2016年1月20日水曜日

「玄牝之門、是謂天地根」(『老子』第6章)。性・生殖の思想・哲学。

 まずは,見出しに引いた「玄牝之門,是謂天地根」の大意をつかんでおきたいとおもいます。読みくだし文にすれば「玄牝の門,これを天地の根という」であり,その大意は「女陰,これがすべてのはじまりだ」となります。これにはおもわずびっくりしてのけ反ってしまいます。しかし,老子は本気です。そして,道家思想の根源はここにある,と主張しているように読み取ることができます。なぜ,そういうことになるのか,姿勢を低くして,まじめに考えてみたいとおもいます。

 『老子』(蜂屋邦夫訳注,岩波文庫)は,いわゆる道家思想の原典に訳注をつけたテクストです。言ってしまえば,広い意味での思想・哲学の書です。思想と哲学は,厳密にいえば違います。しかし,道家思想の立場では,思想も哲学も同じです。というより,区別することを,むしろ無意味である,という立場に立ちます。つまり,思想も哲学も全部ひっくるめて,ものごとを総体としてとらえ,その真理を語ろうとしています。人間や世の中のことを考えるということは,ものごとの総体をすべて視野に入れて考えるべきだ,というわけです。

 どこか,「チョー哲学」(西谷修)の立場につうじている,とわたしは受け止めています。

 つまり,ヨーロッパの伝統的な形而上学からすれば,性や生殖を考察の対象とすることは忌避されてきたのに対し,道家思想では性や生殖を忌避するどころか,むしろ,考察の真っ正面に据え,しかも,そこを出発点とする,毅然たる姿勢を示している,と言っていいとおもいます。

 その典型例が,第6章として登場しています。全部で81章ある中での第6章です。言ってしまえば,序章にあたる部分です。もっとも,厳密にいえば,第1章に,すでに,予告的な言説が現れています。このことについては,のちほど,触れることにします。

 まずは,テクスト(『老子』)の構成を逆にして,原文,読みくだし,訳文の順に,第6章を,ここに書き写してみます。
 それは以下のとおりです。

 谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。綿綿若存、用之不勤。

 谷神(こくしん)は死せず、是(こ)れ玄牝(げんぴん)と謂(い)う。玄牝の門、是れを天地の根(こん)と謂う。綿綿として存するが若(ごと)く,之(これ)を用いて勤(つ)きず。

 谷の神は不死身である。それを玄妙なる牝(めす)という。玄妙なる牝の陰門(いんもん)を、天地の根源という。ずっと続いて存在し続けているようであるが、いくら働いても尽き果ててしまうことはない。

 以上が第6章の原文と読みくだし文と訳文です。このあとに,著者である蜂屋邦夫による訳注が,こってりとした内容を盛り込んで,つづきます。その重要な部分だけを引いてみますと以下のとおりです。

 1.谷神不死  「谷(こく)」は,たに。空虚で奥深く,低く窪んで水が流れる場所。「谷神(こくしん)」は谷に宿る神のことで,女性器を暗示している。
 2.是謂玄牝  「玄(げん)」は,うす暗くて,測り知れぬほど奥深いありさま。「牝(ひん)」は母性、生殖性。
 3.玄牝之門  女性器そのものを指す。
 4.是謂天地根  「根(こん)」とは,男根・女根の根(こん)と同じで,万物を産み出す生殖器。万物の根源のこと。
 5.綿綿若存  「綿綿(めんめん)」は,ほそぼそと,ずっと続いて絶えないさま。「存するが若(ごと)く」は,存在はしているが,はっきりとは見えないさま。
 6.用之不勤  「勤(きん)」は「労(ろう)」や「尽(じん)」の意味。「労」と「尽」は,疲労して止まってしまうこと。ここは天地の生成作用が限りなく続くことを表わしているので,いま,「尽」の意味に解した。

 この訳注は,じつは,もっと詳細な説明がなされているのですが,長くなりますので,短く要約しました。が,これだけの訳注だけでも,原文の意味するところを深く理解する手助けにはなっているとおもいます。これらの訳注をしっかりと読み込んでみますと,蜂屋邦夫の訳文も,やや淡白になっていて,どこか腰が引けているように感じます。原文を書いた老子は,いろいろの含意をもたせつつも,単刀直入にそのものずばりを言い切っているようにおもいます。

 すなわち,生殖行為そのものである性行為(セックス)も,天地の生成作用と同じで,尽きることなく,限りなく続くのだ,と。この生殖という営みがあるからこそ,人間は絶えることなく永遠に存続していくことができるのだ,と。生殖こそ万物の母である,と。「玄牝之門」とはそういうことなのだ,と。ものごとのはじまりは,すべてここにある,と断言しているのです。

 このように読んできますと,この第6章と第1章とは,みごとに共鳴し合っていることがわかってきます。すなわち,第1章の末尾にある章句「玄之又玄、衆妙之門」は,第6章の「玄妙之門」(玄妙なる牝の陰門)とみごとに響き合っています。

 ここまできますと,では,第1章をどのように読むのか,ということがまったく次元の違う新解釈として提示されなくてはならない,とわたしは考えます。つづけて,次回は,第1章を取り上げてみたいとおもいます。

〔追記のメモ〕
 このような『老子』解釈を可能としたきっかけは,森元庸介さんのプレゼンテーション「ジャン=ピエール・ルジャンドルの舞踊論」と,西谷修さんが,このところ繰り返し主張されている「生きもの」としての人間,そこから思考を立ち上げなくてはいけない,といういわゆる「チョー哲学」があったからだ,と正直に告白しておきます。
 なお,『老子』に書き込まれている「道家思想」は,太極拳の思想の原典にもなっていることを付け加えておきたいとおもいます。

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