2014年7月30日水曜日

「一動無有不動」ということについて。李自力老師語録・その49。

 一つの動作がはじまったら,からだのどの部分も動かないところは一つもない。つまり,からだ全体が一斉に動きはじめるのです。ですから,からだの内側からも動きが表出してきます。太極拳の動作はこのようにしてからだの内側から外側の隅々まで,すべてが渾然一体となって連続して動くことが理想として考えられています。このことを「一動無有不動」といいます。そして,この動作を習得した上での究極の動きが「行雲流水」ということになります。

 如是我聞。

 このような説明をされた上で,みずから,たとえばこんな動きになりますと言って垂範してくださいました。その動きの美しいこと,それはもはや言語の範疇を突き抜けて,ただ,うっとりとするのみです。同じ人間のからだなのに,どうしてこんな動作が可能なのか,とまるで異次元の世界をみる思いです。それは単にからだ全体がよどみなく動いているというだけではありません。からだの内側から表出してくるなにかが動作を突き動かしているようにもみえます。言ってしまえば,その両者が渾然一体となって醸しだされる一種独特の動作,と言えばいいでしょうか。

 なるほど,これが「一動無有不動」ということであり,その積み重ねが「行雲流水」の境地へと導くのだ,とこころの底から納得。

 その上で,細かな一つひとつの動作の稽古に入りました。この稽古は長年やってきた稽古とはまるで次元の異なる,もうワンランク上のレベルの稽古であることもすぐにわかりました。そして,わたしなりにみえてきたことは「股関節」のゆるぎない操作にすべての鍵が隠されているということでした。これはどういうことなのでしょう。これまでと同じ動作をしているのに,それを感じ取るわたしの感覚はこれまでとはまるで違うということでした。ある動作をしているわたしと,その動作を感じ取るわたしとが,お互いに対話をはじめているような,不思議な世界のひろがりでした。しかも,それは快感そのもの。その中心にあるものは「わたし」ではなく「股関節」。

 以上は,わたしのドグマティックな解釈と感想。正しいかどうかはわかりません。が,これまでになかった一つの発見であったことは間違いありません。あとは,稽古を積み重ねていき,習得した動作をとおして李老師の厳しい判定を受けるのみ。そのつもりで励みたいと,今日の稽古はいつもにもましてとてもありがたいものでした。

 李自力老師は,上の「一動無有不動」ということばの説明と同時に,このことばの正反対が「一静無有不静」です,と教えてくださいました。ひとたび静止したら,からだのあらゆる部分がすべてぴたりと静止し,静止していないものはなにもない,そういう世界です,と。さて,この世界をどのように受け止めたらいいのでしょう。わたしの脳裏には妙なものがちらついています。それは卓越した忍者が自分のからだを隠す最後の手段,隠遁の術に通底するものがあるな,というものです。同じ武術の極意の一つと考えると,これは矛盾することはありません。

 自然界とみずからのからだとを同調させる,あるいは共鳴・共振させる,という東洋的な伝統的な思想からすれば,なんの矛盾もありません。この先の稽古が待ち受けているものが,なんとなく透けてみえてきたように思います。

 これらの問題については,これから,とくと,考えてみたいと思います。

 以上,今日の稽古の感想アラカルト。
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