2010年6月28日月曜日

「偶然」とはなにか。

 昨日にひきつづき,泥縄勉強で「偶然」のことを考えている。今日は,しばらく前に読んだ『偶然のチカラ』(植島啓司著,集英社新書)を思い出し,再読してみた。
 正直に告白しておけば,植島啓司さんの書く本が好きで,本屋さんで見つけると迷わず購入して,せっせと読んできた。肩書をみると,宗教人類学者とある。しかも,ミルチャ・エリアーデのもとで勉強したという経歴もある。だから,という言い方も変だが,なんとなく「なるほどなぁ」と納得してしまうところがある。つまり,ふつうの人の視点とはいささか異なるのである。言ってしまえば,視野が広く,思考が柔軟なのである。しかも,時折,意表をつく発想がキラリと光る。しかも,その思考の中心には「宗教」という磐石の基盤がある。そこが,わたしなどにはたまらない魅力にみえる。
 最近のものでは,『世界遺産・神々の眠る「熊野」を歩く』(2009年,集英社新書ヴィジュアル版)が,わたしのこころをとりこにした。読み終わったら,なにがなんでもこの地を歩く,自分の眼でみて,空気を吸って,皮膚で感じて,「じかに」確かめる,と自分に言い聞かせていた。ことしの夏休みにはなんとか時間をつくってでかけてみようと計画している。
 この本の伏線になっているのが『聖地の想像力』(集英社,2000年)。こういう本を読むと「聖なるもの」のふるさとが少しずつ具体的なイメージとなって,脳裏に浮かぶようになる。科学万能の時代にあるといわれながらも,いまも,「聖なるもの」への畏敬の念は少しも衰えてはいないということがよくわかる。ついでに挙げておけば,『天使のささやき』(人文書院,1993年)というのもあって,宗教人類学のしなやかな思考の面目躍如をまのあたりにすることができる。この勢いで書いておけば,『男が女になる病気』とか,『性愛奥義』とか,『「頭がよい」ってなんだろう』とか,まあ,この人の守備範囲の広さはなみではない。
 というところで,「偶然」。
 このテクストの冒頭で,植島さんは,「偶然」とはなにかというもっとも基本的な設問をした上で,つぎのように書く。
 西洋では,古代ギリシア・ローマの因果論的説明に加えて,16世紀あたりから「偶然」を予想したいという風潮が起こり,17世紀以降の確率論の展開へと結びついていきました。東洋でも,釈迦の入滅を機に,物事がいかにして起こり,いかにして他の物事の原因となっていったのかを主題とする考え方が生まれ,それが後になって淘汰され,さらに大きな因果性の枠組みで捉えられないかという発想も生まれてきました。いつかすべては明らかになるのでしょうか。それとも,未来に起こることは永遠にわからないままなのでしょうか。
 という具合にして,まずは,西洋と東洋の「偶然」についてのとらえ方,対応の仕方の違いを提示する。そして,「偶然」の問題は,いつかはすべて明らかになるのか,それとも永遠にわからないままなのか,と投げかけている。このように問題設定をした上で,その謎解きにとりかかる。とても,わかりやすくて説得力のある内容が展開されていく。
 こうした植島さんの議論を下敷きにしながら,私見もふくめて,「偶然」という概念のおおきな枠組みを確認しておきたいとおもう。
 さきの引用文にもあるように,「偶然」ということが西洋で話題になるのは16世紀あたりから,ということのようだ。もともと,キリスト教的に考えれば,「偶然」ということはありえないことで,すべては神のご意志によるものだ,ということになる。天地創造から自然界の摂理にいたるまですべては神のなせるわざであり,人間の世界に起こるさまざまなできごともまた神のご意志によるものだ,と考えられている。これが基本にある。
 だから,いま,展開されているサッカーのW杯でも,キリスト教文化圏の選手たちは,ゴールが決まると,必ず「十字を切る」。つまり,うまくゴールが決まったのも神のお蔭である。だから,まずは,神に感謝する。この人たちにとって「偶然」はありえない。もし,考えられないようなスーパープレイが生まれたときには,「神が降臨した」とかれらは考える。それは「奇跡」ではあっても,「偶然」ではない。あくまでも「必然」なのである。
 おもしろいことに,古代ギリシアの多神教の世界にあっても,自然界や人間界を支配しているのは神々である,と考えられていた。だから,古代オリンピア祭で行われた祭典競技(古代オリンピック競技会)での勝ち負けは,すべて神々の意志によるものと考えられていた。したがって,競技のはじまる前は,ゼウスの神殿の前で,盛大な供犠(牛を犠牲に捧げる)が行われ,神々から特別の「力」を授けられるよう真剣に祈ったという。ここでも「偶然」はありえない,と考えられていた。
 しかし,古代キリシアにあっても,ソクラテスやプラトンやアリストテレスなどの哲学者が活躍する時代になると,人間の理性による「因果論」的な説明に,少しずつ「信」の比重が移動していく。つまり,人間の頭で考えて,納得のいく「因果」関係を明らかにしよう,という方向に移っていく。それでもなお,因果関係を説明できない「偶然」というものがしだいに注目されるようになり,16世紀にはそれを「予測」することに大きな関心が寄せられる。そして,17世紀に入ると,それを「確率論」で説明する人たちが登場する。そのなかの一人にパスカルがいる。
 話は少しだけ飛躍するが,この「確率論」をとことん精度を高めていけば,「運」や「偶然」はすべて説明できると信じた人にラプラスがいる。いわゆる人間の知性に対する「全能」信仰のさきがけである。のちの科学者たちが「ラプラスの悪魔」と名づけたのは,この「全能」神話のことである。つまり,そんなことはありえない,と19世紀の科学者たちは考えたのである。しかし,この「ラプラスの悪魔」は,いま,科学万能主義の勢いに押されてフルに活躍していると言っていいだろう。そして,この「全能主義」に酔っている人たちの「理性」は,いまや,「狂気」と化している,と西谷修は警告を発している(『理性の探求』)。
 この傾向は,いま行われているサッカーW杯で展開されているゲームのスカウティング理論にまで,根強く浸透している。つまり,勝つための「確率論」の徹底である。こうして,サッカーもまた勝利至上主義に支配されることになる。まさに,「ラプラスの悪魔」が狂喜乱舞しているということだ。それに真向から異を唱えているのが今福龍太氏である(詳しくは『ブラジルのホモ・ルーデンス』を参照のこと)。
 このあたりで,このブログは一旦,終わりにしておこう。
 そして,最後にもう一度,「偶然」とはなにか,という問いを発して。
 ついでに,仏教的コスモロジーでは「縁起」ということばで,因果関係の説明がなされていて,ここにも「偶然」という考え方は存在しない。「縁起」がめぐりめぐって「罰が当たる」という考え方である。このあたりのことは,明日のブログで,考えてみることにしよう。
 

1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

前回と今回のブログ、想像を超えた話の展開にワクワクしながら読みました。ウェブマガジンの特集で「偶然」についての執筆をお願いした当の本人であるわたくしですが、私の想像をはるかにこえたところに話題が展開し、これで出来上がりの原稿が楽しみだと思いました(と、プレッシャーをかけたりして・・・)。特に、前回のブログ「古代に生きた人間にとって偶然は、神々の意思による必然だったのでは」という件は、新感覚でした。
 カイヨワも書いているように、アゴーン(競争)においては、遊ぶ人は自分だけを頼りにするが、アレアにおいては自分以外の一切を頼りにする・・・と。おそらく、自分以外を頼りにするアレアを、「神々による必然」ととらえるか「勝敗の原因から自分を排除する」ととらえるかで、人間の遊びに対する見方ががらりと変わる、そう感じました。