2012年3月23日金曜日

『ボクシングの文化史』(東洋書林)の書評紙がとどく。

久しぶりに東洋書林の編集長加藤修さんにお会いしたら,『ボクシングの文化史』(カシア・ボディ著,松浪・月嶋訳,監訳稲垣)の書評が掲載された新聞がありますが,ご覧になりますか,と仰る。もちろん,喜んで,とわたし。でも,ちょっと変だなと思ったので,なぜ,そんなことを聞くのですか,と問う。いや,ある特定宗教法人に直属する新聞なので,どうかなと躊躇しました,と加藤さん。いやいや,わたしは禅寺の息子として育ったので,「来る者は拒まず,去る者は追わず」と教えられていますし,その姿勢はいまも変わりません,と。

ならば,ということで加藤さんが送ってくださったのは『世界日報』の3月11日版。16ページもある立派な新聞。その中ほどに,見開き2ページにわたって「読書」のコーナーが設けられている。ちょうど日曜日なので,どの新聞社もやっている「読書」欄と同じ企画。その右側ページのトップに『ボクシングの文化史』の書評が載っている。書評をしてくださったのは評論家の阿久根利具さん。見出しには「文学,映画やTVなど周辺を描く」とある。そして,丁寧な書評がなされている。こうして多くの人の眼に入ることがなにより嬉しい。

隣のページをみると川成洋さんが『ラルース地図で見る国際関係』(イヴ・ラコスト著,大塚宏子訳,原書房)を書評していらっしゃる。ああ,この新聞は内部に閉じこもることなく,外部にも開かれた編集方針をとっているんだ,ということがわかる。そんな眼であちこち眺めていたら,取り上げられている書評も,きわめて多岐にわたっていることがわかり,本気で読みはじめていました。

たとえば,『イエスの言葉 ケセン語訳』(山浦玄嗣著,文春新書),『唄は世につれ,たばこは唄につれ』(長田暁二著,山愛書院),『摂関政治』(古瀬奈津子著,岩波新書),『仏教,本当の教え』(植木雅俊著,中公新書),・・・・という具合です。この話はエンドレスになりそうですので,詳しくは新聞でご確認ください。

それはともかくとして,社説の載っているページには玄ゆう宗久さんの寄稿がご本人の顔写真入りで掲載されているのを見つけて,すっかり嬉しくなってしまいました。宗久さんは臨済宗のお寺の住職さんで芥川賞作家。題して「小祥忌」。見出しは「わざわい」から踏み出す一歩。このコラムのタイトルは「大震災1年」。わたしは宗久さんのファンなので,いささか驚きながらも,嬉しくなって読みました。いつもながらの気配りの効いた名文でした。しかも,静かな,落ち着いた「脱原発依存」を展開しています。

ここで初めて気づいたのが「3月11日」の新聞であるということ。うかつでした。ちょうど「3・11」から丸一年の記念すべき日の新聞。こんどは本気になって,あちこち,しっかりと読みました。この一年のまとめも,わかりやすく読みやすい。横着者のわたしなどにはとても役に立ちました。

ほかの新聞とは違う特色はといえば,中国,韓国,北朝鮮に関する情報が比較的多いということ,さらに,「沖縄のページ」が最後の外側のページを飾っていること,でしょうか。あとのところはいわゆる一般紙と変わりません。韓国と北朝鮮に関する情報が多いのは『世界日報』ということを考えれば納得です。そして,中国批判の記事が多いのも納得です。しかし,「沖縄のページ」と銘打ったページが裏表紙に相当するところに設けられているのは,なぜだろうか,と考えてしまいました。なぜなら,大手新聞社のほとんどは,沖縄を無視している(とわたしは受け止めています)のですから・・・・。まあ,この問題は宿題としておきましょう。

本題は『ボクシングの文化史』。こういう本を書評してくれること自体,わたしは注目したいと思っています。評論家の阿久根さんは,スペースの関係から,あまり踏み込んではいませんが,やはり,その根底にあるメッセージ性は受け止めた上で,この書評を書いていらっしゃるということが伝わってくるからです。つまり,ボクシングは,言ってしまえば,単なる「殴り合い」です。その「殴り合い」が18世紀のイギリスで,ある種の「合理化」(ルールによる合法化)がほどこされ,しかも人びとの間に抑圧されていた「熱狂」の情動を呼び覚まします。

この「熱狂」の情動が,アメリカ大陸に飛び火します。こんどは,黒人の間に長い間,抑圧されていた「熱狂」の情動に火がつきます。一旦,火がつくと,もはや,とどめようもなく燃え広がっていきます。そして,数々の黒人の名ボクサーが誕生します。この現象に「メディア」が眼をつけます。そして,ボクシング・イベントが金儲けの対象となり,金融化への道が開かれていきます。

著者のカシア・ボディはイギリスの比較文学やメディア論を専門とする女性研究者です。ですから,これまでのような,近代スポーツ競技の歴史の側からみるボクシングの歴史とはまったく趣を異にしています。このことに『世界日報』のデスクが気づいていて,この本を取り上げ書評しようとしたとしたら,その着眼の意図はどこにあるのか,と考えてしまいます。たぶん,どこかに優れたブレーンがいて,きちんとこのテクストの本質を見抜いているのではないか,と思えて仕方ありません。となると,ますます気がかりになってきます。

そんなことを思わせるほど,この『世界日報』という新聞の紙面づくりに余裕のようなものを感じてしまうからです。あるいは,懐の深さといいましょうか。それは,いったい,どこからくるものなのだろうか,と。いま,気が狂ったかのように吼えまくっている,どこぞの大手新聞社主の狭量さにあきれ返りながら,こんなことを考えてしまいました。

この『ボクシングの文化史』については,いずれ,わたしたちの研究会でも合評会をやって,とことん議論をしてみたいと思っています。それだけの素材がふんだんに盛り込まれている,と監訳者としては自信満々です。

というわけで,書評をしてくれるということは,てとも嬉しいことです。
その意味では,もっともっと,あちこちで取り上げてくれるといいなぁ,と祈っているところです。
みなさんも,ぜひ,『ボクシングの文化史』を手にとって,めくってみてください。意外な発見をあちこちですることを請け合います。
お願いです。よろしく。
ではまた。

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