2012年2月21日火曜日

「股関節をゆるめる」「自由自在に」(李自力老師語録)その6。

太極拳の稽古をはじめたばかりのころ,「股関節をゆるめる」と言われ,なんのことかわからなくて困ったことがあります。その後,少しずつわかってきたのですが,じつは,いまでもあまりよくはわかっていません。

なぜなら,李老師の股関節の緩み方と,わたしたちのそれとはまったく異質なものにみえるからです。その点を,李老師に尋ねてみると,「それは当然です。素人とプロの違いです。」といとも簡単に言われてしまいました。なるほどなぁ,プロとしての研鑚の蓄積と,アマの駆け出しの「股関節を緩める」とを一緒にされては困ります,というニュアンスが感じられて,それはそれで感動してしまいました。その上で,李老師は仰います。「股関節はできることなら,つねに緩めておくのです。そして,必要最小限,その瞬間だけ締めればいいのです」と仰る。

そう言った直後に,わたしたちの目の前て,やってみせてくださる。しかし,なにがどうなっているのか,さっぱりわかりません。つまり,つねに緩んでいるとしか,わたしの眼にはみえません。いつ,どこで締めているのか,わたしには見えません。言ってしまえば,自由自在にいつでも股関節が緩んでいる,というように見えます。緩みっぱなしだ,と言った方が正しいようにみえます。

「股関節を緩めるのは,力を出すためです。緩めなければ締めることはできません。いつも緩めておけば,いつでも締めることができます。」なるほど,ことばの上ではまことにごもっとも,と理解できます。しかし,わたしの下半身,すなわち股関節を中心とした動きは,まことにぎくしゃくとしているのです。どうみても,まったく違う動きしかできません。

仕方がないので,家に帰ってからDVDで何回もくり返して凝視することに。その結果,わたしの眼にみえてきたことは,「緩めつつ締めている。そして,締めつつ緩めている」ということでした。この経験はスキーに熱中していたときに,わたしのからだに記憶されています。スキーもまた同じです。下半身を緩めつつ締める,締めつつ緩める,この微妙なバランスのとり方が,たとえば,ウェーデルンで滑るときの極意でもあります。しかし,それがそのままできるかどうかは別問題。あとは,稽古を積んで,その微妙な感覚をからだに記憶させる以外にはありません。

たぶん,稽古のときの意識としては,このことをしっかり念頭においておくことが大事なのだと思います。しかし,それをつづけている間に,いつのまにか忘れてしまうことも大事なのでしょう。なぜなら,「緩めつつ締める,締めつつ緩める」ができるようになれば,つぎの段階の「からだの快感」がやってくるはずです。李老師がつねづね仰る「気持ちいい」という感覚です。それまでは,黙々と稽古をし,太極拳をするからだができあがるのを待つのみ,なのでしょう。

道は遠く険しい。でも,歩まねばならない。このことばは,わたしの高校時代の校長先生がアルバムの第一ページに墨書したことばです。なぜか,なにかの折にこのことばがわたしの脳裏に浮かんできます。わたしにとっては大事な校長先生でしたから(このことの意味はいつか,別のかたちで書いてみたいと思います)。

はやく「気持ちいい」の段階に到達したいものです。そのためには,自由自在に股関節を緩めることができるようになること,なのでしょう。あの流れる水のような李老師の表演は,自由自在に緩めることのできる股関節から生まれているということが,最近になって,少しずつわかってきたという次第です。

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