近松門左衛門は,芸は「虚実皮膜の間」にある,と言ったそうだ。皮膜とは「ヒニク」とも読むそうなので,「皮肉」,つまり皮と肉の「間」にある,ということでもある。
それがやがて敷衍して,「事実と虚構との中間に芸術の真実がある」とする論になっていったという。事実と虚構との中間,といわれてもわたしのような人間は困ってしまう。
虚と実,皮と膜,皮と肉,事実と虚構,とならべてみるとますますわからなくなってしまう。近松のいう「芸」とか,一般論としての「芸術」とかも,そもそもはよくわからないことの代表と言ってもいいのだろう。いいようがないので,わかったようなわからないような,相手を煙に巻くような説明になってしまうのだろう。しかし,近松にとっては「虚実皮膜の間」こそがもっともぴったりの表現で,本人にとってはこれ以上の表現はないのだろう。また,いわゆる芸術家とよばれる人びとにとっても「事実と虚構との中間」が,もっとも適切な表現なのであろう。わからないのは,わたしのような凡人だけなのかもしれない。
それでは悔しいので,あえてわかったふりをしてみると,つぎのような調子である。上の表現のなかでは,わたしにとっては「皮と肉」が一番わかりやすい。鶏肉を思い浮かべて,あの皮と肉と考えれば,ああなるほどとなる。人間の皮もはがすことができるそうで,アウシュヴィッツに収容された人びとの皮を剥いでつくったというハンドバッグ(なかには入れ墨入りのものもあった)というものを写真でみたことがある。しかし,わからないのはその皮と肉との「間」に「芸」が存在するということの意味である。皮と肉との「間」というのは概念としては存在しても,実際には密接していて「間」は存在しない。
つまり,「芸」とは概念の問題であって,そら,これが「芸」だ,といって指し示すことができるものではない,ということだ。しかも,わかるものにはわかる,しかし,わからないものにはいくら説明してもわからない,そういうものなのだ。芸術も同じだ。そういう比喩として考えればいいのだろう。皮膜の「皮」と「膜」にいたっては,ますますその「間」なるものは複雑怪奇になってしまう。皮も細胞で成り立っている以上,細胞の一つひとつが「膜」(細胞膜)でつつまれている。だから,一つひとつの細胞に分けてしまうと皮は存在しなくなってしまう。
ここまでくると,なるほど,近松の言った「芸」とはそういうものか,ということがよくわかる。ついでに言っておけば,虚と実も,厳密にいえば分類不能な概念にすぎない。虚と実の境目には厳密な線をひくことは不可能である。虚と実はどこかでオーバーラップしているところがある。それは,事実と虚構も同じである。どちらかといえば虚構の方がわかりやすい。だれかが勝手にでっちあげた「つくりもの」という意味ではわかりやすい。しかし,この「つくりもの」も,見方が変わると「事実」に翻転することがある。虚構にくらべれば,事実の方がわけがわからない。事実とはなにか。だれが,どのようにして実証するのか。事実ほど不思議なものはない。人間が生きていく上で,事実とはなにか。事実も虚構にみえることもあるし,虚構が事実にみえることもしばしばである。優れた役者の流す涙などは,演技なのか事実なのか,そんなことはどうでもいいことだ。しかし,ここに「芸」が潜んでいるのだ,といわれるとよくわかる。
なぜ,こんなことにこだわっているのか。すでに,おわかりのように,わたしの頭のなかにはマルチン・ブーバーの「我と汝」の「間」(あいだ)の問題がある。正直に白状しておこう。厳密にいうと,わたしにはマルチン・ブーバーのいう「われ」も「なんじ」もよくわからないのである。「われ」をどのように定位すればいいのか,大文字の「ICH」が含意するものはなにか。もう少し踏み込んでおけば,わたしには「わたし」がわからない。わたしが自分でおもっている「わたし」と,わたしの目の前に向き合っている人がわたしをみている「わたし」とはまるで違う。おそらく,どちらの「わたし」も正しくて間違っているのだろう。つまり「わたし」に正解はないのである。これと裏返しになったものが「なんじ」である。
つまり,「わたし」も「あなた」も,いい意味での誤解のなかに生きているのである。つまり,日常のなかの「わたし」と「あなた」とは,美しい誤解のもとで「恋」をしたり,「愛」を育んだり,「友情」で結ばれたりしている。(これは「虚構」以外のなにものでもない,とわたしは考えているのだが・・・。となると,「事実」とはなにか。この問題系は別に問いを立てて考えてみたいとおもう)。そうした日常性を切り離して,「われ」と「なんじ」という「場」を設定し,素で「向かい合う」こと,そういうステージに立つこと,そのためには「ICH UND DU」という関係を意図的に立ち上げなくてはならないのだろう。こうして,過去の個人情報もなにもなしに,素で「向き合う」「われ」と「なんじ」の間には,一瞬とはいえ,時間も空間もなくなるのだろう。その瞬間にこそ「じか」が立ち現れる可能性が開かれているのだろう。
この「じか」が立ち現れる「場」が,「なんじ」と「われ」の「間」であり,その「じか」が立ち現れる瞬間こそが「真の実在」である,とブーバーはいう。「真の実在」は「ICH UND DU」の関係性のなかでしか生まれない,とブーバーはいうのである。そして,「われ」と「永遠のなんじ」とが「じか」に触れ合うとき,神との合一体験が起こる,と。この世界はまさに「ユダヤ・キリスト教」的な教理に支えられている,とわたしは考える。
このように書きながら,わたしはいま,西田幾多郎の「場所的自己」のことを考えている。西田は,自他未分化の状態で見たり,聞いたりする経験のことを「純粋経験」(ジェームズをヒントにして)と名づけた。こうした「純粋経験」こそが真の「実在」であると考えた。西田の背景には,断るまでもなく禅の思想がある。西田は,無念無想の自己のことを「場所的自己」と哲学的に定義し,「絶対無」を通過することによって「絶対矛盾的自己同一」に到達する,と考えた。
この禅的世界を「自己」と「真の自己」との一体化のプロセスと,さらに「絶対無」を通過したのちに開かれる「遊戯三昧」の世界を描いてみせたものが「十牛図」である。第十図(最後にして最初)にいたって,初めて「自己」以外の「他者」が現れ,「お前はだれか?」と聞かれる。「どこからきて,どこに行くのか?」と問われる。ここで,初めて,マルチン・ブーバーのいう「ICH UND DU」の関係が,禅の世界で明示されている。しかも,これがゴールにしてスタートである。ただし,遊戯三昧の心境・境地でのスタートである。このさきに待っているのは,良寛さんの旅であり,山頭火の旅である。
「われ」と「なんじ」も,「自己」と「真の自己」も,いうなれば「虚実皮膜の間」である。「じか」に触れる瞬間も,牛の背中に跨がり笛を吹いている境地も,「虚実皮膜の間」ということなのだろう。もし,こういうことであるのだとしたら,近松のいう「芸」も,一般論としての「芸術の真理」も,わたしなりに理解できないことはないのだが・・・・。
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