2014年10月31日金曜日

『山口昌男 人類学的思考の沃野』(真島一郎・川村伸秀〔編〕)がとどく。

 2014年10月31日発行,と奥付にありますので,ちょうど今日あたりに書店に並んだのではないかと思います。『山口昌男 人類学的思考の沃野』真島一郎・川村伸秀編,東京外国語大学出版会,定価:本体3400円+税,ISBN 987-4-904575-42-0。わたしのいただいたのは,東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所発行の非売品で,編者の真島一郎さんのご好意によるものです。いつものことながら,ありがたいことです。


 昨年3月に亡くなられた山口昌男さんの追悼企画本が相次いで何冊も出版されましたが,今回のこの本もその流れのものと言っていいでしょう。しかし,よくよくみると,いささか趣が異なります。というか,本家本元の本格的な追悼企画本というべきでしょう。その特色は,編集をよくみればわかります。たとえば,山口昌男さんの文章の再録は最小限に抑え,山口昌男さんと深いかかわりのあった人びとによる文章を主体にしている点に現れています。

 そして,その中核をなしているのは,書名と同じタイトルでなされた追悼シンポジウムの記録であること。わたしも拝聴させていただいたシンポジウムですので,はっきりと記憶しています。青木保さんが「基調講演」をなさり,つづいて渡辺公三さん,真島一郎さん,落合一泰さん,栗本英世さん,船曳建夫さん,そして今福龍太さんが登壇され,それぞれの立場から山口昌男さんを追悼するお話をされました。とても印象に残ったのは真島一郎さんと今福龍太さんのお話でした。そのときのお話がここに再録されたことは,わたしにとってはとても嬉しいことでした。


 この本はめくればめくるほど,その面白さにずるずると引き込まれてしまう不思議な構成・編集になっています。たとえば,本書の真ん中あたりに上質紙のカラーページが織り込まれています。そこは,「越境する視線──山口昌男のスケッチによせて」というタイトルのもとに,山口昌男さんの得意のスケッチがふんだんに登場します(上の写真は,表紙扉で,「ヘルメスをイメージして描かれた山口昌男による自画像)。これまでにもちらほらとあちこちで散見されましたが,これだけまとまって山口さんのスケッチが見られるのは初めての経験です。一つひとつ楽しみながら拝見しているうちに,そこはかとなく達意の絵心がつたわってきます。このスケッチの筆力は只者ではないと気づき,ほかのページをめくっていたら,東大入学と同時に二紀会の画家・黒田頼綱さんのアトリエで「クロッキー・デッサン,ヌード・デッサンを学んだ」とあります。なるほど,山口さんの絵心は単なる物好きからくるものとは次元が違います。



 しかも,山口さんにとってスケッチは単なる遊びではなかった,ということもわかってきます。ここに寄せられた真島一郎さんの「顔──記録と記憶のあわい」という文章を読むとよくわかります。じっと対象をみつめる力,全体を見わたし,なおかつ細部にまでとどくまなざし,こうした力こそが文化人類学者としての基本要件ではないか,とこれはわたしの推測。つまり,全体と細部,その両方をみずからの眼と手で確認しながらその本質をつかまえ,自分の頭をとおして紙の上に再現する力。山口さんはそういう能力の達人でもあったのだ,といまさらのように思いました。

 その他には面白い仕掛けがあちこちになされているのですが,その全部を紹介することはできませんので割愛させていただきます。最後に,「Ⅳ.資料編」が折り込んであって,そこには「学術研究の記録」(佐久間寛)と「山口昌男年譜・著作目録」(川村伸秀)が掲載されています。ここはことのほか便利で,これまでの類書にはない素晴らしい内容になっています。少なくともわたしにとってはまことにありがたい情報が満載です。

 この年譜などをめくっていましたら,ふと,わたしと山口さんとの不思議な関係もまた蘇ってきて,なんだか妙な気持になっています。たとえば,本書のP.395には「アジア・アフリカにおける象徴と世界観の比較研究」(第二期)の共同研究員としてわたしの名前が掲載されています。たしかに,在外研究員としてウィーンに滞在したあとのことで,奈良から何回も通って研究会に参加させていただいたことを思い出します。山口さんは,このころ,テニスに熱中しておられ,そのプレイ・スタイルも拝見させていただきました。テニス・コートでの山口さんは童心そのもの。こころのそこから楽しんでいらっしゃいました。

 また同じように年譜をめくっていましたら,1951(昭和26)年 20歳のところに(P.431),「クラスは文科Ⅱ類7D。同クラスには,宇波彰,子安宣邦,三善晃・・・・・」といったわたしにも馴染みのある人びとの名前があがっています。ここに,じつは,わたしの従兄弟の故稲垣瑞雄(作家・詩人)も入っていたのです。本人の口から直接にも,「山口昌男はおれと同じクラスだった。おれも山口もほとんど大学の授業は受けていなかった。三善晃とは卒業後も仲良くしていて,のちにおれの詩に曲をつけてくれたから聞きにこい」と言って呼び出され,一緒に音楽鑑賞をしたこともあります。法事などで会うたびに,「おれの同級生にはこんな奴がいたんだよ」といって,山口昌男さんの話もよくされていました。

 とまあ,こんなことを数え上げていきますと際限がなくなってしまいそうです。そんな,不思議な記憶を蘇らせるような仕掛けが,この本にはあちこちに散在しています。ですから,めくりはじめるとやめられなくなる,そういう魅力的な本になっています。真島一郎さんは,こういう仕掛けの本も編集される人なのだと知り,ますます好きになってしまいました。また,いつかチャンスをみつけてお礼のご挨拶に伺いたいと思っています。

 山口昌男さんについて,いささかなりとも関心をお持ちの方には,絶好の「総集編」になっていると思います。素晴らしい本です。こころからお薦めします。

2014年10月29日水曜日

「小野の里」(小野妹子,小野篁,小野小町,小野道風,などゆかりの地)をフィールドワークしてきました。

 びわ湖の西岸を走る湖西線の沿線に,「小野」という駅があります。つぎの駅が「和邇」。このふたつの駅の間の山側に,いわゆる「小野の里」とよばれる地域が広がっています。たった一駅の区間ですので,ハイキング・コースとして知られ,ふたつの駅ではハイキング・コースの絵地図を用意しています。駅員さんに声をかけるとすぐに手わたしてくれます。

 健脚者であれば,もっと山側に分け入っていくと,古い古墳群が点在していますし,そのむかし和邇一族が鉄の加工を行っていたという蹈鞴(タタラ)の遺跡も残っているとのことです。このタタラ遺跡は,この地域の古代史の謎を解くためのキー・ポジションのひとつでもあります。なぜ,この地にタタラ遺跡が残されたのか。当時の日本には鉄鉱石から鉄を抽出する技術はまだありませんから,鉄のかたまりを朝鮮半島から運び,この地で鉄の加工を行ったというのです。ですから,なぜ,この地で?という疑問が湧いてきます。

 わたしたちは総勢5人。そのうちのひとりは「小野」姓。しかも,かれの家系図には小野篁がその祖であると明記されていて,大事に保存されている,といいます。しかも,かれがその小野家のご当主でもあります。かれ自身もまた半信半疑ながら,ひょとしたら,という期待もあっての参加です。ですから,単なる「小野の里」めぐりでは済まされません。おのずからなる緊張感もただよっていました。そんなわけで,これまでに経験したことのないフィールド・ワークになりました。

 同行者のもうひとりは「河童研究者」。タタラを支えていたのは和邇一族。その和邇から分離独立したのが小野一族。となれば,朝廷の中央と密接な関係にあった小野一族(小野妹子を筆頭に)が,あるときからその存在が曖昧になり,分散離散していく運命をたどることになる,この経緯をしっかりと分析していくと,「河童」との接点もなきにしもあらず,というわけです。

 わたしの仮説では,天智天皇が大津宮を造営し,その地で天皇に着任したこと(なぜ,この地でなければならなかったのか,という点についてはまた別の機会に),そして,3年後には病没,その直後には,弟であるのちの天武天皇に滅ぼされたこと(壬申の乱,これもまた説明不能な暗い陰の部分がありますが,これもいずれまた),このとと小野一族が深くかかわっていたのではないか,というのが一つ。もう一つは,小野神社の社務所で仕事をしていた古老の人から聞いた話。それは,南北戦争のときに小野一族は後醍醐天皇側につき,敗戦とともに離散してしまった,というもの。その結果として,「小野に小野なし」といわれるように,小野の里に小野姓を名乗る家系は一軒もない,とのこと。

 となると,これは出雲族と同じで,国譲りのあとは,全国に離散していったこととよく似ています。しかし,出雲族には知恵者がいて,崇神天皇(神武天皇と同一人物説あり)以下の天皇と手を結び(そのうちのひとりがノミノスクネ),天皇家にまつろった一族は栄華をきわめ,まつろわなかった一族はエタ・ヒミンとなり,さらに差別された一族は「河童」にされてしまいます。

 こんなことを考えてみますと,「小野に小野なし」と伝承されてきたということは,小野姓を名乗ること自体が反天皇ということを意味することになり,したがって,小野姓を捨てて別姓を名乗るか,それとも小野姓を名乗りつつ隠れ里に蟄居するか,のいずれかの選択を迫られたのではないかと考えることができます。

 まあ,こんなことを考えながら,「河童研究者」の車に便乗して,小野姓を名乗る研究者仲間と一緒に「小野の里」をめぐりました。駅でもらった絵地図によれば,和邇駅をスタートとするハイキング・コースになっていますが,わたしたちがもらった絵地図は小野駅でしたので,そのハイキング・コースを逆に移動することになりました。最初に行ったところは唐臼山古墳(小野妹子が埋葬されていたところと考えられており,その遺跡を中心に,いまは小野妹子公園と呼ばれています)。この地は深い感動を覚えました。いずれ写真を提示しながら,くわしく感想を書いてみたいと思っています。

 つぎにたどりついたのは小野道風神社。大きなお寺の横の路地を入った突き当たりのところにありました。どちらかといえば瀟洒なこじんまりとした神社でした。ここでのくわしい感想もまた,別の機会に。

 つぎは小野神社・小野篁神社。ここは境内も大きく,しっかりとした構えの神社でした。いかにも小野一族の祖霊を祀る神社といった風格を備えていました。ここで,社務所にいた古老から小野一族に関する伝承をいろいろと聞かせていただきました。これは偶然でしたが,なかなかのインフォーマントとしての役割を果たしてくださいました。ありがたいことです。それは,同行した小野姓を名乗る,わたしたちの研究者仲間のお蔭でした。家系図の話もしてありましたので,当然のことながら,古老の弁にも熱が入ります。

 最後に到達した神社が「天皇神社」。これがどういう性格の神社なのか,あちこち眺めまわしましたが,つかめないままでした。同名の神社も聞いたことがありませんし,不思議な神社でした。なぜ,「天皇神社」などという名の神社がこの地に存在するのか。なにか,隠された伝承でもあるのでは・・・?と想像をたくましくしています。

 トータルの感想を書いておけば,さらなる予備調査をした上で,確かなインフォーマントをみつけてインタヴューをしてみたい,その上で,もう一度,自分の脚でこの地を歩いてみたい,としみじみ思いました。

 以上,とりあえずのご報告まで。詳しくはまたのちほど。

2014年10月28日火曜日

抗ガン剤治療を少し休むことにしました。

 少しブログを休んでしまいました。その間,いろいろありましたのでご報告です。

 咳風邪をひろってしまい(10月14日),なかなか咳が止まらす一進一退のなか,25日(土)にはびわこ成蹊スポーツ大学で開催された「ISC・21」10月例会に出席(この報告はいずれまた)。いま考えてみますと,このときが最悪でひどい咳をしていましたので,みなさんに心配をかけてしまいました。が,自覚症状としてはそれほどにも考えいませんでした。ですから,懇親会でも,二次会でも,いつものように美味しいワイン(リオハを持ってきてくださった林さんに感謝)もご馳走になりました。このときは,嘉田由紀子新学長(前・滋賀県知事)さんもご一緒でした。ですから,気分は上々でした。

 この日の夜,強烈に咳き込み,汗びっしょりとなるほどの寝汗をかきました。が,そのお蔭で気持もからだもすっきりして,咳もほとんどでないほどになっていました。ので,かねてからびわ湖周辺に点在する古代遺跡を訪ねるフィールド・ワークも,天気にも恵まれ,爽快な気分で「小野の里」(小野妹子,小野篁,小野小町,小野道風,などのゆかりの地)を巡ることができました(この報告もまたいずれ)。

 とてもいい気分で新幹線へ。が,ここで冷房が効きすぎていて,からだがどんどん冷えていくのがわかり,車掌に頼んで「弱く」してもらいました。が,それでも足りず,ついに毛布を借りてからだを温めようとしたのですが,冷えきってしまったからだは暖かくなりません。これはよくないなぁ,と思っていたら案の定,新横浜駅で降りて歩きはじめたら,からだ全体が鉛のように固く,重く感じられ,必死で電車を乗り継ぎ,帰宅。

 ほとんど食欲もなく,酒を飲む気も起こらず,わずかばかりの残り物を食べて夕食を済ませました。そして,早めに就寝。睡眠だけは充分にとりました。朝食はあんパンと牛乳。以前から27日(月)に予定されていた抗ガン剤治療のための定期診断で病院へ。これまでとは違って,身心ともに最悪の状態でした。

 採血をし,検査結果がでるまでの間に問診表をわたされましたので,ありのままの状態(自覚症状としては最悪)を記入して提出。いつものように薬剤師さんと面談。抗ガン剤の副作用が大きいことを伝えました。その結果が主治医さんに伝えられたところで,わたしの診断に入りました。主治医さんは血液検査の結果を総合的に判断して,副作用がかなり大きいことを認め,つぎの抗ガン剤治療に入るタイミングを少し延期しましょう,ということになりました。

 次回は11月17日(月)に,再度,血液検査をし,その結果をみて,治療方針を決めることに。要するに「休息期間」を少し長くして,様子をみようということです。この診断がでて,少しばかり安心。なぜなら,抗ガン剤を飲まなくてもいい情況をつくりたいと密かに考えていたからです。できることなら,少しずつ抗ガン剤を飲む量を減らしたり,休息期間を長くしたりしたい,と。そのための第一歩がこれでできた,とある意味では大満足。

 でも,病院にでかけ(足どり重く),採血され,長い時間,待たされ,帰りに食材を大量に買い込み,家に着いたときには疲労困憊。遅い昼食になりましたが,そうめんを茹でて,軽めに食べて,すぐに就寝。ぐっすり眠りました。

 夕刻には起き出してきて,夕食の支度。いつものごった煮(にんじん,じゃがいも,こんにゃく,だいこん,たまねぎ,厚揚げ,ブタのバラ肉,など)をずんどう鍋にいっぱいになるほどつくって(継続して食べられるように),ご飯と豆腐の味噌汁。少しばかり食欲もでてきましたので,赤ワインを少々飲みながらの夕食を済ませました。

 しかし,夕食後もブログを書く気力はなく,嘉田学長さんからいただいた本を読み始めました。が,長くはつづかず(内容はとても面白く,意気投合する話ばかりなのに),12時前に就寝。少し寒いと感じましたので,羽毛のチョッキをパジャマの上に羽織って眠りました。これが結果的にはとてもよかったようで,夜中にびっしょりと寝汗をかきました。そして,体重もストンと落ちて,ついに50㎏を割ってしまいました。が,気分爽快,からだも軽い。よしっ,これで咳風邪を払拭することができた,と確信しました。

 咳は多少,残っていますが,あとの問題はクリアできたようです。
 昼食前にブログを書こうという気力ももどってきました。

 これから11月17日までは抗ガン剤治療が延期されましたので,この間に,からだを休めて,英気を養い,体重をもとにもどして,万全を期したいと思っています。

 以上,わたくしごとばかりで,お許しください。
 取り急ぎ,ご報告まで。

2014年10月25日土曜日

NHKの「金曜eye」の東京五輪報道に異議あり。政府のプロパガンダではなく国民目線の報道を。

 たまたま夕食どきのゴールデン・タイムだったので,何気なく,食事をしながら「金曜eye」をみるはめになりました。みていると,東京五輪の話らしい。ふーん,と思いながら,とりあえず新聞の番組情報を確認。すると,面白い文字が躍っていました。

 金曜eye 今こそチャンスをつかもう! 東京五輪で人生バラ色 新たな生きがい発見! ▽わが町がブレーク! ? パラリンピック人気が社会の常識を変える? ▽伊集院光・山瀬まみ。

 ええっ? この番組はいったいなにを報道しようとしているのか,とわが眼を疑いました。

 「今こそチャンスをつかもう!」・・・・いったい,なんのチャンスをつかもうというのか。
 「東京五輪で人生バラ色」・・・・いったい,東京五輪で,なにを,どうすれば人生バラ色になるのか。
 「新たな生きがいを発見!」・・・・いったい,なにを,どうすれば新たな生きがいを発見することができるのか。
 「わが町がブレーク!?」・・・・いったい,東京五輪を契機にして,どうやってわが町がブレークするのか。

 まあ,わたしの性格がねじれているからか,最初から疑心暗鬼のまま番組の進み行きを眺めていました。もう少し精確に言っておけば,今日・現在までの東京五輪2020の準備の進め方に大いなる疑問があって,少なくともこのままの準備の進め方(国民の声を無視した独断専行)をするかぎり,東京五輪2020は破綻をきたすに違いない,と心配していたからです。

 それだけではありません。いま,東京五輪2020にとって最大のリスクはフクシマをどのように制御するか,この一事にかかっている,と言っても過言ではありません。フクシマの情況は日々,悪化の一途をたどっています。セシウム137の拡散だけでも,予想の100倍,1000倍というとてつもなく高い数値が発表されるようになりました。とうとう隠しきれなくなったということでしょう。しかも,太平洋にはとてつもない大量の汚染水が垂れ流しです。これだけでもすでに,東京五輪2020は「返上すべき」である,とわたしは考えています。

 のみならず,富士山噴火,都市直下型地震,などのリスクも抱え込んでいます。最後の決め手は,東京五輪2020の開催時期の問題があります。7月26日が開会式,それから2週間の会期。真夏の暑さの真っ盛り。おまけに台風の通過時期のピーク。この会期はどう考えてみても台風がひとつは通過していきます。ひょっとしたら,ふたつ追い打ちをかけるようにやってくるかもしれません。なぜ,こんな,スポーツの祭典にとっては最悪の時期に東京五輪2020の会期を設定したのか。まったく理解に苦しみます。さらには,東京五輪2020のために,既設の施設はほとんど使わないで新設する,という構想です。ところが,資材・人材が足りず,建造費が鰻登りのように急騰していて,充分にあるとされてきた東京都の準備金ではとても足りないということがはっきりしてきました。そこで,東京都は「見直しをする」といまごろになっていい始めています。

 その最たるものが新国立競技場の建造です。まだ,改修すれば充分に使える東京五輪1964の遺産でもある国立競技場を取り壊して,新しい競技場を建造するというのです。その強引なやり方が,ここにきて破綻をきたし,すでに工期が半年もずれ込んだまま,その見通しも立っていません。この問題については,じつに多くの団体が異議を唱え,その対応策を提案しています。が,事業主体であるJSC(日本スポーツ振興センター,文部科学省管轄団体)は一顧だにしません。完全無視を貫いています。

 この他にも,大問題が山積しています。それらについてはここでは残念ながら割愛します。こうした暗礁に乗り上げたままの難題が山ほどある,というのが現状です。わたしは少なくとも5つの団体が取り組んでいる東京五輪2020に関するシンポジウムや研究会や報告会に,何回も参加し,そこでの議論を熟知しています。それは,ひとことで言ってしまえば,きわめて深刻な問題ばかりだ,ということです。別の言い方をすれば「民主主義の否定」。独裁国家の表出。

 しかし,主要メディアはこれらの活動をほとんど報道していません。それどころか,政府の圧力に屈したかのように「無視」を貫いています。あるいは「自発的隷従」を。ですから,一般国民は,ほとんどなにも知らないままでいます。

 そして,のほほんと「あと6年後」には東京五輪2020がやってくる,と無邪気に楽しみにしているのが実情でしょう。そこに,NHKのこの番組でした。

 わたしはあきれ返ってしまいました。これまで述べてきたような問題が山積していることなどは「ひとかけら」も触れることなく,のほほんと,どうでもいい情報を垂れ流しただけでした。しかも,コメンテーターは伊集院光と山瀬まみ。

 結論。臭いものには蓋。そして,猫騙しのような手をつかって,ひたすら東京五輪2020を美化することに専念。お粗末。しかし,こうやって世論を操作していることだけは,まぎれもない事実。国民を無視した,政府御用達の国営放送。もはや,戦前の大本営発表と同じことをやりはじめている,と今日の放送ほど強く感じたことはありません。

 かつて,「民主主義の熱的死」(西谷修著『不死のワンダーランド』)という論文を眼にしたときの衝撃が,いま,眼の前に立ち現れた,と。銃を構えた兵士がわたしの前に突然現れ,銃をつきつけられたような気分です。お前も銃をもって戦え,と言わんばかりの威嚇。それが,今夜(24日)のNHKの「金曜eye」という番組からの,わたしへのメッセージでした。

 あなおそろしや。あなおそろしや。

2014年10月24日金曜日

踊る中国人? 中国のスポーツ(斎藤淳子)。

 中国に関する情報はいろいろの意味でバイアスがかかっていて,わたしたちは真の中国の姿をとらえるのが困難です。中国の人びとの日常生活とスポーツの関係も,おいそれと信用できる情報はよほどのことがないかぎり不可能と言っていいでしょう。ですから,ぼんやりとしたイメージを勝手に作り上げて,想像するだけで精一杯です。

 そんな中にあって,この話は信用できそうだ,という記事に出会いましたので,紹介しておきたいと思います。情報源は『ひろばユニオン』(労働者学習センター刊,2014年10月号,P.49~51.)中国在住のライター・斎藤淳子さんの連載・中国便り(第7回)です。

 記事の内容は,実際に中国で暮らしながらの見聞を,ことし実施した中国国家体育総局の調査結果とを比較検討したものです。これなら条件付きではありますが,かなり信頼できるものだ,と確信しました。

 まずは,見出しにある「踊る中国人?」。こちらの情報は意外に多く,中国人は日常的によく踊る人たちだというイメージは多くの人が共有しているのではないか,と思います。かく申すわたしも,数少ない中国旅行での見聞にすぎませんが,「踊る中国人」という意味ではまったく同感です。早朝の公園や広場には,ごくふつうの家庭人と思われる人たちが大勢集まって,思い思いの集団をつくって踊りを楽しんでいます。その踊りも種々雑多で,言ってしまえば,なんでもありの踊りです。かなり本格的な伝統舞踊と思われるようなものから,エアロビックスのような踊り(体操?)もあれば,リーダーの即興を真似しているだけと思われるようなものもあります。しかも,みんながそろって同じように踊るのが目的ではなくて,自分が楽しいと思われる所作を即興で取り入れているのではないか,と思われる人の方が多いということです。

 こういう「踊る中国人」は,昼休みの公園にも現れます。こちらは勤め人らしき人たちが多いという印象です。つまり,中年の男女が多いということです。そして,さらに,夕食後と思われる夜の時間帯にも,多くの人びとが公園や繁華街の広場に集まってきて,大音響を鳴り響かせながら,見ず知らずの人びとをも巻き込んで踊りを楽しんでいます。年齢も若者たちから老人まで,なんの区別もありません。ですから,わたしたちのような外国人観光客が紛れ込んでもなんの違和感もなく,踊り楽しむことができます。

 ポイントは,ただひたすら,自分が楽しければいい,ということ。他人のまなざしなどはいっさい気にしないこと。むしろ,他人の注目を浴びるような独創的な踊りを即興で繰り出すこと,そして,拍手喝采を浴びることに主眼があるように思います。ですから,みんな熱中して踊っています。

 こんな光景に出会いますと,これは現代中国が生みだした独特の文化なのだろうか,と考えたりしています。とりわけ,改革開放後の・・・などと考えたりしています。この点については,もう少し,きちんと調べてみないと・・・と思っています。

 さて,思いがけず「踊り」の話に熱中してしまいましたが,つぎは「中国のスポーツ」です。こちらの情報は,わたしの蓄積してきた情報やイメージとはかなり異なっていて,驚きの発見でした。中国の「いま」を知る,とてもいい機会になりました。

 斎藤淳子さんのレポートによりますと,子どもたちがスポーツを楽しむ機会は日本とくらべるとはるかに少ない,といいます。子どもたちは,とにもかくにも「勉強」することが最優先。スポーツクラブに参加できるのは,特別の才能が見込まれた子どもたちだけ。大会で入賞できそうな子どもたちだけが集められ,その他の子どもたちはオフリミット。しかも,スポーツの成績が伸び悩むと,クラブから排除されてしまうという仕組みになっているそうです。かつての,スポーツ・エリート主義の残像がいまもまだ生きているという次第です。これはちょっと意外でした。

 学校体育の授業もあまり重視されてはおらず,試験が近づくと,体育の授業が国語や算数の授業に変更するのは当たり前のことだといいます。その結果,児童・生徒の体力は,日本にくらべるとかなり低いということです(05年の調査結果による)。たとえば,11歳の50m走の平均タイムは,日本は9.10秒,中国は9.50秒。0.4秒の差というのはかなり大きな差です。

 これではいけないという反省に立ち,95年には中国体育法を制定し,「全民健身計画」を作成して,いわゆる生涯スポーツへの第一歩を踏み出した,といいます。そして,00年からは高校入試に体育のテストが義務づけられたとのこと。

 こうした努力を積み重ねながら,一方では08年の北京オリンピックの成功をみ,09年には8月8日を「全国民フィットネスデー」と定め,遅ればせながら生涯スポーツの振興策にも着手しているとのことです。その影響でしょうか,都市部の若手会社員をターゲットにした「フィットネスクラブ」が急増している,といいます。しかも,低価格競争による大衆化の方向と同時に,エリートたちを対象にした高級フィットネスクラブの二極化が進んでいる,とも。

 それでも,クラブの年会費は,安い方でも年会費約1千元(約1万7千円),高い方では約6千元(約10万円)もするとのこと。平均すると,2~3千元(約3万4千円~5万1千円)くらいだといいます。わたしの感覚からすると,こんなに高い年会費を払って,フィットネスクラブに通う会社員が急増している,という実態が理解できません。ということは,台頭しつつある中国の市民社会の活力の高さについての認識を欠いているという証拠でもあります。

 ことほど左様に,日本のマスメディアが報ずる中国情報が,いかにいい加減なものでしかないか,ということを思い知らされてしまいます。そのために,多くの日本人は中国について誤解したままの状態から抜け出せないでいます。かく申すわたしも残念ながらそのひとりですが・・・・。

 中国はいまや活力にあふれた立派な大国です。

 斎藤淳子さんのこの連載・中国便りを読むだけでも,中国についての認識が一変してしまいます。わたしたちはもっと精確な中国情報を手に入れる努力をしなくてはなりません。そうしないと,とんでもない大きな間違いを犯しかねません。その典型例が「尖閣諸島」の一方的な国有化問題です。中国が「歴史に学べ」と大人の主張するのに対して,日本の対応はまるで子どもの主張のようにみえてきてしまいます。残念ながら・・・。

 中国のスポーツ情報については,別途,あらゆる手をつくして情報蒐集をし,じっくりと考えていく必要がある,と斎藤淳子さんのレポートを読んで,深く反省している次第です。

2014年10月23日木曜日

自然現象に反応する,わたしたちのからだ(五感)。文明化とともに衰退。

 御嶽山のふもとの住民の間では,この夏に昆虫や鳥たちが激減していたことに気づき,大いに奇異感をいだいた人たちがいた,という。だからと言って,この人たちは大騒ぎをするわけでもなく,じっと静観していたらしい。そして,あとになって考えてみれば,やはり,昆虫や鳥たちは異常を察知していたようだ,と。

 自然界の掟は侮りがたし・・・。それにひきかえわれら人間は・・・・。

 話はこれだけで終わってしまってはもったいない。

 異常を察知した昆虫や鳥たちの仲間のなかにも,なにも感じないままそこに居残った者たちがいた,というもうひとつの事実にも注目したい。

 なまずは地震を予知する,という話はよく知られている。しかし,すべてのなまずがみんな地震を予知するのかといえば,そうでもないらしい,ということ。

 ひるがえって,われら人間のほとんどは地震を予知する能力を失っている。それでも,ごく少数だが,地震を予知することのできる人たちがいることも事実だ。わたしの知人にもひとりいる。彼の場合は100%ではないが,かなりの確率で予知している。本人の言うには7割くらいは予知している,と。しかも,強い地震になると,からだ全体が騒ぎだす,という。

 つまり,生物界には二種類の存在がある,ということ。そして,異常を察知する能力の高い種が生存競争を生き抜いてきたらしい。ということは異常を察知する能力の低い種は淘汰されていく,ということだ。だとしたら,原則的には人類,すなわち,わたしたち人間はいずれ淘汰されてしまう,ということになる。

 実際にも,その兆候が近年,顕著になってきた,と警告する研究者は少なくない。

 その最大の敵は急速な「文明化」現象。裏返せば,人びとの自然からの乖離。

 たとえば,スマホ依存症。歩きながらもスマホから眼が離せない新人類たち。わからないことはスマホに聞けばいい。なにからなにまでマニュアル化したスタンダードな情報を提供してくれる。それらを鵜呑みにし,わがバイブルのようにして生きている人たち。スマホがあれば困ることはないかのように・・・。その代わり,スマホがなければ生きてはゆけない新人類。

 自分ではなにも考えない,考える必要も感じない,いわゆる「思考停止」状態の人間の誕生。すべてが「受け身」。みんながすることに無意識のうちに右へ倣え。そこから脱落することだけにはいたって敏感。なぜか,女性たちの顔もみんな同じようにみえてくる。つまり,お化粧が同じ。そして,小顔。

 「赤信号,みんなで渡れば怖くない」(たけし)・・・・この調子だから,戦争も辞さない若者たちが増えているという。もちろん,その背景はいささか異なるが,その一因にスマホ依存症もおおいに貢献しているのでは・・・?とわたしは考える。ポピュリズムの温床のひとつ。

 人間は基本的に「自然存在」である。もって生まれた人間の「内なる自然」を,つぎからつぎへと登場する最先端科学技術という名の文明化の浪が襲いかかる。そして,その「内なる自然」を無用の長物であるかのようにマヒさせてしまう。そのことに気づきもしない新人類。

 この文明化の進展とともに衰退していくわたしたちの身体感覚(五感)。この五感を,しっかりと守り,さらに研ぎすませていくことによって,本来の人間の生き方をとりもどすこと。そして,やがては自然現象にも素直に反応するからだをとりもどすこと。

 この意味でも,わたしたちはいま大きな岐路に立たされている。

 このことは,「命よりも金」という生き方に決別することと同根である。

 そんなことを,御嶽山のふもとの昆虫や鳥たちが教えてくれている。

2014年10月22日水曜日

1907(明治40)年,神社の境内で遊ぶ子どもたち。

 わたしの育った村は,小さな集落(字)ごとに神社と寺があり,村落共同体の基本単位となっていました。子どもたちも,自分たちの字の子とそうでない子との間には,どことなく仲間意識が違っていました。その違いは遊ぶ場所の違いからきていたように思います。

 
みんなの共通の遊び場は小学校の運動場。授業後は,かばんを家に放り込んで,一目散に運動場をめざしました。先着順で遊び場を確保するためです。しかし,当時は野球が盛んでしたので,中学生や小学校の上級生たちに追い出されることがしばしばでした。「六三制,野球ばかりがうまくなり」という川柳が生まれた時代です。

 敗戦後の小学校3年生だったわたしたちは運動場から追い出されると,神社か寺の境内をめざしました。ただし,ここでの野球は禁止されていましたので,この図版に描かれているような遊びをしていました。つまり,明治の終わりころの子どもたちの遊びが,昭和20年代の敗戦後にも行われていた,ということです。しかも,場所も同じ神社の境内です。

 第二次世界大戦という戦争に負けてしまいましたので,食べるものも着るものもない,貧乏な生活を送っていました。もちろん,遊具もありませんので,みんな手作りです。こま回しは,いかに上手にこまをつくるかが勝負の分かれ目でした。負けると悔しいので,みんな必死でこまづくりに励みました。肥後守という名のナイフが大活躍でした。当時は,鉛筆削り用に,みんな一本ずつポケットに入れて,持ち歩いていました。

 ですから,喧嘩になると,ポケットから肥後守をとりだし,これを握って振り回しました。が,お互いに切りつけるほどの勇気はないので,ひたすら威嚇のための道具でした。こどもなりの安全圏を確保した上での,ナイフの活躍でした。学校の休み時間だけでなく,神社の境内でも,この肥後守は大活躍でした。

 こんもりとした森に囲まれた鎮守の森は,子どもたちにとっては別世界でした。大人の監視の眼からも逃れ,子どもたちの自由の天国でした。言ってみればなんでもありの世界でした。ですから,ずいぶん乱暴な遊びもしました。みんなに嫌われるようなことをすると,縄で縛られ,木の枝に吊るされることもありました。必死になって謝らないかぎり,降ろしてはくれません。ルールはなにもありませんでしたが,暗黙のうちに,やってはいけないことは決まっていました。そのぎりぎりのところの遊びが最高の遊びでした。

 大人になるための大事なこと,人生にとって大事なこと,それらはすべて鎮守の森の「遊び」のなかで学んだ,と言っても過言ではありません。

 ところが,最近では,鎮守の森で遊ぶ子どもたちはいません。こんもりとした森もあらかた伐採されて明るくなり,遠くからでも社殿が丸見え。寺も同じ。集落の藪も取り除かれ(防犯のためと聞いています),あちこち明るくなってしまいました。しかし,子どもたちにとっては,秘め事に近い遊びをするには薄暗い,ほのかな闇が舞台装置として不可欠でした。ですから,明るくなってしまった神社や寺の境内は,密かな悪事を企む子どもたちにとっては,もはや,なんの魅力もない場所になってしまったようです。

 こんなことを回想させる一枚の絵。わたしにとっては,なんとも懐かしい記憶を呼び覚ます絵。数少ないわたしの宝物のような絵。それがこの絵です。

2014年10月21日火曜日

トヨタ最高益,下請けは7割が減収。これがアベノミクスの実態。

 ついこの間の決算で,これまでの記録を塗り替える「最高益」を生みだしたトヨタ。新聞に大きく報道されました。それにしても,大きな赤字が出たり,かと思うと突然の最高益が出たり,わたしのような素人には大企業の決算が,どういうからくりになっているのかはよくわかりません。その素人の眼からみれば,親会社が赤字になれば,その下請けも減収になるというのはわかります。しかし,親会社が最高益を出したにもかかわらず,その下請け業者の7割が減収だという,この理屈は納得がいきません。

 しかも,この大企業の決算をみて,あるいは,統計上の数字だけをみて,景気は上向いている,と政府は嘯いています。実際には下請けの減収という歪みが生まれており,けして世の中は明るくなってはいません。その証拠に,消費も伸びなやんでいます。つまり,末端まで利益が配分されていない,という実態がここにも表出しているように思います。

 その根拠が下の図表です。とくとご覧ください。出典は『ひろばユニオン』(労働者学習センター刊,10月号,P.76.)です。さらに精確を期しておきますと,帝国データバンク「トヨタ自動車グループの下請企業実態調査」8月発表によるものです。

 
ほんの一握りの大企業の社員たちだけが高額所得者となり,ぜいたくな暮らしをしているのを,わたしのような人間の身近にもみることができます。しかも,その裏側では,同じ大企業に勤務する契約社員や派遣社員は低賃金のまま,それでいて正社員と同じ仕事を押しつけられている,というのが現実のようです。つまり,一割にも満たない人びとに利益が集中していて,その他の人たちはその犠牲にあえいでいる,という実態が浮き上がってきます。

 トヨタはわたしの出身県である愛知県にある会社ですので,多くの知人・友人やその関係者がいろいろのかたちでトヨタとは関係をもっています。端的に言っておけば,トップの社長から末端の下請業者にいたるまで,地縁・血縁でつながっています。そこから入ってくるこれまでの情報によれば,下請け業者はみんな泣かされている,というものばかりで,いい評判は聞いたことがありません。にもかかわらず,正社員は,若いときから羨ましいほどのいい暮らしをしています。

 自動車のボディの仕事に従事していたわたしの知人のひとりが言うには,ボディを組み立てるための膨大な部品を,それぞれ「1円」ずつ安くするためにあらゆる智恵を絞るのだ,とのこと。それに成功するだけで,膨大な利益を上げることができる,と。ですから,そのために下請け業者を競合させ,鎬を削らせるのだ,と。

 かくして,下請け業者はますます窮地に追い込まれ,親会社のトヨタのところにだけ利益が転がり込むことになる,というわけです。なんともはや,地獄の沙汰かと思われるようなすさまじいことが現実には行われているというのです。

 これはなにもトヨタだけの話ではありません。つい最近の新聞記事のなかにも,介護施設や幼稚園に膨大な余剰金がたまっているので,これを世の中のために活用すべきだ,というとんでもない話が載っていました。介護施設や幼稚園で働く人びとが,いかに低賃金のもとで重労働に耐えているかは,わたしのようなものでも知っています。なのに,この遊んでいる余剰金を,ほかのところに活用すべきだ,というのです。とんでもない話です。この余剰金こそ,低賃金によって生みだされた経営者による「ピンはね金」であり,「吸い上げ金」にほかなりません。そんなにあるのなら,低賃金に耐えて働いてきた人たちに一刻もはやく還元すべきです。そして,それよりなにより,雇用条件(労働条件)や賃金体系を改善すべきです。そして,労使ともに納得のいく労働環境を整えることでしょう。

 しかし,そんなことはどこ吹く風。これまで以上に経営者の権限を強化して,労働者の雇用を自由にできるよう規制を緩和して,ますます大企業優位の社会を構築しようとしています。これがアベノミクスの実態のひとつの大きな側面だとわたしは受け止めています。こんな不平等極まりないことが,アベノミクスの名のもとで,いま,粛々と行われようとしているのです。恐ろしいことです。世の中はますます富める者と貧しき者とに二極化していきます。しかも,その富める者はほんの一握りの人びとによって独占されていくことになります。

 アメリカでは,すでに,「1%の富める人間のために,99%の貧しき者が犠牲になっている」,この構造を打破すべきだという運動が展開しています。日本にも遠からず,こうした状況がやってくることは必定というべきでしょう。アベノミクスならぬ「アメノミクス」の到来。その引き金が「TPP」。人間の命よりも金の方が大事という「亡者」たちが世界を席巻しています。困ったものです。いつになったら目覚めることか・・・・と。「待つ,しかないか」(木田元・竹内敏晴)と。

10歳児の味覚に異変。31%が「甘い」「辛い」の区別がつかない,とNHKニュース。

 衝撃的なニュースでした。昨夜(20日)のNHK・ニュースウォッチ9でのことでした。わたしはしばし呆然としてしまいました。とうとう,ここまできたか,と。

 いまから,かれこれ15年も前のことでしょうか。大学院のゼミのなかで,たまたま食文化の話になり,中華の専門店のラーメンとカップ・ラーメンとは,どちらが美味しいか,という議論になりました。そのとき,数人の院生がカップ・ラーメン派でした。わたしは思わずわが耳を疑いました。最初は冗談だろうと思って聞いていましたが,本気でそう思っているということがわかったとき,天を仰いでしまいました。

 まったく新しい人類の誕生である,と。

 その当時,すでに,味覚のコントロールが食品メーカーによってなされているという話題がもちきりでした。主役は,即席ラーメンと即席カレー。一年ごとに味を変えることによって売り上げを伸ばそうという戦略が,密かに練られ,実践されている,と。

 理屈はこうです。即席系の食品は一年も食べると「飽きる」。その飽きがきたタイミングを見計らって,飽きた味覚に対して,ちょっとだけ味付けに手を加え,これは美味しいと感じられる方向に味覚をコントロールする。これを毎年,繰り返し,12年計画で,もとの味に戻すのだ,というのです。12年経過すれば,かつての子どもたちは大人になり,世代交代がなされ,だれにも気づかれることもなく,味覚をコントロールすることができる,というのです。そして,もちろんのこと,売り上げ増を達成することができる,というわけです。

 テレビでも盛んにコマーシャルが流れましたので,わたしも釣られて試食してみたことがあります。が,味が強烈で,たまに食べるにはいいけれども,常食する気にはなれませんでした。しかし,子どもは飛びつきました。とても美味いという。これはいけないと気づき,徹底的に薄味の野菜の煮物をつくり,食材そのもののもつ味を,徹底的に教え込みました。これは功を奏し,いまではわたし以上に味覚に鋭く反応する大人になっています。

 それが,ちょうど10歳前後のことだった,と記憶しています。

 ニュースによれば,味覚がもっとも鋭敏に反応するようになるのが10歳児と言われ,このころの食習慣によって,その子の味の好みは決まる,と考えられているとのこと。その10歳児の味覚に異変が起きている,というのです。東京医科歯科大学の先生たちが調査した結果(実際に味覚テストを実施している映像が流れる),31%もの児童が「甘い」「辛い」の区別がつかない,ということが明らかになった,と。

 わたしは考え込んでしまいました。すでに,「思考停止」人間が激増していることが話題となり,考える必要のない利便性が人びとの生活を支配しはじめた結果ではないか,と言われています。考えてみれば,この10年ほどの間に,世の中は驚くほど「便利」になりました。その主役は携帯電話であり,iPHONEだと言われています。いまや,財布をもつ必要もない時代に突入です。

 各種のIT機器を使いこなすことさえできれば,必要なことのほとんどはIT機器が教えてくれます。つまり,マニュアル時代のはじまりであり,「知」の平準化(受け身)の時代です。出産から育児まで,みんなマニュアル化された情報にしたがっていれば安心という時代です。ですから,そのマニュアルから少しでもはずれると,大騒ぎになります。例外を受け入れ,考える力がまったく欠落しているからです。

 言ってしまえば,人間は,いつのまにか情報によって自在にコントロールされる「機械」になりはててしまった,というわけです。つまり,機械によってコントロールされる「機械」の一員になってしまった,ということです。

 かつて,ジョルジュ・バタイユは「有用性の限界」ということを主張していました。その理由は,人類は道具を発明し,その「有用性」に気づいたときから,人間性に目覚め,動物性を否定するようになりますが,それをやりすぎると人間もまた単なる「道具」になりはててしまう,と考えたからです。

 このバタイユの警告が,いまや,わたしたちの現実となってしまっています。しかも,もはや,完全に道具の虜になりはててしまって,そこにどっぷりと浸りこんでしまい(居心地がいいので),そこから抜け出すことすら忘却してしまっています。そういう人が圧倒的多数を占めてしまいますと,それが当たり前になってしまいます。そして,自分たちが狂っているということすら気づかず,それどころか自分たちこそ「正しい」と信じて疑いません。

 現代の病根はここにある,と言っても過言ではないでしょう。

 10歳児の味覚の問題だけではありません。おそらく,大人もふくめて,人間が本来持ち合わせているはずの「五感」のすべてに「異変」が生じているに違いありません。第六感を働かせることのできる人間は,いまや,風前の灯火でしょう。それどころか「非科学的」という名のもとに断罪されかねません。

 「明日は雨が降る。だから,今日のうちにやるべきことをやっておかなくては・・・」とわたしの母はよく言っていました。そして,それがほとんど間違いなく的中していました。気圧の変化をからだのどこかで感じ取っていたようです。こういう人が,わたしの子どものころにはたくさんいたように思います。ですから,運動会や遠足が近づいてくると,母親に何回も何回も天気の様子を確認したものです。当時の天気予報は,よく「はずれ」ていましたから。ですから,母親の天気予報の方がはるかに信頼がおけた,という次第です。

 御嶽山のふもとの住人の間では,ことしの夏,虫や鳥たちが激減したことが話題になっていたといいます。どこかに移動して,姿を消してしまった,というのです。よく知られていますように,野性の動物たちが「移動」をはじめると天変地変が起きる前兆だ,と言われています。そのとおりのことが御嶽山では起きたわけです。

 10歳児の味覚の異変。この衝撃的なニュースに触れ,一晩中,何回も目覚め,そのたびにこんなことを考えていました。恐ろしい時代になったものです。

2014年10月20日月曜日

NHKスペシャル「カラーでよみがえる! 東京100年の映像物語」をみる。「カラー化」の話のはずが・・・?

 まずは,「カラーでよみがえる!」というタイトルに惹かれました。いま,はやりの古い白黒の写真をカラー化して復元する,あれだな,と。モノクロの写真をカラー化するということ,そのテクニックはともかくとして,古い写真に色を復元させるということ自体がなにを意味することになるのか,わたしの関心はそこにありました。

 と同時に「東京100年の映像物語」という見出しも魅力的でした。そうか,東京の100年を映像でふり返るというのも面白そうだなぁ,と。セピア色した古い東京の光景が,すでに,懐かしさとともにわたしの記憶のなかにはあります。というよりも,むかしの東京の光景はすべて,わたしの頭のなかではセピア色です。それをカラー化した本がではじめたとき,わたしはひどい違和感を覚え,そんな馬鹿な・・・と思ったことをはっきりと記憶しています。もちろん,当初はテクニックも酷かったことはたしかですが,それにしても,カラー化することの意味が理解できませんでした。

 そんなこともあって,この番組をみていました。予想どおり,とても面白くて,なるほどなぁ,と感動しきりでした。ひとつには,カラー化の技術がここまできたのかという驚きがありました。と同時に,時代の「色」を再現させるということの意味も,なるほどなぁ,といくらか納得しました。

 しかし,ひっかかったのは,「色」を決定し,再現させるのはこんにちの技術者集団の人びと,つまり,人間である,ということでした。徹底的に調査研究を重ね,ようやく到達した技術だ,と番組のなかでは見得を切っていましたが,とはいえ所詮は人間のやることです。ほんとうに,そういう「色」であったのかどうかという厳密なチェックもまた人間のやることです。

 なにが言いたいのか。技術に対する懐疑です。

 もう一点は,現段階でのカラー化の技術と,これでよしとする技術者の「思い込み」が,それをみる人に対してはそのまま「刷り込み」になってしまう,という関係。こうして,新しいイメージが技術によって再生産され,それをそのまま真に受ける新人類が誕生し,また,新たな「思い込み」が世間に浸透していくことになります。そのことが意味するものはなにか,と考えてしまいます。

 つまりは,歴史認識の問題です。

 でも,面白い映像がつぎからつぎへと映し出されてきましたので,それはそれでとても面白く,いつのまにかからだを乗り出して魅入っていました。わたしの興味を引いたトピックスは,たとえば,関東大震災,日本橋の変遷,銀座を闊歩するモガ,東京大空襲,1940年の東京五輪,神宮外苑,学徒出陣(懐かしい江橋慎四郎さんの姿も),天皇の玉音放送,などなど。

 そんな風にしてみているうちに,おやっ? なにか変だぞ,と思い始めました。それは,1964年の東京五輪の映像が流れたときです。この時代には,すでに映像のカラー化は普及しているのに,と。なぜ,このときの映像をそのまま(カラーのまま)流すのか,と。モノクロとの比較をするわけでもありません。と,思っていましたら,この番組の後半からは,映像のカラー化の問題からどんどん脱線していきます。

 そして,いつのまにやら,東京100年の間にこれほど「進歩・発展」したのだ,というプロパガンダになってしまっていました。関東大震災からもみごとに復興を遂げ,東京大空襲からもみごとに復興し,東京五輪1964をきっかけにして東京は飛躍的に「進歩・発展」したのだ,首都高速道路の建造にもほとんど反対はなかったと断定し,日本橋の上を横切るあのみっともない映像を流しています。この映像と「カラー化」とはなんの関係もありません。おまけに,東京タワーは当時の世界一の高さを誇ったと紹介し,つづけてスカイツリーの映像を流しました。

 こうなってきますと,この番組はいったい,なにを目的に制作されたのか,その企画・意図はなにか,とつぎつぎに疑問が湧いてきました。いったん疑問が湧いてきますと,あとは際限なくつづきます。そして,「ああ,こんな番組にまで,情報コントロールの手が伸びているのか」という,なんともはや味気ないところに到達してしまいました。これもまた,わたしの「思い込み」にすぎませんが・・・。

 たかが「思い込み」,されど「思い込み」。

 つまり,人間は,どんなに科学が発展しようが,アカデミックな歴史研究がなされようが,そして,どんな思想・哲学が展開されようが,どんな教育がなされようが,さらには,どんな情報をメディアが流そうが,はたまた,どのような宗教が広まろうが,最終的には,きわめて個人的な「思い込み」に還元され,その「思い込み」に依拠して生きていくしかありません。だからこそ,「カラー化」のもたらす問題系についても,慎重にならざるを得ない,というのがわたしの正直な問題意識です。

 NHKスペシャルは,時折,素晴らしい番組を流してくれますので,わたしは長い間,注目してきました。しかし,最近になって(つまりは,アベ政権になってから顕著なのですが),みていて腹立たしくなり,思わず「吼えたり」してしまうことが多くなってきました。

 その意味で,この番組はじつに手の込んだ,みごとなまでの手法(演出)を用いた情報操作がなされていた,とこのブログを書きながら考え,ここまで書いてみましたら,もはや,びくともしない確信になってしまいました。これがブログを書くことのいいところ。

 それにしても,メディア・リテラシーとはなにか。あるいは,噂とはなにか。そして,歴史を動かす原動力はなにか。人間の「思い込み」。

2014年10月18日土曜日

前後に移動するときの脚の運び方は歩行運動と同じです。その2。李自力老師語録・その54。

 鷺沼の事務所には,天気がいいかぎり毎日通っています。駅から事務所までの道順は日によって異なりますが,いずれにしても,ひとつの小さな峠を越えなければなりません。ですから,行きも帰りも,登って下る,を繰り返します。行きは登りが少なくて,下りが多い。帰りはその逆になります。ですから,むかし入れ込んだことのある山歩きの小型版を,日々,楽しんでいるという次第です。しかも,パソコンと本を入れた少し重いザックを背負いながら。

 このときの歩行運動は,平地の移動(ロコモーション)とはいささか異なります。もちろん,登りの歩き方と下りの歩き方も異なります。ですから,この道を歩くときは,むかし身につけた山歩きの技法を,無意識のうちに用いています。

 しかし,最近になって,脚力が衰えてきたせいか,この登り・下りの歩き方を意識するようになりました。一歩,一歩,考えながら。そのむかし,初めて本格的な登山に連れていってもらったときのように。この一歩が大事なのだ,とからだに染み込むまでには相当の時間がかかりました。そして,いつのまにやら,いわゆる山屋の歩行法というものを身につけました。そんなことを思い出しながら歩いているとき,突然の天啓が降りてきました。思わず「アッ!」と声を挙げてしまったほどです。そうか,そうだったのか,と。

 そうです。この山屋の歩行法と太極拳の「歩行」の仕方とはほとんど同じなのです。

 山屋の歩行法とはつぎのようなものです。
 わたしが熱中した登山は,一週間ほどかけて歩く,いわゆる縦走登山でした。ですから,一回の登高には40~50㎏ほどの重いザックを背負うことになります。これだけの荷物を背負って歩くとなると,ふつうの歩行では不可能です。まずは驚異的な脚力が必要です。それと,脱力の仕方,および,バランス感覚。

 たとえば,右脚から左脚へと一歩を踏み出します。そのとき,右脚はただ体重を支えて立っているだけではありません。それとなく重心をほんの少しだけ下げて,その反動をつかって左脚を踏み出します。つまり,沈しているわけです。そして,左脚が着地して,そちらに体重が移動するとき,左脚は足首・膝・股関節のすべての関節をつかって,柔らかく体重を受け止めます。そして,全体重を左脚一本で支えます。体重から解放された右脚は,できるだけ脱力して,ぶらぶらの状態でゆっくりと前に送り出されていきます。この送り出されていくときに,左脚はそれとなく沈しています。そして,右脚のかかとが着地するまでは,左脚一本で,ゆるぎなき安定感を保ちながら,しっかりと立っています。つまり,ドゥーリ(独立)しています。

 これが重い荷物を背負ったときの山屋の歩行法です。これが完全に身についてしまいますと,ふつうに都心の歩道を歩いているときでも,ほんのわずかですが,上に書いたような動作が表出してしまいます。もちろん,一般の人には見分けはつきませんが,同じ山仲間たちの眼にはすぐにわかります。「山屋が歩いている」と。

 この一歩の踏み出し方と体重の掛け方,そして,独立,その上で体重から解放され脱力した反対側の脚を前に送り出す,この繰り返し。やや「がに股」になることも含めて,山屋さんの歩き方と太極拳の前進するときの脚の運び方とは,なんとよく似ていることでしょう。

 これで,わたしの中には,ひとつのイメージはできあがりました。あとは,実践あるのみ。ただ,ひたすら稽古をして,無意識のうちにこの前進の仕方が身につくまで,繰り返しくりかえし,からだに叩き込むのみ。言うは安し。行うは難し。

 たぶん,いまの脚力では不可能。約五割増,少なくとも三割増くらいを目指して脚力を強化することが先決なのでしょう。それも含めて,李老師のような「ゆるぎなき脚の運び方」を目指して,わたしの体力に合った脚の運び方,つまり,前進の仕方を研究してみたいと思います。

 なお,山屋さんの歩行法には「後進」はありませんので,こちらは,また,別の発想で研究してみたいと思います。

 以上,歩行運動の考察まで。

前後に移動するときの脚の運び方は歩行運動と同じです。その1。李自力老師語録・その53.

 太極拳の稽古をはじめた初期のころに李老師が言われたこのことばの意味が,いまごろになって少しわかってきたように思います。これまでは,ああ,そうなんだ,という程度の理解でした。つまり,ことばの上での理解であって,からだの芯にまで浸透したものにはなっていませんでした。ということはなにもわかってはいなかった,というわけです。

 「前後に移動するときの脚の運び方は,ふつうの歩行運動と同じです」。このなんの変哲もないことばが,じつはとてつもなく奥の深い意味内容をもっているとは・・・・。太極拳は,どうやら,簡単な動作ほど奥が深いのではないか,と最近になって考えるようになりました。

 たとえば,太極拳の最初の動作=チーシ(起勢)。体重を右脚に乗せて左脚を持ち上げ,肩幅分だけ左側に移動させ,左足の爪先から徐々に体重を移しながら,左右バランスよく均等に体重を支え立つ。そのとき,右足の裏側から大地の気を吸い上げ,股関節を通過させて,左足に送り込むのです,と李老師はこともなげに仰います。

 外見上の動作だけなら,だれにでもできるチーシ(起勢)。しかし,このチーシという動作は,たとえば,全日本選手権に登場してくる選手たちをみていても,みんな個々別々で,個性そのものが表出するものだ,ということがわかります。言ってしまえば,みんなバラバラです。ひとりとして同じ動作になることはありません。しかも,その美しさを感じさせる選手はごく稀にしかいません。

 ところが,李老師が,大きな大会の最終プログラムで,時折,見せてくださる表演でのチーシはとても美しいのです。それはうっとりするほどの美しさです。どこか次元が違います。

 このことに初めて気づいたのは,何年か前に,渋谷公会堂で行われた「中国代表団」による表演のときでした。この中に,李老師も加わって表演をしてくださいました。みなさん,中国を代表する一流の人たちばかりです。なのに,李老師のチーシだけが異次元のものにみえたのです。そして,そのなによりの証拠は,ほかの先生方の表演のときにはどことなくざわついた雰囲気が会場に漂っていたのですが,李老師がステージに登場し,直立不動の姿勢をとった瞬間から,会場は水を打ったように静まり返ってしまいます。そして,音楽が流れ,チーシの動作に入ります。その瞬間,なにか,身もこころも奪い取られてしまうような感覚が全身に広がり,李老師の世界に魅入ってしまうことになります。

 それは,もはや,超一流の芸術作品というべきでしょう。

 以後,わたしは,まずは姿勢を糺して「立つ」こと,そして,納得のいく「チーシ」の動作ができるようになること,このふたつを特別に意識してこころがけることにしています。が,いまだに道半ばにも達していません。なぜなら,心境の深まりが伴わないからです。太極拳をする「こころ」が,まだ,身についていないからです。

 ことほど左様に,太極拳は,かんたんな動作ほど奥が深く,その奥の深さを表演することなど,まだまだ,遠いさきのことだ,といまごろになってようやくわかってきたという次第です。

 ですから,「ふつうの歩行運動」をしなさい,と何回も言われてもその真の意味はわかっていません。それらしき動作はだれにもできます。だって,みんなごくふつうに,日常的に歩いているのですから。なのに,太極拳のときの前後への移動となると,もはや,「ふつうの歩行運動」ではなくなってしまいます。脚が途中で止まってしまったり,脚の動きがギクシャクしてしまい,ふつうに歩いているときとは明らかに違います。ここが不思議です。

 ですから,最近になって,ふつうに道路を歩きながら,「歩行運動」とはどういうことなのだろうか,と考えるようになりました。すると,「アッ」と気づくことがありました。

 この話は長くなりそうですので,このブログのつづきとして,次回にまとめてみたいと思います。
 ということで,今日のところはここまで。

2014年10月17日金曜日

眼鏡を新しくしたら世の中が別世界のように美しく輝いてみえてきました。

 しばらく前から左目の視力が落ちてきて,左右の視力のバランスが悪くなり,歩いていても次第に違和感を覚えるようになりました。と同時に,新聞を読むスピードも本を読むスピードもガクンと低下してしまいました。これではいけないと考え,これまで掛けていた遠近両用眼鏡をつくってもらった眼鏡屋さんにいきました。

 すぐに視力検査。それもかなり念入りに。そして,いまの視力に合うレンズをいろいろに組み合わせて,どの組み合わせが一番よく見えるかを確認。それを掛けてみたら,まるで生まれ変わったかのように,世の中が別世界になったかのように明るく,美しく,輝いてみえるではありませんか。この激変に驚き,これはありがたい,と思いました。あまりにありがたいと思いましたので,思い切って,日常生活用の遠近両用眼鏡と本を読むための専用眼鏡の二種類の眼鏡をつくってもらうことにしました。

 それが15日の水曜日にできあがりました。帰路は新しくつくった遠近両用眼鏡をかけて歩き,新しい眼鏡に慣れることを目的に,透明感のある美しい景色を満喫しました。ついでに本屋に立ち寄って,こんどは老眼鏡のテスト。こちらもびっくりするほどよく見えて,以前のように,すらすらと読める喜びを取り戻しました。

 たかが眼鏡,されど眼鏡です。眼鏡ひとつでこんなにも「見え方」が違うものなのか,といまさらながらの発見でした。

 子どものころから,視力には絶大なる自信をもっていましたので,眼鏡の効用というものとは無縁の生活を,長い間,送ってきました。昨年のいまごろは,昼間であれば,老眼鏡なしでも新聞が読めました。夜はさすがに老眼鏡が必要でしたが・・・・。それがこの一年での,びっくりするほどの大きな変化のひとつでした。

 いまになって冷静に考えてみますと,左目の視力の低下は,どうやら,抗ガン剤による副作用のひとつではないか,という気がします。2月に手術をし,退院したあとの数カ月は,順調に回復していて,視力をはじめ,どこもなんの異常もなく過ごしていました。これでよし,と大いに自信をもつこともできました。

 しかし,6月から転移予防のための抗ガン剤治療に入ったところから,からだのあちこちに異変が生じるようになりました。そのひとつが,ドライアイのような症状でした。ドライアイは,もう,ずいぶん前から感じていましたので,それに合う目薬を探して,一日に一回,点眼するだけでなんとかやりくりしてきました。が,こんどはそんなに単純ではありません。

 点眼してしばらくはとてもいい具合なのですが,すぐに,ひりひりしてきて,やがては眠くなってしまいます。仕方がないので,ちょっと横になって休みます。すぐに目覚めますが,眠気は消えています。が,ひりひり感はつづきます。我慢しながら仕事をつづけ,どうにもならないときには点眼。すっきり,ひりひり,眠気,の繰り返しです。

 そんなことを繰り返していたら,どうも景色が変だ,活字を読むスピードが落ちている,と気づきました。これでは駄目だと思い,眼鏡屋さんへ。

 これで一応,視力の問題は解決。しかし,ドライアイの症状は変わりません。いまは,抗ガン剤を飲まなくていい第3週目に入っています。これから少しずつよくなり,第4週目に入るとかなり状態はよくなります。ああ,だいぶ楽になったなぁ,と思うころには,つぎの抗ガン剤治療の週に入ります。もう,これ以上は視力を落としたくありません。もっとも大事な商売道具ですから。さて,どうすればいいのか。

 次回の主治医の先生の診断のおりに,どのように相談をもちかけるか,慎重に考えてみたいと思っています。そのほかにも,副作用と思しき症状がいくつもありますので,それらを含めて,総合的にどのように対処すべきか,患者としての覚悟も必要です。

 もともとの体力,免疫力をどこまで犠牲にして,癌細胞と向き合わなくてはならないのか,その境界領域は微妙なところです。しかも,個人差があって,お医者さんの方でも,慎重にさぐりを入れながら,どのレベルが合っているのかをみつけるしか,現段階では方法がないようです。となりますと,抗ガン剤治療をどのように受けるかは患者の選択権にある,というのもよく理解できます。

 あとは,主治医の先生とわたしとの信頼関係だけです。さて,どのあたりで二人の合意が得られるか,こんどの診察日までに,しっかりと考えておきたいと思います。

 とりあえずは,新しくした眼鏡の効用と,抗ガン剤治療への対策についての,現段階での感想です。ではまた,いずれ。

2014年10月16日木曜日

「金鶏独立」ということについて。李自力老師語録・その52.

 鶏は,移動する必要がないときには,一本足で立っています。鶴も,静止しているときには,一本足で立ちます。しかも,ぐらりともしません。安定そのもの。ピタッと静止してビクともしません。けして,力んでいるわけでもありません。むしろ,羽を休めて,リラックスしているようです。これが,太極拳の片足立ちの姿勢の理想です,と李老師は仰います。

 24式太極拳のなかでも,とりわけ魅力的な動作の連続のひとつに,ガオタンマ(高探馬)からヨウドンジャオ(右〇脚)〔〇は足偏に登,以下同じ〕,そして,スゥアンフォングァンアル(双峰貫耳),さらに,ズゥアンシェンヅゥオドンジャオ(転身左〇脚),さらにはヅゥオシァシドゥリ(左下勢独立),ヨウシァシドゥリ(右下勢独立)とつづく動作があります。これらの動作にはすべて「独立」(ドゥリ)の姿勢が含まれています。

 つまり,一本足で立つ動作,これが太極拳でいうところの「独立」(ドゥリ)です。このとき「金鶏」になりなさい,と李老師は仰います。金の鶏。なるほど,鶏のなかでも秀でた鶏。すなわち,金鶏は必要がないときには黙って一本足で立っている,というわけです。まるで,瞑想でもしているかのように。この心境になって「独立」の動作をしなさい,と。

 とくに指摘してくださったのは,ドンジャオ(〇脚)のときの「独立」(ドゥリ)の姿勢。無理をして脚を高く挙げる必要はありません,と。場合によっては,足先を床につけていても構いません。それ以上に必要なことは「安定」です,と。つまり「独立」(ドゥリ)の姿勢が安定していること,すなわち片脚で立ったときの上体の姿勢がピタッと安定していること,これが一番大事なことです。無理をして脚を高く挙げてもふらふらしていたらなんの意味もありません。なによりも「安定」が最優先です,と。

 この指摘は,もっぱらこのわたしに向けてなされた李老師の警告でした。仲間のほかのみなさんは,みんな汗びっしょりになって稽古しているのに,わたしだけが汗をかきません。その原因は,こころもからだも緊張させすぎているからだ,と李老師は仰います。からだの筋力は必要最小限に抑え,あとはできるだけ全身の筋肉を弛緩させたままの状態で動作をしなさい。そうすれば,からだの中心から汗が流れ出てきます。このことが,じつは,太極拳の稽古にとってはとても大事なことなのです,と。なぜなら,こういうからだになることによって,気の流れがどんどんよくなってくるからです,と。

 そこで,ハッと気づいたのは,体操競技をするからだから,太極拳をするからだへの転身ができていない,ということでした。わたしは若いころに体操競技をやっていました。この身体は西洋的なもので,全身をつねに引き締め,力強さと伸びきった姿勢の高さが求められました。ですから,一時もからだの筋肉を「緩める」などということはありません。いつも引き締めています。それに対して,太極拳するからだは,それとはま逆です。腕の力を抜きなさい,肩の力を抜きなさい,股関節を緩めなさい,膝・足首の曲げ・伸ばしはゆっくりと柔らかく,つぎの動作に移るときには沈しなさい・・・・という具合です。

 このことは頭のなかではしっかりわかっているつもりです。しかし,からだは頭よりも正直です。若いときに叩き込んだからだの記憶はそんなに簡単には消えません。これを,まずは,消すことからはじめなくてはなりません。いやはや,とてつもない課題を李老師からいただいた,と自戒をこめて反省しています。

 体操競技をするからだから,太極拳をするからだへのスウィッチの切り換え。
 そして,「金鶏独立」。「安定」。「独立」。

 稽古の目標がはっきりしてきました。頑張ろう,いやいや,頑張らないで,こころもからだも弛緩させること,そして,からだの声に耳を傾けること。ひょっとしたら,とてもいい地平にでてきたのかもしれません。なにか未知の世界がみえてきそうな予感が・・・・。たぶん,そこが「金鶏独立」の境地なのではなかろうか,と。

2014年10月14日火曜日

東京湾河口に残るセシウム,局地的に高濃度。オリンピックは大丈夫か。

 台風一過。朝から青空がひろがり,さわやかな風が吹き,本格的な秋の到来を告げています。しかし,その裏には多くの被災者の存在があります。いまも,その対応に追われている方も多いと思います。まずは,こころからのお見舞いを申し上げます。

 そんな台風情報に追われた昨日(10月13日)の東京新聞一面トップには,「福島事故放出セシウム」「東京湾河口 残る汚染」「海底の土 局地的に高濃度」という大きな文字が躍っています。

 
同じ26面には「汚染 国の発表とズレ」「6年後に五輪・・・全域調査を」「東京湾の放射能汚染の現状」という見出しの大きな記事が掲載されています。

 
インターネット上では,東京都の空気の汚染も,想定以上の速さで悪化が進んでいるという情報が流れています。もちろん,こちらにもしっかりとした調査方法とその結果にもとづくデータが提示されています。

 フクシマが手も足も出せない状態である以上,空気や水(海・川)や土(とくに,山の汚染は雨とともに川に流れてくる)の汚染は着実に進行していきます。最終的にどうするのかという基本方針すら決まらないまま,放置されています。このままでは,何万年,何十万年という長期にわたって,フクシマの放射能は垂れ流しにする以外に方法はありません。なのに「under control 」と嘯いたまま,この言説を修正しようともしません。

 国際社会は,この現実を息をひそめて,じっと見守っています。そして,さまざまな研究団体から,フクシマ問題に対する協力,支援,援助の手がさしのべられています。しかし,政府は一顧だにせず,それらを拒否しています。そういう団体が来られたら困る事情があるからです。かんたんに言ってしまえば,「秘密保護」です。それほどに原発には「隠し事」が多いということです。

 ですから,メディアをとおして流れてくる情報も,そのほとんどが限られた情報にすぎません。つまり,権力にとって痛くも痒くもない情報ばかりです。その意味では,みごとに「 under control 」されています。

 その点にしびれを切らした東京新聞は,とうとう自社調査をはじめました。その結果の一部が,13日の新聞記事というわけです。それも,まだまだ,初歩的な手法による調査でしかありません。それでも,これまで秘匿されていたに違いない新たな事実が明らかになってきています。

 そのポイントは,東京湾河口にセシウムが多くたまっている,という事実です。とりわけ,荒川河口で高濃度のセシウムが検出された,という事実です。そのほかにも,多摩川河口と千葉県の花見川河口(ここのセシウムは驚異的な値を示している)からも,無視できないセシウムが検出されています。

 東京五輪との関連でみると,この荒川河口と旧江戸川河口の間に挟まれる立地に,葛西臨海公園があり,ここでカヌー競技が開催される予定になっています。山深き渓谷の激流に起源をもつカヌー競技を,わざわざ葛西臨海公園の一部をつぶして,常設のカヌー競技場を建造しようというのです。しかも,海水は使えない(ルール)ので,大量の真水をプールして,それを循環させるというのです。東京都青梅市にあるカヌー競技場を使えば,こんな馬鹿なことをしなくても済みます。海に面したところに渓谷を人工でつくる,という愚はだれの目にも明白です。

 「8㎞圏内」で五輪を,という東京都の提案の諸矛盾の原点がここにあります。この問題については,いずれ詳しく論じてみたいと思っています。

 まずは,東京湾河口のセシウムが「局地的に高濃度」という事実に注目しておきたいと思います。と同時に,東京都の空気汚染の問題も,東京新聞独自の調査を実施し,その結果を公表してもらいたと期待しています。

 というところで,今日のところはここまで。

2014年10月12日日曜日

「東京五輪2020」に埋め込まれた石原慎太郎の陰謀。恐るべき東京大改造計画。

 少しこころある人ならば,「オリンピックは平和の祭典である」,とは思っていない。それどころか,「平和の祭典」を標榜しつつ,その裏でなにが行われてきたか,をうすうす感じ取ってきたはずであるし,実際にも,その事実をいくつも挙げることができる。オリンピックを糾弾する本も何冊か刊行されている(『近代スポーツのミッションは終わったか』,西谷,今福,稲垣共著,平凡社,もそのうちの一冊)。

 にもかかわらず,世間には「オリンピックは平和の祭典である」と信じて疑わない人が圧倒的多数を占めている。その圧倒的多数に歩調を合わせるかのように,主要メディアもまたオリンピックを「平和の祭典」として持ち上げ,その神話を増幅させ,称賛し,新たな神話の「捏造」にやっきになっている。この姿勢は,いまをときめくどこぞの「誤報」騒ぎなどよりもはるかに罪が深い。なぜなら,確信犯であるからだ。いくつもの「陰謀」に関する事実を知りつつ,それらを隠蔽し,逆に美談を捏造し,世の人びとを相手に嘯く。その方が売り上げが伸びるからだ。完全なる資本の僕(しもべ)。それがまたポピュリズムの温床ともなっているから始末が悪い。

 だから,これから書こうとしていることにも,相当の決断と勇気が必要だ。しかし,スポーツの現代史を読み解くためのひとつの手法として,あるいは,具体例として,あえて挑戦してみたい。

 かねてから,つまりは「東京五輪2020」招致運動を開始した段階から,精確には「2016」招致に名乗りを挙げたときから,なにか変だ,と直感していた。そのポイントは,晴海埠頭に選手村を設置し,そこを中心にした半径「8㎞圏内」でオリンピックを開催する,いわゆる「コンパクトなオリンピックの開催」というスローガンだ。一見したところ,文句のつけようのないみごとなスローガンである。しかし,よくよくその計画案をみていくと,「8㎞圏外」になるので駒沢のオリンピック公園の施設は使わない,という。そして,神宮外苑の国立競技場はぎりぎり「8㎞圏内」なので,これを建て替えて世界に誇ることのできる新国立競技場を建造する,というのである。

 いったい「8㎞圏内」という発想はどこからでてきたのか。その根拠はなにか。「コンパクト」にというスローガンはわかる。しかし,その線引きとなる「8㎞」はなにを意味しているのか,それがわからない。そして,8㎞からほんのわずかしか外れない駒沢オリンピック公園の施設を使用しない,という根拠もわからない。東京五輪1964の遺産として,いまも,盛んに活用されていて,年間をとおしてほぼ100%に近い利用率を維持しているという。人気のスポットである。この歴史的遺産を,さらに修復して,もっと活用しやすい施設にすることだってできるのに・・・・。

 じつは,ここに大きな陰謀が隠されているということが昨日(10月11日)わかった。

 第2回 提言討論会「みんなで考えよう 東京オリンピック」という会(日時:2014年10月11日 14:30~18:00。会場:文京シビックセンター26F スカイホール。主催:2020オリンピック・パラリンピックを考える都民の会・通称:オリパラ都民の会)での,岩見良太郎(埼玉大学名誉教授)さんの「問題提起」を聞いていたときのことである。

 岩見良太郎さんは膨大な資料を用意され,パワー・ポイントを使いながら,わずか40分の持ち時間のなかで,こんなにも・・・と感動するほどの密度の濃い「問題提起」をなさった。その詳細については,また,別の機会に紹介することにして,ここでは今日のブログの根幹にかかわる部分だけを取り出してみることにする。

 岩見さんが結論として提起された内容のポイントは以下のとおりである。もちろん,ここにはわたしの主観的な受け止め方も加味されていることもお断りしておく。

 「2016」招致のための計画書のなかに,石原慎太郎知事(当時)の陰謀がすべて埋め込まれていた。それは東京大改造計画。すなわち,世界に誇ることのできる「世界最強の都市,大東京」をつくること。そのために,石原慎太郎は,「東京発グローバル・イノベーション特区」を設定し,「世界に開かれたグローバル・ビジネス都市に東京を大改造」しようとしていた(「国家戦略特区東京都提案書」)。

 以下は,岩見さんの資料より。
 「国家戦略特区」は,「日本再興戦略」が述べているように,「大都市の国際競争力を高めるため,先行的に・・・・大胆な規制改革等を実施する」役割を担うものである。これは,「国家戦略特区」を突破口に,国のかたちを変えていくことをねらったものである。

 石原慎太郎はここに目をつけ,東京五輪招致をきっかけにして,「国家戦略特区」をわがものとし,東京大改造計画を立てたのだ,と岩見さん。もうひとつの根拠は,だれも買い手がつかずもてあましていた東京都所有の「遊休地」(悪評高き埋め立て地)に五輪施設を集中的に建造し,同時に高級マンションも建造して,長年の懸案を一気に解消しよう,と企んでいた,と。

 ここまで岩見さんのお話を聞いたときに,「8㎞圏内」の根拠がここにあった,と長年の疑問が一気に瓦解した。そうか,そういうことであったか,と。と同時に,新国立競技場のあのバカでかいデザインが採択された背景も透けてみえてきた。世界最強の都市・東京の新しいシンボルのひとつにしたかったのだ・・・と。その力学が,安藤忠雄を動かしたのか,と納得。

 石原慎太郎にとっては,「東京五輪」招致はまことに都合のいい隠れ蓑として使える,ただ,それだけの話なのである。「平和の祭典」という「隠れ蓑」。だから,「2016」招致に失敗してもあきらめるわけにはいかず,「2020」招致に全力投球をしたのだ。そのためには,膨大な資金が投入されたらしい,とこれはもっぱらの噂。

 「2020」招致計画は「2016」招致計画の焼き直しである。その根幹はほとんど変わってはいない。比較してみればすぐにわかる。

 この「8㎞圏内」という石原が仕掛けた陰謀を取り払ってしまえば,東京都にある既存の競技施設だけで,ほとんど無駄な金を使うこともなくオリンピック開催は可能なのである。東京都が「見直し」をはじめた根拠はここにある。言ってしまえば,「8㎞圏内」という呪縛(大原則崩し)との闘いである。舛添知事がどこまでその力量を発揮することができるか,みどころでもある。

 以上が,石原慎太郎が埋め込んだ「陰謀」の概略である。
 それを提示してくださった岩見良太郎さんに感謝。
 ここを起点にして,もう少し,東京五輪2020に埋め込まれた「陰謀」の数々を明らかにしていきたい,と考えている。とりあえず,今日のところはここまで。

2014年10月10日金曜日

「未来(あした)をつかもう」・・・・これって何の標語かわかりますか。

 正直に告白しておきます。恥ずかしながら,こう問いかけるわたし自身がこの標語を知りませんでした。わたしのアンテナが低すぎたのかもしれません。もう,みなさんは承知の上で,わたしひとりが知らなかったことだとしたら,お許しください。

 「未来(あした)をつかもう」・・・・じっと時間をかけて眺めてみました。わたしにはこの標語の意味するところが理解できなかったからです。まずは,「未来」って「あした」のことなのだ,と首を傾げる。「あした」といえば,「きょう」のつぎの日だ。ということは,「いま」と同じだ。「いま」やらねばならないことは,たとえば,「きょう,あした」のうちにやらねばならないことと同義です。なーんだ,「きょう」をつかもう,と言ってるんだ。つまり,「未来」=「きょう」となるからです。

 だとしたら,けだし「名言」というべきか。

 もっとも,「あした」にはもっと長いスパンのさきのことを意味することもあります。アスナロの木のように「あしたこそ」「あしたこそ」と願いつづけても,それは永遠に実現不可能な場合もあります。「あした」の含意はきわめて微妙です。

 「未来」だけなら,これはもう遠いさきのこと,という意味で明々白々です。「あした」「きょう」の問題とは無関係です。未来は永遠に未来でありつづけるからこそ,夢も希望も託すことができますし,破局(カタストロフィ)を設定することも可能です。

 その「未来」をそのまま「未来をつかもう」と読むとすると,これまた,まことに不思議な意味になってきます。なにゆえに,遠いさきにあるべきはずの「未来」を,「いま」に引きつけて「つかもう」とするのか。論理矛盾です。たぶん,この標語を考えた人は「夢や希望をつかもう」という意味で「未来」という漢字に「あした」とふりがなをつけたのだろうと思います。しかし,意地悪く読むと,未来のいつか,どこかに待ち受けているかもしれなけい「破局」をつかもう,ということにもなってしまいます。

 だとしたら,わたしたちは,すでに「破局」はつかんでしまっています。その意味では「未来(あした)」は,しっかりと「いま,ここに」ある,と断言することができます。そのことを西谷修さんは2冊の本をとおして訴えています(『アフター・フクシマ・クロニクル』『破局のプリズム──再生のヴィジョンのために』,いずれも2014年刊,ぷねうま舎)。

 「未来」はずっと向こうにあるからこそ「未来」であって,その「未来」が「いま,ここに」来てしまったこと,そのことが「破局」(カタストロフィ)の意味だ,と西谷さんは指摘しています。ですから,わたしたちは,いま,「破局を生きている」と認識し,その「破局」をいかにして回避し,再生のためのヴィジョンをわがものとすべきか,と西谷さんは説きます。

 このイメージが,わたしの頭には鮮明にありましたので,この標語「未来(あした)をつかもう」を眼にしたとき,一瞬,目眩がしてしまいました。夢も希望も破局もみんないっしょくたにして「つかもう」とは,いったい,どういうことなのだろうか,と。そうして,しばらく考えた結果,そうか,「未来(あした)をつかもう」とは,「再生のヴィジョンをつかもう」と言っているのだ,というところにたどりつきました。すると,この標語はじつに立派な理念にささえられた,素晴らしい標語だ,ということになります。しかも,そこにこそ一縷の「夢と希望」を託すことが可能である,とも。

 はたして,そうなのでしょうか。

 ここで種明かしをしておきましょう。なにを隠そう,「未来(あした)をつかもう」は「東京五輪2020」の標語/スローガンです。

 ですから,わたしはびっくり仰天してしまった,というわけです。

 さて,みなさんはこの標語をどのように受け止められるのでしょうか。

 「東京五輪2020」は,このスローガンからして,意味不明な迷路にはまり込んでしまっているようです。ですから,これまでの準備をみているかぎり,はちゃめちゃです。

 それはそうでしょう。福島県民12万人もの人びとが,いまも,家・土地を追われて避難生活を余儀なくされている「非常事態」にあるという厳然たる事実を,あの手この手で隠蔽・抑圧・排除しようと必死になっているのですから。にもかかわらず,「亡霊」(J.デリダ)は予期せざるところに突如として噴出し,顔をみせるからです。

 「未来(あした)をつかもう」は,期せずして,顔をみせた「亡霊」だ,と言っていいでしょう。わたしにはそんな風にみえて仕方がありません。もし,そうだとしたら,すべて納得です。東京五輪2020は,この「亡霊」にとりつかれたまま,あっちへヨロヨロ,こっちへヨロヨロとさまよい続けるしか道はないのです。つまり,「たたり」が取っついてしまっているのですから。しかも,みずからの意思で,その「亡霊」を呼び寄せ,なおかつそれをスローガンにしてしまったのですから・・・・。

 呪われし「東京五輪2020」は,これからさき,どのような道程をたどることになるのでしょうか。まったく予測がつきません。ひょっとしたら,ついには「東京五輪2020」返上,というような事態にいたりつくのではないか,とそんな予感もしまです。その根拠もはっきりしています。最後の決め手は「フクシマ」。つづいて「財政破綻」。さらには「市民運動」。

 10月10日の,わたしの「妄想」まで。「悪夢」で終わってくれることを祈りつつ。

東京五輪1964から50年。各地で記念行事。でも,その気になれないわたし。

 10月10日。50年前の今日,前夜の雨が上がって,東京の上空はみごとなほどの紺碧の空が広がりました。東京五輪1964の開会式の日。完璧な条件が整って,日本中が湧いた,記念すべき日でした。ちょうど,テレビが飛躍的に普及した時期で,全国の人びとが固唾を飲んで開会式を見守っていたと思います。わたしはテレビのない四畳半のアパートの部屋で鬱々とした一日を送っていました。

 当時のわたしは26歳。愛知県にもどって高校の教員になるつもりでしたが,それを断念して専攻科から大学院へという道を選びました。大学は卒業したけれど,頭のなかは空っぽ。これで教員になっていいのだろうか,という気持がその動機でした。しかし,わたしのこの決断はひどく父を立腹させ,仕送りが途絶えてしまいました。仕方がないので生活費と授業料を稼ぐためにせっせとアルバイトに励みました。夕食付きの家庭教師を掛け持ちして,食事代を浮かし,残りのわずかな時間を勉強に充てていました。

 もちろん自炊。月のはじめに一カ月分の米と味噌を買い込み,ほとんど毎日,味噌粥をつくって食べて暮らしていました。ですから,家庭教師先でいただく夕食がなによりの栄養の補給源でした。当時も,当然のことながら,大学への就職はまことに狭き門でしたので,将来の夢ももてないまま鬱々とした気分で部屋に閉じこもっていました。ひたすら,課題の多かった,苛酷なゼミのための準備に追われていました。ですから,東京五輪1964は,まったくの他人事でした。冷めた気分のまま,新聞でその様子を知るだけ。

 そんな生活の中での東京五輪1964の開催でした。ですから,東京五輪1964はまったくの他人事でした。冷めた気分のまま,新聞でその様子を知るだけ。別世界のできごとのようにぼんやりと紙面を眺めていました。そんな風ですから,あれから50年,と言われてもわたしの脳裏には生きていくのが精一杯だった,苦しい日々の思い出しか蘇ってきません。

 ついでに書いておけば,60年安保闘争の余韻がまだ色濃く残っており,つぎの70年安保闘争に向けての,さまざまな動きが始まっていました。わたしの気持は,むしろ,そちらの方に比重がかかっていました。日々の生活に追われながらも安保だけは無視できませんでした。それに比べたら,東京五輪など,単なるスポーツの祭典にすぎません。かつてはオリンピック選手を夢みて,必死になって練習に明け暮れた経験をもつわたしです。にもかかわらず,その夢が絶たれたあとは,東京五輪への思いも冷めてしまい,特別の感情は一切ありませんでした。まずは,自分が生きていくことで精一杯でした。

 そんな気分のまま,50年が経過していた,というのが正直な実感です。ですから,いまの若者たちの多くが絶望の縁をさまよいながら生きていかざるを得ない,この現実には許しがたい共感を覚えます。若者たちに夢も希望も与えられないこの国が,東京五輪を開催する資格などありえない,というのがいまのわたしの基本的な考え方です。東京五輪の招致は,この国の恥部を覆い隠すための,あるいは,国民に一時的な眼くらましをかますための,まことに都合のいい道具として利用されるだけのものでしかありません。その意味で,東京五輪2020は美味しいエサのようなものです。国民の圧倒的多数が,無条件に飛びつきます。それほどに,権力にとっては都合のいい「ツール」にすぎません。

 10月10日は晴れの特異日。統計的に一年中で晴れる日がもっとも多いのが10月10日。季節も暑からず,寒からずの絶好の時期。東京五輪1964の組織委員会は,この日を開会式に充て,以後の大会日程を組みました。まことに合理的で,だれもが納得できるタイム・テーブルでした。なのに,東京五輪2020は,なんと真夏の猛暑日がつづく7月下旬から8月上旬にかけて,大会日程を組んでいます。いったい,だれのためのオリンピックなのか。いったい,だれがこんな日程を考えたのか,理解に苦しみます。

 きっと,だれかが得をするのでしょう。

 こんなところからはじまって,東京五輪2020の準備の進み行きは「はちゃめちゃ」です。すべてが闇の世界で決まり,上意下達というお役所的発想で,暴走をつづけています。その最たる例が,新国立競技場建設計画です。国民の意思も,地域住民の声も,そして,専門家の意見も,一切無視。この国はいつから全体主義国家に変貌してしまったのか,ととまどうことばかりです。立憲デモクラシーの精神をもふみにじり,完全に無視して,「逆走」をはじめた政権与党とまったく同じことが,東京五輪2020にかかわるすべての機関で展開されています。

 ですから,東京五輪1964の50周年記念行事と言われても,まったくその気になれないわたしが,いま,ここに,います。いったい,だれのための東京五輪2020なのでしょうか。そこの認識がまったく欠落したまま,関係者だけがいそいそと,甘い蜜を吸いながら,足並揃えて「越後屋」を演じているとしか思えません。赤信号もみんなで渡れば・・・・の謂いをそのまま実行しているとしか,いまのわたしには思えません。

 今日も,わたしは終日,部屋に籠もって,鬱々とした時間を過ごすことになりそうです。50年前と少しも変わってはいません。生まれつきなのかなぁ,とふと思ったりしています。そして,今日も東京は晴れるのでしょう。いつもの年と同じように・・・・。

2014年10月9日木曜日

今日は朝から憂鬱。「日米防衛協力指針」再改定,中間報告を読んで。ショック!

 ほんとうに,いまの政権はどこまで狂ってしまったのか,もはや開いた口がふさがりません。しかも,この政権に真っ向から対抗する力のある政党もない,という悲劇。少なくとも,わたしたちの代弁者が不在という政治の貧困。もはや,夢も希望もなくなってしまいました。わたしのような老人ですら,これほどの絶望感に襲われるのですから,未来ある若者たちにとってはもっともっと大きな衝撃を与えているに違いない,と思います。

 こうした政権の「暴走」「妄想」が,つぎつぎに具体化するにつれ,世の中に絶望し,距離をおく若者たちが増大していき,自暴自棄的な行動に走らせたり,「イスラム国」支援に走らせる,最大の「はずみ車」になっている,ということを政治家は重く受け止めるべきでしょう。しかし,圧倒的多数の議員たちが,急速に右傾化する政権に巻き込まれ,そこでの安心立命の場を確保することにやっきになっている,というのが現状のようです。

 今朝の大手新聞はそろって「防衛協力指針」再改定を一面トップであつかっています(コンビニで確認)。しかも,読売は想定どおり,これを擁護する立場をとっています。これは「誤報」よりも,はるかに質(たち)が悪い,というべきでしょう。いわゆる,典型的な確信犯です。それでも「言論の自由」を楯にして,言いたい放題です。こうしたメディアの姿勢も憂鬱の原因のひとつです。

 東京新聞一面トップの記事(関連記事は2,3,5,6面でも取り扱っています)をアップしておきますので,とくとご覧ください。

 
 
 
 
最大の憂鬱は,閣議決定しただけの「集団的自衛権」の行使・容認を前提に,さも当たり前であるかのようにして,日米両政府が「自衛隊と米軍の役割分担を定めた日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の再改定に向けた中間報告をまとめた」ことにあります。もっとも酷いと感じたのは与党合意もなしに独走したこと,そして,国会での法整備もなしに見込み発車をしたこと,圧倒的多数の国民が反対しているパブリック・コミットメントをも無視したこと,つまりは民主主義を否定する行動に打ってでたこと,にあります。すべては憲法を無視し,立憲民主主義を否定する,言語道断の「暴挙」にあります。

 こんなことがまかり通る日本国に,もはや未来はありません。新たなもうひとつの「破局」(カタストロフィ)が忽然とその剥き出しの姿を現し,目の前につきつけられたも同然です。若者たちならずとも,夢も希望もない,日本国のこの現実は,もはや目も当てられない惨状というべきでしょう。

 そんな中にあって,若い学生さんたちが「集団的自衛権」などを軸にした反対運動を展開するグループがあちこちに立ち上がりつつある,といいます。こうした活動が新たに誕生していることを,ほとんどのメディアが無視していますので,わたしは知りませんでした。しかし,ネットで検索をかけてみると,小さなグループのようですが,あちこちでさまざまな運動が展開していることがわかります。ようやく,こうした学生さんたちが現れ,研究会や集会をもち,街頭のデモにも繰り出すようになってきたようです。唯一の希望の光です。なかには,研究の成果をプロモーション・ビデオにまとめて,ネット上に流していることもわかります。しかも,そのビデオはなかなかの秀作です。ぜひ,検索をしてみてください。

 ところで,明日はどんなニュースが流れるのでしょうか。
 2014年10月10日という日がビッグなメモリアル・デーになりますように。

2014年10月7日火曜日

「東京五輪の会場見直し」という新聞記事にもの申す。

 わたしがこよなく愛している東京新聞ですが,運動部の書く記事にはときおり眼を覆いたくなるような,お粗末な紙面にでくわすことがあります。今日(10月7日)の朝刊の「解説」「記者の眼」という欄に,そのサンプルが登場してしまいました。リードの部分は「高橋知子」という記者名が入っていますが,本文の最後のサインは(運動部)となっています。ということは,東京新聞の「運動部」の共通認識であり,共通の見解である,と受け止めることがてきます。しかも,デスクが最終的には,これでよし,というお墨つきを出しているはずです。

 となると,こんなレベルの問題意識しかないのか,と落胆してしまいます。もっと骨のある「批評性」を全面に展開するくらいのことをやってほしい。そのための「解説」であり,「記者の眼」という欄であるはず・・・。まずは,とくと記事の内容をご覧ください。

 
クレームをつけたいことはいくつもありますが,できるだけ焦点を絞って,わたしの見解を述べてみたいと思います。

 まずは,リードの最後の文章。「その計画は今,膨れ上がる会場整備費を前に揺らぎ始めている」というくだり。いかにも,もっともらしく,わかりやすいし,そのとおりなのですが問題はそれだけではありません。もっと大事なことが抜け落ちています。それは,「IOCアジェンダ21」に違反しているという事実です。そのことを指摘する抗議の声が,建築家集団からも,市民団体からも,自然保護団体からも,そして学会からも指摘され,国内の五輪関係団体に抗議とともに提示されているばかりではなく,IOCの本部にもこれらの異議申し立てが届いていてるという事実です。しかも,IOCの調整委員からも応答があり,問題を重視している,という返事をもらっているといいます。問題はこちらの方が重大です。

 たしかに,建築業界は資材・人材が足りず,会場整備のための諸経費が跳ね上がっていることは事実です。それは新国立競技場建設計画の経緯をみているだけでもわかります。しかし,どうしても必要なものであり,それだけの価値のあるものであるならば,お金を捻出することは不可能ではありません。しかし,問題は,そんなにカネをかける必要があるのか,という会場設備計画の杜撰さにあります。だから,いまごろになって「見直し」などというお粗末なサル芝居が始まってしまうわけです。新築などしなくてもできる会場はいくらでもあります。なによりも1964年の東京五輪の時の遺産があります。現国立競技場のように,少し改修をすれば,立派に使える会場はいくらでもあります。

 なのに,わざわざ東京湾埋め立て地の,東京都が保有している買い手のつかない遊休地に無理矢理,五輪という名のもとに新しい会場施設を建造しよう,というのです。言ってみれば,石原都政がたくらんだ虫のいい話です。ところが,ここにきて建造費が膨大に膨れ上がったために,舛添都知事があわてて,それらを「見直す」と言っているだけの話です。なんのことはない,よくよく計画を検討してみたら,まったくでたらめな計画ばかりであるということが発覚しただけの話です。それほどいい加減なことが,東京五輪招致の背後では行われてきた,というわけです。

 ところが,そこに,運動部の記者さんたちの眼がとどいていません。ですから,こんな薄っぺらな記事になってしまうのです。この問題は掘り下げていけは,日本の政治と経済の根幹にかかわる根源的な核心に触れることになります。そこまでやるにはスペースが足りませんが,ちらりと指摘するくらいは可能です。

 もう一点だけ。これも本文の最後の文章です。「今回,新たに建設される会場も,先々まで利用されることが望ましい。ずっと将来,三度目の東京五輪が実現したら,その時でも活用できる会場を造る,という視点があってもよいかもしれない」。

 なにを寝ぼけたことを言ってるのか,とここでも大声を発してしまいました。この文章も,一見したところ,きわめて常識的で,まっとうな内容のようにみえます。でも,これはいまの時代を席巻しているポピュリズム的視点とほとんど変わりません。しかし,ここにもきわめて重大な視点の欠落があります。

 もはや,東京都内には,そして,その隣接県には,有り余るほどの立派なスポーツ施設が建造されています。しかし,これらは一般市民には遠い存在で,ほとんど利用不可能な条件で,囲い込まれています。それなのに,まだまだ立派なスポーツ施設を建造せよ,と言っています。これらのスポーツ施設は相当に大きなスポーツ大会でないかぎり利用できない施設ばかりです。それでも,まだまだ同じようなスポーツ施設を造るのが望ましい,と言っているのです。利用頻度のきわめて少ない巨大なスポーツ施設をいっぱい造って,いったい,どうしようというのでしょうか。

 もっと重要な視点があります。それは,2050年には日本という国のかたちがどうなっているのか,という視野の広さです。「ずっと将来,三度目の東京五輪が・・・」,三度目ではありません,四度目です(一回は,戦争によって返上しています。今回も,土壇場で返上ということもありえます)。それはともかくとして,「ずっと将来」の日本はこんにちの延長線上にはありません。たとえば,もっと近い将来の2050年ですら,建築家の槇文彦氏の積算によれば,人口の半分は高齢者となり,典型的な高齢化社会が出現し,国民総生産は世界の14位あたりまで下がるだろう,と予測しています。となりますと,スポーツ施設の維持管理どころか,国家をどのようにして支えていけばいいのか,という重大な問題が待ち構えています。槇文彦氏はこうしたことを視野に入れて,たとえば,新国立競技場建設計画を抜本的に見直すべきだ,と提言しています。

 もはや事大主義の時代は終わったのです。これからは縮小化の時代です。槇文彦氏は,新国立競技場建設計画を最低限のものに抑え,子どもたちのスポーツの広場として自由に活用できるように工夫し,時代のニーズに合わせて観客席を少しずつ取り壊し,最終的には全部取り壊してしまって,一般市民のスポーツのためのマルチ広場にすべきだ,と提案しています。

 その根拠は,大正時代の先祖が,神宮外苑をスポーツ公園として開発するという英断を下してくれた,そのお蔭でいまのわたしたちはその恩恵に浴し,巨大なスポーツ・イベントを開催して,世界のスポーツを堪能することができるようになった。人口も増大し,国民総生産も右肩上がりで上昇した。しかし,これからは下り坂の時代です。となれば,やがては大きなスポーツ・イベントは不要となる時代がやってきます。そのときには,大正時代の祖先へのご恩返しとして,未来の子孫のために,もとの更地にしてお返しするのが,人としての道だ,と槇文彦氏は説いています。

 世界的な名声をほしいままにした建築家の見識は素晴らしいものです。これらの話は活字になって本にもなっています。この他にも,たとえば,伊東豊雄さんの素晴らしい提案もあります。こうした最近の動向を,東京新聞の「運動部」の記者さんたちは視野に入れているのだろうか,と訝らざるを得ません。もし,スペースの関係で,この程度の話に落とし込んだのだとすれば,こんご,連載でいいですから,「東京五輪を考える」という特集を組み,詳細に問題の所在を明示していただきたいと希望します。わたしも,このブログを通じて,東京五輪の問題点については,少しずつになりますが,書きつづけようと思っています。

 長くなってしまいました。今日のところはここまで。

「IOCアジェンダ21」とはどんな内容なのか。

 通称「IOCアジェンダ21」,正式には「オリンピックムーブメント・アジェンダ21」(Olympic Movement Agenda 21)。オリンピックムーブメントの根幹は「オリンピック憲章」によって定められている。それが,いわゆるオリンピックムーブメントの「憲法」のようなものである。それに加えて,オリンピックムーブメントの具体的な目的・目標を定めたものが「IOCアジェンダ21」と呼ばれているものだ。

  しかし,オリンピック憲章についてはだれもが承知しているけれども,「IOCアジェンダ21」の存在は意外に知られていない。東京五輪2020の準備に関係している人びとも,どれだけの人たちがこの「IOCアジェンダ21」の存在を認識しているか,大いに疑問である。たとえば,文部科学省のオリンピックにかかわっているお役人さんが,どの程度の認識をもっているかは大いに疑問だ。とりわけ,文部科学省所管のJSC(日本スポーツ振興センター)のお役人たちは「IOCアジェンダ21」の存在を承知していないのではないか,と思われる節がある。あるいは,承知しつつ「無視」しているのかもしれないが・・・。だとしたら,もっと悪質である。

  同様に,組織委員会も東京都の担当者たちも,ひょっとしたらJOC(日本オリンピック委員会)も,ほとんど認識していないのではないか,と思われる。なぜなら,東京五輪2020を開催するための競技施設の原案をみると,「IOCアジェンダ21」に違反するものが盛りだくさんだからだ。東京都の舛添知事は,予定されている競技施設案について見直しをすると言っているが,それはあくまでも財源とにらみ合わせてのものでしかなさそうである。かれの発言のなかに財政の問題は頻繁にでてくるものの,「IOCアジェンダ21」ということばはでてこない。見直しをするのなら,「IOCアジェンダ21」の精神にもとづいて・・・・と発言した方が都知事の立場としてははるかに美しい。しかし,かれの頭にはカネのことしかなさそうだ。

 こんなレベルの人たちが寄り集まって,いま東京五輪2020の準備が進められている。その最悪の事例が「新国立競技場建設計画」である。デザイン・コンペでザッハ案を採択した安藤忠雄氏以下のメンバーたちは「IOCアジェンダ21」の存在を承知していなかったのではないか,と思われる。なぜなら,デザイン・コンペの応募要項もきわめて杜撰な内容であったことが,同じ建築の大御所である槇文彦氏が指摘しているからだ。神宮外苑という場所が歴史的な「風致地区」であることも,用地面積の狭さも,なにも条件をつけずに応募要項が作成されている点,そして,絵空事のようなザッハ案を採択した委員たち,かれらの頭のなかには,この「IOCアジェンダ21」の存在は完全に欠落していたとしかいいようがない。もし,安藤忠雄氏以下の委員たちが,この「IOCアジェンダ21」をしっかりと認識していた上でのことだとすれば,あるいは,承知していてあえて「無視」したとすれば,これは最悪のシナリオがどこかに隠されているとしか言いようがない。

 ではいったい「IOCアジェンダ21」がいかなるものなのか,ここで確認しておくことにしよう。ただし,全容を紹介するのはこのスペースでは困難なので,その骨子だけを抜き出しておく。

 「IOCアジェンダ21」のもとになっているコンセプトは,1992年に開催された環境と開発に関する国際会議,いわゆる「地球サミット」で,世界の182ケ国(わが国を含む)の合意を得て採択された「アジェンダ21」にある。IOCはこの「アジェンダ21」をオリンピックムーブメントに則した内容にアレンジして「IOCアジェンダ21」を策定し,1999年10月リオデジャネイロで開催された「第3回スポーツと環境世界会議」において採択されたものである。そこには,「オリンピックムーブメントにかかわるすべてのメンバーがあらゆる努力をして取り組み守るべき目標である」と,声高らかに宣言されている。

 いま問題になっている新国立競技場建設計画にかかわる「IOCアジェンダ21」の条項を抜き出してみると,以下のようになる。

 3.持続可能な環境維持開発のためのオリンピックムーブメント行動計画
  3.1.6.人間の住居環境および居住
  競技施設は,土地利用計画に従って,自然か人工かを問わず,地域状況に調和してとけ込む  ように建築,改装されるべきである。
  3.2.2.環境保全地域および地方の保護
  スポーツ活動,施設やイベントは,環境保全地域,地方,文化遺産と天然資源などの全体を保護しなければならない。
  3.2.3.競技施設
  既存の競技施設をできる限り最大限活用し,これを良好な状態に保ち,安全性を高めながらこれを確立し,環境への影響を弱める努力をしなければならない。
  既存施設を修理しても使用できない場合に限り,新しくスポーツ施設を建造することができる。
  新規施設の建築および建築地所について,このアジェンダ21の3.1.6節を遵守しなければならない。これらの施設は,地域にある制限条項に従わなければならず,また,まわりの自然や景観を損なうことなく設計されなければならない。

 以上の条項を確認するだけで,新国立競技場建設計画が,この「IOCアジェンダ21」の目標に,いかに違反しているかは歴然としている。

 にもかかわらず,新国立競技場建設計画は粛々と推し進められている。多くの建築家や市民団体や学会(環境アセスメント学会,日本美学会,など)が異議申し立てをしているにもかかわらず・・・。

 この国の根幹が腐っているとしかいいようがない。情けないことながら・・・・。しかしながら,これを許してしまっているのもまたわたしたちなのだ。こころして取り組まねばならない。

2014年10月6日月曜日

JSCのでたらめぶり。眼を覆うばかり。「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」の集会に参加して。

 新国立競技場建設計画が,いま,正念場を迎えています。そのことにようやく気づいた東京新聞が,今日(6日)も大きな紙面を割いて,記名記事(清水祐樹)を掲載しました。写真を掲載しておきますので,詳しいことはこの紙面でご確認ください。とても簡潔に問題点を浮き彫りにした,とてもいい記事になっています。これを読めば,新国立競技場建設計画の事業母体であるJSC(日本スポーツ振興センター)がいかに杜撰な運営をしているかが一目瞭然です。

 
ざっくり言ってしまえば,入札前日に書類を開封し,入札価格を確認した上で,JSCの「予定価格」を決め,これに基づいて落札会社を決定した,というのです。入札制度を頭から否定した,まったくもって信じられないようなことを,文部科学省所管の下部組織であるJSCがやっているという事実に,唖然とするしかありません。これが泣いても笑っても天下のお役所仕事なのです。

 これが再入札での話です。一回目は,どこの社も予定価格に適していないという理由で落札不成立。やり直しの入札がこれだった,というわけです。そこには,なにか,水面下のドロドロした不穏な動きがあったのではないか,と妄想にも近いげすな勘繰りが脳裏をよぎります。

 さすがに内閣府の政府調達苦情検討委員会も事態を重くみて,入札会社の申しいれた苦情を受理し,審議の結果,JSCに入札の「やり直し」を求めた(9月30日)とのこと。このことによって,7月に始まる予定だった解体工事が12月中旬以降にずれ込むことになった,といいます。

 これで,とうとう6カ月も時間を無駄に消費してしまったことになります。ただでさえ,ザッハ案という難工事が控えていて,予定されている48カ月では施工困難(槇文彦氏をはじめ大手ゼネコン関係者指摘)とみられていますので,このままでは42カ月で工事を完了しなければならなくなってきます。となると,新国立競技場建設計画が初手から破綻していて,とうとう暗礁に乗り上げた,としか言いようがありません。それはデザイン・コンペの審査過程からして異常だったことも含めて・・・・。

 新聞では,入札の不手際に焦点を当てて,説得力のある記事にしていますが,じつはこうした経緯についてはいろいろのところですでに暴かれていて,シンポジウムや報告会,勉強会が開催されています。が,そこには大手のメディアは一社もきてはいません。東京新聞も同じです。

 たとえば,9月26日(金)に開催された「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」の集会(日本青年館・3階)では,12人もの各分野の専門家が登壇して,それぞれの問題点を指摘した上で問題提起をしています。そこで得られた情報は,じつは,この新聞記事の内容よりもはるかに濃密なものでした。

 ですから,わたしには,この記事ですら物足りない,というのが正直な実感です。でも,ようやくこういう記事を書いてくれたのですから,ありがたいと思わなくてはなりません。しかも,いまが正念場。これから再再入札が行われて,解体工事がはじまる前(12月中旬)に,なんらかの圧力をかけてストップをかけるしかありません。あの手この手でいくしかありませんが,いまひとつパンチ力に欠けます。

 最後の決め手は,ひょっとしたらIOC本部に向けて,新国立競技場建設計画は「オリンピックムーブメント・アジェンダ21」(「IOCアジェンダ21」と略称することもある)に違反していることを直訴するしかないのかもしれません。そして,すでに,その手は打っているのです。日本野鳥の会は,早くにこの手を用いて,カヌー競技場新設計画を変更させることに大きな成功を収めています。詳しいことはいつかまた書いてみますが・・・。

 というわけで,無理して,将来に禍根を残すようなとてつもない新国立競技場建設計画を推し進める必要はまったくありません。まずは,民意をしっかりと受け止めることから仕切り直しをするのが賢明だとわたしは考えます。そして,現国立競技場を改修して,東京五輪の遺産として未来に手わたす,これが「IOCアジェンダ21」に叶う方法であり,国際社会の趨勢とも一致するものでもあるからです。

 なぜ,JSCはこんな基本的なことがわからないのでしょうか。頭の狂った人間は,自分の頭が狂っているということが理解できません。どこかの宰相と同じです。ですから,暴走するのみです。これに歯止めをかけるのは,わたしたち国民です。それが民主主義というものです。なんとしても,ここは踏ん張りどころです。新国立競技場建設計画も,そして,政治も。

2014年10月5日日曜日

新国立競技場建設計画を振り出しにもどそう!じつに杜撰な計画がつぎつぎに露呈。

 
今日(10月5日)の東京新聞朝刊一面トップに,森本智之記者による実名記事が掲載されました。それが以下の写真です。そして,10面には,同記者による「新国立競技場を考える」という特集記事が全面を飾っています。それが,その下の写真です。

 
 
 
しばらく前のこのブログで,森本記者による新国立競技場関連記事をとりあげ,一夜漬けのにわか取材で,表面的なうすっぺらい記事を書くべきではない,と批判したばかりでした。その声が聞こえたかのように,今回は,相当に踏み込んだ,気合の入った取材にもとづく,パワーのある記事となっています。

 ここまできたら,こちらにももっと欲がでてきます。これを総論としておいて,つぎには各論を展開してほしい。それは,2020東京五輪をめざして,民意を総結集できるような民主主義的な手続論に大きな欠損があることを,白日のもとにさらけ出してほしいからです。言ってしまえば,文部科学省の下部組織であるJSC(日本スポーツ振興センター)や,組織委員会や東京都が,ほとんど闇の世界で東京五輪の核心部分を独断専行させて決定し,ものごとを進めている,その悪しき体質を徹底的に批判し,糺すことをやってほしいからです。そうしないかぎり,日本という国は,いつまでたってもお上の好きなように,つまりは,国民不在の政治が行われ,民主主義の理念も実践も根づきません。その意味では,国際的にみても,相当の後進国のままです。

 2020東京五輪は,いってみれば,国民的な,唯一の平和的な最大の運動です。なのに,ここでも一部の支配層の利害・打算が最優先されています。ですから,民意どころか,完全なる闇の世界で肝心要の重要事項が決められ,それを既定事実であるかのように,国民に押しつけてきます。その典型的な事例のひとつが,この新国立競技場建設計画をめぐる諸問題です。

 その事業母胎であるJSCのやり方が奇怪しいということが,早くから,建築の専門家集団や市民団体から指摘され,何回ものシンポジウムや報告会をとおして糾弾されてきました。にもかかわらず,JSCは一切耳を傾けようとはしませんでした。主要メディアもほとんど無視したままでした。ですから,いま2020東京五輪開催に向けて,とんでもないことが着々と推し進められていることを,ほとんどの国民が知らないままでいます。

 しかし,神様がしっかりと見届けていたかのように,ここにきてJSCのやり方ではどうにもならない事態が,現実の方からやってきました。つまり,JSCの打ち出した新国立競技場建設計画が,どうにもこうにも立ち行かなくなってしまったからだす。まずは,現国立競技場解体にともなう入札方法に疑念が生じ,入札会社の一社がその方法にクレームをつけ,いま,その審査に入っていて,解体工事が暗礁に乗り上げていることがあります。しかも,この解体工事ですら,大手ゼネコンは一社も入札には参加していません。このままでは,新国立競技場建設の入札にも,大手ゼネコンは参加しないのではないかと危惧されています。少なくとも,現段階では,まったく採算の合わない仕事だとみなし,みんな腰が引けているからです。

 その実態のあらましが,今日の東京新聞によって明らかになっています。まずは,予定されている予算の範囲内では建設が不可能であること,その費用も雪だるま式に,一カ月ごとに増加の一途をたどっていること,技術的に難工事が多く,経費も時間も圧倒的に不足していること,あとは,資材も人材(労働力)も,短期決戦(48カ月)に挑むにはまったく不足していること,などなど,課題はあまりにも多すぎます。加えて,霞ケ丘住宅の住民の立ち退き問題も,ほとんど手つかずのままです。JSCはホームページには,周辺住民に懇切丁寧な説明をし,理解を得るべき努める,と明記しながら,やったことは「退去命令」だけで,詳しい説明は一切していないことを霞ケ丘住宅の住民が訴えています。そして,景観問題も片づいてはいません。圧倒的多数の住民が反対しています。なぜなら,JSCは地域住民が納得するような説得の努力を一切していないからです。

 このように考えてきますと,新国立競技場建設計画は,一度,振り出しにもどし,仕切り直しからはじめるしか方法はなさそうです。そして,早くから提案がなされている槇文彦さんや伊東豊雄さんらの,現国立競技場の改修案についての議論に切り換えるべきでしょう。もはや,建て替え案は時間切れ寸前なのですから。しかも,問題山積。これを無理矢理推し進めたところで,かならず途中で破綻をきたすことは眼にみえています。素人でもわかります。

 そして,最後の決め手は,いま進行中の新国立競技場建設計画は,IOCが定めたアジェンダ(環境や住民の理解,などを定めた基本方針)にも違反している,ということです。この違反問題は,市民団体を中心に各方面から(日本野鳥の会,など),直接,IOC本部にも訴えがとどいています。そして,IOC本部はこの事態を重く受け止めている,と返事があったと「報告会」でその当事者から話を聞いています。

 いまや,IOCからも「笑い物」にされつつある,そんな事態を迎えています。なのに,JSCは一歩も引こうとはしません。自浄能力を書いた組織はかならず崩壊します。JSCは,もはや,風前の灯火だとわたしはみています。おそらく,当面は,組織の名称変更くらいできりぬけようとしているようですが・・・・。はたして,壁紙を張り替えたぐらいで,組織が蘇生するとは思えません。

 最悪の場合には,2020東京五輪返上という事態も視野に入れなくてはならない,そういう危機的情況に,いま,わたしたちは立たされている,ということを肝に銘ずべきでしょう。最後の決め手は,フクシマです。東京の上空を流れてけいるセシウムの量が,ここにきて急増しているという報告が,原子力規制委員会から公表されています。

 これから,ますます多くの隠された事実関係が明らかになってくると思います。富士山の噴火だって,視野に入れなくてはならないところにきています。もちろん,地震も。

 いま,日本国は,政治の迷走も含めて,戦後最大の危機に直面している,とわたしは認識しています。西谷修さんの表現を借りれば「破局は,いま,ここに」きてしまっている,だから,それを回避するための「再生のヴィジョン」を描くことが肝要である,と(『破局のプリズム』──再生のヴィジョンのために,ぷねうま舎,2014年9月刊)。

 いま,まさに,新国立競技場建設計画をめぐる諸問題は正念場を迎えています。いまこそ,声を挙げるべきときだ,と覚悟を決めましょう。いま,できるところから・・・・。

シンポジウム「TPP,国家戦略特区 日本社会の危機を考える」,10月15日(水)早大で開催。

 ご案内です。「TPP参加交渉から即時脱退を求める大学教員の会」事務局から,下の写真のようなシンポジウムが開催されるという情報が流れてきました。メールに添付されたフライヤーをダウンロードして,それをブログに転載しようとしたら,受け付けてくれません。画像形式にしろ,とパソコンがいいます。仕方がないのでパソコン画面を写真に撮って,それをここに貼り付けました。ほんとうは,バックの地は真っ白で鮮明なのですが,不思議なことにパソコン画面の模様が写ってしまいました。まるで,このようなデザインであるかのように。カメラの眼ってすごいですね。いささか見苦しいですが,お許しください。


 わたしの期待は,パネラーの中山智香子さん。『経済ジェノサイド』(平凡社新書)で,新自由主義経済のフリードマンを徹底的に批判し,注目を集めました。個人的にも,東京外国語大学時代の西谷さんを訪ねたときには,ほぼ,間違いなく中山さんにもお会いし,いろいろお世話になっていました。この夏(8月下旬)には沖縄・辺野古にも仲里さんの車で,西谷さんとご一緒させていただきました。充実した時間でした。


 その中山さんが,第Ⅱ部のパネル・ディスカッション「新自由主義経済とは何か──国家戦略特区から見えて来る今日の世界」で登壇されます。まさにうってつけのパネラーというわけです。「新自由主義経済とはなにか」という命題を,中山さんがどのように語られるのか,興味津々です。その前に,もう一度,『経済ジェノサイド』──フリードマンと世界経済の半世紀(2013年刊)を読んで予習をしておかなくては・・・・と愉しみです。

 日時:10月15日(水)18:00~20:30
 場所:早稲田大学国際会議場・第二会議室・3F
 入場無料。ただし,事前予約制。
 mse.studies@gmail.com に「シンポジウム参加」と連絡を。

 パソコン画面を写真に撮りましたので,重要な情報が抜け落ちています。お許しください。たぶん,ネットで検索すると,すぐにわかると思いますので,よろしくお願いいたします。

2014年10月4日土曜日

西谷修さんの新著『破局のプリズム』(ぷねうま舎刊)をお薦めします。チョー哲学=世俗哲学の手の内を考える。

 
しばらく前から西谷さんが「ちょうてつがく」ということばを発するようになり,わたしは勝手に「超哲学」だと思っていました。それでもなんとなく不安でしたので,直接,伺ってみました。すると意外な答えが返ってきました。文字で書けば「チョー哲学」です,と。なぜ,カタカナなのか,と一瞬考えてしまいました。

 そこには西谷さんならではの皮肉とジョークがこめられているのだろう,とこれはわたしの解釈。皮肉は,硬直化してしまって現実と向き合わなくなってしまった「哲学」一般に対するものなのかな,と。それも「哲学」を超越してしまっては,もはや意味をなさなくなってしまいます。ですので,その中間あたりをねらっての「お遊び」ではないか,と。しかも,「チョー・カワイイ」という流行語ともひっかけてのジョークにも通じているようです。もっと言ってしまえば,形而上学に凝り固まってしまった思考は,こんにちの世界や時代に対応できないものになってしまった,とりわけ,「9・11」以後,さらには「3・11」以後の時代や世界を受け止め,分析していくことはできなくなってしまった,という認識があってのことだと思います。つまり,未来にあるべきはずの「破局」が「いま,ここに」きてしまった,この時代・世界に向き合うためには「チョー哲学」こそが必要なのだ,という主張でもあるとわたしは理解しています。そして,その中心にある視座は「生身の人間」である,と。


 つい先日亡くなられたばかりの哲学者・木田元さんは「反哲学」ということばを用いて,少なくともハイデガー以後の哲学は,それまでの形而上学とは一線を画すものだ,という立場を貫かれました。『反哲学史』(講談社学術文庫)などにその主張が如実に現れていたように思います。

 西谷さんの主張は,木田さんの「反哲学」とも異なります。西谷さんの主張は,たぶん,ごくごく平凡な日常を生きる「生身の人間」の視点から,心ならずも「破局」を迎えてしまった「いま,ここ」に視線を注ぎ,このような事態にいたってしまった時代や世界を直視し,根源的な問いと答えを導き出そう,としているように見受けられます。その方法論が「チョー哲学」,すなわち「世俗哲学」というわけでしょう。

 しかし,世間一般の認識では,「世俗哲学」は,いわゆるアカデミックな「哲学」とは違って,一段低い,素人哲学といったニュアンスがあるように思います。その辺りのことを意識してか,西谷さんは,あえて「チョー哲学」といい,しかも,真の「世俗哲学」こそが「生身の人間」のための「哲学」なのだ,と主張されているように思います。

 以上が,西谷さんの新著『破局のプリズム』──再生のヴィジョンのために,を読みながらわたしの頭のなかを駆けめぐり,考えたことのもっとも大きなテーマでした。

 内容については,いつも思うことですが,ずいぶん前に書かれた言説であっても,少しも「古く」ならない,それどころかより「光彩」を放ちはじめることに感動です。時代や世界や経済や戦争や社会や宗教や芸術や文学や思想や哲学や医療や芸能やスポーツや人間を隈なく渉猟し,深い洞察から導き出される西谷さんならではの「芸」だ,とわたしはいつも感心しています。こんなに広い視野と深い洞察を持ち合わせている人を知りません。

 いよいよ佳境に入る,そんな心境すら透けてみえてくる名著です。
 こころからの敬意をこめて,西谷さんのこの新著をお薦めさせていただきます。

憲法9条はノーベル平和賞の有力候補だというのに・・・・。調布市よ,お前もか。

 今朝(10月4日)の東京新聞は一面トップに,「九条の会との共鳴ダメ」「調布市が後援拒否」と大きく取り上げています。栃木県佐野市は会場も貸さないと言ってますが,調布市は会場は貸すが「後援」は拒否するとのこと。これまではずっと後援してきたのに・・・・。ここにきて豹変? いな,「自発的隷従」。どこに?だれに? ここにわざわざお名前を書くことすらはばかられる,かの御仁です。そうです,ご推察のとおりです。

 
同じ紙面の左下に囲み記事として,「9条」ノーベル平和賞本命?が掲載されています。こちらの情報は,すでに昨夜からネット上を飛び交っていて,世界の話題になっているようです。しかも,多くの支持を得ているようです。

 ちなみに,いま,ノーベル平和賞の候補(オスロ国際平和研究所の予想)としてあがっているのは,以下のとおりです。
1.フランシスコ・ローマ法王
2.エドワード・スノーデン氏
3.「ノーバヤ・ガゼータ」(ロシアの新聞)
4.ドン・ムクウェゲ氏(コンゴ民主共和国の医師)
5.マララ・ユスフザイ氏(パキスタン出身の女性の教育の権利提唱者)

 そして,「憲法9条」は欄外に上がっていたのですが,3日付けで,ウェブサイト上の予測リストを更新し,トップの「フランシスコ・ローマ法王」と入れ代わって,一気に第一位に上げられた,という次第です。どのようにしてこの賞が選ばれるのか,詳しいことは承知していませんが,第二位以下の顔ぶれをみるかぎり,「憲法9条」はきわめて有力だ,とわたしも思います。

 オスロ国際平和研究所の所長・ハープウィケン氏(52)によれば,「中立や不可侵,平和主義につながる原則を掲げる憲法9条は,軍事的な紛争解決が多用される昨今において重要にもかかわらず,充分に光が当てられていない。領土問題などアジアがはらむ将来の紛争のおそれについても注目されるべきだ」,ということです。

 ノーベル平和賞の発表は10月10日。さてはて,その結果やいかに・・・・。

 もし,この予測が当たったとすれば,これは間違いなく世界中の大きな話題になるでしょう。そうなると,日本政府としてもこれまでの姿勢を貫くことはきわめて困難になってくるでしょう。もし,はずれたとしても,現段階での情報だけでも,国際社会の大きな話題になることは間違いありません。

 この「憲法9条」を守ろう,という主張が「政治的である」という理由で,後援しないとする市長の顔がみてみたい。

 同じ東京新聞の7面に,「九条の会」アピール全文,が掲載されていましたので,こちも紹介しておきましょう。

2014年10月3日金曜日

高校野球,「延長50回」は残酷?

 『ひろばユニオン』(労働者学習センター刊)に「高校野球『延長50回』は残酷?」という原稿を投じました。

 
このブログでも取り上げた話題です。が,このブログに書いた文章は急ぎすぎたのか,ことば足らず・説明不足というべきか,読者に不要の誤解を招いたようです。そのことを弁明するのもどうかと思いましたので,そのままになっています。

 今回,雑誌『ひろばユニオン』の連載「撃!スポーツ批評」の第3回目の原稿として,この問題を取り上げ,簡潔にまとめてみましたので,ご笑覧いただければ幸いです。

 
 
 
以上です。

 この問題に関しては,いろいろ異論もあろうかと思います。ぜひ,ご意見などお寄せいただければ幸いです。

怪物・逸ノ城,電撃デビュー。雷電の再来か。このさきどんな相撲をとるのか,愉しみ。

 イチノジョウ? そんな力士の名前は聞いたことないよ。だれ? どんな力士なの? 十両から幕内の力士になって初めての場所らしいのに,いきなり連勝街道を突っ走っているなんて・・・? しかも大関,横綱まで倒すという大活躍。わたしも驚きましたが,日本中の相撲ファンも度肝を抜かれたのではないでしょうか。

 またもやモンゴル出身力士か,と半分驚きながらも,人気沸騰。これまでのモンゴル出身力士とはいささかスケールが違います。からだも太ももも桁外れのサイズですが,それだけではありません。こころの座り方が尋常ではありません。冷静,沈着。いかなる対戦相手といえども,ものおじしません。それどころか相手を飲んでかかっています。とても,ことし1月の初場所に幕下付け出しでデピューしたばかりの力士とは思えません。この間の9月場所がデビュー後,たった5場所目です。インタビューを受けても,余分なことは一切言いません。ひたすら「頑張ります」「全力で頑張ります」「胸を借りるつもりで頑張ります」を繰り返します。勝ちつづけても舞い上がるそぶりも見せません。勝って当たり前,という顔をしています。相撲をとる前も,とり終わった後も,涼しげな顔をしています。内に秘めた闘志をあまり顔に出しません。体と心は文句なし。こうなると,あとは,相撲の技を磨き上げていくだけです。まだまだ荒っぽい相撲ですが,それでも負けません。ここに立ち合いなどの「巧さ」が加わると,もはや手のつけようのない力士の誕生ということになります。とんでもない「逸材」の登場です。いや,「怪物」の登場です。無限の可能性を感じさせます。こんな力士はみたことがありません。

 相撲史にその名を残す雷電の再来? わたしの眼にはそんな風に写ります。張手,かんぬき,鯖折りの三つの技を禁じられたという怪力・雷電です。まさか,逸ノ城が雷電並みの力士になるとは考えられませんが,それでも,ひょっとしたら雷電にもっとも近い力士になるのではないか,とそんな予感を漂わせています。

 逸ノ城駿(いちのじょうたかし)。平成5年4月7日生まれ。本名は,アルタンホヤグ・イチンノローブ(Altankhuyag Ichinnorow)。モンゴル国アルハンザイ県パットツェンゲル郡(ウランバートルから400㎞)出身。遊牧民の子どもとして育つ。身長:192㎝,体重:199㎏。太もも:92㎝。愛称はモンスター。右四つ,寄り切り。幕下付け出しから全5場所で49勝10敗。9月場所:13勝2敗。準優勝。敢闘賞・殊勲賞受賞。

 逸ノ城という醜名は,本名の「イチンノロープ」の「イチ」と,逸材の「逸」とを重ねて,命名したといいいます(湊親方談)。しかし,わたしには別の読みがあるように思います。本名の英語表記は Ichinnorowとなっています。これをふつうに読めば「イチンノロウ」です。イチノジョウとイチンノロウ。そっくりではありませんか。とまあ,これはわたしのことばのゴロ遊び。でも,本人は,土俵上で呼び出しが「イチノジョウ」と声を張って読み上げているのを,「イチンノロウ」と聞こえているかもしれません。だとしたら,気分もいいことだろうなぁ,とこれもわたしの勝手な想像。直接,会う機会があったら聞いてみたいところです。

 逸ノ城は子どものころから馬の生乳を毎日2ℓずつ飲んでいたといいます。遊牧民ですから,ゲル生活。馬とともに移動しながら暮らす生活です。子どものころから大きなからだだったので,ブフ(モンゴル相撲)に親しみ,14歳のとき,アルバンザイ県の大会で優勝。柔道も少したしなんだ,とのこと。学校へは学校のある村のゲルで生活。のちに,妹,弟の面倒もみながら一緒に生活したといいます。幼少時から自律していたことがわかります。

 2010年,鳥取城北高校相撲部監督・石浦外喜義に才能を見出され,同校に相撲留学。ここでの愛称は「イチコ」。2年生,3年生で5つのタイトルを獲得。卒業後,相撲部のコーチとなり,2013年全日本実業団相撲選手権大会で優勝。幕下15枚目付け出しの資格をとって湊部屋に入門。湊部屋には幕下以上の力士がいなかったために,いきなり部屋頭。稽古相手を求めて出稽古に。佐渡が嶽部屋や貴乃花部屋に通う。貴乃花部屋にはモンゴル出身で城北高校の4年先輩に当たる貴ノ岩がいて,稽古をつけてもらったといいます。

 これからも出稽古はつづきます。そうして,いろいろの型をもった力士と稽古することによって,ますます相撲の技量の幅は広くなっていくことでしょう。199㎏の体重にもかかわらず,意外に器用にからだを動かすことができるのは天性のものなのでしょう。ただ,これ以上の体重にならないよう食事制限をしているとか。膝への負担が大きくなり,怪我のもとになる,というわけです。むしろ,激しい稽古によって,もう少し体重を落とした方がいい,と言われています。その辺りのことは,貴乃花部屋に通って稽古をしていれば,貴乃花親方からもいろいろと指導してもらえるのではないか,と思います。面倒見のいい貴乃花のことですから。

 9月場所,一敗同士の白鵬との対戦でみえてきたことのひとつ。立ち合いのときの腰の割れ方。股関節が柔らかく,仕切りで両手をついたときの姿勢が白鵬とほとんど違わないこと。この姿勢から低く立つことを身につけたら鬼に金棒。ポーンと両手で突いて立つ,などの立ち合いの攻撃の型をもつこと。そうなれば,横綱はすぐそこにみえてきます。

 この一戦で,お互いに相四つなので,得意の右四つになりながら,逸ノ城が一度も攻撃を仕掛けなかったことの理由については,また,いつか機会をみて書いてみたいと思います。ヒントだけ出しておきますと,日馬富士が白鵬に負けるときの型と同じです。左上手投げを食って,コロリと転がっていくのまで,そっくり同じです。それがなにを意味しているのかは,ご想像にお任せします。そこをも楽しむのが大相撲の醍醐味というものでず。

 ということで,ひとまず,ここまで。

2014年10月2日木曜日

栃木県佐野市。国家の根幹をなす日本国憲法の議論を禁止する地方自治体とはなにか。

 この日本国では,国家の根幹をなす日本国憲法を公開で議論することすら許されない,というのでしょうか。こんな国家が世界のどこに存在するのてしょうか。わたしは聞いたことがありません。しかも,現行の日本国憲法を守ろう,という憲法擁護論が地方自治体によって弾圧されるとは・・・・。こんなことが許されていていいのでしょうか。

 しかも,その理由が「政治的だから」という。とんでもない。では,学校教育で憲法を教えることもいけないというのでしょうか。日本国民として,だれもが知っておかなければならない必須の教養です。ですから,わたしたちが大学の学生のときには,「憲法」という授業科目があり,教職教養の必須科目でした。この単位を取得しないと,教員にはなれませんでした。ですから,こんにちまで,「憲法を守ろう」という主張の集会には,地方自治体も率先して後援者となり,会場も提供してくれる,というのがごく当たり前のこととして行われてきました。

 ところが,ここにきて,突如として「護憲運動」が「政治的」であるという理由で,地方自治体が弾圧をはじめました。なんということか,とんでもないことです。あきれてものも言えません。地方自治体が弾圧すること,そのことこそが一方的な「政治的」行為ではないですか。そのことにすらも気づいていないのでしょうか。

 憲法に関しては,護憲派も改憲派も,堂々と公開で議論すればいいのです。そのために地方自治体の施設は解放すべきです。憲法について,その是非を議論することは,すべての国民にとってもっとも重要なテーマです。国民の総意で決めるべき,最大のテーマです。それを,なにゆえに,一地方自治体の意思で弾圧することが許されるのでしょうか。

 栃木県佐野市の市民はいったいどのようにこの事態を受け止めているのでしょうか。

 とんでもない,国家の一大事にかかわる大ニュースにもかかわらず,大きな話題にもなりません。マス・メディアもまた,いつものとおり,ほとんど無視。寝たふりをしています。そして,どうでもいいニュース(ポピュリズムを煽り立てるようなニュース)ばかりをしつこく追いかけまわし,読者・視聴者の関心をその一点に惹きつけることに専念しています。それは,明らかに問題の本質のすり替えです。国民の眼を,別の一点に集中させて,眼くらましをかませよう,という悪意がそこにはみえみえです。

 それはなにを隠そう,この国の手のつけられない間抜けな宰相が常套手段として用いる「問題のすり替え」を,そのまま模倣しているだけです。なぜ,マス・メディアはそんなことをするのか。「自発的隷従」です。それほどまでに,いま,水面下での政府の弾圧が強くなっているということです。その構造は,日本政府が,率先垂範しているように,アメリカに「自発的隷従」するのと,まったく同じ構造です。

 とうとう日本国憲法という魂を売って,テロとの戦いのために武装しようという,まるでゲーテの『フアウスト』のような話が,いま着々とこの国では進行しています。それが,とうとう,栃木県佐野市にも亡霊のように立ち現れ,アホな宰相に「自発的隷従」の姿勢を示した,ということなのでしょう。本来ならば,日本政府から「注意」があってしかるべきなのに,なんのお咎めもないようです。これまた,まるで,ヘイト・スピーチを野放しにしているのと,瓜二つです。

 いったい,この国は,どこまで転げ落ちていくのでしょうか。まるで雪だるまのように。
 いつになれば,多くの国民が目覚めるのでしょうか。
 火の粉が,わが身にふりかかるまで,「待つ,しかない」のでしょうか。

2014年10月1日水曜日

「股関節を緩める」は「股間周辺の筋肉を緩める」ということです。李自力老師語録・その51。

 李老師は,わたしたちが稽古をはじめた当初から,何十回,何百回と「股関節を緩める」ということばを繰り返して,指導してくださいました。が,この「股関節を緩める」ということの意味がわかりませんでした。股関節は,関節であって,これを緩めるということがどういうことなのか,どうしてもわたしには理解不能でした。

 股関節まわりの筋肉を弛緩させることなのだろうなぁ,という想像はできます。しかし,からだでそれを確認することができません。つまり,頭で考えたことをからだに命令することができないのです。ですから,仕方がないので,見よう見まねでそれらしきことをやっているにすぎません。

 どうしても納得がいきませんので,李老師の動作をじっと凝視して,なんとかしてそのからくりを解きあかそうと努力します。しかし,なにがどのようになっているのかがわかりません。しかし,繰り返し繰り返しよくよく凝視して観察をつづけていますと,なるほど,やわらかくするりと腰が回転していくのがわかります。しかも,その瞬間にほんのわずかに「沈」していることもわかってきます。

 しかし,自分でやってみると,そうは簡単にはできません。これかな,あれかな,という具合に身体感覚が定まりません。闇のなかでの試行錯誤がつづきます。

 そこで,今日(10月1日)は思い切って質問をしてみました。「股関節に力を入れて踏ん張る感覚はなんとなくわかります。しかし,股関節を緩めるとなると,どうもそのつかみどころがわかりません」と。すると意外なことばが返ってきました。「最近,気がついたのですが,股間周辺のこまかな筋肉を緩める,と言った方が適切だと思います」と。

 その瞬間,わたしの頭のなかに電撃が走りました。あっ,そういうことなのか,と。「尾てい骨を巻き込むようにして脚を前に送り出します」というときの,あの「尾てい骨を巻き込む」ときには,明らかに肛門の筋肉を締め,さらにその前方の股間の筋肉にも力が加わることによって,一連の動作が可能となります。ならば,その逆をやればいいのだ,と。

 そこで,まずは開脚立位のまま肛門の筋肉を締めたり,股間の筋肉を緊張させたりしてみます。これはすぐにできます。そして,緊張した筋肉を弛緩させることも,簡単にできます。しかし,弛緩させた筋肉をさらに弛緩させる方法がわからない。ここにひとつの大きな壁があります。

 そこで稽古が終わってから,さらに,李老師に質問をしてみます。すると,こんどもまた意外なことばが返ってきました。「そこからさきは自分で創意工夫をしながら発見するのです。からだの声に耳を傾けながら稽古をしていると,あるとき突然,その声を聞くことができます。その声にしたがうことです。すると,それまでに経験したことのない快感がからだの奥底から湧きだしてきます」と。このことばに再び,わたしの全身に電撃が走ります。「うーん」と唸りながら,そういう世界がこのさきに待っているのか,と。

 この「からだの声に耳を傾ける」ということについては,また,別の機会に書いてみたいと思います。李老師は,いまも,新しいからだの発見がつづいていて,いまもなお,からだは進化をつづけていると仰います。そうか,ようやくにしてわたしたちのからだもその世界に接近してきているのか,と。これは久しぶりの朗報でもあります。

 ならば,少し気合を入れて自主稽古に励んでみようか,と。勇気百倍。歓喜千倍。

「美術する身体」展。ピカソ,マディス,ウォーホル,など。名古屋ボストン美術館で。Gestaltungを考える。

 「美術する身体」・・・このテーマに惹かれて,名古屋・金山へ。27日の犬山例会を主宰してくださった船井廣則さんの情報提供を受けて,翌日(28日),栄の「これからの写真」展(愛知県美術館)をみたあと,金山に足を伸ばしてみました。栄から地下鉄で四つ目が金山。

 金山の駅を降りて,地上に出てきてびっくり。むかしは(いまから60年前の話)名鉄とJRの駅が別々にあったし,駅名も名鉄は「金山橋」でした。そして,金山橋の駅は路面にあったと記憶しています。ところがどっこい,これまた立派なモダンな駅舎となり,駅名も「金山総合駅」とあります。名鉄とJRがひとつ駅舎にまとめられ,とても便利になっていました。

 その駅前に,名古屋ボストン美術館がありました。栄の愛知県美術館もびっくりするほどの立派な建築でしたが,ここもまた素晴らしい建築でした。名古屋はすごいエネルギーに満ちている,そんな印象をもちました。

 さて,問題の「美術する身体」展。こちらはなかなかの充実ぶりで満足。

 
 
  この展覧会で考えていたことは,ただ一点。それは,27日の犬山例会で議論になった Gestaltung ということについてです。すなわち,「美術する身体」の Gestaltung とはなにか。それが手にとるように,わたしの眼には見えてきました。とてもありがたいことでした。

この展覧会に展示された作品は1940年代から現代まで。とくに,第二次世界大戦以後,ピカソやマティス,ウォーホルなどといった画家たちが,人間の「身体」をどのように捉え,描こうとしてきたのか,ということがメイン・テーマとなっています。ですから,各作家たちが「身体」を創造する意図,託す思いのようなものが,それぞれの作家の生きた時代や国・地域によってさまざまに表出している,その現物と向き合うことができる,というわけです。各作家たちは,それまでの「美術する身体」描写を批判的に乗り越えようと必死で考え,みずからの手法を編み出します。そして,それぞれの思いを籠めて「美術する身体」の理想を探求していることが手にとるようにわかってきます。これこそが,「美術する身体」の Gestaltung そのものではないか,と考えた次第です。

そこには,人間の運動の Gestaltung とはなにか,ということを考える上での大きなヒントがある,と。つまり,Bewegungsgestaltung とはなにか。人間の運動にはさまざまな階層があります。たとえば,Uebung/Training とBewegung/Movement との間には大きな違いがあります。修練やトレーニングはある目的があって,その目的に対して合目的的に組織された運動のことを意味します。しかし,そこで組織される前の「運動」(Bewegung/Movement )は,純粋な意味での人間の運動そのものを意味します。となりますと,人間がからだを動かす,あるいは,人間のからだが動く,とはどういうことなのか,という根源的な問いが発生してきます。その問いに応答するものが,すなわち,Gestaltung ではないか,というわけです。

この仮説が正しいとすれば,Bewegungsgestaltung という課題は,きわめて哲学的な問いに応答しなければならなくなります。1920/30年代にあっては,この要求に応答する哲学となれば,それは「生の哲学」(Lebensphilosophie )ということになるでしょう。となると,忽然と立ち現れるのが,たとえば,ニーチェの哲学,ということになります。ならば,ニーチェ的な発想による Bewegungsgestaltung とはどのようなものなのか,と思考を伸ばしていけば,おのずからなるひとつの解がみえてきます。

 このように考えてきますと,では,こんにちのわたしたちにとっての Bewegungsgestaltung はどのようなものなのか,ということもみえてきます。「美術する身体」の Gestaltung が作家の力量を反映するように,Bewegungsgestaltung もまた,それを模索する体操指導者によって異なってきます。となると,ドイツ体操( Deutsche Gymnastik )の改革運動のなかで探求された Bewegungsgestaltung は,ひとつの「イズム」となっていく方向と,各個人のレベルの探求に委ねられる方向とに分裂していくことになります。と同時に,ゴールのない理想の探求であり,永遠の哲学的なテーマである,ということになります。すなわち,Bewegung/Movement なるものの,もうひとつの顔がそこに現れてくることになります。すなわち,体操運動と思想・哲学運動の二つの顔がある,と。

 こんなところにたどりつくことができたという意味で,「美術する身体」展は,わたしにとってはまことに有意義なものとなりました。これを手掛かりにして,さらに思考を深めていきたいという意欲までおみやげとして頂戴することになりました。ありがたきかな,美術展。