2012年9月2日日曜日

パラリンピックの「柔道」がおもしろい。これぞ「柔道」。

 ちらりとニュースで眼にしただけなので,詳しいことはわからない。しかし,これぞ「柔道」,と瞬間的に思った。なんだ,やればできるではないか,と。

 すでにご存知の方にはたいへん失礼だが,恥ずかしながら,わたしは障害者のスポーツを観戦する機会がほとんどなかった。だから,ルールなどもほとんど知らないままだ。しかし,少し注意を向けてアンテナを張ってみると,じつにきめこまかな配慮がなされていて,ゆきとどいたルールが考えられていることがわかる。

 パラリンピックの「柔道」のニュースがテレビ画面に流れた瞬間,思わず眼を瞠ってしまった。とりわけ,試合開始の瞬間である。主審が対戦する選手を中央に呼び出し,両選手はお互いに襟と袖をしっかりとつかみ,それを確認した主審が試合開始を宣言する。だから,その瞬間から,つぎつぎに技が繰り出される。試合開始と同時に,おどろくべき速さで攻防がはじまる。みていて迫力満点である。

 たまたま,わたしがみたテレビ画面では,右自然体で組み合って試合開始となったが,左自然体の組み方もあるのだろうか。あるいは,時間を定めて,交互に組み手を変えているのだろうか。もし,そうだとしたら,まことに合理的でいい。利き手の左右は,どちらも譲れない最大のポイントでもあるから,ここのハードルをうまく乗り越えるルールがあれば,「柔道」の試合は面白くなる。この点は,あとでルールを確認しておきたい,と思う。

 それよりなにより,つぎつぎに繰り出される技の応酬がおもしろい。じつに,スピーディで,しかも,技が決まる確率も高い。支えつり込み足,などという技が決まったりする。見ていてとてもきれいな技だ。だから,見ていて,思わず吸い込まれるようにして身を乗り出してしまう。

 ついこの間まで行われていたロンドン・オリンピックの「JUDO」の試合──組み手争いだけで試合のほとんどの時間が消化される──のあのバカバカしさに腹が立っていたので,パラリンピックの「柔道」はまことに新鮮だった。やればできるではないか,と。

 もちろん,格闘技の本質からすれば,お互いに十分に組み合ってからの試合は,ことばの正しい意味での邪道である。組み手争いからはじまるのが格闘の本来の姿ではある。しかし,あれほどまでに組み手争いに時間がとられてしまい,技を仕掛けるタイミングがほとんど見られなくなってしまった,オリンピックの「JUDO」は,「見せ物」としては失格である。もっと面白くする必要がある。だれもがそう思ったはずである。

 そのヒントが,いま,パラリンピックの「柔道」で繰り広げられているではないか。これを学ばない手はない。いいものはいいのだから。

 世界中の「JUDO」関係者に呼びかけておこう。パラリンピックの「柔道」をヒントにした,ルールの大幅な改正を。

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