2012年9月12日水曜日

「沈黙する身体」・考(奄美自由大学2012)。

 からだの声を聞け,という。しかし,からだは声を発しはしない。「沈黙する身体」。

 声を発することはないが,さまざまなサイン(信号)は発している。歯が痛い,胃が痛い,眠い,からだがだるい,重い,疲れた,などなど。これらはからだの「負」のサイン。この反対に「正」のサインもある。食欲旺盛でなにか食べたい,頭がすっきりしている,からだが軽い,走りだしたい,ジャンプしたい,などなど。気がつく前にからだが勝手に動きはじめることもある。からだの発するサインは,「正」「負」合わせるとじつにさまざま,多種多様である。じつは,ことほどさように,からだはまことに騒々しいのである。声なき声で自己主張をする。それがわたしたちのからだの実態だ。

 これらのうちの「負」のサインを発しないときのからだは,おおむね「健康」だといわれる。つまり,からだのことを忘れている。意識にものぼらない。完全に忘れられた身体。すなわち,「沈黙する身体」。老子のいう「無為自然」。なさざるなし。自然そのもの。すなわち,為すことのない,完全な状態。

 奄美の島々をめぐりながら,こんなことを考えていた。

 今福さんから送られてきた「奄美自由大学2012への誘い──<ウトゥ・ヌ・クラスィン>」のタイトルは「沈黙する島々──鳥籠(ケージ)の声(ウタシャ)に導かれて」とある。<ウトゥ・ヌ・クラスィン>とは「音の暗がり」という島ことば。「音の暗がり」という表現は論理的にはおかしい。しかし,この「論理」という思考のパラダイムから解き放たれたさきに,じつは「人間の根源的な姿への回帰」が可能になるのだろう,とこの案内文は教えてくれる。そして,「小鳥を鳴かせずに鳥籠に入れる」(荘子)ことが可能となるのだろう。

 これはまた,老子のいう「無為自然」と同じ境涯というべきだろう。老荘の世界。この世界は「論理」を超越している。<ウトゥ・ヌ・クラスィン>もまた同様。その「音の暗がり」を尋ね歩いてみませんか,と今福さんは誘う。「群島が古くから受けついできたカナシャル(愛おしい)<沈黙>」を,と。

 奄美大島─加計呂麻島─請島。可能なかぎり「移動溶液」となって,島々を渡り,そして,もどってくる旅の間,ずっと「カナシャル<沈黙>」に思いを馳せていた。

 近代の文明化された社会は,ひたすら科学的合理主義に信をおき,論理的にものごとを考える教育を推し進めてきた。そのゆきついた果てが,いま,わたしたちが直面している現実の社会だ。バタイユのいうところの「有用性の限界」が露呈してしまった社会だ。そこを超えでていくにはどうしたらいいのか。今福さんは,それを『群島─世界論』のなかで展開している。大陸ではなく「群島」の側から逆照射してみようではないか,と。

 この問題は,近代スポーツ競技の世界にも通底している。

 これからも少しずつ,近代論理を超克するための道すじを尋ね歩いてみたいと思う。今回の奄美自由大学の経験もまた,その強烈な刺激となって,わたしのからだの奥深くに刻み込まれることになった。もって瞑すべし,としみじみ思う。

 とりあえず,今回はここまで。





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