二日間(12日・13日)のスポーツ史学会(第25回大会)が終わって,ことしのひとつの大きな節目を通過したなぁ,としみじみ思っている。この学会がこれからどのようになっていくのだろうか,と毎年,気にかけている。にもかかわらず,ことしは,少し前のブログにも書いたとおり,『ボクシングの文化史』(翻訳,東洋書林)の追い込みと重なり,14日には戻さなくてはならない念校と学会期間中もにらめっこをしていた。だから,学会は上の空。ほとんど会場から雲隠れしていた。
しかし,シンポジウムと二人の発表だけは聞こうと期待していた。
で,まずは,12日の午後に設定されていたシンポジウムに顔を出す。ぎりぎりに会場に飛び込んだら,大きな会場の一番うしろの席しか空いていない。珍しいことだ。前からびっしりと人で埋まっている。やはり,テーマがいいと人は集まる。仕方がないので,一番うしろに坐る。シンポジストの顔がほとんどみえない。残念。
わたしの期待は,『メディアスポーツ解体』<見えない権力>をあぶり出す(NHKブックス)の著者・森田浩之さんのお話を聞くことにあった。シンポジスト3人のうちのあとのお二人は,わたしたちの会員から中房さんと玉置さんが立った。このお二人のお話にゲストの森田さんのお話がどのようにからみつくのか,そして,それを座長の松浪さんが,どうさばいていくのか,それが楽しみだった。
しかし,最初から,想定外のことが起きた。声が聴こえないのである。座長の切り出しのことばが,すでにして,ほとんど聞こえない。たぶん,こんなことを言っているはずだ,という想像力で補って聞いていた。そして,トップ・バッターの中房さんのおしゃべりが,これまた,ほとんど聞き取れない。一時,音声が大きくなって,ようやく聞き取れるようになったと思ったら,また,小さくなってしまった。パワー・ポイントで映し出された文字や図版を頼りに,必死になって耳を傾ける。が,やはり,意味不明。
つづく玉置さんのお話は,パワー・ポイントを使われなかったので,まったく聞き取れず。残念至極。で,最後のゲストの森田さんも,パワー・ポイントの文字を追いながら,お話に耳を傾けるも,ほとんど聞き取れない。
少し前から,難聴であることは自覚していた。人の話す声が少し離れてしまうと,ほとんど聞こえない。距離の二乗に比例して聴こえなくなる。だから,ふだんも右側の耳を相手の顔に寄せるようにして,聞くようにしている。まずは,そこにすべての原因があるのだが・・・・。
しかし,隣に坐っていた人(Sさん)に「聴こえますか」と聞いてみた。あまり,よく聴こえません,という。じゃあ,わたしひとりではないのだ,と少し安心。それで,なるほど,と思うことがあった。いつもなら,前の方が空いていて,うしろは満席になるのに,今回は前が詰まっている。すでに,一般研究発表の間に,うしろは聴こえないということがわかっていたらしい。だから,会員のみなさんが,みんな前の方に詰めて坐っているのだ,と。
そんなわけで,このまま坐っていても意味がないと判断し,さっさと退席して,念校の仕事にもどってしまった。だから,そのあとのディスカッションがどのように展開したのかは,わたしは聞いていない。とても残念だったが仕方ない,と諦めた。
が,もっと残念なことが起きた。シンポジウムが終わって,そのまま,会場を移して懇親会に入った。さっと見回したところ,森田さんの顔が見えない。あー,忙しくてお帰りになってしまったのだ,と勝手に思い込んでしまった。そうしたら,会が終わるころになって,井上さんが森田さんを連れてきてくださった。慌てて,ポケットの中にくしゃくしゃになって入っていた名刺(最後の一枚)を出して,ご挨拶。森田さんは背の高い人で,こんなに大きな人だったのか,と少し驚いた。
でも,とても気さくな方で,最初から,楽しい会話を交わすことができた。『メディアスポーツ解体』をとても興味深く読ませていただきました,とわたし。『近代スポーツのミッションは終わったか』を読んで,わたしは稲垣先生のファンになりました,と森田さん。一瞬,ほんまかいな,と顔を覗き込んでしまった。まんざらお世辞だけでもなさそうな雰囲気だったので,いやいや,あの本は今福さんと西谷さんが語ってくださっているところがセールス・ポイントですから,とわたし。そうしたら,ブログも楽しみに読ませていただいています,と森田さん。「えっ?!」とわたし。一瞬,冷や汗が背中を流れていく。玉石混淆で,お恥ずかしいかぎりです,とわたし。いやぁ,とても面白いですよ,と森田さん。
とまあ,こんなやりとりをしてから,一度,ゆっくりお話を伺いたい,とわたし。じつは,毎月,東京・名古屋・大阪と巡回しながら研究会をやっていて,3カ月に一回くらいの割合で,東京で研究会を開催しますので,そこに遊びにきてください,とお誘いする。あー,そうですか。よろこんで,と森田さん。じゃあ,あとは,メールでやりとりをさせてください,とわたし。
そんな風にして,わたしは折角のチャンスなのに,慌ただしく会話を切ってしまった。というのは,このままいけば,今日のシンポジウムの感想を求められるに決まっている,そんなことになったら,なんと弁明すればいいのだろうか,という後ろめたさがわたしにはあったからだ。中途半端な弁明もしたくないし・・・,と。それで,もっと時間をかけてお話をしたい,とお願いをした次第。
こうなったら,次回の東京例会には,西谷修さんにお出でいただいて,やはり,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』のお話をしてもらおう,とこのとき決心した。で,そこに森田さんがきてもらえれば,あとの懇親会で,じっくりと「メディアスポーツ」をめぐる問題について議論をすることもできるなぁ,と。もう,そんなことを夢みている。
やはり,メディアとスポーツとの関係は,とことん考えなくてはならない現代の課題である。つまり,いま,という時代を読み解く,最大のテーマのひとつだと考えているからだ。現代という時代を考える上で,スポーツはもはや不可欠の素材なのだ。
スポーツメディアがメディアスポーツを創り出し,いまや,メディアスポーツのみが「スポーツ」だと多くの人たちが信じて疑わない。そこには,もはや,わたしの考える(あるいは,体験した)スポーツのリアリティは存在しない。だから,いま,わたしたちが眼にしているスポーツのすべては,ヴァーチャル・リアリティとして現象しているだけなのではないか,と。
人間の眼で確認することのできない100分の1秒,1000分の1秒を,テクノロジーの手を借りて,優劣を区分けすることの意味はどこにあるというのだろうか。メディアスポーツは,それをいとも簡単に可能とするのみならず,当たり前のこととして,人びとを洗脳していく。人びともまた,すぐに,順応してしまう。そのさきに待ち受ける「スポーツ」とは,いったい,なんなのだろうか。そんなことを森田さんと話してみたいのである。
このブログは,森田さんへのお詫びとラブ・コールのつもり。
ぜひ,一度,お会いきできますことを。
こころからのお願いです。
メディアスポーツよ,いずこへ。
しかし,シンポジウムと二人の発表だけは聞こうと期待していた。
で,まずは,12日の午後に設定されていたシンポジウムに顔を出す。ぎりぎりに会場に飛び込んだら,大きな会場の一番うしろの席しか空いていない。珍しいことだ。前からびっしりと人で埋まっている。やはり,テーマがいいと人は集まる。仕方がないので,一番うしろに坐る。シンポジストの顔がほとんどみえない。残念。
わたしの期待は,『メディアスポーツ解体』<見えない権力>をあぶり出す(NHKブックス)の著者・森田浩之さんのお話を聞くことにあった。シンポジスト3人のうちのあとのお二人は,わたしたちの会員から中房さんと玉置さんが立った。このお二人のお話にゲストの森田さんのお話がどのようにからみつくのか,そして,それを座長の松浪さんが,どうさばいていくのか,それが楽しみだった。
しかし,最初から,想定外のことが起きた。声が聴こえないのである。座長の切り出しのことばが,すでにして,ほとんど聞こえない。たぶん,こんなことを言っているはずだ,という想像力で補って聞いていた。そして,トップ・バッターの中房さんのおしゃべりが,これまた,ほとんど聞き取れない。一時,音声が大きくなって,ようやく聞き取れるようになったと思ったら,また,小さくなってしまった。パワー・ポイントで映し出された文字や図版を頼りに,必死になって耳を傾ける。が,やはり,意味不明。
つづく玉置さんのお話は,パワー・ポイントを使われなかったので,まったく聞き取れず。残念至極。で,最後のゲストの森田さんも,パワー・ポイントの文字を追いながら,お話に耳を傾けるも,ほとんど聞き取れない。
少し前から,難聴であることは自覚していた。人の話す声が少し離れてしまうと,ほとんど聞こえない。距離の二乗に比例して聴こえなくなる。だから,ふだんも右側の耳を相手の顔に寄せるようにして,聞くようにしている。まずは,そこにすべての原因があるのだが・・・・。
しかし,隣に坐っていた人(Sさん)に「聴こえますか」と聞いてみた。あまり,よく聴こえません,という。じゃあ,わたしひとりではないのだ,と少し安心。それで,なるほど,と思うことがあった。いつもなら,前の方が空いていて,うしろは満席になるのに,今回は前が詰まっている。すでに,一般研究発表の間に,うしろは聴こえないということがわかっていたらしい。だから,会員のみなさんが,みんな前の方に詰めて坐っているのだ,と。
そんなわけで,このまま坐っていても意味がないと判断し,さっさと退席して,念校の仕事にもどってしまった。だから,そのあとのディスカッションがどのように展開したのかは,わたしは聞いていない。とても残念だったが仕方ない,と諦めた。
が,もっと残念なことが起きた。シンポジウムが終わって,そのまま,会場を移して懇親会に入った。さっと見回したところ,森田さんの顔が見えない。あー,忙しくてお帰りになってしまったのだ,と勝手に思い込んでしまった。そうしたら,会が終わるころになって,井上さんが森田さんを連れてきてくださった。慌てて,ポケットの中にくしゃくしゃになって入っていた名刺(最後の一枚)を出して,ご挨拶。森田さんは背の高い人で,こんなに大きな人だったのか,と少し驚いた。
でも,とても気さくな方で,最初から,楽しい会話を交わすことができた。『メディアスポーツ解体』をとても興味深く読ませていただきました,とわたし。『近代スポーツのミッションは終わったか』を読んで,わたしは稲垣先生のファンになりました,と森田さん。一瞬,ほんまかいな,と顔を覗き込んでしまった。まんざらお世辞だけでもなさそうな雰囲気だったので,いやいや,あの本は今福さんと西谷さんが語ってくださっているところがセールス・ポイントですから,とわたし。そうしたら,ブログも楽しみに読ませていただいています,と森田さん。「えっ?!」とわたし。一瞬,冷や汗が背中を流れていく。玉石混淆で,お恥ずかしいかぎりです,とわたし。いやぁ,とても面白いですよ,と森田さん。
とまあ,こんなやりとりをしてから,一度,ゆっくりお話を伺いたい,とわたし。じつは,毎月,東京・名古屋・大阪と巡回しながら研究会をやっていて,3カ月に一回くらいの割合で,東京で研究会を開催しますので,そこに遊びにきてください,とお誘いする。あー,そうですか。よろこんで,と森田さん。じゃあ,あとは,メールでやりとりをさせてください,とわたし。
そんな風にして,わたしは折角のチャンスなのに,慌ただしく会話を切ってしまった。というのは,このままいけば,今日のシンポジウムの感想を求められるに決まっている,そんなことになったら,なんと弁明すればいいのだろうか,という後ろめたさがわたしにはあったからだ。中途半端な弁明もしたくないし・・・,と。それで,もっと時間をかけてお話をしたい,とお願いをした次第。
こうなったら,次回の東京例会には,西谷修さんにお出でいただいて,やはり,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』のお話をしてもらおう,とこのとき決心した。で,そこに森田さんがきてもらえれば,あとの懇親会で,じっくりと「メディアスポーツ」をめぐる問題について議論をすることもできるなぁ,と。もう,そんなことを夢みている。
やはり,メディアとスポーツとの関係は,とことん考えなくてはならない現代の課題である。つまり,いま,という時代を読み解く,最大のテーマのひとつだと考えているからだ。現代という時代を考える上で,スポーツはもはや不可欠の素材なのだ。
スポーツメディアがメディアスポーツを創り出し,いまや,メディアスポーツのみが「スポーツ」だと多くの人たちが信じて疑わない。そこには,もはや,わたしの考える(あるいは,体験した)スポーツのリアリティは存在しない。だから,いま,わたしたちが眼にしているスポーツのすべては,ヴァーチャル・リアリティとして現象しているだけなのではないか,と。
人間の眼で確認することのできない100分の1秒,1000分の1秒を,テクノロジーの手を借りて,優劣を区分けすることの意味はどこにあるというのだろうか。メディアスポーツは,それをいとも簡単に可能とするのみならず,当たり前のこととして,人びとを洗脳していく。人びともまた,すぐに,順応してしまう。そのさきに待ち受ける「スポーツ」とは,いったい,なんなのだろうか。そんなことを森田さんと話してみたいのである。
このブログは,森田さんへのお詫びとラブ・コールのつもり。
ぜひ,一度,お会いきできますことを。
こころからのお願いです。
メディアスポーツよ,いずこへ。
2 件のコメント:
先生、ご挨拶が遅れました。このエントリーだけ、なぜか見逃していました。ありがとうございました。
森田浩之さま。コメントを入れてくださり,ありがとうございました。こんごともよろしくお願いいたします。一度,ぜひ,お会いできるチャンスをつくりたいと思っています。
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