2013年8月30日金曜日

犬山・木曽川の鵜飼ショーをみてきました。小学校の同級生9名と。

 「面白ろうて,やがて哀しき鵜飼かな」

 夜景にライトアップされた犬山城を眺めながら,その足下で繰り広げられる木曽川の鵜飼ショーを見物してきました。手を伸ばせば鵜にとどきそうな,しかも篝火の火の粉が舞ってくる至近距離で,じっくりと鵜飼ショーを堪能しました。初めての経験でしたので,とても感動しました。なるほど,こんな風にして鵜が魚を追い,獲物をとらえても飲み込むことができない仕掛け(首が縄で締められている)のまま魚を飲むと,こんどは船縁に引き上げられて獲物を吐き出す,というプロセスが目の前で展開され,納得しました。しかし,一方では,ここまでどのように飼育され,訓練を受けて,実用として晴れの舞台に登場するのか,とちらりと脳裏をかすめました。

 8月29日(木)の夕刻。集まったのは小学校の同級生・9名。卒業時の人数は48名。男子24名,女子24名。ですから,48分の9が出席。この数字はじつは微妙です。同級生の年齢は75歳から76歳。参加できなかった人の大半は,本人のからだの都合,すなわち,体調不良。からだは元気だけれども用事があって欠席という人はほんのわずか。つまり,自分の足で歩いて参加できた人が,48分の9,という数字です。その内訳は,男子5,女子4。ここに参加できた人は,なにはともあれ元気で,みんなと会って大きな声で笑いあえる幸せな人。

 幹事さんは,犬山在住の同級生H君。かつての野球少年。名投手。わたしは捕手。名投手が,もうひとりいて,こちらはS君。のちに高校野球の投手としても大活躍。この二人の投手を要して,豊橋市の野球大会に参加。つまり,24人の同級生のなかから9名のレギュラーを,にわか仕込みで選んで結成したチーム。H君はとてもコントロールのいい投手。何種類もの変化球をもっていて,わたしが求めたところに,きちんとボールを投げてくれる。一方,S君は剛球を投げる。スピードも速いのですが,球質が重いのが特徴。なぜか,打たれても遠くに飛ばない。つまり,打者が押し込まれてしまうのです。

 この二人の投手がサードと投手を兼務してくれる。だから,調子が悪くなるとすぐに交代。たった24名しかいない男子生徒のなかから9人を選んで即席に結成したチームが,なんと,試合をするたびにどんどん上手になり,驚くほどの快進撃。どんどん勝ち進むので,やっているわたしたちが驚いたほどでした。最後は,準決勝で1-0で負け。その相手チームは決勝戦で大差をつけて優勝。ですから,実質的な優勝戦はわれわれとの対戦だった,と知る。

 その主戦投手であったH君が幹事をつとめて,今回の同級会をセットしてくださった。やはり,コントロールのいい投手の片鱗が,こういう幹事をつとめてもみごとに発揮されていて,じつにきめ細やかな気配りがあって,これまた,なるほどなぁ,と感心してしまいました。S君のお蔭で,みんな大満足。

 犬山・木曽川の鵜飼ショーには,女性の鵜匠が誕生して,つい最近も新聞で話題になっていました。が,29日は彼女の出番はなくて,残念。運がよければ,この女性鵜匠のショーが見られるところでした。これは本当かどうかはわかりませんが,リクエストすることができる,とか。もし,それが本当なら,もう一度,彼女の鵜飼ショーを見物してみたいなぁ,とみんなで話し合った次第です。

 鵜飼ショーで夕食の弁当を食べて,ホテルにもどってから,男性軍の和室に全員集まって,ここからが本番のおしゃべり会。わたしは,長い間,この会には一度も参加したことがなかったので,どうしてもお客さん。話題についていかれないのです。でも,ことしで3回目。少し慣れてきて,みんなもむかしのように声をかけてくれるようになりました。

 みんなそれぞれに長い人生を生きてきた重みをもっていて,いつも,その重みに圧倒されてしまいます。わたしの生き方なぞというものは,地に足のついてない,空中戦ばかりでしたから。つまりは知的なゲームのようなもの。ああ,軽いなぁ,と今回もまた大いなる反省。でも,いまさらどうすることもできないので,このまま居直って,みんなの話に耳を傾けることに専念。いい勉強になりました。でも,今回は,わたしも少しだけ前にでて,長い間の空白の時間を埋めるための質問などをさせてもらいました。すると,思いがけない応答があったりして,まったく予期せぬ新しい発見が多々ありました。たとえば,わたしの知っている「日本」という国のイメージは,この同級生たちの共有しているものに比べたら,ほんとうに,ある特定のポジションからのものでしかない,ということ。もっともっと視野を広げて,その上にみずからのイメージを構築していかないといけないなぁ,と。でも,その一方では,やはりどこまで頑張って努力しても,最終的には「ドグマ」でしかないなぁ,とルジャンドルのことを考えていました。

 でも,こんなことまで話ができるようになって,ようやく,仲間に入れてもらえたかなぁ,とおもってトイレに立ったら,その間に,来年の幹事はお前やれ,ということが決まっていました。いずれは・・・とは覚悟していましたが,来年やってほんとうにいいのかなぁ,と半信半疑。もう,あと何回できるかわからないので,いまのうちにやっておけ,と強く押されて引き受けることに。となると,東京になるがいいか,と了解も得る。全部,お前に任せる,とのこと。まあ,足腰の弱ってきた人もこの参加者のなかにもいらっしゃる。わたしも含めて,ことしの9名が,来年の〇名になるか,そこは神のみぞ知る世界。

 翌日(30日)は,犬山・成田山にお参りし,犬山城に移動。むかしの城下町である本町通りの犬山市文化資料館に立ち寄り,本町通りを散策。昼食をとって解散。H君は車で何回もピストン輸送をしながらの大奮闘。すっかりお世話になりました。最後の昼食をとったお寿司屋さんの味が抜群でした。突き出しの「もずく」の味が忘れられない。突然の豪雨が降り出したので,奥さんが車を出して犬山駅まで送ってくれました。

 感謝の気持ちも籠めて,ご紹介させていただきます。
 「立喰 光寿司」犬山市三笠町 0568-62-4184
 どうぞ,ご贔屓に。

2013年8月29日木曜日

斎藤美奈子さんのコラム(原発は)「壊れたトイレ」論に拍手喝采。この人の感性は素晴らしい。

 文芸評論家としての斎藤美奈子さんのお仕事は,かなり以前から注目してきました。言ってしまえば隠れファンのひとりでした。が,最近になって『東京新聞』の「本音のコラム」に登場するようになり,週に一回の担当が待ち遠しいほどのファンになってしまいました。わずか「550字」余のスペースしかない枠組みをフル活用して,みごとなまでの小宇宙(斎藤美奈子ワールド)を演出してしまうその才能・感性に拍手喝采です。

 昨日(8月28日)の『東京新聞』の「本音のコラム」に「壊れたトイレ」と題して,つぎのようなエッセイを書いていらっしゃいます。短い文章ですので,そのまま引用させていただきます。それは以下のとおりです。

 先日,水洗トイレにトイレットペーパーの芯を流すという失態をやらかした。あっと思ったときは後の祭り。二十分ほど格闘するも,異物がつかえて水が流れない。
 次の手を思案しつつ思い出したのが「原発はトイレのないマンション」という言葉である。使用済み核燃料の最終処分場も決まらないまま稼働する原発を皮肉った表現だけれど「トイレがない」は実感に欠ける。怖いのは壊れたトイレだ。
 レベル3(重大な異常事象)の認定が検討中の今の福島第一原発は壊れたトイレに近い。汚水が便器からあふれ出し,バケツを集めて次々ためるもバケツも破損。汚水は床にたまり,トイレの外に侵出し,このままだと家中の床はおろか玄関から外に出て隣家にも影響しかねぬ状況だ。
 それなのに,この家の主は「うちで五輪を開こうぜ」などとはしゃいでいる。私には壊れたトイレを放置して,友人をパーティに招こうとしているように見える。まともな友人なら「順番が違う」と思うだろう。
 汚染水漏れは「五輪に直接関係しない」と語った猪瀬直樹東京都知事。同じく「影響はない」と述べた菅義偉官房長官。このセンスが事態を悪化させる。私は五輪を歓迎しない。「お手上げなんだ。助けてほしい」と首相は他国に頭を下げるべきなのだ。官邸のトイレにトイペの芯を流しに行きたい。

 まあ,プロとはいえ,みごとなまでに余分なことばを削ぎ落とし,斎藤美奈子さん独特の感性の冴えに支えられながら,ど真ん中直球勝負を挑んだ,このコラムには文句なしにこころからの敬意を表したいとおもいます。

 たぶん,『中日新聞』にも掲載されているかとおもいますが,その他の新聞購読者はこの素晴らしい斎藤美奈子さんの「コラム」を読むことができないはずですので,あえて,ここに転載してみました。大手のメジャーな新聞各社も,ここにきて原発問題に関してはかなり軌道修正をしてきていると聞いていますが,まだまだ『東京新聞』の路線にはほど遠いとおもっています。ですから,斎藤美奈子さんのようなコラムニストを登用するところまではいたっていないはずです。『東京新聞』に乗り換えてよかった,としみじみおもっています。

 まあ,そんなことはともかくとして,わたしがこれまで何回も何回も「原発の後始末もできない国がオリンピックを招致するなんて,本末転倒である」とさまざまにヴァージョンを変えて論じてきたつもりですが,この斎藤美奈子さんのわずか「550字」にはとてもかないません。早く,このような文章が書けるようになりたい,と羨望してしまいます。

 いずれにしても,お客さまをお迎えするには自宅の壊れたトイレを直してからという小学生にもわかる理屈から再出発するしかありません。にもかかわらず,「見て見ぬ」ふりをし,詭弁・虚言を弄して再稼働に踏み切ろうとする,もはや,狂気としかいいようのない日本のリーダーたちの言動があとを断ちません。しかも,そんな言動に幻惑されてしまって尻尾をふって追随する「思考停止」の国民が「多数」を占めるかぎり,もはや救いようがありません。

 のみならず,国際社会からも孤立すること間違いなしです。
 そうではなくて,「お手上げなんだ。助けてほしい」という謙虚な素直さが,いま,求められているとわたしも同感です。これが国際社会に対する「誠意」というものでしょう。
 なのに,憲法を改定して再軍備も辞さず,などと意気込んでいる日本政府の姿勢を,世界中の国々が呆気にとられ,きわめて危険な政権として距離をとりはじめています。麻生副総理の「ナチス発言」は取り消したとはいえ,一端,口からでてしまったホンネ?はだれも忘れはしません。この政権は,戦後日本の歴代内閣のなかでも,もっとも危険だ,とアメリカですら身構えはじめているという情報が日毎に多くなってきています。

 かくなる上は,わたしたち一人ひとりが,もう一度,虚心坦懐に,いま,わたしたちはどこから手をつけ,出直さなくてはならないのか,その優先順位をしっかりと見極めないといけない,とわたしは本気で考えています。

2013年8月28日水曜日

フクシマの放射性物質が太平洋に流出する10年間のシミュレーションにショック。

 昨日(27日)のブログを書いたあと,それとなくあちこちネット・サーフィンをしていたら,「太平洋#放射能汚染10年間予想図」(#Fukushima PacificSea#Radiarion Cintaminated)というブログに出会いました。細かな情報については,いろいろと意見があろうかとおもいます。が,このシミュレーションをみるかぎだでは,こんなことが予想されているのかと驚くべきフクシマの成り行きと環太平洋諸国の反応について,じっと考え込んでしまいました。

 このとおりに進行するかどうかはわたしには判断できません。しかし,ある条件を整えて,コンピュータにお伺いを立ててみるとこうなるというシミュレーションには,それなりの説得力があります。ですから,それをみるわたしたちには,それはまるで真実であるかのような印象を与えます。そして,それに対して積極的な「ノー」を突きつけることも不可能です。

 これによりますと,フクシマから流出する放射性物質は丸3年でアメリカ西海岸に到達します。しかも,5,6年を経過しますと,高濃度放射性物質は,日本の東海岸では薄くなり,逆にアメリカ西海岸に溜まることになる,と予想しています。これは単なるシミュレーションですから,そのまま事実と考える必要はありません。こうなる可能性を予測しているだけの話です。

 それにしても,来年の3月には,日本の太平洋側の海よりもアメリカ西海岸の方が放射性物質の濃度が高くなる,と予測しています。いまのところ,You Tube でアップされていますので,ぜひ一度,チェックを入れてみてください。10年後には東シナ海はもとより,日本海側も,完全に汚染されると予想されています。

 意外だったのは,海流の影響で4年後くらいから日本の太平洋側は放射性物質が薄くなり,それ以前の状態に一時的になる,というシミュレーションでした。でも,すぐに太平洋を一巡した汚染海水が5年後からは日本の太平洋側に流れ込んできて,平均値的な汚染度を示しています。しかし,相変わらず,アメリカの西海岸の海水の汚染度はもっとも高いまま,変化はしないとシミュレーションは示しています。つまり,吹き溜まり状態になる,と。

 この状態はやがて太平洋から外に広がって行って,大西洋に流れ込み,またたく間に地球上のすべての海洋がフクシマの放射性物質によって汚染されていくことになります。それが,どのくらいの時間でそうなるのかは,わたしには想定できません。しかし,放射性物質の半減期は驚くほど長いので,まず,間違いなくフクシマから流出している放射性物質が全世界を覆い尽くすことは間違いありません。それが,どのくらいの濃度になるのかは,まさに,現状で食い止めることができるのか,それとも,手のつけようがなくなって,「垂れ流し」状態になるのか,それによってまったく違った情況が生まれることになります。

 でも,現段階では,フクシマから流れ出る放射性物質の質・量ともに,厳密には掌握されていません。じつは,わかっているはずなのに,わたしたち国民には明らかにされていないだけのことかも知れません。でも,外国向けの情報はもっと現実に近いデータが明らかにされているのかも知れません。そうではなくて,わたしたちが熟慮するための精確なデータを明らかにしてほしいものです。にもかかわらず,どこかで歯止めがかかっていて,情報はあいまいなままです。

 そのことを考えると,最悪の場合には,もっともっと,とんでもなく劣悪な流出が起きているのかも知れません。それは,現段階では,神様のみが知る事実でしかありません。わたしたちは残念ながらおろおろしながら,ただ,ぼんやりと推測する以外にはないのです。ここが,情けないところです。しかし,いずれにしても,最悪の困った事態はみんなで分けもつしかないのですから,早めに精確なデータを明らかにしてほしいものです。

 しかし,そうはさせないぞ,という勢力があって,いまは膠着状態になっています。この状態から一刻も早く脱出する必要があります。そのためには,現政権にあれほどの多数を与えた国民側の間違いであったという反省に立つしかありません。

 選挙はわたしたちの命綱です。妙な妥協に屈することなく,しっかりとした歴史的展望にもとづく,きびしい政権批判を展開していく以外にはありません。

 なんとまあ,生きにくい時代になってきたものか,と日々ため息をついています。
 では,今日のところはここまで。





2013年8月27日火曜日

ドイツの友人から,フクシマの高濃度汚染水漏えい問題に強烈なクレームが。

 わたしたちは国内のメディアに翻弄され,ほぼ間違いなくものの見方や考え方が「操作」されていると言ってよい。なのに,そのことを自覚している人はきわめて少ない。というか,ある程度は承知していてもどうしようもないと諦めている人が多い。ましてや外国のニュースが日本のことについてどのような情報を取り上げ,議論されているか,ということにまでアンテナを張っている人はほとんどいない。

 いまや,インターネット時代を生きているわたしたちは,世界中のニュース・情報を確認しようと思えばいくらでもできる。だから,自分の興味・関心に応じてマニアックな情報収集を楽しんでいる人は相当に多い。しかしながら,たとえば,フクシマの高濃度汚染水漏えい問題が,アメリカやフランスやイギリス,ドイツといった国々でどのように受け止められ,話題となっているのか,ということをチェックする人はよほどの人でないかぎりまずいない。しかし,ものはためしに,世界のネットに流れている「フクシマの高濃度汚染水漏えい」に関する情報を検索してみてほしい。そこには,驚くべき情報が流れていて,びっくり仰天させられる。

 ちょうど,「3・11」直後のわたしたちが,大したことはあるまいとタカをくくっていたのと同じような情況が,いま現出している。つまり,高濃度汚染水が垂れ流しになっていて,困ったものだ,早くなんとかしなくてはなるまい,とわたしも含め多くの日本人が考えているに違いない。しかし,ヨーロッパ諸国の反応は日本とはまったく異なるようだ。

 昨夜遅く,というか今朝早く(27日早朝)にドイツの友人からメールがとどいた。時差が8時間あるので,こちらの深夜はドイツの夕食時間だ。日本語に精通している友人なので,ネットで日本の情報も自在に手に入れている。だから,日本について不審なことがあると,すぐにわたしのところにメールを送ってくる。わたしは,いつも,かれからのメールに触発されて,慌てて,ヨーロッパ諸国の日本に関するニュースの扱い方をチェックする。

 今回のメールの主題は,断るまでもなく,フクシマの高濃度汚染水漏洩についての問題意識の低さ,そして,それに対応する行動が緩慢にすぎる,というものだ。わたしたちふたりの間のメールはお互いに母語で書くことになっている。その方が早いし,お互いに意をつくすことができるから。以下には,ドイツ語が書かれたメールの要点を箇条書き紹介しておくことにする。

 1.日本政府および日本人は,放射性物質が太平洋に流れでていることに対する責任をどのように考えているのか。つまり,太平洋を放射性物質で汚染しているという危機意識が,いちじるしく欠落しているのではないか。

 2.日本政府および日本人は,全世界に向けて「謝罪」をした上で,これこれの計画により放射性物質の太平洋流出を防止することに全力を傾ける,と意思表明をすべきではないのか。その姿勢がなにもつたわってこない。

 3.このまま「垂れ流し」の状態がつづくと,日本は国際社会から信頼を失い,どの国からも相手にされなくなってしまう。そのことをもっと重く考えるべきではないのか。日本の高い技術力からすれば,「垂れ流し」を防ぐことは可能なはずである。

 4.「レベル3」相当という判定をしようとしているようだが,ドイツの専門家たちは,この前の「メルト・ダウン」が起きたときに等しい非常事態だと主張している。なのに,なぜ,日本ではそんな低い判定を想定しているのか。

 5.このような事態が生じているにもかかわらず,なぜ,国民的議論が立ち上がらないのか。ドイツであれば,ただちに,議論のために必要なあらゆる情報が公開されて,新聞・テレビをはじめ,あらゆる手段をつかって国民の民意を明らかにすることに全力を挙げるのだが,なぜ,日本ではそのような動きがみられないのか。

 6.フクシマがこのような状態にあり,問題解決の方策も明らかでないのに,なぜ,原発を再稼働するという発想が生まれてくるのか,ドイツ人には理解不能である。もし,フクシマが現状のままで,原発が再稼働するような事態が起きたとしたら,もはや,わたしたちドイツ人は,基本的な考え方として日本人を信用しなくなるだろう。

 7.このごに及んでもなお,日本はオリンピック招致に全力投球している。いま,全力投球すべきはフクシマの安全確保ではないのか。本末転倒の日本の姿勢がわたしたちドイツ人には理解できない。ここは,いさぎよくオリンピック招致運動を返上し,フクシマの安全確保の姿勢を示すことが,国際社会に対する責務ではないのか。

 8.このあとに,東京電力という会社と日本政府との関係が,まったく理解できない・・・・とうとうの強烈なクレームがつづく。が,もはやスペースがないので,このあたりで割愛。

 このようなメールを読みながら感じたことは,どうやら,フクシマに関する情報は,国内向けと国外向けのものがあるようで,国外向けの情報の方がはるかに上質のものが公開されているように思われることだ。

 ここでも,わたしたちは,フクシマの高濃度汚染水に関する情報が完全に権力によってコントロールされているという事実に直面する。もはや,国外経由でないと,フクシマに関する(あるいは,原発に関する)精確な情報を手に入れることは不可能であるらしい。なぜなら,東電と政府とメディアが,あまりに蜜月でありすぎるから。われわれ国民に対しては詭弁と虚言で対応できると甘くみられてしまっているらしい。でも,外国に対しては嘘は言えないので,仕方なしに,最小必要限の情報を,求めに応じて流しているらしい。まことにもって,困った国家に成り果ててしまったものではある。しかし,こんなことがそんなに長くつづくはずもない。どこかで,必ず,大きな反動がやってくる。その日はそんなに遠くはない,とわたしは信じている。でなければ,あまりに情けないし,まありにおかしすぎる。

 さて,ドイツの友人にどのように返信メールを送るか,しんどい仕事が待っている。


「スポーツ批評」ノート・その8.ピエール・ルジャンドルの『ドグマ人類学総説・西洋のドグマ的諸問題』が示唆するもの。

  「ドグマ人類学」と聞いて驚かない人はいないだろう。いったい「ドグマ」と名のつく「人類学」とはいかなる「学」のこと意味しているのだろうか,と。

 だから,『ドグマ人類学総説・西洋のドグマ的諸問題』(ピエール・ルジャンドル著,西谷修監訳,嘉戸一将/佐々木中/橋本一径/森元庸介訳,平凡社,2003年)という分厚い訳書が,ルジャンドルの来日に合わせて刊行され,一躍,大きな話題となったときの世間の驚きもまた大変なものだった。この本が初めて世にでたのは,ルジャンドルが来日したときの第一回目の講演(2003年10月,於・東京外国語大学)に合わせて,できあがったばかりの訳書を平凡社の関口さんが担いで持ち込んだものだった。わたしは幸いなことに,西谷さんから献本していただき,少し早めに手にすることができた。

嬉しくてすぐに読みはじめた。しかし,どこを読んでみても難解で,全然,中に入っていけない。困っていたら,冒頭に「ドグマ人類学への導入──訳者から読者へ」という西谷修さんによる解説があった。いつものように,どんな難解な本も,西谷さんの手にかかると,みごとなまでにわかりやすい本に早変わりする。つまり,わかったような気にさせてくれるのである。そこで,気を取り直してルジャンドルの本文に挑む。しかし,ほどなく跳ね返されて,また,西谷さんの解説を読む。そんなことを何回,くり返したことだろうか。でも,こんなことをくり返しているうちに,これまでに読んできた本とはまったく異なる,きわめて重要な問題提起を含んでいる,ということだけはつたわってくる。

 さて,前置きはこの程度にして,では,「ドグマ人類学」と「スポーツ批評」の接点はどこにあるのか,この一点に限定して,西谷さんの解説を先達として,少しだけ踏み込んでみたいと思う。

 「端的に言えば,ドグマ人類学は人間が『話す生き物』であるという規定から出発する。だが,人間は生まれたときからことばを話すわけではなく,ことばを話すようにならなければならない。この過程はふつう『ことばの獲得』などと言われるが,実際にはそれは意志的なプロセスではなく,幼児の周囲に飛び交うことばの網に捕捉され,その網目のなかに取り込まれることでいつの間にかことばの主体になるのであり,いわばことばの秩序に身丈を合わせてそこの住人になるようなものである。そのとき注意すべきは,ことばがすでにひとつの秩序であり,規範的なものだということである。ことばそのものが規則をもっているというだけでない。ことばはつねに何かを語っており,ことばの秩序に参入するとは,その語りの通告を身に受け,それを通して主体として造型されるということでもある。それによって初めてひとは通じることばを話す主体となる。」(P.7~8.)

 この世に生をうけた赤ん坊が「話す生き物」としての人間になる過程が,すでにして「ドグマ」的なのだというわけです。つまり,「ことばを話す主体」は,ことばによって造型されるものであって,一定の秩序や規範のもとにコントロールされる,そういう存在である,ということである。言ってしまえば,「話す生き物」としての人間の主体そのものがすでにドグマなのである。もっと言ってしまえば,ことばそのものが「ドグマ」なのだから。日本語の「木」は英語では「tree」であり,ドイツ語では「Baum」となるように。つまり,それぞれの言語は,それぞれの秩序や規範にもとづきながらも,もとはといえばドグマ的に「名づけ」を行うことからはじまるのだ。

 巻末の用語解説によれば,「ドグマ」(dogme)については以下のように述べられている。
 「ルジャンドルの仕事を貫くもっとも基礎的な概念。それはまずもって真理としての強制力をもつ言説の謂だが,同時に「見せかけ」や「臆見」といった意味とも無関係ではない。ごく簡単にいえば,この言葉が意味するのは,ある文化において人間が人間であろうとするかぎり,真理として受け容れなければならない言説やイメージのことである。こうした観点からすれば,真理はそもそも虚偽と不可分であり,そこから,社会的な水準でのフィクションの組立が,主体の制定にとって不可分な要請として浮上してくる。」(P.369.)

 ここではじつにコンパクトに「ドグマ」という用語についての解説がなされている。具体的な内容については,本文に展開されている事例を一つひとつ点検していく以外にはない。しかし,ルジャンドルの主張する「ドグマ」の考え方を,一気に飛躍するが,スポーツ(文化)に当てはめて考えていくと,そこには恐るべき新たな知の地平が開けてくることに気づく。たとえば,西洋近代が生み出した「競技スポーツ」は,まさに西洋近代の「ドグマ」的産物でしかない,という事実である。

 もう少し踏み込んでおけば,西洋近代が生んだ競技スポーツの「ルール」や「マナー」や「フェア」や「ウェア」や「用具・施設」や「組織」や「制度」や「アマ・プロ」や「トレード」や「トレーニング」や「管理・運営」や「金銭」や「ドーピング」や・・・・書き出したらエンドレス・・・・とうとうも西洋近代が生み出した「ドグマ」的産物でしかない,ということだ。問題は,この西洋近代のドグマ的産物でしかない,つまり,ある特殊なヴァージョンでしかない競技スポーツが,まるで「普遍」の真理であるかのごとく地球上のすみずみにまで浸透しつつある,この現実にある。ここから,伝統スポーツとグローバリズムの問題系が立ち上がってくる。

 さらには,スポーツ(文化)ほど「ドグマ」の問題系を考える上で面白い題材はないだろう,という仮説である。つまり,永遠のテーマとされる「スポーツとはなにか」という問いに,西洋近代の論理で応答しようとしても,それは出口のない堂々巡りの議論になってしまう。つまり,同じ穴の狢になってしまうだけだ。そこから抜け出すには,西洋近代が排除・隠蔽してきた「ドグマ」的視座に立つ論考が,ひとつの方法論としてきわめて有効である,ということだ。

 つまり,「スポーツとはなにか」を,ドグマ人類学的手法を用いて解き明かしてみるという試みである。そして,そのとき,西洋近代によって排除・隠蔽されてきたスポーツ(文化)の豊穣なバックグラウンドが浮び上がってくるに違いない。そこまで思考の「根」を降ろしたとき,「スポーツとはなにか」という問いに対する驚くべき応答が待っている,とわたしは考える。

 ふたたび西谷さんの解説を引いてみよう。
 「『ドグマ』とは,ごく簡単に言えば,ことば以前の『生き物』の要請がことばの次元に翻案されるときの非対称的な交換のあり方であり,根拠もなく,それ自身が無根拠の根拠を組み立てて『真』なるものを可能にするような,あらゆる人間的コミュニケーションの根底を支える発端の構造の謂である。その神話的表現をルジャンドルは,神々の使者として人間にことばを伝えた古代のヘルメスの形象に見ている。不分明な始原とことばの世界とを繋ぐもの,それが『ドグマ的表象』であり,それは『他所に運ぶ」という語源的意味での文字どおりの『メタファー』でもあって,あらゆる『真』が可能になるような,そして『理性原理』が演じられるような,根本的な『フィクション』の次元の支えでもある。」(P.10.)

 このような文章を熟読玩味していると,いつしか,ジョルジュ・バタイユが<横滑り>ということばで表現した,動物性から人間性への「離脱と移動」(西谷さんの著書の名前を借用)のテーゼと二重写しになって,わたしにはみえてくる。そして,スポーツの「始原」(「起源」ではない)やスポーツの「変容」(「発展」ではない)というスポーツの根源的な問いかけと応答が可能になってくるように思う。

 「スポーツ批評」が成立するとすれば(今福龍太氏が『ブラジルのホモ・ルーデンス』で主張する意味で),そのひとつの根拠はここにある,と思う。すなわち,「スポーツ評論」ではなくて「スポーツ批評」が。

2013年8月26日月曜日

18世紀に描かれたローマのコロッセウム(円形闘技場)。



 連載「絵画にみるスポーツ施設の原風景」第27回(『SF』月刊体育施設,8月号,P.18.)は古代ローマのコロッセウムを取り上げてみました。典拠文献は,The Colosseum by Philippo Coarelli Gian Luca Gregori, Leonardo Lombardi, Silvia Orlandi, Rossella Rea, and Cinzia Vismara edited by Ada Gabucci, translated by Mary Becker, The J.Paul Getty Museum, 2001. です。この絵画にはつぎのようなキャプションを書きました。

 ふつうにはコロッセウムと呼ばれているローマの円形闘技場。描いたのはロシアの画家フィヨードル・マトヴェイエフ(Fjodor Matveiev 1707~1739)。なんとものどかな風景のなかに廃墟のままコロッセウムが描かれています。これが18世紀初めのコロッセウムの姿だったのでしょう。

 こんにちのわたしたちの眼には迫力満点の巨大なコロッセウムの写真のイメージが鮮烈に刷り込まれています。実際に現地に尋ねてみますと,もっと迫力があります。いまは,ローマの市街地となっていて,コロッセウムの周囲は幹線道路がとりまき,多くの車が走りまわっています。わたしたち観光客は,地下鉄から地上に出てきた瞬間に,すぐ目の前にコロッセウムを仰ぎみることになります。びっくり仰天してしまいます。

 高さ48.5m,長径188m,短径156m。こんな楕円形の巨大な,しかも崩壊状態の建造物が目の前に迫ってきます。思わず足を止め,あとずさりしそうになります。収容能力は約5万人。ティトゥスにより80年に完成しました。

 ここで剣闘や人間と野獣の,血で血を洗うような凄惨な格闘が演じられました。ときには,アリーナに水をはって軍船を浮かべ,海戦ゲームまでもが演じられました。しかも,驚くべきことに,そのアリーナの下は剣闘士や野獣を収納する部屋が無数につくられています。

 こんな巨大な円形闘技場(アンフィテアター)が,イタリアの各地に建造されたばかりではなく,ローマ帝国の植民地のいたるところに建造されていました。この円形闘技場と同時に,キルクスと呼ばれる四頭立ての馬車(戦車)による競技場も建造されていました。しかも,ローマには大浴場まで建造されていました。それも巨大な体育館を何個もつなぎ合わせたような大きさです。

 これらは皇帝ネロに象徴されるように,まさに皇帝権力の偉大さを見せつけるための,みごとなまでの民衆懐柔のための文化装置でした。有名な「パンとサーカスを」という民衆の欲望を,もののみごとに表現することばも,こういう背景から生まれてきました。

 皇帝の思惑どおりに,ローマ市民を飽食と娯楽に熱中させ,余分なことはなにも考えない「思考停止」状態に導き,いともかんたんに市民たちの「自発的隷従」を手に入れたという次第です。

 以上です。

 こんな図像を提示したのも,じつは,世界陸上や甲子園野球の熱戦にうつつをぬかしているわたしたち日本人もまた,古代ローマのコロッセウムで「パンとサーカス」を求めたローマ人たちと,基本的にはなにも変わってはいないということを意識したからです。フクシマの現状はますます深刻化し,土地を追われた人びとの帰郷の夢はいまもなおはたせないままです。一方,沖縄の基地負担はますます増大し,ついにはオスプレイが当たり前のように本土上空をも飛び回るようになりました。そういった政府にとって都合の悪い情況に蓋をするには,大きなスポーツ・イベントが大いに役立つことを,安倍政権は充分に計算し,折り込み済みのようです。

 こんにちの巨大なスポーツ・イベントは(オリンピック招致情報はもちろんのこと),多くの日本人の「思考停止」と「自発的隷従」を生み出すための偉大なる文化装置として大いに貢献している,と言いたかったわけです。スポーツはもはや,単なる遊び・娯楽では済まされないとてつもなく大きな存在になってきていることを,少しでもわかっていただければ・・・・と切に願っているところです。

2013年8月25日日曜日

『身体のいいなり』(内澤旬子著,朝日文庫,2013年刊)を読む。難病との上手なつきあい方。

 内澤旬子といえば,岩波の雑誌『世界』に連載されていた「飼い喰い──三匹の豚とわたし」が強烈な印象となってわたしのなかに残っていました。連載が終るとすぐに単行本となり,ここで大きな話題となりました。わたしもすぐに手に入れ,一気に通読しました。やはり,迫力満点。

 豚を自分で飼育して,それを屠殺し,みずから食する,それらをすべてみずから実践したリアル・タイムの記録です。人は他者の命をいただいて生きている,つまり,動植物の命をいただいてみずからの生命を維持している,そういう生きもの,それが人間なのだという強い信念をもつ人,それが内澤旬子というルポライターなのだ,と強い感銘を受けました。

 まず最初にわたしの目を釘付けにしたのは,連載中にも描き込まれていた「挿絵」のうまさです。飼育した3匹の豚の絵が,なんともいえない表情をしていて,それだけでしばし呆然と眺めてしまいました。こんな絵の描ける人がルポライターとして活躍しているんだ,と思い込んでいました。しかし,実際は逆で,最初はイラストレーターとして世にでた人だったということが,こんどの文庫『身体のいいなり』でわかりました。

 しかも,この『身体のいいなり』と『飼い喰い──三匹の豚とわたし』とは同時進行の雑誌連載だったということを知り,二度,びっくりでした。なぜなら,内澤さんは難病をいくつもからだに抱え込んだまま,これらの仕事をこなしていたとはとても信じられないからです。でも,いま,考えてみれば,こういう切羽詰まった生き方のなかからでないと,この二つの著作はならなかったかも知れない,ともおもいます。時間がないから仕事ができない,というのは嘘です。やりたい仕事はどんなことがあってもやらずにはいられません。それが仕事というものだと,わたしも信じています。


  この『身体のいいなり』に付された帯のコピーによれば,以下のとおりです。
 「腰痛,アトピー性皮膚炎,冷え症,無排卵性月経。生まれてこの方,”健康”というものを実感したことのない私に,とどめのごとくふりかかってきた乳癌。副作用から逃れたくて始めたヨガにより,なぜかどんどん元気になっていった・・・・・。」

 正直に感想を書いておけば,ここに書かれていることが内澤さんのすべてである,とはとても思えないということです。当たり前のこととはいえ,ここに書く必要のないもの,書きたくないものはすべて排除されているということです。そのことを勘案してもなお,内澤さんの生きざまがリアルに伝わってくるのは,抑制のきいた筆力と,人間をみる目,社会をみる目の素直さにあるとおもいます。そこに到達することになるべき内澤さんの思考方法の,根源的で大きな転進がわたしには強く印象に残りました。

 このテクストをとおしてわたしに刻まれた印象は,つぎのようなものです。
 内澤さんは,みずからを「頭の人」だったと書き,いつのころからか「身体の人」に変化していた,といいます。つまり,若いころは,なにからなにまで頭で考え,自分の意志のとおりにからだに命令をし,むりやりにも酷使してきた,と。しかし,いくら意志の力で頑張ってもからだには限界がある,と知ります。ならば,「身体のいいなり」にまかせてしまおう,と考えるようになります。ここが内澤さんの大きな転機になったことは間違いありません。

 腰痛,アトピー性皮膚炎,冷え症,無排卵性月経・・・・いずれも難病ばかり。これらを克服するためにありとあらゆる努力をつづけます。しかし,最新の医科学をもってしてもどうにもなりません。そこでジムに通ったり,太極拳をはじめたり,乗馬をしてみたり,バレーをはじめてみたり,といろいろのことを試していきます。そうして,ゆきついたさきが内澤さんの場合はヨガでした。太極拳もいいな,とからだは応えてくれたそうですが,手足の複雑な動作が自分にはどうにも苦手であきらめた,とか。そして,ごく簡単なストレッチや,初心者のためのポーズと呼吸を組み合わせたヨガが,自分にはぴったり合っていることを発見します。しかも,指導者によって,その効果もまったく異なることも発見していきます。そして,つねに,からだが喜ぶ方向に身をゆだねることをモットーにします。

 それが『身体のいいなり』というわけです。

 このテクストの後半は,乳癌の発見とそれとのつきあい方をとおして,みごとなまでに人間を写し出し,社会を写し出しています。癌と聞いただけで周囲の人びとの対応の仕方は大きく変化してしまいます。それは「生きる」ことへの過剰なまでの執着にあると看破し,いずれ死ぬのだから,それまでは楽しく生きようと考えるようになります。すると,世の中が一変してしまい,それはまさに「新しい世界への入り口だった」ということになります。

 そして,いまや内澤旬子さんは絶好調です。仕事は山ほど押し寄せてくるし,若いころの難病はすべて解消し,最後の難病・乳癌もいまのところ再発はなし・・・と。そして,乳癌の完全寛解まではほど遠いにしても,からだの声に耳を傾け,上手につきあえば,まだまだ生活をエンジョイすることはできる,と確信するにいたります。

 いまは,NK細胞(ナチュラル・キラー)を少しでも多くすること,そして,免疫力を高め,その心地よさを求めることを楽しんでいる,とか。

 最後に「あとがき」から内澤さんの文章を引いておきましょう。
 「老いに反抗したいわけではない。むしろさっさと老いたいのだが,結果的には大反逆しまくっていることになり,なんともあさましいなと思うけれども,スタイルが良くなればやっぱり楽しいし,なにより筋肉痛とリラックスの快感に勝る趣味が,いまのところ見つからない。」

 ちなみに,内澤さんの『身体のいいなり』は講談社エッセイ賞を受賞しています。
 いろいろの意味で,一読に値するいい本です。
 ぜひ,お薦めしたいとおもいます。

2013年8月24日土曜日

みやびブックレット『myb』第45号・秋号がとどく。一陣の涼風を呼ぶ心地よさ。

 みやび出版の伊藤さんから最新のみやびブックレット『myb』第45号・秋号がとどく。いつものことながら,わたしの好みの著者の文章から拾い読みをはじめる。このコンパクトなブックレットのなかに,各界の第一線で活躍する人たちの凝縮された名文が詰まっている。わたしなどの足を踏み入れたこともない世界へ,一瞬にして招き入れてくれる。ある種の異次元体験のような快感が走る。それが楽しみで,毎号,首を長くして待っている。

 まっさきに読んだのは,ほかでもない,三井悦子さんのエッセイ。「祝祭の身体にふれる──バスクの祭りをたずねて──」。わずか4ページのなかに,みごとにバスクの祭りの匂いを書き込んでいて,感動した。すでに,バスクの祭りのなかで踊られる「アウレスク」とはどういうダンスなのか,ということについて研究会で映像をみながら,みんなで議論をしていたこともあって,かなりのレベルで理解はしていたつもりであったが,三井さんの文章を読んで,さらに深く知ることができた。

 バスクの人たちにとって,祭りのときに踊る「アウレスク」は,その土地に住む人びとにとっては不可欠なものであり,血肉と化している。シモーヌ・ヴェイユが言うところの「根をもつこと」のひとつの典型をそこに確認することができる。それは,ヴェイユが言うところの「魂の欲求」から沸き上がってくるものであり,いわゆる「生の源泉」に触れる体験なのだ。

 竹内敏晴さんがめざした「じかに触れる」という体験もまた,こういう磁場をめざしたものであったに違いない。三井さんは「竹内レッスン」の研究者でもあるので,当然のことながら,「じかに触れる」という体験をどこかでイメージしながら,このエッセイを書いていたに違いない。そんなことも,わたしには伝わってくる名エッセイだった。三井さんはますますいい世界に遊ぶようになったなぁ,と感動すら覚えた。

 なにを隠そう,三井悦子さんはこの22日に,ふたたびバスクの祭りと「アウレスク」を求めて旅立っていったばかりである。いまごろは,ホテルでほっと一息入れながら,祭りに関する情報をかき集め,これからの行動予定を夢見ているに違いない。ちょっぴり,いやいや大いに悔しいが羨ましい。9月には三井さんが世話人の研究会が名古屋で予定されている。そこでの「みやげ話」をいまから楽しみにしたい。

 つぎに読んだのは,「般若心経は英語で読むとよくわかる・8」最終回。竹村日出夫さんの隠れファンで,これまでも欠かさず,まっさきに読んできた。もう,最終回になるのがもったいないくらい。でも,どこかに書いてあったように,近々,単行本として世にでるということなので,これまた楽しみにしているところ。

 そして,いつも読後に深く考え込んでしまうのが,「気になる一首」と「気になる一句」。
 一首の方は「憤懣が脚にあらはになりそうで今日は裾長のスカートをはく」(小島ゆかり)。これを読んだ瞬間に,まったくの異次元の世界に引っさらわれたような感覚に陥ってしまった。たった,一首で,こういう世界を謳いあげる威力に感動。
 一句の方は「炎天妻に火をつけて水のむ」(松尾あつゆき)。ウムッ?なんのことか?と思って内藤呈念さんの解説を読む。どっすーンという爆弾の音がした。一気に,長崎の原爆の惨状の世界に引っさらわれてしまった。そして忘我没入して読んだ。戦争はどんなことがあっても回避しなければならない,としみじみと思う。
 一首も一句も,それぞれ1ページずつ。たった,これだけのスペースに,それぞれの世界が凝縮している。ブックレットの本領発揮である。編集者の伊藤さんの腕がしなるところ。

 という具合にして,つぎからつぎへと拾い読み。

 最後に,今回の特集である「般若心経を繙こう」を読む。4人の筆者のなかの1人に,なんとこのわたしが加わっている。伊藤さんからのお誘いは「般若心経とわたし」といった感じで原稿を書きませんか,というものだった。まったく個人的な体験でいいですか,はい,結構です,ということで書くことになった。蓋を開けてみたら「般若心経を繙こう」という特集タイトルになっている。あっ,と思わず声をあげてしまった。案の定,わたしひとりが浮いている。なぜなら,なにも「繙いて」はいないからだ。恐る恐る他の著者たちのものを読ませていただく。うーん,なるほど,と唸ってしまうほどの「繙き」方をしている。わたしひとりが「個人的な体験」を語っているにすぎない。おやおや?でも,伊藤さんはこういうことも計算の上で,わたしには「体験」を求めたのかもしれない。よく言えば,生活のなかに浸透し,骨肉となる「般若心経」の側面を,伊藤さんはわたしに求めていたのだ,と。だとすれば,合格か,と。辣腕の編集者,恐るべし。

 というわけで,今回はここまで。
 とても,面白いブックレットですので,ぜひ,手にとってみてください。
 みやび出版のURLは以下のとおり。
 http://www.miyabi-sp.biz-web.jp/

太極拳の稽古のときの音楽はゆっくりめのものがいい(李自力老師語録・その34.)

 太極拳の表演のときの音楽は,24式の場合には5分30秒前後のものを使います。速からず,遅からず,音楽に気持ちをのせて心地よく表演するにはちょうどいい長さです。つまり,24式を表演するには最適の長さだということです。

 しかし,稽古のときにはもう少しだけゆっくりとした音楽がいいのです。なぜなら,動きの溜めを身につける上で役立つからです。この「溜め」を説明するのはとてもむつかしいことなのですが,簡単に言ってしまえば,もう一つ間をとるということです。この「間」が武術にとってはとても大事なことなのです。武術ですから,必ず相手がいます。その相手との呼吸をいかにはぐらかしつつ,みずからの呼吸で相手と対峙するかが要となります。そのときには「溜め」のある方が有利です。つまり,「後の先」をとることができるからです。

 別の言い方をすれば,いつでも,いかようにも動くことができるけれども,さらに,もう一呼吸遅く動くことができるようになると,わざがさらに冴えてきます。これは相手を想定した実戦のための理屈です。もっと言ってしまえば,ゆっくり動くには,からだもさることながらこころの余裕がなくてはなりません。ここが最大のポイントとなります。

 ところで,ゆっくり動くとはどういうことなのでしょうか。ひとことで言ってしまえば,ひとつの動作をどこまで分節化してからだを動かすことができるか,ということになります。つまり,ひとつの動作をまねごとのように動くのと,それをきちんと分節化して,自分のからだに叩き込んでいるか,という違いの問題になります。

 たとえば,24式の最初の動作。右足に体重を乗せて,ゆっくりと左足を浮かせ,ゆっくりと肩幅分だけ一歩左側に踏みだします。そして,ゆっくりと左足に加重していきます。そして,左右両足に均等に体重が乗ったときにゆっくりと両腕を挙げていきます。

 こんな動作は,一目みれば,だれでも真似ごとの動きはできます。しかし,右足に加重しながら大地から気を吸い上げ,股関節をとおして左足にその気を伝えながら,左足に加重し,その左足をとおして大地に気を送り込むとなると,そんなに簡単なことではありません。そのためには,この簡単な動作をどこまでこまかく分節化できているかどうかが問われます。その分節化が細分化されればされるほど,相手に対してスキをみせることがなくなります。そこに気の流れが生まれ,どっしりとした迫力のある動きが生まれます。

 動作を安定させるということはこういうことです。どっしりとした力強い動作は,どこまでも分節化された研ぎ澄まされた動きから生まれます。

 この分節化した動きを身につけるには,ゆっくりとした音楽の助けが必要になります。つまり,分節化がうまくできていない場合には,音楽よりも動作がさきに進んでしまって,間がもてなくなってしまいます。この間を分節化した動作で楽しむこと。これが太極拳の極意のひとつでもあります。それが意のままにできるようになってきますと,そのうちに自分でもわからない「オヤッ?」という動作が生まれ出てきます。つまり,自分の意志を超えた,もっとも自然で,無駄のない動きが立ち現れます。そのとき,ことばでは表現のしようもない快感がからだ全身を走ります。

 音楽をゆっくりめのものにして,動作もゆっくりとさせ,そこに身心をゆだねていくこと,そうするともう一つ別の次元の太極拳の地平がみえてきます。でも,そんなことをあまり意識すると,こんどは逆効果になってしまいます。ですから,なにもかも忘れて自然に動きはじめる自分のからだと向き合うことが重要です。ゆったりとした音楽にからだを合わせて稽古をしているうちに,自然に,その地平に飛び出すことができるものです。

 ですから,あまり考えないで,むしろ,なにも考えないで,からだにまかせて「快」の方向に身をまかせる,そんな感じでゆっくりとした動作の地平を楽しんでみてください。

 如是我聞。

2013年8月23日金曜日

政府は「緊急事態宣言」をして,早急にフクシマの高濃度汚染水漏えい「レベル3」対策に乗り出すべし。

 二日もつづけて暗い話で恐縮ですが,再度,フクシマの高濃度汚染水対策について「緊急に」考えておきたいと思います。こんな信じられないような事態が明らかになってきたというのに,政府も東電も,この事態に対応する方策についてなにも明らかにはしていない(8月23日現在)。この国の危機管理能力はいったいどうなっているのでしょうか。

 まあ,フクシマの事故直後,精確な情報がまったく得られないために,まっさきに現場に踏み込んで行った菅直人首相を,いまごろになって検察が事情聴取をしようという国ですから,さもありなんとは思いますが・・・・。ということは,安倍首相は世間が相当に騒がしくなるまでは放置しておく考えらしい。いったい,いまの日本という国家は「国益」というものをどのように考えているのか,とくと胸に手をあてて考えてみたいと思います。それにしても,政権交代とはいえ,この負け組と勝ち組の明暗の分け方が,空恐ろしい。

 今朝の『東京新聞』(たぶん,『中日新聞』も同じだと思います)には,昨日にもましてこの問題を重視し,紙面を大きく割いて報道しています。隅から隅までじっくり読み込んでみますと,もはや頼れるところはどこにもない,というみじめな実態が明らかになってきます。情けないとしかいいようがありません。そういう政党を選んだツケが,とんでもないしっぺ返しとなって国民にのしかかってきています。ですから,いまこそわたしたちは声を大にして叫び,行動する意外にありません。

 と言いつつ,金曜日の首相官邸前集会にでかけようとしたら,土砂降りの雨と雷に圧倒されて家に引き返してしまった自分も情けないかぎりですが・・・・。その場に立つことを諦めた代わりに,いま,切実にわたしが考えていることをここに書いておきたいとおもいます。

 まず第一に,政府は,フクシマ原発事故「収束宣言」をただちに撤回し,即刻「緊急事態宣言」を発して,全国民的課題として取り組む姿勢を示すべきではないか,とわたしは考えます。
 第二に,これまでの保安院も,それを改変した規制委員会もまったく信用ならない(機能しない)ということがはっきりした以上,まったく新たな「国民」主導(超党派)の特別プロジェクト・チームを組織して,この「緊急事態」に対処すべきであること。
 第三に,この特別プロジェクトチームのメンバーは,原発推進派から半分,脱原発派から半分という構成にすること。
 第四に,賛否両論の立場から侃々諤々の議論を展開し,事態のありのままの推移を国民の前に明らかにすること。
 第五に,こうして「隠蔽」「詭弁」「虚言」「無責任」を追い出し,全国民の利益に立つ対応策を打ち出すこと。
 第六に,最終的な意志決定のためには「国民投票」も辞さない覚悟が必要であること。
 第七に,政治家は超党派で,この「緊急事態」に対処すべきであること。もはや,党利・党略や一部の企業の利益などと言っている場合ではないこと。
 第八に,この「緊急事態」に対応する,小さな「町民・村民会議」を組織すること,など。

 いま,アドリブで思いつくことを列挙するだけで,こんなにあります。もちろん,これは素人のわたしがとっさに思いつくものであった,もっと練り込んだ対応策をみんなで構築していくことが喫緊の課題でしょう。

 なぜ,こんなに焦るのか。それも箇条書きにしておきましょう。
 1.東電がタンク群周りのコンクリート製の排水弁をすべて開けていることを,保安院時代から規制委員会にも引き継がれていて,充分に承知しつつ,放置していたという事実が明るみにでたこと。
 2.この高濃度汚染水漏えいは,これまでにも4回(5回という説も)起きていること。これからますますその回数は増えることは間違いないこと。
 3.なぜなら,このタンクは臨時のものであり,耐用年数は5年とされていること。にもかかわらず,臨時のボルト締めタンクをいまもつくりつづけていること。そして,3年後の展望がいまもまったく示されていないこと。
 4.無限に増えつづける高濃度汚染水を保管する場所の確保も,現段階ではまったくその目処が立っていないこと。
 5.このままでは,高濃度汚染水がじゃじゃ漏れのまま,海洋汚染がますます拡大していく,と考えられること。
 6.この高濃度汚染水にふくまれているストロンチウムを除去する方法がまったく目処がたっていないこと(研究の途上にあること,実験も失敗していること)。
 7.このストロンチウムの半減期は29年であること。
 8.汚染された地下水をふくめて,どれほどの汚染水が海洋に流れ出ているのか,その実態はまったく把握できていないこと。


  これだけ挙げておけば充分でしょう。この他にも挙げていけば際限がありません。まじめに考えていきますと絶望してしまいます。ですから,いまのうちに国の内外にむけて「緊急事態宣言」をして,問題の本質を明確にし,抜本的な対応策を講ずる必要があります。もう,これ以上,これまでのようなルーズな「無責任体制」は許されません。そして,いま,この勇断をふるっておかないかぎり,このツケはかならずわたしたち自身に跳ね返ってきます。いな,わたしたちだけではありません。子々孫々にわたる未来永劫に,未曽有の負債を残していくことになります。
 
 以上,今日の首相官邸前に行かれなかったことの責務として,いま,わたしの脳裏をよぎることをありのまま書き出してみました。これが,いま,この時点での,わたしの偽らざる心境です。賛否両論のご批判をいただければ幸いです。

2013年8月22日木曜日

「レベル3」相当のフクシマに全力投球を。国家の存亡にかかわる一大事。

ヒロシマ・ナガサキと同様に,世界史に深い爪痕を残すことになったフクシマ原発の大事故に対して,早々に収束宣言をして,なにごともなかったかのようにしてしまおうとする原子力ムラの努力もむなしく,「レベル3」相当の事態が明るみにされた。驚くべきことは,この「レベル3」相当の事態に対してすら,具体的な対応策がなにも提示されない,この牛歩のようなフットワークの悪さである。つまり,ネコの首に鈴をつけるネズミが一匹もいないのである。

 いますぐにでも,特別プロジェクト・チームを結成して,総点検にとりかかるべきではないのか。下請けの下請けの,そのまた下請けの・・・という信じられないような作業員確保のシステムからして,まことに不可解である。むかしながらの「手配師」が徘徊して,甘い汁を吸わせつづけるこのシステムからの脱出も急務だというのに,ここにも手をつけようとはしない。

 今回の「レベル3」相当の「事故」は,東電のとってきた,こうしたルーズな組織・管理にその根があることは間違いない。だれも責任をとらない・・・・ゆるゆるのシステム。責任を追求しようにも,どこかでわけがわからなくなるようにその「抜け道」まで完備している,とも聞く。

 今朝(22日)の『東京新聞』は一面トップで高濃度汚染水漏えい問題をとりあげている。この情報によるかぎりでは,まことにお粗末な,信じられない事態の出現である。こんなことがこれまで放置されたままであったということ,そのことが信じられない。これが日本のトップをゆく大企業・東京電力のガバナンス(管理能力)のレベルだと知るとき,もはや夢も希望もいだけなくなってしまう。それに対応する政府も,みてみぬふりをしている,としかいいようがない。

 新聞記事の冒頭のつかみの文章をそのまま転記しておこう。
 まず,見出しは,大きな文字順に「堰の排水弁すべて開放」「海に流出 可能性大」「タンク汚染水漏れ」とあり,本文はつぎのようにはじまる。
 「東京電力福島第一原発のタンクから三百トンの汚染水が漏れた問題で,東電は,ほとんどのタンク群の周りに水を食い止めるコンクリート製の堰を設けたのに排水弁をすべて開けていたことが分った。今回の漏出事故では,大量の汚染水が排水弁から堰の外に漏れ,土のうを越え,近くの排水溝から海に汚染が広がった可能性が高い。」

 これまでの政府や東電の対応から考えて,今回のこの問題は,おそらく氷山の一角にすぎないだろう。なぜなら,隠せるものはすべて隠し,水蒸気が上がった,というような目にみえてしまったときにだけ,苦し紛れの弁明を繰り返してきたことをわたしたちはいやというほど知っているからだ。しかも,フクシマ関連の本はありあまるほど出回っている。それらのうちの信頼できる専門家の見解によれば,フクシマはいまもなおなにが起きてもおかしくない状態がつづいている,しかも,事故の核心部分に対する具体的で効果的な方策はなにもない,という。つまり,手も足も出せない状態がいまもつづいているのだ,という。そして,なぜ,こういう状態がつづいているのかも,確たる根拠を示して説明することもできないのだ,という。この不思議な均衡状態は,たまたま起きているにすぎない,と。

 だから,わたしは手も足もだせないといわれる原発の危機状態の行方にばかり意識を向けていた。ところが,である。素人のわたしがみても,「堰の排水弁すべて開放」などというまことに稚拙な管理しかなされていなかった,いや,放置に等しい管理しかなされていなかった,というこの事実に愕然としてしまう。つまり,最悪の「手抜き」である。これが現実なのかと知ると,もはや,東電という会社は機能していないとしかいいようがなくなる。存在していること自体が「悪」である。一刻も早く解体して,別組織にしないことには,「悪」は「悪」を再生産するという「悪」の連鎖から抜け出すことはできない。(全柔連のように。こちは,ようやく外部役員を導入して人事を刷新した。こんごのゆくえを見守りたい。この情報も今朝の新聞による。)


 こんな杜撰な管理で海が汚染されてしまうのでは,福島の漁師さんたちはたまったものではない。それどころか,関東から東北・北海道にかけての太平洋側の全域の漁師さんたちの顔は真っ青になってしまう。わたしが漁師だったらいても立ってもいられない。暴動だって起こしかねない。そんな気分である。

 このほかにも汚染水が海洋に流れ込んでいる可能性があるという。それがどのくらいなのかも,まったく不明だという。地下に染み込んでしまった汚染水がどのようにして海に流れ込んでいるのか,そのルートすら定かではないという。こうなると,フクシマは収束どころか,半永久的に汚染水を垂れ流すしか方法がないというのが現実なのだ,ということを再認識しなくてはならない。

 だとすれば,フクシマの汚染水はいずれは太平洋をくまなく回遊することになってしまう。もし,そんな事態になってしまったとしたら,日本はどういう責任のとり方をすればいいのだろうか。もう,気の遠くなるような事態がいまも無策のまま着々と進展している。にもかかわらず,日本の原発は安全だからといって世界に売り込みに歩く安倍首相の真意をはかりかねる。わたしの感覚では,もはや,狂気の商人としかいいようがないのだが・・・・。

 「レベル3」相当の「事故」が起きているのに,国民の目を経済政策に釘付けにし,社会保障制度や増税に惹きつけ,なにがなんでも「目くらまし」をかましつづけて逃げ切りをはかろうとしている政府自民党の責任は重大である。わたしたちはこの現実を直視し,きびしく監視をつづけ,できるところから行動を起こすしかない。その意志表示すらあきらめてしまったら,もはや政府自民党の思う壺になってしまう。それだけは回避しなくてはならない。

 少なくとも「東京オリンピック」どころの話ではない。もっとも,この事態の出現によって,3都市が,完全に「横並び」になったことは間違いない。

 いずれにしろ,国家の存亡にかかわる一大事だという認識たけは共有しておきたいとおもう。

2013年8月19日月曜日

『はだしのゲン』が消される日。ヘイト・スピーチに屈することがあっていいのか。

 何世代にもわたって愛読された名作『はだしのゲン』が小中学校の図書室から消えようとしている。それもまことにつまらないヘイト・スピーチを繰り出す市民団体からの圧力があったのが引き金になったらしい。もし,これが事実だとしたら,ほんのひとにぎりの狂気の市民団体に,圧倒的多数の良識ある市民の意志が踏みにじられたことになる。しかも,その仲立ちをしたのが教育委員会であったとなると,ことは重大である。

 最近になって,急に話題になっているが,ことの顛末は昨年の12月にはじまっていたという(共同通信)。松江市教育委員会が市内の小中学校に対して,「首をはねたり」「女性を乱暴したり」する描写があるので,これを開架図書から閉架図書に移すよう口頭で要請した,という。それを受けて各学校は,閲覧には教員の許可を必要とし,貸し出しは禁止する措置をとった,という。

 教育委員会から各学校に対して「口頭で要請」するという形式は,行政ではどういう取り扱いになるのだろうか。まずは,この点が気がかりである。というのも,「責任」の所在がどうなっているか,ということだ。「口頭で要請」されると校長は絶対に服従しなくてはならないことになるのだろうか。あるいは,校長にはその要請を拒否する権限はないのだろうか。なぜ,「文書」による「通知」なり,「通達」なりにしなかったのか。要するに,最初から責任を回避するための「抜け道」が用意されていた節がある,と感じられるからだ。

 松江市教育委員会は,ヘイト・スピーチを得意とする市民団体からの要請に対して,いったいどのような審議・検討をへて『はだしのゲン』を閉架図書に移すことを決定したのだろうか。メディアはこのあたりのことをもっと明確にしてほしいものだ。県教委や文部科学省との連携はあったのだろうか。まったく独自に判断したのだろうか。だとしたら,どのような考え方にもとづくものなのか,こちらも明らかにしてほしい。

 『はだしのゲン』といえば,世界の20カ国で翻訳され,映画化もされた,だれもが認める名作である。戦争と原爆による悲惨さがどのようなものであったかを,被爆者でもあった作者が,みずからの体験をとおして赤裸々に描きだしたものである。しかも,いっときの感情に走ることなく,被害者でもあると同時に加害者でもあった,当時の日本の立ち位置をバランスよく描いた,著者渾身の力作である。小学校時代に,この作品を夏休みの課題図書に指定され,感想文を書いた経験のある人も少なくないだろう。そうして,深い感銘を受けた人も少なくないだろう。

 教育委員会といえば,最近の話題では,神奈川県教育委員会のとった措置がある。県内の各高等学校が使用する「日本史」の教科書の選定にあたって,26校が選定した教科書を不適切として,別の教科書にするよう指示した問題がある。こちらも「不適切な表現が多多みられるから」というのが理由だった。しかし,これは明らかに法律違反である。文部科学省が認可した教科書であれば,どれを採用するかは各学校の判断にゆだねられている。それを県教委が割って入って「調整」をすることは越権行為としかいいようがない。ならば,いっそのこと,むかしのように「国定教科書」一本にしぼるか,あるいは,教科書の認可制をはずして,教科書の作成から販売までまったくの自由にするか,いずれかにした方がわかりやすい。し,責任の所在も明確になる。

 こんな風にして,憲法に保証されている思想・信条の自由も,言論の自由も,教育現場ではあっという間に狭められ,ほとんど意味をなさなくなっている。

 困ったものだとおもっていたら,こんどは,18日の『東京新聞』が「橋下氏を批判 出版中止」という見出しの記事を一面で報じている。つかみの文章を引いておくと以下のようである。

 「政治学者の中島岳志(たけし)・北海道大准教授の社会評論が,今月2月の発売予定日を目前に出版中止になった。日本維新の会共同代表の橋下徹・大阪市長への批判を含むことを出版元のNTT出版が問題視し,削除を求めたのが発端だった。中島氏は削除を拒否し,その後,本は6月末に新潮社から刊行された。異例の出版中止の裏に何があったのか。」

 このできごとの背景には「週刊朝日」での連載記事問題(昨年10月,橋下氏の出自をめぐる不適切な記述があった,とされたこと)との関連がとりざたされているが,出版元のNTTはそのような配慮はしていないと否定。しかし,著者の中島氏は「権力への過剰忖度(そんたく)」だとして不満を表明している。

 いずれにしても,出版社の一部もまた,言論の自由という最大の使命を投げ棄ててまでもみずからの身の安全を優先し,いわゆる言論統制に加担しようとしている。そして,権力への「自発的隷従」の姿勢を貫く。こんな風潮が,原発ムラの復活と同時に,着々と進んでいる。その姿は目を覆いたくなるほどだ。

 最後の仕上げをしているのは安倍首相だ。詭弁・虚言を弄して平然と国民をあざむき,なおかつ,政府方針に反する言動をすると「国賊」と切り捨てる。その結果,良識ある人びとまでみんな口を閉ざしてしまい,もし,発言するにしても遠慮がちにやんわりと書くだけのことだ。この人たちもまた「自発的隷従」に甘んじている。

 こうした連鎖の果てに『はだしのゲン』が消える日が待っている。そして,それはもうはじまっている。まるで,大津波が押し寄せてきているかのように,わたしにはみえる。わたしも怯えている。だから,せめてブログのなかだけでもしっかり書いておこうと,みずからを励ましつつ。

多摩川の花火大会,いつもと少し様子が変わる。あれれっ?

 毎年恒例になっている多摩川の花火大会が8月17日(土)の夜に開催されました。いつも,このころなので,お盆過ぎの最初の土曜日に開催されるらしい(あまり,しっかりとした記憶がない)。時間も午後7時から8時までの約1時間ほど。なかなか豪勢な打ち上げ花火や仕掛け花火が連続して夜空を彩り,みる者を楽しませてくれます。

 18日の新聞をみて,なるほど,この花火大会はこういうものであったか,とはじめて認識しました。それによると,「6000発に28万人が歓声」という見出しとともに大きく写真が載り,「川崎市制記念多摩川花火大会」(市などが主催)というのが正式名称で,ことしで72回目を迎え,テーマは「川崎から世界へ!子どもたちの夢」をテーマに未来を託す子どもたちの夢や希望を光と音で表現した,とあります。

 さらに,新聞記事をそのまま転載しておきますと以下のとおりです。
 「ドラえもん」の主題歌などアニメソングや童謡が流れる中,色鮮やかな花火が川面を照らした。
今年も対岸の東京都世田谷区で「たまがわ花火大会」が同時開催され,両岸で競い合うように打ち上がる花火に,会場を埋めた28万人の観客は盛んに歓声と拍手を送っていた。(栗原淳)

 わたしの住んでいる溝の口は多摩川まで歩いて10分。マンションの9階からは丸見え。ここに住むようになってから,ほぼ毎年,この花火を楽しんできました。大きな音が鳴りはじめて,ようやく花火大会?と気づくていどの関心しかなかったのですが,それでも打ち上げ花火は子どものころから大好きだったので見はじめると熱中しています。

 そんな程度のわたしにも,ことしの花火大会の様子がいつもと少し違うと感じられましたので,そのあたりのことを書いておこうとおもいます。この日は,午後7時に鷺沼の事務所をでて家路に向かい,鷺沼から溝の口まで田園都市線に乗り,あとは徒歩。そして,約15分ほどマンションの回り階段のところで花火を見物。ちょうど,終盤のいちばん盛り上がるところを,ひとりで立って見物。みごとなものでした。久し振りに花火を堪能しました。

 その間に感じたことは以下のとおり。
 ひとつは,人出が多かったこと,ふたつには,ゆかたを着た若い男女のみならず中高年の人が多くなってきたこと,みっつには,田園都市線の駅周辺から花火を見物している人も多くなったこと,よっつには,わたしの住んでいるマンションでも例年になく大勢の人が見物していたこと,いつつには,その人びとが大きな歓声をあげたり,拍手をしたり,ときには子どもの元気な声で「たまや~っ」とあちこちで叫んでいたこと,など。

 順番にどういうことなのかといいますと,以下のとおりです。
 ひとつめの,人出が多かったこと・・・・まずは,鷺沼の駅に向かって高台まで登ってくると歩道に人がいっぱい。こんなことは初めて。ベビーカーを引いた家族もいました。老若男女,家族とおぼしき人たちの集団です。いくら高台とはいえ,高い建物の影になってみえないところもたくさんあります。が,ビルの谷間からちらりとみえるようなところにも人がいっぱい。最後は,鷺沼駅の北口に登っていく坂道(歩道)にもいっぱい。振り返ってみると,ここは絶好の場所でした。人をかき分けるようにして駅改札口へ。この現象はことしが初めて。これまでもいくらか人は立っていましたが,ほんのちらほら。みんな数秒立ち止まって花火を眺めるものの,すぐに歩きはじめていました。わたしもそういう仲間のひとりでした。しかし,ことしは歩行者の邪魔になるほどの見物人。

 溝の口の駅を降りると,こんどはコンコースのところどころに人だかり。花火がほんの少しちらりとみえるところに人が集まって携帯で写真を撮っています。こんな人の集団がコンコースのあちこちにできていて,こんなことはこれまでになかった風景でした。あとは,マンションに近づいてきたら,あちこちから歓声があがっており,びっくりしました。エレベーターを降りて通路から回り階段にさしかかると,人がいっぱいです。去年までは,ほんのちらほら人影がみえる程度で,ほとんど話し声も聞こえませんでした。ほとんどの人は窓を少し開けてそこから眺めていたようです。ところが,ことしはうって変わってにぎやかなもの。オーバーに言えば,花火が上がるたびに「おーっ」「キャーッ」と反応し,花火の演出がいいと拍手まで生まれます。まるで,マンション全体が一体化したかのような,おやおや?という雰囲気。

 このところ,ゆかたを着た人たちが年々増えつづけていることは承知していました。が,ことしの特徴は中高年の人たちがゆかたを着て仲良く手をつないで歩いている光景でした。

 明らかに,去年までとは,なにかが変わったと感じました。この変わり方はなにに起因するのだろうか,といまも気になっているところです。まあ,ふつうに考えれば,このところの異常な猛暑つづきにうんざりしていた気分を,花火の力を借りて一気に吹き飛ばしたいという欲求の表れ,ということなのでしょう。でも,それだけではなさそうです。なにかがわたしたち自身のなかで変わりつつあるのでは・・・・。しかも,無意識のうちに変化を求めているらしい。その無意識を動かしている「力」はなにか。

 こういう変化に気づくということは,わたし自身の無意識にもそういう欲求が起きているのだとおもいます。それが那辺にあるのか,とくと考えてみたいとおもいます。花火にはやはりそういう「力」があるのだと,わたしは素直に認めたいとおもっています。

 抽象的にひとことだけ。世の中が,大事な箍がはずれてしまったかのように,このところ急速に変化をはじめていることはよく知られているとおりです。しかも,その変化がどことなく「不気味」な雰囲気をもっていることも確かです。そして,この不気味さへの欲求不満の解消法が個々人に押しつけられたままです。要するに黙って我慢しろ,と。こうした事態はますます悪化の一途をたどっています。もはや,歯止めもきかない状態です。

 こういう事態とどこかでリンクしているとしたら・・・これは相当に慎重に考えなくてはならない,新たな事態の発生ではないか,というのがわたしの現段階での懸念です。なぜなら,「川崎市制記念多摩川花火大会」,しかも第72回目だった,ということを知ったからです。写真をみると,多摩川の土手にはまだ隙間があるようですので,来年はぶらりとでかけてその場でいろいろと観察をしてみたいとおもっています。

 このあと「花火贈与論」まで書くつもりでしたが,長くなっていますので割愛。また,機会をみつけて書いてみたいとおもいます。

 取り急ぎ,今日のところはここまで。

2013年8月18日日曜日

アニメーション映画『河童のクゥと夏休み』をみる。驚くべき名作。感動。

 アニメーション映画といえば,ディズニー作品か宮崎駿作品しか知らないわたしは,いってしまえばアニメ・オンチ。こども向け漫画が動くだけの,要するにこども騙しの「動画」だという程度の認識しかありませんでした。だから,動画のタイトルに「河童」という文字があったので,「へーぇ,河童を主人公にしたアニメがあるんだ」「河童をアニメで描くとしたら,どんな風になるんだろう」とおもい,ただ,それだけの理由でみることにしました。

 しかし,開けてびっくり玉手箱。はじめのうちこそ,ほう,なかなかやるではないか,と余裕。つまり,上から目線の鑑賞。ところが・・・です。導入からいろいろのところに心憎いほどの仕掛けがしてあって,それらがまるでパンチをくらうときのように徐々に効いてきます。おやおや,河童を主人公にした単純な子ども向け娯楽動画ではないぞ,と気づきはじめたときはもう手遅れです。もう,全身全霊で画面を見入って没入しています。

 このアニメの主題は言ってしまえば,河童の眼をとおしてみた現代文明批判です。しかも,子どものこころのなかにも,いともかんたんに入り込んできます,そして,いま(現代)を生きるわたしたちの生きざまがどれほど奇怪しいか,それがもののみごとに浮き彫りにされてきます。しかも,そのわかりやすさが素晴らしい。

 このアニメは江戸時代にはじまります。悪代官がその土地(いまの東久留米市が舞台)の悪徳商人と手を結んで,沼を埋め立ててひともうけしようと企みます。それを知った河童が,沼を埋め立てられてしまったら生きてはいけない,と沼の近くを通りかかった悪代官に直訴します。すると,なぜ,そんな話を知っているのかと不信におもった悪代官は,生かしておいてはこの秘密がばれてしまうと考え,切り殺してしまいます。そのときに,まずは,河童の右腕が切り落とされます。ここで,「河童の右腕」が強烈に印象に残ることになります。この右腕がのちの話の展開に重要な役割をはたすことになります。この一部始終をみていた子どもの河童は,以後,人間を信じなくなります。

 そこから一気に時代がくだり,現代に飛んでしまいます。化石になっていた子どもの河童が,偶然,黒目川の河原でコウイチ少年に発見されます。明日から夏休みという学校帰りのできごとでした。この化石を家に持ち帰って水に浸けてみたら,この河童が生き返り,ことばを話すことにびっくり。それも江戸時代のことばを。そして,なにかとすぐに「クゥ,クゥ」と泣くので,名前を「クゥ」とつけます。以後,このコウイチ少年とクゥの物語が展開していきます。

 家で河童を飼っていることは極秘にされるのですが,どこからか漏れてしまい,半信半疑のまま大騒ぎとなります。まだ,だれも実物の河童をみたことがないのに,それがさも実在するかのように周囲に噂として広まってしまいます。そのことに起因する人間関係の破綻がつぎつぎにおこります。コウイチ少年はクラスの人気者のひとりでしたが,夏休み中のプールの日に出校しても,河童の噂が原因で,クラスのなかでひとりだけ浮いてしまいます。だれも相手にしてくれません。

 この噂をマスコミが聞きつけて,コウイチ少年の家の周囲に大勢のマスコミ関係者が張り込みをはじめます。ここからは,まさに現代の世相をそのまま映し出す,みごとな演出になっていて,身につまされます。このさきが,このアニメのみどころです。もう,勘のいい人には物語の展開の方向がある程度はおわかりかとおもいます。ので,省略。

 現代科学文明が,いかに自然を破壊し,人間の自然性を疎外し,たんなる「モノ」的存在になりはててしまっていくさまを,河童の眼を軸にして描いていきます。それはみごととしか言いようがありません。そして,ここがこのアニメのみどころだろうとおもいます。しかも,話は意外な展開をみせ,ああ,そこにゆきついたか,とこれまた納得し,感動です。ここは内緒にしておきましょう。

 面白いことに,「河童のキュウリ好き」とか,「河童の相撲好き」とか,「河童の屁泳ぎ」とか,「河童は嘘をつかない」とか,これまで言い古されてきた伝承をもののみごとに動画のなかにとりこんでいます。そして,それらの取り入れ方がこのアニメーションをより効果的に生き生きとさせています。このあたりの,この監督の手練手管も大したものだ,とおもいました。

 河童が河童として生きる道を,悩み苦しみながら模索することをとおして,逆に,人間であるわたしたちが,ほんとうの意味で「生きる」とはどういうことなのか,という本質的な問題を提起してきます。とても奥の深いアニメです。

 アニメといえば,もともとの意味はアニメーション。すなわち,アニメーション(animation)。つまり,静止画である漫画に「魂」(アニマ:anima/ラテン語)を注入して,生命の宿る肉体として動きはじめることを意味します。だから,アニメにはアニマが籠められているというわけです。この話は,4月から聴講しているN教授のお話のなかで聞かせてもらいました。

 そのときに連想したことは,聖書では人間は土を固めて人形(ヒトガタ)をつくり,そこに神様が息を吹き込んで魂を宿らせたことによって誕生した,というお話です。つまり,わたしたち自身がアニメーションそのものだったというわけです。

 そのつぎに連想したことは,ピノキオの話。これもまったく同じですね。つまり,ピノキオは単なる木製のおもちゃでしかありません。が,なんとかして人形から人間になりたいと強く願望します。あるとき,それが叶えられて人間と同じように魂をいただき,人間と同じように動くことがてきるようになります。つまり,モノから人間への回帰です。

 このアニメーション映画『河童のクゥと夏休み』は,こうした人間の原点回帰への警告ともなっています。現代科学文明の恩恵にどっぷりと浸かって生きている間に,人間本来の「生きる」姿を忘れ去っているという事実を,河童をとおして再認識させられる,という次第です。

 もっと言ってしまえば,河童の生き方にこそ「生の源泉」に触れる重要な要素がいっぱいあるのではないか,という問題提起の作品になっています。ですから,その「生の源泉」に触れる,生きる喜びをとりもどすことこそが,いまのわたしたちに求められているのでは・・・・とこの監督は呼び掛けているようにおもいました。

 いまになってみれば,こんな素晴らしい映画があったことを知らなかったわたしを恥じています。もっとアンテナを高く張って,これからも見逃さないように注意したいとおもいます。

 なお,この作品はDVDにもなっていますので,購入することができます。
 この映画をみてから,あわてて,ウィキペディアでこの作品のことを詳しく知りました。それらの情報については,いまはもう,どうでもいいとおもっています。

 あまり,余分な先入観なしに,今回のわたしのようになにも知らないでみた方が収穫は大きいのではないかとおもいます。

 というわけで,アニメーション映画『河童のクゥと夏休み』は素晴らしい作品です,というご紹介まで。

2013年8月17日土曜日

鬼の霍乱?夏バテ?それとも熱中症?連日の猛暑にからだが悲鳴?

 連日の猛暑にもかかわらず,エアコンを拒否して無理しすぎたのか,今朝から体調がいささか変。背中の真中・胸骨の裏側あたりがずっしりと重い。鉛が入っているような感じ。その前のみぞおちのあたりもなんとなく違和感がある。そのうち横隔膜全体に圧迫感が走り,とうとう胃のなかがもやもやしはじめる。朝食の準備をしていたら,急に,いやらしい唾液がどっとでてきて,ナヌッ?これは吐く前兆なのか,と自分に聞いてみる。準備が終わったころにはなんとなく納まったようなので,そのまま朝食をとる。食欲はある。

 食後,新聞を読んでいたら,腹全体が痛いような気持ち悪いような,妙な具合。こういうからだの異変はもう何年も経験していないので,要注意。どうなるのかなと様子をみていたが,それ以上に悪くなる様子はなさそうだが,よくもならない。こういうときには外にでて用事を済ますにかぎる,と判断して郵便局にいって書籍小包を6袋ほど発送。そのまま,鷺沼の事務所に向う。歩きはじめたら,からだの異常がいくらかまぎれた様子。でも,電車に乗って座席に坐ると,胃袋の裏の方がなんとなく変。

 事務所に着いて,汗びっしょりなので,すぐに水シャワーを浴びてからだを冷やす。身もこころも締まるほどに気持ちよい。でてきて直ぐにお茶を淹れて(熱めが好き)飲む。とたんに吐き気が襲って,びっくりしてトイレに駆け込む。大量の唾液がでたあと,胃の底の方からひとかたまりになっていたようなゲップがごぼっと上がってきて,それでおしまい。すーっと吐き気は消えた。よしよしとおもっていたが,からだ全体に力がない。気力も足りない。どこか虚脱状態。よくない。

 これはひょっとしたら熱中症の症状の一部ではないか,とわが藪井竹庵先生の見立て。ならばということで,ことし初めて事務所のエアコンを稼働させてみる。ちなみに机の上の温度計は34℃。外気とまったく変わらない。風が抜けていかない分,むっとした暑さが残る。エアコンを点けたら,室温はあっという間に下がって快適そのもの。なのに,気力がでてこない。

 読まなくてはならない本が山と積んであるので,一冊ずつ拾い読みをはじめる。どの本も内容は面白いし,なかを読もうとするのだが,集中力がつづかない。そのうちに眠くなる。この眠気を覚ましてやろうと膝の曲げ伸ばしの運動をする。これはいつもやっていることなので,からだはすぐに反応して,一瞬だけ元気を取り戻す。しかし,集中力は長くはつづかない。すぐに眠くなる。こういうときは,逆らってはいけない,と自分自身に言い聞かせ,マットを引っ張りだしてきてゴロリと横になる。でも,背中もみぞおちも横隔膜も胃袋もどことなく納まりが悪い。

 横になったまま,様子をみながらぼんやりと考え事をしていたら,薮から棒に「陀羅尼助丸」という名前が脳裏に浮かぶ。そうだ,あれを飲めという合図だ,と判断。でも,奈良県の吉野で買ってきてから数年が経過している。もう,気が抜けていて効かないのではないか,ともおもう。でも,せっかく,ひらめいたのだから飲むべしと診断。

 一袋とりだしてそれを全部飲む。水を少しずつコップに一杯分を飲み干す。そして,ごろりと横になる。なんだか,かえって気分がよくない。あわてて,起き上がりあぐらをかいて新聞を広げて読みはじめる。この方が具合がよさそうだ。みるみるうちに気持ちの悪さがとれて,全体に快方に向っているように感ずる。よしよし,と少しばかり安心。でも,いまひとつ積極的になにかをやろうという気にはならない。

 こういうときは映画でもみるにかぎる。つい最近,Huluなるものに登録。一カ月980円。何本でもみられる。最近はこれでときおり映画を楽しんでいる。今日,みた映画はアニメーション映画『河童のクゥと夏休み』(原恵一監督)。なんの予備知識もなしにタイトルに「河童」とあったので,アニメの世界で河童がどのように描かれているのだろうか,というただそれだけの興味・関心のみ。ところが,このアニメーション映画が名作なのに驚く。この映画に見入っている間に,体調のことはすっかり忘れていた。これも映画の効用というべきか。

 夕刻にはすっかり元気を回復。いまはもういつものとおり。なにがあったのだろうか,という気分。ときにはからだを労ってやれよ,という神様からのお灸だったのか。そういえば,休養をとるということを,このところしたことがない。やはり,生活のリズムに緩急をつけることが大事,と反省。ときには,息抜きに多摩川の土手でも散策したり・・・とか。それも,もう少し涼しくなってからの話ではあるが・・・・。

 というわけで,つぎのブログはびっくりするほどに感動したアニメーション映画『河童のクゥと夏休み』について書いてみたいとおもいます。
 取り急ぎ,今日のところはここまで。

2013年8月16日金曜日

戦争はしません,軍隊ももちません,で,敵が攻めてきたらどうするんだ,と主張する主戦論者にひとこと。

 1945年8月15日。この日を,わたしは愛知県渥美半島の僻村の寺で迎えました。小学校2年生でした。いや,精確にいえば国民小学校の2年生でした。いまも,この日のことは忘れもしません。もう,明日からはアメリカのB29や艦載機や艦砲射撃がなくなる,と聞いたときの安堵感はまだ幼いこどものこころの奥深くにしっかりと刻まれました。いってしまえば,戦争という恐怖からの解放でした。

 戦争はいかなる理由があってもしてはなりません。この考えは,あの日から70年を生きてきていまも変わりません。不動のものです。戦争は,勝とうと負けようと,無駄な命を犠牲にするだけのことです。ですから,戦争をしない国にすることが,敗戦直後の日本人の多くが望んだことでした。そして,偶然にも,戦争をしない国をめざす憲法を占領軍であるアメリカが用意してくれました。ですから,歴代政府も,憲法9条を大事に守りつづけてきました。なのに,ここにきて突如として憲法を改定して,戦争ができる国にしようという動きが顕著になってきました。それに影響されてか,日本国民の多くも「国を守るための軍隊は必要だ」と考える人が増えつつあるようです。わたしの近辺にもいます。

 今日(8月15日)のNHKスペシャル(午後7時30分~8時45分)を,たまたまわたしの夕食の時間と重なったのでみていました。途中から腹が立って仕方なくなり,いつものようにテレビに向かって「吼えて」いました。議論をする前提がぱらばらで勝手な意見(そのほとんどは自分の考えを合理化するためのものでしかない,うすっぺらなものでしかない)を声高に言った方が勝ちのような,こんな番組は二度と流さないでほしい,と強烈におもいました。いよいよ,受信料契約を破棄することも考えなくては・・・と。

 新聞の番組のキャッチをみますと,以下のようです。
 激論!ニッポンの平和▽終戦の日を知らない人が〇%!?戦争の風化▽どうする日中・日米▽今,右傾化している?▽戦中世代VS若手論客 本音で語り合う日本・・・。

 ご覧になられた方も多いとおもいますので,だれがどう言ったとか,だれがバカなことを言ったとかはここではやめにしておきます。わたしが,不毛の議論だと思ったのは,議論をするための前提がひとつも確認されないまま,勝手に個々人の意見を披瀝するだけの場に終始していたということです。

 たとえば,日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏をした敗戦国である,ということすら確認されませんでした。ですから,このポツダム宣言の五カ国の戦勝国のなかには中国(毛沢東)がふくまれていたということすら確認されませんでした。こんな,きわめて基本的な事実確認もしないまま,中国批判の議論が展開していきます。そんな資格は日本にはありません。無条件降伏したのですから。しかも,40年前の日中国交正常化の条件のひとつに「尖閣諸島は棚上げ」にしておきましょう,という約束があったにもかかわらず,それを一方的に破棄して領土化宣言をしてしまったのは日本だという事実についても伏せたままでした。このことを確認しないまま,中国の船が領海侵犯を繰り返しているのは許せないとか,中国人の90%が日本人に対して悪い感情をもっているとか,日本人も90%近くの人が中国に対して悪い感情をもっているとか(NHKの調査によるデータらしい),そんな議論をしていました。あきれ返ってものも申せませんでした。

 日本という国家は,「棚上げ」論を主張すると「国賊」扱いにされてしまいます。ですから,みんな黙ってしまっています。中国で,このようなことが起きたとしたら,それこそ「暴動」が起きるでしょう。なのに,中国にはきびしい言論統制がしかれているので,もっと民主化すべきだ,そのために日本は手を貸すべきだ,などというまことにノー天気な,馬鹿げた意見を平然と述べる人もいて,おやおやでした。明らかなる上から目線。

 つまり,尖閣諸島は日本の固有の領土であるという前提に立つからこそ,敵が攻めてきたらどうするのか,国を守るべき軍隊が必要なのだ,アメリカ軍を支えるための集団的自衛権が必要なのだ,という議論にすすんでしまいます。そうして国を守るための戦争のどこがいけないのか,という議論になってしまいます。これが安倍首相がもっとも得意とする詭弁というものです。それに近い詭弁を弄するみごとな論者もひとりいました。

 中国との問題は,尖閣諸島を「棚上げ」にもどすだけで,軍隊は必要なくなります。韓国の主張する「竹島」も同じです。こんな小さなことで喧嘩してそっぽを向き合って,もっと重要な国益を損なっていることの方がはるかに重大です。こちらも「棚上げ」にして,平和的に解決できる時期を待つことの方がはるかに賢明です。にもかかわらず,双方ともに目先の利益に目を奪われてしまっています。日本と韓国などは,古代史を少し繙くだけで,ほとんど同族であることは明白です。天皇ですら,それを認めています。にもかかわらず,そうではないという神話をでっちあげて,そういう人たちがいまも大通りを歩いています。おまけにヘイト・スピーチにうつつを抜かす信者までいます。わたしは,個人的には,わたしのからだのなかには韓半島から渡来した人びとの血が色濃く流れていると考えています。そして,事実,そうだと信じています。そうでなければ,説明のてきないことが多すぎますし,その方がはるかに友好的になれます。

 この地平に立つことができるようになれば,隣国はみんな「友達」です。中国も同じです。日中の交流がどのようなものであったかは,長い長い歴史をふまえて巨視的に考えれば明らかです。そこから出発しないことには,なにもはじまらないとわたしは考えています。

 こうした友好を前提にした国交を回復し,深めていけば,なにも敵をつくることもありません。
 敵をつくらなければ,攻められることもありません。
 ましてや,戦争はしません,軍隊ももちません,という「憲法」をしっかりと保持しているかぎり,そして,それを長年にわたって維持しているかきり,だれも日本を敵対視することはありません。

 北朝鮮からの驚異を語る人がいますが,その理由のひとつは横須賀に強力なアメリカ艦隊が常駐しているからです。ボタンをひとつ押すだけで,北朝鮮の国家が全滅するだろう,といわれるほどの戦力がアメリカには備わっています。ですから,その驚異を取り除くことが日本の役割でもあります。アメリカはこれまでもことあるごとに,強力な軍事力で解決しようとしてきましたが,なにひとつとして成功した例はありません。西部開拓時代の西部劇と同じ誤りをいまも繰り返しています。そして,すべて,禍根を残しています。

 もうひとつ,今日の議論のなかで欠落していたのは,沖縄の問題です。とりわけ,「日米地位協定」なる不平等条約がいまも厳然として存在し,絶対的な支配を余儀なくしている,という事実です。この条約が存在するために,日本がアメリカの属州になるよりも,もっとひどい扱い方をされている,という事実を確認しないで議論をスタートさせています。ほかにもありましたが,そろそろ終わりにします。

 こういう議論の前提となる事実確認なしに,あれこれ語り合ったところで,声の大きい人が有利になるだけの話で,なにも新しい共通認識は生まれてはきません。時間の無駄です。もっといえば,公共放送の無駄遣いです。いな,NHKには隠されたしたたかな計算・打算があって,この番組を仕掛けた節もないわけではない,とも感じました。メディアは世論を動かす恐るべき武器です。

 「国を守ることは重要である」ということだけが全面にでてきますと,みんな,「それはそうだよなぁ」ということになってしまいます。その結果は,いともかんたんに集団的自衛権を擁護することになりますし,固有の軍隊をもつことにもなんの疑問をいだくこともなく,議論が一人歩きをしながら進んでいってしまいます。しかし,それは大いなる間違いです。

 アメリカの西部劇ですら,どんな悪党であろうと丸腰の相手を撃つことはご法度であり,許されてはいませんでした。それを無視して撃った人間は完全にその社会から孤立してしまいます。日本は,「戦争はしません,軍隊ももちません」といいつづけているかぎり,どこからも攻めてはきません。国際社会がそれを許しはしません。もし,それでも,どこかから攻めてくるようなことがあったら,国民全員が海岸線に並んで「白旗」を振りましょう。そして,黙って無抵抗・不服従を貫くことです。そんな国を支配したところでなんの得にもなりません。

 馬鹿げた絵空ごととお笑いになる人も多いかとおもいますが,無駄な戦争をして多くの人が命を落とす(敵も味方も,そして,その周囲も)よりも,はるかにいい方法だと確信しています。たとえば,第二次世界大戦のときには,日本だけで300万人,アジア全体では2000万人以上の人びとが犠牲になったといいます。この数を一度でもいいですから,リアルに想像してみてください。ですから,わたしは戦争するよりも,無抵抗・不服従を貫くつもりです。

 若手論客と紹介されたひとりが,番組の最後に「憲法改定に反対するだけの議論しかしない左翼の人たちは,もっとポジティブな提案をすべきだ。それが圧倒的に不足している」と言い切ったことを受けて,わたしは「不戦・無抵抗・不服従」を提起します。そして,これ以上にポジティブな提案があったらご教授願いたいと考えています。ことばの正しい意味での「自己否定」ほどポジティブな生き方はないと,75歳のいま,確信しています。

 最後に,「戦争とはなにか」「人間が生きるとはどういうことか」,どうか若手論客とされる人たちにはもう一度,「原点に立ち返って」よくよく勉強していただきたい,と注文を出しておきたいとおもいます。あなたも,違う使い方で「原点に立ち返って」(たしか,現実としっかり向き合って,という文脈のなかでの言い方だったと記憶します)しっかり考え直すべきだ,と仰いました。しかし,それは,大いなる勘違いです。それではアメリカの「テロとの戦い」と同じになってしまいます。アメリカは「9・11」という現実から出発して,それ以前の過去をすべて蓋をしてしまいました。それがアメリカのいう「正義」です。とんでもないことです。

 戦争がいかなるものか,人間が生きるということの原点はなにか,そして,戦争と人間はどのようにクロスするのか,もっともっと深く考えてほしいのです。そうしないと,議論するための前提に大いなる「誤認」が生じてしまいます。その結果は,不毛な議論のみが積み上げられていく,そこから政治家たちは自分たちに都合のいい議論だけを拾いだして,国を動かそうとします。そして,その犠牲になるのは若者たちです。

 このように考えてきますと,なんだか,こういう番組を制作するNHKのホンネの意図を垣間見たおもいがしました。やはり,不愉快です。こうして世論が操作されている,と感じるからです。NHKはほんとうの意味での「国益」とはなにか,と問題提起をすべきです。若者たちを戦場に送り込むだけが国益ではありません。それはかえってほんとうの意味での「国益」をそこねるものです。

 目隠しをしてゾウをさわった人が,「太い丸太のようでした」といい,またある人は「ざらざらした土壁のようでした」といい,「意外に細い紐のようでした」と言っているのと同じです。ゾウの全体をみんなで確認した上で,「ゾウとはなにか」を議論したいものだとおもいました。

2013年8月15日木曜日

第149回芥川賞作品『爪と目』(藤野可織)を読む。なんとも不可解な作品。

 14日(水)午前中の太極拳の稽古が終って,5人で昼食を済ませ,鷺沼の事務所に向かいました。その電車の中の吊り広告に『文藝春秋』9月特別号・芥川賞発表・受賞作全文掲載とあるのをみて,早速,いつもの書店に立ち寄り購入しました。わたしが『文藝春秋』を購入するのは年に一回,このタイミングのときだけです。

 いつものように,芥川賞選考経過,芥川賞選評(ここがとびきり面白い),受賞者インタビューを読み,そして,受賞作「爪と目」を読みました。わたしの感想をひとことで言ってしまえば,「駄作」。二度と読む気はしません。しかしながら,島田雅彦委員は作者藤野可織の「最高傑作」だと「選評」で絶賛しています。そして,もうひとり,小川洋子委員がこの作品を高く評価しています。が,あとの委員はだれひとりとして強く推した痕跡が「選評」のなかにはみとめられません。わたしの好きなあの山田詠美委員ですら「不気味なおもしろさ」とは書いたものの,いろいろと問題のある作品だと注文をつけています。

 昨年までだと,石原慎太郎委員がいて,受賞作のどこがいいのかわたしにはさっぱり理解不能といいつつ,とんちんかんな選評を書いていて,これはひとつの楽しみでした。が,ことしは辞退してしまいましたので,ちょっとつまらない。やはり,わけのわからない人もひとりくらいいた方がおもしろい。そのくらい,芥川賞というものは評価がわかれるものだということが,素人にもよくわかって文学が身近なものになってきます。

 ところで受賞作の「爪と目」についてのわたしの感想をもう少しだけ書いておきたいとおもいます。母の突然の死によって,父が,以前からの恋人を招き入れ,3人で生活をともにすることになった3歳のわたし(女の子)が,父の恋人である「あなた」を主人公にして描いた作品。つまり,3歳の「わたし」が大人になってから,3歳のときに起きたことがらを「あなた」に託して回想する,という構造になっています。

 わたしは,この小説の冒頭の書き出しで,まずは躓いてしまいました。それは,つぎのような書き出しです。

 はじめてあなたと関係を持った日,帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。あなたは驚いて「はあ」と返した。父は心底すまなそうに,自分には妻子がいることを明かした。あなたはまた「はあ」と言った。

 いきなり,こんな風に書かれてもなんのことかさっぱりわからず,何回も読み返してしまいました。「はじめてあなたと関係を持った日」が,だれが「あなた」と関係をもったのか,それが父なのか,この小説の話者である「わたし」(まだ,登場もしていません)なのか,が特定できないからです。ですから,何回,読み返してみても,なんのことかさっぱりわかりませんでした。なぜなら,これを語っている「わたし」が,どういう人物なのか,この段階ではまったくイメージがえられなかったからです。それが,ようやく,そういうことだったの?と納得するのは,3ページもあとの「わたしは三歳の女の子だった」という文章に出会ってからです。

 しかし,同時に,「三歳の女の子」が経験したことを大人になってから「わたし」が回想しているわけ?という根源的な疑問がわいてきました。そして,小説がどんどん佳境に入るにつれて,じつに微妙な「あなた」の心理を「三歳の女の子」の「目」をとおして回想し,それを描写していきます。ますます,わたしは,そんなバカな,と拒絶反応を繰り返します。これが最後までつづきます。

 そして,最後には,この「三歳の女の子」である「わたし」がスナック菓子の食べ過ぎで肥満児になっていたとはいえ,ベッドで眠っていた「あなた」の両腕を「わたし」の両膝で抑え込んで,「あなた」の両眼に異物を入れるという描写がでてきます。そして,「あなた」はこの「わたし」をどうすることもできなかったので,なすがままにされていた,という描写にいたっては,思わず「嘘だ」と声に出していました。文学の世界のことですので,多少の非現実的な場面が描かれていたとしても,とくに驚きはしません。しかし,この場面での描写はリアリティが要求されます。でないと,読者は,まさか,と懐疑的になってしまいます。となると,作品全体がぶち壊しになってしまいます。このわたしがいい例です。

 この点については,もっと別の表現の仕方で,それぞれの選考委員もやんわりと指摘しているところです。ですから,積極的にこの作品を推したのは島田,小川のふたりの委員しかいなかった,というわけです。繰り返しになりますが,島田雅彦が「最高傑作だ」とまで書いた,その根拠を知りたいとおもいます。

 かつて,島田雅彦が若かったころに書いた小説が大好きだったわたしが,最近の島田作品に共感しないのは,このあたりに理由があるのかもしれません。芥川賞の選考委員に島田雅彦が加わったのは去年からだったとおもいます。人は地位をえると変わることがあるといいます。つまり,地位がことばを発しはじめる,というわけです。まさか,そんなことはあるまい,とおもいたいところですが・・・。

 というところで,ことしの芥川賞作品は,わたしにとっては「失望」でした。この作家がこんごどんな風に成長していくのか,しばらくは追跡してみたいとおもいます。

 みなさんのご意見をお聞かせいだだければ幸いです。

2013年8月14日水曜日

「成長崇拝」の地獄から抜け出す。西谷修によるセルジュ・ラトゥーシュへのインタビュー(『世界』9月号)に注目。

 セルジュ・ラトゥーシュについては,すでに,『経済成長なき社会発展は可能か?』(作品社,2010年)が日本で翻訳され,大きな話題になりましたので,ご存知の方も多いこととおもいます。最近では,ことしの5月に『<脱成長>は,世界を変えられるか?──贈与・幸福・自律の新たな社会へ』(作品社)が刊行されて,ふたたび大きな話題になっています。

 そのセルジュ・ラトゥーシュが,雑誌『世界』9月号に「豊かな社会」の欺瞞から「簡素な豊さ」という逆説へ,というショート・エッセーを寄せ,それを西谷修が翻訳し,その上で,インタビューを試みています。わたしにとっては,西谷修によるこなれた翻訳のわかりやすさにつづき,インタピューがセルジュ・ラトゥーシュの思考のど真ん中にピン・ポイントのように鋭く突き刺さっていて,とても助かりました。というのも,わたし自身は翻訳本に手こずっていただけに,西谷修のこなれた訳文がすんなりとわたしの理解を誘ってくれただけではなく,インタピューによって,さらに,そのポイントをみごとに明るみに出してくれたからです。なるほど,そういうことだったのか,と。

 これを読んで勇気づけられましたので,これから,再度,セルジュ・ラトゥーシュの翻訳本に挑戦してみようとおもっています。と同時に,何年も前(1994年)にわたしが提唱した「コンビビアル・スポーツ」の考え方が,基本的には間違いではなかったことがわかり,勇気百倍というところです。これもまた大きな収穫でした。

 それはどういうことかと言いますと,ヨーロッパ近代が生み出した近代競技スポーツの時代はすでにその使命を終え,いまや,それに代わって「コンビビアル・スポーツ」(=共生スポーツ)に移行していくべきときではないか,ということを主張したものです。この論文は,いろいろのいきさつがあって,中国で翻訳紹介され,かなりの話題になったと聞いています。しかし,日本ではほとんど省みられることもなく,消し去られてしまいました。当時の研究者仲間からも,あまり,受けはよくなかったようです。とりわけ,近代競技スポーツが「上昇志向のスポーツ」であるのに対して,それに代わるべき後近代のスポーツは「下降志向のスポーツ」をめざすべきだ,という表現がうまく受け入れてもらえなかったようです。

 わたしとしては,当時も,そして,いまも,まことに時宜をえた表現であると信じています。ですから,この表現にはこだわらないで,別の言い方をしながら,コンセプトをより明確にする努力をつづけてきました。

 たとえば,ヨーロッパ近代が生み出した近代競技スポーツの世界各地への普及は,まさに,ヨーロッパ産のスポーツ文化による世界制覇であり,それはヨーロッパの近代合理主義の考え方による世界の植民地化運動そのものであった,と。すなわち,自由競争の無条件の容認,優勝劣敗主義の奨励,ルールの絶対化,キリスト教精神に支えられたスポーツマンシップの推進,マナーの厳守,など。別の言い方をすれば,これはヨーロピアン・スタンダードの世界への「押し売り」にも等しい,と。さらには,資本主義の精神に支えられた「経済帝国主義」が,スポーツにおける優勝劣敗主義と表裏一体となり,スポーツの「金融化」への道を余儀なくしている,といった具合です。

 こんなことを考えていましたので,セルジュ・ラトゥーシュが「コンヴィヴィアリテ」という概念をもちだして,「脱成長」を語るくだりが,わたしには強烈なインパクトがありました。ならば,再度,この「コンヴィヴィアリテ」の概念を,スポーツ史・スポーツ文化論の立場から練り直して,近代競技スポーツを超克するためのひとつの重要なコンセプトとして定置し,「21世紀スポーツ文化」(すなわち,後近代のスポーツ文化)の展望を描いてみたいとおもっています。

 現代のスポーツが,経済原則に絡め捕られて,すでに久しいことは衆知のとおりです。わたしたちもまた,スポーツの小さな領域に閉じこもって蛸壷型の批評を繰り出したとしても,それはいまやほとんどなんの意味ももたなくなってしまったことを強く自覚しなくてはなりません。そして,「経済の帝国主義」から抜け出し,新たなる展望に立つスポーツ文化論を打ち出していかなくてはならない,と強くおもいました。

 そのためには,セルジュ・ラトゥーシュのテクスト『<脱成長>は世界を変えられるか?』に付されたサブ・タイトル「贈与・幸福・自律の新たな社会へ」に籠められたキー・ワードが,そっくりそのままこれからのスポーツ文化論のキー・コンセプトとして,きわめて有効だと考えています。

 また,ひとつ,広い知の地平に飛び出すことができそうな予感があって,この『世界』9月号の特集に感謝したいとおもいます。

2013年8月13日火曜日

鳥見山(とみやま)に鎮座する等彌(とみ)神社(奈良県桜井市)の不思議。(出雲幻視考・その8.)

 村井康彦さんの名著『出雲と大和』(岩波新書)を片手に,鳥見長髄彦(とみのながすねひこ)の事跡をたどるフィールド・ワークに行ってきました。その第二日目(8月9日)に等彌(とみ)神社の境内に足を踏み入れました。それも,偶然のできごとでした。なぜなら,この等彌神社のことは村井さんの著書にはひとことも触れられてはいませんでしたので,わたしの視野のなかに入ってはいませんでした。しかも,これまで聞いたこともありません。

 では,どうして等彌神社にたどりついたのか。村井さんの著作には「外山(とび)」という地名の謎解きにも似た描写がでてきます。それによりますと,この外山(とび)を鳥見(とみ)の当て字(別字)とみるか,それとも八咫烏のトビの当て字と読むか,二通りの解釈が成り立つ,とあります。そして,村井さんは鳥見の「とみ」説を支持します。で,まずは,わたしもその地に立ってこの眼で確かめてみようということででかけました。地図でみるとかなり広い地域が「外山」と呼ばれていることがわかります。そういう名前のバス停もありました。

 が,それ以上の情報をえる手掛かりがありません。ならば,すぐ近くに桜井市図書館があるから,そこで『桜井市史』などを繙けば,なにか新たな手掛かりがえられるかもしれない,ということでそこに向かいました。が,運悪くというか,運良くというか,微妙なところですが,休館日(書庫の入れ換え作業のための臨時の休館日)でした。

 がっかりして,しばらくこの周辺の景色を眺めていました。すると,道路表示に「等彌神社」という文字が眼に飛び込んできました。ふーうん,不思議な名前の神社があるんだなぁ,とぼんやり眺めていました。なぜなら,このままではなんと読むのかわかりません。読めないのです。すると,その下にちいさくローマ字で「Tomijinjya」と書いてありました。えっ!「とみ」神社だって?なんということか,とわたしは跳び上がってしまいました。外山(とび)=鳥見(とみ)という村井さんの解釈に同意しているわたしとしては,この「等彌(とみ)」はとんでもない「幻視」をするための有力な手掛かりではないか,と一瞬にして確信しました。

 入り口こそ,どこにでもある神社でしたが,予想外に長い参道を歩きはじめたときから,この神社はただものではないと予感していました。なぜなら,連日の猛暑で,この日もすでに昼過ぎでしたので、38℃は間違いなく超えていたのではないかとおもわれるほどの暑さです。にもかかわらず,参道を歩いていくとなんとも涼しげな風が吹いてきます。木が鬱蒼と繁っていることもあるのでしょうが,山から吹き下りてくる風が,なんとも心地よいのです。ここは気の流れが違う,風水的に最高の立地条件にある場所だと確信しました。

 等彌神社の境内はとても広く,参道の両側にはさまざまな神社が点在しています。たとえば,猿田彦大神社,金比羅社,愛宕社,恵比寿社,下津尾社(右殿は八幡社・祭神は神武天皇,左殿は春日社・祭神はアメノコヤネ),上津尾社(祭神はオオヒルメムチミコト),以下省略,という具合です。そして,上津尾社は,もともとは鳥見山の山中にあり,天永3年(1112年)に現在地に遷された,ということです(神社発行のパンフレットによる)。

 このパンフレットにはつぎのような文章があって,わたしの眼を釘付けにしました。
 「聖地鳥見山は,桜井駅の南東に位置しております。標高245メートルのなだらかな山容を誇るこの聖地は,橿原宮で即位されました初代天皇である神武天皇が,霊〇(田編に寺=まつりのにわ)を設けられました。霊〇(まつりのにわ)は国で採れた新穀及び産物を供えられ,天皇御自ら皇祖天津神々を祭られ,大和平定と建国の大孝を申べ給うた大嘗会の初の舞台です。いわば,我が国建国の聖地と言えるでしょう。」

 その他の文章も併せて熟読してみますと,この神社は神武天皇を祀った神社である,と宣言していることがわかります。しかし,その文章は,さきの引用でもお分かりのように,とても捩じれていて複雑怪奇です。しかし,最終的には神武天皇を全面に押し出した神社であることは間違いありません。が,このねじれ具合に,わたしは大いなる疑問をいだくと同時に納得もしてしまいます。なにゆえに,こんなにもってまわった言い回しをしなくてはならないのか,もっと,単刀直入に,わかりやすく神武天皇の神社であると言い切ればいいのに・・・・。しかし,それができないところに大きな謎が隠されているのではないか,とわたしは「幻視」してみました。

 その謎を解く手掛かりのひとつは,「鳥見山の山中にあった神社を1112年に,現在の場所に遷した」という記述です。神武天皇が大和朝廷を開いてから,ずいぶん長い年月を経ていることか(精確には計算できない)と考えてみれば,容易にその間の事情が推測できます。かんたんに言ってしまえば,それまでは山中にあった社を現在地に遷すことができなかった,ということです。なぜ?そんなに長い間,大和朝廷の支配下に治めることができなかった聖地だったのか,とわたしは推測します。

 ここからは,わたしの独断と偏見に満ちた「幻視」です。しかし,お断りしておきますが,わたしにとっては真実そのものです。

 さて,どこからお話しましょうか。
 まずは,鳥見山。この山を「とみやま」と読ませることの根拠はなにか。この鳥見山は,こんにちの地図で確認してみますと,なんと「外山(とび)」地区に位置しています。ちなみに,等彌神社の位置は桜井です。等彌神社の裏側から山を登っていき,大きく左折したさきの尾根の頂上が鳥見山です。この鳥見山のロケーションを地図でよく確認してみますと,この頂上(つまり,「まつりのにわ」(霊〇)のある場所は「外山」に属しています。ということは,「まつりのにわ」をむかしから管理していた人たちは「外山」の住民だったのではないか,とわたしは幻視します。

 さらに,鳥見山という名前から連想することは,一直線に,鳥見長髄彦の名前です。しかも,ここが鳥見長髄彦軍と神武軍が二回目に対戦した激戦地でした。ここでも鳥見長髄彦軍は神武軍を追い返しています。言ってしまえば,この地を神武軍はなんとしても突破して大和平野に突入したかったのです。しかし,それはなりませんでした。それほどに,この地は鳥見長髄彦の側からすれば絶対に譲れない軍事的な拠点でした。

 なぜなら,鳥見山の頂上からは,360度,あらゆる方向を見渡すことのできる軍事上の絶好の場所だったからです。初瀬川をはさんで対岸の向こうには三輪山が聳え,初瀬川の上流や大宇陀から大和平野に入る交通の要所であると同時に,軍事上の要塞でもあります。ここを支配していた豪族が鳥見長髄彦であったことは,ほとんど間違いありません。

 ついでに言っておけば,鳥見山という名前からして,神武東征以前からの名前であったことは明らかです。この鳥見山と三輪山が初瀬川の上流からやってくる武力に対して,いかに重要な要塞であったかは,素人が考えてみても明らかです。ここを見逃すことなく鳥見長髄彦が,しっかりと支配していたことは明々白々です。

 繰り返しになりますが,富雄川沿いにある下鳥見の「登弥神社」も,表向きは神武天皇が大和を平定した折に作られた社だと名乗りつつ,祀ってある祭神は,すべて出雲系の神々です。その代わり,いまはさびれた小さな社にすぎません。しかし,その参道の長さといい,そのロケーションから醸しだされる雰囲気といい,とてもシックな落ち着いた神社です。それに比べると,桜井の等彌神社は,同じ「とみ」神社でありながらも,1112年の遷宮を経て,完全に神武系の神社に鞍替えし,出雲の神々は,わずかに「恵比寿社」が残るのみです。それでもなお,そのねじれ現象はいまも厳然と残存しており,わたしにはとてもわかりやすい構造になっています。

 しかし,それにしても,村井康彦さんは「外山(とび)」の名前の出自の確認までしていながら,なにゆえに,この等彌神社のことについてはひとことも触れなかったのでしょうか。のみならず,このあたりに神武の軍勢が多く滞在したことの根拠として「磐余(いわれ)」という地名が残っていることまで指摘していながら,この等彌神社を忌避しているかのように読み取れてしまうのは,なぜか,わたしには大いなる疑問です。

 もうひとこと。村井康彦さんは,桜井市出雲という集落があることにもひとことも触れていません。そして,当然のことながら,いまも出雲の人たちの聖地である「ダンノダイラ」についても,ひとことも触れてはいません。知らないはずはないのに・・・,なぜか。ついでに連想することは,出雲の「ダンノダイラ」と外山(とび)の「マツリノニワ」はどこかで通底しているようにおもうことです。ということは,外山(とび)も出雲系の人びと,つまり,「トミ」の系譜の一族。このさきのことは,このあたりで止めにしておきます。

 どうも,いまも,アンタッチャブルな世界がある,と考えざるをえないようです。古代史の謎解きはかくも面白いのに,核心部分になると,きちんと活字にして残す人がほとんどいません。わたしもあまり深入りしない方が無難かもしれません。が,わたしの書くものはあくまでも「幻視」ですので,くれぐれもお間違いのないように。

2013年8月12日月曜日

連日,各地で40℃を超える記録的な猛暑,お見舞い申しあげます。

 この連日の猛暑のなか,みなさんはいかがお過ごしでしょうか。それもただの猛暑ではありません。75歳になるわたしの記憶にもない,まさに記録的な猛暑です。連日,熱中症注意報が呼び掛けられています。かと思えば,局所的な集中豪雨。こちらも大きな被害が各地ででています。狂っているのは人間だけだとおもっていたら,とうとう自然現象まで狂いはじめています。こころなしか,蝉の鳴き声もいつもよりは弱々しく聞こえます。

 そんななかお盆休みの帰省ラッシュです。自動車にしろ,新幹線にしろ,家族での大移動,たいへんなことです。どうやら,お盆すぎまでこの猛暑はつづきそうです。そして,甲子園では高校野球が真っ盛り。あのグラウンドの上は40℃ははるかに超えているだろう,といつもの年でも聞いています。ということは,ことしのこの猛暑ではどのくらいの暑さになっているのでしょうか。気が遠くなりそうです。でも,そんな猛暑をものともせず,連日,熱戦を繰り広げています。鍛えられた球児たちの元気な姿に勇気づけられます。

 その一方では,こんな記録的な猛暑のなかで甲子園大会を開催すべきではない,という意見もあります。みなさんは,この意見をどのようにお聞きでしょうか。この議論はいつか,きちんとしておきたいとおもいます。

 お盆といえば,あちこちの店でお盆用品をセールしています。驚いたのは,どの店もほとんど同じような商品を並べているということです。そういえば,しばらく前からお墓の前のお供えが,どうも変だなぁ,とおもっていたら,こういう商品が多く出回っているということが一因のようです。ことしはとくに顕著だ,とわたしには感じられます。それは,お花もお供えもみんなプラスチック製だということです。せめて,お花くらいは生花を供えたいところ。そして,故人の好きだったお酒の瓶もビール缶もプラスチック製の小型の模造品。ご飯や煮物,そして,お饅頭もみんなプラスチック製。まことに合理的。衛生的。後片付けも,つぎに来るときまでしなくていい。

 でも,近代合理主義の考え方がここまで浸透してしまったのか,とわたしなどは気持ちが滅入ってしまいます。寺で育ったわたしは,敗戦直後の食べ物もままならなかった時代に,仏様へのお霊供だけは白米のご飯(われわれはサツマイモの混ぜご飯)に季節の煮物(できれば初物)を炊いて,まっさきにお供えするのが,当たり前のことでした。そのあとで,わたしたち家族の朝食でした。そして,夕方にはお霊供をさげてきて,家族で等分に分けていただくのです。白いご飯が食べられなかった時代には,それだけで,ご馳走であり,嬉しかったものです。

 ですから,この時代のお墓やお位牌の前に供えられるものも,みんな農家で採れた野菜や果物でした。それも一番,立派なものが供えられました。つまり,ご先祖様への感謝や祈りの気持ちがつよく表れていたのだとおもいます。その信仰心の強さ,深さは,いまとくらべたら問題になりません。朝夕に祈る老人の姿は,どこの農家でも日常的にみかけたものです。

 が,アメリカの占領軍という名の戦後民主主義は,日本の伝統的な生活様式の「合理化」を強制しました。農村にも「生活合理化運動」なるものが浸透して,日曜日に農作業をしてはいけないとか,夜なべをしてはいけないとか,まさに,キリスト教国アメリカのスタンダードの押しつけでした。こどもたちには,方言をしゃべることが禁止されました。

 この話ははじめてしまいますとエンドレスですので,今日のところはここまで。いずれにしても,アメリカン・スタンダードの押しつけは敗戦直後から,じつにきめ細かく行われたことは間違いありません。そうしたキリスト教的・科学的・合理的な生活改善運動が,日本人の伝統的な信仰心を著しく破壊したことは間違いありません。いわゆる儀礼廃止という名のもとに。

 そのゆきついた典型的な事例が,プラスチック製のお供えものです。わたしが死んだら(もうすぐの話),そんな供え物なら要らない,と断ります。沖縄では,亀墓の前で,立派なお供えものを並べたあと,親族一同で小宴会を催す,とも聞いています。これなら大歓迎。こうした信仰心の深さと,人間のこころの優しさとは無縁ではない,とわたしは考えています。

 お盆のお参りに帰省もしない親不孝者であるわたしは,遠く離れた,この場所から般若心経を唱え,気持ちだけをご先祖さまと両親に送り届けたいとおもっています。

 みなさんは,どのようにこのお盆休みをお過ごしでしょうか。
 いずれにしても,この猛暑,こころからお見舞いを申しあげます。

 あと一週間もすれば涼しい風が吹きはじめるのではないか,とひそかに期待しています。エアコンをもたないマンション生活は,窓から入ってくる風のみが頼りです。早く,秋の気配を感じたい,と首を長くしているところです。

 この猛暑,お互いに無事に乗り切ることができますように。

責任を回避しようとする世の中,このままでいいのか。

 具体的な例をあげると際限がなくなるのでやめておくが,世の中,上から下までみんな責任を回避して,だれも責任をとろうとはしない。まことにもって不思議な世の中になったものだ,と最近とみに感じている。つまり,明治以後に構築された近代のシステムや考え方が,根底から崩れてしまって,まったく通用しない時代に入ってしまった,ということだ。もっと言ってしまえば,組織そのものが上から下までもはやまともには機能していない,ということは人間も壊れてしまった,とんでもない社会になってしまったということだ。

 そのむかし,教員養成大学に勤務していたころの教え子たちの会に招かれて,たのしいひとときを過ごした。そんな話のなかのヒトコマを紹介しておこう。こんなことが教育の世界でまかりとおっているのか,と開いた口が塞がらない。

 今回,集まった卒業生たちはみんな現職の小中学校の教員で,40代半ばの中堅の教員ばかり。そのかれらが教員免許の更新をするために(この制度そのものが奇怪しいのだが,ここでは割愛),夏季講習が行われている真っ最中だ,という。なかには,もうすぐ管理職というところまできている優秀な教員もいる。たとえば,授業研究の講師として,教育委員会から依頼されて教育委員会が主催する特別講習会に招かれている人もいる。それも,もう,ずいぶん前から引っ張りだこのようにして,教育現場の先生たちを相手に,何回もの指導を積み重ねている,という。

 こういう先生は,特例として,教員免許の更新のための講習会を受ける必要はない人として,特別に免除されている,という。だから,事前に,あなたは免除される対象のひとりだと教育委員会から言われていたとのこと。しかし,その年がきて蓋を開けてみたら,教員免許更新の講習会を受講するように,という通知がきたという。驚いて,教育委員会に問い合わせてみたら,事務の間違いでそうなってしまった,いまから取り消すわけにはいかないので,このまま講習を受けてほしい,と言われたという。

 ほんとうなら,それは奇怪しい,と言って抗議すべきところです,とご本人。しかし,これまでの教育委員会との関係やこれからのことを考えると,まあ,おとなしく講習を受けて済ませておく方が無難だと判断した,という。講習料も安くはない。でも,それでも泣き寝入りしておいた方が面倒がなくていい,と。

 こんな事案(このことば,大嫌いだが)は,よくよく聞いてみると,学校の教員会議でもよくあることだという。波風を立てるよりは,おとなしくしていた方が楽なのだという。つまり,多少のことは「泣き寝入り」。これが慢性化している,という。つまり,教員たちは身をけずってまでも保身に走る。その結果は,臭いものには蓋。みんな貝のように黙ってしまって,なにもなかったことにしてしまう。最近の教育現場の不祥事は,こんなところが大問題なのだ,と現場の教員たちは充分にわかっている。にもかかわらず,現状でばどうにもならない,ともいう。

これは,なにも教育界だけの話ではない。企業にいたっては,もっともっと秘守義務が徹底していると聞く。学会・学界でも同じ。官僚の世界はもっと徹底しているという。報道も同じ。もう,日常生活の隅から隅まで,保身のための責任回避体制は徹底していると言っていいだろう。いつも言うように,原子力ムラの住民はみんなそのための仲良しクラブを形成している。既得権益を守るためには保身の手立てを先手,先手と打ってくる。

 と,そんなことを考えていたら,今日の午後,親しくしている友人から珍しく電話が入ってきた。なにごとかとおもって聞いてみると,つぎのような事態が起きているのだが,どうにも腹が収まらないので,お前の意見が聞きたいという。

 かれの住んでいる大型マンションの理事会があって(毎月1回),マンションの敷地内にある児童公園の鉄棒(低鉄棒)を撤去することに決まった,と。その理由が,すでに30年を経過しているので,危険だから事故が起きる前に撤去することになった,と。かれは,元体操競技の選手だった人だから,散歩の途中で懸垂したり,腹筋運動をやったり,前まわりをしたり・・・と楽しんでいたが,とてもがっしりできていて,どこも悪くない。だから,撤去する必要はない,と主張したとのこと。しかし,管理防災センター(マンションが委託している管理会社)の職員が,同じようなマンションで鉄棒による事故があって裁判闘争になっているから,早めに手を打った方が無難だ,と主張。しかし,その事故が,鉄棒の老朽化が原因の事故なのか,それとも子どものミスによる事故なのかを友人が質問をしたが,その内容まではわからない,という。ただ,遊具のメーカーが「30年を経過した遊具はいつ,なにが起きても不思議ではないので,新しくした方がいい」と言っている,とのこと。そこで,かれは,今日,ここで是非を決めないで,来月までにそれぞれ理事が確認をしてみて,もう一度,議論してから決めたらどうか,と提案したが,それも無視され,結局,多数決で撤去が決まってしまったという。

 わたしは,この話を聞いて唖然としてしまった。ただ,遊具のメーカーの話を鵜呑みにして(それも具体的な事故の内容をきちんと確認もしないで),管理防災センターの職員の一存で,鉄棒に「老朽化・危険」と張り紙をしてしまった,という。それだったら,もう引き返すわけにはいかないから,撤去しましょう,という人が多数だったという。でも,かなり多くの人が残すことに賛成してくれた,ともいう。

 ことの根源には,面倒なことは避けたい,裁判沙汰になりそうな根は早めに摘んでおく,大人の都合が最優先,子どもたちの安全のために・・・という安易なポピュリズムに絡め捕られていくいまの世相をそのまま写し出している,とおもう。なぜ,もっと専門家の意見を大事にしようとしないのか,しかも,なぜ,一ヶ月の猶予が待てないのか,自分の眼で,からだで,鉄棒の安全性を確認しようとしないのか(徹底した責任回避,つまり,無責任),とうとう他人事ながら腹が立ってくる。こんな安易なポピュリズムは家庭のなかにも浸透しているに違いない。

 しばらく前のコマーシャルを思い出す。子どもひとり(小学校3年生くらい)の家族会議。こんどボーテスがでたら,父:車を買いたい,母:ハワイへ旅行,をそれぞれ提案。はい,多数決,で子どもは母親を支持して,それで決定。周囲の人たちはこのコマーシャルをみて笑っていたが,わたしは,なぜか,笑えなかった。冗談じゃない,必死になってはたらいている人間の意見をもっと尊重しろよ,と。このころから,父親軽視の風潮が強くなり,家庭崩壊へ,そして,いまや,そのなれのはて。

 日本の社会の根源が崩壊しつつある,と「3・11」以後,ますます憂鬱になっている。管理組合の財産の一部である児童公園の鉄棒を,理事がみんなで(あるいは有志で)確認をして,その上で決定するという手続すら否定する,かれのマンションの住民の意識が,日本のいまの世相をそのまま写し出しているようにおもう。世も末である。

2013年8月11日日曜日

大和一宮・大神神社のご神体・三輪山に登る。全国各地で40℃を超える猛暑日の10日。(出雲幻視考・その7.)

 前回のブログに書きましたように,8月8日から10日までの三日間,鳥見長髄彦の事跡をたどるフィールド・ワークに行ってきました。その最後のプログラムであった三輪山山頂の磐座を確認する登山の報告から,このブログを再開したいとおもいます。

 大和平野の東南端に位置する三輪山はむかしの修行僧が被った編笠を伏せた形の,どっしりとした落ち着いた山です。この三輪山をご神体とする大神(おおみわ)神社には,立派な拝殿がありますので,ここが祭神(オオモノヌシ)を祀る社殿だと勘違いする人が多いのですが,じつはそうではありません。いわゆる社殿を建ててご神体を祀る,わたしたちになじみの神社信仰が成立する以前の,自然存在である磐座そのものに神を感じ取り,磐座そのものに祈りをささげる,古い信仰形態が大神神社のはじまりですので,ご神体は三輪山の頂上にある磐座です。

 言ってしまえば,大和朝廷が成立するはるか以前から,この土地に住む人びとの信仰のシンボルが三輪山であり,その遥拝所が大神神社だった,という次第です。もっと厳密に言ってしまえば,大神神社も,祭神をオオモノヌシ(大物主)と定めて,拝殿を建てたときから,はじまります。それ以前は,三輪山そのものに向かって祈りをささげていたはずです。それは,どこからでも,三輪山の方向に向かって祈りをささげればそれでよかったはずです。その信仰形態のもっとも原初のものは,おそらくは三輪山の山頂にあるひとかたまりの磐座の前にぬかづき,祈りをささげたものだ,とわたしは考えています。

 ですから,今回の三輪山登山は,磐座信仰の原初の形態を,現代に生きるわたしのからだをとおして体験してみようというこころみでした。

 8月10日(土)午前11時,登山開始。登山口からつづら折れになった急坂がつづきます。三輪山は遠くから眺めると滑らかな曲線を描く,やさしい雰囲気の山ですが,山に入って歩きはじめてみますと急坂つづきの,なかなか厳しい山道ばかりです。いわゆる尾根筋をたどるようにして登山道はつけられていますが,その尾根がいくつもの尾根にこまかく枝分かれしていて,それぞれの沢は足元から一気に谷底に崩れ落ちていくような,きわめて急峻そのものの沢筋です。おそらく,この沢に登山道をつけることはほとんど不可能と思われるほどの急峻さです。

 ですから,尾根筋の登山道も,杭と丸太を多用して,一歩ずつ階段を登るようにステップが規制されています。そこから数歩横に入れば,そこはもう急峻な沢筋で谷底に一直線です。ですから,わたしたちはいやでも指定された登山道とそのステップを刻むしかありません。逆に言えば,この階段を登るからこそ,いわゆる素人の人(いわゆる一般の観光客)でも三輪山登山は可能となります。もし,この参道が整備されていなかったら,相当の登山の経験のある,つまり,登山技術をもった人でなければ登れない,そういう険しい山だということです。

 ですから,むかしの信仰登山の時代には,参道がこんなに丁寧に整備されてはいなかったはずですので,そうとうに修練をつんだ行者か,あるいは,ベテランの先達に導かれる信仰集団でなければ,この三輪山の山頂の磐座を眼前にして祈ることはできなかっただろうとおもいます。その点,いまの参道はみごとな整備のされ方をしていて,感動すら覚えました。が,多少とも登山に通暁している者からすれば,これほどまでに人工の手を加えないで,できるだけ自然の地形を残しておいて,一人ひとりが歩を運ぶ道筋を選びながら山を登る楽しみをのこしておいてほしい,とこれはないものねだりです。ごくごく歩行が難しくなるところだけに,救いの手をさしのべる,その程度でもいいのではないか,と考えたりしました。

 しかし,いまでは,500円の入山料をとって,営業しているわけですので,だれでも容易に,安全に登下山できるようにする必要があるのでしょう。(富士山の入山料のことが,ちらりと脳裏をかすめていきました)。

 磐座については,写真撮影禁止になっていますので,残念ながらその姿はわたしの脳裏に残っているだけです。登山の途中でいろいろ気づいたことですが,磐座には辺津磐座,中津磐座,奥津磐座というように三種類の磐座があるということです。大神神社から登山口のある狭井(さい)神社の参道あたりにある磐座は辺津(へっつ)磐座と呼ばれているようです。そして,三輪山の中腹あたりにかたまってみえている磐座を中津磐座と呼び,山頂の磐座を奥津磐座と,それぞれの案内板をみると書いてありました。

 これらの磐座をみるかぎりでは,この三輪山につづく尾根のさきにある巻向山の周辺にみられる磐座の方がはるかに迫力があって,仰ぎみる人を圧倒する力をもっています。三輪山山頂から健脚なら30分も歩けば,その地に立つことができます。しかし,三輪山の奥津磐座の,その奥へ進む山道には縄が掛けてあって侵入禁止となっていました。

 これは,まったくのわたしの推測にすぎませんが,古代の磐座信仰の古い形態は,三輪山から入山して,辺津,中津,奥津の磐座を拝み,そして,さらにダンノダイラ周辺にある巨大な磐座を順番に拝し,最後に驚くべき迫力をもった超巨大な磐座を仰ぎみながら,特別の祭祀を行っていたのではないか,それも何泊も野宿をしながら謳い・踊りをささげていたのではなかったか,と。しかも,そこから最短距離のふもとの集落が「出雲」です。ここに住む人たちにとってはダンノダイラは特別の聖地だと聞いています。そして,いまでも特別の祭祀を行っているとも聞いています。ちなみに,この集落には「十二柱神社」が祀られています。

 三輪山の磐座信仰は,どうやら,とてつもなく奥の深いものだったのでは・・・・とわたしは「幻視」しています。この仮説は,蛇,竜神,水の信仰とも深く結びついていて,わたしの「幻視」はますます楽しさがいや増すばかり,という次第です。

2013年8月7日水曜日

鳥見長髄彦(とみのながすねひこ)の事跡を尋ねる旅へ。まずは菅原天満宮から。(出雲幻視考・その6.)

 毎年8月には,奈良教育大学時代の教え子が集まる会があり,それを楽しみにいそいそとでかけることにしています。1月の山焼きの日と8月の年2回は,奈良に帰る約束になっています。これまでも,かなりまじめに出席させてもらっています。

 ことしは8月9日の夕刻に集まるということですので,一日前の8日に出発して,三日間,奈良の古代史にまつわるフィールド・ワークをしてこようと考えています。数日前から,そのための下調べにとりかかっていますが,なかなかはかどりません。今日になって,ようやく,初日のプランのイメージができあがってきました。

 幸いなことにわたしが頼りにしている奈良在住のT君が車を出して案内してくれることになっていますので,少しばかり欲張ってみようかという次第です。

 まずは,西大寺駅を振り出しにして,すぐ近くにある菅原天満宮から。断るまでもなく,ここは菅原道真生誕の地。代々,優れた学者を輩出した菅家の拠点となったところです。このあたり一帯は,そのむかし菅原・伏見という地名で呼ばれていたところで,いまも菅原町,伏見町という地名が残っています。この菅原・伏見の土地は,そのむかし垂仁天皇に仕えた野見宿禰が拝領した土地です。そして,この土地に移り住むことになった野見一族はこの機会をとらえて,野見姓を捨てて,菅原姓を名乗ることになります。その末裔に菅原道真が登場するという次第です。

 この菅原・伏見のなだらかな丘陵地帯に垂仁天皇の立派な前方後円墳があるのも故なしとしないとわたしは考えています。奈良の西大寺から南に下って,唐招提寺や薬師寺のある少し手前の右手にあって,電車からも眺めることができます。野見宿禰一族がこの墳墓を守ったことは間違いないでしょう。そして,いまさら断るまでもなく,野見宿禰は「出雲の人」です。すなわち,オオクニヌシの「国譲り」のあと,出雲族としては最初に歴史上に名を残した人が野見宿禰というわけです。

 しかし,この野見宿禰の出自については,なんの記録も残っていません。とつぜん,当麻蹴速との決闘の相手として垂仁天皇によっ召し出されるだけで,それ以前のことはなにもわかりません。それ以後も,学者となった菅原一族のことは比較的よく知られていますが,土師氏として,あるいは,奴婢として,あるいはまた,無名の人非人や河童として,全国に散っていった野見宿禰一族の末裔のことは,ほとんどなにもわかっていません。

 このことと,もうひとつの疑問である長髄彦(ながすねひこ)の子孫が,神武天皇との戦いのあと,どのような命運をたどったのか,こちらも記録がなにもありません。が,相当に大きな勢力であったことはたしかです。おそらくは,その子孫は大和朝廷の眼を逃れて,これまた全国に散っていったことは容易に推測することができます。

 この長髄彦の拠点であったところが,菅原・伏見の西側の丘陵地帯でした。地理的にいえば,富雄川に沿って大和から難波に抜けるためのむかしの幹線道路である磐船街道がとおっています。そして,この幹線道路の要所を押さえていた豪族が長髄彦だと考えられています。その痕跡を残すかのようにこの長髄彦にゆかりのある神社が,この磐船街道沿いに三つ残っています。この地域一帯は鳥見(とみ,あるいは,とりみ),登美,冨,富雄,と呼ばれていました。いまでも,これらの文字を用いた地名が残っていて,町名や字や学校名としてたくさん用いられています。ですから,長髄彦はトミノナガスネヒコと呼ばれていて,表記する文字も文献によってさまざまです。

 すでに述べたように,この長髄彦にまつわる重要な神社が,この磐船街道(つまり,富雄川沿い)に三カ所あります。それぞれ上鳥見,中鳥見,下鳥見と呼ばれ,そこには,それぞれ伊〇諾(いざなぎ)神社,添御県坐(そうのみあがたいます)神社,登弥(とみ)神社があります(この「登弥」の表記は初見です)。この富雄川を遡っていった最上流に,磐船神社があります。ここがニギハヤヒノミコトの祀られている神社です。しかも,このニギハヤヒノミコトが,長髄彦が仕えた天神(天下った神)であり,神武天皇といっときは対峙しますが,のちに国を譲り渡してしまいます。「国譲り神話」の実態は,どうやらこのあたりの話がもとになっているのではないか,とわたしは勝手に推測しています。

 となりますと,長髄彦とはいかなる人物であったのか。そして,この子孫はどうなったのか。なぜなら,ニギハヤヒノミコトの子孫は,海部氏となり,物部氏となり,という具合にその名を残すことになります。が,長髄彦の系譜は,なにも語られなくなってしまいます。やはり,神武天皇に最後まで抵抗したことが,のちの子孫のあり方に大きく影響したのでしょうか。

 最近になって,われわれはこの長髄彦の子孫だという話を祖父から聞いた,という人に出会いました。やはり,秘伝として言い伝えられているようで,滅多なことでは口外できないことだ,とも聞いています。しかも,この話をしてくれた人は,わたしの生い立ちとも無関係ではありません。となりますと,この長髄彦の存在が,急に身近な存在に思えてきて,ますます興味が湧いてくるという次第です。しかも,この問題は,大和朝廷が成立するときの,きわめて重要な,根幹にかかわる問題を内包しています。言ってしまえば,歴史のひかりとかげの問題です。

 ここでは,充分に議論を展開することはできませんでしたが,このニギハヤヒノミコトも長髄彦も,じつは出雲族と深い関係がある,あるいは,同族である,という説を立てている人がいます。詳しくは,村井康彦著『出雲と大和』(岩波新書)をご覧ください。ことしの3月に刊行された名著だとわたしはおもっています。

 まずは,この本を片手にもって,8日からのフィールド・ワークを楽しんできたいとおもっています。
もちろん,ここに書けなかったところにも足を運ぶ予定です。また,なにか新しい収穫がありましたら,このブログで報告をしたいとおもいます。

 というところで,今日はここまで。



2013年8月6日火曜日

「ホーイ,コウゲツへ行ってくるでのん」。小学校4年生の夏休みの仕事=寺の境内の掃除と川遊び。

 久し振りの夏の日差しを浴びたら,古いからだの記憶が蘇ってきて,一気に,子どものころの夏休みをリアルに思い出してしまいました。からだに刻まれた記憶というものは,いつまでも古びることなく鮮明に思い出すものです。

 門前の小僧であったわたしは,夏休みに入ると午前中は寺の境内の大掃除。お墓の草取りから本堂の縁の下の掃除,周囲を囲んでいる生け垣の刈り込み(細葉垣根)や仏具磨き(真鍮でできた仏具を年に一回,磨き砂でごしごしこすってピカピカにします),本堂の畳を干して叩く,畳の下の新聞紙の取り替え,障子の張り替え(古くなった紙をはがして,洗って,乾かして,新しい紙を張る),便所の掃除,などやることはいっぱいありました。家族全員が総出で頑張ってもなかなかはかどりません。が,とにかく午前中の涼しいうちに,これらの仕事をこなし,お盆の法事(盂蘭盆会・うらぼんえ)までにきれいにしなければなりません。

 午後は本堂で昼寝。これがとても涼しくて気持ちがいい。食後にはみんな横になって休みます。ちょっとうとうととしたころに,友達が呼びにきます。あらかじめ用意してあったフンドシ(六尺褌)をもって,そうっと本堂の外にでてから,両親に向かって「ホーイ,コウゲツへ行ってくるでのん」と声をかけて,いそいそと川遊びにでかけます。これが小学校4年生の夏休みの愉悦のときでした。なぜなら,小学校3年生までは泳げなかったので,必ず,だれか大人か,上級生の信頼の篤い人と一緒でなくては許されませんでした。が,小学生3年生の夏休みの終わりころには,完全に泳ぎを会得したことが認められ,自分たちだけで川遊びにでかけることが解禁されたというわけです。

 わたしが育った豊橋市大村町は,豊川(とよがわ)という水量の豊富な川が,ほぼ半円を描くように蛇行して取り囲んでいました。川遊びの場所はどこでもよかったのですが,大きな砂浜(三角州)のあるところが人気で,ほぼ二カ所に限定されていました。ひとつは渡船場(橋がないので船で向こう岸に渡るための渡船が,いまもあるそうです)。ここは人が大勢きていてにぎやかなところでした。親子づれが多かった。もうひとつの場所が「コウゲツ」。ここは子どもたちだけの秘密の遊び場。各学年ごとに集団をつくって遊んでいました。が,上級生は,それとなく下級生の遊びを監視していました。そして,危ない遊びをはじめると,かならずやってきてきびしく叱られました。やっていいこととやってはいけないことの区別を,かなりきびしく教え込まれました。中学生になると,もはや,川遊びにこなくなります。したがって,6年生が見張り番の役割をしていました。こうして,順番に,川遊びのルールやマナーを伝承していたようにおもいます。

 川遊びでの最高の栄誉は,大きな石を抱えて,一息で川底を歩いて向こう岸にたどりつく技量でした。そのつぎが泳力。川の真中あたりの急流を上流に向かって泳ぎつづけること。流されないで,最後まで残ったものが勝ち。つぎが,急流を横切って,まっすぐに対岸にたどりつくこと(途中で流されて斜めに対岸につくと笑われる)。つかれると,冷やしておいたスイカを割って食べます。それぞれ順番に自分の家の畑からスイカをとってきて石で囲った水に冷やしておきます。そのあとは,砂浜で甲羅干し。このときに,ジリジリと太陽に焼かれる快感をからだで覚えます。そうして,黒くするのも栄誉のうちです。ですから,夏休みには2回から3回は,全身の皮膚が焼けて剥けてしまいます。夏休み明けにはみんな真っ黒な顔で学校にやってきました。ここでも一番黒いのが栄誉。2回剥けたあとの3回目の皮膚は黒光りしていました。それはそれはみごとなものでした。自分より黒いのがいるとくやしくて仕方がなっかたことを思い出します。

 さて,川遊びをした場所の名前の「コウゲツ」は漢字で書くと「向月」だということを,じつは,このブログを書いている途中で調べて初めて知りました。グーグルの地図はまことに便利で,いつも新しい発見の連続です。なぜ,こんな名前がついているのか,これも不思議。それよりも驚いたのは,わたしたちが子どものころに遊んだ砂浜(三角州)が見当たりません。航空写真をどんどん拡大していくと,痩せ細った砂浜がほんの少しだけもうしわけ程度にしかありません。しかも,大きく蛇行していたはずの川がほとんど直線に近くなっています。水の流れが変わってしまい,砂浜も流されてしまったのかもしれません。それは,もう一つの渡船場も同じでした。あるいは,建築ラッシュの時代に砂はせっせと運ばれてしまったのかもしれません。

 しかも,集落の様子も大きく様変わりしています。わたしの子どものころには人の住むところではなかった低地に,いまは家がいっぱい建っています。豊川放水路ができてから,たぶん,この地域の名物であった「大水」もでなくなったのでしょう。でも,上流で大雨でも降って,堤防が決壊したら,間違いなく水没してしまうところです。むかしのことを知らない人たちは,なんの恐怖も覚えないのでしょう。しかし,自然災害は忘れたころにやってきます。何百年に一回といわれる大地震と同じで,いつかはかならず大雨が降ります。そのときにはどうなることか,とわたしは心配です。

 豊川はむかしから暴れ川として知られています。川の流れも,何回も変化した,と古い記録をみると書いてあります。いまの川の流れも,あるところで鋭角に曲がっています。これはどうみても不自然です。ある,なんらかの特別の意図があって,川の流れを人工の手を加えて変えたのではないか,とおもわれます。こんど,いつか,その場に立って,この眼で確かめてみたいとおもうほどです。そのことと,後世になって松原用水を引く大事業と,大村町に鎮座するハ所神社(この名前からして不思議)の由来は関係しているようです。

 このところ,なにかと子ども時代のことを思い出すと同時に,わたしの育った大村町とはいったいどういう歴史を刻んだ集落だったのだろうか,と考えることが多くなってきました。ものの見方,考え方も大きく変化していることに気づきます。これもまた不思議な体験ではありますが・・・。でも,とても面白いので飽きることはありません。その意味でも,グーグルの地図検索は,老後の道楽にはもってこいのツールだと,いささかあきれ果てながらも,楽しんでいます。

 この「コウゲツ」という地名にも,なにか大きな謎が隠されているのかもしれません。そのとなりには眼鏡とか褌とか,わけのわからない地名が並んでいます。しかも,これらはすべて河川敷(これがとてつもなく広い)で,ここにはいまも家は建っていません。首吊りの名所だった深い森もあります。かつて,その森のなかに入っていくには勇気が必要でした。生まれて初めて首吊り現場に立ったときには,血が逆流しました。小学校5年生のときでした。

 またまた,とんでもない記憶が蘇ってきます。際限がありません。今日のところはここまで。

2013年8月5日月曜日

紺碧の空,ヒロシマ,ナガサキ,玉音放送。そして「後近代」,「破局」,「スポートロジイ」。

 昨日(4日)まで連日靄がかかった(山ことばで言えば「ガスっている」)ような,いつ,雨が降り出しても不思議ではない,それでいてときおり日が射したりして,湿度の高い蒸し暑い日がつづいていました。が,今日(5日)は午後から青空がひろがり,いまは紺碧そのものの空がひろがっています。真夏の強い日差しがもどってきました。外を歩くと皮膚に針がささるような感覚があり,チクチクと痛みを感じます。しかし,わたしにとってはある種の快感とともに,こどものころの記憶がよみがえってきます。

 なにより強烈な記憶は玉音放送。これまでにも何回も書いたネタですが,1945年8月15日正午にラジオの前に正座して聞かされました。ちょうど,母の実家(寺)に疎開していたときでした。いとこたちも全員集められて,ラジオを囲みました。大人たちは涙を流していました。もちろん,なんのことかわかりません。小学校2年生。あとで,聞いたら,「戦争が終わった。もう,カンポウシャゲキもカンサイキもビー29も飛んではこなくなる」とのこと。嬉しかった。ただ,ひたすら嬉しかった。というか,恐怖感から解き放たれた,そういう安心感が強かった。その日が,今日と同じ紺碧の空でした。チク,チクと針が刺さるような快感。

 以後,8月15日といえば,わたしの頭のなかにはいつも「紺碧の空」がひろがっています。その連想からでしょうか,ヒロシマ,ナガサキの日もまた,わたしの頭のなかは「紺碧の空」です。もちろん,ヒロシマ,ナガサキのことは,小学校2年生のわたしには理解不能でした。ただ,大きな爆弾が落ちたそうだ,わけのわからない新型爆弾だとか,という程度の認識しかありませんでした。

 それが原子爆弾という恐ろしい爆弾であった,ということを自分で調べて知るのは中学1年生。1950年,朝鮮戦争勃発を知らせる『中学生新聞』の記事が廊下の掲示板に貼りだされたとき,恐怖に駆られて図書館に走りました。戦争が日本にまでひろがって,また,原子爆弾が落ちるようなことがあったらどうしようと考えたからです。当時の百科事典に書かれていた原子爆弾関係の項目を探し出して,全部読みました。以後,朝鮮戦争の記事をみつけると,ドキドキしながら新聞を読むようになりました。

 ですから,ヒロシマ,ナガサキは,その後もいろいろの本をとおして啓発されることになりました。そして,とうとう,これが人類史上に刻印されるべき大事件であった,とからだの中心で納得するようになりました。それとともに,初めて「後近代」ということばがわたしの頭に浮かんできました。つまり,ヒロシマ,ナガサキに「近代」論理の破綻をみてとったのでした。つまり,人類が所有してはならない「核」を手にしてしまったかぎり,もはや,自由競争はありえない,と。

 ということは,自由競争が美化され,優勝劣敗主義が称賛されてきた近代競技スポーツもまた同罪ではないか,と。だとすれば,近代競技スポーツを無条件に礼賛し,無邪気にその発展史を語るそれまでの「スポーツ史研究」は,いったいなんだったのかと考えるに至りました。ここから,わたしのスポーツ史研究の第一歩がはじまりしまた。その後,いろいろと試行錯誤を繰り返しながら,最近の「スポートロジイ」の提唱までは一直線です。

 そして,とうとう「iPS細胞」です。わたしの頭では,「核」と同じで,人類が所有してはならない,自然界の秩序を乱す背神行為(背信行為ではない)にもひとしい「大事件」だと認識しています。未来のアスリートたちの姿がどんなものか,透けてみえてきます。人類はとうとう「破局」への道をまっしぐら,というシナリオがまたひとつ増えてしまいました。

 こうなってきますと,やはり,ジャン=ピエール・デュピュイのいう「破局」について,真っ正面から向き合って考えていかなくてはなりません。『ツナミの形而上学』『経済の未来』など,熟読玩味しなければならないテクストが山ほどあります。それらと向き合いながら,今日も「スポーツ批評」のことを考え,これからのスポーツ史研究,スポーツ文化論の展開の仕方を考えてしまいます。

 わたしにとっては,ヒロシマ,ナガサキがすべてのはじまりでした。ここが,わたしにとっての「批評性」の<始原>でした。ですから,原発再稼働に向う政府自民党の政治は,まさに狂気そのものとしか考えられません。こんなことをする政府自民党に,原爆慰霊祭で献花をする資格はありません。これこそ「背信行為」です。そして,いまごろになって,とってつけたように「原爆症を認めます」という安倍発言の,そらぞらしさ。「沖縄のみなさんに思いを寄せて・・・」と発言する裏でオスプレイをどんどん沖縄に送り込む,この詭弁・虚言をこれ以上許してはなりません。こんなことは狂人のやることです。まともな小市民には理解不能です。

 しかし,この詭弁・虚言に乗せられてしまうわたしたちもまた悪いのですが・・・。でも,最近になって,ちょっと待て,このまま自民党に政権をゆだねておいてはまずい,それに代わるべき政党の出現を心待ちにしている人が80%を越えていると聞き,そこにわずかな救いを見出すしかないか,とほのかな期待を寄せています。

 外は紺碧の空。美しい空。焼きつくような暑さ。わたしの机上の温度計は32℃。わたしのからだは火照り,背中を汗が運動会。そのせいか,頭も熱くなってしまいました。やはり,ヒロシマ,ナガサキを考えるにふさわしい「紺碧の空」。核廃絶に向けて。そして脱原発にむけて。さらには「iPS細胞の凍結」に向けて。8月5日(月)午後4時30分,記す。

オスプレイの搬入に猛抗議するウチナンチュ。「もう,いっそのことアメリカの属州になった方がましだ」と。

 米軍普天間飛行場(宜野湾市)へののオスプレイ配備がなしくずし的にどんどん増えていく。アメリカは日本政府に事前に相談することもなく,ましてや沖縄の住民の意志を確認することもなく,まったく「無断」のまま,オスプレイ搬入の事実だけがつぎつぎに構築されていく。そこにあるのは,アメリカの一方的通達のみ。まさに,アメリカのやりたい放題だ。それに対してなにもできない日本政府とはいったいなんなのか。

 まずは,「日米地位協定」なるものの存在を,わたしたちはもっともっと糾弾していかなくてはならないのだ。日本は国家としての主権をどこかに置き忘れてきている(1951年締結のサンフランシスコ講和条約以後)。そして,そのまま長期にわたって放置してきた自民党政府の責任には蓋をしたまま・・・・,しかも,いま,また,アメリカにすり寄ろうとしている。自発的隷従。

 ウチナンチュがいくらオスプレイ反対を唱え,からだを張った抗議行動をくり返しても,事態は少しも改善されないままだ。「こんなことなら,いっそのこと,沖縄だけでいい,アメリカの属州にしてほしい。そうすれば,オスプレイを配置することはできないはず・・・・」と沖縄の友人からメールがとどいています。もはや日本政府は当てにしないで,みずからの生きのびる道を模索するしかない,という意志表示であり,その後をいきる覚悟です。そして,最近になって,こういう考え方をするウチナンチュは増えつづけている,ともいいます。この事実は軽んじるわけにはいけません。

 まったく,そのとおりだとわたしもおもっています。オスプレイは,あまりに危険なので(アメリカで墜落事故が多発),アメリカ本土での飛行訓練はできなくなってしまったために,それを沖縄に配備し,しかも,その飛行訓練の範囲を日本本土までふくめて自由に飛べるようにしようという次第です。それどころか,じつは,すでに,日本本土の上空を自由自在に飛び回っています。そのことに,ヤマトの人間はあまりにも鈍感にすぎる,そこが大問題です。

 このことをよく知っている沖縄の人びとは,自分たちのやり方で,猛烈な抗議行動を展開しています(『東京新聞』8月4日朝刊に写真入りで大きく報道)。しかし,本土のテレビ局はほとんど関心を示さず(意図的に無視しているとしか思えない),とってつけたような報道をほんの少しだけ流す,それでお茶をにごしています。もっと,沖縄の住民に寄り添う取材をして,問題の本質がどこにあるのかをつきつめる,そうして,本土のわたしたちも真剣に考える,そういう報道をしてほしいものです。しかし,それはNHKもやりません(あるいは,NHKだからやりません,というべきか)。他の民法には望むべくもありません。理由は,スポンサーどのが一斉に引いてしまうからです。そんなレベルで,じつは,報道というものはコントロールされているということをわたしたちはしっかりと認識しておく必要があります。

 この問題は,じつは,原発と同じで,権力支持者にとっては,都合のわるいものはすべて「蓋」をして,「弱者」に押し付けておく。そして,おいしいところだけを「強者」がいただき,都市文明の欲望を思う存分に満たすことに奔走。つまり,経済のため,金儲けのため,ただそれだけ。人間が生きる喜びがいかなるものかは度外視しています。ただ,自分たちだけの利益しか考えてはいません。。圧倒的多数の貧乏人(99%といわれている)とほんのわずかな金持ち(1%)という典型的格差社会に向かってまっしぐら。その典型的なモデルともいうべきアメリカに追随するのみ。こういう構造がいま日本の社会のすみずみにまで浸透しつつあります。

 オスプレイを無条件に沖縄へ搬入するという現実そのものが,まさに,日本という国家のありのままの姿を写し出しています。この現実をもっともっと重く受け止めていかなくてはなりません。しかし,多くのヤマトンチュはなんの自覚もないまま,ウチナンチュにオスプレイを押しつけて平然としています。自分たちにとって都合の悪いことはすべて眼を瞑って,見て見ぬふりをする,いわゆる自己中心主義がこういう形で浮き彫りになっています。

 ここに,じつは,とてつもない近代論理の矛盾が凝縮されているとわたしは考えています。この問題については,もっと根源的なところから精密に考えていかなければならないと考えています。いずれ,その問題についても考えてみたいとおもっています。

 さて,わたしが痛く反応した『東京新聞』の見出しは以下のとおりです。
 オスプレイ追加配備
 沖縄の声 政府顧みず
 県民「あきらめない」
 写真キャプション:米軍普天間飛行場の野嵩ゲート前で,飛来したオスプレイ(右上)に怒声を上げ,追加配備に反対すく市民ら

 この記事の書き出しは以下のとおり。
 「昨年十月の第一次配備に続き,米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に三日,新型輸送機MV22オスプレイ二機が到着した。この間,仲井真弘多知事や県内全市町村長が配備反対の声を上げ,多数の違反飛行を指摘したが,政府には「一顧だにされなかった」(県幹部)。「沖縄に思いを寄せる」との掛け声と裏腹な政府の冷淡さに,沖縄では「これ以上何ができるのか」と無力感が漂う。」

 ヤマトンチュのひとりとして重く受け止め,自分のできる範囲で,とにかく行動に移していかなくてはならない,と痛切に考えてしまいます。オスプレイをウチナンチュに押しつけたままでそれでいいとはだれもおもってはいないとおもいます。しかし,実際に行動を起こす人はごくわずかな人でしかありません。にもかかわらず,そういう人をひとりでも多くすること,わたしたちの希望はそれしかありません。

 この問題については,また,機会をみつけて書いてみたいとおもいます。今日のところはここまで。

2013年8月4日日曜日

『談』編集長の佐藤真さんがBlogで『スポートロジイ』第2号をとりあげてくださいました。ぜひ,ご覧ください。

 現代の最先端のテクノサイエンスとアートと思想・哲学がクロスする領域を切り開く若手研究者の発掘・紹介に主眼をおいた季刊誌『談』編集長の佐藤真さんが,『スポートロジイ』第2号を,ご自分のブログで紹介してくださいました。かなり好意的に気合を入れて書いてくださっていますので,ぜひ,ご覧ください。

 雑誌『談』編集長のブログ,で検索すればみつかるとおもいます。なお,佐藤真で検索すると同姓同名の人が複数で登場しますので,混乱する可能性があります。ですので,『談』編集長というのが間違いないとおもいます。

 雑誌『談』は,公益財団法人たばこ総合研究センター〔TASC〕が発行している季刊誌です。制作はアルシーヴ社で,佐藤真さんはここの専務取締役社長です。いくつもの雑誌の編集に従事しておられ,そのうちのひとつである雑誌『談』の編集長でもあるというわけです。毎回,雑誌の巻頭を飾る「editor’s note 」が抜群です。つまり,佐藤真さんの執筆になるものです。

  この雑誌は,かつての「たばこ専売公社」のイメージとはまったく関係なく,まことにおおらかに時代と人間に向き合い,いま旬の研究者に時代の最先端の話題を自由奔放に議論してもらう場として,ひそかに注目されている雑誌です。

 全国の指定書店にしか置いてないので,あまり広く知られているわけではありませんが,それぞれの分野の時代のパイオニア的な仕事をしている人びとには以前から注目されており,必携の雑誌だとおもいます。毎回,きわめて刺激的なテーマを立てて,魅力的な論考が掲載されています。ぜひ,バックナンパーもふくめて,一度,ご検討されることをお薦めします。www.dan21.com で内容を確認してみてください。

 わたしも,もうずいぶん前になりますが,佐藤さんにお世話になりました。そして,『談』には二度ほど取り上げていただきました。いま,ふたたびスポーツが大きな話題になってきていますので,そろそろ出番がきてもいいのかな,とひそかに期待しているところです。とりわけ,3・11以後のスポーツ情況はいちじるしく変化してきており,それ以前のスポーツ界独特の,保守的なロジックが通用しなくなり,まったく新たなロジックが求められるようになってきています。

 ついでに宣伝をしておけば,そういう近代スポーツ競技の世界に偏りすぎた,閉塞的なロジックを超克するための,つまり新しい時代を切り開くための,まったく新しいロジックを見出すための基礎的な作業として『スポートロジイ』が存在する,と位置づけています。その意味では,雑誌『談』からかなりの影響を受けながら,『スポートロジイ』の編集のコンセプトが考えられているといっても過言ではありません。

 当然のことながら,『スポートロジイ』第3号の特集のコンセプトをどのように設定するか,すでにいくつもの候補が立っています。それに向けて「ISC・21」の月例研究会も積み上げられていくことになります。すでに,そのスタートを切っているといっても過言ではありません。
 
 いずれにしても,まずは,雑誌『談』編集長のブログをご確認ください。
 取り急ぎ,お知らせまで。

グーグルの地図の功罪やいかに。この「空恐ろしき」仕掛けに絶句。

 もうすでに多くの人たちがご承知の話なのだろうとおもいますが,わたしにとっては初めての体験でしたので,はたしてこんなことがあっていいのだろうか,といささか身動きができないほど驚いています。いったい,世の中はこれからどうなっていくのだろうか,と空恐ろしい思いをすると同時に,茫然自失してしまい,自分の生き方をどうすればいいのか,ということを真剣に考えさせられてしまうほどの驚きです。

 じつは,この間から,わたしが少年時代の重要な時間を過ごした故郷が,大雨が降ると大水がでて学校がお休みになるという不思議なところだった,ということが気になりはじめ,いったいあの地域はどういう集落だったのかと考えはじめていました(その一部は,このブログでも書きました)。そうして,なぜ,あの地域は大雨が降ると大水がでるのか,地図であの地域のロケーションがどのようになっているのか,その謎解きをして確かめるという方法でした。そこで,まずは,いま,評判のグーグルの地図をインターネットで開いてみました。その結果,驚くべき発見がつぎからつぎへとあって,なるほど,そういうことであったのか,と納得することばかりでした。

 結論から言ってしまえば,大水が出るということは,もともと,人の住める場所ではなかった,ということです。にもかかわらず,そういう地域に,なぜ,人は住みつかなくてはならなかったのか,ということです。そこには,こんにちのわたしたちからは想像もできない,さまざまな理由があったに違いありません。つまり,日の当たる場所には住めなかったということ,では,その理由とはなにか,というところに分け入っていくしかありません。

 わたしの親しい友人のひとりに,河童を研究している人がいます。この人とはもうずいぶん長い間,河童とはいかなる存在だったのか,という議論を積み重ねてきています。ですから,この人の書く論文には大きな影響を受けています。そのこととの関連でいえば,わたしが少年時代を過ごした集落は,河童と呼ばれても仕方のない人たちがいっぱい住んでいた,ということになります。はたして,そうだったのか。

 誤解を防ぐ意味でお断りをしておきますが,この河童にも等しいとおもわれる人びとのなかから,じつは,とてつもなく立派な人物が,つぎからつぎへと輩出しているとうい事実です。詳しいことについては,いつか,機会をみつけて書いてみたいとおもいますが,今回は割愛。ただし,あの菅原道真もまた河童族の出身だ,ということだけはここに書いておきたいとおもいます。もうひとことだけ。大和朝廷の意に沿わなかった人びとの多くが河童に仕立て上げられていった節がある,ということです。中上健次の小説ではおなじみのように,いわゆる被差別部落である路地に住む「おリュウのおばあ」が語るように,「世が世ならば天皇家ともあろう者が・・・」というセリフが,ここでも彷彿とさせられます。

 たとえば,わたしの小学校時代の同級生(男女合わせてたった48人)のほとんどは河童族です。その出自があまりに複雑怪奇なために,ほんとどの人がその事実を自覚していません。しかし,いま,会って話をしてみると,みんなそれぞれに立派な生き方をしていて驚きます。最近は,つとめて同級会に出席するようにしていますが,ああ,こういう人たちだったのか,といつも会うたびに感動ばかりしています。ついでに言っておけば,あの菅江真澄(本名・白井秀雄)もこの集落の出身ではなかったかという説があります。わたしは半分以上,信じています。この集落のなかには白井姓は多く,しかも,優秀な人がいまも輩出しています。ですから,その白井姓のどこかが菅江真澄の実家であったとしてもなんの不思議もない,と。

 勘のいい人なら,すでにお気づきでしょうが,菅原と菅江は,「菅」という漢字と音で共通しています。どこかでつながっている,とわたしは考えています。この菅原姓の出どころは,奈良県の菅原地区です。垂仁天皇を祀った前方後円墳のある地域が,菅原地区です。あの菅原寺のあるところ一帯をいいます。そこが,垂仁天皇に取り立てられた野見宿禰の第二の本拠地であったことも銘記すべきでしょう。そして,菅原道真は,この野見宿禰の子孫であり,この地で生まれ成長しました。

 本名白井秀雄がわざわざ菅江真澄を名乗ったというところに,わたしは深い意味があると考えています。菅江真澄は,なぜか,西に向かわずに東北から北海道に向かって歩を進めました。これもまた,謎多き行動ではあるのですが,むしろ,そこにこそ菅江真澄の本領があったのではないか,とわたしは考えています。そして,もっと,驚くべきことは,菅江真澄はみずからの出自について死ぬまでひとことも語らなかったという点です。わたしは,ここに菅江真澄の謎のすべてが秘められていると考えています。

 さてはて,地図の話にもどしましょう。このわたしの少年時代を過ごした重要な地域を,グーグルの地図でたどってみましたら,腰を抜かすほど驚きました。まさに,浦島太郎のような,どう説明したらいいのかわからないような,摩訶不思議な体験をしてしまいました。こんなことがあって,はたしていいのだろうか,と。

 わたしは若いころ山歩きをしていましたので,いわゆる5万分の1の地図(国土地理院発行)をいつも携帯して,磁石とにらめっこをしながら,現在地を確認し,向かうべき方向をさぐるということに,ある程度慣れています。つまり,地図をみることに慣れています。そのわたしがインターネット上に流れているグーグルの地図を開いて,これはなにごとかと驚いてしまいました。ほんとうに,現代という時代はいったいどうなっているのか,と。

 その第一は,5万分の1の地図には書いてないことがいっぱい書いてあるということです。たとえば,飲み屋さんや食べ物屋さん,コンビニから田舎の小さな有限会社の名前まで書き込んであります。しかも,むかしは大水がでる低地に,いまでは,家がいっぱい建っているという事実です。ということは,豊川放水路が作られてからは,大水はでなくなった,ということなのでしょう。その変貌ぶりに呆気にとられてしまいました。

 それだけではありません。平面図をクリックすると,航空写真で撮影した映像で,その集落のすみずみまで写し出してくれます。ズームアップすれば,一軒一軒の家の屋根の瓦まで,そして,庭に停車してある自家用車まで,まるみえです。さらに,驚くべきことに,ストリート・ヴューをクリックすると,人の歩く視線からの映像が自由自在に写し出されてきます。場合によっては洗濯物まで映っています。これには,もはや,言うべきことばもありません。

 たとえば,わたしが少年時代を過ごした寺が,いま,どのような状態になっているのかは,ここ川崎市に居ながらにして一目瞭然となります。それも,俯瞰写真,横からの映像,寺の周囲を一回りしてみるとどうなるか,というところまでパソコンのディスプレイに写し出されてきます。これは,実際に,そこを尋ねるよりも詳しい情報が,パソコンをとおして入手することができる,ということです。こんなことがあってもいいのだろうか,とわたしはじっと腕を組んで考えてしまいます。

 便利であることはいうまでもありません。しかし,この便利さが,なにか人間が生きていく上でとてつもなく重要なものを,どこかに置き忘れてきてはいないだろうか,と。この空恐ろしき機械仕掛けに支配されている人間とはいったいなになのか,と。

 つとにバタイユが危惧したように,人間はみずからの動物性からどんどん逸脱してしまい,いつのまにやら「事物」(ショーズ)と化し,ついには,みずからが生み出した機械によって制御されてしまうという,まったく違う意味での,新しいタイプの「事物」になりはててしまっている,という次第です。この現実と向き合うことになって,わたしはなすすべを失っています。と,同時に,ひょっとしたら,ここを突き抜けていくことによって,避けがたい破局のさきの展望がえられるのかもしれない,とも考えています。

 個人情報がこんなにとりざたされている一方で,住所さえわかれば,その家屋敷の実像がリアルにディスプレイの上で再現できてしまうという現実があります。だからこそ,住所を伏せておかなくてはならないという事態も必然なのかもしれません。わたしは,自分の住所を書き込んで検索してみて,建物はおろか,窓やヴェランダの状態まで写し出されてくる事実を前にして,絶句しています。いったい,世の中,どうなっていくのでしょうか。

 この問題,また,いつか,取り上げて考えてみたいとおもっています。で,今日のところはこのあたりで。

2013年8月3日土曜日

8割以上の国民が自民党に対抗できる勢力を待ち望んでいる,という。わたしもそのひとり。

 こんどの選挙結果を受けて多くの報道は自民党圧勝と報じた。たしかに,獲得した議席の数の上ではそうなった。しかし,得票率は有権者の4分の1にも満たなかった。つまり,4分の3はアンチ自民党だったのだ。この数字は,なによりも支持したい政党がどこにもなかったという人が圧倒的多数を占めていた,という事実を示している。

 しかし,圧倒的多数の議席を確保して,ねじれ国会を解消した自民党は,もはやなんでもやろうと思えばできる,そういう政党となった。しかし,国民のホンネはそうではない,ということを自民党はしっかりと認識しておくべきだ。だが,どうやらそうではなさそうだ。ここにきて,自民党の奢りともいうべき言動が一気に吹き出している。これから3年間,よほどのことがないかぎり,選挙による禊ぎはない,と踏んだのだろうか。それを見越したかのように自民党はやりたい放題ではないか,という印象がここにきてとくに強くなっている。

 その第一は,原発の再稼働だ。わたしの好きな『東京新聞』の報道によれば,原子力規制委員会に対しても事務局長を呼びつけて圧力をかけつづけているという。そして,なしくずし的に原発再稼働に向けてまっしぐら。なにがなんでも再稼働という姿勢を露骨にしている。しかし,参院選の間,首相は原発再稼働についてはほとんど口を閉ざしていた。これを言うと選挙に不利だと計算したからだ。終ってみたら圧勝だった。ならばもういい。それいけ,とばかりに動きはじめた。なんともいやらしい,姑息なやり方か。

 そして,とうとう,そのホンネの表出ともいうべき言動が麻生太郎だ。これはどう考えてみても失言ではない。ナチス・ヒトラーのように,選挙で多数を占めてしまえば,あとはやりたい放題。原発再稼働も憲法改定もTPPも,なんでもできる。議会を制してしまえば,ナチスと同じようにやればいい。民主主義の手続を踏んでいる。なにが悪いのか,と麻生太郎は本気で考えているに違いない。そのホンネが,まことに彼らしくちらりと露呈してしまっただけの話。

 しかし,それは大きな間違いだ。
 ダイヤモンドオンラインの2013年8月1日(木)配信の情報によれば,以下のとおり。
 朝日新聞の調査によれば,こんどの参院選で,自民党に票を投じた人のうち,自民党が評価されたと思っている人は,たったの27%とのこと。同じく自民党に投票した人のうち,野党に失望したという人が57%だったという。つまり,自民党が強い支持を受けたというよりも,野党があまりに弱すぎたために票が流れただけのことだ,というのだ。

 そして,驚くべきことに,自民党に票を投じた人のうち,8割以上が対抗勢力の台頭を待ち望んでいるという。この調査結果はほかの報道機関の調査結果とほとんど同じだという。しかも,この前の衆院選のときの調査結果と変わってはいないという。ということは,国民の8割以上の人が,わたしと同じ考えでいるということ。にもかかわらず,議席数は自民党の圧勝(このことばは使いたくない)という結果。選挙による数字のマジックとしか言いようがない。でも,現実の政治はこれで動いていく。だれ憚ることなく。

 ということは,わたしたちはこんごの政治に対する監視の手をゆるめてはならないということだ。これまで以上にきびしくチェックしながら,みずからの声を挙げていかなくてはならない。まずは,原発の再稼働に対しては断固,反対の意志表明をしていかなくてはならない。これは待ったなしだ。金曜日の首相官邸前の集会には,可能なかぎり通うことが不可欠。なんとしても原発の再稼働だけはストップさせないことには,日本の未来はない,とわたしは考えている。

 フクシマの汚染水をみろ。このまま海洋汚染が広がっていけば,海が駄目になる。海が駄目になってしまったら,日本の漁業も海水浴も駄目になる。海水浴は川で代替するとしても,少なくとも,太平洋側の魚は食べられなくなってしまう。これはこれまでの世界史にも類をみない一大事だ。しかも,この汚染水は世界中を駆け回ることになる。その責任をだれが,どのようにしてとるのか。もはや,倫理的な責任どころの問題ではなくなってしまう。いつ,どこから,賠償請求がきてもなんの不思議もない。その責務はわたしたち全員が負わなくてはならない。

 活断層がいたるところ縦横に走っている日本列島に原発を設置すること自体が間違っていたのだ。しかも,世界に名だたる地震国である。いつ,大きな地震がやってきても不思議ではない。むかしから繰り返してきたことだ。富士山もいつ爆発しても奇怪しくないという。そういう統計的なデータもはっきりしているのに,政府自民党は再稼働ありきで動きはじめている。

 それも,きわめて陰湿な方法で。どうせやるなら,国会決議でもして,正々堂々と再稼働に踏み切るべし。それができないのなら,国民の声に素直に耳を傾けるべし。すなわち,8割の国民は自民党に代わる対抗勢力の台頭を待ち望んでいる,というこの声に。

 自分にとって都合のいい声はよく聞こえるが,不都合な声はほとんど聞こえない。これは,わたしたちとて同じだ。しかし,政治家はそうであってはならない。声なき声まで聞き取って,それを政治に反映させること,それが政治家の仕事だ。が,その当たり前のことができなくなってしまった。そういう政治家をわたしたちは選んでしまったのだから。

 あまり言いたくはないが,やはり,自民党に一票を投じた人たちは責任をもっていただきたい。我が意に沿わないことを自民党がやりはじめたら,ただちに「反対」を表明してほしい。それも大きな声で。そんなつもりで一票を投じたのではない,と。そうして,少なくとも,つぎの選挙までには,自信をもって反原発でものごとを考えることができるように,いまから備えていただきたい。でないと,ほんとうの「破局」がきてしまう。

 先見性のある思想家・哲学者たちは,すでに,その「破局」のさきを見届けようとしている。そういう本も,ここにきてたくさん出版されている。このブログでも,これから可能なかぎり取り上げていきたいとおもっている。

 それにしても,自民党に対抗できる勢力を一刻もはやく台頭させないことには,もはや打つ手はなにもないのが現状だ。情けないことに・・・・。いまや,無党派層を結集する絶好のチャンスだとおもうのだが・・・・。ごくふつうの良識をもつ人で充分だ。経済よりも命だ,と覚悟を決めていうだけでいい。その声をあげる人がでてきてほしい。あとは,優秀なブレインを集めればいい。

 8割の日本人の声が政治に反映しないで,死んでいる。こんなオカシナことがあっていいのだろうか。本気で考えなくてはならない喫緊の課題である。山本太郎君のような,真っ正直な人の登場を待ち望む。円形脱毛症になることも覚悟して。

2013年8月2日金曜日

「スポーツ批評」ノート・その6.シモーヌ・ヴェイユの『根をもつということ』の示唆するもの。

 フランス革命によってフランス人は「根こぎ」にされてしまった,とシモーヌ・ヴェイユは嘆いています。「根こぎ」にされてしまったとは,つまり,大地に根をはった生き方ができなくなってしまった,ということを意味します。つまり,根なし草になってしまったということです。ですから,強い風が吹けば,なんの抵抗をすることもなく,ただ流されていくだけの生き方しかできなくなってしまった,というわけです。

 フランス革命によって誕生した近代国民国家を生きる「根なし草」となりはててしまった国民は,外敵に対して国を守る気概もなくなってしまった,とヴェイユは嘆きます。その結果,フランス国民はナチス・ドイツに徹底抗戦する力もなく,いとも簡単に国を明け渡してしまった,と。だから,なんの大義名分もないまま,土足で乗り込んできたナチス・ドイツに,フランス人としての意地をみせることもなく,なすすべもなく支配されてしまった,と。

 彼女自身は,1936年に勃発したスペイン内乱のおりには,人民戦線政府を支持して率先して国際義勇軍の一兵士として参加しています。しかし,痩せぎすの弱々しいインテリ女性は,戦争の前線に立たせてもらうことができず,大いに悔しがります。そして,戦線の裏方として,彼女なりの全力で奉仕します。そして,わが身を犠牲にしてでも戦うことが,いま困っているスペイン人民を救うためのわたしの「義務」だと主張しています。

 そして,驚くべきことに,彼女は『根をもつこと』という著作の冒頭に「義務は権利に先立つ」と書いています。一瞬,わたしはわが眼を疑いました。なんということを・・・・,と。しかも,彼女は,権利は,義務をはたした人間に与えられるものであり,義務をはたした人間が,その恩恵を受けた側から承認されることによって,はじめて発生し,成立するものだ,と主張しています。

 しかも,この義務は「魂の欲求」に支えられているものであり,そのためにはみずからを「犠牲」にすることも辞さない,といいます。「魂の欲求」とは,たとえば,目の前に食べるものがなくて飢えて困っている人がいたら,自分のもっている食べものを無条件に差し出すことだ,といいます。この「魂の欲求」にしたがうことが,人間が生きていく上で,ほかのなによりも優先されねばならない「義務」だ,と彼女は主張します。そして,彼女自身は,みずからの信ずる道を最優先させて,まっすぐに歩みます。

 しかし,いろいろの事情で,アメリカを経由してイギリスに亡命したわが身の振り方をひどく悔やみ,フランスに残って抵抗運動をつづけている同志の苦労をこころから慮り,食を絶つようにして文筆活動に精力をそそぎ,ついには餓死してしまいます。その遺書ともいうべき著書が『根をもつこと』という次第です。

 わたし自身はシモーヌ・ヴェイユの全著作を丹念に読み込んだわけではありませんが,それでも彼女の生き方,そして,残された著作に大きな影響を受けずにはいられません。なぜなら,彼女の生き方そのものが,「犠牲」そのものであり,ことばの正しい意味での「供犠」であり,それはまさにマルセル・モースがいうところの「贈与」そのものではないか,とストレートに感じてしまうからです。ですから,シモーヌ・ヴェイユの思想の根底にはキリスト教的な「犠牲」の精神が色濃くやどっていますが,それでもなお,わたしのような仏教徒にも強烈に訴えかけるものがあります。

 それはいったいなんなのだろうか,とわたしは深く考えてしまいます。そうして,朧げながら浮かび上がってくるものは,人間として生きる上での,もっとも根源的な「生の源泉」に触れるものをシモーヌ・ヴェイユの生き方や著作をとおして感じ取ることができるからではないか,とわたしは考えています。つまり,それがヴェイユのいうところの「魂の欲求」ということなのでしょう。

 ここまでくれば,あとは「スポーツ批評」との接点を見いだすのみです。スポーツは,はたしてシモーヌ・ヴェイユのいう「魂の欲求」と,真っ正面から向き合っているでしょうか。あるいは,「魂の欲求」という「根」をしっかりと保持しているでしょうか。スポーツもまた,シモーヌ・ヴェイユ風に言ってしまえば,前近代のスポーツ文化から近代競技スポーツに移行する段階で,もののみごとに「根こぎ」されてしまった,ということになります。別の言い方をすれば,根なし草になってしまったものだけが近代競技スポーツとして世界に普及していくことになります。

 わたしたちが,いま,現前しているスポーツ文化は「根こぎ」にされ,「根なし」にされてしまったものばかりです。では,この「根こぎ」にされ,「根なし」にされてしまったスポーツ文化を,もう一度「根づけ」するにはどうすればいいのか,というのがわたしたちのこれからの課題になってきます。すなわち,「魂の欲求」に根づくスポーツ文化はいかにあるべきなのか,と。このことをシモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』はわたしたちに教えてくれます。

 いささか飛躍しますが,あらゆるものが経済原則に支配され,つまり,市場原理にさらされ,金融化されていく現代の進みゆきのなかで,わたしたちは身もこころも,あるがままの「魂の欲求」にゆだねていくための生き方の方途を見いださなくてはなりません。21世紀のスポーツ文化もまた,ここに「根づけ」しなくてはなりません。

 こんなことを,シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』は,わたしに強く訴えかけてきます。そして,それに素直に応答したいという「欲求」が,素直にわたしのなかにも芽生えてきます。このことを,わたしとしては大事にしていきたいと考えています。わたしの「スポーツ批評」の「根」のひとつは,間違いなくここにあるといっていいでしょう。

 と,まずは,ここまで。

2013年8月1日木曜日

8月1日(木),『東京新聞』朝刊の見出しを拾ってみると・・・・。世も末か。破局への道をまっしぐら。

 しばらく前から街ゆく子どもたちの姿が目立つようになり,「あっ,夏休みか」と気づく。教育現場からはなれて6年目に入ると,もう,夏休みも忘れてしまっている。そして,75歳をすぎたいまも,以前にも増して本を読んだり,原稿を書いたりする日々に追われている。もう,そろそろ「幕引き」をしなくては・・・と考えながらも,面白いことはやめられない。

 しかし,世の中(日本も世界も)をみるかぎり夢も希望もない時代にまっしぐら。いやはや,暗い話ばかり。わたしの周囲には,全柔連はいったいなにをやってんだ,スポーツ界全体がどうかなってしまったのではないか,ときびしく批判する人が多い。しかし,わたしもくやしいので言い返す。全柔連だけじゃないだろう。世の中全体が狂ってしまったんだよ。人間の思考回路の肝腎な部分が壊れてしまったことに,多くの人が気づいていないんだよ,と言い返す。

 8月1日(木),わたしの愛読している『東京新聞』朝刊の見出しをひろってみるだけで,どれほど世の中が狂ってしまったかは,よくわかる。一面から順に,わたしの眼についた「できごと」を拾ってみると以下のとおり。

〇虚偽捜査報告 田代元検事再び不起訴 最高検 嫌疑不十分で終結
 ※これでは小沢一郎も黙ってはいないだろう。国民も黙ってはいまい。これでは東京地検特捜部はなにをやっても不起訴になる。その判例となってしまうのだから。

〇もんじゅ 規定違反新たに65点 「検査済み」点検時期超過
〇冷却水喪失 「燃料問題なし」 敦賀2号機,原電
〇「土の壁」越え汚染水流出 福島第一

〇復興庁,3.4兆円使い残し 事業精査し概算要求

〇東電,原発頼み変わらず 「大幅コスト削減は困難」 あくまで再稼働強調
 ※コストのことしか考えていない東電。税金から莫大な助成金をもらっておいて,なお,再稼働しか考えていない。東電に勤務しているまじめな人びとが哀れにみえてくる。肩身の狭い思いをしているのか,退社する人があとを絶たず。引き止めのために,特別手当てを支給している,としばらく前の新聞にあった。そうして,電気代値上げ。全部,国民にツケをまわす。まずは,会社として自立できていないということを,どう考えているのか,そのことを知りたい。

〇8月値上げ 夏休み直撃 円安,原価高騰 それに猛暑 8月以降に値上げされる主な品目(電気,ガス,冷凍食品,牛乳,自転車,魔法瓶・水筒,調理器具,ファイル,玩具,格安航空運賃,海外旅行)

〇ネット飛び交う震災デマ 拡散ツイッターで瞬時 反論伝えるシステムを

〇論文データ操作 学術研究への裏切りだ(社説)・・・・医療品研究などの論文にデータ操作や捏造の不正が相次ぎ発覚した。公的研究費の架空請求事件で,東大教授も逮捕された。科学者の不祥事は社会の信頼を揺るがす。
〇全柔連改革 未来が問われている(社説)・・・・国の介入に追い詰められて会長らの退陣前倒しとなった全日本柔道連盟(全柔連)。最後まで自浄能力さえ示せなかったその姿は,競技団体に見られがちな根深い問題体質を象徴している。

〔こちら特捜部(『東京新聞』の話題のページ)から〕
〇失業率3.9%に改善というが・・・・ ●「非正規」が増加 ●低賃金化も進行 ●就職断念含めず 労働組合「雇用の質は劣化」
〇捏造,改ざん 相次ぐ科学者の不正 研究費には業績 競争モーレツ 成果主義でプレッシャー
〇「結果」出したい構造,閉鎖的な研究室 絶対的なトップ 口閉ざす若手 「悪質なら追放」意識を まず倫理,監視機関必要

〇虚偽報告書元検事再び不起訴 結論ありき 疑念 最高検「身内」捜査甘く OB指摘 第三者関与必要だった
〇令状なしで車にGPS付け尾行 兵庫県警

〇ブラック企業から救え 弁護団が支援へ
〇カネボウ被害 対応の遅れ批判 消費者庁 症状申し出8631人に
〇投資詐欺被害31億円に 新たに4容疑者逮捕 30人を再逮捕

 とまあ,こんな具合である。途中で書いていていやになる。なぜなら,いっぱいあるぞと思ってはいたが,じつはこんなに多いとは思わなかったからである。これを書き写しながら,情けなくなってしまった。しかし,これらが少なくとも8月1日の『東京新聞』朝刊が伝える,困ったできごとのニュースの実態なのである。

 こんなところでいい訳はしたくないが,全柔連のできごとなど「小さい,小さい」。柔道問題は,いざとなったら,公益法人の認可を国が取り消せばいいのだ。そして,むかしのように0(ゼロ)からやり直せはいいのだ。それが一番の薬。ここで助けてしまうと,ますます甘くなる。

 それに引き換え,原発の事故処理の不手際や,もんじゅの点検のずさんさ,これらは人間の命にかかわることだ。また,東京地検特捜部の虚偽調査報告書の作成が不起訴になるということは,裁判制度の根幹にかかわる重大事だ。検察の提出する取り調べ書そのものを疑ってかからなくてはならなくなる。ボイスレコーダーの持ち込みが拒否される「取り調べ」の方法もまた,わたしには理解不能である。これでは,最初から「犯人はお前だ」の取り調べだ,としかいいようがない。

 それと同じことが,科学者や学者の間でも起こっている。論文の改竄,捏造,研究費の不正請求,などまことにお粗末。人間として「自立/自律」できていない。こういう人を雇った各機関の人事委員会はなにをやっていたのか,猛省とお詫びをすべし。ここもまた形骸化していることを,一部,わたしは知っている。

 人間が,根源的なところで壊れてしまっている。経済,経済で押し切った安倍政権も,やはり,根源的なところで壊れてしまっている。人の命よりも経済を重視するとはどういうことなのか。経済学のはじまりは,もともと人の命を守る,つまり,人の生存を守る,すなわち,暮しを守る(家政)が起源だった,と西谷修さんから教えてもらったことがある。その経済が一人歩きをはじめ,人間の生存どころか,カネという数字が一人歩きをはじめ,とうとう,人間の身体までが「金融化」され,売買の対象にまでなってしまった。

 ジャン=ピエール・デュピュイは「わたしたちは破局を生きている」と喝破している(『ツナミの形而上学』嶋崎正樹訳,岩波書店,『経済の未来』世界をその幻惑から解くために,森元庸介訳,以文社)。西谷修は「破局は未来にあるべきはずなのに,すぐ目の前にある」と書いている。わたしたちは,いま,まさに「破局」を視野に入れてものごとを考えなくてはならない,としみじみおもう。その第一歩が「脱原発」以外のなにものでもない,とわたしは考える。そこから,すべてを出発させないことには,人類に未来はない。