2012年2月23日木曜日

「哲学のはじまり」について。ソクラテスの毒杯と西田幾多郎の『善の研究』。

太極拳の稽古場が大岡山から溝の口に移ってからは,稽古のあとのハヤシライスもまた変化して,こんどは稽古のあとのカキフライ・オムライスになりつつあります。メンバーも,そのときの都合で変化しますが,どうやらNさん,Kさんにわたしが加わって3人で定着しつつあります。

そんな情況のなかでの昨日の稽古のあと。いつものファミレスへ。
そして,久しぶりに話に熱が入りました。例によって,KさんがNさんに質問を投げかけます。それらの質問の一つひとつに懇切丁寧にNさんが応答してくださいます。それがとてもわかりやすい。だから,ついつい,これは,あれは・・・という具合に話が広がっていきます。

どういう話の流れでそうなったのかは,あまり定かではないのですが,気がついたら「哲学のはじまり」(起源)の話になっていました。わたしの朧げな記憶では,ポピュリズムなる悪しき風潮が世論を構築して力をもちはじめ,さまざまな制度を改悪する動きが目立つ(小沢裁判や少年の死刑判決,裁判員制度の導入,など),というような話がきっかけだったと思います。そして,そのポピュリズムの犠牲者のひとりが古代ギリシアの哲学者ソクラテスだ,とNさんが切り出したように思います。以下の話は,わたしはこのように聞いたという要約です。事実に反する内容が含まれていたとしたら,それはわたしの誤解であり,わたしの責任です。お許しのほどを。

ソクラテスの説く辻説法が,世の中の人びとの思考を混乱させ,悪い影響を及ぼす,という風評がアテネ市民の間に広まり,アテネ市民による直接民主主義の制度に則り,ソクラテスに「死刑」が宣告されてしまいます。ソクラテスの弟子たちは,アテネの外に逃げましょう,と説得にかかります。しかし,ソクラテスは動きません。しかも,死刑を執行する刑吏はいません。ソクラテスが,目の前に置かれた毒杯をみずから飲み干すことによって,この死刑が実現するというわけです。ですから,この毒杯を飲まない,拒否する,という選択肢もあったはずです。

しかし,ソクラテスは,アテネ市外に逃げることもせず,黙って静かにこの毒杯をあおります。そして,死を迎えるそのさなかに,弟子たちに向かって,民主主義には大きな落とし穴がある,民主主義のすべてが正しいとはかぎらない,そのことを後世の人びとの記憶にしっかりと銘記するために,わたしは命をかけてアテネ市民の決定に従うのだ,みずからの思考(哲学)の正しさに殉ずるのだ,と語ったといいます。

ここが「哲学」のはじまりだ,とNさんは力説します。つまり,それまでの人間の生死の問題は神の領域にあった,つまり,宗教の問題であった,というのです。しかし,ソクラテスは,みずからの「哲学」に殉じたのだ,これが哲学の起源だ,と。

民主主義が衆愚政治に悪用されてしまうと,つまり,ポピュリズムに便乗してしまうと,少数意見はいともかんたんに抹殺されてしまいます。それは,まさに,殺人行為そのものになってしまいます。そういうことを肝に銘すべし,とみずからのからだを張ったところに,ソクラテスの存在理由がある,というわけです。つまり,これがソクラテスの「生き方」の問題であり,かれの「哲学」(フィロ・ソフィア」そのものだった,ということになります。

この話にいたく感動したわたしは,直観的に,「じゃあ,西田幾多郎が『善の研究』を書いたのも,同じ理由ですね」と問うていました。Nさんは,にっこり笑って,そのとおりです,と。

西田のいう「善」の意味は「生きる」ことです。人間は生きることが「善」なのだ,と説いたのです。ですから,西田幾多郎の『善の研究』は存在論なんです。ものの「不在」「欠落」「死」は「悪」なのです。ですから,人間は生きることに意味があるんです。では,どのように「生きる」かが問われることになります。それが西田のいう「善」なのです。西田の場合には,そこに,「禅」の思想をまぶしながら,人間が生きるとはどういうことなのか,という存在の根源に迫ったというわけです。ですから,日本の哲学のはじまりは,西田幾多郎にあります。西田幾多郎が日本の最初の哲学者です。

この話を聞いて,西田幾多郎が提起した「純粋経験」や「行為的直観」の周辺にあったモヤが一気に晴れてしまいました。そして,「場の理論」も,なるほどと得心してしまいました。こうなると,もう一度,西田幾多郎を読んでみたいという衝動が突き上げてきます。たぶん,これまでとはまったく違う読解の世界が開けてくる,そういう予感でいっぱいです。

稽古のあとのカキフライ・オムライスの時間が,とても楽しみになってきました。
取り急ぎ,ご報告まで。


※訂正について。
このブログを読まれたNさんから,つぎのように訂正を,というメールをいただきました。やはり,わたしの力量の及ばないところがありました。そして,それを忌憚なくご指摘くださるNさんに感謝です。メールの部分をそのまま転載するのは失礼かもしれませんが,わたしがいじるよりは精確に伝えられると判断しました。そのポイントとなる部分だけを抜き取りますと,以下のとおりです。

弟子たちは,論敵が民会を煽っただけで,ソクラテスの方が正しいのだから,と逃亡を進めるのですが,逃亡する必要もないし,する理由もない,死ぬのもまたよいではないか,と言って毒杯をおあります。このことを解釈すると,・・・・・となる,という話です。
自分だけが賢くて正しいのだから判決を受け入れない,というのでは,ソクラテスの知は独断になります。独断ではなく,知への愛による正しい知がある,ということは,他者の承認によるしかないでしょう。
ソクラテスは死ぬ。その死の空白のなかに,知への愛(フィロ・ソフィア)がすっくと立つ。
トラは死して皮を残し,ソクラテス死して哲学を残す。

以上です。Nさん,ありがとうございました。

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