2016年2月1日月曜日

ピナ・バウシュへの追悼のことば。ピナを支えたジョーの手記。

 『さよならピナ,ピナバイバイ』(ジョー・アン・エンディコット著,加藤範子訳,叢文社,2016年)を読みました。とてもこなれたいい訳になっていて,一気に読みました。一世を風靡したダンス界の奇才ピナ・バウシュの実像が,わたしの前に忽然と立ち現れたような印象をもちました。はじめは,ピナ・バウシュのお気に入りのダンサーとして,やがて,ピナにはなくてはならないかけがえのない存在としてピナを支えつづけた著者のジョー・アン・エンディコットの発することばが素晴らしい。ピナに寄せる絶大なる信頼と深い愛と,そこから導き出されるダンサーとしての極限情況での才能の開花と至福の愉悦と,だからこそ避けてとおることのできない異次元の緊張感と葛藤・懊悩と,そして,ときには絶望的な燃え尽き症候群との闘いとが,詩文のような簡素なことばで語られていく。それらのことばの一つひとつに籠められたジョーの思いの深さまでもが伝わってくる。

 とんでもない本を読んでしまったと,いま,おもっています。

 ダンサーとはいったいいかなる「生きもの」なのか。その深い業のようなものが,絶えず蠢いていて,その呪縛から解き放たれることなく,そこに全身全霊を投げ出していくしかない,そういう全存在を賭けた生き方しかできない宿命を帯びた「生きもの」なのだろうか。少なくとも,ダンサーとしてのジョーの生きざまを見据えるとき,わたしにはそのように見えてきて仕方がない。まるで,仏教でいうところの「三業」の世界を彷彿とさせる。とてつもなく恐ろしほどの深い世界で,ピナとジョーとは響き合い,交信し合い,ダンスの究極の世界を模索し合う。その瞬間,瞬間が散文詩のような美しいことばとリズムで語られている。

 ジョーは一つのステージを踊りきるたびにダンサーとして進化していく。しかも,その進化はピナの投げかける「問い」への応答として表出する。このコレオグラファーとダンサーとの一種独特の関係性をとおして,ピナの実像が忽然と姿を現す。それは,また,わたしがこれまで考えていたコレオクラファーとはまるで次元の異なる存在であることを知り,驚く。

 ピナ・バウシュが類稀なるダンサーであり,コレオグラファーであり,ディレクターであり,舞台監督であることは,多少なりとも予備知識はもっているつもりだった。しかし,それらのほとんどは根底から覆され,浅はかな間接的な「評論家」たちの情報でしかなかったことを,このテクストが思い知らせてくれた。そんな生易しい存在ではなかったのだ,ピナ・バウシュという人は。

 言ってしまえば,存在そのものが異次元的なのだ。そのことがジョーの吐き出す追悼のことばによって浮き彫りにされてくる。ジョーにとってはピナが存在していることがすべてだ。つまり,ピナが生きてそこに「在る」ことがすべてなのだ。ジョーはピナの存在そのものをすべて肯定する。そこがジョーの出発点なのである。だから,ジョーはみずからもてるもののすべてをピナに捧げようとする。そして,また,ピナはそれを容赦なく要求する。しかも,とことん要求する。こうして,ジョーとピナは互いにもちつもたれつしながら,三業の階段を降りていく。

 ちなみに,三業とは,仏教用語で,身・口・意のこと。つまり,身体的活動(身)と言語的活動(口)と精神活動(意)のことで,言ってしまえば,人間の一切の活動のこと。したがって,ジョーはみずから全身・全霊を投げ出して,ピナとの接点をさぐっていく。ピナもまた,そういうジョーに全面的な「信」を置き,みずからの創作活動にとってなくてはならない存在として,のめり込み,頼りきることになる。このような関係性は,ダンスの創作活動にあっては稀有なるものではないのかも知れない。しかし,生涯にわたって,この関係性を維持しつづけたことは,奇跡というべきかも知れない。まずは,ありえないことがありえたこと,この事実をジョーは重く受け止めている。そして,素晴らしいものだ,とも述懐している。しかし,それだからこそ,二人の関係は,筆舌に尽くしがたい微妙なものとならざるを得なかったのだろう。

 そこから,至福の時も生まれれば,深い葛藤や懊悩も生まれる。言ってしまえば,この二つの間を絶えず行き来しながら,悩み,苦しみ,とことん思考し,試行錯誤を繰り返しながら,二人が納得する素晴らしい舞台芸術を産み出していくことになる。

 本書はジョーの手記の体裁をとっているが,じつはピナ・バウシュについての恐るべき批評ともなっている。管見ながら,これまでに触れてきたピナ・バウシュ批評のレベルをはるかに超えた,深い精神性にまで分け入っていく異質の批評というべきか。その意味で,本書の刊行は,こんごのピナ・バウシュ論議に一石を投ずる重要な存在となるだろう。つまり,本書を抜きにしてピナ・バウシュを語ることは許されなくなるだろう。

 訳者あとがきにもあるように,本書の翻訳に12年という歳月を費やしている。著者のジョー・アン・エンディコットとは生活をともにしたこともある訳者・加藤範子は,ジョーが本書に書き記したこと以上の,ジョーのプライベートな葛藤や懊悩についても熟知している。その上での翻訳である。だから,ジョーの記したことばの一つひとつの深い意味や,その背景にいたるまで,十分に思考をめぐらせ,さまざまな想像力を働かせて,もっとも適切な「日本語」を選び取ることに,さんざん悩んだに違いない。その結果の訳業である。

 訳者の加藤範子自身も海外での公演もこなすダンサーであり,コレオグラファーでもあり,ディレクターから舞台監督までこなす,多芸・多才の持主である。その傍ら,大学の非常勤講師としての職務もこなし,超多忙の日々の間隙を縫っての訳業であった。わずかな時間を切り取るようにして,ジョーのこの手記と向き合い,あれこれ格闘した密度の高い時間を過ごしたこの経験は,貴重な宝物となってこんごの活動に生かされてくることだろう。

 ひとつの大きなハードルを超えて,また,新しい世界に飛び出し,いまは,素晴らしい眺望を,めくるめく眺望を楽しんでいることとおもいます。

 ピナ・バウシュのこと,そして,ジョー・アン・エンディコットのことを存分に語り合える日が近からんことを楽しみにしています。

 そして,最後に,月並みですが,こころから「おめでとう」のことばを送ります。
 ほんとうに,ほんとうに,おめでとう ! 

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