2013年4月29日月曜日

「中国」という国は歴史上,一度も存在したことはない。ことばに疑問を。そこが「思考」のはじまり。聴講生レボート・その3.

 ことばに関する第2講。

 ことばはわたしたちに先んじて存在する。つまり,生まれる前から存在する。生まれたときにはことばが飛び交っている。そういう環境のなかで,人間はことばをわがものとしていく。したがって,ことばを身につけるということは,圧倒的受身が前提条件となる。ここに,ことばについて思考するときの大きな鍵が隠されている。

 授業の冒頭で,N教授は切り出され,はっと虚をつかれる。ふだん,ことばとはなにか,などと考えることがなかったので,新しい自分というものの扉が開かれる思いがする。

 赤ん坊は親のいうことばをおうむ返しにして,ことばを覚えていく。だから,ことばはアプリオリに存在し,絶対的な力をもつ。したがって,わたしたちは無意識のうちにことばに絶対的な「信」をおいてしまう。ことばに対してなんの疑問をいだくこともなく,丸飲みしてしまう。じつは,ここに大きな落とし穴が待ち受けている。すなわち,「思考停止」という落とし穴が。

 だから,ことばを,ほんとうの意味で自分のことばにするためには,一度,疑ってみる必要がある,とN教授。ここが「思考」のはじまりである,とも。

 たとえば,「中国」ということばがある。このことばを丸飲みにして記憶してしまうと,「中国」という国が,まるで,むかしから存在していたかのように,思い込んでしまう。しかし,「中国」という国は,歴史上,いつの時代にも存在したことはない。存在したのは王朝の名前であり,その実態は,王朝が支配した地域と時代だけである。それをわたしたちは「中国」という国と同義に受け止めてしまっている。だから,「中国史」と聞けば,わたしたちはなんの疑問をいだくこともなく,ごく当たり前のこととしてそれを受け入れている。しかし,中国という国名を名乗った時代は一度もないのである。ただ,中国という表現に近い表現ことばとしては,中華民国,中華人民共和国の二つがある。これを一部省略して短縮すれば「中国」となる。でも,この二つの名称のいずれも,「中国」という国名にはなりえない。

 それは,日本という国名にも相当する。いったい,いつから日本なのか。『魏志倭人伝』に登場する倭人の国は日本ではない。なぜなら,まだ,当時の倭人には国という意識も概念がなかったからである。のみならず,倭人と呼ばれた人びとも,魏王朝の書記官が,かってに「倭人」と名づけただけのことであって,みずから倭人と名乗ったわけではない。ただ,そう名づけられた人びとの代表が魏王朝と接触しただけの話である。

 では,いつから,わたしたちの祖先が「日本」という国を名乗りはじめたのか。それは,有名な「日出ずる国の天子から,日の没する国の天子へ」という書き出しの書状を書き送ったとされる聖徳太子だ,ということになっている。しかし,その聖徳太子ですら,最近では,「実在しなかった」という説が次第に有力になりつつある。だとすると,いったい,だれが「日出ずる国」「日のもとの国」「日本」を名乗るようにしたのか,という新たな疑問が湧いてくる。この疑問が湧いたとき,はじめて,人は思考をはじめる。なぜ?どうして?いつ?だれが?どこで?

 では,日本が英語では,なぜ,Japanと表記されるようになったのか。日本という国がヨーロッパ人に意識されるようになったのは,マルコ・ポーロの『東方見聞録』以後だ。そこには,マルコ・ポーロが中国に滞在していたときに聞いた話として「東の海のかなたに,黄金に輝くジパングという国がある」と紹介している。この「ジパング」は,当時の中国人が「日本」というときの発音が,マルコ・ポーロには「ジパング」と聞こえたのでそのように表記した,ということがわかってくる。そこから,ヨーロッパの各国の言語に置き換えられていく。疑問に思ったことを,少し調べてみたり,考えてみたりすれば,こういうことがわかってくる。

 しかも,わたしたちは慣用語として「ニホン」と呼んだりするが,正式な日本語の国名としては「ニッポン」が正しいということもわかってくる。このことも,いっとき,盛んに議論されたことがあって,それ以後,日本のオリンピック代表選手用のトレーニング・ウェアにはローマ字で「NIPPON」と書かれることが多くなってきている。それでも,スポーツ界には「オール・ジャパン」ということばが定着していることもあって,スポーツ・ウェアなどには「JAPAN」と英語表記されることも多い。

 では,いま,世界でもっとも人びとの口にのぼることばはなにか?とN教授は学生さんたちに問いかける。学生さんのひとりが「オバマ」と答える。N教授は「なるほど。正解をかすっているだけに,とても惜しい。正解はアメリカです」と受けつつ,では,この「アメリカ」ということばは,いつ,だれが,どのようにして・・・・と考えてみると,意外な面白い事実がつぎつぎにわかってくる,として膨大なアメリカということばの起源にまつわる話を展開していく。

 この話を書きはじめると膨大な量になってしまうので,ここでは割愛。

 このようにして,わたしたちが日常的に頻繁に用いている国の名前ひとつにしても,ほんの少し疑問をいだいて「思考」をはじめるだけで,驚くべき「事実」がつぎつぎにわかってくる。そうして,とりあえず,自分で納得できるレベルにまで到達したとき,そのことばは,真の意味でその人のことばとなる。したがって,ことば一つひとつについての理解の仕方は,一人ひとり,微妙に違っている,ということが明らかになってくる,とN教授。

 こうして,いよいよN教授の講義は佳境に入ってきます。
 来週は,ことばとの関連で「イメージ」の話をします,と予告。そのために「電動紙芝居」を用意します,と軽いジョークもまじえながら。

 次回は,4月30日(火)。ゴールデン・ウィークの谷間の平日。それでも,N教授は休講にしないで,この授業をなさる。さすがだなぁ,と感心。こんなところにも真面目な人柄がにじみでている。わたしは,かつては,こういうタイミングのときは休講にしたなぁ,といささか恥ずかしい。

 さて,来週は,どんなお話をしてくださるのだろうか。いまから,楽しみ。

2013年4月26日金曜日

「<力>──この空恐ろしいもの」(真島一郎)について。科学では説明不能の潜在能力。

 4月20日(土)に開催された研究会(「ISC・21」4月神戸例会・世話人竹谷和之)で,ゲスト・スピーカーの真島一郎さん(東京外国語大学教授)が,じつに内容の濃いお話を理路整然と展開してくださり,聴くものを魅了してくださいました。そのお話の中核になる概念をひとことで言ってしまえば<力>。わたしたちがなにげなく用いている<力>とはいったいどういうものなのか,という深い問いを立て,さまざまな視点からの分析・考察を展開し,まことに示唆に富む,いくつかの問題を提起してくださいました。

 もちろん,ここで言っている<力>は物理的な力学の話でも,経済学でいう予測や計算の可能な経済力でもありません。そういう近代的なアカデミズムの合理的思考の枠組みには収まり切らない<力>,あるいは,近代合理主義的な制度や組織からこぼれ落ちてしまう,予測不可能な,しかし厳然として人の生の源泉に渦巻いている<力>のことです。この<力>こそ,文明化社会がないがしろにしてきた,人間の根源に宿る動物性にも似たバイタリティです。この<力>こそ,ある意味では無限の可能性を感じさせると同時に,人間の理性を超えでていく「空恐ろしい」ものでもあると真島さんは位置づけます。

 こうした真島さんの発想の根底には,わたしたちの知っているかぎりでは,アフリカ・コートジボアールのダン族の「霊力・呪力を競うすもう」があります。力士たちは,呪術師やサポーターたちから送られる霊力や呪力を全身で受け止め,それをすもうの<力>に変え,みずからの名誉のために闘います。そのとき,わたしたちのような(真島さんもふくめて)文明化社会に生まれ育った人間にはみえない,さまざまな<力>が,すもうを取っているその場には乱れとんでいるのだそうです。その<力>が,ダン族の人びとにはみんな見えている。その<力>を目の当たりにしながら,持参の呪具をふりかざし,声をからして,みんなが応援をする。当然のことながら,力士たちはそれらの<力>を全身で受け止めながら,相手力士と名誉をかけて闘います。そうして,勝利を収めた力士は,そのときの感動をはたしてどのように語るでしょうか,と真島さんはわたしたちに問いかけてきます。

 プロ野球のヒーロー・インタヴューや,オリンピックの金メダル獲得直後のインタヴューなどでは,選手たちは異口同音に「応援してくださったみなさんのおかげです」という。あらかじめ,メディアのインタヴューの応答の仕方をマニュアルとおりにしている選手が圧倒的に多い。しかし,なかには,こころの底からそう感じ,そう信じて「応援してくださったみなさんに支えられてこの結果があります」と心情を吐露する選手も少なくありません。このときの選手の心情と,ダン族の力士の心情とはほとんど変わらないのではないか,と真島さんは指摘されます。

 トップ・アスリートたちがときおり経験する「異次元」世界のパフォーマンスと,ダン族の力士たちの呪力に身をゆだねていく非日常の世界でのパフォーマンスとは,ほとんど違いはないのではないか,というわけです。そこではたらいている<力>は「空恐ろしい」ものでもある,と真島さんは力説なさいます。わたしも,まったく,同感です。

 こうして真島さんは,この「空恐ろしい」<力>とはなにか,ということをいくつもの事例を引き合いに出しながら多面的・多層的に説明をしてくださいました。そのうちのひとつが,わたしには強烈な印象となって残っていますのでご紹介したいと思います。それは以下のようなお話です。

 IMFや世界銀行などが,アフリカ諸国で生きている人びとの年収を計算してみると,とてもではないけれども生きてはいけない程度の年収でしかないのに,立派に生活している人びとがいる。どうしてこういうことが可能なのか,と大きな議論を呼んでいるそうです。そして,これを「賃金の謎」と呼ぶそうです。つまり,こんにちの経済学の計算によれば,生活が成り立たないはずなのに,生きている人たちが厳然として存在する。つまり,カネなどなくても生きていくことは可能だということです。その生きる<力>はいったいどこからくるのか,というわけです。

 その謎解きのひとつの例として,真島さんがダン族の社会で暮らしていたときの経験談をしてくださいました。食べ物がなくなって空腹に耐えられなくなると,真島さんは日本の「石焼き芋」の歌を歌って歩くことにしていた,といいます。すると,かならず村のだれかが現れて,真島さんに食べ物を与えてくれた,というのです。もちろん,「石焼き芋」の歌をダン族の人たちが知っているわけはありません。あらかじめ,真島さんが「腹が減っても食べ物がないときの歌」として村の人たちに教えてあったのだそうです。ですから,この歌を歌えば「マジマが困っている」と受け止め,みんなが救いの手を差し伸べてくれた,という次第です。

 この話を聞きながら,沖縄では「催合」に入っていればおカネが一銭もなくなっても,だれかが助けてくれる,という話を思い浮かべていました。つまり,賃金以外のところで機能する<力>が,資本主義経済が世界を支配する以前には立派に存在していた,ということです。それがマルセル・モースのいう「贈与経済」のシステムです。当然のことながら,真島さんもマルセル・モースの『贈与論』に触れて,ものを与える義務がある,ものを受け取る義務がある,この贈与交換の「義務」とはなにか,というお話になりました。そして,この「贈与経済」のシステムのなかにこそ計算不可能な<力>がはたらいている,というところまでわかりやすく説明をしてくださいました。

 ここからさらに,伊藤ルイさんの話に及びます。伊藤ルイさんは,大杉栄と伊藤野枝の娘として誕生しますが,この両親の呪縛から逃れるために必死の努力をし,みずからの生きる道を模索していきます。しかし,気がつけば,自分もまた両親と同じような社会運動に身を投じていた,といいます。この伊藤ルイさんが,ある日,バス停で並んで待っていたら,老婆が現れて「どなたさまも,おはようございます」と挨拶をする。よく観察していると,この老婆はバス停にくると毎回,だれかれかまわず「どなたさまも,おはようございます」と挨拶をしている。この挨拶の仕方に感動した伊藤ルイさんは,この老婆と親しくなっていきます。

 この老婆に感動する「心性」,あるいは「眼」は,伊藤ルイさんが忌避しようとした大杉栄と伊藤野枝の「まなざし」とまったく同じものだ,と真島さんは指摘します。一見,矛盾するようですが,アナーキズムの考え方のなかには,この老婆の発する「どなたさまも,おはようございます」という挨拶とが同居しているのだ,と真島さんは主張されます。そして,「人間の生の源泉に触れる経験」という表現を大杉栄は何回もくり返しているとのことです。このフレーズは,わたしが,多くの人びとがスポーツに魅了されていく原動力はいったいなにか,ということを説明するときに用いてきたものと同じです。

 ですから,こういうお話を真島さんから聞かせていただいて,わたしはびっくりしてしまいました。わたしの考えていることが,まさか,大杉栄のアナーキズムの考え方に通底しているとは,夢にも思っていなかったからです。ここのあたりのところは,また,機会をあらためて真島さんとお話ができればなぁ,と夢見ているところです。

 ちょっと,長くなりすぎていますので,今日のブログはこのあたりで終わりにしたいと思います。
 もちろん,また,テーマを変えて,真島さんのお話「<力>──この空恐ろしいもの」のつづきを,このブログでも取り上げてみたいと思っています。

 取り急ぎ,今日のところは,ここまで。

2013年4月25日木曜日

桜井市・出雲・「ダンノダイラ」・覚書・その2.「ダンノダイラ」は巻向山の山頂付近の磐座信仰の聖地で,かつての出雲族の棲息地。

 真言律宗巻向山奥不動寺は,巻向山からの湧き水が一気にあふれだして沢となる,その水源となる位置に建っている。この湧き水は,むかしから不動明王を祀る修行僧たちの瀧行に用いられたのであろう。その意味では,深山の絶好のロケーションに,この奥不動寺は建っている。三輪山の真裏にあたるというポジションも,どこか謎を秘めていそうだ。

 この水源の右に向かう登山道に「ダンノダイラ」への道案内が立っている。このあたりはあちこちから湧き水がでる地形のようで,一気に急坂にさしかかるのだが,あたり一面湿っていて,まことに滑りやすい。よほど注意して足場を選ばないと滑ってしまう。ここを凌ぐとあっという間に尾根にでる。右に行けば三輪山の山頂へ,左に取れば「ダンノダイラ」。


 尾根道を左にとってしばらく行くと二手に道が分かれている。左は尾根筋をまっすぐにたどる道。右は山腹を巻いていく道。ここの分岐点にはなんの表示もないので,少し考える。しかし,尾根筋の道をたどるとすぐさきに巨岩が露出していて,注連縄がかかっているのがみえる。まずは,その巨岩を確かめるために尾根筋をたどる。この巨岩もまた磐座信仰の対象として,いまも,大事に守られていることがわかる。が,この道は,途中で倒木などに遮られていて,いまは歩行困難。かつては,巻向山の頂上にいたる山道があったはず。今回の装備では,この道筋を薮漕ぎをしながら進むことは無理と判断。


 
 右の巻き道をたどることにする。ゆるやかに下りながらトラバースしていく道は歩きやすい。途中から杉の植林のしてあるみごとな山林に入る。このあたりからが「ダンノダイラ」と呼ばれる聖地。案内表示が多くなる。順番に,「天壇」の跡,山の頂上に「小川」跡,「ダンノダイラ」と周域の現地案内,磐座,という具合につづく。最後の「磐座」というところには急斜面に突出するようにして巨岩が剥き出しになっている。


 歩いてきた山道から少し登っていったところにその巨岩がある。近づいてみると,なるほど,圧倒されてしまうほどの迫力がある。植林された杉の木立の間に見えている巨岩は,岩の割れ目のいたずらというべきか,イルカが笑っているような顔にみえる。でも,その存在は,現代のわたしたちが眺めてみても,やはり,神が降臨するかもしれない,という印象をうける。古代人にあっては,間違いなく,天なる神が降臨する依代としてこの巨岩がみえたのも不思議ではない。


 いわゆる「ダンノダイラ」と呼ばれる場所は,いまは,杉木立のなかに広がる,やや緩斜面の地形をなしている。案内表示(野見宿禰顕彰会作成)によれば,この地に古代の出雲族は暮らしていたという。巻向山の尾根筋には小川跡もあり,沼地の跡もあって,そこから「ダンノダイラ」に水を引き,田や畑を耕していたという。思わずまわりの地形を眺めながら,南斜面であること,緩斜面であること,などを考え棚田や段々畑ならば相当の面積は確保できるなぁ,と想像してみる。

 この道は「ダンノダイラ」を過ぎると,一気にくだり坂になっている。これを下っていけば,桜井市の出雲と白河の集落にいける,と案内表示に書いてある。たぶん,そんなに長い距離ではなさそうだ。われわれは,ここ「ダンノダイラ」の東端から引き返して,奥不動寺にもどる。

 いつの時代かは特定できないらしいのだが,古代の出雲族がここに暮らしていた,という。なにゆえに,こんな山の中(それも巻向山の頂上付近)に暮らしていたのか。まるで里村から隠れるようにして・・・。こんなところに住みつかなくてはならなかった理由はなにか。なにか,特別な理由でもあったのだろうか。あるいは,純粋に,磐座のある「聖地」を守ることだけのために,出雲族の特定の人びとがここに住みついていたというのだろうか。もし,そうだとしたら,三輪山の磐座信仰の原点はここではないか,とも考えてみる。なにより,こんな山の上にもかかわらず湧き水があり,立派な水場があったらしい。

 もし,出雲神話の「国譲り」の話(『日本書紀』にも描かれている)が,なんらかの事実にもとづいているとすれば,その直後に,逃げ込むようにして,こんな山の中に隠れ住まなくてはならない理由があったのではないか,ということがまずはわたしの頭に浮ぶ。「国譲り」とは美しい作り話で,実際には,相当に激しい戦闘がくり返されたのではなかったか。負け組の一部が,この山中に逃げ込み,時節到来を待って,逆襲のチャンスを狙っていたとしても不思議はない。

 奥不動寺の老僧が話してくれたことが脳裏をかすめる。老僧の言うには,学者の先生たちの研究によれば,「ダンノダイラ」の出雲族は岩に穴を掘って,その中で暮らしていた,という。夏は涼しく,冬は暖かく,敵に攻められても入り口を塞げば,一時的に身の安全を確保することもできるのだ,と。そして,ここに住みついていた人びとが,のちに,いまの出雲や白河に降りていって里村で暮らすようになった,という。だから,出雲や白河の人びとは,年に何回かは「ダンノダイラ」に集まり,祭祀を執り行いながら「相撲」をとったと言い伝えられている,という。いまでも,出雲や白河の人びとにとってはこの「ダンノダイラ」は聖地としてとても大事な場所だ,という。そして,いまでも祭祀もきちんと執り行われているという。

 この「ダンノダイラ」には,今回,初めて訪れ,その地に立つことができた,ただ,それだけのことである。「ダンノダイラ」についての研究がどの程度行われてきているのか,郷土史家がどのように記述をしているのか,それらのことについての調査もこれからである。とにかく,このような「聖地」があるということを知った,ただそのことを手がかりにして,その地を訪ねてみた,という次第。

 現段階では断定的なことはなにもわからない。すべては,これからである。
 ただ一点だけ,気になることがある。いま,話題になっているベストセラー,村井康彦の『出雲と大和』(岩波新書)には,この「ダンノダイラ」のことはなにも触れてはいない。なぜか? 記述するに値しないと判断したのか,それとも,記述できない,あるいは,秘匿されなければならない,なんらかの理由があったのか,いまは想像の域をでない。

 いずれ明らかにしてみたいと思う。なぜなら,野見宿禰という人物が突然「出雲の人」として『日本書紀』に登場し,その日のうちに当麻蹴速と決闘をしている。この話も不思議である。垂仁天皇に取り立てられた野見宿禰は,おそらくは,この桜井市の出雲の人ではなかったか,というのがわたしの見立てである。だとすれば,その祖先が「ダンノダイラ」で暮らしていたということになる。この事実を隠すためなのか,野見宿禰の出自については,『古事記』にはなにも記録されてはいない。隠す必要のない出自があれば,『日本書紀』に記録されていてもなんの不思議もない。

 そんなことをあれこれ推測しながら,これからの研究仮説を整理していこうと思う。

 取り急ぎ,第2報まで。

2013年4月24日水曜日

「上体が前傾しないように腰の上にどっしりと乗せなさい」(李自力老師語録・その31.)

 表演がダンスになってしまってはいけません。太極拳はあくまでも武術であるということを忘れないように。そのためには,からだ全体の動作がどっしりとしていること,力強いこと,粘り強いこと,無駄がないこと,隙がないこと,などが必要です。つまり,手足の動作はすべて武術のわざであることを念頭におくことです。

 ですから,なによりも大事なことは「安定」です。ふらふらしない。途中で動作が止まらない。つねに,水が流れるように,自然に動くこと。そのためには,まずは,上体を安定させることです。つまり,上体が前に倒れた前傾姿勢にならないように,上体をまっすぐ,どっしりと腰の上に乗せること。そして,いつでも腰の回転によって上体が動かされていることが大事です。そうすれば,動きに溜めができ,粘り強い,どっしりとした力強さが表出してきます。

 ではやってみましょう。ということで,いつもの基本の動作の稽古です。両手を腰のうしろで合わせ,ゆっくりと前進していく,いつもの運足と体重移動の稽古です。股関節をゆるめて腰を回転させ,その方向に体重を移動させ,引きつけたうしろ足を,尾てい骨を巻き込みながら,ゆっくりと斜め前に送り出し,その足に体重を移動させ,ゴンブの姿勢をとり,ややがに股になるようにしながら体重をうしろ足にもどし,股関節をゆるめて腰を回転させ,その方向に体重を移動させ・・・・,というおなじみの基本の動作です。このときに,上体が前傾しないように,腰の上にどっしりと乗せておきなさい,という次第です。

 稽古のときには必ずくり返す,基本中の基本です。それなのに,まだ,上体が前傾する悪いクセがある,と指摘され,真っ青です。背中に冷や汗を流しながら,必死の稽古です。そして,李老師のお得意の「悪い見本」の動作を,みごとなまでに再現してみせてくれます。恥ずかしさを越えて,みんな大笑いです。その上で,「よい見本」をやってみせてくださいます。

 人間というものは不思議な生き物で,「よい見本」をみとどける眼は,その人の上達の度合いに応じて,徐々に深くなってゆくようです。恥ずかしながら,尾てい骨を巻き込みながら足を斜め前に送り出す,という呪文のような動作を今日になって初めて,この眼で見届け,自分のからだで感じとることができました。ので,そのとおりにやってみました。李老師から「あーぁ,そうです」というお墨付きをいただきました。

 これが正しいかどうかわかりませんが,わたしなりに今日,初めて納得したことをことばで表現してみますと以下のとおりです。

 片足に体重を移動させた瞬間の,もう一方の片足のかかとはこれまでよりもやや高く持ち上げているように思います。そのときの片足立ちの姿勢は,腰がぐいっと前方に食い込んでいて,出っ尻になっています。そうして,やや高めにかかとを引きつけ,斜め前に送り出すときに,その出っ尻を巻き込んでいきます。そうすると,このとき,思いがけない「溜め」が生まれます。その「溜め」を存分に味わいながら,ゆっくりと,そして,静かに,猫が足をそっとおくように送り出します。

 上体が前傾しないように腰の上にどっしりと置きなさい,という李老師の指摘の真意はこういうことだったのです。上体をまっすぐに,どっしりと腰の上に置いたまま後ろ足を引きつけるには,どうしても腰を前方に深く食い込ませなくてはなりません。言ってしまえば,結果的に「鳩胸・出っ尻」の姿勢が,瞬間的に現れます。その出っ尻を巻き込めば,うしろ足はおのずから前に送り出される,というわけです。このとき「溜め」も生まれる,というわけです。

 このことに気づかない(見れども見えずの)ために,後ろ足を引きつけるときに,どうしても上体を前傾してしまいます。つまり,瞬間的に,無意識のうちに前後のバランスをとっているわけです。これが,李老師の仰る「悪いクセ」というわけです。

 これまで,長い間,「尾てい骨を巻き込むようにして」という呪文のようなことばが,わたしの頭とからだの両方で「謎」のままでした。今日の稽古で,ようやく,その「謎」が解けました。喉にひっかかっていた魚の骨が取れたような快感です。それは「謎」が解けたからだけではなく,そこには「溜め」というご褒美がおまけについていたからです。

 あの李老師の,悠揚として,迫らざる,あらゆるところに「溜め」のある動きのひとつを,今日,初めてこの眼で確認し,自分のからだで再現できた悦びは,もう,天にも昇る気分です。今夜は,夢にみそうです。嬉しいかぎりです。

 太極拳の奥は深い,といまさらながら思います。でも,これがあるから悦びも一入ということなのでしょう。また,頑張ろうと意欲が湧いてきました。

 今日は,わたしの悦びのご報告まで。

2013年4月23日火曜日

桜井市・出雲・「ダンノダイラ」・覚書・その1.三輪山は明治初期までお寺だった?

 4月21日(日)の午後,「ダンノダイラ」を目指す。案内人は地元の竹村さん(河童研究者)。すでに,一度,「ダンノダイラ」の入り口ちかくまで行ったことがあるという。「ダンノダイラ」は巻向山の頂上付近にある。ここは,桜井市・出雲の人びとにとっては,むかしからの聖地。その東端には巨岩が剥き出しになっていて,ここがむかしからの磐座信仰のシンボル。このことについては,また,のちほど詳しく述べることにして,今回は,その前段についてのメモを紹介しておこう。



  相撲神社や兵主神社を表敬訪問したあと(奈良に住んでいたころ,何回もきたことがある),三輪山の裏側に当たる位置の奥不動寺に向かう。「ダンノダイラ」に行くには,桜井市出雲,あるいは,白河の集落から北上するルートと,この奥不動寺から南下するルートの二つがある。

 奥不動寺は,こんな山深いところに(一本道の突き当たり),こんな立派な寺があるとは信じられないほどの構えと雰囲気をもっている。「南無不動明王」と書かれた赤い幟旗が両側に並ぶ石段を登っていくと,右手奥に本堂,左手に庫裏,右手手前に修行僧のための道場がある。真ん中の参道をとおって本堂の前に立つ。これから「ダンノダイラ」に参りますので,よろしく,というご挨拶のつもりでお賽銭を投げ,祈りを捧げる。と,突然,正面の引き戸が開いて,老僧がにっこりと微笑んで,こちらをみている。



  「ようこそお参りくださいました。どうぞお上がりください」という。「いやいや,わたしたちはこれからダンノダイラに参りますので,ここで・・・・」と断ったのだが,「わたしは耳が遠くてよく聞こえません」という。そこで,老僧は本堂の階段を降りてきますので,わたしたちも近づいて立ち話をすることになる。そうしたら,不動さんを祀る寺としては日本最古の寺だ,という。だから,お堂のなかも見ていきなさい,という。

 「えっ,そうなんですか?」ということになり,いつのまにか堂のなかに。老僧は黙って御本尊さまをはじめ,脇仏さんの前に立つろうそくに一つひとつ灯を点けてまわっている。あれあれ,えらいことになってきたと思いながら,引くに引けず,お堂のなかをあちこちきょろきょろ。祭壇の手前は一段低くなっていて,木魚がたくさん横一列に並んでいる。その手前にざぶとんが布いてある。老僧がろうそくの灯をつけ終るのを待つ。

 そこから老僧のお話がはじまり,ついでに方丈まで案内される。その間に,わたしの知識からは信じられないような,びっくりする話をいくつかなさる。そのうちのいくつかを「聞き書き」として紹介しておこうと思う。

 老僧は92歳だという。とても,そんな年齢にはみえない若々しい顔で,なによりまなざしが優しい。ついつい,話に引き込まれていく。そのびっくり仰天の話をひとつ。

 三輪山(老僧は「みわさん」と呼ぶ)は,明治の初期まで,全部寺でした。明治の廃仏毀釈のあと,寺はことごとく取り壊され,その代わりにいまの大神神社(おおみわじんじゃ・大神とは大三輪の含意か)が建てられました。もともと古くからの磐座信仰があり(三輪山の頂上に磐座があることはよく知られているとおり),このあたり一帯は聖域でした。もともとが,素朴な磐座信仰ですから,社殿はなにもなかったはずです。そこに仏教が伝来して,この聖域に寺がたくさん建てられました。そして,たちまちにして,全国から多くの修行僧が集まってきて修行をするようになりました。この奥不動寺もその一部でした。

 ですが,江戸末期になると,仏教が頽廃し,寺も荒れ放題で,ほとんどの寺が無住の状態で放置されていました。この奥不動寺も無住の寺でした。そこに,わたしの祖母に当たる人が法華寺から派遣されて,20歳の若さで,たったひとりでこの寺を守ることになりました。つまり,庵主(あんじゅ)さんとして住みつきました。が,若い女ひとりでは・・・・というので,のちに結婚をして,わたしが居るというわけです。(僧侶の結婚が認められるのは明治のはじめの話。わたしの母方の祖母も庵主さんでしたが,その解禁のお蔭で,わたしが存在します)。

 奈良の法華寺といえば,皇室直属の寺で,いわゆるふつうの寺とは別格です。しかも,尼僧さんが住職をつとめることになっていますので,代々,庵主さんが住職をつとめています。そこから,この奥不動寺に派遣されてきた20歳の尼僧さんとは,いったい,どういう人だったのか,といまになってあれこれ想像しています。あの老僧のにこやかな笑顔は,やはり,ふつうではありませんでした。どこか,飄々とした風が吹いていました。

 もし,この92歳の老僧の語ることがほんとうだとしたら,20歳の庵主さんが,ここに住みついたのは廃仏毀釈の前ではないか,とこれはわたしの推測です。わたしの父が生まれたのが明治37年。わたしの父の父,すなわち,祖父は無住の空き寺に住みついて,住職となり,結婚します。相当の晩婚だったと聴いていますので,明治以前の生まれだと思います。その孫であるわたしが75歳。この老僧は92歳。だとすれば,老僧の祖母は,間違いなく明治以前に生まれているはずです。その祖母の記憶にもとづく伝承が,この老僧の口から語られているとしたら,大神神社とはいったい,だれが,いかなる目的で,いかなる使命を帯びて建造することになったのか,という大きな謎がそこに生まれてきます。

 わたしの記憶違いでなければ,三輪山をご神体とする磐座信仰にはむかしから社殿はなかったはずで,大神神社の社殿ができたのは比較的新しい,ということになります。しかし,それが明治の廃仏毀釈のあとのことだとは,考えてもいませんでした。ここのところは,いま,このブログを書きながら思い至る不思議ですので,これからたしかなところを調べてみたいと思います。

 となりますと,三輪山をご神体とする大神神社の祭神がオオクニヌシである,という事実に新たな疑問が生まれ,どこか謎めいてきます。これまで,国譲りをして,出雲に封じ籠められているはずのオオクニヌシが,なぜ,この三輪山の大神神社の祭神として祀られているのか,考えつづけてきました。その謎を解いてくれる著書も,管見ながら,わたしは知りません。が,こんどはまた新たに,とんでもなく大きな課題を与えられたように思います。つまり,オオクニヌシの復活です。

 このこと(大神神社のオオクニヌシ)と,「ダンノダイラ」と,ここを聖地としていまも守りつづけている桜井市出雲の人びととの関係は,いったい,どうなっているのか,知りたいことが芋ずる式にふくらんでいきます。これから忙しくなりそうです。


  というわけで,桜井市・出雲・「ダンノダイラ」・覚書・その1.を終わりにします。

4月神戸例会(20日),奈良・出雲関連フィールド・ワーク(21・22日)からもどってきました。

 三日ほどブログをお休みしてしまいました。
 理由は表記のとおりです。

 20日(土)は,神戸にでかけていました。毎月1回,東京・名古屋・大阪・神戸などの都市を巡回して開催している研究会が,4月は神戸でした。5月は名古屋(犬山)の予定です。

 4月神戸例会の開催案内は,ISC・21(21世紀スポーツ文化研究所)のホームページの掲示板にアップしてありますので,ご存知の方も多いかと思います。念のために書いておきますと,以下のような内容でした。

 4月神戸例会の世話人は竹谷和之さん。勤務先の神戸市外国語大学の研究班「ボスト・グローバル化社会におけるスポーツ文化を考える」の第一回目の研究会を,「ISC・21」と共同開催という形式で行われました。研究会のタイトルは「大英帝国・アフリカ・スポーツ」とし,お二人のエキスパートをゲストにお迎えしました。大英帝国の視点からのプレゼンテーションは井野瀬久美恵さん(甲南大学教授),アフリカの視点からは真島一郎さん(東京外国語大学教授),そこにわたしがスポーツの視点からの話題を提供するという具合でした。

 井野瀬さんと真島さんのお話がことのほか刺激的で,参加者はみんな大喜び。このときの様子については,いずれこのブログでも書いてみたいと思っています。結論だけ触れておけば,近代スポーツによるグローバリゼーションはすでに臨界点に達しており,そこをいかに通過し,つぎの地平に突き抜けていくか,そのための方途・視点(理念と方法)が問われている,というところで三人の意見は一致したように思います。そして,そのためにはある意味での「逸脱」が必要ではないか,という次第です。詳しくは,いずれまた。

 以上が20日(土)13:30~18:30,場所はUNITY(学園前駅から1分)。夜の懇親会は三宮で開催。これまた,大いに盛り上がり,楽しい会となりました。二次会は,宿泊施設のわたしの部屋。いつものように深夜に及ぶ。眠くなった人から就寝。

 翌日の21日(日)は奈良へ。フィールド・ワーク。まずは,巻向山の「ダンノダイラ」を目指す。桜井市出雲の人びとがいまも大事にしている山頂近くの聖地。この聖地のことが,なぜか,ほとんど公にされることなく,秘められたままになっています。奈良で生まれ育った人でも,この「ダンノダイラ」という地名を知っている人はほとんどいません。また,村井康彦さんの話題の近著『出雲と大和』(岩波新書)でも,ひとことも触れられてはいません。すぐ近くに隣接している檜原神社から三輪山の頂上の磐座にいたるルートの紹介はあるのに,同じ尾根を東に向かえば,いともかんたんに「ダンノダイラ」に達することができる,しかも,出雲の人びとの磐座信仰の対象となっていた巨岩のある聖地が伏せられているのです。それはなぜか。その謎を解くために,まずは,その場に立つことからはじめようという次第です。

 この問題についても,いずれ詳しく,わたしの仮説を紹介してみたいと考えています。この「ダンノダイラ」にわたしを案内してくれたのは河童の研究者竹村匡弥さん。この出雲に住む人たちの聖地を一緒に歩きながら,可能なかぎりの仮説を提示しあうスリルを満喫しました。夜は明日香村の民宿に,奈良教育大学時代の教え子たちが数人集まって,楽しい団欒。ほやほやの「ダンノダイラ」の話を聴いてもらいました。この人たちも,だれも,「タンノダイラ」の存在を知りませんでした。どうやら,奈良にはこういう土地があちこちにあるようです。

 翌22日(月)は,岡寺を経て,石舞台を眼下に見下ろす絶景の地・上居(じょうご)に住むかつての同僚の先生宅(焼き物の大御所)をサブライズ訪問。残念ながらお留守。でも,奥さんとしばらく談笑できて大満足。広い応接間には,最新作の素晴らしい焼き物がずらりと並んでいて,しはし鑑賞させていただく。作品が,また,一段と進化しているのがわかり,感動。着々と研究・工夫をこらして,新しい境地を切り開いていく情熱が,飾ってある作品をとおしてつたわってきます。近々,近鉄デパートで個展が予定されているとか。今日は,その打ち合わせのためにお出かけ。

 そのあとは一路,奈良市の中心へ。元興寺から極楽坊でのんびりと時間をすごし,奈良町を散策して帰路につく。

 まあ,こんな三日間を過ごしてきました。
 いまは,頭のなかがさまざまな記憶でいっぱいですが,急いで記録を整理しておかないと,あっという間に,みんな忘れてしまいます。忘れることに関しては,いよいよ名人の境地に達しつつあります。これもまた不思議な世界ではあります。

 これから記憶を頼りに,この三日間のことをブログに書いていきたいと思っていますので,どうぞ,よろしく。では,今夜は,このあたりで。

2013年4月19日金曜日

ボストン・マラソン連続爆破事件を考える。「暴力」とはなにか。

 FBIが「ボストン連続爆破テロ」の容疑者とみられる男二人の写真と映像を公開して,犯人捜査の協力を呼びかけている。このFBIの発表に右へならえをするかのように,日本のメディア(NHKも,大手新聞社も)も一斉に「ボストン連続爆破テロ」の容疑者の写真や映像を垂れ流している。「テロ」を強調するこの報道の姿勢は,いつものことなので,特別に驚くほどのことではないが,やはり,少し変だ。

 最初に断っておくが,わたしは「ボストン・マラソン連続爆破事件」として,今回の事態を考えている。なぜなら,犯人も特定できてはいない,ましてや犯人たちがなにを目的に今回の反攻(反抗/犯行)を展開したのかも不明である,この段階で一方的に「テロ」と名づける無神経な暴力的報道の仕方に,どうしても納得がいかないからである。

 「テロ」と名づけた瞬間から,容疑者たちの人格は全否定されてしまう。そして,いかなる理由があろうとも,テロリストは「悪」,それを取り締まるのは「正義」,このいつもの二項対立の思考パターンにはめこんで,大衆を洗脳する。そうすれば,容疑者(犯人であるかどうかはわからない)をいかなる方法で殺害してしまおうと,権力側は正当化されてしまう。こんな理不尽なことが,いま,国際社会では容認されているのだ。

 しかし,このヨーロッパ近代が生み出した「階層秩序的二項対立」(J.デリダ)の考え方に立つ制度や法律や組織が,わたしたちの生活のすみずみにまで浸透してしまっている。そして,ついには,こうした社会の仕組みそのものが,根底から破綻をきたしつつあることもまぎれもない事実である。なのに,なぜ,この問題にわたしたちはもっと注意を向けようとはしないのだろうか。

 それには理由がある,とわたしは考えている。それは,わたしたちが権力につらなる巧妙なメディア操作によって「眼くらまし」にあっているからだ,と。なぜなら,ときの権力者たちは自分たちの恥部を徹底して隠蔽・排除しようとする。そのためにはあの手この手で全力をつくす。メディアはそのための最大のターゲットだ。そのことは,いまも進行しつつある原発事故に関する報道を念頭におけば明らかだ。すべては自然災害であり,想定外であるとして,だれひとり責任をとろうともしない。それこそ,わたしの知り得ている範囲でも,みてみぬふりをしたために無意味な犠牲者を出してしまった事例はいくらでもある。ゲンシリョクムラの住民が一致団結して,いまも,メディア操作を繰り広げていることは周知のことだ。

 その結果,圧倒的多数の人びとが「眼くらまし」にあったまま,現体制支持を表明することになる。それが現実である。

 どんな場合でも,もっとも大事なことは犯人を精確に割り出し,検挙すること,と同時に,なぜ,このような事件が起きてしまうのか,その原因を明らかにすることだ。

 無理やり「テロ」事件と名づけてしまう権力サイドの背後には,なぜ,このような事件が起きたのかという原因糾明の眼を,どんなことがあってもふさいでしまわなくてはならない,という強烈な意図がある。そして,テロリストを「悪」の権化ときめつけ,これを「血祭り」にあげるのが「正義」。そうして,なにがなんでも,めでたし,めでたし,で終わりにする。そのシナリオにはめ込むために,メディアもまた総力をあげて協力する。そのためにはアメリカ国民も一致団結する。これがFBIの仕掛けた罠であり,魂胆だ。

 それを無比判に,日本のメディアもまた「ボストン連続爆破テロ」として,FBI産の情報をそのまま垂れ流す。かくして,日本国民の圧倒的多数が無意識のうちに「洗脳」されていく。

 よく考えていただきたい。「ボストン連続爆破テロ」と「ボストン・マラソン連続爆破事件」。この違いを。FBI的用法によれば,「事件」ではなく「テロ」,そして聖なるスポーツ「マラソン」を排除/隠蔽している。わたし的用法によれば,ありのまま,なにも隠すことなく「ボストン・マラソン」で起きた「連続爆破事件」となる。「テロ」であるかどうかはこれからの判断の問題だ。

 「テロ」とするか,「事件」とするか,この表記の違いはどこからくるのか。
 FBI的用法からは,マラソン(スポーツ)がテロのターゲットになるという事実を,なんとしても排除/隠蔽したいとする意図をくみ取ることができる。つまり,マラソン(とくに,ボストン・マラソン)はテロのターゲットになるべき性質のものではない,あるいは,あってはならない,という美しい理想主義者的な意図が透けてみえてくる。
 わたし的用法では,マラソン(スポーツのビッグ・イベント)もまた連続爆破「事件」に巻き込むだけの価値のある「暴力装置」として存在している,わけても権力者に対立(対抗)する側の人間にはそのようにみえている,ということである。もっと言ってしまえば,スポーツのビッグ・イベントもまた,現体制維持のための立派な文化装置として機能している,きわめて政治イデオロギー的な使命を帯びている,ということである。

 すなわち,立場を替えれば,オリンピック競技大会もワールドカップも,そして,ボストン・マラソンも,みんな立派な「暴力」装置として,世界を支配しているということだ。わたしたちは,生まれながらにして文明化社会に生きているので,これらのスポーツのビッグ・イベントが「暴力」装置だとは思ってもいない。しかし,世界の文明化の過程からとり残され,いくら働いても利潤は資本家に吸い上げられ,どうあがいてみても貧困・飢餓・病気から抜け出せない日々を送っている人びとからすれば,資本が君臨する文明化社会の存在そのものが,なにものにも替えがたい大きな「暴力」なのだ。

 近代のスポーツ競技は,まさに,こうした巨大資本によって大きな利潤を挙げる文明化社会に住む人間たちの特権でしかないのだ。しかも,その利潤の多くは資本の力によって途上国から吸い上げている。このことを,わたしたちはどこまで認識しているだろうか。

 もっとも伝統のあるマラソン競技会であるボストン・マラソンは,こうした背景のもとに誕生し,支えられて,こんにちにいたっている。

 FBIが,テロリストと名づけなくてはならない人びとを絶滅したいのであれば,そういう人びとがつぎつぎに立ち現れてくる温床をなくすことが先決ではないのか。その努力はしないで,ただ,ひたすら取り締まり,処分することだけに専念する,その「暴力」こそが絶滅されなければなるまい。

 スポーツもまた,そういう温床をなくすことに,もっと眼を向けていかなくてはいけないのではないのか。

 この問題はとても奥が深いので,また,機会をあらためて取り上げてみたいと思う。とりあえず,今回のボストン・マラソンの場でおきた連続爆破事件をとおして,そこに働いている「暴力」の問題について考えてみたかった。とりあえず,その頭出しだけでもと思い,問題提起をさせていただいた。ご叱声,ご批判をいただければ幸いである。

『不浄の血』アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選(西成彦訳,河出書房新社,2013年3月刊)を読む。魂に回帰する物語。必読。

 西谷さんのブログで紹介されていましたので,いずれ読まなくてはと思っていた本です。いつものように太極拳の稽古のあとの昼食会のときに,柏木さんが,買ってきて読みはじめている,とても面白い,と切り出しました。わたしはびっくりして,もう,読んでるんですか。すかさず,西谷さんがあとを引き取って,ひとしきり話が盛り上がりました。が,わたしひとりがおいてけぼり。じゃあ,ぼくも読もう,とひとりごちる。

 「稲垣さんが読むんだったら,〔スピノザ学者〕という短編から読むといい」と西谷さんがニヤリと笑う。このニヤリと笑った顔が忘れられず,まっすぐ本屋に走り購入。鷺沼の事務所に直行して,すぐに指定されたとおり「スピノザ学者」から読みはじめました。西谷さんの意図したものが奈辺にありやとアンテナを張りながら,最後まで読んでみました。これのことかな,いや,あれのことかな,とあれこれ想像しながら読み進めましたが,いまひとつ,ピンときません。が,最後の一行を読んだときに,あっ,これのことか,と声を発していました。

 その最後の一行は,以下のとおりです。
 ──スピノザよ,どうかお赦しください。わたしはバカ者になりはてました。

 この一文には伏線があります。この短編の冒頭に,テーブルの上で燃やしている蝋燭のまわりに蠅やアブや蛾がまつわりつき,炎に飛び込んで羽を焼いたり,火がついたまま蝋燭にしがみついたりしているのを,主人公がハンカチで追い払っている描写があります。そして,つぎのように主人公が呼びかけまず。
 ──行け,行け,バカども,愚か者たちよ! そう彼は虫に語りかけた。──そんなところで温まるもんではない。火傷をするだけだぞ。(中略)。
 ──心の貧しい人間たちと同じだ,と彼はひとりごちた。──いつも今この瞬間しかない!・・・

 最後の一行は,この伏線を受けて「わたしはバカ者になりはてました」という次第です。では,どうして主人公は「バカ者」になってしまったのか。ここが問題です。

 主人公フィシュルゾン博士は,若いころにワルシャワからチューリッヒに留学して,スピノザの研究者として名をなす秀才でした。将来を嘱望されて帰国し,いい職にもつき,縁談もひっきりなしにあったのですが,「永遠なる法則」を見出すべく,スピノザを見倣って独身をとおします。そして,異端思想を口にしたために図書館での職もクビになり,ささやかな助成金を頼りに屋根裏部屋での貧乏生活を余儀なくされます。そして,かれの信じてやまないスピノザの『エチカ』の注釈づくりに専念します。

 しかし,貧乏生活がたたってか,初老を迎えるころには体調をくずし,理由のはっきりしない病気に悩まされます。医者からは気のせいだと突き放され,ひとりで悶々とした生活をつづけながら,スピノザ研究に励みますが,テクストの文字も定かにはみえなくなってきます。それでもなお,わが身に起こっていることと世界に起こっていることのあいだの「理性的な連関」を求めようと努力します。そして「すべてを永遠の相のもとに理解」しようと努めます。

 「しかし,いっさいは何の支えもないまま雑然としていた。ああ,精神は無意味な器だ!と彼は考えた。世界は狂人たちのものだ!・・・・」

 そんな絶望的な日々を送っているところに,思いがけない「恩寵」が訪れます。フィシュルゾン博士の住んでいる屋根裏部屋につづく廊下の奥に「年取った独身の女」が暮らしていました。隣人たちは彼女を「黒いドベ」と呼び,ヒビの入った卵を売ってあるく,痩せて煤まみれの汚い女として見下していました。そんな彼女のところにアメリカに住む兄から手紙がとどきます。いつも,読んでもらっている知人を訪ねると留守でした。そこで,思い切ってフィシュルゾン博士にお願いをして読んでもらうことにしました。

 ご縁とは異なもの,不思議なものです。これがきっかけになって,病弱な初老の博士の面倒をこの女性「黒いドベ」がみるようになります。そして,いつしか・・・・。そして,とうとう結婚します。その初夜の朝方,早く目覚めた博士は屋根裏部屋の天窓からひとりで空を眺め,そして,窓の下に広がる町の通りを眺め,さまざまな想念に耽ります。このあたりの描写は抜群ですので,ぜひ,読んでみてください。

 でも,折角ですので,最後の文章だけ,少し長く引用しておきたいと思います。
 「・・・・隕石が雨となって降り注ぐ,八月だった。神なる実体(ゲトレヘ・スブスタンツ)は始まりも終わりもなく自らを伸び広げている。それは絶対(アブソルート),かつ分割不可能(ウムタイルバル)であって,永遠に持続し,無限な属性(アトリブート)を備えている。宇宙で料理がことこと煮られ,変化と変容をつづけ,原因と結果は途切れない連鎖を形づくり,それらが波や小さなあぶくとなって渦巻いている。そのまにまに彼,フィッシュルゾン博士と,その惨めな運命もまた存在しているのだった。フィシュルゾン博士はまぶたを閉じ,涼しい風で額の汗を乾かし,風に髭をなびかせた。彼は夜更けの湿った空気を深く吸いこみ,震える両手を屋根に押しあてた。彼は立ったまま,少し眠った。まるで一匹の動物のように。そして,こう呟くのだった。
 ──スピノザよ,どうかお赦しください(フェルツァイエ・ミル)。わたしはバカ者になりはてました。」

 以上です。

 「永遠の法則」は理性的なスピノザになることではなくて,動物の内在性の世界の方にあるのであって,理性を超えでて「バカ者」になるのはその第一歩である,と著者は言っているように聞こえます。「一匹の動物のように」というフレーズが,わたしの脳裏に焼きついて離れません。そこには,近代的理性に凝り固まってしまった人間ではなく,一匹の生きものとしての魂を取り戻すべきだ,という著者でノーベル賞作家アイザック・バシェヴィス・シンガーの,たったワン・フレーズに籠められた気魄のようなものを感じます。

 これから何回も読み返したくなる名作を,そして,わたしが反応しそうな名作を,西谷さんは,ニヤリと笑いながら示唆してくださったようです。しかも,その示唆は図星でした。もう一点,付け加えておけば,決め手になるフレーズや単語にはドイツ語のルビがふってあることです。これも存分に堪能させてもらいました。精確なドイツ語発音とはいささか違う,イーディシュ語なまりのドイツ語なのだろうなぁ,と想像しながら。訳者の西成彦さんの,心憎いばかりの気配りが細部にまで行き届いていて,快感です。

 それにしても,すべて短編とはいえ,そこに広がっている物語世界のスケールの大きさに酔い痴れてしまいます。ですから,何回も,何回も,読み返すことになることでしょう。そして,そのたびに,もっともっと深い宇宙・世界・人間・世間などの深淵を覗き見ることになるのだろうなぁ,と想像しています。これはたいへんなプレゼントを西谷さんからいただく結果になりました。ありがたいことです。ただ,感謝あるのみです。

 なお,作家論・作品論については,西谷さんのブログに詳しく書かれていますので,そちらを参照してください。また,訳者の西成彦さんのことも,そちらに譲りたいと思います。語学の天才というか,とても不思議な人だとも聞いています。西成彦さんのこれからのお仕事にも注目したいと思います。

 とても,翻訳とは思えない名文が全編を覆っています。
 ぜひ,ご一読を。

2013年4月18日木曜日

人間はことばを話すことによって行動を組織していく生きものである。聴講生レポート・その2.

 今日(16日)は聴講生の第二回目。先週は第一回目ということもあって,ことしの講義計画の全体の見取り図を総ざらいするお話でした。が,いよいよ今日から各論に入りました。N教授の弁舌もしだいに熱を帯びてきました。それにつれて,学生さんたちの聴く姿勢の集中度も高まっていくのが,肌をとおしてつたわってきます。教室の中がひとつになっていくのが伝わってきて,坐って聴いているだけなのに,とても心地よい。まさに,今日の講義の大きなテーマのひとつである「人間がことばというメディアと同化していく」という,そのプロセスを受講生全員が同じ経験を共有しているその快感といえばいいでしょうか。

 N教授のこの授業は,二つの学部の学生さんに向けて同時開講されていて,それぞれ異なる講義題目になっているけれども,それぞれに単位を認定することになっています。その講義題目のひとつは「戦争とメディア」です。

 そこで,まずは,メディアとはなにか,というところから話をはじめましょう,とN教授。まずは,これから展開していく講義の「足もと」を固めておきましょう,というわけです。こうして,メディアの語源や概念についてひととおりお話があったのちに,そのメディアのなかでもっとも大きな枠割をになっているのが「ことば」である,と。

 そして,人間はことばを話すことによって行動を組織していく生きものである,と大きなテーゼを提示。わたしたちはことばをとおして世界というものの輪郭やパースペクティーブを獲得していきます,と。つまり,ことばをとおして人間と世界の関係をつくっていく。たとえば,名前をつける,対象や事物を規定する,つまり,世界を切り取る,という作業をする。こうして,お互いに経験を共有することができるようになっていく。(このあたりのところを,わたしはジョルジュ・バタイユのいう内在性から人間性への<横滑り>という仮説を思い浮かべながら聞いていました。そして,ことばは言霊でもあったはずなのに,どうして魂が抜け落ちていくのだろうか,などとも考えながら。)

 ところが,ことばはわれわれの自由にはならない。ことばは自分ではつくれない。生まれたときから聞こえてくるものであって,そのことばを身につけるということは,ことばがからだに刻まれることであり,ことばの回路にからだを合わせていく,つまり,ことばというものは圧倒的受身のもとにあるものだ,というわけです。

 こうして,N教授は,認識論や存在論ということばをひとことも用いることなく,人間が世界を認識する仕組みや,人間が世界のなかに存在することの様態について,さまざまな事例をとりあげて説明をしていきます。そうした一つひとつを全部ここで紹介することはできませんので,わたしにとって印象に残った話題の概略だけをとりあげてみたいと思います。

 わたしたちはことばによって造形される,つまり,人になる,というところからはじまるN教授のお話はわたしにとっては強烈な印象を残しました。人間はことばをとおしてものを考え,ことばを用いて表現していきます。そのとき,日本語でいう人間と,英語でいう人間は,大枠においては同じ意味であるけれども,厳密にいうと,そこには意外におおきな差異がある,というわけです。たとえば,英語では人間は単数で抽象的に存在するもの(the man,humankind)として考えられています。が,日本語では,人間とは「じんかん」であって,もともとは「世のなか」を意味していて,それは「世間」と同じ意味でした。つまり,複数的存在として考えられていました。「人になる」ということはそういうことなのだ,と。

 ということは,ヨーロッパ語で世界を考えることと,日本語で世界を考えることとの間には相当に大きな差異がある,ということになります。しかし,ヨーロッパの世界化のはじまり(15世紀)とともに,様相は一変していきます。言ってみれば,それは「世界史」のはじまりでもあります。その波は日本にも押し寄せてきました。19世紀半ばには西洋化の波に日本が取り込まれていく,あるいは,進んで西洋を取り込もうとしていきます。いわゆる,日本の近代化のはじまりです。

 このとき,日本はなにから始めたかといいますと,「ことばの総とりかえ」,すなわち,「翻訳」という作業にとりかかります。幕末・明治にはヨーロッパからいろいろのものが日本に移入されてきます。たとえば,産業に関するもの(兵器,機械,カメラ,など)をはじめ,社会の制度・組織,憲法や法律,技術・知識・学問,などなにからなにまでヨーロッパから移入されてきます。そして,このとき,わたしたちの眼に見えるものはなんとか理解できます。つまり,視覚化できるものは,比較的容易にそれを受け止め,消化・吸収していくことができました。しかし,眼にみえないもの,概念で理解するものは容易ではありませんでした。そこではヨーロッパ語を日本語に「翻訳」するということが不可欠となりました。ですから,日本の西洋化は翻訳からはじまります。

 こうして,翻訳とはどういうことなのか,というお話がひとしきりありました(細部は割愛)。その翻訳の最後の総仕上げともいうべき,ヨーロッパの哲学をどのようにして日本に移入したのか,という話になりました。哲学こそヨーロッパの抽象概念で塗り固められた知の体系です。井上哲次郎は,まずは,哲学の日本語の語彙を増やすことから着手します。中江兆民もルソーの『社会契約論』を日本に紹介しますが,翻訳することは不可能(語彙がない)なので,内容を意訳することになります。こうして,哲学の領域ではたいへんな苦労が重ねられていきます。

 そうして,ヨーロッパの哲学用語の概念を十分に咀嚼した上で,それらの概念をベースにして哲学を日本語で語った最初の哲学者が西田幾多郎だ,というわけです。その処女作が『善の研究』というわけです。こうして,日本語で哲学するという営みがはじまります。これは画期的なことでした。

 しかし,そこには大きな落とし穴が待ち受けていました。ヨーロッパの哲学が日本人の前に解き放たれると,こんどは,自分たちで勝手に理想的な概念を構築して,他者を受け付けない自閉した思想運動が持ちあがってきました。それが,大東亜共栄圏という考え方でした。この思想は,西田幾多郎による哲学の解放と同時に,自閉する哲学をも可能とする鬼子のようなものとして時代の寵児となります。その結果が,第二次世界大戦への突入という,大きな悲劇を生むことになったことは周知のとおりです。

 ここから,いよいよ,この授業が佳境に入るな,と期待したとき,無情にも終わりのチャイムが鳴りはじめました。「戦争とメディア」のひとつの論理的帰結が,このさきに待っていたはずです。たぶん,つぎの授業は,このつづきから入ることになるのでしょう。それを楽しみにしたいと思います。

というところで,第二回目のレポートは終わりです。

2013年4月16日火曜日

前泊博盛編著『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社,2013年3月刊)を読む。ショックで夜も眠れません。

  いずれ読んでおかなくてはいけないと思って買い込んである本の山が大きくなるばかりです。そこで,仕方がないので,締め切りのきている原稿を片隅に追いやったまま,気になっている本から,寸暇を惜しんで読んでいます。その一冊が,今回,とりあげたテクストです。

 高校生を読者対象にすえた「戦後再発見双書」の第2巻です。ですから,とても読みやすく編集されていますし,文章もわかりやすく,ぐいぐい引き込まれるようにして深みにはまっていきます。そして,ほんとうにそうなのか,とこれまでのわが無知を恥じ入るばかりです。

 「日米地位協定」なるものが諸悪の権化だ,とわたし自身もそう考えてきました。しかし,このテクストを読み終えたいまとなっては,「諸悪の権化」などという甘っちょろい考えでは駄目だ,と打ちのめされています。

 たとえば,「日米地位協定」は,言ってみれば宗主国と植民地の関係に等しい(高橋哲哉),ということが明々白々となってしまうからです。あるいはまた,オスプレイの配備で明らかになってきましたように,「本土の沖縄化」が間違いなく進展しているという事実です。そこに,TPPの圧倒的不平等を剥き出しにしたままの「日米合意」です。これは,宗主国と植民地の関係以上のものではないか,とわたしは考えてしまいます。この「日米地位協定」は,敗戦後のアメリカの占領政策がそのまま継続されていて,それがそのとおりに実行されている,恐るべき「協定」だということです。「日米安全保障条約」はたんなる眼くらましにすぎなかった,ということをいまごろになって知り,情けないかぎりです。

 「日米地位協定」の正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約第六条にもとづく施設および区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」というとてつもなく長いものです。この正式名称の前半部分,すなわち「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力」まではすんなりと読むことができます。問題は「および」からはじまる後半部分です。すなわち「安全保障条約第六条にもとづく施設および区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」というところです。

 わたしたちは,日米安全保障条約の調印によって戦後の占領政策から解放され「独立国」としての主権を回復した,と学校で教えてもらいました。そして,そういうものだと信じていました。が,実際はそうではなかった,ということです。つまり,「安全保障条約」は一種の隠れ蓑のようなもので,第六条にもとづく「地位協定」という,とんでもない条件つきだったわけです。その条件が,これまた想像を絶する恐ろしいものであるわけです。こんな条件をよくもまあ飲んだものだ,といまさらながら驚いてしまいます。

 日米安全保障条約(新・1960年改訂)そのものは全部で10カ条からなる簡素なものです。しかし,第六条にもとづく「日米地位協定」は全部で28カ条からなる大部なものです。しかも,微に入り細にわたり,日米間の「地位」に関する詳細な取り決めが書き込まれています。これらを丹念に通読するだけで,絶望の淵に追い落とされてしまいます。日本国はアメリカ合衆国の「いいなり」になるしかないように,<条約によって>がんじがらめにされているからです。

 たとえば,以下のようです。
 「日米安全保障条約」の第六条では「日本国の安全に寄与し,ならびに極東における国際の平和および安全の維持に寄与するため,アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍および海軍が日本国において基地を使用することを許される」と高らかに謳われています。

 つまり,「安全に寄与する」とアメリカ合衆国が判断すれば,日本国を基地として自由に使うことができる,とクギが刺してあるというわけです。その上で,さらに,具体的な事例を挙げながら「日米地位協定」の圧倒的に不平等な内容を平然として規定しています。これらの内容の一つひとつは,読めば読むほどに恐ろしくなってきます。言ってしまえば,敗戦による「無条件降伏」の状態を,アメリカ合衆国一国によって持続されている,ということです。ですから,なにを言われても「はい,わかりました」というしかないようになっています。こんなことが国際社会で承認されている,それがアメリカという国のやり方だ,と知らしめられます。

 「日米安全保障条約」というものが,いかに,日本国を小馬鹿にした条約であるかということを,まだ,多くの日本人は知らないままでいます。かつて「安保反対」闘争を組んで,大々的な反対運動を展開したあの時代の学生さんたちは立派だったと,いまごろになってしみじみ思います。ほとんど条文を読むこともしないで(たった10条しかないのに),政府自民党のいうなりに「思考停止」のまま「隷従」した多くの国民の無能さのツケが,いまごろになって跳ね返ってきているという次第です。後の祭りとしかいいようがありませんが・・・・。

 でも,このまま放置しておいていいという問題ではありません。一刻も早く,この圧倒的不平等条約である「日米地位協定」の廃棄を,声を大にして要求しなくてはなりません。なのに,日本国は,この「日米地位協定」の廃棄に向けての交渉を,まだ一度もやっていない,というのです。丸飲みしたまま容認しているというわけです。沖縄が本土に復帰して「40年」を経過しているというのに・・・。困ったものです。いまからでも遅くはない。気づいたときがスタートのときです。みんなで総懺悔をして,やり直しにとりかからなければなりません。そのための絶好のテクストです。ぜひ,読んでみてください。

 このテクストは,PART1とPART2,それに資料編という三部構成になっています。PART1は「日米地位協定Q&A(全17問)」,PART2は外務省機密文書「日米地位協定の考え方」とは何か,そして,資料編には『日米地位協定』全文と解説,その付録として「日米安全保障条約(新)」が載録されています。ですから,このテクスト一冊で「日米地位協定」が含みもつ問題の核心はすべてわかるようになっています。

 ちなみに,PART1の「Q&A」にはつぎのような問いが立てられています。
 〇東京大学にオスプレイが墜落したら,どうなるのですか?
 〇米軍が希望すれば,日本全国どこでも基地にできるのですか?
 〇日米地位協定がなぜ,原発事故や再稼働問題,検察の調書ねつ造問題と関係があるのですか?
 という具合です。こういう高校生が疑問をもちそうな質問を立てて,それに簡潔に,わかりやすく応答しています。

 蛇足ながら,アメリカという国は,建国以来,先住民の土地を「条約」という名のもとに,詐欺にも等しいやり方でつぎつぎに奪い取ってしまったという歴史と伝統をもっています。「インディアンの襲撃」などという名の西部劇がひところ大はやりでした。しかし,この西部劇は,騙されたインディアンたちの怒りの方に「正義」がある,ということが論破されてしまいました。言ってしまえば,アメリカ合衆国の「恥部」をみずから露呈するものであった,というわけです。ですから,その結果として,西部劇はいっせいに姿を消してしまいました。

 このアメリカ合衆国の性根は,いまも基本的には変わってはいません。アメリカ主導ではじまったWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)も,アメリカのいいなりになるように,規約のなかに仕組んであります。一番ひどいのは,利益の配分です。アメリカが圧倒的に儲かるように仕組んであります。いろいろ異論がでていますが,すべて,力で押さえ込んできました。アメリカ・チームは早々に負けてしまっても,収益は独り占めできるようになっています。そのために,日本チームは大きな犠牲を払って,「自発的隷従」よろしく,おおいに「貢献」している,というわけです。

 いささか長くなってしまいましたので,この稿はここまでとします。

 必読のテクストとしてお薦めします。ひとりの日本人として。

2013年4月15日月曜日

マンション管理組合の理事に当選(抽選)。住棟副委員長に(抽選)。ことしはこういう流れの年らしい。

 溝の口パークシティ。現在,1,103戸が暮らす巨大マンション。もともとは東芝工場の跡地で,それをそっくりマンションに仕立て直したという。築30年を経過。いま,排水管の取り替え工事の真っ最中。メンテナンスがしっかり行われてきているので,マンションとしての評価は高い。しかも,溝の口の駅に近いので,住む場所としては便利で,しかも快適。

 田園都市線は都心を横断する地下鉄・半蔵門線に連なり,さらに東武東上線が相互乗り入れをしているので,東西の移動にはまことに便利。都心の拠点となるターミナル駅に接続しているので,都内を走る地下鉄のほとんどのラインに乗換が可能。自家用車は不要の場所。加えて,溝の口はJR南武線が走っている。これは川崎から立川まで南北を走る貴重な線。東京は東西に走る私鉄はいくらでもあるのだが,南北を結ぶ電車がない。その点でも,ここ溝の口は恵まれている。羽田空港へも約1時間で行ける。東京駅も50分。新横浜までは40分。高尾までも約1時間。

 条件を数えてみると,移動するのもまことに便利。こんなロケーションのマンションに暮らしてすでに15年。どういうわけか,毎年行われる管理組合と自治会の理事抽選会では,はずれ籤を引き当て,15年間,なにもしないで居心地よく暮らしてきた。が,ことしの3月に行われた理事抽選会ではみごとにあたり籤。幸か不幸か,めでたく初めての理事に就任。

 75歳以上の人は理事を辞退することもできると聞いていたが,抽選日は75歳になる一週間前。任期は4月からなので,立派な75歳。しかし,これまでなにもしないままお世話になりっぱなしで,年齢を理由に逃げるのは,自分としては納得がいかないのでお引き受けすることにした。少々,惚けがはじまっているが,からだはいたって健康。迷惑をかけない程度に,なんとか住民としての義務をはたすことができれば,という次第。

 で,昨日(14日),次期理事会の新役員を決定するミーティングがあった。長年,住んでいるが,初めてみる顔ばかり。もっとも挨拶を交わすのは,同じ棟の住民で,偶然,エレベーターで何回も顔を合わすことのあった人だけだ。隣の人とは,留守のときの宅急便の代理受取人をお互いに引き受けることがあるので,失礼にならない範囲で挨拶は交わす。が,それ以上ではない。

 さて,初めて顔を合わす人がほとんどのミーティングで,どうやって新役員を決めるのかと思っていたら,不思議にすんなりと決まっていく。司会・進行は現理事長さんをふくむ4役の人たち。ひととおり,理事会の組織や業務についての説明があり,いよいよ,理事長と住棟委員長と監事2名の選出に入る。

 いきなり,理事長さんから指名があり,理事長をやってくれませんか,という。まったく予期せざるできごとに,びっくり仰天。個人情報はなにもないはずなので,たぶん,自己紹介のときに75歳と白状してしまったことによる表敬のご挨拶だったのか,と推測。あわてて,せめて60歳代の後半だったら気力・体力もまだ残っていたが,いまは,どう考えてみても理事長の大役を大過なくはたすだけの余力は残っていないので,謹んで辞退させていただきます,と断る。それほど困った様子もなく,つぎつぎに何人かの人に当たりをつけて,その中のひとりに焦点を当てて,説得にかかる。意外にあっさりと決まる。やれやれ。残りの3役も,それほどのトラブルもなく決まる。

 あとの役員は抽選。こちらは待ったなしで引き受けるのが条件。ことしのわたしはくじ運がいいというべきか,引き当てたのが住棟副委員長(2名いる)。参ったと思ったが,まあ,なるようにしかならない,と腹をくくる。これ以上,うじうじするのもみっともない。

 あとは,六つある分科会に所属して業務を分担すること。こちらは自己申告制。防災・環境・財務・規約・総務・広報の六つ。こちらは迷わず環境分科会に手を挙げる。敷地内の植栽と公園の遊具の管理がおもな任務だという。これなら,老人でもあまり迷惑をかけることもなかろう,と判断。できるだけみなさんの邪魔にならないように,とみずからを戒める。

 散歩がてら,マンションの敷地内を歩くのも悪くない。いまは,ケヤキ,アカメガシ,モミジ,ミズキ,とうとうの新芽が美しい。まあ,こんなことをとおしてマンションの住民の人たちと接触するのも悪くない。と,ものごとはプラス思考に切り替えることに。

 さてはて,この一年,どんなことが待っているのだろうか。これまでに経験したことのない初めての出会いを楽しみにしよう。

 というわけで,住棟副委員長さん,腹をくくるの巻。

待望の若虎誕生。藤浪晋太郎君,おめでとう! ソレイケ,ワッセイ!

 昨日(13日),あんなかたちで岩田が自滅してしまったので(初回に6失点),とても残念。以後,立ち直っていただけに・・・・。こういうこともある,という見本のようなもの。野球の神様は恐ろしい。だから,面白くもあるのだが・・・。

 その翌日の今日(14日),藤浪晋太郎投手がデビュー戦を6回無失点で抑え,勝利投手となった。これは大きな収穫だ。まずはデビュー戦を飾ること,これが新人投手,とくに,高校卒の若い投手にとっては最大の栄養だ。5安打,4奪三振,1打点(バント成功),というおまけ付き。高校野球で春夏連続優勝をはたした思い出の甲子園球場というのも縁起がいい。さあ,これからまだまだいくつもの試練が待っていると思うが,まずは,最初の関門を通過した。これをいいバネにして,さらに,もう一歩前進しよう。とにかく,立派なものだ。

 これに刺激されて,秋山投手が踏ん張ってくれることを期待したい。よしっ,おれもだっ,と。入団一年目に早々にデビュー戦を飾り注目を浴び,中継ぎ投手として大いに活躍したのに,そのあとがつづかなかった。そろそろ出番だ。いつまでも眠っていてはいけない。目覚めよ,愛媛の若虎・秋山投手よ。君のライバルだった重川投手のためにも。

 昨日(13日)は,あの菊池投手も,プロ4年目にして初完封を飾った。岩手・花巻東高校時代には全国を沸かせた名投手。しかも鳴り物入りで西武に入団した。コーチとの間にいろいろとトラブルもあってたいへんだったが,これですっきりとして,一本立ちすることだろう。地元の球場・Kスタ宮城には家族や友人が岩手から応援にかけつけ,本人も気合が入ったという。これで自信をつければ,あとは天賦の才能が花開くのを待つだけだ。

 ことしの最大の大物ルーキー大谷君の活躍も楽しみだ。この大谷君に話題をさらわれてしまって,藤浪君はやや影の存在になりかけていたが,どっこいそうはさせまい,と名乗りをあげた。大谷君も,投手と打者という二刀流が話題になっているが,これはとても面白い試みなので,失敗しようがしまいが,とにかくチャレンジすべしというのがわたしの考え。これでプロ野球が盛り上がり,観客が動員されるのであれば,それで充分。プロなのだから。

 その大谷君,守備で右足首捻挫とか。これは可哀相なことだ。早く直して,再出発をしてほしい。若いからすぐに直るだろう。そして,夢の二刀流で大成してほしい。打者としても非凡なものがあることは周知のとおりだ。あの長嶋選手だって,デビュー戦は連続4三振だった。しかし,いずれの打席も全力で空振りをしていた。その空振りの仕方をほめた評論家がいた。必ず大成する,と。それに比べれば,大谷君はきちんとヒットを打っている。大したものだ。

 この大谷君の存在が,藤浪君の頭にはあるだろう。よきライバルとして相手に不足はない。投手として,ますます精度を高めていくことだ。そして,一つひとつ勝ち星を拾っていくこと。地道に努力を積み重ねた結果として成績が残る。

 ことしの阪神タイガースは,オープン戦の調子がよかっただけに期待していた。しかし,リーグ戦がはじまると,また,いつもの悪い負け癖がでてしまった。しかし,巨人戦を3連続シャットアウトした投手陣の踏ん張りで,2勝1分とした。ことしは負け知らずのまま快走をつづける巨人に,最初の二つの負けをつけたのは阪神だ。ここが阪神にとっては大きな転機になったはずだ。まだ,打線が噛み合わないが,なんとか勝てるようになった。そして,ようやく貯金1がついた。

 さあ,これからだ。いつまでも巨人を独走させてはならない。他のチームも巨人戦にはもっと真剣に勝負を挑んでいくことだろう。阪神も手をゆるめることなく,伝統の巨人・阪神戦を戦ってほしい。そして,菅野投手と藤浪投手の投げ合いもみてみたい。そのときには猛虎打線が藤浪投手の援護射撃のために火を吹いてほしい。

 などとまあ,のんきなことを考えている。ときには,こんなことにでもウツツを抜かすくらいでないとやってられない。世の中,あまりにも夢がなさすぎる。

 TTPに耳目を奪われている間に,フクシマの汚染水漏水が大問題になっている。終結宣言どころか,まだまだ,はじまったばかりだ。これからこそが気の遠くなるような時間と労力とカネを必要とする,もっとも大事な段階に入る。にもかかわらず,政府自民党は事後処理を東電に押しつけて知らぬ顔。東電は東電で,もはや,組織として機能していない。この組織をなんとか早く解体して,心機一転させる新たな組織を構築することが不可欠なのはだれの眼にも明らか。にもかかわらず,猫の首に鈴をつける者は現れない。全柔連と同じだ。みんなそろって口を糊塗して,だれも責任をとろうとはしない。男の腐った集団。

 その点,野球はきびしい。結果がでなければ,監督・コーチは一年で首になる。第一,いい試合をしないことにはお客さんが来なくなる。そういう必然とつねに向き合っている。だから,おのずから自浄作用が機能する。あれほどの大事故の後始末ができない東電は組織として,すでに,死に体である。それが放置されたままである。政治の貧困としかいいようがない。

 ことしの阪神タイガースは打線の補強ができて,少しは面白くなりそうだ。そこに,投手力が安定してきて,しかも,新戦力が参入となれば,鬼に金棒である。藤浪君よ,君はその鬼に金棒の役割を担わされているのだ。わたしたちトラキチ・ファンをそれを期待している。

 猛虎復活の待望の若虎誕生。藤浪晋太郎投手の,これからの活躍を期待したい。
 そして,なによりも,まずは,おめでとう!
 

2013年4月14日日曜日

アメリカ産柑橘類が大手スーパーマーケットの売り場を独占。日本産は片隅にほんの少しだけ。

  日曜日は食材の買い出し日。いつものようにすぐ近くにあるいま話題の大手スーパーマーケットにでかけました。地下一階にあるので,エスカレーターで降りていくと,そこはいつものように柑橘類がかなりのスペースでならべられています。そして,いきなりわたしの眼に飛び込んできたのは,オレンジ。色つやよし,大きさよし。値段もいつもの値段の半分近い。これはお買い得とばかりに眼を輝かせる。そして,どうせなら,わたしの好きな八朔を買おうと思って探したら見当たりません。えっ,なぜっ?

 そして,そこに並んでいる柑橘類をひととおり眺めてみましたが,どうしても見つかりません。まあ,いいか,と思ってあきらめかけていたら,なんとその売り場のはじっこに八朔がほんの少しだけ,申し訳なさそうに並んでいました。しかも,値段がべらぼうに高い。二度目の驚き。そこで,よくよくみてみるとそこに並んでいる柑橘類の大半はすべてアメリカ産。そして,格安の値段。これでは,まるで日本産はみせしめのようなもの。

 その瞬間,あーっ,と声を発していました。まわりにいたお客さんがなにごとかという顔でわたしを眺めていきます。ちょっと恥ずかしい思い。でも,たしか,先週までは日本産の柑橘類が大半を占めていた売り場が,今週はアメリカ産が独占し,日本産は隅っこにほんの少しだけ。いずれ,こういうことになるのだ,と少し腹立たしげに,納得。

 しばらく前から,このスーパーマーケットにはアメリカ産と大書した精肉コーナーが出現し,そのとなりに対比するかのように日本産の精肉が並べてあります。鳥,豚,牛のいずれも,日本産に比べたら格安。家族の多い家なら間違いなくアメリカ産を購入するしかないよなぁ,と思いながら眺めていました。わたしのように牛肉はあまりに高いので,バカバカしくなってほとんど食べない老人家族は,日本産の鳥か豚で我慢もできよう。しかし,育ち盛りの子どもたちがいたら,やはり,格安の肉を購入するしかないのだろう。これもよくわかる。

 こうして,すでに,日本産の精肉や柑橘類が,大手スーパーマーケットの売り場から締め出されつつあります。魚のコーナーも同じです。今日,みつけたのは,巨大な鮭の切り身。しかも,格安。半身を8切れひとまとめで850円。しかも,120円引き,と書いてあります。わが眼を疑いました。いつもは,北海道産のものを2切れ(400円)買うか,ノルウェー産のものを4切れ)500円)買うか,のいずれか。そこに,いよいよロシア産の参入です。いずれも格安値段。こうなると,日本産の魚まで,高いというレッテルを貼られたようにして,どこかに締め出されてしまいます。

 TPPなどに参加するまでもなく,すでに,日本産の食材はどんどん隅っこに追いやられています。売り場面積があっという間に減っていく,この現象を,わたしたち消費者はどう考えたらいいのでしょうか。生産者はもはややっていかれない・・・・そういう情況がどんどん拡散しつつあります。それがますます進行していくとどういうことになるのか。もう説明の余地もありません。

 食材が外国産のもので支配されてしまうということになれば,日本の伝統的な食文化もどんどん痩せ細っていきます。やがては,重要文化財として「保存」しなければならない対象にされてしまいかねません。グローバリゼーションという「ツナミ」はこうしてわたしたちの日々の生活まで大きく改変していくことになります。

 TPPに参加する以前に,もうすでに,こういう情況が粛々と進行しています。日本人として生きるということはどういうことなのか,本気で考えなくては・・・・と痛感させられました。

 とりあえず,今日の食材購入にあたっての所感まで。

TPP日米事前合意,アメリカのいいなり。「日米地位協定」を廃棄するどころか,さらに補完・強化するもの。それが「国益」だと?!

 拙速ということばがあります。開けてびっくり玉手箱ということばもあります。開いた口がふさがらないということばもあります。茫然自失ということばもあります。これらのことばを全部掻き集めてきて,だんごにしてまるめて表現しても言い尽くせない,このやるせなさ。もはや,なにをか況や・・・・というところです。

 おれのところの車には関税をかけてはならない。しかし,お前のところの車には関税をかける。しかも,可能なかぎり「後ろ倒し」で継続する。こんな小学生でもわかる「不平等協定」を丸飲みにしてまで守らなくてはならない「国益」とはなにか。

 この理屈の根源には,おれのところは「核」をもつ,しかし,お前らは「核」をもってはならない,という不平等きわまりない「核拡散防止条約」が国際社会で承認されている,という「力の論理」がある。しかも,それがまるで「正義」であるかのごとく,国際社会(これがいかさま以外のなにものでもないのだが)を闊歩している,という現実があります。

 言ってしまえば,軍事力に支えられた経済強国の言い分をどこまでも貫いていこうとするのが「グローバリゼーション」の本質。

 わたしたちが取り組んでいる研究テーマのひとつ「グローバリゼーションと伝統スポーツ」(この研究テーマの継続研究として立てた「ポスト・グローバル化社会におけるスポーツ文化を考える」)も,こうした軍事力に支えられた経済強国の「スポーツ文化」による世界支配(グローバリゼーション)の企みを見破ることに力点をおいています。

 ですから,4月8日のブログで書きましたように,「TPP参加交渉からの脱退を求める大学教員の要望書」に署名をし,支援を呼びかけました。この段階で,すでに,一方的な不平等協定を強制されるということが自明のことと予測できたからです。しかし,その実態は,今回の「日米合意」で明らかにされたように,わたしたちの予測をはるかに上回るものでした。こんな,とんでもない「合意」をしてまでTPPの会議のテーブルにつく必要性はどこにもありません。

 あるとすれば,尖閣諸島,竹島,北の核に対する備えをアメリカに依存しなくてはならないからでしょう。しかも,そのつけを沖縄に被せていこう,というのですから言語道断です。尖閣諸島は「40年」にわたる日中友好条約の日本側の一方的破棄にはじまるものであること,竹島はすでに実効支配されてしまうまでの外交の無策にあること,北の核はだれも止めようがないこと(正当な理由はない),をもっと真っ正面から議論すべきだとわたしは考えています。しかし,政府与党をはじめ国民が一丸となって,これらの「自分たちにとって都合の悪い話」には蓋をして,目先の利益だけを合理化する方向に突っ走っています。もっとも大事な燐国との友好を無視して,それどころか「敵対」までして,その力及ばざるところをアメリカに縋りつく,というまことにみっともない日本の姿が浮き彫りになってきます。その結果が「日米地位協定」です。

 そこから脱出するのはかんたん。尖閣諸島は「棚上げ」にもどす(河野洋平さんの主張に同意),竹島もしばらくは「棚上げ」(国際法廷での決着を,韓国には求めて拒否され,中国からの求めに日本は拒否する,というとんでもない自己矛盾をひた隠しにしている事実をもっと議論すべきです),北の核はもっと外交交渉を密にして不信感を払拭すること(孤立させないこと,制裁を加えれば加えるほど「核」のカードを利用するしか方法がない),こうしてもっとも重要な燐国との友好関係を深めていくこと,ただ,それだけです。そうすれば,アメリカの一方的な不平等協定に「自発的隷従」をする必要もないし,憲法9条を改訂して再軍備し,カネと命を無駄にする必要もありません。戦争までする覚悟をもつのであれば,そのカネと命の代償を燐国との友好推進に使えばいい,これがわたしの持論です。

 小学校の教室のなかで,からだがもっとも大きくて,喧嘩の強いボスが,おれはナイフを持つ,しかし,お前らはナイフを持ってはならない,ということがもし実際に起きたとしたら,どうしますか。これは,わたしの小学校時代に実際に起きた話です。当時,同級生のなかではもっとも背の低い3人のうちの一人だったわたしは,その対応策を考え,実行しました。それは,全員がナイフをもつこと,でした。ボスには内緒で,一人ずつ説得をしてナイフを隠しもつことにしました。そして,過半数を超えたところで,ボスとその取り巻きに告げました。「ナイフは全員がもつか,あるいは,全員が放棄するか,とちらかだ」と。ここからいろいろの確執がはじまりましたが,最終的には,だれもナイフは持ち歩かない,というところに落ち着きました。これが利害・打算を超えた純粋な子どもの論理です。先生にも,親にも,内緒でした。(核抑止力ならぬ,ナイフ抑止力の実践でした。)

 アメリカは「核」をもっていい,しかし,イラクは許さない。こんな馬鹿げた理屈のために,どれだけ多くの貴重な命が犠牲になったことでしょう。そして,イラクは,いまもその破綻状態に苦しんでいます。アフガニスタンも同じです。テロリスト批判も同じです。世界でもっとも大きなテロリスト集団はアメリカです。その強いテロリストが弱いテロリストを一掃しようとしているたけの話しです。しかも,それが「正義」の名のもとに展開されているのですから。これまた開いた口がふさがらない,という次第です。

 しかし,すべてはそこからはじまっています。そのことをここでは強調しておきたいと思います。それらを視野に入れない議論は,たんなるまやかしにすぎません。しかし,多くの人はメディアの流す情報に左右されてしまいます。しっかりしてほしいのはメディアです。

 TPP(環太平洋連携協定)は,お互いの関税を撤廃して,完全なる自由貿易をめざすはずだったのではないか。にもかかわらず,そのリーダーであるアメリカが,日本に対して,その基本理念を一方的に無視した条件を提示し,それを実行に移そうとしています。こんなことを黙って見過ごしてはなりません。どこからでもいい,できるところから行動を起こすしか方法はありません。その最後の決め手は「選挙」です。しかし,その「選挙」が頼りない(憲法違反)。もう,ほんとうに,原点に立ち返って,0(ゼロ)からやり直すしかないのでしょう。情けないことですが,それが,いま,わたしたちの眼前に広がっている現実です。

 だからこそ,いま,わたしたちは目覚めなくてはなりません。その矛盾に気づかなくてはなりません。その意味で,とても大事な時代を生きている,ということです。しっかりと考えて,行く末を見極めたいと思います。

2013年4月11日木曜日

山田詠美著『明日死ぬかも知れない自分,そしてあなたたち』(幻冬舎,2013年2月刊)を読む。いま,読むべき本。

  「3・11」を契機にして,まっとうにものごとを考えるようになった人,付和雷同して多数派に与するだけの人,わが身の保全のためにのみ走る人,メディア情報に振り回されている人,どうにでもなれと自棄っぱちになっている人,その他,信じられない言動をする人たち,等々,まるで箍が外れてしまった日本人が百花繚乱です。

 それはごく普通の日常生活を営んでいる日本人から,ありとあらゆる専門職に従事している人びとを含むすべての日本人を,そっくりそのまま,丸飲みにしたまま流れ去る巨大なツナミの光景と二重写しになって,見えてきます。あらゆるものが「破局」(ピエール・デュビュイ)を迎え,なすすべもないまま大海原を漂流するしかない,みじめな難民になってしまった・・・・。その自覚があるかどうかはともかくとして・・・・。

 もっと先にあると思い描いてきた美しい「未来」は,たんなる「幻想」にすぎないということが露呈してしまい,「未来」のゴールは「破局」でしかなかった,という現実をつきつけられ,わたしたちは,いま,なすすべも見出せないまま右往左往するしかないのです。そういう結果のでてしまった「未来」をいまわたしたちは生かされている・・・・。なんとも辛く重い日々でしかありません。

 作家の世界も例外ではありません。「3・11」を真っ正面に見据えつつ,つまり,「破局」を見据えつつ,みずからの文学世界をさらに大きく切り開くために,挑戦的に新しいテーマに向って,最大限の努力を傾ける作家もあれば,「3・11」など,どこ吹く風とばかりに面白おかしく売れればいいという売文稼業に専念する作家まで,これまた百花繚乱ではないか,とわたしの眼には写ります。

 そんな中で,わたしが信をおく作家のひとり,山田詠美の最新作がどんなものか気がかりになっていました。彼女が,いま,この時代といかに向き合いつつ,みずからの文学世界を構築しようとしているのか,ずっと気になっていました。たまたま覗いてみた本屋さんに平積みになっていた本の山のなかに,このテクスト『明日死ぬかも知れない自分,そしてあなたたち』を見つけ,内容を確認することもしないで,タイトルから閃く直観を頼りに,即購入しました。が,ここしばらくの間,なにかと雑用に取り紛れていて読むことなく机の上に横になったままでした。

 今日,たまたま,中途半端な時間ができたのをいいことに,早速,開いてみました。そこには,予想をはるかに越える,わたしの待ち望んだエイミー・ワールドが広がっていました。『跪いてわたしの足をお舐め』以来のエイミー・ワールドは健在なまま,まさに,「3・11」を通過したいましかないというタイミングを測ったかのように,山田詠美はこの作品を世に問うている,とわたしには伝わってきました。

 結論から言ってしまえば,途中から恐ろしくなって鳥肌が立つ,そういう身体感覚まで引き起こす,これはまさに「破局」をテーマに据えた傑作です。「3・11」後の日本の社会に起きているさまざまな「崩壊」現象を,なかでも,だれもが理想として思い描いてきた「家族神話」がもののみごとに崩壊していくさまを,じつに的確に描いてみせます。

 わたしはかねてから「3・11」以後,日本人のこころの箍がはずれてしまって,これまでに経験したことのない「破局」が,社会の裏側のみえない奥深くで,だれも気づかないまま,無意識のうちに進行しているという妙な予感をいだいていました。しかも,まだ大丈夫,まだ大丈夫と思っているうちに,その現象はとどめようもなく進行し,気づいたときにはすでに「手遅れ」だった,というような進みゆきとして感じていました。それが,どこからくるのか,そのためにはなにをなすべきか,わたしなりにあれこれ思い描いてきました。

 その「解」のひとつを,作家・山田詠美は『明日死ぬかも知れない自分,そしてあなたたち』という作品をとおして提示している,とわたしは受け止めました。一見したところ,周囲のだれもが羨むような平和で幸せいっぱいの生活をしていると思われていた家族が,じつは,それはたんなる虚構にすぎなかった,という実態をもののみごとに描いてみせます。山田詠美の作家魂がじかに伝わってきます。

 この作品の冒頭は,じつに暗示的な,つぎのような文章ではじまります。
 「人生よ,私を楽しませてくれてありがとう。母方の曾祖母は,96歳で息を引き取る間際,愛用のスケッチブックにそう書き残した。そのラストメッセージは,彼女と関わりを持つすべての人々に語り継がれて行き,理想的な人生を締めくくったひと言として羨望の溜息と共に受け止められた,らしい。天晴れな終わり方よねえ,とまるで立志伝中の人物について語るような調子を耳にしたのは一度や二度ではない。そのたびに,そうか,と私は思う。皆,満足の行くように長生きをしてからこの世を去りたいのだな,と。そして,それをやってのけた曾祖母にあやかりたいと願っている。幸せな長い一生の,幸せな完結。それを自覚しながら死ぬのを最大の目標として,今を生きる。ああ,素晴らしきかな,人生。」

 この作品のあらすじを紹介するのはやめておきます。それは野暮というものです。ただ,ひとことだけ。家族の期待の星,長男が落雷に会って突然死する。そこから,家族全員で演じてきた「幸せ家族」という芝居に亀裂が走り,だれが悪いわけでもなく(その自覚もないまま),家族の崩壊がはじまり,ついに「破局」を迎える。この「落雷」という自然災害にはじまる人間の崩壊,そして,破局が,そのまま「ツナミ」のイメージと重なっていきます。

 もうひとことだけ。お互いにホンネをひとことも語ることなく,つまり,非合理な魂の触れ合いを忌避して,合理的で,理性的に「正しい」とされる言動に支配されてしまった現代の「幸福家族」,その「未来」は「破局」しかない,という作者・山田詠美の声がどこかから聞こえてきます。それは,わたしの空耳なのでしょうか。

 かつてエイミーは「猫の眼で眺めてごらん。世の中,おかしなことばかりだよ」と書いたことがあった。animal から anima を取り除いてしまったら,それはもはや,animal とはいえない。人間もまた一匹の animal なのだから。anima を喪失してしまった人間は,もはや,人間とはいえない。

 いま,必要なことは「animate」することだ,と講義の最後にちらりと触れたN教授のことばが,いまさらのようにわたしの耳に鳴り響いてきます。土で作った人形(ひとがた)に,神さまが「魂を吹き込」んだことによって「人間」が誕生した,という聖書の一節も想起されます。

 もう一度,人間の「原点」に立ち返って,やり直すしか道(方法)はないのだろう,というのがわたしの読後の感想です。

 久々の山田詠美の傑作です。ぜひ,ご一読を。

2013年4月10日水曜日

今日(9日)から学部学生の授業の聴講生となりました。新入生の気分。感動。

 今日(4月9日)からT大学の聴講生になりました。N教授の許可をえて,学部学生さんの授業にもぐりこんで,これから一年間,聴講させていただくことになりました。今日はその第一日目。記念すべき日です。とても新鮮で,感動しました。

 N教授は,もともとはバタイユやレヴィナスといったフランス現代思想の研究者としてスタートを切りました。が,やがて,ドグマ人類学の提唱者ピエール・ルジャンドルと親交を結び,生身の人間を軸に据えた思想・哲学へと思考を深めていきます。そして,人間の生存の基本条件・仕組みを明らかにすべく経済や政治や宗教の領域に踏み込み,みずからの思考を展開してきた人です・・・と,ここまで書いてみましたが,とてもこんな紹介では収まらないことに気づき,わたしの方がたじろいでしまいます。なぜなら,N教授の守備範囲は,「死」とはなにか,宗教論,戦争論,世界史論,メディア論,身体論,医療思想史論,舞踊論,絵画論・・・・という具合にとてつもなく広いのです。そして,最近では,グローバル・スタディーズという看板を立ち上げて大学でのひとつのポジションを確立して,仕事をなさっています。

 別の見方をすれば,ヨーロッパ近代が生み出したアカデミズムの硬直化した思考の枠組みの外に飛び出して,アカデミックな分野を超越した,インターディスプリナリーな,新たな知の構築を目指している,といえばいいでしょうか。もっと言ってしまえば,知のための知の呪縛から解き放たれた,生身の生きた人間のための知のありようを探求する,ということになるのでしょうか。わたしには,そんな知の営みのようにみえてきます。その到達点のひとつが「グローバル・スタディーズ」ということになるのだろう,と。

 これだけでは,まだまだ,N教授の研究者としてのスタンスを紹介できてはいませんが,それはお許しいただくとして,そんなN教授が学部の学生さんに向けて,どんな話をされるのか,わたしにはとても興味がありました。そうしたら案の定,驚くべき話題から,この授業の導入の話をはじめました。その概略を紹介してみますと以下のようです。

 わたしが小学生の高学年のころに「即席ラーメン」なるものが商品として登場しました。その味はとても新鮮で,いっぺんに「即席ラーメン」のとりこになってしまいました。しかし,この登場したばかりの即席ラーメンには化学調味料がふんだんに用いられていました。しかも,その化学調味料のなかには一部,遺伝子を傷めてしまうものがふくまれていたというのです。そして,この「即席ラーメン」が好きで,こればかり食べつづけていた知り合いの女の子は20歳そこそこで癌を発症し,あっという間に死ぬ,ということが起きました。

 ちょうど同じころに,中性洗剤なるものが登場します。汚れがよく落ちるというので,あっという間に各家庭のなかに浸透していきました。しかし,この中性洗剤なるものも,初期のころのものは悪性の化学薬品が多くふくまれていて,やはり遺伝子を傷つけることになりました。こちらは,常時,使用することによって徐々にわたしたちの体内に侵入してきました。

 この「即席ラーメン」と中性洗剤は,あっという間に世界中に広まっていきました。その結果,わたしたちの世代のからだはともかくとしても,わたしたちの子どもたちの世代には遺伝子異変と考えられるアトピーやアレルギーが急増することになりました。

 この因果関係については,一時,大きな話題になりましたが,あっという間にこれまた話題にならなくなってしまいました。なぜなら,当局により,メディア・コントロールがなされ,闇のなかに追いやられてしまった,というわけです。

 こんにちの「即席ラーメン」(いまでは「インスタント・ラーメン」)や中性洗剤は,毒性のある化学薬品は極力抑えられている(基準の範囲内)といいますが,その実態はあまり定かではありません。なぜなら,これらの製品のテスト結果はメーカーの提出するデータを,役所が確認するだけですから,あまり信用はできません。いま,問題になっている原発の安全テストの仕組みをみれば明らかです。電力会社の提出するデータのみです。

 わたしたちの生存の条件は,このようにして,あちこちからガンジガラメにされていて,ここから抜け出すことはできません。これが,グローバル世界を生きるわたしたちの生存の基本条件です。なぜ,こんなことになってしまったのか,そこから脱出するためにはどうすればいいのか,そういうことを考えるための養分を提供するのがわたしの役割です。

 とまあ,こんな風に切り出して,ケミカル汚染世代,社会の二極化,政治と経済の違いはなにか,グローバリゼーションを支えている論理はなにか,Politicsとはなにか,市場経済とはなにか,なぜ軍事力が求められるのか,医療や生命科学の問題,臓器移植とはなにか,iPS細胞とはなにか,といった問題の所在をひととおり総ざらいしていきます。そして,これらの問題をトータルに考える研究領域,それが「グローバル・スタディーズ」だというわけです。

 その上で,いま,求められていることをひとことで言うとすれば,「魂」化すること,つまり,「魂」を呼び戻すこと,すなわち,アニメート(animate)することだ,と。このひとことは,わたしにとっては衝撃的なひとことでした。

 こうしたことがらについて,来週から,きちんと章を立ててお話をします,というところで今日の授業は終了でした。

 来週からは,許可を得て,ボイスレコーダーを用意して行こうと考えているところです。こんなに中味の濃い授業を,ただ,聞き流すだけではもったいない,何回もリピートして思考を鍛えなくては・・・と思案中。

 以上,今日のところはここまで。

2013年4月9日火曜日

韓国のキム・ギドク監督作品『弓』を鑑賞する。度胆を抜かれる「愛」の傑作。

 一ヶ月980円で映画見放題,最初の二週間は無料,というキャッチ・コピーにつられてそのサイトに迷いこんだのが運命の分かれ目だった。つぎからつぎへと現れる映画の予告編を覗き見していたら,この作品『弓』と出会ってしまった。それは,まさに,出会いであった。

 韓国の弓が日本のものと違って,桁違いに遠い距離の的を射る強力なものであることは,韓国の祭りを取材したときに見て知ってはいた。が,その弓に反響鼓をとりつけると立派な楽器に変身し(韓国二胡),じつに繊細な音楽を奏ではじめるではないか。それを予告編でちらりと見せられ,これは見なくてはいけない,と直観した。弓の弦が,いわゆる弦楽器の原型である,ということは知識として知ってはいた。しかし,実際の弓をそのまま楽器にして演奏するものは見たことがなかった。だから,びっくり仰天した。えーっ,韓国では弓を楽器としても使うのだ,と。

 ただ,それだけの動機でこの映画を見るはめになった。韓国映画を見るのも初めてなら,キム・ギドク監督という名前を見るのも初めて。なんの予備知識もなくこの映画『弓』を見ることになった。それが,かえってよかったのだろうと,いまにして思う。まっさらの,白紙状態で,キム・ギドク監督映画を見るという僥倖に浴することができたのだから。

 しかし,弓は武器や楽器となるだけではなかった。弓占いという占いの道具でもあった,ということをこの映画は教えてくれる。つまり,弓は三つの機能をもつものとして,いまも生きているということを。もっとも,考えてみれば,日本の平安時代の弓は天空にうごめく「邪気」を払うために射る「僻邪の弓」というものがあった。鏑矢はその残滓である。だから,弓占いというものがあっても不思議ではない。いまも祭礼の一部として行われる流鏑馬はその一種と考えてよいだろう。

 こんなことを予測しながら,この映画を鑑賞することになった。たしかに,この映画では,弓は武器であり,楽器であり,占いの道具として大活躍するのだが,それだけでは終わらなかった。最後の最後のラスト・シーンでは,結婚初夜の性行為のシンボルとして「矢」が大きな役割をはたすことになる。この弓を縦横に活用しながら,人間の究極の「愛」を描き出そうという,キム・ギドク監督の意表をつく着想に度胆を抜かれてしまう。

 ストーリーはじつに単純。ネタばらしをしてもこの映画の価値は少しも下がることはないだろう。海上に浮ぶボロ船で暮らす老人と少女。老人は釣り客をボートで運んできて,この船の上で釣りをさせ,生活を支えている。少女は7歳のときに,この老人に拾われて,この船の上で育てられる。少女が17歳になったら結婚することを生きがいにして,老人はかいがいしく少女の面倒をみる。盥に湯をはって少女の背中を洗い,夜は二段ベッドの上から手を延ばして少女の腕をさすり,手を握って眠りにつく。

 少女と老人はじつに平和な日々を送り,幸せそのもの。しかし,17歳の誕生日が近づき,結婚式のために必要な道具や晴れ着を購入し,老人が着々とその準備がととのえていくときに,青年が釣り客として現れる。少女は恋に落ちる。こうして,老人と少女の間に致命的な亀裂が入る。ここから,この映画は急展開をはじめ,驚くべき「究極の愛」の数々が描かれていく。青年は少女を救い出すためにからだを張る。老人は青年を亡き者にしようとして弓を引く。とその前に少女が立ちはだかる。老人があきらめて青年と少女をおとなしく見送るとみせて,ボートのともづなに首をかけたまま船室にもぐり,自死をはかる。ボートが船から離れないことに気づいた少女が,あわててともづなを斧で断ち切り,船に引き返す。老人は瀕死の状態で横たわっている。このとき少女は老人の命懸けの深い深い「愛」に気づく。そして,少女は老人を盥に入れてからだを洗い,結婚式を挙げる。そして老人は大満足で少女と二人ボートに乗って旅にでる。老人はボートを泊めて,初めての床をととのえる。花嫁を下着ひとつにして横たえ,老人は弓で音楽を奏でる。その間に花嫁は深い愛を感じながら眠りに落ちる。それを見届けるようにして,老人は身を翻して海に跳ぶ。漂流をはじめたボートは,なぜか,青年が待っている船にたどりつく。小躍りして喜ぶ青年。しかし,ここからさきは筆舌に尽くしがたい幻想的で,美しい,感動的な結末のシーンが待っている。このシーンにキム・ギドク監督は渾身のアイディアを注ぎ込んだに違いない。この映画の最大のクライマックスであり,同時に,セックスのクライマックスでもある。わたしは「度胆を抜かれ」た。こんな映画の描写の仕方があったのか,と。リアリズムをはるかに超える抽象的な表象の力。無限に広がる想像の世界。それは,無限であり,無間であり,夢幻でもある。

 あまりの感動に驚いて,映画を見終わってから,あわててキム・ギドク監督とはいかなる人物かと調べてみたら,さらにびっくり。知らなかったのはわたしだけで,もう,つとに世界的に知られた著名な映画監督であった。その経歴をみると,2004年に『サマリア』でベルリン国際映画祭監督賞と『うつせみ』でヴェネチア国際映画祭監督賞の二つを,同時に受賞し,衝撃的なデビューをはたした,とある。以後,一作ごとに話題を呼んでいる,という。

 それにしても,たいへんな映画を見てしまったものだ。この映画『弓』は,日本では2006年9月に公開された,という。そして,やはり,たいへんな話題になった,という。知らぬはわたしばかりなり,でいささか恥ずかしい。でも,遅ればせながら,キム・ギドクという監督を知ることができた。これは幸運なことだ。それも,「弓」という,スポーツ史的な単純な興味が動機だったのだから。「弓」は人間の究極の「愛」を描くための小道具でもあったのだ。

 しばらくは,キム・ギドク監督作品の追っかけをすることになりそうだ。

 たった90分でこれだけの感動を呼び起こす映画とは,凄いものである。

2013年4月8日月曜日

「TPP参加交渉からの脱退を求める大学教員の要望書」について。ご支援を。

 大学教員17名が呼びかけ人となって,表記のような「要望書」が作成され,署名活動が展開されています。4月10日(水)には,内閣府に提出して,記者会見をすることになっています。このブログをお読みの大学教員(現・元)の方で,まだ,ご存じでない方は,ぜひ,ご一読の上,署名をしていただけるとありがたいと思います。

 今朝(8日),事務局からとどいたメールによりますと,賛同者名簿に署名した人が700名を超えたということです。詳しくは,4月7日24時現在で,署名者708名+呼びかけ人17名=合計725名,だそうです。

 要望書の全文は,事務局の開設しているホーム・ページで公開されていますので,ぜひ,そちらで確認してみてください。アドレスは以下のとおりです。
 http://atpp.cocolog-nifty.com/

  もちろん,どなたでも検索すれば,閲覧できますので,どうぞご覧になってみてください。いろいろの分野の専門家たちが知恵をしぼって書き上げた「要望書」です。少なくとも,「TPP」について,なにを,どのように考えなくてはいけないのか,という重要な手がかりがふんだんに盛り込まれています。

 なお,署名を希望される方は,以下のアドレスに必要事項を記入して,送信してください。
 賛同者署名アドレス:tpp2013@mbr.nifty.com
  署名内容:氏名・現/元大学名・職名・専攻

 また,署名者名簿も公開されていますので,ご覧になることができます。わたしも700名を超えたというメールをもらってから,再度,署名者名簿を確認してみました。が,とても不思議なことに気づきました。それは,メディアで大活躍されている大学教員の名前がほとんど見当たらない,という事実です。ということは,あの人たちは,口先ではさもわかったような立派なことを言っていますが,ひとりの人間となったときには,「署名のできない人」たちなのだ,ということです。いわゆる「評論家」ではあっても「批評家」ではないということです。もっと言ってしまえば,「責任」を負わない人たちだ,ということです。

 世に立派な「評論家」と呼ばれる人たちはゴマンといらっしゃいます。が,この人たちの言説をよくよく読んでみると,その多くが「カメレオン」的です。つまり,自由自在に「体色を変える」ことができ,「眼は大きく」「左右独立に動き」「同時に別々のものを見る」ことのできる,とても人間わざとは思えない言動のできる人たちです。とても,「玉虫色」などというきれいごとで済まされる問題ではありません。

 一般の読者の方たちにお願いです。ぜひ,「署名者名簿」をご覧になってみてください。名簿は「あいうえお順」に整理されていますので,狙い撃ちで確認することができます。

 もちろん,この名簿に署名していないからダメだ,などというつもりは毛頭ありません。この署名活動以外の場で,もっと,めざましい活動をされている大学人もたくさんいらっしゃることは承知しています。しかし,ここにも署名されていて当然だと思われる大学人の名前がみつからない,という不思議についてわたしは留意したいと思っています。

 とりわけ,「TPP」に関しては,微妙な見解の分かれ方をしています。ですから,慎重に見極めることが必要です。しかし,無条件降伏にも似た「絶対服従」を余儀なくさせられることが「前提」になっているのに,なぜ,いまさらに・・・というのがわたしの根拠です。ここでは,これ以上に踏み込むことはやめておきます。

 ただひとこと,初期のIOC(国際オリンピック委員会)の委員13名が,クーベルタンによって招集されたときの様子と,TPPの事前交渉の進め方とは,あまりに酷似している,ということだけは指摘しておきたいと思います。この13名の委員のなかには,ドイツもスペインも含まれてはいません。ましてや,アジアからはひとりも呼びかけられてはいません。このことと,「レスリング」排除の力学は無縁ではありません。つまり,利害を共有する委員が手を結んで「多数決原理」で押し通す,それが国際社会の「民主主義」です。

 でも,オリンピック競技種目がどうなろうとも,地球上の人間の「生き方」そのものとは,ほとんど無縁です。しかし,TPPは,わたしたちの「生き方」そのものを拘束することになる,きわめて重大な制度です。このことを,わたしたちは肝に銘じておくべきだと思います。

 IOCとTPPの類似性については,いずれ,このブログでも取り上げて論じてみたいと思っています。なぜなら,IOCのもつ「犯罪性」について,わたしたちはあまりにも無知で,無邪気でありすぎた,とわたしは反省しているからです。このあたりで,IOCをこれまでどおりに維持していくことのメリットとデメリットについて,TPPを手がかりにして考えてみたいと思っています。

取り急ぎ,今日のところはここまで。

2013年4月7日日曜日

法政大学野球部選手たちの直訴で,監督辞任へ。「パワハラ」一掃に向けて新展開か。

 いま,ネット上に驚くべき情報が流れている。法政大学野球部の選手たちが直訴して,監督を辞任に追い込んだ,というのである。すでに,監督(金光)は合宿所の荷物(私物)を片づけて,引き上げたという。争点になっていたのは,選手たちに対する金光監督のパワーハラスメント。

 これが事実だとすれば,柔道の女子選手たちの直訴による監督交代劇につづく「快挙」である。ようやく人間として目覚めたアスリートたちが現れたということ。つまり,自分の目で確かめ,自分の頭で考え,自分で判断(決断)し,自分で行動を起こす・・・いわゆる「自立」したアスリートたちの出現である。

 これまで我慢に我慢を重ねてきたアスリートたちの世界,つまり,「絶対服従」の世界の一角が音を立てて崩れはじめた,とわたしは受けとめる。いよいよ,そういう時代がやってきたのだ,と。待ちに待った時代の幕開けだ,と。

 ネット上には,J-CASTニュースが,つぎのような見出しで情報を流している。
 「パワハラ」もうガマンできない 選手たちが集団直訴,法大野球部監督がついに辞任。
 選手130人中109人が監督交代を求める。

 その上で,今回のことの顛末を詳細に報じている。それによると,もう2年以上前から金光監督のパワハラが問題になっていたという。そして,選手たちに代わってOB会が監督交代を大学執行部に申し入れていたのだが,先送りにされていたという。そして,ことしの1月13日には,法政大学野球部の「法友野球倶楽部」(OB会)の総会と昨秋の東京六大学リーグ優勝祝賀会が開催され,OB会から監督交代の申し入れがなされたという。そこには,OB会副会長の山本浩二(WBC日本代表監督)も出席していたが,双方の意見が対立し,怒号が飛び交ったという。そして,ついには,金光監督側は「名誉棄損」による裁判も辞さない,という構えになっていたという。

 しかし,4月に入っても監督の交代はならないと見届けた選手たちが,選手130人にアンケート調査を行い,そのうちの109人が監督交代を求めている,というデータを付して大学執行部に提出。しかし,執行部側は「もう少し時間がほしい」と先のばしをほのめかしたために,選手たちは,4月3日の時点で,今日中に回答がほしいと直訴。もし,回答が得られないなら,今日から練習もしない,リーグ戦にも参加しない,というみずからの退路を絶った最大のリスクを選択。これには執行部側も折れざるを得ないと判断。その日のうちに,監督辞任が決まり,助監督を監督に昇進させることで和解が成立。

 法政大学野球部といえば,名門中の名門。名選手を数多く輩出していることは,だれもがよく知っているところ。こういう名門野球部のパワハラ問題が明るみにでて,しかも,選手たちの直訴によって監督が辞任に追い込まれる,という前代未聞のことが起きた。それだけに,こんごに与える影響力は甚大である。

 ついに,そういう時代がやってきたか,とわたしは感無量である。名監督,名コーチと世間の評判がよくても,その陰で「パワハラ」が横行している話はよく聞くところである。しかし,選手たちはひたすらガマンを重ね,じっと耐えてきた。が,もはや,限界にきている,ということなのだ。そして,みずからを犠牲にしてでも,言うべきことは言う,という「自立」したアスリートたちが,ついに出現したのだ。大いに歓迎すべし,である。

 これで,柔道女子の「直訴」につづく二つ目の大きな事例となる。そして,これまでのやり方では通用しないと気づく監督・コーチがあとにつづいてくれることを願ってやまない。さらには,選手たちも「自立」を目指して,クラブの環境整備に努めるべきだ。そして,その方が,競技力も向上するのだ,ということに気づいてほしい。監督・コーチの指示どおりにしか動けないロボット選手たちより,自分で考え,判断し,行動できる自立した選手たちの方が,よりパフォーマンスのレベルがあがることは間違いないのだから。

 まだまだ理不尽なパワハラに悩まされつづけている選手たちも,目覚めてほしい。そして,ついに我慢の限界を超えて,意を決して立ち上がるときがきた,と気づいてほしい。こうして,気づいた選手たちがあとにつづくことによって,日本のスポーツ界から「暴力」を一掃してほしい。そのことを予感させる,今回の法政大学野球部の,勇気ある選手たちにこころから拍手を送りたい。

 加えて,春のリーグ戦での活躍も大いに期待したい。

2013年4月6日土曜日

「太極拳のポーズは精確に,力強く,そして,美しく」(李自力老師語録・その30)。

 李老師が,ほぼ,稽古が終わったところで,長拳のポーズをいくつか連続でみせてくださいました。すると,それに触発されたように西谷さんと柏木さんが,李老師の型をまねてポーズをとりはじめました。李老師も面白がって,どうせやるならきちんとやりましょう,ということになり,手取り足取りしてポーズを直していきます。すると,不思議なことに,あっという間にみごとなポーズがとれるようになっていきます。

 こういうときに,いつも出遅れてしまうのが,わたしの悪いクセです。西谷さんから,なぜやらないの?と督促されても,一度タイミングを外してしまうともう引っ込むばかりです。子どものときからそうでした。どうやら死ぬまで直らないようです。ですから,眼の前でお二人のポーズの姿勢がどんどんよくなっていくのを眺めながら,わたしひとりが呆然として立ちつくすのみでした。この積極性を見習わなくては・・・・と反省。

 まずは,そのお二人の雄姿をご覧ください。みごとな出来栄えです。こうして写真をみますと,やはり,一緒にやればよかったと後悔しています。情けないかぎり・・・。

 李老師は,ポーズのとり方はとても難しいので,まずは「精確に」やれるように練習しましょうと仰っしゃいます。そして,ひととおり精確にできるようになったら,こんどは「力強さ」を意識しましょう,そして最後は「美しく」という次第です。それを言われたとおりに,このお二人は,どんどん上達していきます。見る間にポーズの姿勢がよい方向へ変化していきます。まるでマジックにでもかかったのではないかと思うほどです。

 太極拳は指導者次第,とはよく耳にすることばです。わたしたちはなんと幸せなことでしょう。それを考えると,もっともっと,気持ちを入れて稽古をしなくては・・・・といつも思うのですが・・・。

 まずは,柏木さんのポーズです。


「とても上手になりましたね」
と,李老師からお褒めのことばがありました。


 つづいて,西谷さんの稽古の様子と,途中のお茶目と,完成型まで。


西谷さん。
李老師が,袖を巻いた方が力強さが表現できるので巻きましょう,
ということで袖を直しているところ。



ハイッ,写真を撮ります,とカメラを構えた瞬間に,
突然,笑いだし,転がってしまいました。
こんなお茶目なところもある西谷さんです。
とても,貴重なヒトコマ。
西谷さん,渾身のポーズ。
李老師から「素晴らしい。どこも問題はありません」という
お墨付きをもらいました。
いよいよ李老師の師範代です。


2013年4月5日金曜日

稲垣瑞雄著『風の匠』(岩波書店,2006年)を再読。明日(6日),49日法要。

 最新刊の『銀しゃり抄』(中央公論社,2013年)が,著者・稲垣瑞雄さんの突然の死去にともなう香典返しになろうとは,だれも想像しなかっただろう。ことしの年賀状には,同人誌『双鷲』が70号を迎える秋にはみなさんに集まってもらおうと思っているのでよろしく,と添え書きがしてあった。もう,ずいぶん前から大病を繰り返し,入退院がつづいていたことは,同人誌『双鷲』のあとがきなどで承知していた。どこかで体調のいいときをとらえてお会いしたいと,長い間,思い描いてはいたのだが,わたしの方の都合もなかなかつかず,そのままになっていた。そして,ついに,お会いすることなく,明日ははや49日の法要。

 こどものころからの,とびとびの記憶はあるものの,年齢差ということもあって,二人で面と向ってじっくりお話をするという機会はついに一回もなかった。もし,あったとすれば,伯父さんの7回忌の法要のときに,父親の代わりにお参りをさせていただいたとき。このとき瑞雄さんは,わたしを父の名代としてきちんと応対してくださった。わたしは大いに緊張して,むつかしい話題や議論に必死になって食い下がっていた記憶がある。

 あとは,わたしの父の葬儀のときにご夫妻で豊橋まで会葬にきていただいたときに,はじめて奥さんの信子さんとお話をさせていただいた。とはいえ,葬儀のときでもあり,ほんのひとことふたことの会話だった。しかし,なぜか,強烈な印象が残った。じっと,わたしの眼を見つめるまなざしが,尋常のものではなかったからだ。やはり,作家のまなざしというものは凄いものだなぁ,とわたしの脳裏に焼きついている。

 明日(6日)の49日の法要を控えて,わたしの気持ちがなんとなく落ち着かない。そこで,しばらく前から,もう一度,『銀しゃり抄』を読み,『風の匠』を読み返している。これに処女作『残り鮎』と『砂の記憶』を加えれば,わたしにとっての瑞雄さんのイメージはほぼ完成する。ものごころついたころから,羨望のまなざしで瑞雄さんを仰ぎみてきただけに,美しいイメージばかりだが,それでもわたしの眼のとどかないところにいくつもの謎があった。

 が,わたしも齢を重ね,ようやく瑞雄さんの一生というものがどういうものであったのかということがいくらか透けてみえてくるようになった。そのなかの重要な鍵のひとつが『風の匠』のなかに埋め込まれている,と最近,つくづくと思う。この短編集の舞台は渥美半島の小さな禅寺・普門寺。もう明かしてしまってもいいものかどうか迷うところだが,なにを隠そう,この普門寺こそ瑞雄さんが住職として跡を継ぐことが期待されていた寺,すなわち,実家がモデルになっている。

 しかし,ご承知のように,瑞雄さんはこの寺を捨てて作家の道をめざした。その寺を捨てたという自責の念が,終生,つきまとっていたのではないかと思う。そういう無意識にも近い意識が,おそらく通奏低音となって,この作品の深いところでいつも鳴り響いているように,わたしには聞こえる。この小説の軸になっているのは,どこからともなく流れついてこの普門寺の住職となった鉄源和尚とその梵妻である。そして,その両者は,瑞雄さんの祖父と祖母がモデルだ。その祖父と祖母は,わたしにとってもおなじ祖父であり,祖母である。だから,瑞雄さんの描くモデル(もちろん,作品としてモディファイされているのだが)と,わたしのイメージとが,多くのところで重なり合う。ただ,わたしの方が祖父母と接した時間が少ないだけのこと。他人事ではないという点ではおなじだ。

 だから,どの短編ひとつを取り上げてみても,そこから浮かび上がる小説世界は,わたしにとっては濃密なリアリティにつつまれている。たとえば,「襖」などは,もう,何回も読み返しているが,そのたびに涙を流し,嗚咽までしながら読むことになる。そして,そのたびに,この作品が,細部の細部にいたるまで,じつに神経のゆきとどいた構成と描写がなされていて,余分な雑音を一切排除した,みごとな傑作であるとわたしは確信している。主人公は普門寺の梵妻。すなわち,わたしの祖母がモデルになっている。

 この人は,生まれながらにして悟っていたのではないか,と深くわたしの記憶に残る。その同一人物を瑞雄さんは,じつに的確に小説世界のなかに蘇らせてくれている。しかも,わたしの知らなかった祖母の顔があちこちに描かれている。生きているのか死んだふりをしているのか,その境界領域に身をゆだねて平然と日常生活をやりすごす祖母の,ちんまりと座す姿。この祖母の唯一の武器は「記憶力」。長い年月をかけて蓄積された記憶を,人知れず反芻しながら,日々を送り,いざというときに,その記憶の一端が日常生活に反映される。それ以外は,知らぬ勘兵衛。どうでもいいことはすべて聞き流す。しかし,ここぞというときのピン・ポイントのツボは外さない。もの静かな言動とはうらはらに,数少ないことばには力があり,少々のことでは動じない胆の坐った人だったように記憶する。だから,トータルで考えると,どこか凄みのある人だった。このあたりのことを瑞雄さんはみごとな筆致で描いてみせる。わたしが感動し,嗚咽する瞬間である。

 この祖母とは,たった一度だけ,私鉄沿線の最寄り駅から普門寺までの約一里の道を,手をつないで歩いたことがある。わたしがまだ小学校の4年生のころか?敗戦直後のことだ。そのときに道すがら祖母がわたしに語って聞かせてくれた話はいまも鮮明に記憶している。「正浩さはみんなに好かれる人になるよ」と言ってくれたことばが音楽のメロディのように,折に触れ,蘇る。祖母は,小説のなかにも書かれているように,自分の息子たち(わたしの父も)の名前を「さ」という方言の敬称の語尾をつけて呼んだ。孫であるわたしにも「さ」をつけて「正浩さ」と呼んでくれた。わたしは祖母の暗示にかかったかのように,「好かれる人」にならなくてはいけない,と若いときからこころに決めていた。

 祖父のことも,祖母のことも思い出はほんのわずかしかない。瑞雄さんにはありあまるほどあったに違いない。その中から選び抜かれた精髄だけを組み合わせて「襖」という短編の作品世界を構成しているはずだ。だから,瑞雄さんが元気なうちに,そのあたりの話をとことん聞いてみたかった。現実の祖母の実像と,作品世界のなかの「きよ」との乖離,などについて。でも,粋な瑞雄さんは,きっと,どうでもいい話はパスして,味わいのある話だけをわたしには聞かせてくれたに違いない。それは『銀しゃり抄』を読めばわかる。

 人間が「生きる」上でなにが重要で,なにが不要であるか,その厳密な選別眼というべきか,ある独特の美意識に支えられて瑞雄さんの文学は生まれた,とこれはわたしの勝手な解釈。いいことも悪いことも,全部ひっくるめて人生だ,そういう人生の成立ちの不思議を,みずからの人生を振り返りながら,小説世界に投影したように思う。

 いずれにしても,瑞雄さんのお蔭で,わたしたちのルーツのひとつである普門寺の記憶を,文学作品として呼び戻すことができる。この『風の匠』という作品がなかったら,わたしにはほんのわずかな記憶に残る人間模様にすがるしか方法がない。その意味では,この作品はわたしにとって大切な宝物に等しい。とりわけ,「襖」には,わたしの父の幼いころの話も埋め込まれているから,なおさらである。

 明日は49日。読経の間に,わたしはなにを想い浮かべることになるのだろうか。心静かに瞑想しながら,意識を瑞雄さんに集中してみたいと思う。ジョークの好きだった瑞雄さんのことだ。なにか話しかけてくるのでは・・・。合掌。

『葬られた王朝──古代出雲の謎を解く』(梅原猛著,新潮文庫)を読む。驚くべき発見の連続。

 昨年の2012年は『古事記』の1300年と出雲大社大遷宮とが重なった年ということで,特別展『出雲──聖地の至宝』が東京国立博物館で開催されました(2012年10月10日~11月25日)。これを見学してきたときのことは,このブログにも書いたとおりです。この特別展の目玉は二つあって,ひとつは大量に発掘された「青銅器群」であり,もうひとつは出雲大社の大神殿をささえた巨大柱の遺物でした。いずれも,近年の発掘によって出土した,きわめて貴重なものばかりです。この二大考古遺物が発見されたことによって,これまでの「出雲」のイメージは一変してしまいました。そして,多くの日本古代に関心をもつ人びとが,一斉に,新たな日本古代のイメージを語りはじめました。それほどに大きなできごとだったのです。

 梅原猛さんもそのうちのひとりでした。しかも,自著の『神々の流竄』に書いた自説が間違っていた,と正直に告白した上で,自説を徹底的に批判し,根底から修正するためにこのテクストを書いた,とまで述べています。結論からいいますと,梅原さんは,「出雲神話」はたんなる「神話」であって,根も葉もない話である,と結論づけていました。その根拠として,もし,「出雲神話」がほんとうなら,それを裏付ける考古遺物が何点か出土しているはずなのに,それがひとつもないからだ,と書いています。しかし,その後,「出雲神話」を裏付ける驚くべき考古遺物がつぎつぎに発見されることになりました。

 そのひとつは,さきにも書きましたように,大量に出土した「青銅器群」です。青銅器群とは大きくは「銅剣」と「銅鐸」です(「銅戈」もあります)。「銅剣」は荒神谷遺跡から出土したもので,弥生時代前2~前1世紀のものとされています。しかも,一カ所から358本もの大量の「銅剣」の出土でした。これには多くの考古学者のみならず,多くの古代史研究者たちが度胆を抜かれたといいます。もうひとつは「銅鐸」です。こちらは加茂岩倉遺跡から出土したもので,弥生時代前2~前1世紀のものと考えられています。こちらも,なんと道路工事中の谷あいの傾斜地から39個もの「銅鐸」が出土しました。

 この大発見によって,出雲に巨大な王朝が存在したことは疑いようもない事実となりました。これに加えて,さらに驚かされたことは,伝説となっていた巨大柱の一部が出雲大社の境内から出土したという事実です。「宇豆柱(うずばしら)」と呼ばれるこの柱は,3本の巨木をひとつに束ねたもので,1本の巨木の直径が最大で130㎝あったといいます。伝承によれば,高さ16丈(約48m)もあったというのです。奈良の大仏殿が15丈(約45m)で,それより高かったといいます。

 この二つの考古遺物の出土によって,「出雲神話」の世界は一挙に現実のものとなりました。となりますと,「出雲神話」を視野に入れた日本の古代史を再検討しなければなりません。そのため,日本古代史の再解釈が一斉に火蓋を切ることになりました。その先鞭をつける流れのひとつがこの梅原猛さんの『葬られた王朝──古代出雲の謎を解く』(新潮文庫,平成24年)というわけです。そして,その最新の研究成果が,少し前のブログで紹介しましたように,村井康彦さんの『出雲と大和』(岩波新書,2013年)という名著です。

 となってきますと,オオクニヌシの「国譲り」神話はいったいなにを意味しているのか,天孫降臨族というのはどういう人たちなのか,邪馬台国は出雲連合国だったのではないか(村井説),突然,出雲王朝が歴史から消えてしまうのはなぜか,なのに,出雲大社だけはのちのちまで大切にされているのはなぜか,出雲大社には八百万の神さまが年に一度集まるというのはなにを意味しているのか,考えてみれば,日本全国に出雲系の神様(オオクニヌシを筆頭に)を祀る神社がなんと多いことか,などなど疑問はあとを絶ちません。

 そして,わたしの疑問である野見宿禰(出雲の人と『古事記』に書いてある)が,突然,垂仁天皇のときに登場し,取り立てられるのはなぜか,というところにつながっていきます。この野見宿禰も,その出自はまったくわかっていません。『古事記』も『日本書紀』も,野見宿禰の出自を隠しているからです。だとしたら,隠さなければならない重大な理由が,たとえば,藤原不比等にはあったはずです。では,その理由とは,なにか。

 とまあ,だれでも思う不思議の謎解きを,梅原猛さんの独特の視点から,じつに精力的に展開します。まるで,SFを読んでいるようなときめきを感じます。なにより梅原さんがすごいと思うのは,自説をも徹底的に批判の対象としながら,より,真実に接近しようとするそのあくなき探究心にあります。自説を批判するくらいですから,大先輩たちの理論仮説も木っ端みじんに打ち砕いていきます。たとえば,本居宣長というオーソリティが,いかにのちの日本史研究者の言動を拘束してしまったか,その犯罪性を槍玉にあげつつ,敗戦後の古代史研究に大きな影響を与え,教科書の日本史の方向を決定づけた津田左右吉の説をも,完膚なきまで打ち壊し,新たな日本の古代像を明らかにすることの必要性を情熱を籠めて語ります。

 さらには,柳田国男や折口信夫,そして,上田正昭といった人びとの学説をも引き合いに出しながら,自説の正しさを主張していきます。

 文庫本とはいえ,大著です。読み終えたときには,まったく新たな日本の古代像が脳裏に焼きついて離れません。その結果は,わたしたちがこれまで学んできた日本の古代は,あれはなんだったのか,という不思議な感覚です。そして,ここからさきの話を詰めていきますと,相当にきわどい話になっていきますので,ここではこの辺で留め置きにしておきたいと思います。また,機会をあらためて(別の素材を手がかりにして),わたしなりの古代のイメージを語ってみたいと思います。とりわけ,野見宿禰をてがかりにして。

 ということで,今回はここまでにしておきます。
 ではまた。

2013年4月4日木曜日

蒼国来関,おめでとう。冤罪晴れて「春」到来。名古屋場所から復帰。

 それにしてもこの2年間は長かったに違いない。27歳から29歳といえば,力士生命のかかった心身ともにもっとも充実する年齢だ。蒼い国,中国・内モンゴルからやってきた若者は,長い時間をかけてこつこつと稽古を重ね,前頭15枚目まで地位をあげてきた矢先のできごとだった。さあ,これからだ,と気合が入ったそのときに,身に覚えのない「八百長」問題に巻き込まれ,薮から棒の「冤罪」がかぶさってきた。

 本名・恩和図布新(おんわとうふしん)。最初から最後まで「無実」を主張しとおしてきた。しかし,日本相撲協会の特別調査委員会は,親方,力士計25人の八百長関与を認定し,引退勧告などの処分で事実上追放した。そのなかに蒼国来関も巻き込まれてしまっていた。なんとしても納得できない蒼国来関は「幕内力士としての地位確認の訴訟」を起こした。

 それから2年を経過して,ようやく「無実」が認められた。日本相撲協会は昨日(3日)に臨時理事会を開催して,東京地裁の判決について,控訴しないことを決定。そうして,名古屋場所(7月7日初日)から,除名されたときの地位である前頭15枚目で復帰することになった。

 日本相撲協会理事長は臨時理事会後に,親方(指導責任を問われ降格処分を受けていた)と蒼国来関に会って,こころの籠もった詫びを入れて和解が成立したという。そして,蒼国来関は「明日からまわしをつけて稽古する」ときっぱり。力士としては4月27日の横綱審議委員会稽古場総見から協会の行事に参加することになる。

 世の中に「冤罪」ほど罪深いものはない,とわたしはずっと長い間,そして,いまも考えている。なぜなら,わたし自身もこれまで何回「冤罪」を被せられてきたことか,そして,そのつど名誉棄損で裁判を起こそうと真剣に考えたことがあるからだ。しかし,わたしの場合には,職業上の身分を剥奪されるような「冤罪」ではなかったので,黙って我慢することにした。裁判を起こすだけのエネルギーがあったら,そのエネルギーを「研究」に向けるべきだ,というわたしのこころの奥底の声にしたがった。そうして,いまを生きている。その結果が,どう判断されるかは,墓場に入るときに決まる。そして,その事実はかならず明らかになる,と信じて。

 蒼国来関にとってのこの2年間は,力士生命を棒に振るほどの,あまりにも大きなブランクだ。でも,信念の人,蒼国来関ならそのブランクをものともせずに克服してくれるだろう。そして,あの右四つからの投げを「復活」させて,元気な姿を土俵の上で見せつけてほしい。それだけが力士としての名誉挽回のための唯一の方法なのだから。端正な顔だちに闘志が漲ったときの,あの迫力ある顔をとりもどしてほしい。

 これまで以上の支援者やファンが増えることは間違いない。あなたの生きる姿勢に感動した相撲ファンは少なくない。その人たちの声援を背に受けて,大活躍をしてほしい。わたしもそのひとりとして声援を送りたい。

 それにしても,あの,あまりに「拙速な解雇処分」はいったいなんだったのか。あの,特別調査委員会のくだした結論はいったいなんだったのか。その責任の重さを徹底的に追及してほしい。これから「検証」が行われるというが,内部「検証」だけでいいのか。この人たちの言い分を聞いていると,これまた腹が立ってくる。(詳細は省略する)。

 政府自民党も,原子力規制委員会も,全柔連の理事会も,教育委員会も,どこもかしこもみんな「無責任」。日本相撲協会も同じ。この体質を改善しないことには,日本の未来はない。情けないが,これが現状だ。

 中国・内モンゴルから大志を抱いてはるばるやってきた恩和図布新(おんわとうふしん)さん,すなわち,蒼国来関に,「冤罪」を被せてしまったこと,わたしもひとりの日本人としてこころからお詫びをしたい。そして,これからはもっともっと応援したいと思っていますので,心機一転,頑張ってほしい。あなたなら「できる」と信じて,エールを送ります。なんと言ったって,わたしの敬愛する日馬富士と同じように「正しく生きる」ことを貫いた人なのだから。

2013年4月3日水曜日

「型にとらわれないで,もっと自由に演じなさい」(李自力老師語録・その29.)

 ある日の稽古が終わったあとで,李老師がとても興味ぶかいお話をしてくださいました。結論から言いますと,「型にとらわれないで,もっと自由に演じなさい」という内容のお話でした。以前から,この趣旨のお話を何回もなさるのですが,頭では理解したつもりでも,なかなか実行はできません。とくに,わたしなどは教えていただいたことをそのとおりに再現しなくてはいけないと考えてしまい,結果的には,動きがガチガチで,とても窮屈な太極拳を演ずることになってしまいます。李老師は,もっと力を抜いて自由に・・・と仰います。

 しかし,わたしの「ガチガチな太極拳」と,李老師が仰る「もっと力を抜いて自由に」という太極拳の間には,とてつもなく深い溝があるようです。それは,まったく次元が違う話だということが,最近になって徐々にわたしの中で納得できるようになってきました。李老師は,その溝を埋めるべく,つぎのようなお話をしてくださいました。

 李老師のところに,ある団体の指導者Aさんと,そのお弟子さんであるBさんが二人で訪ねてきて,教えを乞うたことがありました。で,早速,Bさんの表演を見せてもらいました。とても上手で,一つひとつの動作はほとんど問題はないのに,どこか表演そのものが死んでしまっています。そこで,李老師は,Aさんにいつものように稽古をしながら指導をしてみてください,と頼みました。すると,これまた,じつに丁寧に,細かな動作一つひとつに注意を与えて,みごとな指導ぶりを見せてくれました。Bさんも,少しでも注意されなくてすむように,と正確な動作をしようと必死です。しかし,太極拳にとって一番大事なことが欠けていることを見抜いた李老師は,つぎのような指示をしたそうです。

 Aさんの指摘は一つひとつみんな的確で,正しい。しかし,みんな間違っています。なぜなら,Bさんはすでに基本の型とは異なるBさん特有の動きをしはじめています。この動きをAさんは直そうとしていたのです。つまり,型にはめ込もうとしていたのです。しかし,李老師は,このBさん特有の動きをそのまま演じなさい,と命じます。すると,とたんにBさんの動きが生き生きとしてきました。しかし,基本の動きとしてはかなり逸脱しています。でも,これでいいのです,と李老師。この方が,とてもいい感じの太極拳です,と。(この話には後日談があって,Bさんは,つぎの試合のときに李老師に言われたとおりに基本の型をあまり意識しないで,ありのまま自由に演じて,みごと優勝したそうです。)

 つまり,太極拳を演ずる人が,基本の型にとらわれてしまって,気持ちよく動く心地よさを感じていないとしたら,それは「太極拳ではない」と李老師は仰います。大事なのは,太極拳を演じているときに感ずる「心地よさ」なのだ,と。その「心地よさ」を感じとりながら太極拳を演ずるとき,その「心地よさ」が見る人のこころにも伝わってきます。そこが太極拳を演ずるときのもっとも大事なポイントであり,ツボだというわけです。そこを忘れてしまって,ただ,基本の型どおりに演ずるだけでは,人を感動させることはできません,と李老師は仰います。

 ちょうど,こんなことを考えていたら,『哲学のヒント』(藤田正勝著,岩波新書,2013年2月刊)のなかにある,つぎのような文章に出会いました。

 芸道でも武道でも,初心者は当然,そういう「形」をまねるというところから入っていきます。修行ということを考えたとき,それは重要な意味をもっています。しかし「形」をまねることに終始すれば,それから離れ,自由になることはできません。むしろそれに縛られます。そのことを柳は「型に滞る」,と表現したのです(P.180.)。

 ここにでてくる柳とは,あの民藝運動を展開した柳宗悦のことです。『柳宗悦 茶道論集』を引き合いに出しながら,藤田正勝は「形」と「型」の違いを説明しています。そして,さらに,つぎのように締めくくっています。

 「形」から入りながら,しかしそれが自分のものとなり,自由にふるまえるようになったとき,「形」が「型」になると言えるでしょうか。これは逆に言えば,自然なものが自然なものになるためには,多くの修練が必要であるということです。そういう修練をへて,「ものの精髄」にまで達することを,柳は「型を活かしきる」という言葉で表現したように思います(P.180.)。

 李自力老師もまた,このことをわたしたちに伝えたかったのだろうと,いまにして納得です。太極拳の奥義や精髄をことばで表現することは,ほとんど不可能に近いことだとわたしは考えています。そのことを一番よくわかっていらっしゃるのが李老師でしょう。でも,それをなんとかして伝えたい,それがさきに紹介したような事例を用いての李老師の説明なのでしょう。求められるのは,それを聞き取るわたしたちのレシーバーの感度の良さ,ということになるのでしょう。

 「型に滞る」ことなく,「型を活かしきる」ところにまで到達すること,それを李老師は「型にとらわれないで,もっと自由に演じなさい」とわたしたちに説いてくださったのだと思います。

 太極拳の道を極めるということは,藤田正勝さんに言わしめれば,まさに「哲学する」こと以外のなにものでもありません。それが「生きた哲学」なのだ,と。

2013年4月2日火曜日

『哲学のヒント』(藤田正勝著,岩波新書)を読む。「生きた哲学」への誘い。

 「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」(九鬼周造)。なぜ今日の空は美しいのか,親しい人を喪うとはどういうことか,私とは何か──哲学の問いはつねに日常のなかから生まれ,誰にとっても身近なものである。古今東西の思想家の言葉をたどりながら,読者それぞれが「思索の旅」を始めるためのヒントを提供する。

 この本の表紙カバーの折り返しに書かれたコピーをそのまま引用してみました。この本の特色が簡潔に,わかりやすく提示されていると思ったからです。いわゆる哲学の初心者のための入門書なのですが,これまでの類書とはいささか趣を異にしています。著者の藤田正勝さんもこの本の「はじめに」で書いていますように,「生きた哲学」を求めて,この本を書いたというのです。もう少し,著者の言い分に耳を傾けてみましょう。「はじめに」のなかで,著者はつぎのようにきわめてわかりやすく書いています。

 たとえば私たちは夕焼けの空を眺めて,その美しさにうっとりすることがあります。そして「なぜ今日の空は美しいのか」とか,「私たちはなぜ美しいものに惹かれるのか」と考えたりします。あるいは肉親の死を前にして,「なぜ人は死というものに向きあわなければならないのか」とか,「世の中に移ろわないものがあるのだろうか」と考えたりします。またさまざまな挫折を経験したり,進むべき道に迷うことがありますが,そういうときに,「どのように生きていけばよいのか」「生きていく上で何がいちばん大切なのか」といったことを考えます。そこから一歩進めれば,美とは何か,真の存在とは何か,善とはなにか,といった問いが生まれてきます。
 このように哲学は,誰もが関心を抱く問い,あるいは関心を向けざるをえない問いから出発しています。その意味で,私はすべての人が哲学者であると思っています。しかし,それをより深く問い進めていくためには,少し手がかりが必要になると思います。そういう手がかりを提供することができればと思って,本書を執筆しました。

 少し長くなってしまいましたが,これでこの本がどのような趣旨で書かれたか,というもっとも大事なところがよくわかります。言ってしまえば,わたしたちが日々あれこれと考えながらの日常生活を送るということそのことが,そのまま,哲学をしながら生きていることを意味する,というのです。ですから,みんな哲学者だ,と著者は断言します。ただし,その日常性から,さらに,もう一歩踏み込んで考えていくためには,そのための手がかりが必要になる,というわけです。つまり,本格的な哲学への第一歩となる手がかりです。その手がかりを,だれにもわかるように,わかりやすく提供したいと著者はいいます。

 この著者のことばどおりに,哲学するための「手がかり」が,このテクストを一貫して流れていて,とっつきやすく,そしてわかりやすく,しかも感動的でもあります。こんな哲学の入門書にもっと若いときに出会っていたら,わたしの人生はもっと違ったものになっていたのではないか,と思うほどです。ですから,哲学を毛嫌いしている若い人たちに,ぜひ,読んでもらいたいと思います。のみならず,哲学はなんとなくうさん臭いので避けてきたという人生のベテランの人たちにも,ぜひ,読んでもらいたいと思いました。哲学にほとんど縁のなかったわたしですら,眼からうろこが落ちる思いをしたくらいですから。

 著者の藤田正勝さんは,あらためて紹介するまでもなく,京都大学哲学科の教授です。いわゆる「京都学派」の直系の哲学者です。これまでにも,西田幾多郎に関する著書をたくさん書いてこられた方です。わたしは,ふとしたきっかけから,西田幾多郎のいう「純粋経験」や「行為的直観」という概念が,「スポーツする身体」を考えていく上でとても役立つということに気づき,以後,『善の研究』からはじめて,かなり多くの西田幾多郎の本を読むことになりました。もちろん,西田幾多郎の哲学に関する解説本も,かなりの量,読むことになりました。その延長線上に,藤田正勝さんの本もあったというわけです。

 わたしの知るかぎりでは,西田幾多郎をこれほどわかりやすく語ってくれた人は藤田正勝さんを措いてないと思っています。その藤田さんが『哲学のヒント』という哲学一般の入門書を書いてくれたわけです。ですから,わたしにはことのほかよくわかったのかも知れません。しかし,「スポーツする身体」とはいかなるものか,ということを幾分なりとも考えてきた人であれば,この本は間違いなく大きな衝撃を与えることになる,とわたしは考えています。

 なかでも,終わりの方の第7章 美──芸術は何のために,と第8章 型──自然の美,作為の美,の2章は圧巻です。スポーツする身体がつねにくり返すことになる「自己を超えでる」経験は,芸術家たちのそれとまったく同じであることが,この本のなかで明確に論じられています。そして,第8章の「型」では,芸道(茶の湯,能,など)と武道とを同次元のこととして取り上げ,「型」のさきにあるものを,わかりやすく論じてくれています。そして,最後のところでは,やはり,西田幾多郎の「純粋経験」をもち出して,全体を総括してくれます。

 さいごの「あとがき」で著者はつぎのように述べています。
 
 大学に入ってすぐであったと記憶していますが,手に取ったいろいろな書物のなかに田辺元の『哲学入門──哲学の根本問題』(筑摩書房,1949年)がありました。内容をすぐに理解することはできませんでしたが,そこでたいへん印象深い言葉に出会いました。「哲学は自分が汗水垂らして血涙を流して常に自分を捨てては新しくなり,新しくするというところに成立つのです」というものです。この言葉は,文学や歴史などさまざまな進路の可能性を考えていた私に,一つの方向を指し示してくれました。

 この田辺元のことばをそっくりそのまま借用して,わたしは,つぎのように書いてみたいと思います。

 スポーツ経験の源泉は自分が汗水垂らして血涙を流して常に自分を捨てては新しくなり,新しくするというところに成り立つのです,と。

 道を極めようとする武道家もトップ・アスリートもみんな哲学者なのだ,と。それは,坐禅を組む禅僧も同じです。道元は「只管打坐」(しかんたざ)といいました。「ただ,ひたすら坐禅をしなさい」と。
そして,死ぬまで坐禅に励みました。西田幾多郎もそういう人でした。ひたすら「からだ」をとおして思考を深める,これが「生きた哲学」である,と考えたようです。

 最後に,わたしの結論。
 スポーツは,すぐれて,哲学的経験の一つなのです。
 このことを強調しておきたいと思います。

2013年4月1日月曜日

「穂国」の伝統芸能「笹踊り」の写真がとどく。

 わたしの若い友人柴田晴廣さん(牛久保町在住)から,今日(31日),行われたばかりの祭りの写真が「どさっ」ととどきました。その祭りというのが,わたしの子どものころ住んでいた大村町の懐かしい祭りです。そこでは珍しい「笹踊り」という郷土芸能が伝承されています。この地域,つまり,東三河ではあちこちの村祭りの名物のひとつになっていて,それぞれの地域によって少しずつ踊り方が違う「笹踊り」が伝承されています。柴田さんは,じつは,この「笹踊り」の研究者の第一人者でもあります。ですから,祭りがはじまると忙しく,あちこちの祭りのフィールド・ワークにでかけます。わたしが大村町の出身であることを知っている柴田さんは,わざわざ,雨の中,出かけていって写真を撮って送ってくださった,という次第です。


 もう少しだけ,柴田さんのことを紹介しておきたいと思います。柴田さんには『穂国幻史考』(常左府文庫,2007年)という大著があります。「穂国」(「ほこく」とふりがながしてありますが,わたしは「ほのくに」と読みたい)とは,いにしえの東三河地方の地名です。日本が律令国家としての体裁をととのえるころの古代史に注目し,たとえば,持統天皇がわざわざ「穂国」に行幸したのはなぜか,と問いかけ中央の大和(瑞穂の国)の歴史(たとえば『古事記』や『日本書紀』)に封じ籠められた「謎」を解きほぐし,古代史の「定説」に一矢報いようという,きわめて意欲的な著書を書いていらっしゃいます。いま,話題になっている古代史読解の魁的なお仕事をされた方として,わたしは注目しています。その関連で,「笹踊り」も重要な研究対象とされていらっしゃる,というわけです。こちらは,朝鮮通信使との関連で,瞠目すべき考察を展開されています。


 この柴田さんの『穂国幻史考』に触発されて,ちょっと待て,わたしの育った「大村町」というところもよくよく考えてみると,とんでもないところだったのではないか,といまごろになって気づきはじめています。いまの段階では,あまり詳しいことはまだ書けませんが,いずれ明らかにしてみたいと思っています。そのひとつの手がかりが「八所神社」のお祭りです。大村町には,現在,五つの集落があります。それらの集落にはそれぞれ一つずつ村社があります。それらとは別に,それらの集落を全部合わせた共同の神社として「八所神社」があります。ということは,あと三つの集落がむかしはあったのではないか,それがいつのまにか消えて五つになっている,という不思議な謎があります。

もう一つは,この大村町という地域の広がりが,いまの行政区画で確認してみても,おどろくほど広いのです。しかも,むかしは(と言ってもわたしの子どものころ)大雨が降って豊川が氾濫すると,大村町の半分の集落は大水に浸され孤立してしまいます。もちろん,学校も休みでした。そのむかしは,豊川が氾濫するたびに,その流れを変えて,この大村町の区画も川になったようです。その痕跡があちこちに,いまも,残っています。そのため,豊川の氾濫する水を塞き止めるために二重の堤防が,この地域にはあります。わたしの育った寺は,その二重の堤防の外側にありました。そのことの意味が,いまごろになって,ああ,そういうことだったのか,と想像できるようになってきました。


 水の問題は,どうやら,この大村町にあっては大昔から大問題でした。ですから,この水の対策にこの地に住む人びとは頭を悩ましつづけたに違いありません。それでも,この地を捨てるわけにはいかない人びとが,ずっとこの地を守ってきました。その水問題との関連で,八つの集落が力を合わせて,大きな事業をなし遂げる必要があったのでしょう。それが堤防と用水でした。つまり,豊川が氾濫するときの水の逃げ道として,この大村町は位置づけられていたということです。そこに至りつくまでには,相当の紆余曲折があったに違いありません。その全集落を挙げての協力・結束の記念すべきシンボルとして「八所神社」がある,とわたしは考えています。

 その「八所神社」に「笹踊り」が伝承されているというのも,偶然ではない,とわたしは考えています。朝鮮通信使が東海道を練り歩く姿を,「穂国」の人びとは熱烈歓迎したことでしょう。そういう心性を共有した人びとが多く住んでいたのでしょう。もっと言ってしまえば,持統天皇が行幸に来なくてはならない,なんらかの理由のある人びとが,この「穂国」には多く住んでいたということでしょう。その謎を解く鍵のひとつは,三河国一宮である「砥鹿神社」(祭神は大巳貴命)にあります。ここからさきの話は,柴田さんの独壇場です。『穂国幻史考』を参照してください。


 
 わたしも,大きくなったら,青年団に入って,この「笹踊り」を踊るのが夢でした。が,その夢を果たせないまま上京し,そのままこちらに居つくことになってしまいました。まだ,将来のことなどなにも考えない子どものころ,毎年,羨望の眼で眺めていた懐かしい「笹踊り」の写真を眺めながら,思いは一気に60年前に・・・・・。


 来年はなんとか時間を工面して,この祭りに出かけてみよう・・・・とそんな気になってきました。そのときは,ぜひ,柴田さんと一緒に・・・・と勝手に決め込んでいます。柴田さん,よろしくお願いします。

 というところで,ひとまず,ここまで。