2012年4月6日金曜日

「再稼働」ありき。「国民の生活が第一」から「人間の命は第二」(命より原発)へ。これは詐欺だ。

たしか,この間の総選挙のときに,街角のあちこちに貼られた選挙ポスターには「国民の生活が第一」とはっきり書いてあったはずなのに,そして,それを信じた国民の票が集まって政権交代まで起きたというのに,いつのまにやら「人間の命は第二」に舵を切ろうとしている。最大多数の最大幸福のためには,一部の人たちの「命」を犠牲にしても仕方がないのだ,とでも考えているのだろうか。だとしたら,これは詐欺だ。

昨日・今日の関連閣僚会議では,原発再稼働ありきを大前提にした合意形成に向けて,一足飛びに結論を出そうとしている。もう,ここまできたら止まらないだろう。そこまでして政府を動かしている「原子力ムラ」の力というものが国民の前に次第に露になってくる。恐るべし。そう思うと情けなくなってくる。では,いったい,この間の選挙はなんだったのか,と。そして,政府はなんのために存在するのか,と。

今日の新聞をみると,原発を設置した地元の理解は求めるが,かならずしも合意を得る必要はない(幹事長発言),とまで言い出している。これでは沖縄の米軍基地問題と同じ手法ではないか。こちらはまだ相手のある話だ。しかし,原発は自分たち自身の問題だ。なのに(だから?),住民(国民)の意志を無視してもいいとでも言うのだろうか。なんというこった。もはや,はちゃめちゃではないか。こうなったら,もはや,なにも信じられるものはなくなってしまう。

「国民の生活が第一」だからこそ原発を再稼働するとでも言うのだろうか。そのためには「国民の命は第二」にするしかない,とでも。口が曲がってもこんなことを言う政治家も官僚も財界人もいるはずはないが,やってることはこのままではないか。しかも,こんなことに気づく人間は圧倒的少数なのだから無視すればいいとでも考えているのだろうか。どうみても,これは確信犯であり,詐欺そのものだ。

なぜ,そうまでしなくてはならないのか。みんな口をつぐんでほんとうのことを言おうとはしない。舌鋒鋭いはずの某評論家を筆頭に。まるで,タブーであるかのように。わたしのような素人でも(だからこそ?)以下のようなことを聞き知っている。原発を保持することは原爆を保持することとイコールであり,人工衛星をもつことはミサイルをもつこととイコールだ,と。このことを当局はあからさまにされたくないらしい。つまり,日本は原発という名のもとでの立派な原爆の保有国なのだ。核エネルギーの平和利用という名前にすり替えただけのことだ。原発を再稼働するということは,要するに「原爆」を保持しなければならない,という至上命令があるからだ。そうやって原爆を保持し,国を守ろうとする以上,多少の国民の「命」が犠牲になってもやむを得ない,と「原子力ムラ」の住民たちは考えているに違いない。

その事実は,近く実施される予定の北朝鮮の人工衛星実験(すなわち,ミサイル実験)に対する日本政府のとっている姿勢をみれば明らかだ。さらには,それ以前からある原発準備に対する国際社会(という名の欧米先進国)の査察問題も同じだ。北朝鮮に対してはなにがなんでも原発(原爆)を持たせたくはないのだ。これもまた奇怪しな話である。

小学校の教室のなかで,喧嘩のもっとも強いボスとその取り巻き連中だけは「ナイフ」を持っていていいけれども,ほかの連中は持ってはならない,という理屈と同じだ。一番のチビこそ,わが身を守るために「ナイフ」を隠し持ちたくなるものだ。それを,ボスと取り巻き連中が,チビの所持品検査をやって,無理やり取り上げてしまうのと,まったく同じ理屈だ。これを奇怪しいと思わなくなってしまっているのが,いまのわたしたちの姿なのだ。

ああ,とんでもない方向に脱線してしまった。このさきを書くには勇気がいる。
話をもとに戻そう。

結論。「国民の生活が第一」という飴玉を見せつけられ,それに乗せられてしまったわたしたちは,気がついてみたら「国民の命は第二」の道を歩まされようとしている,ということ。今回の「原発再稼働」への政府の舵切りは上記のことを意味している,ということ。その陰には,なにがなんでも,いつでも自前の「原爆」をもつ技術を,それも最先端の技術を開発し,維持していく必要があると「原子力ムラ」の住民たちは考えている(らしい)ということ。人工衛星打ち上げ実験に膨大な予算を組むのも同じ論理。

こうして,これまで知られずにいたことが,つぎつぎに露になってくる。
原発事故は神の恩寵だ,あるいは,天罰だ,と言ったバカな人間がいるが,当たらずといえども遠からず,と思えてきて恐ろしい。くわばら,くわばら。ああ,雷さま,カッパさま。お助けを。

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