2012年12月28日金曜日

『相撲雑記』(柴田晴廣著,PDF私家版)を読む。野見宿禰の話題が満載。

 12月25日のわたしのブログ「上宮天満宮と野身神社で考える。「奴婢」という記録を社碑に刻んでいることの意味」にコメントを入れてくださった柴田晴廣さんが,表記のように『相撲雑記』(PDF私家版)を送信してくださいました。念入りにもCD版も郵送してくださいました。ありがたいことです。ちょっとだけ,余談ですが,柴田さんのように本名でコメントを入れてくれる人を熱烈歓迎したいと思います。

 じつは,柴田さんには大著『穂国幻史考』という入魂の著作があり,これもすでに送っていただいていました。この本のことについては,ほんの少しだけでしたが,このブログにも書かせていただきました。「穂国」(ほのくに)とは,愛知県三河地方の豊川(とよがわ・川の名前)の右岸にひろがる旧・宝飯郡の古代の名称(略称)です。この地域の歴史を古代から掘り起こしつつ,こんにちに伝承されている祭祀にいたるまで,文献とフィールドワークを重ね合わせながら考察した,もじどおりの力作です。

 この柴田さんの渾身の力作のなかに,野見宿禰の話が盛り沢山に記述されています。この本のなかにも,じつは,今回のブログにコメントを入れてくださったように,「野見」は韓国語の「奴の」の発音にきわめて近いので,野見の姓はそこからきているのではないか,というとても魅力的な仮説が提示されています。もちろん,著作のなかでは,もっと丁寧に順を追って詳しく論を展開しておられます。

 そこに今回は『相撲雑記』を送ってくださった,という次第です。もちろん,今回のこの私家版にも,野見宿禰に関する考察はてんこ盛りです。よくぞまあここまで調べ上げたものだと驚くばかりです。およそ,手にすることのできる文献はもれなく渉猟し,それらをベースにして,柴田さん独特の史観にたつ推理を展開していきます。これがまたきわめて魅力的です。えっ,そうなの?というような発見が随所に見られます。わたしのようなちょいかじりの日本古代史への関心から野見宿禰を推理するなどというレベルをはるかに超えでています。ですから,わたしにとってはとても参考になる,これからの調査のヒントになる,重要な指摘がふんだんに盛り込まれていますので,とても助かります。

 たとえば,愛知県にも野見宿禰がらみの土地や伝承があちこちに散在するという柴田さんの興味深いご指摘があります。それらも一つひとつ資料にもとづいて,地名や伝承が紹介されています。それどころか,柴田さんの生まれ育った土地であり,いまもそこに根を下ろして生活していらっしゃる「牛久保町」も,もともとは宝飯郡であり,つまり「穂国」です。その「穂国」と野見宿禰は切っても切れない関係がある,という柴田さんのご指摘は,初めて読んだときには眼からうろこでした。今回,再読してみて,ますます納得のいくものとなりました。穂国の隣の町が,わたしが小学校から高校卒業まで住んでいた故郷です。とても他人事ではありません。

 このブログにも書きましたが,笹踊りというお祭りのときに踊られるこの地域独特の伝統芸能がありますが,それも共有している土地柄です。つまり,文化圏としてはまったく同じです。そして,なぜ,この地にだけこの踊りが伝承されているのか,柴田さんは丹念に調べ上げて『穂国幻史考』のなかで論じておられます。まあ,言ってみれば,同じ三河弁で郷土史を語り合える,ありがたい友人がひとり増えたという思いです。

 いささか脱線してしまいましたが,もとにもどしましょう。ところで,全国に広がる天満宮の数の多さについては,つとに知られているとおりですが,野見神社の数も数えていくと相当のものになるのではないか,といまごろになって気づいた次第です。それも,柴田さんの研究をとおして,やっと気づいたことです。

 柴田さんのような,いわゆる郷土史家は,日本全国にかなりの方がいらっしゃると思います。が,柴田さんほど素直に,ご自分の興味・関心ひとすじに,とことんテーマを追いつづける方も少ないのではないかと思います。その情熱,バイタリティにはこころから敬意を表したいと思います。日本の権威主義的なアカデミズムは,こういう地道な研究者の存在を無視するのでしょうが,それは間違いだと思います。アカデミックな研究方法や目的意識にがちがちに縛られるあまりに,ほんとうの興味・関心とは遠ざかってしまう研究,つまり研究のための研究から,いかにして脱出するか,ということがこれからの重要な課題だと思います。とりわけ,「3・11」以後を生きるわたしたちにとっては,不可欠です。その意味で,柴田さんの存在は大きいと思います。

 これからの柴田さんのご活躍をこころから期待したいと思います。

 というところで,今日のところはここまで。

〔追記〕
 このブログに関して,柴田晴廣さんから,かなり手厳しいコメントをいただきました。かんたんに述べておけば,「わたしは単なる郷土史家ではない,そんなつもりは毛頭ない」というものです。この点については,柴田さんの名誉にもかかわる問題ですので,わたしなりの考えを応答として,補足のコメントをさせていただきました。とても,重要なことがらですので,ぜひ,ご確認くださるよう,お願いいたします。

4 件のコメント:

柴田晴廣 さんのコメント...

 少し反論を(笑)
 私は『穂国幻史考』を郷土史として書いたつもりはまったくありません。
 確かに東三河に関する文献初出の「朝廷別王(みかどわけのみこと)」や持統三河行幸を採り上げていますが、私が普段の生活から、無理せず調査し得ることをテーマにしただけで、東三河という一地域のみの歴史を語るといった狭い視野で書いたつもりはまったくありません。
 たとえば、奈良在住の方が奈良の飛鳥時代について論考をまとめたとしても、郷土史とはいわれません。なぜでしょうか?
 いままで、単に学会の怠慢によって持統三河行幸は、壬申の乱の恩賞のためだろうと軽くスルーされていますが、私は記紀の編纂時期を考えれば、持統三河行幸は、記紀を完成させるために、避けて通れない事項であり、一昔も二昔も前の壬申の乱の恩賞など笑止のこと、持統三河行幸を考察せず、記紀の成立、しいては日本の古代史など解明できるわけがないと思っております。
 上記のように私が普段生活している東三河の事例に基づき、あくまでも私が疑問に思えば、すぐにでも確認できる東三河を題材にしただけで、『穂国幻史考』は、郷土史といった矮小な話を書いたという認識はまったくありません。
 『相撲雑話』(特にはしがき部分の野見宿祢に関する箇所)は、『穂国幻史考』第一話の内容を野見宿祢を中心に要約しただけのもの、普通に考えれば、野見宿祢と東三河にはまったく接点がないわけですから、上記のように私が郷土史を書いたのではないということも納得いただけるかと思います。
 私がいいたいのは、中央史だけみても、なにも見えてこない。郷土の伝承を元に郷土史ではなく、民衆史という視点で物事を考える、これが史学界に欠けていることであり、ことさら直接中央と関係ない出来事を採り上げた論考を郷土史とすることが、民俗学が民衆学さらには民衆史という分野への発展を阻害したと考えております。

Unknown さんのコメント...

実名で,しかも真っ正面からの反論(笑い)ですので,少しだけ応答したいと思います。
わたしはスポーツ史家を名乗っています。その意味は,スポーツの歴史を研究することによって,人間とはなにか,人が生きるとはどういうことか,からはじまって日本とはなにか,世界とはなにか,を考えています。つまり,柴田さんのいう「中央史」をやっている人たちには手の届かないところから「普遍」の問題にボールを投げ返していこうという次第です。わたしのいう「郷土史」研究というのは,わたしのやっているスポーツ史研究と同じような立場から「中央史」に対して問題提起をする研究領域だと考えています。
柴田さんがやっておられる郷土史研究からも,まさに,「中央史」研究のいい加減さに一矢報いたい,いや,それどころか「中央史」の定説をひっくり返してやろうという,とてつもない野望に満ちた,強い情熱を感じ取っています。ですから,とても面白いと共感できるわけです。もし,そうでなかったら,最初の数ページで読むのを止めます。そういう本もたくさんありますから。
これでわたしの意とするところはお分かりいただけるでしょうか。

柴田晴廣 さんのコメント...

 皇国史観の親玉・平泉澄(1895~1984)は、学生が民衆史の研究をするといったときに「百姓に歴史はありますか?牛や豚に歴史はありますか?」といったのは、あまりにも有名な話です。
 平泉ほどではないにしても、どうも歴史学者を名乗る者には、郷土史=牛や豚の歴史というニュアンスが含まれています。そうしたことから、郷土史といわれることに抵抗があったわけです。
 もっとも、郷土史家を自称する者にも責任がないわけではありません。日本列島の中のある地域の歴史は当然日本列島全体の歴史と無縁なわけはないはずですが、どうもこの郷土史家を称する者は、日本列島の歴史の中である地域の歴史がどう位置付けられるかといった視点がなく、ひとりよがりな論を展開することもよくあること。
 私は日本列島の各地域の歴史の束(地域史の総体)が日本の歴史であり、日本の歴史を始め、韓半島、中国大陸の歴史の総体が東アジア史だと。当然、日本列島の歴史が東アジアの歴史と無縁なわけがあるはずはないのです。さらにいえば、日本列島のある地域の歴史も東アジア史の中でどう位置付けられるか、常にこれを考える必要があるように思います。しかし上述のように郷土史家を名乗る研究者には、そうした視点が欠けていることが多いのも事実です。
 そうしたことから、なにを研究しているんですかと問われると、東三河の地域史を通して、日本史や東アジア史を考えていますということにしています。
 以上の点から少し反論させていただきました。

Unknown さんのコメント...

柴田さんの仰ることよくわかりました。その点ではわたしもまったく同感です。柴田さんの書かれるものにわたしが惹きつけられるのも,そういう問題意識に共感するからだと思っています。
わたしの尊敬する若い友人の西谷修さんは,かつて「沖縄を考えることは世界を考えることだ」と名言を吐いたことがあります。そして,そのことばどおりに,その後も「沖縄」を主題にしたシンポジウムを主催し,それらをまとめた本をつぎつぎに刊行されています。その最新作が『<復帰>40年の沖縄と日本─自立の鉱脈を掘る』(せりか書房,2012年12月26日刊)です。この本のなかにはいろいろの論者の論考が掲載されていて,とても啓発されることが多く,わたしは興奮しながら読んでいます。
こういう論考とリンクしながら,わたしはスポーツ史家としての思考を練っています。そして,これまでのスポーツ史がなにを語ってきたのかを徹底的に洗い直そうと企んでいます。
その一旦は,最近ではシモーヌ・ヴェイユの論考を補助線にして,伝統スポーツとグローバリゼーションの問題を考えてみようというわけで,ブログにも時折,とりあげて書いている次第です。
柴田さんのコメントに触発されて,このような応答をさせていただきました。