2010年11月4日木曜日

innewerden ということについて。その4.ヴィジョナリー・スポーツの根拠の一つとして。

 innewerden ということについて,3回ほどこのブログで書いた。しかし,その反応が芳しくない。なぜだろうか,とずーっと考えつづけている。が,わからない。
 マルチン・ブーバーは「対話」のもっとも根源的なところで起きている現象として,ことばを発することなくお互いのこころのうちで通い合う「交感」「交信」のことを,innewerden というドイツ語に籠めた。わたしはマルチン・ブーバーのテクスト『我と汝/対話』(植田重雄訳,岩波文庫)を熟読しながら,このinnewerden こそ,わたしが考えている「ヴィジョナリー・スポーツ」の一つの重要な根拠となりうる概念ではないか,と考えはじめている。だから,innewerden というドイツ語は,わたしにとっては「21世紀スポーツ文化」を模索する上でのきわめて重要な概念の一つとして,新たに立ち現れたもので,そんなに簡単に看過するわけにはいかないのである。そんな意味もこめて,このブログを読んでくださっている人たちに向けて,innewerden の重要性を説いてきたつもりなのだ。しかし,その反応がいま一つ。それはどうしたわけなのだろう,と頭を抱え込んでいる。やはり,説明の仕方が稚拙であるとしかいいようがない。
 ということで,4回目の挑戦である。くどいようだが,ご理解ください。
 わたしたちは,意識しているかしていないかはともかくとして,わたしたちを取り囲む環境世界(ユクスキュルのいう Umwelt )と,なんらかのかたちで「対話」(マルチン・ブーバーの意味)を交わしている。別の言い方をすれば,それは環境への適応でもある。それは,同時に,生きるという生命活動の基本でもある。だから,わたしたちが生きるということ,あるいは,生物が生きるということは,すなわち,そこでなんらかの「対話」がなされているということだ。
 しかし,わたしたちは,生物学でいう環境世界のみならず,物理学でいうところのさらに大きな宇宙とも対話の範囲を広げていく。この世界は,こんにちの科学の力によって,わたしたちの想像を絶するほどの気宇壮大なところにまで伸びている。
 そればかりではない。わたしたちは,精神世界や霊的世界とも,ずいぶん古い時代から対話をするようになる。わたしの仮説では,ヒトが人間になる,その瞬間からすでに説明のできない存在不安に襲われたはずであるし,その不安を埋め合わすための数限りない創意工夫がなされたはずである。それらの残像の一部が,供犠であったり,それにともなう祝祭であったり,さらにはマルセル・モースがいうところの「贈与」であろう。ポトラッチという消尽に近い贈与もまた,その一環として考えてよいのだろう。
 しかし,「死」という問題にどのように向き合うのか,そして,どのようなスタンスをとるのか,ということに関してはこんにちもなお決定的な方法を見出すこともできないまま,暗中模索がつづいている。だからこそ,その説明の仕方や説得の仕方をめぐって,諸説乱立がつづく。精神世界や霊的世界の鬱陶しさと同時に無視することのできない闇の世界の存在に,わたしたちは無縁ではいられない。そして,とりあえずは,自分に納得のいく方法で,それなりのやり過ごし方を身につけるしかないのだ。
 その是非は,いまは,問わない。一人ひとりのこころのうちには,説明不能な,もっとさまざまなものとの対話も行われている。つまり,自分が安心立命して生きていく上で必要な了解(あるいは,納得)をえるために。そうしたすべての交信・交感を,マルチン・ブーバーは innewerden ということばで表現したように,わたしには読める。もちろん,その背景には,マルチン・ブーバー固有の宗教体験もふくまれている。そして,そのことについても,マルチン・ブーバーは随所で正直に告白もしている。
 
 ちょっと,一休み。つづく。

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