるルールがあれば,「柔道」の試合は面白くなる。この点は,あとでルールを確認しておきたい,と思う。

 それよりなにより,つぎつぎに繰り出される技の応酬がおもしろい。じつに,スピーディで,しかも,技が決まる確率も高い。支えつり込み足,などという技が決まったりする。見ていてとてもきれいな技だ。だから,見ていて,思わず吸い込まれるようにして身を乗り出してしまう。

 ついこの間まで行われていたロンドン・オリンピックの「JUDO」の試合──組み手争いだけで試合のほとんどの時間が消化される──のあのバカバカしさに腹が立っていたので,パラリンピックの「柔道」はまことに新鮮だった。やればできるではないか,と。

 もちろん,格闘技の本質からすれば,お互いに十分に組み合ってからの試合は,ことばの正しい意味での邪道である。組み手争いからはじまるのが格闘の本来の姿ではある。しかし,あれほどまでに組み手争いに時間がとられてしまい,技を仕掛けるタイミングがほとんど見られなくなってしまった,オリンピックの「JUDO」は,「見せ物」としては失格である。もっと面白くする必要がある。だれもがそう思ったはずである。

 そのヒントが,いま,パラリンピックの「柔道」で繰り広げられているではないか。これを学ばない手はない。いいものはいいのだから。

 世界中の「JUDO」関係者に呼びかけておこう。パラリンピックの「柔道」をヒントにした,ルールの大幅な改正を。

2012年9月1日土曜日

17世紀の上賀茂神社の競馬(くらべうま)。連載・第21回目。

 月刊誌『SF』(体育施設出版)に隔月で連載をしているコラムの紹介です。雑誌『SF』などと書くと誤解されてしまいそうですが,「Sports Facilities」の頭文字をとったものです。つまり,「スポーツ施設」。もとの名前は『月刊体育施設』。以前は「文学にみるスポーツ」という連載を長い間(20年以上),やらせていただいていた,わたしにとってはお馴染みの雑誌です。その雑誌に,いまは,「絵画にみるスポーツ施設の原風景」というタイトルの連載をさせていただいている,という次第です。すでに,今回で21回目の連載となります。

 その掲載誌(8月号)が送られてきましたので紹介したいと思います。正式には,2012年8月号,第41巻10号,P.25.に掲載されたものです。内容は以下のとおりです。

「17世紀の上賀茂神社の競馬(くらべうま)」。

 賀茂競馬図屏風(六曲一双)の部分を取り出してみました。左右に六曲ずつの屏風が対になっているものです。それぞれ縦120cm,横275cmもあります。この図は,左側の屏風の一番左側の三曲に描かれています。
 図の上の方には上賀茂神社の社殿が描かれ,下の方に競馬で競り合っている二騎が描かれています。ゴール直前の激しい競り合いです。馬場を区切る埒(柵)の周囲には大勢の人が群がっています。なかには埒の上に立ち上がって応援している人もいます。扇子を片手に,片肌脱いだ埒に腰掛けて応援している人も見えます。ついでに屏風全体に描かれている人びとの姿を追ってみますと,当時のさまざまな風俗が描き込まれていることがわかります。身分もさまざまです。みんなこの競馬を楽しみにして集まってきた人びとです。
 上賀茂神社の競馬は,毎年5月5日に行われる神事のひとつです。五穀豊穣を祈念する走馬の神事が起源だといわれています。5月を代表する京都の年中行事として知られており,多くの屏風絵の題材としてとりあげられています。いまでも社殿に向かって左側に馬場があって,盛大に競馬が行われています。その場所はむかしから変わっていないようです。いまでは見物客がいっぱいで,境内から溢れんばかりですが,この屏風図をみるかぎりでは,競馬をよそに酒宴を張っている人たちがいたりして,のどかな月次(つきなみ)の年中行事であることが伝わってきます。
 17世紀といえば,戦乱の時代が終わり,世の中が落ち着きを取り戻しつつあるいい時代だったようです。ここに描かれて人びとの姿からも,そんな雰囲気が感じられます。平和な時代にあっても,武士にとっては,馬はいざ戦というときの備えとして欠かすことはできません。
 神事として始まった競馬も,いつしか優秀な馬を選び出すための文化装置に変化していきます。全国の賀茂神社の系列では,いまでも熱心にこの競馬が伝承されているのは,その名残りと言っていいでしょう。
 ここでは,神社の境内がスポーツ施設の原点のひとつであったということに注目しておきたいと思います。


能面アーティスト柏木裕美さんの個展が銀座のギャラリーで開催されます。

 日本で唯ひとり能面アーティストを名乗る柏木裕美さんが,銀座のギャラリーで個展を開くことが決まりました。太極拳の李自力老師のもとで一緒に稽古をしている兄妹弟子です。いつも明るく,どなたとも分け隔てなくお付き合いなさる方ですので,みんな仲良しです。わたしもその中のひとりというわけです。

 柏木さんは,これまでにも銀座の文藝春秋画廊で東京能面塾の塾生の方たちと一緒に,2年に一回,展覧会をやって来られた方です。もちろん,その他のところでも,それぞれの企画に合わせた展覧会をたくさんやって来られました。このブログの読者の方のなかには記憶されている方も多いのではないかと思います。

 銀座の文藝春秋画廊で開催されたときには,最終日に,「柏木裕美の能面を語る」という鼎談を,それぞれ2回やりました。演者は,今福龍太,西谷修のお二人にわたしが司会を兼ねて参加しました。これらはいずれも『IPHIGENEIA』(「ISC・21」研究紀要)に掲載されています。今福さんと西谷さんが素晴らしいお話を展開されています。もし,読みたいという方はわたしのところにご連絡ください。送料着払いで送ります。

 このときの鼎談と柏木さんのエッセイ(能面アーティストへの道)を合わせて単行本にしようという企画が,いま,大手出版社で進行中です。こんどの展覧会では,この本に掲載するための写真の撮影も行われる予定です。こちらも,いまから,とても楽しみにしているところです。

 また,海外への出品の話も進行中と聞いています。ひとつは韓国,もうひとつはイタリアだそうです。この話もうまくいくといいなぁ,と楽しみにしています。

 つい最近では,8月6日(月)~9日(木)に開催されました第二回日本・バスク国際セミナーの会場に柏木さんのたくさんの作品を展示していただきました。こちらは神戸市外国語大学の竹谷和之さんを中心にした企画で,わたしもホストのひとりでした。柏木さんには,毎日,能面制作の実演をやっていただき,かつ,お話もしていただきました。スペインのバスク大学から来られた研究者たちも,みんな興味津々で,休憩時間のたびにたくさんの質問を投げかけていました。なかには,購入したいという人まで現れましたが,柏木さんが用意されたおみやげ(能面を写真にとって,きちんと表装されたもの,など)で我慢していただくことにしました。

 もちろん,一般参加の方たちも興味深そうに作品をご覧になり,実演までみせてもらい,とても感動してくれました。能面を,こんなに身近にみるのは初めて,しかも,伝統面から創作面まで,こんなにたくさんの作品をみるのも初めて,と口々に仰っていました。ましてや,目の前で実演までしてもらって,能面の素晴らしさ,奥の深さを知りましたという方が多くいらっしゃいました。

 長年,苦労を重ねてこられた柏木さんですが,ようやくその努力が報われるときがやってきたようです。毎週一回,一緒に太極拳の稽古に励んでいる兄妹弟子の柏木さんが,こうして大きく羽ばたこうとされる現場に立ち会っていられることの幸せを感じます。やはり,身近な人が,エネルギーを蓄え,いよいよその出番がやってくる,その瞬間に居合わせることができるというのは感動的です。そういうわけで,わたしも,これまで以上に応援をしたいと思っています。

 ついでに,柏木さんは,東京と安曇野の二カ所で能面塾を主宰していらっしゃいます。安曇野の方は毎月出かけて行って,3日間,地元の方たち(いずれも名士の方たち)と楽しく能面制作の手ほどきをされています。いつも,太極拳のあとの昼食の折に,安曇野塾の話を聞かせていただいています。柏木さんは心底,安曇野が好きで好きでたまらない,そういう雰囲気が伝わってきます。そして,安曇野の塾生のみなさんが素晴らしい方たちばかりで,毎月,楽しみにしていらっしゃるようです。わたしたちには,安曇野の「かりんとう」が定期的におみやげとしてプレゼントされます。この「かりんとう」がなんともまた美味なのです。

 東京能面塾の話は,かんたんには書けないほどのお話をうかがっていますので,また,機会を改めたいと思います。

 さて,前置きばかりが長くなってしまいました。
 こんどの展覧会の「はがき」ができましたといって送ってくださいましたので,転載しておきます。とてもおしゃれなデザインになっていて,どこか人の気持を誘う,そういう雰囲気に仕上がっています。場所は,GalleryG2(中央区銀座2-8-2。電話:03-3567-1555)。期間は,9月13日(木)~18日(火)。時間は12:00~19:00。約200点もの能面作品が一度に見られる,またとない絶好のチャンスです。土曜日を入れれば3連休になります。どうぞ,ぜひ,銀座にお越しの際には,立ち寄ってあげてください。柏木さんは毎日,会場にいる予定だと聞いています。

 以上,3人の兄妹弟子のひとりとしての応援メッセージまで。
 ちなみに,もうひとりの兄妹弟子の兄は西谷修さんです。