2012年11月26日月曜日

日馬富士,新横綱場所顛末記。心技体のコントロールの難しさが露呈。これをバネに心とからだを鍛えて。

 9勝6敗。新横綱としては屈辱の結果。この場所,日馬富士になにが起きていたのか。ここを見届ける力量こそが相撲愛好家の基本条件。今場所の15日間の日馬富士の相撲の取り口,その内容をどのように分析するか,ここが相撲の醍醐味。

 悔しくて,悔しくて,今夜は眠れないのは日馬富士だろう。わたしの頭のなかも15日間の日馬富士の相撲が,何回も何回もリプレイされていて,たぶん,寝つかれないことだろう。でも,勝ち負けは度外視して,一番,一番,それぞれに意味のある相撲なので,わたしは満足しながらそのリプレイを楽しむことだろう。

 心技体とは,ほんとうによく言ったものだ。前半の相撲をみていて,今場所は,もうすでにいろいろと試行錯誤しながら横綱相撲のペースを貪欲に探っている,と受け止めていた。しかし,今日の相撲を見届けたところで,それは間違いであった,と気づいた。そうではなくて,日馬富士は,徹底して速い相撲をこころがけていた,ただ,それだけだということがわかった。その理由は,かれの足首に問題があった,ということ。もう,日馬富士ファンならだれでも知っているとおり,かれの両足首は時限爆弾をかかえているのだ。この両足首をだましだまし,ここまできた。先場所,先先場所の二場所が,奇跡だったと言った方がいいかもしれない。

 じつは,これまでも足首の調子がいいときは,いつも抜群の成績を残してきた。しかし,足首に痛みが走ると,とたんに負けがこむ。そして,見るも無惨な黒星を重ねることになる。今場所の日馬富士はその痛みをかかえての場所ではなかったか。だから,肝心なときに力が出せない。第一,足首の痛みを我慢することができない。今日の千秋楽の相撲がその典型だった。がっぷり四つに組んで渡り合ったのだから,あわてて巻き変えにいく必要はなかったはずだ。この体勢でどこまで通用するのか,じっくりと我慢して耐えるべきだった。先場所の日馬富士ならそうしたことだろう。が,今場所はそうはいかなかった。

 相撲が長くなることを日馬富士は嫌った。だから,先場所,ありえない巻き変えに成功して,勝ちをもぎとったことをからだが思い出したのだろう(あれはひょっとしたら八百長?だとしたら,もっと相撲は面白くなる。今場所はそのお返し?,と)。よし,今場所も,と日馬富士のからだが反応してしまった。そこを,待ってましたとばかりに白鵬は右からの上手ひねりを効かせながら,左から得意の投げにでた。これがみごとに決まった。が,ちょっとうまく決まりすぎたようにもみえた。それは足首のせいか,それとも八百長か。その両含みのところが味があっていい。

 今場所は,白鵬の心技体がみごとに充実していた。先輩横綱としては,二場所連続して全勝優勝をさらわれてしまったという事実は,なんとも屈辱だったに違いない。白鵬は,これまでとはまったく違った気持ちを籠めて,言ってしまえば心機一転して,徹底して心技体を鍛えてきたに違いない。その結果が,今場所の14勝1敗という成績である。白鵬は,日馬富士が横綱になったことを契機にして,一段と気持ちを引き締め,かつての全盛時代の相撲を取り戻してきた。このところ,どこかに気持ちのゆるみがあったのか,相撲そのものも厳しさを欠いていた。それが日馬富士の二場所全勝優勝という偉業を見せつけられて,白鵬の心に火がついた。

 そして,それをみごとになし遂げた白鵬は立派である。この白鵬の姿をほぞを噛みながら悔しがっているのは日馬富士その人に違いない。さぞかし,からだのどこにも痛いところのない,万全の態勢で白鵬と当たりたかったことだろう。しかし,今場所はそうはいかなかった。

 わたしは,今場所の日馬富士の相撲をみていて,日替わりのように立ち合いに工夫を加え,相撲内容もその流れにまかせている,と判断した。これは明らかに新横綱としての新しい相撲のスタイルを模索しているのだ,と受け止めた。だから,日馬富士の相撲は「進化」している,とこのブログにも書いた。「進化」をめざしていたことは間違いではない。が,「進化」をめざすには,その裏事情があったらしい。つまり,両足首の故障。古傷のうずき。この「痛み」とどのようにして折り合いをつけていくか,これが今場所の日馬富士の最大の課題だったのだろう,といまにして思う。その答えを,千秋楽で出してくれた。先場所の日馬富士は不利な態勢になっても必死になって我慢した。そして,勝機が訪れるのを待った。そして,最後の最後に勝負にでた。つまり,スタミナ勝負にでたのだ。その結果は,白鵬の防戦一方の相撲となった。

 あの日馬富士の右下手投げと白鵬の左上手投げの打ち合いで,日馬富士は主導権を握ったまま白鵬を土俵一周させた。この「耐える」「我慢する」相撲が,今場所はとれなかった。それが日馬富士の今場所の心技体の総決算だった。

 さぞかし,日馬富士はふがいなさと悔しさとを同時に味わったことだろう。これまでにもこのような経験をしてきたことではあるが,新横綱のそれはまた別であろう。9勝6敗。世に言う「クンロク」である。大関としても失格である。だから,当然,新横綱の場所としても失格である。しかし,よくよく考えてみると先輩横綱の多くも,ここの関門でつまずいている。千代の富士などは,途中で休場している。しかし,その悔しさをバネにして猛稽古を重ね,幕内最軽量横綱としての歴史に残る大記録を残した。

 日馬富士よ。焦ることなかれ。暮れ・正月と,足首を完璧に直すような地道な稽古をしっかり積んで,来場所に備えよう。その不安材料が解消できたら,立派な横綱相撲がとれるようになる。そして,なぜか,今場所は,ほとんど見られなかった得意の「張手」「喉輪」「突っ張り」「いなし」を徹底的に駆使して,得意の左上手を引いて頭をつける体勢に持ち込み,左からの出し投げを打って,相手の体勢をくずして寄ってでる,という相撲を復活させてほしい。白鵬の今場所は,信じられないほど張手を多用した。そこまでやるか,というほどの「張手」を繰り出した。マスコミのバッシングを気にして日馬富士がそれらの攻撃を遠慮したとしたら,それは間違いだ。

 なんと言ったって,千代の富士と同じ幕内最軽量の横綱なのだ。どんな立ち合いの手を用いてもいい。千変万化の立ち合いをして,相手を翻弄させ,自分有利な体勢に持ち込むこと,これは相撲のセオリーだ。しかも,日馬富士にだけ許された特権だ。なぜなら,先天的なスピードのある動きと運動神経の良さに恵まれた日馬富士にしかできない「芸」なのだから。

 9勝6敗。結果は結果。でも,わたしはその相撲内容には満足している。存分に堪能できたのだから。その一番,一番には意味があった。それをこれから分析してみたいと思う。どの一番で,どの足首を痛めたのか。つまり,負けには負けの意味がある。そこを見極める眼力を養うこと。これぞ相撲通の本領だ。

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