2014年12月31日水曜日

「スポーツ学」とはなにか。その5.研究方法について。

 「スポーツ学」には三つの固有の研究領域があることは,すでに述べたとおりです。すなわち,「スポーツ実践学」「スポーツ科学」「スポーツ文化学」の三つです。これらのうち,研究方法がまだ十分には定まってはいない領域があります。それは「スポーツ実践学」です。

 それ以外の「スポーツ科学」はすでに長い歴史をもっており,学として広く認知されています。しかし,「スポーツ文化学」ということばはまだ新しく,馴染みの薄い学といってよいでしょう。しかし,「スポーツ文化学」そのものは,スポーツ哲学,スポーツ史,スポーツ社会学・・・・といった,いわゆるスポーツに関する人文・社会系の諸学の総称ですので,この中に含まれるそれぞれの学の研究方法はある程度まで定着しています。

 「スポーツ科学」も「スポーツ文化学」も,その中に包摂される個別の学は,じつは,先行する親科学(親学)があって,その応用学という体裁をとっています。たとえば,スポーツ生理学の親科学は「生理学」です。あるいは,スポーツ哲学は「哲学」から枝分かれして新たに成立した学です。ですから,それぞれの研究方法はその親科学(親学)からの応用ということになります。そして,この場合には,その研究対象が「スポーツ」に限定される,というにすぎません。

 問題は「スポーツ実践学」です。その2.で,この学の研究方法の概略は触れておきました。しかし,細部についてはどのようになるのかは,まだ,未解決のままです。といいますのは,この「スポーツ実践学」のなかに含まれる諸学の研究方法はまだこれから明らかにされる分野であるからです。つまり,後発,あるいは未発の学である,ということです。

 しかしながら,後発の学として,近年では徐々にその体裁が整いつつあります。たとえば,日本テニス学会とか,日本ゴルフ学会・・・といった学会がつぎつぎに組織され,つぎつぎに学問的な研究の途についているからです。その意味では明るい未来が開かれているといっていいでしょう。ですから,この「スポーツ実践学」に属する諸学は,大いに議論を闘わせて,その体裁を整えていけばいい,ということになります。

 とりわけ魅力的なのは,「野外スポーツ学」の領域ではないかと思われます。といいますのは,野外スポーツそのものが大自然をフィールドにした分野です。ですから,そこでは当然のことながら,「環境」と真っ正面から向き合うことになります。

 そこには二つの大きなテーマがあるように思います。一つは,文明化とともに「環境」が破壊されていく傾向に対して,野外スポーツがどのように対峙していくか,というテーマです。もう一つは,文明化とともに子どもたちの生育環境が自然から遠ざけられていくという現状認識に対して,野外スポーツがどのように貢献していくことができるか,というテーマです。

 後者については,これまでにも多くの実績を残してきています。が,文明化の進度の速さにくらべると野外スポーツの対応はやや遅れをとっているように思われます。もっと積極的に,子どもの遊びの段階から,自然のなかに溶け込んでいけるような環境づくり,すなわち,指導者や組織や制度の整備が求められているように思います。その意味で,野外スポーツは,21世紀のスポーツ文化を構想する上で,きわめて重要であり,大いに期待される分野でもあります。

 前者については,野外スポーツが単独でなにかを変えられるという問題ではありません。しかし,野外スポーツをとおして,環境保全の大切さを考え,環境保全のための運動を展開していくことは可能です。それどころか,野外スポーツのさまざまな活動が,いわゆる環境教育の先端に立つことも可能だと思いますし,大いに期待されるところでもあります。

 「スポーツ学」が,このような環境の分野にも深く切り結んでおり,そこでの貢献にも大いなる可能性を秘めているということは,まさに,21世紀型の新しい「学」としての条件をもっているという証しでもあります。ですから,大いに自信をもって議論を闘わし,野外スポーツの新たなる可能性に向けてチャレンジしていくべきだ,とわたしは考えています。

 ということで,この稿は終わりです。

「スポーツ学」とはなにか。その4.固有の研究対象(スポーツの中心と周縁)について。

 「スポーツ学」という新しい学を成立させるためには,三つの条件をクリアしなくてはなりません。その条件とは,スポーツ学に固有の研究領域,研究対象,研究方法,の三つです。研究領域については,その3.で説明したとおりです。

 ここでは,スポーツ学に固有の研究対象について考えてみたいと思います。

 ひとくちにスポーツ学に固有の研究対象といっても,さまざまな広がりや層の違いがあります。そこで,まずは,大きなところから考えてみたいと思います。

 「スポーツ学」にとって最大の研究対象は「スポーツ」です。このスポーツだけを取り出してきて,それを研究対象とする独立した学は,「スポーツ学」の他にはありません。その意味で,スポーツ学は,学としての重要な条件をクリアしていることになります。また,ついでに述べておけば,「スポーツ学」を新たな学として,その体系を提示した人はまだ世界のどこにもいません。したがって,ここで明らかにしようとしている「スポーツ学」とはなにか,という問いに対する応答は世界初の試みである,ということになります。

 もし,『スポーツ学概論』なるテクストが誕生するとなれば,それは世界初の,そして,世界でたった一つの試みである,ということになります。

 ところで,「スポーツ学」に固有の研究対象である「スポーツ」をひとつの文化として捉えたときには,それをスポーツの「中心」と「周縁」の二つの視点から考えることができます。スポーツという文化の中心を占めるのは,競技スポーツと野外スポーツです。そして,競技スポーツとしての具体的な研究対象はテニス,サッカー,水泳などのように,各競技種目別に細分化することができます。このことは,登山,スキー,ハイキング,などのように,野外スポーツにあっても同様です。いわゆるスポーツ文化の中心を構成する研究対象はだれの眼にも明らかです。

 しかし,スポーツ文化の周縁はいささかやっかいです。といいますのは,スポーツ文化とそうでないものとの境界領域,いわゆるグレイゾーンが存在するからです。

 たとえば,オリンピックの聖火リレーや聖火台で燃え盛る聖火は立派なスポーツ文化です。がしかし,奈良・若草山の山焼きはどうでしょう。そして,このときに打ち上げられる花火はどうでしょう。山焼きや打ち上げ花火を鑑賞する行為は,はたしてスポーツ文化と呼ぶことができるでしょうか。あるいはまた,山焼きや花火を撮影することはどうでしょうか。このあたりのところは意見が分かれるところです。

 同じように,スポーツとレクリェーションの区別も微妙です。レクリェーショナル・スポーツということばがあります。これは問題がないと思いますが,レクリェーションとして行われる歌や踊り,集団ゲームや遊び,などはどうでしょうか。

 このように考えていきますと,スポーツ文化の周縁には,じつにさまざまな問題が内包されていることがわかります。

 問題は,「スポーツ」という概念をどのように規定するか,にあります。スポーツの概念は,時代や地域や社会によって異なります。同時に,変化もしていきます。ですから,「スポーツ学」で考える「スポーツ」の概念はどういうものであるのか,これを明確にしておくことが重要です。しかし,「スポーツとはなにか」の答えを導き出すのは「スポーツ学」の最終ゴールでもあります。

 したがって,スポーツ文化の周縁については,仮説を立てて,その前提に立って研究を進めることになります。その場合,スポーツの概念をできるだけゆるやかに捉え,大きく包み込む発想が大事です。なぜなら,野外スポーツの周縁には,どう考えても,スポーツとは言い切れない要素も多く含まれているからです。

 しかし,「スポーツ学」とは,そういう議論をする場でもあるのです。つまり,スポーツ学が研究対象とする「スポーツ」とはなにか,という議論です。こうした議論をとおして,「スポーツ学」の全体像もしだいに明らかになってくる,そこにこの学の存在理由があり,この学の固有の特質がある,と言っていいでしょう。

 ※なお,学問論として,スポーツ学の固有の研究対象を明らかにすることは,きわめて重要なことです。しかし,本格的に取り組むとなると,膨大な作業が必要となります。ので,この問題については,また,機会を改めてチャレンジしてみたいと思います。

2014年12月30日火曜日

「スポーツ学」とはなにか。その3.三つの研究領域について。

 総論で書きましたように,「スポーツ学」には三つの研究領域があります。すなわち,スポーツ実践学,スポーツ科学,スポーツ文化学,の三つです。総論では,スポーツ学を学ぶ学生さんを想定して書きましたので,わかりやすくするために,この三つの研究領域を,スポーツ実践学⇨スポーツ科学⇨スポーツ文化学の順に,一つの流れとして説明をしました。

 しかし,スポーツ学を学び,研究する立場に立てば,この三つの研究領域は,かならずしも一つの流れではありません。むしろ,三位一体となっていて,お互いがお互いを支えあっている関係にあります。つまり,各研究領域の知見をお互いに比較検討し,そこから新たな問題を見出し,フィードバックして,それぞれ固有の研究領域ごとにさらなる研究を進める,そういう関係にあります。

たとえば,スポーツ実践学という研究領域を考えてみましょう。具体的には,サッカーとか,テニスとか,水泳といった競技種目別にスポーツが実践されます。それらの競技種目を研究対象として考える場合には,サッカー学,テニス学,水泳学,が成立します。

 ここでは例として,サッカー学をとりあげてみましょう。

 実際にサッカーの練習をはじめるにあたっては,まずは,練習期間とその期間に達成すべき目標を立てます。そして,その目標を達成するための練習計画を立てます。そして,その計画に従って練習(実践)をします。その結果をきちんと記録し,そのつど,感じたり考えたりしたことも記入しておきます。そうして練習期間が終わったところで,当初の目標がどの程度に達成できたのか分析し,検討します。そこからは,さまざまな反省も生まれてくるでしょう。そうした反省に基づいて,また,つぎの期間の練習目標を定め,練習計画を立てます。この繰り返しが,スポーツ実践学の重要な柱となります。

 しかし,この段階でも,当然のことながら,練習計画の具体的な内容を決めるときには,スポーツ科学の知見を参考にしなければならなくなってきます。たとえば,走力や脚筋力を高めるためのトレーニング方法を選定するときには,いまの自分の力量にもっともふさわしいプログラムを組む必要があります。あるいはまた,集中力や持続力を高めるためのトレーニング方法などについても,スポーツ科学の知見を参照することになります。

 また,同時に,モチベーションを高めるためには,サッカーの名選手の伝記を読んだり,技術や戦術に関する文献を渉猟したりします。ときには,サッカーの歴史や哲学に関する文献を読んだりもします。こうしてサッカーに関する幅広い教養を身につけていきます。

 つまり,これらのことは「サッカー」の実践をとおして,すべて同時進行していきます。ですから,サッカーの実践(練習)だけが独立して行われるのではなく,つねに,スポーツ科学の知見を参照したり,スポーツ文化学の文献を読み漁ったりしながら,サッカーの奥義に接近していくことになります。

 このようにして,サッカーにトータルに習熟していく過程を研究する「サッカー学」は,スポーツ実践学だけではなく,スポーツ科学もスポーツ文化学も,その必要に応じて同時に連動していくことになります。三位一体とは,こういうことを意味します。

 以上が,スポーツ実践学という研究領域を中心に考えた場合の事例です。

 この他のスポーツ科学やスポーツ文化学という研究領域には,さらにそれぞれの専門の細分化された研究領域があります。スポーツ科学でいえば,スポーツ生理学,トレーニング科学,スポーツ心理学,などがあります。また,スポーツ文化学には,スポーツ哲学,スポーツ史,スポーツ社会学・・・・,といった具合です。

 以上のように,スポーツ学を成立させるための三つの研究領域は,お互いに寄り添いながら,支え合うという関係にあります。そして,これら三つの研究領域のすべてが重なる領域に「スポーツ人間学」が位置づきます。

「スポーツ学」とはなにか・その2.総論について(試論)。

 これから記述することがらは,「スポーツ学とはなにか」のごくごく基本的なラフ・スケッチです。そこで,まずは,「スポーツ学とはなにか」という問いに対する「総論」(試論)に挑戦してみたいと思います。

 「スポーツ学とはなにか」。その総論について(試論)。

 スポーツ学とは,スポーツとはなにか,を明らかにする学の総称です。

 スポーツは人間が生みだした文化です。動物は人間のようなスポーツをしません。では,なぜ,人間はスポーツをするのか。もっと問えば,スポーツする人間とはなにか。なにが,人間をスポーツに駆り立てるのか。スポーツをすると人間のこころやからだはどのように変化するのか。そのゴールはなにか。こうした問いに答えを見出す学,それがスポーツ学です。

 別の言い方をすれば,「スポーツ人間学」。すなわち,スポーツと人間の関係を解き明かす学。では,スポーツをとおしてわたしたちはなにをわがものとし,最終的になにを目指すのでしょうか。それは,スポーツについての正しい知識や技術を習得し,スポーツ的に自立し,みずからを律すること,すなわち,「スポーツ的自律人間」になることです。

 では,「スポーツ的自律人間」とはなにか。

 はじめはみんなスポーツの初心者です。その初心者は,だれかに手ほどきをしてもらい,友だちと切磋琢磨しながら,少しずつスポーツに習熟していきます。つまり,スポーツの実践をとおして,知識や技術を学んでいきます。こうして徐々に生涯スポーツや競技スポーツに習熟していきます。そして,ある程度のレベルに達すると,こんどは,みずからのスポーツ実践の計画・立案をし,実践を記録し,分析し,反省点を見出し,さらなるステップ・アップを目指すことができるようになります。すなわち,スポーツ実践者として自立し,さらに,みずからを律することができるようになること,それが「スポーツ的自律人間」のイメージです。

 したがって,スポーツ学の中核をなす領域は「スポーツ実践学」です。わたしたちは,まずは,実践をとおしてスポーツにかかわるさまざまな知識や技術を学びます。やがて,スポーツ実践のレベルが上がってきますと,より精度の高い科学的な根拠を求めるようになります。

 この要求に応える学が「スポーツ科学」です。この領域では,さまざまな仮説・実験・検証を繰り返しながら,スポーツ実践のレベル・アップに役立つ知見を探求していきます。そして,この領域で得られた科学的な知見がスポーツ実践に応用されることになります。こうして,スポーツ実践学とスポーツ科学が結びつくことになります。

 そうして,さらにレベル・アップに成功した人たちは,徐々に指導者から自立し,みずからを律する力を身につけ,最終ゴールである「スポーツ的自律人間」を目指します。そして,やがては指導者への道を切り拓くことになります。その過程で必要な学が「スポーツ文化学」です。つまり,「スポーツとはなにか」という最終課題に迫っていくことになります。ですから,この領域の中心となる学は,スポーツの思想・哲学であり,歴史です。さらには,スポーツ社会学やマネージメント,経営・管理学などが加わっていきます。

 以上が,「スポーツ学とはなにか」の総論(試論)です。
 

 もう一度,整理しておきますと,まずは「スポーツ実践学」があり,それを支える「スポーツ科学」が加わり,最終的なブラッシュ・アップをするための「スポーツ文化学」があるということになります。

 イメージとしては,スポーツ実践学⇨スポーツ科学⇨スポーツ文化学,という流れとなります。

 とりあえず,ここで一端切って,次回はこのつづきの試論にチャレンジしてみたいと思います。

2014年12月29日月曜日

「スポーツ学」とはなにか。その1.「スポーツ学」構想の経緯について。

 考えてみれば,もう四半世紀にわたって,わたしは「スポーツ学」なるものを構想してきました。その最初のきっかけとなったのは,ドイツで刊行された『Sportkunde』という著作でした。早速,注文して読んでみましたら,これはわたしが構想している「スポーツ学」とはまったく異なる内容でした。以後も,「スポーツ学」にかかわる情報を,英語・ドイツ語圏をとおしてリサーチしてきました。しかし,こんにちにいたるもそれらしき文献は登場していません。

 となったら,みずから「スポーツ学」の構想を打ち出すしかない,と考えました。とりわけ,ドイツ・スポーツ大学ケルンの客員教授として招かれた折に(2003年),いろいろな研究者と接触することができましたので,その折に,わたしの構想する「スポーツ学」を提示してみました。しかし,あまりいい反応はありませんでした。その理由は,ドイツもまた「スポーツ科学」(Sportwissenschaften)一辺倒で,ますます,その傾斜を強くしていたからです。科学万能神話にどっぷりと浸っていて,なんら疑うということもありませんでした。

 わたしはこの国際的傾向に危機感をいだき,そうではない,「科学」の呪縛から解き放たれた,新たな「学」の確立こそが21世紀を生きる人間には不可欠である,と考えました。そして,その手始めに,世に問うた本が『身体論──スポーツ学的アプローチ』(叢文社,2004年)です。この本は,ドイツでの講義内容をもとに書き下ろしたものです。その主眼は,スポーツ科学が置き忘れてきてしまった「身体とはなにか」という根源的な問いと向き合うことにありました。

 その翌年(2005年)に,藤井英嘉さん(当時,びわこ成蹊スポーツ大学学部長)に依頼されて,講演をすることになりました。そのタイトルが「スポーツ科学からスポーツ学へ」というものでした。わたしは勇んで引き受け,約4時間にわたるお話をさせていただきました。このときの話を編集して,世に問うたものが『スポーツ科学からスポーツ学へ』(藤井英嘉さんと共著,叢文社,2006年)でした。しかし,残念なことに世間からは無視されたままです。でも,一部の人たちからは熱烈な支持もいただいています。

 その後,数年が経過したあと,N大学から『スポーツ学入門』というテクストを作成したいので協力してほしいという依頼がありました(2009年?)。わたしは喜んで引き受けました。大学のなかに「編集委員会」を組織してもらい,わたしの描くラフ・スケッチをもとに,みなさんで議論してもらいました。約半年かけて,目次もできあがり,分担する執筆者も決まり,これでよしというところまで漕ぎつけました。しかし,意外な落とし穴があって,この構想は水泡に帰してしまいました。

 となったら,自分で刊行する以外にはない,と決断。その準備段階として,まずは『スポートロジイ』(Sportology)なる研究紀要を刊行することにしました。これは,わたしの主宰する「21世紀スポーツ文化研究所」の研究紀要です。創刊号を2012年6月に刊行しました。この創刊号のなかに,「研究ノート」として拙稿:「スポーツ学」(Sportology)構築のための思想・哲学的アプローチ──ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』読解・私論(P.148~274.)を投じました。

 つづいて,第2号を2013年7月に刊行。ここにも「研究ノート」として拙稿:スポーツの<始原>について考える──ジョルジュ・バタイユの思想を手がかりにして(P.190~279.)を投じました。この2本の「研究ノート」をとおして,「スポーツ学」(Sportology)の思想・哲学的根拠は,わたしの中では明確になりました。

 もちろん,ここに至りつくまでには,ハイデガーの『存在と時間』や,ヘーゲルの『精神現象学』をはじめとするヨーロッパの形而上学はもとより,ハイデガーの哲学を批判的に継承するフランス現代思想の人びとの著作をも遍歴しました。とりわけ,モーリス・ブランショ,イマニエル・レヴィナス,ジョルジュ・バタイユ,ジャック・デリダ,ジャン=リュック・ナンシー,などからは強烈な刺激を受けました。そして,近年では,ジャン=ピエール・ルジャンドル,ジャン=ピエール・デュピュイ,など。

 そして,最後に触れておかなくてはならないのが西田幾多郎の一連の著作です。かれの説いた「純粋経験」や「行為的直観」や「絶対矛盾的自己同一」などの考え方は,存在論の原点を示すと同時に,「スポーツする身体」を考える上では不可欠です。その背後には,これはわたしの勝手な推測ですが,道元の『正法眼蔵』と『般若心経』があったと思われます。この『般若心経』は仏教の経典ではありますが,そこにはもっとも根源的な思想が述べられ,哲学が展開している,とわたしは受け止めています。

 そして,さらに付け加えておかなくてはならないのは,西谷修さんの一連のお仕事です。わたしは,ほぼ,30年の長きにわたって,西谷さんのお仕事をとおして思想・哲学へと導かれ,とりわけ,フランス現代思想については大いに啓発されてきました。わたしが,ジョルジュ・バタイユに至りついたのも,西谷さんの導きなしにはありえません。

 わたしの考える「スポーツ学」はこうした人びとの影響のもとに,徐々に頭をもたげ,ようやく自分のことばで語ってみようというところに至りついたという次第です。

 以上が,「スポーツ学」構想の経緯の概略です。このあと,少しずつ,具体的に「スポーツ学とはなにか」の内容について考えていってみたいと思います。ということで,今回はここまで。

新国立競技場,「この道しかない」(JSC)のだろうか。磯崎新氏の反論に説得力。

 6日間ほど留守にしたので,新聞がたまってしまいました。今日はまる一日,留守の間の新聞(東京新聞とネット購読をしている琉球新報と沖縄タイムスの3紙)を通読したり,切り抜いたり,プリントアウトしたりすることに追われてしまいました。

 その中から一つの話題を。

 12月21日(日)の東京新聞・朝刊に,「新国立競技場問題 磯崎新さんに聞く」という見出しの記事が大きく掲載されていました(写真・参照)。早速,切り抜いて保存。

 
上の写真からわかりますように,磯崎新さんは,巨大な競技場を建造しようとするのは「国威発揚型」の20世紀の発想であるとし,21世紀はもはやそんな時代ではないと説き,そこから脱却し,「転用念頭に仮設を活用」すべきだと主張されています。この考え方にわたしも大賛成で,これまでもずっと磯崎さんと同じこの主張を展開してきました。

 この磯崎さんの主張は,槇文彦さんを筆頭にした建築家集団が組織的な意見陳述をしてきたものと同じで,この記事にあることは建築家集団のほぼ一致した見方・考え方であると言っていいと思います。ところが,安藤忠雄氏を中心とするJSC(日本スポーツ振興センター:新国立競技場の建造にかかわる事業主体)や組織委員会(委員長:森喜朗)の考え方は,これとはまったく逆です。相変わらず20世紀的発想を継承し,「国威発揚型」の競技場建造をめざしています。

 そして,どこぞの総理大臣と同じように,「この道しかない」とばかりに,ザハ案を一部修正した,競技場としてはまことに中途半端なものを建造しようとしています。槇文彦さんや伊東豊雄さんや磯崎新さんなど,錚々たる建築家の意見に耳を傾けるどころか,議論にも参加することを拒否し,まったくの無視を決め込んでいます。そして,自分たちの目論見にどこまでもこだわりつづけています。その強引なやり方は,まさに,政府自民党のやり方と表裏一体です。

 このまま突き進んでいきますと,五輪後には巨大ゴミが残るだけです。
 にもかかわらず,どうして,こんなことになってしまうのでしょうか。
 その理由はかんたんです。

 思想・哲学の欠落です。同時に,歴史的展望の欠落です。

 つまり,JSCにも,組織委員会にも,きちんとした思想や哲学が見当たりません。あるいは,歴史的な展望がありません。いま,ここ,しか見えていません。いな,見ようとしていません。ですから,2020年という時代がどのような時代になるのか,そして,そこから30年後の2050年には日本の社会はどのようになるのか,という近未来の展望に蓋をしてしまっています。

 人口が激減し,国民総生産も低下することは,もはやだれもが認識しているはずのことです。しかし,政府自民党は盲目的に経済発展という笛を吹きつづけ,国民にめくらましをかませて,相変わらず「20世紀型」の「国威発揚」の発想にこだわりつづけています。その一つが,原発再稼働です。そして,沖縄の民意の無視です。つまり,政権維持のために役立つことしか考えてはいません。まさに,政治の貧困です。

 「この道しかない」を突き進むことは,国家の存亡にかかわる一大事です。新国立競技場の建造もまったく同じです。東京五輪2020が終わった暁には,巨大ゴミが残るだけです。そして,巨大な赤字負担が国民の税金となって跳ね返ってきます。

 サスティナブル(持続可能)な発想にシフトすることこそが,21世紀を生きるわたしたちの最大の課題であることは,もはや,繰り返すまでもないでしょう。にもかかわらず,日本の指導者層はそっぽを向いて,いまもなお,儲かることしか考えようとはしません。その姿は,すでに,「狂気の一線」を超え出てしまっているとしか言いようがありません。

 そこに歯止めをかけるのは国民の声しかありません。その機会が来年には巡ってきます。そこで踏ん張らないと,日本国はとんでもない隘路に落ち込んでしまいます。そこでの選択を間違えると,ますます「この道しかない」が大通りを闊歩することになってしまいます。そこだけはなんとか・・・・。

 たかが新国立競技場などと言って捨ておいていてはいけません。されど新国立競技場だと肝に銘じて・・・・。

2014年12月28日日曜日

富士山,三連発速写。偶然の傑作。

 12月21日(日)の午後,神戸に向かう新幹線のなかからみごとな富士山が見えました。午後3時30分ころだと思います。それがまた真っ青に晴れ渡った好天に恵まれて,ひときわ美しい富士山が輝いていました。

 
これまでも何回も,こういう美しい富士山を仰ぎ見ることはありましたが,今回はまた格別でした。こんな美しい富士山はなんとしても写真に収めて・・・と思い,急いでカメラを取り出しました。で,あとは気合で三連発速写。

 
これまでも何回も富士山の写真を新幹線のなかから撮ってきました。が,いずれも,電線があったり,電柱と重なったり,沿線の建物などに妨害されてしまって,まともな写真は一枚も撮れませんでした。が,今回は不思議。一気に,なにも考えないで,パシャ,パシャ,パシャとシャッターを切ってみました。偶然とは恐ろしいものですが,全部,みごとな写真になりました。

 
撮影した順番に並べてみました。最後の写真は,近くの工場の建物と製紙工場の煙突からの煙までおまけに写っていました。こんな写真はいくらねらっても撮れるものではありません。しかも,デジカメですから,シャッター・チャンスは少し遅れてしまいます。ですから,これは偶然としかいいようがありません。

 今回は運がよかったのひとこと。

 これからはじまる神戸での6日間がきっといいことがいっぱいあるに違いない,幸運のきざしと受け止め,いい気分で神戸に向かいました。神戸での6日間,いまは,もう,過去のできごとになっていますが,予想どおり,充実したいい時間を過ごすことができました。

 西谷修さんの懇切丁寧な集中講義(「医療思想史」),野見宿禰神社のフィールド・ワークほか(たつの市),温泉と古刹散策,嘉田由紀子さん(前滋賀県知事・現びわこ成蹊スポーツ大学学長)との面談,など。

 ことしの一年は,これまでにないたいへんな年でしたが,最後にこんなにラッキーな時間が過ごせたことを感謝したいと思います。きっと,来年はいいことがいっぱい待っているだろう,と希望に満ちた師走を過ごしています。

 その魁。それがこの富士山,三連発速写だったのだ,と信じて・・・・。

2014年12月27日土曜日

神戸市外大の西谷修さんの集中講義からもどりました。「狂気の一線を超える」というお話を。

 年の瀬の迫った12月22日(月)・24日(水)・25日(木)の三日間,朝8時50分から午後5時30分まで,ぶっ通しの西谷修さんの集中講義を受講させていただきました。一日5コマ,計15コマ(半期分)というハードなスケジュールです。途中,23日(火)は祝日でしたのでお休み。折角の骨休めの日にもかかわらず,西谷さんは京都の同志社大学で開催されたシンポジウムに出向。ですから,西谷さんは計4日間,びっしり詰まったスケジュールをこなされたことになります。その集中力と持続力には,ただただ頭が下がります。驚くべき元気さです。

 22日からの集中講義とはいえ,朝8時50分開始ですので,前日の21日(日)の夕刻には神戸市外大の用意してくれた宿舎に到着してスタンバイ。最後の25日(木)は打ち上げと称して,西谷さんと懇意にしているわたしたちの仲間と,近くの温泉施設で一泊。ですから,西谷さんとしては,結局は6日間が,この集中講義のために費やされたことになります。ずっとご一緒させけいただいたわたしとしては至福のとき。まさに,濃密な時間でした。

 繰り返しになりますが,集中講義の題目は「医療思想史」。わたしはこのテーマでの講義を受講するのは二度目でしたが,西谷さんはそのことを意識されたのか,一回目のときには話されなかった内容をふんだんに盛り込んでくださいました。とりわけ,身体論にかかわる重要なポイントをいくつか取り上げ,それを医療思想とクロスさせる展開をしてくださり,とてもありがたく,いい勉強になりました。といいますのも,ここで西谷さんが展開された話題は,そのまま,スポーツ思想史,あるいは,スポーツ哲学としてアレンジすることが可能だからです。

 たとえば,ヒポクラテスについての,西谷さんの驚くべき洞察が,これでもか,これでもか,とつぎからつぎへと繰り出されました。その骨子は,ひとことで言ってしまえば,ヒポクラテスの医療が合理的な経験知と宗教的な儀礼との端境で実施されていたこと,そして,それはなにを意味していたのか,を問うものでした。

 そのうちの,わたしにとって印象深かった話題のひとつは,ヒポクラテスの医療に関する考え方にありました。ヒポクラテスの医療は,医者が手をつくせば治る可能性のある病人だけを対象とし,手をつくしても不可能だと思われる病人は聖職者の手にゆだねるべきだ,という姿勢を貫いたということです。つまり,ある程度までは医療をほどこしても,もとの健康をとりもどせないと判断された病人については,無理に医療の手をつくすことはしない,という考え方です。そして,その病人については,聖職者によって,癒されつつ死を迎えるべきだ,という考え方です。

 別の言い方をすれば,人間には「生きる力」がもともとあって,その「生きる力」をも凌駕してしまう病気や怪我については,もはや医療の対象にはせず,聖職者に委ねる,という考え方です。

 この考え方はこんにちの医療を考える上できわめて重要な示唆を含んでいると言っていいでしょう。ひるがえって,こんにちのスポーツ選手たちのからだを考える上でもきわめて重要な示唆を含んでいます。もともともって生まれたからだの資質に支えられて競技力を向上させていく,これはごく自然な流れだといっていいでしょう。古代ギリシア時代の競技者はこの考え方の上に成立していて,それ以上の競技力は神への祈りによって得られるものだ,と考えられていました。

 しかし,こんにちの競技者のトレーニング方法は,自然の流れからは大きく逸脱しているとしかいいようがありません。その極致が,ドーピングです。自力では足りないというので,他力(薬)で競技力を補おうという,近代科学のいう「合理性」に支えられた発想です。それでも,さすがにこれは行き過ぎだというので,禁止しています。しかし,完全に禁止し,完璧に管理することは不可能だとも考えられています。

 こんにちの医療システムも,競技力向上システムも,すでに,狂気の一線を踏み越えてしまった領域に乱入している,と言っていいでしょう。しかも,もはやその「狂気」の歯止めがきかなくなってしまっています。こうした情況は,こんにちのわたしたちの生活のあらゆる場面にみてとることができます。大問題です。ですから,この問題をどのように考えればいいのか,というのがこんにちの最大の課題でもあります。

 というような具合です。こんな話題がてんこもりになっている西谷さんの集中講義でした。これからノートを整理しながら,考えるべきヒントを抽出し,一つひとつ検討していきたいと思っています。三日間,15コマの,しかも濃密な思考のてんこもりのご馳走を,これからじっくり時間をかけて消化していかなければなりません。大きな宿題をたくさんいただく,素晴らしい集中講義でした。

 講義の最後のところでさらりと触れられましたが,この「医療思想史」は数カ月後には単行本になって世にでるとのことです。この本が出たら,おそらく大きな話題を呼ぶことになるでしょう。わたしはいまからそれを楽しみにしているところです。

 ということで,今回はここまで。

2014年12月24日水曜日

兵庫県たつの市の野見宿禰神社,菅原神社,そうめん神社(大神神社),斑鳩寺,などをフィールド・ワーク。

 今日(23日)は休日のため,集中講義はお休み。この休日を利用して,かねてからのお目当てである兵庫県たつの市の神社のフィールド・ワークにでかけました。ターゲットは,野見宿禰神社,南山天満神社(菅原神社),そうめん神社(大神神社),斑鳩寺,など。

 たつの市はグーグルの地図でリサーチしてみますと,不思議な地名があちこちに散在しています。同時に,神社もおやっ?と思われる神社がたくさん存在しています。これらは以前から気になっていたところです。

 地名でいいますと,太子町,斑鳩,富永,土師,などです。いまはわたしの記憶だけで書いていますので,思い出せるのはこの程度ですが,地図で精確にチェックしていきますと,もっともっとあります。

 まずは,太子町という町名。しかも,その中心部に斑鳩寺が存在すること。どう考えてみても聖徳太子との関連を考えずにはいられません。これはたつの市の市史などの文献にあたって,詳しく調べてみたいと思っています。斑鳩寺は広大な敷地をもち,古い本堂や三重塔などが点在しています。空間がたっぷりありますので,近所の子どもたちが野球をやったり,お堂の回廊などを駆け回ったりして遊んでいました。だれでも出入り自由な,公共のスペースとなっていました。奈良などにある古い寺社の管理され,観光化され,有料化されたイメージとはほど遠い,古い伽藍だけがただ建っているという印象でした。

 富永という地名は,わたしの頭のなかではトミノナガスネヒコ(神武天皇と最後まで戦った武将)を連想させます。全国に富永姓は広く分布していることはよく知られているとおりですが,地名として残っているのはあまり例がないのではないか,とこれまたわたしの推測です。

 土師(haze)という地名。この地名は間違いなく土師氏の一族が多く住んでいたことの名残であるということはよく知られているとおりです。土師氏といえば,野見宿禰に垂仁天皇が下賜された名前。この地名のある地域の山側に土師神社があって,そこの由来書には土師一族がここで多くの土器を焼いていたことが記されていました。

 フィールド・ワークをしたコースは順に,土師神社⇨南山天満宮(菅原神社)⇨野見宿禰神社⇨そうめん神社(大神神社)⇨たつの市歴史文化博物館⇨斑鳩寺。

 それぞれの神社から,想像をはるかに超えるインパクトのある印象をうけました。詳しいことは,また,追々このブログに書いてみたいと思っています。ここでは,ごく簡単に印象だけを書いておくことにします。

 南山天満神社(菅原神社)では,正月の準備をするために当番の人たちが集まって仕事をしていました。ですので,そこではいろいろの人とお話をすることができました。自治会長さんも声をかけてくださり,「南山天満神社」というA4で20ページにわたる資料をくださいました。ありがたいことです。詳しくはのちほど。

 野見宿禰神社は,これまた想像をはるかに超える,驚くべきロケーション,その規模の雄大さ,圧倒されるほどの迫力,長い参道,歴代横綱たちの寄進した玉垣の多さ,千家の家紋つきの門扉,塚(墓)を支えている大きな玉石の数,などなど,びっくり仰天でした。写真も多く撮ってきていますので,それらと併せてのちほど紹介したいと思います。

 摩訶不思議な思いをしたのが,そうめん神社(大神神社)です。この地に大神神社が存在することの不思議。そして,この神社名を覆い被せるようにして「そうめん神社」という名称が全面にでていて,新しい鳥居の扁額も「そうめん神社」となっています。大神神社といえば,奈良の中心を占める重要な神社。祭神はオオクニヌシ。そして,三輪そうめん。いろいろのことを連想をさせてくれる不思議な神社でした。ここは相当に調べないとその実態を明らかにすることは困難でしょう。しかし,真新しい社殿や鳥居をみると,いま,とても勢いのある神社だということは間違いなく伝わってきます。揖保そうめんの威力というべきでしょうか。

 以上,取り急ぎ,今日(23日)のフィールド・ワークの概略まで。

2014年12月23日火曜日

西谷修さんの集中講義初日聴講・神戸市外大。哲学とはなにか。

 今日(22日)から,神戸市外大で西谷修さんの集中講義がはじまりました。講義題目は,哲学特別講義。テーマは医療思想史。昨年,東京外大で西谷さんの同じ題目の授業を聴講させていただいていますので,わたしにとっては今回で2回目。感銘を受けた本をもう一度読み返す,それに似た印象を受けました。名講義です。

 その中のひとつを紹介しておきましょう。それは集中講義の冒頭でお話をされた「哲学とはなにか」です。細かなことは省略しますが,まずは,哲学の課題は「真・善・美」を明らかにすることにあると切り出し,その中心課題である「善」とはなにか,というお話をされました。

 そのもっとも優れた著作として西田幾多郎の『善の研究』(1912年,明治43年)があります。この著作は日本語で書かれた最初の哲学の本であります。しかも,西田の処女作であると同時に,哲学の核心部分に光を当てて,真っ向勝負にでた素晴らしい本です。西田は善について語ることはほとんど困難であると断わりつつ,その核心部分に脇目もふらずに迫っていきます。その意味で哲学のもっともまっとうな本であると言っていいでしょう。

 善とはなにか。これをわかりやすく説明すれば,以下のようになります。

 気持がよい──気持が悪い,という言い方をします。この場合の「気持がよい」が善である,と考えてよいでしょう。「気持が悪い」よりは,「気持がよい」方が生きる意欲がわいてきます。つまり,生きることを肯定するベクトルが「善」ということになります。

 ものがある,人が生きている,世界がある,人がいる・・・・・つまり,この世が存在することを肯定すること,人がここちよく生きることが肯定されること,これが「善」のベクトルであります。

 もう少し具体的な話に置き換えてみるならば,元気が出る,自分の気持がよくなると他人も気持よくなる,人を助ける・喜ばれる・嬉しい・お互いにここちよくなる,花に水をやる・花が元気になる・嬉しい,というような具合になります。

 つまり,存在という哲学のもっとも本質的なテーマが肯定されること,そして,それが意識化されること,これが「善」に向かう力となります。

そして,「善」には三つの要素があります。それが,「真・善・美」です。つまり,知的活動にとっての善が「真」,感覚にとっての善が「美」,そうしたものの存在を肯定するのが「善」です。

 繰り返しになりますが,より善く生きる=気持がいい=ここちよい=ひとりではできない=ケア(医療),という等式が成立します。生きるということをお互いに肯定すること,それが「善」である,ということになります。

 「医」のはじまりは「猿の毛づくろい」にある,と言います。毛づくろいは,お互いにやり合う,猿同士がここちよくなるためのマナーであり,健康法でもあります。つまり,この視点から「医」を考えること,そして「医療」とはなにかと問い直すこと,これは「善」の研究でもあります。つまり,哲学なのです。言ってしまえば,「通俗哲学」。この集中講義のテーマである「医療思想史」とは,「善」とはなにかを問う,わたし流の「通俗哲学」のひとつの手法でもあります。すなわち,哲学特別講義というわけです。

 というような観点から,医療思想史を考えてみたいと思います。

 という具合で,まあ,ずいぶん勝手なアレンジをしていますが,わたしが受け止め得た西谷さんのお話の,今日の冒頭部分のもっとも印象に残ったところです。

 取り急ぎ,今日の集中講義から。

2014年12月21日日曜日

連続講座「”アイデンティティ”をめぐる戦い──沖縄知事選とその後の展望」(島袋純)を聴講してきました。

 氷雨の降るなか,法政大学市ヶ谷キャンパスまででかけてきました。寒さから身を守るために完全武装をして。それでも寒いと震えながら。

 今日(20日)は,連続講座・「沖縄の地鳴りを聞く」の第2回目。第1回目がとても素晴らしい講座でしたので,今回もさぞかし・・・と期待しての聴講でした。ところが,講師の島袋純さんの沖縄からの飛行機が遅れてしまい,約45分遅れの開始となってしまいました。このロス・タイムはまことに残念。それでも島袋純さんは息せき切って駆けつけ,一息入れる間もないまま,熱弁をふるってくださり,わたしたちの期待に十二分に応えてくださいました。

 なるほど,沖縄の人びとが「アイデンティティ」を主張する根拠はそこにあったか,と納得のいく講座でした。そのキー・ワードだけをさきに挙げておきますと,以下のとおりです。主権の回復,人権侵害,立憲主義,主権国家,自治,民主主義,など。

 まずは,今日の講座の開催要領を紹介しておきましょう。
 連続講座・「沖縄の地鳴りを聞く」・第2回
 テーマ:”アイデンティティ”をめぐる戦い──沖縄知事選とその後の展望
 講師:島袋 純(琉球大学)
 場所:法政大学市ヶ谷キャンパス・58年館・855教室
 主催:普天間・辺野古問題を考える会(代表・宮本憲一)
 共催:法政大学沖縄文化研究所

 沖縄はもう黙ってはいない・・・,こんどのこんどこそ,地鳴りのような怒りが沖縄全土に谺している・・・その表出がさきの沖縄県知事選であり,こんどの衆議院議員選挙だったのだ・・・・そして,なぜ,このような結果となったか,と熱弁がはじまりました。

 まずは,冒頭のお話が,わたしには強烈な印象となって残りました。その概要は以下のとおりです。敗戦直後の沖縄の人びとの食料はすべて米軍が支給してくれました。と同時に,物資支給を条件に大量のスパイを養成し,網の目のような情報ネットワークを構築しました。その結果,沖縄の人びとは自由にものをしゃべることができなくなってしまいました。それでも,米軍は沖縄の裏社会にいたるまで隈なく情報を集め,支配の体制を整えました。この流れはいまも続いているように思われます。ですから,アメリカは日本政府よりも沖縄情報については詳しいと言ってよいでしょう。

 ということは,沖縄の今回の「オール沖縄」という組織を構築した上での選挙行動がどのようなものであったのかという点についても,日本政府よりもアメリカの方が情報の量も質も圧倒的に上であろうと思われます。そして,こうした新たな沖縄の動向に対して,アメリカはより有効な支配のための戦略を立てて,新たな工作をしてくるに違いありません。そして,日本政府はアメリカに追随するのみで,その関係性はこれまでと少しも変わることはないでしょう。

 となると,沖縄県民の主張はまたもや無視され,植民地状態から抜け出すことは不可能となってしまうでしょう。しかし,今回の選挙行動は,そんなことも折り込み済みで,いかなる困難があろうとも徹底して米軍基地を排除する,という強い決意表明でした。なぜ,これほどまでに強烈に沖縄県民の意思をひとつにまとめることができたのでしょうか。

 それは,沖縄県民のアイデンティティはなにか,という根源的な問いに多くの沖縄県民が気付いたということです。つまり,沖縄県民をひとりの人間として認めよ,という要求でもあったということです。別の言い方をすれば,主権の回復を,真っ正面から求めたということです。

 1972年の本土復帰以後も,ずーっと沖縄県民の主権は無視されつづけてきました。場合によっては,それ以前よりももっと酷い状態になってきています。そして,この状態は明らかに人権侵害であり,民主主義の否定です。同時に,主権在民を謳った立憲主義にも反しています。簡単に言ってしまえば,憲法違反です。この状態から抜け出すこと,これが「オール沖縄」を組織し,党派を超えて一丸となった,最大の理由です。

 という具合に,島袋純さんの話は佳境に入っていきます。詳細については,とても,ここで書き切れるものではありませんので,割愛します。で,最後に,この講演を締めくくることばとして,一歩,踏み込んだ仮説を提示されていますので,それを紹介しておきたいと思います。それは以下のとおりです。パワー・ポイントからの文言をそのまま転記しておきます。

 自民党憲法改正案では,立憲主義の否定,国際立憲主義からの脱落を意味し,その差別と人権侵害が解消される可能性がなくなる。

 ⇨憲法改正の国民投票をやって,日本全体では可決され,しかし沖縄で改正否決された場合,自らの不可侵の権利を守るために沖縄はすみやかに,立憲主義的プロセスを経て,自らの憲法を制定し,独立主権国家になるべきでは。

 そのための「権利章典」の必要性(人権と憲法制定権力)。

 以上です。この文言の迫力はすさまじいものがあります。しかし,この「沖縄独立」までのことを視野に入れた結果が,今回の沖縄の選挙行動であった,ということです。すなわち,沖縄は,立憲主義を否定するような国家に帰属する必要は,もはや,ない,と覚悟を決めた,ということです。これが「アイデンティティ」をめぐる戦いの実態であった,というわけです。

 ここには,もはや,沖縄と本土という視点はありません。ここにあるのは,沖縄と日本とが対等の関係にあり,真っ向からの立憲主義をめぐる挑戦そのものです。そして,そのことの矛盾に気づかない日本国にはほとほと愛想がつきたので縁を切る,と高らかに宣言しています。

 とうとう沖縄から絶縁状をつきつけられようとしています。さてはて,日本国の住民であるわたしたちが,どの段階でどのように「覚醒」することになるのか,他人事ではなくなってきました。これから,大いに議論をしていかなくてはならない重大な局面を迎えたことになりました。とうとう,沖縄から引導を渡された気分です。

 みなさんのご意見はいかがですか。

2014年12月20日土曜日

天保年間(1830年代)の子どもの正月遊び。

 連載・絵画にみるスポーツ施設の原風景の第35回目が掲載されましたので,ご紹介させていただきます。季節の話題ということで,テーマは「天保年間(1830年代)の子どもの正月遊び」(『SF』〔Sports Facilities 〕,体育施設出版,12月号,P.13.)です。

 
いまから200年足らず前の,精確にいえば,184年前の子どもの正月遊びの風景です。184年前を遠い過去とみるか,つい,この間とみるかは人によって差があるでしょう。わたしの感覚では,つい,この間のことではないか,と思えてなりません。わたしが生まれたのが1938年ですから,そこから数えてみれば,たった100年余です。少し背伸びをして手を伸ばせばとどきそうな年数にすぎません。

 ですから,たった184年の間に,子どもたちの正月遊びというものが,めまぐるしく変化してきたことに驚きを禁じ得ません。こんなわずかな期間に,すっかり様変わりをしてしまった子どもたちの正月遊びを,どのように考えればいいのだろうか,と考え込んでしまいます。

 第一,正月に子どもたちが群れて遊ぶ光景など,いまでは想像すらできません。つまり,正月を言祝ぎ,親公認の子どもたちだけの正月遊びという文化そのものが,どこかに消え失せてしまいました。ですから,正月は特別な意味をもつ日ではなく,日常の延長とほとんど変わらなくなってしまったのではないでしょうか。あるとすれば,お年玉がもらえる新年だ,くらいの意識ではないでしょうか。あとは,家族で初詣にでもでかけるくらいのものでしかないのでしょう。だとしたら,なんとも,寂しいことでしょう。

 わたしの正月の記憶は,第二次世界大戦後(1945年以後)からはじまります。空襲で焼け出され,着るものも食べるものも,なにもなくなり,まさに0(ゼロ)からの再スタートでした。焼け出されたのが1945年6月の中頃のこと。街全体が火事同然,燃え盛る家の間をかいくぐって,防空頭巾で身を固め街はずれの神社まで逃げ延びて,なんとか一命だけはとりとめました。

 夜が明けて,街をみると見渡すかぎり焼け野原です。焼け死んだ人の丸焦げの死体もあちこちでみかけました。もちろん,食べるものとてなにもなく,家族揃って,ぼんやりと住んでいた家の焼け跡に立っていました。午後になって,母の実家の寺の大伯父が消防服に身を固め,自転車でおむすびをもって駆けつけてくれました。このときのむすびの美味かったこと,生涯忘れることはありません。その日の夕刻には街はずれの駅から先の田舎に向かう電車が動きはじめたというので,その駅まで歩き,長い時間,電車を待って,夜になって大伯父の寺に到着。もちろん,停電していましたので,真っ暗な寺の衆寮で眠りにつきました。

 それから以後,疎開生活がはじまりましたが,その年の8月には敗戦となり,戦争の恐怖からは解放されました。暑い夏の間はよかったのですが,秋から冬にかけて寒くなってくると,着るものがなくて苦労しました。それでも,正月がくるのを胸躍らせて待っていました。小学校唱歌のとおり,「もういくつ寝るとお正月・・・」と指折り数えながら,楽しみにしていました。

 正月には,寺の広庭で従姉妹たちといろいろな遊びをして楽しみました。凧あげ,羽子板,こま回し,石けり,など。家の中では火鉢を囲み,綾取り,双六,将棋,トランプ,などをして遊びました。大伯父のところには蓄音機もありましたので,レコードなるものも聞かせてもらいました。いま思い返してみても,それはそれは楽しい正月でした。

 考えてみれば,わたしの子ども時代の正月遊びは,基本的に天保年間のものとほとんど変わってはいません。それが,あれよあれよという間に変化しはじめるのは,東京五輪1964年以後のことだと記憶しています。とりわけ,近年の2,30年くらいの間に,子どもの遊びはすっかり変わってしまいました。

 遊びが変わると子どものこころもからだも変わってしまいます。まさに,新人類の誕生です。その余波が,ここにきて理解不能な不祥事となって表出しているように思います。それは,すでに,大人の世界にまで広がってきています。

 正月にどんな遊びをして過ごすかは,じつは,子どもの成長にとってはきわめて重要な意味をもっているのだ,ということを忘れてはなりません。

 この話のつづきはまたいずれ。長くなってしまいましたので,今日のところはここまでとします。

 たかが正月遊び,されど正月遊び。

2014年12月19日金曜日

東京五輪2020は大丈夫か。隅田川・荒川の放射能汚染が止まらない。

 12月19日(金)の東京新聞朝刊トップに,福島事故放出セシウム/隅田川底土 続く蓄積(本紙調査),という記事がかかげられています。また,32面にも大きな写真で具体的な調査場所とそれぞれのセシウム汚染の数値が紹介されています。その数値は上流から下流になればなるほど高くなっています。中流でも蛇行している内側の泥土が溜まりやすいところの値は高くなっています。写真をご覧ください。一目瞭然です。

 
 
 
こういう記事を読むと,やはり駄目か,と思ってしまいます。

 それはひとり東京五輪2020の開催だけではなく,東京での都民の生活そのものが,じわじわと脅かされているという事実です。そして,やがては最悪の事態が,つまりは棲めなくなるのではないか,と。このままでは,破局に向かって一直線ではないか,と。

 放射能汚染は,いまもなお,手も足も出せない状態のまま,空に海に垂れ流しです。とんでもない汚染が日本だけではなく,世界中に広がっています。まさに非常事態にあることを,わたしたちは忘れてはなりません。第二次世界大戦による「敗戦」に次ぐ,二回目の「敗戦」だ,ともいわれています。だから,国の総力を挙げて,敗者復活に取り組まなくてはなりません。

 ところが,安倍政権はほとんど無視。それどころか原発の再稼働に向けてまっしぐら。のみならず,原発輸出にまで触手をのばし,アベ君は「死の商人」よろしく,外国のあちこちに売り歩いています。この愚行に歯止めをかけられない,わたしも含めた国民はだらしがないとしか言いようがありません。一刻も早く,沖縄県民のように覚醒し,「金よりも命」を最優先する生き方を選択する国民をひとりでも多くする努力をしていかなくてはなりません。

 ことしに入って立て続けに出版された西谷修さんの著書,『アフター・フクシマ・クロニクル』と『破局のプリズム──再生のヴィジョンのために』(いずれも,ぷねうま舎)を,もう一度,読み返しながら,東京五輪2020について深く考えてみたいと思います。

 そろそろ,東京五輪2020返上論も視野に入れて・・・・。 

沖縄県・北大東島を巣立つ15歳 別れの親子相撲。NHK・にっぽん紀行より。

 12月18日午後7時30分から放映されたNHK・にっぽん紀行「沖縄県・北大東島を巣立つ15歳 別れの親子相撲」を見ながら,なぜか,涙がながれて止まらなかった。いまはもう遠いどこかに置き忘れてきてしまった少年時代の素朴な情愛に満ちた人と人との交わりを思い出す。遠い過去の故郷の,なんとも表現のしようのない不思議な記憶が蘇ってくる。それがまた情動の古層をくすぐってくる。その強烈な「なにか」が,長く生きたこんにちの孤独なこころをホワーっと包み込んでくる。この情感に久しぶりに触れる。

 そして,このドキュメンタリーに描かれた世界こそが「生きる」ということの素のままの姿であり,「根をもつ」ということの実態のひとつなのだ・・・と感慨にふける。

 番組の内容はきわめて単純明快。中学を卒業したら北大東島を離れて沖縄本島の高校に進学する父親と息子,母親と娘の二組の親子にスポットを当てたドキュメンタリー。島の人びとが見守るなかで,父親と息子は相撲をとり,母親と娘は腕相撲をやって別れの儀礼を行う。ただ,これだけの話である。

 しかしながら,沖縄県とはいえ,大東島諸島は沖縄本島から遠く離れた東の海に浮かぶ小さな島である。高校進学によって一度,島を離れたらそんなにかんたんには帰っては来られない。海人である父親は息子が小さいときから一緒に舟に乗せて漁にでて,手塩にかけて育ててきている。息子は父親を尊敬し,高校を卒業したら島に帰って父親と同じ海人になることを夢見ている。父親は海人で生計を立てるのは難しくなってきているから,できれば別の職業につくことも視野に入れながら,息子の将来に夢を馳せる。

 そんな父と子が,これは島のしきたりとして,別れの親子相撲をみんなの前でとってみせる。父親は,まだまだ15歳の息子なんかに負けるわけがない,と固く信じている。だから,あっさりと投げ倒して,もっとしっかりせい,と檄を飛ばしたいと虎視眈々としている。いっぽう,息子は息子で,もはや父親にも勝てるほどに成長していることを,意地でも見せつけてやりたいとこころに決めている。そこには,いまの都会ではめったに見ることのない親と子の情愛に満ちた絆がある。その二人が真剣勝負の一番相撲をとる。

 この相撲をよくみると,わたしたちが子どものころに村祭りでとった相撲とは違う。それは韓国でみたシルム(韓国相撲)とよく似ている。柔道着のようなものを着て,やや緩めの腰帯を結んでいる。土俵はなく砂場。最初に,お互いに「右四つ」にしっかりと組み合う。そのとき,右手首は相手の腰帯の内側に入れて,ひとひねりして手首に腰帯をまきつけてから腰帯をしっかりと握る。左手はそのまま相手の腰帯をつかむ。お互いに十分に組み合ったことを確認したところで,行司が両者の肩をポンと叩いて試合開始を告げる。

 土俵はないので寄り切りはない。立ち合いのぶつかり合いもない。相手を投げて倒すまで,お互いに組んずほぐれつしながら,相撲をとりつづける。このシルム型の相撲はなかなか勝負がつかない。なぜなら,さまざまな投げ技に対して,それぞれに対応する防ぎ技があるので,片方が投げ技を繰り出すと,かならず他方は足を絡めて防御に入る。だから,勝負には時間がかかる。

 この父と子も長い時間,組み合って,熱戦を繰り広げる。お互いに技をつぎつぎに繰り出す。すると,お互いにその防ぎ技でこらえる。父も子も真剣そのもの。父が強引な投げにでる。子は必死でこらえて,二人一緒に頭から土俵の砂に突っ込んでいく。行司は同体とみて,取り直し。

 右手はお互いの腰帯を巻き付けてから握っているので,投げられても離せない。お互いに握ったまま倒れていく。だから,一緒に倒れていきながら,体を入れ換えるようにして上に乗った方が勝ち。下になった方が負け。この父と子の対決は,わずかに子の体が上になって倒れ込んでいき,決着がつく。息子の勝ちである。

 この間,わたしの眼からはとめどもなく涙が流れる。そして,からだ全体が熱くなってくる。「いいなぁ」としみじみ思う。ふと,わたしが中学校を卒業するときに,父親と相撲をとったら,どんな風になっただろうか,と想像してみる。そう思い浮かべるだけで,父のからだの温もりを感じてしまう。このからだの触れ合いこそが,言ってみれば,自他の関係性のはじまり。それが父と子であれば,その感慨も一入であろう,と思う。

 そういえば,南大東島出身のNさんは,からだは小柄だが,相撲は強かったと聞いている。そうか,なるほど,と納得がいった。本土の相撲のように土俵があって,立ち合いから激しく攻め合う相撲を思い描いていたので,どうして,あのNさんが強かったのか不思議だった。このシルム型の相撲なら合点がいく。おそらく,守って守って守り抜き,相手のスタミナが切れたころを見計らって,さっと投げに出て,相手に覆い被さっていったのだろう,と。そうか,Nさんのあのねばっこい文体は相撲からきている,とこちらも納得。

 それはともかくとして,「別れの親子相撲」という,こんな相撲文化もあることを知り,いまさらながら相撲の奥は深いとしみじみ思いました。というところで,終わり。

2014年12月18日木曜日

「ゾンビ議員」の怪。沖縄自民党議員の復活劇。三上智恵さんのブログより。

 ドキュメンタリー映画「標的の村~国に訴えられた沖縄・高江村の住民たち~」で数多くの賞を受け,絶賛された監督・三上智恵さんのブログを読み,思わず「快哉」と叫んでしまいました。ぜひにお薦めしたくて,このブログを書くことにしました。

 その前に,少しだけ不可解なことがありましたので,そのことを・・・。
 今朝(18日)の早朝7時16分に,わたしのメールに,西谷修さんが「シェアしました」という知らせが飛び込んできました。早速,開いてみますと,つぎのようなメッセージがでてきました。

 このページはご利用できません。
 リンクに問題があるか,ページが削除された可能性があります。

 おやっ?と思いながらも,時間を空けて,何回も試みてみましたが,どうしても開くことができません。そこで,西谷さんのFBを確認してみましたところ,ここにアップされていません。ウヌッ?さては削除されてしまったのか?とうとうここまできたか,と思わず考え込んでしまいました。でも,ほんとうのところはなにが起きているのかはわかりません。

 「シェアしました」というお知らせメールのなかに,www.magazine9.jp というアドレスがありましたので,そこを開いてみました。こちらは無事に開くことができました。これは三上智恵さんが主宰している「マガジン9」のHPで,ここに西谷さんがシェアしたという三上さんのブログが掲載されていました。

 三上智恵の沖縄撮影日記<辺野古・高江>
 第20回 世にも不思議なゾンビ議員~全員当選の怪~

 これが見出しです。そして,ブログの書き出しは以下のようです。

 むかし,ある南の島に
 大きな国の手先になって島民を騙した
 不正直な4人の政治家がいました。
 島民は怒って
 正直な政治家を4人選びなおし
 不正直な4人を棺に入れました。
 これで一件落着。
 ところが。
 翌朝,当選者の列には
 甦った4人が全員並んでいました。
 驚いた島民は彼らを
 ゾンビ議員と名づけましたとさ。

 ここからはじまって,なぜ,こんなゾンビ議員が出現してしまうのか,そのからくりをもののみごとに露呈させてくれます。つまり,小選挙区と比例区という選挙制度を,戦略的にとことん悪用することによって,こうなる,と。つまり,民意は小選挙区で反映させることができるけれども,比例区は政党の都合でいかようにも操作することができる,というわけです。この手を使って,小選挙区でNOをつきつけられた自民党候補を,全員,比例区ですくい上げたという次第です。

 最初から沖縄県の自民党候補は厳しい戦いになると予想されていましたので,自民党の選挙本部はすべての沖縄県の自民党候補を比例区の上位にランクしたわけです。ということは,選挙をやる前から「当選確実」であったわけです。つまり,沖縄県民の民意とはまったく関係のない本土の得票数を,沖縄県の自民党候補に回せば,それですべて「めでたし」となってしまうからです。

 すなわち,沖縄県民が騙された怒りをそのままぶっつけ,自民党候補に引導をわたしたにもかかわらず,その民意をあざ笑うかのようにして,比例区で全員を拾い上げてしまうという,もっとも卑劣な手段を自民党の選挙本部は最初から仕組んでいた,というわけです。

 この結果はどうなるのか。辺野古移設工事反対派の議員が4人(小選挙区=民意),賛成派の議員が4人(比例区=自民党=一度,引導をわたされてから甦ったゾンビ議員),あと1人も賛成派にまわれば,5対4で,賛成多数を構成してしまうというわけです。こうして沖縄県民の「民意」に蓋をしてしまうという,政府自民党のあくどい,というかあざとい「裏技」がいかんなく発揮された,という次第です。

 このあたりのことを,もっと,沖縄県民の意思に寄り添うかたちで,三上さんは持論を展開されています。沖縄県民がどのようにして「覚醒」したのか,そのプロセスもみえてきます。ぜひ,読んでみてください。

 このブログのなかには動画も埋め込まれていて,これがまた秀逸です。「沖縄から日本をよくするのだ」という文子おばあの発言が,わたしの胸にずしりと重くのしかかってきました。あの「標的の村」を彷彿とさせる,文子おばあの声が耳にいつまでも残ります。

ご参考までに。是非,ご一読を。

2014年12月17日水曜日

沖縄のジャーナリズムは健在。『沖縄タイムズ』と『琉球新報』を購読しはじめて見えてきたこと。

 意を決して,12月1日から『沖縄タイムズ』と『琉球新報』の二紙をネット購読することにした。両紙ともに二カ月は無料購読できることになっていたが,そんなケチなことはしないで有料の契約を結んだ。こんなところで金をけちってはいけない,と自戒しつつ。

 最初はパソコンの画面で新聞を読むということに慣れていなかったので,どことなく違和感があった。しかし,慣れるにしたがって,パソコン画面の利点もみえてきた。たとえば,活字の大きさを自由自在に操作して,自分の読みやすい大きさにすることができる。これはとても助かる。読むスピードもアップする。不得手だった斜め読みも少しずつできるようになってきた。

こうして両紙を読み比べてみると,いろいろと考えることが多々見つかって,面白くなってくる。最初にみえてきたことは,両紙が競い合うようにして,ジャーナリズム・スピリッツを遺憾なく発揮しているということだ。じつにみごとに是々非々の姿勢を両紙ともに貫いている。ジャーナリズムがここではまだ健在そのものだということが,この両紙を読んでいるとわかってくる。中立・公正ということはこういうことだ。それができない新聞となれば,読者が離れていく。つまり,死活問題だ。だから,真剣そのものである。そのことは感動的ですらある。

 わざわざ政権党が文書でマスコミ各社に「中立・公正」を提示するまでもないことだ。それどころか,その姿勢そのものこそが中立・公正を認めず,政権党に不利な報道をするな,とプレッシャーをかけていること以外のなにものでもない。笑止千万である。にもかかわらず,それに真っ向から異論を唱える大手新聞社も見当たらず,それに輪をかけたように選挙協力までしてしまったではないか。あきれてものも言えないとはこのことだ。

 その点,沖縄の両紙にみる,今回の選挙に関する報道の仕方はみごとだった。すべての候補者をくまなく取材し,すべてに平等に批評を加え,紙面での情報量もつとめて均等になるよう努めていたように,わたしは見えた。この点は,ヤマトの大手の新聞各社とは大違いだった。いま,評判の『東京新聞』ですら,足元にも及ばないほどの,厳正な中立・公正の立場を貫いていた,と評価してよいだろう。

 だからこそ,沖縄県民の選挙行動は節度のあるものとなった,と言ってよいだろう。それを支えたのはひとえに両紙の情報の質の高さにあった。たとえば,各候補の主張の違いをきちんと整理するだけではなく,各政党の基本的な姿勢の違いもわかりやすく解説していたことがある。そして,小選挙区制度にもとづく選挙のメリット・デメリットについても,きちんと解説を加え,政党の方針をしっかりと見極めることの大切さをも説いていた。こうして,沖縄県民の一人ひとりが考えに考え,みずからの姿勢を固めて,重い一票を投じたのだ。このようにして,沖縄県民の,いわゆる民意というものが構築され,表明されたのだ。

 その答えが,自民NO,だった。

 にもかかわらず,小選挙区選挙で落選した自民党候補が,比例代表で全員が復活するという珍事が起きた。これが小選挙区選挙の最大の矛盾点だ。制度的にはなんの問題もないのだろうが,自民NOをつきつけたつもりの県民にとっては,なんともいえない違和感を覚えたに違いない。そして,いまもなお,選挙とはなんなのか,民主主義とはいったいどういうことなのか,民意とはどういうことなのか,と基本的な懐疑を生んでいることだろう。

 こうして,沖縄県民の多くが,選挙とはなにかというレベルの高い教訓を,またひとつ学ぶことになった。民意とはなにか。沖縄県民の民意はどこまでいってもヤマトの政権党には無視されてしまう。辺野古移設反対も10万票もの差をつけた民意にもかかわらず,「これまでどおり粛々と進める」(菅官房長官,安倍首相)と平然と言ってのけた。そしてまた,国会議員としは認めないとした民意もなんのその,復活で全員が議員となる。こんな,とてつもない矛盾を,この短期間のうちに沖縄県民は,またまた,体験しているのである。

 こんな話をあるところでしたところ「いまの人は新聞なんてほとんど読んではいないよ。そんなきれいごとを・・・」と一笑に付されてしまった。これがヤマトの常識だろう。しかし,沖縄では新聞を読まない人間は非常識とされる。毎日,ほとんどの人が新聞には眼をとおす。なぜなら,これもヤマトの人間には理解不能だろうが,沖縄の両紙には毎日,「訃報」が全面広告として掲載される。そして,少しでも縁故のあった人のところには必ず香典をとどける習慣がある。たとえば,千円でもいい。それをしておくことが,沖縄県で生きていくためには不可欠だ,という。だから,朝起きたら訃報を確認するのが習慣化している。

 「友だちの友だちはみんな友だち」という密度の濃い人間関係が,いまも大事にされている県民性を,わたしたちは笑うことはできない。「もやい」のシステムがいまも生きている世界だ。人が生きるということがどういうことなのか,という原点についての理解が,ヤマトとはまるで異なる。このことも,両紙を購読するようになって,しみじみとわかってきたことである。

 このブログの冒頭で,「意を決して,両紙を購読することにした」と書いたのは,前回の沖縄県知事選挙の結果をみて,この人たちの選挙行動がどのようにして形成され,構築されているのか,というその実態を知りたかったからである。言ってみれば,沖縄県のジャーナリズムの実態を知りたかったからである。このことについては,また,機会をあらためて考えてみたいと思う。

 いずれにしても,まずは,「沖縄のジャーナリズムは健在」だ。このことを銘記しておこう。

2014年12月16日火曜日

ジャーナリズムの「死」。大手マスコミが政権党に操られた戦後最悪の選挙。

 安倍の,安倍による,安倍のための選挙。

 政権党が露骨に大手マスコミに圧力をかけた。「中立・公正」という名の暴力装置。文書まで送りつけて。この圧力そのものが「中立・公正」を欠いている。レッドカードにも等しい。即刻,退場を命ずべし。

 にもかかわらず,それを大手マスコミがこぞって支えた。世論調査という名の世論「操作」によって。NHKはその先陣を切った。もはや,政権党御用達の放送局以外のなにものでもない,そういう事実をつくってしまった。受信料を返せ。

 あとは,みんな「右へならへ」。そう,「右」へならへ。

 ジャーナリズムの完全なる「死」。

 多くの国民は絶望し,投票所に行くことを諦めてしまった。
 そう,情熱を失ってしまったのだ。あまりの馬鹿馬鹿しさに。
 その結果,全国民の二人に一人は,選挙を放棄した。
 選挙に無関心派も,どうでもいいと思った人たちも,腹を立ててカンカンに怒って選挙を放棄した人たちも,選挙そのものを否定したことに変わりはない。

 つまり,約半数の国民が,選挙そのものにたいして「NO」をつきつけたのだ。

 こんなことは戦後初のできごとだ。

 政治への失望。

 これこそがこんどの選挙が露わにした最大のポイントだ。

 政治への失望。無力感。このことの意味を政権党はしっかりと考えるべきではないか。
 アベ君は「国民は自衛権を支持してくれた」とのたまった。ならば,沖縄の「民意」(辺野古移設反対)も重く受け止めるべし。こちは無視しておいて,都合のいい「民意」だけを受け止める。それでは,まるで,子どもの遊びではないか。

 大手マスコミのほとんどが「自民党圧勝」を伝えている。スポーツと同じ感覚で,勝った,負けた,と騒ぎ立てる。結果しかみてはいない。重要なのはそのプロセスであり,その内実だ。いかにして勝ったのか,いかにして負けたのか,その理由を明らかにすることだ。それがジャーナリズムの仕事だ。その一番大事なことを忘れている。あるいは,放棄している。

 じつは,自民党は圧勝ではなかった,とわたしは受け止めている。12年の選挙にくらべたら,議席数も得票率も減っている。しかも,公明党との選挙協力によって,大いに助けられた結果がこれだ。それに引き換え,共産党は大躍進だ。反自民党の行き場を失った票が流れたと言ってよい。これぞ,国民の強い意思表示だ。沖縄県では,共産党候補が自民党候補を破って当選した。ここに働いた沖縄1区の人びとの意思をこそ注目すべし。

 数字を少しだけ確認しておこう。

 まずは,投票率。52,66%。戦後最低の投票率。約半分が棄権。
 自民党の得票率は25%。獲得した議席は75%。小選挙区制の矛盾点が露出。四分の一の得票率で四分の三の議席を獲得。自民党が得た票を,全有権者数との割合で計算してみると,たった17%。全有権者の五分の一にもはるかに満たない得票にもかかわらず,絶対安定多数(独裁に道を開く条件)の議席を確保した。こうなると,あとは,やりたい放題となる。

 実質的には,こんな数字にもかかわらず,アベ君は憲法改正を目指すと公言。やれるものならやってみろ,と声を大にして言いたい。こうなったら,最後の砦である国民投票でブロックするところに活路を見出す以外にない。

 いよいよ,明日からでも早速に,憲法改悪反対のための,小さくてもいい,身近な組織を構築することからはじめよう。そして,やがては「オール日本」を組織する運動に拡大していこう。まずは,少しずつ輪を広げ,やがては大きな国民運動にまで立ち上げていくことが不可欠だ。「オール沖縄」をお手本にして。

 そして,そのためには,みんなが覚醒すること。いつまでも「茹でカエル」のままぼんやりと夢をみている場合ではない。そういう危機意識を共有することのできる運動体を組織し,地道な運動を展開すること。沖縄県民を見習いつつ。

 こういうことを語りはじめると際限がなくなってくる。このあとの話はまた,別稿で書くことにしよう。今日のところはここまでとする。閑話休題。

2014年12月15日月曜日

月一回の定期診察のご報告。かなり回復。ほぼ正常に。安心。

 悪夢のような選挙結果を横目で睨みながら,今朝の8時20分には病院入り。できれば水も飲まないでくるように,と言われ素直に守る。8時30分診察開始なので,ほとんどだれもいないのではないかと思って中に入ったら,びっくり。もうすでに,ロビーにある長椅子は診察開始を待つ人でいっぱい。老人が多いが,意外にも若い人もいる。

 今日の予定は,血液検査,超音波によるエコー検査,CTスキャン。その結果を見届けたところで主治医の診察。長時間を覚悟していたが,たいして待たされることもなく順調に検査が進む。終わってしばらくしたら,診察の呼び出し。えっ,もう?と半信半疑。いつもよりも早いペース。ありがたい。

 「その後,どんな具合でした?」が主治医の第一声。
 できるだけ正直にこの一カ月のからだの状態を報告。でも,あまり元気さを強調しないように,そこだけは抑えめに報告。そして,質問も兼ねて「抗ガン剤はなかなかからだから抜けないものなんですか。まだ,なんとなく抗ガン剤に支配されているようなからだの感覚が残っていますが・・・」と問うてみる。「いや,抗ガン剤は30日くらいで抜けます。長くても40日くらいで」と主治医。「ああ,そうですか。じゃあ,気持の問題かも知れませんが,自覚症状としては,まだ,抗ガン剤を飲んでいるような気分です」「たぶん,もっと別の複合的な作用があって,からだがそれに反応しているのではないかと思いますよ」・・・・といったような会話がつづく。

 で,最後に,「最近になって仕事が増えてきていて,それをきっちりやり遂げたいので,もう,しばらく様子をみたいと思います」「ああ,そうですか。まあ,全体的にはほとんど順調に回復してきているので,抗ガン剤はいつ再開してもいい状態だと判断しています。が,そういう気持が強いようでしたら,もう,一カ月,様子をみることにしますか。ただし,もう一度,抗ガン剤はやっておいた方がいい,というのがわたしの考えです」「ああ,そうですか。じゃあ,来月までのからだの状態を見届けて考えてみたいと思います」「わかりました。じゃあ,そうしましょう」で診察,終わり。

 今日はいつものような無駄な会話はしないで退室。そのとき,まだ,CTスキャンの造影剤の注射針が刺さったままだったので(30分は院内で様子をみとどけてからはずす,という話),その処置を隣室でやることになっていました。ですから,余分なことは言わない方がいい,というのがわたしの判断。でも,ちらりと主治医さんの顔を覗き込んでみたら,あれっ?もう行くの?というような顔にみえました。これも,わたしの気のせいかも・・・・。

 というわけで,あと一カ月,抗ガン剤はお休み。主治医さんは,わたしが逃げ腰であることは先刻,お見通し。ですから,わたしのいいなりにしてくれているようです。さて,来月はどのような心構えで診察を受けようか,これからしっかり考えてみようと思います。このままいけば,ほぼ,間違いなく元気(病気をする前の元気)をとりもどすことができるだろう,というのが自己診断。ですから,抗ガン剤を再開するか,このまま,ずるずると飲まない決意を固めるか,重大な岐路に立たされることになります。

 まあ,できるだけからだの声に耳を傾けることにしよう,といまは考えています。最終的には,なるようにしかならない,と覚悟は決めていますので・・・・。

 いま,考えていることは,加齢とともに進行する老化現象の進み行きと,かりに癌が転移,あるいは再発した場合の病状の進展のスピードと,どちらが早いか,ということがひとつ。もうひとつは,抗ガン剤の副作用と戦ってでも長生きをしたいと思うか,それとも,癌のことは忘れることにして,とりもどしつつあるからだの喜びを満喫することにするか,の二者択一です。まあ,自然派のわたしとしては,加齢とともに変化するからだとのんびりと付き合いたい,というのが本音です。その選択によって早めに最後がやってきても,それはそれでいいのではないか,と。

 以上,今日の診察の結果とわたしの所感まで。

2014年12月12日金曜日

安倍政権「亡国」論。西谷修さんがブログを再開。必見。

 ずっと楽しみにしていた西谷修さんのブログが,ここしばらくお休みでした。が,この選挙をきっかけに再開されました。書かないではいられない,というのが再開のことば。ありがたいことです。わたしにとっては,とても大事な道しるべですから。

 西谷修さんのブログは「言論工房 Fushino-hito」(http://fushinohito.asablo.jp/blog/)で検索してみてください。復活第一号のブログは,2014/12/08 「亡国」の未来──「国破れて山河も無し」です。冒頭に再開のご挨拶〔前口上〕があって,つづけて,安倍政権は「亡国」政権,と切り出し,この政権のやっていることは,1)アベノミクス──この欺瞞性,2)戦後レジームからの脱却,3)無責任体制──秘密保護法,の3点を挙げ,じつにわかりやすいことばで解説を加えてくれています。このように書いてくださると,だれが読んでもすんなりと納得できる内容になっています。

 このブログの最後のところでは,こんな政権は即刻退陣してもらわなくてはならない,と論じています。そして,好むか好まないかは眼を瞑って,自民党候補と競り合っていると思われる野党候補に一票を投ずる,いわゆる「戦略的投票」を提案されています。そして,そのための情報を得る手段として,「さよなら安倍政権,自民党議員100人落選キャンペーン」(http://ouen100.net/)を参照するよう薦めています。これは開いてみると,日本全国の選挙区の候補者の前回の投票数をリスト・アップして,今回の候補者への期待値を推測していて,とてもいい参考になります。最後の追い込みで「激戦」になっている選挙区では,かなり重要な参考になると思いますので,ぜひ,検討してみてください。

 再開,第二回目のブログは,2014/12/10 狼はここにいる!──為政者を免責する稀代の悪法,というタイトルです。ここでは,第一回目のブログを引き継いで,さらに,秘密保護法を詳しく解説し,これこそ,まさに,だれも責任をとらなくて済ますための,いわゆる「無責任体制」を目指す最悪の法律である,と強調されています。

 この二つのブログを支える,もっと大きな視野に立つ,つまり,世界的視野に立つ,日本という国家の立ち位置をみごとに描き出した論考が,『世界』1月号の特集・戦後70年 歴史改ざん主義とたたかう,に寄せた「重なる歴史の節目に立って──戦後70年と日本の『亡国』」というものです。ぜひ,こちらも参照してみてください。そうすると,西谷さんがブログで書かれたことの説得力が倍増します。つまり,安倍政権がめざしている深い,深い企みの根っこまでが,鮮明に浮かび上がってきます。

 選挙まで,あと一日を残すのみとなりました。投票日までに,ぜひ,この西谷さんのブログに眼をとおし,できることなら『世界』1月号の論考も読まれて,みずからの投票行動のスタンスを固められることをお薦めいたします。

 なお,選挙が終わってもなお,西谷さんのブログは必見だと思います。みずからの思考を整理する必要が生じたときには,ぜひ,こちらを参照してみてください。教えられることが山のようにあります。そして,みずからの視界が開けてくること請け合いです。

 そこには,これまでの思想・哲学を批判的に超克して,さらなる知の地平を切り拓こうとする西谷さんの計り知れない情熱が流れています。その思考の原点は,生身のからだをもった人間のための思想・哲学にあります。西谷さんは,その思考のネーミングに苦慮されていて,世間でいうところの「世俗哲学」ではなく「チョー哲学」だ,とジョークまじりに笑いながら仰っています。が,かなり本気でもあります。

 これから書き継がれるであろう西谷修さんのブログにご注目ください。必見です。

秘密保護法?早くもブログやFBの閉鎖/削除がはじまっているらしい。おそろしや。

 12月10日。特定秘密保護法施行の日。この日を境にして,早くもブログやFBの削除がはじまっているらしい。そういう情報がネット上を飛び交っている。

 そんなバカな・・・と思っていたら,わたしのFBとリンクしているFBが半日後には開けなくなっている。それも2件。どこで,だれが,どのような意図で,このようなことをやっているのかわからない。当事者にもなんの連絡もなく,突然,削除されている,という。空恐ろしい。

 ひょっとして,このブログも危ないのでは・・・などと本気で思ってしまう。大急ぎでバックアップの手当てをしておかなくては・・・と考える。

 わたしをこんな気持にさせるだけで,特定秘密保護法施行の効果はすでに十分に機能しはじめた,ということなのだろう。どこかでほくそ笑んでいるヤツがいるはず。

 ツイッターやラインの方はどうなっているのだろうか。わたしはやっていないのでわからないが。たぶん,こっちの方も狙い撃ちがなされているのではないだろうか,と想像している。

 となると,SNS全体がとんでもないことになってしまう。政権党にとって不都合なものがつぎつぎに削除されていくとしたら・・・・。もはや,ナチス・ヒトラーどころの話ではなくなってしまう。とんでもない新時代の独裁がはじまる。

 しばらく休んでいた西谷修さんが再開したブログの第一回目(12月8日)のタイトルは,「亡国」の未来──「国破れて山河も無し」,というものだ。そして,第二回目(12月10日)のタイトルは,狼はここにいる!──為政者を免責する稀代の悪法,である。いずれも,特定秘密保護法に対する危機意識から書かれたものだ。

 こんなことを推し進める政権党は,どんなことがあっても阻止しなくてはならない。少なくとも三分の二の議席をもたせてはならない。できることなら,議席の半分を割って,約束どおり退陣してもらいたい。そのためには,意に沿わぬ政党であっても,ここは眼をつむってでも自民以外の政党にターゲットを絞り,「戦略的投票」を仕掛ける以外にはない。いわゆる無党派層と呼ばれる人たちが,選挙というものに目覚め,この一点に集中してくれることを祈りたい。

 あと二日の勝負だ。

 SNSがこんごどうなっていくのか,大問題が持ち上がる,そんな予感でいっぱいである。民意が思いのままに表現できるSNS。この新しい可能性を秘めたネット社会の機能をもぶち壊そう,と政権党が企んでいるとしたら・・・・・?

 クワバラ,クワバラ,あとは,スガワラ。天神様。

2014年12月11日木曜日

「未来を選択する選挙」『世界』1月号特集が面白い。

 強い思い入れとともに,深く,長くかかわってきてスポーツ史学会の年次大会が富山大学で開催され(6日・7日),気持がそちらに向かっていました。もどってきて山のようにたまっていた雑用をさばいていましたら,書類の山の中からひょっこりと雑誌『世界』1月号がでてきました。雑用そっちのけで,早速,読み始めました。

 今月の特集は「未来を選択する選挙」。内橋克人,山口二郎,高安健将,柿崎明二,といった論客がそれぞれの立場から,なるほどと納得させられる,説得力のある論考を寄せています。いずれも,安倍晋三首相の身勝手な解散・選挙を糾弾し,アベノミクスに騙されてはいけない,と警告を発しています。ざっと読むだけで爽快な気分になれます。

 なのに,メディアはさかんに自民党圧勝を唱え,げんなりさせられてしまいます。いったい,どういう調査にもとづいてこのような報道をしているのか,疑問をいだかざるを得ません。たぶん,蓋を開けてみるとメディアの予想とは異なる結果が待ち受けているのではないか,と密かに期待しているところです。少なくとも,わたしの周囲の雰囲気からはそんな予感がします。

 もう一本の特集は,「戦後70年 歴史改ざん主義とたたかう」というもので,吉田裕,佐藤健生,西谷 修,高橋哲哉の4氏が,これまたとてつもなく面白い論考を展開しています。なかでも馴染みのある西谷修さんの論考「重なる歴史の節目に立って──戦後70年と日本の『亡国』」が,わたしのこころに深く響いてきました。いつものことながら,眼のつけどころが素晴らしい,と感動です。また,高橋哲哉の「極右化する政治──戦後70年という岐路を前に」もわたしにとっては興味深い内容でした。さらには,吉田裕の「歴史への想像力が衰弱した社会で,歴史を問いつづける意味」もまた,わたしの関心事であるスポーツ史との関連で教えられるものが多くありました。歴史とはなにか,いまこそ,問われるべきではないか,と思いました。

 最近になって初めてお話をさせていただいた嘉田由紀子さん(前滋賀県知事・現びわこ成蹊スポーツ大学学長)とわたしが関心をもつシンボジウムにしばしば登壇される宮本憲一(環境経済学者・前滋賀大学学長)さんとの講演と対談が掲載されており,こちらも身を入れて読まされることになりました。お二人は,もう,長い間の知己で,びわ湖の環境問題についてもともに熱心に取り組んでこれらた間柄ですので,話がとてもよく噛み合っていて,多くのことを考えさせられました。人間が生きるということの原点をしっかりと見据えたお二人の思考が,わたしの関心事である「スポーツする身体」や「スポーツする人間」ともリンクしていて,我が意を得たりと思うこともしばしばでした。もっと読みたい・・・と思いました。

 もうひとつ,面白い読み物がありました。それは,新連載「建築から都市を,都市から建築を考える」というものです。内容は,建築家の槇文彦さんに松隈洋(京都工芸繊維大学)さんが聞き手になって展開される対談です。その冒頭に,「新国立競技場計画で何が問われたのか」が語られていて,コンパクトに問題の所在が明らかにされています。もう,すでに,何回も槇文彦さんが登壇されるシンポジウムにも参加してきましたので,ここで言われていることは痛いほどよくわかりました。こういう建築界の重鎮の声をまったく無視して顧みないJSC(日本スポーツ振興センター)という組織の官僚ぶりにはあきれ果てるしかありません。東京五輪2020の舞台裏のひとつが,ここにも如実に現れています。その意味で,槇文彦さんの,この連載がどのような展開となっていくのか,わたしにはとても興味深いものがあります。

 最後に,沖縄県知事選にちなんだお二人の論考が,これまた読ませる内容でした。
 おひとりは,松元剛(琉球新報)の「沖縄(シマ)という窓・特別編──沖縄の尊厳をかけた県知事選 翁長氏圧勝の深層」です。こちらも,西谷さんたちが組織したシンポジウムで,直接,お話をうかがっていましたので,すべて納得のいくもの,あるいは,「おさらい」の気分で読ませていただきました。相変わらずの説得力のある論考になっていて,感動しました。やはり,沖縄を理解するには,ヤマトの人間には限界がある,としみじみ思いました。沖縄の地に足をつけて立ち,空気をいっぱい吸わないことには,頭でっかちの,身勝手な理解にしかならない・・・と。
 もうおひとりは,佐藤優(作家,元外務省主任分析官)さんの「『沖縄人性』に誠実に向き合う──県知事選とアイデンティティ」です。こちらもまた,佐藤優の独特の論陣の張り方が面白く,こういう視点からの見方というものが,わたしにはまったく欠落していましたので,とても勉強になりました。この人も,半分,沖縄の血が流れていますので,ヤマトンチュの言説とは違います。沖縄を語るときには,ひときわ体重がかかっているように思います。

 この他にもとりあげたい話題が満載です。たとえば,連載「東北ショック・ドクトリン」(古川美穂・ジャーナリスト)は第9回で最終回とあり,もっとつづけてほしい連載でした。でも,普通のメディアでは知ることのできない多くのことを学ぶことができました。感謝したい気持でいっぱいです。

 というようなわけで,ぜひ,『世界』1月号を手にとってご覧いただきたいと思い,こんな雑文を書いてみました。お許しのほどを。

ついに,特定秘密保護法の施行へ。暗黒時代のはじまり,か。

 とうとう日本列島は暗黒の時代への突入,か。

 いまでさえ,わたしたちが知ることのできない密約や機密事項がたくさん存在している。にもかかわらず,わたしたちはますます真実から遠ざけられ,なにも知らされないまま,民主主義という名の衆愚政治へと誘導されていく。あとは国家権力のなすがまま。国民に知られて都合の悪い情報はすべて「特定秘密」に指定すればよい。最大では60年間も封印することができる。恐るべき法律の施行である。

 わたしたちの「知る権利」が侵されるだけではない。特定秘密を取り扱うことになる公務員や民間業者の「適性評価」がなされることになり,場合によっては「プライバシーの侵害」や「差別」の助長につながる可能性がある,という。しかも,その対象者は10万人に及ぶという。場合によっては,その家族も「適性評価」の対象になるという。当然のことながら,この「適性評価」に合格するかしないかによって,その地位にも大きな差が生まれることになる。かくして,「適性評価」という名の恐るべき暴力装置が作動することになるのだ。

 それだけではない。市民団体のメンバーや研究者,報道関係者が特定秘密の漏洩をそそのかしたとみなされれば,罰則や捜査の対象になる。そそのかしたかどうかの判断は微妙だ。報道のための取材について,法律では「法令違反または著しく不当な方法と認められない限りは正当業務」と定められているが,正当でないとみなされる可能性も残されている。その判断は捜査側に委ねられている。

 いっぽう,市民の活動には,報道のような規定はない。ということは,捜査機関が罰則付きの法律を根拠に,捜査権を用いて市民の活動に入り込むことは,いくらでも可能だ。つまり,疑われた段階で捜査の手はいくらでも伸びてくる。これまでにも,政党ビラや反戦ビラを配布しただけで住居侵入容疑で逮捕される事件はいくらでも起きている。逮捕に至らなくても,家宅捜査などの強制捜査や任意取り調べなどは,もっと多い。そこに,新たに秘密保護法が施行されれば,捜査機関はまことに都合のいい捜査の根拠を持つことになる。

 このようにして,わたしたちの情報収集活動は著しく制約を受けることになり,わたしたちの「知る権利」はますます脅かされることになる。

 11月のテレビ番組で,安倍晋三首相はつぎのように述べている。
 「特定秘密保護法は工作員やテロリスト,スパイを相手にしている」
 「国民は基本的には関係ない。報道が抑圧される例があったら(首相を)辞める」

 工作員やテロリスト,スパイをだれが,どのようにして断定するのか,その点については法案には具体的な記述はない(法案が公開されたときに苦労して全文をチェックしたことがある)。ということは,一般市民であっても,疑いを持たれてしまえば,いつでも,即座に工作員やテロリストやスパイに仕立て上げられてしまうことになる。これが恐ろしい。

 報道が抑圧される例は,すでに,存在している。たとえば,選挙期間中の報道は「中立・公平」を守るべし,という文書による圧力を政権党が発している。そのために,選挙期間中の報道が著しく政権党に傾いている,と痛感しているのはわたしだけだろうか。NHKのニュース番組などは,もう,とっくのむかしから偏向していることは,衆知のことだ。だから,さっさと身を引いていただきたい。

 しかし,虚言癖が日常化してしまった安倍晋三首相は痛痒も感じてはいないだろう。しかも,その猫の首に鈴をつける人もだれもいない。ここが致命的だ。

 今日(10日)の東京新聞夕刊によれば,日弁連の村越進会長が以下のような声明を発表したという。
 「法を廃止し,制度の必要性や内容に関して国民的な議論を行うべきだ」
 (特定秘密保護法は)「知る権利を侵害し,国民主権を形骸化する」

 この声明を支持したい。

2014年12月10日水曜日

選挙の熱気なし。自民支持の声もなし。それでも与党の議席だけは増える,のか。

 家で仕事をしていても,選挙カーの声ひとつ聞こえてはこない。鷺沼の事務所を往復する間も,選挙の雰囲気はまるで感じられない。どこか,シラーッとした空気が流れている。

 いつもなら,溝の口の駅前のコンコースに候補者のだれかが立って演説をぶっているのに,今回はまだ一度もそういう場に出会っていない。候補者の演説がなくても,支持者たちが登り旗を立てて,支持を訴えている光景があってもいいのに・・・と思う。しかし,なぜか,それもない。いったい,どうしたというのだろうか。

 候補者からのちらしや郵便物もなにもない。いつもなら,主な政党の候補者から,さまざまなリーフレットの類がひっきりなしに届くのに。今回はそれもない。新聞・テレビだけが姦しい。それも相当に偏った情報ばかりが目につく。政権党がプレッシャーをかけた「中立・公平」の名のもとに。

 自民党の候補者が演説をしていたら,野次のひとつも言ってやろう,と今回だけは待ち構えているのだが・・・・。まだ,出会わない。残念。

 先週の土・日に学会があって,全国から会員が集まった。初日の夜の懇親会(立食パーティ)の折に,選挙の話をいやがられない程度に振ってみた。少なくとも,わたしに向かって自民支持を表明する人はひとりもいなかった。ただし,野党に受け皿がない,とこぼす人は予想どおり多かった。だから,困っている,とも。でも,選挙には行かなくては・・・とほとんどの人は言っていた。わたしの周囲の感触はこんなところ。

 なのに,テレビ・新聞は自民圧勝を伝える。いったい,どのような世論調査をやっているのだろうか,と疑問に思う。どう考えてみても,自民党圧勝という雰囲気を,わたしの肌で感じることはできないからだ。わたしの耳に入ってくる情報はむしろその逆だ。だから,どう考えてみても,自民圧勝という情報は,世論調査という隠れ蓑のもとでなされる世論「操作」以外のなにものでもない,としか思えない。

 こういう「操作」によって,浮動票が誘導されていく。困ったものだ。前回の選挙同様,自民党の総得票数は30%ほどでしかなかったのに,議席数だけは圧倒的多数を占めるという珍現象が,今回もまた起こるのだろうか。その仕掛けは小選挙区制度にあるらしい。うまい方法を考え出したものだ,とあきれてしまう。こんな小細工をほどこした小選挙区制は即刻,廃止すべきだ。

 ところで,わたしが聞いている数少ない女性の声は,子どもの「命」を守ることを最優先に考えている,というものだ。だから,原発の推進は困る,集団的自衛権の行使容認も困る,と。まずは,子どもたちの未来を守ってやらなくては・・・と。一般的に,家庭の主婦はそう考えている,とも聞く。

 それでも,そられの票は野党に分散されてしまって,自民・公明がそう多くもないまとまった票数で,議席を確保してしまうことになる,らしい。このことを考えるとむなしくなってしまう。しかし,そんなことで諦めるわけにはいかない。なんとしても,総得票数で自民・公明に勝利することが大事だ。議席数ではなく,総得票数によって,自民・公明敗北という事実を残すこと,残された方法はそれしかない。

 わたしのスタンスは,憲法九条護持,原発廃止,民意重視(沖縄),金より命,アンチ新自由主義,など。議席数にはつながらないとしても,そういう信念を貫いている政党に一票を投じたいと思っている。それがわたしのせめてもの意思表示。

 勝ち負けを度外視して,信ずるところを貫きたいと考えている。

 ところで,みなさんはどうお考えでしょうか。

2014年12月9日火曜日

「五輪アジェンダ2020」40項目の採択がはじまる。野球,ソフト,復活か。

 12月8日(月),モナコでIOCの臨時総会が開催され,バッハ会長が11月18日に提案していた中長期改革「五輪アジェンダ2020」の40項目にわたる改革案の審議がはじまりました。審議の方法は,1項目ずつ提案の説明があり,それに対する意見陳述を行い,その上で「採決」をとる,というものです。したがって,相当に長い時間がかかるようです。

 このバッハ会長の提案する「五輪アジェンダ2020」の原案は,11月18日にはすでに各IOC委員に送付されていて,事前に検討することが要請されていました。したがって,日本でもJOCで,この素案を検討していたはずなのですが,その情報はほとんど知らされていません。メディアの怠慢なのか,それとも「極秘」で行われ,その内容については公開されなかったのか,そのいずれであるかもわかりません。

 テレビのニュースをみるかぎりでは,日本の竹田委員が意見を述べている様子が写っていましたので,それなりの準備をしていったことは間違いありません。しかも,冒頭に取り上げられた改革項目は,「開催都市が実施競技種目の追加を提案できる権利」を認めるものでした。ですから,竹田委員が意見を陳述するのは当然のことで,もちろん,賛成意見を述べたものと思われます。しかも,この項目が承認されたというので,今朝の新聞もテレビも大きくこの情報を流しています。

 早速,色めき立ったのは,五輪の競技種目から排除されていた野球とソフトの関係者です。日本での人気種目であり,メダル獲得の有望種目ですので,当然のことでしょう。これに追随するようにして,空手,スカッシュの団体が,あわよくば・・・と三つ目,四つ目の椅子をねらっているようです。

 まあ,要するに,日本の関心は,メダルをひとつでも多く取りたいという一念で,日本に有利な競技種目を追加する道を開く可能性のある,この「五輪アジェンダ2020」の40項目の採択に関心を寄せているだけのようにもみえてきます。が,このアジェンダにはいろいろの重要な改革案が盛り込まれているようです。

 これから採択が決まったものから順に,大きな話題になり,議論がでてくるものと思われます。ので,この会議が終わったところで,トータルな私見を述べてみたいと思っています。その予告編をごく簡単に述べておけば以下のようになります。

 IOCのバッハ新会長が就任早々に,「五輪アジェンダ2020」を提案して,その採決を求めたのはなぜか,という大きな問題があります。しかも,IOCの基本理念を謳った「五輪憲章」の一部改正までして,「五輪アジェンダ2020」を,大急ぎで提案しなければならなかった理由があるはずです。それは,ひとことで言ってしまえば,現状のようなやり方で五輪開催を継続していくことは,もはや,不可能な時代になった,という現状認識です。つまり,五輪開催そのものが大きな壁にぶち当たっていて,このままではジリ貧に陥り,やがては開催を希望する都市がなくなってしまう,という強い危機意識がその背景にはある,ということです。

 もう少しだけ踏み込んでおけば,五輪そのものが商品と化し,金融化がどんどん進展することによって,一時的には五輪開催都市は儲かるとみなされましたが,金融化が進めば進むほどみずからの首をも締め上げるという事実が露呈してきた,ということです。

 たとえば,日本で言えば,新国立競技場の建造計画がその典型的な例です。8万人の観客を収容し,9レーンの走路を備えなくてはならない,というIOCからの要請に応えようというわけです。そのために,歴史的遺産としての価値のある現・国立競技場を解体して,あらたに新国立競技場を建造しようというのです。そのためには巨額な費用が必要となり,すでに,その縮小案にとりかかりつつありますが,その手続の段階でいろいろの問題が噴出し,一部では破綻をきたし,頓挫しつつあります。

 この問題は,また,別のロジック(民意の否定・民主主義の否定)も絡んでいますので,別途,詳しく論じてみたいと思います。いまは,まだ,事態が流動的ですので・・・・。といいますのは,こんどの「五輪アジェンダ2020」の採択結果いかんによっては,東京五輪2020の最終的な計画案も相当に様変わりをすることになる可能性があるからです。となると,また,別の問題が派生してきます。たとえば,五輪招致運動のときの東京五輪2020の企画・構想とはいったいなんだったのか,という新たな疑問も湧いてきます。

 そんなこんな,あれこれ含めて,いまモナコで開催されているIOCの臨時総会のメインの議題「五輪アジェンダ2020」は,大いに注目に値します。詳しくは,また,機会をあらためて,そのつど書いてみたいと思います。

 とりあえず,今日のところは,ここまで。

2014年12月8日月曜日

雪の富山大学で開催されたスポーツ史学会第28回大会から戻りました。

 12月8日(月)の今日の川崎は快晴無風の上天気。12月8日,と書いてから,アッと気付く。そうか,1941年,日本がハワイの真珠湾に攻撃を加え,無謀な戦争に突入していった日。それから4年足らずの間に,前途有望な若者たちの命が,無念のうちに犠牲になった。

 雲ひとつない紺碧の空をじっと眺めていると,まるで時間が止まっているようにみえる。選挙戦真っ只中の世間の喧騒を忘れ,遠い過去の記憶の中を,まるで宇宙遊泳をしているような錯覚を覚えながら,駆けめぐっている。ただし,いい記憶はひとつもない。ここに書くことさえはばかられる無惨な記憶ばかりだ。

 そんな戦争に,ふたたび足を踏み入れようとする政権党が,優位な選挙戦を戦っているとメディアが騒ぐ。このメディアもまた政権党に「脅されて」,せっせと政権党圧勝を報じている。とうとう,政権党はメディアにまでプレッシャーをかけて,選挙を操作しようとしている。こんな出鱈目な選挙があっていいのか,と空恐ろしくなる。これは政権党による明白なる犯罪ではないのか。そのことさえ,メディアは弾劾することができない。ジャーナリズムの「死」。世も末である。

 あっ,いけない。いきなり躓いてしまった。本題にもどそう。

 12月6日(土)・7日(日)の二日間にわたって開催されたスポーツ史学会第28回大会からもどってきた。ことしの会場は富山大学。寒波の襲来と重なり,間断なく雪が降りつづく。スポーツ史学会としては初めての雪国での開催となった。たまにはいい。スキーをやらなくなってから,雪国とは縁がなくなっていた。久しぶりの雪国を経験。

 さて,そのスポーツ史学会もことしで第28回となる。思い起こせば,わたしが40代の後半にさしかかったころから,新たにスポーツ史学を設立したいという夢を描くようになっていた。当時は,日本体育学会体育史専門分科会が研究発表の唯一の場であった。しかし,その体育史研究の限界をひしひしと感じていたわたしは同志たちに声をかけ,「体育史」という呪縛から解き放たれた,新たなスポーツ史学会の設立を説いていた。

 その夢がかなって,はや,28年の歳月が流れたことになる。スポーツ史学会,生みの親のひとりとして感慨無量である。そのときの同志たちも,それぞれの道に邁進し,いつしかわたしひとりが残った。それでも熱心な後継者たちに支えられて,スポーツ史学会は健在である。

 ここ数年の間に,スポーツ史学会もかなり様変わりをしてきた。とりわけ,若手の研究者が続々と育っていて,その人たちの研究発表が多くなってきた。心強いばかりである。しかし,その現実は,ひとつには,制度的な事情があっての現象でもある。なぜなら,近年になって大学院の博士過程が体育・スポーツ系大学に急増したからだ。その結果,院生たちが博士論文を提出する前提条件として,学会発表をし,学会誌に論文を掲載されることが求められるようになった。だから,博士後期過程の院生たちが,こぞって研究発表をするようになってきた。

 当然のことながら,研究のレベルでいえば,初心者が増えてくる。したがって,まだまだ稚拙な研究発表が,ときとして出現する。それをいい歳をした研究者が,真っ向から叩き潰すような発言も目立つ。そこには若い研究者を育てようという優しさがみられない。学会という場は,年齢に関係なく,ひとりの研究者として対等の立場に立つことが前提だ。だから,ダメなものはダメと言ってもいい。しかし,言い方が大事だ。自分もまた,かつてはそういう修羅場をかいくぐってきた過去があることを思い出してほしい。どこかに、若いころにやられたからやり返す,というなんとも貧しい心根がちらつく。少なくとも,歴史研究者のとるべき態度・姿勢ではない。過去を学び,その反省に立つ研究が求められているのだから。

 学会で重要なことは,これぞと思われる研究者の発見であり,出会いである。そういう研究に出会ったら,即座に別室の休憩室に呼び出して,個別の意見の交換をすることだ。そこから,限られた発表時間のなかでは語られなかった,もっと突っ込んだ議論に入っていくことができる。ことしも,何人かの人に声をかけて,話をさせてもらった。また,逆に声をかけられて,ずいぶん長い時間,話し込みもした。じつは,こういう時間を過ごすことが学会のいいところだ。

 来年は,群馬大学が当番校となって,第29回大会が開催される。スポーツ史学会の研究も,わたしの個人的な感想をいえば,ほとんどマンネリ化してしまっていて新鮮味に欠ける。分けても,新しい思想・哲学に支えられたスポーツ史研究という点では,情けないことに皆無と言ってよい。いつまでも旧態依然たる「資料実証主義」という近代アカデミズムの殻の中に閉じこもって安穏としているのではなく,そこから抜け出すような,ある種の冒険的な研究発表というものがそろそろでてきてほしいものだ。もっとも,そのきざしがないわけではないが・・・。

 再来年には第30回大会が待っている。このときには,なにか,特別企画を立てて,スポーツ史学会の新たな第一歩を踏み出す契機になることが期待される。わたしもまた,いくつかのアイディアを新しい理事会に向けて提案してみたいと思っている。

 以上,学会からもどって,今日のこの青空を眺めながらの,感想と反省まで。

2014年12月5日金曜日

新国立競技場建造計画 目に余るずさんさ。

 東京五輪2020に向けて,東京五輪1964の折に建造された国立競技場を解体して,新国立競技場を建造するという計画が,ここにきて頓挫してしまっている。その原因は,ひとえにこの事業主体であるJSC(日本スポーツ振興センター)の計画のずさんさにある,と言ってよいだろう。それは,もはや常軌を逸した,目に余るものだと言ってよい。

 その要点を『ひろばユニオン』(労働者学習センター発行,12月号,P.14~16.)に投じたので,それを転載させていただこう。





 
以上から明らかなように,実際にこのようなことが文部科学省の所管団体であるJSCを中心にして,いまも進展しているのである。東京五輪2020後にも重要な役割をはたすことになるであろう新国立競技場の建造計画が,その場の行き当たりばったりの,まことに無責任な方法で推進されている。こんな重要な事業計画にもかかわらず,ここでも「民意」を顧みない,非民主主義的な手続のまま,なんの恥ずかしげもなく執り行われているのである。

 こうした傾向は,わたしの印象では,とりわけ「3・11」以後,政府を筆頭に顕著になってきたように思う。明治以後の日本近代を支えてきた良識が一気に崩壊してしまった,という印象である。いま,まさに,「破局」を目の前にして,なんでもありの「暴力」が一気に噴出しているかにみえる。その先陣を切っているのが「アベノミクス」であり,それに連なる悪評高き法案ではないか,と。そして,いまや社会現象となってしまった意味不明の不祥事(だれでもいいから殺したかった,など)も,その元を尋ねていけば,行き着くのは「政治の貧困」ではないか,と。

 ここまでくると,新国立競技場建造計画の眼に余るずさんさも同根であることが,次第にはっきりとしてくる。このままの政治情況が継続していくとなると,もはや,日本丸沈没に向かってまっしぐら,というシナリオがますます明白になってくるように思う。困ったことだが,これが現状だ。

 たかが,新国立競技場建造計画ではすまされない。そこにはとてつもなく大きく,しかも根深い問題が隠蔽されている。このことを銘記しておきたい。

「アメリカが他国から攻撃されたとき,日本(軍)に助けてもらおうなどとは思っていない」(マイク・モチヅキ)。

 シンポジウム「安倍政権の歴史認識を問う」──「戦後レジームからの脱却」と外交,を傍聴してきました。議論の意外な展開に立ち会うことになり,ほう,そんなものなのか,と驚きました。その驚きの部分をとりだして書いておきたいと思います。

日時:2014年12月3日(水)19:00~21:00。
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス55・58年館532教室。
主催:新外交イニシアティブ(ND)
コーディネーター:猿田佐世(ND事務局長・弁護士)
登壇者:山口二郎(ND理事・法政大学教授)
     マイク・モチヅキ(ND理事・ジョージ・ワシントン大学教授)
     東郷和彦(元オランダ大使・京都産業大学教授)

 シンポジウムの主旨は,当日,配布されたリーフレットに手際よく書いてありましたので,それを転載しておきます。

 この11月,2年半ぶりに日中首脳会談が行われ,日中の関係改善が期待されています。
しかし,「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍首相の下,昨年12月の靖国神社参拝,「慰安婦」問題を巡る河野談話の検証など,近隣諸国や米国を刺激する動きが相次いでいます。
大きく政治が動くこの時期に,戦後処理や歴史認識問題を改めて振り返ります。

 以上の主旨を読めば,このシンボジウムの骨格がみえてきます。なるほど,そういうことかと納得した上で登壇者の話に耳を傾けました。結論から言いますと,三者三様の立場から,それぞれ異なる考えや意見が繰り出され,ハラハラドキドキさせられる,そういうシンポジウムでした。

 まず,冒頭で猿田さんから主旨説明があり,山口,東郷,モチヅキの順に意見陳述が行われ,そのあとフロアからの質問用紙を回収して,司会の猿田さんが質問用紙の問題を整理して,シンポジストに問題を投げかけ,それに応答するという手順で展開されました。

 全部を紹介することはてともできませんので,わたしの脳を活性化させた驚くべき発言と,なるほどと納得させられた話をとりだして書いてみたいと思います。

 驚き,あっけにとられたのは東郷和彦さんの話。そのポイントは以下のとおりです。安倍首相が月に一回の割合で外遊し,日本の主張を世界に広めたことは素晴らしいことだった。集団的自衛権の行使容認を閣議決定したことは,これまでの憲法9条に縛られてきた日本の立場を解き放ち,少なくともアメリカと対等に話ができる第一歩となった。つまり,自立に向けての第一歩だと評価できる。これで,アメリカが他国から攻撃されたときには,日本はアメリカを助けるべく大きな貢献ができるようになった。さらに,従軍慰安婦問題にも触れ,安倍首相を擁護する立場を鮮明にしていました。朝日新聞問題についても同じ。

 わたしは唖然としながら,この人が,かつて外務省でかなりの活躍をされ,注目を浴びた人なのだと知り,開いた口がふさがらない思いをしました。外務省の元役人の発想というものは所詮はこういうものだったのか,といまさらながら驚いてしまいました。そして,いまも,こういう発想から抜け出してはいない,ということに・・・。

 この東郷さんの発言の間,山口二郎さんは苦虫を噛みつぶしたような顔をしていました。腹に据えかねるという気持がフロアにも伝わってきました。もう一人のマイク・モチヅキさんは,呆気にとられたような顔をして東郷さんの顔をじっとみつめていました。まるで,あなたは正気か,と問いかけているような雰囲気でした。

 この東郷さんの話を受けて,マイク・モチヅキさんは,いきなりつぎのような話をされました。アメリカが他国から攻撃されたとき,日本に助けてもらおうなどとは,アメリカ人はだれも思ってはいない,と。だから,日本が集団的自衛権をもつことは,日本の自己満足であって,国際社会的にはほとんどなんの意味もない,と。さらに,従軍慰安婦問題についても,2007年に米下院が非難決議を全会一致で採択したときの経緯にふれて,つぎのように述べていました。日本の有志が従軍慰安婦問題を否定する「意見広告」をワシントン・ポスト紙に全面広告として掲載したことが,アメリカ人の神経を逆撫ですることになり,かえって米下院の反発を買い,「全会一致」という決議決定へと導く原因になった,と。以後,アメリカが日本をみる目は大きく変わった。つまり,不審の目で見始めた,と。そのまなざしは,近年,さらに悪化している,と。このまま日本がいまの路線を突き進むと,完全に国際社会から孤立してしまう,そのことを強く危惧する,と。

 山口さんは,この日,風邪を引いていて調子が悪かったようです。他の人が発言中は,何回も鼻をかみ,眠気を覚ますようなしぐさもみられ,ときにはあくびをかみ殺していました。報道関係者も比較的多かったこともあってか,発言もいつもの冴えはみられず,こんどの選挙に関しても,悲観的観測と同時に希望的観測もできる,という妙なスタンスのとり方をしていて,おやおや,と思いながら聞いていました。どうやら,いつものような過激な発言は,すくなくとも,この選挙期間中だけは慎もうとしているように見受けられました。悪く言えば「自発的隷従」。山口二郎をして,こういう守りの姿勢に入るのか,といささか驚きもしました。

 まあ,全体的な印象としては,こうも立場も意見も違う人を集めて,あえてシンポジウムを仕掛けたコーディネーターの猿田佐世さんの思惑に,いささか意表をつかれた思いがしました。司会者としてもみごとな裁き方をし,この才媛のこんごの活躍に期待したいと思いました。

 以上,ご報告まで。

2014年12月3日水曜日

どうなる?国立競技場の解体工事。3回目の入札も保留。

 今日(12月3日)の新聞によると,国立競技場の解体工事の入札がまたもや不調に終わった,という。入札不調はこれで3回目である。これで,解体工事開始がまたまた遅れることになった。

 第一回目の入札はことしの5月。このときは応札額がJSC(日本スポーツ振興センター)の予定価格を上回っていたために不調に終わった。第二回目の入札は7月。こんどは応札額が最低価格を下回ったために不調。その後,8月に入札した業者のなかから解体業者を決めた。しかし,入札した業者の一社から「工事費内訳書をJSCが事前に開封する不手際」を指摘され,9月末に内閣府から入札のやり直しを求められた。そして,こんどの12月2日の第三回目の入札である。

 第三回目の入札不調の理由もまた「工事の質を保つためにJSCが設定した最低価格を下回ったため」というものであった。しかし,JSCは「契約内容を履行できるかを調査した上で落札業者を決める」としている。その調査には少なくとも一週間はかかるという。

 このまま進んだとしても,解体開始は来年1月になる見通しで,業者の決定が遅れればさらに後ろにずれ込むことになる。だから,JSCの担当者は,「できるだけ早く業者を決めて,年内には契約したい」「来年9月の工事完了予定は変えない」と語っているという。なんともはや,わたしたちの常識では考えられないようなことが,なんの疑問もなく平然と行われている。

 当初予定していた解体開始はことしの7月,解体完了は来年の9月。その工事開始が来年1月以降にずれ込んでも,工事完了予定の9月は変えない,というのである。当初の解体期間の予定が15カ月,それが現段階では早くても9カ月に短縮されることになる。それでいて「工事の質を保つ」ことを要求しているのである。言うこととやっていることとが一致しないのだ。いったいなにを考えているのだろうか,と素人ながら疑問をいだかざるを得ない。

 まあ,こんなことは言いたくもないが,なにか国立競技場の「解体」については,呪いがかかっているのではないか,と勘繰りたくもなる。衆知のように,圧倒的多数の建築の専門家からも,何回もにわたって異議申し立てがなされている。しかし,それらの異議申し立てを無視してのJSCの強行突破である。しかも,市民団体や地域住民からも異議申し立てがなされているが,こちらも無視したままである。

 いくらお役所仕事とはいえ(JSCは文部科学省の管轄下にある下部組織),その仕事ぶりのあまりのお粗末さにはあきれはててしまう。国立競技場はいったいだれのものなのか。そして,だれのために解体し,新国立競技場を建造するのか。そして,この競技場が将来にわたってどのように活用されていくことになるのか,その根本のところの理念をまったく欠いたまま,目の前にある工事を進めようとしている。だから,行き当たりばったりの,その場しのぎの仕事ぶりが,あからさまに露呈してしまう。

 もっと国民のための事業であるという自覚をもって,多くの人の意見も聞き入れながら,納得ずくでことを進めてほしいものだ。ここには「民意」はなんら反映されてはいない。むしろ,忌避し,無視する姿勢ばかりが貫かれている。

 日本の現政権を筆頭に,日本の根幹を支える組織が,なんの理念もなく,ここまで腐敗・堕落しているのか,という現実を目の当たりにするにつけ,世も末だと情けなくなってくる。

 このまま突き進んでいくとすれば,東京五輪2020も,そのうち空中分解してしまうのではないか,と陰ながら心配している。のみならず,どこか,とんでもないところから葬送行進曲が聞こえてくるような予感もある。しかし,こちらの予感は避けようがないしろものだ。ご推察のとおり・・・・。

2014年12月2日火曜日

集団的自衛権だって?ダメよ,ダメダメ!

 流行語なんて,どうでもいいと思ってきましたが,ことしの選定は偶然にしてはできすぎですね。この二つの流行語をひとつのセットにして,投票日までにできるだけ広く拡散してみたくなってきました。ご協力いただければ幸いです。

〔原型〕
 〇〇:集団的自衛権?
 〇〇:ダメよ,ダメダメ!

〔若いカップルの会話〕。
 彼氏:とうとう集団的自衛権だってよ?
 彼女:ダメよ!ダメダメ!

〔落語の大家と店子の会話〕。
 大家:八っつぁんよ。いよいよ集団的自衛権だってなぁ?
 店子:大家さん。そりゃあダメだよ!ダメダメ!

 というような具合で,いくとおりでも場面設定をしてアレンジすることができそうです。
 これ,どこかの政党のキャッチコピーに使えばいいのに・・・・。
 わかりやすくて抜群。浮動票を拾うこと請け合いです。

 浮動票の多くは,ほとんどこのレベルの感覚で動くように思います。
 選挙の大義をきちんと読み切って,まっとうな選挙行動がとれる人の方が圧倒的少数のようですから。

〔サラリーマンの会話〕。
 A氏:おい,お前のとこ,給料上がったか?アベノミクスの効果あったと思うかい?
 B氏:ぜんぜん上がんないねぇ。アベノミクス?ありゃあ,ダメダメ!

〔家庭の主婦の会話〕
 Aさん:お宅の台所事情はどう?アベノミクスの恩恵で楽になったと思う?
 Bさん:給料は上がらず,物価だけが上がってますます苦しくなるばかりよ。アベノミクスの恩恵だって?ダメよ,ダメダメ!

〔母と娘の会話〕
 娘:お母さん,アベノミクスで景気がよくなってきてるっていうじゃない。お小遣い,上げてよ。
 母:アベノミクスだって?あれはウソばっかり。それどころじゃないのよ。ダメよ,ダメダメ!

 以下,憲法無視ヴァージョン,閣議決定ヴァージョン,特定秘密保護法ヴァージョン,原発ヴァージョン,沖縄・辺野古ヴァージョン,などなどいくらでもアレンジができます。

 というような具合に,あちこちに拡散させてみてはいかがでしょう。

 ところで,あなたは現政権の持続を望みますか?
 ダメよ,ダメダメ!

〔追記〕
 このブログを書いた翌日の3日の東京新聞に,斉藤美奈子さんの「本音のコラム」が掲載されました。このコラムの最後のところで,斉藤さんは「と」ではなく「は」でつなげるといい,と提案なさっています。すなわち,

 「集団的自衛権はダメよ~ダメダメ」と。

 やはり,同じような発想をする人はいるものだと安心しました。しかも,選挙戦でも活用しよう,と呼びかけていらっしゃいます。快哉。

日展・書道展をみてきました。日展は改革されたのか。

 世の中,誹謗中傷やウソが飛び交い,しかも,政治の世界で,うんざりすることばかり。でも,そうはいってもこれからの日本の行方を決定づける,きわめて重大な選挙。ぐちをこぼしているだけでは済まされません。憲法を無視し,福島・フクイチ,沖縄・辺野古に蓋をしたまま,国民の自由な言論活動を封じ込め(特定秘密保護法),民主主義に背を向け,ひたすら戦争に向かってまっしぐら・・・・としか思えない現政権党の暴挙に有効な歯止めをかけなくてはなりません。そのためにのみ,こんどの選挙は意味をもつ・・・と覚悟を決めています。

 そんな暗い気分のままではやってかれませんので,ここは一息入れて,と気分転換をはかることにしました。日曜日の午後,国立新美術館で開催中の日展を見にでかけました。お目当ては書道展。

 そのポイントは,日展審査の裏側の小細工が暴かれて,さまざまな改良がなされた結果,それがどのように作品選定に反映されたのか,を確認すること。ことしがそういう意味での日展,再出発の第一年目。

 結論。書道に関しては,全体的にやや元気がでてきたかに見受けられました。とはいえ,以前よりも厳正な審査がなされたとも思えませんでした。なぜなら,ことしもまた玉石混淆の作品がずらりと並べられていたからです。つまり,ピンからキリまでの幅が広すぎる,というのがわたしの印象でした。しかも,はっとするような「力」のある作品は一点もありませんでした。

 巻紙に書かれたかな文字以外は,みんな大作ばかり。その大作のなかには力作もありましたが,「へたうま」に凝りすぎた駄作も少なくありませんでした。こちらは見るに耐えかねる駄作,しかも会場の緊張感を一気にぶちこわしてしまいます。もちろん,そのような「へたうま」を良しとする流派もあるわげで,一概に否定することはできません。

 「いいちこ」のラベルの文字を書いた榊莫山さんのような「へたうま」はその典型でしょう。しかし,この莫山さんは小学校6年生のときに,楷書で文部大臣賞を受賞している,楷書の名手です。それは一部のスキもない,切れるような文字です。そういう楷書がしっかりとからだに叩き込まれたのちに,いろいろと進化をとげ,最終的に行き着いた世界,それが莫山さんの「へたうま」です。ですから,莫山さんの「へたうま」の文字には一部のスキもありません。それでいて,これ以上に自由闊達に躍り上がることはできない,そのぎりぎりの世界から生まれてくる「へたうま」です。それを修行半ばの書家が真似をすると,とんでもない大火傷をするという次第です。

 もともとが,数えきれないほどの流派書道が乱立するなかで,それらを均してしまって作品の優劣の審査をするということ事態が,所詮,不可能なことなのです。それを無理矢理やろうとする,これぞ近代の「合理主義」の驕り以外のなにものでもありません。科学的合理主義という考え方は一定の条件付きで正しいのであって,それを普遍化して良しとすると,そこには大きな落とし穴があるということです。アートの世界に多数決は通用しないのと同じです。

 ですから,これまでの日展の審査では仕方がないので,流派別に入選作品の数を分配して,その中での優劣を競わせるという,苦肉の策が生まれたというわけです。しかも,家元的なしきたりもあります。美の力点のおきどころも違います。スポーツの世界のように,たとえば,100mを走って1000分の1秒まで計測して(人間の目では判定できない世界),優劣の判定をする世界とはまるで違います(これはこれでまた狂気の世界だとわたしは考えています。人間の目に見えない差を判別して優劣を競うことの意味がどこにあるのか,と)。

 書道展を面白くなくしているのは,審査員の先生を喜ばせるような作品ばかりが提出される,という一点にあるとわたしは考えています。つまり,先生のご機嫌を伺うばかりに,没個性的な作品に陥ってしまう,というわけです。わたしは,書は一人一派である,と考えています。たとえば,いくら真似て書いても良寛さんの書にはなりません。王羲之の書にもなりません。弘法大師の書にもなりません。つまり,書にはその人の,その時点での,すべてがトータルになって表出する,そういうものだと考えているからです。

 このように考えたとき,日展の書道展のつまらなさが,そこはかとなくわかってきます。もっと書家のからだから,抑え込んでも,隠そうとしても,するりと表出してくる,そういう文字に出会いたいと考えています。つまり,計算も打算もない,理性がはたらく以前に,立ち現れてくる文字に突き動かされるようにしてつぎの筆が走る,そうして生まれる書のもつ「力」に触れてみたい,これがわたしの願望であり,期待であり,夢であり,快感です。

 わたしの友人である能面アーディストの柏木裕美さんは,能面を打つときに,頭ではなにも考えていませんと言い,「わたしの目が考え,手が動く」のです,と言っています。この世界にわたしは深く感動し,そして,こころの底から共感します。

 言ってしまえば,西田幾多郎が『善の研究』のなかで述べている「純粋経験」の世界であり,のちに主張することになる「行為的直観」の世界に通底する境地から生まれてくる書,これがわたしの書の理想です。ちなみに,西田幾多郎の書は,これまた天下一品です。深い味わいのある素晴らしい書です。

 このさきの話は,また,いずれ。

2014年12月1日月曜日

「仲井真さん,弾はまだ一発残っとるぜよ」の菅原文太さん逝く。最後の名演説。

 ついこの間のこと。沖縄県知事選での翁長雄志氏の総決起大会の会場。そこにわざわざ個人の立場ででかけて行った菅原文太さん。請われて,ショート・スピーチを一席。1万5000人の翁長応援団を前にして。そのときの名セリフがこれだった。

 「仲井真さん,弾はまだ一発,残っとるぜよ」。

 会場が大きな拍手で湧いた。
 いわゆる能弁家ではない。しゃいで,恥ずかしそうに,朴訥とした語り口で知られた人だった。だから,この会場でのスピーチも,途切れとぎれの,たっぷりと間をとった語りだった。それだけに聴衆はつぎになにを言うのだろうか,と身を乗り出して耳を傾けた。菅原文太さんの沖縄に寄せる思いは十二分に伝わった。みごとなスピーチだった。

 しかし,いま,考えてみると,途切れとぎれのあの名スピーチは,役者としての演出でもなんでもなかったのだ。そのことに気づいたとたんに,わたしの全身にさぶイボが立ち,驚きのあまりわが身が小刻みに震えだす。なんという人なんだ,菅原文太という人は・・・・!

 このとき,すでに,菅原文太さんは重病に犯されていたのだ。その重病のからだを引きずるようにして,沖縄まで足を運び,翁長雄志氏の応援にかけつけたのだった。だから,短いスピーチだったが,しかも,途切れとぎれのスピーチだったが,あれが人間・菅原文太の,素のままの精一杯の語りだったのだ。あの長い「間」は,聴衆を引きつけるためでもなんでもなく,菅原文太の呼吸を整え,つぎの発声をするための不可欠の準備時間だったのだ。

 そして,やや中途半端な終わり方をしたが,そのときの最後のことば「短いけど,これでいいかなぁ」と言って,うしろに立つ翁長さんの方をふり返った。それでも割れんばかりの拍手につつまれ,菅原文太も安堵した表情をして,手を高くさしあげ,笑顔で応えた。

 あれから一カ月足らずで,菅原文太は逝った。

 「仲井真さん,弾はまだ一発,残っとるぜよ」

 この弾は温存されたまま,でも,10万票もの大差をつける勝利を導き出した。その「弾み車」としての大きな役割をはたす「弾」だった。菅原文太も,この選挙結果を知って,大いに満足したことだろうと思う。

 しかし,その残り「弾」が,またまた必要なことになってきた。仲井真知事は,知事任期切れのぎりぎりに,滑り込みでいま検討されている「工事申請書」の審査を終えて,工事許可を出そうとしている,という(琉球新報)。沖縄県民の総意を無視し,それどころか意図的に踏みにじる行為に出ようというのだ。こうなったら,もはや「仁義なき戦い」に入るしかないではないか。

 「仲井真さん,最後の一発の弾で,こんどこそ死んでもらいます」。

 菅原文太の声が聞こえてくる。
 ご冥福をこころから祈ります。