2011年9月30日金曜日

『東京新聞』29日夕刊の斉藤珠美記者の記事に拍手。

朝日新聞から東京新聞に乗り換えて,ほんとうによかったと思っている。
その第一の理由は,社を挙げて「脱原発」を打ち出し,その基本方針のもとに記事の内容が一貫しているからだ。もちろん,記者以外の評論家と称する人たちの書く記事のなかには「これはどうも」と思うものも少なくない。それはそれでいい。ときには違う意見が載っていることも必要だから。あとは,読者が判断すること。

東京新聞に乗り換えてから,かれこれ3カ月が経つ。そろそろ総括の感想でも書こうかと思っているが,それはもう少しあとにする。その前に,昨日(29日)の夕刊に素晴らしい記事があったので,紹介しておく。それは,記事の内容がいいからというのではなくて,記事を書くための記者の取り組む姿勢がいい,という意味である。結果的に,その記事の内容もよくなるのだが・・・。

新聞記者が記事を書くときには,まずは取材をし,さらにその裏をとった上で,初めて作文にとりかかる,と聞いている。まあ,言うなれば,他人の言説のうち信頼できるものだけを選びだして,それでことの事実関係を明らかにする,という方法だ。それが,もっとも一般的な方法だと聞いている。なかには,ぶら下がり記事と称して,政治家の行う公式の記者会見をそのまま記事にして終わりという,まことに横着な方法もあると聞く。つまり,徹底的な取材による調査や裏をとるという方法をはぶいて,右から左へと垂れ流す方法である。場合によっては電話取材だけで済ますという手もあるそうな。

しかし,中には記者が渾身の力を振り絞って書く記事もある。
昨日(29日)の東京新聞・夕刊に「斉藤珠美」記者の書いた記事がそれである。読んでいて記者の体温が伝わってくる。現場で仕事をしている人たちの息づかいまで伝わってくる。それはそうだ,その同じ作業を記者も身を挺して一緒にやっているのだから。文化人類学でいうところの「参与観察」による記事(description=外に書く=外面にみえるところだけを書く)ではなく,記者がからだごとそのできごとの中に「参与」した上で書いた記事(inscription=内に書く=からだの内面に感じ取ったことを書く)なのだ。だから,当事者たちの痛みや辛さや,その影にある本音までもが,自分のからだをとおした体験として語られる。だから,読む者のこころの奥深くにまで入り込み,強くこころを打つ。

記事の内容は,南相馬市で住民が除染作業を本格的に開始した,その作業現場に乗り込んで,一緒に作業をして,そこで得た生の声を記事にまとめたものだ。大きな活字の見出しから順に紹介しておくと以下のとおり。
懸命除染「元の生活に」,「南相馬で住民作業が本格化」「息苦しい防護服,重労働」「悩みの種は汚染土の処理」「本紙記者参加」,それに写真が3枚。その写真の1枚は,屋根の除染。その様子を記事から引いておく。

「住民と同様,放射性物質の侵入を防ぐ長袖の白い防護服と,手袋,長靴,マスクを着用。高所作業車のかごに乗り,数メートルの高さから身を乗り出し,高圧洗浄機で屋根の泥を洗い飛ばすのだが,これがなかなかの重労働。」
「水の勢いで操作が安定しない上,指でレバーを引き続けなければならない。放射性物質がたまりやすい雨どいを狙うが,七,八分で両腕が悲鳴を上げ始めた。残暑もまだ厳しく,防護服の中は蒸し風呂のようで息苦しい。住民の中には作業半ばで防護服を脱ぎ,マスクも外す人もいた。」

という具合である。まさに記者のからだをとおして書かれた inscription である。あらゆる記事を全部,このようにして書けとは言わない。しかし,inscription でなくては伝えることのできない情報というものもある。とりわけ,今回のような震災からの復興に関する住民の苦労というものは,外見だけではとても伝わってはこない。やはり,同じ苦労をしてみて,そこから伝えなくてはならない大事な情報がセレクトされる,そのプロセスが必要なのだ。

以前,わたしは被災地をたずねて各地をまわったことがある(このことは,このブログでも書いたので重複をさける)。そのときに,地元新聞の『河北新報』を買って帰ってきた。そして,自宅にとどく『朝日新聞』とくらべてみて,びっくり仰天したことがある。なぜなら,『河北新報』の記事の大半は,記者が直接,現場に立ち,被災者と同じ目線から記事を書いていたからだ。ときには「涙声」になって書いている,その「熱情」までもが伝わってくる。

これを知ったのち,いわゆる「3・11」以後の新聞の縮刷版がたくさん書店に並んだので,『朝日新聞』と『読売新聞』と『河北新報』の三つを購入して,同じ日付の記事内容を読み比べてみた。それで,記事なるものの実態を知り,唖然としてしまった。その記事に寄せる記者の「体温差」に。それはもう,比べ物にならないほどの「体温差」なのである。これは,いまからでも追体験できることなので,ぜひ,書店でできる範囲でいい,験してみてほしい。

こんなこともあって,わたしは『朝日新聞』に見切りをつけて『東京新聞』に乗り換えた。結果的には大正解だった。この他にも,『東京新聞』のよさはたくさんある。それらについては,いずれまた,このブログで書いてみたいと思う。

今回は,とにかく「斉藤珠美」記者にこころからのエールを送りたくて,このブログを書いている。このような記者がひとりでも多く輩出することを期待したい。できることなら,「斉藤珠美」記者に会って,もっと詳しい話を聞いてみたい。そんな衝動にかられる。わたしの研究会に講師としてお出でいただければ,なお嬉しい。じつは,このブログがご縁になって,ご本人に伝わることを密かに期待したいところ。

叶えられればいいのだが・・・・。
そして,inscription 万歳!

2011年9月29日木曜日

中国・故宮博物館の裏の景山公園で太極拳の稽古。

9月24日(土)は,まずは天安門広場を振り出しに,故宮博物館,景山公園,天壇公園,オリンピック記念公園とまわる。てんこ盛りのプランである。しかし,いま振り返ってみると,意外にのんびりと散策してきたなぁ,という印象。そのようにRさんが気配りをしながら,うまくアレンジしてくれたのだろう。昨日の万里の長城よりもはるかに長い距離を歩いているのに,そんなに多く歩いた印象がない。みんな元気そのもの。

この日,尋ねたところはどこを取り上げてみても,みんな書きたいことだらけ。それらをうんと禁欲して,景山公園で太極拳の稽古をしたことを書くことにしよう。

中国にくる前にみんなで稽古をしたのは14日(水)だから,もう10日間も太極拳から遠ざかっている。出発前には,中国の人たちが毎朝集まって思いおもいのことを楽しんでいるという公園にでかけて,そこに紛れ込むようにして太極拳の稽古をやろう,とNさんもわたしも張り切っていた。しかし,旅の途中にそんな余裕もあらばこそ,毎晩のように夜更かしをしているので,朝食の時間に間に合わせるのが精一杯。だから,この間,一度もまともな稽古はできなかった。

たった一回だけ,麗江のホテルで少しばかり早めに起きることができたので,部屋からでてみると,ホテルの中庭で李老師が一人で柔軟体操をしているではないか。勇んでそこに入れてもらって,わたしも参加。24式の稽古を二人だけではじめる。ちょうどそのころ,Nさんが現れ,Kさんが現れ,結局,みんなで24式の稽古をした。なんとも気持のいいものである。しかし,ここではひととおり軽く流して終わり。すぐに朝食に向う。

景山公園での太極拳は,さきにも書いたように,天安門広場から歩きはじめて故宮博物館を通り抜け(ものすごい人込みのなか),景山公園の山の上まで登って景観を楽しんだあとの稽古となった。だから,すでに,相当に疲れているはずだ。にもかかわらず,もののはずみで稽古をすることになった。それには理由がある。

案内をしてくれているRさんが,ここは比較的静かだから太極拳をみせてくれませんか,とスペシャル・オーダー。これに応えなかったら男が廃るとばかりに,稲垣さん,やりましょう,とNさん。わたしは人前でやるのはあまり好きではない。静かだとはいえ観光地。いくらでも観光客はすぐ近くを通りすぎていく。Nさんは,Rさんの恩義に応えなくてはならない,という純な気持からすでに準備体操に入っている。わたしが躊躇していると,早くやれ,とばかりに目配せがくる。Kさんは素直に準備体操をはじめている。

いつものような念入りな体操はできなかったが,それなりに太極拳のできるからだにしたところで,気功からはじめる。やはり,昨日の万里の長城を歩き,今日も相当の距離を歩いている脚筋の疲労がずっしりと重い。でも,はじめた以上はあとには引けない。気功の稽古が終わったところで,3人,きちんと位置どりを決めて24式をはじめる。気持を太極拳に集中させるように努力しているのだが,やはり,すぐ近くを通る人たちの視線が気になる。できるだけ,見ないようにして太極拳に集中する。ふと,みやるとNさんはとても気持よさげに太極拳に没入しているではないか。ああ,この人は,すでに,こういうときからして別人だ,とわかる。わたしのような俗物とは基本が違う。Kさんはとみやると,Kさんも淡々と太極拳と向き合っている。

わたしは,あれこれ余分なことばかり考えているので,太極拳も自分の納得のいくようには進展しない。そうすると,ますます,不満が募る。ほんとうはもっと上手いのだが・・・,と。でも,それは全部,自己責任なのだが・・・・。その間,Rさんが興味深そうにじっとみている。そして,ときおり,カメラを構えてシャッターを切っている。そんなことも気になって,とうとう最後まで集中できないまま,終わってしまう。まことに不本意そのもの。

それでも,Rさんは「素晴らしい」といって褒めてくださる。しかも,「こんなにたくさんの所作があるんですね」という。もっと,簡単なものだと思っていたようだ。仕方ないので,「簡化24式」といって,これがもっとも短いものです,とわたし。そして,早速,満足にできなかったことの「いい訳」をはじめる,わたし。それをにこにこ笑いながら聞いていたNさんは「これが実力です」ときっぱり。

なるほどなぁ,と納得。どんなにいい訳をしたところで,いま,行われた表演が,ここでの「実力」。それ以上でも,それ以下でもない。でも,人間は,少しでも自分のことを高く評価してもらいたがる。そういう欲望がある。だから,すぐに,いつもはもっと上手なんだが・・・,などと余分ないい訳をする。これは悪いクセだ。そこを,すでに,通過しているNさんはやはり偉いものだと感心。

俗物のわたしは,もっともっとこういう場での稽古が必要なのだ,と逆に反省。「場数を踏む」ということばがある。やはり,いろいろの経験を積み上げながら,太極拳もほんものに近づくことができるのだろう。そういう経験もしないで上手になろうというのが間違っている。どこでも,いつでも,変わることなく淡々と太極拳ができるようにならなくてはほんものではない。

「万理一空」と琴奨菊がいうとおり。かれは,たった27歳にして,すでに,その境地なのだ。立派なものだ。お相撲さんも,サッカー(なでしこ)も,そして,Nさんが極めている学問の世界も,さらには,能面アーティストとしての道を極めているKさんも,はたまた,わたしたちを案内してくださっているRさんの道(社会人類学)も,みんな同じところをめざしているに違いない。太極拳も,その点では,すこしも違わない。

こんなことを,からだで知った,初めての経験でした。
とてもいい経験でした。これからも,もっと積極的に,チャンスがあったら,どんな「場」でも胸を借りるつもりでやるようにしよう。

そういえば,われらの李老師は,頼まれればどこでも表演を行うと言っていた。最高の稽古の「場」だから,と。よほどのことがないかぎり断ったことはない,とも。あの名人にしてそうだ。わたしのような太極拳の青二才がご託を並べるような場合ではない。よし,これからは,どこでも,そのときにしかできない大事な稽古だと思って挑戦することにしよう。

と,立派な宣言をしたものの・・・・。三日坊主にならぬよう・・・・。わがこころを戒めるのみ。戒心。これはわが亡父の僧名でもある。

北京体育大学で太極拳の授業を見学。

9月22日(木)の夜,麗江から北京に入る。23日(金)から李老師は桂林で開催される太極拳に関する大きなシンポジウムの特別講師として参加するため,われわれとは別行動。北京に入るまで,わたしたちに寄り添うようにして,気配りのきく案内をしてくださったことにこころから感謝。23日から,李老師に代わって,北京大学に勤務する旧知のRさん(そのむかし,スポーツ史学会のシンポジウムで通訳をしてくださった才媛)が,わたしたちの案内役を勤めてくれる。

23日は早朝7時に宿舎を出発して「万里の長城」に向かう。絶好の条件がととのい,比較的早い時間に北京にもどってくることができたので,Rさんの自宅近くのレストランで美味しい中華料理をご馳走になる。そのあと,約束の時間よりは少し早いが,北京体育大学に向かう。ここには,李老師と仲良しの陳建雲先生が待っていてくれる。陳先生は日本に滞在したこともある人なので,わたしとNさんとも旧知の間柄。

早速,キャンパス内を案内してもらい,いま行われている太極拳の授業をみせてもらった。わたし個人は武術専攻(つまり,太極拳専攻)の学生さんの授業を期待していたが,一般のスポーツを専攻する学生さん対象の授業であった。だから,みんな初心者ばかり。しかも,16式という,もっとも簡単な太極拳。16式というものをわたしは初めて見せてもらったが,わたしたちが稽古している24式よりもさらに三分の一ほど簡易化したもの。技の組み合わせが若干異なるだけで,動作そのものは全部わかる。

わたしたち3人は余裕で,この授業をみる。ちょっと面白いと思ったことは,24式は「右わざ」がやや多いのに対して,16式は「左わざ」が多く取り入れられている。なるほど,左右どちらの「わざ」もあってしかるべきなのだ,と気づく。ならば,24式のわざを左右全部ひっくり返して「裏わざ」にすれば,「左わざ」に比重のかかった「24式」が可能となる。これは帰国してからひとりで稽古してみようと思う。

なぜなら,しばらく前から,左脚にくらべ右脚の方がかなり強くなっていることが気がかりになっていたからだ。つまり,左右の脚の強さがインパランスになっているのだ。ということは,からだ全体にも影響があるはず。だとすれば,それをどこかで矯正する必要があろう,と考えていた。その解決法を16式の授業をみていて見出したという次第。これはわたしの中での大きな発見。

早速,案内してくれた陳先生にこのことを話す。それはとてもいい考えだ,と賛成してくれる。16式も,24式も,初心者用の基本の稽古のひな型であって,そこは単なる通過点にすぎない。それを覚えたら,自分のアイディアで,自分に合った16式なり,24式を「自選」して構成すればいい,とも。つまり,「my24式」を。さらには,その日の気分で,からだの動きたがるわざをつなぐ即興をめざせ,とも。なるほど,こういうことであったか,と納得。

7年間,終始一貫して24式を稽古してきたが,いまだに李老師からはきめ細かな注意をされつづけている。しかも,その一つひとつが納得のいくことばかり。それでいて,もうそろそろ指導してもいいですよ,と言われる。このことの意味がわからなかった。が,ここ北京体育大学の太極拳専用の体育館で授業を見学しているうちに,そして,陳先生とお話をしているうちに,そのことの意味が少しわかったように思う。つまり,いま稽古しているのは,書道でいえば「楷書」。そろそろ「草書」を試みてみたり,ときには「行書」でやってみることもあっていいのではないか,と。すなわち,その時,その場でのインプロビゼーション。

同行のNさんとKさんは,大のコーヒー好き。一コマの授業をみたら「コーヒーが飲みたい」といいはじめ,わたしひとりが大学に残る。そして,陳先生の授業がはじまる午後4時15分まで,大学付属の図書館で時間をつぶそうと思って案内してもらう。ところが,である。この図書館の中庭にカフェがあるではないか。陳先生は知らなかったという。なぜなら,図書館にはきたことがない,と。これもまたびっくりするような話。かつては,太極拳の名手として中国全国にその名をとどろかせ,その実績が買われて大学に残った,いわゆる実技の先生。その点では李老師も同じ。違うところは,日本にやってきて,博士号の学位をとろうというその志の高さと能力の高さ。そして,太極拳のかつての名手の中でただひとり「博士号」をもつ指導者となった。わたしたちの老師はそういう人だったのだ。しかも,李老師の親族はみな立派な人たちばかり。そういう環境が,いまの李老師を支えていることも,今回の旅でえた収穫のひとつ。

さて,陳先生の授業がはじまる少し前に体育館にもどる。
つぎの授業がはじまるまでの休み時間に,ひとりの若者が体育館の中央で長拳の自選難度競技の演技をはじめた。授業のはじまりを待ってざわざわとしていた学生たちが,一瞬にして静まり返ってしまった。その気迫が体育館全体を支配している。眼光鋭く,口元をきりりと引き締めて,全身が表演に集中している。みごとな演技がつづく。みんな息をのんでいる。わたしも同じ。

そこに陳先生が現れる。その演技をちらりと見やって,わたしに「この学生はこんどの世界選手権の金メダル候補の〇〇〇です」と教えてくれた。このときは,間違いなく中国名を教えてくれたように思う。しかし,顔だちが少し違う。でも,中国にはこういう顔だちをした人もいるのかも知れない,と考えながら演技に見入る。よくみると,体育館の隅で,ストップ・ウォッチとノートをもった先生(女性)がじっと見つめている。

ひととおり演技が終ると,先生がこまかな演技指導をしているのが遠くからもわかる。そして,授業がはじまると,場所をやや移動して,空いたスペースでこんどは剣をもった演技をはじめる。それを2、3回繰り返したところで,この特訓は終った。そのあと,先生があれこれ身振り手振りで演技の指導に入る。その間,その学生さんは正座して聞いている。その姿に感動。中国でも師匠の話を聞くときは「正座」するのだ,と。そして,それが終ると,わたしが坐っているベンチの方に歩いてくる。荷物がこの傍においてあるらしい。

わたしのすぐ前まできたときに,わたしと眼が合う。ニコッと笑った顔をみて,わたしは「ハッ」とする。それまで「男性」であると信じて疑わなかったこの学生さん,じつは「女性」だったのである。下半身の安定の仕方(力強さ,たくましさ)と跳躍の高さから判断して,まぎれもなく男性の演技だと思い込んでしまったのだ。しかも,中国人ではなかった。あまりの笑顔のよさに,わたしは思わず立ち上がってしまい「nice meet you !」と声をかけてしまった。彼女は,すぐに英語で応答し,「日本人の方ですか」と聞く。「そうだ」と答えると,即座に「わたしのお爺ちゃんは和歌山県出身です」という。そして「わたしはブラジル人です」とも。

そんな会話をしているところに指導していた女性の先生がやってくる。この先生(名前を忘れてしまった)は中京女子大学に一年間滞在し,太極拳を教えていたという。だから,日本語が少しできる。3人で,英語,日本語,中国語の三か国語が飛び交う不思議な会話がはじまった。お互いが譲り合いながらの会話だから,要点だけがはっきりと伝わる。

彼女の名前は,Tania Emi Sakanaka. つまり,坂中エミ・タニア。お父さんは日本語の読み書きができるが,わたしはできない,とのこと。その代わり,イギリスに留学していたので,英語が話せるという。その英語がとてもきれいで,わかりやすかったので,こちらは大いに助かる。「あなたの左脚の強さが素晴らしい」と褒めたら,ポッと頬を赤く染めて「まだまだです」という。この謙虚さに,どこか日本的なものを感じたので,「あなたのからだの中には間違いなく日本人の血が流れている」,とわたし。彼女もまた「わたしもそう思う」,とにっこり。

早速,記念撮影を済ませ,メール・アドレスを交換して,「再見」。「金メダルを期待しています」と言ったら,先生が「いつものとおりできれば金メダル」と。「I hope so」と言って,手を振って帰っていった。色は黒いが,とてもチャーミングな女性でした。いい結果が得られることを,日本人としても,期待したいと思います。

〔追記〕その後,すぐにメールの交換がはじまり,写真も送信。これから楽しい交流がつづくようです。またまた,中国に行く楽しみが増えてきました。あるいは,ブラジルにも。

2011年9月28日水曜日

電動オートバイ,電動自転車がいっぱい。中国の昆明市も北京市も。

「先生,気をつけて!」
成田─北京─昆明と飛行機を乗り継いで,昆明の街にでた瞬間に李老師がわたしの腕をつかまえる。わたしは前と左右を注意して歩道を歩いていたつもりなのに,なにごとか,と驚く。すぐうしろに電動オートバイが接近しているではないか。音もなく。

電動オートバイというよりは,電動スクーターのようにみえる。よくよくみると電動自転車もたくさん走っている。もちろん,ふつうの自転車もたくさん走っている。これらは音がしない。だから,すぐうしろに接近していても気づかない。車道を走っているときはかなりのスピードだが,人が大勢歩いている商店街ではさすがにスピードを落としている。しかし,かれらは歩く人のすきまをかいくぐるようにして,スイスイと走り抜けていく。

大通りを走る自動車も,排気ガス規制が行き届いているようで,いわゆる排気ガスの匂いはあまりしない。ほとんど気にならない。むしろ日本の道路の方が匂いが強いのではないか,と思うほどだ。李老師に聞いてみると,北京オリンピックを経験して,中国は変わったという。排気ガスを徹底的に少なくするために,自動車も改良したし,オートバイはすべて「電動」に切り替えた,という。この徹底ぶりは,さすがに中国だ。

李老師に言わせると,電動オートバイは音がしないから危ない,小さな音でいいからわかるようにした方がいい,と。そう言われればなるほど,と思う。日本の自動車も,エンジンまわりが改善されて,ほとんど音がしなくなっている。細い路地などを歩いていて,うしろから車が近づいてきても気づかないことがよくある。もっとも,わたしの耳が遠くなってきていることもあるが・・・。それにしても,近頃の自動車はとても静かに走る。その分,車内の居住性もとても快適である。

そういう話はともかくとして,中国には,大きなガソリン用のエンジンを搭載したオートバイは存在しない,この事実にわたしはまずは驚いた。日本の住宅地を悩ませる「真夜中のオートバイの爆音」(暴走族)は中国には存在しない。一般自動車道を音もなくすいすいと走り抜けていく。朝の通勤時にも,圧倒的に多い電動オートバイの大群団が音もなく,整然と一斉に駆け抜けていく。自転車ならわかる。が,明らかにオートバイなのだ。そのオートバイの大群団が音もなく通りすぎていく。この見慣れない光景に,なにか不思議な感覚に襲われる。

この大量のオートバイが,ガソリンで走っていたとしたら・・・・と想像してみるだけで,その光景がくっきりと浮かんでくる。北京の天安門前を通過する12車線を誇る大道路を,かつては自転車の大群が走っていたところに,ガソリン・エンジンを搭載したオートバイの大群が走るとしたら,それらが排出する排気ガスで,北京の街はたいへんなことになってしまうだろう。そのことを早めに予測して,電動オートバイ一本に絞り込んだという。じつに賢明な選択である。

だから,昆明の街中も,北京の街中もガソリンの匂いがほとんどしない。音も静かだ。もちろん,排気ガスも少ない。それでいて,大量の電動オートバイと自動車が走っているのだ。

一人乗りのオートバイやスクーターであれば,電動で十分に事足りるのだ。それを国家(党中央委員会)が率先して国策として取り上げ,指導していく。この行動力・実行力は羨ましいかぎりだ。もちろん,権力というものは両刃の剣であるから,使いようによってはとんでもないことになるのだが・・・。それにしても,この電動オートバイへの切り替えはみごとというほかはない。

しかも,その電気を可能なかぎりソーラーで賄おうとしている。
日本は,もっともっと智慧を絞るべきときにきている。
そう,しみじみ思った。

2011年9月27日火曜日

白鵬20回目の優勝。透けてみえてくるシナリオ。

中国に行っている間に大相撲は千秋楽を迎えていました。
そして,白鵬の20回目の優勝。まずは,おめでとう。これで,かれの念願であった大横綱への階段をひとつクリアしたことになります。モンゴル相撲の大横綱だった父親への最大のプレゼント。新聞によれば,初めて優勝パレードの車に父親を乗せたという。よほど嬉しかったのでしょう。

それと,もうひとつ,今場所の話題は琴奨菊。大関とりの場所。それも,みごとに12勝をあげて達成。そのあとを追うようにして,稀勢里も12勝をあげ,来場所の大関とりに名乗りをあげました。後半戦は大いに盛り上がっただろうなぁ,と取組み表一覧をみて,そう思いました。

ひとつだけ残念だったのは,日馬富士。前半戦,気負いすぎたのか,無駄な星をいくつも落としてしまいました。やはり,大関,横綱をねらう場所の「こころ」の置き所がいかにむつかしいか,ということがよくわかります。そこを通過してこそ,大関,横綱と呼ばれるに値するというもの。何回もの試練を一つずつクリアして,最終的に突破すればいい。日馬富士にはそれだけの素質がある。あとは「こころ」の問題を時間をかけて向かい合うこと。そこをクリアした暁には,日馬富士は白鵬にとって恐るべき脅威となろう。

一つひとつの取組みの映像をみる機会を失してしまいましたので,仕方がありません,星勘定をじっと眺めながら,もうひとつの大相撲の楽しみ方を味わってみることにしました。

ここからは,完全なるわたしの個人的なアナロジー。透視術。
対象は,白鵬の13勝2敗,琴奨菊の12勝3敗,稀勢里の12勝3敗,そして,日馬富士の星の内容。この4者の星勘定をよくよく眺めてみると,まことに面白い大相撲のもうひとつの世界が透けてみえてくるように,わたしには思えました。

まずは,白鵬の二つの黒星。いずれも,次期大関と角界が期待する琴奨菊と稀勢里の2力士に献上したものだ。わたしは思わず「白鵬は大人になったなぁ」と唸ってしまいました。そして,文字どおりの「大横綱」になった,と感心してしまいました。なぜなら,横綱はただ強ければいいということではないからです。むしろ,後輩を本場所の土俵の上で育てながら(星を譲りながら),最終的には「優勝」をわがものとすること,これこそが「大横綱」への道なのだ。

かつて,千代の富士は,貴乃花に星を譲って(まことに不思議な負け方をして),その一番を最後に引退しました。あまりにあっけない幕切れではありましたが,他方では「なるほどなぁ」と感心もしました。こんな例はほかにもあります。が,ここではこの一番だけにとどめておくことにしましょう。

そして,千秋楽の白鵬と日馬富士の一戦。この一番は,なにがなんでも日馬富士は勝ってはならない一番であるということを,日馬富士はわかっていたと思います。ですから,がっぷり右四つとなり,左からの上手投げに転がっていきました。これでいいのです。問題は,右四つの態勢で,どこまで抵抗することができたか,そこにあります。おそらく,日馬富士のことだから,このときの態勢について十分にからだに記憶を叩き込んだことでしょう。その経験が,つぎの場所に生きてきます。

もし,このとき,日馬富士が勝ってしまうと,白鵬,琴奨菊,稀勢里の3力士が12勝3敗となり,優勝決定戦へとなだれこみます。観客はそれを大いに期待しただろうと思います。が,それはまずいのです。それをやってしまうと,のちのちに,ややこしいことが起きてしまいます。なぜなら,大相撲の力士たちは,みんな「仲良し」なのです。その「和」をくずすようなことはしてはならないのです。ですから,もし,優勝決定戦になったとしても,みるべき相撲内容にはならなかったでしょう。しかも,いとも簡単に白鵬の優勝が決まってしまうはずです。このからくりを知らない観客は喜んだとしても,玄人すじは喜びはしません。

日馬富士はそこまで読み切った上で,みずからのはたすべき役割の相撲をとりました。これがわたしのアナロジー。だとすれば,来場所,来々場所の日馬富士の相撲に注目が集まります。そして,おそらく,3場所後には横綱になっているでしょう。白鵬もその後押しをするでしょう。そして,稀勢里も,来場所に12勝をあげて大関へ。

これが,わたしの考える「シナリオ」。幕内の力士であれば,このくらいのことは十分に承知していることでしょう。そうして,大相撲全体が盛り上がらないかぎり,二度と「満員御礼」の垂れ幕は下がらなくなってしまうでしょう。それは,自分たちのおまんまの食い上げになってしまうことを意味します。ですから,そのことのためには,みんなが無言で協力する。これを,間違っても「八百長」と呼んではなりません。

もし,これを「八百長」と呼ぶのであれば,政界,財界,学界,メディア界は「八百長」だらけの「ドロ沼」そのものだ,と言わなければなりません。むしろ,こちらの方がはるかに罪が深いと言わなければなりません。メディアに大相撲を断罪するエネルギーが残っているのなら,それよりさきに,フクシマ原発をめぐる責任問題を弾劾してほしい,とわたしは考えています。

さてはて,来場所がどのような展開になるのか,わたしはいまから胸がどきどきしてきます。わたしの描いたシナリオどおりに展開するのか,はたまた,それとはまったく別のシナリオが展開することになるのか,興味は尽きません。

実力と演出という,虚実皮膜の間(あわい)にこそ「真実」は宿る,といいます。大相撲の面白さは,ひとくちに言ってしまえば,まさに,ここにある,という次第です。たんなる勝ち負けだけではなく,職業として角力社会を生きるということは,ことほど左様に単純ではありません。それらのすべてを視野にいれて大相撲を堪能すること,これが日本文化としての大相撲を観照するための基本ではないか,とわたしは考えています。

来場所の大相撲は間違いなく面白くなりそうです。
注目は,日馬富士と稀勢里です。とりわけ,後半戦が楽しみです。
日本相撲協会に成り代わって,乞う! ご期待!

「たばこ文化」がいまも健在。中国・昆明。

「昆明はいいところだ」と絶賛したのは,今回の中国旅行に同行したNさん。
Nさんは,たばこ愛好家。といってもそんなにヘピーではない。しかし,「ちょっと一服」をこよなく愛する人。だから,あるとき,ふっと「たばこ」が吸いたくなる。そうなると,いてもたってもいられなくなる。が,なにかに夢中になっていると,たばこのことはすっかり忘れていられるのだから健全派だ。わたしも若いころにはたばこを吸っていたので,よくわかる。

そんなNさんが「昆明はいいところだ」を連発。
その理由は以下のとおり。

中国・雲南省の昆明市は,たばこの名産地。むかしから,男の大半はたばこを吸ってきた,という。その習慣はいまも健在。だから,町ゆく人の多くがたばこをくわえている。かつての,日本の社会と同じ風景を,いまもみることができる。だから,Nさんは,どこでもたばこが吸える。日本では肩身の狭い思いをしていたNさん。ここ,昆明市にきたら生き生きとしている。街中のあちこちにたばこの灰皿がセットしてある。Nさんは,妙な抑圧を受けることなく,のびのびとたばこを吸うことができる。じつに嬉しそうだ。

それだけではない。昆明市では,知らない人に道でなにか尋ねるときには,まず,たばこを薦める。そして,火をつけてあげる。お互いに一服したところで,これこれのことを知りたいのだが・・・・と切り出す。すると,相手はとても親切に応答してくれるという。要するに「贈与」なのだ。この「たばこ」を薦めるという「贈与」が,いまも,立派に生きている。人間関係を円滑に進めるための小道具としての役割を立派にはたしている。それが,昆明市だ。

昆明に住む男性は,金持ち・貧乏に関係なく,たばこは最高の銘柄のものと安いものの両方をポケットに忍ばせている。そして,自分で吸うたばこは安いもの(あるいは,自分の好みのたばこ)を,他人にものを尋ねるときには,最高の銘柄品を「一服いかがですか」と薦める。たばこ愛好者であれば,文句なく「ありがとう」と言って,この「贈与」を受け取る。そして,にこやかに会話がはじまる。

たばこの効用は,もともとは他人とのコミュニケーションをよくすることにある。アメリカ・インディアンの,かつての社会では,知らない人が尋ねてくると,最初に,挨拶代わりにまずはたばこを薦める。それから要件に入る。つまり,みんな友だちになるための「儀礼」の一つなのだ。しかも,きわめて重要な「おもてなし」なのだ。

昆明に到着した夜は,早速,Rさん一族が集まって,わたしたちを歓迎してくれた。すると,Rさんの義兄(姉さんの旦那さん)が,Nさんにたばこを薦める。Nさん,にっこりとそれをいただき,すぐに,自分のポケットから日本製のたばこをとりだして薦める。もちろん,相手は心得たもので,珍しい日本製のたばこをとても喜んでいる。お互いにことばを交わすことはできなくても,もう,こころを許しあう友だち同志になっている。

しばらくたって,この義兄さんがわたしにもたばこを薦めてくれる。しかし,わたしはたばこは吸いません,と断わる。ああ,そうか,と相手は残念そう。わたしも,なんだか気まずい思い。そうです。折角の「贈与」を断わったわけだから。このときばかりは「しまった!」と思う。たとえ,たばこを吸う習慣がなくても,ここは「儀礼」としても,たばこを戴くべきだった,と反省。そうすれば,同じ仲間として認知してもらえたのに・・・・。折角のチャンスを無駄にしてしまった。残念。

わたしは「呑兵衛さん」なので,居酒屋などで隣り合わせた知らない人にお酒を薦められれば喜んでいただく。その代わり,こちらからも一献,どうぞ,と薦める。こうして,飲み屋では,初対面同士でもすぐに仲良しになれる。こういうことはよくわかっているので,たばこでもまったく同じだ,ということはよくわかる。

つい,この間まで,日本でも「たばこ」を薦めあう習慣は立派に生きていた。しかし,いつの間にか「たばこ害毒論」が世の中に浸透してしまい(医学的な根拠はまったくない,という論文を書いた人がいて,それを否定する論文はいまだに書かれていない),世の中から一斉に「たばこ」が排除されてしまった。だから,たばこ愛好者は「喫煙所」なる囲い込みの中でしか吸うことができなくなってしまった。まことにみじめな姿となってしまった。

Nさん,曰く。「あんなところではたばこを吸ってもうまくもなんともない」「きれいな空気があってこそ,はじめてたばこは美味しくなる」と。だから,「喫煙所」では,できることなら吸いたくない,とも。その気持ちもよくわかる。わたしは,かつてはたばこ愛好者だった。たとえば,重い荷物を背負って,ようやく山の頂上に着いたときの「一服」の味のよさを知っている。いまでは,山の頂上でもたばこは禁止になってしまった。頂上のはずれのところに喫煙所が指定されている。そこからは,いい景色を眺めることはできない。

日本は,あるときから,人間関係よりも健康を重視する方向に舵を切った。わたしは,このことに大反対である。健康に害があるという確たる根拠もないまま,人間関係を軽視することの愚を犯すようなことは,できるだけ避けるべきだ。だから,日本の社会は,禁煙運動がはじまって以来,人間関係はますます疎遠になってしまっている。その結果,みんな,自分のこと(健康を筆頭に)しか考えなくなってしまった。いわゆる自己中心主義への引き金の一つが「たばこ排除」にある,とわたしは考えている。だから,むしろ「困ったものだ」とさえ考えている。

たばこは他者との関係性を大事にする重要なアイテムの一つなのだ。つまり,他者との開かれた関係性を前提にした立派な「文化」なのだ。

ところが,ここ中国・昆明では,どこに行っても灰皿が置いてある。みんなで会食する個室にも灰皿は置いてある。ホテルの室内も同様。そして,みんな,堂々と,たばこの交換をし,ぷかーりとたばこを吸いながら楽しげに会話をはじめる。わたしはその隣に坐っていても,とてもいい雰囲気を共有することができる。同席の女性たちも,誰一人として不愉快そうな顔をする人はいない。みんな楽しそうに,にこやかに同じ空気を吸っている。たばこの「けむり」よりも,会話重視の人間関係の楽しさを大事にしている。

どちらがより「健全な」社会であるかは,少し考えればわかることだ。
中国・昆明には,いまも,立派な「たばこ文化」が生きている。

2011年9月26日月曜日

「万里の長城」に立つ。

朝7時に宿舎を出発して,車で万里の長城を目指す。道路が渋滞する前に・・・という北京大学に勤務する友人のRさんの提案で。なにもわからないわたしたちは「おっしゃる通りに」と素直に答える。この提案が正解だったことはあとですぐにわかる。

1時間半ほどで万里の長城の登り口に到着。すでに,団体客を運んできたバスがずらりと並んでいる。みんな,われさきにと登っていく。天気は上々。風がそよそよと吹いていて,汗ばむ肌には心地よい。万里の長城の登り口に到達すると,左右二手に別れて登っていくことになる。つまり,西に向うルートと東に向うルートの二つ。なぜか,大半の人は右にルートをとる。これは右利きの人が多いことと関係しているのだろうか。もちろん,左にルートをとる人もいる。こちらの方が圧倒的に少ない。不思議な現象。

前方に延々とつながる万里の長城を登りながら,うしろを振り返ると,こちらにもまったく同じようなルートが延々と連なっている。石畳の道の途中はところどころ石段になっている。つまり,急斜面のところは石段になっている。この石畳の「石」を一つひとつよくみると,ところどころの石はすり減って,すり鉢状にへこんでいる。その数も少なくない。ずいぶんむかしから存在することがその形状からわかる。

万里の長城のパンフレットによれば,長さ約2400㎞,城壁の高さ約6~9m,道幅4.5m。春秋戦国時代に辺境を守るために築き,秦の始皇帝が大増築し,この名前をつけたという。現在の万里の長城は明代に築造。その位置は遥かに南に下がっている,という。

なるほど,と納得。北京から車で1時間半で万里の長城に到達するとは想像もしていなかったからだ。いかに,早朝に出発して渋滞に巻き込まれることなく走ったとしても,「北の辺境」に到達するには相当の時間が必要なのだろうと覚悟していた。それが,あっという間に到着してしまったので,いささか呆気にとられていた。なるほど,最初期の万里の長城と,いまの万里の長城では,その位置が違うのだ。「遥かに南に下がっている」ということは,最初期の万里の長城はもっともっと北の辺境地域に構築されていたということになる。それは,いまは,どうなっているのだろうか。

それにしても,秦の始皇帝が築いたという万里の長城は,前221年に,中国史上最初の統一国家を立ち上げたときというから,およそ,いまから2200年も前に築城がはじまったことになる。こんなむかしに「万里の長城」を構想すること自体が驚きである。

その発想を引き継いで,こんにちの「万里の長城」は,元の支配を倒した明の時代(1368~1644年)に,はるか南に下がったところにふたたび築城されたものだという。

いま,わたしたちが歩いている万里の長城は,この明の時代に構築されたものだという。だから,7世紀も前のものだ。人間が上り下りする足の力で石段の「石」がすり減ってしまっているのも,まあ,宣(むべ)なるかな,というところ。

どこまでもつづく万里の長城の前方を眺めながら,必死で登る。そして,振り返れば,これまた同じように万里の長城がうしろに連なっている。この眺望の楽しみを何回もくり返しながら,そして,写真を撮りながら,さらに,おしゃべりをしながら,延々と2400㎞もつづく万里の長城の,ほんの一端を歩く。眺望のよいところにくると,立ち止まって前後左右をくまなく眺める。「万里の長城に立つ」という実感がじわじわとからだに伝わってくる。いや,染み込んでくる。

それにしても,いったい,なんのためにこんなものを築いたのか。
それほどまでに北方から攻めてくる騎馬民族に脅威を感じていたということか。騎馬民族とはモンゴル族。つまり,モンゴル族の騎馬隊はそれほどの戦闘能力をもっていたということか。たしかに,そのモンゴル族の騎馬隊は,秦の始皇帝が築いた万里の長城をいとも簡単にを乗り越えて,中原を征服したことは歴史の語るとおりである。すなわち,元の時代のはじまり。フビライの登場。そして,秦の始皇帝が築いた万里の長城の破壊,撤去。

万里の長城が,軍事上,かなり大きな役割を果たしていたとしても,じっさいには役立たずだったことは明らかだ。だとしたら,元王朝を倒した明王朝はなんのためにこんな,とんでもないものを築造したのか。それも,秦の始皇帝が築いた万里の長城よりもはるかに堅牢な城塞の築城である。いま,こうしてその「場」に立っていても,不思議だ。

人間が背負って歩くことのできる限界の大きさに,一つひとつの石のサイズが切り揃えてある。これを一つずつ背負って,運びあげたのだ。この苦役のために,どれだけの人夫が駆り出されたことか。そのために,どれだけの人びと(家族をふくめて)が辛い思いをしたことだろうか。その集積の上に権力が成り立っている。

権力の力を,民衆のからだをとおして思い知らせるための一つの手段として,万里の長城の築城が利用されたとでもいうのだろうか。あるいは,同時に,「万里の長城」というネーミングと具体的な存在をとおして,権力のシンボルを明確に提示すること,こちらの方に大きな狙いがあったのだろうか。東西南北に広大な領地をもつ大国を統治するためには,このくらいのことをしないと権力の偉大さを周知徹底させることはできなかったということなのだろうか。などと,いろいろ考えてみる。

そんなこととはなんの縁もゆかりもない,現代の一人の日本人にすぎないわたしですら,この「万里の長城」に立つという経験が,深くふかくわたしのからだに染み込んでくる。人間が「生き延びる」ための営みのひとつが生み出す不思議な「力」の経験ではある。それほどの威力をいまもなお失ってはいない。

「人が生きる」ということは,ことほど左様に単純ではない。
「万里の長城」もまた,人間の「理性」が生み出した,一つの狂気の現出に違いない。この「狂気」は,歴史的遺物として,こんにちのわたしたちにさまざまな教訓を残しているものの,直接的な「危害」を加えるものではない。しかし,わたしたちがいま直面している「原発」という「狂気」は,半永久的に全人類に大きな影響を与えつづけることになる。

「万里の長城」に立つ。
そこでもなお,わたしの思考のなかから「原発」は消え去るどころか,またまた,別の姿・形をとって,問題を投げかけてくる。しかも,現代の最先端科学という名の恐るべき理性の「狂気」として。

「万里の長城」もまた,一つの儀礼だったとしたら,「原発」もまた現代の「儀礼」ではないか,と。ここでいう「儀礼」の意味については,また,いつか詳しく触れてみたい。

とりあえず,中国旅行の第二報まで(修正版)。

北京の街路灯にソーラー・パネル。

25日の夜,中国旅行から無事にもどりました。
大脳新皮質の皮がひんめくられるほどの大きな衝撃を受けて帰ってきました。正直に言って,参りました,というところです。そして,「中国,恐るべし」というのが,いつわらざるいま現在の印象です。
これから,一つずつ,いくつかのトピックスの中から面白そうなものを拾って,このブログでも紹介していきたいと思います。

そのうちの一つ。
北京の街路灯の頭の上に一つずつソーラー・パネルが乗っているのをみて,びっくり仰天してしまいました。もちろん,全部の街路灯についているわけではありませんが,大通りから細い路地にいたるまで,かなりのところまで,みんなソーラー・パネルがついていました。

もう一つは,道路の信号機の上にも,ソーラー・パネルが乗っていました。

また,雲南省の昆明市で宿泊したホテルの部屋は22階でしたので,昆明市の市街を一望のもとに眺めることができました。ここでも,一般家庭の屋根や,マンションの屋上や,役所・病院などの屋上には,ほとんどのところにソーラー・パネルがついていました。このときもびっくり仰天でした。

さらには,風力発電にも相当の力を入れていることも,移動中の山の中の風景を眺めていて確認することができました。たぶん,風通しのいいところを調べて,そこに集中的に風力発電の,あのプロペラが回っていました。そうなんだ,中国は風力にも力を入れているんだ,と再認識しました。

情けないことに,わたしの認識は,中国は原発依存国,という単純なものでした。そして,こんご大量の原発を建設する計画がある,というものでした。その計画に対する危惧が,日本のメディアでは大きく取り上げられていましたので,わたしはそれを丸飲みしていた,という次第です。

ところがそうではありませんでした。
それ以前にやれることはやっていたという次第です。
それも,旅をしていて眼についたからわかったというだけの話です。ひょっとしたら,地熱だとか海流だとかも利用して発電をやっているのではないか,とさえ想像してしまいました。

こういう情報を,なぜ,メディアは報道しないのでしょう。
日本のメディアが,こんな事実を知らないでいるはずはありません。もし,知らないでいるとしたら,とんでもない怠慢です。もし,知っていて報道しないとしたら・・・・これはもっと恐ろしいことです。どうも,こちらの方ではないか,というのがわたしの推測です。

このことはひとまず措くとしましょう。それよりも,北京の街路灯の一本,一本の上に一つずつソーラー・パネルが乗っているという事実を,注視すべきでしょう。そして,信号機の上にも,屋根の上にも,マンションの屋上にも,ソーラー・パネルが乗っているという事実を。

やればできることなのです。
こんな簡単なことを,日本では,なぜ,やろうとはしないのでしょうか。
原発一基を建造し,そこからでてくる使用済み燃料棒を冷やしつづける経費を,そっくりそのままソーラー・パネルの設置費用に振り向けるだけで,クリーン・エネルギーの確保に大きく貢献できるはずなのに・・・・。なぜ?

ここでは,疑問を投げかけるだけにしておきます。
こんなに単純なことを,なぜ,やろうとはしないのか,と。

中国では,やれることはやっている,その上で,原発の議論を展開している,という事実。
他方,日本では,やれることもやらないで,ただひたすら原発推進が議論されている,という事実。

なんだか,情けなくなってしまいます。
みなさんはどうお考えでしょうか。

2011年9月17日土曜日

「3・11」はスポーツを変えるか(中房敏朗)への応答

わたしが主宰しています「21世紀スポーツ文化研究所」(「ISC・21」)のホーム・ページには「掲示板」というページが用意されています。そこには,だれでも書き込みができるようになっています。そこに,わたしたちの研究者仲間のひとりである中房敏朗さんが「『3・11』はスポーツを変えるか」という小論を寄せてくれました。

中房敏朗さんは,仙台大学に勤務するスポーツ史・スポーツ文化論の研究者です。そして,この掲示板には,中房敏朗さん自身が「3・11」以後,語るべきことばを失った辛い経験について,少しずつ書いてくれるようになりました。すでに,その量も膨大なものになっています。一つひとつ応答したいという気持ちがつねにありましたが,同時に,そんなにたやすいことではないということもあって,わたし自身は,しばらく,みなさんの反応を待とうと思っていました。

わたし自身は,このブログにも書きましたが,初期のころの中房さんの呼びかけ(被災地の現場に立ってほしい)に応じて,仙台大学を訪れました。そして,二日間にわたって被災地をくまなく案内してもらいました。やはり,「現場に立つ」ということの意味の深さをからだをとおして知りました。この経験によっななにが変わったか。メディアを流れる情報の受け止め方が変わりました。そして,わたし自身のライフ・スタイルが変わりました。

結論的に言ってしまえば,「3・11」以前のライフ・スタイルに大きな誤りがあったのだ,と。そのトータルな決算報告が,今回の大震災であり,フクシマの原発事故である,と。ですから,まずは,身近なところから,気づくこと,可能なことから,一つずつ,ライフ・スタイルを変えていくことに取り組んでいます。一気になにもかもというわけにはいきません。まずは可能なところから,というわけです。

たとえば,パソコンで仕事をしているときは,部屋の灯はほとんど不要です。小出裕章さんは,もう,20年も前から,つまり,原発に異議をとなえはじめたときから,それ(節電)を実施していると知り,これならわたしもできる,と考え,実行に移しています。食べ物も余分なものを買い込まない,冷蔵庫の負担はできるだけ軽くしてやる,いまは,都会の便利なところに住んでいますので,冷蔵庫はスーバーやコンビニに頼ればいい,という具合です。

こんなことはだれにもできます。しかし,贅沢に慣らされてしまったからだは,それを拒否します。ここに大きなカベがあります。このカベをどうするか,これからみんなで考えていくしかないでしょう。そのためには,もっとも基本的な「生きる」ということ,「人間が生きる」ということはどういうことなのか,という考え方(少し,オーバーにいえば「思想・哲学」)を鍛える必要がある,とわたしは考えています。それなしには,新たなライフ・スタイルを身につけていくことはできません。

こんなことも考えた上で,昨日のブログにも「安易に『3・11』以前のライフ・スタイルにもどってはいけない」と書きました。こうして,生活のすみずみから,みずからのライフ・スタイルを点検し,評価し,改めるべきは改める,いいことはますますいいことになるようにしていく,これしかないと思っています。かつて,大学に勤務していたころに,この悪評高き「点検・評価」に出会い,「こんなことは当たり前のことではないか。おれはずっと以前からやってきたことであって,他人から指図されることではない」と反抗したことがあります。その考え方はいまでも変わってはいません。自分の生活をより充実させるにはどうしたらいいか,はマニュアルに頼るべきものではなくて,みずからの「創意工夫」によるしかありません。

いささか脱線してしまいました。
「3・11」以後のわたしたち(とくに東京周辺に住む人間たち)にとって,まず,取り組まなくてはならないことは,「3・11」以前までのライフ・スタイルの再検討です。電力は無尽蔵に提供されるもの,お金さえ払えばいくらでも使えるもの,という前提に立ち,贅沢のかぎりをつくしてきました。しかも,電力は「原発」というきわめて「安全」な装置によっていくらでも生産できる,と思い込まされてきました。これが,みごとに「創られた」物語であったことが露呈してしまいました。しかも,きわめて「危険」なものという証明書付きで。おまけに,一度,暴走をはじめたら人間の手(技術)ではコントロール不能であるということまでも。

この話をはじめてしまうと際限がなくなってしまいます。
わたしたちの至りついた結論は「脱原発」です。そのためには,まずは,一人ひとりが,できるだけ電気を消費しない生活をめざすことです。そのためのライフ・スタイルの転換が,いま,最大の課題である,とわたしは考えています。ここを改めもしないで「脱原発」はありえないでしょう。

似非インテリゲンチャたちは,自分の贅沢三昧の生活は存分に確保したいために,「経済」重視を理由に,「原発推進でもない,脱原発でもない」という不思議なスタンスをとっています。これは明らかに怠慢です。ここには「思想・哲学」のかけらもみられません。たんなる「わがまま」(my mother=わがママ)にすぎません。そんな人がメディアでは重宝されて,メディアにとってつごうのいい言論を展開させられている,つまり,ロボットです。テレビに登場した,間抜け顔の学者先生たちのことです。それに類する人たちがゴマンといます。いま,その腑分けがもののみごとに進展しています。あと,2,3年経てば,はっきり色分けがなされることでしょう。

そういう大転換期にわたしたちは,いま,立ち会っているわけです。
にもかかわらず,そういう認識の欠落した人たちが圧倒的多数を占めていますので,「この夏の電力危機」は終った,だから順次「3・11」以前の状態にもどしていく,ということが当たり前のように受け止められています。そして,ふたたび旧態依然たるライフ・スタイルにもどりつつあります。ここが大問題である,というわけです。

その意味では「スポーツ」はその最先端を走っているかのように,わたしには写ります。しかし,よくよくみると,プロ・スポーツを中心とした近代スポーツ競技だけが復活していて,順次,そのつぎのランクに降りて行っているようです。そこにはなんの反省もありません。その一方で,被災地(とくにフクシマ周辺)では,まるで取り残されたかのように,スポーツの「ス」の字すら考えることはできない現状があります。このことは,中房さんの論考から,よく伝わってきます。そして,スポーツなるものの無力さも。

そのとおりだとわたしも思います。「3・11」以前までのスポーツの考え方を,そのまま被災地に持ち込むことはもはや不可能です。もちろん,一部では被災の程度によっては,可能なところもあるでしょう。しかし,そのベクトルは,ふたたび「原発推進」への道であることを,わたしたちは忘れてはなりません。そして,そのロジックをわかりやすく提示すること,これがわたしたちの喫緊の課題です。その上で,「脱原発」に向かう新たな「スポーツ文化」を提示していくことだ,とわたしは考えています。つまり,それこそが「21世紀スポーツ文化研究所」の仕事である,と。

わたしたちのライフ・スタイルが変われば,「スポーツ」は変わる。「3・11」は,明らかに現代文明社会の「分水嶺」であった,とわたしは認識しています。ですから,もはや「3・11」以前にはもどれない。もどれたとしても,それは仮の姿でしかない。徐々に,諸矛盾がふたたび露呈してきて,瓦解をはじめることでしょう。多くの人たちがそのことに気づいたとき,一気に,流れが変わるでしょう。そのとき,はじめて「スポーツ」は変わるんだ,と認識されることでしょう。

そのための「道しるべ」をつけること,それがわたしたちの仕事です。そのためにこそ「いま」という時代を生きているのだ,とわたしは考えています。

以上が,とりあえずの,中房さんへの応答です。
なぜなら,まだまだ,書き残していることがらが,あまりにも多すぎるからです。
これまでにも,かなりのところまでは書いてきているつもりです。が,これからはもっと具体的に,あるいは,意識的に「3・11」以後のスポーツ文化のイメージについて記述してみたいと思っています。できれば,コメントを入れていただけると幸いです。











2011年9月16日金曜日

滑り込みセーフ。無事にパスポートを受けとることができました。

今朝は早起きをして,横浜・関内のパスポート・センターに一直線。引換証をもらっているのだから大丈夫と自分に言い聞かせながらも,どこかで手違いがあったら・・・などと心配がさきだつ。手にとるまではやはり不安。

朝一番(午前9時)に行ったので,第一番に受けとることができました。わたしがあまりに嬉しそうな顔をしたので,窓口のお姉さん(精確にはおばさん)が不思議そうな顔をしていました。

こころもからだも足も軽くなって,ついつい,目の前にある山下公園を散歩してしまいました。大桟橋を湾の向こうに眺めながら,このあたりに「メリケン波止場」があって,大きな船が何艘も係留されていた,もう50年も前の学生時代のことを思い出したり・・・・。ちょっぴりロマンチックな気分にひたりました。さあ,いよいよ中国に向けて18日には出発です。

あまりの嬉しさに,李老師に電話を入れて,昼に逢いましょうと約束。いつもの鷺沼駅(金曜日は鷺沼のスポーツ・クラブで李老師は太極拳の指導)で待ち合わせて,昼食をともにする。そこで,最終的な打ち合わせ。まだ,中国国内移動用の飛行機のチケットが手元にないが,それは北京の空港で受けとれるのですか,とわたし。すると,中国国内は予約してある航空会社の窓口でパスポートをみせれば,そのまま手続きができます,と李老師。そこで,ハッと重大なことに気づく。飛行機のチケット手配をしたときのパスポートは「期限切れ」のもの。つまり,そのパスポートの番号で予約をしている。「アッ!」と突然,わたしが大きな声を発したので李老師がびっくり。どうしたのか?と。その事情を話したら,「そうです!そうです!」と李老師も大きな声になる。「両方持ってきてください。そうすれば大丈夫です」と安堵の胸をなでおろす。気づいてよかったぁ,と二人。

さあ,もう,なにか「落とし穴」はないか,と二人でチェック。中国国内での連絡のとり方は?パソコンは?気温は?天気は?と洗い晒していく。で,最後に,たまプラーザからのリムジンバスの予約を確認し,当日の待ち合わせの時間と場所の確認。荷物が大きいので,タクシーで行くことにしましょう,と李老師。タクシーも予約しておきます,とも。幼い子どものときから太極拳のプロとして,中国国内はおろか,世界中を歩いてきた人だけに,わたしよりもはるかに旅慣れしている。時間もたっぷりとって,余裕で動けるように計画が立ててある。立派なものです。

問題が一つだけ残りました。それは,中国ではグーグルが使えない,ということ。つまり,ブログを書いたり,ページヴューの確認ができない,ということ。これはいささか(いや,大いに)残念。でも,メールはniftyにセットしてありますので,こちらは大丈夫。

というわけで,18日からしばらくはわたしのブログはお休みとなります。
もどってきましたら,すぐに再開しますので,その節はよろしくお願いいたします。
ではまた,お元気で。

2011年9月15日木曜日

安易に,「3・11」以前のライフ・スタイルにもどってはいけない。

節電解除後,またぞろ不穏な雰囲気が漂いはじめているように思う。これは,わたしだけが感じていることなのだろうか。そうではなくて,みんな「あれっ?」と,なにかを感じているはずである。つまり,どこか変なのである。

国民の80%が「脱原発」を求めているというのに,政府与党も野党も,「脱原発」を唱えようとはしない。少なくとも,そういう声は聞こえてこない。むしろ,基本的には「原発推進」だ。いったい,政治家の眼ん玉はどこについているのだろうか。国民の大多数の意志をまったく無視して,ある特定の利害のためにだけ政治家はソロバンを弾いている。とんでもないことだ。

それと同時に国民の方も,少しずつ,「脱原発」の箍がゆるみはじめているように思う。そして,大きな流れとしては,「3・11」以前のライフ・スタイルにもどりつつある。そんなことをしてしまっていいのだろうか。「3・11」以前のライフ・スタイルが奇怪しかったからこそ,そのトータルのツケとしてフクシマの原発事故が起きたのだ,ということを忘れてはならない。

身近な話をしよう。
田園都市線のダイヤを「3・11」以前にもどしつつあります,9月〇〇日をもって,完全に旧ダイヤにもどします。詳しくは当社のホームページをご覧ください」という車内アナウンスが,電車に乗るたびに聞こえてくる。それが,さも当然のことであるかのごとくに。しかし,節電対策ダイヤでの運行に,なにか不都合が生じたのだろうか。

電車の車内の電灯もいつのまにか全部,点灯している。昼間の話である。たしかに,地下にもぐることの多い路線なので,昼でも車内の電灯は必要ではある。しかし,全部,点灯する必要はない。節電期間中は,半分くらいに点灯を減らしていたはずだ。それで,なんの不自由もなかった。それを,なんの反省(点検・検討)もなく,そっくり旧にもどして,平然としているようにみえる。

デパートの中も同じだ。大抵のところが旧に復しつつある。しかし,ところどころに点灯しない蛍光灯が残っているところもある。それでなんの不便も感じない。それでいいのだ。そんな中で,異様な明るさで店内を煌々と照らしだしているコンタクト・レンズの専門店がある。正直に言って,まぶしい。思わず眼を背けてしまう。つまり,まわりが灯を落しているのに,なにを考えてか,明るすぎる。思わず,この店のオーナーは原発推進派か,とからだが反応してしまう。

こんなところで消費される電気の量は大したことはない,と思う。しかし,問題はそういうことではない。電気が足りているのだから,どんなに贅沢に使ってもいいのだ,という「3・11」以前のライフ・スタイルに無意識のうちにもどっていってはならないのだ。なぜなら,そのライフ・スタイルが,そのまま原発稼働の原動力となっていくからだ。つまり,ニーズがあるのだから,それに応答しなくてはならない,という原発推進派の立場を正当化してしまうことになる。そうではなくて,無駄な電気は使わない,という毅然たるライフ・スタイルを「3・11」以後を生きるわたしたちは確立すべきなのだ。

これこそがフクシマの事故がわたしたちに提示した最大の教訓ではないのか。ここを改めないかぎり,電力は無限に必要となってしまうだろう。管見ながら,わたしの知っているかぎり,世界でもっとも電気を贅沢に消費している国は日本以外にはない。ヨーロッパの文明先進国のどの国に行ってみても,地下鉄の構内の灯も,デパートの灯も,日本よりははるかに「暗い」。それでいて,なんの不都合もないのだ。それを当たり前としている。

ヨーロッパの公共の設備で,エスカレーターが常時動いているところを見つけることは至難の技だ。人が乗っていないときは,いつも,止まっている。人が乗ると動きはじめる。降りると,すぐに止まる。デパートでも同じだ。これが当たり前である。人が乗っていないのに,なぜ,エスカレーターが動いているのか,とかつてウィーンから日本にやってきた友人が不思議そうな顔をして,わたしに尋ねたことがある。そのときまで,わたしは,なんの疑問もいだいたことはなかった。

そのウィーンのあるオーストリアという国は,原発を建造したけれども,最終的に稼働させるかどうかという国民投票をして,「Nein」(No)となり,そのまま凍結されている。原発なしでこんにちまできている。それでいてなにも不自由はない,立派な文明国である。

ついでに言っておけば,わたしがかつて在外研究員として暮らしたことのあるウィーンの人びとは,紙と水をとても大事に使う。無駄をしてはいけない,とわたしなどは何回も叱られたことがある。その紙も水も,オーストリアには足りないのではない。そうではなくて,それらは輸出品として外貨を稼がなくてはならないから,自分たちは無駄使いしてはいけない,というのだ。

わたしたち日本人は,いつのまにか,水も紙もいくらでもあると誤解している。ティッシュ・ペーパーをこれほどふんだんに消費している国はほかにはないのではないか,とわたしは思う。もちろん,紙の無駄遣いは環境破壊につながる,という知識はもっている。しかし,生活習慣としては,ほとんど身についてはいない。ここが問題なのだ。水も同じだ。水道の水を洗面器にためて,朝,顔を洗う人は,いま,どれだけいるだろうか。水道の水を流しっぱなしにして,歯をみがき,顔を洗う。これで平気な人が圧倒的多数を占めている。共同生活(合宿など)をしてみるとよくわかる。

まずは,こうした,日本人のほとんど慣習行動となってしまっている悪しきライフ・スタイルから改めていかなくてはならないだろう。それが「3・11」以後を生きるわたしたちの第一歩ではないのか。いたずらに「3・11」以前のライフ・スタイルにもどることを目指してはならない。それは,自分で自分の首を締めることになる。

「脱原発」をめざすということは,まずは,「3・11」以前のライフ・スタイルを徹底的に洗い出して,無駄をはぶくこと,そこからはじめなくてはなるまい。行政改革(無駄をはぶく)を求めるということは,みずからのライフ・スタイルの改革(無駄をはぶく)をも目指さなくてはならないだろう。まずは「かい(こざと偏に鬼)より始めよ」である。

もう一度,確認しておこう。
安易に「3・11」以前のライフ・スタイルにもどってはならない。



中国少数民族の人口は1億3000万人と知って・・・・。

すでにブログで書きましたように,18日(日)から太極拳の李老師を団長にして,兄妹弟子3名,計4名で,昆明,大理,麗江方面の旅にでます。昆明は,李老師の生まれ故郷です。冬暖かく夏涼しい,年間の気温の変化がきわめて少なく,しかも,風光明媚な素晴らしい都市です,と李老師は自慢されます。ぜひ,そこに行ってみたい,というわたしたち(弟子たち)の希望がようやく叶うという次第です。いまからワクワクしています。

昨日(14日)の稽古のあと,出発前の最終的な打ち合わせをしました。
そこで話題になったことを2,3紹介させていただきます。

昆明には,立派な各種のスポーツ施設がととのっていて,世界中のトップ・アスリートたちがトレーニングのために集まってくる,いまやスポーツ関係者にとっては話題のスポットであることは,すでによく知られているとおりです。北京オリンピックの前には,多くの国のトップ・アスリートたちが合宿を組んで,話題になったことを記憶している方も少なくないと思います。日本の選手たちも同様でした。おそらく,これからロンドン・オリンピックに向けて昆明は世界のトップ・アスリートたちがトレーニングのために集まってきてにぎわうことでしょう。気候が安定していること,しかも,高地であること,食事が美味しいこと,人間が親切であること,などトレーニングのための好条件が揃っています。

というわけで,当然,そういう施設を見学すると思われる方が多いかと思いますが,わたしたちはそういうところには近づきません。そこには背を向けるようにして,目指すは中国少数民族の間に伝承されている伝統芸能です。ここでいう伝統芸能は広い意味で考えています。つまり,民族に固有の歌や踊りをはじめ,民族に固有の身体文化(つまり,遊び,娯楽,スポーツ,演劇,民族衣装,健康法,民間療法,気功,など)に関する見聞を広めてこようという次第です。でも,そんなに長期間,滞在できるわけではありませんので,ほんの少しだけ垣間見る程度のことにすぎませんが・・・。それにしても,まったく新たな知見に触れられるという期待で胸がいっぱいになります。

つい最近になって,ようやく,旅行のための本を買い集めたりして,少しずつ読みはじめているのですが,中国について基本的なことをほとんど知らないということを知っていささかあわてています。たとえば,中国少数民族の人口がどのくらいか,ということはまったく知りませんでした。中国は55の少数民族と漢民族,計56の民族がひとつになって国家を形成しているというあたりまでは承知していました。そして,中国の人口が,ひとくちに言って13億人,というのも頭に入っていました。が,中国少数民族の人口は知りませんでした。が,これがブログの表題にも書きましたように「1億3000万人」というのですから驚きました。つまり,中国の全人口の1割が少数民族だ,というわけです。たしかに,「1割」といえば「少数」には違いありません。しかし,母数の桁が違います。ですから,実数はけたたましい数になるというわけです。

1億3000万人。この数は,なんと日本の総人口よりも多いではありませんか。少数民族どころか,世界のレベルで比較してみればもっとわかりますように,とてつもない人口です。こんなことを考えるだけで,中国という国がどういう国であるのか,ということがそれとなくイメージできるようになってきます。しかも,もっとも基本的で,重要なイメージです。この視点を抜きにして中国を語ることは間違いだと言っても過言ではないでしょう。

いまごろになって,こんな感想をもつわたしなどはずいぶんと薄のろ間抜けの部類だと深く反省しています。といいますのは,おなじみのNさんは,もう,はるかむかしから「中国,恐るべし」と断じてはばかりませんでした。その根拠のひとつが「眠れる大国」,すなわち,この人口の多さでした。この人たちが,ひとたび「目覚めて」,ある目的意識をもって立ち上がったら,世界のどの国よりも大きな影響力をもつようになる,と。薄のろのわたしは,「ああ,そんなものなのかなぁ」と,ぼけた頭で考えていました。

しかし,実際に雲南省をめざして旅にでるという段になって,はじめて(ようやく)中国という国がわたしの視野の真っ正面に立ち現れました。そうして,まず,真っ先に驚いたのは,中国少数民族の総人口の桁違いの多さでした。

こんな話をしていたら,Nさんが,面白い話があるといって,つぎのような話をしてくれました。
中国が国連の常任理事国となって,はじめて国連総会に出席した代表者のひとりが,夜のパーティの席で,イスラエルの代表と会話をはじめたそうです。中国の代表者は,イスラエルと聞いてもあまりピンとこなかったらしく,「あなたの国の人口はどれだけですか」と聞いた。「約800万人です」とイスラエルの代表者。しばらく考えた中国の代表者は「わたしの国のひとつの省の人口調査をすると,かならず誤差がでます。800万人は,その誤差よりも少ないですね」と答えたというのです。これを聞いたイスラエルの代表者は唖然としてしまった,といいます。

調べてみますと,中国は4つの直轄市,23省,5自治区から成り立っています。4つの直轄市と5つの自治区を除いた23の省の人口がどれだけになるのか精確にはわかりませんが,おおざっぱに計算してみて,おそらく10億人前後だろうと思われます。この10億人を23省で割ると,一つの省の人口は約4千300万人ほど。この人口調査をすると「800万人」以上もの「誤差」がでる,というところがまたいかにも中国らしい,と深く考えてしまいます。つまり,精確な人口調査ができないほどの広さと移動があるということなのでしょう。そして,多少の数字の違い(誤差)は気にしない,人びとの思考様式にもよるのでしょう。むかしから,中国の人口の精確な数はわかっていない,と聞いていました。それは,こんにちに至っても基本的には変わっていないようです。第一,戸籍のない人がかなりの数になるとも聞いています。それでも立派に国家として機能しているというこの事実にしっかりと眼を向けるべきでしょう。

日本では考えられない中国の面積の大きさと人口の多さと人びとのファジーな思考様式をしっかりと頭に入れておかないと,今回の旅は収穫が少なくなるどころか,とんでもない「誤解」をしてしまいかねません。もう,残り時間はわずかしかありませんが,できるだけ,基本的な予備知識だけはきちんと頭に入れておきたいものと肝に銘じているところです。こんなところが,また,典型的な日本人だなぁ,と思ったりして・・・・。

結論。中国少数民族は「けっして少数ではない」ということ。1億3000万人を越える人口をもつ国家がどれほあるのか確認してみるべし。ヨーロッパのどの国もそれより少ないのですから。つまり,世界的にみたら,みんな「小国」ばかり。やはり,「中国,恐るべし」。徹底した中央集権的な統治形態を維持することの背景には,この「人口」の問題がある,とこころから納得。

さて,少数民族の住む地域に立ち,空気を吸い,景色を眺め,食べ物を食べ,水を飲み,人びとと触れ合いながら,そこの伝統芸能に触れるとき,わたしの「からだ」にはどのようなことが起こるのでしょうか。それが,いまから,とても楽しみ。

2011年9月13日火曜日

「戦争について」──戦争はなぜ終らないのか(西谷修×石田英敬)

昨日の一件落着で,気持ちも楽になり,鷺沼の事務所に向かう途中で本屋さんに立ち寄った。石田英敬さんの『現代思想の教科書』─世界を考える知の地平15章(ちくま学芸文庫)がでていることは知っていたが,また,いつか時間のあるときに・・・と先のばしにしてきた。ところが,今日は,わたしの気持ちの問題もあってか,この本が盛んに呼びかけてくる。ときどきこういうことがある。こういうときは素直に呼びかけにしたがうのがわたしの流儀。手にとって目次をみる。

なるほど,こういう本かと想像力をたくましくしながら,目次の章立てを追っていく。これがまたたまらなく楽しい時間だ。順番に目次を追っていったら,11「戦争について」──戦争はなぜ終らないか──西谷修との対談,とあるではないか。あわてて,小見出しをみる。なるほど,これは面白そうだと直感する。と同時に,すぐそのあとに,12「宗教について」──宗教の回帰を問う──西谷修との対談,とある。おやおや,である。こういう話を,西谷さんは個人的にはほとんどされない。だから,わたしはいままで知らないできた。即刻,購入して鷺沼の事務所へ。

事務所にきてから,やおら,この本をとりだし,目次をもう一度,確認する。目次の11と12を,再度,確認して,どちらから読もうかなと思いながら,目次のつぎのページをめくってみた。そうしたら,13ナショナリズムと国家──ナショナリズムを克服する──小森陽一との対談,とあるではないか。これは儲け物,と大満足。

で,まずは「戦争について」から読みはじめることにした。近頃は,横着になってきて,本を買ってきても,冒頭からきちんと読むということをしなくなってしまった。目次を眺めたり,まえがきやあとがきや,中味を拾い読みしたりして,ある程度のあたりをつけたところで,一番,面白そうなところから読みはじめる。で,今回はそれが「戦争について」だった。

15章のうちの1章なので,ページ数にしてもわずかなもの。たった25ページ。だから,すぐに読み終わる。ところが,である。このわずかなページ数のなかに,よくぞ,これほどの内容を手際よく,わかりやすく収めたものだと感心してしまった。西谷修はいま絶好調ではないか,と。

いつもの,「稽古のあとのハヤシライス」のときには,「ふつうのおじさんじゃないの」とKさんに茶化されるほど西谷さんはくつろいで,素顔をさらけ出す。でも,Kさんがツボにはまる質問をすると,とたんに眼がぎらりと光り,「それはねぇ」と言って,授業料をいくら払っても足りないくらいの素晴らしい話をはじめる。兄妹弟子というのは,ありがたいかぎりである。

この本に収録されている話は,石田さんが放送大学で講義をされたものを加筆修正をして,まとめられたものばかりです(本書のまえがき,による)。ということは,西谷さんもまた石田さんの放送大学の講義に招かれて,お話をされたのだな,と推測できます。

さて,問題の11「戦争について」の内容です。
わたしの印象に残ったところだけを抜粋してご紹介しておくことにします。
そのうちの一つは,ヘーゲル哲学を語ったくだりです。ヘーゲル哲学にもとづけば,人間にとって最初はすべて「無」であったのだから,これを人間がどのようにしようとまったく自由であった。だから,人間は自然(つまり,他者)を自分にとってつごうのいいように加工することをはじめた。これが文化のはじまり。そうしていくうちに,自然とは別の,もっともつごうの悪い他者(すなわち,利害を異にする人間)が現れる。ここでも人間は,その他者を自分のつごうのいいように支配しようとする。それが「戦争」のはじまり。素朴な戦いから,時代とともに,組織的な戦いへと進展していく。やがて,近代に入って,国家間の戦争がはじまる。こうなると,自分の意志とは関係なく「国民」として戦争に巻き込まれていくようになる。第一次世界大戦はヨーロッパという地域限定の戦争だった。しかし,第二次世界大戦は文字通り「世界」が戦争に巻き込まれる「大戦」となった。が,その時代を通過して,いまや,国家間の戦争は成立しなくなってしまった。つまり,「非対称の戦争」。戦う相手が国家ではなくなってしまった。見えない相手との一方的な戦いとなり,もはや,近代の戦争の概念は当てはまらなくなってしまった。つまり,戦争の形態が溶解してしまったのだ,という。その根源にあるのは,「グローバル秩序」を維持するための「正義」の戦い。この「グローバル秩序」に反するものはすべて攻撃の対象となる。これが「テロとの戦い」。ヘーゲル哲学がその基盤とした「理性」が行き着いた,これが現代の姿である。だとすると,この「理性」とはなにか,という新たな問いがはじまる。ヘーゲルは「理性」を鍛え上げていくことによって,戦争を通過して,やがて,理想社会に到達する,という理論仮説を提示し,人びとはそれを信じた。それがヨーロッパ近代という時代であった。その帰結が,こんにちの「世界」の姿である。つまり,ヘーゲルのいう「理性」が人間の「世界」を切り開き,文化・文明を進展させてきた。しかし,ヘーゲルの意図に反して,ヘーゲルが信じた人間の「理性」が,ついには自己を「無」に帰するかのような「否定」をはじめた。すなわち,人間の生きる時空間を破壊しはじめた。つまり,自己の存在そのものを否定しはじめているのが現状ではないか,と。しかも,つごうの悪いことに,現状をジャッジする「第三項」の審級すら機能しなくなってしまった。だから,ユニラテラルな攻撃が野放しになってしまい,とうとう「戦争が腐乱してしまった」(『夜の鼓動に触れる』)というわけだ。

以上は,わたしのずいぶん勝手な読解なので,これを鵜呑みにしないで,かならずテクストを確認してください。

わたしは,この対談を読みながら,どういう新たな発想がうまれ,そこからなにを考えたのか,ここにその全部を書きたいところですが,それは不可能ですので,その一部を紹介しておくことにします。

それは,今日の戦争が「グローバル秩序」を維持するためのものであって,それ以外の戦争は認められない,という指摘です。つまり,グロバリゼーションを「是」とする行為・行動は国際社会に認可されるけれども,それに反する行為・行動はすべて「非」とされるということです。つまり,「テロ」とか,「テロリスト」というレッテルを貼られて,徹底的な攻撃の対象にされてしまうということです。このことはいったいなにを意味しているのか,よくよく考える必要がある,とわたしは思いました。えらいことになってきた,と正直に思いました。

ここから,わたしの発想は一気に活性化していきます。来年,予定されている第2回日本・バスク国際セミナーのテーマは「民族スポーツとグローバリゼーション」です。そして,このセミナーには西谷さんも参加されることになっています。そして,セミナーの最後に,まとめのお話をしてもらおうと事務局のTさんと相談しているところです。そうなると,来年には「グローバル秩序」の問題がどのように進展しているか,予断を許しません。そういう状況にいまの「世界」はある,とわたしは考えています。ということは,わたしも,このセミナーでは,冒頭の基調講演をすることになっていますので,ことは単純ではありません。しかし,この講演のための原稿はすでに提出済みです。当然のことながら,当日のプレゼンのためには,また,別の原稿と差し替えなければ,と考えざるをえません。それほど,大きな,しかも,進展の早い,現代の「世界」を考えるための不可欠の視点でもあります。これから,もっと,もっと,わたしの思考を練り上げていくことが必要です。

なぜ,このような問題に強く惹きつけられてしまうのか。もうひとこと附加しておけば,以下のことも,わたしにとっては重大なひらめきでした。
「グローバル秩序」のこの発想をスポーツの「世界」にもちこむとどういうことになるのか。結論的な仮説だけを書いておきますと,それは以下のようになります。
「近代スポーツ競技や,オリンピック・ムーブメントや,ワールドカップは,グローバル秩序を浸透・維持させるための,<平和>という衣を身にまとった『戦争』ではないか」と。

だれが勝っただの,どのチームが優勝しただの,と浮かれている間に,無意識のうちに「グローバル秩序」を「是」とする思考・心情が全身に浸透していくことになります。そして,気がついたときはすでに手遅れになっている,と。たとえば,勝利至上主義と経済原則に乗っ取られてしまった近代スポーツ競技は,スポーツの<金融化>と<ドーピング>という文字通りの麻薬によって溶融をはじめているのではないか,と。

この仮説はこれから,慎重に跡づけをしてみたいと思います。そして,『近代スポーツのミッションは終ったか』(西谷修,今福龍太の両氏との共著,平凡社)の続編にとりかからなくてはならない,とむらむらと深いところからの衝動が突き上げてきます。また,ひとつ,新たな展望が開かれた,という心境です。

こんなことを考えさせてくれる西谷さんのお話でした。
次章の,12「宗教について」──宗教の回帰を問う──からは,どんなひらめきをもらえるのだろうか,といまから楽しみです。
石田英敬さんの,このテクストそのものについても,いつか,このブログで取り上げてみたいと思います。今回は,その導入まで。
素晴らしい本であることは,間違いありません。本気でお薦めします。ぜひ,ご一読を。


2011年9月12日月曜日

パスポート期限切れ,再申請,騒動記。

9月18日(日)から中国旅行に出よう,と密かに計画。
いつもの,Nさん,Kさん,それに老師とわたし,計4人。
今回は,主として昆明を中心に雲南省の北西部(大理,麗江,など)の民族芸能の調査研究。
旅程も決まり,チケットも購入,ホテルも予約,すべて準備は完了。

昨日(11日)になって,わたしの旅券の有効期限が切れていることが発覚。
頭の中が真っ白。茫然自失。しばらく身動きもできない。
インターネットで調べたら,申請から交付まで6日間を要す,とある。
駄目だ。時間がない。どうあがいてみてもどうにもならない。もう,あきらめるしかない。
ようやく気をとりなおして老師に電話。

老師,慌てず,騒がず。大丈夫,旅券はとれます,と平然。
現代の名人はどこか世俗の世界を超越してしまっているかのようだ。
いやいや,ここは日本です。日本の役人は「小回り」がきかない,とわたし。
大丈夫,ちゃんと説明すれば早めに発行してくれます,と老師。
いやいや,そんなわけにはいきません,とわたし。
でも,やってみなければわからない,と老師。

つぎに,Nさんに電話。いま,新幹線の中とのこと。要件だけつたえる。
夜になって,Nさんから電話。いろいろ考えてみたけれども,いい手がみつからない。あとは,窓口で頑張るしかないですね,と。
ああ,万事休す。この窓口交渉がまことに苦手。困った。
でも,こうなっから居直って,やってみるしかないか,と覚悟。

Kさんは,安曇野塾なので,携帯にメール。
「なんてこと!」,とまずは一喝。でも,「粘ってね」とひとこと。
たった,これだけの応答。あとは,Kさんがどんな気持ちでいるかを想像するのみ。
まずいことになってしまった,と深刻に反省。

夜のうちにできる準備をして,翌日(12日)に備える。
問題は,どうやって5日間で旅券を発行してもらえるようにするか,その戦略を練ること。
いろいろ奇策も考えるが,それはやめた方がいい・・・,むしろ,正直に窮状を訴えて,正攻法で・・・,それも説得力がないなぁ・・・,ならば,泣き落とししかないか・・・・などと考えているうちに眠れなくなってしまう。
久しぶりに「羊が一匹」「羊が二匹」・・・と数えてみる。効果なし。

今日(12日),朝5時に起きて,新幹線に乗るために新横浜へ。
まずは,戸籍抄本を本籍地の豊橋市まで取りにいく。
8時30分の始業開始を待って,抄本発行の手続。
抄本を受け取って,すぐに折り返して,豊橋駅へ。
30分に一本の「こだま」号に乗って新横浜へ。
そして,関内にあるパスポート・センターへ一直線。

12時30分,到着。すぐに行列のうしろに並ぶ。
順番がやってきて,必要書類を提出。
さすがにプロ。
いきなり,18日の出発は無理です,ときた。
「エーッ!」と思いっきり驚く。(これは一晩考えた,最大限の演技)
「エッ,なにかお困りですか」
「お困りもなにも,旅券の発行が間に合わなかったら,このまま生きては帰れません」
「そんなに大事なご用事なのですか」
ここからが,わたしの演技力発揮の場面。
縷々,特別の事情があることを,必死の形相をして説明。
気の毒そうな顔をして,わたしの話を聞いてくれたお姉さん。
「ちょっとお待ちください」といって奥の衝立の向こうに姿を消す。
上司が面談しますので,椅子にかけてお待ちください,とのこと。
「しめたっ!」とこころのうちで叫ぶ。

ややあって,50歳前後の男性が現れ,お話を伺います,という。
さあ,ここが勝負,とばかりに必死で窮状を訴える。
火事場の馬鹿力とはこういうことを言うのだろうなぁ,と自分でも感心するほどに頭とことばが連動してくれる。
相手の男性の顔つきが次第に変わってくるのが手にとるようにわかる。
本気で聞いていてくれる。いい人だ。
ひととおり,わたしの話を聞いてくれたあとで,「お困りのこと,よくわかりました。で,今回の旅行の必要性を証明する書類を提出してくだされば,それをもとにして早期発行の是非について判断させていただきます。それが可能でしょうか」という。
「ええ,もちろんです」というしかない。

で,ちょっと時間をください。あちこち相談をしてみますので,と断わって,もっとも的確な証明書を作成してくれそうなところに電話。携帯電話の威力をまざまざと知る。
ありがたいことに,ここに「救いの神」が現れて,「すぐに,書きましょう」と言ってくれる。あとは,担当者と「救いの神」との間で,直接,やりとりをしてもらって,無事に目処がつく。
インターネット時代の問題解決法の典型のようなもの。
「救いの神」,さまさまである。この人がうまく研究室にいてくれなかったら,この問題は相当にごじれたのではないか,と思う。
やはり,持つべきものは頼りになる友。

待つこと一時間余。
「稲垣さん,とても立派な証明書が送信されてきましたので,これで大丈夫です。16日(金)には受け取りが可能です」と担当者がにっこり。
わたしは思わず握手をしたくなりましたが,ぐっと我慢してしまいました。
そして「これで,すべてに面目が立ちます。ありがとうございました」と深く頭を下げました。
これは本音でした。こころから,そう思ったのですから。

という次第で,16日(金)にめでたく旅券交付という運びになりました。
これで,なんとか予定どおり,中国旅行にでかけることができます。
それにしても,同行のみなさんには,とんでもないご心配をおかけすることになり,この旅はちょっぴり肩身が狭い。それにしても,とんだ恥さらし。でも,やれやれ,ほっと一息。

でも,でも,永遠の笑いのネタになりそう。
でも,でも,それでよかった,としみじみ思う。
この逆であったら・・・・と思うと冷や汗たらり,では済まされません。
死ぬまで揶揄されそう・・・・。
ああ,今夜はいい夢がみられそう。

2011年9月11日日曜日

新しい創作能の可能性を探る「生まれたときは」(奄美自由大学)

昨日(9月10日)のブログで,能面アーティストの柏木裕美さんの「生まれたときは」が,今福龍太さんの奄美自由大学(9月2日~4日)で大活躍したことを書きました。そのあとで,ふっと面白いアイディアが生まれましたので,そのことを今日は書いておきたいと思います。

沖縄の若者が演じた空手の演武についてです。
十分に間をとりながらの演武でしたので,何分もの長い時間を演ずることができたとは思いますが,相当にハードだったのではないか,とわたしは推測しています。そして,それは間をとっていたとはいえ,その所作そのものは純然たる空手の型でした。つまり,スピード感あふれる空手そのものでした。この型を,超スローモーションで演じたら,どうなるのだろうか,と想像してみました。

「生まれたときは」は創作面ですので,それに合わせた即興詩をからめます。すると,そこに物語が生まれます。さらに,笛,鼓が入れば,能楽としての形式は整います。そして,超スローモーションの空手の型を,物語に合わせて,若干の演出(振り付け)にゆだねてみます。そうすれば,もう,立派な新作能(あるいは,創作能)の誕生です。

こんなアイディアが浮かんだのは,9月3日の夜,国直で「生まれたときは」のお面をつけて空手の型を演じた若者が,薄暗がりの中を下手(しもて)から登場するとき,たしか能楽の演者を意識してか,両手とも袖口をしっかりとつかみ,両腕を斜め下に伸ばして,重心をやや落して,しずしずと現れたように記憶していたからです。あの入り方だけで,すでに「幽玄」の世界が準備されるのだったら,そのまま,空手の型を超スローモーションで演ずるだけでも,新しい能の世界が開かれてくるのではないか,という次第です。そこに,川満さんの即興詩とのコラボレーションで,物語は明確になってきます。あとは,演出(振り付け)の工夫あるのみ,です。

舞台もいろいろと考えることはできそうです。
たとえば,波が打ち寄せる浜辺,あるいは,波のない入江の汀,鬱蒼と繁る森のなか,あるいは,ガジュマルの巨木の下,民家の軒先,安脚場のような聖地,公民館の土俵,島尾敏雄文学碑に通ずるアプローチの道,山の頂き,など場所に事欠きません。
灯も,月明かり,たき火,ろうそく,真っ暗,など。

空手の型を超スローモーションで・・・というアイディアが生まれた背景は二つあります。
一つは,太極拳。もう一つは琉球舞踊。

太極拳はご存知のように,中国の武術の型をゆっくりと演ずるものです。一つひとつの所作は全部,武術の型です。それをゆっくりとした所作で演ずることによって,武術の新しい道を切り開くことができた,とわたしは考えています。ひとつは,老若男女,だれでも稽古をすればできる,という道。もうひとつは,スローモーションにすることによって,技の難易度をみえやすくしたために,表演のレベルが高度化したこと,の二つです。

ですから,太極拳を「舞踊化」したり,「健康体操化」したりすることも可能だったわけです。日本には,最初に「健康体操」として紹介されたために,太極拳は「体操」だと思っている人も多くいらっしゃいます。また,太極拳を稽古されている人たちのなかには,まるで舞踊のように演じていらっしゃる方たちも少なくありません。武術から限りなく遠く離れた表現の手法というわけです。

その点,琉球舞踊は,意図的に空手の技を取り込んで,舞踊のなかに吸収してしまいました。いまでは,ある所作が空手の技からきていることを意識することなく踊っている人がほとんどだと聞いています。しかし,琉球舞踊の名人たちは,みなさん「闘う」ことのできる空手の名人でもあるわけです。

ですから,かつての首里城には武器はなにもなかった,といいます。薩摩の武士は刀を腰につけて意気揚々と首里城にやってきました。また,ペリーのような外国人も剣を身につけてやってきました。迎える首里城は,みんな「丸腰」のままです。その代わり,その人たちは,男性は空手の名手,女性は琉球舞踊の名人で固められていたといいうます。つまり,武器なしで「闘う」ことのできる人たちばかりだった,という次第です。こんど首里城にいくことがありましたら,確認してみてください。ここの建物には「柱」が多い,ということを。それがなにを意味しているかは説明するまでもないことだと思います。

さて,話が脱線してしまいました。
というようなわけで,空手を超スローモーションにして,若干の振り付け(演出)を考えれば,そのまま能の所作になりうる,というアイディアが浮かんだという次第です。

あとは「戯曲」です。こちらは今福さんにお考えいただいて,作・演出・監督で,映画も可能かと思います。トリン・ミンハさんのこともちらりと頭をかすめます。音楽も,お得意の島唄・三線が待っています。役者も揃っています。なんだか想像するだけでワクワクしてきました。

奄美自由大学は,こんな楽しい夢を描かせてくれるところでもありました。

2011年9月10日土曜日

柏木裕美さんの能面「生まれたときは」が大活躍(奄美自由大学)

能面アーティストの柏木裕美さんも,奄美自由大学に初参加されました。「もちろん,能面を持ってきてくださいますよね」というのが今福さんからのメールだったそうです。その中には伝統面の「翁」と創作面の「生まれたときは」の二つは,ぜひともお願いしますとあり,その他にも数面,持ってきてくださるとありがたい,とのご依頼だったそうです。

太極拳の稽古の終ったあとの昼食のときに,「その他,数面」はなにを持っていけばいいのでしょうねぇ,と相談されましたが,わたしに特別のアイディアがあるわけではありません。ですので,ご自分で気に入っている面をお持ちになったらいかがですか,と応答するしかありませんでした。それに,今福さんが「お面」をどのようにお使いになるのかもよくわかりません。たぶん,即興で,なにか面白いアイディアが浮かんだときに,それらのお面とのコラボレーションが展開されるのだろうなぁ,とは想像していましたが・・・。それ以上のことはわかりませんでした。

柏木さんは考えあぐねた末に,依頼された2面のほかに3面を選んでもってこられました。貴重な作品ばかりですので,運ぶのも神経を使い大変なご様子でした。その苦労の甲斐があって,柏木さんのお面は三度,出番がありました。

第一回目は,二日目の午前。
安脚場(あんきゃば)。ここは,加計呂麻島の太平洋側の最先端にある「聖地」。かつての戦場でもあったところ。海岸からゆるやかな傾斜を登ったところにあるちょっとした広場,ここが舞台となり,今福さんと詩人の川満さんとの即興の詩の朗読が行われました。
今福さんが「生まれたときは」(幼児の面で,右側半分が男の子,左側半分が女の子。つまり,両性具有の面)の傍に立ち,川満さんは「翁」面の傍に立ち,それぞれの詩を朗読。今回の奄美自由大学のメイン・テーマである「群島創世記──アブグイの谺(こだま)を探して,にぴったりの演出ができあがりました。ときおり,「生まれたときは」のお面を手にして,ぐるりとまわりの人に見えるように指し示しながら今福さんの自作になる詩の朗読がつづきます。それを受けるようにして,こんどは川満さんが「翁」の面に寄り添うようにして詩の朗読がつづきます。川満さんのお顔そのものが,すでに,立派な翁の面に仕上がっていると言っていいほどの「柔和な」,奥行きのある表情をしていらっしゃいますので,なんだか「翁」のお面が二つあるような錯覚を起こしてしまいました。アブグイとは「呼び声」の島ことばだとのことですので,まさに,生まれたばかりの幼児と,長い人生を生き長らえてきた翁との「アブグイ」そのものを,わたしたちは「じかに」聞いたわけです。「場」の力というものは,たしかに存在する,とそのとき実感しました。言ってしまえば,単なる雑木林。でも,そこは,かつては「戦場」になったこともあるとはいえ,むかしからの「聖地」です。おそらく,むかしからさまざまな聖なる儀礼がそこでは展開したことでしょう。その名の名残こそが「安脚場」そのもの。この「安脚場」に呼応するかのように,奄美大島の北西部に「安木屋場」(あんきゃば)という集落があります(第三日目の午前中にこの地を巡礼)。これも一つのアブグイ。「生まれたときは」と「翁」のアブグイ,今福さんと川満さんの詩の朗読によるアブグイ,そして,「安脚場」と「安木屋場」との間に起こるアブグイ・・・・二重,三重に折り畳まれたアブグイの「谺」に耳を傾ける恩寵のひとときを過ごすことができました。やはり,柏木さんの丹精こめて制作したお面がなくては,この場のアブグイは,もっともっと味気ないものに終わったに違いない,とわたしは確信しました。能面アーティストの柏木さんにこころからのエールを送りたいとおもいます。

できることなら,このときに朗読された詩を,いまからでもいいので,ぜひ,添付ファイルにでもして送っていただけたら・・・と欲の深い願望が頭をもたげています。そうすれば,これから何回も,わたしの頭のなかで安脚場でのアブグイをリピートすることができます。そうすれば,あのときの記憶は,またまた,新たな命を吹き込まれ,拡大再生産されていくことになります。そうして,わたしの中に新たな神話が生まれてくるのではないか,という楽しみが増えます。そんなことが可能なのもまた奄美自由大学のいいところではないか・・・などと勝手な想像をたくましくしているところです。たぶん,実現するだろうなぁ・・・・とアブグイに籠めて。
二回目は,二日目の夜。
映画の上映が2本,今福龍太監督作品(「円英吉──帰郷」)と濱田康作監督作品(「涙の道──チェロキー」)の2本。この上映が終わって,しばらくお酒を飲みながら歓談がつづきました。この日はオープン・スペースでのバーベキューでした。いわゆるバーベキュー・パーティです。その途中で,会場の一角にライトがつき,そこに柏木さんが持参してくださった「五つの面」のお披露目がありました。興味のある方たちが近寄ってきて,熱心に手にとり,顔に付けたりしながら,柏木さんの説明に耳を傾けていました。そのあと,いくつかの質問もあったりして,この場はとても盛り上がりました。

これが終って,お酒を飲みながら歓談しているところに,これは明らかに「サプライズ企画」の一つだったのでしょう。映画上映のための白い幕を舞台背景にして,そこに「生まれたときは」のお面をつけた,これまた男性なのか女性なのか判別しにくい登場人物が下手(しもて)より静々と現れました。白いロング・スカートにTシャツ姿。最初,女性だと思ってみていたら,突然,空手の型をはじめたのをみて,あれっ?この動きは男性ではないか?としばらくじっと目を凝らして眺めていました。そこに,いつのまにか現れた川満さんが即興で詩を朗読しはじめるではありませんか。これには驚きました。川満さんは,用意した原稿はほとんどみることなく,その場に起きているアブグイに呼応するかのように,演者の動きと呼吸を合わせながら,ゆっくり,ゆっくりと間をとり,詩を朗読される。演者は,武術を演じているのか,舞いを舞っているのか,これもまた不思議な「間(あわい)」の時空間を現出させていて,深くこころに残りました。

そして,なによりも「生まれたときは」の面のもつ威力のようなものが感じられ,このお面はいったいなにものなのだろうか,と目を見張ってしまいました。同時に,さすがに今福さんの選別眼は凄いなぁ,と感動。お面は動きをともなうことによって「生き返る」とは聞いてしましたが,この「生まれたときは」は,両性具有という点だけが,画廊に飾られたときのわたしの印象に残っていました。しかし,今回のインプロヴィゼーションによって,その本領がますます発揮された,というこがはっきりしました。このお面のもつ底知れぬ「力」をひしひしと感じました。やはり,部屋に飾るだけではなく,面をつけて動くこと(演ずること)もとても大事なことなのた,とこころから納得でした。

これが三回目の出番でした。
今回の奄美自由大学では,柏木さんのお面が大活躍した,と言っても過言ではありませんでした。こういう「芸」をもった人はいいなぁ,と羨ましくおもいました。

これを演じてくれた若者(沖縄の男性)と衣裳のロング・スカートを提供したヨンジャさんと今福さんと4人で語り合ったことも,とても印象に残りました。それは,武と舞の同根性について。これは,じつは,瀧元君の学位論文のテーマ。この瀧元ファミリー(4人)の参加も,いつか,このブログで取り上げてみたいとおもいますので,「武と舞の同根性」については,そのときに述べてみたいとおもいます。

今回は,能面アーティストの柏木裕美さんの制作された創作面「生まれたときは」が大活躍しました,というお話まで。


2011年9月9日金曜日

居酒屋「延命庵」,いよいよ開店の予定。

奄美自由大学(今福龍太主宰)の初日(9月2日)の夜の宴会は,加計呂麻島のスリ浜の民宿「マリンブルー・カケロマ」の食堂で,延々と果てることなくつづきました。若き唄者の徳原大和さんの三線に今福さんが絡んで,島唄の掛け合いがあり,はたまた,民宿の主人とその仲間たちのバンド演奏(これは想定外だったこと,つまり,サプライズ企画であったことがあとでわかりました)があったり,と楽しい時間でした。

それよりなにより不思議だったのは,初日の夕食が午後9時のスタートだったことです。島尾ミホさんの生誕地の集落を散策しているうちに日が暮れてきて,ああ,もう午後の8時だと知ったときから「あれっ,夕食は何時からなのだろうか」と考えました。が,そんなアナウンスはなにもなく,しかも,だれも疑問にも思っていない様子。

ようやくスリ浜の民宿にたどりついたときに,「夕食は午後9時からです」というアナウンスがありました。部屋割にしたがって,3人部屋に向かいました。ここで初めて「わたしはこれこれと申します。よろしくお願いいたします」と自己紹介。それまで,ところどころで顔が合った人とはそれとなく「これこれと申します」という挨拶をした程度で,あとは暗黙の了解事項だといわぬばかりに,なにげなく近くにいる人と会話を楽しんできました。

で,せめて,どこかのタイミングで自己紹介なり,参加者のご紹介なりがあるものと思っていましたので,あるとすれば,この夕食兼宴会のはじまりのときだろうと思っていました。そんなことを思いながら,部屋で荷物を開いて着替えをしたら,もう午後9時です。急いで食堂に向かいましたが,まだ,ほとんどだれもいません。ふと,入り口の食堂とは反対側を覗くと,そこに同行者の数人の人と見知らぬ人とが島酒を囲んで飲みはじめていました。どうしようかな,とうろうろしていたら,「どうぞお掛けください」という。聞いてみたら,この民宿のご主人だという。そのうち,みなさん揃いますから,それまで飲みながら待ちましょう,とのこと。

それでは,ということで飲みはじめたこの黒糖焼酎(名前は覚えていません)が美味しくて,しかも,すきっ腹ですから,あっという間に酔いがまわってきました。酔いがまわってくれば,いつもの勢いがでてきて,おしゃべりがはじまります。みなさんも同じようだったらしく,自己紹介もなにもなく,長年の友人気取りでおしゃべりがはじまり,意気投合。ここで,食べ物もなしに,黒糖焼酎だけで相当量を飲んだなぁ,とぼんやり記憶に残っています。つまり,みなさんの集合が遅かったということです。あとで,よくよく聞いてみたら,みなさんシャワーを浴びて,それからやってきたとのこと。なぁーんだ,まじめなわたしたちだけが時間どおりにやってきて,そのまじめな人間だけで,宴会をはじめていたという次第です。

三々五々に,集まってきた人から食事をはじめています。飲みたい人は飲む。おしゃべりをする人はおしゃべりをする。いつとはなしに,もう,夕食兼宴会ははじまっていたのです。テーブルごとに,違った黒糖焼酎がおいてありましたので,みなさん,好きな焼酎を求めて移動しています。わたしも,ひととおり味くらべをしようと思って,あちこちのテーブルに出張。いつのまにか,美味しい黒糖焼酎のある(つまり,自分の口に合う)テーブルに腰をおろして,相手がどういう人であるかも知らないまま,勝手におしゃべりを楽しんでいました。

そんな会話のなかで,わたしが「居酒屋『延命庵』を開店計画中である」という話をしたら,それがどうもうけたらしくて,「開店したらぜひ誘ってください」という人だらけ。どなたが,どういう人であるかも,名前も知らないままで(途中,何人かの人とは名乗りあった記憶があるのですが,ほとんど忘れてしまっています),「声をかけますので,ぜひ,よろしく」と機嫌よく応答していたらしい(この辺からますます記憶が遠くなっています。つまり,酔いがまわってきていた,ということ)。

こんな話を今福さんにした記憶はまったくないのですが,昨日,メールをいただいて「近日中に数名を誘って居酒屋『延命庵』に伺います。もちろん,とっておきの黒糖焼酎を持って・・・」とあり,びっくり仰天でした。そうか,手当たり次第に,だれかれ構わず同じ話をしていたらしい,といまごろになって気づきました。お恥ずかしい。宴会は12時を過ぎても終わる気配もなく,2時,3時とつづきました。どうやら,眠くなった人から順番に部屋にもどっていったようです。が,わたしは途中からほとんど記憶が断続的にしか残っていません。それほどに「酔っぱらった」ということです。こんなことは,おそらく10年ぶりのことではないか,と思います。自分の部屋には,同宿の若者に抱き抱えられてもどった,と翌朝,教えてくれました。よくみると,メガネはひん曲がったまま。これをみて,慄然としてしまいました。

ちょっと恥ずかしい話を書いてしまいましたが,それほどに開放的な,年齢も性もなんの関係もなく,もちろん職業も関係なく(第一,どなたがどういう職業の人なのか,そのときは知りませんでした),思いおもいにその「場」の力に促されるかのように,楽しい会話がはずみました。その雰囲気に年甲斐もなく呑まれてしまった,と正直に告白しておきます。失礼があったとしたら(それも記憶がありませんので),この場をお借りしてお詫びいたします。

その代わりといってはなんですが,お知らせくだされば居酒屋『延命庵』にご招待させていただきます。というわけで,居酒屋『延命庵』は,今福さんがお出でくださるということですので,その日を「開店記念日」にしたいと考えています。もし,開店することができました暁には,このブログで報告させていただきます。そのあとは,どうぞ,ご連絡くださった方から順番にご招待させていただきたいとおもいます。

ただし,この居酒屋は,原則として週に1回,月に4回,それを限度に開店することを考えています。くり返しになりますが,料金は無料,持ち込み可(いいえ,持ち込み「大歓迎」),楽しい話題をつまみに,密度の濃い時間を過ごす,というのが大原則です。したがって,場合によっては,かなり順番待ちということが起こるかもしれません。その節はお許しください。連絡はメールでお願いいたします。わたしのメール・アドレスは,事務局の濱田さんにお尋ねください。あるいは,このブログにコメントを入れてくだされば,わたしの方で確認をさせていただきます。(メール・アドレスの書いてあるコメントは公開しませんので,ご安心ください)。

というわけで,居酒屋『延命庵』はいよいよ開店します。いつになるかは,今福さんのご都合次第ということです。いまから,わくわくしながら,お待ちしています。どうぞ,よろしくお願いいたします。

2011年9月8日木曜日

『世界』10月号の西谷修論考に感動。必読です。

毎月8日は,鷺沼の事務所に行く途中でかならず本屋さんに立ち寄る日。岩波の雑誌『世界』が発売される日だから。今月はことのほか,わくわくしていました。ですから,いつもよりも少し早めに家をでました。昨日の太極拳の稽古のあとの「ハヤシライス」の時間に,西谷さんから「見本」(執筆者にだけ早くとどく)をちらりと見せてもらっていたからです。

今月の特集はいうまでもなく10年後の「9・11」。題して「覇権国家アメリカの凋落」──<9.11>10年の現実──。この特集の巻頭の論文が西谷さんの「『自由』の劇薬がもたらす破壊と荒廃」─ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』に寄せて,です。しかも,14ページにわたる大論文です。

ひとことで感想を述べるとすれば,「この10年の間に,そんなことが仕掛けられていたのか」と,ただ,ただ,驚き,あきれるばかり,ということです。えらいこっちゃ,「世界」がこんな仕掛けによって翻弄されているとは・・・!もちろん,日本もそういう仕掛けのもとで,いいように操られていたとは・・・。コイズミ内閣はその総仕上げをしていたということ。その仕掛けとは「新自由主義」。郵政民営化もその一環として展開されたもの。ワッショイ,ワッショイとコイズミ劇場に乗せられて,「規制緩和」という美名のもとに郵政もまた「民営化」の道を一直線に駆け抜けていきました。その結果が,こんにちの郵政事情です。そのしわ寄せはどこにいったのか。まぎれもなく「僻地」です。

話をもとに戻します。
この西谷論考は,じつに手際よく「9.11」以後の10年間の「世界」の動向を整理してくれています。そして,その背後で行われていたことの内実を,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』惨事便乗型資本主義の正体を暴く(上・下,幾島幸子・村上由見子訳,岩波書店)〔注・今日発売。各2,625円〕に寄り添いながら,そのポイントを明確にしてくれます。しかも,その上にかぶせるようにして,西谷さん独自の,視野の広い論考が展開されています。わたしのような者にも,じつにわかりやすく語って聞かせてくれます。この10年の「世界」の動向が意味するものの「正体」を,じつにみごとに説き明かしてくれます。つまり,ひとくちに「グローバリゼーション」として語られることがらのその背後には恐るべき仕掛けが待ち受けていて,しかも,それらが着実に「世界」のすみずみにまで浸透しつつあるという事実を知ったとき,一瞬,茫然自失してしまいます。

アメリカが「正義」の戦いと称し,「テロとの戦い」と銘打って,アフガニスタン,イラクに侵攻し,その結果は無惨そのものとしかいいようのない終り方をしています。しかし,これはある意味では「みせかけ」であって,戦争という非常事態を通過することによって生ずる無秩序状態こそが,アメリカの新自由主義者たちの「つけ入る」絶好のチャンスだったというのです。つまり,旧制度を完全に破壊し,空白が生じる,そここそが「自由」な時空間であり,そこに「自由市場」への道が開かれるというわけです。その「自由市場」に新自由主義がかかげる「規制緩和」「民営化」「公共支出削減」を導入し,新制度を築きあげる,それはまさに経済の「金融化」への道でもあるという次第です。これが「ショック・ドクトリン」の内実。詳しくは,西谷さんの論考で確認してください。もっと詳細に分析を積み上げた上で,みごとな結論に到達しています。

その結果は,貧富の格差がますます増大することになり,新たなテロリストを産み出す構造になっていることは自明のことでもあります。ですから,アメリカは一見,失敗しつつ(戦争という一点では),その裏では,経済(それも「金融化」)という点では大成功というわけです。しかし,それはアメリカという国家を支えている人びと(政財界)の考えであって,アメリカという国家全体を考えたときには「覇権国家アメリカの凋落」のシンボルとして,まさに崩壊のシナリオを一直線に突き進んでいるとしかいいようがありません。

それを,みごとに証明してみせたのが,アラブ世界で起きた「民衆蜂起」です。この地域の独裁国家はアメリカの支援によって維持されてきたものです。それが,だれも想定しなかった,まさに「想定外」のこととして,その独裁体制が「これ以上は我慢ならない」というきわめて素朴な民衆の感情の集積によって,あれよあれよという間に崩れ落ちていきました。エジプトを筆頭にしたアラブ世界のこんごの行方は,21世紀の「世界」の新展開の鍵を握っている,というわけです。

こんな稚拙なまとめ方をすると,かえって,混乱を起こしてしまいそうですが,お許しください。わたしとしても,もう少し整理をした上で,このブログを書くべきだということは百も承知しているのですが,なんとしても,一刻も早くこの感動を書き止めておきたいという欲望を抑えることができませんでした。ので,あとは,西谷さんの論文にゆだねたいと思います。

で,最後に,なぜ,この論考に感動するのかといえば,以下のとおりです。
わたしの関心事であります「スポーツ史」や「スポーツ文化論」の領域では,「グローバリゼーション」についての議論がほとんどありません。もし,あったとしても,ごくごく「借り物」の議論でしかありません。ですので,そこにわたしは大いなる不満があります。そして,その現状をなんとかして克服したいものという強い願望があります。その一環として『近代スポーツのミッションは終ったか』(今福龍太,西谷修の両氏との共著,平凡社)を世に送り出しました。

つまり,スポーツがグローバル化するということはどういうことを意味しているのか,これがわたしの関心事です。しかも,来年には(じつは,ことしの予定でしたが,原発事故を理由に一年延期),日本・バスク国際セミナーが予定されていて,そのテーマが「民族スポーツとグローバリゼーション」です。その意味では,ナオミ・クラインの提示した『ショック・ドクトリン』は,これまでのグローバリゼーション理論にはみられなかった,まったく新しいものです。これをベースにして,もう一度,スポーツにおけるグローバリゼーションの問題を考え直してみようと,いまは強く思っています。

ナオミ・クラインのテクストもしっかり読み込んだ上で,できるだけ早い時期に,西谷さんを囲む会でも設定して,この論文を軸にしたお話を伺いたいものだ,といまから考えているところです。

「世界」のこの10年とはなにであったのか,を考えるための必読の論文として,みなさんにお薦めします。

島尾敏雄文学碑・第18震洋特攻隊基地・島尾ミホ生誕地などを巡る(奄美自由大学で)

初日(9月2日),奄美大島から加計呂麻島に渡り,一直線で向かったのは島尾敏雄文学碑の立っている呑之浦でした。代表作の『死の棘』くらいは読み返してからくるべきだった,とこれはあとの祭り。でも,あの作品の舞台になった地に立つことができ感動。

入江沿いの道路から山側のやや奥まった丘陵のとっつきの傾斜地に島尾敏雄文学碑がありました。正面の一番奥まったところにお墓があり,その一つ下の段に御影石でできたアーティスティックなモニュメントがあり,その手前のところにはやはり御影石でできた比較的大きな丸い円環を乗せたモニュメントがあり,その周辺にいくつもの黒御影石に彫り込まれた島尾敏雄の文学碑が,あちこちに建てられていました。道路からアプローチの雑木林のなかを抜けて,真っ正面に立つと,二つのモニュメントとお墓は一直線になっていて,その周囲に文学碑が建っている,という具合になっていました。雑木林の中をわたってくる風は涼しく,そして,とても静かなところでした。島尾敏雄さんという方はこんな感じの人だったんだろうなぁ,と勝手な想像をしていました。

今福さんは,早速,その円環のモニュメントの前にしゃがみこんで,さりげなくお祈り。それに倣う人もいれば,なにもしない人もいれば,人さまざま。わたしは正面に立ったまま,一礼だけして,少し離れたところから気持をこめて『般若心経』を唱えました。すると,島尾敏雄という人がなんだか急に親しい人に思えてきました。不思議です。

その文学碑のあるところから,入江沿いにさらにさきに行くと,そこには第18震洋特攻隊が用いた魚雷船が横穴の中に保存されていました。それも小さな船でした。こんな船に魚雷を積んで若者たちが命懸けで体当たりしていったのかと思うと,情けなくなってきました。その隊長が島尾敏雄でした。ですから,島尾敏雄も,いつかは必ず自分の順番がくる,と承知していました。そんなことを思い描いていたら,ふと,靖国神社に展示してある特攻隊用の飛行機を思い出していました。こちらもまた,まことにちゃちな飛行機で,こんなもので体当たりできたのだろうか,と不思議に思ったものでした。文献によれば,大半の飛行機は敵機に接近する前に墜落してしまった,とあります。この船もまた,そうだったのではないか,と哀しい想像をしてしまいました。

この呑之浦から山一つ越えた入江が押角(おしかく,島口では「おしゅかく」)という集落がありました。ここが,島尾ミホさんの生まれ育ったところです。この集落のかなり奥まったところに道路よりは一段高く土盛りをした空き地(とはいえ,ブッシュに覆われていました)があり,ここにミホさんの生家があったとのことです。ぐるっと回って一番奥まで行ってみると,門柱が一本だけ残っていました。その門柱と道路を挟むようにして小さな川が流れていました。ここが,ミホさんのエッセイにもでてくる思い出の川なんだなぁ,と装像をたくましくしていました。折しも,夕闇がせまり,たそがれどき。まさに「薄墨色」のとき。思いを馳せるには絶好の時間帯。

たっぷりと時間をとって,あちこち集落を散策。といっても,ほんとうに小さな集落ですので,すぐに突き抜けてしまいます。また,住宅であったと思われる空き地もあちこちにあって,若者たちはこの集落からでていく人の方が多いのだろうなぁ,とこれもわたしの想像。押角の船着場の少しさきの方に,ミホさんが勤めていた小学校の跡地があります,と情報通のMさんが教えてくださいました。そのとき,ちょうど,わたしはわたしで,まったく別のことを思い浮かべていました。

もはや,どの作品であったかどうかも定かではありませんが,ミホさんが島尾隊長と密会するときの情景です。夜陰にまぎれてミホさんが島尾隊長に遇いにいくときのシーンです。戦争末期も末期,島尾隊長もまもなく特攻隊員として出撃するということを知ったミホさんは,いてもたってもいられません。もし,出撃したと聞いたら,自分も死ぬつもりだった,とミホさんは書いています。そんなときの密会です。

真夜中とはいえ,だれにも気づかれないように,干上がった珊瑚の海を匍匐前進しながら約束の場に向かいます。到着したときには,腕も腹も脚も擦り傷だらけになっていた,と書いています。そして,帰りもまた同じようにして,擦り傷だらけのからだを海水に浸しながら,匍匐前進です。その場所は,はたして,この押角の海からどちらに向ったのだろうか,と。あるいは,どこか別のところまで陸路を行って,途中から海の干潟を進んだのだろうか,と。いずれにしても,お互いに命懸けの密会です。

そんなことを想像している間に,いつしか夜の時間帯に突入。
駐車場までもどってきたら,地元の若き唄者が車の陰で三線を弾きながら島唄を歌っていました。すると,そこに今福さんが絡み,そして,今福さんの三線の師匠の娘さん(といっても,かなりの高齢者)という人が絡み,3人で,リレーしながら唄がつづきます。突然のことで驚きました。夜の宴会の部で,島唄のインプロビゼーションがある,と聞いていましたが,まさか,ここでもう始まるとは・・・。これもまた今福流?奄美自由大学の流儀?

車に乗って移動を開始したとたんにこんどは空腹感に襲われました。時計をみると,もう午後8時をまわっています。あれあれ,です。そうか,加計呂麻島までくると,日没の時間はこんなに遅いのか,と納得。さあ,今夜の宿は「スリ浜」だ。あと,どのくらい車に乗るのだろうか,と地図を頭のなかに描いてみますが,所要時間まではわかりません。あとは,車に身をゆだねるのみ。夜の宴会思い描きながら・・・・。

2011年9月7日水曜日

奄美大島の「海」の神秘を体験(奄美自由大学にて)

奄美大島は山また山の大きな島でした,とすでにブログで書きました。
もう一つの強烈な印象は,やはり「海」。

奄美大島の海にはいろいろの顔がある,ということがわかりました。
一つは,太平洋側の海,もう一つは,その反対側の東シナ海側の海,三つめは,奄美大島の本島と加計呂麻島,さらに加計呂麻島と請島の間にある海峡の海,四つめは,入り組んだ奥深い入江の海。

島の北部の砂浜のある太平洋側の海は,初日(9月2日の午後)にじっくりと眺めることができました。早速,はだしになって波打ち際で足を浸しました。この快感。久しぶり。すぐ近くにサーファーたちが数人,海を眺めながら大きな波がくるのを待っていましたので,近づいて行って声をかけてみました。島の若者たちであることがわかりました。ので,この海はいつもこんな様子なのかと尋ねてみました。今日は台風の余波で,いつもよりは波が荒いので,サーフィンには絶好だとのこと。ということは,ふだんはもっと波が立たない,静かな海なのだ,というこがわかりました。わたしの郷里である渥美半島の太平洋側の海は,常時,人間の背丈よりも大きな波が砂浜を打ちつけています。たぶん,この島の北部の海岸は遠浅になっているので,大きな波は生まれにくいのではないかな,とこれはわたしの想像です。海岸よりは,むしろ,沖合の方が大きな波が立ち上がり,砕け散っている様子がみてとれました。ですから,ほかの海にいるサーファーたちは沖合でボードを抱えてぷかぷか浮きながら,大きな波がやってくるのを待っていました。一日待って,2~3回,大きな波に出会えればそれで満足と若者たちは言ってました。気の長い話だなぁ,と思いつつ,わたしの子ども時代の時間の流れを思い出していました。一日が無限につづく時間だったように記憶しています。そんな,とっくのむかしに忘れてしまった古い記憶が懐かしく甦ってくる瞬間に出会い,やはり,奄美にやってきてよかったなぁ,しみじみ思った次第です。

島の南部の海岸の多くは,山から海へ,すとんと急峻な傾斜のまま落ちています。もちろん,砂浜などはありません。平地がまったくないので,集落もありません。そういう海岸は,そのまま深い海になっているせいか,白波も小さく,海面の風で飛ばされた海水がわずかに波打つだけにみえます。海の色も濃いブルー。どちらかといえば黒に近い。海が相当に深いということがわかります。じっと眺めていると,どこか人を寄せつけないような神秘的なものを感じました。

東シナ海に面した海は,国直(くになお,島口では「くんにょり」)で,夕日が沈む海と早朝の海を眺めることができました。ここはかなり長い砂浜があって,やや入江になっているため,それほど大きな波は打っていませんでした。しかし,ここも遠浅であるらしく,波が幾重にも立ち上がっては砕け散っていました。ここでもサーファーがかなり沖合で波を待っている姿をみることができました。時折,サーファーが波をとらえて立ち上がるので,よくわかりました。今福さんのお話では,この海も干潮になるとかなり沖合まで海が干上がるとのことでした。この海は,国直に一泊しましたので,かなり長い時間眺めて過ごすことができました。夕日が沈む光景がいまも鮮やかに記憶に残っています。なぜか,おいで,おいで,と夕日に誘われているような錯覚に陥りました。今福さんは,夕日に向って,流木を数本,突き刺して不思議なオブジェをつくり,ひとり三線を弾きながら島唄をうたっていました。わたしはその隣で太極拳の基本の足裁きの稽古をしました。

同じ東シナ海に面した円(えん,島口では「いん」)の海は荒い波が打ち寄せ,海鳴りが常時,聞こえていました。岩の多いところで,海岸沿いの海底にも岩がいっぱいあるように見受けました。そのせいか,こここそ大きな白波がはるか沖合から幾重にもいくえにも打ち上げては,砕け散っていました。ここ円では,集落のご婦人たちの接待で,昼食(島料理)をご馳走になりました。この話はまたいずれ。この昼食を空き地にござを敷いて,みんなで車座になっていただきました。その間も,ずーっと海鳴りの音が聞こえていました。しかも,かなり大きな音で。この地の人たちは,朝・昼・晩の24時間,この海鳴りの音を聞きながら暮らしているわけです。たぶん,生まれたときから聞こえている音なので,この海鳴りの音がからだの中にもしっかりと染み込んで,一体化していることでしょう。それが,この地に生きる人たちの生まれながらの「からだ」なのでしょうから。海鳴りの音はなくてはならない生活音に違いありません。

奄美大島から加計呂麻島にわたるフェリーは大きな船でしたので,それほどに波による揺れは感じませんでした。しかし,加計呂麻島から請島にわたる海上タクシー(14人乗り)は大変でした。時間にして25分で渡れる海峡なのに,船着場のある入江から海峡にでたとたんに,ものすごい波・風に煽られて,揺れも波しぶきもひどいものでした。たまたま甲板にいたために,またたく間に右側半身が波しぶきでびしょ濡れになりました。短い海峡とはいえ,やはり,外海の威力を存分に体験させてもらいました。こんな海がなにかの事情で(たとえば,台風で)荒れたときの威力たるやすさまじいだろうなぁ,と想像してしまいました。そうなったら,もはや人間のでる幕はありません。海のいいなりにしたがうのみでしょう。あとは,じっと時の流れを待つのみ。この「待つ」ということが,おそらく前近代までの人間にとってはごくごく当たり前の話だったに違いありません。これもまた,現代社会を生きるわたしたちが遠い過去に置き忘れてきてしまった経験知のひとつと言っていいでしょう。それにしても,海の底力のようなものを忘れることはできません。

最後の海は入江の海。これは請島の池地で経験しました。ここでは昼食をとり,食後の休憩時間もたっぷりありましたので,みなさん思いおもいに泳いだり,カヌーを漕いだり,日光浴をしたり,海岸沿いに海水に足を浸しながら散歩したり,楽しみました。わたしはもっぱら欠けた珊瑚を拾っていました。汀には小さな魚がいっぱい泳いでいるのが見えました。静かな,とても静かな海です。しかし,ここにいると,海であることを忘れてしまいます。なぜなら,周囲は大きな山に囲まれていて,まるで箱根の芦ノ湖の湖岸に立っているような錯覚を起こしました。むしろ,芦ノ湖の方が波があったように記憶します。ときおり風が止まると,海面はまるで鏡のように静まりかえり,夢のような午後のひとときを過ごしました。まるで時間も止まってしまったのではないか,とさえ思ったほどでした。まさに,至福のとき。こういう深い入江があちこちにあって,車で移動しながら,海であることをすっかり忘れて山奥の湖水ではないかと思うことがしばしばありました。

こういう体験をさせてもらっただけでも,やはり,奄美大島にやってきてよかったとおもいました。自然と真っ正面から向き合うということが,こんなにもこころの洗濯になるということを,あらためて確認した次第です。海も山も大好きなわたしは,これだけでも大満足。こういう時間を,定期的に持たなくてはいけないなぁ,としみじみおもいました。奄美の海もまた神秘の宝庫でした。

今福さんは,この山と海のせめぎ合う境界領域,そこは同時に生命のみぎわでもある「汀」に早くから注目し,あるいは,夜と昼,生と死のあわいを彩る「薄墨色」に注目し,あるいはまた,大陸という帝国とはまったく別個の群島にのみ温存されている素朴な「生」の基本に注目し,そこから開かれてくる新しい「世界」に注目し,現代社会における「ミニマ・グラシア」(最小限の恩寵)を探し求めているのでしょう。そんなところに今福さんの「奄美自由大学」の深い企みが隠されているように感じた三日間でした。そのことを気づかせてくれたのも,まずは,山であり,そして,この海でした。そこに秘められている人智の及ばない神威の存在に気づくこと,それが「9・11」,そして「3・11」を通過したわたしたちに,いま,もっとも重要なことのひとつではないか,とわたしは考えています。

このことと,わたしの考える「スポーツ史」や「スポーツ文化論」は無縁ではありえません。これからも,もっともっと深く思考を押し進めていきたいと「希求」しているところです。

2011年9月6日火曜日

詩人の川満信一さんにお会いしました(奄美自由大学で)。

奄美自由大学2011に参加することの楽しみのひとつは,詩人の川満信一さんにお会いできるということでした。にこやかな笑顔が絶えない,とても静かなたたずまいでいながら,内に秘められた情感がにじみでている方で,思わず「ぐいっ」と惹きつけられてしまいました。こういう方だったのか,とじかにお会いできて,こころの底から納得しました。

同行した能面アーティストの柏木さんは,お会いするなり「いいお顔をしてらっしゃいますねぇ。ぜひ,面をつくらせてください。」と申し入れ。「えっ,面というのは・・・?」と川満さん。「現代人を能面の技法で面にする仕事をしていますので」と柏木さん。「ああ,あなたが柏木さんですか。お会いできるのを楽しみにしていました。いいですとも。喜んで」と川満さん。

そこで,早速,携帯のカメラで撮影開始。正面,斜め前,横と注文を出す柏木さん。それに対して,まことに素直にポーズをとる川満さん。でも,ちょっぴり,いい顔をみせようとしている川満さん。まるで,童心に返ったかのように。みていてとても微笑ましい光景でした。これが初日の夜の懇親会のときのこと。二日目にも,昼食後の休憩時間に,再度,デイ・ライトで写真を撮りたいのでとお願い。これにもとても素直に応じてくださる川満さん。やさしさが全身に表出している,なんと素敵な人なんだろうと惚れ惚れしてしまいました。

にもかかわらず,わたしは,ずっと傍にいながら,川満さんにはひとことも声がかけられず,緊張の連続でした。なぜなら,川満さんのオーラがおおきすぎて,声がでなくなってしまうのです。川満さんご自身は,まったくリラックスしていらっしゃって,身もこころも全開状態です。それもわたしには手にとるようにわかるのです。その完全に「開かれた」状態の人には,こちらもほんのわずかでもいいから「開かれて」いなくてはなりません。それを承知していながら,ますます硬くなってしまい,とうとう最終日まで,ひとこともお話しすることはできませんでした。

その点,柏木さんは「開かれた」人ですから,なんの衒いもなく,ごく自然に声がでて,自分の気持を素直に表明できるというわけです。まだまだ,わたしは修行が足りないなぁ,と深く反省。
川満信一さんとは,今回がまったくの初対面でしたし,川満さんの詩をそんなに多く読んでいるわけではありませんでした。ただ,出発前に,以前,今福さんから送っていただいた『マイケル・ハートネット+川満信一 詩選』(今福龍太編,叢書・群島詩人の十字路,サウダージ・ブックス,2010)を大急ぎで読んで,それなりの準備はしました。が,わたしに詩心が足りないために,川満さんの詩の発するメッセージがいまひとつ腑に落ちないところがありました。それどころか,巻末にある「川満信一年譜」を読んで,気持の上で圧倒されていました。こういう人生を生きてこられた人なんだという,にわか仕込みの情報が,わたしの頭のなかを占領していました。ですから,とてもおだやかな笑顔を絶やさない,こころの温かい人だということはわかっても,その背後にある川満さんの「生きざま」のすさまじさが邪魔をして,わたしを緊張させていました。

最終日の朝食の前の,ちょっとくつろいだ時間がありましたので,その時に,いまこそと一大決心をして川満さんにお声がけをしました。今福さんから送っていただいた『マイケル・ハートネット+川満信一 詩選』を,おそるおそる差し出して「サインをしていただけませんか」と声を絞り出しました。もちろん,川満さんは,「わざわざ持ってきてくださったんですね。それはとても嬉しいことです。ありがとうございます」と言って,丁寧にサインをしてくださいました。

「海を渡り,空を抜けて,宙に至る」と添え書きをしてくださいました。
丁寧に,しかも,とても達筆。しまった,こういう方なら筆を差し出すべきだった・・・と。次回,お会いできるときには筆を持参しよう,とこころに決めました。

サインが終わったら,「沖縄に来られることはありますか」とおっしゃるので,娘が結婚して那覇に住み着いています,とわたし。「では,ちょいちょい来られますね」と川満さん。そのように努力したいと思います。「なら,かならず声をかけてください」と川満さん。那覇では安里のうりずんというお店に娘と婿さんといくことになっています。「居酒屋はわたしの得意なところ。うりずんはよく知っています。ぜひ,そこで一献傾けましょう」とお誘いまでしてくださいました。ありがたいことです。こんなご縁もまた,奄美自由大学の大きな魅力のひとつと言っていいでしょう。

それまでに,自然体で声がかけられる人間になっていなくてはいけない,と反省しつつ。
川満さんの年譜については,あとで,追記することにしたいと思います。
とりあえず,今回はここまで。

2011年9月5日月曜日

「奄美自由大学」(今福龍太主宰)からもどりました。濃密な時間に感動。

奄美大島は山また山の,とても神秘的な島でした。
移動は自動車と船,そして脚。

平地があるのは,飛行場のある島の北部だけ。あとは,全部,切り立った山また山。そして,山から海に一直線に山の傾斜が切り込んでいる。岬はどこも山から海へ一直線。そして,入り組んだ海岸線の入江のあたりにわずかに砂浜(珊瑚の砂)があり,わずかな平地がある。その背後はすぐに大きな山裾につながっている。そういうところに小さな集落がこじんまりと形成されている。そんな可愛らしい集落が海岸線にポツン,ポツンと点在している。

あとは,山。それも尋常の山ではない。島とは思えない高さと深さなのである。だから,うっかりすると長野県の上高地あたりを車で走っているような錯覚に陥る。あるいは,箱根の山の渓谷を登っていくような・・・。ここはいったいどこなんだろうか,と。その山懐の深さが並みではない。ときおり通過する峠の見晴らしをとおして,山また山の奥山の真っ只中にいることがわかる。そこから海はみえない。みえるのは天空のみ。だから,とても,島とは思えない。

むかしの人は歩いて山越えをするか,あるいは,船で海岸線をわたるしか移動の方法はなかったはずだ。だから,隣の集落に行くのもひとしごとどころではない。文字どおりの大仕事だったはず。こんなことを考えると,この島の名前が「奄美大島」となづけられたのも,からだで感ずることができる。それは実感そのままだったこともわかる。とにかく「大きい」。それも,けたはずれに「大きい」。地図でみるとそれほどでもないようにみえるが,島の中を移動してみれば,間違いなくその「大きさ」がからだにしみこんでくる。

この山の大きさ(深さと高さ)は,人間を寄せつけないような,そこはかとない迫力を感じさせるものがある。島全体が山また山だ。北部のわずかな平地を除けば。あとは,入江のほんの小さな平地だけだ。その小さな集落に人びとが身を寄せ合って,ひっそりと暮らしている。そこには人間が「生きる」基本形が,しっかりと残っているように思われる。いや,間違いなく「生きる」基本形が守られ,大切に伝承されている。でなければ,とても安心立命して,生きてはいけないはずだから。

「生きる」基本形とはなにか。背中に大きな山を背負い,眼前にはどこまでも広がる無限の大海がある。この山と海と,いかに「折り合い」をつけながら生きるか。これが,この地で産み出された「生きる」基本形だ。そのために導きだされた「経験知」の集積。


山は大雨が降れば,どこからでも崩れ落ちてくる(今回の移動中も,あちこちで山が崩落している生々しい爪痕をみることができた)。そうなれば,あっという間に道路は遮断され,孤立する。海も荒れれば,いつでも,牙を剥いて襲いかかってくる。この山と海という大自然とどのようにして「折り合い」をつけながら生きていくのか。

その基本は,大自然への畏敬の念だ。人びとは大自然のあらゆるところに「神」を感じ,その「声」を聞く。そして,その存在に「ホーッ」と声を発して応答する。ときには襟を糺して「祈り」を捧げる。その祈りは,やがて歌となり,踊りとなる。そして,旧暦の8月15夜の真夜中の「神々との交信」が年中行事の重要な催し物となる。昼には「相撲」がとられ,「綱引き」が行われ,夜には「舞い踊り」が歌とともに奉納される。そして,「五穀豊穣,子孫繁栄」が祈願される。これが厳しい大自然と「折り合い」をつけながら「生きる」ための人間の「経験知」だ。

このことを車で移動したり,船で離島に渡ったりしながら,ずーっと考えていた。いや,考えるというよりも,自然に思いがそこにたどりついてしまう。だから,気がつくと,そんなことをぼんやりと思い描いていた。どんなに小さな集落にも公民館があって,そこの庭には土俵がある。そして,そのうちの何カ所かでは車を止めることがあったので,わたしの足は一直線に土俵に向う。ちょうど,旧暦の8月15日が近いせいか,土俵の手入れをしている集落の人たちに会うことができ,直接,相撲の話を聞くこともできた。

いまは,勤めの関係で,旧暦に関係なく,それに近い日の「日曜日」に相撲は行われるという。人数も少なくなってしまったので,ことしは何組の取組ができるかはわからない,という。でも,これはむかしから大事にされてきたことだから,止めるわけにはいかない,と。

ある公民館では,おばあたちが「歌と踊り」の練習をしていた。しばらく歓談しながら(今福さんや,毎年参加している人たちはみんな顔馴染なのだ),「歌と踊り」の練習を見せてもらった。途中で,お礼を言って帰ろうとしたら,別れのための歌と踊りをしながら見送ってくださった。「また,いらっしゃい」ということばとはまったく次元の違うところから,このおばあたちの「気持」がストレートに伝わってきた。ああ,なんと気持ちの温かい人たちなんだろう,と。そして,ことばのふくみ持つ意味は,なんと薄っぺらくて,形骸化していることか,と。それに引き換え,生活のなかにしみこんだおばあたちの全身をとおして表出する「歌と踊り」のもつ威力に,わたしのからだは震撼した。初めての経験だった。自分のからだのなかでなにが起きたのだろうか,としばらく呆然としてしまった。

そんなわたしの様子を感じ取られたのか,今福さんがそっと寄ってきて,つぎのような話をしてくださった。
「今日は,おばあたちはみんな気楽に歌と踊りの復習をしていたけれども,本番になるとまるで別人になってしまうんですよ。真夜中の真っ暗闇(ほんとうになにも見えない漆黒の闇だそうです)のなかで歌い,踊りはじめると,昼間,顔馴染だったおばあたちとはとても思えないような雰囲気が立ち現れ,まさにこの世ではない異界に一歩ずつ分け入っていくような気分になってしまいます。それは,もはや人間の世界ではありません。
若いころにメキシコの山奥で同じような歌と踊りに出会ったことがあって,それとまったく同じだと知ったとき,こころの底から感動しました。人間の始原の「祈り」の形態は,どこの地域もみんな同じなんだ,と。そのことを知ったとき,この奄美は自分のからだの奥底に深く浸透していくことになりました。その一環として,この巡礼があるわけです。」

なるほど,今福さんがこの奄美大島に惹きつけられていくひとつのきっかけはこんなところにもあったのか,とわたしはすっかり納得。わたしの長年の研究テーマのひとつでもある「武」と「舞」の同根性とも,みごとに共鳴するものがあって,強く印象に残りました。もう一言付け加えておけば,「スポーツ文化」の始原をみとどけてみたいという強い願望がわたしの中にはいつも働いています。ですから,今福さんのお話からも,その原風景をみる思いがしました。そして,わたしの抱いてきた仮説は間違ってはいない,とも。

ことしの「奄美自由大学」のテーマは,「群島創世記」──アブグイの谺を探して。「アブグイ」のことについては,この前のブログで書きましたので,そちらで確認してください。また,いつか,このブログの中でもあらためて書いてみたいと思っています。

奄美大島は山また山の大きな,大きな島でした。そして,どちらに向って車を走らせても,その山を越えれば,いつかは必ず海に出会います。その海がまた尋常一様ではありません。そして,その先の離島に行くには船しかありません。船に乗ると,それもフェリーのような大きな船ではなく,海上タクシーなる定員14名の,小さな船に乗ると,海との一体感がひしひしと伝わってきます。

乗せてもらっているわたしのからだも,船も,海と同調しないことには,なにもはじまりません。折しも台風12号の余波を受けて,海はまだ荒れていました。が,入り江を離れたばかりの海は静かでした。が,入り江から出て,海峡にさしかかったとたんに海は暴れ出しました。そんなこととはつゆ知らず,船の前方の甲板に居場所を定めて海を眺めていました。ですから,あっという間に波しぶきの洗礼を受けることになりました。しかし,当初はときおり襲ってくる波しぶきに歓声をあげて喜んでいました。ところが,そのうちに,間断なく波しぶきがやってきて,とうとう全身,びしょ濡れになる快感まで味わいました。ふとみると,今福さんも帽子を手で抑えながら,わたしのすぐ後ろで,にこにこしながら波しぶきを浴びていました。

この報告はエンドレス。

とりあえず,無事に「奄美自由大学」からもどってきました,という第一回目のご報告まで。
奄美は大きな,大きな「島」でした。そして,その「懐」の深さが強烈に印象に残りました。

2011年9月2日金曜日

特集「震災後,変わってほしいもの・ほしくないもの」(『myb』)を読む。

『myb』という「みやびブックレット」が季刊で刊行されている。新書判サイズで,たった70ページほどの,文字通りの小さなブックレットである。が,その執筆陣をみて,読書通の人なら驚かない人はいない。わたしのような人間でも「えっ?」と思わず声をあげてしまうほどの執筆者が名前を連ねている。しかも,ジャンルも多岐にわたっている。

その『myb』秋号(No.37)で特集「震災後,変わってほしいもの・ほしくないもの」を組んでいる。執筆者は,吉岡忍/橋本治/岸田秀/伊奈かっぺい/松延洋平の6名。この6名の人が,それぞれの立場から特集のテーマに即して,きわめて刺激的な論考を展開している。人の見方・考え方というものは,こうも違うものか,ということをコンパクトに知ることができる。コンパクトだからこそ本音がでやすい。あいまいな,ごまかしの表現は許されない。そこがまた読みどころでもある。

吉岡忍は,「人間の非力さ,命のはかなさ」──被災地の現場から,と題して魅力的な論考を展開している。すでにご存知のように,震災後,かれは徹底して被災地をくまなく尋ね歩いている。そして,被災者の目線から「震災」をとらえなおそうとしている。だから,語ることが,被災者の生の声をそのまま伝えることに専念している。津波にさらわれながら漂流した人の体験談や,忍び寄る津波の危険をまのあたりにしながらビデオ・カメラをまわしつづけていた人の談話とその映像をみての強烈な印象をつたえている。そして,「私はもうしばらく,言葉少なでありたい,と思う」と結んでいる。この謙虚さに胸が打たれる。

橋本治は,「超悲観論者の物思い」と題しての論考を寄せている。軽妙にして洒脱な文章が・・・と期待していたら,そうではなかった。大まじめに,この特集テーマに応答すべく努力している。が,いつもの「桃尻語」の印象がつよいわたしには,いささか意外な展開の論考だった。「止めてくれるなおっかさん。背中で銀杏が泣いている」という,あの全共闘時代の有名なコピーで知られる橋本治である。だから,わたしは密かに期待もしていた。いったい,どのように論ずるのだろうか,と。ところが,その期待ははずれてしまった。そして,どうやら「経済成長」支持派であることもちらりと顔をみせる。

岸田秀は,「歴史のなかの原子力発電所」と題して,きわめてユニークな論を展開している。精神分析学者の歴史観を前面に押し立てて,日本人とはそもそもどういう人間だったのか,そして,いまもどういう人間であるのか,と問う。わたしなどは,そうか,こういう見方もあるのか,と大いに教えられた。たとえば,「原子力発電所が増殖してゆく過程は大日本帝国陸海軍の部隊や艦艇が増殖してゆく過程と同じである。作り始めると,多ければ多いほどいいような気がしてくるのである」と説く。そして,「成長経済を奉じて余裕なく焦り足掻く人生をよしとするかどうかの人生哲学の問題だ」と言い切る。この結論部分には諸手を上げて賛成である。

伊奈かっぺいは,「聞く耳持つ専門家もいるだろうか」と題して,自由奔放に「かっぺい」節を展開している。皮肉とも,揶揄とも,ダジャレともつかぬ文体を駆使して,「専門家とはなにか」と問い詰めながら,ことの本質をとらえようとしていて面白い。そして,この「専門家」といわれる人びとの言説を信じてきた自分に腹を立てている。だまされた自分に腹が立つ,と。その点,わたしも同じだ。だから,二度とだまされまいとする決意と,そのための努力が必要だと,この人の文章を読みながらしみじみ思ったことだ。

松延洋平は,「東日本大災害は,世界を変える! では,日本は何処まで変われるのか?」と題して,わたしなどには持ちえない視点を提示してくれている。「コーネル大学終身評議員,国際問題アナリスト」という肩書をもつ松延洋平という人を,恥ずかしながら,知らなかった。とりわけ印象に残ったのは,「政権交代の時代に適応した政策などを研究提供する重厚な知的非営利集団がまず求められている」という指摘である。たしかに,政府の後手,後手にまわる指導力のお粗末さを批判する声はあっても,それに代替する提案をするものは,いまも見られない。このことは大いに反省すべき,わたしたち自身の問題でもある。

以上が特集の概要である。この他にも,「エッセイ」(秋葉忠利/清水義範),「論文」「連載」に,錚々たる顔ぶれを揃えている。なかなかの読物で,とても面白い。

このブックレットの編集・発行は伊藤雅昭さん。かつて,三省堂出版の『ぶっくれっと』の編集長だった人である。わたしもご縁があって,この『ぶっくれっと』に連載したコラムをまとめて『スポーツの後近代』という単行本にしてもらったことがある。もう,ずいぶん,むかしの話であるが・・・。とても素晴らしい編集者で,一本,筋がとおっている人だ。定年前に三省堂を退社して「みやび出版」を立ち上げた。単行本の出版もてがけている。

「みやび出版」の『myb』(みやびブックレット)の定期購読は以下にお申し込みください。
〒216-0033 川崎市宮前区宮崎606-5
電話:044-855-5723 FAX:044-855-2850
E-mail  miyabi@themis.ocn.ne.jp
URL  http://www4.ocn.ne.jp/~miyabisp/index.html
年4回刊行(季刊),年間購読料は1,800円(郵送料含む)です。できるだけ,1年以上の単位でお願いします,とのことです。

ぜひ,一度,手にとってみてください。いまのご時世に(いまのご時世だからこそ?),このようなぶっくれっとが刊行されていることは,まさに僥倖というべきか。わたしは伊藤雅昭さんのお仕事を応援しています。




2011年9月1日木曜日

明日(2日)から「奄美自由大学」(今福龍太主宰)で学んできます。

もう,かれこれ10年以上になろうかと思いますが,今福龍太さんの主宰する「奄美自由大学」に初めて参加させてもらうことにしました。なんだか学生にもどれるような気分でワクワクしています。心配だった台風12号もなんとかうまく回避してくれそうなので,ほっとしています。

原則として,毎年1回,開催されていて,そのつど今福さんからご案内をいただいていたのですが,なぜか,タイミングが合わず,これまで一回も参加できませんでした。が,今回,ようやくうまく時間がとれたという次第です。

ことしの企画は以下のとおりです。
奄美自由大学2011
群島創世記──アブグイの谺を探して
2011年9月2日(金)~4日(日)
奄美大島・加計呂麻島・請島
ゲスト:川満信一(詩人),宮内勝典(作家),藤枝守(作曲家)

送っていただいた〔巡礼行程〕をつぶさにみていきますと,盛り沢山の催しが組まれていますが,どうやらメインは加計呂麻島の聖地で行われる〔掛け合い即興詩「群島創世記」上演(川満信一+今福龍太)〕にありそうです。わたしは〔掛け合い即興詩〕なるものを初めて体験することになります。いったい,どういう展開になっていくのか,いまから楽しみです。

川満信一さんについては,今福龍太編著になる『マイケル・ハートネット+川満信一 詩選』(叢書群島詩人の十字路,サウダージ・ブックス)があります。その他にも「声の律呂」(『図書』,2010年5月号)や,『薄墨色の文法』(岩波書店)などにも,川満信一さんとの「掛け合い」の詳細が紹介されていますので,あんな具合になるのかな,という想像をたくましくしているところです。

加計呂麻島といえば,なにをおいても,やはり島尾敏雄とミホのことが思い浮かびます。その加計呂麻島のスリ浜の汀で,若き唄者の徳原大和の三線を囲んで,シマウタの掛け合いも行われます。その他にも,濱田康作さん(今回の企画の事務局長)が監督した映画「涙の道:チェロキー」や,今福龍太監督作品「里英吉──帰郷」などの上映も予定されています。

それよりも,なによりも,われらの太極拳の兄妹弟子である能面アーティスト柏木裕美さんの能面が相当数(伝統面と創作面の両方),持ち込まれます。そして,この能面を用いた「サプライズ企画」がどうやら内緒で準備されているようです。こちらも,ひょっとしたら,即興の「掛け合い」が行われるのかもしれません。

『群島──世界論』(岩波書店)という大著をものしたあとの,今福さんのこの「群島創世記」というテーマは,やはり「3・11」がどこかに意識されているようで,もう一度,原点に立ち返ることを呼びかけています。奄美自由大学2011への誘い,という案内の冒頭の文章は以下のようにはじまりまっています。
「アブグイ=呼ぶ声。人間に呼びかけてくる自然界やカミガミの声のことを,奄美島口ではこういいます。それは,自分がおもわず発した声の遠い谺のようでもあり,同時に,その声を聴いたら森のなかにいても珊瑚砂の汀にいても,かならず「ホーーッ!」と声を出して応えねばならない,神秘的な存在からの呼びかけでもあります。人間の声とアブグイとは,たがいにお互いの反響となり,分身となるべく定められています。そしてその道理が,奄美の始原世界の表地と裏地とを精緻に織り上げているのです。」
という具合にして,アブグイの谺の世界を魅力的なことばで解説してくれています。

さて,今福さんの仕掛けた「夢幻陶酔の三日間」にどこまで浸りこむことができるか,これからは自分との勝負です。つまり,奄美の始原の世界にどこまで一体化できるか,こころ静かに迫ってみたいと思っています。

というわけで,明日の10:55羽田発,奄美大島行のフライトが無事でありますことを,いまから祈るばかりです。では,行って参ります。また,帰り次第,報告をしたいと思います。では,今夜はこれにて。お休みなさい。

「両足義足の400mランナー」についてのコメントに応答します。

一昨日,アップした「両足義足の400mランナー」のブログに対して,「大仏さん」がコメントを入れてくれましたので応答したいと思います。

現段階でのわたしの結論は以下のとおりです。
オスカー・ピストリウス選手が,もし,仮に金メダルを獲得しても,それを剥奪する権利はだれにもありません。なぜなら,スポーツ仲裁裁判所の判決を経て,堂々と選手登録されているからです。つまり,ルールどおり。だれも異論をさしはさむことはできません。もし,オスカー・ビストリウス選手のような選手が陸続と現れた場合には,国際陸上競技連盟が「ルール変更」という手続きをとる可能性はあるでしょう(これは,どう考えても「ルール改正」ではありません。ここでいう「ルール変更」とは「ルール改悪」もふくめての用語です)。

今回のこの問題は,近代スポーツ競技というものの諸矛盾の一角が,またまた露呈してきた,ということの象徴的なできごとである,というようにわたしはとらえています。その根拠については,すでに『近代スポーツのミッションは終わったか』(今福龍太,西谷修の両氏との共著,平凡社)のなかで,かなり多面的に議論を展開していますので,そちらも参照してみてください。

この本の結論をかんたんにまとめておけば以下のとおりです。
近代スポーツ競技の「ミッション」はとうのむかしに終わった。つまり,近代国民国家を構築していく上で,近代スポーツ競技というものは絶大なる貢献をしました。しかし,もはや「近代国民国家」の時代は終わり,いろいろの意味で「国家」の枠組みからはみ出し,ボーダーレスの時代に突入しています。これと同じことが,近代スポーツ競技の世界でも起きていることは,すでに,みなさんがご承知のとおりでしょう。これをわたしは「近代」ではなく,まったく新しい時代という意味で「後近代」となづけて,新しい「スポーツ文化」の創出が必要である,と説いてきました。そして,いまは「21世紀スポーツ文化研究所」(「ISC・21」)を立ち上げ,その研究をつづけています。

たとえ話の上手な「どじょう首相」に倣って,わたしも下手ながら,たとえ話をしたいと思います。

たとえば100m競走のように,人間の眼では判定できない同着のようなレース結果を,1000分の1秒の差まで計測して,金メダルと銀メダルとを分ける必要がどこにあるのでしょうか。これを「認めている」わたしたちは,すでに「狂って」います。この狂っていることに気づいていないのが,いまのわたしたちの姿です。理性的には,なんの間違いもありません。理性が到達した科学技術の最先端の計器を用いて,その差を「区別」することそのことはなんの間違いでもありません。しかし,そこになんの意味があるのでしょうか。

たとえば,体操競技。いまや中学校や高校から「体操部」がどんどん撤退しています。理由はかんたんです。あれだけの競技施設を学校で確保できるだけのお金がありません。くわえて,つぎつぎに進化していく新技を指導できる先生がいません。もはや,学校のクラブ活動から「体操部」は撤退を余儀なくされているのは,よく,ご存じのことと思います。みんな,学校の外にある「クラブ」に行くしか方法はありません。それも,一定の経済力のある家庭の子弟のみです。

もうひとつだけ。義足の高反発はグラスファイバーを取り入れたものだと聞いています。陸上競技の棒高跳びで用いるポールがブラスファイバー製です。わたしの学生時代の同級生でオリンピック選手であった安田君は当初は「竹」のポールを使っていました。そして,みるみるうちにスチールのポールに変わり,やがてグラスファイバーになりました。それもつぎつぎに新製品(性能の向上とともに)がでてくるので困り果てていました。お金がかかって,みんなに助けてもらわなくては競技生活はやっていけない,とぼやいていたのを記憶しています。

つまり,近代スポーツ競技はお金がなくてはやっていかれない「スポーツ文化」に成り果ててしまった,というわけです。ですから,「世界平和のために」というオリンピックのスローガンは「偽善」です。その「偽善」を許せない人たちが「テロ」という手段に訴えて,攻撃の対象にしている,というこの構図をしっかりと頭に入れておく必要があります。つまり,一見したところ卑劣にみえるテロ行為は,この「偽善」が生み出しているということを忘れてはなりません。ここまで考えれば,どちらが「卑劣」であるかは明々白々です。

こうして,近代スポーツ競技はあちこちで「破綻」をきたしているのです。その最後のとどめを刺したのが「ドーピング問題」です。この時点で,もはや「近代スポーツのミッションは終わった」とわたしは考えました。つまり,自由な「競争原理」が臨界に達したということです。いってしまえば,近代スポーツ競技に「未来」はない,ということです。あるとすれば,ドーピングも自由,補助具も自由,あらゆる禁止条項をはずして,記録への挑戦を認めること,そして,それを眺めて感動する人が多数を占めること,ということでしょうか。そういう世界がいかなるものであるかは,ご想像にお任せします。

もはや,近代スポーツ競技に「未来」はない。その「未来」はいま,ここにすでにある,からです。この論理はわたしのオリジナルではありません。西谷修さんが,フクシマ以後を語った論考のなかで展開している論理です(ここでも,「どじょう首相」の真似になってしまいました)。

つまり,近代スポーツ競技はフクシマと同じ結論に到達している,ということです。

そういう視座に立って,オスカー・ピストリウス選手のこんごを見守ることが大事だ,とわたしは考えています。もっと踏み込んでおけば,オスカー・ビストリウス選手のこんごの活躍こそが,近代スポーツ競技の諸矛盾を超克していく上で不可欠であるとさえ考えています。そういうまなざしと,温かいこころで見守ってあげてくださることを祈っています。

こんな短いスペースで,十全を期することは不可能です。ので,どうか,わたしの意とするところをおくみ取りくださるようお願いいたします。そして,また,さらなる「コメント」を寄せてくださることを期待しています。

ではまた,お元気で。
「大仏さん」へ。