2011年4月30日土曜日

「いまこそ歌舞音曲」と朝日新聞。賛成。

このところ朝日新聞の悪口ばかり書いてきましたので,少しはいいところもあるということのご紹介。まあ,大きな組織ですから,冴え渡っているような部局と,ほんとうにもうどうしようもないほど腐ってしまっている部局とあるのは仕方がないのかもしれません。
少し前の記事になってしまいますが,4月23日(土)の「耕論」オピニオン(13面全面)の企画として「いまこそ歌舞音曲」という見出しのコラムが掲載されました。このコーナーは時折,ワンダフルなのですが,確率は微妙です。が,期待のコーナーであることだけは間違いありません。スタッフのみなさんにはこれからも思い切った「耕論」を企画していただきたいと思っています。
さて,「いまこそ歌舞音曲」
論者は麿赤児(まろあかじ)さん(舞踏家),松尾葉子さん(指揮者),大崎洋(ひろし)さん(吉本興業社長)の三人。それぞれの立場から歌舞音曲を語っているのだが,残念ながら,このテーマでまともなことを言っているのは麿赤児だけ。かれには舞踏をささえる思想が,きちんと語られていて「いまこそ歌舞音曲」というテーマに応えている。が,あとのお二人は,ちょっとポイントがづれてしまっている。松尾さんは「頑張って演奏をするので,どこかの局が一日中電波で流してくれないかしら」などと,きれいごとを述べている。そうではないだろう。オーケストラの楽団員が一人ずつ,あるいは,数人で,現場に立って演奏することではないか。避難所にいる人たちに「生演奏」を聞いてもらうことではないのか。それを,こちらにいて演奏するからどこぞの放送局が流して,それを被災者の人たちに聞いてもらいたい,という。あれあれ,と思ってしまう。大崎さんは,しっかりと商売人根性まるだしの吉本興業の宣伝をしている。それをそっくりいただいてそのまま整理した「聞き手,編集委員・鈴木繁」という署名が恥ずかしい。それは「聞き手」という人の問い方,つまり,その人の思想が問われているということ。つまり,「いまこそ歌舞音曲」というテーマをとりあげたコンセプトの掘り下げができていないということが露呈してしまっている。だから,読後に印象に残るものがなにもない。ただ,麿赤児さんはもっともっと深い思想を語ったはずなのに,それをすくい取るだけの力量が足りない,と読んでいて感じた。

あれあれ,褒めるつもりだったのに,いつのまにかきびしい口調になってしまいました。申し訳ありません。ボケ老人の戯言だと思ってお聞き流しください。
正直にいえば,今回の企画は,アイディアはよかったものの,人選ミスというところでしょうか。「いまこそ歌舞音曲」という素晴らしいアイディアがでてきたのですから,それにふさわしい人材を選ぶべきだったのではないか,とわたしは思います。たとえば,今福龍太さんのような人類学者が,どのようにコンパクトにこの問いに応えるのか,わたしは聞きたかった。あるいは,鷲田清一さんのような哲学者はどのように応答するのか,という具合です。
「歌舞音曲」は悲惨な災害に出会ってしまった被災者のためにこそ,力を発揮するものだとわたしは考えています。それも,遠くからラジオやテレビで送り届けるのではなくて,「じかに」触れ合うことが大事だと思っています。ですから,できるだけ多くの芸能者,芸人,芸術家と言われる人が,被災者の前に立ってほしいのです。これは並みの芸人ではできない至難の業だと思います。つまり,相当の覚悟をもって立たないと,下手をすれば,怒鳴り散らされ,追い返されてしまいます。そこを踏みとどまれるだけの力をもった芸こそがほんとうの「芸能」である,とわたしは考えます。そういう真剣勝負をする場でもあるわけです。
断わっておきますが,芸能の世界は,科学的合理主義の世界をもかんたんに飲み込んでしまうほどの,恐るべきパワーをもった「非合理」の世界です。ここには,さまざまな約束事もあれば,価値観の大転換もあれば,八百長もあります。その上での真剣勝負という複雑な構造をもっています。だから,人間の深層に宿るこころの琴線に触れることができるわけですし,ふだんは眠ったままにされている無意識の世界にまで分け入ることができるわけです。
わたしなら,「いまこそ芸の力を」と言いたいところです。大相撲もまた,このレベルで語られるべきだとわたしは考えています。ですから,いまこそ,おすもうさんたちは手分けして被災地に立つべきだ,と主張しているわけです。

でもまあ,こんなブログを書くことしか能のない人間に偉そうなことは言えません。しかし,マスメディアで発言する人にはそれなりの覚悟をもっていただきたいし,それを「聞き手」として記事をまとめる人たちはもっと「覚悟」をもっていただきたい,という次第です。記事がまことに安易。中味がほとんどない,垂れ流し記事。しかも,このレベルの記事でも多くの人たちが読んで,大きな影響を受けるわけです。このことを考えると責任は重大です。つまり,ものごとの本質をごまかしてしまうことに大きな貢献をしてしまいます。もっと言ってしまえば,権力の思うつぼです。ジャーナリズムはそうではないでしょう。

いつも言うことですが,朝日新聞には,かつてのわたしの若き時代の「いい新聞」になってほしい,というわたしの深い愛を籠めた期待があります。ですから,ついつい,きびしい批判になってしまいます。わたしの意とするところをどうぞおくみ取りください。そして,期待に応える記事が増えてくることを,こころ待ちにしています。


2011年4月29日金曜日

節電はもう終わりなの? まばゆいばかりの夜の街の明るさ。

今朝,家をでるとき郵便局で荷物を発送しようと思ってもち出したら,今日はお休みだという。ああ,ついに惚けたか,と反省。今日から大型連休の始まりだという。
溝の口の駅周辺も人出が多くびっくり。わたしはいつものとおり,鷺沼の事務所に向かう。一日,予定どおりの仕事をして,夕刻,午後7時30分に帰路につく。
鷺沼駅の改札口で,あまりの明るさに驚く。えっ,こんなに明るくするの?いつのまにか節電の暗さに慣れてしまって,それが当たり前になってしまった。だから,びっくり,である。しかし,あちこちの蛍光灯を確認してみたら,まだ,全部点けているわけではない。しかし,プラットフォームに降りたら,すべての蛍光灯が点灯していて,明るいのなんの,びっくり仰天である。しかも,階段を歩いて降りてきたのに(ここの階段はどこの駅よりも長い),振り返ってみると,昇りも降りもエスカレーターが動いているではないか。この時間帯は,人もまばら。エスカレーターに乗っている人は,ほとんどいない。なのに,動いている。
溝の口の駅も同じ。で,よくみると,駅前の灯が全体的に明るい。いつもの丸井の1階を通り抜けようと思って階段を降りていったら,入り口周辺がいつもよりもはるかに明るい。店内はもっと明るい。おやっ?,なにがあったのだろうか,と考えてしまう。もう,びっくりするほど明るい。真ん中あたりで立ち止まって,点灯している蛍光灯や電灯を数えてみた。これでもまだ3割くらいは消えている。そうか,3割くらい消えていても,こんなに,まばゆいばかりに明るい。自宅のあるマンションの一階にある不動産会社の灯も今日はとびきり明るい。でも,全部の電灯が点いているわけではない。
人間の慣れというものはすごいものだ。いつのまにか,あの暗さに慣れきってしまっている。もう,この明るさで十分だ。もう少しだけ,暗くていい。その方がなんだか落ち着く。あまりに明るいとこちらの気持ちが煽られてしまって,尋常ではなくなってしまう。そうか,これまでこの明るさに狂わされてしまっていたのだ。節電のときの暗さでいい。その方が気持ちが引き締まっていて,落ち着く。
われわれ一般家庭にはなんの連絡もないが,鉄道や百貨店やすーバー,コンビニ,などの商店にはなにか通達でもでているのだろうか。そうでなければ,こんなに足並みを揃えるようにして,一斉に明るくなることはない。またぞろ,どこかから,電気を使え,という指令でもでているのではないか。使っていい,ではない。「使え」の指令だ。
たぶん,節電がここまで徹底するとは「当局」は予想だにしなかったのではないか。しかし,予想をはるかに越えるほどの節電が行われた。一般家庭もふくめて,みごとだった,とわたしは思う。ここまで節電されると,必要な電気料金が回収できなくなってしまう。そこで一気に方針の転換に踏み切ったか。もし,そうだとしたら,わたしたちは本気で考えなくてはならない。
わたしたちは,「3・11」以後,とても大事なことを学んだ。そのひとつは,無駄遣いはしない。日常生活のあらゆる場面で「消費」することはいいことだ,経済が活性化する,と教えられてきた。電気も使い放題,あちこち必要以上に明るくして,その快適さに酔いしれていた。しかし,この夜の明るさは異常だったのだ。この明るさが(もちろん,過剰な電気製品の氾濫もふくめて)「原発推進」の原動力になっていたのだ。,それではいけない,ということを今回はこころの底から学んだ。わたしたちは節電してもなんの問題もない,ということをこの短い間に学習した。このことを忘れてはならない。なぜなら,これからなし崩し的にどんどん明るくなっていくだろう,と思われるからだ。そこには,恐るべき陰謀が隠されている。
電気をどんどん消費させて,電力が足りない,という状況をつくりたい人たちがいる。
その人たちの陰謀が,すでに,明るさとなって現れた,とわたしは勘繰る。
このゴールデン・ウィークの間になにかが起こる。そして,ゴールデン・ウィークが終わったら,もう,もとの木阿弥。以前の,過剰な明るさにもどっているのではないか。
これまでの明るさの7割で十分だ。それでも明るすぎると今夜は感じた。
この感覚をしっかりと研ぎ澄ませて,ゴールデン・ウィーク明けを見届けることにしよう。
みなさんも,よろしくお願いいたします。

中部電力が浜岡原発,再開の方針とか。正気の沙汰か?

国が東電に「甘い」ことを見届けたかのようにして,中部電力が浜岡原発再開の方針を打ち出した。「想定外」の事故であれば,「免責」され,国がすべて面倒をみてくれる,と言わぬばかりに。
地獄から便りがとどいたような気分。とても正気の沙汰とは思えない。この人たちは病んでいる。なにに?金に。どう考えても金の亡者に違いない。「命」よりも「金」の方が大事なのだ。
中部電力の言い分は,安全運転の目処がついた,防波堤を急遽(数カ月),設置して安全を確保する,夏の電力不足を確保する,など。これもまた「思い切り」(斑目)的発想の典型。そして,「想定外」で逃げきる。みえみえの発想。信じられない。
安全基準の見直し(再検討)が叫ばれている最中に,新たな,厳しい「基準」が決まる前に「見切り発車」をしておこう,という魂胆。数カ月で設置できるような防波堤がなんの役に立つというのか。夏の電力不足は代替エネルギーで乗り越えられると,多くの識者が裏付けてくれている。
にもかかわらず「原発」でなくてはならないのだ。
なにゆえに,「原発」にここまでこだわらなくてはならないのか。
とても甘くて,おいしい汁を吸うことができるからだ。
だれが?
電力会社の幹部(患部)連中と政治家と官僚と学者先生と評論家とマスメディアと・・・・,つまり,権力に寄りかかってゴマを吸って生き延びていこうという連中だ。
だから,「原発」で金を稼いで,ばらまく必要がある。
節電などしてくれては困る,というのが本音。どんどん使ってもらって,電気料を稼いで,身の保全をはかる。この悪循環から足を洗うことができなくなってしまった「病んだ人びと」。
「計画停電」などをやって,脅しをかけてみたものの,みんなせっせと節電に励むようになってしまい,いまごろになって「しまった」と臍を噛んでいる。だから,電力は十分確保できますよ,運転休止している「原発」の運転を再開すれば,というわけだ。

まずは,東電の「病んだ人びと」を入院させること。その人たちを支えてきた人たち(自民党の先生方,原発推進に力を貸した学者先生方,その他もろもろ)は,すべて,今回の原発事故の責任をとって,入院させること。重い,重い「病気」なのだから。こんな重篤な病人だったとはつゆ知らず,愚かだったわが身を恥じる。この場合の「入院」とは,つまり,辞表を出して退職してもらうこと。退職金はすべて義援金として寄付すること。
その上で,東電を国有化すること。それなら,いまの政府の「大甘」を許すこともできよう。そうでないかぎり,断固,許せない。税金をそんなにたやすく一企業のために使ってくれては困る。いつから,日本国は社会主義の国になったのか。そうではないだろう。だとしたら,一度,東電に破産宣言をしてもらって(実際に全額補償をしていったら破産することは眼にみえている。原発はこれほどのコストがかかるということを認識すべし),執行部を総入れ換えし,管理会社にし,そこから出直すしかあるまい。

いけない,いけない。ちかごろは「我慢」ということができなくなってしまった。わたしもまた「病気」になってしまったのだろうか。そう,「金」よりも「命」の方が大事だと信ずる「病気」に。それは間違いない。しかし,「命」を守るために「我慢」する必要はない。こと「原発」に関しては黙っていてはいけない。だから,ついつい,勢い余って,過激な発言になってしまう。いや,過激に発言させられてしまう。中部電力が浜岡原発の運転を再開するなどと聞いたら。とてもではない,黙っているわけにはいかない。お許しくだされたし。

2011年4月27日水曜日

脱原発を宣言した金融機関・城南信用金庫を支持。

「稽古のあとのハヤシライス」のときに話題になったことのひとつをご紹介します。
今日の出席者は,Kさん,Nさん,Iさんの3人。
このうちの一人が,新しく銀行の預金通帳をつくりました,といってみせてくれた。みると「城南信用金庫」。えっ,どうしてここなの?とあとの二人。この銀行だけが唯一,「脱原発」の姿勢を表明しているから,とのこと。それはすごいことだ,とあとの一人(もう一人は,すでに,知っていた)。
そこから,いつものようにいろいろの話に展開していったわけですが,最終的につぎのような話に落ち着きました。
わたしたちは,いつのまにか,飼い馴らされたようにお金は大手銀行に預ける習慣が身についてしまっています。まあ,かつての金融危機のときもそうでしたが,いつのまにか日本は社会主義の国になってしまったかのように,大手銀行が危ないとなれば国が手助けしてくれる,という実例をみとどけています。ですから,もっとも「安全」だと思い込んでいます。しかし,じつは一番危険な銀行ではないか,とそのうちの一人が語りはじめました。それに相槌を打つかのようにして,そうなんだよねぇ,金を預けるところでの「安全」しか考えていないけれども,その預けた金がどのように運用されていくのか,というところまでは考えたことがないよねぇ,と。その金の一部が「原発推進」のために使われる可能性(過去には使われてきた)が,これからもあるのだから,と。だとしたら,「原発推進」ではなく「脱原発」を宣言している金融機関の方が「安全」ということになるよね,と。
預ける金額の多寡ではなくて,口座を開いて預金通帳をもつことによって,その金融機関支持の姿勢を明らかにするだけでも,現段階では十分意味のあることではないか。
いま,どこもかしこも義援金集めにはとても熱心ですが,「脱原発」ということになると,大企業ほど「無口」になってしまいます。なぜだかは,もはや,説明するまでもないでしょう。

そのあと,いつものように,わたしは鷺沼の事務所へ。その道すがらに城南信用金庫があります。外のショウウィンドウのところに,つぎのような文言のリーフレットが張り付けてあるのが眼に入ったので,足を止めて読む。
タイトルは「原発に頼らない安心できる社会へ」──節電キャンペーンの実施──。
以下には,つぎのような文言がつづく。
東京電力の原発事故を通じて,私たちは,原子力エネルギーには取り返しのつかない危険性があることを学びました。
そこで,私たちは,省電力,省エネルギー,そして代替エネルギーの開発利用に少しでも貢献するため,①徹底した節電運動の実施,②省電力型設備の導入,③断熱工事の施工,④ソーラーパネルの設置,⑤LED照明への切り替え,⑥自家発電装置の購入等に努めるとともに,金融を通じて地域の皆様の取組みを支援,推進し,「原発に頼らない安心できる社会づくり」に金庫をあげて取り組んでまいります。

まことに立派。わたしは早速,中に入って行って,表に張ってあるリーフレットが欲しいのだが,と尋ねてみました。入り口にいたサービス係の男性は,昨日とどいたものを張ったところなので,リーフレットはまだないんです,と気の毒そうにいう。そして,インターネットのホームページにも掲載されていますので,そちらをご覧ください,とのこと。礼を言って外にでて,歩きはじめ交差点で信号を待っていたら,くだんの男性が息せき切って走ってきて「ありました」とニコニコと嬉しそう。さっきの会話では感じられなかったけれども,この人はいい人だなぁ,とこちらまで嬉しくなってしまいました。あんないい人だったら,明日にでも預金通帳をつくりに立ち寄ってもいいなぁ,とルンルン気分。こんな他愛もないことで人間は嬉しくなるのですから,もっともっと,素直に人と接していきたいものだ,と思いました。

事務所にきて,このリーフレットをしみじみと眺めながら,ふと,政府がこの宣言をしてくれ,とひとりごとを言っていました。いやいや,どこの政党でもいい。過去のことは問わない。「3・11」以後の日本の進むべき道筋を提示するために,政党こそ,迅速に,このような提案をすべきではないか,と。日本の政治家はなにを考え,なにをやっているのか,と嘆息するばかり。もっと早くに,現実と向き合い,てきぱきと対応できないのか,と。新しく舵を切って,進むべき道を提示すること,そんなこともできない腰抜け政治家集団に日本をゆだねておくことはできません。

かといって,すげ替えるべき「首」がない。これが情けない。
いまこそ,政治家は「男」を挙げる絶好のチャンスなのに。
たった一人でもいい。
城南信用金庫のような「提言」を公表してみてほしい。
その意味で,今回の城南信用金庫の快挙にこころからの拍手を送りたい。
よし,明日は,預金通帳をつくりに行こう。そして,息せき切って走ってきてくれた,あのニコニコおじさんと話をしよう。

25年前のチェルノブイリ,ウィーンで経験。その2.

ウィーンの4月26日は,東京でいえば一カ月前の3月26日程度の気温である。つまり,春の魁を言祝ぐかのように,まずは,小鳥たちが鳴き騒ぐ。まさに,鳴き騒ぐのである。こんなにたくさんの小鳥たちがどこにいたのかと思うほどの数である。しかも,けたたましい。
ウィーンの冬は長くて暗い。10月の中旬くらいから一気に冬がやってきて,もう,春まで暖かい日はない。太陽が顔をみせることもない。くる日もくる日も雲が低くたれこめて,そのはるか向こうに太陽がある。が,どの位置にあるかすら判明できない。それでも,ときおり,ぼんやりと太陽の位置がわかることがある。すると,ウィーンの市民たちは「Sonnenschein ! Sonnenschein !」(日が照っている)といって指をさして,市電のプラットフォームに立っているわたしに教えてくれる。そういう長くて暗い冬が3月の中旬くらいまでつづく。下旬に入ると,少しずつ太陽が顔をみせる日が増えてくる。そうして,雪が溶けはじめ,公園の芝生が表面にでてくる。驚いたことに公園の芝生は青々とした緑の芝生のまま現れる。枯れ木になっていた木が新芽を出しはじめる。そう,いまも鮮明に記憶していることは,リラ(ライラック)の花が春の訪れを待ちかねたかのように真っ先に咲き始めることだ。アパートの裏庭にたった一本あったリラの木が,長くて暗い冬からの解放を知らせてくれた。嬉しかったので,よく覚えている。
この長くて暗い冬の間,みることのできる鳥はカラス。毎朝,群れをなして南の方角に飛んでいき,夕刻には帰ってくる。冬の雪の積もった公園などでみかけるのもカラス。日本のカラスよりもかなり大きい。わたしの世話をしてくれたウィーン大学のDr.Prof.Strohmeyer は「あのカラスはロシア語をしゃべる」とジョークを言っていた。よく聞いてみると,春になると,みんなロシアの方に向って飛んでいくからだ,と笑っていた。

ウィーンの4月26日。東京の3月26日に相当。わたしたちがみんな桜前線の北上を首を長くして待ち望んでいる,ちょうど,そんな時期にチェルノブイリ事故に遭遇することになった。ウィーンの市民は遅い春の訪れを待ちかねたかのようにして,太陽が照ると屋外にくり出し,散策を楽しむ。そして,久しぶりの再会を喜びあって,ひとしきりおしゃべりを愉しむ。ほぼ半年の間,家の中に閉じこめられていたお年寄りたちにとっては,待ちに待った春の来訪である。子どもたちも,雪の溶けたグラウンドを駆け回りはじめるのもちょうどこの時期だ。待ち行く市民の顔も明るい。初めて経験するウィーンの冬は,長いトンネルだったように,いま思い出している。

そんな,さあ,これからだ,というときにチェルノブイリ事故は起きた。しかも,放射能の雨が降るから気をつけろ,という。楽しみにしていたお年寄りが,ふたたび家の中に閉じこもってしまった。子どもたちの体育の時間も屋外のプログラムは全部中止。空には待望の青空が広がっているのに,気分は重く,暗い。市民の明るい表情が一変してしまった。顔を合わせれば,だれかれなくチェルノブイリ事故の話が話題の中心となる。そして,お互いに情報交換をしている。それは真剣そのものだった。繁華街のあちこちに人の輪ができている。なにげなくそばに寄って話を聞いていると,突然,「お前はどう思うか」と問いかけてくる。一人でも多くの人の情報や意見を聴きながら,自分の考え方を整理していく,この国の人たちの生き方に深い感銘を受けたものだ。こういう人たちが多数を占める国なら民主主義が立派に機能するんだ,とこのときしみじみ思った。やはり「生きる」智慧に関する歴史的蓄積の質が違うのだ。

日本人は相変わらず「受け身」の人が多い。もちろん,このことの良さも十分承知した上での話だ。問題は,危機管理に対する認識の甘さにある。国家の存亡のかかった重大事態に対する決断があまりに遅い。少なくとも「脱原発」に向けて舵を切る,ただ,それだけのことだ。そこから「出直そう」となぜしない?

オーストリア政府は,チェルノブイリを経験したにもかかわらず「原発推進」政策を展開し,8基の原発を建造した。しかしながら,いざ,運転開始という段階で,国民から強い反対意見がでて,結局,国民投票にゆだねられることになった。その結果,国民は「ノー」の意志表示をし,8基の原発はそのまま「凍結」した。一度も運転されることなくいまも眠っている。これこそが民主主義の原点ではないか。

わたしたち日本国民も,いまこそ,声を挙げるべきときだ。そして,大きな議論の輪を構築していくことだ。「3・11」以前の価値観をかなぐり捨てて,「3・11」以後を生きるための,根源的な議論を。


2011年4月26日火曜日

25年前のチェルノブイリ,ウィーンで経験。

25年前の今日(4月26日),わたしはウィーンにいた。文部科学省の在外研究員としてウィーン大学のスポーツ科学研究所の図書館に通っていた。毎朝,ドイツ語のトレーニングも兼ねてラジオを聞きながらの朝食。なんだか,アナウンサーの語り口がいつもと違う。明らかに興奮している。しかも,「ラジオ」「ラジオ」と叫んでいる。ドイツ語のRadioも,日本語の「ラジオ」も同じだ。だから,「ラジオがどうかしたのか」と最初は聞いていた。しかし,どうも様子がおかしい。そのうちに「ラジオエレメント」ということばを聞き取ることができた。あわててドイツ語の辞書を引いてみる。Radioelement.=放射性元素,とある。なにかあったな,と半信半疑のまま大学に向かう。

地下鉄の駅の近くで新聞を購入。大きな文字で「Radioaktivitaet」と書かれている。そして,大きな写真が載っている。なにかが爆発している。電車・バスと乗り継ぎながら,新聞を必死で読む。チェルノブイリというわたしの知らない地名が繰り返しでてくるので,ここでこの爆発が起きたのだろう,というところまでは推測ができた。途中で何回も独和辞典を引いて確認する。そして,ようやく,チェルノブイリ原子力発電所が爆発したことを知る。その結果,放射能があちこちに飛び散ったこともわかる。さらに,気流の流れによって,全ヨーロッパに大きな影響がでることもわかった。しかし,まだ,詳しい実態はよくわからない。

いつものように,図書館に直行。このころには,すでに,図書館の書庫のなかにわたし専用の机と椅子が確保できていたので,そこに向かう。しかし,図書館のカウンターの奥にいたFrau Marliese が飛び出してきて,大きな眼をまん丸に剥いて,「お前たち家族はすぐに日本に帰れ!」と絶叫している。「チケットの手配なら手伝ってやる」と本気だ。それから,わたしが新聞を手に持っていることを確認して,「全部,読んだか?」と聞く。いや,まだ,半分だけだ,とわたし。「じゃあ,早く,全部,読め」という。それで,指定席に坐って,辞書を片手に新聞を読みはじめる。徐々にことの真相がわかってくる。で,途中で,世界地図はあるか,とFrau Marliese に聞く。すぐに持ってきてくれる。そこで,チェルノブイリはどこだ,と聞いてみる。「知らないが,ソ連の西部だと思う」とFrau Marliese. 探してみたら,すぐにわかった。

「さあ,どうする?」とFrau Marliese. わたしの机の前に仁王立ちのままだ。わたしはしばらくの間,眼をつむって考える。チェルノブイリとウィーンの間はかなりの距離がある。いますぐに,どうということもなさそうだ。2,3日,情報を集めながら考えようと決心して,それをFrau Marliese に伝える。彼女は「信じられない」という顔をして,自分の席にもどっていった。しかし,わたしは内心,落ち着かない。どうしたものだろうか,と考える。が,その情報があまりに少なすぎる。そこで,Dr.Prof.Strohmeyer  の研究室を尋ねてみる。「面接時間ではないが,ちょっと,相談したいことがあるのだがいいか」と断りを入れて,なかに入る。いつもニコニコ顔の人が今日はいつもと違ってきびしい顔をしている。わたしのたどたどしいドイツ語で「チェリノブイリの・・・・」といいかけただけで,かれはすぐに理解して,話を引き取って,かれのわかっている範囲の情報をわたしにわかりやすく教えてくれた。また,なにかあったら情報はすぐに流してやる,とも言ってくれた。

とりあえず,一旦,アパートに引き返して,娘が学校から帰るのを待った。そして,家族でこれからどうするかを相談した。しかし,だれも日本に帰るとは言わない。じゃあ,これもまた勉強のうちか,と判断して残ることにした。それからの生活は,予測のできないことがつぎつぎに起きた。まずは,すーバー・マーケットから野菜が姿を消した。しかし,驚いたことに,3日後には,イタリア産の野菜が山のように積んであった。毎日,毎日,ラジオを聞き,新聞を読む,という生活がはじまった。このころからドイツ語の読解力が急速に高まってきた。やはり,必要がことばを学習させる。そして,ウィーンの人たちのやさしさに触れることも多くなった。Gemuetlichkeit(居心地の良さ)ということばを覚えたのもこのころだ。そして,このことばを発するとウィーンの人たちはみんな笑顔になることも知った。ときにはハグしてくれる人もいた。

「4月26日」。わたしの誕生日の一カ月あとの日。だから,忘れもしない。ウィーンは一時的に「屋内避難」の態勢に入った。通学・通勤はこれまでどおりであったが,できるだけ,屋外には出ないように,という通達があった。学校の体育の授業は全部室内になった。休み時間も外で遊んではならない,ということになった。いろいろのことを思い出す。あれから「25年」が経過したわけだ。そしていま,こんどは,日本の国内で,チェルノブイリが起きてしまった。思いは複雑である。ウィーンの友人たちは,25年前と同じように,じっと日本の「フクシマ」に思いを馳せているに違いない。距離こそ遠いとはいえ,同じ人類としての悲劇を分かち合うようにして。

原発事故に対する感性は,ヨーロッパ人と日本人とではかなりの差があるように思う。かれらの反応はじつに直截的だ。「すぐに,ドイツでもスイスでも逃げて来い。受け入れ準備はできている」と3月12日にはドイツの友人からメールがとどいた。そして,ドイツでは,すぐに25万人という「脱原発」のデモが展開した。それに比べたら日本人の反応は遅い。もっとも,それどころではない現実への対応が優先されたともいえるが・・・・。

ナガサキ・ヒロシマを経験して,いままた,フクシマを経験した。いくら呑気な日本人とはいえ,こんどというこんどは「脱原発」を覚悟した,とわたしは受け止めている。そして,「脱原発」の運動があちこちで展開されている。にもかかわらず,その報道は,なぜか,抑制されてしまっている。この「からくり」はいったいどうしたことか。なぜ,もっとありのままの報道がなされないのか。いつのまにか「大本営」ができあがっていて,それにしたがわなくてはならないような雰囲気ができあがってしまっている。そして,多くの人が不思議とは思わない。このことが恐ろしい。

ウィーンでのチェルノブイリ経験は3カ月ほどで終わったように記憶する。少なくとも,夏休みには旅行にでることができた。わたしたちは,オランダ,ベルギー,イギリスを経由して8月に帰国した。

このウィーンでの経験をいましみじみと思い起こしている。ウィーンの人たちはもっと精確な情報を得ていたように思う。それが,わたしにもきちんと伝わってきた。だから,ウィーンの人たちはほとんど政府に対する不信感はなかったように思う。

それに引き換え,わが国のこの惨状は・・・・。情けない。

2011年4月25日月曜日

風力発電で原発40基分の発電可能・・・・・環境省が試算。

4月22日(金)の朝日新聞に,表記のような見出しの囲み記事が載っていた。これはあくまでも「試算」ではあるが,環境省としての一定の展望を開いたものとして,わたしは高く評価したい。孫正義さんとはまったく別の立場からの,いわゆる官僚からの発想ということで注目したい。こうした発想の試算がそれぞれの専門家の間ではいくらでも考えられていることも漏れ伝わってくる。しかし,マス・メディアは,いまのところほとんど関心を示そうとはしていない。なぜか?
その意味で,環境省が「試算」を公表したことはきわめて重要だと思う。これをきっかけにして,さまざまな専門家たちから「脱原発」のためのアイディアや「試算」を提案してもらえるとありがたい。そうして,「脱原発」は可能なのだ,という根拠を提示していただきたい。

じつは,わたしのブログにも,公表していない「コメント」がいくつかきている。その多くは誤解であったり,情報不足(あるいは,認識不足)による一方的なコメントだ。もっとも多いのが,「原発を止めてしまったら,電気が足りなくなってしまって,生活が維持できなくなる」という種類のもの。これは意外であった。わたしのブログのなかにも,太陽エネルギーや風力によって,かなりの電力は確保できるということは書いた。もっとも,わたしのブログを全部,きちんと読んでくださっている読者は,そんなにも多くはない。だから,たまたま読んだ読者が,そのブログだけで判断して,こういうコメントを入れることになるのだろう,と思うのだが・・・・。

それはともかくとして,こういう背景があったので,少し前の新聞にはこういう記事もでているよ,という紹介を兼ねて・・・・という次第。

もうすでに,よく知られているように,わたしたちがいま消費している電力の約30%を原発に依存している。だから,単純計算では,みんなで30%,節電すれば済む。こんなことは,みんながその気になればすぐにできる。ぜいたくに慣れきってしまった人間には多少不便があるかもしれない。しかし,ふつうの人であれば,1,2カ月すれば,すぐに慣れてしまう。たとえば,いま,実施している節電でも,すでに「7割」の人が「これでいい」と言っている(しばらく前の新聞報道による)。わたしなども,これでなんの不自由も感じない。
ヨーロッパの大都市は,全体的に,もっと暗い。もちろん,部分的に明るくしているところはあるが,都市全体としては,ずいぶん暗い。つまり,無駄な電力は使わない,という考え方が市民の間にも徹底している。わたしの住んでいたアパートでも,夜帰ってきたときには廊下も階段も真っ暗である。入り口を入ったところでスウィッチを入れると灯がつく。そして,4階の部屋まで,かなり急いで登らないと途中で消えてしまう。そうなったら,ドアの鍵穴を手さぐりで探すことになる。最初のうちは,慣れていなかったので,しばしば階段の途中で真っ暗になって慌てたことがある。しかし,これも慣れで,ほんの1カ月ほどで,もう,からだが反応してくれる。それで十分なのだ。

日本のいまの都市の灯を30%落したところで,ほとんどなんの不自由もない。それでも十分,明るい。冷暖房だって,ちょっとした工夫で,いくらでも節電はできる。この習慣をまずは身につけること。その上で,原発に替わる風力,太陽熱,地熱,水力の可能性をさぐれば,原発なしで十分にやっていける。「脱原発」などは,いとも簡単にできる,とわたしは考えている。が,なぜか,政府も財界もそちらに舵を切るということをしない。問題はここだ。

あまり報道されることもないので,わたしたちはほとんど気づかないでいるが,じつは,日本の原発技術は世界に誇るレベルなのだそうだ。だから,このノウハウをもっと高めていって,輸出しようという魂胆が隠されているという説がある。じじつ,すでに,これまでも水面下でいろいろの国の原発に技術協力をするという話が行われているともいう。もうひとつは,いまの技術をもってすれば,「原爆」を製造することはいとも簡単なのだそうだ。この話は,もうずいぶん以前からある。日本は「原爆」をひとつも保有していない国として世界に認知されているが,作ろうと思えばいつでも作れる,そういう国でもある,ということだ。

ことほど左様に,「脱原発」に到達するには,まだまだ,通過しなくてはならない関門がいくつもある。だから,もっともっと情報を開示して,みんなで議論を積み重ねていく必要がある。が,その問題と,当面,きわめて危険だとされている浜岡原発を「とりあえず,停止」させることとは別だ。モンジュの問題もある。これに連なる危険な状態に入っている原発は,あちこちにある。いな,絶えず危険な状態にあって,つねに,厳重な監視・管理が求められている,というのが現実なのだ。このことを,わたしたちはもっともっと重く受け止めるべきなのだ。

こうした事情がある中での環境省の「試算」の公表である。
やればできる。にもかかわらず,やろうとしない当局にこそ問題がある。しかし,それを容認する一般市民の方にも大きな問題がある。こうした利害・打算をどこで「思い切る」か,わたしたちは,こういうところまで視野を広げて「脱原発」の問題を考えていく必要があるだろう。

そのときに,もっとも優先されるべきことは,人間の「命」である。
しかし,こんな分かり切ったことが,いつのまにか忘れられている。それが,現代という時代だ。消費文化に慣れきってしまったわたしたちの思考力の衰弱・劣化が原因だ。まずは,ここから考えなくてはなるまい。

2011年4月24日日曜日

岡本太郎とジョルジュ・バタイユとの出会いについて。その2.

昨日のブログのつづき。
岡本太郎がジョルジュ・バタイユとの出会いを語っている文献は『自分の中に毒を持て』あなたは”常識人間”を捨てられるか(青春文庫,2011年/青春出版社から新書判で1988年に刊行されたものを文庫化)である。
内容は,若者たちに向けて,生きるとはどういうことなのかをわかりやすく説いたエッセイ。簡単に言ってしまえば,いまある自己を否定して,新たな自己と向き合うこと,この繰り返しこそが自由をわがものとする道であり,生きるということの本質だ,と岡本太郎はいう。そして,このこととかれの説く芸術とは一体化していることになる。つまり,自分の作品もまた,つぎつぎに否定しつづけ,つぎつぎに新たな自己の表出である作品を産み出す。つねに新しい自己と向き合いつづけること,そして,その営みの一環として芸術が成立するのだ,という。かれの説く「アヴァンギャルド」とはそういうことだ。自己否定を放棄してしまったたところで,生きることも芸術も意味をなさなくなる,と岡本太郎は強調する。この自己否定の一瞬,一瞬のエネルギーこそが「爆発」だというわけである。
「芸術は爆発だ!」とテレビをとおして叫んだ岡本太郎の真意はここにある。

この「爆発」ということばの中に,じつは,ジョルジュ・バタイユの思想が凝縮している。つまり,バタイユの説く「消尽」の考え方である。バタイユは「太陽」をみろ,という。太陽はくる日もくる日も休むことなく爆発をつづけ,とてつもなく巨大なエネルギーをただひたすら「消尽」するのみである。この「消尽」こそが自然界の根源的な自然現象なのだ,というわけである。人間もまた,生まれて死ぬまでの間,動物としての(あるいは,生きものとしての)生命エネルギーをただひたすら「消尽」するのみである。ところが,人間は動物性の世界から離脱し,「横滑り」をして人間性の世界に移動してしまった。ここから人間としての「悩み」と「苦しみ」がはじまる。この人間性という呪縛に取り込まれてしまった人間は,その「悩み」「苦しみ」を克服するために,さまざまな文化装置を設定する。それが「祝祭」であり,「贈与」である(このテーマについては,すでに過去のブログの中で記述したとおりである)。ここで指摘しておきたいことは,この「祝祭」も「贈与」も,じつは「消尽」のための文化装置なのだ。つまり,「消尽」という自然界の大原則のもとに人間としての「悩み」「苦しみ」を還元することによって,つかのまの安寧を得ようとしたわけだ。

岡本太郎に言わせれば,「祝祭」も「贈与」も,みんな「爆発」である。つまり,「爆発」することをとおしてしか真の自己と向き合うことはできない,というわけだ。その世界は「知」とはかぎりなく遠い「非-知」の世界でもある。この「非-知」の世界とは,極論してしまえば,動物性の世界に限りなく近い。つまり,岡本太郎は「爆発」を繰り返しながら,「知」から遠ざかり,徐々に「非-知」の世界に接近していく。そこに人間性という呪縛から解き放たれた「自由」が待っている。すなわち,動物性の世界への接近である。

こうして考えていくと,岡本太郎がジョルジュ・バタイユの思想・哲学を忠実に伝承しているかが,よくわかる。

こうなってくると,いま,あちこちで岡本太郎企画が展開しているが,それらを見てまわる楽しみが一段と濃密なものとなってくる。

断わるまでもないことだが,わたしたち人間が産み出した文化装置のひとつである「遊び」も「スポーツ」も,じつは,岡本太郎のいう「爆発」であり,ジョルジュ・バタイユのいう「消尽」である。言ってしまえば,人間が「遊び」や「スポーツ」に熱中するのは,「横滑り」をして締め出されてしまった動物性の世界への回帰願望の表出なのだ。こういう視座に立つスポーツ文化論をこそ,これから大いに展開していきたいものだ,とわたしは考えている。

それは同時に,「3・11」以後のスポーツ文化論を展望するための不可欠の視座でもある。このことを強く銘記しておきたい。

2011年4月23日土曜日

岡本太郎とジョルジュ・バタイユの出会いについて。

岡本太郎生誕100年を記念した展覧会や雑誌特集,そして,著作の復刻などふたたび脚光を浴びている。岡本太郎のことは以前から気になっていたので,この際,少し勉強してみようと思い,とりあえず文庫本で手に入るものを4冊ほど買い込んできて,時間をみつけては読みはじめていた。
第一の目的は,岡本太郎とジョルジュ・バタイユとの「出会い」である。
岡本太郎の書いたものを読んでいると,かれの思想・哲学の根源にあるものはジョルジュ・バタイユに違いないという確信は得られたものの,その証拠というか,根拠がいまひとつ明確ではなかった。そこで,岡本太郎のことだから,どこかでジョルジュ・バタイユとの出会いについて書いているに違いないと思い,アンテナを張っていた。
そうしたら,ついに岡本太郎のことばで,その出会いを語っている記述を見つけることができた。そして,それがきわめて衝撃的な出会いであったことがわかった。
わたしが解説をするよりは,少し長くなるが,岡本太郎自身のことばを引いておこう。

10年以上のフランス生活はほんとうにキャフェとともにあったわけで,いちいち思い出を話すことはとても出来ない。
ぼくの一生を決定したともいえるジョルジュ・バタイユとの出会いも,考えてみればキャフェがきっかけだった。
いつものようにル・ドームでパトリック・ワルドベルグとお喋りしていると,マックス・エルンストがふらりとあらわれた。ぼくらの席に腰をおろした彼は,コーヒーを注文すると,ポケットから一枚のちらしを取り出してぼくの前に置いた。皿の上に切り落とされた豚の頭がのっている絵。いささか不吉な感じで目を惹いた。
「あさって,興味深い会合があるんだ。よかったら一緒に行かないか」
エルンストに誘われて,「コントル・アタック」(反撃)の集会に参加したのは1936年の冬のことだ。
フランス国内の反動的な国粋主義右翼,また台頭してきたヒットラーやムッソリーニの全体主義,一方,ソ連のスターリン主義の強圧的な官僚制,それらの右も左もひっくるめた反動に激しく抗議する会合だった。
セーヌ河の河岸を入った細い通り,グラン・ゾーギュスタン街の古い建物。そこの屋根裏にアトリエ風のかなり大きなスペースがあった。ジャン・ルイ・パローの持ちもので,後にピカソがそこを使って,あの巨大な「ゲルニカ」を描いたところだ。
3,40人ぐらい集まったろうか。尖鋭な知識人ばかり。アンドレ・ブルトンや,サド研究家として有名なモーリス・エイヌ等が人間の自由と革命を圧殺する全体主義を激しく非難する。やがてジョルジュ・バタイユの演説となった。
決してなめらかな話し方ではない。どもったり,つかえながら,しかし情熱がせきにぶつかり,それを乗り越えてほとばしり出るような激しさで,徹底的に論理を展開していく。
ぼくは素手で魂をひっつかまれたように感動した。
会は熱狂的にもりあがり,みんなの危機感,そして情熱がひとつになった。
解散するとき,司会者が緊迫した声で言った。
「みなさん,十分気をつけて帰って下さい。右翼が待ちぶせていて,襲われるかもしれません」
暗いグラン・ゾーギュスタン街をモンパルナッスの方に向かって,エルンストと肩を並べて歩いた。一言も口をきかずに。
それ以来,ぼくはバタイユに対する共感をソルボンヌの仲間たちや,心の通う友だちに話さずにはいられなかった。彼の書いたものも貪るように読んだ。そのうち,いつの間にかぼくのことがバタイユに伝わったらしい。
「ぜひ会いたい」というバタイユのメッセージをもらって,ぼくは心躍る思いで指定の時間に出かけた。
今でも,よく覚えている。コメディ・フランセーズの前のキャフェ・リュック。
あの古めかしい劇場の見える側の席で,彼は先に来て待っていた。最初からとてもうちとけた,心を許した雰囲気になった。ぼくはあの夜の感動を語った。
バタイユは「今日,すべての体制,状況が精神的にいかに空しくなっているか」とあの時と同じように熱っぽくトツトツと憤りをぶちまけた。そして,「体制に挑む決意をした者同士が結集しなけれはならない。力をあわせて,世界を変えるのだ。・・・・・われわれは癌のように,痛みを与えずに社会に侵入し,それをひっくりかえす。無痛の革命だ」
バタイユの眼は炎をふく出すように輝いていた。
その後ぼくはバタイユを中心に組織されたコレージュ・ド・ソシオロジー・デ・サクレ(神聖社会学研究会)のメンバーになり,表の討論に参加すると同時に,ごく限られた同志だけの秘密結社にも加わった。その第一歩がこのリュックでの,長い,突っ込んだ話しあいだったのだ。

以上。
いま,時間がないので,とりあえず,ここまで。

2011年4月22日金曜日

拝啓 日本相撲協会どの。八百長懺悔の巡業をやりましょう。

拝啓 日本相撲協会どの。
一人の熱烈なる大相撲ファンとして,初めて便りを書きます。
まず,長年にわたって大相撲を楽しませていただいてきたことにこころから感謝の念を表します。そして,これまで八百長が仕掛けられていたことも,うすうす承知していましたが,それでもなお,大相撲はとても面白かった。なぜなら,土俵をみているかぎりでは,八百長だと断定できる相撲は見当たらなかったからです。もちろん,あれは八百長ではなかったかな,と記憶に残っている取り組みはいくつかあります。が,それでも,その取り組みはそれで面白かった。充分,満足できるものだった。だから,大相撲ファンにとって八百長があろうが,なかろうが,ほとんど関係ありません。これまでどおりの手に汗にぎるような熱戦を繰り広げてくれれば,それで大満足。
なのに,日本相撲協会どの。なにゆえに,そんなに怯えてしまったのですか。そして,なにゆえに,そんなに頑に八百長を隠そうとするのですか。この際,八百長は長年にわたって行われていました,と白状してしまいましょう。そして,これも大相撲の慣習行動として,大事な文化のひとつである,と主張しませんか。ただし,金銭授受をともなう八百長については,こんごとも徹底的に排除していくよう努力してください。そうではない,片八百長は止めようがありません。みていても判定はできません。ですから,片八百長までも禁止するような罰則規定はなんの意味もありません。
片八百長は,日本の伝統文化のひとつであり,こんにちの社会でもいろいろの場面で行われています。そんなことは,日本人であれば,だれでも知っていることです。その片八百長を,大相撲はスポーツだからいけない,と主張する人がいますが,スポーツの世界(野球やサッカー)でも片八百長はいくらでも行われています。リベンジなどと美しいことばで語られていることの多くは片八百長の匂いがします。それはそれで匂いを楽しんでいるわけです。
金銭授受のともなう八百長は禁止します。その場合には,即刻,廃業処分にします。と高らかに宣言しましょう。そして,片八百長は「無気力相撲」の規定で監視する程度で十分ではないか,とわたしは思います。それで,お客さんが激減するとは考えられません。ほんとうに大相撲が好きなファンはやってきます。
こんどあったような,なんとか調査特別委員会のような組織(そこに名を連ねている人びとの大半は大相撲のなんたるかをわかっているのだろうか,と疑問にすら思う)に依頼して,「ウミを出し切る」ような処分はやめましょう。やったところで,ほんの一握りの,それも怪しい行動をとったことで知られる元力士の「証言」だけが唯一のよりどころというのですから,なんともはやお粗末としかいいようがありません。八百長などやっていないと主張している力士を,あいつはやっている,と一方的に「証言」(告げ口にさえ聴こえる)されたために,処分された力士たちは,もし,ほんとうにやってなかったとしたら死んでも死にきれないだろうと思います。ましてや,モンゴルからやってきた力士は,無実の罪を着せられて,おめおめと帰国などできるわけがありません。たぶん,法廷ですら,この程度の証拠では判決は保留されてしまうでしょう。それを,どういう資格でなんとか調査特別委員会は判定できるのでしょう。
日本相撲協会としては,もっと思い切った決断をすべきではなかったでしょうか。委員会の提案は提案として受け取りつつ,独自の判断をすべきではなかったかと思います。たとえば,委員会の提案はほんの一部の証言にもとづくものであって,それ以外にも同じようなことが行われた節があるので,総合的に考えて不公平を招きかねない。したがって,処分預かりとする。その代わりに,以前から八百長は存在していたことを日本相撲協会として認めて,これから力士全員でその罪の償いをすることとする,と。
その方策として,5月場所も中止,夏場所も中止し,日本相撲協会の協会員全員(親方,力士,行事,呼出し,床山,など)で,東日本大震災の被災地にむけて八百長懺悔の巡業を行う,という具合に。大集団が移動することは不可能ですので,日本相撲協会が責任をもって,部屋ごとに,あるいは,一門ごとにチームを組んで,ちゃんこで「焚き出し」をし,山相撲(地面に〇を書いて土俵とする相撲)を見せ,稽古の合間には復興のお手伝いをする,というのはいかがでしょうか。そうして,汗水流して,被災者の人びとと「じかに」触れ合い,誠意ある交流をとおして,こんごは八百長はいたしません,という姿勢を示すことが,この際,最善の策だと考えますがいかがでしょうか。
そうすれば,日本人の心情としては,そこまでやって懺悔してくれるのであれば,過去のことは問わない,これから八百長をするなといって許してくれるでしょう。政治家だって,禊ぎの選挙,という方法をとって復活することがあるではないですか。 
過去の八百長問題にメスを入れれば入れるほど,人間不信が力士間にひろがり,相撲などとれなくなってしまうのではないか,とわたしは危惧します。むしろ,メスは入れてみたが,手術不能とし,日本相撲協会あげて懺悔する,それしか方法はない,とわたしは考えるのですがいかがでしょうか。
もう一度,くり返します。
金銭授受をともなう八百長については徹底的に排除すること。片八百長については,これは日本の伝統的な文化のひとつであって,禁止の方法がないと宣言すること。ただし,無気力相撲についてはしっかり監視委員会を機能させること。
その上で,5月場所も夏場所も中止して,八百長懺悔の巡業にでる。そして,大相撲ファンのお許しを乞うこと。土下座してでも頭を下げて(バツイチのついた政治家は選挙運動でやっている),大相撲ファンに謝ること。そして,力士全員が「誓約書」に署名して,こんご八百長はやりません,と誓うこと。
その上で,秋場所開催を目指す。
以上を,日本相撲協会どのに提案します。ぜひとも,ぜひとも,ご検討くださることを祈っています。
わたしの大好きな,こころから愛してやまない大相撲の再生のために,勇気ある決断をくだされますよう,お願いいたします。
もし,わたしのこの願いをお聞き入れくださるのであれば,わたしにできることはなんなりとお手伝いさせていただきます。「広報担当」の一部を担うくらいのお仕事なら,微力ながら,お手伝いさせてください。大相撲のますますの隆盛のために。
以上。

追記:親方株の売買禁止,巡業の小規模化,などについてはいつか別個に提案をさせていただきたいと考えていますので,よろしく願いいたします。

2011年4月21日木曜日

孫正義さんの「脱原発財団」設立に拍手。

ソフトBの孫正義さんが「脱原発財団」を設立するという。その名も「自然エネルギー財団」。太陽光と風力を用いて電力を確保し,「脱原発」をめざす「東日本ソーラーベルト構想」を,民主党の「東日本大震災復興ビジョン検討チーム」の会合で提案した,という。
詳しいことはまだ明らかにされていないが,孫正義さんの基本コンセプトに大賛成だ。民主党は,迷うことなく,「ただちに」決断して「脱原発」にむけて舵を切るべきだ。これしか,もはや,民主党が生きのびる道はないだろう。これが最後のカードだ。

原発の「安全神話」が崩壊したいまとなっては,もはや,原発にしがみつく根拠はなにもなくなってしまった。しかも,原発の事後処理に莫大な時間と金がかかることも知れ渡ってしまった。いまこそ「脱原発」にむけて舵を切るべきときだ。

東電という会社は,とにもかくにも損害賠償金を支払い,その結果として「破産宣言」をして管理会社に移行すべきだ。もはや,自力で会社を建て直す力など微塵も感じられない。それどころか,政府与党や官僚,そして,マスコミまで巻き込んで,あくなき利潤の追求しか考えてはいない。その体質が今回の事件をとおして,丸見えになってしまった。かくなる上は,一刻も早く,現執行部を全員クビにして,その「責任」(わたしは明らかな「犯罪」だと考えている)を追求すべきだ。

今朝の朝日新聞の一面トップの大見出しをみて「唖然」としてしまった。いつから東電は国家と一体化したのか,と。東電の損害賠償金を国が支援する,というのだから聞いてあきれる。つまり,一企業の大失態に対して,われわれの税金を使うというのだ。東電の幹部(患部)の責任を問うこともしないで,そのままの体制を容認し,そこにわれわれの税金を注ぎ込むというのだ。もはや,開いた口が塞がらない。おまけに,その下の方には「6月には電気料値上げか」という小見出しをつけて,東電擁護のお膳立てまでしている。こうして,東電を救済するにはこれしか方法がないという世論操作を,朝日新聞が率先して行っている。あきれてものもいえない。朝から腹が立って,もう,抑えようがない。今日こそ,長年,愛してきた朝日新聞とも決別だ。

事務所にくる途中で,東京新聞を買って,くまなくチェックしてみた。なんと,朝日のトップの記事がどこにも見当たらない。東京新聞のトップ記事は「原発20キロ圏警戒区域に」というもので,この問題に関連する記事が,じつに目配りよく,整理されている。「20キロ圏内になお百数十人」という見出しのもとに「処罰覚悟の住民も」「足悪い,放っておいて」という小見出しがつづく。読んでいて胸が痛む。住民の目線からの記事が,あちこちにある。朝日とは大違いだ。2面のトップには,「米大手が原発投資断念」という大見出しにつづき「福島事故で建設不透明」という小見出しがついている。この記事は,朝日にはない。

今日のブログのタイトルにした「脱原発財団」の立ち上げに関する情報は,インターネット上を流れているもので,今日の夕刊あたりには記事になってくるだろう。さて,この記事を新聞各社がどのように扱うか,みものだ。

さて,そろそろ「脱原発」のキャンペーンを張るジャーナリズムが登場してもいいと思うのだが・・・。これは叶わぬ夢なのだろうか。かつては,「帝銀事件」をめぐって,新聞各社が論戦を展開したことがある。それは,「有罪論」と「無罪論」との二手に分かれての論戦であった。こういうことを,これからのジャーナリズムには期待したい。そして,「脱原発」か「原発擁護」か,徹底した論戦を社運をかけて展開してほしい。そうすることによって,問題の本質がより深く浮き彫りになってくる。「原発」に関しては,そういう公明正大な議論があってしかるべきだ。

孫正義さんの「東日本ソーラーベルト構想」が明白になってくると,そういう議論が持ち上がってくるのではないか,とわたしは期待している。そして,もちろん,わたしは「脱原発」派に身を寄せて,できることなら議論に加わりたいと思っている。
孫さんの勇気ある「脱原発財団」の設立にこころからの拍手を送りたい。個人で「100億円」の義援金を寄付し,なおかつ,これからの役員報酬のすべても義援金として寄付するという,この孫さんの熱い情熱にもエールを送りたい。

そして,わたしもまた微力ながら,「脱原発」への方途をさぐってみたいと思う。個人のレベルでもできることはやってみたい,と。

〔追加の注〕:孫正義さんの記事は,東京新聞の朝刊にはコラムになって掲載されていた。これをうっかり見逃していた。それに対して,朝日新聞では夕刊にも,孫さんの記事はなかった。まったくの無視である。これで朝日の体質の一部が明白となった。おやおや,である。

2011年4月17日日曜日

大相撲の「八百長」問題,いよいよ最悪のシナリオのはじまり。残念。

大相撲の八百長問題に,一応の結着がついたかにみえる。しかし,これで一件落着ということにはならないだろう。むしろ,最悪のシナリオのはじまりではないか,とわたしの眼にはみえる。まことに残念なことなのだが・・・・。
いくつか問題点はあるが,それらについては追々,このブログでも書いていこうと思う。
その中のひとつ。星風(元十両)の除名処分について,少しだけ,所見を明らかにしておきたい。
以前にも書いたように,星風の八百長は,どう考えても成立しない,とわたしは考えている。なぜなら,その疑惑をもたれた取り組みは「もの言い」のついた一番だったからだ。星風の師匠である尾車親方(元大関琴風)が,調査特別委員会に乗り込んでいって,「もの言いのついた一番がなぜ八百長といえるのか」とねじ込んで,一次調査結果からははずされていたことは,よく知られているとおりだ。しかし,二次調査の結果,なぜか「クロ」と判定されて「引退勧告」ということになった。しかし,その経緯は詳らかではない。
星風は,終始一貫して,「八百長は一度もやったことはない」と主張している。そして,「除名」覚悟で「引退勧告」を拒否した。しかも,ただちに処分撤回を求める法的手続きをとるという。この潔さに,わたしは注目したい。なぜなら,こころの片隅に「疚しさ」があったら,こんなに潔い行動はとれない,と考えるからだ。
ここには,もうひとつの付随した問題がある。調査特別委員会の「引退勧告」どおりに親方が弟子を説得できなかった場合には,親方にも処分が及ぶという約束事がある。これを承知で,星風は行動を起こしていること,そして,それに対して尾車親方はどのように対応しているのか,という点だ。数日前の尾車親方の談話(新聞)では,「こうなったら引退させるしかない。ここまできてしまったら,もはや,相撲がとれる情況にはない」ということだった。このことばどおりだったとしたら,親方は説得に失敗したことになる。しかし,尾車親方は,星風の心情を察して,弟子擁護にまわったのではないか,とわたしは推測している。親方として日本相撲協会の側に立つことよりも,人間として弟子を守る側に立ったのではないか,とわたしは考えたい。なぜなら,尾車親方の人間性を信じたいからだ。相撲解説をとおして伝わってくるかれの人柄が,わたしをそう思わせるからだ。
もし,この類推が正しいとしたら,ことは重大だ。
この動向を見据えたかのようにして,元大関琴光喜が裁判手続きをとった。いよいよ力士の側から法廷に訴える人間が現れた。となると,これまで手も足も出せなかった相撲界の暗部が明るみに出されることになる。
特別調査委員会(委員長・伊藤滋)は「ここは法廷ではない」という立場を貫いた。そして,それを口実にして委員会独自の「処分」を行った。それも,ほとんどは元力士たちの「記憶」にもとづく証言に頼ったものだった。なかには,きわめて曖昧な証言もあったようだ。たとえば,「処分」につながった証言について,最終的に証言者の「署名」がえられなかったものもあった,という。だとしたら,こんないい加減な証言を根拠にして「処分」された力士は,死んでも死に切れないだろう。その一人が星風だ。かれは,このままでは,母国のモンゴルに帰国することすらできないだろう。もし,星風の主張が正しいものだとしたら,どこまでも身の潔白を明らかにしないことにはこのさきの人生はない。
これまでにも「泣き寝入り」させられ,闇から闇へと捨て去られた元力士は数えられないほどいることだろう。そうした人たちも,新たな証言者として立ち上がることも考えられる。となると,八百長問題は完全に泥沼化していくことが予想される。場合によっては,日本相撲協会は一度,解散しなければならないような事態も考えられる。それほどに「八百長」問題の根は深いのだ。
メスを入れてはいけないところにメスを入れてしまった。末期癌患者の患部にメスを入れてしまったようなものだ。むしろ,そういう患者にはヒマラヤ登山に挑戦させるというような治療法を適用した方がいい場合もある。まことに残念ながら,日本相撲協会は「最悪のシナリオ」に向って,その第一歩を踏み出してしまった。合理化が命取りになる典型的な事例になるのでは・・・・・?

2011年4月15日金曜日

浜岡原発をなぜ停止できないのか。

連日の余震はいっこうに衰える様子はない。どう考えても地震活動が収束に向っているとは考えられない。それどころか,浜岡原発の直下12㎞のところにあるフィリピン海峡プレートがいつ動くか,と地震学者は息をひそめている。もう,すでに,ここのエネルギーはたまりにたまっている,と予測されている。いつ,大地震が起きても不思議ではない,という。それどころか,統計的には,近日中に必ず大きな地震がくる,といわれている。
100年から150年に一度といわれる大地震がくるその周期を超えて,ことしは158年目に入っているという。ひょっとすると,1000年に一度の大地震に相当するかもしれない,という。
もし,そんなことにでもなったら,福島原発の二の舞になることはほぼ確実だという。
こういう事態を知れば知るほどに,不安をとおりこして「恐怖」に陥る。
しかも,こういう情報をメディアは極力,流そうとはしない。避けてとおろうとしているかにみえる。しかし,そうではないだろう。こういう情報を秘匿すればするほどに「不安」はいやまし,やがては「恐怖」を呼ぶ。
浜岡原発を停止させても中部電力の電力は足りている,という情報もある。ならば,なおのこと早めに停止させて,すくなくともしばらく様子をみるということをしないのか。
もし,浜岡原発が福島と同じような事態に陥ったとしたら,もはや,日本列島は「沈没」してしまうだろう(かつて『日本列島沈没論』が大きな話題になったことがあるように)。もし,そのようなことになってしまったら,もはや,世界に向けての信頼を完全に失ってしまうだろう。そこから立ち直るには,何世紀もの時間を必要とするだろう。
そのことを考えたら,「節電」などはいとも簡単にできることだ。これまでの「贅沢」を30%「自粛」すればいいだけの話だ。工場などの必要な電力は使えばいい。不要な電力を節約するだけで,充分可能だ。
いま,必要なのは,「節電」を推進する強力なリーダーシップだ。そのためには,まずは,浜岡原発を停止させることだ。そのことによって,事態の重大性を衆知させることができる。そして,まずは,安全を確保した上で,「節電」に向けての努力目標を定めていくこと。たった,これだけのことだ。しかし,それができないということは,いったい,どういうことなのか。なにはともあれ,まずは,ここからはじめるしかないのだ。衆知を集めるのはそれからだ。
地震列島(火山列島)に原発を54基も設置して,原発安全神話に身をゆだね,これまでなにも考えない,なにも行動を起こさなかったわが身が恥ずかしい。福島原発の成り行きをじっとみつめながら,原発の危険性に気づいてしまった以上,もはや,黙っているわけにはいかない。気づいたときがすべての「始まり」だ。
とにかく,できることから始めようではないか。
国内のメディアが極力忌避したがる「脱原発」の市民運動が,すでに,あちこちで始まっている。こちらは,ありがたいことにインターネットをとおして,情報はいくらでも流れている。先日の10日に,高円寺で行われた「脱原発」のデモには,若者たちが1万5000人も集まったという。この集会の伝達方法は,主として「ツイッター」だったという。マス・メディアがいかに情報をコントロールしようとしたとて,もはや,インターネット上を流れる情報を抑えることはできない。これから燎原の火のように,あっという間に,「脱原発」の運動は広がっていくだろう。
その前に,政府は手を打つべきではないか。
浜岡原発が火を吹く前に。
このことが日本列島の「浮沈」にかかわる重大な「決断」だということに,なぜ,気がつかないのか。こんな非常事態のときに,私利私欲にとらわれている政界,財界,学界の無能ぶりにあきれはてるばかりだ。いまは,戦国時代と認識すべし。無能な武将はつぎつぎに没落していく。私利私欲を投げ捨てて,日本の将来をどう展望するかという視力と決断力とリーダーシップをもった武将が台頭することは歴史が教えている。
いでよ,若き武将よ。
そのためにも,まずは,われわれ市民が意志表示の行動を起こすことが喫緊の課題だ。しかも,一刻を争うことだ。ひとりでも多くの人びとが声を掛け合って,浜岡原発を停止させる情況をつくりあげていくことだ。そして,われわれが政治を動かすことができる,という経験をみんなで共有することだ。その意味では,いまが,絶好のチャンスでもあるのだ。
まずは,浜岡原発を停止させること,そこから「3・11」以後の日本の未来は始まるのだ,と。

2011年4月13日水曜日

2階級特進!「レベル7」。 ついにきた「チェルノブイリ超え」。

雲ひとつない青空,ほとんど無風,暖かな日差し,さくらは満開。いつもの年なら,さくらの名所めがけてどっと人がくり出すところだ。しかし,それらしき人影も見当たらない。
わたしのこころは「どんより」と淀んでしまっている。
快晴無風の空さえ「どんより」した空にみえてくる。不思議だ。鷺沼駅を降りて,いつもの高台から東京方面を眺める。春がすみの向こうに東京の高層ビルがかすんでみえる。こころなしか放射能に淀んだ空にみえる。
はっと気づく。わたしのこころは病んでいる,と。

昨日の昼に,太極拳の李老師から電話があり,逢いたいという。珍しいことだ。できれば夕食を一緒に,という。逢ってみて驚いた。元気がない。聞いてみると,「3・11」以後,体調をくずして,一週間ほど故郷の昆明に帰っていて,いまは,大分よくなったのだ,という。
いろいろの人に相談をして,カウンセリングも受けたけれども,効果はほとんどなかった,という。最終的には,親しい人とたくさん話をしなさいとカウンセラーに言われて,昆明に帰ったのだそうだ。これがとてもよかった,と李老師。でも,まだ,少し不安定だ,とおっしゃる。そのとおりだ,と直感する。直接的な引き金となったのは,やはり地震。しかも,たびたびの余震がつづく。そこへ,原発事故の危機的情況の長期化(中国のテレビを流れている情報は,日本のテレビとはまったく危険度のレベルが違うとのこと)。これで,すっかり参ってしまった,という。

とうとう今朝の新聞は「レベル7」。経済産業省原子力安全・保安院は,原発事故の深刻度を示す国際評価を「レベル7」と判定した,と発表。ずっと「レベル5」と言い続けてきたにもかかわらず,一気に2階級特進である。しかも,「レベル7」といえば最悪のレベルで,それ以上はない。「レベル6」は,いつ,通過したのか。なにを根拠に「2階級特進」したのか。納得のいく説明はない。
「レベル7」は,チェルノブイリと同じレベルだ,ということだ。しかも,「レベル7」には上限がない。ということは,チェルノブイリのレベルを超えて,史上最悪のアクシデントとなりかねない,ということだ。今朝の新聞を読んで,わたしの気持は一気に「どんより」としてしまった。きてはほしくない「レベル7」がとうとうきてしまった(もっとも,外国のメディアはとうのむかしに「レベル7」だと判定していたのだが)。嘘でもいいから「レベル5」でつっぱっていてほしかった。でも,それももはや限界と認めてしまったのだ。ということは,相当に事態は悪化している,と考えてしまう。そして,とうとう「チェルノブイリ超え」は時間の問題か,と思ってしまう。

今日の水曜日は,太極拳の稽古の日。そこに,久しぶりに,李老師が現れる。いつもの仲間うちだけの稽古と違って,一気に緊張感が走る。みんな真剣そのものだ。やはり,大勢で集中力を高めると,いつもとはまるで違う「こころ」と「からだ」になる。これが楽しくて,毎週,ここにやってくる。そこに,李老師が立っているだけで,さらに,みんなの気合が入る。その流れに身をゆだねる。この「場」でなくては味わえない快感である。充実した時間が流れる。

稽古のあとのハヤシライスの場でも,話題は「レベル7」。なにひとつとして,明るい話題はない。
加えて,この余震の強さ,多さ。福島原発も,目にみえないところで相当なダメージを新たに受けているのではないか,と悪い方に想像してしまう。となると,「チェルノブイリ超え」なんていとも簡単に手のとどくところにあることが「想定」できてしまう。そして,その先にももっともっと恐ろしいことが「想定」できてしまう。このことが,すでにして,恐ろしい。

手に触れることもできない,目でみることもできない「チェルノブイリ超え」という恐怖に,わたし自身が晒されている。わたしのこころは「どんより」としていて晴れない。だから,快晴無風の空までが「どんより」とみえてしまう。やはり,わたしのこころは病んでいる。

ここから脱出するための方法はたったひとつ。「脱原発」に向けて,微力ながら,一歩ずつ歩をすすめること。そこに「希望」を見出すこと。

2011年4月12日火曜日

「浜岡原発を止めろ」のデモ,スペイン国営テレビで放映される。

4月10日(日)に芝公園・23号地で開催された「浜岡原発を止めろ」の集会と,デモがスペイン国営テレビのニュース番組のなかで放映されました。
この情報が,スペインのバスク大学ホセバ教授から神戸市外国語大学竹谷教授に伝えられ,すぐに,わたしのところに知らせてくれました。なぜなら,わたしが取材に応答したカットが採用され,それをみたホセバ教授が驚いて知らせてきた,という次第です。送られてきたURLは開いてみたらスペイン語で書かれているので(当然のことですが),それらしきところをあてずっぽうに探していたら,みつけることができました。ほんの数秒ですが,まぎれもなくわたしの顔がアップで登場しています。コメントはどの部分が採用になったのかはわかりません。が,竹谷教授のメールによれば,みごとなコメントでとてもよかった,とのこと。お世辞半分にしても,嬉しいことです。まあ,採用されたのですから,かれらの期待に応えうるものではあったのでしょう。
というようなわけで,なんとスペイン国営テレビのニュースに,わたしの顔が登場したという次第です。しかも,「浜岡原発を止めろ」というデモ隊の一員として。
こうなると,『ニューヨーク・タイムズ』の方の取材はどのように扱われたのかなぁ,と気になってきます。こちらは,ずいぶん長い時間をかけて(デモを一緒に歩きながら),ことこまかな質問があり,かなり丁寧に応答しておきました。わたしの考えや意見のワン・カットでもいいから,記事のなかに使われているといいなぁ,と期待したりしています。名前も職業も年齢も問われていますので,もし,使われていれば名前も載っているのではないか,と思います。どなたか,『ニューヨーク・タイムズ』で確認できる方がいらっしゃいましたら,ぜひ,調べて教えてください。
こうして,外国メディアは,4月10日の「脱原発」のデモをきちんと取材し,ニュースとしてとりあげてくれているのに,日本のメディアはいったいどうしたというのでしょうか。うんもすんもなし。ほぼ完璧な無視です。ネット情報でも,高円寺で開催された1万5000人もの集会の方は,ほんのわずかではありますが,とりあげられただけで,その他はなにもありませんでした(わたしの確認したかぎりでは)。これが悲しいかな,日本のメディアの現実です。東電の力というものが,ここまで浸透しているとは夢にも思っていませんでした。これを「八百長」といわずして,なんというべきでしょうか。しかも,恐るべき暴力装置としての「八百長」。
この問題はまた機会をあらためて論じてみたいと思います。
とりあえず,今日はここまでのご報告です。

大相撲の八百長? とんでもない。政・官・学をまるめこんだ東電の「八百長」こそが問われるべきだ。

大相撲が,さらに2人の処分を追加して,幕引きにかかったことについて,ジャーナリズムは寄ってたかって叩いている。これでは足りない。もっと「ウミ」を出し切れ,という。では,どうやって出せばいいのか,その方法を提示してもらいたいものだ。
そんなことよりなにより,いま国家がらみの「八百長」が粛々と行われている事実が,だれの目にも明らかになってきているではないか。こちらをこそ糾弾すべきではないか。この現実を前にして,わたしは,もはや口もきけないほどの衝撃を受けている。つまり,「原発安全神話」は,東電が仕組んだ「八百長」だったのだ。そして,このシナリオはいまも野放しのままに展開されている。しかも,ジャーナリズムはひとこともこの事実に触れようとはしない。むしろ,かばっている。ブルータスよ,お前もか!
たとえば,「反原発」「脱原発」運動家たちの「危機意識」を煽るプロパガンダに乗せられてはいけない・・・・といった論調がしたり顔をしてマスコミの大通りを闊歩している。そして,2,500人,1万5000人もの人たちが「脱原発」をかかげたデモについては,ほぼ,完璧に蓋をしてしまっている。無視という恐るべき暴力である。
もう一度,繰り返しておく。
「原発安全神話」は,東電が仕組んだ「八百長」であり,いまも野放しになっている,と。
しかも,国家がらみだ。
政・官・学の三位一体どころか,ジャーナリズムまでもが,東電の仕組んだ「原発安全神話」にからめ捕られている。しかも,それを支えているのは巨額の「金」だ。政界には政治献金として,官僚には接待と天下り先として,御用学者たちには研究費(億の単位の金額)が東電から流れている。そこに,ジャーナリズムが拿捕されている。巨額の広告をもらうための顧客として頭が上がらない。なんとも情けない光景が浮かび上がる。しかも,国家の存亡にかかわる非常事態だというのに,この「八百長」の仕組みはビクともしない。国民を徹底的に痛めつけても,自分たちの利益だけはどこまでも守る,というこの厚顔無恥。その筆頭が「斑目」君だ。「すみません。割り切り方を間違えました」と国会で答弁して平然としている。国民など虫けらも同然といわぬばかりである。こういう人たちが「原発安全神話」をでっちあげ,これまで国民をだましつづけてきたのだ。
それが,完全に嘘だった,ということが今回の事故で完全に露呈してしまった。
にもかかわらず,まだ「安全だ」と言い続けている。政・官・学にジャーナリズムまでが加わって。
しかも,精確な情報は秘匿したまま。

いまもなお非常事態がつづくなかで,いますぐ責任問題を問うつもりはない。
すくなくとも,精確な情報をきちんと流してほしい。これが先決だ。そうしないかぎり,疑心暗鬼が跋扈するばかりだ。わたしたちの不安はますます膨れ上がる。ましてや,避難生活を余儀なくされている人たちのストレスはたまる一方だ。どんなにきびしい現実であろうとも,精確な情報を流してほしい。もう,一カ月が経過している。もはや,放射能の数字がいくら高くても驚きはしない。その数字に対してどのように対応するか,というところに衆知を結集しなくてはならない。いまは,利害を度外視して,ひとりでも多くの人が生き延びられる方途を見出すことだ。そして,そのために国民全員が全力をあげるときだ。

東電の仕組んだ「八百長」は完全に国民の前にさらけ出されてしまったのだから,カン君よ,もう,「八百長はしません」宣言をして,こころを入れ換え,国民の「命」の目線に立つ善後策を講ずるべく全力をあげてほしい。それができないのなら,さっさと身を引いてほしい。そして,リリーフ・ピッチャーを立てるしかない。いまこそ,だれがこの非常時の「舵」を切るにふさわしい投手(党首)なのか,見極めていくしか方法はない。

カン君よ。「八百長」仲間から,たったひとりでもいい,離脱しよう。そして,ひとこと。「浜岡原発の運転を中止する」と宣言したらいかがか。もっともっと強力な圧倒的多数の国民が,あなたを支持すること間違いなしだ。そこから出直すしか,あなたが生き延びる道も残されてはいない。

東電の仕組んだ「八百長」に与する輩に国家を委ねておくことはできない。
そのためにも,われわれは立ち上がらなくてはならない。

2011年4月11日月曜日

三春町に「春風」よ,吹いてくれるな(玄侑宗久)。

 恥ずかしい話ではあるが,数年前にテレビが「ボン!」という大きな音とともに寿命がきて以来,わが家にはテレビがない。だから,テレビに代わる情報はすべてインターネットでアンテナを張っている。これで充分暮らすことはできる,と思っている。
しかし,テレビがあったらいいなぁ,と思うことはしばしばである。友人から,ETV特集「原発災害の地にて~対談 玄侑宗久・吉岡忍」が放映されるよ,と教えられたが手も足もでない。ひとりで地団駄を踏むのみ。そこで,仕方がないので,これまた別の親しい友人たちに,この情報を流して,だれかDVDにして送ってほしいと依頼する。もつべきものは友。
ほどなく待望のDVDがとどく。が,昨日,一昨日と所要があって,これをみる時間がとれなかった。今日,ようやくそれをみた。
玄侑宗久さんが住職をしている福聚寺(500年の歴史をもつ)は,福島第一原発の真西約50㎞ほどのところにある。原発と猪苗代湖の間,やや猪苗代湖に近いところ。三春町。
三春町は,室町時代には御春町と書いたと玄侑さん。三春の意味は,梅と桜と桃の花がいちどきに開花するからだ,と。この土地の人びとはむかしから,雪が溶けて春風が吹いて,いっせいに花が咲くのを心待ちにしてきた。しかし,ことしばかりは「春風」よ,吹いてくれるな,と願わずにはいられない,と玄侑さんは声をしぼりだすように語る。この土地の「春風」は,いつも東から吹いてくるからだ,と玄侑さん。
三春町は福島第一原発から50㎞離れているので,政府発表では安全圏。しかし,風の吹き方によっては危険な地域。小さな子どもをもつ若者たちは,一時,避難しようと考え,行動もする。しかし,老夫婦(両親)は,この土地から離れようとはしない。つまり,家族の離散が起きている。そうして,ほとんどの若者たちはこの町から出ていく。しかし,老人たちは残る。これが,福島第一原発から50㎞の町の,ひとつの現実だ,と玄侑さん。
それに対して,インタヴューアーの吉岡さんは「なぜ,玄侑さんは避難しないのですか」と問う。なんたる「愚問」とわたしのハラワタが造反を起こす。恐れ多くも禅寺の住職(臨済宗)。僧職というのは,この世とあの世とを「橋渡し」する人のこと。もっと言ってしまえば,僧籍に入るということは,一度,死ぬことを意味している。お坊さんとは,あの世からの遣い人だ,と考えた方がいい。墓を守るということは死者の霊を守るということ。そして,つぎに死ぬ人に引導をわたすこと。生きている人がいるかぎり,その人のお別れの儀礼を執り行わなくてはならない。三春町に老人たちが居残っているかぎり,住職が避難するわけにはいかない。(じつは,わたしも禅寺に生まれ育った人間なので,こういうことは知らずしらずのうちに身についている。)
しかし,玄侑さんは,こういうことはひとまず「呑み込んで」おいて(つまり,当たり前のこととした上で),お墓にお参りにくる人がいるかぎり,わたしはこの土地から離れるわけにはいきません,と軽く受け流しておいて,さらに,もし,わたしがこの土地に残っている老人を置き去りにして,この町を離れてしまったら,わたしは「もはや,ことばを発することはできません」と。ここに,みごとに玄侑宗久さんが「ことばを発する」根拠が提示されている。しかも,この土地に居残っている人たちよりも,この土地から避難して,出ていった人たちの方がはるかにストレスは大きいと思います,とまで玄侑さんは思いやる。

じつは,わたしは玄侑宗久さんの小説のファンである,と告白しておかなくてはなるまい。もちろん,玄侑さんの禅僧としての視線が,わたしには心地よく伝わってくるからだと思う。それ以上に,わたしは,玄侑さんが理系(現代科学の最先端)の知識に造詣が深いというところに,わたしにはない憧れのようなものを感じている。のみならず,玄侑さんは,現代科学の最先端のゆきついている結論部分は,仏教の教えとなんの矛盾もない,ということを小説作品のなかで展開している。ここに,わたしはもっともつよく惹きつけられているのだろうと思う。
わたしにはそれはできない芸当なので,あきらめている。しかし,いつのまにかわたしは仏教の教えと哲学・思想との関係に引きこまれるようになっていて,それがまた,ほとんど同じ結論に到達していくことの不思議に,いまは夢中である。たとえば,『般若心経』の世界と西田幾多郎の哲学(『善の研究』の善は禅でもある)はなんの矛盾もない。この西田幾多郎が眺めていた世界は,意外なことに,ジョルジュ・バタイユのとく『宗教の理論』と通底している,とわたしは読み解いている。玄侑さんの到達している禅的世界も,この人たちとなんの矛盾もしない。しかも,玄侑さんは,そこに最先端科学の理論を持ち込んでくる。ここが,わたしには堪らない魅力なのだ。

この番組の最後のところで,「想定外」の話がでてくる。それに対して,玄侑さんは,なにごとにつけ「想定内」でものごとを片づけようとしてきた人間の思い上がり,これが根本的に間違っていたのだ,と声に力が入る。この世で起きることはすべて「想定外」なのだ,と。いま,元気そのものであっても,夕方には死ぬかもしれない。人生はなにも想定できないからこそ,苦しくもあり,また,楽しくもあるのだ,と。人間は大自然という懐に抱かれて,束の間の生をまっとうする,ただ,それだけの存在なのだ,と玄侑さん。そういう存在にすぎない人間が,大自然の活動を「想定内」に収めようとするこの不遜な態度,これを改めなくてはいけない,と。
こんどというこんどは,このことを多くの人が学んで,これからの時代に生かしていくに違いない,と。そして,必ず,日本は再生する,と。このことだけは肯定的に信じて生きていきたい。そこに夢を託したい,と。
こんな話を聴きながら,わたしはまた,バタイユの『宗教の理論』を思い浮かべている。この「想定内」的な発想は,人間が,「動物性」の世界から離脱し,「人間性」の世界に移行しはじめたときからはじまる。つまり,人間であるかぎり背負わなくてはならない業(ごう)のようなものだ。その業との新しい「折り合い」のつけ方を,わたしたちはこれから衆知を集めて編み出していかなくてはならないのだ。
玄侑宗久さんの小説の根源はここにある,とわたしは理解する。
だから,わたしは玄侑宗久さんの小説が好きなのだ。
このテーマは玄侑さんのデビュー作『中陰の花』(芥川賞作品)以来,変わってはいない。

2011年4月10日日曜日

浜岡原発 すぐ止めて! のデモに参加しました。

 デモに参加するのは何年ぶりだろう。60年安保・70年安保のとき以来のことだ。久しくノンポリを決め込んできたが,こんどというこんどは立つしかない,と自然にからだが動いた。期限つきで引き受けた仕事は山ほどあるというのに・・・。今回はからだの理性にしたがうことにした。
 数日前のブログにも書いておいたように,今日(10日)は「4・10東京─市民集会」が芝公園・23号地で開催され,そのあと芝公園から経済産業省別館前・中部電力東京支社前・東電本社前・銀座数寄屋橋交差点(ソニービル前)・東京駅前・常磐橋公園まで,およそ3時間をかけてデモ行進をした。天気がよかったので,デモ日和。
 集まった人数はおよそ2,500人(主催者発表)。わたしの予想をはるかに超える人数だった。嬉しかった。これは動く,と直観した。浜岡原発すぐ止めて!実行委員会を組織した団体は13団体(4月6日現在)。老若男女,あらゆる年齢層の人たちが集まっている。これまで息をひそめて成り行きを見守っていた人たちが,ようやく思い腰をあげて動きはじめた,というそんな印象が強い。今日は,高円寺でも,若者たちを中心にした集会が組織されているとも聞いている。また,集会場で配布されたさまざまなリーフレットをみると,このあと,ぞくぞくと「脱原発」運動の企画があって,デモが展開されることになっている。大学の学生自治会の連合体が組織する集会も予定されている。ようやく,わたしも含めて「ゆでカエル」が目覚めて,ぬるま湯から飛び出して,ほんとうのからだの声に耳を傾けようという人たちが着実に増えていると実感する。
 次回は,24日(日)に集会とデモが予定されている。主催は「原発とめよう!東京ネットワーク」。
 集合日時:4月24日(日)午後2時~
 集合場所:芝公園・23号地
 集会開始:午後2時30分~
 デモ出発:午後3時30分~
 コース:今日と同じ。
 驚いたのは警察官の数。こんなに大勢の警察官が道路に配備されている。しかも,ビルの影には予備軍が隠れるようにして屯している。久しぶりにデモに参加したわたしとしては,違和感が強すぎる。かつてのように,安保反対運動のときのような,学生を主体とした運動体ならいざしらず,あるいは,かつての労働運動が激しかったころの労働団体のデモならまだしも,平服のごとにでもいる一般市民の集団である。わたしなどは,どこにも所属していない,まったくの個人の意思で参加しているにすぎない。見回したところ,わたしのような人たちがほとんどである。この集会とデモを組織した人たちの演説を聞いていても,まことに善良なふつうの市民の声である。この場にも警察官は遠くをとりまくようにして警戒にあたっているのだから,どんな雰囲気の集団であるかは,すぐにも道路に配備された警察官たちには伝えられているはずである。
 道路は,交通整理をするという目的で,ある程度は正当化されるとしても,経済産業省前と中部電力東京支社前と東電本社前には,これまた過剰なほどの警察官がびっしりと立って周囲を固めている。なんびとたりとも一歩も近づけさせはしない,という物々しい構えである。なにかカンチガイをしている。しかも,憎々しげにこちらの顔をみている。それも,大いなるカンチガイである。あなた方は,東電や中部電力から給料をもらっているわけではない。デモをしながら歩いているこちら側の人たちの税金で支払われているということをお忘れなきように。
 できることなら,車道側に縦一列,警察官の隊列をつくって,一緒に「原発は危ない!」「浜岡は止めろ!」「子どもを守れ!」と一緒にシュレヒコールをしながら歩けばいいのに・・・。交通規制は必要なので,警察官の手は必要だ。だから,行動をともにしながら,勤務をはたせばいい。その方がはるかに平和で,みんなで「脱原発」に向かって進むことができる。考えてみれば,お気の毒な人たちではある。たぶん,個人的には「脱原発」に大賛成の警察官も少なくないはず。それでも敵対しなくてはならない・・・とは,情けない。
 もう一つのサプライズ。『ニューヨーク・タイムズ』の記者だというジャーナリストから取材を受けたこと。きれいな日本語で話しかけられ,安心して思いのたけをぶっつけておいた。名前も職業も聞かれた。じつにまともな質問だった。内容はかなり長い時間にわたって細部にまで立ち入っているので,残念ながら省略。もう一つは,スペイン国営放送だというクルーに声をかけられ,歩道に立たされてカメラを前に取材されたこと。こちらもみごとな日本語。こちらはとてもコンパクトなものだった。問いの一つは「今日のデモの目的はなんですか」「原発はなぜ止めるのか」「世界にむけてメッセージを」という三つだった。こうした外国のジャーナリストやテレビ・クルーはかなりの数がいたように思う。とても目立っていた。
 それに引き換え,日本のジャーナリズムはなにをやっていたのか。NHKも見かけなかったし,民放も一社も見かけなかった。新聞社も同じ。日本の新聞社の名前はどこにもみられなかった。もっとも,私服でデモの中に紛れ込んでいたかも知れない。しかし,メモをとっている記者らしい人の影はひとつも見かけなかった。
 このデモが,国内ではどのように報道されるのか,まったく無視されるのか,それともとってつけたような形ばかりの報道で済ますのか,じっくりと観察したいものだ。真実を伝えるジャーナリズムの真の姿をみとどけるとしよう。
 2,500人のデモは,近年では,相当に大きなデモである。その意味で,やはり,参加してよかったなぁ,としみじみ思う。
 そして,これがきっかけとなって,全国に「脱原発」運動が展開されるといい,と思う。その,かすかな手応えがあった,とわたしは確信する。小さな行動から,少しずつ大きな輪になって,全国に広がっていくことを願うばかりだ。
 次回は,24日(日)。たぶん,わたしの頭ではなく,からだが反応してくれるものと思う。そういう運動への参加の仕方をしていこうと思う。今日はいい日だった。

2011年4月8日金曜日

原発廃止に向けてできること,まずは「節電」から。

 以前,このブログで,「節電に協力する店舗,協力しない店舗」を書いた。そのなかの「協力しない店舗」の某焼き肉店が昨夜から,「協力する店舗」になっていた。正面の煌々と輝いていた大きな店名の入ったネオンが消え,駐車場への入り口の小さなネオンだけになっていた。店内もこころなしか,いつもよりは暗い感じ。どこかから,プレッシャーがかかったのか,それとも自主的な判断だったのか,それはわからない。これで,わたしの事務所から宮前平の駅までの店舗のネオン照明は全部,消えた。それでもどの店舗も休むことなく営業をつづけている。それどころか,ファミリー・レストランなどはいつもより繁盛しているようにみえる。
この通りに,最近,リフォーム屋さんが開店した。ここも,開店したときに,なぜ,こんなに大きなネオンの看板を掲げなくてはいけないのか,とびっくりするほどの大きくて明るいネオンの看板が輝いていた。あまりの派手さに,さすがに驚いたものである。しかし,「3・11」以後は消して,つつましく営業をしている。夜遅くまで頑張っている店らしい。わたしはいつも定時(午後7時30分に事務所をでる)にこの通りを歩いて駅に向う。昨夜は,この店の一室で会議をやっていた。通りに面した横長の部屋なので,なかが丸見え。ほぼ,20人ほどがテーブルに着席している。その部屋の灯が,これ以上に明るくすることはできないだろう,というほどの明るさなのである。しかも,会議のためか,となりの部屋にはだれもいない。にもかかわらず,同じように,かぎりなく明るい。これまでは,カーテンがかかっていたりして,あまり気にはならなかった。が,昨夜は,カーテンも開け放って,まるみえだった。だから,この明るさはなんだ,とわかった。
田園都市線も,車内の蛍光灯を間引きして,ほんの少しだけ暗くなっている。が,まだ,明るい。トンネルが多いラインなので(途中までは地下鉄),昼間でもある程度の車内の照明は必要なのだが,もっと少なくていい。明るさに慣れきってしまったわたしたちの感覚を是正するのはたいへんなことではあるが,できるところから少しずつ慣らしていくしか方法はない。これまでが明るすぎたのだから。必要以上に明るくする店舗が,あるときから,急激に増えつづけてきたように思う。なんで,こんなに明るくするのだろうか,と首をかしげたことを記憶している。以後,みんな「右へ倣え」で,どこもかしこも明るくなってきた。そして,それがいつのまにか「当たり前」になってしまった。「ゆで蛙」と言われる所以のひとつがこれである。
「電気を節約する」というきわめて重要なことを,わたしたちは忘れて生活する習慣が身についてしまっている。今日の新聞のコラムにも書いてあったが,日本の地下鉄の駅が暗くなったときに,あるフランス人が「これがパリの地下鉄の明るさだ。懐かしいなぁ」と述懐したという。あまり多くはないわたしのヨーロッパ滞在経験からは,ヨーロッパの地下鉄の駅はなんと暗いことか,というまったく逆の感想をもっていた。しかし,この3週間ほどの間に,どんどん慣れてきて,これでなんの不自由もないということもわかってきた。慣れてしまえば,それが当たり前となる。
地下鉄の駅の明るさは「〇〇ルックス以下」とする。ビジネス・オフィスの明るさは「〇〇ルックス」以下とする。エスカレーターは・・・・という具合に「節電」しようと思えばいくらでもできる。自宅も同様だ。あちこちの部屋の電気をつけっぱなしにする悪い習慣が身についてしまっているが,これは,すぐにやめよう。洗濯機も3回に1回は手で洗おう(わたしの事務所には洗濯機がないので,全部,手で洗っている。意外にかんたんに洗える。よごれたところを重点的に洗うこともできる。水も電気も節約できる)。男性も洗濯をしよう。
経済産業省は,ようやく重い腰を上げて,「夏の節電対策」を立ち上げようとしている。それも大事だが,それよりも,まずは,いま,すぐに,できる節電から始めよう。もう,政治家は無能であるということがよくわかったし,役人も東電に対しては手も足もでないということもよくわかったので,あとは,わたしたちで自主的にできることをやって,とことん「節電」をし,その実績を見せつけて,原発廃止の根拠を提示しよう。東電も政府も役人も口を揃えて「電力が足りなくなる」という。いままでと同じライフ・スタイルを維持していこうとしたら「足りなくなる」だけの話。「3・11」以前のライフ・スタイルが狂っていたのだ,ということを確認する方が先決。そのライフ・スタイルをほんのちょっと糾すだけのこと。そうすれば電力は「足りる」。
東電は電気をたくさん売って儲けたいだけの話。その戦略に乗せられたわたしたちがアホだった。その戦略に,政治家も官僚も学者・研究者も,みんな乗せられてしまったのだ。政治家は政治献金欲しさに,官僚は天下り先を確保するために,そして学者・研究者は研究費欲しさに(原発の「安全性」に与すれば莫大な研究費を支給してくれる。テレビに登場した専門家たちはみんなこういう人たちばかり)。みんな「私利私欲」に凝り固まった人間ばかりだ。それが,こんにちの原発事故の悲劇を産んだ元凶だ。
もう一度,原点に立ち返って,「生きる」ことの意味や方法を初手から考え直そう。そして,無駄を徹底的にはぶこう。そして,大量生産・大量消費などという狂った歯車から離脱しよう。
そのための第一歩。「節電」をしよう。そして,「原発」を廃止しよう。

2011年4月7日木曜日

まずは,浜岡原発を止めよう。そのために,デモで意志表示をしよう。

 福島原発は,本格的な爆発こそまぬがれているものの,最悪のシナリオに向って突き進んでいるかにみえる。こうなってくると,もはや人間の手に負えない,終りなき「戦い」の段階に入ってしまった,としかいいようがない。とうとう放射性物質を太平洋に垂れ流すにいたっては,もはや,世界に向って懺悔をしなくてはならない。
 こんなに恐ろしい「モノ」を,いかなる根拠にもとづいて「安全」などと言いくるめてきたのだろうか。いや,言いくるめられてきたのだろうか。そんな愚か者であったわが身が情けない。かくなる上は,第二の福島原発事故を,未然に防ぐことしかない。
 日本全国には50基を超える原発があるという。なかでも,もっとも危険だと言われているのが静岡県御前崎にある浜岡原発だ。この直下に巨大な活断層があって,いま,そのエネルギーが限りなく高まっていて,いつ,大地震が起きてもおかしくないと言われている。もうすでに,ずいぶん前から予告されているので,知らない人はいないだろう。それも,とてつもなく大きな地震が予想されている。
 この震源域では,100~150年に一回は大地震が発生してきている,という統計がある。たとえば,1714年には宝永東海地震(この7年前には富士山の南東側中腹から寄生火山が発生し,こんにちの宝永山ができた)があり,その140年後の1854年には安政東海地震が起きた。それからすでに158年目に入ったのが現在だ。統計的には,いつ,大地震が発生してもおかしくはない。しかも,一説によれば,エネルギーが相当にに蓄積されていて,桁外れの超大型地震が発生する可能性も高いというのだ。その説によれば,1000年に1回くらいの割合で「超大型東海地震」が起きているのだそうで,こんどくると予想されている地震がそれに相当する可能性がある,という。困ったものだ。その根拠は,東海・南海・東南海地震の「三連動型」になる可能性が高まっているからだという。その場合の地震の規模はマグニチュード9に迫るそうだ。しかも,直下型の大地震である。だから,今回の地震とは比較にならないほどの「地震」そのものによる大被害が予想されているのだ。
 しかも,浜岡原発の耐震設計が不十分だということは,2002年に提訴され,すでに9年が経過する裁判のなかでも明らかにされてきているとおりだ。浜岡原発は全部で6基。そのうち,1,2号基はすでに廃炉となっている。そして,3号基は定期点検中であるが,当面の間,再開を見送る方針であることが中部電力によって発表されている(3月下旬,原子炉を再起動し,4月下旬には営業運転をはじめる予定だった)。6号基は,2015年の着工をめざしていたが,今回のこともあって,建設計画を延期した。残りの,4,5号基の2基がいま稼働しているというわけである。幸いなことに,というべきか,あと2基である。これを,できるだけ早く止めること。

 4月10日(日)に「浜岡原発すぐ止めて! 4・10東京集会&デモ」の案内が,友人のNさんからメールで転送されてきた。主催者は civilsocietyforum21 。
 その実施要領は以下のとおり。
 集合場所:芝公園・23号地(都営地下鉄三田線芝公園下車,徒歩5分)
 集合時間:12時45分
 集会開始:13時00分
 デモ出発:14時00分
 デモ・コース:経済産業省別館前・中部電力東京支社前・東京電力本社前・銀座ソニービル前・常磐橋公園で流れ解散。
 芝増上寺の裏側(23号地)から東京駅の少し先の常磐橋公園まで,かなりの距離があるが,老体に鞭打って参加しようと思っている。口先だけでははじまらない。まずは,からだを動かして,きちんと意志表示をすることからはじめよう,と。

 ドイツでは25万人がデモ行進をしたという。この意識の違いを少しでも埋め合わせたい。みなさん,ぜひ,一緒に歩きませんか。
 まずは,人命が第一,と考えて。そこからの再出発です。
 それにつけても,想起されることは,西谷修さんの『理性の探求』(岩波書店)の最後の章「20・生きものの理性──核を恐れる──」の言説です。ぜひ,参照されることをお薦めします。
 

2011年4月6日水曜日

なんとも後味の悪い大相撲の「八百長」処分。

 今日(6日)の臨時理事会(日本相撲協会)で,ただひとり退職勧告を拒否した谷川親方(元小結海鵬)を解雇処分とすることを決定した。現役時代のあの小さなからだを120%駆使した,スピード感あふれる,そして,切れ味のいい相撲を記憶する者にとっては,残念でならない。しかも,谷川親方が記者会見で,涙ながらに訴えたことばも,わたしにはこころの奥深く突き刺さってきた。「退職勧告に応じて辞表を提出することは,八百長を認めたことになる。わたしは,現役時代をとおして,一度も八百長はしたことはない」と声を震わせた。わたしは,この声に信を置きたい。明らかに無実を訴える人の声だ,と受け止めた。その声と,現役時代の海鵬の土俵態度とはみごとに連続している。この人の土俵態度は勝っても負けてもさわやかな風が吹いていた。そこには相撲の奥義を究めようとする真摯な姿がにじみでていた。その姿勢が「風」を呼ぶ。その風が好きだった。テレビには映らない風がみたくて足を運んだこともある。だから,わたしにとっては,なんとも後味の悪い処分,としかいいようがない。残念だ。
 もし,ほんとうに無実の罪を負わされたとしたら,それは死んでも死に切れないだろう。あの海鵬の気っぷのよさからして・・・も。しかし,ことの真相は藪の中・・・・・。
 八百長を認めた3人(竹縄親方・元春日錦,千代白鵬・元十両,恵那司・元幕内)はともかくとして,それ以外の19人の力士たちは八百長を否定していたにもかかわらず全員「引退届」を提出した。その背景には,もし,引退届を提出しなかった場合には,つぎの段階で,所属の親方が処分されるというプレッシャーがかかったらしい。裁判も辞さないと息巻いていた力士も,すんなりと鉾を収めて,退職金をもらって引退する道を選んだ。これからはじまる長い人生を考えた上で,苦渋の決断をくだしたに違いない。これらの力士たちの中にも,ほんとうに無実の人が何人かはいたのかもしれない。だとしたら,この行動はいったいなんなのか。「親方に迷惑をかけるわけにはいかない」というのが聴こえてくる声だ。
 これが相撲の世界の実態なのだ。いい意味でも,悪い意味でも,これが相撲の世界なのだ。他のスポーツの選手であれば,不当な処分に対して裁判に訴えることは,当然の権利として認められている。そして,法廷の裁きのもとで,正々堂々と白黒をつけてもらう。スポーツの世界はどこまでも透明性が求められる。しかし,大相撲はそうではない。むしろ,この不透明性の部分を抱え込むことによって,大相撲という伝統文化が成立しているのだ。だから,八百長相撲もまた闇の世界なのだ。処分された本人すら気づいていない場合もある,という世界だ。
 谷川親方もそのひとり。かれの嫌疑は,去年の初場所13日目と春場所7日目の,いずれも「春日錦」(竹縄親方)との対戦である。しかも,これは春日錦の「自白」によるもの。つまり,一方的に八百長相撲だったと言われてしまったのだ。春日錦は,八百長のつもりだったのかもしれない。そして,「拝み」くらいはしたかもしれない(別のケースにみられた携帯メールの文言などはその証拠だ)。しかし,それに応答しないで無視することだってある。この場合には八百長は成立していない。片八百長であったとしても,相手力士にその自覚がない場合には,はたして,それを八百長と断定することができるのか。でも,特別委員会(委員長・伊藤滋)は,春日錦の「自白」をそのまま受け止めた。ここには確たる根拠はなにもない。ただ,委員会としての「情況判断」をしただけだ。しかも,反対委員の意見があったにもかかわらず多数決で。
 裁判であれば,「疑わしきは罰せず」という大原則がある。もっとも,最近では,裁判員制度の導入とともに「多数決」が大手を振って歩きはじめている。ここにも大きな問題がある。が,この問題は,また別のところで考えてみたい。
 特別委員会は,裁判所でもなんでもない。日本相撲協会から委嘱された「八百長問題調査特別委員会」にすぎない。だから,委嘱に応じて,「調査」を行い,「答申」を提出しただけだ。それを,鵜呑みにして決定をせざるをえない,やむにやまれぬ事情があった。そこまで日本相撲協会理事会を追い込んだものがある。こここそが,問われなくてはならない重大事なのだ。それをひとことで言ってしまえば「ポピュリズム」。もともとは,フランス革命などのような大きなできごとを突き動かす,弾み車として機能した「ポピュリズム」。基本的人権にかかわるようなできごとに対して「ポピュリズム」が機能することには,なんの異論もない。しかし,ポピュリズムが踏み込んではならない領域というものもある。それは「文化」の領域。とりわけ,「伝統文化」の領域である。ここはポピュリズムとは無縁の,ある種の「聖域」なのだから。いまでも,土俵の上には,どんなことがあっても「女性」を立たせることはしない。
 今回の処分は,いろいろの意味で,まことに後味が悪い。
 元海鵬・谷川親方の心中を察して余りあるものがある。
 残念至極。

2011年4月5日火曜日

お花見をしよう。元気を出すために。

 鷺沼駅前の桜がちらほらと咲き始めた。つい,数日前まであんなに固いつぼみだったのに・・・・。信じられないほどだ。西日本はもう桜は満開なのだろう。しかし,新聞もテレビも桜前線の情報は一切流さない。「自粛」している,とでもいうのだろうか。やがて,東日本にも満開がやってくるだろう。そして,被災地でも,間違いなく満開はやってくる。そして,人びとはこの桜の開花から元気をもらうに違いない。
 桜の開花は自然が恵んでくれる恩寵だ。これを愛でるこころは「贅沢」とは違う。ひとり静かに花見を楽しんだり,親しい友人たちとそぞろ歩きをしながら,あるいは,軽く一杯やりながら桜を愛で,英気を養うことはむかしからやってきたことだ。花見酒での馬鹿騒ぎは,いつだって顰蹙を買っている。良識ある花見をして,元気をもらい,これからの困難に立ち向かっていこう。
 このご時世だから,贅沢なことは控え,隠忍自重することは当然のことだ。しかし,なにごとに対しても,ただ,ひたすら「自粛」すればいいというものでもないだろう。これからの長期戦を考えると,あまりにストレスを貯め込まない方がいい。どこかで上手に息抜きをしていかないと,スタミナがもたない。こんなご時世だからこそ,控えめながらも,勇気を出して花見をしよう。そう呼びかけたい。花見のできるわが身のありがたさをとおして,かえって,被災地の人びとの困難を思いやるこころが高まってくるのではないか,とわたしは思う。
 われわれが元気を出さなくてはいけない。われわれが落ちこんでしまっていたら,被災地の人びとに救いの手などさしのべることはできない。まずは,みずからを奮い立たせることからはじめよう。ただでさえ,節電,節電で気持が暗くなっているのだから。せめて,花見でもして,元気を出そう。「三日見ぬ間の桜かな」という。いつまでも花見に酔い痴れるわけではない。桜の満開は,瞬間のことだ。その瞬間にこめる桜の心意気をわがものとしよう。そして,その心意気を震災復興に振り向けていこう。
 お叱りを受けるかもしれないが,わたしは真剣にそう思う。だから,こんどの土曜日には万難を排して花見にでかけようと思う。いまは亡きわが親友の霊と会話するために。たぶん,そのかれも「おい,稲垣,元気を出せよ」と言ってくれるだろう。わたしは,そういう花見をしたい,と考えている。花見の仕方は各人各様。それぞれのやり方で,元気をもらおう。
  そして,いま稼働している全国の原発を,どのようにして稼働停止に持ち込むか,どうすればそれが可能なのか,考えてみたいと思う。そして,そのあとは行動だ。そのためにも「元気」が必要だ。
 お花見をしよう。そして,明日の日本へ向けての第一歩を踏み出すためにも。

2011年4月4日月曜日

サマー・タイムを導入しよう。「節電」対策の一環として。

 しばらく前に,「サマー・タイムの導入を検討中」と某大臣が発言したが,その後,その声が聴こえなくなってしまった。どこかから圧力がかかったのだろう,と勘繰っている。もっと,勘繰っておくと,その圧力をかけたのはトウデンではないかな・・・・・・・?,と。
 昨日のブログの「節電のすすめ」との関連で,わたしは「サマー・タイムを導入しよう」と呼びかけたい。いろいろ議論があるところではあるが,なによりも,まずは「節電」のために。
 わたしの子どものころ,すなわち,敗戦直後の数年間,わが日本にも「サマー・タイム」が導入されたことがある(社会党が政権をとったときだったと記憶する。首相は片山哲。この年に生まれたわたしの弟はこの「哲」の一字をいただいて名づけられた)。わたしたち子どもは「サンマー・タイム」と呼びならわしていた。物質的にはなにもない時代で,まことに貧しいかぎりだったが,時間的には,夜遅くまで遊べて,まるで天国のようだった。
 当時の子どもたちにとっての遊びは,なにがなんでも「野球」だった。「六三制,野球ばかりがうまくなり」という川柳が残っているくらいだ。田舎のことだったので,あちこちに空き地があった。いよいよになれば,神社の境内があった。そこも大きい子どもたちに占領されてしまうと,仕方がないので,わたしの寺の庭が野球場になった。猫の額ほどしかない本堂の前の広場でも,いろいろとルールを工夫して,野球を楽しむことができた。
 ボールが見にくいなぁ,と思うと午後9時くらいになっていたように記憶する。腹ぺこだったが野球には代えられなかった。疲れ切ったところで夕食をとるから,すぐに眠くなる。夜,起きていた記憶がまるでない。すぐに,寝てしまったのだろう。その代わり,寺は早起きだ。父の毎朝の勤行と同時に起床して,寺の掃除とその他の作務がある。毎朝,朝飯前の仕事だった。それをしないと朝御飯が食べさせてもらえない。だから,必死で起きて,作務衣を着て・・・と毎朝の,寺の息子としての勤行があった。それを済ませたら,大急ぎで食事をして学校に走った。
 考えてみると,夜,灯をつけて起きていた時間はほんのわずかなものでしかない。大人だって同じだ。子どもたちよりは多少,遅くまで起きていたとしても,翌日のことを考えれば,夜の時間は短かった。敗戦直後の電力事情もまだよくなっていない時代にあっては,すばらしい「節電」対策であったはずである。
 そんなことを思い出しながら,「サマー・タイムを導入しよう」と提案する次第。
 もう一つの「サマー・タイム」の記憶。
 2003年の夏を,わたしたち家族はドイツのケルンで過ごした。かなり大きな庭付きの家の二階を借りて住んだ(一階は大家さんが住む。玄関は共用。でも,そのさきにもう一つドアがあって,この鍵は別べつ)。ケルンは緯度の関係で日没が遅い。4月1日からサマー・タイムに入るのだが,日毎に夜が遅くなっていくのが面白くて,夕食のあと,毎日のように散策にでた。暗くなったら家に帰るという原則を立てて。いまでも,はっきりと記憶しているが,太陽が沈んだあとの空が半分ほど鮮やかな青色を残していて,それを写真に撮ったことがある。時刻はなんと午後10時30分。眼で見えている以上に,デジカメは明るく暮れなずむ空を写すことができる,ということをそのときに知った。夜の12時には遅くとも眠ることにしていたので,夜の電気はほとんど消費していなかったことになる。
 そして,なによりも感動的に記憶していることは,以下のようなことがらである。
 夕食後の時間がたっぷりとあるので,じつに多くの人たちが散策にでてくるということだ。昼間の時間帯よりも,屋外にでている人の数は,夕食後の方が圧倒的に多い。ケルンには大きな森も公園もたっぷりあるのだが,どこに行っても大勢の人で賑わっている。そして,驚いたことに,森の中を上半身裸になってジョギングしている人が多いことだ。子どもたちは,公園の原っぱでサッカーに興じていたり,自転車(これが意外に多かった)で猛スピードで走っていたり,・・・。若い男女もいれば,老人グループもいる。屋台もあちこちにでているので,大人たちはビールを片手に,輪になってなにやら激論を交わしている。ドイツの友人に訊いてみたら,政治や経済の議論が好きな人たちだろう,とのこと。こういうところでも「街場」の意見交換がなされているのである。これがみんな夕食後の街場の風景なのだ。
 サッカーのビッグ・ゲームなども,明るいうちに試合は終了する。もちろん,ナイターの施設も設えられてはいるのだが,それらも真夏の間は不要である。みごとな節電効果というべきだろう。

 ちなみに,ドイツは,今回の福島原発の問題が発生してのち,すぐにすべての原発を停止させた。そして,節電を呼びかけているという。そして,みんなが必死になって節電に協力している,とドイツの友人からメールがあった。こんご,ドイツは,風力発電に力を入れていくことだろう,とも書いてあった。太陽が冬の間はほとんど顔を見せなくなってしまうドイツでは仕方のないことでもある。わたしが住んでいた2003年にも,旅行をすると,あちこちに風力発電の施設が眼についた。大きなプロペラのついた風車が立っているのですぐにわかる。
 それにくらべたら,日本は冬でも太陽は燦々と輝く(日本海側を除けば)。この太陽熱と風力との両方が利用できる日本の自然環境を生かせば,原発は要らない。

 サマー・タイムを導入しよう。そして,この夏を乗り切ろう。
 その上で,つぎなる方策を考えよう。みんなで智慧を出し合う絶好のチャンスなのだから。
 

2011年4月3日日曜日

「慣れる」とまたまたもとの「ゆで蛙」へ回帰か。

 人間には,adaptaion (生物学的には適応,社会学的には順応)という能力が備わっていて,そのお蔭で日々の困難もなんとか克服していくことができる。今回の東日本大震災(この正式名称が決まるのもあきれるほど遅かった)に対しても,この能力をフル回転させて対応していくことが求められている。そして,じつに多くの日本人が,真っ正面からこの大震災を受け止め,まじめにこの震災復興に向けて取り組みをはじめている。もっとも,東と西ではかなりの温度差があることは否めないところではあるが・・・・。
 が,にもかかわらず,今回は,原発事故という身動きできないほどの重い,重い足かせがはまってしまった。その結果が放射能汚染と電力不足という二重苦である。どちらも,わたしたちのほとんどの人たちにとっては初めての経験である。そのために,どのように対応したらいいのか,息をひそめて見守っている,というのが現実なのであろう。わたしもそのひとりだ(ただ,戦前・戦後の停電は経験している。ヒロシマ・ナガサキも子どもごころに深く突き刺さったままだ)。
 電力というものが,ここまでわたしたちの生活を支配してしまっているということを,再認識しながら,「計画停電」なる無計画性に我慢を重ねて,3週間がすぎた。わたしの眼のとどく範囲では,みんな必死になって「節電」に協力していた,と思う。これまで明るかったところが,ほぼ半分の灯に落として,じっとなりゆきを見守っていた。が,「計画停電」なるものも,鳴り物入りで喧伝されたわりには実行される回数も少なく,なんだ,電力は足りているではないか,というどこか拍子抜けの雰囲気が漂いはじめているようだ。「みなさんの節電のお蔭で,いまのところ電力はなんとか足りています。ご協力ありがとうございます」のひとこともないまま時間がすぎていく。
 「慣れる」ということは恐ろしい。いつのまにか「非常事態」が「当たり前」になってしまい,それで平気になってしまう。昨日,今日と新年度のはじまりの土・日ということもあってか,街中の人出は多い。えっ,どうしてこんなに人が出ているの?と思わず足を止めて考えてしまった。そして,いつも通り抜ける溝の口駅前の丸井の1階の灯が明かるくなっている。ここでも,あれっ?と思って立ち止まって考えてしまった。田園都市線に乗ったら,車内放送で,「明日から平常運転を再開します」と言っているではないか。またまた,えっ?である。
 朝夕のラッシュ・アワーは,できるだけ早く元通りにする必要がある,と思う。そして,公務員や企業や学校の通勤・通学が平常にもどる必要がある。そこを,まず,確保すること。それだけで充分。わたしのような昼中を移動している人間には,全線各駅停車で,しかも,7割くらいの本数で構わない。どうせ,ガラガラに空いているのだから。そうして,無駄な電力は使わない,という習慣を浸透させていくことが肝要だ。エスカレーターも昼中は不要。からだの不自由な人のためにエレベーターは動かす。自動改札も昼中は半分でいい。これをこの機会に徹底させること。非常時が与えてくれた絶好の教育のチャンスだ。それをみすみす見逃す手はない。節電教育のチャンスだ。そうして,少なくとも例年のこの時期の消費電力の「3割」節電をめざすこと。この「3割」には根拠がある。なぜなら,全国の電力の3割が原発に依存している,と広瀬隆の『原発時限爆弾』という著書に書いてあるからだ。まずは,「脱原発」を担保するためにも,「3割」節電に向けて努力してみること。そこからはじめることだ。
 このままでは,またまたもとの「ゆで蛙」へ回帰するだけだ。なんの反省もないままに。そして,なんの新たな教訓も身につかないままに。
 「3・11」以後を生きるとはどういうことなのか。それ以前のどこが間違っていたのか,なにゆえに原発に頼らなくてはならなかったのか,なにゆえに,原発建造に歯止めをかけることができなかったのか,出直しのために考えなくてはならないことが山ほどある。それをこれから復興の努力のプロセスのなかで一つひとつ確認しながら,新たな路線を引いていくしかないのだ。その第一歩が「節電」ではないのか。
 これまでのわたしたちは,あまりにも「私利私欲」(我利我欲)に走りすぎ,まことに狭い自己中心主義という隘路にはまり込んでしまっていたのではなかったか。それを大量生産・大量消費というこんにちの市場原理が支えてきた。そして,それらがことごとく叶えられてきてしまった。これは,そのほんの一因でしかないが,最終的には原発推進の後押しをすることになってしまったことは間違いないだろう。つまり,あまりの「贅沢」生活が原発を推進する誘因になった,ということだ。そこに,どうやって歯止めをかけていくか,これはとても難しい問題ではある。
 だから,いま,目の前に設定できる目標として「節電」がある。しかも,かなりの人が積極的に協力して,それなりの実績を,この3週間で示してきているではないか。それを,なんの説明もなく,なんの反省もなく,そして,なんの教訓も残すこともなく,旧に復すという。
 「3・11」以後を生きていく日本人としての指針を,政府は早急に提示すべきではないか。それが,いますぐに(「直ちに」という流行語は使いたくない)はできないというのであれば,できるところからはじめればいい。その第一歩が「節電」ではないのか。
 「節電」をキー・ワードにして,ものの見方・考え方を敷衍していくことによって,少なくとも「3・11」以前と以後とでは,まったくことなる価値観が立ち現れると,わたしは真剣に考えているのだが・・・。
 いかがなものだろうか。

2011年4月2日土曜日

大相撲八百長問題を,安易なポピュリズムで断罪してしまっていいのか。

 今日の朝刊に「八百長問題 23人の角界追放決定」という大見出しが躍った。
 とうとうやってしまったか,というのがわたしの第一感。そして,すぐさま,えらいことになった,と頭を抱え込んでしまった。
 それから,ゆっくりと記事をすべて追ってみた。一紙だけでは物足りなくて,鷺沼の事務所にくる途中の駅でもう一紙,買ってきた。ずいぶんと温度差があるものだ,とは思ったが,わたしを納得させるような解説はどこにも見当たらない。どちらの新聞にも,記者の名前入りの解説が短く載ってはいたが,当たり障りない内容。少なくとも,このような「断罪」をやってしまったら,おすもうさんたちのほとんどは疑心暗鬼になってしまって,しばらくは立ち直れなくなってしまうのではないか,とわたしは危惧する。すくなくとも,これからのおすもうさんは,「ごっちゃん」の世界から足を洗うしか方法はなくなる。日本の伝統的な,いい意味での義理人情の世界は,大きく後退せざるをえなくなるだろう。もちろん,兄弟子の存在も陰が薄くなり,おすもうさん同士の友情も希薄となり,ただ,ひたすら番付上の力関係だけが意味をもつ,まことに殺伐とした世界がそのさきには待ち受けていることになりはしないか。そうなると,巡業も成り立たなくなるだろうし,出稽古も不可能になってしまうのではないか。
 「角を矯めて,牛を殺す」という。はたまた,科学的合理主義が最優先されると「手術は成功した。しかし,患者は死んだ」ということが起こる。メスを入れてはいけない患部だってある。
 今回の大相撲八百長問題に関する処分は,最悪の選択肢だった,とわたしは考える。つまり,安易なポピュリズムによりかかって日本の伝統芸能を断罪してはならない,というのがわたしの立場だ。
 ポピュリズムは,ときと場合によっては,きわめて有効な「ものさし」であることは否定しない。しかし,なにからなにまで,ポピュリズムを最優先させてしまっていいのか,となるとそうではないだろう。とりわけ,伝統芸能のなかに巣くっている患部に対して,まったくの素人集団の現代的な集合的意志にすぎないポピュリズムによりかかって,メスを入れることにはわたしは反対である。つまり,専門性のきわめて高い伝統文化を,素人集団の多数決で決してはいけない,と考えるからだ。
 おすもうさんの世界は,われわれの市民感覚とはまったくかけはなれた別世界なのだ。その別世界の伝統社会のロジックをほとんど無視して,世俗の市民社会のポピュリズムがまるで「正義」であり,オールマイティでもあるかのような顔をして,「断罪」(「思い切り」「見切り」)という「暴力」を行使したのだ。しかも,この「断罪」には確たる証拠はきわめて乏しい。これでは原発建造を推進してきた人たちの「思い切り」「見切り」発車と,まるで瓜二つではないか。

 今回の処分は,最悪の選択肢であった,とわたしは受け止める。この問題は間違いなく長期化するだろう。まるで原発問題のように。メスを入れてはいけない八百長という患部に手をつけてしまった以上,八百長という「膿」はとめどなく流れはじめる。それもまた,原発の放射能と同じだ。一度流れはじめた「膿」は止まらない。完全に「膿」を出し切るには,何十年というスパンで考えるしかないのだから。
 だとしたら,最初から「蓋」をしてしまった方がいいのだ。では,どうしたらいいのか。過去の八百長は問わない。しかし,こんご八百長が発覚した場合には,即刻,相撲界から永久追放とする。親方も連帯責任をとって永久追放とする。そして,日本相撲協会の協会員全員で総懺悔して,被災地を巡業して回ること。焚き出しをし,復興の手伝いをしながら,野天の広場に土俵をつくって相撲をとり,みんなに笑顔を取り戻させること。半年くらい,これをやって「八百長撲滅宣言」をしたのちに,いつもの興行にもどればいい。
 貝のように口を閉じて,うまく逃げきった力士たちのことは,処分を受けた力士や親方たちは忘れもしないだろう。追放されたのちは,こんどは一般市民として,それこそポピュリズムを背景に反逆にでてくるだろう。それは火をみるより明らかだ。そうなると,こんどは,あらたな癌細胞がつぎつぎに発見されることになり,そのつど手術をして除去していくことになるのだろう。そして,それぞれの手術は成功したとしても,最終的に「患者は死んだ」というところに行きつくしかないだろう。
 今回の処分を知って,わたしは慙愧に堪えない。

2011年4月1日金曜日

「芸術は爆発だ」と叫んだ岡本太郎の真意は?

 岡本太郎生誕100年を記念したイベントがあちこちで組まれていて,楽しみにしている。大きなところでは,国立新美術館(六本木)での「岡本太郎生誕100年記念展」がある。それと同調するかのように,岡本太郎の書いた本が,四冊も文庫本となってあちこちで平積みになっている。まずは,これらの本を読んでから,展覧会にでかけてみたいと思い,それらを全部買い込んできて,暇をみつけては拾い読みをしている。これがまことに楽しい。寸暇を惜しむから楽しいのだろう。時間がたっぷりあったら,それほどでもないのかも・・・。やはり,若干の不足が必要なのだ。やや,欠乏気味の方が味わいが深くなる。なにかにつけ・・・・。
 もう,ずいぶん前の話になるが,テレビのコマーシャルで岡本太郎自身が「芸術は爆発だっ!」と絶叫して,一躍有名になったコピーがある。その当時,わたしはこのコピーの意味がわからなくて,なにゆえに「芸術は爆発」なのか,と訊いてまわったことがある。美術担当の先生や書道の先生などを尋ね歩いて訊いてみたが,どうも,いまひとつよくわからなかった。どの先生方もとても熱っぽく解説をしてくたさったのだが,当時のわたしにはなんだか理解できなかった。そのまま,岡本太郎という人は不思議な人だ,というレベルの理解で,わたしのなかで悶々としていた。
 ところが,ひょんなところから,岡本太郎という名前が燦然と輝きだしたのである。それは,西谷修さんのお蔭で,ジョルジュ・バタイユという思想家の存在がわたしの視野のなかに入ってきて,どこか惹かれるものがあったのでバタイユ関連の本を集中的に読んだことがある。それらの本のここかしこに,岡本太郎の名前がでてくるのである。つまり,バタイユの主宰した研究会(かれは組織しては壊し,また,組織しては壊しを何回もくり返していた)には熱心に参加していたようで,そこでも相当の論客であったらしい。
 というわけで,わたしは岡本太郎とバタイユの接点を知ったときに,はじめて「芸術は爆発だっ!」ということの真意がわかったように思う(もっとも,これはわたしの思い過ごしにすぎないかもしれないが)。当時,パリに在住していた画家である岡本太郎がシュールレアリスム運動に参画していくのは,ごく自然な流れである。そこで,ブルトンなどとともに活動したこともなんの不思議もない。そして,初期のシュールレアリスム運動にバタイユが熱心に参画したこともよく知られているとおりである。このあたりがバタイユと岡本太郎の接点のはじまりだったのかもしれない。が,バタイユは,ブルトンらが「シュールレアリスム宣言」をしたあたりから,「それは違うだろう,イズムになったら,そこで終わりだ」という主張とともに離反していく。バタイユは,研究会も地下活動も,みずからの思想もふくめて,つねに否定をくり返しながら,終わりなきゴールに向って突き進んでいくことを信条としていたようだ。つまり,「イズム」に到達して,そこで「満足」したら終わりだ,と。岡本太郎はこのバタイユのスタンスに,こころから同調したはずである。
 その理由は,岡本太郎の書いた『青春ピカソ』(新潮文庫)を読むと,よくわかる。同時に,ピカソという人の画業の意味もよくわかる。あの恐るべきデッサンの上手さ(写実)を誇る天才少年ピカソが,青の時代をへて,つぎつぎに変身していく姿が,なにを意味していたのか,そして,ついには,立体派にまで到達し,なおも,破壊をくり返し,生涯をそれで貫き通したことの意味も,岡本太郎は自分自身の問題として受け止め,解説をしてくれる。これまでわたしが触れてきたピカソ解説とはまったく次元の違う,すばらしい解説をしてくれる。というか,むしろ,岡本太郎は自分の画家としての立場を説明するためにピカソを引いてくる。いや,途中からは,自分とピカソの区分すら怪しくなるほどに一体化してしまう。
 ピカソも岡本太郎も,その歩んだ道をひとことで表現するとしたら,「自己否定」。否定しても,否定しても,必ず頭をもたげてくるのは,近代的理性だ。この合理主義的な理性が「アート」には邪魔なのだ,と。これをぶっ壊さないかぎり,ヨーロッパに伝統的なアートに関するアカデミズムを突き崩すことはできない,とピカソは考える。だから,科学的合理主義に徹底して抵抗を示す。岡本太郎も同じだ。二人とも,「内なる理性」とのあくなき闘いがはじまる。そして,「内面」の奥底にまで触手を伸ばしていく。その奥底に開かれている世界はなにか。日本の仏教のことばを借りれば「無」だ。この「無」に到達したとき,芸術は完全に解体されて,芸術もまた「無」に帰す。ここらあたりの話は,もう少し詳しくやりたいところではあるが,またの機会にしよう。
 この「無」に到達するためには「爆発」をくり返すしかないのだ。つまり,「自己否定」の連続を。
 ここまでくると,バタイユの世界とまったくパラレルであることが,はっきりしてくる。だから,岡本太郎はバタイユの思想とも,ピカソの自己否定とも,なんの矛盾もなく,それどころか「一体化」して共振・共鳴したのだろうと,わたしは考えている。
 ここまできたときに,はじめて「芸術は爆発だっ!」と叫んだ岡本太郎の真意が,わたしなりに理解することができた。

 で,この「芸術は爆発だっ!」と,昨日のブログの最後に書いておいた「芸能の力」とは,じつは同じことなのだ。そして,これらはいずれも現代科学技術文明とは「対極」に位置づけられるべきものなのだ。この両極に位置づく二つの関係を,どのように折り合いをつけていくか,これが「3・11」以後の歴史を構築していく上で,不可欠であるとわたしは考えているのである。これは,言うまでもなく,「3・11」以後を生きるわたしたちの「スポーツ文化」を構築していく上でも,まったく同じだ。このテーマをしばらくは,折にふれて,追いかけてみたいと思う。